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2024年11月07日

選挙

当地の大統領選挙があり、みんなが薄々こうなるだろうなと思っていたほうの結果になりました。
弊管理人はその関係の仕事で、14時出勤、翌日10時退勤。
これは同僚撮影。枕を持って出勤したのは当たり。
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結局大した作業は発生せず、ただ拘束時間が長いというだけの勤務でした。
帰って肉じゃが作って食って、午後ちょっと寝て夕飯作って食ってうだうだして寝ました。

その日思ったことはXから転載。これと、アレンタウンに行ったときの日記(11/1)を合わせるとだいたい「住んでる外国人が観察して分かった程度のこと」全部になる。何日かたってみても、そんなに外れてないような気はする。

<以下は出勤前>

・結果は分からないが競ったことは確かなので、「あのトランプ」の何がそんなに刺さるかを。「この4年でお前らの暮らしはよくなったか?」この訴えだと思う。3年暮らしただけだが1リットル1ドルなんぼだった牛乳が倍。先月行ったダイナーが今月値上げ。一生ここで暮らす人は「なんだよこれ」と思うだろう

・比較の問題ではなく「変える」ことが重要なんだと思う。ハイウェイを走ってると、車間距離を取ってるだけなのに「空いてる?」と前に入ってきて、別に流れが速いわけではないことが分かるとまたどこかへ行く。日本人の私から見るとバカがばたついてるだけだが、ストレスマネジメントなのだろう

・さんざん好き勝手やって多動なわりに、というより、多動だからこそ、楽しげに見えて高ストレス社会なのではないか。社会関係資本に恵まれないと、細々としたシステムの不具合(分からない、進まない、返答がない)に生活を侵され続け、疲弊する。鬱屈の発散の一形態が政治な気もする。薬もその類いか

<ここから下は結果判明後>

・20時間働いて4時間寝たら肉じゃが食べたくなったある

・今回の選挙に関しては前から「偽善」と「傲慢」の対決だと言っていて、偽善のほうがまだマシだなというくらいだったので、結果については「めんどくさ」とは思うものの、後は起きることに対処するだけです。何日もずるずる引っ張られなかったことだけはよかった

・それにしても本件、日本の論説は型にはまったものが多くとてもつまらなかった。everyday Americansの生活や言動を覗き見してるともうちょっと違うことが言えるのではと思うが、しかしアメリカに住んでるだけで洞察力のない人もいるのでなんかいろいろ難しい

* * *

ずっと記録しそびれていた新書2冊。バス通勤は読書がはかどる。様子のおかしい人と目が合わなくていいという副次的な利点もある。
いずれの本もとてもよかったです。付箋いっぱいつけたがいずれどこかでメモを作りたい。

◆奥野克巳『はじめての人類学』講談社、2023年

◆井奥陽子『近代美学入門』筑摩書房、2023年

2024年11月03日

疑似科学

ちょっと前に読み終わっていたんですが、ノートを作るためもっかい読むのに時間がかかってました。いや読むのはすぐできるんですが、取りかかるのに怠惰で。
疑似科学ってなんなのかというのはびしっと定義したり、対象を明示したりするのが大変なものではありますが、通読するとなんとなく正体が見えてきます。豊富な事例がいちいち面白く、仕事上のネタとして使えそう~と思いつつメモしました。100ページちょっとと、これだけコンパクトにまとまった類書は日本語ではちょっと思い浮かびません(あるのかもだが)。

◆Gordin, Michael, Pseudoscience: A Very Short Introduction, New York: Oxford University Press, 2023.

【1】線引き問題demarcation problem

・ヒポクラテス(と言われているが複数の著者による、長い期間をかけて編まれた著書とみられる)『神聖病についてOn the Sacred Disease』―いかさま医療批判
・かなり科学に見えるが、ある理由で科学になっていないもの―疑似科学
・線引き問題:ポパーの造語
・ポパー:アドラーの手伝い。アドラーはフロイトと決別、ポパーは結局両方から離反→科学哲学へ
・ウィーン学派、論理実証主義。センスデータが世界に関して信頼できる唯一の情報源→形而上学の拒絶。ヒューム、マッハからの影響に、センスデータを組み上げる論理的連関(これ自体は経験的なものではない)の重視が加わる
・ポパーは最初、論理実証主義に寄ったが、後に離れる
・1919年、英エディントンとダイソンによる日食の機会を利用した相対論(重力で光が曲がる)の検証→反証可能性へのインスピレーション、『推測と反駁Conjectures and Refutations』(1963)。「科学も時に間違う」問題の克服
←→論理実証主義のverificationism(経験的データで検証されれば科学的といえる)は不十分。あるデータがAも非Aも検証できてしまう
→「こういう場合に反証される」という可能性が示せないものは科学的といえない→精神分析やマルクス主義を反証する条件が示せなければ、これらは科学から除外される。アインシュタインの重力理論は日食の観測で理論に合う結果が得られなければ反証される

・反証可能性はどれくらい使えるか?―それほどでもない。理由は2つ
(1)「反証された」ことを示すのは難しい。実験データが理論と異なったとして、ただちに理論を棄却できない。実験のやり方がまずかった可能性がある
(2)自然淘汰、プレートテクトニクスなどは因果関係の連鎖の中で説得性を形成しているが、それでも科学的といいたくなる。経験的データでyes/noを決めるというやり方になじまない
・Larry Laudan(1983)による批判はさらに厳しい。創造説もユリ・ゲラーもビッグフットも、あれもこれも考えを改める契機が存在するという意味ですべて「科学的」になってしまう。線引き問題自体、疑似問題である
・反証可能性を求めると、あらゆる科学理論が「真」ではなく「まだ偽になっていないもの」としかいえなくなる。ポパー自身としては一貫しているが、一般的な直感に反する

・反証可能性が訴訟に登場した例
1925.7、テネシー州のスコープス裁判(1955年舞台化、1960年Inherit the Windとして映画化)→他の州でも「進化論を教えるのは妨げないが推奨もしない」状態
→1957年スプートニクショック。中等教育の生物学カリキュラムこれでいいのか!という機運
←1960年代、宗教団体は「ダーウィニズムを教えるなら創造科学も」と主張。創造論(宗教)からの看板変更
→1980年代、McLean v. Arkansas Board of Education裁判で「ダーウィニズムは科学か」「創造科学は科学の条件を満たしているのか」論争→1982年Overton判事の判決でポパー援用(2005年Kitzmiller v. Dover Area School Boardで少し修正された)

・ポパー後の線引き問題
・ポパーのように明確な基準は示せなくても、もうちょっと成功するアプローチはある
・Massimo Pigliucciは反証可能性のように1次元の基準ではなく、2次元にした:(1)経験的知識の増大の軸と(2)理論的理解の増進の2軸をとり、原点に近いほど科学とは考えられにくいとする。それに加えて、自身が科学だと強調しているものは「疑似科学」と呼ばれる
・Irving Langmuirの「ローカル線引き」アプローチはESPのような限られた主張を退けるためのもので、「検出限界ギリギリのところだが高精度で検出できたと本人たちがこだわって(希望的観測で)言っている」ようなものを「病的科学pathological science」とする
・境界科学fringe doctorineを類型化するアプローチ(オーバーラップはありうる)
 ―かつては正統とされたが今日では廃れている科学
 ―イデオロギーに取り込まれた超政治化されたhyperpoliticized科学
 ―主流に挑戦する反主流派counterestablishment科学
 ―超心理学

【2】廃れた科学vestigial sciences

・ある時期正しいとされていたのがどんどん廃れていくダイナミズムは科学としては普通のこと
→廃れた科学にこだわっていると「疑似科学」と呼ばれやすい

・占星術:西洋ではだいたい17世紀までは科学だった。天文観測×個人の誕生日→チャート
→地動説の普及とともに減退、ニュートン力学に基づく天文学に置換
 1824年、英国議会で占い禁止法制。南アジアでは今も一定の人気

・錬金術:18世紀初頭には境界科学になったが、主な理由はレトリックであり、ラボで採用された手法ではない。この点で錬金術―化学の関係は占星術―天文学の関係とは異なる。18世紀になると化学者は錬金術を積極的に悪魔化することで、自らを現代科学に含めていった
・中世から近代初期のchymistry(錬金術と化学が未分化だった状態)の様子は1990年以降の研究で明らかになってきた。ニュートンやボイルも密かに錬金術の研究をしていた
・目的は鉄や鉛などから金を作ること(地球の内部で熱によってそういうプロセスが起きていると考えられ、それをスピードアップしようとしていた)や、ある物質から別の有用物質(薬など)を作ることだったが、実地の活動は物質の性状や組成の解明で、これは化学と変わらない営みだった
・なぜ錬金術が境界化されたか:(1)いかさまの横行(2)師弟関係の中での秘密主義―ただし科学的発見は公刊するものという考え方は19世紀から(3)襲名やシンボル/暗号化された実験手順―デコードできると再現可能になる

【3】超政治化されたhyperpolicized科学

・ナチの「アーリア物理学」Philipp Lenard+Johannes Stark。「ユダヤ物理学」(アインシュタインなど)―高度に数学化された物理学―は幻想である、疑似科学であると主張。自分のはニュートン、マックスウェル依拠
・Lenard, Starkともノーベル賞受賞者。量子論に関係する業績。完全に無視できる存在ではなかった
・ただし第3帝国の中で確立することはなかった。教育相に煙たがられたのと、敵対したハイゼンベルクの母親がヒムラーの知り合いだったこと
・ほか医学、生理学、人類学などはユダヤ人問題の最終解決に貢献、これらも体制崩壊とともに終了した超政治化科学といえる

・ルイセンコ主義Lysenkoism(ソ連、1950年代)。植物の遺伝形質を環境ストレスによって変化させられるという説。獲得形質の遺伝を主張する新ラマルク主義の系譜。ルイセンコ主義という名前は共産圏外での呼び名で、本人は先達の名前をとってミチューリン主義、あるいは農業生物学agrobiologyと呼んでいた。1927年、プラウダに発表した論文で冬エンドウを亜熱帯のアゼルバイジャンで育てられると主張、春化vernalizationと呼んだ。冬小麦を春にまく実験などを巧みに新聞で報告したが、データや統計解析は不十分だった。スターリンの賞賛を受けメンデリアンを凌駕、「党中央委は私(ルイセンコ)の報告を承認した」。古典遺伝学は疑似科学とされ、農業生物学が唯一の正統に。スターリン死後、アカデミーの調査によって1965年にルイセンコは失脚、1976年に死去した。だが遺伝学の汚名は今日まで残っている
・米国ではルイセンコ主義はソビエト共産主義の悪で、政治による科学介入の危険な実例として強調される。しかし(1)ソビエトは多大な科学振興策を実施しておりルイセンコはむしろ例外だった(2)政治の科学介入は学校教育での創造説の扱いや人クローン研究の禁止にみられるように他国でもあること―から、上記のような解釈は厳しい。スターリンが遺伝学を支持していればよかったのか?

・優生学。民主主義、自由主義の国でも疑似科学にはまることがあるという事例。ゴルトン(ダーウィンの甥)。優生学は遺伝学より先にあったし、20世紀転換期には互いの専門家の間に明確な区別はできなかった。遺伝(メンデル)と淘汰(ダーウィン)を流用し、子孫の選別によって人類のストックを向上できるという主張。20世紀初頭には既に廃れ、疑似科学になっていた。選別方法はpositive(「適者」に子どもを作ることを奨励する)とnegative(断種によって劣った家族の再生産を防止する)の2方向
・すぐに技術的困難に直面。遺伝的だと思われていた形質が違ったり(結核など)、実は存在していなかったり(タラソフィリア=海が好きすぎる病気)。単一遺伝子疾患も存在するが、そうした形質の消滅には非現実的・非倫理的な方法が必要になるとの指摘もあった。それにもかかわらず、米国最高裁のバック対ベルBuck v. Bell判決(1927)のように優生学的な不妊手術法を正当化する動きもあった。第1次大戦後の米国ではまだ人種科学が生き残っていた。カリフォルニア州では1909年から法律が廃止される1963年まで、優生学的な理由による強制不妊が2万件実施されていた。米国優生学会は1926年創立、その後の不人気により1972年には社会生物学会に改名、優生学と手を切った。2014年にはさらに改名しthe Society for Biodemography and Social Biologyに。ただし大衆文化にはいまだに考え方が残っている

【4】反主流科学counterestablishment science

・いろんな誤った研究結果が日々生まれているが、あるものはそのまま忘れられ、あるものは生き延びて主流派から「疑似科学」と呼ばれるようになる。呼ばれる側からすると主流のほうが間違っている。エスタブリッシュメントが誠実な科学者を抑圧していると認識する。ガリレオの例
・アンチantiではなく反counter主流なので、対抗手段は主流派のコピーとなる。研究所やジャーナル、学会を作り、時には学位も出したりする。極めて目に付きやすいのが特徴。こういう動きは科学がアマチュアによって担われていたガリレオの時代には成立せず、「職業」になる啓蒙時代末期以降になって初めて形成される。scientistという言葉は1831年の造語

・骨相学phrenology。スイスで誕生、スコットランドで発展。18世紀末、ガルGallの原理:脳は器官の集積で、サイズと機能に関連がある。頭蓋骨から性格が読める。すぐに批判にさらされたが、非エリートの支持者を多く獲得。19世紀を通じて人気。主流科学と併存し、支持者と資金源がある限り消滅しない

・創造説creationism。廃れた科学としてスタート。問題は神が自然界を作ったかどうかではなく、「どのように」に作ったか。単一起源説monogenismは創造後の分化によってさまざまな人種ができたと考える。多起源説polygenismはそれぞれの人種が別々に創造されたと考える。『種の起源』によってさらにごちゃつく。神が原始人類を創造してそこから分化したとすると創世記の最初の部分の解釈をかなり修正しないといけなくなる
・20世紀になるころハクスリーHaxleyの科学的自然主義が力を持つ。「科学的説明からは超自然的な力を排除すべき」で、創造説は科学的議論の埒外に追われた。20世紀初頭の英語圏は百花繚乱。純粋物質主義(超自然的な力は全くない)/神学的進化論theistic evolution(神の計画に従って進化が起きている)/古い地球創造説Old-Earth creationism(アダムとイブはいたが地球ができたのはそのずっと前)/若い地球創造説Young-Earth creationism(6千年前に6日でできた)=これが一番聖書に近いが、地質学的証拠とぶつかる
・セブンスデー・アドベンチストのプライスGeorge McCready Price。The New Geology(1923)で「現在の地表は洪水の結果作られた」。スコープス裁判にも関係。20世紀中葉には学校教育からモダニズムを排除するのではなく、独自の研究所や学校を作る方向に転換。その後は創造説研究協会(1963)に引き継がれる。紀要や教科書作成。「創造説を進化論と同じ時間教えろ」は1980年代には最高裁が「州による宗教教育になる」として認めず失敗。その後は宗教色を薄めて「インテリジェント・デザイン」へ。1990年にディスカバリー研究所をシアトルに設立。2006年の控訴裁判断でやはり挫折も今まで生き残る

・未確認動物学cryptozoology。ビッグフット、ネッシーなど主流科学がまだ認識していない生き物がいるという主張で、科学的に不可能なことを言っているわけではない。巨大イカ(2004)のように実際に見つかったものもある

・ベリコフスキー『衝突する宇宙』。大彗星が紀元前1500年の地球を大きく攪乱し、金星になった。マクミランから出版、ベストセラーに。ハーバードの天文学者シャプリーが疑似科学と非難し、出版社に圧力をかけたため出版権が他の会社に移動したが、そのためにまた売れた。ベリコフスキーはガリレオの例を出して憤激。反主流科学者として活発に講演。しかし本人のキャラクターによって維持されていた説で、1979年に死去すると忘れられた

・エイリアン、UFOlogy。1940-1950年代。その後、ソ連との緊張関係やベトナム戦争における軍の秘密主義などと絡んで関心高まる。が、携帯カメラの普及で信頼度は落ちている
・過去に来たのでは?という主張はErich von DanikenのChariots of the Gods?(1968)。ピラミッド建造や、天からの神の降臨は宇宙人によるもの、という説。歴史資料の歪曲や、有色人種が巨大建造物を建てられたはずがないという差別的な発想が批判されている(が、引き続きポップカルチャーで人気)
・特徴(1)陰謀論の色彩が特に強い分野(2)地球に到来する電波から宇宙人からのものを見つけようとする、手法は科学的だが主流からは疎まれているSETIを非難する点でも反主流

・地球平面説Flat Earth。2018年、著者らの調査ではアメリカ人の6人に1人が地球が球体であることに疑いを持っている。今日そこそこの信奉者を持つ珍しい反主流。プラトン、アリストテレスの時代から地球平面説はほとんど信じられておらず(南方に人が住めるかという議論はあった)、中世キリスト教・イスラム教世界でも同様で、今日のものは中世復古ではなく近代(後=ポストモダン)の発明品といえる。地球空洞説(=球体でないと成り立たない)に対抗したWilbur Glen Voliva(1914)、これを基礎としたDaniel ClarkのBehind the Curve(2018)

・主流科学の鏡像としての反主流科学もまた男性に偏っている(eg.ビッグフットの徴候を見るのは森や山に入る人だけ、など)という特徴もある

【5】心と物質

・念力、他人の心を読む、虫の知らせ。パラサイコロジー(ウィリアム・ジェイムズ!~)。第六感(ESP, Extrasensory Perception)はときどき評価の確立した研究者が専門ジャーナルに論文を出したりする。主流側は忸怩たる気持ちはありつつ許容することで、この分野や他と違った地位を獲得している。論争の中で、反主流側の実験・解析手法が主流科学側に影響を与えたこともある

・動物磁気説、メスメリズムMesmerism。由来は18世紀ウィーン→パリの施術家Franz Anton Mesmer、医学と物理学のあいだ。宇宙の全物体に浸透している磁性流体を発見した、この流れの停滞が病気として現れると主張。アカデミーでのプレゼンに招かれたが、その後無視された。ベンジャミン・フランクリンやラボワジエによる検証委設置、これが今日まで続くパラサイコロジー対応の起点になった。ラボワジエの検証実験で「プラセボ効果」の発見。その後、フランス革命が起きてメスメリズムは忘れられ、1820年代に英国でリバイバル

・スピリチュアリズム。1848年にNYで誕生、英国でメスメリズムの残滓と合流して受容。精神世界と物質界を結ぶ媒体として下層階級の若い女性や未成年の男性が使われた。体を離れた霊魂が媒体を介してラップ音や空中浮揚、自動筆記、エクトプラズムなどを引き起こす。流行には伝統的な宗教信念の動揺があると分析されている。降霊術Seancesは写真のような新興技術と目撃証言によって実証され、科学と宗教のアマルガムと主張された。脳波と磁気エーテルの共振といった説明も。1882年に英国、1884年に米国でSociety for Psychical Research (SPR)設立、テレパシーや催眠術の研究にも広がった。東南アジア思想と融合して神智学theosophyにも
・やはりこれも検証委が立ち上がり、サンクトペテルブルクではメンデレーエフが検証実験をして反駁したが(1869)、オカルトの流れは止められなかった。Charles Richetによるテレパシーの検証実験ではランダム化比較試験が導入された

・大学での超能力psychic研究。1930年代、デューク大のJoseph Banks Rhineがゼナ-カードZener Cardを使ったテレパシーと透視実験。実験手法や統計解析手法を洗練、一部の被験者が有意に偶然以上の割合で当てた。1950年代までに再現実験は下火に。反駁できたからではなく心理学会の大御所が怒ったから。しかし絶滅したわけではなく、1969年にパラサイコロジー学会はAAASに加盟できている。プリンストンのPEARではRobert Jahnが乱数発生器を使った数字当て(上か下か)実験でやはり有意差を出したが、他の研究室では再現できず2007年にラボは学外移転。みんなほっとした

・疑似科学しばき隊Debunkers。主流の心理学者は丁重に無視していたが、1970年代ごろからESPやUFO再興に対して系統的に反駁するようになった。特にユリ・ゲラー。1972年にStanford Research Institute(SRI)の検証が組織され、1974年10月、TargとPuthoffがNatureに「本物だった」という論文を発表した。この研究はソ連が超能力者にスパイ活動(ESPionage)をさせているという懸念からCIAやNASAが一部資金支援した
・占星術に対しても1975年に哲学者Kurtzが批判。Commission for the Scienctific Investigation of Claims of the Paranormal (CSICOP、サイコップ)組織、セーガンやアシモフも参加。不正を暴く姿勢。ゲラーから訴えられたりしているが現存(名前は変わった)。モグラ叩き状態になってあまり成功せず、そのうち著名な科学者の参加もなくなっている
・最たる例がジョセフソン効果でノーベル賞を受賞したBrian Josephson。パラサイコロジーの世界の有名人。超越的瞑想にはまり、CSICOPは全く抑止にならなかった。もう一つは2011年にJournal of Personality and Social Psychologyに予知precognitionの論文を出したDaryl Bem。主流派から猛攻撃が起き、「再現性の危機」と呼ばれる騒ぎの引き金の一つになった
・Bem, Josephson, Jahn, Rhineとも大学に所属する研究者。大学の周縁部で起きている

【6】論争は不可避なもの

・疑似科学のパターン
(1)科学として始まり、廃れていくもの。占星術、錬金術、優生学
(2)最初から疑似科学として始まり、主流から非難されるもの。ベリコフスキーの彗星説、ネッシー、イエティ
いずれにせよ科学者グループから指弾され、なお固執すると疑似科学と呼ばれることが多い
・現在の主流科学も将来、周縁化する可能性は常にある。科学は既存説を乗り越えていく競争であり、資金獲得を巡る抗争であることの帰結

・ポリウォーター(1962)。ソ連のNikolai Fediakinのラボから。Boris Deriaginが引き継いで1962-1966に相次ぎ成果発表。米国のEllis Lippincottも乗って活発に研究されたが、1973年までには水の不純物による現象だとして関心はしぼんだ
・水の記憶(1988)。ホメオパシーに通じる。Natureが論文を掲載すると同時にそれを批判する論文も掲載。ピアレビューの段階で調査チームを送り込み、手法の問題を告発。著者側の反論も載せて2カ月ほど論争になった。ホメオパシー派はまだ論文を引用している。周辺化/不正/誤り、の境界がぼやけた事例

・常温核融合Cold fusion(1989)。ユタ大ソルトレークシティー校Stanley PonsとMartin Fleischmann、プロボ大Steven Jonesがもめつつ論文投稿中に記者会見、再現できず(できたとしたものも後に撤回)、理論的不自然さも指摘された。結局学会で論破、ユタ大の2人は1992年にフランスへ渡り研究続行したが、成果はないまま1998年に閉鎖。しかし分野は生き残り、1994年と1995年に学術誌創刊、1989年からは学術集会も毎年開催、日本人研究者も参加。Jonesは9/11陰謀論のグループ創設者に

・論争に負けた研究者が自説にこだわり続け、その期間が十分長くなり主流派をイラつかせるだけの力を維持した場合「疑似科学」と称されるようになりうる
・これと区別すべきものは2つある。(1)研究不正(2)再現性のなさ(例えば2010年代の実験心理学、アムジェンによるがん研究検証)

【7】ロシア問題―誰が悪いのか、どうすればいいのか

・誰が悪いのか。疑似科学者は自称せず、主流派こそ疑似科学だという。インフレーション理論、超弦理論―実験的に確かめにくい理論。擁護者と反対者のどちらが疑似科学なのかは容易に判別つかない
・否定論者。何かを積極的に言うのではなく、疑問を提起する人。タバコの害(タバコ会社に雇われたHill and Knowlton, 1954) - Doubt is our product.規制導入への抵抗としての疑問提起。気候変動に対する化石燃料業界にも応用。「もっとデータが必要だ」「もっと研究が必要だ」
・反ワクチン(1)接種の危険性(2)接種義務は政府による個人の身体の侵害=リバタリアン、サバイバリスト、特定の医療を受け入れない宗教Christian Scientist, Dutch Reformed Church。起源はランセット(1998)、WakefieldがMMRワクチンと自閉症の関連を発表→2010年撤回。NASの報告書(2001)も反駁しているが、反ワクはいまだにWakefieldの論文を引用している。米国ではMMR接種率低下、罹患上昇。典型的な疑似科学とは反主流な点で共通するが、違いは女性が主体なこと

・どうすればいいのか
・非難や反駁ではだめ
・論文公刊のハードルを著しく上げる→量子論などレビューを通りにくくなるかも
・逆にハードルを下げて反論が出やすくする→怪しい論文がいっぱいになる(現状これに近い)
・ピアレビューを通ってしまうWakefieldの例もある
・論文公刊へのプレッシャーを緩和する?
・一般の科学リテラシーを上げる?→解決にならなそう。フラットアースはそれでも出てくる…
・疑似科学は通常科学の営みの中から出てくる。科学の影の部分。プロセスを知ることで危険を及ぼすものと戦うことはできるかもしれない。無害なものも多い。すべての影にモンスターが隠れているわけではない

2024年08月03日

フィリー

会議でフィラデルフィア出張。2012年以来です。6月に来るはずが、うんこみたいな仕事の綾でキャンセルせざるを得ず、しかもこの後は機会もなさそうなので、ものすごい必須の仕事ではなかったけれども頑張って来ました。
前回は時間が遅かったので中に入れなかったフィラデルフィア美術館、隙間時間にバス捕まえてきて、やっと見ることができました。ここも無料で入れた……
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ひまわり、ここにあった。
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メトロポリタン美術館ほどではないが、広かったです。
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西洋クラシックへの憧れと驕慢みたいなものが爆発している感じ。
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猛暑の谷間に当たって、35度まではいかなかった。夜はそこそこ過ごしやすい。街は相変わらず、カジュアルに人が倒れてました。ダウンタウンは思ったほどでもなかったけど。前回きた時はいきなり「財布よこせ~」とか言われたのに比べると危ない感じはしなかった。
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泊まったのは民泊。半分住宅街、ヒスパニックの方多め、大丈夫かな?と思いましたが、行ってみたら中心部のちょっと外側なせいか、静かで安全そうなところでした。部屋はホテルと違って空調がうるさくなく、最高に寝やすかったです。
会議初日の夜はレセプションでした。場所はフランクリン・インスティテュート。科学博物館かな。閉館後を借り切り、ベンジャミン・フランクリンに睥睨されながらパーテー。
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チーズステーキ(サブウェイみたいな長いパンにチーズソースの焼肉が挟まってるサンドイッチ)はここで出たのでコンプ。
この時にたまたまテーブルで隣になった日本からきてる若手研究者をナンパして、翌日ピザを食べに行きました。会議場近くのBabuzzoっていうところ(特筆しておく)。19時までのハッピーアワーに滑り込んだので、ピザ$10、ビール$5とすごい安かった。
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医学部出身で、来年博士をとったら西海岸の研究所に行くそう。今のところ自分にしかできない技術を持っていて、将来はこんなことをやりたいということを話してくれました。かなり野心的だが、こういうのがある人こそ研究に向いている。そしてそれが達成できるかは分からないが、この人は成功するんだろうなと思いました。久しぶりに未来を感じさせる人と話したかもしれない。
地下に潜るとやはり客層が悪くなる地下鉄のって、アムトラックのって帰ってきました。
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会議では朝食のほか、1日目はタコス、2日目はサラダ、3日目はパスタとすごいちゃんとした昼飯まで出してもらえたことにびびりつつ、アウトプットは一応した。しかし本当にやるべきことはまだ。しかし1日10kmくらい歩き回りながら3日間インプットしまくって、本来の仕事ってこういうことしないとだめだなとか。

と同時に、アウトプットが誰のためになってるのかよくわからないことが最近続いており、結構微妙な気持ちになっています。

* * *

トースト1枚が焼ける程度のすごいちっちゃいオーブントースターを買いました。$22。数ヶ月しか使わないわけですけど、安かったのと、LAのホテルの朝食会場にあったトースターでハムチーズトーストやったらおいしかったので。
ベーコンの切れ端とブロッコリーと卵をNYのダイソーで買った10cm角のちっちゃい器に入れて温めたら朝飯が豊かになった。
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* * *

◆間瀬英之、身野良寛『量子コンピュータまるわかり』日経BP、2023年。

いただいた本(アメリカまで送ってくださった……)。日本総研の方が著者で、さすがというか技術も政策も業界動向も網羅しつつ噛み砕いていて、通読するのは若干大変だが、リファレンスとしてめちゃくちゃ使えると思いました。原理の図解が分かりやすい宇津木健『絵で見てわかる量子コンピュータの仕組み』とはまた違った利用価値のある本として現在No.1タイ。随時アップデートしてほしいが、しかし主要なトピックは出そろっているので、自分が使うときにネット検索して最新情報を調べれば今後3-4年は使える気もする。

* * *

3日から夏休みに入りました。上記6月にフィラデルフィア行きを潰したうんこ仕事がまだ長引いていて、どうなるか分からなかったので夏休みの計画が立たないまま突入してしまいました。しかしここ数日いろいろ検討して、一応これかなという方向性は見えてきました。

7/25に書き忘れましたが、最後の半年に入りました。まだ後任のアナウンスないけど。

2024年07月19日

早起き週とアメリカと私

職場の人たちが大挙してウィスコンシンに行ったので、8時始業の早出シフトが月火水、24時終わりの夜勤シフトが金と回ってきて、なんかぼーっとしている間に終盤を迎えた週です。

前の大統領が撃たれた件はたまたま土曜出番で職場にいた弊管理人が対応することになり、シフトの始まりの午前8時から午前3時まで19時間勤務(後半は多忙)しました。事態の変動がほぼなくなった3時の時点でも東京からは「上からいろいろ注文がきてるので、あとでまた連絡する」と言われ「20時間になるんで帰りますけど」と言ったら「じゃあいいです」と言われて終わりました。まあ修辞を弄する程度なら日本で元気に起きてる人たちでできるでしょ。過去に過労死を出し、最近もメンタル発生してる部署と添い遂げていいことはない。

金曜は政府系の会合というかパーティーに行ってる友人と夕飯を食べるという話になったが、パーティーの終了時間より早い時間を指定されたので早めに抜けて行くのかなと思ったら会場に呼び込まれた。すっかり出来上がってるアメリカ人ばかりがわいわい騒いでてうるさく、知ってる人もいないので「外で待ってる」といって散歩。
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終了時間になっても連絡がこないので「帰るわ」とメッセージ送って、近くのスーパーで買い物してたらわりと慌てた感じで連絡がきた。でメシ食って帰った。週末から帰省するそうなのでしばらくはこういうことはなさそう。ちなみに「土曜の昼、空港まで送ってくれない?無理ならウーバー呼ぶけど」と言われたので無理じゃないけどウーバー呼んでもらうことにしました。

* * *

◆江藤淳『アメリカと私』講談社、2018年

1960年代前半にプリンストン大学に滞在した著者の滞在記。アメリカを見ると、その全体などとても見えないのに、それでも何か言いたくなってしまうのは洋の東西や時代を問わない。それだけ変なところだというのと、それぞれの人が自分の見識を試したくなるのと、その混合でなんかそういうことになるのかも。60年前に批評家が(東海岸の大学町という狭い窓から)のぞき見たアメリカと、今の弊管理人の思ったことをメモしておきます。

「ここでは、いわば社会は人種差別することによって受容れていた。逆に日本の社会にひそんでいるのは、ときには媚びさえ含む微笑の底にかくされた拒否である」(p.90)
そうだなと思った。

一時帰国、
「その醜悪な街[東京]を行く人々の顔は、どれも不思議なほど明るかった」(p.97)
これは時代の違いを感じる。

「米国が特にこの黒人問題で苦悩しなければならないのは、この国が日本とも英国とも、その他もろもろの歴史の影をひいた国ともちがって、合衆国独立宣言という理念の上にうちたてられた新しい、実験的な国だからではないだろうか」(p.160)
これは今も大統領が「理念によってできた唯一の国だ」と言う。ソ連を無視しているか忘れている予感はするが。

「もとより言語能力と兵役とは、米国市民になるための最低条件にすぎない。加えて米国式に清潔な、規律ある生活様式に適応し、これを維持する能力が要求されるとすれば、ここに作用するコンフォーミズムは相当なものといわなければならない」(p.162)
「それでは米国人になるとは、具体的に何を意味するか。ひと口でいえば、それは英語をつかって生活するということである」(p.231)
日本人でも一定条件を満たせば米国人になることはできるのに対し、米国人が日本人になることはいくら日本語ができてもできない、というのはいい対比だと思った。なので、日本通の米国人には、いくら努力しても外人扱いをする日本に対する憎悪があるのだとも。
しかしこういうことだとすると、現在のスペイン語コミュニティの増大は、想像以上に根本的な部分で米国を揺さぶっているのだろう。肌の色の違いも手伝って、昔の非アングロサクソン移民の比ではないくらいに。

キューバ危機の当時。一向に社会的な支持が得られないパシフィストのデモに際して。
「社会の空気が非同情的だからといって、こういう少数派の主張を抑圧しようとはしないところが米国のいいところかもしれない」(p.172)
まあそうかな。主張するほうもカウンターやるほうもとにかくしゃべくるので、事を構えるハードルが高いのかもしれない。日本は内気なせいか、殴り返してこないだろうと踏んでわりと積極的に嫌がらせする輩が出るね。

「彼ら[米国人の専門家]の冷静な分析と見えるものの底に、こと米国の利益については一歩もゆずらないという強烈な感情がひそんでいるということでもある」「私は、あらためて社会科学というものが結局理論的表現によって行われる感情の放出ではないかということも、考えてみないわけにはいかなかった」(p.180)
後日の文章に、この本を読んだ米国人の一部が怒ったという振り返りがあったが、このあたりが理由の一つだったんじゃないかなと思った。だけどまあ米国人は米国の利益を最大化するという目標を疑ってないのは確かにそう。「理想主義は実はケネディ氏の「スタイル」」(p.243)であって、彼もやはり一皮剥けば米国第一主義の権化だったという診断に通じる。

「とにかくこの国は、生存競争のきびしい、生活に全力をあげて立向かわざるを得ない国である。その背後に、依然として比較的豊かなチャンスがあるので、うまく行っているのである」(p.187)
こっちに来たころ、友人に「米国は余裕がない国に見える」と言ったら「逆だと思った」と言われたことを思い出した。弊管理人はその後、「余裕がない国」のほうに一層傾いた。基本的にみんな怠け者だが、根本的な「休まらなさ」がある。そのことは、別の所では「米国社会に内在する一種の苛酷さ」(p.249)といわれている。

アメリカの「地方主義」=だいたい地元のことにしか関心がない田子作っぽさと、危機に直面したときに急激に立ち上がる抽象的な「合衆国」モードの二面性について。「合衆国」モードは「地方主義」からの切り替わりではなく、実は地方主義のある一つの現れ方だろうという見立て。
「現に、「キューバ危機」のときの中西部からの反応が強硬をきわめ、ほとんど好戦的ですらあったのは、その[地方主義の]ひとつのあらわれだったのかも知れない。郷土愛が強く、具体的であればあるほど、一方で「合衆国」という全体は抽象的なものになり、国際的な力関係のなかにあるひとつの国家であることをやめて、一種の理念に変質する」(p.189)
これ、いい分析だと思うな。「いわば移民上がりの自作農がつくった数知れぬ「小さな」町の集合である」(p.255)というのは地理の観点から同じことを言っているように思った。「帝国」ってまさにこういうものなのでは。

「日本人には、価値は過去と断絶したところにある――あるいはそこにしかない、と考えたがる傾向がある。逆に、米国人は、価値は農業的過去との連続の上にある、と考える。さらにこの二つの矢印の示す方向をたどって行けば、あるいは日本人にとっての価値の根本は新しい物質、または技術であり、米国人にとってのそれは古風な倫理である、というようなところまで行きつくかも知れない」(p.253)
アメリカ人の自己中心的で目の前のことしか見ず、批判されるのが大嫌いな「国民性」のようなものがキリスト教とか資本主義といった文化や制度を強烈に規定している。なんなら神もエビデンスもわしのためにある、という態度。世界中で嫌われながらなお好きにしていられるのには、地理的条件のほかにこういう明るくて迷惑なメンタリティの寄与するところが大きい。

2024年07月04日

さよならの季節

7月だ。7月。今年前半、何をしてたか思い出せない。
そんなにびゅんびゅん過ぎた感じはしないけど、これ以上速かったらすぐ死んじゃいそう。

在DCの公的な立場の人たちは異動の季節です。
6年という長期にわたって、ある世界に君臨してきた人の送別会は事務所のルーフトップで催されました。150人くらい集まったとのことです。
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アポイントとろうとしても会えなそうな人もちらほら客として来ていました。

当日着いたばかりという後任が挨拶。米国勤務経験はあるようだが、やはりまだ英語モード・アメリカンスピーチモードになっていなかった。「着いたばかりでよくわかりませんが仲良くしてください」ではなく、自分は具体的に何ができる人か/あなたがたと具体的にどういう案件で関わると認識しているか/それは日本とアメリカの協働という広い文脈にどう位置付けられるか―を簡単でいいから一言ずつ言ってさっと終わったほうがいいんだろうなあと思いながら聞いていました。

英語堪能、明るく社交的、クリスマスはパーティー行脚、えらい人たちとカラオーキー、と余人をもって代えがたい人脈を築いてきた今日の主役に、はなむけのスピーチしたい人~?という呼びかけに、次々とマイクが回された。
スピーチしたアメリカ人の客が、後任に「big shoes to fillだけど頑張ってね」と言った。そこまできつい訳が適当かは分からないが、要は「この人の跡があんたに務まるか?」ということ。人ごとだが弊管理人は震えました。優秀な人の後任というのは、かくも厳しい。

あと、弊管理人含め、日本人は全体的に汚い(主役はさすが、ちゃんと華美でないがきれいな服を着ていた)。髪をきちんと整えていないし、歯が黄色いし、肌のケアをしていないし、上着を着ていなかったりする。しかし比較対象はアメリカの中でも上の方の階級の人で、特に互いを値踏みするコミュニティの中だということから、必ずしもフェアな比較ではないことも分かる。アジア諸国の同業者とか見ているとそんなすごいきれいにしているわけでもなく、以上のことは何か特殊な地域の特殊な階層の話なんだろうなとは推測します。

建物1階のパブで、もう1組の新旧交代者と一杯飲んで帰りました。
もうすぐ帰る人、着いたばかりの人。2年数ヶ月前、もうすぐ帰る人に「ここはホームになりますかね」と聞いたら「なりますよ」と答えられたのを思い出しつつ、両方の気持ちが分かる立場になったなと思いました。

* * *

翌日も小さな送別ランチをやりました。ネパール料理屋で、モモとダルバート、あとネパールビールという名のマッコリみたいなお酒。
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仲良くなったのか、そうでもなかったのか。よくわかりませんが、あちらから「最後にランチを」と言ってくれたので仲良かったのだろうと安心しておくことにします。
「ではまた半年後に東京で」といって別れました。

* * *

3日。
5月に折れた歯の治療は、クラウンを取り付けて終了しました。
やっぱり合計2000ドルくらいした。できるだけ長くもってほしい。
前回回収し忘れた、折れた歯。「記念にくれませんか」と言ったら「あ、もうないです」と言われました。腕はいい先生なんだけど、そういうとこな。

そのあと出社したんですが、なんかすごい疲れていて、あまりちゃんと仕事をしないまま帰って、前日より少し早めに寝ました。

* * *

大統領選挙の討論会のあと、振るわなかったおじい周辺がわさわさしています。
・歳なのは前から分かってたじゃん。大人の事情に囚われすぎ
・と同時にみんな目の前のことに囚われすぎ、で流れを作ったらなんとしても押そうとするのこわ

* * *

◆栗田治『思考の方法学』講談社、2023年

同じ講談社現代新書の『創造の方法学』にタイトルを借りたかな。
モデルとかオペレーションズリサーチの話題を扱った本。原理と応用がコンパクトに示されていて参考になりました。
モデルの類型:
 定性/定量
 普遍(理学)/個別(工学)
 マクロ/ミクロ
 静的/動的
と、その使い方。ほかに、
使用上の注意につながるいくつかの概念:
 正味現在価値法
 埋没費用
 パレート最適
 伝統主義
 フェティシズム(目的と手段の転倒)
 官僚制の順機能と逆機能

ある程度経験のある人にとって、見聞きしたこと、考えたことを整理する手助けになると思いました。

* * *

滞在33カ月満了、34カ月目。残り7カ月。

2024年06月22日

月はすごい

◆佐伯和人『月はすごい』中央公論新社、2019年

仕事上の必要からKindleに落として通勤バスでガツガツ読んだが、全ての事実に「仕組み」や「理由」が書いてあるのがとてもよかった。アメリカ人の説明はかっこよさげに物事を語ることに重点を置いていて、「それがなんなのか」はわりと分かりやすく言うものの、「なんでそうなるのか」をなかなか書いておいてくれない。その点、実績のある新書編集部はさすがで、月はすごいが著者もすごい。そして2019年の執筆当時から今まで本当にいろんな成功や失敗があり、そしていろんな計画が遅れてきたなという感慨を抱いた。


・フロンティアよりも「7番目の大陸」
・なぜいつも同じ側を地球に向けているか:少し重い月の表側が地球の引力に引きつけられているから=自転・公転周期が同じ=「自転が惑星にロックされている」
・月の裏側:
 1959 ルナ3号(ソ連)カメラ撮影。裏側はメンデレーエフなどソ連の人の名前の地形が多い
 1968 アポロ8号=有人月周回探査、初めて肉眼で裏側を見る

【高地と海】
・明るいところは「高地」、暗いところは「海」。面積は84:16
・高地:斜長岩(ほとんどが斜長石。花崗岩の白い部分も斜長石)
 固まった地殻。46年分の隕石衝突でボコボコ
 斜長石はAl, Si, Oが入っている
 斜長岩は地殻を形成(アポロ試料で確認)
 マグマの海仮説:月を覆っていたマグマからFe, Mgを含む鉱物が結晶化して沈む
  →Al, Si成分が多くなり、斜長石の結晶→マグマより軽いので浮いて地殻に
・海:玄武岩(斜長石と輝石が半々)
 マグマが地表に出てすぐ冷えたため斜長石は小さく、全体的に黒く見える
 輝石はFe, Mgを含む鉱物
・海は巨大隕石衝突でできた孔を溶岩が満たしたもの
 ※ただし孔ができて1億~10数億年後。その時期にU, Thの崩壊熱で岩が溶けてマグマ形成
 高地に巨大衝突→マグマ埋め立て。若い土地なので滑らか
・これまでの月着陸探査はほとんどが海
 嫦娥4号(2019)も高地の中のクレーターで、溶岩が埋め立てたところ

【月食】
・月は年約3cmずつ地球から離れている→数億年後には皆既日食が見られなくなる
・月食は世界同時に見える。日食は影の部分だけ
・月食になると太陽光発電ができなくなるので月探査の際には機材の過剰冷却と故障注意

【月のできかた】
(1)兄弟説=月が地球の隣で同時にできた
 △同じ材料でできたはずなのに月は密度が小さい
(2)親子説=地球の自転が不安定な時期にちぎれて飛び出たのが月
 ○地球の重い核ができてから地殻やマントルがちぎれたなら密度差は説明できる
 △自転の不安定が本当にあったのかも仕組みも不明
(3)他人説=月がどこかから飛んできて地球の重力に捕捉された
 ○別の場所でできたなら密度差は説明可能
 △月と地球は酸素の同位体構成が似ている。通過も落下もさせず捕捉するのも難しい
(4)巨大衝突説=初期地球に火星サイズの天体(テイア)が衝突した破片が月
 井田茂、小久保英一郎らがシミュレーションで可能性示す
 ○衝突時の熱で厚さ400kmものマグマの海仮説も再現できる
 △飛び散る破片はほとんどがテイアの破片。そんなに地球に似ていたのか?

・レゴリス=大小隕石に砕かれた月面岩石。細かな砂。小麦粉サイズ
 満月が半月の倍以上明るい「衝効果」の原因でもある
・宇宙風化=宇宙から降る放射線、微小隕石の高速衝突による岩石表面の変化
 表面が不透明な粒子によって赤黒く変化(アポロでFeの粒確認)
 実際の試料で確認できているのは月とイトカワだけ(※執筆時)
 →隕石衝突し地下の新鮮な岩石を飛ばすと明るい筋(レイ)ができる
  =レイは消えるのに約10億年かかる。見えるものはそれより新しい

【月面】
・寒暖の差が激しいのは大気がないため。地球は大気が熱を運んで平均化している
・日なたは120度、日陰は-80度、夜は-170度(夜は2週間)
・越夜技術:装置をレゴリスに埋める、断熱材で囲う、電力で暖める
・隕石が燃え尽きず、1mm未満の隕石も秒速10-20kmで落ちてくる。小さい隕石ほど頻度が高いので危険。落下地点から飛ばされてくる破片も空気抵抗で減速されない
・放射線
 (1)銀河放射線=超新星残骸からくる高エネルギー粒子
 (2)太陽風=太陽からくる電磁波や粒子
 地球は磁場が逸らし、大気が威力を減らすが、月は固有の磁場も大気もなく年100-500mSv
 →数mの壁が必要。外での活動も制約
 太陽フレア時の退避も
・月へ行く途中の放射線=バンアレン帯(地球磁場に捕捉された荷電粒子)
 1958 エクスプローラー1号が発見
 内帯 高度1000-5000km
 外帯 高度15000-25000km

【水資源】
・月では水1リットル1億円。これ以下で採掘できればペイ
・水
 1994 クレメンタイン(米)南極地域の電波反射波で水を思わせるデータ
 1998 ルナプロスペクター(米)中性子分光計、極に水素が大量にある場所あり
 2009 エルクロス(米)クレーターにロケット打ち込み噴出物観測、水蒸気の特徴
 いろいろあるが行ってみないと分からない。たくさんあると思う人も思わない人も
・太陽光発電で作った電気で分解→復路の燃料、火星や小惑星に(小重力で大気がない月からの出発が有利)
・飲み水、呼吸する酸素の減量、農業(のち呼気や排出物のリサイクルでまかなえるが)
・永久影。極では太陽はほぼ地平線を這う。クレーターの底は永遠に日が射さない
 「かぐや」の地形カメラが調査、シャックルトンクレーターの底は-190度と推定
 →数cm~数10cmもぐったレゴリスの隙間に微小氷が付着しているのでは(小さい隕石の衝突で表面がかき回されて一部は深いところに移動している)
・水がある原因
 (1)彗星や隕石の落下→蒸発→超低温レゴリスに触れて凍り付く
 (2)地下からの供給=マグマに含まれる水。10億年前くらいまで火山活動
 (3)太陽風=H,He原子。レゴリスに突き刺さり、閉じ込められて鉱物中のOと反応か
・なかったら?
 太陽風起源のH利用。レゴリス加熱して取り出し、レゴリス鉱物内のOと反応させて水製造。コストや手間はかかるが、Hが大量にあれば可能

【金属、Si】
・鉱物:天然に存在する無機物質で、化学組成や物理的性質が同一の部分
・岩石:鉱物の集合体
・かんらん石:Mg, Fe, Si, O。マグマが冷える最初のほうで出てくる。重い→マントル構成か。地球の上部マントルもかんらん岩と思われる
・チタン鉄鉱:FeTiO3。玄武岩に入っている
・建設資材:レゴリスの焼結ブロック。太陽電池による電気炉か太陽光集光した太陽炉で加熱しれんがのようなブロックを作る。建物のほか、重機の重しにも(ショベルカーが地面を掘るときに浮かせない)
・金属:Fe, Ti, Mg, Al, SiはOと結びついてるのを引きはがす。Hと混ぜて高温にするとO+Hで水になり、元素を単体で取り出せる。チタン鉄鉱からのTiか斜長石のAlをFeに混ぜて鉄鋼を生産
・空気がないのでさびない
・Mgは合金にして宇宙船の機器
・Siは太陽電池パネルの基材に
・原子力電池:放射性物質から出る熱で発電するか、放射性物質から出る放射線で蛍光物質を光らせて太陽電池で発電。ボイジャーのほか嫦娥3号ローバー(玉兎)に搭載。夜が2週間続く間の保温に。ただし安全性。カッシーニの地球スイングバイへの反対運動(と強行)
→月で採掘の可能性。マグマの中(eg.ハンスティーン・アルファという火山ドームなど、鉱物を生成したあとのマグマに濃縮されている可能性)。トリウム異常地域にもウラン鉱床がある可能性が高い。ただし低コストで採掘できるのはかなり先か

【月の一等地】
・高日照率地域(年間の80%以上日が当たる地域)が存在。太陽光発電して充電し、日陰の間は機器を暖めてやり過ごす。探査機の着陸、有人基地に最適。「かぐや」探査である程度まとまった面積(数百m四方)の地域は5カ所しかないことが判明。表側には2カ所のみ
 極域探査の場合はそこから永久影まで高日照率地域が続いているとよい
 ちょっとそれると日が当たらない地域→SLIMのピンポイント着陸技術が必要。LUPEXは半径50m内着陸が求められる
 フライホイール式蓄電施設、核融合炉、電波天文台(裏側に)
・縦穴=溶岩トンネルの天井に穴があいたもの。火山地形。「かぐや」とLROが発見。中に空洞があるのは3つ。延長距離50kmか。隕石や放射線よけ、寒暖差の緩和
・取り合いになる資源:限られた場所にあるもの。高日照率地域、縦穴、永久影(の近くの採掘基地となる日照率の高い地域)、核燃料鉱床(火山度オーム、Siの多いマグマ陥入地域)
・取り合いにならない資源:あちこちで手に入るもの。鉄、チタン。チタン鉄鉱は海を構成する玄武岩の中に存在。HやHe3も太陽風として月全体に降る。Alは斜長石、どこにでもある

【エネルギー】
・化石燃料を地球から持っていっても燃やすための酸素を作らないと使えないので、最初は太陽電池
・水素=ロケット燃料。H+Oで爆発→H2Oが高速で打ち出される→反動でロケットが進む(※はやぶさの電気推進はキセノンガスに電磁波を当ててXeイオン+eにし、イオンを高電圧で加速して打ち出す)。極地に氷がなくてもレゴリス加熱でHは手に入る。太陽風由来なので持続可能(ただし取り尽くすとまたたまるのに時間がかかる)
・He3=太陽風に含まれる。核融合燃料

【食料生産】
・嫦娥4号(2019)棉花やアブラナ、酵母やショウジョウバエを搭載→温度管理失敗(高温)したが、月での農業を念頭に置いていたとみられる
・呼気のCO2や排泄物リサイクルとしても農業を考慮
・ないもの:C(月の岩石にない)=炭素質隕石が使えるか。N(火星にはある)=肥料持ってくるしかない。Pも持ってくるしかない
・あとは植物→動物→食べる、のサイクルを作れば自給自足は可能
・昆虫含め、食材の多様性がないとアレルギーが出たときに困る
・昼夜2週間ずつ→LED光源で、断熱・放射線遮蔽された室内で実施

【月~太陽系へ】
・月探査のトレンド
(1)氷:LUPEX、ロシア、中国も着陸やサンプルリターン狙い
(2)火山地域:嫦娥5号(成否は要確認)。月の噴火は何によって起きたのか(水蒸気、CO、…)
(3)南極エイトケン盆地:表と裏の違い、地殻の下の岩石層

・火星
 1971 周回はマリナー9号(米)・マルス2号(ソ)、マルス3号が軟着陸
 1976 バイキング1号(米)が軟着陸
 1977 ローバー:ソジャーナ(米)
 2003 マーズエクスプレス(欧)
 2003 のぞみ(日)=失敗
 2004 スピリット、オポチュニティ
 2012 キュリオシティ
 2014 マンガルヤーン(印)
 2018 インサイト(米)
 火星サンプルリターンは未達
・北半球の大部分が海だったとみられる。火山活動も活発だった。プレート運動も?
・CO2とH2Oが凍り付いた極冠が南北の極にある→農業
・メタンがあるらしい→ロケット燃料
・プレート運動凍結、大気薄く、海洋蒸発、生命いるかも?

・小惑星
・デイビッド・トーレンらの分類(1984):明るいグループ(V,Q,R,S,A,E,M)、暗いグループ(C,G,B,F,T,P,D)
・未分化な小惑星は太陽系形成時の物質を保存している。太陽系の初期状態を探る
・分化した小惑星はさまざま。地球のような構造がどうやってできたか
・資源として:鉄隕石の母天体から金属鉄採取(精錬がいらない)とか、地球では核にほとんどが入っている白金、イリジウムなど
・氷衛星:内部に海・生命?=ガニメデ、エウロパ(2012、2016にハッブルが噴泉観測)、エンケラドス(2015カッシーニが噴泉に突入し成分調査)、タイタン(2005にホイヘンス・プローブ着陸。液体メタン、エタンの川や湖、海)など
・系外惑星:Exoplanet.eu、プロキシマb=ブレイクスルー・スターショット計画は20年で到達目指す。20年後出発?

・課題
(1)アウトガス:真空環境で接着剤などからガスが出て他の部分に付着する。レンズなどにつくと観測ができなくなる
(2)宇宙放射線:重くないどんな素材で遮蔽するか。電子回路の誤動作(アポロはコンピュータ3台の冗長系)や故障、カメラのレンズ曇り
(3)熱設計:真空や月面では対流が使えない→熱がこもる。シミュレーションや真空容器で試験。

フェミ+量子

なにやらえらい熱波がきており、DC界隈は37度。家にこもる日と決めて、だいぶ前に読み終わってたもののメモをコンプ。

◆デボラ・キャメロン(向井和美訳)『はじめてのフェミニズム』筑摩書房、2023年。
Deborah CameronのFeminism: Ideas in Profile (2018)の訳です。

ちくまプリマー新書なんですけど、一枚岩でない対象や歴史を「フェミニズム」という一つの言葉でくくったことに由来する面倒くさい感じ(本書の言葉では「複雑さ」。典型的には従来型の行動批判→「女性の自主性を否定している」という批判→「それは自由な選択ではない」という再々批判)を活かしながら要約したとてもいい本だと思いました。

【はじめに】
・意味は:「女性は人であるという理念」、「性差別・性差別的な搾取と抑圧を終わらせる政治運動」、「分析枠組」のいずれかか組み合わせ(pp.9-10)
・二つの基本的理念「女性は社会において従属的な立場にあり、不正義や制度的な不利益にさらされている」「それは望ましいものでっはなく、変えられるし変えるべき」(p.19)

・「第1波」19世紀半ば~女性参政権運動:(1)男性との類似点を強調する議論(2)男性には解決できない女性独自の問題があると強調する議論。米国黒人女性による支持は人種平等につながることを期待。逆に白人女性の参政権獲得で白人の優位性が高まると考えた南部の人種差別主義者と白人女性の結託も(p.12)→1920年代に目的達成すると団結から分裂へ
・「第2波」1960年代米国発:第1波とのつながり強調
・「第3波」1990年代
・「第4波」この10年ほど
・「波」で表すことへの批判もあり。「一般化しすぎ」「前の時代の動きはまだ続いている」

・インターセクショナリティ(クレンショー):人種、民族性、セクシュアリティ、階級…

【支配】
・「構造的な男性優位性」=男性が利益を得る仕組み。※個別の男性のことではない
・進化論を利用した生物学的決定論 vs. 家父長制の起源探究。eg.エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』、母権制社会、狩猟採集社会。現代社会では緊縮財政による公共サービス削減と女性による無償の介護労働の拡大、性的解放(夫のものから社会のものへ)とレイプ文化やセクハラ
・性の自己決定:Roe v. Wade (1973)、英国での中絶処罰対象からの削除(1967)→現在のバックラッシュ。宗教的原理主義、男性の権利主張、オルタナ右翼。途上国でもボコ・ハラムなど
・女性自身の加担・受容:男性との絆、従属的立場の刷り込み(pp.46-47)

【権利】
・独立宣言のall men=白人男性←第1波フェミニズム、女性の権利運動としての理解
  vs. 根本変革を志向するラディカル・フェミニストの批判。投票権返上(1969)
  vs. グローバルサウスの視点。権利は要求すべき(レイシー)
・収入格差、議会構成、生殖(子どもを持つ選択をした人の権利?胎児の権利・父親の権利との競合)、「私的空間」とされながらDVの現場でもある家庭の保護との齟齬、女性の権利に関する国際条約と「よその文化の押しつけ」論、ジェンダーの主流化
・商業的代理出産:個人の生殖の権利擁護 vs. グローバルサウスの女性の搾取 vs. 金銭を得る権利・女性の主体性の否定批判 vs. 本当に権利の問題か?貧しくなくても選ぶだろうか?
・ニカブ禁止:ムスリム差別?女性の主体的な選択の否定(西側に救われるべき女性) vs, 「私たちは何も選択してこなかったと決めつけるのか?」 vs. 有害な慣習を押しつけられるべきでないというムスリム女性の声
 ←マイノリティの文化的慣習批判 vs. 人種差別批判 vs. コミュニティ内部の批判者擁護
・宗教裁判所(不変な神の立法) vs. 民主制下の裁判所

【仕事】
・無償ケア労働、ケアワーク時間の男女格差(OECD)→女性労働力の活用不十分→途上国にとっての不利。有償サービスのある先進国でもケアワーク分配は依然不均衡
・「ガラスの天井」はぜいたくな悩みとの批判←→世帯主男性という受益者の無視、「稼ぎ手」=男性という構造の無視
・家庭内資源の適正分配で女性死亡率の是正ができるようになるには、女性が有給職に就くことが必要(セン)
・高給で安定した製造業(の喪失とトランプの台頭)=男性、低賃金で不安定なサービス業=女性
←→男性の稼ぎに依存できない独身/パートナー男性失業中の女性は貧困に陥る
・賃金格差(1)女性がしているからという理由で低賃金になる構造(2)子どもが小さい間のパートタイムや時短労働がキャリアに与える影響(ジェンダーステレオタイプが背景)
・国が家事労働に賃金を支払うべき←→性別役割分担の保存。ケアワークの脱女性化
・女性と仕事の問題は制度だけでなく個別男女間の摩擦も引き起こす。誰が誰に権力を行使しているのか。「個人的なことは政治的なこと」。女性が自分より稼ぐことは男性の権威への脅威に

【女らしさ】
・本質主義:生物学的機能、生殖機能に基づいた普遍的な性質の想定
 +ボーヴォワール:社会的カテゴリーとしての女性(女に生まれる/なる)。ジェンダー。マーガレット・ミード
・規範は生物学的に説明できないことが多い(eg.足を開いて座ってはいけない)。飴と鞭による強制
・ジェンダーは男性にも窮屈だが、完全に対称ではない。背景として男性優位の構造
・ジェンダーの廃止か/今の苦痛を何とかするか
・服装や色など好みの「生まれつき」論への批判(1960年代)→進化生物学によるリバイバル←→先史時代にしか当てはまらない説明との批判
・親の思い込みや文化的背景から生まれた時から男女は違う扱いを受けて学習していくという心理学的観察。1970年代からは男女別玩具販売反対のキャンペーン、アニメの「女性の美しさ」描写、美人コンテスト、1990年代の摂食障害増加
←→「女性の自律性否定」という批判
←→「女性の選択は社会からのプレッシャーを受けている/内面化している/人生の早期から自由な選択はできていない」との再批判。美容業界の宣伝効果、白い肌>黒い肌

【セックス】
・男女間BDSMに対する「オーガズム支持」vs「男性の暴力と抑圧」
 セックスは「快楽」か「危険」かという立場の違いがフェミニストを二分する
・第1波:女性への危害回避・男の中の野獣矯正
 第2波:カウンターカルチャーの流れの中で自由なセックス肯定。自主性・自我を持つ権利の象徴
 ←→セックスは男性が快楽を得るもの
 →性教育:身体構造の違いやリスク+快楽についての議論も
・ポルノ文化→レイプ文化(行為拒否を責められる、通報・起訴されない)
・売春:男女の不平等の表出と促進。互いの欲求に基づくセックスという原則の侵犯。ノルウェーモデル(買春の禁止+売る側を処罰対象から外す→需要を減らす)
 ←→「上から目線」批判。合理的な選択は否定できず、失業キャンペーンは容認できない
 ←→ドイツなど合法化されてる国でセックスワーカーの社会保障ちゃんとしてなくね
・家庭でも妻は経済的安定の引き替えにセックスと家事を提供してないか
・セックスの拒否というシステム的解決(米・ラディカルフェミニスト)、「レズビアンは女性ではない」
・とまあいろいろあるが「女性は性の自律的な主体であり、誰かの快楽や利益に利用されるものではない」は共通

【文化】
・ダーウィン、ロンブローゾ。文化的に劣った、天才の少ない女性。ヴァージニア・ウルフ:なぜ女性のシェークスピアがいないのか
・文化的排除:映画監督(スザンナ・ホワイト)、科学(マチルダ効果)、作曲コンクール、小説
・見る男性、見られる女性:映画を撮るカメラの視線=観客の視線、人種科学(サラ・バールトマンの見世物)
・介入とバックラッシュ:ゴーストバスターズのリメイク、紙幣の肖像に女性を入れるキャンペーン、テレビゲームの中の性差別指摘。オルタナ右翼「メニニストmeninist」=自分に残されたのは文化的特権だけだという男性への訴求

【断層線と未来】
・ネオナチ、白人至上主義
・第4波:インターセクショナリティ(アフリカ系、トランス、労働者階級)、ジェンダークィア、女性とは何か?→個人が自由に決めるアイデンティティへ→「フェミニズム」と両立するか?
・商品化されたフェミニズム(ディオールの「みんなフェミニストでなくちゃ」Tシャツ)

◆湊雄一郎、酒井麻里子『量子コンピューター』インプレス、2023年。

情報が新しいのと、技術に対する評価(アニーラーがほぼ終わりというのはへぇと思った)や業界の動向が書いてあるのがよい点。
説明がいちいち食い足りないのがいまひとつ。いろんな量子ビットの方式が書いてあるが、それぞれ0と1がどういう状態なのかとか、量子センサーってどういう仕組みなのかとか、量子もつれでなぜ素因数分解が解けるのかとか。「これができます」に対して「どのように」がない。
※と書いたあと、某所からいただいた本のほうがよかったのでそっちをまた別途

・市販の実機Gemini(中国、SpinQ Technology)
・量子コンピューターはQPU(頭脳部分)だけ
・方式
(1)超電導
電子2個、平面に超電導素子(人工原子)、マイクロ波当てて操作、世界で開発(日本は理研と富士通とNEC)、商用化先行、冷却が必要、小型化が困難
(2)イオントラップ
イオン、チップの上にイオンが浮いた状態で静止、横からレーザー当てて操作、欧米、精度が高い・誤り訂正できている、周辺設備で筐体が大型化、誤り訂正量子ビット数が増やしにくい
(3)冷却原子
原子、空中に浮かせて左右からレーザー当てる、欧米、量子ビットの数が多い、周辺設備で筐体が大型化
(4)半導体
電子、電子の上下をチップで挟み上からマイクロ波を当てる、米国(日本では日立)、量産化・商用化に期待、冷却が必要
(5)光
光子、トンネルのようなゲート(通り道)を通す、世界(日本はNTT)、常温動作が可能、周辺設備で筐体が大型化
・古典コンピューター=正答が1つに決まるものに適する。量子コンピューター=答えが定まらないものの計算に適する
・アルゴリズム
(1)FTQC(理想、計算が長くエラーが起きやすい)
化学計算(素材を構成する原子や分子の電子配置を調べて作用を求める、新材料=EVバッテリーの性能向上で走行距離延長、半導体素材)、暗号、金融(複数の株式の最適組み合わせ、倒産リスク計算、価格予測)、検索
(2)NISQ(量子+古典、細切れを足し合わせる、精度上がらない)
化学計算、最適化(多数の自動運転車のルート同時計算して渋滞起こさせない最適ルート)、機械学習(まだ古典のほうが速い)


2024年05月04日

びゅんびゅん週間

今週はなぜかびゅんびゅん過ぎた感がある。
土曜は、プエルトリカンのご両親がフロリダからきたので、点心食べにいきました。
ロックビルのBob's Shanghai 66。鉄板ですな。ちょっとリニューアルされて、ラティーノのみなさんが小籠包作ってるところが見やすくなってた。鼎泰豊に触発されたのだろうか。
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4人なので多種類!プエルトリカンは普段あまりコメを食わないので、パパが「チャーハン食べたい」と言ってくれたのナイスだった。小籠包は確かにここ相当うまいし、野菜の炒め物とかもあっさりしっかりの味で上手。
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ママは「これさらっちゃいなさい!」「ご飯は残ったら包んで持って帰って!」「最後の1個はあんたが食べるの!」とめっちゃラティーノママだった。
パパは寡黙かなと思ったが、ご飯を食べたら饒舌になったので疲れていただけかもしれない。
ご馳走になってしまった。

プエルトリコからニューヨークに出てきて、そこからフロリダ移住というコースらしい。
フロリダに家を持ってて、今年初めにはアジアを回るクルーズに行っていたというので、そこそこお金はあるご家族なのかもしれない。お姉ちゃんが地元市長選に出るんだって。アクティブだなおい。

* * *

と食うだけ食っておいてヴィーガンの本であります。

◆ピーター・シンガー(児玉聡、林和雄訳)『なぜヴィーガンか?―倫理的に食べる』晶文社、2023年

シンガーが動物解放論者だというのは知っていたが、それにまつわる文章は読んだことなかったんですよね。苦痛の有無を認めると脳のある動物と人間の区別(種差別)はできなくなるはずだというのはそうだなと思った。

以前行った成田の鰻屋は店頭で鰻をさばいており、生きたまま頭に釘を打たれて体を刃物で切り裂かれる様子を見て引いたし、去年はブタの丸焼きを見て引いた。この本を読んでしまうと自分の行為は正当化できないと観念できてしまい、それでも肉を食うという認知と行動の不協和にこの先どこまで耐えられるかなという、何かの引き金が引かれた感じの読書体験でした。

訳者解説はさすがの児玉先生で、簡潔で当を得たまとめでした。しかし専門家の訳者として50年前の議論と現在の橋渡しやレフリー役はしてほしかった。どんな反論があったのか、それは有効なのか、畜産や動物実験の状況はどう変わったのか。種明かしを見たくなかったので解説は最後にとっておきながら期待して読んだが、ちょっと拍子抜けだった。

以下メモ。

(1)動物への配慮
・中枢神経系=苦痛の存在 ←→貝や卵
・種差別(動物は人間にはしないような扱い方をしても構わない)→人種差別(黒人奴隷化など)との類比。平等の要求は知能指数に左右されない(違いがないと主張するのではなく)
・ベンサム「各人を一人として数え、誰も一人以上として数えない」→利害を有する全存在者への適応。「理性を働かすことができるかでも、話すことができるかでもない。苦しみを被ることができるかどうかである。」(pp.36-37)
・特定の集団に対して私たちがとる態度のうちに潜む偏見は、説得力のある仕方で誰かに指摘されるまで、非常に気づかれにくい(p.24)
・解放分銅は、私たちに道徳的地平の拡大を要求する。以前は自然で不可避なものと見なされていた実践が、正当化しえない偏見の産物として理解されるようになる(同)
・工場畜産。人道的であれば食用に動物を育ててよいか?(pp.60-63)
・動物実験が与える苦痛。動物実験は動物と人間に類似性があることが前提で(それを期待して)行われているので「人間と同じように感じない」は成立しない。「多数の人間が助かるため」→多数の人間が助かるために生後6カ月未満の乳児に実験をしてよいか?(p.52)
・私のために殺されたのではなく、既に殺されたものだから食べてよい?→私が今日食べる=その需要によって明日のスーパーの仕入れ、将来の屠殺が招かれる(pp.102-103)
・私が食べる程度なら世界に大した影響を与えない?→集団として引き起こしていることには一人一人が責任を分有している(pp.103-105)
・魚
・牛乳は?→雌の毎年妊娠、仔牛は肉に

(2)気候変動
・畜産によって生産される肉の数倍の穀物が浪費されている(非可食部の成長や呼吸など家畜の生命活動)
・放牧用農地のためにブラジルの熱帯雨林が切り拓かれている
・げっぷでメタンガス
・培養肉は肯定される

(3)自分の健康
・ヴィーガンはB12サプリをとればいける

(4)新興感染症(ウエットマーケット)
・動物福祉+病原体の出現リスク

2024年04月07日

回復と遺伝

風邪は結局1日で治りました。友連れで体の不調のいくつかが緩和した。まんまとリセットされた気がします。
咳はちょっと残った。風邪がアレルギーを呼び起こしたのだろうか……・

何か著しい成果があったわけではないが、何かと忙しかったです。
木曜夜はDC東のほうのMakettoっていうちょっとおしゃれ系アジア料理店にいきました。
うまーくジェントリフィケーションされた感じの街区の一角にあります。
こういうの流行りっぽいよね。
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久しぶりにおいしいチャーハン食べた。
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* * *

ツイート抜粋。

・鳥インフルエンザ罹患者が出たというCDC(公衆衛生当局)の発表より抜粋。患者のプライバシーに配慮して性別さえ明かせないのでheやsheの代わりにtheyを使ってるんだな~
The patient reported eye redness (consistent with conjunctivitis), as their only symptom, and is recovering.

・いま住んでる郡、年収中央値13万ドルちょいだそう。1600万円。

・人を悲しませるのは趣味ではないので、自分がいなくなっても悲しむ人がそれほどいない生き方をしてる感はあるな

・responsibly は「責任を持って」と訳すとなんか違うな~と思ってたんだけど、あれだ。日本的ニュアンスまで込みで日本語にするなら「節度をもって」じゃないかな。
drink responsibly お酒はほどほどに

・実際は兄ではない男性を「あんちゃん」と呼ぶのと同じく英語でもbroっていうの面白い

・アメリカに同調圧力がない」については
みんな面倒臭がり+詰めても言い訳を延々述べるので、言葉でやり合わず、単に無視したりクビにしたりしている
実際はホームパーティ参加など同調圧力のあるウエットな社会だが、観察する側の日本人が溶け込んでないため見えてない
の両方ではないか

・友達の飼い犬、息が臭かった
また犬の苦手度が上がった

・私わりと移動や行動の量が多いように見えるかもですが、「初めてなので一応」を基本原理として世界をスキャンしているだけで、「いずれ気が向いたら再訪しよう」と言いつつ結局しないで死ぬんだと思う

* * *

◆キャスリン・ペイジ・ハーデン(青木薫訳)『遺伝と平等』新潮社、2023年

・教育ポリジェニックスコアと社会的不平等が主題
・生まれる環境+遺伝的バリアント=誕生時に引くくじ
・ゴルトンの優生学(1883)、家畜改良の科学。人種に優劣がある+種の改良のためヒトの生殖に介入すべきである、という考えと不可分に結びついていた(弟子はピアソン。社会改革は無益と論じた)
・「ヒトは遺伝的に異なる」≠優生学
・アンチ優生学≠ゲノムブラインド
・アンチ優生学の企て(1)遺伝的な運の役割を理解する(2)教育・労働・金融システムが特定の人たちに報いる仕組みを理解する(3)これらをすべてのヒトに報いるよう変えるやり方を構想する
・フィッシャー:ポリジェニック→アウトカムは正規分布になる(1918)
・ポリジェニックスコアは人種間の富のギャップを説明しない(統計学的誤謬)
 個人が金持ちにするとはいえる(p.71)

・GWAS:十分な数のサンプルを調べれば、学歴のような複雑なアウトカムにも関連性のあるSNPsを見出すことができる(p.102)
・Σアレルの数0/1/2×関係の強さ=ポリジェニックスコア。白人の教育歴、標準学力テストや知能テストの分散の10-15%を説明する(R^2=10-15%)。cf.標高の高いところは気温が低いR^2=12%/裕福な家に生まれると大学を卒業するR^2=11%
・学校成績のような複雑なもののR^2が小さいわけ(1)人は一人一人違う(2)絡む要因がたくさんある(3)しかし社会の至る所で起こると大きな効果になりうる

【4】
・系図上の祖先と遺伝上の祖先は全く異なる(pp.119-121)
・アフリカ系、アジア系、ヨーロッパ系というグループと遺伝的特徴はよく対応する。ただし、人種と遺伝的祖先は同義語ではない(p.126)
・集団の違い
(1)ある集団である表現型にとって重要なバリアントが、別の集団にとってもそうだとは限らない。CFTR遺伝子のバリアントはヨーロッパ系の集団で嚢胞性線維症の70%以上を引き起こすが、アフリカ系では30%
(2)ゲノムの連鎖不均衡(LD)。バリアント同士の相関パターンが集団ごとに違う(p.130)
=★GWASの結果を他の集団にそのまま当てはめられない。白人のポリジェニックスコアだけを使うことで、白人の健康ばかりが改善される恐れがある。非ヨーロッパ系の研究に資金を入れるの必要
・生態学的相関≠個人レベルの相関(p.137)

【5、6】
・原因とは:Xと非Xの比較が行われたということ
・ただし★
(1)メカニズムが分かったことを意味しない
(2)百発百中で起きることを意味しない:多数の交絡変数の中にある「薄い因果関係」~単一遺伝子疾患など「厚い因果関係」
(3)決定論的でない以上、個人に関してその原因について確信を持って何か言うことはできない
(4)時間や場所が違ったら言えることは限定的かもしれない(移植可能性)
・遺伝率:遺伝子が生み出す違いの大きさ(ヒャクゼロではない)。遺伝率は集団によって違うことがある。では無益かというとそういうことではない。例)ジニ係数の時代・場所依存性
・GWASを使ってポリジェニックスコアを構築→環境が同じ家族内で検証(p.192)きょうだい比較など

【7】
・遺伝的差異は社会的不平等を引き起こす。ではどうして?
・ジェンクスの赤毛の子ども思考実験(1972)赤毛の子どもの通学を禁止す政策→赤毛の子どもの識字能力低下、が「赤毛遺伝子」→「識字能力低い」の見せかけの遺伝率を算出させる
(1)因果の鎖。遺伝的背景―文化・社会的介入―アウトカム
(2)解析の階層。分子―細胞―個体―社会、どこを解析すべきか?←→ハンチントン遺伝子は全てが生物学的な階層で起きる。ADHDは生物/社会両方関わる
(3)オルタナティブな可能世界。そのメカニズムを修正することができるか
・鎖は短く/階層は生物学的で/修正はできない→優生主義に近付く
・教育関連遺伝子は脳で発現する/遺伝の影響は発生初期に始まる/遺伝の影響は基本的認知能力に及ぶ/そして遺伝の影響は知能だけではない。忍耐力など非認知的スキル。ただし非認知的スキル遺伝子は統合失調症や双極性障害などのリスク増とも関連/遺伝の影響には親など周囲の人たちとの相互作用が関係。子どもの時の能力の違いによって親が与える認知的刺激も変わる、やりがいのある課題が与えられる、高校で高度な数学をとる

【II部】
・「遺伝的性質は社会の階層化の原因になりうる」と「社会の組織的力に対抗することで変革を起こせる」は両立可能
・厳しい環境だと遺伝が格差に与える影響は小さくなる(ポテンシャルが発揮できない)
・底辺の向上→公平(≠平等)
・IQ≠道徳(p.315)。しかしIQは差別的施策の効果を知るための道具になるとの評価もある(p.318)eg.ミシガン州フリント市の鉛中毒=環境レイシズム、IQやSATとアウトカムの予測性の高さ
・ろうの文化(ろう遺伝子を持った胚をあえて選択するIVF)、ニューロダイバーシティ
・★GINA=ゲノムブラインド(p.353)

2024年03月24日

ヒューストン再び

やっと今年最初の出張を作りました。水曜~金曜でヒューストンです。去年の4月以来で、たぶんヒューストンはこれで最後になると思う。
空港は、街の北のブッシュと南のホビーという二つがあって、去年は便が多いブッシュを使いましたが、南東にある仕事場まで結構遠かったので、今回はホビーを使ってみました。サウスウエスト航空というLCCしかないので不安でしたが、混雑する時期でもなく天気にも恵まれて行き帰りとも予定よりちょっと早いくらいの到着でした。快適。

レンタカーはいつもの通り、店長お任せの一番安いプラン。割り当てられたのはこれ。
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フォードのマスタングEV、2023年車。5000マイルくらいしか走ってない、すごい新しいやつでした。EVは人気ないのかね。
それも分かる気がします。ガソリン車といろいろ勝手が違って、ドアを開ける段階からして「レバーを引く」のではなく「ボタンを押す」だし、操作はタッチパネルだし、充電プラグを挿すところが車体左側の「前」だったりとか(いや前に電池積んでるからだろうけど)、そこいちいち変える必要ある?みたいな面倒くささを感じました。

なにより充電。今回は大都市の中を動き回っていただけですが、無料のチャージャーはいろんなところにあるものの、充電70%をちょっと切ったくらいの段階から「満充電に3時間半かかります」みたいな遅い設備が多い。お金払うから速いのがいい、といって探して行ってみると「アプリで登録しろ」、したらしたで「この機械は現在使えません」。離れたところにあるホテルの駐車場にある設備はカードが使えると思ったら「失敗しました」

ガソリンスタンドだったらそこら中にあって、到着してカード入れて給油してレシート受け取るまで5分でしょう。EVは所有して家で充電して会社との往復、くらいであれば静かだし便利で安いのかもしれないが、レンタカーは絶対嫌ですね。ましてや郊外に行くの怖すぎる。

車そのものは静かで、大きくて重いので安定してるし、パワーがあって加速にも無理がないので乗っていて快適ではありました。

仕事そのものはかなり楽しく内容も豊富でした。
ちょうど一緒になった他社の人と夕食2回。シーフード多めでした。
これは2日目の夜、エルサルバドル料理のお店。ものすごく中南米系なショッピングセンターの中にあって、スペイン語しか聞こえてこない感じのところ。
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こちら、エビのクレオール風。よくわかんないけどトマト味のエビ、ピラフともにおいしかったです。
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ヒューストン市内で見たい美術館とかチャペルがあったんだけど、ちょっと時間なく叶いませんでした。
最後はホビー空港で仕事をやっつけて、ひとり地元ビールで晩酌。
ポーボーイPo'Boyというルイジアナのサンドイッチです。揚げたエビが入ってる。またエビ。
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前来たときも思ったけど、ルイジアナ近いせいかそっちのお料理多いですね。
真夜中に帰って、東京とやりとりして2時に寝て3時に一度起こされてまた寝ました。

* * *

日曜はプエルトリカンを連れて、Loudoun郡のLocal Provisionsっていうレストランにお昼を食べに行きました。
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街中じゃないのですごく店内が広々していて、店員さんも愛想よし。この時点でかなりよい。
料理はいろいろとって2人で分けました。
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左上はラザニアスープ。あとはエッグサンドイッチ、チキンサンドイッチ。どれもうまかったけど、前菜に頼んだタコのグリルがスマッシュヒットでした。あとシナモンロールを最後に味見、とかいって追加注文したらめっちゃでかいのが出てきて2人でも食い切れず、テイクアウト。

プエルトリカンを送って自宅に戻るまでになんかすごく眠くなってしまい、頭痛もしてきたので、バファリン飲んで17時~20時に昼寝。で、今。あまり回復した感じがしない。早寝に戻しましょう。

* * *

◆山田参助『あれよ星屑(1~7巻)』KADOKAWA、2014~2018年

Kindleで1冊99円になっててまとめ買い。山田参助の漫画買うのは15年ぶりくらいか。
むちゃくちゃよかった。

2024年03月15日

さんがつ前半

あ、3月初めてか。

・今月はバス通勤試行。「NOT IN SERVICE」の表示のまま始発停留所から走り去る運行中のバス、停車リクエスト(窓の上に這わせてあるひもを引っ張る)を無視するバス、明らかに平均所得の低い客層、日本語の本を読んでたら日本人の奥さんがいる海軍の人に話しかけられるなど、まあいろいろありましたが楽しく通勤してます。地下鉄よりだいぶ時間がかかるので読書にはいいです

・夏時間移行。突然19時まで明るい世界になった

・職場ではわりと大きなイベントが5日と7日に立て続けにあったが早々に退散。それが本務の人たちはだいぶ疲れていた

・仕事先とランチ、前から一度行きたかったIron Gateというお店。
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中はうるさくて雰囲気もよし。暖かくなったら外もよさそう。

・朝4時起きと、朝7時起きでそのまま仕事になる日が2日あった。しかも寝付きが悪かったせいで疲れた。4時起きは翌日まで引きずってバファリン飲んだ

・木蓮。14日は26度までいった。
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・ウィラードホテルのCafe du Parcで帰任者のさよならランチ。
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意外とみんな帰ってしまう今年であるらしい

・金曜は1日遅れのホワイトデーということでBlue Duck Tavern。キッチンの見える席
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鴨うまかった。メインと数皿のサイドを頼んだらおなかいっぱい。結構高かった。
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けど、これは1人では来ないし、連れに払わせるのもあれなので、こういうプレゼントの形がよいのだ。
ちなみにホワイトデーがアメリカ人に通じてなくて話がかみ合わず、初めてホワイトデーが日本発祥・東アジア限定なことを知りました。「バレンタインは当日にチョコを交換するもの」とのこと。「でもホワイトデーっていいね」

雨。帰りに駅のエスカレーターでコケて週末になだれ込むのだ。

* * *

◆朱喜哲『NHK 100分de名著 2024年2月』NHK出版、2024年。
こういう奥付になってんだけど、ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』を読むシリーズです。ローティは卒論の中核だった。

2024年02月19日

プレジデンツデー

19日月曜は「大統領の日President's Day」で連邦の祝日です。ワシントンの誕生日に引っかけているらしいが誕生日は22日。某ジョーに「俺?俺?」と言わせたくないのか、「ワシントン誕生日」と呼んでる人が結構います。

3連休中日の日曜は夕方から連れ立って出掛ける日だと思っていたら、相手から朝に電話がかかってきて「夜がパーティーになって、ちょっとこぢんまりやる会らしい。(つまり君はパーティーには招かれないのでその代わりに)早めのランチにしない?」とのこと。ほんといつもプランBの必要な人だな。しかし、さすがにあちらも少しバツが悪そうだったのと、活動開始は早いほうがいいのでDCに行くことにしました。

夜の街・アダムス・モーガン地区の朝。
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予定変更に関してThanks for your flexibility.と言われました。これは使えそうなフレーズなので覚えておこう。あちらのお気に入りのダイナー、その名もThe Diner。そのまんま。
外は静かですが、中は混み混みでした。これは通された一番奥の席から。
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自分で作らないものが食べたい。つうことでエッグベネディクトを頼みます。
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夕方まで腹が減らなかった。本読んでたら夜になり、作り置きのキーマカレー食って仕事一つやってダラダラして寝ました。

* * *

祝日の月曜は一人遊びということが分かっていたので、起きてコーヒー飲んでから昼飯を求めて出掛けました。
わりと近所にある「チャーガ」。アラブ系、南アジア系のお店が並ぶ長屋の一角です。
笑顔ではないが明らかにできる感じのスキンヘッドのおにいさん(画像の奥、左のほう)に注文。
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パキスタンのタンドリーチキン?ことチャーガとビリヤニ、副菜としてサグ、飲み物がついて$12。安~
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そしてうま~。これは名店かもしれない。

天気がよくてそこそこ暖かいので、そのままラジオ聞きつつドライブ。
レストンという街のレイク・アン・プラザを見に行きました。
1960年代初頭にロバート・サイモンRobert E. Simonが手がけた人造湖のほとりの商店・住宅のコンプレックス。Mid-Century Modern Architecture Travel Guideという本の東海岸版に載っています。そもそもレストンRestonという地区名自体がサイモンの名前から取られている(たぶん頭文字のR.E.S.に、集落を表すtonがついた)というくらい人工的な街のようです。
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1階がレストランや小売、2階が住宅のよう。
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古めかしい感じ。こういう上から下まで窓っていう部屋は憧れる。
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先日、ハーマンミラーのオットマンつきの椅子を買って帰ろうかと画策しましたが、こういう家じゃないと似合わないわな。というか東京では多分スペースがない。
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水辺を散策しつつ少し歩くと、ヒッコリー・クラスターという集合住宅があります。
こちらも四角い長屋。Charles M. Goodman、1966年。
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別荘とか週末の家ではなくて、(人工的なものも含めて)自然の中に四角い常在空間を確保する暮らし方はいいな。
満足して帰りました。

* * *

このところ読んだ本。

◆岡本亮輔『創造論者vs.無神論者』講談社、2023年。
アメリカにいるとアメリカに関係した本をつい手に取ってしまいます。年末に新宿のブックファーストで出会って買いました。
この100年の科学と宗教の相克をストーリーとして見せてくれます。ドーキンスやフランシス・コリンズなど知ってる人の知らなかった側面も、もともと知らなかった人もいっぱい出てくる。とても読みやすく、かつ本から目を上げて周囲を見渡すと世の中を見るフィルターが1枚追加されているという、とてもいい本だったと思います。進化論はそうだろうなと分かるが、マルチバースも気に入らないというのは目から鱗だった。筆者は(多分)日本で生まれ育って日本で教えてる人なので、やはり創造論者を「変な人」とみている印象を受けた。でもこちらにいると、大事な部分に触れない限りはわりと良い人だったりする。それはどっち側も同じで。

◆多田将『核兵器入門』星海社、2023年。
ずっと前に見に行った渋谷のトークイベントでは枝葉の話に足を取られて時間配分に完全失敗しており、この人はライブはよしたほうがいいなと思ったものだった。しかし本になると変わらず鮮やかです。核兵器を支える物理>機構>戦略はつながっているので、一番基礎のところから説明してもらうと分かった感じになる。手頃な(ここ大事)類書がなかったがこれで向こう10年は大丈夫ではないか(何が

* * *

今月、定期を買わずに車通勤を増やしてみてますが、あかん。全然歩かなくなった。
来月からはちょっと工夫する。

2024年01月09日

時計依然乱調

体内時計がいまだに崩壊しています。ずれているというより崩壊。

12月半ばにドバイから帰ってきてから、3時に目が覚めて17時に強烈に眠くなる、というサイクルが続いていたのはとりあえず終わったようです。

そのかわり日曜→月曜は(仕事があったため仕方なく)3時に寝て6時半くらいに一度トイレに起きて、また寝て11時半に目覚め。

月曜→火曜はシフトが終わって1時半くらいに寝て3時半に目が覚め、そのまま眠れず寝床にいたら朝5時過ぎに父からLINE電話。7時過ぎの電話会議は途中退席してから気を失って、目覚ましで起きたら13時でした。
睡眠時間としてはまあそこそこ行っているし、落ちるほど眠くなることはない。けどなんなんだこれ。

早朝に父から電話がきたとき、「とうとう何かあったか」とめっちゃ身構えて出たら特に何もないようだった。LINEでタダで電話ができるということを妹から聞いて最近知ったらしいがそのせいか。電話は歓迎だけどびっくりさせないで~

13時に目覚ましをかけてあったのは13時半から仕事があったからで、それを処理していたら出社のタイミングを逸しました。夕方に出るタイミングはあったけど、冬の嵐Nor'easterがきていたのでやめました。今月は定期買わないほうがよかったかな。元とれないかも。

* * *

このところ食べていたもの。

過日、Bistro du Coinの鹿クリーム煮。
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肉ほろっほろで、付け合わせのバターライスと最高に合った。

これも過日、友人とMeokja Meokja(「モチャモチャ」みたいな発音。「いただきます」を2回言っているらしい。スペルがめちゃめちゃ覚えにくい)で韓国焼き肉。
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薄切りの焼き肉ってこういうところじゃないと食べられないです。うま。そして2人で行って1人30ドルちょい。やす。

これは今日。
先週買った挽き肉、そろそろ消費しないとやばそうなのでハンバーグにしました。あと同様にやばくなってきたマッシュルームを刻んで入れた。日本でびくドン食えなかったので食べたかったんだと思う。
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自分で作るの3年ぶりくらいじゃないかな。チーズも入れたった。成功。

* * *

◆次田瞬『意味がわかるAI入門』筑摩書房、2023年。

タイトルね、
・読んでいるうちに「意味(理解)とは何か」が分かるAI入門の本
・「意味が分かる(=意味理解できる)AI」に入門する本
・「AIというものの意味」が分かる入門の本
どれだ。全部か。

年末に新宿のBook1stでパラ見して買った本。東京―長野往復のバスと、東京―DCの飛行機でほぼ読み終わりました。文系の(ちゃんとした)人らしいしつこいサーベイ、定義、思考実験。「記号主義」と「コネクショニズム」の2軸で歴史を整理されると見通しがきいてすごくいい。AIが分かってるとか分かってないとかいう「言葉の意味」についても「真理条件意味論」と「意味の使用説(その一種である分布意味論)」という二つの見方を導入することで議論が大いに追いかけやすい。
チューリングテストってまだ通用するの?という疑問についても取り上げてあるのが嬉しい。
ついでに、新興技術にびっくりしてあーだこーだと未来予想をする人たちが大抵外すということも肝に銘じたい。
ちょっと類書のなさそうな面白い本。筆者も面白い/意地の悪い人なのではないか。なんで弊管理人の視界に入らなかったのだろう。やっぱ時々でも本屋に行かないとあかん。

2023年09月15日

2しゅうかんまとめ

特に何をしていたわけでもないのですが、うかうかと既に9月も半ばです。

なんだか誘われたり誘われなかったりして外食の多い半月でした。

まずDCのStellina Pizzeriaはダイナーみたいなたたずまいのピザ屋。
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イタリア人かな?というおねえさん店員が「ワッフルもあるのよ~私のせいじゃないけど」みたいな恥じらいとともにメニューを持ってきて笑いました。
ピザうまい。シーフードのイカスミパスタもこれまたうまい。ややアメリカナイズされたメニューと味(つまり濃い)ですが、料理はとても満足でした。
ただし、もともと結構割高なところに自動的に20%のチャージが上乗せされるのが気分よくない。あと黒人のおねーちゃん店員が食べ終えた皿を指さして「それとって」みたいな仕草をしやがった。友達かよ。
ちょっと前にメリーランドで食事をしたときも、店員がワインボトルの開け方を知らないということがありました。雇ったときに教育してないのか?
ネット上の評価やチップの額の多寡が質を上げるというのは一定以上の競争がある場合であって、人手不足の昨今「働いてやってるんだし、うるさいこと言うなら他いくよ」となってしまうため効果がない。自動チャージもサービスのインセンティブを奪うので本当に悪い仕組みだと思います。
親密な関係の中では持ち寄りとかプレゼントとかの互酬的で気前のよさが効くのですが、その外に出ると途端にやり逃げの砂漠みたいな世界になる。で、客もそういう社会に適応しているので基本自由だし、自分がサービス提供側になるとやっぱり少ない労力で多くを得ようとしているはず。ただしケチでノイローゼな日本もどうかという話。

同じくDCのラブ・マコト。なんだそれ。ビルの1フロア全部がレストランで、寿司屋、焼き肉屋、居酒屋、あとなんかフードコートみたいになっています。居酒屋にしました。
唐揚げと手羽。
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焼き鳥が意外とちゃんとおいしかったです。

ペンタゴンシティという、国防総省の近くにあるショッピングモールに入っているMarshall'sっていうイトーヨーカドーのさらにしょぼくれた感じの雑貨屋。ベルトが安かったので買いました。9.99ドル。いや実は日本から持ってきていたのがだいぶベロベロになっていて、普通のところで買うと20ドル30ドルするんだけどちょっと馬鹿馬鹿しいなと思って踏みとどまっていたところ、この値段なら全然OKだなということで。結果、QoLが爆上がりしました。
その帰り、夕飯でMattie and Eddie’sというアイリッシュパブに入りました。
フィッシュ&チップスが食べたかったんですよね。
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たぶん鱈。結構おいしかったです。いろんなディップが付いてきたのもよかった。
おなかいっぱい。

プエルトリカンと待ち合わせしてオサレ中華のChang Changで夕飯食べよう、ということになったのが木曜。最寄りの駅で待ってたら「ちょっとCVS(≒マツキヨ)に寄らないといけなくなった」と。落ち合ってみたら腕にヘタクソな包帯巻いてました。電動キックボードでこけたんだって!!先日も酔っ払って電動キックボードでこけてたが、今回はしらふ。
「夕飯キャンセルしようかとまで思ってたけど、こんなことで会食やめたら後悔すると考え直した」そうです。
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段々麺、鶏肉の甘酢炒め、にらとエビの餃子など。あと一杯ずつ酒飲んだら「気分よくなった」とのこと。よかったね。デュポンサークル(DCにいくつかあるでっかいラウンドアバウトのうちの一つです)の中にある公園のベンチで喋ってそれぞれ帰りました。

週の終わりは仕事で普段あまり行かないところへ。
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朝昼晩とご飯が提供される終日の寄り合いでしたが、見たいプログラムは昼だけだったのでお昼ご飯をいただいて中座しました。唐揚げ、焼き鮭、ひじき煮、たくあん、卵焼きという完璧に日本のスーパーの味がするお弁当。逆にどうやって出したのだ、この味。びびる。
本当はお抱えのシェフが腕を振るう夕飯の立食パーティーが魅力的だったんですけど、打ち合わせやら、来週月曜からの出張の準備やらで職場に出向くことにしました。まあ結果それでよかった。

* * *

また楽しそうなイベントに誘われていたのですが、出張日程の伸縮が読めず参加断念していました。結局行けば行けたことが判明したのは今週後半。残念。誘ってくれた人は「またの機会があるよ」と言っていましたがどうかな。とりあえず出張から帰ってきて遊ぶ予定が月末に一つ確保できました。それを楽しみに。

* * *

夏が完全に終わり、木曜の夜は肌寒いくらいになりました。最後の冬に向かいます。といっても本当に最後なのか?という疑問がよぎる今日この頃です。

来年はアメリカがビッグイベントの年で、早くも走り出す時期にさしかかっているようです。周囲の人たちはそのイベントが峠を越える2024年末ごろ、あるいは2025年までの任期延長が決まったか決まりそうな状態。

弊管理人とほぼ同時期にDCに来た人たちはかなり延長するのではないか。弊管理人はイベントにあまり関心がないし、後任が2024年後半になって来るといきなり全力疾走が求められて大変そうなので7月末には帰るつもりでいますが、いや7月末に来ても生活の立ち上げに2カ月かかったらどっちみち辛いのかも。しらんけど。
まあしかし、弊管理人の処遇を今から考えている人は誰もいないというのが最も有力。

* * *

何冊か本を読み終わって、メモを残しておこうと思っていたのにずるずると時間がたってしまいました。どれもすごくいい本でした。

◆エリカ・チェノウェス(小林綾子訳)『市民的抵抗』白水社、2023年。
抵抗運動(本書ではアウトカムの見やすさのため、体制変革という高い目標を掲げる運動に絞っている)が成功する条件に関するエビデンス集。よく組織され、持続性があり、広く支持される非暴力運動の成功率は結構高い。暴力的抵抗よりずっと高い。ただし権力側が利用できる監視技術の発展によって、近年は少々難しくなっているようでもある。なんでSEALDsがだめだったかとか、ハッシュタグ運動になんで見込みがないかが分かる気がする。

◆今井むつみ、秋田喜美『言語の本質』中央公論新社、2023年。
出発点としてのオノマトペ=記号接地、ブートストラッピングによる言語習得、そして創造・アブダクション。

◆坂牛卓『教養としての建築入門』中央公論新社、2023年。
建築の鑑賞/受注から完成まで(弊管理人は実務を全然知らないので、ここが新鮮だった)/社会と建築の相互作用。手軽でするする読める本だが、筆者の構成と図式化のうまさは飛び抜けていると思う。アメリカで教育を受けたからですかね。

2023年07月30日

川を流れる遊び

浮き輪に載って川を流れる遊び(Tubing=チュービングと読む)に行きました。土日で一泊二日。
アパラチア山脈の懐、DCからはまっすぐ西といったところ。最寄りの街はリュレーLuray。
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画像はGoogle Mapsからいただいて加工しています(以前はリンクしていたのですが、古くなるとリンクが切れたりして使いにくいので)。
シェナンドー川は拡大するとこう。くねくね。
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朝7時半くらいに、今回誘ってくれたDCの友達をピックアップして、去年行ったスカイライン・ドライブの入口の街フロント・ローヤルまで1時間ちょっと。スーパーで買い物してガソリン入れて集合場所までもう1時間というところです。わりと近い印象。東京から清里いくくらいかな。
キャンプ場併設のチュービング屋(?)に車を停めて、払い下げのスクールバスでスタート地点に向かいます。てかアメリカ生まれじゃなければスクールバスに乗る機会ないよな。すごい珍しい機会かも。ガソリン食いそうな音して走ってました。これを電化するっつって今の政権が言ってたけど、まじ大事だと思う。
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バス降りて浮き輪借りて出発です。クーラーボックスを持ってる人が結構いて、どうするのかなと思っていたら、輪の中心部にちゃんと底がついてる浮き輪もあるのでした。
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前の日に夕立的な雨が降ったようですが水量は思ったほどでもなく、水温高めだし流れは歩くより全然遅いしでゆったりです。
ロープでグループの浮き輪をゆるく連結して流れていくので、「ビールとって」とか「空き缶をゴミ袋に入れてちょうだい~」とか声を掛けてはモノがリレーされていきます。一度昼ご飯のために川べりに上陸して、また流れる。
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弊一団は20人!そういや何の人たちだっけ?と思ったらPeace Corps(アメリカ版の青年海外協力隊)の同窓会的なやつらしい。しかもメンバーの知り合いで、特にPeace Corpsとは関係ないテキサスの同郷友達グループみたいのが連結され、さらに弊管理人のように友達の友達ですみたいな人も混じっており、おおかたは「だいたいの人は知ってるけど初めての人もちらほら」というちょうどいい会でした。
で、やることはやはり、ソファみたいに座り、飲み、喋る、に尽きる。
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途中いくつか上陸ポイントがあって、そこで待ってるとスクールバスが拾って出発地点まで戻してくれるシステムです。17時が最終だからねと再三念押しされていましたが、この一団は全然時間を気にする気配がない。

弊管理人を含め、一部「やばいのでは?」と思って頑張って川底に足をつけて引っ張ろうとした人がいたが、他は飲んでて全く手伝う気配がない。さらに他のグループと浅瀬で飲み始めちゃう人もでた。このあたり奴隷制(働く人/遊ぶ人の截然とした区分)を経験した国だなっていう気がする。頑張った人は頑張るのをやめてただ浮き輪で流れ始める。弊管理人も「しーらない」というモードに入って、ただ浮いてるだけの人になりました。
最終地点に着いたのは18:30とか。

しかしバスは待っており、普通に帰れました。
そうなんだよ。この人たち置いて営業終了しちゃっても帰れないし、それ分かって置いてくのはダメだと思うし、浮き輪も回収できないし、流れが緩やかすぎて少し前にも2グループくらいかなり遅れたところが出たしで、待ってないはずがないんですよね。「だってしょうがないじゃん」が前提の商品設計。世の中みんながルーズなので、スタンダードはルーズになる。これはこれで一つのあり方。2,3人だったらどうなってたか分からないけど、20人だしね。

かんかん照りの中、6時間くらい水の上でわーきゃーやった後なのに、帰りのスクールバスではメンバーむっちゃテンション高くて全力で喋っており、あースクールバスに乗る子どももこんな感じなのかなと思うようなネイティブ同士のはしゃぎ方が見られてよかったです。閉鎖空間でこれやったらそりゃ疫病は広まるわ。
本場の「ファックユー・メーン!」が聞けてすごい高揚した、と友達に言ったら笑われました。

グループには日系人も1人いました。サカモトさん。日本語の単語も「チョット」くらいしか知らなくて、話すところ聞いてたら完全にアメリカ人。とっくり話してみたかったけど浮き輪が遠くてなかなか機会がありませんでした。しかしルーツではあるが祖国とは思ってなさそうな国からきた人(=弊管理人)と会うってどういう感じなのかね。この人は土曜の夜にDCに帰るというので、みんなとハグしたりして挨拶してましたが、弊管理人には「あっどうしたらいいんだ、お辞儀?」みたいに立ちすくんでしまい、弊管理人もなぜか立ちすくんでしまい、「じゃ……」みたいな感じで別れてしまいました。

シャワー浴びて弊管理人はだいぶぐったりしていたところ、一部の人はぱきぱき準備をして(しかしやはり準備係以外は働かない)夕飯です。
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キャンプのならいでゲームが始まりました。Never Have I Everやったことある?って聞かれましたがないよ!何それ。飲みゲーらしい。手を開いて差し出して/順番がきた人は自分がやったことがないことを言い/他の人はそれをやったことがあれば指を折りたたんで一杯/誰かが0になったら終わり。よく分からないので飛ばしてもらいました。
次に鳥の声まねを回り番でやるというのが始まり、これはなんか鳩のまねをしてしのぐなど。
そして怪談。青年海外協力隊なのでアフリカで手に入れた仮面にまつわる怖い話などがいかにもで、それやってるうちに眠くなってきたので寝ました。

朝。わりと寝られた。アマゾンで買ったキャンプ用マットは優秀。あと念のためにと持ってきた長ズボンも重宝。さすがに山なので夜半は寒かった。
帰りはDCに住んでる二人を乗せて計4人になったのですが、「これどうすん……?」というくらいの量の荷物を、弊管理人のちっちゃいレクサスの後部だけじゃなくて4人全員の足元やら後部座席の真ん中やらに置いて奇跡的に詰め込みおおせました。

わりとサクサク片付けて、「フロント・ローヤルのダイナーにいこう」というので20人で押しかけました。Our Hometown Dinerというところ。結構小さいお店なので若干並びました。
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テーブルは弊管理人の車の4人。シナモンロール4つに切ってもらって分けて、コーヒーがぶ飲みして、ビスケットのグレービーがけのモーニングを食べました。
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同じテーブルの4人は駆け出し弁護士、国際機関勤務、コンサルにて政府系の仕事、ということでキャッキャ遊んでたわりには堅いな!そしてキャッキャしてたと思ったら「少子化の日本が外国人に門戸を広く開く可能性についてどう思う?」と突然ぶっこまれた。油断ならない。

そんで1時間ちょっと走ってDCのいいとこのマンソンで2人を降ろし、最後に友達を降ろし、洗車して帰宅。大お洗濯大会、疲れのせいか頭痛がしたので薬を飲んだら軽快、残り物で夕飯にして今に至ります。

それにしても、酒を用意する人、メシを用意する人、アレンジする人、など分担していたようで、弊管理人は酒代の40ドルくらいと川流れの20数ドルくらいを負担しただけ。あとは友達とのテント折半と寝るためのマットとかで数十ドルの世界で、現地人はこういうことして楽しんでるんだなというのが分かった。げに重要なのはつながり。
アメリカ人ばっかの中に英語のおぼつかない日本人が混じってどうかと思ったけど、まあ海外経験ある人たちばかりなのもあってか抵抗はないようであった。友人からは「知らない人ばっかのところに行ってどうなるかなと思ってたけど、sweetって言われてたよ!」教えてくれましたが、sweetって「良い人」という意味もあるが辞書みると(especially of something or someone small) pleasant and attractiveとあるぞ?Kawaii……?
ともあれ、今回だけでも初めてのことがいろいろあって貴重な機会でした。

春先までの状況だったら、昨日今日もなんとなく出掛けて一人でぼそぼそメシ食って、今週食べるものの買い溜めをして終わっていたことでしょう。後半にさしかかって急にこんな事態になるとは予想していなかったが、ありがたいことです。

世界は所によりえらいことになっているが、浮き輪に載ってダラダラと酒を飲む人たちもいるという話でもあるが、まあね。

* * *

そういえばベライゾンは今回のキャンプサイトとか川流れの最中ずっと圏外で、結局丸一日、音信不通になってしまっていた。Tモバイルの携帯持ってた人は電波が入っていた。ベライゾンあかん……

* * *

で仕事はというと、(出身部じゃないところが)うっざ、というかもうなんかフェードアウトしたいのに(だめだが)追いかけてくるのやめて?みたいな状態。いくら評判落としても諦めてくれるならそのほうが全然いいやと思っていたら、「なので仕事させてみよう」みたいになりかねないの危険。

あと、先週は眼精疲労する仕事が多かった。目をいたわっていきたいです。

* * *

◆清水亮『教養としての生成AI』幻冬舎、2023年
役立ちそう度でいうと60点くらい。。

2023年07月03日

しちがつ

7月一発目は写真もなく箇条書き。
→【追記】部屋の写真足しました。

・カナダの山火事の煙が流れてきてDC界隈の空気質が最悪だったので在宅多めだった
・仕事はわりとしていた

・アメリカ人の友達の家に行って映画見てカウチでピザ食べた。すごいアメリカっぽい
・一緒に映画見ながら食べたり飲んだりしようと思ってスナックとワインを持っていったが結局消費せずに置いて帰ってきてしまった。翌日「スナックありがとう!」といって食べてる写真が送られてきた。ま、これはこれでいいか

・ハーマンミラーのAeronていう椅子がきた。
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新品を買うと$1200超するが、ebayでニューヨークの業者から新古品(Open box)を$500ちょいで買ってみたもの。評判のいい椅子ではあるが、そこまでかな?という気はする。しかし初日はさらに違和感があり、それから日が経つほどしっくりきつつあるので、ひょっとしたら馴染む必要のある製品なのかもしれない
・なにより何度も書くが、足元のフットレストが秀逸です。ほんと姿勢が楽になった
・ソファがないのに椅子が3つになってしまった。でもデスクチェアをわざわざ電ピのところへ持っていって弾くのは面倒といえば面倒だったので、これはこれでよし

・焦がしネギのそばつけ汁を研究しており、わりといい線いっているのではないかということでラーメンへの応用を図っている。ラーメンが好きなわけではないが、そばが続くとさすがにちょっと変化が欲しくなってくるため

・先週末に外仕事でめたくそに焼けた頭が脱皮期に入り、ゴミが落ちてくる

・日曜は珍しく夕方に昼寝。30分後に目覚ましをかけたが案の定2時間寝た。でも寝られそう

・Kindle Unlimitedおためしで2ヶ月間、99円/月。ラインナップはいまひとついけてないものの、正規の990円/月でも雑誌を2冊読めば元が取れるのはまあいいといえばいい。更新するかどうかは微妙だが

・なんとなく仕事の予定の混み方が緩和した感じがするんだけど、ひょっとして世の中、夏休みモードに入りつつある??

* * *

今週いろいろと勉強になった英語。アメリカ人の遊び友達ができたのがでかい。

・JK =Just Kidding。テキストでjk, jkと言われた。「冗談冗談」ということね。

・sleep in 「いつもより遅くまで寝る」の意。
I'll sleep in tomorrow.で「明日は寝坊するんだ~」

・play it by ear 「臨機応変に」。これは全く知らなかったし意味も推測できなかった。ググってやっと分かった。
Hmm, I think I might be a little busy during the day Saturday but closer to the evening should work. We can play it by ear :) うーん、土曜の日中はちょい忙しいんだけど夕方近くならいけると思う。ま、空気で。

* * *

◆町田健『チョムスキー入門』光文社、2006年。

仕事上の都合でちょっと。アンリミテッドで読めるので加入した次第(フルで本代払いたいわけでもない読書だということ)。大学生のころ言語学どうかなと思って覗いて、結局あまり興味が沸かなかったのを思い出した。

2023年06月20日

プラスクワス

◆ソール・クリプキ(黒崎宏訳)『ウィトゲンシュタインのパラドックス』筑摩書房、2022年

これね、本当は『哲学探究』を読んですぐアタックすべきだったのですが、怠けていました。なぜアメリカで読むことになったのかというと、気分?いや文庫で出たからか。なんでだっけ。

『探究』の「私的言語論」はそれまで言われていたように最後のほうで展開されていたのではなく、真ん中の138-242節で「規則に従うとはどういうことか」を扱いながら提示されたと読み(特に結論は202節に書いてある(p.16)のだという)、その部分をしつこく議論した本。原著は1982年。あまり前提知識を必要としない(実は)親切な本だが、込み入っていて根気が試されるということはあり、ミルクレープみたいにうっすい理解を重ねていくタイプの危うい弊管理人としてはまた読むとして、とりあえず、ほんととりあえず、のメモ。

そしてたまたまだが仕事でチョムスキーを扱うことになってしまい、「過去の有限の学習から得られた規則は将来の使用を決定できるか?」というウィトゲンシュタインの問題が、「限られた学習から無限の出力を可能にする言語の脳基盤って一体何だ?」という生成文法のお話にふんわり繋がる気がしつつ次の本に行くのでした。

* * *

この本によく出てくる足し算の例示を「プラス/クワス」問題と言っておく。
「+(プラス)」を使った問題で「68+57は?」と言われると普通は「125」と答えるだろうが、懐疑論者に言わせると、ある人は「5」と答える。その人は、「x+y」のx,yが57より小さいときはプラスでいいが、大きい時はx+yは常に「5」である、という「クワス」という法則に従っていたという。その人は最初から「+(アディション)」をクワス(クワディション)として使っていたと言い張る。これまではx,yが57より小さかったので違いが顕在化していなかっただけだと。

訳者解説によると、こう。

規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから(『探究』201節)=有限個の事例からそれに妥当する唯一つの規則を読み取ることは不可能である=「規則読み取りの非一意性」(p.378、訳者解説)
われわれは計算規則を有限個の事例で習っている。同じく計算規則を有限個の事例で習った(「訓練」された)人が、全く違う規則を読み取ることも可能である。そして、その違った規則を読み取った人が誤っているということも言えないはずだ。=いかなる規則も、我々とは異なった仕方で把握されることが可能なのである=「規則把握の非一意性」(p.380、訳者解説)
すると、私が把握した規則Rは、本当は規則Rではなく規則Sなのかもしれない=「規則把握に関する懐疑論」(p.384、訳者解説)→計算結果の正しさには根拠/正当化がないことになる。規則「2n」などといっても何も表現しておらず、単にその名目の下で各人が行う具体的な計算に示されている

これでは規則というものの根拠がなくなってしまう。どのようにも言い抜けられるから。こういう懐疑的パラドックスに対してどう応答できるか?

この本では、『探究』の構成を3分割してこんなふうに捉えます。第1のパートは、前にウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』を自分で否定する部分。「私はプラスに従っているつもりだ」という内面に訴える解決に意味がないことを言う。

「それゆえ私は『探究』に、以下のような大まかな構造を与えようと思う。(…)第1節から第137節まででウィトゲンシュタインは、『論考』の言語理論について、予備的な論駁を与、そして、それに代わるべきものとしての新しい言語像を、大まかに描いている。…比較的明らかでないのは、第二の側面である。第二。懐疑的パラドックスは、『探究』の根本問題である。そしてもしウィトゲンシュタインが正しいならば、有意味な平叙文は事実に対応していなくてはならないのだ、という自然な前提に囚われている限り、我々はそのパラドックスを解く手掛は得られないのである。…意味している、とか、意図している、とかを誰かに認める命題は、それ自体無意味である、という結論――懐疑的パラドックスの結論――を導かざるを得ないから。」(pp.192-193)

こういう言い方もある。

「ウィトゲンシュタインにとって重要な問題は、私の現在の心の状態は、未来において私がなすべき事を決定するとは思われない、という事である。たとえ私は(今)、「プラス」という語に対応して頭の中にある或るものが、未来における如何なる新しい二つの数に対しても、ある一定の答えを与えるのだ、と感じているとしても、事実は、私の頭の中にある何ものも、そのような事はしないのである。」(p.143)

次がキモになる第2のパート。

「『探究』の第138節から第242節までにおいてウィトゲンシュタインは、懐疑的問題とそれの解決を取り扱っている。これらの諸節――『探究』の中心をなしている諸節――が、この本での主要な関心事であったのである。…ウィトゲンシュタインは、或る人が「これこれの事を意味している」とか、或る人の今の或る語の適用は彼が過去において「意味していた」事と「一致」している、とかいう言明を、或る条件の下で許す「言語ゲーム」の、我々の生活における有用な役割を見出しているのである。そして、結局、その役割とか、そのような条件とかは、共同体への言及を含むことになるのである。したがってそのような言明は、その人だけ孤立して考えられた一人の人間には、適用できない。かくして、既に述べたように、ウィトゲンシュタインは「私的言語」を第202節の段階で拒否しているのである。」(pp.195-196)

共同体がプレイする「言語ゲーム」による説明。
こういう説明も。

「アディションの概念をマスターしたと認められる人は、誰であれ、十分多くの問題――特に簡単な問題――において、彼が与えた個々の答えが共同体が与える答えと一致した時、(そして一致しないとしても、もし、彼の「間違った」答えが、「68+57」に対して「5」を与えるような、突飛な間違いではなく、たとえ「計算間違い」をしたとしても、我々と同じやり方をしていると思われた時、)その時はじめて共同体によって、アディションの概念をマスターしたと判断されるのである。そしてそのようなテストに合格した人は、アディションが出来る人としてその共同体に受け入れられ、また、その他の十分多くの場合において同様なテストに合格した人は、言語の一般水準の使い手として、かつ、その共同体の一員として、受け入れられるのである。違った答えを出す人は、訂正され、そして、(通常は子どもについてであるが)アディションの概念を把握していない、と言われる。もっとも、非常に多くの点において訂正不可能なほど共同体からずれている人は、その共同体の生活に、そしてその共同体におけるコミュニケーションに、参加することが出来ないことになるだけである。」(p.226)

まとめた部分もある。

私的言語論の要約(pp.262-263)
(1)我々の言語は、「痛み」「プラス」「赤」といった概念を著し、それを一度把握するとそれから先の全ての適用が決まると考えがちだ。しかし本当は、ある時に心の中にあるものが何であろうと、それを私が今後、別様に解釈することは自由である(「プラス」を「クワス」と解釈することはできてしまう)。これは未来は過去によって決定されるということに対するヒュームの懐疑と類似している
(2)パラドックスは、ヒュームの懐疑的解決によってのみ解決されうる。それは(i)彼はある与えられた規則に従っているという定言的言明と(ii)『もし彼がしかじかの規則に従っているならば、彼はこの場合かくかくの行動をせねばならない』という仮言的言明――これらが話の中にどうにゅうされる状況と、生活の中で果たす役割、有用性を見ないといけない
(3)個人の傾性は、その人が全く規則に従っていなくても、あるいは間違ったことをしていても確信を伴って存在できてしまう。ので、個人を共同体から分離して考察するのは適切ではない。(ii)の正当性が言えなくなる
(4)個人が共同体の中にいることを考慮に入れると、(i)(ii)の役割が明確になる
(5)(4)で述べたことがうまくいくというのは、生(なま)の経験的事実に基づく。(1)の懐疑論を踏まえると「私たちはみな同じ概念を共有している」からうまくいく、という説明ができなくなってしまうため
(6)ウィトゲンシュタインは、規則に従っている個人について語ることは全て、共同体の一員としての個人について語ることであることを示した、と思っている

この点ヒュームに明らかに似ているという指摘。

「…ウィトゲンシュタインもヒュームも、過去と未来を結ぶある種の結合に関する疑いに基づいて、ある懐疑的パラドックスを展開しているのである。ウィトゲンシュタインは、過去において「意図していたこと」あるいは「意味していたこと」と現在の実践の間の結合を、問題にしている。例えば、「プラス」に関して過去において私が「意図していたこと」と「68+57=125」という計算についての私の現在の計算の間の結合を、である。ヒュームは、相互に関連している他の二つの結合を、問題にしている。一つは因果的結合であり、それによって過去の事象は未来の事象を必然的なものにすると言われている。他の一つは、過去から未来への帰納的、推論的結合である。」(p.158)

訳者の説明はこういうことかな。

このパラドックスの解決は、「確かに論理的にはそうだが、現実の生活では無意味だ」と示すことであった。規則が行為の仕方を決定できないことをそのまま認めてしまっても現実的には不都合はない=「懐疑的解決」(p.391、訳者解説)。単にみんなの答えが一致するということ(一致が正しさの根拠だという共同体説と混同しないこと。各人がそれぞれ信念に従ってした計算の結果、みんなが結果的に一致する)=ヒューム懐疑論(必然的結合→恒常的連接)を論理や数学にまで徹底した人としてのウィトゲンシュタイン。事象の説明は不可能になり、ただ記述と予測のみになる。

もう一つ訳者解説。

私的言語は他人に理解することが論理的にできない言語(『探究』243節)としている。これは「規則の私的モデルprivate model」ともいえ、ウィトゲンシュタインはこれを否定する。私的モデルは、ある人が与えられた規則に従っているということは、その従っている人に関する事実によってのみ分析されるべきという考え方である。これを否定するのが、その人が共同体の一員であるということだ。もし我々が、ある島で人々と離れて暮らしているロビンソン・クルーソーが規則に従っているというなら、我々はクルーソーを我々の共同体に迎え入れ、我々の基準を適用しているということ。彼がある規則に従っているといい得るのは、我々の共同体の各成員に適用される規則に従っていると認められた時であって、それを言うのは共同体である。ただし、「プラス」で意味する関数の値は、言語共同体の誰もが答えとするであろう値だ、という真理条件の理論のことではない。(p.269)
68+57の答えは、共同体の成員のほとんどが125と答えるときだ、ということではない。自動的に計算し、共同体ははずれた計算を正すことができ、はずれは実際はまれだということ=言明可能性条件の理論。

ちょっと脇だが、「傾性」に訴える解決を封じておく。

傾性論的解決=もし「68+57」の「+」がアディション(あの!足し算)を意味するなら、私は125と答えるだろう、という記述的な解決。しかし問題は記述ではなく規範(125と答えるべき)である。で、これはそもそもの「5」ではなく「125」と答えることに何の正当性もないのではないかという懐疑論への解決として的外れである(「べきである」根拠を示せてない?)(pp.96-97)

第3のパートは追加説明といってもいいのだろうか。

「『探究』の第243節に続く諸節――「私的言語論」と一般に呼ばれている諸節――は、第138節から第242節の諸節において引き出された、言語に関する一般的結論を、感覚の問題に適用する事を扱っている。」(p.196)こういう言語ゲーム論にそぐわないように見えるのが(1)数学と(2)感覚、あるいは心的イメージなので、これは反例にならないということを説得しようとしたと思われる。(2)感覚や心的イメージはこの節で扱い、(1)数学は『数学の基礎に関する考察』などで扱っている。

ところで、私的言語と内面のことで書かれた注釈がちょっと面白かったので抜き出しておきます。

「…『探究』の前の方ではウィトゲンシュタインは、意味している、とか、理解している、という事を、内的にして質的な状態であると考える伝統的な見方を、排斥している。しかし後には彼は、リースが言うように、それでは、古典的な見方をあまりにも機械的な見方によって置き換えてしまう、という危険を冒しているのではないか、という事に悩まされていたように見える。もっとも彼はたしかに依然として、ある質的経験が、ある意味を持って語を使用するという事を構成しているのである、という如何なる考えをも排斥しているが。しからば、我々と全く同様に語を操る「意味盲」の人はあり得るのか。そして、もしあり得るとすれば、我々は、彼は我々と同様に言語をマスターしている、と言うであろうあ。この第二の問題に対するこの本の本文で与えられている表向きの答えは「イエス」である。しかしおそらく、ほんとの答えは、『君が当該の事柄について色々と知っている以上、一体その外に何を欲しているのか、言ってくれ』というものであろう。この問題がウィトゲンシュタインにおいて完全に解消されたか否かは、明らかでない。」(pp.123-124)

生成AIの時代に「分かる」って何だろうねという問題、AIをロボットにつなげて感覚入力をすると何が起きるのかねという問題につながる気がする。これはまた。

2023年04月30日

寒い、肉、本

30度を超えたのはいつだったか週後半は肌寒く、日曜は最高17度、最低8度と出た。で雨。朝、目が覚めて雨の音がしてると安らぐほうです。

木曜、金曜と朝8時出勤、土曜は8時~24時40分勤務で早起きになり、日曜も当然のように8時前に目が覚め、cafe kindredという車で10数分のところに朝飯食べに行ってきました。
フレンチトーストとコーヒー。
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チップ込みで21ドル。別に高くない設定だと思うけど、日本円に直してはいけない。あと自炊だとだいたい週40ドルで収まるので、いかに人件費が高いかをあらためて痛感します。

してその効用は、手抜きしてがっつり食えるということが全て(味はだいたいどこも一緒)というのが現実。朝飯の探求もそろそろ終わりかもしれません。

* * *

瞬きしている間に週末、ではあるものの、週の前半を振り返ると遠い。
DC東側、黒い地域に食い込む開発の最前線。まだあまり入居してない真新しいアパートと、古い長屋の通りが隣り合うユニオンマーケット近くの、St.Anselmというお店です。
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同行者によると、農業団体が「結局DCの肉はここで決まり」と推していたとのことでわくわく。牛と羊を一皿ずつ頼み、あとはサイドで芽キャベツとポテト。
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正統派ド直球の牛ステーキもすごいが、ネギ塩?みたいな羊の「食べたことないけどすごくおいしい何か」感にやられた。アメリカのメシはまずいというのは旅人にとってはそうかもしれないが、住みながらディープダイブすれば、べらぼうな金額を出さなくてもうまいものは見つかるということ。

* * *

このところいい本に当たっていたし、それぞれ再訪する可能性はあるからポイントをまとめておきたいと思っていたけれども、時間がなく、あるいは無精のため付箋を付けたままここまで来てしまったので記して供養。

◆坪野吉孝『疫学―新型コロナ論文で学ぶ基礎と応用』勁草書房、2021年。
年始に新宿の紀伊國屋で仕入れた。臨床試験の論文は読んでると一定読めるようにはなるものの、プロがどこに感銘を受けるかというのは分からない。某疫病に臨んで業界が編み出した超スピード開発の手法がどんなものかも垣間見せてくれるいい本。もう1年早く出会っていてもよかったと思うが電子書籍になってないので仕方なし。そのうち再びざっと読みすべき。

◆杉山昌広『気候を操作する―温暖化対策の危険な「最終手段」』KADOKAWA、2021年。
温室効果ガス削減の2030年目標は達成不能なので、そろそろみんなCO2除去やら放射改変やらに(心理的な)逃げ道を本格的に求め始める時期だろうなと思って勉強。これはのちのち参照することが多そうなので、検索できる電子書籍で買ってよかった。

◆平野千果子『人種主義の歴史』岩波書店、2022年。
新書とはいえ人種主義で1冊もつのかしらと思って手に取った(これも新宿紀伊國屋で入手)ら、中身はほぼ「差別の近現代史」であった。世界が一つになっていく時代の包摂と排除の見取り図を、さまざまな地域・時代に飛びながら編み上げていく極めて濃厚な本。そこまで気にしてはいなかったが、なぜ白人を「コーカソイド」というのかとか、なぜナチが「アーリア人」にこだわったのかとかを遠い昔不思議に思った覚えがある。その辺の疑問が次々と解決されていった。これも頭に定着させるにはもう一回ざっと読みが必要。

* * *

SNSでときどき盛り上がる性格診断、そんなに乗るほうではないのだけど、ふと見かけた16Personalitiesというのをやってみました。

「性格特性の多くが相互に否定している」つまり内向的なのに社交的で、計画的だが変更を受け入れ、道理を重んじるわりに分析的、細部にこだわるが予定通りに作業が終わるとか、まあそういう感じ。

「そういう性格の類型がすでに同定されている」ということがポイント。非一貫性とか矛盾として問題化してもいいが、「どこをとってもアンビバレントという点で一貫している」というまとめ方もできるわけです。前者は若い理想、後者は老いの諦念――あるいは解決しない問題を解決しないまま消化/昇華する技法――ともいえる。

メタに立ってみれば「内向的なのに社交的に見えるのは、内面を他人に侵されないために一定の距離を取ったところで社交をこなす技術に長けているためである」という具合に共通の地面を見つけることはできるのだけど、階層を上がると実用性は落ちるものでもあり、必要な時にだけやればよろしい。たぶん。

* * *

日本は大型連休か。なんかみんな楽しそうね。
当地へは単身赴任で、今月頭に子どもの卒業式のため一時帰国した他社の人が「もう家庭に自分の居場所がないことが分かった」と言ってました。離婚はしないかもだが、もう離任まで帰ることはないだろうとかなんとか。

滞在20カ月目に入りました。
あと15カ月(※2024年7月に帰っていいとは誰も言っていない)。

2023年01月29日

1月下旬振り返り

月曜は某所で新年会的な集まり。日本人こんなにいたの?というくらい日本人がいっぱいいました。つまむものも出て、久しぶりに天むすや、鮭の西京焼きなどをいただきました。
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知り合い何人かに会いましたが、みな「知らない人ばかりだ……」と言いながら途方に暮れていましたとさ。

今週の平日は上記の月曜昼と、早出だった水曜の朝と昼以外、外食をしませんでした。
これはいつだっけ。いただきものの九州ラーメン。
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おいしかった。

金曜午後も日本関係の新年会があり、お寿司や日本酒が振る舞われていましたが、なんか人が多いわりに新しい知り合いができるようでもなかったので、早々に退散しました。やっぱり誰かに引き合わせてもらうのが一番いい気がする。そもそもそんなに日本人と幅広く知り合いになる必要もあるんだろうかとか。

土曜はいい天気でしたが、起きるのが11時を過ぎたので、買い物のみの外出でした。
韓国スーパー、Hマートの、いつも行くところよりちょっと遠いが大きなフェアファックス店。
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野菜、いろいろ種類があるんですけど、同じキャベツでも丸いグリーン(手前)と平べったいホワイト(奥)があって、アメリカ資本のスーパーにも置いてるグリーンはちょっと硬い。ホワイトが日本でおなじみのキャベツです。炒めるとしなっとなるやつ。ネギも韓国ネギと日本ネギがあったりします。しかしこういうアジアの野菜を作ってるところがちゃんとあるんですね。助かる。
帰ってきてジムで運動してから、かけそばとカレーで夕飯。ちょっと食べ過ぎたかも。
そのあとアメリカの確定申告の作業をしました。初めてだった去年はかなり面倒でしたが、今年は去年のデータが入力されたエクセルのシートを更新する作業だったのでかなり負担が軽減され、夜のうちにすっと終わりました。よいよい。

日曜はちょっとこのところ再訪したかったNorthside29へ行って朝飯。
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あいかわらずパンケーキがでかい。コンビーフハッシュもいいね。
コーヒーおかわりしながら食べました。地元や近隣の人たちが多いと思われ、とても賑わっていました。
雨の予報どおりに降ってました。
帰り道はターゲットというデパートに寄って机の上の整理用品と、なまくらで辟易していた台所のはさみの新しいやつ、あとはメモ用紙とほうれん草を買ってさっさと帰宅。あとはいろいろ作業しながら過ごしました。

この週末はゆったり過ごせてよかったです。

* * *

週が明けると2月です。
まだ「今年やること」を考えつつ、少しずつアレンジなどしています。

* * *

◆中屋敷均『遺伝子とは何か?』講談社、2022年。

2023年01月09日

宇宙、経済、政治

◆寺薗淳也『2025年、人類が再び月に降り立つ日』祥伝社、2022年。

タイトル見て、アルテミスの解説本かー、そんじゃおさらいだけ……と思って買ったら全然違った。夢で終わらない、宇宙開発の文脈を知るには最高だと思う。専門性と同時代性と読みやすさと分量、という新書の存在意義を全部詰め込んだような本でした。

以下は自分用メモ。

【アルテミス計画】

◆アルテミス計画
・アルテミス=ギリシャ神話「オリュンポス12神」の1柱、アポロンと双子
・L-39Bはアポロ時代から使われている
・オリオン:4人搭乗可能(アポロは3人)
・SLS:アルテミス1では1段(推進装置がコアステージのみ)。将来、火星以遠に探査機を送る際は2段式を使う計画
・アルテミスが遅れる要因:アポロは国家予算が無尽蔵につぎ込まれた/50年という時間的断絶(cf.ソ連、1970年代まで高い宇宙開発技術、1980年代の経済的混乱からソ連崩壊にかけて技術者流出、2000年代には入りたてと引退直前だけで中間がいない状態、ロケット技術の衰退につながった←NASAでも米宇宙政策の不安定さや民間の待遇のよさにより人材流出)

◆経緯
・アポロ以降、月には消極的
・1990s 月探査機クレメンタイン、ルナープロスペクターにより極域に水の可能性判明
・21c 子ブッシュが有人月探査コンステレーション打ち出し
   ロケットと宇宙船新開発する計画だったが予算と期間超過でオバマが中止
・2007 嫦娥1号 ~以降5回にわたり月着陸成功
・オバマは小惑星に人類を送るARM, Asteroid Redirect Mission
   月上空ステーション「深宇宙ゲートウェイ」建設、探査基地にする構想登場
   →計画に無理、進まずトランプが2017年中止
   *ゲートウェイはアルテミスに残ったが2022ごろの建設開始が遅れ中
・2017 アルテミス計画を承認する宇宙政策指令書にトランプが署名
   *共和党政権はこの30年ほど月に好意的。民主党は宇宙に不熱心
   *アルテミス打ち出し当初はアメリカファーストで米1国の計画
   *アルテミス3は2024年予定。トランプが2期目のレガシーにしようとした
   *嫦娥(2007-)を成功させる中国の有人探査に対抗も
・2019.5 トランプ来日時に安倍がアルテミス参加表明
   *トップが宇宙計画決定するのは日本では異例
 2019.10 日本政府方針として計画参加を正式決定
 2019.10.18 安倍ツイート「強い絆で結ばれた同盟国として参画」
   ~ゲートウェイで水循環装置など生命維持システム提供、
    物資輸送、有人与圧ローバー、アルテミスのため13年ぶりに飛行士募集
   *岸田の経済安保の柱の一つが宇宙開発。経済発展のためのアルテミスも
   *課題は費用負担のあり方=計数千億円?
    cf.JAXA当初予算は年1500億程度。2022年度はアルテミス関係予算400億
     宇宙関係予算は21年度以降増加、22年度は当初3900億+補正1300億
・2020.10 アルテミス合意(計画参加の遵守事項)に最初の8カ国が署名
   *対中ロ。欧州の署名は対ロの意味も

◆月探査機
・エクレウス:EML2=地球と月から受ける重力がバランスし、人工衛星などが少ないエネルギーで長期間留まることができる。将来、惑星探査機を打ち上げる拠点として好適。エクレウスはEML2の環境調査と制御技術の検証。EML2は軌道運動の感度がよい=わずかな制御で惑星間軌道、地球周回軌道、月周回軌道などへ移れるが、逆に制御を間違うとどこかへ行ってしまう
・オモテナシ:これまでも周回機「ひてん」「かぐや」を制御落下させていたが、壊れずに月面に届ければ日本初
・YAOKI:CLPS(NASAが民間の月輸送船=ULAのバルカン=を借りて月に物資を運ぶプログラム)。月着陸にはアストロボティックのペレグリンを使用
・HAKUTO-R:ミッション1はJAXAの変形二軸ローバー、UAEの4輪ローバーなどを搭載した着陸機。ミッション2(2024)はispace独自ローバー
・SLIM:小型月着陸実証機。ISASや大学研究者ら。従来は目標地点から誤差数キロでの着陸。SLIMは100m以内。搭載カメラの画像から自律判断で着陸。月「神酒の海」の中のSHIOLI(シオリ)クレーター近く。内部地層を調べる科学調査もミッション。2段階着陸方式=最初から転んで着地する。小型ローバーLEVも2台搭載

【世界の宇宙探査の歴史】

・1957.10.4 ソ連、人工衛星スプートニク1号を初めて地球周回軌道に
  ←冷戦下、米ソが核爆弾輸送のロケット開発とデモとしての宇宙開発に注力
・1958.1.31 米、人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ
  →以降失敗続き、研究体制の再編
 1958.7 アイゼンハワーが国家航空宇宙決議署名、NASA設立
  米航空諮問委(NACA,1915-)の研究所や軍関係の研究組織を糾合、
  12月にはCaltechのJPLも指揮下に
・1958.8 米、月探査機パイオニア0号はロケット爆発で失敗
  (月通過成功は1959.3の3号)
・1959.1 ルナ1号が月を通過
   9月、ルナ2号が月面衝突成功
   10月、ルナ3号が月の裏側撮影成功
・1961.4.12 ソ連、ガガーリンがボストーク1号で地球軌道周回
・1961.5.5 米、シェパードがマーキュリー3号で米初の宇宙飛行
  ←有人宇宙探査マーキュリー計画の一環。続いてジェミニ計画へ
  *無人月探査も
   月面撮影、最後は探査機が月面突入するレインジャー計画
   月面軟着陸し表面の様子を観察するサーベイヤー計画
   月周回しながら表面の様子を調べるルナーオービター計画
 1961.5.25 ケネディが上下両院合同議会で演説「今後10年以内に人類を月着陸」
  →アポロ計画
・1966 ソ連、コロリョフ急死
 1969 N-1ロケット打ち上げ失敗、ソ連の有人月探査計画は頓挫
 (これらの情報はソ連崩壊まで隠蔽、米には状況がわからなかった)
・1967.1 アポロ1号事故
 1968.10 アポロ7号の有人飛行成功(地球周回)
 1968.12 アポロ8号の有人月周回飛行
 1969.7.20 アポロ11号イーグルで月面着陸、石22kgを初のサンプルリターン
 1971.7 アポロ15号で有人ローバー使用
・1970.9 ソ連、ルナ16号で月面着陸、土壌101gをリターン
 1970.11 ルナ17号で無人ローバー「ルノホート1号」で月面調査

・アポロは有人月探査が達成、ベトナム戦争もあり多額の費用に議論
 1970.4 アポロ13号で爆発事故、月周回で地球帰還→危険に対する議論も
 1970.8 20号までの予定だったアポロは17号で打ち切り決定
 1972.12 アポロ17号
 1975.7 アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキング←デタント

・アポロ後の米国の宇宙開発
 (1)1970s~ 再使用型往還機スペースシャトル計画
   *外部燃料タンクと固体ロケットブースターは使い捨て
 (2)月以遠、火星、木星、土星探査
  1972 パイオニア10号、木星接近撮影
  1975 バイキング1号、2号が相次ぎ火星着陸、生命の徴候なく火星は下火に
  1977 ボイジャー1号、2号
  1979 パイオニア11号、土星接近

・ソ連
 1970 ベネラ7号の金星表面軟着陸
 1975 ベネラ9号が金星表面撮影
 1986 宇宙ステーション・ミール打ち上げ
  1990 秋山さん滞在

・デタント崩壊以降
 1979 アフガン侵攻
 1981 スペースシャトル・コロンビア号打ち上げ成功=意外と高価だった
 1984 レーガン、宇宙ステーション・フリーダム計画=自由主義陣営の団結象徴
  レーガンはICBMを軍事衛星で打ち落とすスターウォーズ計画も立ち上げ
  →進まなかったが、衛星大量配備のための小型・軽量化技術が誕生
 1986 チャレンジャー事故、安全性への疑問と対策への巨費投入
  ~米宇宙開発の迷走

・1991 ソ連崩壊、米一人勝ちへ、Faster-Better-Cheaperの時代
 1993 クリントン、フリーダム計画にロシアを加える決断→ISS計画へ
 1994 月探査機クレメンタイン(SDIから出てきた部品を使用した軽量小型探査機)
  →月全球のデジタル撮影、地質・地形データ取得。極域の氷存在を示唆
  →アルテミスへ続くブームの号砲
 1996 マーズ・パスファインダー、バイキング1、2号以来21年ぶり火星着陸
 1998 月探査機ルナープロスペクター打ち上げ
  →月極域の永久影に約60億tの氷か

・2000年代
 1999 中国、建国50周年で神舟1号(無人)
 2000 ブルーオリジン設立
 2001 米、2001マーズ・オデッセイ
 2002 スペースX設立
 2003 神舟3号で有人宇宙飛行成功(ソ連、米に次ぎ3カ国目)
 2003 コロンビア号事故→重厚長大は時代遅れ論
 2003 ESAの月探査機スマート1
 2003 ESA、マーズ・エクスプレス
 2003 米、マーズ・エクスプロレーション・ローバー
 2004 ブッシュのVSE, Vision for Space Exploration
  →2010年シャトル退役、カプセル型宇宙船オリオン、大型ロケット・アレスへ
  →シャトル依存から計画は遅れ
 2005 米、マーズ・リコネサンス・オービター
 2007 米、フェニックス(火星)
 2007 日本、月探査機かぐや
 2007 中国、嫦娥1号(嫦娥は古代中国の神話に登場する月の女神)
 2008 インド、月探査機チャンドラヤーン1(チャンドラ=月、ヤーン=乗り物)

・2010年代
 2011 シャトル引退
 2011 ロシアの火星探査機フォボス・グルントに中国の蛍火1号も相乗り(失敗)
  ロシアは10年代に欧州接近
  仏領ギアナのソユーズ打ち上げ計画、エクソマーズはウクライナ侵攻で頓挫
 2014 インド、マンガルヤーンを火星周回軌道投入(アジア初の火星探査機)
 2019 チャンドラヤーン2、月周回機は投入、着陸機は失敗
 2023? インド独自の有人宇宙船開発
 2024~ 日印で月極域探査LUPEX
  *インドは初期にはロシアから技術導入、現在は独立か

【日本の宇宙開発】

◆特徴
・日本は軍事と結びついていない
 *2020 自衛隊に宇宙作戦隊新編。情報収集衛星(=偵察衛星)もあるが
・少ない予算で幅広く宇宙開発している
 *JAXAの予算はNASAのざっくり1/10
 *打ち上げ機会が少ないので機能詰め込みになり、月着陸はSLIMまで30年かかった
  ←→中国、インド、米小規模ミッションなどは3-4年で打ち上げ
・政府需要が多い

◆歴史
・WWII前から兵器としてのロケット開発は実施
 →敗戦、1952.4の講和条約発効後に航空技術開発ができるように

・固体燃料ロケットの流れ
 *燃料と酸化剤を一緒に固めた固体燃料(推進剤)の燃焼で飛行
  構造が簡単で低コスト。点火すると同じ強さで燃え続けるので推力調節が困難
  M-Vやイプシロンなどがこのタイプ
 1954.2 糸川が東大生産研に航空技術研究班
  →ペンシルロケット、ベビーロケット
 1958.9 K-6で高度50km、上層大気観測。1960にはK-8で200kmへ
 1960.2.11 L-4Sで初の人工衛星おおすみ(-2003)
 1985 M-3SIIで「さきがけ」「すいせい」でハレー艦隊に参加
 1997.2.12 M-V1号機打ち上げ、翌年の3号機で火星探査機「のぞみ」
 2002.2 M-V4号機のX線観測衛星打ち上げ失敗

・米からの技術導入による液体燃料ロケットの流れ
 *液体燃料と液体酸化剤が別のタンクで、燃焼室で混ぜて燃やす
  点火後に消したり再点火したりできるので推力の調整がしやすい
  構造が複雑で製作が難しい、コストも高い
  H-IIA、H3が液体ロケット
 1969.10 NASDA設立
 1975 N-Iで技術試験衛星「きく」打ち上げ
 1981 N-IIで「きく3号」打ち上げ
 1986 H-Iシリーズ打ち上げ開始
 1994 H-II1号機打ち上げ(←エンジン開発難航)=純国産大型液体ロケット実現
 1999 H-II8号機は気象衛星打ち上げで指令破壊、シリーズ打ち切り

・JAXAへ
 2003.10.1 宇宙研、NASDA、NAL(科技庁・航空宇宙技術研)統合でJAXA
 2003.11 H-IIA6号機指令破壊
 2009 きぼう完成
 2011-2020 こうのとり

・政策
 2008 制定。研究者主体から国主導の技術開発、産業化へ
  内閣府に宇宙開発戦略本部設置、担当大臣も
  法では国民生活向上のための宇宙開発、産業振興、国際協力や外交を明記
 宇宙基本計画を5年ごと策定、安全保障寄りに
 2015年版では宇宙安全保障の確保、宇宙協力を通じた日米同盟等の強化うたう
  *背景に1998テポドン・ショック→情報収集衛星
 2022.3 空自宇宙作戦群=デブリや他国の人工衛星監視

【民間主体へ】

・NASA、2006年からCOTS(Commercial Orbital Transportation Services)
 →スペースX選定。シャトルの失敗踏まえた事業。開発長期化と保守的設計の打破
 *冷戦終結で軍事の国家独占から民間による活用で経済効果へシフト
・Virgin GalacticのSpaceShipTwo
・衛星写真ビジネス:Maxar、PlanetLabs
・通信:スターリンク、プロジェクト・カイパー(ブルーオリジン)
・日本:ispace(月への物資輸送サービス)、インターステラテクノロジズ、大樹町、ヴァージン・オービットによる大分空港「宇宙港」化、アストロスケールの宇宙ごみ掃除、流れ星のエール、PDエアロスペース(名古屋)のPDEによる有人宇宙船、スペースウォーカーの宇宙旅行用宇宙船、スペースBD
・民間宇宙旅行

【宇宙資源】

◆使い方
 (1)現地で使用
  現在の想定はこちらが主。輸送コストが高いため
  月の水資源(クレメンタイン、ルナープロスペクター以降)=極域に氷として
   ・自転軸の傾きが小さいため、南北の極はほぼ横から太陽が当たる
    →クレーター縁のリムが遮って永久影を形成、-200度以下の低温に
     リムは逆に「永遠の昼」。そこで太陽光発電→氷溶かす。活動拠点にも
   ・存在の直接確認:NASAがVIPER計画(2024.11)、日印LUPEX(2024fy-)
   飲料、電気分解して酸素と水素にしてロケット燃料へ
   *H2Oではなくヒドロキシ基-OHの発見のことを指す場合も
    →結合した岩石を熱して取り出すことはできるが面倒
  月のレゴリス(セメント材料の灰長石、鉄など)

 (2)地球に持ち帰って使用
  レアメタル(プラチナ、パラジウム)は持ち帰ってもペイするかも
  地球上でのレアメタルの遍在、地政学リスクも背景
  地球はいったん溶けたため重い金属が中心に落ちているが、小惑星は表層に?
   ←はや2、リュウグウが資源的隕石に似ていることから可能性あり(cf.M型)
  オバマ政権のARMを背景にベンチャーも
   2010-2018 Planetary Resources, Inc. 小惑星観測、探査機送って採掘
   2013-2019 Deep Space Industries 同

◆誰のものか
 宇宙条約(1967)2条→宇宙は国家のものではない。民間については規定なし
 2015 米宇宙法改定→米企業が採掘した資源は企業に所有権と規定
    *公海(どこの国のものでもないが、魚は釣った人のもの)を援用
    ルクセンブルクも同様の規定。UAEも所有認める法制
 2021 日本・宇宙資源法。5条で日本企業が採掘した宇宙資源はその企業のもの
 →月は早い者勝ちでいいのか?使いまくっていいのか?は問題として残る

【これから】

・費用負担、合意形成のあり方
 ISSはこうのとり打ち上げなどで年400億円、累計1兆2000億(試算)
 リターンは? cf.河野行革のレビュー2015
 ロシア離脱したら?
・超大国のデモンストレーションから経済へ
 モルガン・スタンレー2020予測では2040年の宇宙産業は3倍、1兆ドルに
・軍事
 キラー衛星、弾道ミサイル発射を探知する早期警戒衛星
 2015宇宙基本計画「宇宙安全保障の確保」、防衛省の参画
 2022.7 JAXAの極超音速飛行想定スクラムジェット燃焼試験ロケットS-520-RD1
   ←防衛装備庁の委託研究が糸川宇宙研直系のロケットに
・宇宙ビジネスバブル?
 米2022.4-6でスタートアップ投資が前年同期比-22%
・独自の有人宇宙船
・宇宙利用=COPUOSでの議論。持続可能な利用、デブリ、資源探査・利用

2022年12月26日

クリスなだれこむ末

モントリオール出張を1日短縮した影響でいろんな後始末をすることになり、エアカナダにイライラしたり、ユナイテッドと交渉してちょっとあちらがかわいそうになるくらいの処理をしてもらったり、ヒルトン(日本だと高級なイメージだがアメリカでは東急くらいなので出張によく使うのです)にはらはらさせられたりしつつ、最低限の落ち着きはしました。

てなことをやっている間にDCの気温はどんどん下がっていき、氷点下12度までいきました。ニューヨークは運転禁止、中西部はこんなもんじゃない低温になっていたようです。

で、24日は先日の感謝祭で七面鳥にお招きいただいた人たちにまた誘ってもらってクリパ。
プライムリブ。すげえ。
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次の日に一時帰国するので、早めの21時くらいにおいとましようと思っていたら、プレゼント交換のイベントが22時から始まり、ちょい遅くなりました。日本人と配偶者のアメリカ人で計14人。最後のほうは酔っ払いの理系おじさんらがけっこううざくなっており、ホストの家なのにコップひっくり返して氷を拾わなかったり、ゲームのパーツを汚したまま組み立てたりしていたので、騒ぎに紛れて「拭けや!」と注意しました。白髪頭にもなって大学1年みたいな飲み方すんなよ。
結局24時前に辞し、25時ごろ帰宅して洗濯、もろもろ準備して、4時間余りの睡眠で出発。

DCのメトロが11月、中心部から50kmくらい離れたダレス空港まで延伸したので、それ使ってみました。
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ウーバーだと6000円くらいかかるところ、土日の均一料金2ドルで済んでしまった。ちょっと時間はかかるので出張で使うかというと使わないけど、私用ならまあね。

ところでクリパで都市計画をやっている人から聞いたところだと、鉄道駅ができると土地の価値が上がって喜ばれる日本と違って、アメリカはバスや鉄道の路線が拡張されると低所得の人たちがコミュニティに運ばれてくるといって反対運動が起きることがあるそうです。もともと金持ちは車を持ってるから公共交通機関がなくてもどこにでも行けるわけだ。そうかあ。

全日空1便でワシントン→成田、14時間。読みさしの本を1冊終えて映画2本見て、うとうとしてたら着きました。後ろの席から搭乗させたり、客が適宜背後の客を通しながら頭上の荷物入れを取り扱ったりするおかげで、アメリカの飛行機よりもすいすい乗り降りしている気がする。後ろに目がある特殊民族、みんな忍者かと思わなくもない。しかしちょっと人のことを気にしすぎともいう。そのかわりクレームの反射神経は悪く、ひとしきり不利益を被った後で文句を言うよね。弊管理人も含めて。

成田からピーチで関空、そんでバスで梅田。車の左側通行に若干違和感を覚えたほかは、「ああニッポン~~!!」という感激はありませんでした。アメリカの1年3カ月の流れが速すぎて、長く空けていた感じがしないんではないか。

堂山の「にしやま」さん、月曜定休のはずが、「定休日ですよね?」とLINEしたら返ってこなかったので、もしやと思って行ってみたらやってました。26日で年内は終わろうかと思っていたそうです。

おばんざい万歳!!
221226nishi.JPG
1年半前のようにレモンサワー飲んで、おでんと、じゃこめし食べました。
去年8月、デルタ禍で休業している間に弊管理人は引っ越してしまったのでさよならが言えてなかったんですよね。そしてその間に店主氏の相方さんが急に亡くなってしまっており、献杯も。

ホテルでお風呂入って23時過ぎに寝ました。そしてやっぱり3時前にぱっちりお目覚め。

* * *

◆都築響一『圏外編集者』筑摩書房、2022年。
よかった

2022年12月25日

あめりかん司法

仕事で扱う中で分かりにくいのがまずアメリカの司法制度、それと議会。
自分の受け持ちのコアの部分ではないのでなんとなくやりすごしていたのですが、いつものシリーズで新しい本が出ていたのでゲットしました。

◆Charles Zelden, The American Judicial System, Oxford University Press, 2022.


【Preface】

◆裁判所
 ・各州の裁判所
 ・連邦裁判所
   ・憲法3条裁判所Article III Court
   ・議会の立法権力の下にあるlegislative/ Article I court

◆最上級裁判所Supreme Court
 ・ニューヨーク州ではNY Court of Appealsと呼ぶ
  *NY Supreme Courtは州のtrial(第一審・事実審)+appellate-levelを指す
   各市・郡の裁判所に優越するものという意
 ・テキサス州では最上級が2つに分かれている
   (1)TX Supreme Court=民事
   (2)TX Court of Criminal Appeals=刑事
 ・フロリダ州では第一審をcircuit、上訴審をdistrictと呼ぶ
 ・連邦のほかアーカンソー、ルイジアナなどでは第一審はdistrict、第二審はcircuit
 ・多くの場合第二審はcircuit, district,あるいは単にappeals court

【1 アメリカの司法システム】

◆カテゴリー
 (1)第一審・限定型 trial courts of limited or specific jurisdiction
  ・法によって役割や管轄地域が限定されたもの。43州で導入
  ・典型的には交通、少額訴訟、自治体、judicial bureaus, justice of peace courts
  ・裁判官出席の法廷を開かなかったり、同時に複数の案件を処理したりする
  ・例)交通違反の罪状認否。被告は出廷せず、期限までに郵送で罰金を支払うなど
     無罪主張の場合、arresting officerが出廷しないで無罪確定もよくある
     争いになっても単独審で1日何十件も処理する。迅速・効率重視
  ・連邦では破産裁判所、保釈や初公判を扱う治安判事magistrate courtsが相当
    どちらも連邦地裁の一部

 (2)第一審・一般型 trial courts of general jurisdiction
  ・多くの人が想像する第一審。事実関係の審理が中心。上にいくと法適用の話に
  ・呼称はdistrict, circuitが多いが、superior courts, courts of common pleasも
  ・デラウェア、ミシシッピ、ニュージャージー、テネシーは2つに分けている
   (1)law=財産、契約関係。結果はお金関係の解決
   (2)equity=行為の強制や禁止に帰結する話を扱う
  ・他の46州と連邦は上記を統合
  ・多くの州は民事と刑事の裁判所を分離。判事の資格が分かれているため
  ・連邦はどちらも見る
  ・公判を開かず、書類を見るケースが多い
   →default/summery judgment, judgment on the pleadings
  ・公判前に決着するケースも多い
  ・第一審・限定型からの上訴も扱うが、一審のレビューではなく一からやる

 (3)第二審 intermediate appellate courts
  ・一審で負けた側が持ち込める
  ・第一審が正しく法を適用したか、裁判記録を見て審理する
  ・ランダムに選ばれた3人の判事がそれぞれの事件を担当
  ・大半は一審支持。判断が出るまでに和解に至ることも多い
  ・7割は二審で終わる(その上に最高裁がない州も含む)
  ・人口や訴訟件数の少ない10州では、上級審が1つしかない(第二審で終わり)

 (4)最高裁 appellate courts of last resort
  ・どの事件を審理するか決める権限あり
  ・個別法や憲法上の重大問題を選ぶので、重要な政治的な意思決定の役割も担う

 (5)上記のヒエラルキーに含まれない高度専門型
  ・州レベルでは家族法、少年、検認(遺言)、薬物
  ・量をさばくより専門的な援助を目的とする
    →薬物使用者への支援や遺言のない場合の遺産分配など
  ・連邦レベルではArticle I裁判所, legislative courts
    ・政府機関や軍関係、移民、特許、税など専門的な事件を扱う
    ←→Article III=地裁、高裁、最高裁
  ・DCのThe Courts of the Judicial SystemもArticle Iに含まれる

◆原則
 ・予め決められた取り扱い範囲で判断すること
 ・その州の住民について判断すること=ネット売買などの場合判断が難しい

◆連邦裁判所の受け持ち:
 ・federal question=憲法、連邦法、批准している条約に関する訴訟
 ・diversity jurisdiction=州や国境をまたいだ訴訟、$75000超
 ・original jurisdiction=憲法や連邦法を問うもの
 ・removal jurisdiction(特殊)=被告が州ではなく連邦裁でやるべきとした主張を扱う
 ・criminal jurisdiction=連邦法関連犯罪や、被害者に憲法上の保護を必要とする犯罪
  *従来限定的だったが、守備範囲は近年拡大してきている

◆連邦制と連邦/州の重複
 ・連邦法と州法は完全にはかぶっていないのであまり重複が起こらない
 ・重複が起きると両者の間で調整される(同じことを2カ所でやるほどの資源がない)
 ・調整失敗すると合衆国憲法4条で連邦裁判所が優越する

【2 役割と機能】

◆一審で事実関係の吟味と法の適用。同じ事実には同じ結論を出すことstare decisis
 しかし判事によってどの判例を考慮するかが違うことがある

 →二審の出番。「一審の法適用に関する誤り訂正機能」で通常は事実認定はやらない
  証拠集めが不十分、解釈が違う、手続きがおかしい、などの場合は差し戻し
   *新事実が出てきた場合は二審でやることもある
  あいまいなルールを明確化して一般に示す機能もある
  過去の判例が現在の社会・文化的状況に合わない場合は覆すこともある
  例)覚醒剤の「販売目的」を意図ではなく量で認定してよいとしたUS v Collazo(2020)
  判例の修正は通常、小幅だが、それで済まない場合もある
  各地の二審で違う判断が出ることもある

 →最高裁の出番。現行法の枠内で判例の意味や射程を決める
  明らかに重要な案件を選べる。連邦最高裁で年80件、州最高裁で年110件ほど
  政策決定機能を持っているともいえ、米国の統治システムの中で重要な位置
  どの社会・文化的状況を憲法ほかの法律の解釈に組み入れるべきか決定する

◆なぜ裁判所に今のような役割が与えられているか
 もともとは英国のコモンローの伝統を引きずっていた
 →1880年代に裁判所ではなく州・連邦政府が監督や法執行の仕事をするようになった
  →裁判所から行政的な「出張っていく」機能が切り離され、受動的役割が残った
   通常はルール作りもせず、法的強制力を伴った制度監督もスピード感を失った
 →これを代行するように3権を併せ持ったような機関がつくられた
  例)テキサス鉄道委員会、連邦州間商業委員会など
    →ヒアリング、ルール創造、執行までやる
 →ニューディール時代には官僚組織による経済・社会の統制が上記をしのいでいった
 →国家労働関係会議が扱う労使紛争、連邦通信委による電波・通信インフラの問題などがうまく決着しなかった場合は法的解決に持ち込まれる
 行政の行為や規制が問題になる場合は高裁(だめなら最高裁)へ

【3 権限と動機】

【4 ひと】

◆裁判官
・個人の属性が仕事内容に影響する側面に注意

・Article III federal courtsの連邦裁判官は上院の助言と同意に基づき大統領が任命。罷免は国家反逆、贈収賄ほか著しい不品行による下院の弾劾か、上院の2/3の投票でしかできない。実質終身で、政治の影響を受けないでいることができる仕組み。ただし任命までは政治的で、資格要件はないものの名声・人望のある法律家であることが求められる。また90%が大統領と同じ政党の党員。あからさまにやってはいけないが、なりたいというアピールも必要。大統領は2期で終わりだが裁判官は30年以上やることがあり、大統領が最も長期に影響を残せる分野でもある

・Article I judgeは話が別。上院の助言や同意は必要なく、試験などの能力主義的選抜で選ばれ、決まった任期があり、伝統的には15年。政治性が薄い。法的行為に関して責任を問われず、政府機関職員の干渉はできない。Administrative Procedure Act 1946に基づく「相当の理由」がないと罷免されない

・州裁判官のなり方はいろいろ。議会や知事による任命、選挙、試験、知事などによる初期選抜がある場合もある。州により方法は違うが、一審裁判所は選挙、控訴裁判所は任命制が多い。継続のための選挙があったりする。しかも制度どおりに運用されてないこともある(イリノイなど、p.53)
・ほとんどは終身制ではなく任期制だが、再選されたり再任命されたりして続けることもできる。ある時点で選挙が避けられないので政治からも自由ではないし、選挙費用の出元や選挙民の政治的傾向にも左右される。特に一審裁判所は任期が短く選挙が多いのでこの傾向が強い

・裁判官は有名な法学部の出身者が多く、歴史的に財力のある家の出身の白人男性が多かった。女性は州裁判所で30-40%まできた。マイノリティは20%まできたが大きく下回る州も多い。バイデンとオバマだけが女性>男性。法律事務所や検察官事務所、下級審裁判所から上がってくるなど、いずれかの法律職として成功した人

・originalism(法律の字義通りにストライクとボールを判断する)、instrumentalism(ストライクとボールは判断するが、ストライクゾーンは人によって違うし時代によっても変化するとの考え方)

◆弁護士
・訴訟当事者と裁判所の橋渡しをする潤滑油役
・transactional lawyersはクライアントを裁判所まで行かせないのも重要な任務。2006年の研究では、1/3の時間を裁判所や訴訟相手が法的にどう対応するかをアドバイスするなどのコンサルティングにかけている。残りはクライアントに代わって交渉しているか、契約などの法的文書を作っている。法廷までいってしまうのはある意味アドバイスに失敗したことにある。こういう仕事がないと司法システムが需要過多になって崩壊する
・litigatorsは法廷に行く人。刑事被告人の弁護など。コンサルもやるが法廷行きの回避ではなく、いかにして勝利を最大化するかを考える。そのための調査もする。法廷に行くと時間もコストもかかり、結果も見通せないので示談や司法取引plea bargainをする。犯罪の90%では司法取引が行われる。フルの裁判を全ての事件でやることは不可能
・法曹資格があるのは米国dえ133万人、そこへ毎年3万~3.5万が新規参入。日本は350-400人。米国が異様に多いのは、他国ではtransactional lawyersがやる仕事を非法律職がやっているのが一因
・ロースクールの格がステータスを決めている

◆陪審員
・一般市民が最もアクティブに関わるのがこの役割
・管区から無作為抽出され、一般的には6-12人で構成。訴訟の中でどの事実に重点を置くかを判断する
・候補者を除外できる場合は2つあり、(1)当該案件についてもともと知識や意見がある人で、選出過程で両当事者の弁護士が質問し、回答に基づいて異議を言うことができる。除外理由(2)は理由を示さず除外ができる。ただし性別や人種、宗教構成を操作するためであってはいけない。弁護士が使える回数は決まっており、使い果たしたらその後はすべて受け入れなければならない
・まず座って聞くだけ。すべての情報をふまえて裁判官に促されると、どの証人の言うことを聞くべきか、どの文書を採用すべきか、どの事実に法を適用すべきかを判断する。民事ならどちらの主張がより説得的か、刑事なら犯罪が合理的な疑いを容れない程度に立証されたかどうか

◆訴訟当事者
・訴訟の主役ではあるが、やることは弁護士を雇って協働すること、司法取引が提示された際に受けるかどうかを決めるくらい

◆目撃者、犯罪被害者、一般市民

【5 プロセス】

一般市民がアメリカの司法制度に捕まるパターンは4つ

(1)陪審員として
(2)犯罪被害者として
(3)民事訴訟の当事者として
・最初に弁護士と相談する時は無料のことが多い。弁護士はそれによって客を見つける。持ち込まれた案件が訴訟に価すると判断されなければそこで終わりで、弁護士は守秘以外の義務を負わず、相談者も支払い義務を負わない(契約関係などの案件で最初から料金が発生することはある)
・支払いはかかった時間などに対する一定額の支払いを取り決める場合と、訴訟にかかった費用は弁護士が負担し、成功報酬contingency feeを受け取る場合がある(損害賠償の場合は多くがこちらで、最高で勝ち取った補償の40%とされていることが多い)
・最初はDiscovery=互いが持っている情報の確認。隠し球は許されない。次に裁判所は法廷に持ち込まれる前に決着を模索するよう求める。第三者を介在させたり、単に当事者に促すだけだったり。失敗すると法廷へ。
(4)刑事被告人として

【6 政治と政策】

2022年11月23日

シャルムエルシェイク

地名言っただけで何の仕事だか分かってしまう今回ですが、行ってきました。
実はスターアライアンス、エジプト航空。
安全設備の説明は古代だった。
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機内食は魚が選べてまあまあ。
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カイロは意外と遠く11時間近くかかり(ちなみに帰りはなぜか北欧~グリーンランド南端をかすめるコースで12時間以上)、朝方ついて乗り換えてシャルムエルシェイクへ1時間。背中が痛くなりました。

宿はEden Rock Hotelというところです。実は違うホテルを1年前から1泊100ドルくらいで押さえてあったのですが、9月になって「地元のホテル協会が360ドルに値上げした。呑むかキャンセルか」と突きつけられ、弊社カイロ駐在の人々に助けてもらって130ドルのところを取ってもらった次第。
高台にあって見晴らしよく、繁華街の近く。繁華街から136段(←同僚が数えた)の階段を上らないといけないのですが、まあ運動運動。気温は夜寒くて15度くらい、昼25~27度ってところで乾燥していて過ごしやすかったです。
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朝飯がついていて、一日の野菜の大半をここで摂る気合いで食ってました。
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部屋のベランダからの眺め。
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初日の夜は、カイロから来てくれた応援の人と、去年も一緒に仕事したナイロビの同僚とシーフードを食べました。1人30ドルくらい。
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街は午前3時くらいまで盛っていてこれはよかった。去年のグラスゴーは疫病の情勢もあってか、夜10時になるとスーパーまで全部閉まって夕飯に非常に困ったので。
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あとでカイロから支援にきてくれた助手さん(エジプト人)に聞いたところ、シャルムはロシアやウクライナあたりから来やすくて物価も高くない紅海随一のリゾートという位置付けなのだそうです。確かにレストランのメニューにはロシア語がついてました。
ブッダ・バーという何かを間違って輸入した感じのバー。
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ちょっと値段はするが、普通にいけた寿司。
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二人でワインあけました。「オマル・ハイヤーム」。政治家?いや詩人だっけ?というくらい忘れかけてたけどペルシャ生まれの詩人だった。代表作「ルバイヤート」はワインの話でいっぱいです。
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うまいかっていうと普通だけど、エジプトワインてのもいいじゃない。

ケンタッキーもマックもあった。マックのご当地メニューと思われる「ロイヤルバーガー」はただのでかいハンバーガーでした。
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あと、イスラム教なのでエジプト航空の機内は酒なし、シャルムのレストランは酒あり、鶏も牛もあるが、当然というか滞在中に豚は全くお目にかからなかった。

こうしてみると、去年同時期のグラスゴーの仕事よりだいぶ楽しそう。
去年は直前に歯が折れて、疲れてて、寒くて、お腹すいてて色々だめでした。ただ弊日記に書いたとおり、仕事をばりばりやったせいかグラスゴー出張を契機にちょっと元気は出たんですけど。

今回は東京から来てた同僚が弊管理人の到着した日に体調を崩し、そこから最終盤までホテルから出られなくなったので、お手伝いくらいのつもりが結構どっぷり仕事することになりました。いいけど。同僚氏は海外での病気、大変だったことでしょう。

最終日は深夜発なので、ビーチに行ってみました。
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紅海に入った。足だけ。
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助手さんと話してて、「ちょとタクシーで観光して帰る」と言ったら「タクシーなんか使わなくてもカイロに帰る前に乗せてってあげるよ!」とありがたい申し出をいただいたので、オールドマーケットに。
助手さん、運転しながら両手で!!!携帯いじってました。
タクシーも一緒で、携帯いじるわ、なんか喋るとき両手をハンドルから話して身振りをつけるわで、かつ120km/hくらい出すのでシートベルトを着用しました。
「スピード出しますよね~ここの人」と言ったら「そうなの。許して~笑」って。

モスク。
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中を見せてくれるそう。助手さん(女性)は髪を隠すやつを借りてました。
これは着けてるところ。
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地階もお祈りはできるようになっていましたが、ちょっと暗め。
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1階に上がるとすごい豪華だった!
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白飛びしてしまいましたが、助手さんによるとステンドグラスがあるのはイラン風らしい。
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このランプはエジプト風とか。モロッコでもこういうの見たかな。
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いやこっちのランプだったっけな、エジプトっぽいって言ってたの。
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外はトルコ風とのこと。丁度トルコからの観光客がいて、「うちの国のよりキレイ」と言っていたとかなんとか。
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バイアグラ?と多くの観光客が足を止め、セールスの餌食になっていると想像する。
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旧市街は閑散。
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肉屋。そういえばカイロの同僚が物価の話をしていて、やはりエジプトの経済も「外国人・高級」と「地元用」の2層があると言っていました。高級肉屋は当然高い。地元用は安いが、手袋もマスクもしてないおじさんが切ってる肉でリスキーとのこと。
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さて、次はコプト正教会(エジプトに多いキリスト教の教派)のお寺に行きます。The Heavenly Cathedral、日本語でどう言っていいかは分からない。
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むっちゃきらびやか。
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助手さんに「エジプトってキリスト教徒いるの?」と聞いたら「もちろんいるよ!」とのこと。言いぶりからすると助手さんもそうかな?エジプトの人口の10%、国連事務総長だったガリ氏もコプトだそうです。
入口はジーザスがすしざんまいのポーズをしていた。
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1世紀のアレクサンドリア教会(エジプトの首都のやつですね)が起源だそう。北アフリカがイスラムになってもしっかり続いた。十字架の形が特徴的。狛犬もいる。
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全景はこんなんです。
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この敷地の入口には金属探知機つきのチェックポイントがありました。モスクにはなかった。なんかそういう関係なんだろうか。
周りはこんな感じ。裕福ではなさそうだが危ない感じでもなかった。
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と、いうわけで帰りましょう。
途上国のタクシーはクソで大嫌いなのですが、今回もまあ予想通り。
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だいたいの調べはしてあって、空港まで20ドルまでなら相当のぼったくりだがそれでも許容してやろうと思っていたところ、「30ドル」と言ったので「ふざけんな」と猛然と交渉。意外とすぐに折れた。しかし「駐車場代払わないといけないから2ドルくれ」と食い下がり、呆れて受け入れた。
当然領収書など出ないので、紙切れとペンを渡して「これに書け」と言ったら「いいペンだな、くれないか」ときた。つえーな。心の狭い斜陽の国の人なのであげなかった。こいつらにとっては次々とダメ元の要求を繰り出すのが確かに適応的なんだけど、国の印象は確実に悪くなるし見下されると思うよ。

ところで、ドラクエIIIのアッサラームの町(位置的にはバクダードあたり)に「おお わたしのともだち!」といって高額の武器や防具を売ろうとする店がありました。相当値切ってもやっぱり高いぼったくりなんだけど。
それが今回、タクシーの運転手が誰も彼も2人称がmy friendなので、これほんとだったんだ!と発見して感動しました。そしてやはりクソぼったくりだった。

エジプトの空港はセキュリティがえらそうで(公務員が威張ってる国なんだろう)、何度も冗長な検査をし、エジプト航空の客室乗務員は感じは悪くなかったがサービスは少なく機内は汚かった。過去に生きてる強権政治の国。ピラミッド見に行った人も2度は行きたいと思わなかろう。日系の旅行会社を使うか、現地につてがないと嫌なことがいっぱいありそう。

ところで中盤から便が水に。しかし別に熱も出ないしお腹も痛くないので「ストックがだめならフローで勝負だ!」と食べ続けていました。そして水便は治らなかった(当然だ)。

* * *

行き帰り16時間ずつの行程で2冊読了。

◆鎌田遵『癒されぬアメリカ 先住民社会を生きる』集英社、2020年。
アメリカ先住民社会のフィールドワーク。日本語でこれが読めるのはすごいし、作中に出てきた青木晴夫(ネズ・パース語の辞書を作った人)もむちゃすごい。体裁はエッセイの集成だけど、カジノだとか環境団体、トランプとの関係、ドラッグ、コードトーカー、先住民とは誰か?など知りたいと思っていたトピックが網羅されていてとても勉強になりました。次は英語の入門書に挑戦します。

◆豊川斎赫(編)『丹下健三都市論集』岩波書店、2021年。
・都市をリ・クリエーション(再生産)の場ととらえるところ
・建築や都市計画を個人の日常生活スケール/集団生活のスケール(広場など)/超人間的スケール(自動車などの高速移動)に分ける考え方
・原子力が人間性の意識解放をするという発想(オーウェルもそうだが、原子力が同時代の人々の想像力に与えた影響)
・第一の産業革命が、人間が手足の延長となる道具で実現したとすると、第二の産業革命は、人間が神経系統を延長した情報・コミュニケーション分野で起きるという分類
・20世紀末の日本人口が1億2000万人という意外に正確な人口問題研究所の推定(これは丹下の試算ではない)
・都市開発における既得権益(地主)批判
など、時代を感じつつ面白い分類や着想がいろいろありました。

2022年10月30日

ウィーク食べるエンド

月曜ってまだアリゾナにいたんだっけ?というくらい時間感覚がおかしいですが、あさっては11月というのも引く。疫病罹患、とかいってたのがもう1カ月前。

前の週は遠出したので、この土日は家の近くで過ごします。
車で40分くらい、リースバーグLeesburgのアウトレットへ。
Vineyard Vinesというブランドのシャツを買いました。この夏、ちょっと小綺麗なお兄さんたちが着てるのをなぜか飛行機で何度か見て、生地が気持ちよさそうだなと気になってたんですよね。日本には来てないやつらしい。
半額セールってほんとかよと思いながら買ってみたら、確かに2枚で80ドルくらいのが40ドルになってました。しかし青いチェックのボタンダウンと空色のTシャツ。おっさんにはちょっと厳しいかもしれない。
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フードコートで中華頼んだらすごい量でびびった。でも食べた。

近くのMom's Apple Pieでパイ買って帰ってきてお茶。
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売ってる1スライスはこの倍あるんだけど、一度に食べるのはこれくらいが丁度よい。

夜はジュリアン・ラクリンがソロをやるチャイコフスキーのバイコンを聴きにケネディセンターに行ってきました。前回は疫病発症直前だったんでですよね……当時はマスク必須だったのに、この1カ月の間に任意になってた。ジジババばっかりなのに解除すんなよ……
席はかなり前のほう。
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ソロイストの楽器から直接音が聞こえる席でよかった。汗だくのノセダも見られたし。

日曜は事務作業してて暗くなりました。
夜はアパートのジムで運動してから、同じアパートに住んでる同僚と、近くに移転してきた日本料理店Takohachiへ。
寿司ネタのケースやカウンターがあってちゃんと日本の香りがするんだけど、お店にいるのが全員ヒスパニックか非日本アジア人さんたちで入店をためらった。でもちゃんと日本食が出てきた。
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天つゆをおもくそフィーチャーしてしまいましたが、料理はちゃんと食えました。そしてすごい量だった。居酒屋っぽく使える店な気がした。

* * *

◆イーフー・トゥアン(山本浩訳)『空間の経験』筑摩書房、1993年。

先日、著者が亡くなった時に本書のことをいろんな人が回顧してたんですよね。
人文地理学に心理学や文化人類学を吹き込んで面白くした人、ということでしょうか。
「空間」という均質な座標系の中に、「場所」という記憶に紐付いた特別な地点を次々と築いていくという人の営みについて。

生活というのは、生きられるものであって、パレードの行進のように道端から見学されるものではない。本当のものとは、呼吸のようにまったく目だつところのない、よく知っている日常のことであって、われわれの存在のすべて、われわれの感覚のすべてに関わっているのである。われわれは休暇で旅行に出かけているときには、いろいろな面倒事は背後に残しているのであるが、同時に自己の重要な部分も背後に残している。つまり、われわれは、何の苦労もなく、試しに生活している観光客という根なしの特別な存在になるのである。(p.259)
宗教は、民族を場所に縛りつける働きもすれば、場所から解放する働きもする。つまり、土着の神々を礼拝することは民族を場所に縛りつけることになり、逆に、普遍的な宗教は解放をもたらすのである。普遍的な宗教においては、全知全能の唯一の神がすべてを創造し、すべてを知っているのであるから、ある特定のところが他よりも神聖であるということはありえない。(p.270)
場所の感じは、人の筋肉と骨のなかに記録される。船員は、高波で揺れる甲板に順応する姿勢を身につけているので、一目でそれと分かる歩き方をする。[...]場所を知るというのは、右に述べたような意味で明らかに時間を要することであり、潜在意識で知ることなのである。時間が経過するうちに、われわれは、ある場所に馴染むようになる。(p.326)
歴史は奥行きをもっており、時間は価値をあたえる。おそらく、これは、長い時間をかけてつくったことが明らかな人工の物に囲まれて生活している人びとのあいだで発展しやすい考え方であろう。中世の巨大な司教座聖堂は、一世紀以上に渡って続行された建設の努力の結果である。大きな記念建造物が徐々に立ち上がっていくあいだに、いくつもの人間の世代が交代していくのであり、大きな記念建造物は時の推移を示す働きをするのである。そのような大きな記念建造物が存在する都市もまた、時代の奥行きをもっとり、それは、古木の年輪のように生長していく市壁に具体化されている。他方、中国では、大きな建物はもとより都市さえも建設には何年も要しない。中国人はすばやく建設し、形態の永遠性を除いては、永遠というものに眼を向けないのである。(pp.339-340)
都市計画家や都市デザイナーが行なう議論は、以下のような問いを論じるところまで拡大されるべきなのである。すなわち、空間の認識と、未来の時間という観念、目標という観念とのあいだにはどのような関係があるのか。身体の姿勢および個人の関係と、空間の諸価値および距離の関係とのあいだにはどのような関連があるのか。われわれは、人や場所に対して感じる「くつろぎの気持ち」である「親密性」をどのようにして描写するのか。どのような種類の親密な場所は設計することができ、どのようなものは設計することができないのか(少なくとも、非常に人間的な出会いが可能になるような設計はすることができる)。空間と場所は、某県と安全、開放性と限定性を求める人間の欲求が環境として現れたものなのだろうか。場所に対する永続的な愛着ができるにはどのくらいの時間がかかるのだろうか。場所の感覚は、場所に根ざしている状態(これは無意識でのことである)と、疎外されている状態(これは、いらだった意識をともなうものであり、ほとんど、もしくはもっぱら精神的なことであるので、いらだたしいのである)とのあいだに成立する認識なのだろうか。われわれは、際だった視覚的象徴をもたない、場所に根ざした共同体の可視性をどのようにして高めることができるのだろうか。どのようなことが、そのような可視性を高めることから生じる利得であり損失なのだろうか。(pp.359-360)

2022年10月01日

じうがつ

滞在2年目に入った当日から疫病にかかるという何かもうなんなんでしょうかという日記は9月の日付なので、ここでいったん区切って10月に突入したいと思います。

【10月1日15:00(day 6)】

・36.7度、98%、陽性継続
・朝から鼻の奥がジンとするような、ちょっと風邪の初期みたいな感じ。毎朝起きると違う経験をしていて、もはや罹患以前がどんな体調だったか思い出せない
・朝方の咳が少し気になった。水を飲むと収まる
・とはいえ体の重さ、頭の重さなどもろもろ勘案するともう普通に戻っていると思う。今日から自宅療養解除でよかろう(という気になった時点で大丈夫と確信する)。陽性だけど。運動不足ですごい衰えてる実感がある
・結局、3日の仕事は同僚にお願いしてしまった。ボスからは「【申し訳ないが】代打を頼みました、と(おじさん職位2人)にメール送っておいて」と言われ、申し訳ながらないといかんのだなと思いました。いや申し訳ないとは本当に思いますけど、それ人が決めること?何も悪意や悪感情がないことはわかるのだけど、本当に面白いくらい隅々まで感性が合わないのやばい
・仕事の代打をお願いした理由は潜在的な仕事相手が67歳なことで、日本・アメリカの両方の基準でも10日目まではハイリスク者と合わないようにとなっているのでこれは仕方ないと思う
・検査もそろそろやめるか
・それでいくと出社は6日解禁かしら

【10月2日14:00追記(day 7=日本基準で隔離最終日)】

・36.6度、98%、陽性継続
・鼻の奥の湿った感じ継続
・12時起床。ハリケーンの残骸が届いているのか昨日から雨降り。きょうの最低気温9度。急に秋が深まった。何かしよう/したいという気持ちが0で、気分が下がりすぎて飯の準備ができなくなりそうだった、が、した。そして寝具の洗濯と寝室の換気。今日やらないとやる時間がないかもなので
・げに不思議なのは、症状そのものの改善は早かったのにウイルス排除に意外と時間がかかっていること。弊管理人の免疫、大丈夫?しかし調べたことがないだけで風邪もこんなもんなのだろうか。インフルも解熱からの日数だけで出社再開していたし、確かに復帰時の検査を必須にする病気というのは多くない
・タブレットの動作が重くなったため一度クリーンアップしてアプリを入れ直した。ちょっと改善した

【10月3日17:30追記(day 8)】
・36.4度、98%、検査非実施
・2時間に1回くらい痰が絡むがまあそれくらい。鼻の奥の湿った感じは相変わらず。声は張って喋ると普通だが、小声で何か言おうとすると変になる
・早朝の仕事は結局何も起きず。ここから3日間これが続く
・事務作業のため午後に2時間ほど出社。マスク着用で行ったが、弊管理人を見た同僚がマスクを着用した。まあ無理もない
・家に戻って1本作業してから夕飯を買いに外に出たら、普通に寒い雨降りの冬の夜だった。9度。去年の今頃ってここまで寒くなかったと思うけど。という具合に「去年の今日」が存在するのが2周目というもの。去年の今日はまだこのアパートで暮らし始めていなかったが、今年は足元にオイルヒーター、寝床に電気敷布がある。暖かい

【10月4日23:00追記(day 9)】
・36.9度、97%、検査せず
・風呂上がりなのでこんなもんであろう
・朝起きたときに、前日までのように喉がいがらっぽくて「水、水」とならなかった。わずかながら改善したということだと思う
・また3時間ほど出社。コピー機を使いたかったからだが、なんか普段から出社する意味ってあんまないかもな。なんて考えていたら同僚氏が「(弊管理人)さん帰るなら僕もつまんないから帰っちゃおうかな~」と言いだし、出社する意味みっけた
・しかし午後3時過ぎには地元駅に戻ってスーパーで買い出しし、寿司買って帰ってフリーズドライの豚汁を戻して食べ(うまかた……)、家で1本仕事をして、夜はステーキを焼いて食べ、久しぶりにジムでちょっと運動した。走っても息切れしなかった。肺はやられてなさそう

【10月5日19:00追記(day 10)】
・36.4度、98%、検査せず
・3日連続の5時台起床終了。ねむ
・朝からエジプト大使館に行ってビザの申請。金属探知機はあるものの稼働せずスルー、書類出してさっくり終了。いい、この緩さ。そんで会社でちょっと仕事して帰った
・この3日くらいで思ったけど、会社はやっぱあまり行かなくていいな。在宅だと家事できるし、疲れ方が違う
・痰や咳出ず。喉も正常。ということで日米保健当局が揃って推奨する発症10日後までの注意・マスク着用期間を終えます

* * *

寝床で2冊読み終えた。

◆ジョージ・オーウェル(秋元孝文訳)『あなたと原爆』光文社、2020年。
オーウェルの評論集。とてもよい。
ナショナリズムに関する文章はもう一回立ち戻る気がする。

◆渡辺靖『アメリカとは何か』岩波書店、2022年。
毎日、断面を見ているだけでは分からない「構造」を教えてもらえる本。こういうのは買ったそばから読んだほうがいいだろうと取り寄せた甲斐あり。アマゾンの国際発送は包装が悪くて本が傷むことも分かってしまったが……

2022年09月10日

豚からポークへ

DC界隈の日本人が集まる豚の丸焼きの会に呼んでいただき、同じアパートに住んでいる同僚と行ってきました。3カ月くらい前にも別の用事で行ったメリーランド州某所。

家の庭先で豚がポークになっていた。
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この家の隣人氏が州内のアーミッシュの農家から仕入れてきて焼くところまでやってくれるそうです。眉間から何か流れている気がしますが……。
お尻のあたりのお肉をいただきました。ビネガーソースをかけて。ふかふか。

同僚が隣人氏に聞いたところでは、元海兵隊で日本駐在経験があり、日本大好きで(たぶん奥さんは日本人)数年後には移住するのだそうです。1983年ベイルートの海兵隊兵舎爆破事件(241人死亡)の負傷者の一人だって。まじ?
焼き鳥めちゃくちゃ上手だった。なんでそんな器財持ってるの?っていうかDCでお店やってほしい。仕事終わりに一杯飲みに行きたい。
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16時ごろ行ったのですが、20時半くらいまでだらだら食べたり喋ったりしてました。
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名札の色が「テニス」「ランニング」「知財・法務」「その他」と分かれており、なんかそういうサークルが重なり合う場だったようです。大使館、研究、国際機関、報道の人などいろいろいた。弊管理人のように3年くらいで帰るというよりはもっと長くいるつもりか、既に定住してる人が多かった印象です。新しい知り合いができました。

このあたりはわりと最近開発されたところで、広い庭の一戸建てが並ぶ住宅街です。他の家も大音量で音楽を流してパーティーしたり、卓球台を囲んで騒いだりしていました。そうか、週末はこうなのか。初めて見た。

* * *

意味はよくわからないが「へー」と思った言葉。
「ニューヨークも民族的には多様だが、ニューヨーカーとしての振る舞いが求められる。DCは外国人が外国人のままでいることが許容されている」

* * *

先週ってフロリダにいたっけ?というくらい時間感覚がなくなる1週間でした。月曜が祝日だったせいで平日が4日と短く、アウトプットもいろいろしたが主に仕込みの作業をしていて慌ただしく過ぎました。

結構寝たはずなんだけど疲れが出てる。

* * *

◆堀内進之介『データ管理は私たちを幸福にするか?』光文社、2022年。

2022年08月20日

タコのせかい

すごいよかった。
このところ工学系の出版社が出してる工学系の入門書に苛々させられることが続いて、ホント理系同士でものを作らせちゃだめだ(つまり著者にも編集にも「分からせる力と意志」がない)と思っていたところ、こういうのはちゃんとした出版社にやってほしいという意を強くしたものです。それはいいんだけど、ちょっと仕事上の必要でこの辺をおさらいしたかった=言葉の布置を見渡しておきたかったという思いが満たされました。1~3章は概観と歴史なので軽めに、あとはがっつりメモ。

◆小林憲正『地球外生命 アストロバイオロジーで探る生命の起源と未来』中央公論新社、2021年

【1~3章】

・パンスペルミア説:生命の種が宇宙から地球に降ってきて地球生命のもとになった
・地球生物:
 1.水と有機物からなる
 2.外界との境界(リン脂質の細胞膜)がある
 3.代謝する(+酵素=タンパク質で化学反応を促進する)
 4.(核酸で)自己複製する
 5.進化(変異)する
・オパーリン・ホールデン仮説(1920年代)
 メタンやアンモニアを多く含む原始地球の大気から有機物が生成、海に溶け込み、化学反応によって複雑な分子に。コアセルベート(球状の構造体、原始細胞)から生命へ
 *その後、原始大気はメタンやアンモニアをほとんど含まなかったとされた
・1969年、オーストラリアに落ちた炭素質コンドライト隕石の分析で、非タンパク質アミノ酸が多く、L体とD体が半々だったことが判明。その後、隕石には核酸塩基や糖も含まれているとの報告も
・とりにいく:リュウグウ(C型)、ベンヌ(B型)
・アミノ酸は宇宙で非常にできやすい
・RNAワールド:1980s、化学反応を触媒するRNA分子発見。まずRNAが現れ、より触媒として優れているタンパク質に触媒作用を任せて自分は増殖を担う。最後に安定したDNAを生み出して情報の貯蔵を任せた
 *ただしRNAはタンパク質よりはるかに作りにくいことを重視するかで評価が分かれる
・別の説としてタンパク質ワールド説。しかしタンパク質は自己複製が難しい。ほか「代謝ワールド」「ゴミ袋ワールド(コアセルベートの中にたまたま触媒作用を持った当たり袋が増殖し、進化し、洗練されたRNAなどができてきた)」=筆者はこれを支持
・38億年前には生命がいた可能性が高い(グリーンランドのグラファイト粒子の炭素同位体比測定から)。それより遡れるかどうかは「後期隕石重爆撃期」があったかどうか
・共通祖先は好熱菌説→熱水噴出孔。必須金属の供給、紫外線が届かない環境
・多細胞生物→エディアカラ生物(消滅)、バージェス動物群、カンブリア大爆発
・全球凍結は少なくとも3回→その後の温暖化→シアノバクテリア活動→酸素濃度上昇→オゾン層
・個々の生物種は絶滅するが、全生物を絶滅させるのは非常に難しい

【4章:火星生命探査】

・19-20c スキャパレリ、ローウェルの「火星運河」騒動

・ヴァイキング計画(NASA):火星表面の生命存在を探る
 1975.8 ヴァイキング1号→1976.7.20 クリュセ平原に着陸
 1975.9 ヴァイキング2号→1976.9.3 ユートピア平原に着陸
・観測手法
 (1)写真撮影:肉眼で見えるもの
 (2)昇温気化ガスクロマトグラフ質量分析計:土壌中有機物の存在
 (3)熱分解放出(PR):光合成生物の探索
 (4)ラベル放出(LR):有機物を食べる生物の探索
 (5)ガス交換(GEX):呼吸する生物の探索
 →生命の痕跡見つからず、以後20年間火星探査が停滞
・バレーネットワーク(水路様地形)、アウトフローチャネル(大量の水が一時的に流れた跡)を発見
 →過去の火星には大量の水があった、過去には生命誕生した可能性

・ヴァイキング計画の結果検討
 ・中緯度の平たんな場所(砂漠のような)→いないの当然では
 ・なぜ有機物が出なかったか
  →火星は核まで急速に冷えて対流が弱まる
  →磁気圏が失われ、太陽風が降り注ぐ
  →大気が失われる
  オゾン層がないので紫外線が火星表面に届き、水分子を分解
  →水素は宇宙へ、酸素は地表に残って過酸化物・超酸化物を生成
  →有機物を破壊、殺菌。有機物ができても壊れやすい環境だった可能性

・火星隕石ALH84001騒動
 →論争を呼んだが火星への関心が再燃

〈水の探索〉
・マーズ・パスファインダー:ローバー探査の先駆け
 切り離された着陸機「ソジャーナ」1997着陸、洪水の跡を発見

・マーズ・エクスプロレーション・ローバー(2003打ち上げ)
 2004.1 スピリットとオポチュニティの2ローバーが着陸
 →当初90日間の予定が、2019年まで探査継続
 スメクタイト(水がないと生成しない年毒物)発見

・フェニックス(2008.5極冠近くに着陸)
 →表面をスコップですくうと白い塊=地下の氷の存在を示した

・マーズ・リコネッサンス・オービター(周回機、2006-)
 クレーター内に「斜面の筋模様(RSL)」発見
 2015にはRSLの分光分析でマグネシウムなど塩化物、過塩素酸塩存在
 →現在でも場所や条件により高濃度の塩を含む液体の水が地表に流れ出ているか

〈有機物の探索〉
・メタン(CH4)=紫外線で分解されやすいので、現存すれば……
・2004、ESAのマーズ・エクスプレスの分光器で微量のメタン存在を確認
・2009、米・地球からの観測でメタン存在確認、場所や季節による変動も
 →メタン生成菌やメタンをエネルギー源にして有機物を作るメタン酸化細菌が存在?

・マーズ・サイエンス・ラボラトリー(2011打ち上げ、NASAの本格有機物探査)
 ローバー「キュリオシティ」がゲール・クレーター着陸(2012)
 加熱して出てくる有機物をガスクロ質量分析。表土のほかその下の土壌も
 →塩素がついた炭化水素発見=土壌中の過塩素酸塩+有機物
 ゲール・クレーター内の泥岩の分析でベンゼン環、硫黄含有など複雑有機物発見
 湖だった35億年前にいた生物が作った有機物の痕跡か

〈火星のハビタビリティ〉
・35億年前ごろまで表面に大量の液体の水があったことが分かっている
 →強力な温室効果を持つ大気があったはず(暗い太陽のパラドックス)
   ↑当時の太陽光度は今より低く、温室効果がないと凍ってしまう
・その後、火星からは水がほとんど喪失
 火星は小さいので核が早く冷える→磁場喪失→太陽風が大気直撃
  →大気が宇宙空間へ→温室効果喪失→寒く→ハビタブルゾーンから外れる
   →多細胞生物への生命進化が難しい環境に
・しかし、いったん発生した生物を全滅させるのは難しい
 →発生したとすれば地下で生き延びたものがいるのでは?
 =これが今後の火星探査の目的

〈マーズ2020(NASA)〉
 2020.7 探査機打ち上げ
 2021.2 火星着陸(赤道近くのジェゼロ・クレーター)
  デルタ地帯、炭酸塩や粘土鉱物が見つかっている
  川からの有機物や微生物の痕跡探索
・探査車:パーサヴィアランス
  有機物分析:シャーロック=紫外線レーザー+発光分光計で土壌の微細イメージング
  岩石や土壌を集めて将来の火星ミッションで地球に持ち帰る
    2021.9 初めてサンプル容器に収納→別のローバーが回収、火星軌道に打ち上げ
・ヘリ:インジェニュイティで上空から撮影

〈エクソマーズ2022(ESA)〉
・ESAの火星探査は2003.6打ち上げのマーズ・エクスプレスが最初
  2003.12 火星周回軌道入り、上空から探査。着陸機はビーグル2、有機物分析
  →ビーグル2は連絡途絶
 →捲土重来でエクソマーズ
・エクソマーズ
 2016 トレースガス・オービター打ち上げ。2017軌道投入、メタンなど大気成分分析
 着陸機は2022予定
  →オキシア平原(過去に水が流れた形跡あり)に着陸
 ローバー「ロザリンド・フランクリン」
  ・ドリルで2m掘削し土壌採取、有機物分析
  ・MOMA(火星有機分子分析計):加熱/紫外線レーザーあてて土壌中の有機物をガス中に取り出す→細胞膜の成分・脂肪酸など検出を期待

〈現存する生命探査の壁〉
・手の届くところに生物がいるかどうか
  火星にはオゾン層がないため紫外線が強く、生命が耐えにくい
   →少し地下にもぐれば生命が生存可能になる可能性あり

・正体の分からない火星生物をどうやると検出できるか
  強紫外線環境では光合成生物の存在は難しい
  メタン合成生物はいる可能性あり
  ヴァイキング計画で使ったような栄養液が栄養として受け取られるか(毒かも?)

・本当に生物がいそうなところには近づきにくい
  水が流れている可能性のあるクレーター内壁は急斜面
  生物がいるところに探査機が地球の微生物を持ち込むと増殖してしまうかも
 ※マーズ2020やエクソマーズ2022の着陸地点は生物活動がありそうなspecial regionは外している=惑星保護planetary protection(→詳しくは8章)

〈生命がいることの確認方法〉
・生物=有機物で構成、外界との境界を持つ、自己複製する
 →日本グループは1990sから蛍光顕微鏡を提案(河崎行繁ら)。①遺伝物質②細胞膜のような疎水性の物質③代謝をするための酵素(触媒)を光らせる。④クロロフィルのような蛍光物質があれば試薬なしても蛍光画像が得られる可能性も。①~④組み合わせ可能
 →今も小型化した「生命検出顕微鏡Life Degtection Microscope」が開発続行

・蛍光画像が検出された場合
 →地球の生物のように核酸を使っているとは限らない(地球以外で簡単に生成しない)
 →タンパク質はありそう。アミノ酸は隕石からも見つかっている。いろんな機能もある

・どうやって生命と非生命由来のアミノ酸を区別するか
 →実験でできるアミノ酸はグリシンなどの単純なアミノ酸が主。生命はあまり使ってない
 →酵素が働くのに必要なのはヒスチジン、リジンなど複雑なもの
 →特定のアミノ酸ばかり見つかれば生命起源の可能性が高い(ただし異性体がないこと)
  地球生物は左手型(L型)のアミノ酸だけでタンパク質を作る(理由は不明)
  →隕石で左手型が多かったとすれば、火星でも左手型を使ってるはず

・火星地下の土壌からアミノ酸が見つかった場合
 ①単純アミノ酸が多い、異性体混合、L/D型アミノ酸が同量存在
  →アミノ酸は非生物的に生成
 ②複雑なアミノ酸が含まれるが地球生物が使うのと違う、L/D型どちらかに偏る
  →地球生物とは別のところで誕生した生命が存在
 ③アミノ酸は地球生物と同じ、L型が多い
  →火星生物が存在、地球生物と祖先が同じ可能性(火星誕生→地球伝播かその逆)

〈火星生物が見つかったら〉
 →地球生物は孤独ではない。銀河系の恒星2000億のうち1個の恒星系で、惑星2個に生命があったら銀河系全体では膨大な数の惑星に生命がいることになる
 →生命が存在しうる環境には実際に誕生する確率が極めて高くなる

 (見つからなかったら
 →探し方が悪かった可能性(特別地域に行ってない)
 →地球だけとはまだ言い切れない)

・見つかった生命が地球と同じタンパク質や核酸を使っていたら
 →地球―火星間で生命の移動が起きた、または第三の場所でできて移動した
・地球生命とはタンパク質や核酸に似てるが違うものだったら
 ①タンパク質・核酸型の生命は比較的普遍的に誕生しうる、または
 ②地球生命の共通祖先より前の段階で惑星間移動が起きた
 ※核酸とは全く違う自己複製システムが見つかると面白い

・火星生命が見つかった場合、有人探査や移住の際の汚染に細心の注意が必要になる
 特に水があるところで汚染すると、ネットワークに沿って汚染が全球的に拡大する恐れ
 火星の大気組成を変えて地球に近づけて移住する「テラフォーミング」困難に

【5章:ウォーターワールドの生命】

・生物圏:太陽光エネルギーに依存(光合成による有機物生成、死後の微生物分解)
 →地球外生物圏も惑星表面がターゲットになってきた
  表面に液体の水があるという厳しい条件を課した場合、ハビタブルゾーンは狭い
 ←1970s、熱水噴出孔の発見と1990sの地下生物圏の発見で考え方は変更

・海底熱水噴出孔の発見(1977)
 生態系が存在。二枚貝、カニ、タコ、チューブワーム
・1979・米仏共同探査@ガラパゴス沖で「ブラックスモーカー」350度
 岩石中の金属やマグマ由来の硫化水素などが海水に溶けている→海水中で析出
 多様な化学反応が可能になる高温環境+生成した有機物を安定保存できる低温環境の併存
 有機物生成に有利な還元的(水素豊富な)環境
 化学反応や生命に必要な金属イオン高濃度
 →生命誕生の場「暗黒生物圏」(光→光合成とは違う、硫化水素による有機物生成)
・チューブワーム、シロウリガイは化学合成細菌と共生
 →有機物豊富なためエビやカニも集まる
・海底熱水噴出孔はプレート境界に普遍的に存在(沖縄、小笠原諸島近海など)
・メタン生成古細菌は地球上で最も高温環境で増殖できる(122度=高井研)
・地球生命の共通祖先は好熱菌と考えられ、海底熱水噴出孔は生命誕生の場の最右翼

・ヴォイジャー計画~
 1972 パイオニア10号→1973木星接近撮影
 1973 パイオニア11号→1974木星、1979土星接近撮影
 1982 惑星直列に合わせNASA「太陽系グランドツアー」
  ←1977ボイジャー1,2号。ガリレオ衛星の一つイオで硫黄噴出の火山活動
   エウロパはクレーターなし、氷が覆う(下から液体の水が噴出?)
 1989 ガリレオ→エウロパ。縞模様液体の水が氷の下に(磁場測定)、濃い塩含有か
 2013 ハッブルによる紫外線観測でもエウロパの液体水噴出を確認
 2019 ハッブルで海水に塩を含むことを示すスペクトル観測(=熱水活動も存在か)

・エウロパはハビタブルゾーン外。なぜ液体の水があるか?
 →木星による潮汐力説。潮汐力により熱が生まれている
・暗くて寒いが生物は存在しうるか?
 →地球の熱水噴出孔にも生物圏あり。極域の魚には不凍液を細胞内に持つものも
 *地球南極の地底湖
  1989- ロシアチームがヴォストーク湖調査。
    2013 3769m下の湖面到達。新種微生物の遺伝子検出と主張
  2005,2010 米国が地表から27m下のヴィダ湖掘削、微生物確認
  →地球の全球凍結時代はエウロパ化といえる。エウロパで生活できないとはいえない

・土星衛星エンケラドゥス(1789 ハーシェル発見)
 1997 米欧の土星探査機カッシーニ→2004土星到達。着陸機をタイタンに
  *ヴォイジャー2号の写真では太陽系天体で一番反射率が最大(=白い)。氷が覆う
 2005 南極近くに縞模様(tiger stripe)があり周囲は赤道より高温、水煙噴出確認
 2008 エンケラドゥスのプルーム化学分析。水、有機物を含む気体、塩、シリカ
  =氷の割れ目から水が噴き出している。氷の下に液体の水。有機物も存在
   シリカの小粒がある=海底に熱水活動か
  その後のカッシーニ観測では海が衛星全体に広がっている可能性が高いとされた
 今後:プルームのサンプルリターンができるか?

・木星の衛星ガニメデ(太陽系衛星で最大。水星より大きい)
 磁場あり、中心の核が融けているとみられる。オーロラもあり
 2015 ハッブルによるオーロラ観測で内部海がある可能性浮上
 その後、ガリレオの観測結果再訪で内部に厚さ100kmの伝導性液体=塩水存在が確実に

・小惑星帯にある準惑星ケレスにも内部海か
 2014 ハーシェル宇宙天文台での赤外線観測で水蒸気を含むプルーム存在報告
 2015 小惑星探査機ドーンの観測でオッカルトクレーターに炭酸Naか硫酸Mg
  →地下に高濃度の塩水が液体として存在し、噴出することが判明

・木星衛星カリスト、土星衛星タイタンとミマス、海王星衛星トリトン、冥王星にも内部海存在の可能性が指摘。地下海の存在はまれではない。恒星系に属さない「自由浮遊惑星」にも内部や表面に液体の水がある可能性も指摘されている

・今後のウォーターワールド探査
・ESA立案・JAXAなど協力のJUICE=木星と衛星(主にガニメデ。エウロパも含)
 [2022現在の打ち上げウインドウは2023.4、木星到達2031。予定変更注意]
 エウロパ周回しないのは放射線量が高いため
・NASAのエウロパ・クリッパー(2024.10打ち上げ)
 プルーム、大気の分析で有機物が出るか、縞から地下海の有機物が出てきているか

【6章:タイタン】

・濃い空気あり
 1944 カイパーによる地上観測でメタン含有確認
 1980 ヴォイジャー1号で大気の分光観測、メタン、エタン、窒素(=主成分)
    表面温度-179度(液体メタンの海か)、表面大気圧1.47気圧
 *メタン+窒素+宝殿でアミノ酸や核酸塩基が生成可能
 1997 カッシーニ(NASA)+タイタン着陸機ホイヘンス(ESA)
 2005 ホイヘンス降下、海は見つからず。川のような跡や海岸線のような地形発見
    大気中のもやは複雑な有機物でできていた
    着陸地の氷には丸み=川で流されたか
 2007 カッシーニの上空観測で液体メタンの湖発見と発表
    火山のような地形発見(アンモニア水の噴出)
 2017 カッシーニが土星大気圏に突入し燃え尽き(衛星汚染を防ぐため)
・上空で紫外線と放電(土星の磁場で捕まった電子に起因)で有機物生成
 →降下しつつ反応、もやの材料に?(複雑な有機物、核酸塩基)
・水以外の液体を溶媒とする生命の可能性
 (1)アンモニアが次の候補(地球生物にとっては毒だが)
 (2)表面のメタン・エタン湖中の生物。ただし細胞膜の構成など地球と相当違うはず
・次の土星系探査:TSSM。だが木星系と競合し後回しに
 →2019 ドラゴンフライ計画選定。タイタン表面を飛んで移動しながら探査
  2027 打ち上げ→2036タイタン着陸

・金星
 上空50kmあたりで1気圧、気温0~100度
 濃硫酸の雲があって紫外線吸収物質があるが、これが生物かも?という話
 強酸性に強い生物(ピクロフィルス属の古細菌など)はいる
 どこで生まれたか?太古の金星には海があり温暖だったとされる
 7億年前の巨大火山噴火でCO2が大量噴出、温暖化で現在の灼熱環境になった
 →上空で生き延びている?
 2020年報告の「生命痕跡」はホスフィン(PH3)。生命の証拠にはならない
  →その後、ホスフィンでさえないかもとの反論も

【7章:太陽系を超えて】

・銀河系:恒星系2000億
・最も近い恒星は赤色矮星プロキシマ・ケンタウリ(4.246光年)
 →パーカー・ソーラー・プローブ(最速200km/s)で6000年
 ホーキングらのブレークスルー・スターショット計画(軽量化で20年)
 でもつらい
→電波観測
 1959 コッコーニらのCETI=地球外生命体との交信構想(その後SearchでSETIに)
 1960 オズマ計画(くじら座タウ星の1.42GHz観測200時間)
 1980 セレンディップ計画(SETI)@プエルトリコのアレシボ天文台(2010損傷)
・ジル・ターターとカール・セーガン
・スーザン・ベルによるETIシグナル?検出(1967)→パルサー発見
 指導教員ヒューイッシュがノーベル賞。ベル(女性)はもらえず

・ドレイクの方程式(1961,NSF):銀河系の中で伝播交信が可能な惑星の数Nを求める
 1年に生まれる恒星数、惑星を持つ割合、ハビタブル惑星平均数、生命誕生の割合…
 当時は各パラメータが推定できず

・系外惑星をどう検知するか
 ドップラー法(視線速度法):惑星の重力による恒星の運動で色が変化するのを捉える
 トランジット法:惑星が恒星の前を通過するときに光度が下がるのを捉える
 タイミング法:eg.1992パルサーを回る惑星発見。電波のパルス間隔変化

 1995 マイヨールらがペガスス座51番星の惑星(51Pegb)*惑星はb,c,d…
    =中心星の近くを高速回転する巨大惑星ホットジュピターだった
    →以降多数発見。軌道が細長い楕円形のエキセントリックプラネットなど
 当初はマイヨール含めドップラー法が主流だったが、
 2009 ケプラー宇宙望遠鏡がトランジット法で地球サイズのEP発見目指す
  ~2018運用終了までに2600個以上発見。太陽系の構成は特殊ではないらしい
 現在はトランジット法が最大ツールに

・次はハビタブル惑星の発見←トランジット法は大気組成も分かる
 *ただし惑星表面に液体の水がある「古典的ハビタブル惑星」限定。地下は見えない
・ハビタブルゾーンは中心星の明るさ、惑星の大気組成、雲の有無で変わる
 *太陽系のHZは0.47-0.87AUだが地球には温室効果ガスがあるのでハビタブル
  中心星の明るさも時間とともに変わる

・現在の注目
 主系列星の中でもG型(太陽)より一回り小さいM型(質量が太陽の0.08-0.45倍)
 表面温度3000度前後
 中で水素が核融合する速度が遅いため長命
 トランジットの際の明るさの変化が大きいため惑星が検出しやすい
 ハビタブルゾーンがG型より中心星に近いので中心星の近くを回る惑星もハビタブルな可能性が高まる
 2017 トラピスト-1(M型、地球から40光年)周回する7惑星発見。うち3つがHZに
 2018 プロキシマ・ケンタウリ(地球から最も近いM型)ドップラー法でb発見。HZか
  ←ブレークスルー・スターショット計画が実現すると2060ごろ??

・そして再びドレイクの方程式。筆者試算でN=1(銀河系に1個、つまり地球のみ)
 では地球外生命(ETL)であれば?N=50億
 しかしバイオマーカーを分光学的手法で捉えられる生命はごく一部であろう
 (一時期しかいない、地表にいない、など)
 →検出困難な「ダークライフ」をどう検出するかが今後の大きな課題

【8章:生物の惑星間移動と惑星保護】

・パンスペルミア説(アレニウス):宇宙空間は生命の種に満ちており、それが恒星の光の圧力を受けて地球に到達した
・フランシス・クリックも。全ての地球生物にとってモリブデンが重要なのに、地上にモリブデンが少ない→モリブデン豊富な星で生物が誕生しETIが地球に送り届けた?(←実際は海に豊富にある)

・パンスペルミア説の問題
 1.宇宙の微生物はどうやって生まれたか説明しない
   ←現在なら他の天体でも生命誕生条件は満たしうると答えられる
 2.宇宙空間は過酷で、長時間生きた状態で移動できないと思われる
   ←クマムシ。ロシアのフォトンM3を使った実験で10日間宇宙線を浴びても蘇生可
    多くの微生物は乾燥させた菌体なら真空下でも生存可能
    DNA修復能力が高いバクテリア、ディノコッカスは5000Gyでも死なない
    ただし太陽紫外線をどう生き延びるかは問題

・微生物を宇宙に連れ出す「宇宙実験」
 1980s シャトルを使った有人宇宙実験室「スペースラブ」、無人衛星「エウレカ」
 1984-1990 宇宙曝露実験LDEF(ESA)
 1994 BIOPAN(ESA)←ロシアのFOTON衛星に外付けした球形の実験施設
・宇宙ステーション
 1971 ソ連・サリュート1号(~1982の7号)→1990まで運用
 1986-2000 ソ連・ミール(1990秋山豊寛、1998ガチャピン滞在)
 →ロシアのミール2、米のフリーダムなど計画はあったが予算に問題
 1998 ISS建設開始、2011完成。当初運用は2016まで、数度継続
   2008- ISSコロンバス(ESA)曝露部でEXPOSE実験
   2009- ISSズヴェズダ(RUS)曝露部でEXPOSE-R実験
   →岩石内に入れば微生物も紫外線を避けて長時間生存が可能と判明
    「リソ・パンスペルミア」。数十cmの隕石は突入時に外は焼けても中は大丈夫か
    →火星隕石で火星誕生の生物が地球に、との可能性も

・パンスペルミア説の検証:日本の「たんぽぽ計画」(2015)
 1.ISSきぼう曝露部に微生物サンプルを1-3年置いて生存率を調べる
  →微生物は塊を作ると内部の個体は3年生きていられる(マサ・スペルミア)
 2.ISS周辺のダスト採集
  →続行中
 *ただし高度400kmではヴァン・アレン帯により宇宙線が一部カットされている
  →ゲートウェイに期待

・宇宙の微生物汚染
 NASAのサーベイヤー3号(1967月着陸、1969アポロ12号で回収)
 →カメラ内部に連鎖球菌生存を確認
 月は生命探査対象でないのでいいが、火星だったら?
・国際的議論
 1956 国際宇宙航行連盟(IAF)大会で開始
 1957 スプートニク1号打ち上げ
 1958 米NASが月探査による天体への悪影響警告
  →国際科学会議(ICSU)「地球外探査による天体汚染特別委」が探査機滅菌推奨
  →現在は国際宇宙空間研究委(COSPAR)に継承、惑星保護指針(PPP)を継続議論
 1966 国連で「宇宙条約」採択、9条が惑星保護
・COSPARのミッションカテゴリー5分類
 1. 化学進化過程や生命起源に直接関係しない。太陽、彗星、イオ、S型小惑星
 2. 興味深い天体だが汚染が将来影響を与える可能性低い
   カリスト、彗星、P,D,C型小惑星(リュウグウなど)、金星、
 3,4. 重大な影響を与える可能性高い(3は周回、4は着陸ミッション)
   火星、エウロパ、エンケラドゥス
   特に火星は4a,b,cに分類。cは液体の水が時々流れているクレーター内壁など
   →特に厳しい滅菌が要求される
   キュリオシティは4a、パーシビアランスは4b
 5.サンプルリターン。地球への影響を考慮すべきミッション
  制約あり:火星、エウロパ、エンケラドゥス(タイタンは追加の可能性)
  制約なし:月、金星(金星は見直しの可能性)

・滅菌は高温が一番だが、電子部品を加熱滅菌できない
  →薬品を使った滅菌をし、組立はクリーンルーム
・月探査などでも、火星など保護対象の天体に間違ってぶつかる確率を基準値以下にする
  例)日本の火星探査機「のぞみ」(1998、内之浦)
    火星衝突確率が1%+になり軌道投入断念
  *おもてなし、エクレウスは月面に持ち込む有機物のリスト作成
・火星の生命探査の場合は液体の水の近くへの着陸は滅菌徹底
 エウロパやエンケラドゥス:氷の下の探査は海に広がる可能性ありさらに条件厳しい
・民間参入によりさらに統制難しく

・地球外生命からの防護
 生態系への影響(地球生命を食べる、地球生命と食べ物が競合する)
 地球生物への汚染(核酸やタンパクを持つ”宇宙ウイルス”の感染)
  パンスペルミア説を考えると、感染の可能性はある
 出て行った地球生物(ロケット付着微生物、隕石衝突、火山、放電現象)の里帰り
 2019 イスラエル探査機ベレシートはクマムシ、ヒト血液を積んで月衝突
  →紫外線や宇宙線による変異→帰還の可能性も考慮すべし

・火星サンプルリターン
 NASAはマーズ2020で水が存在する可能性がある特別地域(4c)を外して4bにした
・日本のMMX。火星周回軌道に入り、フォボス、デイモスいずれかに着陸して戻る
 2011ロシアのフォボス・グルント計画が失敗→MMXが成功すれば世界初
 フォボスは火星表面から6000kmくらいしか離れておらず、火星に隕石が衝突した際に火星物質がフォボスに到達する可能性がある。火星に微生物がいた場合、フォボスにも到達していることを想定すべき。→COSPAR指針に基づき国際審査。フォボス環境で微生物が長期間生存できる可能性が極めて低いことを示し、結果はカテゴリー5(制約「なし」)で済んだ
・エンケラドゥス:水、有機物、シリカを含むプルームを探査機が突っ切ってサンプルリターン。カテゴリー5(制約あり)となり、生命探査と惑星保護をどう両立するかが問題に
・エウロパ:氷の下の海水中の生命探査。氷をどう掘削するか、エウロパの海水汚染をどう回避するか

【9章:地球外生命から考える人類のルーツと未来】

・従来の研究の多くは、タンパク質と核酸(DNA,RNA)をベースとする現在の地球生命システムへの経路を考えるものが大半
・RNAワールドへの道を考えると、ヌクレオチドという複雑なモノマーを原始地球の海水中や陸上温泉、潮だまりで作るのは相当大変
・アミノ酸は原始地球や宇宙環境でも比較的簡単にできるが、でたらめにつないでも触媒となるタンパク質ができるとは限らない
・以上のように考えると地球での生命誕生は偶然が重なったためで、地球外生命の可能性は極めて低くなる

・ゴミ袋ワールドやがらくたワールドの場合は、まず非常に性能や公立の低いシステムができ、そこから選択と変異(=進化)によって優れたシステムに移行したと考える。地球では地球環境に適したものが生き残ったとすると生命の誕生は必然
・生物進化でも、隕石衝突のような環境変動があったため進化が促進された可能性。温度が高いこと、放射線が強くて変異が起きやすいことも進化の速まりを促すか。非常に安定した惑星では生命誕生から何十億年たっても原核生物かもしれない

・ETIの目:どの波長を見ているか。暗い環境なら音波も?目は2個?cf.カンブリア期のオパビニアは5個。しかし今は目が5個の生物は残っていない。

・地球生命が左手型のアミノ酸を使う理由は→分かってない
・隕石中のアミノ酸に左手型が多かったなど、何かの偏りの結果か
・ではなぜ宇宙に左手型が多いか→円偏光のためとの説が有力。結局偶然?
 →偶然が嫌なら、ベータ壊変する際に放出される電子が必ず左巻きなことに求める?
 →その場合は全宇宙で生命がみんな左手型を使っている可能性

・破局
・カルデラ噴火(破局噴火)7000-10000年に1度
  南九州の縄文人絶滅(7300年前)
  インドネシアのトバ事変(7万年前)=現生人類とネアンデルタール以外が絶滅
  2億5千万年前のペルム紀末大量絶滅はスーパープルームとの説が有力
・隕石衝突
  6550万年前、恐竜絶滅。チクシュルーブ・クレーターは直径160km
  →スペースガード。1996年にNPOスペースガード財団、日本でも
・超新星爆発
  近傍で起きると大量の放射線(宇宙線)が直撃
  弱い場合でもオゾン層破壊によって地上生態系に大きな影響を与える
  近い将来に可能性があるのはベテルギウスだが、ノーマークの星が起こす恐れも
・スーパーフレア
  1859 キャリントン・フレアでは欧米の電信システム停止、電信機の出火も
  1989 数分の1規模だがケベックで大停電、人工衛星の故障、被害100億円以上
  キャリントン・フレアが起きうる最大規模とは限らない
   京大・柴田らが2012年に他の恒星でスーパーフレア発見
  キャリントン・フレアは100年に1度規模→その10倍規模だと1000年に1度起きる
  (グーテンベルク・リヒター則)
   →宇宙ステーションでは致命的、航空機乗員にも大きな健康被害
    発送電システムのダウンで人口維持が困難に
・人間活動
  1983 TTAPS研究=核使用による寒冷化

2022年07月24日

そして夏休みを終わる

夏休み最終日の日曜。ちょっとだけ外出ね。
何かといい評判が聞こえてくるテキサス・ドーナツ。店内飲食がだめだったので車内で1個、家に帰ってから1個いただきました。
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あ、なんか確かにふかふかしててうまい。香りがいいのはなんだろう。そして何がテキサスなのかはよくわからない。

そしてワイナリー。きょうはブルー・フロッグBleu Frog Vineyardsというところ。
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ブルーチーズなめなめ、ハーフグラスで白。その3倍くらい水飲んでしばらくステイで州法は大丈夫な計算です。ここの白は変な癖がなくておいしかったです。

そこから10分くらいのアウトレットに寄って、何も買わずに帰ってきました。
外は予報通り37度。暑かったです。

* * *

10日休んで換気できました。でも仕事が始まるのはやだな。
今年後半に向けて必要だと思ったこと。
・「できることを増やす」には終わりがないため、引き続き少しずつ「初めて」をやる
・やったほうがいいかなと思ったらとりあえず手を付ける
・食う・寝る・家事はペースを崩しすぎない
・楽をするためにお金を使う
・体は動かすべき
・人と比べない

* * *

■サン=テグジュペリ(河野万里子訳)『星の王子さま』新潮社、2017年。
そういや読んだことがなかったなといって。

■斎藤成也他『図解 人類の進化』講談社、2021年。
初版からもうちょっとアップデートしてもよかったんじゃないかとは思いましたが、全体としてはとても包括的かつ分かりやすかった。編集・校閲がちゃんとしてるんだと思う。

■小林雅一『ゼロからわかる量子コンピュータ』講談社、2022年。
すっばらしかった。

2022年06月12日

プライドと送別

6月はプライド月間とのことで、由来となったストーンウォールのあるニューヨークに行くほどの思い入れはないものの、せっかくDCでパレードがあるというので見に行ってきました。たまたま午前と夕方以降の在宅シフトだったので、その間を縫って外出。
ワシントンポスト(WAPOと呼ばれているそうで)によりますと2020年、21年は疫病による縮小開催、今年は久しぶりのフルモードです。
14番通りの上のほうがスタート地点。人いっぱい。
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先頭はバイクの皆さん。
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何かと時間通りに始まらないアメリカにあって、予定通り15時ちょうどに始まった。
交通規制とかの関係でしょう。
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反セクマイデモも小さいのがあったようですが、特段のことはなかったようです。
アイダホでは白人ナショナリストが騒ごうとして31人逮捕される事案。DCは大使館だの企業だのいろいろあり、人口規模が大きくなくてごちゃ混ぜという珍しい構成なせいか「極端」が入り込む余地が少なく、ほのぼのした雰囲気のように思いました。
こちらラテン系の人たち。
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カナダ、EU、アジア・太平洋諸島、ウクライナの集団も。
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あとフェチ系の方々。意外と露出してる人は少なめでした。
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旗とかビーズのネックレスとか、お菓子、Tシャツなどがフロートから沿道の観衆にぶんぶん投げられてました。節分みたい。合い言葉は「ハッピープライド!」
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下のフロートは地元のフィットネスジムの提供。他にもエアバスとかヒルトンとか、なんとなく関係者に結構いそうな業種のフロートも出てました。商業化に懸念があるのは当地も日本も同じですが、上のリンクにあるWAPOの記事では「でも政府の支援がなかった頃から支えてくれてたのは企業だったんですよね」と。なるほどね。その点コーポレートイメージのために遅れて入ってきたのでは、と思われる日本とはちょっと違う感じはする。
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14~17番通り(DCは南北の通りが数字、東西がアルファベットの名前がついている)あたりはバーやクラブもあるらしく、なのでパレードはここを巡るんですね。
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あと、当地はDC市長や議員、今度選挙に出る候補者など政治家のフロートが複数出ていて、それなりに沿道から声がかかっているのが印象的でした。日本でやったら「うげえ」みたいな反応が結構ありそう。とはいえ大筋、日本のパレードは先行例を見てきた人たちがいろいろと取り入れてやってるんだろうなと感じました。
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沿道はアパートも結構あり、ベランダや屋上から応援する人たちもかなり。
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この日は銃規制を訴える集会が全国で起きていてDCも大きなのがあったんだけど、すいません、こっちのが楽しそうなのでこっちに来てしまいました。
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仕事のため18時には帰宅したく、16時過ぎにいそいそと最寄りの駅に向かったところ、道路の封鎖によって地下鉄駅に出るのに一工夫必要になっており、焦りました。結構疲れて地下鉄でちょっと寝そうになった。ちゃんと着いて仕事してシフトが終わったらすぐ布団に入りました。3度寝くらいして9時間後起床。この1週間、シフト詰め詰めでかなり疲れたんですよね。

日曜は春にさくら祭りをやってたペンシルベニア通りでプライドフェスがあったので、ちょっとだけ見てきました。
なんでこの通りでいろいろイベントをやるのかなと思ったのですが、これ多分、終点に議事堂があってどん詰まりなので交通規制しやすいのと、イベント側にとっても象徴的な建物の前でやるっていうのがDCっぽく、政治的な意味もあるということなんじゃないかと思いました。つまりこういう絵が撮れる。
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ざっと見て帰りの地下鉄に。1駅乗り過ごしてコーヒー飲みに行きました。ノースサイド・ソーシャルNorthside Socialでアイスコーヒーと、クランベリー&生姜のスコーン。
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うん、まとまった。金曜までは土日の天気予報は芳しくなかったけど、土曜の雨は昼で終わり、雷雨といわれていた日曜は日差しがきついくらいでした。

今週は若干の不確定性を孕んだまま始まります。平穏を希望。

* * *

前回の日記の追記で「は?」となったのは、東京の出身部の部長が急逝したとの報せでした。
55歳、脳出血とのこと。朝、ご家族に発見されたらしい。起きて布団を出ようとした形跡があったそうで「あ、やばい」と思うくらいはしたのでしょうか。会いに行った会社の人によると血色はよく、会社で居眠りしてた姿そのままだったそうです。

で1週間ですが、なんかもう遠すぎて実感がわきません。本人にとってはもはや意味がないしご家族はもちろん残念で大変だろうと思うのだけど、死に至る苦痛の量でいうといろんな亡くなり方の中で圧倒的に少なかったんじゃないかと想像します。

弊管理人が2009年に東京に転勤した頃におじさん職位になり、仙台に数年いってた他はほぼ同じ職場にいました。でもちょっと分野が離れていたことが多く、12年にストックホルムに行った時が一番密接に仕事したくらいかも。何よりボスになった途端に弊管理人をアメリカ送りにした張本人……。いやまあ別に打診を受け入れたのは弊管理人ですし、ご本人も弊管理人に(誤って)何かを期してのことだと思いますが。というくらいしか書くことないんだなあ。何も感じないということではなくて、繰り返しになりますが、いなくなった感じがしない。

* * *

しばらく前から洗面所のパイプが詰まり気味で、歯磨きした後に吐き出した水がなかなか流れないのがストレスでした。詰まり(clog)を溶かすクリーナーは効かず、アマゾンで長細くて返しのついたプラスチックの掃除用具を買ってパイプの中にごしごし通してみたところ開通。心に一つの平穏が訪れました。ここに特記したいくらいすっきりした。

* * *

最初に当地でクレジットカードを作ってから半年がたち、信用スコア(クレジットヒストリー。FICOスコアという)がたまったのでアメリカンエクスプレスのゴールドカードを作りました。なんかずしっと重いと思ったら金属カードなのな。
目的はポイントで、ANAのマイルに替えてタダで一時帰国したいということ。
他社の知り合いから招待してもらう形で作ったため、紹介特典で半年以内に4000ドル使うともらえるポイントが1.5倍に増えるようです。2回帰れるかな。どうだろう。

* * *

40年ぶり級のインフレで物価がえらいことになっており、家賃がすごい上がったとか、家主に「今売りたいから」と契約更新を断られたとか各所で阿鼻叫喚エピソードを聞きます。昨年は1ドル109円で換算してもらっていた給料が、今年は121円になってドルの上で目減りし(物価上昇調整で日本円でもらう給料は増額されたのにだ)、これはもたんとボスが本社財務部に掛け合った結果、家賃補助の上限が上がることになりました。えらい!!

弊管理人の住んでるところは1LDKで月額30万円くらいするんですが、恐らく赴任中に2回の契約更新を迎えることになり、従来の補助上限だとギリギリ足が出るかどうか、くらいだったので、今回の上限引き上げで多分大丈夫だろうと安心しました。経済成長してる当地と停滞しまくっている母国の差は広がる一方です。あと海外駐在出すって会社にとってすごい&ますます負担なんだな。人材育成の場になってる地方のネットワークを削るんじゃなくて、海外を減らすほうが最適解じゃない?(危険発言)

* * *

バッハのイタリア協奏曲に手を付けました。
指の動きが良くなってきました。
3月に電ピを買った時には「そんなに衰えてないかな」と思ったものですが、やっぱり衰えていたようです。

あと、20代前半のような「体力で弾く」感じの弾き方ができなくなりました。その代わりに、気長にゆっくりしたテンポで練習することで20代の時に弾けなかったり諦めたりした曲がそこそこ弾けるようになってます。
読書もそうで、30代半ばまでは「どれだけ速く多く読むか」が気になっていたのが、この数年は「わかる/流すを見極めるための最適な速さ」(難解な本はある程度の速さを保って2回読むといいとか)を探ることのほうが重要になってきて、月に何冊読むかはどうでもよくなりました。

残り時間が少なくなると将来の選択肢が狭まる分、焦ってザッピングするような生き方をしなくなり、今に集中することでかえって局地的な達成が可能になるということなのかもしれない。「未来『への』疎外」から脱するというか。

* * *

やっとアメリカが日常になったようだとの指摘を受け、確かにそうなのかもしれないんだけど、こういう時に穴に落ちそうなので気をつけようと思いました。
あと、秋冬になると免許更新とか家の契約更新、車検やら何やらでまた面倒が待ち受けており、仕事も込む時期に入ってくるので、夏まではなるべく楽しむほうに時間を振り向けたいです。

* * *

今回のよく聞く英語は
xx is all about... =「xxは...が全て」。
例)It's all about international cooperation. 「この案件は国際協力が全てです」

* * *

■若狭直道『最新量子技術の基本と仕組み』秀和システム、2020年。

量子技術を幅広く扱った本が少ないのであまり選択の余地なくこれを買いましたが、構成も文章もひどかった。

2022年05月08日

シードルとチャイコ

金曜の朝から雨。なのでもともとあまり出社するつもりはなかったけど、昼過ぎの仕事が予想外に東京の反応を呼んでしまい、結局出社どころか部屋から一歩も出ずに終わってしまいました。夜半には雷雨になり、土曜も風強めの雨でした。10度。寒い。

土曜朝は在宅仕事のアポイントがあったのだけど、相手から連絡なくすっぽかしを食らいました。まあアメリカってこんなもんだろうと大して気に病まず過ごしていましたが、日曜朝に「体調不良で」と謝罪がありました。

今月は地下鉄の1カ月定期(90ドル、18日使うと元が取れる)を買ったので、昼過ぎから地下鉄でちょっとDCの北の方に出掛けました。
コロンビアハイツという地区にあるキャピトル・サイダー・ハウス。
お試し4種類で12ドル。
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昼がカップラーメンだったので、エンパナーダという具入りのパンも頼みました。
「エンパナーダって何?」と聞いたら「餃子みたいなやつ」と言われましたがその通りでした。中身はマルガリータ、ポーク、ビーフの3種類。
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サイダー(シードル)は辛口なリンゴのワインです。もちっと甘い方が好きかな。

夜はちょっと運動してシャワーを浴びてから、ベン・アンド・ジェリーズのピスタチオアイスをなめなめ(アイス本体は杏仁の香りがしつつ、ピスタチオにちょっと塩気があって大変うまい)、冷凍のナゲットをレンチンしてつまみつつ、先週買ったワインを飲むなど自堕落に過ごして寝ました。

* * *

日曜は昼にポークチャップを作って食べてから、北ベセスダのストラスモア・ホールに行ってアナポリス響。オルガ・カーンがソロを務めるチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番でした。
アナポリスはメリーランド州の州都ですが、海軍と役所と港周辺の観光地がある以外は静かな街で、こんなところでオーケストラもてるんだろうかと多少不安でしたが、どっこい頑張ってました。あと、オルガ・カーンはまさかのパワフル技巧派で大変よかった。

夕飯はにわかに焼きそばが食べたくなり、近所の中華屋でローメンLo Meinをテイクアウト。
ビニール袋ぶら下げて帰る途中、20時のうち周辺がこんな感じです。中心部だけにある高いビルが夕陽に照らされてました。
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ちょっと食べ過ぎくらい食べて満足しました。

* * *

■加藤隆『旧約聖書―「一神教」の根源を見る』」NHK出版、2016年。
■池上英洋『西洋美術史入門』筑摩書房、2015年。

* * *

物価が順調に上がっていて、確かついこの間まで3.65ドルとかだったアイスとハムがそれぞれ4.99になっててびびりました。あと年末には1ガロン3ドルそこそこだったガソリンは4.39に。まああんまり車乗らないからそこまで痛くないけど、結構ですね。野菜はそこまででもない印象。イチゴは安く(450gのパックが安売りで1.99になってた)、あと季節のせいか甘くておいしくなったので、毎日食べてます。

円安が進んで、給料の換算基準が去年は109円だったのが今年121円になって目減りした!と怒っていたのも過去のこと、実際は130円なのでまだ得をしているくらいになっちゃってます。職場では「80円時代に赴任した人はよかっただろうな」と言ってます。弊管理人は1人なのでまだましですが、子どものいる家は大変そう。

* * *

部屋の湿度が冬の間は26%とかだったのが、暖かい季節になって集中暖房が弱められたせいか、30%半ばから40%超まできました。料理に三温糖みたいな茶色い砂糖を使っていて、湿度が30%を切ると容器の中でがっちがちに固まってしまいますが、それがましになりました。

朝、目を覚ますと、部屋の湿度でその日の外の気温がだいたい推測できます。できたからどうということはありません。

* * *

多分、次の日記を書く頃には45歳になってます。
四捨五入すると50(するな)。
30代に入る時にちょっとおっさんになるのやだなーと思ったくらいで、その後はもう加齢に関しては諦めがついたのと、結婚しておらず子どももいなくてライフステージが変わっていかないため淡々と歳を取っており、44が45になってもどうということはないと思います。

2022年04月17日

復活したり過越したり

弊管理人はバレンタインとか関係なくチョコレートを食べるのですが、どうも3月くらいから店頭に卵形のチョコが増えてきて、いやハーシーズの卵とかおいしいので有り難く食べてましたが、何だろうと思ったらイースター/復活祭でした。

そういやニュージーランドに留学してた時も、あちらは3月に学期が始まるので、一通り授業に出てちょっと疲れた頃にイースター・ブレイクといって1週間くらい休みが入って助かったことがありました。当地も世間はイースターまでの1週間(聖週間)はお休み期間のようで、お子さんのいる同僚は交代で休んで家族サービスをし、金曜(聖金曜日=受難と死の記念日らしい)は役所の動きがぱったり止まり、からっと晴れた土日は多くの人がお出かけしていました。

ようやく到来した春を祝う機会であれば他の宗教でもお祭りがあるわけで、ユダヤ教は金曜の夜が過越の祭(英語だとPassover)だったようです。出エジプトの前にモーセとファラオが交渉してたら、エジプトに「十の災い」が起きて、そのうちの一つ「人と家畜の初子が死ぬ」に関しては子羊の血を家の入口に縫っておくと〈主〉の襲撃が過ぎ越すというやつ。

当地大統領は金曜と日曜に声明を出していました。政教分離どうなってるの?と思いがちですが、合衆国憲法修正第1条が「連邦議会は国教を樹立し、あるいは信教上の自由な実践を禁止する法律を制定してはならない」としていて、復活祭おめでとうと言うのは信教上の自由な実践なので憲法的にはオッケ、ということだそうです。フランスのライシテ、すなわち公的空間からの宗教色排除とは全く違う「政教分離」のあり方(下記・西山本)。

閑話休題、そういうタイミングだとは知らなかったのですが、今月初めに時間指定チケットを取ってあった、DCにある「ホロコースト博物館」を見てきました。
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どぎつい写真は載せませんが、エレベーターで4階に上がって降りてきながら見る展示は、扉が開いた瞬間からショッキングなパネルで始まり、ナチスの政権獲得から焚書、水晶の夜、周辺国への侵攻とそこでのユダヤ人虐殺、「最終解決」、解放、戦争裁判、その後のポグロムとイスラエル建設、そして「アメリカには何ができたはずか?」まで、映像と写真、物的資料を駆使して問いかける大変濃いものになっていました。
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現在「ジェノサイド」と名指された東欧事変の最中。1940年代初頭には既にドイツでやばいことが起きているという情報はもたらされていたのに、アメリカはもう戦争に関与しません、と言い切ってしまったルーズベルトの映像がバイデンに重なりました。

アウシュヴィッツのでかい模型もあります。
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かねて行きたいなと思っていたところですが、世界は疫病と戦争でそれどころではなくなってる。

ユダヤ人を運んだ車両。
スティーヴ・ライヒの「ディファレント・トレインズ」が脳内再生されます。
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ガス室の扉もあった。
展示品蒐集への執念を感じます。
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その辺の経緯をまとめた本が売店にあったけど買いませんでした。
そのかわり、すっごい重いわりに20ドルの図録を買いました。たぶんホロコーストに関する手近なリファレンスとしては決定版だと思う。いや来てよかった。

外は青空。芝生もいつの間にか緑になってた。
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今日(日曜)は日中でも12度とかで肌寒いんですけど、先週半ばは25度で上着いらずでした。夜は20時くらいまで真っ暗にならないくらい日が長くなりました。
日光に照らされた街が春っぽく香り、街に人が戻ったせいか他人の体臭を感じることも多くなって、嗅覚で社会が動き始めたことを知る今日この頃です。

* * *

食い物いくつか。
アジアンスーパーのあるショッピングモールで、ちょうど昼時だったのでポパイズ・ルイジアナ・キッチンというチェーンの店に入りました。
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チキンサンドうま。引っ越してきた当初に不動産屋さんと昼飯したの、確かここだったと思う。「私ここ好きなんですよ~」と言われて「ええおいしいですね~」と言いながら食べたけど、味はあまり覚えてなかった。多分、考えることがいっぱいありすぎたせい。
チキンサンドとコールスローと飲み物で10ドル。日本円で1260円と思うとおいおいっていう値段ですが、もはや換算しなくなってきた。換算し始めると何も買えないやと諦めたのと、他のものとの比較で値段を見定めるようになってきたためでしょう。
ちなみにセットで1000キロカロリーほど。こわい。

あと土曜の夜に、アジアンスーパーで買った日本のルーでカレーを煮ました。
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大阪で荷出ししてからだから少なくとも8カ月ぶりか。いや、9月に実家で食べたっけな。いずれにしてもめちゃくちゃ久しぶりです。懐かしくて食べ過ぎた。うまいんだけど、鍋を洗うときにすごい量の脂を食ってることを痛感します。タイカレーとかカレー粉で作るやつだと全然すっと洗えるのとは大違い。

あと、博物館から帰ってきて夕方小腹が空いたので、おやつとしてカーチョ・エ・ペペの偽物みたいなのを作りました。イタリアでも「真夜中のパスタ」として小腹が減ったときに食ってしまうやつらしい。パルミジャーノをすりおろして使うのが理想だが、そんないいものは今ないので代用。背徳感はトマトで軽減します。
うま。やっぱり背徳感はあった。
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ところで、冬の間寂しかったスーパーの棚が彩りを取り戻しました。供給網、そんなに外的要因でだめになったり大丈夫になったりするのでいいのかなあ。あと、東欧の事変からこっち、パスタが高くなった気がします。ついでにガソリンは露骨に高くなって政治問題になってますが、気の触れた隣人から攻め込まれてる人たちが聞いたら「こっちは生きるか死ぬかじゃ」とかいって呆れられるわな。

* * *

仕事の予定がやや疎な1週間だったため、この隙にと今までためてきた仕事を一気にほぼ完成形まで持っていきました。木、金あたりでちょっと寝不足になった。金曜夜は最近では極めて珍しいことに、日付が変わる前にQPキメてから寝たら大分回復した気がする。土曜にシフトが入っていてまた朝起きしないといけなかったからなんですが、実はシフトを作った人のミスで、本当は休みだったことが土曜昼前に判明。なんなら得した気分でだらだらしました。

毎日憂鬱な時期が冬とともに過ぎて、朝は特に何も考えずに起き、仕事に入れるようになっています。しかし息抜きすると足元を掬われる気がして(←心の安寧が訪れないタイプ)、次の方向性を模索しています。

* * *

■西山隆行『アメリカ政治講義』筑摩書房、2018年。
■千葉雅也『現代思想入門』講談社、2022年。

どっちもよかった。

2022年03月18日

フロリダ出張

16-18日、フロリダに2泊3日で出張してきました。
国内線初めて、レンタカー初めて。特にレンタカーは勝手が違うだろうなと思ったらその通りで、広大な駐車場に並べてある車の中から「好きなの選んで乗ってって」という形式。
どうやって使用者と車を紐付けるのだろうと思ったら、駐車場の出口ゲートで車に乗ったまま保険をどうするかと、ガソリンは満タン返しか単位で払うかを選んで、カードで仮払いしてそのまま乗り出すのでした。
きょうびカーナビはついておらず、iPhoneを有線か無線で繋いでCarplayという機能を使うと車側のディスプレイにiPhoneの画面が映し出され、あとは地図アプリにナビしてもらうというだけ。だよね。地図はいつも最新だから、これが絶対合理的だと思います。

ずっと在宅で2時寝の10時起きみたいな生活だった冬と違って、今回の外仕事は5時半とか6時に起きて延々運転して仕事場に行ってわいわいやって戻ってその日のうちに寝る、というサイクルでした。ちょっと遅寝遅起きが是正できた。
ホテルは「ベストウエスタン」を使いました。日本だとちょっといいビジネスホテルくらいのイメージだったけど、これは東横インだな。クリスマスに泊まったチェサピーク湾のベストウエスタンと部屋の中がほぼ一緒だった。満足とは決して言わないが文句を言いたくなるほどでもない無料朝食がついてるとこまで東横イン。建て付けはモーテル。

最終日は5時半起きの仕事が11時半にはけたので、そのままケネディ宇宙センターの展示施設に行きました。駐車場10ドル、入場料57ドル。結構やね。
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しかし結論からいうと行ってよかった。アポロ計画以来また月に行こうというアメリカの宇宙開発に仕事で触ることがちょくちょくあるので、歴史や位置づけが体感できたというのが大きかったです。これはアポロで使われたサターンVというロケット(のケツ)。
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資料を読めばスプートニクショックがあって、事故があって、72年まで月に行って……というのは分かるのだけど、なんというか温度感みたいなのが掴めないために、目の前の一つ一つの事象に思い入れが持てないでいたんですよね。
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サターンVは制限区域内にあるのでバスで往復しますが、そのバスの中でもビデオが流れて、いまアメリカが進めている月探査計画のトリビアから概要、センター周辺の自然保護対策まできちんとアップデートされた情報を伝えていました。現政権の国家宇宙会議の重要アジェンダの一つになっているSTEM(理系科目)教育の重要性にも触れていて、確かにこういうのを楽しく見せられた子どもが勉強頑張って将来いっちょ噛みしようって思えば、必ずしも結果として宇宙に関わらなくてもアメリカという国の強さを支える力にはなるよな。
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ここのセンターのアトラクションは、入口で強制的にいったん足止めされて、歴史と技術をコンパクトにまとめた映像を見せられてから、やっと展示を回れるようになる作り。
↑これはスペースシャトル「アトランティス」の展示館の入口ですが、立ったまま頭上と左右を取り巻く大型モニターによって映像の中に浸されるので、本当に宇宙船に乗って宇宙をぐるんぐるん回ると眩暈がするようになってる。
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そして、これを全て資産として持っているってすごいよねえ。
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ただこの国の常として「人」に依存する部分は全くだめで、係員は写真とってくれと頼んでも聞いてくれないし、アトラクションの列はただ人が集まってるだけで「列」になってない。
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仕事場でも、事前に計画されていたことはできておらず、待ち時間に行くと待たされ、バスは「気分」で定刻より早く出発し(乗れたけど)、開始時刻はまず遅れる。書類を大量に要求するわりに見ない。メールは返ってこない。なのに悪びれない。ただこれは「そのたびそこいる人に確認する」「対応を求める」ことで大部分解決することも分かってきました。つまり「交渉文化」なんだと思う。声を出すことで物事が進むということ。めんどいけどフレキシブルとも言えなくもない。今回も17日は午後10時40分まで送迎がないという案内だったのに、仕事にちょっと早く目鼻がついたので午後8時時点で「帰りたい」と訴えたら「ちょい待ち」といって小さい車をアレンジしてくれた。おかげで睡眠時間が確保できたりした。
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射場を望む観客席から、17日にお披露目されたSLSという月ロケットが見えました。(画像が荒れてますが、デジタルズームを限界までやったため)
成功するといいね。

31度。日差しはそれなりにきつかったですがそこはまだ3月、風があると涼しく、快適に歩き回れました。ゆっくり見ると1日では足りないと言われる施設を4時間半で切り上げて、びゅーんとオーランド空港に戻ってレンタカー返却。これも返却手続きはなく、「リターン」と書かれたところで車を降りるだけ。空港で夕飯食べて帰りました。
疲れたけど、国内移動の初級課程はできたと思う。

フロリダはもはや誰もマスクしてなくて、しかもめっちゃ唾飛ばしながら大人数で喋っていたので、帰宅翌日の土曜にPCR検査受けてきました。陰性。ほっ

2022年02月28日

冬を終える

金曜から持ち越した仕事を土曜の昼過ぎまでやって、本格的に日が傾く前にちょっと散歩、ということで家からわりと近いポトマック・オーバールック・リージョナル・パークに行きました。
ポトマック川を望める木立の中の散歩道、のはずでしたが特にスペクタクルなことはなく、犬を散歩させているおじさんなどに出会いつつ戻る。
たぶんその辺の住民がちょっと歩きに来るような公園で、小さな駐車場は車が次々に入れ替わっていました。
けがをした猛禽類が保護されてる小屋も。
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Red Shouldered Hawkはカタアカノスリ。
もう自然に帰しても生きていけないということでここで終生暮らすようです。
達観してますか。そうでもないですか。

林の中を歩きながらいろいろ考えていました。
というか、いまの生活の主要な毒はいろいろ考えることじゃないかという気がする。
一言でいうと「生き方の見当がつかない」なんだけど、書いてしまうとそれは当然で、20年近く死後の生を生きている、カウントダウンではなく永遠のカウントアップの中にいるようなものだから。朝が憂鬱なのもそういうことかもしれない。

土曜は結局夕方遅くに仕事が着地して、そのあと何をしたかよく覚えてないくらいうだうだして寝ました。

* * *

4月のどこかに入るかもと思っていた仕事がほぼ入らないことが確定したので、ピッツバーグであるコンサートのチケットを買ってしまいました。

その勢いで日曜はケネディセンターに行ってノセダ指揮のナショナル響でバッハ、ヴィラ=ロボス、そしてマーラー。
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みんなわりとカジュアルに立ち上がって拍手するわりには日本みたいにしつこくアンコールしない。演目終わったらさっさと帰って行きました。
ちなみにパイプオルガンのパイプの下にいるバラモスみたいな方は、マーラー4番の最後で出てくるソプラノです。

ケネディセンター、10年ぶりです。前回は2012年1月
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照らし合わせたわけではないけど、10年前とほぼ同じ場所の写真になってました。2カ月弱の差があることを考えると、たぶん時刻も同じくらい。
当時は「ひょっとしたらそのうちここに住むかもしれない」くらいは思ってたはず。
迂闊にもほんとに住んでしまった。この橋を渡って通勤するとは思ってなかった。

* * *

絵に描いたような戦争が始まってしまい、忙しい人たちは毎日忙しいです。しかし今日は背後で「これで戦争の当事国だったらこんなもんでは済まない」と話す声。なるほどな。

どんぴしゃではない弊管理人も少し噛んでいますし、手伝ってと言われればいくらでも手伝いますが、やっぱり専門性の壁というものはあり、餅屋でない人の作った餅はどうなのという気もするので、ちょっとここしばらくはお座敷の声がかからなければ、できればインプットを中心とする期間にさせていただきたいなと……

* * *

家の駐車場は3カ月の無料期間が終わり、有料化の手続きにうまく移行できなかったらしく出入り口のゲートを通れなくなってました。駐車場の管理会社に電話して支払い手続き。電話やだなーという気持ちももうあまりなくなり(諦めたともいう)幼児みたいな英語でも用が足せるようになってます。

* * *

しかし長期出張感は相変わらずであって、このところまた夢を見るようになってきましたが、日本にいる夢が多いです。朝は少し早く目覚め、2~3回は短編の夢を見て「えいや」と起きる感じ。大阪を出るとき、大半の家財をトランクルームに入れるべく引っ越し屋さんががしがし荷造りしているのを見ながら「まるで3年間冷凍保存するみたい」と思いました。今もそれは変わらりません。

そうこうしているうちに大学のサークルで一緒だった同級生がカリフォルニアにきました。数年前に一度、日本企業の研究者として西海岸に駐在して、いる間に転職して日本に戻り、今回また当地の某巨大IT企業に移り、ついでについてきたくないと言った妻子とは離別を選んでマンションもあげて移住した。アメリカが2回目のせいか元から要領がいいのか知らないが、さくさく家を決めてスーパーに行ったりレンタカー借りて動き回ったりしていて強い。そして嬉しそう。

あと、3月が始まりそう。

* * *

■Christian Reus-Smit, International Relations: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2020.

■古田徹也『いつもの言葉を哲学する』朝日新聞出版、2021年。

2022年01月23日

夜遊び

土日は休みました。

わりと疲れていたらしく、昼近くまで9時間寝て起きた土曜の朝はかなりすっきり。
年末に遊んだ友達にLINEで「何してますか」と呼びかけたら夕飯を食べることになりました。彼が住んでいるDCのローガンサークル近くのちょっとした夜の街に出掛けると、目当ての中華料理屋が疫病により店内飲食をやめており、彷徨うことに。
辿り着いたのは黒い街区のUストリート、Ben's Chili Bowlでオバマが好きだというチリドックをいただきます。
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むちゃくちゃジャンク。しかし地元民はソーダではなくおっそろしく甘そうなシェイクをすすりながらこれを食っていた。チリはどこかでぴりっと辛くて美味、フレンチフライもうまいんだけど、深夜に至るまでお腹の中で膨張しつつ存在感を発揮していました。

ちょうど前にワシントンにいた東京のおにいさまからちょっとした仕事の電話がきて、チリドッグ食ってると伝えたら「いーなー、楽しそうだなー」と言われてしまった。

ちょっと一杯いきましょうか、ということで河岸を変えてBusboys and Poetsというお店でビールとサングリアを飲んだら結構回りました。写真忘れたけど、周囲を見てるとお料理の盛りもよさそうで、食事から飲みまでここで間に合うなと思いました。なのに22時終了というよい子営業。-4度の中、地下鉄に乗って帰って寝ました。初めてかもしれない、土曜の夜らしく遊んだの。なんかまた一つ、日本に置いてきたものを取り戻した感じがした。

* * *

日曜も結局寝坊して、雑用をいろいろやったあとアジアンスーパーに買い出しに行きました。タイヤの問題が解決したので、運転中の心配が一つ減ってよかったです。なんとなく右側通行にも馴染んできた。けど油断禁物。

・うちにあるフライパンは20cmのおままごとみたいなやつ一つで、ちょっと鍋を振ると中身がこぼれそうになるので、28cmのwok pan(炒め鍋。フライパンよりちょっと深い)を買いました。24cmのフライパンもあったんだけど、大は小を兼ねるということででかいほうにしたら、家に帰って台所に置いてみるとほんとにでかい。でもパスタ茹でて具と和える時にがちゃがちゃと混ぜても周りにこぼれたりしない安心感はありました。買ってよかった。$12.99(その辺のスーパーで買うと倍くらいする)

・あとは魚。またサバも芸がないかなと思ったら今日はSpanish Mackerelが安い。調べたら「サワラ」だそうです。煮付けと味噌漬けをやってみるか

・年末にお呼ばれでいただいたグリーンカレーが辛くておいしかったので、多分これだろうと思うグリーンカレーペーストの缶を買いました。$1.49。安い。ナスも確保。あとはココナッツミルクと鶏肉を家の下のスーパーで仕入れればできそうな気がする。こちらのナスは大ぶりなので、味噌炒めにも流用しよう

・パン粉も。そのうちですけど、やっぱり揚げ物食べたい。サケフライか何かがいいな。こちらは油はペットボトルにでも入れてゴミに出してしまえばいいらしいのでそこのところの処理の心配はない

* * *

ときどきキーワードを確認するということで、

■岡本裕一朗『アメリカ現代思想の教室』PHP研究所、2022年。

リベラリズム(ロールズ、1971『正義論』)=個人の自由+弱者救済
 ・個人が追求する「善」の間の「公平さ(公正)」が「正義」
 ・普遍性←カント
 *WWII後の「リベラル」=反共
 *アメリカは中央政府による福祉政策←ルーズベルト「欠乏からの自由」
  ←→ヨーロッパの自由放任的リベラリズム
リバタリアニズム(ノージック、1974『アナーキー・国家・ユートピア』)
 ・経済的自由を含めた個人の自由重視、最小国家
 ・「権原」正当に獲得したものに対する所有の正当性←ロック
 ・勤労収入への課税は強制労働(←→格差原理)
共通性
 ・個々人の生き方の多様性=選択主体としての「個人」重視

コミュニタリアニズム
 ・マッキンタイア、1981『美徳なき時代』:共同体の「共通善」←アリストテレス
 ・サンデル、1982『リベラリズムと正義の限界』:「負荷なき自己」批判
 ・テイラー、1985「アトミズム」:承認を通じた個人のアイデンティティ形成
  ・90年代の多文化主義:共同体間の承認(承認の政治、差異の政治)
  *「単一文化」を前提、共同体内の差異
  *リベラル・デモクラシーからも多文化主義は擁護可能

ネオ・プラグマティズム(ローティ)
 ・旧プラは経験、心、意識を語る/新プラは言語を語る(言語論的転回)
 ・合意としての真理
 ・リベラリズムへの接近(80s)、自文化中心主義からのロールズ再評価
 ・アイロニズム(反本質主義、可謬主義)
 ・文化左翼(ポストモダン、カルスタ、ポリコレ)批判(90s)と祖国アメリカ回帰
  ←経済的不平等への対処不能性

歴史の終わり
 ・フクヤマ:対立の解消(コジェーヴ、ヘーゲル的弁証法の終了)
  ←デリダ、ジジェクの批判、ただしオルタナティヴ提示不能
 ・ネオリベ(フリードマン~):福祉主義的介入批判
 ・グローバリゼーション:中間層の没落
  →国民国家の失墜→ネグリ、ハート『〈帝国〉』
  *↑ハズレ。cf.ブレクジット、トランプ
 ・ハンチントン「文明の衝突」
 ・ポストヒューマン(フクヤマ)→バイオ、情報技術。カーツワイル

新反動主義
 ・リバタリアニズムの3形態=
   ネオリベ(グローバリゼーション)
   カリフォルニアン・イデオロギー:ヒッピー、ハッカー、国家干渉の排除
   新反動主義、オルタナ右翼(内政):自由に基づく民主主義否定
    ティール:サイバースペース、宇宙、海上都市
     ヤーヴィン「新官房学Neocameralism」:経営体としての国家、効率性>平等
    ネオコン:小さな政府、経済的自由、自由貿易、グローバリゼーション
    ←→paleo-con:移民制限、保護貿易、孤立主義
    ランド「暗黒の啓蒙」民主主義=衆愚、平等、PC、融合、調和批判
    →「右派加速主義」遺伝子改変、徹底的分裂、人間の限界突破

社会主義
 ・ミレニアル世代、サンダース(実態は社会民主主義)支持
 ・根源的平等性radical equality:医療を含めた必要物へのアクセス(バトラー)
 ・ポスト資本主義:メイソン「シェアリング・エコノミー」、金融システム国有化
 ・スルニチェクとウィリアムズの左派加速主義:テクノロジー活用、労働解放、BI
 ・ハラリの疑念:テクノロジーは平等ではなく「無用者階級、劣等カースト」を生む
 ・ケリー「ミラーワールド」

2022年01月01日

年明け

このエントリーから、投稿日時をアメリカ東部時間(UTC-5)に合わせました。

大晦日の夕方から仕事をしているうちに2022年に突入してしまい、CNNをつけていたらニューヨークでは紙吹雪(confettiという一語で表せるんだな)が舞って盛大に新年を祝っていました。外では花火のような音が聞こえた気がするが、事故だったかもしれない。いや花火か。あと短時間の停電もあった。部屋のブレーカーが落ちたのも含めると電源が落ちるの4回目なんですが、ノートはバッテリーがあるからいいとして、うちのデスクトップ、使用中にこんな何回も突然落とされてHDDとか大丈夫だろうか。

2時半に仕事が終わってそのまま寝て、昼前まで寝床にいました。元日は寝るのが一番贅沢な過ごし方です。一日じゅう暗くて霧雨が降ったり止んだりしていたので、「こんなに天気がいいのに家にいるなんて」という呵責もなくだらだらできました。昼は豚キムチ。正月っていう感じがしない。

就寝したときには既に元日だったので、朝までに見た夢が初夢とすると、なんかピアノ弾いてた気がするな。そしてそこそこ弾けていた。大阪の部屋に置いてあった電子ピアノは荷出しでトランクルームに行ってしまったため、もう4カ月以上弾いてない。急いで買うものではないのでしばらく様子を見ていたが、やっぱり買おうか……うーん。

* * *

大晦日、DC独り暮らしの知人とご飯を食べました。
この人は10月半ばに来て、まだ生活の立ち上げ中とのこと。欧州某語の専門で南米などにはいたことがあるが、英語圏の暮らしは初めて。やっぱり毎日の食事に苦労しているようです。
Ted's Bulletinというお店に入ってみました。
朝7時から終日頼める朝ごはん。
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カウンターもあって一人飯もいけるんじゃないかな。自分で作れそうだけど。
ここって多分、10年前にも来たはず。
17時前くらいに別れて、歩いて地下鉄駅まで戻りました。
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日没が最も早い時に比べて10分くらい遅くなってます。冬至の日のニュース記事で「あとは日が長くなるだけだ」と言われていてポジティブだなと思いました。弊管理人は今日に限らず長期的に元気が枯渇してるんだけど、たぶんどの国にいても元気はないのでどこにいても一緒といえば一緒かもしれない。

* * *

■石牟礼道子『椿の海の記』河出書房新社、2015年。

『苦海浄土』に続いて。エッセイとフィクション、人と自然と超自然のあいだ。

2021年09月22日

車山とか

連休はラスト帰省でした。
台風が来ていたものの、天気図を見て大丈夫と判断、家族3人で諏訪の温泉宿に泊まった初日は雨もようでしたが、翌日は台風一過で晴れたので車山へ。
ほらね。左は八ケ岳、その隣にうっすら富士山。
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そういえば9月下旬という時期に帰省したことなかった。父宅は暑くもなく寒くもなく、夜もよく眠れました。
父方、母方ともにばあちゃんは不在で、伯母とさようならしてきました。
父と伯母とはLINEを交換しました。これで遠距離の通信も低コストでできるでしょう。

6年会ってない叔母(母の妹)からメールがきてじゃあねという話。
返信にも書いたんだけど、うちは母方の祖父はシベリアに抑留された上にウズベキスタンに移送されて劇場作らされたりし、父方の祖父は飛行機乗りで中国戦線に行っていたとかで、なんだかんだ仕事(?)で海外行かされることってあるよねと。

* * *

会社旧知のおねえさまとお茶、あと出身部のおにいさまがたとランチ。
札幌時代の上司に会ったら「来年定年だから、君が戻ってきた時にはいるかどうか分からないけどな」と言われて驚くなど。札幌時代、ちょうど今の弊管理人と同い年くらいだったんですね。人の仕事人生は短い。そして意外と漂うさようなら感。

* * *

朝は「今日も何かしないといけない今日が始まってしまった」とゲンナリしながら起き、昼はぎゅんぎゅん飛び交うメールやメッセージをチラ見しつつ諸準備し、夜はそれなりに勉強などしつつ床に就くという何やってんだかな生活もそろそろ終わりに近づいてきました。

* * *

■小泉宏之『人類がもっと遠い宇宙へ行くためのロケット入門』インプレス、2021年。

滑り込みゲット。してよかった~

2021年08月08日

児島

台風が向かってきてますけど、到達する前に行けばいいでしょう。
ということで岡山・児島にふらっと。
鷲羽山。
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あ……すばらし。瀬戸大橋がすぐ近くに見えます。
降りてきて「どんぱち」でうどんをいただきました。
児島うどんていうのがあるんだって。まあ讃岐の目の前ですしね。
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うまい。というのはもう見た目から明らか。
王子ケ岳、
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は橋から遠いので霞んでいるところを見るのですが、なんか夢みたいな(?)彩度の低さです。
ふもとにあるDENIM HOSTEL FLOATでレモネードフロート飲みました。
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学生服資料館みました。
瑜伽(ゆが)大権現のお参りに来る人用の足袋→学生服・軍服、という流れらしい。
1923 関東大震災後、米国からの支援物資が大量に入って洋服化の流れが作られた
1967 ラッパズボンなど変形・改造服が流行
1970年代 長ランが誕生=大学応援団が応援中に上着の裾が乱れるのを嫌って導入した
昭和40年代にはもう地元の学生服生産量が減少、値下げ競争、倒産も起きている
1983 変形服対策で高校を中心にブレザーへ転換始まる
1998 ペットボトルリサイクル学生服
など、学生服の歴史がかなり面白かった。

児島駅近くに戻ってきて、ジーンズストリートに行ってみました。
うん、そういえば特にジーンズが好きなわけではなかった。
夏っぽい空でした。
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特に暑い日だったようです。湿気も多くて汗びっしょり。

帰りは在来線で2時間40分。本読みながらだとすぐでした。
腕が焼けた。わりと日傘さして歩いていたので顔はそうでもないかも。

* * *

このサイト、やっとSSL化しました。万一、米国からアクセスできないと不便なので。

* * *

五輪閉会。ほとんど見なかった。いや職場はずっとテレビがついてるので横目で見てはいたんだけど、誰が勝ったとか負けたとかほぼ覚えてない。閉会式はわざわざ最初から見始めたのに、台風が鹿児島に上陸したとかでニュースになり、同時放送に切り替えるのも面倒だったので消灯しました。
招致時の都知事をもじっていうと「世界一金がかかってない『ように見える』五輪」。

* * *

■東浩紀『ゆるく考える』河出書房新社、2021年。
鷲田清一は本が違っても同じことばかり書いているので、新しいエッセイの書き手の、息抜きに読める本はないかなと手に取ったもの。
10年以上前の書き物を集めた本で、この文体(内容)は後で読み返して恥ずかしいだろう、と思いながら読んでいたら、やはりそうだったことが文庫化に当たっての後書きに書いてあった。

2021年07月17日

海と徳

夏休みには読み終わっていたやつ2冊。

■石牟礼道子『新装版 苦海浄土』講談社、2004年。

今頃読んどんのかい、と自分でも思うんですが。
あまりに体臭と潮と陽光が匂い、言葉になった饒舌とならなかった饒舌に満ちていて、レコーダーを回したわけではないだろうに、すごいメモ魔なのか記憶力なのか、と思いながら最後まで読んでみたら解説で種明かしがしてあってのけぞった。そしてこの本が第1部で、まだ2と3があることにものけぞった。

ちょっとでも時間があれば手にとってページをめくってしまう読書は久しぶり。天と人のあわいに立ち、両方を溶かし合わせたような本で、書かれていることは激烈なのだけど、しかし何年か前に車で通り過ぎた美しい不知火海の記憶を蘇らせ旅に誘う本でもあり、水俣にはいつか行かなければならないなと思いました。夏休みの行き先候補の一つとして真剣に考えたんですが、梅雨の最後に大雨が降っていてかないませんでした。いつかね。

超自然的なものを信じる、感受するというのはどういうことなのか、というのを西洋的にいうとこう、というのが↓の本に出てきて、そちらも印象に残ってます。↓のほうを先に読みました。

* * *

■Craig A. Boyd, Kevin Timpe, The Virtues: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2021.

徳ね。「結局いい人がいいよな」と思うようになってきました。法則じゃなくて打率。そう考えるようになるのが加齢というか成熟だと思う。

Philosophy of Social ScienceとVirtue Ethicsって留学したときにそれこそ大学1-2年生の授業で出てきた基本なんだけど、不思議と日本の出身校では触れることがなかったし日本語の入門書もこれといったものがないんですよね。何やら前者は今度出るっぽいですが。

【1】
・徳:単なる行動ではない。スキル、卓越性excellence
 ある条件下ではルールを破ることにも
・道徳規則は、優れた人が内面化した行動様式
 ルール≠徳(よい習慣)。社会や伝統のあり方によって変わる
・moral virtue = an excellence in being for the good (Robert Adams)
・第2の本性natureにできるということ。予見可能性が上がるということ
・ニコマコス倫理学:道徳的/知的/実践的な徳
・プラトン『国家』:知恵が欲求を制すること
・キケロ:prudence, justice, courage, self-control
・アウグスティヌス、アクィナス:神に淵源する
 →宗教改革以降は地位が低下。ギリシア的なもの=異教的に
 →近代は道徳法則の時代。帰結、権利論
・ヒュームにとっては「人生を楽しくする道具」
・アリストテレス―アクィナス:いい人生のための道具、かつそれ自体が目的
・Linda Zagzebskiはexemplarist
 1)徳のある人はどう行動するかに注目する
 2)利己性、悪い行いから脱却する道。プラトン

【2】【3】
・基本的な徳
 1)思慮prudence:知性関連の徳。正しい状況認識、考え、感じ、実行
  しかし、思慮ある人がいい人とは限らない
  eg.ガリレオ。ケプラーを正当に評価していたらもっと洗練されたのでは
  ソクラテス:善を知る=不可避的に善を行う。プラトンもほぼ一緒
  アリストテレス:知行分離。知は教えられる。行為は習慣づけ
   ニコマコス2巻。テクネー、エピステーメー、ヌース、フロネーシス
 2)中庸:スコープの広さ
 3)勇気:感情の徳
 4)正義:最も論争的な徳。1)-3)は感情。4)は社会的

【4】イスラム、儒教
・アリストテレスのmegalopsychosは自足的存在。しかしキリスト教神学では傲慢
・イスラムの5本柱、儒教は「道dao」

【5】神学的徳
・世俗的徳に加えてなぜ神学的徳が必要か
・ユダヤ教のrighteousness。神との契約における
・人間的努力を超えたものの要求←→ギリシアの「個人」と「社会」にとっての善
・アウグスティヌスもcardinal virtueだけではだめという
 ・神がrevealするもの。神なくして偉大でありうるというのは傲慢(原罪があるから)
・アクィナスにとっては「完全性perfection」への道
・faith←→迷信、だまされやすさgullibility
 1)自分が十分に知らない真実への同意
 2)状況の変化があっても対象が持続的に信頼できるということ
・hope←→wish
 アクィナス「困難だが可能な将来の善に対する期待」
  ↑神がファシリテートする。物質的hopeではない
 これに対する悪徳viceは「絶望」と「もう達成しているとの思い込み」
・charity、愛love、amor(近親者への愛)、神との友愛 cf.キルケゴール

【6】悪徳
・高慢pride、強欲avarice、怒りwrath、怠惰sloth、大食gulttony、色欲lust

2021年05月15日

近代建築史講義

建物を見る旅にまた自由に出られるようになったらいいなあということで。
コンサイスなガイドブックとして読みました。
点が線になるいい本でした。

■中谷礼仁『実況近代建築史講義』インスクリプト、2020年。

【1】ルネサンス
・1400年代イタリアから
・ギリシア・ローマ建築の復興。もとは異教的扱いだった
・中世末期の都市間交通の発達と芸術家の移動→「様式style」の発見
・中世・ゴシックの「高さ追求」のような自然的成長
 ←→様式化、抽象化、取捨選択=操作可能性、モード(流行)の出現
・ルネサンス以降は「問題の発見→解決→疲弊→新問題の発見」のサイクルに
・ブルネレスキの幾何学的比例、遠近法の発明:《サン・ロレンツォ聖堂》(ブルネレスキ・ルネサンス初期)→とその横の《ラウレンツィアーナ図書館》(ミケランジェロ・後期=ルネサンスの崩壊)

【2】マニエリスムとバロック
・★「アンチ・ルネサンス」としてのマニエリスム←maniera(手法)=芸術家の個性
 16世紀に半世紀ほど持続。ルネサンスとバロックの間の過渡期
 ルネサンスの安定した世界像に対する不満、倦怠
・特徴は4つ
 (1)先行作品の変形
 (2)典型からの逸脱
 (3)形式の崩壊を肯定する
 (4)時間の介入
・ジュリオ・ロマーノの《パラッツォ・デル・テ》(1535)
 メダイヨンの中身のずれなど、崩壊しかかったような表現
 ヴォールトのグロテスク装飾(古代ローマ起源)

・バロック(ヴェルフリンによる概念化)
 絵画的様式(どんな形か、ではなくどう見えるか)
  《サン・ピエトロ大聖堂》(1506-1626)
 巨大な様式(《ルーヴル宮》複数の階を貫いた巨大な柱など)
 量塊性(大きさ・重さと一体的な装飾、そのかわりルネサンス的形体の明確さは喪失)
 運動(流動的・不安定な形)《サンアンドレア・イン・ヴィア・フラミーナ教会堂》
・《サン・カルロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ教会》(ボッロミーニ、1641)
 楕円平面←ケプラー、★もうひとつの焦点としての植民地!

【3】新古典主義
・バロックの運動感→ロココ(宮廷、植物の絡まりのような内観)の浮遊感「重力を外した表現」(ゴンブリッチ)→新古典主義(18世紀中葉~)
・ルネサンスの反復、ただしダイナミックさと数学的厳密性が付加(楕円のバロックから真円、立方体への逆戻り)
・啓蒙主義。白紙から構築できてしまうという驕慢
 →新古典主義という復古が革命的意味を孕んでしまう
・ユートピア的な建築作品群。ルドゥーの《ショーの王立製塩工場》(1779)。「構想する」ことに熱狂した時代でもある
・建築史学
→知性の暴発

【4】19世紀英国:折衷と廃墟
・折衷主義:時代や地域の異なる様式の要素を混ぜてまとめるのが建築家の力量
 →様式の価値平準化、形態が抽象的に扱われる。「パーツ」化
 《サー・ジョン・ソーン美術館》(1792-1824)
 cf.)B.アンダーソンの「新聞」
・ピクチャレスク:崇高な自然美(サブライム)←→ヴェルサイユの幾何学的構成
 人の手が入っていないかのような自然美の庭園を人工的に作る
 古典建築のミニチュア(60%くらい)や廃墟を配置
・↑ピラネージの廃墟版画も時間表現を内包している点で通底
 cf.)磯崎新《つくばセンタービル》、三分一博志《犬島精錬所美術館》

【5】20世紀直前:産業革命と万博
・《アイアン・ブリッジ》(1779)~鉄素材の使い方の進歩
・鉄筋コンクリートの発明。鉄筋が伸張、コンクリートが圧縮を担当。両者の熱膨張率がほぼ一緒なことで実現した(当時は気付かれていなかった?)
・万博#1(1851)@ロンドン。建築的テーマは2つ
 (1)世界を収容する建築はいかにあるべきか
 (2)簡単に建造・解体可能な大建築は可能か
 →回答としての《クリスタル・パレス》
 《パーム・ハウス》(1848)
・パリ万博(1867)
・シカゴ万博(1893)
 モダニズム建築に対する日本の影響《鳳凰殿》
・《エッフェル塔》

【6】ミース・ファン・デル・ローエ
・モダニズム=産業革命以降の生産様式に基づいた作り方:時間秩序の乱れ/複製技術時代の芸術
・WWI後のタブラ・ラサから。コルビュジエの〈ドミノ・システム〉(1914)はバラック住宅のため提案された
・ミース《フリードリヒ街のオフィスビル案》(1921):エレベーターコア、鋼鉄の床、ガラスの壁でできた平面を高さ方向に反復しただけ。均質空間の唐突な出現と達成。崇高美の拒否。神殿
・《シーグラム・ビル》(1958)→《霞が関ビル》(1968)などへ
・シュプレマティズム(<マレーヴィチ):神的なものへ向かって抽象性を高めていく。《白の上の白》(1918)→ミースへの影響、Less is More

【7】ロース/コルビュジエ
・ミース:モダニズムの極端
 《バルセロナ・パヴィリオン》十字の独立柱
 cf.フランク・ロイド・ライトの〈プレーリースタイル〉
・アドルフ・ロース:モダニズムの周縁
 「装飾と犯罪」(c.1908)無駄な装飾の忌避
 19世紀末的なオーソドキシー(基壇、ボディ、冠の別がある←→ミース)
 〈ラウムプラン〉被覆としての建築
 ダダイズムとの通底:周縁で起きた運動→シュルレアリスムへ
・コルビュジエ:モダニズムの中心。メディア、都市、キュビズム
・近代建築の5原則
 (1)ピロティ
 (2)屋上庭園
 (3)自由な平面
 (4)独立骨組みによる水平連続窓
 (5)自由な立面
・輝く都市(→日本の団地へ)
・ドミノ・システム(復興住宅)自由な間取り、開口
・《サヴォア邸》(1931)

【8】未来派/ロシア構成主義/バックミンスター・フラー
・コルビュジエ後期
 《ユニテ・ダビタシオン》ユニットの挿入、メゾネット
 《ロンシャンの礼拝堂》(1955)ランダムな秩序の挿入
・未来派:イタリアの急進的な愛国的芸術破壊運動←マリネッティ(1909)
 スピード、戦争賛美、女性蔑視、ダダ右派、テクノロジー、都市
 サンテリア《新都市》(1914)
・ロシア構成主義:産業や労働と結びついた新しい芸術のあり方
 タトリン:ブリコラージュ、《第三インターナショナル記念塔》(1919)
 リシツキー:シュプレマティズムの幾何学的抽象を現実の生活空間や建築に応用
  《レーニン演説台》(1920)、《雲の階梯》(1925)←60sメタボリズムの先駆け
 メーリニコフ:《コロンブス記念塔案》(1929)、重力を外した建築
 レオニドフ:第2世代、宇宙的
・バックミンスター・フラー(1895-1983)
 〈ダイマキシオン〉=ダイナミック+マキシマム+テンション。最小労力で最大効果
 《ダイマキシオン・ハウス》アルミ、工場生産、住むための機械
 フラードーム:三角形で構成。強固で軽い
   富士山頂のドーム、ヒッピー、軍隊
 
【9】擬洋風建築―明治初期まで
・ブリジェンス&清水喜助《築地ホテル館》(1868)
・和魂洋才=外国に対抗的な人ほど西洋文明を取り入れようとしていた
 →明治政府の欧化政策→工部大学校→1889「日本建築」の授業で伝統建築の再評価
・〈擬洋風〉明治10年代後半、日本人大工による《E.W.クラーク邸》(1872)
 ←大工に既に高度・抽象的な理解能力があった
  様式の本質把握→「みようみまね」が可能だった
 ←鎖国体制の中で「木割」(建築の標準モジュール)が建築所の流布で発達
  18世紀には一子相伝から版本として公開へ
  日本発の建築用語集、溝口林卿『紙上蜃気』(1758)
  和算家出身の棟梁・平岡廷臣『矩術新書』(1848)「反り」を幾何学として解くなど
  パタン・ブック「ひな形書」
・擬洋風建築:
 (1)なまこ壁:防火対策が必要な土蔵の高級仕様に使われていた。石造りの演出
 (2)塔:燈台をモチーフとした。陸と海(舶来)のあわい
 (3)ベランダ:出島より。西欧がインド、アメリカに進出したとき気候に合わせてできた
 (4)多角形の塔:山形《済生館》(1878)、長野《中込学校》(1875)
  実は和算を基にした幾何学技術「規矩術」でよくテーマにされていた
 学校が多かった。《松本開智学校》(1876)、《新潟運上所》(1869)
 伝言ゲームのように誤解が生じ、新しい造形を生んでしまうことも
・その後、担い手は大工から高等教育を受けた日本人建築家へ……

【10】様式建築―明治建築の成熟と崩壊
・本格的な建築教育を受けた建築家の時代:明治中期~昭和初期
・近代日本建築の「近代」と「日本」をどうやって統合するかという重要テーマ
・ジョサイア・コンドル(折衷主義):《三菱一号館》(1894)、《ニコライ堂》(1891)
・辰野金吾:《日本銀行本館》(1896)ジャイアント・オーダー、折衷主義
・妻木頼黄(つまき・よりなか):《日本橋》(1911)装飾など。省庁建築多く
・片山東熊:宮廷建築《旧帝国奈良博物館》(1894)《表慶館》(1908)《東宮御所》(1909)
・《国会議事堂》(1936):空白のメダイヨン、階段ピラミッド(ジグラット)のモチーフは「墓」(マウソロス霊廟の形式)=ヨーロッパよりなお古いものに近代日本を接続した
・極北:長野宇平治《大倉精神文化研究所》(現・横浜市大倉山記念館、1932)=プレ・ヘレニズム。ヘレニズムにオリエント的なものを見いだした。折衷主義の最後の姿、様式主義のデッドエンド
→「実利を主としたる科学体」「如何にして最も強固に最も便益ある建築物を最も廉価に作り得べきか」(佐野利器「建築家の覚悟」(1911))

【11】モダニズム―丹下健三(~1970万博)
・WWI後の西洋モダニズムからほぼ10年遅れで表現派、分離派、モダニズム建築成立(若い建築家が僻地の公共建築設計に登用されることがよくあった。堀口捨己《大島測候所》(1938)など)
←→旧来の様式的手法の建築も残存。《東京国立博物館本館》(1937)は鉄筋コンクリート建築に和式屋根を搭載した〈帝冠様式〉。屋根を載せることで地域性を付与するという凡庸な一般解。《九段会館》(1934)も
・木造建築の海外での評価・モダニズムへの影響→逆輸入されて日本スゴイ!に
・高度成長、近代+日本の交差→丹下による統合
 《広島平和記念公園》(1954)→原爆ドームを平和の象徴として位置づける
 《広島平和記念資料館》(1955)→鉄筋コンで木造建築の黄金比を適用
 《旧東京都庁舎》(1957)→コアの発見
  →活用《香川県庁舎》(1958)
  →都市へ《東京計画1960》
  →分散コア《静岡新聞・静岡放送東京支社》(1967)《山梨文化会館》(1966)
  →伊東豊雄《せんだいメディアテーク》(2000)の離散コアへ
・メタボリズム(1960-):建築によって都市を新陳代謝させる
 菊竹清訓《塔状都市》(1958)、黒川紀章《中銀カプセルタワー》(1972)
・頂点:《国立代々木競技場》(1964)、《東京カテドラル聖マリア大聖堂》(1964)
・万博以降は日本の経済が停滞、丹下は新興国の開発計画へ

【12】モダニズム以降―クリティカル・グリーニズム
・ルドフスキー『建築家なしの建築』―ヴァナキュラー建築。ドゴン族住居など
・ブランド『ホール・アース・カタログ』―メタツール、Googleのような
・ジェンクス「ポストモダニズム」
 アンチモダニズム、機能主義批判
 フォルマリズム:形式や形を先行させ、使い方や機能を沿わせる
  毛綱モン太《反住器》(1972)など
 セルフエイド:日曜大工、コルゲートパイプの使用など
  《川合健二邸》(1966)
 リージョナリズム:建築家にとっての偶然(地形など)との遭遇
  吉阪隆正《大学セミナーハウス》(1965)、U研究室
  象設計集団《名護市庁舎》(1981)
・クリティカル・グリーニズム:植物的、廃墟、藤森照信
  ←→グリーニズムの植物被覆、ハッピーさ
  山元理顕《山川山荘》(1977)、《せんだいメディアテーク》

2021年04月18日

連日の

土曜は23時半に寝て、日曜は二度寝して9時半に目が覚めました。
夢では、桟橋から十数分歩けば突端の神社に行けるくらいの小さな島に東京の友達数人と訪れていました。夕暮れ時になって帰りの船がもうすぐ出るという時に、島の休憩所に荷物を忘れてきたことに気付いて走って取りに向かったものの、間に合わなそうになり、「もういい、面倒、疲れた。夢おしまい!」と思って覚醒しました。弊管理人は自殺するほどパワーのある人ではないと思っていますが、意外と前後不覚になったら現世からも脱出してしまうのかもしれない。

晴れるかと思ったら雨が降り、夕方に晴れるという土曜と同じパターン。あと寒い。
にしやまさんがやはり日曜も来週も開けることにしたようなので、ご厄介になってきました。
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椎茸のチーズ焼き、カニ湯葉、牛すじ大根、わかめと干しエビの何か。
どうもゲストは弊管理人1人だったみたいです。危なかった。
まともなものを食べると正気に戻ります。しかし辛いものを食べると腹が警告してくる感じがします。内臓が弱ってる、多分。

* * *

■宮下紘『プライバシーという権利』岩波書店、2021年。

2021年04月17日

たそ・かれ

宿直明け、またシフトが終わったのにいつまで経っても帰れないことにむくれつつ、しかしそれでえらいひとに謝られて反省したりなどしつつ、疲れ切って帰宅。
未明から降り始めた雨が上がった午後6時40分。世の中はまだ明るかった。
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ひょっとして夏至に近づいてます?
そして2週間ぶりのにしやまさん。
まんぼう明けるまで休むかもとのこと。残念だけどこんな状況じゃあね。
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このところ王将かカレーかコンビニ弁当かパンか、という生活だったので、こういうのが沁みた。手前右のブロッコリーのアンチョビ炒めと、手前左のマグロのオイル焼きと、奥左の筍木の芽和えと、奥右の干しエビとわかめの和え物がおいしかった。って全部か。

* * *

前回の日記に書いた「えらいひとシャウト」のあと、意外と「(弊管理人)が疲れてる」ということが認知されて来週後半に数日休むことになりました。すぐじゃなくて来週後半になるあたりが、いかにも余裕のない職場っぽい。

弊管理人に限らず職場でわりと深刻なミスがかつてない頻度で発生しており、弊管理人の見るところ、これもまた前回の日記に書いた(1)一つの仕事にかけられる時間が少なすぎる(2)無意味な仕事を漫然とやらせている、という職場環境が影響しています。大阪のえらいひとワールドでもそれは感じられていて、しかしそれをアピールしても「この機に乗じて人員要求か」と本社からの風当たりが強くなるだけだから、今は言うのをやめておこう、という話になったようです。なんてこったい。

* * *

■西浦博『新型コロナからいのちを守れ!』中央公論新社、2020年。

結構前にいただいた本。です。はい。

2021年04月03日

語りえぬもの

■野矢茂樹『語りえぬものを語る』講談社、2020年。

『探究』と古田本を読んだらいよいよここいってもいいでしょう、ということで。
500ページあるが、とっつきがよくて濃いので、毎晩寝床で読むのが楽しみでした。
ウィトゲンシュタインを乗り+越えつつ、弊管理人が「ひょっとして可能では?」とちらりと思った人類学や言語学、科学論への接続をやってみせてくれた。
あと決定論批判、どういうことなのかやっと掴めた気がします。

ただ、動物にも嫉妬や忖度があるというような近年のニュースに触れるにつけ、言語を持たない(これ自体も本当かどうか)動物が文節化された世界に住んでいないというのは本当なのか、比較認知科学の成果をもうちょっと参照しつつ検討してもいいのかなとは思いました。それで人間の話が大幅改定を迫られるかというとそうでもない、脇の話かもしれませんけど。

内容は膨大なので、以下は付箋を貼ったところのみメモ。

・『論考』で導入された「論理空間」はおよそ考え得る(語りうる)ことのすべて。だが、この内外をもう少し段階分けして次のような区分が導入されている(巻末の解説と応答)
 ①ふつうに語りうるもの(行為空間の中。言語ゲームで使える)
 ②語りにくいもの(行為空間の外で論理空間内):クワス、グルー、クリーニャー
 ③いまの私には語りえないもの(論理空間の外、勉強すれば中に来る)
  :アクチン、ミオシン
 ④永遠に語りえないもの(論理空間の外、示されるだけ):倫理、論理
   *だが著者は永遠に語りえない(真偽が言えない)かには懐疑的

・デイヴィッドソンへの反論のため導入された二つの「他者」(193-194)
 ①論理空間の他者:概念枠の不共有、翻訳不能だが習得可能性はある
  →習得できた場合、振り返って発見される他者
 ②行為空間の他者:翻訳できるが深い理解はできない

・論理空間はわれわれの経験に依存するので有限
 そこで無限をどう扱うか?→操作の反復とする(「以下同様」、可能無限)
・『論考』の道具立ては論理空間と操作、これですべてと言ってよい(229)
・→後期の「規則のパラドックス」で崩壊する危険が胚胎していた(218-219)
・「(言語実践を生む)語られない自然」+社会(303)

・非言語的体験が言語を触発する(ex.「ミドリ」)
 →発声されて公共的に流通し、適切性を評価される
 →意味を与えられ、文節化された世界が成立する
・言語化された体験を圧倒的に豊かな非言語的体験が取り巻いている(329)
・文節化された言語を持たない動物は、反事実的了解を持たない(393)

・相貌。あるものをある概念のもとに近くすることである(402)
・相貌を知覚するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語を込めて知覚すること
 (ex.犬を見ること)
・相貌の物語とは
 ①過去―現在―未来という時間の流れの中にある
 ②反事実的な想像(今あるコーヒーカップを倒すとコーヒーがこぼれる)
 ③無数の荒唐無稽な可能性(カップが自発的に移動する)を排除している
・個別の犬は相貌をはるかに超えたディテールを持っている
 典型から逸脱するような性質や振る舞いをする
・典型的な物語の世界はあくまでスタートであり、実在性に突き動かされて新たな物語に進む(404)
・隠喩:新たな相貌の生成(418-)

・決定論(25,26回)
・世界は厳格な法則からずれている(462)
 完全に均質な弾性体はないので、フックの法則は近似的にしか満たされない
・法則は世界のあり方を描写したものではなく、探究の指針である(463)
 規範性(「べき」)を帯びた物語。沿わない経験的事実は疑えとの指針(470)
・科学が世界を語り尽くせないのは、科学の限界のゆえではなく、世界はそもそも語り尽くせない(465)

* * *

今週は、不手際に対してたまたま最もうるさい客先がタコ怒りしたという些末な理由で火が大きくなり、そこにむっちゃ忙しい仕事と宿直からの30時間勤務がぶつかってへとへとでした。いやマジ疲れた。土曜の今日は今まで一歩も外に出る気が起きず、現実を見る気もせず、おかげで上記読書は500ページ中150ページくらいを今日読み通してフィニッシュし、メモ作りまで進み、たまっていた冷凍食品もそこそこ処理できてしまいました。

不手際というのは、優秀だから大丈夫だろうと思っていた若手ちゃんの想像を絶するミスをちょうど多忙だった弊管理人が手間を省いたために看過し、回復処理も遅れて爆死、というものですが、いろんなツッコミポイントのある経緯が一つの飲み込みやすい「報告」という物語に収斂し、本質とはだいぶ違う部分で庇ってもらったり反省を求められたりしており、なんか奇妙だなと思いましたがまあそのストーリーで納得されるならそれでいいや。こちらもまた別の意味で語られえぬもの。

2021年03月15日

唐津・壱岐

何がというわけでもなく、もやもやした思いを抱えながら不要不急の外出。金曜から月曜まで休みにしてあったのですが、金曜はどこも雨だったのと、面倒みるべき若手ちゃんの仕事が2本あったので、在宅でこなしたりとだらだらしてました。結局、土曜早朝から日曜深夜までのお出かけとなりました。金曜夜に洗濯したら財布も洗ってしまい、焦った。カード類はとりあえず無事でした。

マイルで伊丹→福岡。片道7500かかるところ、何かのキャンペーンで4500で済んだ。呼ばれているということにしました。6時起き、8時発、9時過ぎには福岡。姪浜まで行ってカーシェアで唐津まで。「七ツ釜」を目指しました。
あ、いきなり海きれい……
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これはいい柱状節理。
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北アイルランドのジャイアンツ・コーズウェイを思い出します。
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天気予報をずっと見ていて、西から晴れてくるだろうと思って西に行ったら晴れました。関東は土砂降りだったようです。
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呼子にも寄りましたが、特段ナマのイカが食べたいわけではなかったので地元調理のお弁当を買って車の中で食べました。小ぶりのイカほぼ一杯の煮付けと、あと蕗の煮物がおいしかったのでこれでよし。実はなんてことない感じで置いてあったお寿司もうまかった。
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玄海原発も。いいとこや。ほとんど人のいないPR館から。
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PR館の展示の入り口。今はコストやベースロードとかではなく、非化石電源としてのアピールが一番に来るんですね。
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なんか最近こんな風景ばっかり見ている気がしますが、棚田。菜の花がきれいでした。これ菜の花を栽培してるのか、それとも生えちゃってるだけなのか。
このあと、不安定な三脚で自撮りしたら倒れて、カメラを地面に落下させてしまい、萎えた。
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いろは島展望台。こういうのもこの1年よく見た風景。どこに行っても人がいないのでゆっくりできていいです。
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お出かけは車も電車も好きですが利点は違っており、車は運転に気を取られるので考えなくていいということ、電車はいろいろ考える時間が取れるということ。
1時間半くらいのドライブで福岡に戻り、ごまさば食って早々に寝ました。

* * *

日曜は6時前に起きて、博多港から8時発のジェットフォイルで壱岐に行きました。
船内でちょっと寝てすっきり。港の観光案内所で電動アシスト自転車を借りたところで、担当のおねえさんが「一応電気製品なので、雨が降ったらどこかの軒下に入ってくださいね」というので「天気予報は晴れじゃなかったでしたっけ」と聞いたら「でも雲が厚いので」とのお答え。
その直後から雨が降り、雲が通り過ぎるまで1時間半、フェリーターミナルで本を読みながら時間を潰すことになりました。予報を見て空を見ないって愚かですね。
そのあとは晴れた。
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10キロくらい走って、小島神社に着きました。
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参道が水没していたので写真とってしばらく眺めておしまい。
そのあと、近くの「はらほげ地蔵」に。
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どういう意味があるかよく分かっていないものの、水難事故にあった海女さんの追悼ではないかとのこと。
近くの「はらほげ食堂」でうにめしを食べました。
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うには季節じゃないのと、ナマで食べたいかというとそうでもないのでこれで全然満足。さざえの壺焼きも海の香りがしておいしかったです。
そして、特に行く予定ではなかったがついでに行った左京鼻。
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波の音を聞きながら見とれていました。
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帰りにひょっとして?と思って小島神社に寄ったら、潮が引いて参道ができていました。
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島の裏に回ると登り口があって、ちょっと登ったところに神社があるので「平穏無事」をお願いしてきました。
参道にミニチュアもあった。
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で、またえっちら自転車をこいで「壱岐市立一支国博物館」へ。
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この変な建物、見たかったんですよね。って黒川紀章の遺作らしい!(帰宅してから知った)
飛び出てるのが4階の展望室で、ここから魏志倭人伝にも出てくる「一支国」の中心地・原の辻遺跡とその周辺の平野が一望できます。
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遺跡には建物がいくつか復元されていたので、それをちらっと見て16時過ぎに港に戻りました。
こいだのは25キロくらいでしょうか。結構なアップダウンがあったけど、電動アシストだとそんな疲れないですね。日焼け止めを塗っていったのでひりひりしませんでした。
堪能しました。「猿岩」を見たり、温泉に入って日焼け止めを落としたりしたかったんだけど、時間がなかったのがちょい残念です。雨上がり待ちの1時間半がなければ温泉くらいは入れたかもしれない。
ジェットフォイルで博多に戻り、駅の「しんしん」でラーメンとチャーハン食って満足。このお店は知っていたわけではなく、通りかかったら列ができていたので並んでみただけ。急がない旅のいいところです。
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帰りは山陽新幹線で2時間40分。前日までに買うと半額になる切符をとってあったので、7600円くらいで帰れました。

何がというわけではなくもやもやした気持ちはそのままでしたが、行ってよかった。
そしてしばらくは近場でいいかなというくらい遠出欲は満たされたかも。
なお休みの終わりには(1)リフレッシュしたので休み明けは笑顔で仕事できそう(2)休み明けが来ないでほしい、という2パターンがあり、今回は(2)です。

* * *

■森安孝夫『シルクロード世界史』講談社、2020年。

ウズベキスタンに行ってから中央ユーラシアおもしろい!と思っていたのに、しばらく海外旅行ができない世の中になってしまいました。旅情を誘う本として手に取ったのがこちら。
高校世界史の中でもとりわけ暗記が大変だったこの地域の歴史が少ーし整理された。ソグド人とマニ教という、どちらもそれ自体は歴史の中に消えてしまった民族や宗教が及ぼした影響の大きさと、西欧・中国中心史観を転換し、それらが中央ユーラシアの「周辺」に見せる話運びが印象深かったです。次はクチャまで行ってみたい。

2021年02月22日

牡蠣、大原

宿直明け、友人来たりて大阪城。
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梅林梅林。
そして池田市、「かき峰」。
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11月から3月までしかやっていないお店で、「行きたい」とつぶやいたら行くことになりました。酢がき、白味噌の鍋、カキフライ、そしてかき飯。
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海苔にわさびを載せて出汁をかけるうううああああああ
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次の日は大原に行きました。三千院、久しぶりだけどこんなに懐深かったっけ?というくらい広くて見所がありました。
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2006年の2月に来たときは雪がこんもり積もっていて極めて寒かったのだけど、今回は暖かくて春のようでした。
宝泉院。血天井(!)の下でお茶とお菓子をいただきます。
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そして勝林院。木彫りの装飾がきれかった。
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そんでなんと嵐山に行って、祇園に戻ってきて「いづう」で寿司つまんで解散しました。
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喜んでいただけたようでよかったです。
えっぐい花粉症でました。

* * *

■國分功一郎『はじめてのスピノザ』講談社、2020年。

■宇野重規『民主主義とは何か』講談社、2020年。

2021年02月17日

はじめてのウィトゲンシュタイン

■古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』NHK出版、2020年。

12~1月に鬼界訳の『哲学探究』を読んでから「あれ、一体なんだったんでしょう……」と助けを求めて読み始めたのがこれ。『探究』は『論考』をどう乗り越えたのか、以前に、『論考』は何を言っていたのか、というスタートラインのはるか手前に戻って助走をつけるといいのであった。というか遍歴も含めて「ほぼまるごとウィトゲンシュタイン」を示してもらった感じ。そしてこの著者は「ここ重要よ」ということは何度も書く人だったのもよかった。

物事に対して一つの図式的な理解を発見したとき、嬉しくなってそれに固執してしまうことや、「なんかそれっぽい」言葉を「それが意味するのはどういうことか?どういう文脈に置かれているのか?」と吟味せずに使っちゃうこと、紋切り型に育ててしまうことの危険性を思った。それから、自然言語処理ができるアルゴリズムには何が必要なのか、という問題とつながっているのではないかと思った。一方、これだけ熱心に解説してもらっても、なお決定論/自由意思論が無意味というのがすとんと落ちないので、これは後でもう1回。

とはいえ、なんやら5年越しでやっとウィトゲンシュタインの主著を一度歩いた、これで関連書に行ってもいいかな、という気分になった。ぶへえ

以下はメモ。


◆前期の代表作『論理哲学論考』が目指したこと
・有意味に語りうることと有意味には語り得ない、語ろうとすると無意味になることの線引きをアプリオリな形、つまり特定の場所や時代に縛られない形で(=永遠の相のもとに(p.69))やることである(p.38)
・世界に生じうる事態すべてを語れる「究極の言語」でも語りえないものを明らかにすることである(p.53)
・世界の存在理由や観念と実在、普遍的な倫理や美など、哲学的な問題とされていたものは多くが「語りえないもの」の領域に属することを言おうとしている(pp.38-39)

◆語りえないものの一つが「論理」である
・命題とは現実の像あるいは模型である(写像理論)
・単語の並びを、真や偽でありえる「有意味な命題」にする秩序が「論理」である(例えば「雪が降っている」は有意味だが「いる降ってが雪」は無意味)。ただし日本語だとかフランス語だとかの個別の言語の秩序のことではなく、それら個別言語の間の翻訳を可能にするような普遍的な秩序のことであって、それは「こういうものです」と言語によって明示することができない。われわれが端的に理解することによって示されるしかない。世界の外にあって世界に反映されるしかない(p.47)

◆語りえないもののもう一つは「世界の存在」である
・個別のものが存在するということではない。例えば「太陽が存在する」という命題には世界の存在が反映されている、個別のものが存在することによって世界の存在は「示されている」が、それ自体を対象化できない(pp.54-55)
・世界が存在するということは、個別の何かがある、ということとは違った単なる「ある」「存在する」ということで、そのことに有意味に問うたり答えたりできない(p.69)

◆独我論、実在論も語りえない
・独我論とは「世界とは私の世界である」との形態をとる(p.60)
・世界のあり方について何ごとかを語っている私(形而上学的な主体、あるいは哲学的な自我)自体は対象化できない。それは世界の中というより世界の限界、世界の可能性それ自体のことである(pp.61-62)
・「そこにあるものは私が見ているそれだ」を積み重ねていく=独我論を徹底していくと、結局単に実在を語っているのと違わなくなる。結局、私はそこに世界のあり方が反映しているところのものである。そして両方とも語りえない(pp.64-65)

◆決定論、自由意志論も語りえない
・世界を永遠の相のもとに(=ありとあらゆる事態の可能性を含む世界全体を)眺めるとき、そこで実際に起きる事態はすべて偶然である(pp.69-71)。太陽が明日も昇るというのは必然のように思えるが、今日いきなり爆発してなくなる可能性もある
・必然性は論理的必然性のみであり、ある出来事が起きたことと別の出来事が起きることは「推測」できても「推論」はできない。論理の外ではすべてが偶然である
・因果関係はどれも必然的ではない。「世界は自然法則に支配されている」「自由意思が存在する」は無意味である。因果関係はさまざまに説明されてきたが、そのやり方は一つではない(例:神を持ち出すか、自然法則を持ち出すか)(pp.72-79)

◆価値、幸福、死も語りえない
・世界を永遠の相のもとに見ると、すべての事態が偶然なので重みはつかず、価値の大小もない。世界に驚く、奇跡として見ることができるだけ(pp.78-87)
・「アプリオリに満たされる」??(p.87)

◆そして、『論考』の主張もまた無意味である
・触媒としての、通り過ぎるべき書物(p.91)

◆「像」の前期→後期:世界の模型→イメージ/確定的→大体/永遠の相→生活実践
・前期における像:世界のあり方を写し取る模型としての像(p.132)
・後期における像:物事に対する特定の見方をするときに人が抱いているイメージ。「人間の行動は石の落下運動のようなものだ」というとき、石の落下のイメージ(像)で人間をとらえている。これを言うとき、石を思い描いているのではなく、石「になぞらえて」把握しているという意味での像(pp.129-130)
・ただし「泥棒の行動を石の落下のように捉える」といっても、「法則性を見いだそうという科学的な視点」と「責任がないことを言おうとする法律家の視点」がありうる。像は物事の見方や活動の仕方を確定的ではなく、曖昧に方向付けるものだということ。「自然法則による決定論」の企ては結局ぼんやりしている(p.136)
=あるいは「意味不明(≠無意味)である」(p.138)
=「アプリオリに有意味」ということはいえない、文脈による、「…とはどういうことか?」「具体的に何を言っているのか?」と問わなければならない、という点で前期の『論考』批判になる(p.141)
・どんな記号列でも、それを有意味にする文脈がないとは限らない(p.155)
・「永遠の相のもとに世界を見下ろす」こともまた一つの像にすぎない(p.163)→後期は「地上に降り立つ」

◆『哲学探究』の問題提起
・アウグスティヌスの例:机を指さす→「机」という語を理解する。言葉=指示対象、というのはしかし、名詞という限定的な言葉にあてはまるだけの像ではないか。「5」とか「赤」は何を指しているのか?(pp.168-172)ごく限られた例に依拠してすべてを説明しようとする(こういう発想に縛り付けられている「精神的痙攣」p.198)ところに哲学の混乱の根があるのではないか(p.175)

◆本質論を地上に引き下ろす道具
・規則のパラドックス:「0から2を足していく」―規則は原理的にはどうとでも解釈可能(アプリオリに意味が決定していない)。行為の仕方を一意に決められない。言葉の意味(例:「石を拾う」)も実は不確定である(pp.176-183)
・言語ゲーム:では言葉の意味は何によって決まるか?生活の中での使用である。「言葉と、それが織り込まれた諸行為の全体」が言語ゲームである←→「語は対象を指示する」。(pp.183-186)
・家族的類似性:「ゲーム」と呼ばれるものも、すべてに共通する本質があるわけではない。互いが何かしら似ており、共通性は生成変化する。言語ゲームでも「報告」「推測」「仮説検証」「創作」……などいろいろ
・いずれも「○○とは何か」を地上に下ろしてくる営みである。「普遍的で形而上学的なことを言いたくなったとき、そこで自分が本当はどんな具体例を思い描いているのかと問うこと。普遍的な意味を持つと言い張る像について、その像はどこから取って来られたのかと問うこと」(p.191)。
・哲学は「人間の自然誌」を考察/創作!すべきだということ(p.195)
・地上に下ろしても言葉の意味はいろいろ。例)粒子。砂粒のことか、量子のことか、等(pp.193-194)

◆方法としての「形態学」
・ゲーテの「形態学」:外見上は違う個物に共通する「内的なもの」を見いだす。植物をいろいろ見ているうちに「原植物」の存在を確信する。原型→そのメタモルフォーゼの反復、という図式。「葉」という「原器官」=隠された原型の発見。進化発生学のほか、フレーザー、シュペングラーなどへの展開(pp.196-199)
・それはイデア的なものかも。シラーの批判。cf.「犬」というものは存在するか?
・ウィトゲンシュタインによる受容:個物の間に類似性や連関を発見することによって「展望をきかせる(全体を秩序づけてみることができるようになる)」という効用
・ウィトゲンシュタインによる批判:ただし、連結項の発見の仕方(見る視点)は一つではない。「原型」もまた一つの「像」である。像に合わせて現実を歪めていないかは注意が必要。あくまで現実をあるがままにどう描くかに使うのが像である(pp.206-214)し、★一つの連結項を発見しても探究を止めないことが、硬直から解放されるために必要である(pp.223-224)
・連結項は創作されることもある cf.社会契約説における「自然状態」(p.219)
・アスペクト:連結項を見いだすことで、日常の見方の転換がもたらされる(pp.220-221)そして多様なアスペクトを(見下ろすのではなく)見渡すことであるがままに捉えられる物事が存在する(p.224)

◆心、知識、アスペクト
・多様な心的概念に対して、心を物のようにとらえる像(例:痛いの痛いの飛んでいけ)に固着してしまうことの問題。奴隷制度に対する怒り、のような「評価としての感情」に目が向かなくなること(pp.243-245)
・特定領域の神経細胞の興奮という像としてだけ見ることの問題。「悲しい」の持続は、その間にちょっとした楽しさや気散じができていたとしても持続している(=物理プロセスと無関係な感情の持続がある)という事実が見えなくなること(pp.245-248)
・「私が悲しいことを私は知っている」の無意味。知っているかどうか疑える場合に「知っている」は意味を持つが、無意味なものに意味を感じてしまうときには、文法を見渡すことができていないのかもしれない
・「アスペクトの閃き」。無秩序に見えていたものが急に秩序だつ。関連性が見える。数列の一般項が見える。しかし「分かった」ということはその一瞬の閃きの像のことではなく、その後に正しく実践できるか(例:数列を正しく書いていけるか)という「状況」によって示される。
・アスペクトの閃き自体も、さまざまなパターンが家族的類似性でつながってできている概念である(pp.283-286)
・「アスペクト盲」

2021年01月03日

正月、

正月、なのだけどそんなに正月っぽい感じがしないのは、元日に宿直が明けてから室内でだらだらしていて、あまり外の情報を取り入れていなかったからかも。しかもお店も開いてないので、メシはレトルトのカレーやらパスタやら……あ、あと実家からもらってきた餅を焼いてお汁粉。野菜に乏しく、気休めのトマトジュースを飲むなど。

■2日

夕飯難民となって暗い街を彷徨っていたところ、開いていた。オステリア87。
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牛の煮込みと絡めた生パスタ。うま~
空っぽのグラスはフランチャコルタ(北イタリアの発泡ワイン)。

どういうわけか昼からすごく目まいがしていたのでさっさと寝ました。
特に具合は悪くないので、たぶん大晦日からの24時間勤務の疲れだと思います。

■3日

昼前にふと思い立って有馬温泉に行きました。阪急梅田から高速バスで1時間。近い。
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「康貴」という宿の日帰り入浴を利用しました。いいお湯でした。
こぢんまりしたお風呂で、入場制限をしていたせいで少し待ちましたが、館内で本を読みながら座っていられたので全然問題なし。それどころか入場を5人に絞ってくれていたおかげで芋洗いでなくて有り難かった。公共浴場の金の湯、銀の湯とも通りがかったら混んでいそうだったし、多分こちらで正解。
温泉街はぐるっと歩いて30分、帰りは西宮北口行きのバスが来たので飛び乗り、阪急夙川で降りて帰ってきました。バスと阪急を乗り換える必要があるものの、梅田からの高速バスが1400円したのにこのルートは800いくら。
ところで「夙」っていう字だけ見て労働者の街っぽいところなのかと思っていたら、むしろ高そうな住宅街でした。

梅田に戻ってにしやまさん。
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牡蠣の吟醸蒸しの残り汁で雑炊をしていただく傍ら、ハンバーグ(初めて見た)という、なんかもう夢。reverie。みたいな。なんで横文字使った。

* * *

■ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン(鬼界彰夫訳)『哲学探究』講談社、2020年。

野矢先生の手を借りて『論理哲学論考』を読んでから、後期ウィトゲンシュタインを読まないと収拾がつかない気分になり、しかし日本語訳は3種類だかあって、高いしどれがいいのかな、と迷いながら5年たったらお手頃な値段で新訳が出た!!!

大学時代に何度となく言語ゲームだとか独我論だとかアスペクト転換だとかざらざらした大地だとかのタームを聞いて、しかし肝心のこれを読んでなかったんですよね(恥)。でまあこういうふうに出てくるのか~と懐かしく思いながら読み進めていきました。500ページ。しかし論哲の解体と新境地の構築をする最初の1/3を過ぎると延々、これはどう?これは?という謎かけの山岳地帯が続いていてきつかった。

ということで、昨年末に出たウィトゲンシュタインの解説本を注文したので、これを頼りにもう一回、歩き直してみたいと思います。内容のことはそのときに。ただし、印象が新鮮ないまのうちに雑駁にメモっておく:

・意味とは使用のことだという気付きは、小学校教師として子どもがいろんなものを習得していく様子を見て得たんだろうな
・そうすると必然的に「生きた言葉」というのはがちっと意味が定まるものではない。「基礎付け」ではなく「ゆるさ」を許容したところはプラトン的じゃなくてアリストテレス的な感じがする
・そしていったん「世界との対応」という基礎から浮遊すると、言葉や思考、そして他者理解はどんどん足場を見いだせなくなっていって、ある種の障害のような状態になってくる
・しかしこの気付きによって、「言葉を操るAI」への道がひょっとして開けたのでは?
・あと、ここで終わらず「確実性の問題」を読まないといけない気がした

2020年11月23日

和歌山で世界旅行

3連休は中日だけが休みで、なんかどっか出掛けたいなと思って週の初めにバスツアーを予約しました。その時点から既に雲行きは怪しかったのですが、まあその後数日間の大阪はきれいな感染爆発の様相。GoToはこれで一区切りかなというのと、これで感染したら何言われるかわからんなという思いとともに出発しました。

行き先は和歌山。道成寺のすぐ前にある食事処で伊勢エビのお昼ご飯をいただきました。
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・門前で殺生……
・えびって可食部少ないね
・おいしかったです
ちょっと散策。道成寺は創建701年とのこと。投宿した坊主に惚れたおねーさんが袖にされたのに怒り狂って釣り鐘に隠れた坊主を焼き殺したという伝説があるそう。なんそれ……。しかし歌舞伎などでは「道成寺もの」と呼ばれる有名なお話のようです。
誰もいない奥の院から振り返って一枚。
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さらにその奥に行くと柑橘畑がありました。
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すごいわっしわしに実るんですね。そんなに植えてどうすんの、というくらい道端や山の斜面がみかん畑だらけでしたが、よく考えたら弊管理人の故郷もりんご畑だらけでした。

で、「和歌山で世界旅行」。まずは日本のウユニ塩湖(笑)こと天神崎。
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日本のエーゲ海(笑)こと白崎海岸。
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日本のアマルフィ(笑)こと雑賀崎。
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ガイドさんが「皆様いろんなご意見があろうとは思いますが……」と言い訳されてたのにウケました。でも、めちゃくちゃ期待しちゃった人は別として、海外旅行ができない時代の日帰り旅行としてはいい企画だと思うし、それぞれ高速を使って40分~1時間くらい離れた場所で、自分で運転して回ろうとすると結構骨が折れるので、景色を見たりうとうとしたりしているうちに連れ回してもらえるのは楽でよかったです。あと、和歌山はでかい。

帰路のバスでうとうとしたら、マスクの中によだれを垂らしてしまい、外すわけにもいかなくて臭いが辛かったです(汚)。

それにしても車内はみんなほとんど喋らない上にマスクしてるし、バスを降りてまた乗る時に手指消毒するしで、これでかかったら不運ってことだなと思いました。
かなり高齢なカップルもいましたが、足が悪そうな奥さん?と、それに手を添えながら歩く旦那さん?の姿を見ると、1日の楽しみさえも我慢して「死にたくなけりゃ高齢者は家にいろ」と言い捨てるのもなあ、とも。うつす方の人たちじゃないしね。
連休前には旅行社の賃金・人員カットのニュースも流れ、冬の時代が長引きそうなことが窺われます。どうしたらいいのかな。ってまあ答えはロックダウン1カ月なんだけど。

今回の地域共通クーポンの使い途は梅田のロフトでカーボン骨の大判折りたたみ傘でした(和歌山限定ではなく、隣接県でも使えるクーポンでした)。通勤かばんに入れておく用の軽くて大きいやつが欲しかったのです。この制度なあ。

* * *

札幌ではとうとう直接の知人が感染しました。……というのを本人がTWで公開している(ご商売上の必要と拝察)のを見落としていて、大阪の知人から日曜になって教えられました。
快方に向かっているようでよかった。復帰したら「これで人類最強(抗体+)ですね」と言ってしまいそう。

* * *

というわけで、また仕事界隈がわさわさしてきて気分が沈んできました。体重い。

* * *

■松浦壮『量子とはなんだろう』講談社、2020年。

2020年11月07日

雨・87

今週は金曜から週末を始めるという気概で遊び始めまして、深酒したとかではなく土曜の昼の時点で既に一回疲れており、昼寝して起きたら19時。

久しぶりに腰をやり、安静にしていると痛くはないが座っているのと靴下を履くのがつらいので、湯船に浸かったあと湿布を貼り、料理する元気はないので老松通りのオステリア87に行きました。もともと夜の人通りが少ない通りですが、雨なのもあってさらに寂しい雰囲気です。21時も近かったので閉まってたらコンビニで惣菜買ってそばでも茹でよう、と思って向かったら灯りが漏れていました。やりー

前菜盛りをお願いしたら、前回と違ってばらばらに出てきました。
温かいカボチャのスープ。少し青臭いカボチャと、上に載ってる塩気と発酵臭の強いチーズでいきなり目を覚まされます。これは「起き抜けなんです」と伝えたせいなのか?
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カンパチのカルパッチョが水茄子の上に載ってます。「一口で」とのこと。
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肉盛り。ハムやイチジクの入ってるパテももちろんうまいんだけど、オリーブが肉厚で食べ応えがありました。
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このあとサンマのフリットがでてきて、ポルチーニのパスタで締め。
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あ、なんか新しいこと勉強した、と思わせられる箇所がいくつもある本を読んだ感じ。
どっかに書いたかもしれないが、おいしいものは独り飯がいい。他人がいると気が散るので。
ちょっとダルだったのが、「今日はこれでよかった」と思いながら寝床に入れる気分になりました。

* * *
10月は結局本を1冊も読み終えなかったのではないか。

■東浩紀(編)「ゲンロン11」ゲンロン、2020年。
■西研『100分de名著 カント 純粋理性批判』NHK出版、2020年。

2020年09月04日

昼カレーと本2冊

北新地、Nico Cafe。平日昼だけなんですけど、今日(金曜)は起きたら雨が降っていたので気分的に仕事に行きたくなくて休んでしまったため、お店に行くことができました。外に出たら雨は止んでました。
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スパイスカレーを食べすぎな昨今なのですけど、それでもこれはよかった。
珍しく結構辛いです。でもしっかり辛いほうが締まりがあっておいしい。
あとピクルス(小皿のやつ)がただ酸っぱいのではなく、何か複雑な味がした気がしました。

* * *

水曜は一日眠かったので夜は23時に寝て、木曜朝は7時に目が覚め、10時まで布団でごろごろしていました。
ちょっとどう転ぶかな、と気がかりだった仕事がすんなり終わったので、京都から来た若者と大阪の若者2人と西天満のNostraへ夕飯を食べに行きました。
話を聞いてると若者世界もいろいろあるね。そりゃそうか。

しかし「(弊管理人)さん、夕飯行きませんか」と言われて「いいですよ」と言ったら「よっしゃ」と言われるのは悪い気はしないですね。
会社に入って1年目か2年目のとき、競合他社の同期と仕事先で鉢合わせて、若者2人でその仕事先のコワモテおじさんに「飲みに行きましょうよ」と言ったら「いいよ」と言われたので2人して「やりーーー!」と言ったらそのことをおじさんに喜ばれたのを思い出しました。

* * *

■鈴木貴之編著『実験哲学入門』勁草書房、2020年。

認識や道徳といった哲学的課題を、質問紙でいろんな人に尋ねた結果を踏まえて考える最近の分野だそうです。
・哲学者が思索によって導いてきた結論の検証
・従来の哲学の方法論の検証
・ある反応を導く心的過程の解明
という大きく分けて3つのプロジェクトがあるようです。
どうもいろいろな課題に対して人々がどう反応するかには文化差があるのではないか、という疑いが生じてきているあたりが興味深かったのですが、
・「言語を超えても等価な質問」を作ることができているか(&等価って何だ?)
・手近な学部生に対するアンケートが多いようだが代表性は大丈夫か?
・そもそも「みんながそう考えているならそう」でいいのか?
などの疑問もわいてきます。
これからの分野だな(そして、この段階で入門書を出すのは野心的でいいな)という感想でした。もうちょっと面白くなってきたらまた覗きにきたいと思います。

■デイヴィッド・ミラー(山岡龍一、森達也訳)『はじめての政治哲学』岩波書店、2019年。

これはもう一回読むべき。

2020年09月01日

人種と科学

ぎゃー9月

* * *

新型コロナウイルスの研究プロジェクト立ち上げを報じるニュースの中で、「ウイルス感受性に対する人種差も調べる」といったフレーズにツイッタランドの人文クラスタがものすごく反応したのを見て、これはなんか1冊読んどかなね、と思って探し当てた本。前に読んだPhilosophy of Biologyや『交雑する人類』ともつながってます。

結構前に読み終わっていたのですが、いろいろなことにかまけていてメモを作るのが遅くなりました。自分の仕事にも関係しそうで、ある日突然飛んでくるボールを的確に打ち返せるかどうかは準備に懸かっているのだと思うとやっぱりね、こういうのには時々触れておかないと。

それから、この本を読んだ後にBLMの運動が盛り上がり、「黒人」という言葉を耳にして「えっ」と引っかかることが増えました。そのように世界の刺さり方が少し変わったということは、これはかなりいい読書だったのかもしれません。

■アンジェラ・サイニー(東郷えりか訳)『科学の人種主義とたたかう』作品社、2020年。

人を分類し、他の集団より自分たちが優れていることを証拠だてる手段として「科学」の装いがずっと利用されてきたことを明かにする。

【1】19世紀には、ヨーロッパ人のような生活を送らない人は、まだ人間としての潜在能力を充分に発揮していないのだと考えられていた。色の白さは、人類の近代性を目に見える形で表す尺度となった。

ウォルポフとソーンは人類の多地域進化説を唱えた。それぞれの集団を注意深く「人種race」ではなく「類型type」として説明したが、それでもこの説は「われわれみな人間」に対する根本的な挑戦であり、植民地主義と征服政策の影響を受けた考古学の残滓と受け止められた。ただしビリー・グリフィスによれば、オーストラリア先住民も「自分たちは初めからここにいる」という意味で多地域仮説を好むとされている。

近年の遺伝学で、ヨーロッパの集団にはネアンデルタール人の遺伝子の寄与が比較的大きい(それでも数%)とか、オーストラリア先住民はデニソワ人の遺伝子が比較的多く入っていることが分かってきているが、これがracializationに傾くことを警戒する向きもある。

一方、ネアンデルタール人はかつては軽蔑の対象で「低い知能」の象徴と見なされ、発見当初はオーストラリア先住民との類似性が盛んに研究されていた。だがヨーロッパ人に最も多くその遺伝的特徴が残っていることが分かると、「認知機能は現生人類と同等」「文化的行動をしていた」といった理想化を駆動するような研究成果が出始める。

2018年にはエリナー・シェリーらによってアフリカ大陸内の多地域進化説を提唱した。現生人類が持つさまざまな特徴は大陸内のモザイクから獲得されてきたという。

【2】raceという言葉の起源は16世紀で、初めは家族や部族のような共通の祖先を持つ集団を指す言葉だった。
18世紀の啓蒙の時代には、集団間の身体的な特徴の違いは環境の違いとして説明され、移住や改宗などでアイデンティティを変えることはできると考えられていた。
人種が固定され不変のものだという考えは啓蒙の科学からもたらされた。リンネは『自然の体系』(1758, 10th ed.)で人間の特色flavorを赤、白、黄、黒に分けている。ただ、人種が2つなのか10あるのかといったコンセンサスはなかった。

植民地主義の時代には、一部の人は他の人より劣っており、それが支配の根拠と考えられた。奴隷商人と奴隷は本質的に異なっているという理解。白人、黒人、大型類人猿を測り、比較する科学が必要とされた。

米国の医師サミュエル・カートライトは1851年、黒人奴隷に特有の精神状態(精神疾患)「ドラペトマニア」を提唱する。奴隷という自然状態を脱して逃亡しようという病気だ。普遍的な人間性の代わりに、奴隷を隷属した状態に置いておきたいという利己的な人間の物語が持ち出されている。科学は人種主義に知的な権威を与えていた。

では、人種というものがあるとすれば、どうやって出現したのか。
1871年、ダーウィンは『人間の由来』で宗教による創世神話を一掃し、世界各地の人間の情動や表情の研究から「これだけの共通性が別々に獲得されるとは考えにくい」とした。二人の祖父イラズマス・ダーウィンとジョサイア・ウェッジウッドが奴隷制廃止論者だったことも影響したかもしれない。
ただし、進化上の序列があることは否定しなかった。ダーウィン主義は人種主義の否定とはならなかった。だが、都市住民と狩猟採集民の脳に進化上の段階の違いがなければならないのに、実際は差がないことが現在では分かっている。
人種という概念が生み出されたときには、既にsub-humanとして扱われていた集団はいた。人種概念はそれを勢いづけただけだった。なぜある集団は奴隷となり、ある社会は停滞するのか。それを説明する「人種」は常に政治と科学の交差点にあった。

【3】マックス・プランク協会の前身、カイザー・ヴィルヘルム協会がホロコーストに荷担していたことは最近になって公式に認められた。人類学・ヒト遺伝学・優生学研究所長のフェアシューアーは反ユダヤ主義者でナチスの人種関連専門家として人種政策の正当化に貢献していた。

フランシス・ゴルトン(ダーウィンのいとこ)は優生学を提唱した(1883年の造語)。1904年には優生記録書を設立(UCL)、のちゴルトン国民優生学研究所となった。

数学・統計学者カール・ピアソンは1911年にイギリス最初の優生学教授になった。「移民を制限しないとイギリス国民の安泰が脅かされる」と主張した。

1866年、メンデルがエンドウマメの実験を発表。ただ、この実験はどの世代でも安定して形質を表すエンドウマメの「純種」を作ってから行っていた。このことがこの実験結果の一般化可能性に関する20世紀初めの論争につながる。
遺伝について考えるときには、遺伝的背景と同じくらい環境要因・突然変異の存在を考えなければならないということに注意を向けさせようとしたのはラファエル・ウェルドンだった。乳がん遺伝子は100%発症につながるわけではないし、女王蜂はロイヤルゼリーを食べないと女王蜂にならないことは今日よく知られているが、ウェルドンの早世(1906年)によって本格的に取り上げられることはなくなり、遺伝子決定論が広がっていった。

ラッセルも「国家は不適切なタイプの人々が出産するのに罰金を科せば国民の健全性を改善させられるかもしれない」と述べたことがある。チャーチルは1912年の第1回国際優生学会議で副会長を務めている。

ただし、ヘンリー・モーズリーのように、特権や育ちのほうが一部の人の成功をよく説明することに気付いていた人もいた。ウォレスも「人々によい条件を与え、環境を改善すれば、誰もが最良の類型へ向かうだろう」と優生学を批判した。

優生学という言葉が聞かれなくなってきたのはようやく1960年代のこと。遺伝学の進展によって、美しい/賢い形質の遺伝はむしろ運任せだということが分かってきた。人間の品種改良が完璧にできるという考えの裏付けがなくなってきていた。知能のような複雑な特性は数個の遺伝子で左右されるようなものではなく、環境と養育の影響を大きく受ける。ただ、人種主義は科学の片隅で息づいている。

【4】1942年、アシュリー・モンタギューは「人種という言葉そのものが、人種主義なのだ」と述べた。
1950年7月、UNESCOが人種に関する最初の声明を出している。
1950年代にはpolitically correctな用語として集団populationやethnic groupが使われ始める。
1972年、リチャード・ルウォンティンは「遺伝的差異の90%は人種カテゴリー内にある」と書いた。
2002年にはノア・ローゼンバーグが差異の95%が主要な集団内にあるとした。
同じ人種であることは互いに遺伝的に似ていることを意味しない。
ホモ・サピエンスの遺伝的多様性が最も大きいのはアフリカ大陸内である。

それでもレジナルド・ラグルス・ゲイツのように人種科学を継続しようとする一団の研究者も依然として存在した。
1960年には雑誌「マンカインド・クォータリー」が発刊され、人種科学に資金を提供するパイオニア基金も存続している。2014年にはアルスター社会研究協会の研究者によって「オープン・ディファレンシャル・サイコロジー」が発刊された。

【5】1994年、チャールズ・マリーとリチャード・ハーンスタインが『ザ・ベルカーブ』を発表。黒人は白人やアジア系より知的でないと示唆した。批判を受けながらも、マリーは各地のキャンパスに講演に招かれていた。

【6】「人間の生物多様性」が表面的な差異のことではなく、集団間の深い違いを表すのに使われてしまったように、科学研究は人種主義に利用される危険をいつもはらんでいる。

ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァら集団遺伝学はもともと人種主義や優生学に反対する人たちの学問だった。人間の集団間には確固とした区別はないが、グループ内での婚姻が比較的厳密に守られていた集団では遺伝子頻度に特徴がある。それを手がかりに、統計的手法によって人類の移動史を解明できるのではないかと考えた。
1991年には「ヒトゲノム多様性プロジェクト」を提案する。ただ、populationやhuman variationという言葉を使っていても、19世紀であれば人種科学と言われたようなものではないか?と訝る向きもあった。
サンプル採取にも障害があった。搾取と、孤立度の高い集団から得られた知見が生む利益がその集団に還元されないことを懸念した活動家たちがサンプル採取への抵抗活動を組織していた。
なにより、この研究は地球をメッシュに区切ってサンプルを採取するのではなく、そもそも何らかの基準で分類された人間集団を恣意的に発見した上で採取していた。善意の科学者であっても素朴で、歴史や政治の影響からはうまく免れていなかった。

集団内が均一だとは想定しなくても、平均値に基づいた分類を試みる「統計学的人種主義」の根は深い。そもそも人類を分割したいというところに問題がある。
23andmeのようなDTC遺伝子検査サービス、尺度を変えればどのようにでも人類を分類できる。悪意のない科学研究の結果は常に流用の危険に晒されている。

【7】2010年代の古代DNA研究によって、英国最古の人骨「チェダーマン」の肌の色が濃かったことが分かり、混乱した。白い顔の復元がされたこともあったが、白い肌をもたらしたのはその後に東方から入ってきた農耕民だったらしい。
昔、世界各地に生きていた人たちは今の人たちと同じ見た目ではなかったことが明らかになってきている。明るい色の肌の遺伝子は出アフリカ前に既に出現しており、人種に関しては何も固定的なことがないことも示している。肌の色は実際の集団間の遺伝的な差異に比べて過大評価されやすい。実際は肌の色で人種を分けることには意味がない。

デイヴィッド・ライクは、遺伝子に基づいた人類の移動史研究に取り組む。現在いる集団は絶えざる移動と交雑の結果だった。「世界の大多数の人々は、すべてではないにせよ、遠い過去にその同じ場所に住んでいた人とは直接つながっていない」
一方で数千年も遡れば、その時代に生きていた人たちは(子孫を残していれば)今日生きているすべての人の祖先か、(子孫を残していなければ)誰の祖先でもないことになる。ただしライクは、米国の黒人と白人の間には外見上の違い以上の違いがある可能性は留保している。

【8】ソリュトレ仮説は1970年代に登場した。考古学や人類学で、ヨーロッパ人は人類進歩の究極的な担い手だとする考え方だ。23000~18000年前にフランス、スペインの一部に存在したソリュトレ分文化は細長い薄片から石刃を作る手法を持っていて、ニューメキシコ州のクローヴィス文化(13000年前)の手法と似ているので、ソリュトレ人が最初に米大陸に伝えたのではないかという仮説だ。エクセター大のブルース・ブラッドリーらが主張した。
これは、ヨーロッパ人は17世紀より相当以前にアメリカ大陸を占領しており、ヨーロッパ人が米大陸に最初から権利を有しているという主張にもつながる。19世紀の「マニフェスト・デスティニー」の変種とも見ることができる。しかし現在は、最初のアメリカ人はベーリング海峡に15000年前以降に出現した陸橋で西から移動したと考えられており、これと真っ向対立する。アメリカ先住民はほぼすべてがシベリア東部に共通の祖先を持つことが近年の遺伝学的証拠から示されている。

過去を探る研究は、人種主義的な動機から科学研究の成果がイデオロギーのためにいいとこ取りされ、歪曲される事態にネイチャーも2018年には懸念を示したことがある。

【9】カースト。互いに閉じた婚姻関係を形成し、職能も異なる集団は遺伝的にも独特な2集団になるのかもしれない。たとえば素潜り漁をする集団は農民に比べて脾臓が長く血中酸素濃度を保ちやすいなど。では認知能力はどうだろうか?

行動遺伝学。KCLのロバート・プロミンら。知能遺伝子の探索。ナチの双子研究とnature/nurtureの割合推定の系譜。
しかし、知能とは何か、どうやってそれを計測するかはまだ確立していない。また遺伝率は誰でも同じではない、環境の違う人たちを比べることの困難さがある。知能に関係するとみられる遺伝子は「あるだろう」、しかも相当あるだろうというくらいしか言えないのが現状。IQの差はすべて社会経済的要因で説明がつくとする研究もある。

ジェームス・フリン(オタゴ大)の「フリン効果」(1984)。アメリカ人のIQは30年で上昇を続けているとの研究。文化的な時代の流れによる恩恵、知能の柔軟性を示すものだ。

アメリカでアフリカ系とされた人のうち、系統的にアフリカ系な人は非常に少ないということも知られるべきだ。ロバート・スタッカート(1976)はアメリカの国勢調査データから、白人として登録された人の1/4にはアフリカ人の祖先がおり、黒人の80%に非アフリカ系祖先がいた可能性があるとした。ヨーロッパ系の要素が多いアフリカ系アメリカ人は知能がその分だけ高いのか?1986年の研究では、養子のIQの違いは、入った先の家庭によることが示されている。

イギリスではGCSEのテスト成績で最も低いのは白人の労働者階級男子、次いで女子だが、「低い知能は白人性に根ざしている」という議論は起きていない。

2018年4月、インドでアファーマティブアクション後の役人のカースト別の働きぶりを比較した研究では、カースト別の差異はなかったことが報告された。

【10】医薬品の「人種差」。アメリカの黒人に高血圧が多いのは、奴隷船で旅をするのに体内に塩分をためておける人が選択されたからだと説明されたことがあるが、食生活、ストレス、ライフスタイルの問題が見過ごされていた。人種的な説明は社会的説明より受け入れられやすい上、奴隷制を巡る悲しいストーリーと結びつきやすかった。
だがハーバード大公衆衛生大学院の研究で、教育年数と血圧の関係が見いだされた。

2005年には、資金不足から黒人だけを対象に治験を行った高血圧症治療薬バイディルがFDAに承認された。ゲノムに基づいた個別化医療が高価だからと、怪しいが分かりやすい「人種化医薬」が使われる。実際は「人種」を生物学的に定義するのは極めて難しいと知られていてもだ。

カウフマンとクーパーの研究では、ACE治療薬やCa拮抗薬のように人種差があるとされた薬への反応の差異は、人種内での個人の反応の差異に比べて小さいことが分かっている。白人に多いとされている嚢胞性線維症の診断をなかなか受けられなかった黒人の事例もある。

NIHは1993年から、助成する臨床試験に助成やマイノリティグループを含めること、データを「人種」ごとに集めるように求める方針を掲げてきたが、これは医学研究に幅広い集団を含めることが目的であって、違いを探すためではない。

今日の不健康が黒人の体の内因性のものであれば誰の責任でもなくなるが、社会の不平等や不公正、差別のせいではないということと同じでもある。

イギリスのカリブ海系統の黒人が白人よりも多く発症するのが統合失調症で、「黒人の病気」とも言われているが、これまでに原因とみられる遺伝子領域がいくつか見つかっても、最大で発症リスクを0.25%高めるだけだった。しかも、この遺伝子変異は患者の27%に見つかったが、健康な人も22%が持っている。実際には生活環境や移民であることにまつわる危険因子、子どもの頃の逆境が重要なことが分かってきた。しかもナチの科学者フェアシューアーは「ユダヤ人によく見られる」と書いていた。

2020年07月29日

生物学の哲学

前々からそういうのがあるとは知っていたけど、ちょうど手軽そうな本出た!っつって買ったもの。本当は舞鶴から帰ってくるバスの中で読み終わっていたのですが、次に手を付けた『科学の人種主義とたたかう』がこれと少し繋がっていたため、ざっと読み直しながらメモを作ることにしました。

時代を隔てて使われている言葉の意味が同一かどうかを考えるような部分は哲学っぽい匂いもするのですが、多くは「これくらいの原理的な説明は遺伝学の教科書に載ってそう」という印象(確かめてないけど。すみません)。あるいは遺伝情報が「情報」なのかどうかのように、個人的にはどっちでもいいかな……という論点もありました。科学哲学に再吸収されないのかな。

とはいえコンパクトで一覧性があって説明も平易、というこのシリーズのご多分に漏れず有り難い本でした。

■Samir Okasha, Philosophy of BIology: A Very Short Introduction, New York: Oxford University Press, 2019.

【1】なぜ生物学の哲学か

・20世紀初頭に科学の方法に関する研究として「科学哲学」が登場

・1970年代にその1分野として「生物学の哲学」が出てきた。その背景は3つ

 (1)科学哲学の関心が物理学に寄りすぎていた
  ・戦間期の論理実証主義。自然法則の探究という科学観が生物学によくフィットしない
  ・クーンのパラダイム論(1962)もやっぱり相対性理論などを相手にしていた

 (2)生物学に面白い問題が出てきた
  ・20世紀前半の「新ダーウィニズム」←遺伝学や古生物学、動物学を踏まえて
  →遺伝子「変異」単位での淘汰という視点
  ・20世紀後半の「分子生物学」←1930年代のバクテリオファージ研究に発端
   ワトソン、クリックのDNA二重螺旋構造発見(1953)
  ・新たな概念の登場(J.モノー、E.マイヤー、J.M.スミスらが議論)
   (a)進化生物学によくある目的論的説明 eg.魚のえらは呼吸のためにある
   →こういう考え方はどこからきている?創造論を引きずっているのか?
    いかにして「機能」は発見されるのか?
    「機能」は2つ以上ありうるか? ……などが古典的な生物学の哲学の問い
   (b)遺伝学によくある「コミュニケーション」のボキャブラリー
    eg.コードするcoding, 情報information, 翻訳translation
   →なんで生物学の時だけ分子に情報学的な語彙が用いられるのか?
    文字通り受け取ればいいのか?それともただの例えなのか?

 (3)自然化された哲学naturalized philosophy=実験的手法=が生物学に触発された
  ←英米哲学のトレンド。経験科学との融合(クワイン~)
  eg. 「志向性」と特定の脳状態の関係
     ハチの8の字ダンスの表象機能に関する進化生物学的説明(R.ミリカン)

【2】進化と自然選択

・『種の起源』(1859)の中心的主張
 (1)種は環境に応じて変化する
 (2)現存する種は神が創造したのではなく、1つか少数の共通祖先の子孫である
 (3)進化の主な手段は自然選択である
 ※ダーウィンの祖父エラスムス・ダーウィンも(1)と似たことを言っているが、
  メカニズムについては言及なし。(3)を示したことが大きい

・自然選択が起きる条件
 (1)種に含まれる諸個体にバラエティがあること。完全にみんなが同じではないこと
 (2)それぞれの表現型に適応度の差があること
 (3)子は親にある程度似ること
→これを『種の起源』の中でかなりのスペースを割いて例を挙げながら議論している

・マルサスの人口論に着想
 →生物は限られた資源の中で、それぞれの表現型を利用し「生存競争」をしている

・デザイン論(目的論的議論)を掘り崩した
 eg. W.ペイリー。環境に合った表現型、複雑な構造の眼が自然にできるか?
    正確に時を刻む目的に適う時計は「意志的な創造者(職人)」がないとできない
 ←ダーウィンの自然選択(長い時間をかけて調整される)は論駁しえている
 ・ただし現在もインテリジェントデザイン論として生き続けている
  ただしこれは科学というより宗教的動機で生き延びている

・ネオ・ダーウィニズム
 ・ダーウィンの進化論は、その証明を後に譲った点が2つある
  (1)集団内の多様性はどうやって発生するのか?
   →自然選択は多様性を減じる方向に作用するので、変異が発生するとの証明が必要
  (2)親と子が似るのはどうしてか?
 →いずれも現在の遺伝学で回答可能
 ・ネオ・ダーウィニズムは「ランダムな変異」と「自然選択」が2大原理
  「進化」を集団内の遺伝子頻度の変化と定義することが多い
 ・また、親の獲得形質(筋トレの成果など)が子に伝わるというラマルク的説明を拒否
  ※ただしエピジェネティクスや腸内細菌などの知見からすると完全にナシではない
 ・ラマルクは「個体」、ダーウィンは「集団」を適応の単位とみている

・マイヤーの「探究の2類型」
 ・Proximate:特定の生物機構はどうやってhow機能するか
  eg.哺乳類の体温調節はどのようにされているか?
  →それが起きる因果的連鎖を記述すればよい
   進化の歴史は参照する必要がなく、創造説に立っても説明はできる
 ・Ultimate:なぜwhyの議論 eg.なぜ鮭は生まれた川に帰ってくるのか?
  →進化的にそれが有利であることを記述すればよい

・進化論が科学者以外にもみんなに受け入れられているとは限らない理由
 (1)生活実感にそぐわない。動植物に共通祖先がいたとはにわかに信じられない
 (2)人間の特権的地位を剥奪する
 (3)多くの宗教の教義と合わない
・上記(1)に対する証拠提示
 ・違う種(例えば馬と牛)が解剖学的に驚くほど似たボディプランになっていること
 ・脊椎動物の胚が極めて似ていること
 ・細菌から人間まで、極めて似た遺伝子を使っていること(これが一番強烈)
 →これらは共通祖先を想定すると極めてうまく説明できる
・「でも所詮、仮説でしょ?」
 ←そうなんだけど、多くのエビデンスがうまくはまる。なんなら他にも仮説はいっぱい

【3】機能と適応

・「機能function」によく訴えるのが生物学の特徴
 ※function-attributing statementsだがfor, in order toで表されるものも含む
 eg. カニの甲羅の機能は身を守ることである
    ←→天文学者は「惑星の機能」とか言わない
・しかし、何これ?
 (1)単に「効果」のことである
  ←しかしカニの甲羅の機能は内蔵を保持することである、とは言わない
   複数ある効果のうちなぜどれかだけが機能と言われるのか?
 (2)果たすべき役割、という規範的意味である
  ←誰が「べき」を判断するのか?自然科学って記述的じゃなくていいの?

 (3)生物学的適応度に関係した形質のことである(前章のultimate=whyに対する説明)
  ←これはなかなかよさそう。だがこれだけではない(後述)
・人工物についても機能は云々される
 人工物の機能は、創造者である人間の意図に照らして決まる
 →ということは、生物学で機能トークをやるのも創造説をひきずっているからか?
  ←「盲腸には実は機能があった」は単に創造説をひきずっているだけとも思えない
 →自然選択というものが創造者(人間)っぽく感じられているからでは?
  ←無生物についても「氷河の機能」とか言えるけどいいのか?
・結局、人気があるのは目的論的説明(自然選択のうえで有利=選択効果説)。上記(3)
 ←しかし「機能」が複数見いだせてしまう場合もある eg.シロクマの毛皮
  因果関係の最後にあるもの
 ←もともとの目的とは違う機能も eg.鳥の羽:体温調節→飛ぶ どれが本当の機能?
 ←進化論以前の「機能」という言葉は… eg.ハーヴェイが発見した心臓の「機能」は?
  eg.進化論とは関係ない分子生物学的に発見された「機能」は?

・対抗馬としての因果的役割理論causal role theory of function
 ・脳のように複雑な仕組みがどうやって働いているか
  eg.脳のある部分の機能とは、システム全体に対する貢献のこととみる
    体温調節機能における視床下部の機能は、血液の温度を監視することである
  eg.獲得免疫におけるT細胞、B細胞……

・目的論的説明はwhy、因果論的説明はhowに答えているともいえる
 双方の説明が一致することもあり、そのせいでこの区別があまり重視されてないのかも

・「これがこの組織の機能です」という決めつけが間違いである可能性について
  (グールド&レウォンティン)
 ・環境における適応をみる?進化は人間のスパンでは見えないが
 ・単なる進化の副産物に機能を見いだしてしまう可能性はないか?
  一つの遺伝子が複数の影響を及ぼすことも知られている
 ・人の鳥肌のように痕跡としてだけ残っているものに機能を見てしまわないか?
 ・四本足のように「最初にできちゃったので広まっただけ」に機能を見てしまわないか?
→あらゆる組織に機能がある、という思い込みの危険
 個別の組織ごとに分けて考えるのではなく、全体論的に考えるべきではとの提案

【4】選択の単位について

・ダーウィン:個体単位 eg.足の速いチーターがより子孫を残しやすい

・個体より小さなレベル
 細胞単位 eg.脊椎動物の免疫、神経発生、がん
 →ただし効果は個体の寿命限り
 遺伝子単位

・個体より大きなレベルとして:集団単位group selection
 →これにより、利他行動(個体の損、集団の利益)がなぜ存在するかが説明できる
   協力により、自分本位の個体ばかりの集団では達成できないことができる
   (これには個人選択派のダーウィンも気付いていた)
 ←「個体の得がたまたま集団の得になっている」というG.C.ウイリアムズの反論
  現代の数理モデルでも、集団選択のほうが弱いとされている
  (が見逃せない程度の反論もある)
・でも、利他行動はどう説明する?
 →血縁選択kin selection。利他行動は近親者のみが対象(集団内一般ではない)
  →利他遺伝子が優勢になっていく 
  ハミルトンの法則(1964):相手の利得×近さ>コスト、の時に利他行動が進化する
・人間には当てはまるか?
 →当てはまる。ただし社会組織(会社や政府など)では血縁関係なくても協力する
・血縁選択と集団選択は同じものだとの見方も eg.女王蜂のための犠牲

・遺伝子単位:ドーキンスの「利己的な遺伝子」(1976)
 各遺伝子は集団内の他のアレル(染色体の同じ位置を占める変種)と競争している
 →これで利他行動も説明可能
 アウトロー遺伝子(他を出し抜いて自分が増える遺伝子)もある

・最近四半世紀の選択単位を巡る議論
 J.M.スミスとサトマーリのthe major transitions in evolution
  細胞小器官や細胞が統合されていくということ(細胞内共生、コロニー…)
  すべての生物は社会的だとの含意

【5】種と分類

・伝統的な分類法はリンネ方式
 ・すべての個体に種speciesを割り当てる
 ・すべての種に属genusを割り当てる、
   以下、科family、目order、綱class、門phylum、界kingdom
 ※リンネはダーウィン以前の人で、神の創造した客観的・永遠の分類の解明を試みた
  それぞれの種が共通祖先から進化したという考え方に立ってない
・分類学taxonomyから20世紀に体系学systematicsが誕生
 しかし分類の基本原理については今日もまだ合意ができていない。ポイントは2つ

(1)個体を種に当てはめる原理:種問題species problem。種とは何か
 ・元素のように、そこに含まれる個体が一様ではない
   種の中に遺伝的多様性があり、それが変化する→必要十分な性質が決まらない
   DNAバーコード(共通性の高い部分)もいつも目印になるとは限らない
 ・E.マイヤーによる解決:Biological Species Concept (BSC)
   同種に属する個体は生殖可能な子どもを作れるreproductively isolated
   →種間では遺伝子の流入が起きない
 ・BSCには限界もある
   (a)無性生殖する生物には使えない
   (b)生殖可能かは程度の問題。2種が接するhybrid zoneでは交雑が起きうる
     植物では異種間の交雑がよく起きる
   (c)輪状種ring speciesの存在。a-b-c-dが隣接しつつ輪のように分布していると、
    a-b,b-c,c-dは交雑できるのにd-aができない場合がある
    ※ただしこれは致命的な反証ではない。
     レアなのと、種に分裂する途中と見なされうるため
 ・BSCの代替案(30種類くらいあるが、どれも普遍的でない)
   ecological species concept
   phylogenetic species concept
   morphological species concept など
   ……といって「種」の概念を放棄するのも不便
 ・M.ギーゼリンとD.ハルの提案
   種を、特定の時と場所に現れ去っていく複雑な一個の個体のように見る
   個体―種関係を細胞―個体関係のように見る cf.アリとコロニー
   個体を種の構成員ではなく部分と見る cf.変異した細胞も体の一部
  →普遍的な分類法則を発見できない(しなくてよい)。例外を許容する
  →「人間本性」などというものもないことになる

(2)種を属に当てはめる原理
 ・系統分類学phylogenetic systematics/分岐分類学cladistics
  →分類は進化の歴史を反映したものであるべきだというのが基本アイディア
 ・種以上のレベルはすべて単系統monophyleticでないといけない
  →単一の祖先種からすべてが生まれていて、しかもそれ以外があってはいけない
 ・ホモロジー(共通祖先から受け継いだ共通の性質)を分有している
 ・系統分類学のライバル
  (1)表形分類学phenetic school:進化の歴史ではなく、観察可能な類似性に基づく
   ←ただし、これだと主観的だとの批判あり。よく似た2種の食性が全然違ったら?
  (2)進化分類学evolutionary taxonomy:進化に基づくが、厳密な単系統を要求しない
   →鳥類を除外した「爬虫類」を許容する。鳥類はトカゲやワニとえらく違うので
   ←これも主観的との批判は成立する
 ・現在は分子生物学の進歩によって、DNAシーケンスデータが豊富にある
  →系統分類がやりやすくなった

【6】遺伝子

・メンデルと分子遺伝学の「遺伝子」は同じものか?
  同じだとするとメンデルは分子遺伝学に還元できるが、「同じ」説は実は不人気

・遺伝子とは?―一言でいうのは実は難しい。1領域1たんぱくとは限らない
 ・たんぱく質をコードする領域を遠くから制御している部分は遺伝子に入るのか問題
 ・選択的スプライシングalternative splicingで同領域から違うたんぱく質ができる
 ・overlapping genesは1領域を複数遺伝子が共有している
 ―それでも日々の研究は問題なく進む。実験の正しさ/概念定義の厳密さの違い

・なぜことさら「情報」というのか?
 ・コードの恣意性:CACという配列がヒスチジンをコードする必然性がない=記号的
 ・遺伝子発現に制御領域や転写因子からの「シグナル」交換が必要(J.M.スミス)
 ・しかし疑問視の向きもある
  ・メタファーにすぎない
  ・ゲノムは自律的ではない(細胞が環境応答し制御している)
  ・エピゲノムの存在(ゲノムだけが次世代に伝わり発生を司るわけではない)

【7】人間の行動、心、文化

・人間は特別か?人間は生物学の言葉で(どこまで)語れるか?
 (1)語れる派:臓器と同じく心も進化の産物
 (2)語れない派:規範や文化はかなりの部分、自然のプロセスから外れている
 ―これらの中間に位置する立場がいくらでもある。解像度の問題も
  eg.つがいを作るのは生物的だが、婚姻慣習は文化特異的だったり
 ―二分法的な問題の立て方自体がおかしいとの指摘も

・氏か育ちかnature/nurture
 ・ビクトリア時代はfeeble-minded(多くは学習障害と思われる)遺伝子が議論に
 ・C.ハーンスタインとR.マレーは黒人のIQが低いとThe Bell Curveで主張(1994)
 ・ヒュームは事実/当為を区分したが、「科学は客観的事実だけ扱う」はナイーブ
  →客観的描写と見えるものや問題設定自体が価値判断を含んでいる
 ・定義が不十分、区切り方がおかしいという批判
  nature:遺伝的という意味だったり、本能的という意味だったり
 ・個体レベルでみると、
  発生・発達においては遺伝/環境要因が相互作用するのが常
  eg.フェニルケトン尿症は変異のある子でも食事療法で正常発達可能
   →この病気は遺伝子によるか環境によるか、という問いがおかしい
 ・集団レベルでみても、
  同じ病因遺伝子を持っていて発症する人/しない人がいる
  違う環境で育った一卵性双生児は……
  先天的=遺伝的かも注意。「2本足」の中にも事故による切断は後天的
  遺伝的に近い→似た環境を経験しやすい、という因果が相関関係に隠れていることも
   →環境要因の貢献度に関する分析を誤らせる恐れがある
 ・生物学はnature/nurture問題を解けない。ただ問題をクリアにするには役立つかも

・社会生物学
 ・1970sの社会生物学の新アプローチ:人間行動や社会構造を進化的視点から
  eg.近親婚禁忌は先天異常のリスクを高め、淘汰圧を受ける E.ウィルソン
   男性同性愛も生殖の点では不利だが進化的意味があるのでは(これは想像)
  →優生学につながるとの批判はあったが、今から見ると批判には政治的動機が強い
  ―ただし「社会科学は生物学に吸収できる」との主張は無理
   (1)社会科学の問いはどちらかというとproximal(←【2】)
   (2)社会生物学は遺伝子と行動を単純に結びつけすぎ(環境要因を看過)
   (3)人間行動はそんなに普遍的でない。状況や文化でかなり変わる

・進化心理学(1980s~)へ
 ・進化学の視点は保持するが、行動ではなく認知・心理に着目
 ・言語処理、顔認識など個別タスクを担当する「メンタル・モジュール」の集合とみる
 ・ただし全面的に適応的ではない。環境変化が早すぎてミスマッチ起こしている部分も
  「石器時代マインド」をひきずった結果が精神疾患かも?
 ・議論も:
  ・性行動や男女差にやけに注目する
  ・エビデンスからはみ出た主張をすることも
  ・適応の視点が実証より先にありすぎるのでは
  ・こういう決定論的な見方にありがちな「自由意思」処理の問題
   eg.男の荒っぽい行動はそいつのせいか、遺伝子のせいか
     ←まあ全面的に遺伝子のせいと考えてる人はいないが

・文化進化
 ・人間集団ごとに極めて違う慣習、それも数千年でできている
  →遺伝的背景からは遊離。ただしダーウィン的進化”類似”のプロセスは想定できる
   「より適応的な文化」の選択(狩猟採集vs農業など)
   多様な環境に合った多様な文化が定着している
 ・文化と生物的基盤の関係
  ・認知機能に依拠しているという意味では依存
  ・進化の起きるスピードが文化のほうが全然早いという違いにおいては独立
  ・進化が水平方向にも起きるという点でも、変異が垂直にしか伝わらない生物と違う
    ←これには「細菌は水平伝播もある」との反証あり
  ・インタラクション(文化と生物の共進化)がある場合も
    eg.牛の家畜化と牛乳の消化酵素
  ・ドーキンスの「ミーム」(複製能を持った文化進化の単位)
    ※面白いが定義があいまいで扱いづらい eg.キリスト教文化は1ミームか多か?
     文化のアトム化への疑問も
    →あまり受け入れられていない
  ・生物との違いは、変異がランダムに起きるわけではないこと
    eg.バイキングの船の形は何も考えず色々作った結果が選択されたのではなかろう
   →むしろラマルク的(後天的な獲得形質が伝播する)では?
   ※ただし、ラマルク拒否はネオダーウィニズムから
    また、エピジェネティクスを考えるとラマルク的な面も
  ・生物と同じく、選択単位(個人か集団か)の問題もある
    規範と違反者への懲罰は、個人よりは集団の利益として進化したと考えるべき

2020年06月03日

民主主義とおなか

■ヤン=ヴェルナー・ミュラー(板橋拓己、田口晃監訳)『試される民主主義(上・下)』岩波書店、2019年。
Jan-Werner Müller, Contesting Democracy: Political Ideas in Twentieth-Century Europe, Yale University Press, 2011

ハイエクの流れでこちら。
20世紀東西ヨーロッパの政治思想史。この時代・この地域がいかに思想に駆動され、そしてされ得なくなったかを見せてくれます。「映像の世紀」のもっとすごいやつ。
contestingなのに「試される」なのは、監訳者の一人が北海道でずっと教鞭をとっていられたために「試される大地」に引きずられたのでしょうか。いや全然この訳でいいと思うけど。

* * *

と、雑な文章なのは、いま体調激悪だからです。
日曜の午後に急に怠くなり、月曜からは夕方に38度台の発熱を繰り返しつつ下痢継続中。いま「ポカリスエットを流すだけの筒」みたいな生き物になってます。もともと小風邪をひいたところ、月曜の昼に食ったテイクアウトに中ったとの疑いを持ってますが、火曜の朝に近所のクリニックで言われたのは「細菌感染による腸炎」。口に入れたものがただただ全部下から出て行くので、今週は出社できてません。

2020年05月11日

隷従への道

■フリードリヒ・ハイエク(村井章子訳)『隷従への道』日経BP社、2016年。

ウイルスとの戦い、という物騒で無理筋なフレーズが出てきたあたりで、この本に手を付けるのは「今かな」と思ってがつがつ読み始めました。「あっ安い新訳が出てる!」といって買ったはいいが、新書サイズとはいえ500ページ超と東京では通勤で持ち歩くには重くてかさばるために、本棚に置いたままになっていたのでした。しかしそのうちに「自由を売ってパンを買う」みたいなプーチンのロシア20周年(5月7日)が来て「むしろそっちだったかな」ってなった。

ドイツでナチ政権が誕生し、第二次世界大戦に入っていこうとする時期に着想され、戦後を展望する1944年に出版。進歩と繁栄をもたらした19世紀の古き良き自由主義が「時代遅れ」となり、計画経済が社会主義からファシズムに流れ、自由主義陣営でも戦時体制(つまり消費財と資本財から軍事物資へと生産が計画的に振り向けられ、消費財の生産縮小に伴うインフレ防止のため、物価凍結と配給という政府介入が行われる体制)の経済に移行した時代、確かに権力者にとってはコントロールがきいていいけど「でも戦後もそれやったらだめだからね」と英国民に警告を発するものです。

小規模で単純で見通しのきく時代ならともかく、複雑化した社会において計画経済を「ちゃんと回す」のは土台無理で、それをやろうとすると民主的なプロセスがすっ飛ばされ、「科学」を独占する専門家に(本当はできないのに)丸投げされ、個人の責任は蒸発し、無理な統治を淡々とこなせるクズが組織を上り詰め、成員に大して無差別に網をかける「法の一般性」は失われて特定グループが優遇されるという恣意的な統治になります。

「いや所詮経済だけの話でしょ」とはいかないのです。経済を政治や「価値観」の領域から切り離すことはできず、結局は計画経済を志向するとそのまま坂を滑り落ちて全体主義に行き着く危険が極めて大きくなります。

といって、じゃあ政府なんていらずに市場に全部お任せでいいかというとそれは全くそうではありません。労働環境、衛生、交通網の整備など「競争の土台」を整えることが政府の役割だと主張します。生存のための給付、今だったらベーシックインカムさえもひょっとして許容するかもな、と読んでて思いました。

とにかく「複雑な社会において全体をコントロールできるなんてのはフィクションだ」というのが根本的な思想で、必然的に「じゃあ科学者に任せよう」という幻想も切って捨てることになります(「ネイチャー」も槍玉に上がってます)。その代わりに、自律分散システムを走らせて、全体がたとえ「正解」には行き着かなかったとしても、そこそこいいところには落ち着く(アニーリングみたいですな)、それを目指すしかないんではないか、という考え方なのかもしれない。

最後にはその拡張版として、戦後の国際秩序として閉鎖的なブロック形成ではなく、個々の国の力を活かす「連邦制」、そして地域ごとにできた連邦制同士の連合のようなものを提案して終わります。

若者の驕慢みたいな集産主義思想に「眉唾眉唾」ってやる様子は、40代に入って順調に保守的になった弊管理人も共感するのですけど、しかしちょっと想定してる人間像が強いなとは思いました。あと、社会構造が個人に及ぼす影響を過小評価しているとも。暗い戦争の時代から戦後の世界を構想する立ち位置で、しかも徹底した二項対立の図式を描くスタイルからはしょうがないのかもしれないけど。

あとこれ。冒頭の序文に出てくる、アメリカでの本書の出版を断った編集長のコメント。
「この本がたいへんに骨を折って書かれたことはわかりますが、いかんせん余分なことが多すぎます。ここに書かれている内容は、半分の枚数で書けたでしょう」(p.32)

同じことが何度も出てきたり、セクションが変わると断絶した感じになっちゃったりして7章にさしかかったところでついて行けなくなり、メモを作りながら序章から再スタートしました(ただし読む速度は3倍に上がった)。そして最後のほうは若干だれました。でも訳文はとても読みやすくていいと思う。グッジョブ。

* *

「リベラル」という言葉は19世紀的&英国で使われている意味(いかなる特権も認めない)で使ったが、米国では政府の規制や管理を支持する立場に(左翼への批難の言葉として)使われるようになってしまった。
この本では、「社会主義というものは、大方の社会主義者が同意しない方法でしか実現し得ない」(P.101)ということを示そうとする。

【第1章】
・自由主義の下で発生する自生的秩序が進歩の原動力だった(が近頃評判が悪い)

「私たちは経済における自由を次々に放棄してきた。だがかつて経済の自由なしに個人の自由や政治の自由が存在したことはない。一九世紀の偉大な思想家、たとえばトクヴィルやアクトン卿が、社会主義は人を奴隷にすると警告したにもかかわらず、私たちは社会主義への道を着々と歩んできた」(p.139)

「今日では個人主義は悪い意味でとらえられ、利己主義や自分本位と結びつけられている。だが、社会主義を始めあらゆる形態の集産主義(collectivism)と対比して私たちが語る個人主義に、利己主義と結びつく必然性はない。[...]個人主義の本質的な特徴を一言で言うなら、人間としての個人の尊重だと言うことができよう。それは私的な領域においてはその人の考えや好みを至上と認めることであり、人間は生まれついての才能や好みを育てていくべきだと信じることでもある」(pp.140-141)

「[自由]主義の基本的な原則は、指図や規制をするに当たっては社会の自生的な力を最大限活用し、強制に頼るのは最小限に抑えること、これだけである」(p.145)

しかし、自由主義による進歩はペースが緩やかだったため、それによって富が増大したことを忘れて、次第に「古い原理」と見なされていく。それを克服するのは「全く新しい何かだ」と考えられ、個人主義の伝統が放棄されていく。そこでドイツでの社会主義の理論的発展と、英国の「時代遅れ」化が進むのだ、という危機感が表明される。

【第2章】
・集産主義、社会主義、共産主義、ファシズムは似ている

そもそも社会主義は誕生の場面では権威主義的だったはずだ。

「ここで何より驚かされるのは、はじめは自由に対する最大の脅威とみなされ、フランス革命の自由思想への反動として生まれたことが公然の事実だったその同じ社会主義が、いつの間にか自由の旗印の下に広く受け入れられるようになったことである。誕生したての社会主義があからさまに権威主義的であったことは、いまやほとんど忘れられている」(p.159)

しかし、ある時、「自由」という言葉をハイジャックする。これが受け入れを促進してしまうのである。

「政治的自由を追い求めた偉大な先人にとって、この言葉[=自由]が意味するのは圧制からの自由であり、他人による恣意的な権力行使からの自由であり、上位者の命令に従う以外の選択肢がないような束縛からの解放だった。だが新しい自由が約束するのは、貧困からの時湯であり、個人の選択の範囲を必然的に狭めるような外的条件の制約(…)からの解放だった。…この意味での自由が権力あるいは富の別名にすぎないことは、改めて言うまでもあるまい」(pp.161-162)

だが、イーストマン、フォークト、リップマンのように、共産主義の実際を見て、ファシズムとの親和性に気付いた人もいた。

「あの民主社会主義というここ数世代の壮大なユートピアは実現不能であるばかりか、実現しようとすれば、今日それを望んでいる人々でも受け入れがたいほど、めざすものとはちがう結果を生むにちないない。しかし多くの人は、社会主義とファシズムの関係を白日の下にさらけ出すまで、それを信じようとしないだろう」(p.171)

【第3章】
・「自由」はレッセ・フェールではない。競争が成立する条件づくりは国家の仕事である

(「自由」という言葉に続いて、)「社会主義」という言葉にも混乱がみられる。究極の目的は「社会主義や平等と保障の拡大」だというのだけれど、この目的のほかに、それを実現する「手段」のことを「社会主義」が意味することもある。その手段というのは、民間企業の廃止、生産手段の私有禁止、「計画経済」の導入である。「目的」のほうだけを見て信奉してしまうと、「手段」が孕むリスクを見逃すことになりかねない。

「計画」という言葉も曲者だ。政治や経済は先を見通すという意味で多かれ少なかれ「計画」的である。計画を否定するのは運命論者くらいだと考える向きもあるだろう。

しかし、「今日の計画主義者が要求するのは、単一の計画の下であらゆる経済活動を中央が指図することである。そしてその単一の計画では、特定の目的を特定の方法で達成するために、社会の資源を「意図的に管理運営」する方法を定めるという」(pp.181-182)

こんにち、計画主義者とその反対者の対立点は、「強制力を持つ者は、個人が知識や自主性を発揮する最良の枠組を定めて各人が最適な計画を立てられるような条件を整えることだけに専念すべきなのか。それおtも、そうした個人の資源を合理的に活用するためには、ある意図をもって作成された設計図に従って、個人のすべての活動を中央が組織し指導することが必要なのか、ということである」(p.182)――このうち、社会主義者が使う「計画」は後者の意味である。

といって、自由主義者が単純な「レッセ・フェール」を主張しているわけではない。「自由主義の主張は、人間の努力を調整する手段として競争原理をうまく活用しようということであって、物事をあるがままに放任しようということではない」(p.183)

つまり、競争原理が効果的に働くための法的枠組や、ある種の政府の介入は必要だし、競争の条件がうまく整わない場面では別の原理が必要だということも必要だとする。

「彼ら[=自由主義者]が競争をより優れた方法だと考えるのは、単に既知の方法の中で多くの場合に最も効率的だからというだけではない。当局による強制的あるいは恣意的な介入なしに相互の調整が出来る唯一の方法だという理由が大きい」(p.183)

有害物質の禁止、労働時間の制限、衛生環境の整備などは競争の維持と矛盾しない。その利益が社会的費用を上回るかどうかだけが問題になる。広範な公的サービスの提供も、それが競争を非効率するような設計でない限り、競争の維持と十分両立しうる。これまでは介入のデメリットばかりが強調されてきた。

また、「法制度をいくら整えても、競争原理や私有財産制が効果的に機能する条件を形成できない領域が、まちがいなく存在する」(p。186)

道路や道路標識などは一人一人にサービスの対価を払わせることができない。森林伐採、工場の煤煙などの影響を所有者だけに引き受けさせるとか、賠償と引き替えに受け入れた人たちだけに限定することはできない。こういうときは価格メカニズムを通じた調整とは別の原理が必要になってくる。

だが、こういう「競争がうまく機能するための法的枠組」の整備は進まず、競争を排除する方向に走ってしまっている。そして、独占化や組織化が進んだ分野では資本家と労働者がグルになり、消費者はその言いなりになるしかない。

【第4章】
・社会が複雑になるほど全体を管理できなくなる

計画の必然性を言うために動員された”根拠”は「技術革新の結果として競争の余地がなくなっていく。あとは大企業による独占か国家による統制かという選択だけだ」というものだが、データによる裏付けはない。

また、文明の高度化によって経済プロセスが複雑になり、全体像の把握が困難になるため、社会の混乱を避けるためには当局の調整が必要だとされる。

「だがこのような主張をするのは、競争原理を全然わかっていないからだ。競争というものは、比較的単純な状況に適しているのではなく、今日のように分業が進んで高度に複雑化した状況でこそ、調節を適切に行う唯一の方法となるのである」(p.204)

中央管理方式こそ複雑化に追いつかない。世の中にはいろんな価値観があって、それぞれの人が計画を志向しても、結局は衝突が起こるだけだ。計画経済は歴史の必然ではなく、意図してやらないと導けないものなのである。

【第5章】
・計画作成は民主的な手続きでは追いつかなくなり、専門家支配や独裁を招く

社会主義者の不満は、経済活動が無責任な個人の気まぐれや思いつきに委ねられているということだった。しかし、これこそが「自由」と「計画」を最も明確に分けるものなのだ。

「集産主義、共産主義、ファシズム等々は多種多様であり、社会を向かわせようとする目標の内容はそれぞれに異なる。だがいずれも、社会と資源すべてを単一の目標のために組織化することをめざし、各人の目的を重んじる自主自由な世界を否定する点で、自由主義や個人主義とは峻別される。全体主義という新しい言葉の真の意味において、あらゆる集産主義は全体主義である」(p.220)

個々人の多様な幸福を一つにまとめるような単一・完璧な価値基準が要請される。しかし文明の発展とともに「共通ルール」の領域は縮小してきている。逆に、未開の社会はすみずみまでルールと禁忌が支配している。「共通の価値基準」の導入はこうした流れに逆行するものである。

「重要なのは、一定範囲以上のことを把握したり、一定数以上の人々のニーズを順位付けしたりするのは、人間の手に余るという基本的な事実である」(p.223)

個人主義が依拠するのはこういう基本的な事実である。各人の意見が一致する場合に限って、それが「社会の目標」になる。国家がそれ以上の管理に乗り出せば、個人の自由を抑圧することになる。

計画社会で合意を調達しようとすると非常に数多くの合意を形成する必要があり、議会の仕事がオーバーフローする。全体が統合された総合計画は民主的に作るのには向かず、さまざまな目標を整合的にまとめ上げる作業(細部を詰める作業ではない!)は専門家の手に委ねられる。これは民主主義政体が力をどんどん放棄していくプロセスだといえる。そして、いつまでも計画ができあがらなければ独裁者を求めることになる。

【第6章】
・計画社会では法の支配(一般ルール)が蒸発し、恣意的な統治になる

自由な国では「法の支配」が守られている。政府のあらゆる行為があらかじめ定められ公表されたルールに縛られることである。これによって政府の振る舞いは恣意性を削がれて予測可能になり、個人はその予測に基づいて自分の行動を計画し、自由に目的や欲望を追求できる。

集産主義の計画当局にしてみると、法の支配は当局の権限を狭めることを意味する。豚を何頭飼うとかバスを何台走らせるといった個別の決定は自分を縛るルールから導いたり長期計画で決めたりできないので、そのときどき恣意的な決定をする。自由主義社会が道路標識を設置するところ、集産主義社会はどの道をどうやって通るべきかを指示するのだ。

経済活動において、個別具体的な状況に対応するには、その状況に実際置かれている個人が判断しなければならない。その場合、どう動くとどうなるかというルールがあらかじめ決められていなければならない。国家が計画を担えば担うほど、それは難しくなるし、裁判所や監督官庁の裁量に依存することになる。また、特定の倫理を個人に押し付け、それ以外を排除することにもなる。

「結局は『身分の支配』への逆行にほかならない」(p.254)

【第7章】
・経済「だけ」を他の部分から切り離して計画するのは無理で、必ず生活や価値全般に関して自由の侵害が起きる

計画が影響を及ぼすのは「経済だけ」で、ほかの自由は侵さないという主張にころっと行きがちだが、「お金」という目標は人生の他の価値から切り離せるという考えは間違っている。お金はそれ自体が目的なのではなく、お金の持つ「さまざまな選択ができる力」が好まれているのであって、それが代わりに名誉だ勲章だといったもので支払われたら選択の自由は失われてしまう。お金を管理されるということは、結局「生活のすべて」を管理されることを意味する。

「私たちが『単なる』経済の問題を軽蔑的に話すとき、念頭にあるのは自分にとっての限界部分のことだが、経済計画はそれだけに関与するわけはない。実際には、どこが限界部分なのかを決めることさえ、もはや個人には許されなくなる」(p.276)

計画経済下ではサービスの供給を誰から受けるかが選べない、つまり気に入らない供給者を切るということができなくなる。さらに当局が認めない価値の追求ができなくなる。

さらに、生産者としての自由(職業選択の自由)も失い、当人の希望とは関係なしに「適性」を判断する当局の手駒になるだろう。

「なるほど大方の計画論者は、新しい計画社会では職業選択の自由は細心の注意を払って維持され、むしろ増えるだろうと約束している。だが彼らは、できないことを約束しているのだ。計画を立てようと思ったら、産業や職業への参入を制限するか、雇用条件を規制しなければならない。あるいは両方を規制しなければならない。計画経済を実行した事例のほぼ全部で、いの一番に行われた規制の中にこれらが含まれていたことがわかっている」(p.281)

「あらゆる自由の大前提である経済的自由とは、社会主義者が約束する『経済的心配からの自由』ではない。この自由を実現するには、人々を困窮から解放すると同時に選択の権利を奪うほかない。しかし経済的自由とは、経済活動の自由であって、それは選択の権利とともに必然的に、権利行使のリスクと責任を伴う」(p.289)

【第8章】
・計画社会の公約は平等だが、それが全体に・ラディカルに実現することはない。そこに不満を持った下層ホワイトカラーをファシズムや国家社会主義にかっさらわれるのだ

いま迫られているのは、「誰が何をもらうかを一握りの人間の意志で決める制度」か「各人の能力と意欲、予測不能な要因の入り込む余地のある制度」かだという。機会不平等の是正は必要だが、競争の予測不能性を損なわないなどの条件付きでだ。自由社会の貧しい人(というp.296から数ページの競争礼賛はうーんと思う)

ともあれ、生産を計画に従ってやるだけだというが、分配に手を付けずに生産だけ計画するということはできない。自由の譲り渡しはslippery slopeだというのだろう。

「あらゆる経済現象は密接に相互依存しているため、計画をいったん始めたら、もうよしというところで止めるのはむずかしい。市場の自由な働きが一定限度を超えて妨げられたら、当局はすべてに管理の手を広げざるを得なくなる」(p.301)

国家は個人の位置付けにも手を伸ばすはずだ。

「どんな社会でも、必ず誰かしらは失業したり所得が減ったりしているものだが、それが当局の意図によるのではなく単に不運の結果であるほうが、自尊心は傷つかないだろう。それがどれほど辛いとしても、計画社会のほうがもっと悲惨である。ある特定の仕事に必要かどうかではなくて、そもそも使い物になる人間かどうか、どの程度やくにたつのかを誰かが決めることになるからだ」(p.302)

で、しかも当局は完全な平等ではなく「今よりは平等」を目指しているに過ぎない。金持ちからもっと搾り取れというだけで、それをどう分配するかということには答えない。

「旧社会主義が平等の公約とは裏腹に特定階級の権益だけを強化したことに、不満を募らせている人たちがいる。この連中を取り込むには、新しい階級社会を掲げて賛同者を集め、不満を抱えた階級にあからさまに特権を約束すればいい。要するに新種の社会主義が成功したのは、支持者への特権供与の公約を正当化できるよな理論つまりは世界観を示すことができたからだった」(p.319)

【第9章】
・自由より保証を求めるのは危険である

経済的保証には
(1)深刻な困窮から守るための限定的保証と
(2)各人にふさわしいとされる戸別所得保証=絶対的保証
がある。(1)は市場を補完し、(2)は市場を管理・破壊する。職業選択の自由とも相容れない。あるところからとって別のところに付けるだけで、付けてもらえるセクターが特権化し、それをぶんどるために自由を放棄することも厭わないと思うようになる。職業にも流行り廃りがあり、それを決めるのは誰かではなく賃金や報酬である。

【第10章】
・全体主義では構造的にクズが偉くなる

「さまざまな理由から、全体主義の最悪の要素はけっして偶然の副作用の結果ではなく、この思想から遅かれ早かれ必ず生まれるのだと断言できる。民主的な政治家であっても、ひとたび計画経済に乗り出したら、独裁的な権力を振るうか、計画自体を断念するか、どちらかしかない。動揺に、全体主義を指導する独裁者は、通常の倫理規範を無視するか、政権運営に失敗するか、どちらかを選ばざるを得なくなる」(pp.350-351)

「過去の社会改革者の多くが学んだ教訓からはっきり言えるのは、社会主義というものは、大方の社会主義者が同意しない方法でしか実現し得ない、ということである。古いタイプの社会主義政党は、民主的な理想を抱いていたために歯止めがかかっており、自分たちの使命を遂行するだけの冷酷さに欠けていた」(p.353)

単一の教義を奉じる強大な集団は、主に3つの理由から最低の人間で形成されやすい(!)
(1)教育水準が低く倫理的・知的水準が低いと、同じような意見を大多数が共有する
(2)従順で騙されやすい人は耳元でがなり立てられるとどんな価値観でも受け入れる
(3)人間は建設的なことよりも、敵に対する憎悪や地位の高い人に対する羨望といった非生産的なことで一致団結しやすい

集産主義は排他主義、国粋主義に走りやすい。複雑な世界に開くのは技術的に困難だ(限られた範囲でしか計画を立てられない)からだし、自国民と分かち合うならともかく富を他国民と分かち合おうと考えている集産主義者はいない(フェビアン協会やバーナード・ショーをみよ)。また、権力が目的化する。そして単一の計画が絶対の価値になると、個別の人々は倫理的判断をする余地がなくなり、非人道的なことでもやらざるを得なくなる。ころころ方針が変わっても変わり身早くそれについていかざるを得ない。それができる人が偉くなる。

【第11章】
・全体主義ではプロパガンダで単一の価値を個々人に内面化させる―「自由」という言葉の換骨奪胎、文化や芸術(特に抽象性の高い分野)への攻撃

「異なる知識や異なる意見をぶつけ合うこうしたやりとりがあるからこそ、思想は生命を保つ。ものの見方や考え方のちがいが存在することが、理性を育む社会的プロセスを支えている。このプロセスの結末が予見できないこと、何が思想をゆたかにし、何がそうでないかはわからないことが、大切なのだ。つまり知の進歩というものは、既存の知識でコントロールすることはできない。そんなことを試みれば、必ず進歩を妨げることになる」(p.396)

「集産主義思想は、理性を最上位に位置づけるところから始まったにもかかわらず、理性が育まれるプロセスを正しく理解していないがために、最後は理性を破壊してしまう。ここに、この思想の悲劇がある」(p.397)

【第12章】
・集産主義を主流の座に押し上げたのは社会主義陣営である

【第13章】
・カーが社会主義みたいなこと書いてる
・学者が社会を科学的に組織すべきだみたいなことを言ってる(個人の自由や歴史的偉業を排除できる独裁政権の支持者が科学者に多い)

【第14章】

「かつて人間は、人格を持たない力、陣地を越えた力に挫折感を味わいながらも従っていたものだが、いまやそうした力を憎み、抵抗するようになった。この抵抗は、より幅広い傾向の一部に過ぎない。それは、合理的に理解できないことには従わないという傾向である」(p.465)

しかし、環境が複雑化するにつれて、自分には理解できない要因で欲望や計画が阻まれる事態がしばしば起きるようになる。複雑な文明の中ではこういうものに適応していかなければならないが、分かりやすく攻撃しやすい単一要因に責めを帰すことをしたり、頭の良い人の決定に従う独裁体制に陥りがちだ。そうでない方向性とは市場の力に従うことである。

「物質的制約の下で選択を迫られたときに自分の行動を自分で決める自由。自分の良心に従って自分の責任で人生を決める責任。この二つがそろった環境でのみ倫理観ははぐくまれ、自由な意思決定の積み重ねによって日々試され、鍛えられていく。地位の上の人ではなく自分の良心に対する責任、強制によらない義務感、自分が大切にする価値のうちどれを犠牲にするかを自分で決め、その結果を受け入れる覚悟こそ、倫理の名に値するものの本質だと言える」(p.476)

【第15章】

戦後の国際秩序について、こう述べて「国際的な計画経済」を戒める。

「国家レベルの計画経済はさまざまな問題を引き起こすが、それを国際的にやろうとすれば、問題が一段と大きくなることは必定である」(p.494)

つまり、さまざまな民族が住む広大な地域を管理・計画しようとすれば、一国内でやるより全然ことは複雑になるし、しかもある国には鉄鋼業を割り当て、他の国に諦めさせる、そのために国民を貧しいままに留め置くことに納得など得られるだろうか、と問いかけるのだ。しかも国際的な計画経済の提唱者は自分が計画者になるつもりで言ってるだろうけど、そうじゃないだろう、しかもどんないい人がその仕事に就いたとしても、抵抗にあえばどうせ強権を発動させるはずだ。

それに対してハイエクが期待をかけるのが、中央集権や他国の主権侵害を防げる「連邦制」である。

「…連邦制は、国際法の理念を実現できる唯一の方法だと信じる。なるほど過去には国際行動のルールを国際法と呼んでいたが、これはひたすら願望を込めた呼び名に過ぎなかった。殺し合いをやめさせたいなら、殺し合いはやめましょうと言うだけでは不十分で、それを抑止する権力が必要である。これと同じで、強制力のない国際法に効果はない。国際機関の設立が進まないのは、近代国家が持つ事実上無制限の権力をすべてその機関に握られることを恐れるからだが、連邦制の下では権限分散が行われるので、そうはならない」(p.510)

ただし連邦制の実現の困難さについても自覚している。国際連盟の失敗についても言及している。連邦が世界大に拡大することで戦争を防ぐことは理想だが、それを一気に実現できると期待してはいない。

「世界規模に拡大しようとして失敗したことが、結局は国際連盟を弱体化させた。国際連盟がもっと小さくてもっと力を持っていたら、平和維持にもっと貢献できただろう。[…]たとえばイギリスと西欧諸国、そしてたぶんアメリカとの間には協力関係が成り立つにしても、全世界で、というのはまず不可能だ。「世界連邦」のように比較的緊密な国家連合を、たとえば西欧より広い地域で初めから発足させるのは現実的では内。限られた狭い地域から徐々に拡大していくことは、あるいは可能かもしれないが」(p.515)

2020年04月11日

桜納め

桜はそろそろ終わり。一日巣ごもりもなんなので、毛馬桜ノ宮公園を歩いてきました。
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雀がいっぱいいました。
今年って冬がそんなに寒くなかった代わりに春が暖かくなくない?

昼飯は家の近くでカレー。
大将はきつそうでした。でも緊急事態宣言が出て見通しがついたとも。
飲食関係はなべてきついでしょう。そしてバーの皆さんは多分もっと。

途中から長電話して帰りました。

でもなんか、こういう時間を無駄に使ってる感じも悪くない。
本読めるなー、と思いながら読まないし。
お腹が空くまでご飯食べないし。
40分くらい風呂に入って、ほろ酔い飲んでるし。
10年前だったらちょっと罪悪感があったと思うんだけど。
ポテチ買ってこよ。

* * *

■鶴岡真弓編『芸術人類学講義』筑摩書房、2020年

2020年03月20日

詩学

大阪での通勤は徒歩15分ほどで、深夜帰宅も楽々なのが有り難いのですが、その代わり地下鉄通勤で本を読んでいた東京時代に比べてめっきり読書がはかどらなくなってしまいました。この本も1月から読んでいてやっと終わった。これはちょっと考えものです。何とかしないと。

■アリストテレス(三浦洋訳)『詩学』光文社、2019年。

BSラジオでタダで聞かせてもらっている放送大学の『美学・芸術学研究』(青山昌文教授)と、エーコの『薔薇の名前』で立て続けに出てきて何何それそれ、で読んだ。

悲劇のストーリーの作り方を通じて、クリエイティブっつうのはこういう理知的な営為ぜよ、っていうことをがちがちの理詰めで語る。で、その重厚な構築物を一通り味わってから2400年後のむちゃくちゃ豪華で懇切丁寧な訳者解説を読めるの、もうほんと同じ時代に出てくれてありがとうと思う。まあ弊管理人の大学時代には20年ほど間に合わなかったのだけど、1000年単位で見れば誤差ですやね。

悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣であり、作品の部分ごとに別々の種類の快く響く言葉を用いて、叙述して伝えるのではなく演じる仕方により、[ストーリーが観劇者に生じさせる]憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである。(p.50)

この定義に立って、よい悲劇とは何か(何を達成するものか)、どうやって作ればよいのかを考えていきます。

「『憐れみ』とは不幸になるのにふさわしくないのに不幸になった人物に対して起こるものであるし、『怖れ』とは、私たちと似たような人物が不幸になった場合に[同じ不幸が自分を襲うかもしれないと感じて]起こるものだからである」(p.92)というくだりにあるように、観劇は自分と演じられている役の比較を要請される知的な営みなのだと訳者は説明します。まさにこういう態度が後年、恍惚的=デュオニソス的なものを称揚したニーチェから、理知的=アポロン的と非難されたポイントでもあると。

そして、物事の本質の理解に基づき、どういったものが成功した悲劇で、どういったものが失敗しているのかを考える。これは明らかに「イデアの劣化コピーである現実、の、劣化コピーであって、しかも低俗な快感を与えようとする劇なんてやめちまえ」とするプラトンの「詩人追放論」への反論だといいます。
そこでこの本ではあまり取り上げられていませんが、青山氏の講義で「模倣=ミーメーシスとは、本質の強化的な提示である」という解説を先に聞いていると、いや詩作も含めた芸術全般を特徴づける「模倣」は、劣化コピーどころか、本質に迫る活動そのものなんだという反論にすっと入っていけると思います。

テクニックについての解説も面白いです。Aを目指していたのに非Aが起きてしまう「逆転」、ある瞬間に重要なことがはっと気付かれる「再認」、凄惨さが憐れみや怖れを呼び起こす「受難」など、成功のための仕掛けを導入し、さらにそれぞれが効果を発揮するための条件、凡庸なものに終わってしまうパターンを紹介していきます。
キャラ(性格)設定にあたっても「優れている」「(性別などの)属性にふさわしい」「その人らしい」「一貫している」といった条件を示します。
ストーリーについても、こちらは経験則ですが「矛盾がない」「普遍性がある」「こんがらがっていた事態が解決する」「伝承をうまく使う」「合唱をはめこむ」といったチェック項目を挙げています。

解説では、『薔薇の名前』の鍵となった「幻の『詩学』第2巻」が本当にあったのかどうかについても考察し、さらに近現代にこの作品がどう受容されてきたのかも紹介してくれています。本当は一冊、解説本を買って腹に落とすところ、こんなにしてもらっていいのかしらと。またいつか立ち返ってざっと読みたいと思います。

2020年01月11日

シオラン

■大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに』星海社、2019年。

ルーマニアで生まれフランスで活動したペシミスト、シオランを紹介した本。タイトルが本意でないと著者が託ちているの、よくわかります。特に「あなた」を救うというような積極的な目的で書いてないんじゃないか。あと、買う側としても買いにくい、これは。買ったけど。

働く、人と付き合う、役割を引き受ける、生きている。すべてがダルく、面倒で、嫌で、倦んでいる。そういうネガティブな態度はしかし、かえって、支配/非支配の関係、周到な計画と準備を要する悪事の実行、あるいは蹴落とし苛み見得を張る社会関係といったものから自由でいることを可能にするようにも思われる。

自殺してしまいたい、と思うこともあるだろう。しかし逆に、「自殺しようと思えばしてしまえる」というカードを手にした、つまり自分の人生を自分の手中に取り戻したと思えれば、それを糧に生き続けることができるかもしれない。「あとは余生だ」と割り切って何でもできるようになるかもしれない。そもそも生まれないのが一番ではあるが(=反出生主義)、生まれてしまった以上、死は主権回復の道であり、苦しみからの解放である。死によって失うものを持たず、苦しみ、挫折ばかりだった「敗者」にとってはなおさらだ。

独断と視野狭窄と贔屓に陥らず、他者のあり方を認め、自分も自由でいる。それはぐったりし、無関心でいることによって可能になる。極限まで突き詰めれば、世の中や人生に対する嫌悪さえも消えて、「ただの無」に至るだろう。生まれずに無にとどまることができなかった、汚穢の中に生まれてしまった以上は、それが次善の策なのだ。

といいつつシオラン本人は自殺もせず、たくさんの本を売り、パートナーに寄生した上に不倫もして結構長生きした(まあ学者が自分の思想を体現するべきかというとそうでもないのだろうが)。おそらく似た性質をもつ誰もが、敗北や病気よって自分の存在にリアリティを感じ、人生を敵視するエネルギーによってかえって生き生きしてしまう。ペシミズムは運用してみると失敗する可能性がかなり高い思想のようだ。というか、ペシミストってハイスペだったり余裕があったりしないとやれないんじゃないかな。

もう21年前、留学中に受講した20th Century French Philosophyという授業で出てきたソシュール、フーコー、デリダなどいろんな人の中で、テイヤール・ド・シャルダンとシオランだけ「誰それ」って思ったんですよね。そのあと忘れていましたが、こんなだった。んで著者も大概。しかしたぶん、一緒にお茶しに行ったら午後いっぱい喋って過ごせる人のような気はする。

2020年01月01日

新年

年が明けて厄を抜けました。
大晦日は何年か(それこそ10年とかでは?)ぶりで東京にいたので、馴染みの飲み屋さんに行って年越しをしました。さっと行ってぱっと帰ろうと思っていたら、一見のインバウンドさんが振る舞い酒を始めて弊管理人も被弾し、結構酔って久しぶりにペラペラ喋るモードに入ってしまい、就寝が3時過ぎに。楽しかったので後悔はしてません。

一年の刑は元旦にありってことで元日から仕事。開いてるお店が少なかろうと、弁当を作って出勤しました。そして裂けるチーズ(スモーク)を肴にほろ酔いを飲んでしまいました。

* * *

■藤井啓祐『驚異の量子コンピュータ』岩波書店、2019年。

知識の乏しい人が「最近話題のアレってなんなん」というくらいの動機で読んでいい本ではなかった。いわばキーワード集だが、そうだとしても説明が足りないし、初出の部分でどう説明されていたかな、と戻って確認したくても索引がなくて不便。「当時」が多用されるものの、何年のことなのか分からない部分が多い。ただし情報は新しくてよい。

・最初のアイディア:ファインマン(量子系のシミュレーションには量子力学で動くコンピュータが必要)、ドイッチュ(量子版チューリングマシンの定式化)(p.39)
・確率振幅:重ね合わせの度合いを示す。確率より根本的な量(?)で、測定すると確率としての意味を持つようになる(p.46)
・エンタングルメント(EPR状態):局所性(ある所で起きたことが遠く離れた所の現象に影響を及ぼさない)と実在性(結果があらかじめ確定している)が成立しない
→これはアインシュタインが受け入れなかった。EPRのパラドクス(p.58)
→ベルの不等式:一見ランダムな測定結果があらかじめ未知の変数によって与えられていると仮定すると満たされる不等式。量子力学はこの不等式を満たさない
→これを実験的に検証したのがアスペ(1982)。ベルの不等式から派生したCHSH不等式が破れていることを実証した。ただし隠れた変数を完全に排除できてはいなかった
→最近(いつだよ)より精密な測定でベルの不等式・CHSH不等式の破れが検証されている
・量子テレポーテーション:もつれた双子粒子を分有して、片方に転送したい粒子をぶつける→もう片方に測定結果を伝える→量子状態が遠くに転送できる。測定するまで神様にも結果が分からない=盗聴不能な量子暗号
・量子ビット(pp.63-72)
 ・核スピン:IBMがやった最初の原理実証試験
 ・超電導:中村+蔡(1999)。磁束量子、トランズモン。グーグル、IBM、リゲッティなど
 ・イオントラップ:IonQ(米、モンローら)
 ・半導体:量子ドット
 ・光:カナダのXanadu
・可能性を打ち消したり、強めたりする操作で正答の可能性を高める
・アダマール、CNOT、位相回転演算を組み合わせることでどんな計算もできる
→ゲート型、あるいは回路型QC(p.85)
・ショアのアルゴリズム:素因数分解がQCで簡単に解けることを示す+チューリングマシンを超えるコンピュータが可能であることを示す(拡張チャーチ=チューリングのテーゼに対する反証)(p.90)
・デジタルコンピュータのエラー訂正
 ・ノイマンによる古典コンピュータの誤り耐性理論(1954)
  →現在のNAND多重化
 ・デジタルコンピュータでは閾値以下のノイズを0/1の離散的な値にまとめてしまえる
 ・デジタルだと1を111のように3ビットのコピーを使って表現し、ロバストにできる
 ・しかし量子ビットはコピーできない
・アナログビットの解決案
 ・ショア(1995):環境(ノイズの原因)より強いもつれをqbit同士で作ってしまう
 →エラーが起きるともつれが解消する
 →これを検出して元の情報を復元する(pp.101-102)
 ・閾値定理:ノイズが一定以下なら計算結果の精度はいくらでも上がる
 ・ラウッセンドルフ:誤り耐性一方向QC(pp.108-111)
・IBM Q(2016):5qbit
・NP問題:検算が簡単、P問題:正答を効率的に発見。P≠NPかは未解決問題(p.136)
・NISQ:数十~数百qbit。誤り訂正はない→計算ステップ数が限られる
 ・エネルギー計算やパラメータ更新などは古典が受け持つハイブリッドアルゴリズムで
 ・AI。藤井らの量子機械学習アルゴリズム(2018)
 *p.146の図28にまとめ
・汎用QCの用途
 ・原子レベルで設計した物質の物性を調べる。高温~常温超電導物質の探索など
 ・太陽電池、LED、人工光合成など量子効果が重要な材料
 ・触媒、創薬=原子、電子が集まった物質の性質や化学反応を知る。高精度シミュ
 ・仮想通貨、セキュリティ、量子重力理論の実験

2019年12月28日

カキとまとめ

「かつれつ四谷たけだ」
10-4月のカキバター定食。11:30に並んで一歩遅れたか、と思ったものの1時間で入れました。
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んも~~~めっちゃうまい。うまみが~~~
カニコロ追加、ご飯を大盛りにしてちょいがけカレー。こちらもああああああ
年末をカキで締めると幸せ度高いです。

* * *

いやまあこれから仕事なんですけど、とりあえず。

1月 友達3人での伊豆旅行よかった。しかしカメラにそばつゆぶっかけたの痛恨
2月 会津ほんとによかった。ご飯もお酒もおいしかった
3月 職場で怪メールが回ってわろた
4月 今年も京都・原谷苑のお花見に参加できた
5月 宮古島、大変休まった
6月 ちょっといい仲になった人と南房旅行(その後ブロックされた)
7月 喉いためた。なんか今年よく喉やった気がする
8月 函館行ったり日光の川で遊んだりした
9月 暗黒
10月 暗黒
11月 暗黒と転勤決定
12月 暗黒から抜けて宮崎旅行で喉が回復して肌の調子が良くなった

暗黒が長かったですが、それでも職場のサポートは厚く(手間が増えるだけの容喙もあったが)、アウトプットには特に文句もつかなかったようで、最後はふわりと着地できた感。
初夏にシベリアに行きたかったのにタイミングを失して行けなかったのが残念でした。
「これ読んでよかった」と印象に残る本があまりなかったのもちょっと。

SNSはほぼ見るだけにし、ミュートを駆使していらいらしてる人がなるべく視界に入らないようにしたのはよかった。
依然いらいらしてる人たちに関しては「ようやるね」と思いますが、それ以上踏み込んでも損した気分になるだけなので踏み込まない。そうしてるうちに気にもならなくなります。
リアルでも「この人やばい」という人とはなるべく距離を取り、味方してくれる人と仲良くするに限ります。やばい人は滑稽でもあるので思わず何か言ってしまいそうになるけれど、まあ結果いいことはないわな。万一冒険に出る時は、出るつもりで出ること。
まとめると基本、努めてご機嫌でいるのが健康の秘訣だと思いました。

あの人が定年、あの人は管理職になれるかどうかの瀬戸際の年齢、などと聞いては驚いていましたが、全然ヤングだと思っていた自分が40代も3年目になってるくらいなので、上はそりゃあもっと先がないわけだ。しかしおじさんだということは理解しつつ、ヤング気分が抜けないままもうしばらく行きそうな気配です。

* * *

弊管理人が2月に転勤になるという偉い人会議の報告を意外と多くの人が見たらしく(当人が見てないのに、というか人事ってそんな気になる?)、「壮行会を」的なお誘いをたくさんいただきました。
これまでは「別に会社かわるわけでもなし」くらいの感覚でいたのですが、「行く前に一杯」が重なるにつれて「えっこれってお別れなの?そうなの?」と思われてきました。できるだけお断りしていこうと思います。

* * *

■ジョージ・オーウェル(山形浩生訳)『動物農場』早川書房、2017年。

■石田英敬、東浩紀『新記号論』ゲンロン、2019年。

2019年12月05日

現代美術史

咳とガラガラ声が遷延してます。久しぶりに咳で目が覚めた日があって、咳止めを飲んで寝るようになりました。
これは早めに抗生物質をキメるのがいいパターンだったかもしれない。

* * *

著者若いな-(1986年生まれ)。
若干羅列的な印象ですが、大量のキーワードを位置づけるにはよいと思う。

■山本浩貴『現代美術史』中央公論新社、2019年。

【はじめに】
・1960s コンセプチュアル・アート:作品の物質性(色、形、素材など)<思想性
・メディウムの多様化:
  1970s~のインスタレーション=配置した空間そのものが作品
  プロジェクション・マッピング
・プロセス:
  2000s~ アート・プロジェクト
・反ギャラリー/美術館
  1950s 美術館は芸術作品の「墓場」(アドルノ)
  1960s コマーシャリズムの横行←→前衛(フルクサスなど)
  2000s ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA):公共空間での芸術実践

【前史】
・アーツ・アンド・クラフツ
 ラスキン&モリス@イギリス、19C後半
 工業化、資本主義への対抗としての伝統的な手仕事の復興、協働
・民芸
 柳宗悦、1920s~。アーツ・アンド・クラフツの影響
 ただしモリス商会のステンドグラスのような「美術的工芸」には批判的
 自然中心的「民衆的工芸」を対置する
 朝鮮の陶器や焼き物、台湾の竹細工や織物に関心、植民地主義への反発も
 ただし、朝鮮や沖縄の周縁化=オリエンタリズムも
・ダダ
 ツァラら@1910s~、ヨーロッパ
 破壊と否定、強烈さ、無意味、反科学的理性・反進歩史観
 「偶然性」の取り入れ
 →後継はシュルレアリスム(フロイトの影響)、レトリスム(言語の解体)
・マヴォ
 「戦前日本のダダ」、村山知義ら
 関東大震災後のバラックに装飾を施す「バラック・プロジェクト」、近代化批判

【欧米】
1960s~
・芸術の自立性・モダニズムへの反発
 フルクサス(マチューナス、1962)「何でもアート、誰でもアート」
 日常と芸術の壁を取り払う。オノ・ヨーコ、武満徹、一柳慧らも
 (←→天賦の才を持った芸術家による芸術という営為)
・ランド・アート
 グリーンバーグ:○アヴァンギャルドvs×キッチュ、フォーマリズム←→内容重視
 フリードのミニマリズム批判(鑑賞者による介入を求める不完全芸術として)
 ←これらは芸術の自立性を信奉していた
 ←→スミッソンの屋外彫刻など、場所を利用したサイト・スペシフィック・アート
・コンセプチュアル・アート
 美術制度批判、脱美術館(エリート主義、ブルジョワ文化批判)
・芸術労働者連合=芸術生産に対する正統な対価、両性の平等な表象
・パブリック・アート
 公共空間への芸術作品設置
 パブリック・プロジェクションなど
・ハプニング
 パフォーマンス、ゲリラ的展示など
 ←ポロック(アクション・ペイント)やケージ(イヴェント)の影響
・シチュアショニスト・インターナショナル
 芸術と政治の架橋
 「状況の構築」=反体制闘争を可能にする空間を都市に作り出す
 ドゥボール『スペクタクルの社会』(1967)の資本主義批判→五月革命へ
 「漂流」と「転用」

1990s~
・特定の名前を持った潮流が見つけにくくなる(メディウム、アプローチの多様化)
・リレーショナル・アート
 ブリオー『関係性の美学』
 鑑賞者の介入を求める作品。作品は見られるだけでなく社会性を創出する
・ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)
 作品を通じた社会問題へのアプローチ
 ビショップ←シャンタル・ムフの闘技的多元主義
 参加型アート
・コミュニティ・アート
 集合的創造、特権的な芸術家=個人的創造性への懐疑
 アート・アクティビズム

【日本】
1960-80s
・前史:アンフォルメル絵画、読売アンデパンダン展、批評誌の創刊
・九州派
 地方発の前衛。俣野衛
・大阪の「具体美術協会」
 吉原治良
 芸術の脱神秘化、日常のモノへの回帰
 オリジナルとグローバル化
・名古屋発の「万博破壊共闘派」
 テクノロジー、近代的管理への批判
・ハイレッド・センター
 計画的反芸術
 赤瀬川原平→ネオダダ
 共同性志向
・もの派
 自然素材、日常素材の使用、ミニマルな加工で展示する
・美術家共闘会議
 美術権力(国立美術館など)、表現の中央集権(日展など)の粉砕
・ダムタイプ
 京都、領域横断的

1990s~
・「潮流」からアーティストの緩やかな集合体へ←ポストモダニズム
・シミュレーショニズム
 ボードリヤールの影響
 村上隆
 再現芸術
・アート・プロジェクト
 アート・フェスティバル
・3.11以降

【トランスナショナル】
・ブリティッシュ・ブラック・アート
・移民、女性、右傾化、黒人、帝国主義、在日コリアン、韓国、沖縄、台湾
・未来派とファシズム、ポール・ヴィリリオ『速度と政治』
・リーフェンシュタールとナチズム、ソンタグの批判
・戦争画

2019年11月25日

ナショナルと生活

■アントニー・スミス(庄司信訳)『ナショナリズムとは何か』筑摩書房、2018年。

原書は2010年刊の入門書。去年1回読んだんですけど、本棚の「これから読む段」にまた入れてあった。去年の日記にはタイトルしか書いてなかったので、何かがあってメモを付けてなかったのでしょう。
だいたい次を頭に入れると3回目はびゅんびゅん読める気がする。

▽ナショナリズム
・「自分たちは現実の、あるいは潜在的な「ネイション」を構成していると思っている成員が存在する集団において、その自治と統一とアイデンティティを確立し維持することをめざすイデオロギー的運動」(p.28)
・その中核的教義:世界はさまざまなネイションに分割され、それぞれが独自の性格、歴史、運命を持っている/ネイションは政治権力の唯一の源泉である/ネイションへの忠誠はそれ以外への忠誠に優越する/自由であるためには誰もがネイションに属さなければならない/あらゆるネイションは十全な自己表現と自治を必要とする/平和と正義のためには自治権を持つネイションからなる世界が必要(p.57)
※世俗的文化なだけでなく、政治的宗教(宗教についてはデュルケムの定義:「神聖なもの、つまり別格扱いされ馴れ馴れしく扱ってはならないものに関する諸々の信念と実践の統一された体系であり、そうした信念と実践は、それらを信奉する者たち全員を、教団と呼ばれる単一の精神的共同体に結束させる」)に近い(pp.82-83) cf.戦没者追悼
・近代主義/永続主義/原始主義/エスノ象徴主義(←スミスはこれ。「近代のネイションの起源を、近代以前の集団の文化的アイデンティティという背景のなかに位置づけることが必要」(p.182))/ポストモダン(各主義はp.130の表にまとめあり)

▽ネイション
・「わが郷土と認知されたところに住み、誰もが知っている神話と共有された歴史、独自の公共文化、すべての成員に妥当する慣習法と風習を持つ、特定の名前で呼ばれる人々の共同体」(p.36)
※「国家(=制度化された活動)」でも「エスニック共同体(=政治的合意、公共文化、領土が不可欠ではない)」でもない。エスニック共同体とは結構かぶるけど(pp.33-34)
※「郷土」はルーツであり、政治的に請求されるものであり、祖先から受け継いだ土地であり、歴史を負った土地である。「風景」が重要な要素で、成員の自己理解に絶大な影響を与えている(pp.75-77)

▽エトニー(=エスニック共同体)
・「郷土とつながっていて、祖先についての誰もが知っている神話、共有された記憶、若干の共有文化、そして少なくともエリートたちの間では一定の連帯感を有する、特定の名前で呼ばれる人々の共同体」(p.36)
※「エトニーはより一般的、ネイションはより特殊な概念」(p.38)

▽ネイション国家/ナショナル国家
・「ナショナリズムの諸原則によって正統化される国家であり、その成員は一定のナショナルな統一と統合を保持している(が、文化的均質性まで保持しているわけではない)」(p.43)

▽ナショナル・アイデンティティ
・「ナショナルな共同体の成員による、ネイション独自の伝統を構成する象徴、価値観、神話、記憶、しきたりなどに表された模範の継続的な再生産と再解釈であり、そのような伝統とその文化的諸要素による個々の成員の可変的な自己確認である」(pp.48-49)

* * *

ちょっと聞きたい講演があって、20年ぶりくらいに出身大学の学園祭に行きました。
というか、在学中からほとんどまともに見たことなかったんですが、結構ちゃんとしていました。少なくとも先週見たサイエンスアゴラよりいけてた。
人の気質は随分変わったのではないかと推測しますが、それでも学園祭という体裁は継続するんだなというのが感想の一つ。あと、生真面目に展示を作っているのも恐らく当世気質なのではないかというのがもう一つ。

講演は23年前の1年生のときに受けた初めてのゼミ形式の授業の担当だった政治思想史の森政稔さん。当時は助教授になってちょっと経ったくらいの37歳だったのに、今60歳の老教授(いや当時比でほとんど老けてないんだけど)。「ここで28年教えていますが、学園祭で呼ばれたのは初めて」と。っていうかこの23年前だの60歳だのという数字にいちいちびびる。
民主主義に関する1時間の講演と1時間の討論だったんですけど、昔こんなに時事問題に言及するスタイルだったっけ?というくらい印象が違いました。

・ポピュリズム(感情を媒介にした動員、反エリート主義、代表されなかった層の代表)の評価は、実は政治学者の間では否定的なばかりではなく、水島治郎もポジティブな側面を取り上げているが、それだと1930年代のナチを否定できなくなりかねない。ミュラーの『ポピュリズムとは何か』では定義の中に「排除的性格」を含めた上で危険視していて、自分はそちらの立場に近い

・師匠の佐々木毅は2大政党制推しだったが、現実は必須要件である「強い内閣」と「政権交代可能性」のうち後者がすっぽ抜けてこの通り。政治学者の中には2009年の民主党政権を応援した人が多かったが、今はそこに触れたくないのか総括はあまりされていない

・(若者の政治参加意識が低いのは「現状変革の可能性が信じられない」「シルバー民主主義への絶望感がある」のが理由ではという質問に対して)若年層のほうが自民党支持率が高いので、若年層が選挙に行ったほうが自民党は盤石になるのでは。あとシルバー民主主義という言葉はよくないと思っていて、年寄りの中にも若年層の中にも格差があり、むしろ格差の問題が見えなくなる危険がある

・選挙制度面での手当てとしては比例代表分を増やすのがいいのではと思っている。あと院生で「くじ引きで決める議席を入れる」という古代ギリシアみたいな制度の提案をしている人がいて、最初は何を言ってるんだと思ったが、聞いてみるとよく理論的に検討されていた。選挙民の意思やその地域の利害から切り離されることにはメリットもデメリットもあると思うが

・天皇制は民主主義と相容れないかというとイギリスなど見ればそうでもなく、日本もむしろ廃止のほうのデメリットが大きいのではないか(何かあったときに廃止派が敵認定され「こいつらのせいで」といった攻撃が起きるようなことを想定したらしい)

・アメリカでは「表現の自由」に経済的自由など他の自由と比べて極めて強い立場を与えていたが、近年ヘイトの問題などで本当にそれでいいのかと問う議論もある

・日本国憲法には主権在民を掲げつつ、一方で三権分立の中の「司法」は司法試験を通ったけど国民から選ばれたわけではない法曹が違憲立法審査権を行使する。民主主義を制限するメカニズムが織り込んである

というあたりが印象に残りました。ペンを忘れていってしまったので系統的にメモがとれず、しかも上記思い出しメモには結構解釈が入ってるはずなのでそれなりのものということで。
それにしても討論では玉石交ざったいろんな質問がフロアから飛んだのですが、全部に「面白い回答」をしていて、ううむすごい、こういうところで一度オーバーホールしたいなあと感心したのでした。

* * *

2010年代前半にわりとよく遊び、そのころお父さんの介護のために郷里に帰った友人(男、独身、40代後半)から突然連絡があり、用務で東京に来ているのでご飯を食べようという。

つい先だっての10月にお父さんが亡くなったそう。認知症で大変だという話をさんざん聞いていたので「肩の荷が下りたでしょう」くらいのテンションで話してしまったが、それでもやはり親が死ぬというのは結構ダメージが来るものだそうです。まあそうだな。

経鼻栄養補給か胃瘻造設か、それとも点滴だけで3ヶ月以内の死を待つかという選択肢を示された時、「でもやはり経鼻栄養……」と言うと、医療者から「あなたにとってそこまで大切な人ですか?」と問いかけられた。それは、経鼻栄養補給でも続けるとここからまた長期にわたって生き続けることになるが、その覚悟はあるか?という意思確認だったと受け止めたらしい。お父さんの死後に「財産をよこせ」という伯母が登場したこともあって、まだいろいろ整理がついていないようです。

しかしそれも落ち着いた後は、一人っ子かつお母さんはもう亡くなっているので、いよいよ天涯孤独の余生。どうするのかな。

* * *

まだ本決まりではないんだけどほぼ本決まりな感じで、久しぶりにまた身辺ばたばたしそうです。
今年後半はフェーズがいろいろ変わり始めた気がした。前厄、本厄と大したことがなかっただけに、「おおお最後になってなんか来たな」と身構えています。

2019年11月14日

主に食べたもの

弱る気力がなくなり、かえって精神を動員しないまま作業ができる気がしつつ更新。
この間いろいろ食べました。

新宿「赤坂うまや」でランチ。「市川猿之助の楽屋めし」だそうです。
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体を動かす人の好物を集めただけあって結構がっつり。
エビフライの身が大きくて豊かな気持ちになりました。
卵が無料でTKGにできるのもよい。

散歩がてら松戸「インディー28」でキーマ。
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流山電鉄はまだ硬券でした。切符を買ったら「乗ります?」と聞かれた。
とっとくために買う人もいる模様。

南阿佐ヶ谷「チキュウ」で醤油ラーメン。
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このあと吉祥寺まで散歩しました。

半分仕事のような京都行がありまして、
国際会館横の「グリルじゅんさい」でハンバーグとフライセット。
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そのあとセレモニー的なもので国際会館に行きました。
準礼装以上という指定がある鼻持ちならない式。皇族まで来て入退場の際に起立させられた。
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晩餐会。コリャコリャは大きなホールには向いてない気がする。
10回以上来ている人によると「出し物は毎回一緒」。
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人類に貢献したい、みたいな志から発してる行事のようですが、あの、招待してもらっておいてあれですが、もっと別にお金を使うところがあるのではと思いました。
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会社の偉い人が近くの席にいたので会釈だけして、あとはそちらをあまり見ないでよいように、たまたま隣になった初めましての実業家のおじさんとずっと喋っていました。
引けて、春に開店した友人の日本酒バーSAKE BUMPY!にご挨拶のため四条河原町へ。
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「わりと華やかな味が好き」とうっかり言ったところ、出していただいた埼玉の「花陽浴(はなあび)」というお酒が変態的に華やかで脱帽しました。

* * *

友人2人と「お風呂の王様 多摩百草店」に行って2時間半ばかりぐだぐだしてから、八王子の「焼肉きんぐ」で食べほをやらかしました。サーブが速いし味もなかなか。牛丼チェーン店長経験者の友人が「ここはこれからも暫く伸びる」とべた褒めしてました。

タイムズカーシェアの料金体系に変更があって18時~24時のパックが翌日朝9時までになったため、風呂でぐだぐだできる時間が伸びました。

* * *

半年前に賞味期限が切れた紙パックのトマトジュースと、ハムとベーコンとザワークラウトをバターロールに挟んで食べたところ派手にお腹を下しました。
回復してきた次の日の夜、検証実験として賞味期限が切れてないトマトジュースと、同じ構成のサンドイッチを食べたらお腹を下しませんでした。
サンドイッチでも食べ合わせでもなく、トマトジュースの単独犯と断定。しかしそんなに悪くなるかね?

* * *

■de Lazari-Radek, Katarzyna, and Singer, Peter, Utilitarianism: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2017.

■吉野彰『電池が起こすエネルギー革命』NHK出版、2017年。

* * *

ヒュームが「奇蹟とは自然法則の侵犯だ」と定義づけて、奇蹟を信じることはできないのだとしたのと関係があるのかないのかよくわからないが、「自然法則に照らして、あっても不思議ではないことが、不思議と思われるタイミングで起きる」のに対して、人は奇蹟を見てしまうことはあるかもな、と思った。

2019年10月22日

交雑する

■デイヴィッド・ライク(日向やよい訳)『交雑する人類』NHK出版、2018年。

国立遺伝学研究所の講演会を覗きに行ったらこれが紹介されていまして。
David ReichのWho We Are and How We Got Hereの訳書で、英米で原書が出版されたその年のうちに出すという偉業。

数十万年前にまで及ぶ古い人骨からDNAを抽出して塩基配列を決定することが2010年ごろからできるようになっていて、それが形態や遺物などに頼っていた従来の人類進化、移動、交雑の歴史に関する研究を変えているのだそうです。著者は、現役のハーバード大遺伝学教授。「古代DNA革命」は、放射性元素を使った年代測定法の開発以来の、第2の革命だという。

本書にはもちろん含まれていませんが、今年は別のチームから、メチル化が起きているシトシンと起きてないシトシンを見分ける方法を見つけてエピゲノム解析にまで踏み込み、まだシベリアとチベットで骨の断片しか発見されていないデニソワ人の骨格の特徴を推定したとの研究まで発表されています。いやもうまじで?という世界。

古代DNAの解析(と、考古学、言語学などとの協働)で分かってきたことはタイトルの通りで、人類の諸集団は一つの太い幹から枝分かれした結果なのではなく、いろんな集団があちこちで出会っては交雑しまくってできてきたということ。今ある地域にいる集団はずっと昔にそこにいた人たちと同じ遺伝的特徴を持った子孫ではないということ。消えてしまった祖先たち「ゴースト集団」がいたこと。人間集団の移動はいろんな方向に(時にはUターンも)起き、時には同じコースで何度も起きて先発の集団を塗り替えたりしていること。

今後の課題は、ヨーロッパに比べて解析が進んでいないアジアや、出アフリカ以降の時代のアフリカなどの解析を進めることが一つ。また、これまで対象にしてきた時代よりも新しい「ここ数千年」の移動・交雑史を、これまでと違った手法で明らかにすることがもう一つ。

にしても、日本であまりそういう研究がガンガンやられているという話は聞かないなと思ったら、やはり遅れている地域の一つなのだと書かれている。

あとは、アメリカ先住民の歴史的な被害感情と、米大陸に残された骨を使った研究のやりにくさの関係についての記述が印象に残りました。「先住民とつながりのある骨を収集、貯蔵、研究する」ということへの反発があるのは彼の地だけではないですよね。

そして、こうした研究はイデオロギーと無縁でいられないという指摘も重かったです。
20世紀ドイツでみられた民族の起源とその優越性に関する議論は、実はDNA解析が明らかにした移動史で打ち砕いてしまうことができる。一方、インドへの民族集団流入に関する研究は、いまだにインド人の研究者にとっては非常にセンシティブらしい。

また、従前「集団内の多様性は集団間の多様性より大きいので人種概念は無意味」という主張が”正しい”とされてきたところ、実は複数の遺伝的特徴を組み合わせてみると、ある程度どの集団か予測できてしまうという。そのことに目をつぶっていることは早晩できなくなるし、といってそれを優劣の議論に利用するのも誤りである、その隘路をどうやって進むか。

著者の立場上仕方ないのですが、特に先住民が古人骨をコントロールすることについては「科学の進歩を感情で止めちゃだめだよね」という結論に傾きがちな印象を受けました。そしてまあこれも仕方ないのですが、ゲノミクスとにかくすげえから、という雰囲気。しかし倫理的にも技術的にも落とし穴はやはりいっぱいあるような気がする。

* * *

日常が実にゆっくりと戻ってきています。

まずコーヒーが飲めるようになり、眠りが10時間から7時間弱へと短くなり、体を動かす気力が戻ってきて、ラジオで聞こえてくる話が頭に入ってき始め、着る服を選び、髪の毛を刈り、家でご飯を炊きました。日差しがまぶしくなくなりました。金木犀が香っています。多分もう少しすると、仕事とは関係ない友人と「おしゃべり」ができるようになるでしょう。まだピアノに触ってないが、これは椅子の上に布団が置いてあるから。

仕事に関して全くストレスがない人だと思っていた、と何人かに言われたのですが、全然そんなことはありません。特に、忙しさよりも、裁量を感じられない時にストレスを感じるタイプのようです。

回復途上、たまたま北海道から東京を訪れていて数年ぶりに会った友人に「老けた」を連発されました。まあそれも分かる。実は本人にあまり自覚はないけど。

* * *

・この1週間でようやくエアコンを使わなくなりました
・秋冬用の布団を掛け始めました
・即位の礼はテレビを横目で見たくらい。「マイク使うんだ」と思った

2019年10月03日

じうがつはじめ記

喉痛がぶり返しそうな気配があり、37度に届くか、またぐかどうかくらいの微熱がありましたが、これはもう来週の山を越えないと回復することはない(山を越えたら一度派手に体調を崩しそうな気がするが)と割り切りました。

24~25時に床に就くとスムーズに入眠し、8時台に一度目覚め、また目をつぶると9時半、思い切って起きて椅子に座るとやっと数十分後に動く気力が上がってくるという、発熱前のサイクルが戻ってきました。これも来週まで続くと思われます。

そんな状態でインフルエンザの予防接種を受けるかどうか。町医者によると今年は例年より2ヶ月くらい流行が早い感じ、とのことなのでとりあえず打ってしまいました。打つリスクと打たないリスクではギリ後者が勝つかなと考えもしましたが、これはまあ、えいやで。

あとは、10月中旬以降の予定をぽつぽつと入れ始めています。行けたら行く、くらいのやつばかりですが。また「今この状態で判断しないほうがいいこと」について判断をするよう、10月中旬のカレンダーに書いて未来の自分に申し送りました。

* * *

■佐藤健太郎『すごい分子 世界は六角形でできている』講談社、2019年。
これは満足度高かった。研究から出てきたライターはほんと貴重。

2019年09月28日

体調崩すなど

三連休真ん中の日曜の仕事を午前2時前に終えて帰って、普段ならぱたっと寝るところなかなか寝付けず、あれ?と思って寝て起きた休日月曜に発熱。喉痛い。

熱は38度前後をうろうろ、しかしこの体温にしては動くのが辛く、食欲もほぼ0で、24時間のうち21時間くらい寝ているかうとうとしていました。残薬の葛根湯は効かず、頑張って近くのドラッグストアで買ってきた「熱、喉痛」集中攻撃用の薬が結構効いた。

連休明け火曜の昼くらいまで外に出る気力が沸かず、しかしえいやで出社し、会社の地下の内科で薬をいっぱい出してもらう。扁桃炎。しかしまあ依然辛い。熱もやっぱりあり。職場の人によると「明らかに元気がなかった」

水曜、ようやく上向いてフルに仕事。ご飯も食べられるようになってきた。しかし今度は夜寝られない。前2日の寝過ぎのせいか。

木曜、平熱に戻り、フルに仕事。依然、寝られない。

金曜、寝不足ふらふらでお客様対応的な仕事をし、「ようやく寝られそう」な疲労度合いになって午前1時就寝。

土曜、変な夢で午前6時台に一度起きからの午前10時半起床、喉の違和感は消失、今ここ。これから午前2時前までの仕事。

所感:
・マラソン的案件の追い込みの時期にこれはつらかった
・発熱以前はむしろ寝過ぎくらいなのに疲れ取れず、という状況だったのに、発熱後はショートスリープかつハイテンション、朝に落ちる、というパターンに「体のフェーズ」のようなものが変わった気がする
・『風邪の効用』にも似た記述があった気がするが、体調を1回派手に崩すというのは、溜まった澱を清算する機会なのかもしれん
・平素忘れがちなんだけど、弊管理人は継続案件があると寝ても覚めてもどこかでそのことを考えてしまう性質で、マラソン的案件があると生活がほんとそれだけになる
(……ということを部内の30年選手にぽろっと漏らしたところ、「私もそう。自分がゴールキーパー、みたいな意識のある人はそうなる」(大意)と言われ、なんとなく気分が和らいだ)
・ただただ再来週末に「ともあれ一息つく」ことのみを頼りに過ごしている
・housekeeping issues(家事に限らず広い意味なので英語で)を分け持ってくれる人がいない、という独身かつ単身の脆弱性をわりと感じたかもしれない。これは歳のファクターが大きいか
・そういや例年9月はどうしていたのだろうと弊日記を遡ってみると、ここ3年くらいずっと疲弊していて(2015年までいくと楽しそうだった)、人生これでいいのだろうかと思わなくもない

* * *

そういうわけでもういつのことだったか、というくらい前に感じる発熱直前の先週土曜。
歌舞伎町のちょっと北の方にある「サーティーンカフェ」でカラスガレイの干物定食。
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うまかった。周囲は高坏に載ったプリンだのバスクチーズケーキだのでキャッキャしてましたけど。公共施設みたいな味気ないビルの4階にひっそりあるわりには人が入っていたので、何かで知られているところなのかも。

* * *

■戸谷友則『宇宙の「果て」になにがあるのか』講談社、2018年。
どっこい結構難しかった。

2019年09月09日

上旬あれこれ

一日中机、という日が続いていて心身に悪いです。

それでも週に1日は休む、というのを鉄則にして、日曜は友人と稲城の温泉「季乃彩」(ときのいろどり、と読む)に行きました。

道すがら「そういや尻から血が出て内視鏡検査受けたんだけど、尻は痔で、そのほかに大腸にポリープがあり、さらに胃がピロリ菌感染してて崩れた山みたいのがあった」と聞かされ、うーむ(1)便潜血は本当に痔だろうか(2)崩れた山は大丈夫なやつだろうか、と心配になりました。すごいデブ、ニコチン中毒、野菜食べない、ラーメン大好き、遅寝のショートスリーパー、というリスク要因の展覧会みたいな人なので、特に。
ポリープと崩れた山の病理検査の結果はそのうち出るそうです。

* * *

で、風呂から上がって稲城でやっぱりラーメン食って帰ってばっちり22:30に寝たら、月曜の午前4時ごろ(眠りが足りたのと)風の音で目が覚めました。台風。びゅごーーーって。
7時出社の日で、地下鉄が動いていることは分かったので、いつもよりちょっと早めの6時前、葉っぱとか枝とか飛んでる中、走って駅まで行って普通に動いてるつおい地下鉄に乗って出社しました。
午前中に台風はさっさと通り過ぎ、36度くらいまで上がったらしい(缶詰だったので外の暑さが分からなかった)。会社からきれいに富士山が見えました。そんでまだ若干暑い夜になって帰ってきました。

* * *

酒場で別の友人が「日本って立憲君主制?」みたいな話をしていて、たまたま同席していた法学部の先生から「ほんとにそうかな?考えてごらん?」と言われたそう。

いや実はすごい面白い問題だというのは分かる(天皇は君主か元首かそれ以外か/共和制な気もするが法制局答弁で立憲君主制を肯定したことがあるらしい)。けどもうちょっと教えてあげようよ。酒場でも先生づらかよ、とはまあ思った。

* * *

■共同通信ロンドン支局取材班『ノーベル賞の舞台裏』筑摩書房、2017年。

■福田京平『電池のすべてが一番分かる』技術評論社、2013年。

■森弘之『2つの粒子で世界がわかる』講談社、2019年。

2019年08月20日

夏の帰省19

台風がのろのろと近づいてきていてどうなるかな、と思っていましたが、それほど荒れることなく、いつもの伊豆に家族で行ってきました。
今回はあまり誘導しないでみようと父妹に任せてみたら、伊東―(北へ)→熱海、しかしほとんど観光せず―(南へ)→熱川でバナナワニ園―(北へ)→昼食とりそびれ伊東、と非効率な移動になりました。いいけど。

バナナワニ園。オールドファッションな動植物園って感じです。
レッサーパンダにまるでやる気がない。
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ワニも動かない。
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ま、楽しく動き回る理由もないか。とはいえ、熱帯植物園の物量はかなり豊富なので、ちゃんと見れば結構楽しめると思います。

行きに御殿場で「さわやか」のげんこつハンバーグを食べようと思ったら「4時間待ち」といわれて諦めたので、帰りはもう少し空いていそうな富士鷹岡に寄りました。
順番待ちのチケットをとって、90分の空きを活かして富士山世界遺産センターへ。
坂茂の建築が見たかっただけなんですけど。
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約200mのスロープを展示を見ながら上っていくと登頂できる。外は池になっていて、そこにこの不安定な構造物が映ると富士山の形になるのですね。逆さの逆さ富士。
ハンバーグは意外と早く順番が来ちゃって焦ったものの、ちゃんと食べられました。やっぱうまい。

身延山を回って南信州の実家に帰りました。
「夕飯はカツ丼にすっか」と父が言うので「ハンバーグでお腹いっぱいなので無理」と主張したところ、そうめんになりました。
家に植えてるシソと、玉ねぎなどでかきあげ天つき。なんか上達してた。うまかった。
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休みの直前、長野のラジオで少し話す機会があって、「夏に帰ったら食べるものはありますか?」と想定外の質問が来たので咄嗟に「おまんじゅうの天ぷらですかねえ」と真っ赤なウソをついた(確かに県内スーパーで売られる季節商品だが弊管理人は特に好んで食べない)、という話を父にしたら、まんじゅうも天ぷらにされていて予言が成就しました。

これはまあ些細な例かもしれませんが、咄嗟にウソをついてしまう癖が弊管理人にはあるのかもしれない、と思うと極めて怖い。気をつけよう。

* * *

いつも通り父実家、母実家をまわって東京に戻ります。
父実家は祖母が引き続き元気。
母実家は伯母による恒例のご馳走。
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祖母はもうすぐ99。かなり弱ってきている感じがしました。
お店をやっているいとこが配達途中に寄ってくれて、顔を見ることができました。
いろいろ話しました。

叔父がレビー小体病になって介護が大変な叔母一家の中が案外もめたりしている話、意外と甲状腺の病気をやっている女性陣、母実家の懐事情、古くなっていくまま更新されない家族とモノ、手入れの追いつかない墓、お弔いは近いかもしれないにもかかわらず断絶したままの父―伯母、といった何かと構えの必要な地平線上のあれこれに、弊管理人自身が抱えた秋以降の仕事の気の重さが重なって、近年ないくらい落ちた帰省でした。そういう素振りは見せないけど。

* * *

で、さらに悪くしたことに、東京に戻った日にうっかり痛飲し、その次の日から深夜までの勤務が2日続くという生活マネジメントの失敗もあり、休み明け早々かなり疲れています。

* * *

■柴田元幸『柴田元幸ベスト・エッセイ』筑摩書房、2018年。

東大の先生だった人が書いた90~00年代の文章を集めた本に、90年代の東大の匂いがする文章だったという感想を書く意味があるかというと、たぶんある。

2019年08月18日

りょうし計算機

いやもうほんとわかんないこといっぱいなんですけど、他の文献やニュースでごまかしてるところ(なんで複数の状態を重ね合わせると高速で答えが出るのかとか)が解説されててよかった。
通信、暗号、センサーなども含めた量子技術全般やってくれる本があるといいな~

■宇津木健、徳永裕己『絵で見てわかる量子コンピュータの仕組み』翔泳社、2019年。

・古典コンピュータ(CC):
  ・ノイマン型:CPU+メモリ
  ・非ノイマン型:ある決まった問題を高速に解く。ニューロモーフィックチップ、
          GPU利用、FPGAシステムなど(一部はスマホにも)
・CCが苦手な問題:
  ・多項式時間での解法が知られていない
  ・入力Nを大きくすると必要計算時間が指数関数的に増えてしまう

・量子コンピュータ(QC)前史
  ・1985 ドイチュDavid Deutschが現在の形のQCを理論的に提唱
  ・1995 ショアPeter Shorのアルゴリズム(古典Cを上回る最初の量子アルゴリズム)

・QC:量子力学特有の物理状態を積極的に用いて高速計算を実現
 ・広義のQC:万能(エラー耐性)~非万能(エラー耐性無)~非古典(量子優位性無)
 ・万能QCの実現は20年以上かかるとされている
   ・数十~数百qubit→量子化学計算(薬品、材料開発)や機械学習に使えるか
 ・非万能QC:
  ・NISQ(2017、プレスキルJ.Preskillが提唱)=ノイズありの50~100qubit
   ・量子古典ハイブリッドアルゴリズム(量子計算を一部で使う)
    eg.たくさんの分子や原子の動きをシミュレーションする(創薬、材料開発)     ・IBM Q(5または16qubit。実用上はほぼ意味なし)
  ・当面は冷凍機がいるのでシステムの一部としてクラウドで使うような形か

・量子計算モデル
  ・万能型:量子回路、量子ゲートを使用
    ・量子ビットを0に初期化
     →解きたい問題を表現した量子ゲート操作
     →結果を測定
  ・特化型:量子アニーリング
     1998に西森秀稔、ファーヒE.Farhi、2001の量子断熱計算(ファーヒ)で提案
     2011にD-Waveが商用化
      →既に2000qubit。ただしコヒーレンス時間(量子ビットの寿命)が短い
     組み合わせ最適化問題を解ける。物流の最短経路探索、渋滞緩和など
    ・イジングモデル
     0と1が50%ずつの状態に初期化しアニーリング操作
     →解きたい問題を相互作用にマッピング
     →スピンの組み合わせは全体のエネルギーが最も低い基底状態へ
     →結果を読み出す
     用途:店舗スタッフのシフトを要望を生かしつつ最適化
        作業工程を複数人数で行う際のスケジューリング
        物流経路の最適化、渋滞の緩和、機械学習データのクラスタリング
        (すべて組み合わせ最適化問題)

・量子ビット(計算の最小単位)
 ・0/1の重ね合わせ状態を取る(=波の性質)
  ブロッホ球の球面上を指す矢印で表現。緯度=振幅(0/1への近さ)、経度=位相
 ・他にもブラケット記法(|0>など)、波による表現もできる
 ・測定すると0か1に決まる(振幅が0に近ければ0が出る確率が高い)(=粒子の性質)
 ・n量子ビットでは2^n通りの重ね合わせ状態(n=3なら|000>~|111>の8通り)

・量子ゲート操作
 ・単一量子ゲート操作:ブロッホ球の矢印をぐるっと回転させる
 ・多量子ゲート操作

・測定
 ・波→粒子(波束の収縮)
 ・「測定前には単に量子ビットの状態が分からない」のではなく「測定によって量子ビットの状態が変化する」と考える(コペンハーゲン解釈)

・量子もつれ(2量子の相関。Hゲート、CNOTゲートで作れる)
・量子テレポーテーション
 ・古典通信ではAさんの量子状態を壊さずにBさんに送れない
 ・そこで、まず量子もつれ状態の2qubitを作って分有しておく
  →Aさんが測定結果を古典通信でBさんに伝達
  →Bさんが手元のqubitに結果に応じた量子ゲート操作をする
  →Aさんの量子状態が再現される

・量子計算
 ・多数qubitをゲートに通して同時に多数の状態を実現
  →干渉により、正しい答えに対応する確率振幅だけを増加させる(量子アルゴリズム)
 ・グローバーのアルゴリズム:ハミルトン閉路問題、複数都市の一筆書き順路発見
  =解くのは難しいが、正解かどうかは簡単に分かる問題
  →探したい経路の確率振幅を増加させる。古典アルゴリズムより高速
 ・ショアのアルゴリズム:素因数分解を高速に解く
  1994 Peter Shorが発表。実用性のある最初の量子アルゴリズム
  素因数分解の高速化。答えが出れば簡単に確認できる
  ただし現在の暗号解読をやるにはエラー耐性のあるQCで1千万~1億qubit必要

・量子エラー訂正
 ・古典Cはチェック機能を付ければいいが、量子だと測定すると量子状態が変化してしまい、コピーも作れない(量子複製不可能定理)
 ・2014 UCSBのマルティネスJohn Martinisが超伝導qubitでエラー1%以下の操作を実現
 ・まだ小規模なエラー訂正の検証段階

・量子科学技術(量子ビットの実現)
 ・超伝導ビット(超伝導状態の金属は量子性を強く示す=測定まで波の状態を保てる)
   1999 中村泰信+蔡兆申が世界初の超伝導回路による量子ビット動作
   *ただし1ナノ秒。現在はコヒーレンス時間が数十マイクロ秒まで延長
   Google, IBM, Intelなどが開発取り組み、NISQで
 ・トランズモンによるビット
 ・磁束量子ビット:2003 中村泰信(今は主にアニーリングに使われている)

 ・トラップイオン:イオンをレーザー光と磁場で空中にトラップし、個別に量子操作
   イオントラップ(電磁場でイオンを空中にトラップする)は1989ノーベル
   レーザー冷却(レーザーを使ったイオンの冷却)は1997ノーベル
   →1995 シラクIgnacio Cirac、ゾラーPeter Zollerがトラップイオン量子計算提案
   →1995 ワインランド(2012ノーベル)、モンローが実験的に実現
   →今、IonQ(モンローの会社)が数十qubitを実現

 ・冷却中性原子による量子ビット
  ・共振器に閉じ込めた光とレーザー冷却した中性原子の相互作用させる共振器QED
  ・イオンに近い状態の中性原子を使うリュードベリ原子の相互作用
  ・光格子に入れた原子を相互作用させる量子シミュレーション

 ・半導体量子ドット
  ・半導体(ケイ素やガリウムヒ素)による量子ビット(1998提案→2006~実現)
   超伝導回路のように、隔離した電子を極低温に冷却
   2種類の半導体を貼り合わせた界面で電子を閉じ込め、周囲の電極で操作、読み出し
   Intelは超伝導回路に加えここにも参入

 ・ダイヤモンドNVセンター
   室温で量子ビットが実現できる
   ダイヤモンドのCをNに置き換えると、隣が空席になる(NVセンター)
   量子通信むけメモリや中継器(量子リピータ)としての応用にも期待
   磁場の微少な変化をとらえる高感度量子センサとしても

 ・光を用いた量子ビット
   室温動作可能、光導波路チップや光ファイバなどと組み合わせてQC実現の可能性
   単一光子を放出する光源が必要(難しいが研究中)
   →光の振動方向などを量子ビットとして利用。光の量子回路に入れて操作し計算
   主な量子操作方法:線形光学方式/共振器QEDを利用
   スクイーズド光(レーザー光を特殊な結晶に入射し量子性を強めた光)
   →光の状態を量子ビットとして量子計算。東大・古澤明、カナダのXANADUなど

 ・トポロジカル超伝導体を用いた量子計算
   Microsoftなど。まだ緒に就いたところ

2019年08月10日

暑いと遊びにくい

土日月の3連休は土曜が深夜まで仕事だったため、日曜は遅い始動。
寝るときエアコンを弱で入れっぱなしにしてみたものの、冷えすぎるのと乾くので心地よさは65点。隣の部屋のエアコンを弱で入れっぱなしにしてみようか。

で、なんか調子出ないなと思っていたところ、大和市の友人から「どうしてますの」と連絡がきたので、プール行きたいという話をして、落ち合えそうなところを調べて砧公園の近くのプールへ。
でまあこれが名前を聞いたこともないようなところで、しかしウォータースライダーも流れるプールもあるという。ひょっとして穴場?と思って入ったらまあ小さいし信じられないくらい設備もシャビーなので、早々に退散。でも混み混みだった。あんなんでいいの?世田谷区民。

スパイス食べたいね、という話になり、経堂へ出て「ガラムマサラ」。
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佐賀に帰ってしまった「アキンボ」のマスターが推していたが、世田谷と縁のない生活をしている弊管理人がとんと行けていなかったお店。
シシカバブだのパクチー砂肝サラダだのタンドリーラムだのをド堪能したあと、カレーを3種(チーズキーマ、レモンチキン、パクチーチキン)とサフランライス、ナン、シナモンナン。すげーうまかった。やっと満ち足りて別れました。

* * *

月曜も同じ友人と遊ぶことになり、彼の最寄りの中央林間からカーシェアで厚木へGOです。
七沢の「かぶと湯温泉 山水楼」。
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関東大震災のあと温泉が噴出したのだそうです。ぬるぬるのお湯がとてもよいです。周りも見えるのは森と渓流だけで、木立のいいにおい。
内湯は2人、露天も3人入ったらいっぱいくらい。あまり知られないことを願います。
東京よりも涼しかったですが、汗だく。やっぱり秋以降だな~

そのあとZUND-BARでラーメン食べました。平打ちの麺に代えてもらいました。弊管理人は細麺があまり好きではないのでこっちのほうがよかった。で、やっぱり汗だく。店内あちいよ。
ソフトクリームはテイクアウトしてクーラーがんがん効かせた車内で食べて、中央林間まで戻ってお茶して帰りました。
いやあなんか2日とも疲れてたな。でも楽しかった。

* * *

ポリコレ、ハラスメント対策は、個々人の信条は完全に無視して「これやったらアウトね」というマニュアル・Q&A教育をひたすらやるのが結局は効果的なのではないかと思いました。
人(弊管理人を含む)は自分が加害者扱いされるとどうしても屁理屈をこねて防衛しようとするが、そんなものを撃破したとて本人の行動変容に繋がることは期待できない(自制/自省する力がある人はそもそも立場の弱い人を怒鳴ったりしない)。

* * *

■アルバート=ラズロ・バラバシ『ザ・フォーミュラ 科学が解き明かした「成功の普遍的法則」』光文社、2019年。

この極めて恥ずかしいタイトルの本には買う段階から多大なストレスを負わされた。
いやバラバシの本は『バースト!』がなかなかよかった印象だけ残っていて、それならこれも是非、と買いました。うーん借りておけばよかったかも。コネいっぱい作って、ここぞで前に出ること、あとは一生頑張りな、ということを科学的に言った本。ただしそこに至った過程は本文にあんまり出てこない(注に出てくる)。

2019年07月18日

週末いろいろ

土曜、中近傍より友人来たりて、高田馬場のラミティエ。
夜は初めてです。2800円のコース一択。前菜とメインを1品ずつ選ぶのはランチと同じ。
前菜はキッシュいきます。
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そんでメインに鴨のコンフィ。
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追加でデザート。ミルクとフランボワーズのアイス。
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友人は前菜がハム、サラミ、パテとリエットの盛り合わせ、メインは牛ほほ肉の煮込みで、シェアしながらいただきました。どれもうまかった。おなかいっぱい。

* * *

しかるのち、「天気の子」を見ました。

* * *

明けて日曜は天気予報を見て、なんとかもちそうということで横須賀・猿島へ。
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夏は初めて。むちゃくちゃ湿度が高くて、むちゃくちゃ暑かったです。
海が汚くて対岸が霞んだ感じ、写真にするとマレー半島近くのどっかの島って感じ。

おいしかったのは、よこすかポートマーケットのジェラート屋。
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2フレーバー(400円)を選ぶ際、スイカと海軍コーヒーという取り合わせにしてしまうセンスのなさ。
でもそれぞれはおいしかったです。
加えて、フードコートが涼しいというのが素晴らしい。

* * *

思い出せないくらい前(少なくとも15年)から使っていたデスクチェア、しばらく前からずいぶん背もたれのリクライニングが大きくなったなと思っていたら、とうとうバキバキっと180度開いてお亡くなりになりました。

後継者はアマゾンで12000円。ロッキングの可否がレバーで決められるのがなかなかよい。
しかし、6000円ほどのでもそんなに変わらない気はします。
一方、コクヨとかのメーカー品だと数万円。いまひとつ機能と値段の関係がよくわからないカテゴリーです。
とにかく早く着くことを重視して買ったので、若干高いものになってしまいました。注文してからヨドバシのほうが安いやつが速く来ることに気付いたものの、既にキャンセル不能になっていてアウト。まあいいけど。

* * *

■イ・サンヒ、ユン・シンヨン(松井信彦訳)『人類との遭遇』早川書房、2018年。

借り物。とても読みやすかったです。
・人類史の描写はどんどん変わってる
・ゲノム革命の影響甚大。にしても、やっぱりいろんなことが推測で議論されてる印象
・人種や性役割など「その時代時代の研究者が見たいものを投影してしまう」という危険といつも隣り合わせだな
・それでいうと、女性、アジア人の視点から見たこの本て実は貴重かも

2019年07月14日

小胞体

ちょっと必要がありまして……

■森和俊『細胞の中の分子生物学』講談社、2016年。

▽1950~60年代:細胞生物学第1世代(クロード、ド・デューヴ、パレード)
 =1974ノーベル医学生理学賞受賞
・タンパク質を合成するリボソームが2種類あることが判明
 (1)細胞質にいる「遊離リボソーム」
  →合成したタンパク質は細胞質に放出され機能
 (2)小胞体の膜の外側に付着する「小胞体膜結合性リボソーム」
  →合成したタンパク質は小胞体内に入り、ゴルジ体を通って細胞外に分泌

▽1970年代:第2世代(ブローベル、1999医学生理学賞受賞)
・タンパク質を構成するアミノ酸の配列には、機能配列の末端に「シグナル配列」がある
 →シグナル配列を荷札として識別タンパク質が結合、翻訳停止
 →正しい小器官(この場合小胞体)の識別タンパク質受容体がキャッチ
 →シグナル配列が切り取られる(核行きだと切り取られない)
 →翻訳再開、小器官内にタンパク質が入る
 =働く場所に届けられるという「シグナル仮説」
 →すべての小器官についてこれが正しいことが示された

▽1980年代:第3世代(シェクマン、ロスマン、2013医学生理学賞受賞)
・タンパク質が小胞体に入った後
 →小胞体内で立体構造をとる
 →「小胞輸送」でゴルジ体へ
 →ゴルジ体で仕分けされ、最終目的地のリソソーム、細胞膜、細胞外へ
 *各移動の際は小器官の膜がちぎれてできる袋(輸送小胞)に入って運ばれる
 *ゴルジ体を出た小胞のv-SNAREと目的地のt-SNAREが結合するので迷子にはならない

タンパク質の折りたたみ
・アンフィンゼン(1972化学賞)のドグマ「タンパク質は勝手に最適な形になる」
・タンパク質濃度の高い細胞内では、タンパク質「分子シャペロン」が折りたたみを助ける
・2種類のシャペロン
 (1)結合・分離型
 (2)閉じ込め型(シャペロニン):容器状で、中に隔離して構造をとらせる
  →シャペロニン研究のハートルとホルビッチは2011ラスカー賞
*形がおかしくなると→異常プリオン
  スクレイピーの研究でプルシナーが1997年医学生理学賞

不良タンパク質の処理、二つの分解系
(1)ATPを使わない分解処理
 リソソーム(40種類の分解酵素を持ったゴミ処理場、ド・デューヴが発見、ATP不使用)
*オートファジー
 オートファゴソームにリソソームが融合、酵素が流入
 新生児は飢餓状態の中で自食し生き延びている

(2)ATPを使う分解処理
 ユビキチン(APF-1とも)が付着(ハーシュコーら、2004化学賞)
 =プロテアソームが分解(田中啓二、ゴールドバーグ)
 プロテアソームがユビキチンを把持
 →タンパク質をひもに戻す
 →ユビキチン外す
 →分解

▽1980年代後半~:第4世代(ゲッシングら)
・小胞体で正しい構造をとったタンパク質だけがゴルジ体に行けることを発見
・正しくないタンパク質は細胞質に排出され、プロテアソームが分解(小胞体関連分解)

・小胞体ストレス応答(メリージェーン、ジョーが1988命名)
 タンパク質がリボソームから小胞体に入ってくる
 →シャペロンが高次構造形成を手助けする(90%は成功)
 →異常タンパク質が増えるとシャペロンが増える(転写誘導)
 →修復を頑張る
・応答に必要なもの:森がすべて解明
 (1)センサー
 (2)シャペロン転写を働きかける「転写因子」
 (3)センサー(小胞体)と転写因子(核)を取り持つ仕組み

1989 メリージェーンとジョーが酵母にも小胞体ストレス応答があることを報告
1992 森、シャペロンの転写調節因子を酵母で決定
   酵母遺伝学。ランダムに傷を付けて小胞体ストレス応答ができないものを選抜
1993 森、IRE1の機能喪失がセンサーだとCellで報告
   (ピーター・ウォルターも同着)
1996 ウォルター、転写因子HAC1報告
1997 森、スプライシング後のHAC1タンパク質が転写を実行するという解釈を発表

・つまり
 構造異常タンパク質が小胞体に蓄積
 →センサーIRE1を介して情報が核へ
 →転写因子HAC1がシャペロン遺伝子の転写を活性化

*場所によってストレス応答が違う
 細胞質に構造異常タンパク質が蓄積した場合、修復のためシャペロン動員
 小胞体に蓄積した場合は小胞体ストレス応答
 ミトコンドリアでのストレス応答→詳しく分かってない

▽ヒトでは
1998 カウフマンとロンが独立にヒト遺伝子内にはIRE1に似たものがあると報告
   (HAC1はヒトにはない)
   吉田らが転写調整配列を発見、さらに転写因子ATF6とXBP1も発見
1999 ロンが第2のセンサーPERKを発表
   土師がATF6を第3のセンサーと特定
   =ヒトはIRE1、PERK、ATF6という三つのセンサーがある
2001 吉田がヒトXBP1が酵母HAC1に相当すると発見、Cellに発表
   (ロンはNatureに一歩遅れて出した)

酵母とヒトの違い
・酵母はセンサーがIRE1しかない
 →小胞体シャペロンも小胞体関連分解も同時に転写誘導される

・ヒトはまずPERKが翻訳を抑えて既存シャペロンに修復の余裕を与える
 →その後、ATF6が応援シャペロンを呼ぶ
 →だめならIRE1でシャペロンとともに小胞体関連分解を誘導する
 *せっかくATPを使って作ったタンパク質をいきなり分解しない「もったいない」対応

小胞体ストレス応答の不全と病気
・PERKが働かない→質の悪いインスリンが作り続けられる→β細胞の恒常性が崩れてアポトーシス→インスリンが作れなくなる→糖尿病(ウォルコット・ラリソン症候群)
・ほか、肥満、インスリン抵抗性、アルツハイマー病、パーキンソン病、ALS、炎症性腸炎、心不全、心筋症、動脈硬化などにストレス応答が関与していることが判明
・がんでは新生血管できるまで飢餓状態→構造異常タンパク質が蓄積→小胞体ストレス応答を動員して対処。ということは、ストレス応答阻害薬が抗がん剤になるかも

今後
・ヒトはほかにセンサーを5個持っている。それぞれ使い時があるらしい
・臓器・細胞特異性
・どの時点で修復を諦めて細胞死にいくのか?

「三つのハッピーな出会い」―ラスカー賞スピーチ
(1)分子生物学との出会い
(2)小胞体ストレス応答との出会い。地方時代、それまでのテーマをやめて渡米したこと
(3)ワン・ハイブリッド法。エイチ・エス・ピー研究所の由良所長、吉田さんとの出会い

2019年06月15日

遠くに近づく

これもまあ借りて済ますべき「現在地まとめ」みたいな本かなあと思って図書館からさらってきましたが、2年前くらいにずっと読んでたSmall Places, Large Issuesのおさらいプラスアルファとして思いの外面白かったです。

・遠い人たちの近くにおいて、自分と自分が埋め込まれた社会の基底に気付く、
・普段当たり前と思っている二分法の境界線を溶かす。

貸出延長の手続きをしてじっくり……と思ったら次の予約が入っていてできず、駆け抜けてしまいました。下のメモも目に付いたキーワードをすごい恣意的に拾っただけ。最後のほうはすっ飛ばしてます。

■松村圭一郎、中川理、石井美保『文化人類学の思考法』世界思想社、2019年。

[1]自然
未開の科学、認識人類学(エミック/エティック)
コンクリン:ミンダナオ島・ハヌノオの植物分類学
チェンバース:「参加型開発」。土着の知識は科学より当地の生態系に適合的
レヴィ=ストロースの自然/文化の二分法は本当か?
 ←西洋の構築物では?ヴィヴィエロス=デ=カステロの「多自然主義」
多種の生物が織る自然←→地球を守る私たち

[2]技術
道具を作る動物と人の違い:道具使用に意味、意図、表象が絡む
モース:身体技法=目的や状況に応じた身体の使い方
    道具=身体の外側に独立した機能、技術=その構成
    技術の「相互的因果」=石器を「作る」→狩猟社会が「作られる」
ユクスキュル:環世界。誰も「自然そのもの」を知覚していない
ルロワ=グーラン:技術の創出と、それによる身体・社会の変容。進化の同時進行
ラトゥール:特定条件下で姿を現す「科学的発見」、科学者の名声という社会的影響
 自然と社会が同時につくりだされる。対称性アプローチ
 人間と非人間を関係づける実践が形成する社会。自然と社会は独立してあるのではない
 統計学的に構成された身体+その知というネットワーク→医療環境
現代のホモ・ファベル:道具だけでなく環世界もつくりだす(スマホが創る身体、社会)

[3]呪術
機能主義
 タイラー:『原始文化』偶然を因果関係と取り違えること
 フレイザー:『金枝篇』発育不全の技術
  類感呪術=AとBは類似→Aに働きかけるとBに作用(コラーゲン→肌ぷるぷる)
  感染呪術=AとBは結合→Aに働きかけるとBに作用(オヤジのパンツと洗濯すんな)
マリノフスキー:個人の心理的機能=技術で自然を支配できない時、安心のために使われる
ラドクリフ=ブラウン:構造機能主義=社会統合への寄与
レヴィ=ストロース:野生の思考。キツツキ―歯痛、といった個別物を結ぶ秩序の導入
ANT:より多くのアクターを動員する、より長いネットワークが支える「より固い事実」

[4]異世界
妖術や精霊をどう理解するのか:合理性論争(未開の思考との共約可能性)
機能主義:緊張緩和、社会統合、不安の表現
存在論的転回:「彼らは精霊がいると認識」から「彼らは精霊のいる世界に生きている」へ
 →われわれとの差異を乗り越え不可能にする側面も
グレーバー:われわれにとっても彼らにとってもよくわからないまま実践されるもの
 →「かもしれないもの」としての妖術や精霊。感じ方を共有→そう体が動くように

[5]芸術
「何が芸術か」から「いつ芸術になるか」へ
  芸術家、批評家、美術館など「制度」の中で芸術になる
 さらに、非西洋のモノを芸術にする非対称な権力関係の批判へ
 物質文化研究→新奇なモノの収集、「発展度」の測定(進化主義)
ボアズ:未開芸術。どこにもそこなりの美がある
リーチ:審美的気質はどこにもある。が、未開美術で音楽、詩、造形が未分化
木村重信:民族芸術。美意識、社会の凝集したもの。作品と享受者の関係に重点
モース:全体的社会的事実。全体が渾然一体となった贈与交換から芸術は抜き出せない
ジェル:魅惑するものとしての芸術、社会的行為の媒介としての芸術
制度や境界を越えた関連づけ(生の全体性)に私たちを引き込むものとしての芸術

[6]贈与
モース:クラとトロフィーの類似性
 贈与交換:人と人を繋げる、長期的維持、贈り物
 商品交換:人と人を切り離す、短期的・非人格的取引、商品
 贈与に伴う3つの義務(1)与える(2)受け取る(3)お返しする
 贈り物は霊的な本質の何者かを受け取ること
 負債=負い目。返礼へ向かわせる
サーリンズ:3つの互酬性
 一般化された互酬性:近親者、返礼を求めない。
  ★が、社会の階層化をもたらす力。モノを与えることは威信や格差と結びつく
 否定的互酬性:関係の乏しい相手から多く奪おうとする
 均衡的互酬性:同等なものの交換が期待される
神、死者、国家への捧げ物:税、供犠。聖俗を結びつける
グレーバー:『負債論』交換だけではない。収支計算のない「コミュニズム」、優位者と劣位者の間で慣習的で非対称にやりとりする「ヒエラルキー」もある

[7]交換
貨幣:(1)交換媒介(2)価値保存=価値を将来に持ち越す(3)価値基準=価値を表す
 権力による保証
ヤップ島の石貨:交換相手への信用の記憶媒体としての石貨
 信用に基づく交換。監視された台帳に書き込まれる仮想通貨

[8]国家
政府を持たない社会:ヌアーの秩序ある無政府状態、メラネシアの一代限りの実力派リーダー「ビッグ・マン」
ギアツ:バリの「模範を示す国家/劇場国家」
国民国家:言語・歴史・文化の発明、と、サブ国家レベルの「原初的愛着」の葛藤
アパドゥライ:グローバルなフローの中で単一国民国家は無理。草の根グローバリゼーション、ギャングが保持する「部分的主権」

[9]戦争
権力や富の追求
近い集団同士が戦う「ささいな違いについてのナルシシズム」(アパドゥライ):交換するうちに集団感の関係が深まり、融合へ。成員間に命令する/されるの階層が出現してしまう。各集団が自律的であるために相手と一時的に戦争して関係を断ち切る必要あり(クラストル)=★戦うことで自他の境界を作り出す。近いからこそ戦う
暴力の自律的な再生産
エリートの扇動に乗って戦うことをしない(戦闘員にならない)ことを選択する人もいる

2019年06月01日

富嶽

理研のスパコンじゃないです。これ1000円で手に入っていいの?

■日野原健司『北斎 富嶽三十六景』岩波書店、2019年。

富嶽三十六景の計46点(人気が出たので10点追加したんだって)を見開きで見せ、次の2ページで解説するという岩波文庫。
視覚効果を高めるためには、遠近法をねじ曲げたり、実際の風景と違ったものを描いたり、あるはずのものを取り去ってしまったりするのが北斎流。さらに特段有名でもない地点からの富士を描いちゃうのも、へそ曲がりの達人ならでは。写実が正しいのではない、デザインが面白くなるか、動きが映えるかどうかなのである。
ある絵では描かれたみんなが富士を見ている。別の絵では誰も見ていないが、やはり富士はそこにある。江戸からは小さく、駿河や甲斐からは大きく見える。最後はあの執拗に描かれた三角形の富士が見えない(当然だ)頂上。唸った。

2019年05月30日

門を眺める

いずれも買ってない。

弊日記でメモを作る本と作らない本があります。特にポリシーがあるわけではないのですが、メモを作らない本は
(1)だいたい知ってる話
(2)展開を追う必要のないアンソロジー的な内容(逆に、こういう本のメモを作ると結局、本まるごとになってしまう)
(3)会社から弊日記にアクセスして仕事上参照する必要がなさそう
(4)たまたま疲れてた
のどれか、またはその組み合わせのようです。今回の2冊は主に(2)、ちょっと(1)か。

■筒井淳也、前田泰樹『社会学入門―社会とのかかわり方』有斐閣、2017年。

最近どうかなっつってときどき覗く世界。
生老病死にまつわる各テーマ(と自身)に対し、量的研究と質的研究の視点を並べて「こうやってアプローチできるんですよ」と紹介する珍しい形式なので、方法に関するイメージが得られて有益でした。同じ有斐閣ストゥディアで前読んだジェンダーのやつのネチネチした感じと違って筆致がフラットなのも弊管理人の好みでした。
地元の図書館で借りたのですが、医療・医療技術のお話など弊管理人の仕事と関わる部分も多くて、これはギリ買ってもよかったかもと思いました。

■三成美保他『ジェンダー法学入門[第3版]』法律文化社、2019年。

会社の図書室からかっさらってきたもの。
校正甘くておいおいと思うところは多いですが、トピックを「法学」という言葉からイメージする範囲よりもかなり広く集め、判例、コラム、用語解説や図説を見開きでこなしているので、事典としてとてもよいと思いました。
自分で買って置いておきたい、とアマゾンで検索するところまでは行きましたが、2700円+税なのでとりあえずやめ。すいません。

2019年05月15日

立て続けに読んだ本

わりと急いでいろいろ読む週でした。

■加藤文元『宇宙と宇宙をつなぐ数学―IUT理論の衝撃』KADOKAWA、2019年。

・ABC予想=1985, マッサー(David Masser, 英→瑞)とオェステルレ(Joseph Oesterle, 仏)が提示

互いに素の自然数a,b,cについて、a+b=c (←足し算)
d=rad(abc) ※abcを素因数分解して、各素数の指数を1にした数字の積(根基)(←掛け算)
とした場合、c>dになる場合はすごく少ない

例)
a=3, b=16 とするとc=19
d=rad(3 x 2^4 x 19)=3 x 2 x 19=114
でc
a=1, b=8 のときは c=9
d=rad(1 x 2^3 x 3^2)=6
でc>d(例外的)

・証明されると、実効版モーデル予想(曲線の有理点が有限個であることに加え、それがいくつあり得るかも考える。pp.109-116)、シュピロ予想、フライ予想、双曲的代数曲線に関するヴォイタ予想が自動的に正しいということになる。フェルマーの最終定理もすぐに証明できてしまう→整数論における難しい予想の多くと関係しており、多くの未解決問題がいっぺんに解けてしまう重要な問題がABC予想
・ABC予想はシンプルだが証明は難しい。自然数の足し算(cの値)とかけ算(dの値)が絡まっているから(既存数学は両方を統一して扱える「正則構造」の下にある。本人の言葉では「自然数」の足し算とかけ算からなる「環」という構造があるから)
→IUT理論(宇宙際タイヒミュラー理論、タイヒミュラーは人名)は、足し算とかけ算を引き離して別々に扱い、分離前にはどんな具合に絡まっていたかを定性的に/近似的にとらえられるようにする装置(つまり、いったん分離したものを再構成した際には、元のようにかっちり絡まっているのではなく、ゆるゆるになっている)
・足し算と掛け算の一方をそのままにしながら、他方を変形する、あるいは伸び縮みさせる(p.175)
・数学体系(宇宙)をもう一つ想定し、既存数学の宇宙との間で、対称性をメディアとして通信を行う。つまり宇宙Aの要素を対称性にエンコードし、受け取った宇宙Bでデコードして対応物を特定する。その際に生じる不定性も計量する
・足し算と掛け算が絡み合っていることから生じている未解決問題には双子素数の予想、リーマン予想、ゴールドバッハの問題もあり、人間はまだ足し算と掛け算の関係をよく分かっていないのかもしれない

*2012年の望月論文発表前には、玉川安騎男教授らに予告していた(望月、玉川氏は松本真氏とMMTセミナーを開催)
・人となりはpp.96-107
・これまでの難問解決:ファルスティングス(望月氏のプリンストン大での指導教授、フィールズ賞)→モーデル予想、ワイルズ→フェルマーの最終定理

■プラトン(中澤務訳)『饗宴』光文社、2013年。

今学期の放送大学(別に学生じゃなくて、音声を録音して仕事中に歩いてるときに聞いてるだけ)で美学の授業を聞いてたら出てきた本。宅飲みで恋バナしつつ、美のイデア/実在論へ向かう。

■篠田謙一『新版 日本人になった祖先たち』NHK出版、2019年。

これはNスペとか映像向きの話だった。

2019年05月01日

死ぬ権利はあるか

■有馬斉『死ぬ権利はあるか』春風社、2019年。

福生病院の透析中止問題が燃え上がったころ、飲み屋で若い友人から「本人が死にたいっていうならそれでいいじゃんね」と言われ、そういえばちゃんと考えている人はどう考えているのだろうと思いました。そしてそれから何日もたたないうちに会社の図書室みたいなところで新刊の本書を見つけてしまいました。560ページ。確か1カ月以上かかった。

尊厳死や安楽死、持続的で深い鎮静のルール化は許容されるか?(←問題の主眼は学会ガイドラインとか個別の臨床的判断において容認されるかという以上に「合法化」の是非なんだ、たぶん)という問いに対する3つのYESと2つのNOを検討します。本は結論としては反対の立場に寄っています。が、「すげー痛みが続いてても耐えて生きれるだけ生きてね」という単純な話ではなありません。

終末期であって、とんでもなく苦しくて、しかるべき援助も得られた末に、周囲からの圧力がない状態で、本人の正気の判断に基づき、他の選択肢を検討した上であれば認められるかもしれないが、それでも生命短縮措置という手段の存在が社会的弱者を脅かすリスクと、なお生きていることそのものに価値があるのだということを踏まえた上で慎重判断すべきだ、法制化はあかんけどね、というようなお話になるのかな。

医療ユーザー目線では、これくらいわずかでも容認の余地がなければ、やっぱりおちおち病気にもなれないわなというのが弊管理人の思いです。しかし「これをこの手順で確認すれば、法的責任は問われません」というルールががない以上、上記条件に合う場合でも医療者によっては生命短縮措置をやってくれない危険性があります。これは学会GLでは足りませんね。

また、命の内在的価値については(読み方が粗かったかもしれないが)飲み屋で若い友人に弊管理人の口から説明できるほどストンとは落ちませんでした。「生きてるってそれだけで素晴らしいんだああああ」という大本の主張に「なんで?」と言われたらどう答えればいいのか。「いや大体みんなそう思ってるでしょ」でいいのか。うーん。

あとはまあどうでもいいんですが、正確を期そうとしてか文章の歯切れが悪い。「~しうる」「なくはない」の多発くらいはしょうがないが、「死にたいという本人の希望にそって個人の死期を早めることを問題がないとみなせることなど決してない、とまでは思われないかもしれない」(p.341)はさすがにひどくないですか。あと、「で、結局どうするといいと思うの」というのは最後にまとめて書くべきだと思った。

でも、とても勉強になりました。

以下すっごいめためたなメモ(要約や抜き書きではない)。

【序論】

・「人は自分の考えで死に方や死ぬタイミングを選ぶ権利があるか」が問い
  *首つりや飛び込みはできる。が、人の助けを借りたソフトな死に方を選べるか?
・容認論
 (1)重大局面における自己決定の尊重
   cf.経済的理由での自殺に対する幇助は認められないのに?
 (2)死にたいと思うほどの苦痛からの解放
 (3)医療費の抑制など経済的な理由
・反対論
 (1)尊厳死や安楽死の合法化が弱者に延命を諦める圧力を強める恐れ
 (2)自己決定や関係者の利益のために、それ自体に価値のある命を縮めてはならない
・本書は反対論の擁護を試みる

・安楽死の分類
 (1)手段の違い(1995東海大安楽死事件判決で横浜地裁が採用)
   積極的(毒薬で患者の死を導く。任意の場合は自殺ほう助とも)
   消極的(生命維持、延命の手控え。尊厳死ということも)
      この中にも「始めない」と「始めたものの中止」の区別あり
   間接的(鎮静剤の多量投与。緩和医療死ということも)
 (2)本人の同意
   任意(同意あり)
   非任意(判断力や意識がなく意向が不明確)
   不任意(明らかに意向に反している)
 →(1)×(2)の9類型が考えられる
 この中には(3)作為か不作為か、という視点もある
 ほかに
 (4)患者の死が近いか否か
 (5)どれほど大がかりな処置が必要か
 (6)手を下すのが医療専門家か非専門家か
 も判断の重要な視点となりうる

・事前指示
   ・リビングウィル(受けたい/受けたくない治療を具体的に指示)
   ・代理人指定書、持続的代理権(自分の代わりに判断してくれる人を指定)
 事前指示に従って差し控え、中止を容認する国も:イギリス、デンマーク等
 日本は厚労省、日医、病院協などが独自ガイドライン。2012議連が法案(未提出)
   ・終末期を条件に差し控え、中止容認
   ・致死薬処方は認めていない(オレゴンやベネルクスは90年代以降容認)
   ・持続的で深い鎮静に関しては国内で問題化してない

【第I部】容認論の検討

▽自己決定に基づく容認論[1]

 (1)バランス型容認論(自己決定以外の価値が場合によって自己決定に優先する)
 (2)自己決定至上型
  ・ドゥオーキン:自分の死に方に関する個人の決定が第三者の行為に優先する
  ・ブロック:患者の福利と自律を守るICに基づいた決定
         →差し控えや中止は場合により正当化できる(致死薬の投与も)
   *明らかに患者の自己決定が患者の利益に反する場合
     →医師ができるのは(a)説得(b)判断力を疑う、の二つしかない

 [2]自己決定至上型への批判
 (i)患者の選択は本人だけでなく家族など他人の権利とも対立しうる
  (ア)第三者が家族や介護者であった場合(臨床の問題)
  (イ)医療資源を当該患者とシェアする他の患者であった場合(政策の問題)
 (ii)判断力を欠いているかもしれない
 (iii)経済的動機の自殺ほう助など、容認しがたいものまで容認してしまう

 [3](ii)自律的な判断のみ容認するとすれば、この議論は形骸化する
 ・決定や選択が自律的であるとは:選択時に判断力があり、強制がないこと
  →患者自身の福利に反する選択は自律的でないと見なす
  →尊重しない、という判断。これはパターナリズムと変わらない
  →自己決定至上型は形骸化する
 ・患者自身の福利に反しても、事実認識と推論がしっかりしているならOK?
  →重大な選択ほど判断力の有無の判定は厳しくなる(スライド式モデル)
  →やはり自己決定と利益はバランスせざるをえない(上の・と同じく形骸化)
 ・死にたいという人が真に自律的であるとはそもそもほぼない?
  ―生命短縮的な医療措置を望む人の中にはうつ状態の人もいる

 [4](iii)自己決定至上型は経済的、文学的動機での自殺まで容認してしまう
 ・いや独力でも自殺できる?←この反論は無理。医師の幇助を受ければより楽だ
 ・いや患者は差し控えだけで十分←積極的/消極的介入は区別できないのでは
 ・そもそもこういう人たちには判断力がない(「合理的な自殺」の否定)
  →そうかもしれないが、やはり自己決定至上型は形骸化する
 ・別にいいんじゃない?←ここまで価値観違う人はごく少数だろうから、
  社会のルールに関する議論の対象からは外す

▽患者の利益(終末期の苦しみから解放される利益)に訴える容認論

 [5]功利主義。苦しむ患者、苦しむ家族ら関係者にとって最善なら正当化可能
 [6]・しかし、緩和ケアは進歩しているのではないか
   ←苦痛が完全に取り除ける水準にはきていない
  ・家族や病院職員の利益まで考えるべきか
   ←関係者全員を分け隔てなく考慮するのが公平という理由はある
  ・作為性、死を意図するか、患者の意向に即しているか…は考慮しないのか
   ←少なくとも、患者の意向に即しているかを重視しないのは不適切
 [7]功利主義は死にたくない人の安楽死まで正当化してしまうのではないか?
  (i)死が本人の利益になる場合(パターナリスティックな殺人)
  ・ひどいがん性疼痛にもかかわらず本人は死にたくないという場合
  ・快楽説/欲求説を区別し、欲求説をとることで回避できる?(レイチェルズ)
   ←合理的な欲求と認められず、安楽死がなお正当化される余地がある
   ←周りが患者に死んでほしいという欲求を持っていた場合、正当化される
  (ii)死が関係者の利益が大きくなる場合(死ぬ義務のための殺人)
  ・介護者の利益が増大する介護殺人のような場合
  ・シンガーの強制的安楽死批判
   ・死んだほうが本人のため、と周囲が本人より的確に判断できることはまずない
   ←ただしこれはパターナリスティックな殺人についてしか検討してない
  ・介護殺人には強い批難がためらわれることもあるが、道徳的正当化は困難
 ・強制的安楽死は社会不安を招くので功利主義から正当化できない(グラヴァー)
  ←これって強制的安楽死の利益と比較衡量できてる?
  ←患者本人に行われる不正だ、という本質を外してないか?
 →★結局「患者の自己決定(死にたくない)」>「患者の福利」にすべきでは
  →これは結局「バランス型」の立場。その妥当性を第II部でさらに検討
 [8]判断力を失った患者の利益をどう守るか
  (本人の利益になるから死期を早めることは正当化できるか)
  ・希望を持ったり苦しんだりしない(脳死の)患者の利益は存在しない
   ・ただし、生前の安心感には利益がある(ドナーカードはこれを守る)
   ・安心して眠りに就いた時点で十分に利益を享受していた
   ・そのためにはドナーカードの意思表示は常に叶えられるべき
  ・リビングウィルがない場合の代理決定は、家族以上によく判断できる
   人がいなければ、家族に従うことは無意味ではないはず
  ・ただし、リビングウィルも、ない場合の忖度もあまり当てにはならない
  ・で、意思不明な場合に死期を早めることの是非
   ・回復の可能性がある場合は、本人の価値観や利益に従う
    (ただし第II部で考える悪影響を考慮せよ)
   ・★回復の見込みがない場合は、代理決定することは正当化できる
 [9]患者本人と家族の利益が対立する場合
  ・既存GLなどでは、家族は患者の意向を知るのに役立つ情報提供者の位置付け
  ・では、介護負担など家族の事情はどこまで酌まれるべきか?
  ・周囲に迷惑をかけたくないので(生きたいが)安楽死を望む患者をどうする?
  →家族の利益を考慮すべきとするハードウィッグvsアッカーマン
  ・ハードウィッグ:家族負担大(進学、就労…)かつ高齢の場合は死ぬ義務あり
  ←アッカーマンの批判:高齢者と病院の価値を低く見る社会的偏見である
   (子どもの世話、配偶者の転勤…の負担は許容されるのになぜ?)
  ・そもそも若者の命か高齢者の命か、という選択ではない
  ・命の内在的価値(後述)
  ・生きていたいという思いに特段の重みがあると考える
  ・本人の知覚と意識が不可逆的に失われた時のみ家族の利益優先が許される

▽医療費の高騰に訴える容認論

 [10]この議論は他の2つのミクロ(臨床的)な容認論と違ってマクロ(政策的)
 ・また、自己決定や利益は患者側に立つ議論だったが、医療費は共同体側の議論
 ・ダニエルズの容認論:社会の資源が著しく不足している場合は正当化可能
  批判:高齢者という特定の年齢集団を不利に扱っている差別である
  反批判1:誰でも高齢者になる。どのライフステージで資源を使うかという話
  反批判2:高齢期の延命は人生の成功とあまり関わらない
  反批判3:標準的年齢(例えば75歳)に達することが、それより後より大事
 [11]で、その議論は日本に当てはまるか
 ・高齢社会白書(2012)の厳しい認識vs二木立の反論
 ・ダニエルズの主張も、高齢者を延命すると若者が処置できない場合限定だった
 ・年代別の人口サイズがかなり違う→各年代の人の体験は平等でない
 →かなり特殊な社会でしか正当化できない(日本では困難)
 [12]年齢制限は合理的な人なら誰でも賛成するようなものか
 ・既に75歳を超えている人には今後の制度導入のメリットがない
 ・どのステージを重要視するかも各人一律に決まらない
 ・一致したとしても、高齢者や機能障害者への偏見に基づいたものになりかねない
 ・ダニエルズは自分の現年齢や価値観にとらわれず検討せよというが…
  ・まず、現実的でない
  ・ダニエルズ自身も、自立的生活や課題追求という特定の「良さ」を前提にする
   →これを共有しない人には年齢制限を正当化できない
   ★cf.触れる、動く、考える経験自体(生きること自体)が益というネーゲル
 [13]年齢制限は高齢者差別に当たらないか
 ・老後軽視の人生観は差別的ではないか(ジェッカー、マッカーリー)
 ・最近のダニエルズは「合理的な人はみんな老後軽視に賛成する」を捨てた
  →手続き的に公正なら、内容は正当化できる、との考えに
 ←延命重視型の現状から老後軽視への移行にみんなが賛成するかは疑問
  みんなが偏見を持っていた場合、差別的な決定が正当化されてしまう

【第II部】死ぬ権利には限界があるという考え方(合法化反対論)の検討

▽合法化に社会的弱者にとって脅威になるという反対論

 [14]社会的弱者へのリスク
 ・尊厳死議連による法案(2012)に対する反対
  ―ALS(さくら会、ALS協会)、脳性まひ(青い芝の会)
   人工呼吸器(バクバクの会)、脊損者連合会、障害者インター(DPI)
 ・介護、治療費のせいで生命維持が本人のためにならないと他人が考える恐れ
 ・生命短縮への圧力が周囲からかかりうる。これは本人意思尊重に適うか?
 ・支援を受けながら生きること、社会的に不遇な生活に対する低評価
 ・リビングウィルの強制、「そこまでしてなぜ生きる?」
 ・尊厳のある人生とない人生がある、という障害者差別(青い芝の会)
 ・米国の安楽死請求の容認判決(ブーヴィア、バーグステッド事例)
  ←機能障害がない人が「つらい、死にたい」と言ったら合理的と考えるか?
   心療内科の対象と認識されるのではないか?
 ・ルール制定者にそういう思いはないかもしれない
  が、偏見の混じったルールができることはある。運用段階で偏見が入る恐れも
 ・セデーションの欧州GLは他に手段がない、予後が数日以内としているが……
 [15]「社会的弱者にリスクがある」への反論
 (i)そういう意図ではない。不治、末期、耐えがたい苦痛という条件を付ければよい
  ←意図については[14]で検討済み
  ←★条件については次のことが必要と考えられる
   不治、末期、耐えがたい肉体的痛み、精神的痛みへの可能な支援を既に試みた、
   判断力ある患者が他の選択肢を検討した、圧力ない任意の希望である
  ←だが、運用の中で確認が疎かになる恐れ。slippery slope
 (ii)リスクはあるが、対策をとればよい
  ←上記条件は★核心部分が曖昧な言葉でしか表現できない cf.境界例
   ・特に「任意性」。「支援を希望しながら得られない人」を除外できるか
   ・機能障害者の「死にたい」を安易に認めるバイアスが臨床判断に入る恐れ
 (iii)リスクは現実化しうるが、なお合法化するメリット/しないデメリットがある
  ・メリット:自己決定の尊重、苦痛からの解放
  ・デメリット:上記メリットが得にくい、不適切な施設別判断が増えるリスク
  ←★比較考量は必要。だが弱者へのリスクは現実化しうるし重大なことを考えよ
  [16]「比較考量」をやってみる
  ・医療的バイタリズム(いつでも可能な限り延命すべき)の主張
   =医療技術が患者の害になる場合がある、パターナリズム(ICの軽視)
  ・医療技術の進歩による苦痛の軽減、うつによる希死念慮の恐れ
   →合法化のメリットはそこまで大きくないかもしれない
  ・弱者へのリスクはないといえない(バッティンらの調査批判)
   →合法化のデメリットは無視できない
  ・合法化(not GL)により、生命維持しなくてよいという考えが普及する恐れも
 (iv)重度機能障害者は生き続けるに値しない
  [17]←そういうことはあるか? cf.障害者団体の危惧、津久井やまゆり園事件
  ・機能障害者の生活満足度は高い。障害のパラドックス the disability paradox
   厚労・小西郁生班によるダウン症者調査(2016)でも幸福感8割
  ←ブロックらの批判「満足度と客観的幸福は別」
   ←満足している人は直観的に幸福。ただし支援制度などの向上も勿論必要
  ・本人に生きる意欲があるなら、少なくとも本人にとり価値があると見るべき
  *では満足していない人は生きるに値しないか?
   →「人の内在的価値」の議論へ進む
 (v)周囲に大きな負担を強いる人には死ぬ義務がある
  ←[9]で検討済み

▽生命の神聖さに訴える反対論

 [18]人の内在的価値
 ・ドゥオーキンの区分
  手段的価値 別の価値を実現する手段としての価値。紙幣など
  主観的価値 それを好きな人が成立させる価値。古切手など
  内在的価値 上記2つを除外しても残る価値
  →命あっての物種と思わない、生きることを望まれていない人がなお持つ価値
   ほとんどの文化圏で受け入れられてきた考えとされる
   これがあるとすると、安楽死、尊厳死、自殺幇助が許容しにくくなる
   しかし、自己決定や本人の利益に反しても守るべき価値だろうか?
 (i)SOL(Sancity of Life、生命の神聖さ)
  批判1. そもそも曖昧である
  ・次のようなものが混ざっている(各立場への批判は[19])
   ・バイタリズム(動植物まで破壊不可)
    ←これを前提する議論は少なかろう。抗生物質も使えなくなって無理
   ・完全平和主義(人間は破壊不可)
    →死刑、戦争、自殺(幇助)、中絶を許容しない
     これも正当防衛など認められず無理あり
   ・キリスト教倫理(罪のない人間の「意図的」殺害は不可)
    →「意図的」で正当防衛や緊急避難を許容。また「殺害」は作為限定
    ←QOLに対する配慮を著しく欠いている
   ・種差別(人間であること自体で動植物より価値が大)シンガー
    ←人種差別と同じ構造で無理。差別に「人間だから」という以上の理由がない
   ・生命の「質」で評価してはならない(QOL否定)
    →人間の命である以上はすべて同じく神聖
    ←患者のQOLに関わらず延命しなければならない eg.表皮水疱症の子
  ・例外はあるか、他の価値とバランスさせられる可能性はあるかが曖昧
  批判2. 本人の利益を省みない。著しい利益侵害も許容してしまう
 [20](ii)カント主義。理性的存在としての人格の尊厳に訴える反対論
 ・合理的本性への敬意。他人だけでなく自分にも向けるべき→自殺・幇助不可
 ・理性的人格に内在する価値=尊厳(カント主義における「尊厳」)
 ・ヴェレマン:自殺は人格の手段化(自殺による利益をとるもの)と批判
 [21]ヴェレマンへの批判とヴェレマンの応答
 批判1.犬猫など合理的本性のないものが道徳的配慮に値しなくなる
  ←動物にも別の内在的利益があると考える
 批判2.差し控え、中止、セデーションも擁護できなくなる
  ←例外的に生命を破壊できる場合はある
   I)合理的理性(意識、思考)を欠く回復不能な遷延性意識障害の場合
   II)極度の痛みにより尊厳が損なわれている場合
    (利益と尊厳の比較衡量が可能とする立場もあり得る)
    *セデーションに関する緩和医療学会GLも近い
    ・一時的鎮痛、手術時の全麻もダメか?との疑義もあるが…
     ←短期的かつ回復可能なのでOK。同じ理由で麻薬はダメ
   III)便益や危害除去を目的としていない場合
 →決定的なカント主義批判はなさそう、とすると…
  ・米オレゴン州での致死薬処方合法化、ベルギーの曖昧規定など許容不能な事例も
  ・日本の尊厳死法案も諦めが早すぎる

2019年03月31日

熊谷など

友人と熊谷の川堤で桜を見ました。
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七分咲きかなっていうところですが、きれいでした。

こども食堂をやってる喫茶店??でお茶を飲んだら、フライというご当地グルメのお裾分けをいただきました。
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お好み焼き+チヂミ÷2って感じかな。いいスナック。

「花湯の森」で風呂に入って熊谷駅でさよならしました。
新幹線で通る熊谷駅ですが、よく考えたら使ったの初めてかも。

* * *

友人と深夜に夕飯を食べることになり、新宿、プレゴプレゴ。
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白ワインをデカンタで頼み、前菜5種、羊とごぼうのリングイネ、リゾット、白身魚のポワレ、スペアリブと流したのは正解でした。結構ボリューミーだったので、スペアリブはなくてもよかったくらい。

* * *

■キース・デブリン(冨永星訳)『数学的に考える』筑摩書房、2018年。

数学史をひゅるりっとさらいながら高校と大学の数学の違いを説明した第1章が面白かった。あとは記号論理学と整数論みたいな話がそよそよっと。

2019年03月23日

星くず、遊び、一緒に

最近読んだ3冊。

■橘省吾『星くずたちの記憶』岩波書店、2016年。

「はやぶさ2が小惑星の石を持ってきたら、太陽系と地球の海と生命の謎が解ける」といろんな人がよく言うけど、なんで???というのを一応分かっとく必要があり、半日ぐらいでざっと読みました。宇宙化学っていう分野ですかね。小さいけどちゃんと順を追って疑問に答えてくれるいい本でした。

▽1 鉱物とは
・原子が3次元的に規則正しく配列した固体物質=結晶。これが発見されると「鉱物」として名前が付く。今5000+種類
・環境(温度、圧力、水の影響など)によって鉱物の濃度が高まる→鉱石になる
・イトカワの岩石:
 普通コンドライト(地球上で最もありふれた隕石)と同じ→隕石は小惑星のかけらであることを証明
 800度で熱せられていた形跡あり←今のイトカワではそんなに昇温しない。直径20km超の母天体への天体衝突による破片の集合でできたらしい
 粒子の表面から0.1マイクロメートルまでは宇宙風化(=太陽風に当たってイオンの結晶構造が乱れている)、太陽風に含まれる希ガス(He,Ne)が数百年分打ち込まれていた=イトカワ表面では今も地質活動がある

▽2 元素の生成
・ビッグバンでクォーク誕生→3つずつ結合し陽子と中性子を形成→「強い力」で結合し重水素やヘリウムの原子核誕生
・恒星の中で水素の核融合→水素を使い果たすと収縮して昇温→ヘリウムが核融合→ヘリウム3つ(質量数4×3)で炭素(質量数12)生成。炭素+ヘリウムで16の酸素
・太陽の10倍以上の質量の恒星ではさらに核融合。Ne,Mg,Si,S,Ar,Ca作られる。ただしNiができると停止。核融合起きなくなると恒星は自身の重力でつぶれ、外層は中心核(中性子星かブラックホール)で跳ね返されて放出。これがII型超新星。作られた元素がまき散らされる。重い星は中心部が高温・高密度になってどんどん核融合が進むため、寿命が短い
・双子の星の一方が寿命を終えて白色矮星に→もう一方が寿命を終えて赤色巨星になると、白色矮星側にガスが流れる→白色矮星の質量増加、チャンドラセカール質量(太陽×1.4)に達すると核融合再開。一気にNiまで合成されIa型超新星に→白色矮星の質量の1/2~1/3がFe,Co,Niに替わって宇宙空間に放出される
・Au,Uなどの元素は作られるのは大量の中性子を一気に原子核に吸収させるような環境。まだ結論は出ていないが(1)大質量星の超新星爆発の最中(2)超新星爆発で中性子星になった双子の連星が合体する際。重力波観測に期待
・これらが材料となって太陽系生成

▽3 ちり
・ちり:1マイクロ以下。星間減光の原因。非晶質ケイ素、かんらん石、輝石、Mg,Si,Fe,Al,Caなどガスになりにくいもの。赤外線で分光観測すると非晶質ケイ酸塩など(ピークの幅が広い)→宇宙鉱物学へ。
・年老いた恒星の周りにあるちりが、新しく生まれる星へ元素を運ぶ。非晶質ケイ酸塩、結晶のかんらん石、輝石、アルミニウム含有の酸化物など。原始惑星円盤にも結晶の輝石やかんらん石がみられる。ただし星間空間には結晶質がほとんどない。なぜかは不明
・プレソーラー粒子は隕石に含まれる。ケイ酸塩、酸化物、炭化物など、1マイクロ以下。由来は大きさや形成時期の違う複数の恒星のものが混ざっている

▽4 太陽系の始まり
・分子雲:超新星爆発の衝撃波などで星間ガスが掃き寄せられると考えられる。ちりの表面に付いた水素原子同士がくっついて分子になる。非結晶の氷も。ちりの上で分子ができ、有機物になる。特に濃いところが「分子雲コア」→星になる
・太陽のまわりの原始太陽系円盤(ガスやちり)で、10kmサイズの微惑星形成→太陽近くでは火星くらいの原始惑星が20個くらい形成→原始惑星の衝突で地球型惑星。太陽から遠いところでは鉱物のちり+氷も材料に地球の10~15倍質量の原始惑星形成→重力でガスを引き寄せガス惑星形成。さらに遠いと原始惑星の形成に時間がかかり、形成したころにはガスが散逸していて氷の惑星に
・隕石
 1 石質隕石
  1.1 コンドライト(地球落下の86%):溶岩由来組織なく太陽系元素存在度と一致
    ケイ酸塩のほか金属の鉄含む。溶けていない小天体のかけら。昔の記憶あり
    内部の丸いコンドリュールはケイ酸塩。加熱の形跡だが原因は不明
    CAIの形成時期45.67億年を太陽系の年齢とした。太陽酸素の同位体組成と一致
  1.2エコンドライト(8%):火成岩、マグマ冷え固まった
 2 石鉄隕石(1%):火成岩成分と金属鉄成分の混合
 3 鉄隕石(隕鉄)(5%):天体が溶けて金属鉄が中心に沈んだ核に相当

▽5 太陽系天体
・月:親子説(地球から分裂)、兄弟説(地球と一緒に誕生)、巨大衝突説(今これが有力。原始地球に火星程度の大きさの原始惑星が衝突し飛び散った破片から月ができたとするもの)

▽7 はやぶさ2
・目的:C型小惑星の炭素質コンドライト。高温を経験していない(S型のイトカワは800度の加熱を経験)。水との化学反応を経験した鉱物や有機物を含む→生命の材料はばらばらで持ち込まれて地球で組み立てられたのか、ある程度組み立てられた状態で持ち込まれたのか
・炭素質コンドライトは壊れやすい。隕石として大気圏突入をへたものが本当にオリジナルの状態を残しているかは疑問。さらに隕石だとどこから来たかが分からない
・コンドライトの重水素や15Nの濃集した有機物は、低温の分子雲での化学反応の証拠と考えられている。また、プレソーラー粒子がいっぱい入っているかも
・リュウグウの複数地点で採取した石の解析→化学的な多様性があるのかを見る→惑星材料の物質分布は不均一だったのか均一だったのか
・水と生命の由来:重水素/水素比が地球の海水と一緒かどうか。C型小惑星が水の起源だとすると、そこに含まれる有機物は生命材料である可能性がある。地球生命が使っているL型のアミノ酸が多ければ、地球に来る前に既に小惑星の中でL型アミノ酸が選択されていたかもしれない

* * *

■ロジェ・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳)『遊びと人間』講談社、1990年。

ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』読んでから何年も経っちゃったよねと思ったら1年経ってませんでした。で、会津から帰ってくるバスで読み始めて1ヶ月かかった。結果どっちが面白かったかといわれるとホイジンガです。けど、ホイジンガの訳者後書きでクソミソに言われてるほど悪くはなかったと思う。原始社会から近代社会への「発展」を説明するのに使っちゃうのはまあ時代だから仕方ない。しかしいつの間にか何でもかんでも遊びの類型で読み解いちゃってて、うーむいいのかなと思った。

遊びというものの持つ特徴を次のように列挙する:
1 自由。強制されていないこと
2 隔離。時間、空間的に限定されていること
3 未確定。先に結果が決まっておらず、創意が必要である
4 非生産的。富を生まないこと
5 規則。独特のルールに従うこと
6 虚構。日常生活と離れた二次的な現実、または明白な非現実
*ホイジンガにないのは3だけ

次のように分類する。いずれも集団的な行為で、堕落形態もある:
A 競争(アゴン)。サッカー、チェス
  機会の平等(ハンデを含む)、個人の能力のみを頼りにする
  責任を引き受ける
B 偶然(アレア)。ルーレット、富くじ
  遊ぶ者は受動的。力の及ばない独立の決定の上に成立する。勝負の相手は運
  規律、勤勉、忍耐の排除。能力以外のすべてを頼りにする。意志の放棄
  アゴンとは逆の性質だが、これもある意味平等
  動物や子どもとは縁遠い遊びの類型である
C 模擬(ミミクリ)。海賊ごっこ、演劇
  自己を他者とすることで世界から脱出する
  虚構の世界の受容。第2の現実を顕示すること
  スポーツイベントでは観衆が競技者に同一化する=アゴンとの親和性がある
D 眩暈(イリンクス)。急速な回転や落下
*ホイジンガは「偶然」への言及が薄い。「眩暈」については言及がないという

これらは、次の2極とも関係する
パイディア:気晴らし、即興、無邪気
ルドゥス:努力、技、器用、忍耐、無償の困難。制度的遊び
ルドゥスはパイディアに規律を与え、文化的現象にする力となる

で、「原始的な/混沌の社会」(模擬と眩暈)→「計算/秩序の社会(近代社会)」(競争と偶然)という発展モデルができる。
ちなみに意志的/脱意志的 × 計算(個人的)/混沌(集団的) の2軸で振り分けると:
競争=意志的かつ計算
偶然=脱意志的かつ計算
模擬=意志的かつ混沌
眩暈=脱意志的かつ混沌

計算/秩序の社会の中には、競争で勝てない人々のガス抜き、あるいは「解放の遊び」として偶然(くじ、賭け事などによる一発逆転の夢)が組み込まれている。スターを信仰すると同時に、スターに胡散臭さをかぎ取るのも「運」の希求が根っこにあると思われる。また、模擬も演劇として目こぼしされている。ただし眩暈は排撃される。

* * *

■宇野重規『未来をはじめる』東京大学出版会、2018年。

所用で往復した新宿―立川間と待ち時間で。女子中高生にやった出前授業の記録。ヒューム、カント、ヘーゲルの形容とか超絶コンパクトで分かりやすかった。買うほどじゃないかなー、と思って図書館で借りました。そんな感じでした。

2019年02月19日

会津

1泊で会津に行ってきました。
目的はほぼ1個、「さざえ堂」を見ること。

バスタ新宿から会津若松駅行きの高速バスに乗ります。1Cの席をとると、正面に足を伸ばせないのですが通路に足を出すことができ、前方の景色を見ることもできるので快適です。
片道4時間半。持ってきた本読んで、うとうとして、本読んで、休憩のSAでどら焼き買って食って、本読んで、東北道から磐越道に入るとそこは雪国だった!

13:30に会津若松駅で降りました。すぐに周遊バスに乗り換えて飯盛山へ。
これだ。
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右手の入り口から入って、らせん状の通路をぐるぐる上がっていきます。
一筆書き構造なので、上る人と下る人が出会いません。
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てっぺんは太鼓橋になっています。
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180度ずれた2本の通路が上で接続してるわけですね。
西国三十三観音を一気にお参りできるというめっちゃお手軽な巡礼の場だったものの、明治の神仏分離令後に観音像は外され、そのあと白虎隊像になり、それも「皇朝二十四孝」という会津藩の道徳教科書の挿絵みたいなものに替わってしまったということで、もう特に御利益もなさそう。
白虎隊の皆さんはさざえ堂の脇にいた。
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もうちょっと登ったところには、白虎隊の逸話に感激したナチやファシスタが建てた碑がありまして、もうなんといいますか。

「あ~~お城が燃えてる~~泣」の像。
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自刃の現場に建っています。正面から見ると結構怖い顔してます。

さてバスの時間に合わせて山を降りて、東山温泉に日帰り入浴に行きましょう……と思ったら東山温泉をすっ飛ばすバスに乗ってしまい、鶴ヶ城に連れて行かれました。
お城はあまり興味がないので歩いて七日町のほうに向かっていたら、なんか立派な建物。宮泉銘醸でした。入ると試飲できるじゃないですか。しかもほとんどが無料。
あと、こちら720mlで5000円というのは試飲300円。でもこんなについでもらえます。
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これも芯が強くて清々しい味でしたが、別に1700円くらいですごく華やかな果実のような味がうまーーーい!というのが一本あり、お土産にしました。

そういえば昼飯を食べそびれていたので、適当なお店(名前失念)でソースカツ丼。
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いやまあソースカツもおいしいですけど、何よりお米がおいしかった。

風呂は「富士の湯」という温泉施設へ。450円。やっす。地元の人たちがいっぱいいる巨大な銭湯でした。気持ちよかった。

夜は「カレー焼きそば」にも手を出してしまいました。
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さらに「BEANS」というダイニングバーに入って寝酒を飲んで就寝。
上記2店ともに、1000円で飲み歩きセットが出てくるスタンプラリーみたいなことをやっているお店の一部です。スタンプを2個ためたので、景品の赤べこストラップをもらいましたw

人口12万だそうですが、そんな規模だとはちょっと信じられないくらいちゃんとした食べ物が出てくるお店はあるし、それなりに集積した飲み屋街もあります。さすが往年の城下町。

* * *

ニューパレスっていうホテルに泊まったのですが、お部屋は小綺麗なビジネスホテルみたいな感じ、朝も「こづゆ」(写真右下)など郷土料理を取り混ぜたバイキングですごくよかったです。
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チェックアウトすると外はこんな。というか前の日から大体こんな。
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七日町駅から列車に乗って、湯野上温泉駅まで南下します。そっちまで行くと結構天気いいんですよね。
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インバウンドさんたちでぎゅうぎゅうのバスで下郷町の大内宿に行きます。
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イザベラ・バードも逗留したらしい。
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だいたい蕎麦屋と土産屋なんですけど、観光地なのに愛想が良くていいなと思いました。
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縁起が12世紀から始まっちゃう「玉屋」でおそばを食べます。
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名物は「ねぎそば」で、長ネギを箸がわりに使って食うという代物。
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どうやって食べるんじゃい、と思いましたが、丼の縁にそばを追い込んですすれば簡単。
いや、なかなかどうしておいしいそばでした。
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そんじゃ帰りましょう。会津若松に戻るとまた雪でした。
帰りのバスで本(下記の木庭本)フィニッシュ。時間が細切れになってしまう通勤電車と違って、本を一気読みできる長距離バスは歓迎です。

* * *

■木庭顕『誰のために法は生まれた』朝日出版社、2018年。

桐蔭学園の生徒に対する出前授業の記録みたいです。
権力と利益のためにつるんだ徒党から、それと対峙する個人の自由を守り、徒党を解体する。その手段は(1)政治システム(2)デモクラシー(3)占有を大事にすること。(1)のエッセンスを取り出したのが近代国家。ということは、(1)ないし国家と徒党が癒着することこそまず警戒しないといけない。
とかなんか面白いこと考えてるぞ、と思うことを感じ取るまでで、もう一冊何かいきたい、そのうち。

■井出哲『絵でわかる地震の科学』講談社、2017年。

途中難しいが「今後何度も参照するしな」と割り切って乗り切った。

■太田省一『テレビ社会ニッポン』

1/3くらいで、もうちょっと読むべき本が他にある気がしてしまい、読み通せず。

2019年02月03日

陛下たち

これ絶対4月までに読まなきゃ、と暫く前からアマゾンの「あとで買う」に入れていたのですが、会社の図書室にありましたっ

世襲の君主を戴くという、本質的に差別的な君主制という制度(そうでないのが共和制)が、なんで人間の平等を基礎にした民主制と両立するの?しかもわりと先進的な民主国家で?ということを考えた本。民主制の中に位置付きつつ国のアイデンティティを保証し、濃淡はあれど中立の調整権力という役目をうまく果たしているから、というのがまあ答えなんでしょうかね。それが21世紀にどうなるのかな、という疑問は開いたまま終わった。

統一感に欠けがちな論文集という体裁に警戒感ばりばりで読み始めましたが、のっけから面白く、えっ誰の本だっけ、あっ水島治郎さんなら面白いはずだ、と納得し、そして著者たちがお互いをちゃんと見ながら作ってくれたおかげで最後まで面白かった。

■水島治郎、君塚直隆編『現代世界の陛下たち―デモクラシーと王室・皇室』、ミネルヴァ書房、2018年。

・各国の君主制や天皇制が、グローバル化の中で共通の課題に直面しており、しかも君主たちは身の振り方についてお互いを参照している可能性が高い
・2016年の天皇「おことば」の前にはオランダ、ベルギー、スペインで退位が成功している。文言もオランダのベアトリクス女王の退位演説と似た箇所がある。ベアトリクスもビデオメッセージだった(cf.日本を扱った原論文は、「おことば」の明仁天皇と昭和天皇を対比し、「国体」とデモクラシーの両立、という点での連続性を見ている)
・イギリス、北欧、ベネルクスは先進的デモクラシー国家でありつつ、本来はデモクラシーの平等主義と相反するはずの立憲君主制を採用している。20世紀を生き残った君主制では、いずれも王室が民主主義、自由主義を積極的に受け入れ、時には擁護者として振る舞うことで国民の支持を調達してきた。「民主化への適応」の可否が王政の存否を決定づけた
・偏狭なナショナリズムから距離を置き、普遍的価値を体現する王室について、進歩派は概して肯定的、右派は不満を感じるという「ねじれ」が起きている。が、まさにこのねじれを生む中道路線が、結果的に「王室の姿勢に共感する進歩派」も「違和感がありつつ王政を否定しない右派」も巻き込んだ幅広い支持の源である

【現代世界の王室】
・2018年現在、世界の王室は28。エリザベス女王が君主を兼ねる英連邦王国を合わせると43カ国が君主制を採っている。これは国際社会では少数派
・だが、日本の天皇が総理や最高裁長官の任命権などを持っているように、各国それぞれ憲法に定められた力を持っている(例外はスウェーデン。ただし外国大使の接受など外交はする)
・国民1人当たりGDPの高い国に君主制がわりと多い。王様たちも富豪。ただしノブレス・オブリージュに従って戦時は戦場に赴き、平時は慈善事業。富と権力を過度に集中させ、デモクラシーや人権を軽視すると、軍部のクーデターや人民革命を招き、生き残りが難しいことが20世紀に示されている。これらの概念の故郷ではない中東であっても同じ

【各国事情】
・イギリス:権利章典で「王権と議会」による統治が明確化。産業革命後は中産階級も政治に参加、総力戦のWWI後には大衆民主政治が本格始動。ジョージ5世は「国父」かつ戦死者の「喪主」に。「公正中立」を貫き労働党政権ともうまくやった
・エリザベス2世は(1)コモンウェルス(旧植民地・自治領)(2)アメリカ(3)ヨーロッパ、といずれも繋がった外交の後見役。ダイアナ事故死以降、メディアと国民の目を意識した”見せる”活動へ転換した。国民の支持を必要とする君主制。また、成典憲法がない国での慣例、あるいは連続性と安定性の体現者としての君主
・君主制はデモクラシーと両立する限りでのみ存続する。代表例が、革命を経て議会政治を先駆的に発展させて高度な政治的成熟を実現したイギリス。君主の「機能的部分」を首相が受け持ち、君主は「尊厳的部分」を担った。貴族はブルジョワとの通婚が進み、議会では国王の暴政と対峙した
*対照的なのは、絶対王権の下で安定した議会制が発展せず、貴族も早くから解放された農民にとって憎悪の対象にしかならなかったフランス。人権、デモクラシーという「理念」に国家の一体性、継続性を担わせるのは結局大変だった。危機を乗り越えるべき強大な権力はそれを目指す政治家たちの闘争を招き、「調整する権力」が出てこない

・スペイン:国王が聖職者にも及ぶ絶対的な王権を及ぼす「国王教権主義」、カタルーニャやバスクの地域ナショナリズム。王朝の交代や外国出身の王など「祖国統一の象徴」にならない王室
・革命と反革命の19世紀、労働組合・軍・政府が対立した不安定な20世紀。内戦からフランコ独裁を経由し、「すべてのスペイン人の王」による君主制(not共和制)+民主制(not独裁制)へ。議会制君主制(1978憲法)。モロッコ、ラテンアメリカなどとの王室外交も。21世紀には王室が大衆化(ZARAやスキャンダル等々…)。しかしどの程度開かれるべきかは課題

・オランダ:安楽死、売春、同性婚の合法化など先端的な民主国家。社会の近代化、民主化を受け入れ、時に先導し高い支持を得る王室。20世紀にはナチ占領に対して英国から鼓舞するなど解放のシンボルに。3人の女王はいずれも生前退位。21世紀には移民・難民政策や反イスラムなどの課題があるが、グローバル人権主義に立った政治的主張がかえって支持を受けた

・ベルギー:1830オランダから独立。北部フランデレン(オランダ語)と南部ワロン(フランス語)の多言語国家で。分裂と対立をいつも内包してきたこともあり、各宗教や階級ごとの政党支配と、政党エリート間の妥協によって安定を維持する、特徴的な「合意型民主主義」が存在(即断即決の多数決型民主主義と対照的な、西欧小国特有の妥協政治)
・君主国に囲まれた状態でオランダからの独立を維持するため「君主国」を選択。憲法で国王を縛っている。が、不安定な国のため、秩序維持という現実的な理由で組閣の際に国王の介入(調整)が許容されている。特に言語に基づいた分裂の危機には、普段は共和制的な政治の中に突然、交渉仲介人として国王が召喚される。おそらく今後続くテロの時代にも

・タイ:大衆の国王敬愛と、それに基づく強大な政治的権威は、プミポン(ラーマ9世、在位1946-2016)の時代に定着したもの。サリット首相(1959就任)が王室・仏教伝統行事を復活させ、国王夫妻の外国訪問も推奨。1973年、学生デモへの発砲で首相を退陣させる政治介入が歓迎され、民主化とともに国王の政治的権威も高まった。クーデタが政権交代の手段として恒常化し、成功して国王が認めれば正統性を得られる。が、認められないと反逆罪
・上記のような政治介入歓迎の基盤は、1966からの数多の行幸(ただし日本と違い離宮滞在型)と民衆の奉迎体験、スピーチ、また国王映画(のちテレビ)を使ったメディア戦略で作られてきたのだろう
・で、現国王のラーマ10世はスキャンダル、SNS取り締まり、国王権限強化の試みなど、国父にはちょっと遠い

2019年01月24日

伊豆など

伊東にある会社の保養所を飲み友人2人が見たいというので、連れて泊まってきました。
熱海で早咲きの桜見て~、あそこで飯食って大室山登って、なんなら西伊豆まですっ飛んで~、といろいろ計画していたのですが、それぞれ思いつきであれがしたいこれが食いたいと言い出したためほとんど実現せず。まあやりたいことがあるならいいです、それで。

家族と行ったときには全く寄りつかなかったシャボテン公園。
割引でも2000円でハァ??と思いつつ友人の希望で入ったのですが、なかなかどうして動物との距離が異常に近くて楽しかったです。
ストーブにまとわりつくカピバラ。
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伊東駅の駅そばが3月で閉店するというので「きざみそば」を食べようと思ったら、手が滑って丼を落とし、カメラにそばつゆをかなり大量にぶっかけてしまいました。
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電源入れたときにレンズカバーが開くのがすごくゆっくりになってしまい、悲しい。

* * *

元上司が本を出し、アマゾンのレビューでサクラをやったお礼に?ふぐをご馳走していただきました。6刷まで行ってるそうなので呵責なく、しかしありがたく。

* * *

札幌友人が沖縄から札幌に帰ろうとしたら新千歳の悪天候で羽田に着いてしまったとのことで、図らずも1年ぶりくらいの面会かない、昼飯を食べました。
新宿「あるでん亭」でアリタリア。クリームベースだがミートソースがかかってます。
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おいしかった!!

* * *

いつ以来か、亡母が夢に出てきて、しかも家族+αくらいで延々バンみたいな車で旅行する結構な長さの夢でした。既にかなり体力が落ちた頃のようで、弊管理人は「いずれ薄れてしまう記憶、流れ去ってしまう今をどこかにとどめることはできないだろうか」と思い、しかし次の瞬間には「今のシェイクスピアみたいなフレーズ、いいね」とメタに行ってしまう。これはいまだに近親者の死とまともに向き合うことさえできていないということなのでしょう。

それを3度寝くらいしながら見ていたら9時間近い睡眠時間になっており、そのあとジムに行ってから出勤したのに、深夜に至るまで全く疲れを感じず、体調最高でした。

* * *

■伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』岩波書店、2018年。

2019年01月14日

連休補遺

厳寒期という言葉が似合う、この数日。
寒いの好きですが、体は壊れるという。

* * *

前々からマークしつつ行ってなかった、代々木の「曽さんの店」。
上司から「餃子まじうまい。餃子以外はどうでもいい」と聞いていたのに、台湾ラーメンと餃子のセットを頼んでみました。
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上司正解。皮もっちもち。ご飯とのセットもあるけど、これはご飯と食べるのは違う気がする。ビールセットがありますね。大人はそれでいいかもしれない。弊管理人としては何だろう。もう一品おかずを付けてやっぱりご飯か……

* * *

■黒田亘編『ウィトゲンシュタイン・セレクション』平凡社、2000年。

2018年12月30日

年末まとめ

1月 長岡出張そこそこ面白く、山谷・吉原街歩きとても面白く
2月 大阪出張楽しく(食うのが)、内之浦出張もなかなか味わい深く
3月 日高旅行。つい北海道に行っちゃうのはよくないな
4月 京都お花見楽しかった。フィンランド出張、年内に成果出ず痛恨
5月 出張ついでに出雲大社。ていうかよく出張してるね振り返ると
6月 おじさん職位研修。ほとんど記憶喪失
7月 また北海道(道東)行った。どこか行きたかったんだよね、わかる
8月 ウズベクしみじみよかった。海もなんだかんだで遊んだ感
9月 右上の歯の問題で混迷。最終的には久しぶりに噛めるようになった
10月 意外と休めなかった秋。大阪出張は羽伸ばせたが成果はやっつけ……
11月 お友達に会いに大阪と静岡。一方で平素の人間関係の一部に倦み始めた
12月 なんかあっちゅう間に年末きた。福島出張。方向感喪失

・こうやって見ると意外と出かけたな。でも行ったことのあるところが多く反省
・うまいもの欲がほぼ消えた。出かける先が同じ問題と合わせ、やや好ましくない
・12月に階段で足を軽くひねった他はわりと健康な本厄だった
・でもなんか心臓やばい感じの時ない?とりあえず様子見
・ちゃらけたことを言ったらマジレスされて損した気分になることが多かった
・週末に人と遊ぶこと多し
・午前7時と午後4時始まりのシフトがごちゃまぜで来る生活だったけど、体のリズムをそこまで乱さないやり方は見いだしつつある。座りっぱなしにならない工夫は必要
・とかやってるうちにびゅんびゅん時間が過ぎたので、来年は少し楽しいことを見つけたい(と最近毎年思ってるような)

* * *

本は昨日今日読んだこれで今年はたぶんおしまい。年明けにちょっと書き足すかも。

■前川啓治他『ワードマップ 21世紀の文化人類学』新曜社、2018年。

■多田将『ミリタリーテクノロジーの物理学〈核兵器〉』イースト・プレス、2015年。

2018年12月21日

ハーフなど

■下地ローレンス吉孝『「混血」と「日本人」―ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』青土社、2018年。

「日本人/外国人」の強力な二分法のはざまに置かれ、あるいはその時々どちらかに恣意的にカテゴライズされてきた存在。一方で、共通性に基づいた単一のエスニック・グループとしてまとめがたい多様さを有している「語りにくい」人々。その語られ方、経験され方をまとめています。校正も文章も甘いのが若干気になりますが、一定の見通しを与える重要な本。

【1945-1960s】
・戦中までの「混合民族」イデオロギー、「内地人/外地人」区別の再構成を迫られる
・旧植民地出身者問題:戸籍編成に際して、夫が内地籍→子どもは内地籍、夫が外地籍→子どもは外地籍。「日本人/外国人」境界の明確化
・混血児問題:多くは米兵と日本の女性の間の子。政府は「特別扱いしない」「騒ぎ立てない」方針の下、差別を放置。また調査における混血児の範囲を極端に限定。国際養子縁組による外部化・外国人化のドライブ
・支援:五三会、レミの会など

【1970-1980s】
・1970、アイドルグループ「ゴールデン・ハーフ」以降「ハーフ」言説の興隆
・アメリカ文化の積極的受容、ハーフタレントの称揚、商品化、ジェンダー化。同時に、消費に馴染まない「差別・貧困問題」の不可視化
・国際化と日本人論の流行→単一民族・日本人イメージの強化→ハーフの外国人化(cf.「日本人以上に日本人らしい」…)。国際結婚相手のルーツ多様化。
・朝鮮系が見えなくなる
・支援団体の活動低迷

【1990-2000s前半】
・多文化共生における日本人/外国人境界の強化
・「国際児」「ダブル」運動(ただし限定的。成人を問題の外に置いてしまう効果も)
・バブル崩壊後の雇用条件悪化と労働不足→1990入管法改定→南米から「日本人の血」をもつ日系移住増加
・外国人、子どもの支援活動活発化

【2000s後半~】
・1970以降出生の子どもら成人→自らハーフを名乗るアイデンティティ・ポリティクス
・ハーフの商品化拡大、犯罪に結びつけた負のイメージも
・ハーフ、クォーターの多様化
・SNS等を通じた当事者のメディア・アクティビズム(消費の客体から発信主体へ)、居場所機能も
・海外情勢に応じたハーフ+外国人監視の強化

【経験談の分析】からキーワードをいくつか
・詮索される体験「なにじん?」
・単一人種観multi-raciality:1人が所属するエスニックグループは1つ
・外見上見分けのつかない中国・朝鮮系→カムアウトに伴うリスク
・就職差別
・ジェンダー×ハーフ。外見ハラスメント(美醜、犯罪との結びつき)
・ネイションとの結びつき「竹島どう思う?」「フィリピンって拳銃とか普通に使ってるんでしょ」
・マイクロ・アグレッション。日常的なハラスメント

■国分功一郎『スピノザ「エチカ」』NHK出版、2018年。

『エチカ』読んでからだいぶ時間がたってしまいました。
この本てタイトルになるほどethicsなの?という疑問がちょっと解けそう。
録画してある番組はこれから見ます。

■佐藤正人『日本における再生医療の真実』幻冬舎、2018年。

いただきました。ありがとうございます。

* * *

仕事といえば仕事、くらいの案件で福島浜通りに行ってきました。
いわき湯本での前泊はもっと余裕のある時間に到着するつもりが、その前の仕事がばたついて結局20時過ぎ着。で、フリースの帽子をなくし、頭寒い頭寒いと泣きながら(うそ)「海幸」に寄せていただきました。
煮魚定食にしようと思ったのですが、念のため焼き魚が何かも聞くと「カナガシラです。知りません?ホウボウっぽい……面白い顔の」と言われ、顔見たさに焼き魚定食(1180円)を頼んでしまいました。
これ。
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面白いかどうかはともかく、ほくほくでとてもおいしい白身でした。3尾もあってすごい分量に見えますが、身がそれほど多くないのでちょうど満足したくらい。冬の魚らしい。
横の人が刺身定食を頼んでいて、かなり豪華でした。弊管理人は食べないけど、たぶん美味。

お宿は湯本温泉の「ホテル美里」。オーセンティック温泉街のクラシカルなホテル。カードが使えないところまでクラシカル。まじかと。

2018年11月23日

ページェント

■タカシ・フジタニ(米山リサ訳)『天皇のページェント』NHK出版、1994年。

これから代替わり系の文章をいろいろ読むにあたっての準備運動の一つとして読んでみました。
アンダーソン!フーコー!ボードリヤール!使って!ますよ!みたいな懐かしさを感じます。
以下メモ。

・江戸時代には一般にほとんど知られていなかった天皇の存在が、明治時代には時間、空間、文化の中心になった。歴史家からみれば極めて近代的な現象が、国家主義者には古代的に見えるのはどうしてか

・徳川時代の統治は身分制という縦の分断と、「藩」という連邦制的な横の分断という「違い」に基礎があった。明治維新に際しても一般的には国家や天皇というものに対して強い意識があったわけではない。天皇を民間信仰におけるカミと混同する向きもあった
・明治政府の指導者は、徳川政府のときのような「従属する愚民」ではなく、「知識を持ち、規律化された国民共同体」が必要と判断した。まとまりのなかった国民を近代ナショナリズムに方向付ける手段が欲しかった
(手段1)文明開化=文化政策。つまり「民衆は教育できるものだ」という信念が為政者にあった。民俗宗教や放逸な祭礼への攻撃、賭博などの禁止。一方で、等質的、包括的な「公式文化(フォークロア)」の発明
(手段2)儀礼の重視。神祇官の設置+儀式の奨励。祝祭日(eg.紀元節!)の設定など
・しかしやはり、中心となるのは「天皇のページェント」だった。天皇が民衆に見られ、天皇が民衆を見る壮麗な「巡幸」。北海道から九州最南端まで。日の丸や菊の紋章の意味もコンセンサスを得ていなかったが、そうした表象を広めるきっかけになった。また、壮麗な巡幸を見せることで、天皇が領土を象徴的に掌握していった同時に、天皇から眼差される従順な主体を創出した

・その後、儀礼が整備された1880年代後半になると巡幸は止み、東京、京都がページェントの中心的舞台になる。東京は文明と進歩を表す場所として、また京都は1000年の歴史をもつ正統性の根拠として
・東京は維新の混乱以来、荒廃したままだった。そこで老朽化していた皇居の整備をする。公の目に触れるところは和洋折衷様式、私的な間は和風にした。また莫大な群衆を集めることのできる「宮城前広場」(と、溢れた群衆が収容できる日比谷公園)を造った。「神聖な場所」を備えた首都の重視(ついでに日比谷・霞ヶ関への官庁の集約と、丸の内・大手町の商業地区化という現在に繋がる都市計画)。
・絵はがきや記念切手、小説にも刻まれ、東京は象徴的求心性を備えた。天皇の露出=政治への関与を示す街に
・一方、「伝統」の場としての京都。天皇の死去や即位式など、過去を参照することで国家の連続性を確認する必要に迫られた場合に利用された。天皇の葬送ではみんな宮廷装束をまとっていた。7世紀以来の仏教式を無視し、新たに作った神道方式での葬儀(孝明天皇から)。スケール、公開度は完全に近代的でありながら、内容は古代的であった
・また、もとは豊穣・繁栄祈願で民間に信仰されていた伊勢神宮を皇室の宗祖アマテラスを祭り、歴史時代以前との連続性を象徴する神社として再編成した
・地方に出掛けなくなった代わりに、「御真影」の配布などによる象徴・儀礼の拡散が行われた

・明治後半、儀式は西欧列強から借り・西欧列強と競う国際的な様式を備えるようになる。西欧近代は儀式を不要とするのではなく、むしろ統治に不可欠の要素としていると考えた
・儀式は国内向けの意味だけではなく、国際的な視線をも意識するようになる。文明の象徴・東京で顕現する軍服と髭で男性化された天皇の姿(一方、伝統の京都が担保する皇孫と一体化した不可視の天皇)。青山練兵場での閲兵や、天皇のパレード。憲法発布、戦勝記念式、婚礼や葬祭
・「記憶」の創出。戦争賛頌の中心としての東京。大村益次郎などの銅像建立、つまり政治権力の自己表象として偉人が姿を現した。大鳥居のモニュメンタリズム。軍服を着た天皇の戦勝ページェント。一方で朝敵・平将門を祭る神田明神の格下げ
・また、銀婚式などを通じて天皇とペアをなす、従属しつつ支える「良妻賢母」の公的な象徴としての皇后が創出された。民衆の常だった「妻以外の女性との開けっぴろげな交際」や「頻繁な結婚と離婚」の否定でもある
・学校や兵舎などを典型として、個々人の身体が可視化され、天皇の身体は見えなくなっていく。これによって、天皇は無限の視線を獲得する

・そしてテレビ時代の天皇。祭祀の場にいる人(天皇自身を含む)にはほんの一部しか見えないが、NHKが(政教分離の原則から私的儀礼とされた部分まで含め)すべてを映し出し解説し、列島の表情まで見せ、全体の把握をさせてくれるメディア・ページェント
・ただしテレビは列島の表情の中で、反対する人の意見も周辺化しつつ網羅し、また昭和天皇の時代の暗い出来事をさっくりと省略。支配的物語の拡散と、暗い記憶の忘却と現在からの切断を促した。忘却の作用
・また物語は複製され、アウラを失い、陳腐化された。古めかしく見えるだけの非歴史的な記号の山。神秘性をもった大嘗祭の中継は、皇威を損なう効果を顕わにした。陳腐化の作用

2018年11月12日

にちよう徒然

土曜は未明までの仕事を終えて、そのまま飲みに行っちゃって朝方帰宅。
日曜は昼前に起きて、同じくらいの時間に起きた友人と東中野の「ピッツェリア チーロ」で昼飯。グラタンコロッケ、レタスのシーザーサラダ、4種のピザが1枚にのっかったやつ。全部すごくうまかった。
そのあとミスドで暗くなってくるまでだべって1回解散。
夜は約束があったのだけど、相手が風邪ということで流れました。
で、さっき別れた友人が音楽の練習を終えるのを待って再集合し、別の友人も連れてカーシェアで「おふろの王様 志木」へ。
そのあと、和光の「くるまやラーメン」で味噌バターコーンラーメンを食しました。
バイパス沿いとかにあるイメージのお店で、今回一緒に食べた福島、宮城、長野出身のメンバーが「なつい」で一致した。そして全員が深く満足した。
この時点で23時、背徳の味が沁みるわけです。
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東京中心部で見かけないのでいつ以来だろうと思ったら、たぶん15年前。田舎で母親が亡くなった夜、妹と二人で自宅の近くのくるまやで夕飯食べたんでした。父は確か病院で夜を明かしたはず。

* * *

■三橋順子『新宿 「性なる街」の歴史地理』朝日新聞出版、2018年。

甲州街道に新設された宿場から遊郭へ、戦後の赤線へ、そして1960年代ごろから性的マイノリティの街へと変貌してきた新宿「あの辺」の歴史。新宿で寝起きし、食べ、遊んでいる弊管理人は脳内ストリートビューを再生し「そこがあれだったかーーーー!!」と興奮しながら読みました。

土日休みの強気なパスタ屋のちょい先にあった遊郭の境界、ゴールデン街の煮干ラーメン屋の建物の由来、二丁目ほぼど真ん中の半地下の中華料理屋のあたりは赤線じゃなくて青線だったらしい、そしてタリーズの裏の不思議な路地。内藤新宿の「内藤」は母方の田舎とつながっていたのも初めて知った。

そのほか、東京の性産業の歴史にも話が及んでいて勉強になります。1月に友人に誘っていただき街歩きした吉原、前に住んでいた新小岩、ラーメンや「すた丼」食べに行っていた亀戸(食べる話ばっかりだな)、何かご縁がありますね。今の地理を知ってると4倍楽しい。

* * *

おじさん職掌見習い日記もまだまだ続きます。

若者が作った文章を商品に仕立てる役のおじさんですが、まあ相変わらず結構な大工事を繰り返しています。あまりに完成度の低いものが若者から送られてくることに腹を立てる同僚おじさんはちらほら見受けられ、弊管理人も血圧が10くらい上がることがなくもないのですが、最近ひとつの理解に達しました。若者の仕事は「できそこないの完成品」ではなく「そもそもからして素材」だと考えるべきだということ。

初心者かベテランかを問わず、一人で書いた文章には――程度の差はあっても――穴があるものです。だから、おじさんが一から書いたら完成品ができるかというとそういうものでもありません。まずは若者が書きたいものを形にし、それを客観的に見ることのできるおじさんが素材として受け止めて加除をし、それを投げ返してチェックを重ねる、というようなキャッチボールは不可欠なプロセスなのです。おじさんは検品係ではなく、ライン下流にいる組み立て担当者なのです。

若者時代、弊管理人は自分の投げた仕事がおじさん(おばさんもいるんですけど、ほとんど不満に思ったことがないので、おじさん)の恣意によって作り変えられると「おじさんの頭の中に正解があって、それに合わせて作り変えるだけなら最初から自分で作ればいいのに」と思っていたものです。でもそれはそうではなく、大枠はやはり現場を知っている若者が作るべきで、それがあって初めておじさんも改良の方向性を見いだすことができる。そう考えることで、おじさんの立ち位置がやっと正当化できました。

* * *

ぶつくさ言う用のツイッターアカウントを閉じてみて、ちょっとぶつくさ言いたい時に吐き出す先がないなあとは感じるのですが、それは持続しないので、今のところ特にぶつくさ用のアカウントをあらためて作ろうという気になってません。

ぶつくさ言うことはかえってその対象への執着を増すようでもあり、周囲も「うわ……」と思うだけであれば、誰得なのかという。今となっては。

2018年10月31日

概ね食べる話

某役所に寄ったついでに虎ノ門、カツとカレーの店 ジーエス。
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このお店がある通りは香港麺「新記」もあり、昼飯でお世話になっています。
カツもカレーもそれぞれおいしかったのですが、特にカツはちゃんと甘みや香りがあって、次はカツ定食(確か1000円)をいただこうと思いました。

週末は神保町の古本市をさまよっていたら友人から「焼肉食べたい」と連絡があり、いろいろ探した末に4人で高円寺のガッツ・グリルに行って学生価格のたべほをしてしまいました。上から2番目にいいコースで税抜き2180円。全然満足したけど。
そんで腹ごなしに高円寺から中野まで喋りながら歩いて別れました。
っていう話を20くらい下の若者にしたら「青春っすね!」と言われました。そうね。亡霊として青春を覗き見した感じですね。つか何、青春。友達と労力を惜しまず安上がりに楽しむこと?その逆に労力を惜しんで高いものを楽しむのが「大人のなんちゃら」かしら。

* * *

おなかが変。
多分食生活が乱れたせいなので修復修復。(←亡霊)

* * *

何年前だったか覚えていないくらい前に、食べ物に混ざっていた小石を噛んでから右上の奥歯が痛かったのですが、いよいよ噛んでないときにも痛みが出るようになったと定期チェックしている歯科医に言ったら、その歯をすごく削られて「歯髄炎」と診断されました。

いや、たぶん小石を噛んだときにどこかが欠けたかひびが入ったかして神経に力学的な負荷がかかっていたんだと思う。歯髄炎はその結果に過ぎなくて、だからそんなに深く削る必要はなかったはず。前々から「硬いもの噛んでから痛い」と言っていたのに「噛み合わせの問題」だとして噛み合わせ調整をされ、改善していなかったのでした。いよいよ弊管理人も「これは強く言って納得いくまで軌道修正させないと危ない」と思いました。

で、ちょっとでも違和感があると「痛いから調整して。力がかかるから痛いんだ」とクレームを入れ、すったもんだしながら痛まない状態まで調整して詰め物をし、なんとそれまで問題のない左側でしかほぼものが噛めなかったところ、両側で問題なく噛める状態を取り戻しました。ストレスなく食事ができることの素晴らしさ。

それにしても不必要な処置を随分した気がする。初めてかかってから8年、これまでは大きな問題なく歯のメンテをずっとしていたけど、あちらも歳食ってきたし、そろそろ完全お任せではだめだなと認識させられました。

* * *

この日記の連絡先にもしていたツイッターのアカウント@amebontanを閉じました。

* * *

結局、寝るとき毛布1枚のまま10月を終えます。
今年が暖かいのか、自分の体の変調なのか。

* * *

■石井暁『自衛隊の闇組織―秘密情報部隊「別班」の正体』講談社、2018年。
いただきました。ありがとうございます。

2018年10月09日

メタ倫理

一時期、弊管理人のタイムラインでやたら推されていたこの本。
こんなのが手に入るなんていい時代だねえ。

■佐藤岳志『メタ倫理学入門』勁草書房、2017年。

倫理学の分類
  規範倫理学:どうすべきか。功利主義、義務論、徳倫理学……
  応用倫理学:具体的な場面でどうすべきか。情報倫理、生命倫理……
  メタ倫理学:規範倫理学の前提を考える

メタ倫理学で問われること
  ・真理をめぐる問題
    (1)倫理の問題に答えはあるか
    (2)倫理的な事柄は普遍的か
  ・倫理、判断、行為をめぐる問題
    (3)倫理的な判断とは何をすることか
    (4)倫理的な判断は拘束力を持つか
  ・倫理に登場する概念をめぐる問題
    (5)善、正しい、価値、理由……とは何か(メタメタ倫理)

【2】メタ倫理学の立場
  ・客観主義
    ―正しさは客体(私たちが見る相手側)にある。倫理は「発見」される
    ※ムーア『倫理学原理』:「善いもの」と「善さ」の区別 cf.赤いトマトとその赤さ
     →その上で「善さ」について考える(メタ倫理学の創始)
     →善は定義不能。そして客観的に存在する
      ○見る人によらない、普遍的な善を考えられる
      ○善の概念が安定する
      ○善に関する議論で「正解」「不正解」が言える。「可謬性」が導入できる
      ×一体誰が客観的善を把握できるのか?独断に陥らないか?(エイヤー)
  ・主観主義
    ―「善さ」は客観的性質ではない。見ている人の側が、倫理を「創出」する
    ―倫理的な真理は存在しない、絶対正しい答えはないと考える傾向がある
      ○現に人や文化によって倫理判断が異なることが説明しやすい
      ○「なぜ自分の判断が正しいと分かるか」に答えやすい(「私がそう思ったから」)
      ○倫理の源泉を神など「私たち」とかけ離れたものに求めなくてよい
      ×男尊女卑や奴隷制などを外部から批判できない
      ×犯罪者の独善を批難できない
      ×「私たち」を超えた倫理がないと、結局は力のある者の倫理がまかり通る
  ・いいとこ取り
    ―例えばヘアの「指令主義」……ただし「どっちつかず」の批判

  ・道徳的相対主義
    ―各々の社会が正しさを決めるルールを持ち、どれが優れているとはいえない
    (1)事実レベルの相対主義
      ―現実問題として、社会ごとに道徳やそれに基づく行為は違っている
        ×表面的な違いの根源を探っていくと共通の規範が発見できる
    (2)規範レベルの相対主義
      ―それぞれ違っている道徳をどれも尊重しなければならない
        ×事実として違っていることと、それを全部尊重すべきことは別問題
        ×実際に残酷な慣習を目にして「ひどい」と思っても耐えなきゃいけないのか?
        ×相対主義は絶対的に正しいか?というパラドックスに陥る
    (3)メタレベルの相対主義
      ―相対主義も相対的である
        ×「相対主義も相対的」は絶対的か?
      ―相対主義は2階の主張として絶対的に主張してよい
        ×恣意的な区別ではないか?
      ―すべてではないが、いくつかの道徳的主張が相対的なのである
        ×相対的なものとそうでないものは説得的に分離できるか?

【3】倫理における真理をめぐる存在論・その1:非実在論
  ―道徳的事実や性質(道徳的真理)は存在しない(主観主義と相性が良い)
  ―例)人を殺すという行為の中に「悪さ」は存在しない
  ―認識論における非認知主義と親和的
    (道徳判断は道徳的真理の認知に必ずしも基づかない)

  ・錯誤理論(マッキー)
    ―「道徳的性質や事実」は存在せず、その虚偽に基づいて行う判断はすべて誤り
      ※つまりマッキーは認知主義かつ非実在論
    背理法(1)道徳が実在するなら誰にも同じように存在するはず、だが文化は多様
      ×人々の道徳は大枠では共通。無差別殺人の不許容など
    背理法(2)他のものと全く違った有り様や、それを感受する特殊能力を要求するのが変
    私たちを動機付けるのは外界の何かではなく、心の中の欲求や感情だけ(ヒューム主義)
      ×別に変じゃない。色や面白さなども外界に存在する(これは再反論も可)
      ×今は変に見えてるだけ(エーテルを想起)

  ・錯誤理論が正しいとすれば、どうする?
    (1)道徳を全廃:魔女狩りなど、錯誤と独断に基づく悲劇を生まないよう
      ×でも全廃論者も「魔女狩りはよくない」という道徳判断使ってない?
      ×道徳ってあったほうが社会が安定しない?
    (2)有用だから使う(道徳的虚構主義)―「サンタはいい子のところにしか来ない」など
      (2-1)解釈的虚構主義:みんなウソだと知っているが利用している
        ×不正義に心から怒っているとき、本当に道徳はフィクションと思っているか?
      (2-2)改革的虚構主義:みんなウソだと気付いてないので、気付いて利用すべき
        ×ウソだと分かったことに、そんなにコミットできるか?
    (3)別に今うまくいってるのでこのまま行きましょう(保存主義)
      ×それってプロパガンダでは?みんなに隠し通せますかね?
      ×道徳ってそんなに軽くていいのか?

【4】倫理における真理をめぐる存在論・その2-1:実在論(自然主義)
  ―道徳的な性質や事実は心のありようから独立して実際にある
  ―道徳の問いに答えはある
  (―が、「あるけど分からない」という不可知論は採りうる)
  ―道徳は全く奇妙でない形で存在する(自然主義)/奇妙だけど実在する(非自然主義)

  ・自然主義
    ―神、魂、オカルト的な超自然的なものに訴える必要がないという立場
    ―自然科学などで倫理は十分に説明できる。経験的に知りうる範囲に収まる

    ・素朴な自然主義(意味論的自然主義)
      ―善、悪、正義などは、実験や観察で知りうる何かの言い換えである
        (例えば善=快、悪=苦痛、とする功利主義など)
      ○分かりやすい。身近なものの言い換えなので確認しやすい、人に伝えやすい
      ×自然主義的誤謬を犯している(ムーアの「開かれた問い」論法)
        人は常に「快が増える」=「善」とは考えない(覚醒剤など)→開かれた問いである
        ※ムーアは善は定義不能だが、端的に存在すると考える(実在論)

    ・ムーアへの修正応答:還元主義的な自然主義
      ―ゾンビ。「ゾンビはAウイルスに感染した人である」的な説明
      (1)本当は閉じた問いだが、私たちがまだ気付いていない(分析的還元主義)
        ―「善」の用例を集めて/機能を明らかにし/同じ機能の別の概念に置換する
        ―善の辞書的な説明を作ると、別の言葉xに置換可能になる
        ―つまり、「善」の中に最初から置換可能な概念が入っていると考える
        ×善と別の言葉xが置換可能になる理由が分からない(特に理由はない?)
        ×どれくらい用例を集めたらいいか分からない(成熟した使用者に聞けばよい?)
      (2)特殊な仕方で閉じている(総合的還元主義)
        ―道徳的/自然的性質は、同一物の違う内容を指す(明けの明星/宵の明星)
        ―経験的な探究(科学)などを通じて、どんどん閉じさせていくことができる
        ×結びつく理由がわからない(「たまたま」で納得は得られるか?)
        ○ただし、探究→定義の提案→修正、という方法としての魅力がある

    ・非還元主義的な自然主義
      ―道徳的性質は、特定の自然的性質を意味しない。そこに還元されない
      (1)エルフ。人間とは違う種族が共存している
      (2)悪霊。人間に取り憑くことで実態を得ている
      ―コーネルリアリズム:仮説→対抗仮説の棄却→検証
       素粒子のように見えないものでも、あると仮定すると物事がうまく説明できるとする
      ○開かれた問い論法に対しても、経験的探究で問いを閉じることが可能と反論可能
      ×本当にそうなのかは怪しい。いつまでも問いは閉じないかもしれない
      ×自然的でないものが実在するというのは中途半端。悪霊がいるというようなもの
      ×道徳の眼鏡で見ているから見えるのでは?(でも、科学も理論を背景にしている)

  ・自然主義全体への批判
    ×誰にも共通の実在を示そうとしていながら、相対主義に陥ってしまう
      (道徳的な実在と自然的な実在の結びつきの理由、必然性がどうにも示せない)
    ×自然的な事実は私たちを直接動機付けられない

  ・それらの折衷

【5】倫理における真理をめぐる存在論・その2-2:実在論(非自然主義)
  ―道徳は独特な形ではあるが、個々人の心から離れて実在する(パーフィットら)

  ・神命説:神がそれを命じたから正しい(信じるか信じないかに関係なく実在する)
    ○道徳の権威性、規範性、行為指導性を与えられる
    ×エウテュプロン問題
      神が命じたから正しい→人間の道徳観に反した命令(皆殺しなど)を処理できない
      正しいから神が命じた→神の他に正しさの根拠があることになってしまう
    ×神の意志が人に分かるのか?(検証不能性)

  ・直観主義:善は善としか言いようがない(ムーア、プリチャード、ロス)
   →その後継としての強固な実在論:誰の意志からも独立な規範的真理がある
     (真理は構築されるのではなく、発見される)
    ○日常的な道徳観に合う。道徳は好みの問題ではない

  ・理由の実在論:実在するのは「善」ではなく「理由」である
   →規範性は権威ではなく「あることをする理由がある」ということ(行為のガイド)である
    ○私自身の信念を離れた理由が実在すると道徳が安定する←奇妙でない
    ×道徳の特別さを損なう
    ×「価値はないが理由はある」(脅された時など)場合、価値を理由に置き換えられない

【6】第3の立場

  ・準実在論(ブラックバーン):道徳的事実や性質は実在する「とみなされている」
    投影説:<ヒューム。価値観を投影してものを見ている。宝石に見いだす価値など
    ○高階の道徳(≒その文化での相場観)を投影するので安定が得られる
    ×道徳のリアルさが損なわれないか?
    ×人助けは善い→誰かを助けると判断する、であって、その逆ではないのでは?
    ×価値の細やかさを態度(肯定的/否定的)で説明し尽くせるか?

  ・感受性理論(マクダウェル、ウィギンズら)
    波長×色覚=色、のように、状況×受け手の道徳感覚(徳)=道徳、と考える
    ×事実と価値の区別をどうする
    ×適切な道徳感覚って何だと考えると説明が循環してしまう(それでいいとの応答も)
    ×これってただの非実在論では

  ・手続き的実在論(コースガードら)
    道徳は(法のように)適切な成立手続きを経て存在し始める。構成主義
    カント以来の伝統的倫理学を継承
    ×手続き的に正しくても実質的な内容がおかしい道徳はどうする?
    ×エウテュプロン問題→理性に期待するのみ
    ×適正な手続きは誰がどうやって決めるのか?→反省的均衡で

  ・静寂主義:そもそも実在とか問題じゃない。そういう議論はいらない
    実際に下される道徳判断はどういうもので、それがどう問題を解決するのかが大切
    ≒プラグマティズム
    ×実在と動機付け、道徳的態度はつながっているのでは?
    ×といいつつ、強固な実在論を誤りとする存在論にコミットしてない?

【7】道徳的な問いに答えるとはどういうことか(1)非認知主義・表出主義
  自分の感情を表し、相手の態度や行動を変える
  →道徳的事実の認知を必要としない
    道徳は自分たちの中から生み出され、自分たち自身を導く
  道徳判断が持つ独特な感情的色合いを説明できる
  行動のため背中を押す機能を説明できる
    
  ・表現型情緒主義:エイヤー。道徳判断は分析、総合どちらでもない
    「!」などと同じ。真偽が問えない
    ○記述主義が「これが真理」と押しつけてくる嘘くささを回避できる
    ×道徳判断をめぐる対話が成立しない。意見の不一致を説明できない
    ×道徳に安定性がない
    ×フレーゲ=ギーチ問題(pp.219-221)
    →20世紀前半のもの。現在ではあまり擁護されない

  ・説得型情緒主義:スティーブンソン。道徳判断は相手を説得するため
    ある程度合理的な理由を必要とする
    ある程度(説得の目的を持つことが前提だが)記述的な面をもつ
    いずれにしても普遍的なことを言っているのではない
    ×でも結局「Aはこう考える」「Bはそう考えない」が並立するだけでは?
    ×使う理由は恣意的、場当たり的なもので安定性はないのでは?
    ×フレーゲ=ギーチ問題

  ・指令主義:ヘア。勧めであり指令である
    勧め+道徳判断に関する記述(共同体に共有された道徳原理)=「Xはよい」
    道徳判断は普遍化可能であるべきである
    →ぎりぎりまで客観性を高めようとした立場
    ×安定性は?
    ×現実的に道徳判断は指令として使われていない?(無視しうる)
    ×言葉の使われ方より道徳そのものに注目すべきでは?

  ・規範表出主義:ギバード。私たちが受け入れている規範を表出している
    ある感情+その感情を肯定できるという規範に照らした判断=道徳判断
    規範:広い視野から見た得失、ゆるい直観主義、一貫性
    ○安定性が高まる。道徳的態度の多様性が説明しやすい。客観的
    ×フレーゲ=ギーチ問題
    ×融合問題:「道徳的にはまずいが面白い本」は「面白い」の修正を迫るか?
    
【8】道徳的な問いに答えるとはどういうことか(2)認知主義・記述主義
  道徳に関わる事実や真理を認知し、それを記述する
  道徳は世界に実在し、それが見えれば私たちは自らそれを目指す
  認知→信念形成→判断。事実判断「Xは甘い」も道徳判断「Xはよい」も変わらない
  ×では、事実判断から動機付けはどうやって形成されるのか?
    動機付けの内在主義:道徳判断は動機付けの力をもつ
    動機付けの外在主義:道徳判断は動機付けの力をもたない
      「よいと分かっていても実行しない」場合があることを重視する
      一方、「われわれは道徳的によいことをしたい欲求を持っている」とは考える
    →外在主義が正しいといえば、動機付けをどうやってもつか説明する必要はない

  ・ヒューム主義
    道徳判断そのものが動機づけないとしても、信念形成の時に動機づけは可能
    、に対して、「欲求が動機付けを行う」とする。信念と欲求の分離

【9】道徳的な問いはなぜ必要なのか、なぜ道徳的でなければならないのか

  ・道徳的とはどういうことか
    狭い道徳:他人にかかわる。ウソをつかない、優しくするなど
    広い道徳:自分の生き方(本書はこちらをとる)

  道徳的によく振る舞う必要などない、という立場
  ・ニヒリズム
    強者を搾取するために弱者が作り上げたのが道徳で、破壊されるべき(ニーチェ)
    ×といいつつ、自分は新しい道徳を提案してないか?
  ・非実在論
    そもそも道徳は実在していない
    ×利用価値はあるとみる虚構主義も、全廃主義も、自分の説が「よい」と言ってない?
  ・科学主義
    道徳は生存戦略として身につけてきた反応に過ぎない(暴露論証、debunking theory)
    ×howの話であって、「今この私が道徳に従う必要があるか」とは違う話では……
    ×決定論をとると、責任や非難、賞賛などが意味を失うのではないか

  道徳的によく振る舞う理由はある、という立場
  ・道具的価値に基づくから(それをすると何かの価値を達成できるから)
    協力により困難な課題が解決できる、ウソをつくと信頼を失う、など
    ×道徳はそれ自体で価値がないことになってしまう(得だから道徳的なのか?)
    ×最終的価値に価値を見いださない人は道徳的に振る舞う理由がなくなってしまう
  ・最終的価値に基づくから(それをすることが最終目標だから)
    カント主義的理性主義
      尊厳をもった存在であり続けるために自らに義務を課す
      人はどうしても自分を反省し、何がよいかを考えてしまう(コースガード)
      個々の人間を道具として使ってはならないとの道徳に制約される(ノージック)
    新アリストテレス主義的理性主義
      理性と道徳は切り離せず、理性的存在である以上、善を捨てられない(フット)
    ×善のハードル高すぎない?(赤信号無視など)
    ×理性で説明しすぎてない?(溺れる人を助ける判断時に理性を参照しているか)
    ×私たちの理性は道徳的に振る舞うものだ、というと悪との間で善の重みを問う
      深刻さを無視することになってしまうのでは?
    ×説明が循環してないか?(道徳的に振る舞うのはそれが道徳的だからだ)

  直観主義:そもそも理由などいらない(プリチャード)
    まっとうな人はその時々、考えなくてもやるし、それでいい
    ×直観任せになると、判断が違う2者が議論にならない
    ×といって何かの基準を入れると、それが直観できる力=「理性」主義と同じ穴に
 
  見方の倫理:従来の倫理学は行為や選択を重視しすぎ。「どう生きるか」を見ては?
    道徳判断に迫られる場面に「至るまでの日々」を見るべし(マードック)
    →私たちは選択の瞬間だけを生きているわけではない
    道徳的善を追求することは、世界を正しく捉えることになる
    と同時に、真なる善は私たちを引きつける cf.プラトン
    ×目下の問題に解決を与えられないのでは?
    ×相対主義に陥るのでは?

2018年09月16日

FISH統計

お昼は西新宿、FISH。
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当たり。夜のメニューも魅力的でした。今度行こう。

* * *

■滝川好夫『マンガでわかる統計学入門』新星出版社、2017年。

弊管理人の場合は「使う」人でも、まして「作る」人でもない、「見るだけ」の人ですので、いつもちらちら視界に入ってくるし一応は意味も分かっているつもりのp値とか信頼区間とかが、どうやってできているのかくらいまで分かる本書が有り難いのでした。

* * *

いくの?
いかないの?
どっちなのーーーー?

的な仕事とシフトが重なり、土曜は朝4時過ぎから仮眠を挟んで真夜中まで働いて、よせばいいのにちょっと飲んでしまいました。
回復しきってないのでQPコーワゴールドをドーピングします。

2018年08月24日

ウズベキスタン(1)

(※9/2 目下書きながらリバイス中です。9月中旬くらいにかけて本とかネットとかと照らし合わせつつ内容がちょいちょい更新されるかもしれません)

ウズベキスタンに行ってみたいと思ったのは、大阪の国立民族学博物館で見た中央~西アジアの陶器、特に青い色がすごくきれいだったというのがきっかけだったと思います。
長らく日本からの観光であってもビザが必要で、特に弊管理人は職業的にビザが取りにくいという話を聞いていた(仕事を偽って入った例も聞いた)ので、縁遠い国でありました。

ところが急転直下、今年の2月にビザ免除になり、それじゃあということで今回、初めてパッケージツアーに参加する形で行ってきました。いつものように独りの旅行も考えたのですが、さすがにウズベク語かロシア語ができないと厳しいとなると、ちょっときついかなと。

今回のお供は、ちょうどよく今年出たこちらの本。

■帯谷知可(編著)『ウズベキスタンを知るための60章』明石書店、2018年。
風土、歴史から現代の社会まで概観できるありがたい本。いろんな人が書いているので各章少しずつ内容がオーバーラップしていて、おさらいしつつ先に進めるのもよかったです。

■アントニー・スミス『ナショナリズムとは何か』筑摩書房、2018年。
7月の初めに手を付けたもので、特に旅行用に買ったわけではないですが、15世紀に遡る「遊牧ウズベク人」(エトニ)とソ連による「ウズベク民族」(ネイション)の創出がまさに本書の議論と重なって、それだけで白飯3杯いけました(?)

* * *

【8/24】

台風、雨、ムシムシ。前日いっぱいいっぱいまで仕事をして、6時起きで成田に向かったので、機内ですぐ寝てしまいました。

添乗員さんから航空券を受領。そういえば航空券持たずに空港に来るっていうのも初めてで何か落ち着かないですね。

ANAが地上業務をやっていたのでマイルが積めるかな?と思いましたが、聞いてみたら「どこのアライアンスにも入っていない」というウズベキスタン航空。火曜と金曜に飛んでいて、成田―タシケントで9時間半かかります。帰りは8時間弱。行きは偏西風にもろに逆らって飛ぶからかな。
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タシケントでの入国審査で何を聞かれるか若干不安でしたが、あっさりパス。税関申告もなくなっており、するっと国内に入れました。
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(↑本当は撮ってはいけないらしい空港の建物)

国内線に乗り換えて、タシケント―ヌクス(カラカルパクスタン自治共和国の首都)―ウルゲンチ。飛行機で隣になったヒヴァ在住らしい(言葉がわかんないけどガイドブックとか見ながら随分喋った)おばちゃんから、直径3センチくらいの球状の白いものをもらいました。食べてみると、六花亭の苺が中に入ったホワイトチョコみたいな見た目に反してものすごくしょっぱいチーズという感じ。ナイナイしてしまいたい衝動にかられましたが、おばちゃんの手前、水で流し込みました。
旅の後半、訪れたバザールで判明したのですが、これはラクダか牛のミルクから作ったヨーグルトを丸めて乾燥させた食べ物で、現地の人がよく作るらしい。これ。
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ウルゲンチからバスでヒヴァ。成田を昼前に出て、ホテル「マリカ・ヒヴァ」に入ったのが15時間後くらいだったか。ホテルはこんな感じ。ウズベキスタンのホテルはそれなりのクラスであってもお湯が出なかったり灯りがつかなかったりすることがあるので、部屋に入ったら点検して下さいと言われましたが、ぬるいながらもちゃんとお湯が出てシャワーが浴びられました。満足。
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時差は4時間で日本は翌日未明。当然すぐ寝ました。

(9月2日記)

2018年08月05日

逗子の海

お友達たくさんと逗子の海に行ってきました。
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台風が近づいているので幾分、波が高かったです。
ものすごい暑さの今年。気温31度、水温30度。水の外のほうが涼しく感じるくらい。
初めて、夕暮れまでいました。
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タコライスとスイカ食って、酒飲んで、泳ぎました。
花火。20年ぶりくらいかもしれない。
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すっごい楽しかった。
鉄壁の日焼け止めが奏功し、ヒリヒリしてません。

* * *

1日付でジュニアおじさん発令されました。シフトは朝7時~夕方4時(だが当然のように残業する)の「早出」と、夕方4時~午前2時の「夜勤」(こっちは残業ないが4時より前に出勤すること多し)がまぜこぜにやってくるので、気をつけて寝る時間を調整しないと体調ガタガタになるなと思いました。

現場を離れるとすごい勢いで現場感覚が衰えるような予感がします。ということでだいぶ縮小しつつも現場仕事をスケジュールに入れています。

* * *

高円寺、豆くじら。
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キーマは「アキンボ」を思わせる。ちょっと量が少ないな。

* * *

■久世濃子『オランウータン 森の哲人は子育ての達人』東京大学出版会、2018年。

2018年07月15日

遺伝人類学

■太田博樹『遺伝人類学入門―チンギス・ハンのDNAは何を語るか』筑摩書房、2018年。

古い人類の骨が見つかった、という論文を時たま目にするのですけど、人類進化の歴史の中で今回の研究成果がどう位置づけられるかを分かりやすく教えてくれるものは少ないので、どうしても何か「分かってない感じ」が残ります。あと、ホミニンて何だ~~!みたいに用語の独特さに辟易することも多々。そういうわけで、この本でざっと見させてもらったのは嬉しいところでした。

ただしハイライトは、婚姻システムや産業構造といった文化的な要因が、実は人類の遺伝子頻度の変化(進化)に影響を及ぼしていたかもしれないという、下のメモではさらっと流してしまった後半1/3くらいの部分です。千年単位という短期間に劇的な変化を起こす、文化というもののパワフルさ。

* * *

【ヒトの起源】

▽分類

・古典的な分類
 哺乳綱(哺乳類)
   霊長目(霊長類)
     ヒト上科Hominoidea=類人猿apes。尻尾がない猿
       ヒト科
         ヒト属
       ショウジョウ科Pongidae=大型類人猿great apes
         オランウータン(ポンゴ)属/ゴリラ属/チンパンジー(パン)属
       テナガザル科Hylobatidae
         テナガザル属

・ゲノム解読の進展で改定されつつある最近の分類
  ・ヒト上科が3→2科に
  ・ヒト科の中に遺伝的違いがわずかなことが分かってきた4属を入れた
 
    ヒト上科
       ヒト科
         オランウータン属/ゴリラ属/チンパンジー属/ヒト属
       テナガザル科
         テナガザル属
・ヒト、チンパンジー、ボノボを「ヒト族Hominini」とする考え方も出ている
・分類する学者には「細分派splitter」と「併合派lumper」という考え方の違いあり

▽ヒトと人類

・「ヒト」=現代人modern humans=ホモ・サピエンスHomo sapiens=現生人類
 (Homoは属名、sapiensは種名)。Homoは「ヒト属」、国際的には「ホモ属」
 「人類hominin」=ヒト属+アウストラロピテクス属などの属種を含む化石人類

・「人類の起源」は、チンパンジーとの共通祖先と分かれた700万~600万年前
・「ヒトの起源」は、解剖学的現代人が現れた20万~10万年前

・ホモ・サピエンスが、昔の日本の言い方だと「新人」
 ネアンテルタール人、ホモ・ハイデルベルゲンシスは「旧人」
 ホモ属の古いタイプが「原人」。ホモ・エレクトス、ホモ、ハビリスあたりまで
 それより古いアウストラロピテクス属、パラントロプス属などは「猿人」
※ただし現在は猿人、原人、旧人、新人という言い方は避けられている
  (1970年代以降、サル→ヒト進化が1系統という考え方が否定されてきたため。
   同じ時代に複数の種がいたことが分かってきている)

・猿人
 1974、アファレンシス猿人Australopithecus afarensis発見(個体名ルーシー)
  脳の容積は今のチンパンジー並みで歯は大きいが、直立二足歩行
 1994、ラミダス猿人(個体名アルディー)
 2001、チャド猿人Sahelanthropus tchadensis
  700万~600万年前、現時点で最古の人類の祖先と考えられている
  頭蓋骨底部の大後頭孔と脊柱の関節角度から、大脳を背骨で支えていた可能性

・原人
 1960s、ハビリス原人(昔はアウストラロピテクス属だったが、今はホモ属)
  道具、火の使用があったと推定。脳容積700ml(パンの倍だが現生人類の半分)
 ホモ・エレクトスHomo erectus
  ジャワ原人Pithecanthropus erectusと北京原人Sinanthropus pekinensisが
  現在は1種に統合されている
  100万~50万年前。ただし120万年前くらいの化石がタンザニアでも発見
  →アフリカで誕生し、その後アフリカから出たことを示す
  ★これより前はアフリカの外に出た証拠が見つかっていない

・旧人
 ネアンデルタール人Homo neanderthalensis
  30万年前までにヨーロッパ進出。鼻が高くて広く、眼窩上隆起あり
  脳容量は現生人類並みか、ちょっと大きいくらい
  ヨーロッパ~西アジアで骨格標本発見
 ★現生人類にネアンデルタール人から受け継いだとみられる多型が1-4%あり
 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは分岐したあと、どこかで混血した可能性
 →交配できたということは、両者を別種と考えるべきではないのではとの議論も
 ・デニソワ人(DNAしかなく学名がついてない)

・新人
 クロマニヨン人。解剖学的現代人。ラスコー壁画

・多地域進化説
  ホモ・エレクトスが170万~70万年前に出アフリカ
  →各地でホモ・サピエンスに進化
  *脳の2倍化という大変化が各地で起きたことを説明するため、頻繁な混血を想定
・アフリカ単一起源説
  ホモ・エレクトスが170万~70万年前に一度出アフリカ→いったん絶滅
  →アフリカでホモ・サピエンス(新種)が10万年前以降に出現
  →7万~6万年前に出アフリカ、拡散
  *つまり出アフリカは2回起きている
  *現生人類はアフリカで誕生した新種の子孫ということになる
  *1987UCB、ミトコンドリア・イブ仮説
    地球上のヒトの多様性がアフリカ出身者の範囲内に収まる
  *現生人類間の遺伝的多様性が小さいため、今は単一起源説が正しいとされている

【DNAから描く系統樹】

・系統樹の作成法
  最大節約法Maximum Parsimony Method
    進化のステップが最もシンプルになるものを選ぶ。幾何学的手法
  距離行列法Distance Matrix Method
    代数学的手法
  最尤法Maximum Likelihood Method
    統計学的手法
  近隣結合(NJ)法
    斎藤成也。よく使われる
・分岐年代の推定:分子時計。分子の進化速度の一定性

【進化】

・遺伝的多型genetic polymorphism=集団中の頻度1%以上の分子的バリエーション
・1%未満のものはレアバリアントrare variantという
・分子レベルの多型は「遺伝的多型」→「DNA多型」→「タンパク多型(酵素多型)」→お酒に強い/弱いなどの「表現型phenotype」。ただしDNA多型はタンパク多型を必ず生じさせるわけではない
・DNA多型の例)VNTR variable number of tandem repeat=100塩基ほどの繰り返し配列。2~7塩基と短い場合はSTRPという=DNA型鑑定に使用
・DNA多型の例)SNP。お酒のALDH2(アルデヒド脱水素酵素)、乳がんのBRCA1など。ただし1塩基で表現型を予測できるものは多くない

・遺伝子頻度の変動(進化)の要因
  突然変異mutation
    多くは生存にとって不利
    点突然変異/欠失/挿入、染色体レベルでは逆位/重複/転座
    遺伝的多型(集団内の1%以上)、その場所が「多型サイト」
    多型サイトにある個々のバリエーションが「アレル」(Gアレルとか)
    同じ染色体上の多型サイトの組み合わせが「ハプロタイプ」
  移住migration
  遺伝的浮動random genetic drift
    遺伝子頻度の偶然による変動。集団サイズが小さい時に効果が顕著
    たまたまあるアレルがちょっと多かったのが、世代を経ると圧倒的になるなど
  自然選択natural selection(←→人為選択=育種、品種改良)

・生物の時間的変化を説明する
  用不用説(ラマルク)
    よく使う器官が強化される。獲得形質の遺伝
    現在はほぼ否定。ただしエピジェネティクスでそれっぽい雰囲気も
  自然選択説(ダーウィン)
    突然変異が有利なら残っていく(有利さが必然的に進化を招く)
    *有利な変異が集団内で急速に増えるとき、その周辺の中立な変異も便乗し
    一緒に増える「ヒッチハイキング」が起き、これらが領域としてまとめて
    均質化・多様性の低下が起きることを「選択的一掃selective sweep」という
    例)ラクトース分解酵素
  中立説(木村資生)
    進化に寄与する変異はほとんどが有利でも不利でもない。有利なのは一部
    ある変異が増えるのは偶然。適者だからではない
    cf.米大陸先住民がO型ばかりになった「ボトルネック効果」。中立変異の固定
    *ボトルネック効果は出アフリカの時にも起きたとみられ、アフリカ内の
    遺伝的多様性>>アフリカ外の遺伝的多様性。→多因子疾患のもと?

【社会構造と進化】

・ミトコンドリアDNAは13種類の遺伝子と、リボソームRNAやトランスファーRNAの情報がコードされている。女性の系統のみに伝わる(自分が持っているのは母、祖母……の情報)
・Y染色体は精巣形成の引き金となり、男性を決定する遺伝子SRYが載っている。男性の系統のみに伝わる
→さまざまな集団の間の「地理的な距離」と「遺伝的な距離」を比べる。地理的な距離が離れるにつれて、男性は遺伝的な距離も広がるのに、女性はそうでない場合がある。おそらく女性が交換されるせいで移動距離が大きくなるような婚姻システムのせい

・日本人のルーツ
  置換説(モース)
    アイヌが住んでいたところに渡来民が来て置き換わった
    =日本人の直接の祖先は渡来民で、本土では縄文人の痕跡ほぼなし
  小進化説(鈴木尚)
    縄文時代以降、徐々に進化をして現代日本人になった
    =日本人の直接の祖先は縄文人で、渡来民の影響はほぼなし
  二重進化説(埴原和郎)
    アイヌと琉球人は東南アジア起源の縄文人の直接の子孫
    約2000年(以上)前に北東アジアから渡来民が九州周辺に入り、混血が進んだ
    ただし、北海道と琉球諸島では渡来民の遺伝的影響は少ない
    *混血は研究で確認。琉球人とアイヌではY染色体の共通タイプも発見

・古代日本人のDNA分析
・チンギス・ハンのY染色体
  社会選択:社会的に有利になった系統の特定ゲノム領域が選択的一掃と
       同じパターンを示す現象(社会・文化的な要因が集団のゲノム構造に
       変化を与える)
    ・一夫多妻的システムの反映?
      *ちなみに今村薫はサン族の多夫多妻制「大きなザーク」を報告
    ・農耕導入後、成功/不成功男性の系統が生まれた?(キヴィシルドら)
  「ゲノム・アジア100K」進行中。第3のボトルネック見つかるか?

2018年07月05日

ひがし北海道(2)

【7/2(月)】

天気の悪い日の谷間、曇りの予報。
北海道では、だいたいこういう時は結構青空が見えたりする、という予想通り。
宿の食事処のテラスに出て朝飯食いました。
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ご飯のおかわりを取りに行ってる間に、カラスに卵焼きを持って行かれました。
部屋の窓からはお食事中のエゾシカも。
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いま陸路ではアクセスできない知床半島の一番先を目指すボートツアーに参加しました。
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往復3時間かかります。
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柱状節理とか好きな人は飽きないはず。
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知床岬の突端は風が強いので高い木が生えてないそうです。国後島がきれいに見えました。
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弟子屈まで90キロくらい一気走りして、摩周そば「そば道楽」で大もり850円。
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硫黄山が近いので辺りに匂いがたちこめてます。
川湯温泉駅前の「森のホール」で上品な甘さのケーキをいただいて満腹。
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ケーキ320円だったと思いますが、3種+ドリンクで900円という破格のセットもあり、一瞬迷いました。でもそんなに食えないしな。

屈斜路湖を見て帰りましょう。
美幌峠は通ったことがあるので、今回は小清水側の「藻琴山展望駐車公園」へ。
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えっ全然きれいじゃないですか。
このあともうちょっと高いところにある「ハイランド小清水725」からも眺めました。こちらは湖から少し離れますが、眺望がとてもいいです。

「女満別空港」をカーナビに入れて運転していると、空港の近くで「こんなところ?」というくらいの田舎道をぐるぐる案内されました。じゃがいもや麦を作っている畑の、特に何かアピールしているわけではないが絵画的な風景を堪能しました。
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車を返してお土産買って帰りました。

* * *

飛行機で読み終わった本。

■見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波書店、2018年。

2018年06月23日

超予測力

■フィリップ・テトロック, ダン・ガードナー(土方奈美訳)『超予測力―不確実な時代の先を読む10カ条』早川書房, 2018年.

ハウツー本ぽいタイトルでちょっと嫌だったのですけど、以前から社会現象の予測は可能か(ちょっと違うけど、社会科学に予測はなじまないのか)ということに興味があったので手に入れてみました。
上記の問題には一応、「社会は複雑だから予測は無理」ということで納得はしているものの、でもなんかそんな割り切っちゃっていいのかなあという思いがありました。

この本の著者らは、「セルビアは2011年中にEU加盟候補国になるか」「東シナ海で船舶同士の武力衝突によって死者が出るか」といった国際情勢に関するたくさんの予測を幅広いバックグラウンドを持ったボランティアにやってもらう研究プロジェクトを通じて、次のような発見をしたといいます。

・一般人どころか、機密文書を読むことができる「専門家」に比べてもさまざまな問題の行く末をよく予測できる非専門家(=超予測者)は存在する(ちなみに「集合知」は優秀だが、集団の中である時期に高い予測力を発揮した人が次の時期にもそうであるわけではない。超予測者は逆に、コンスタントに高い予測力を発揮する。これは運<能力である証しである)
・超予測者はものすごくIQが高いわけでも、高度な数学を駆使して予測しているわけでもない
・考える「流儀」や「性格」が予測の正確さを保証している

それの「流儀」や「性格」は次のようなものでした。

・問題がざっくりしていたら、検証可能な(=当たったか外れたかが明確になるように定義された)小問題群に分解して、データを利用できるものはし、なければ推測してパーセンテージを出す(フェルミ推定)
(・12年後のアメリカ大統領選など、先のことすぎる問題はどう頑張っても当てずっぽう以上の成績は出せないので、そういうものには注力しない。筆者らの研究では、予測の正確さは5年後を境に低下する)
・論理と心理、自分の立場と相手の立場など、異なる複数の視点からものを考える。順番としては、まず「外側の視点」つまり一般的にはどうか、という調査から始め、「内側の視点」つまりことこの問題についてはどうか、という調査に進む。人は内側の視点に引っ張られがちな(アンカリングが起こりやすい)ため。ガーナの大統領選に関する問題が出されると、それを「ガーナについて知る良い機会」ととらえるなど、知的好奇心が旺盛であることも有利に働く
・調査で情報が集まったら、仮説を支持する意見(たとえば「南アフリカはダライ・ラマにビザを交付する」)だけでなく、それが間違っている(「交付しない」)可能性を検討する
・「ある/ない/どちらともいえない」という石器時代の確率論はもちろん、「60%対40%」といった10%単位の予測でさえない、「57%か58%か」という細かな検討をする。実際そのほうが予測精度も上がる
・運命論を採用しない。すべてのことは確率的に起こる(他でもありえた)と考える
・いったん立てた予測を小まめに修正する。ただし重要な情報の過小評価、些細な情報の過大評価を避ける。ある情報が事態をどの程度揺るがすかを考えて予測の修正幅を決める(ベイジアン)
・「自分の見方」はたたき台に過ぎないと考え、固執しない
・粘り強い
・チームワークは、グループシンク(安易な全員一致)にもいがみ合いにもならず、不快にならないように反対意見を戦わせ、反論をあえて募りもする。このとき、チームは多様なほうがいい。クローンばかりだと意見が間違ったときにも極端化する

直感や分かりやすい説明に飛びつく思考(システム1)は非常事態の中で行う即断や経験に裏打ちされた言語化しにくい判断が必要な時に使えますが、予測に使うべきなのは熟考あるいは科学的慎重さ(システム2)のほうです。
医療や政策、安全保障の世界では、システム2に基づいて検証可能な予測をし、結果が良くても悪くても検証し、修正するというサイクルが欠かせない。20世紀になってようやくシステム2に基づく評価をルーティン化した医療に比べて、政治評論はまだまだじゃないですかね、という厳しい指摘がされています。

まあ「原理的に無理」とかいって捨てちゃわないで、いろんな人がいろんな機会にやってみたらいいんじゃないですかね、社会に関する予測。研ぎ澄まされていれば結構当たるらしいし。と、そんなことを思いました。

あと、どうでもいいですが、
訳者が「病理学者」と訳しているのはたぶんpathologistで、これはがんの確定診断をする人という文脈なので「病理医」が適当じゃないでしょうか。「マサチューセッツ州総合病院」も、そのあとにハーバード大学の話が出てくるのでMassachusetts General Hospitalのことでしょう。ハーバード大医学部の関連病院のMGHは「マサチューセッツ総合病院」という定訳があるからそっちを使ったほうがいいと思った。全体的には読みやすい日本語だし致命的ではないとしても、ちょっと粗っぽいかな。

2018年05月25日

昔のいけないあれ

むかし同じ職場にいて、いまは他部署にいる女性の後輩が弊管理人の席に来ておしゃべりをしているうちに、セクハラについて仕事で扱っているという話が出たので、ついでで申し訳ないが15年以上前のいけない発言について謝りました。
服装に関する冗談だったのですが、それを言ったあと彼女は着替えてきた。当時「しまった」と思ったものの、「ごめんね」を切り出す機会がなくてずっと腹の底に澱みたいにたまってたのでした。
本人は全く覚えておらず、当時あげつらった服について解説したら「そんなの着てたのが恥ずかしい。全然いいからむしろ思い出さないで」と念押しして去って行きました。

* * *

■共同通信社原発事故取材班、高橋秀樹(編著)『全電源喪失の記憶』新潮社, 2018年.

いただきもの。いや、すばらしい。

2018年05月21日

読めてない

■新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社, 2018年.

会社の図書室の新着棚からかっさらってきたもの。
前半は今のAIでできることとできないことの整理をしていて、それはそれで参考になる。
バズワードで火照った頭を冷やすパート。

で、後半は、AIでできない仕事を担うための基盤となる読解力が本当に人間にあるのか?というお話。筋はほぼここに書いてあります。
それを試すテストの例題がいくつか紹介されているのですけど、弊管理人もしっかり間違えてショックを受けました。
上記記事では、「文章を読んでいるようで、実はちゃんと読んでいない。キーワードをポンポンポンと拾っている」という読み方を「AI読み」と呼んでいますが、思い当たる。大量の文章を急いでざーっと読んで大体何が書いてあるかを把握する、という仕事でよくやる読み方が習い性になっていて、それ以外の場面でも理解しながら読んでないのかもしれん。
むしろ、そうはいってもアウトプットをするときにはしっかり読み直すことが必要な仕事より、ざっと流しても怒られない個人的な読書のほうでこそ、AI読みをやっている恐れもある。

また、結構頭が痛くなったのは次の問題。

 「エベレストは世界で最も高い山である」

が正しいとき、次の文は正しいか

 「エルブルス山はエベレストより低い」

(1)正しい(2)間違っている(3)これだけからは判断できない

正解は(1)なんだそうですが、エルブルス山(5642m、ロシア連邦最高峰なんだって)を知らなかった弊管理人は(3)を選んでしまいました。

ぱっと問題文を見たとき、頭には「エルブルス山が架空の山である可能性(ある意味、世界の中にないので比較ができない)」、「エルブルス山が実在するとしても、エベレストと同じ高さである可能性(エベレストは最も高いが、エルブルス山が1位タイだとエベレスト「より低い」とはいえない)」が浮かび、少なくとも両方の山の高さが示されないと判断ができないと考えてしまったのです。思考の領域をうまく限定できないAI脳(?)なのか。いやまあ作問が甘いのかもしれないけど。

寝床で寝る前に読んでいたのに、目がさえて寝られなくなりました。

* * *

前回の日記以降に誕生日を迎えました。
当日のディナーはひとり松屋だったりしてほぼ忘れつつ過ごしました。

・なんかすごく酒に弱くなった(飲んで疲れやすくなった)
・早寝すると体調がよい
・覿面に頭が回らなくなってる気がする
・仕事が遅くなった

一部(特に頭)は疲れのせいな気がします。
このところ酒を控えるようにしています。

* * *

20日の日曜はからっと晴れて涼しく、今年1番爽やかな日になるはずだと思いました。

2018年04月28日

ヘルシンキ出張

たぶん最後の海外出張でヘルシンキに行ってきました。
4日間のやや弾丸で、ほんとヘルシンキだけ。フィンランドはいいとこっぽい感じがしたので、また観光で行くかもしんない。とりあえず仕事に直接関係しないことだけ以下に。

フィンエアーを使いました。機内食はわりとおいしかったです。A350-900はうるさくないし座り心地もいい。何より直行便(行き9:30、帰り8:30くらい)が楽だな、ほんと。
空港から中央駅は電車で30分です。
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駅前は広々してます。午後3時でこの光の加減で、日没は午後9時くらいでした。
気温は6度。冬のコートを1枚羽織れば、汗もかかずちょうど歩き回りやすいくらいの気候です。船のスケジュールとか観光施設のオープン時間などを見るに、一応4月までは「冬期」らしい。
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なんかちょっと町並みが「東」っぽい感じがするのは気のせいかな。
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訪れるまで超うろ覚えだった地図。サンクトペテルブルクこんな近いの!

街はトラムやバスなど公共交通網が発達していて便利に動けます。Google Mapsを使えばどこにでも行けるし、停車場には「あと何分で何番のバスが来るよ」といった表示が出ており、日本よりぶらぶらしやすい。
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鉄道も含め、ときどき検札が乗ってきて、有効な乗車券を持ってないと罰金というドイツでも見たスタイルです。たまたま出くわさなかったけど。
チャーターしたバスに乗って動いてる途中、ガイドさんが「さあこれが渋滞ですよ!」と指さしたのが信号待ちの列だったりしたくらい車も歩行者も混んでなかったです。ただしスパイクタイヤをはいた車が走ってたり、港近くでは大型車がぶんぶん行き交っていたりで空気は相応に汚い感じがしました。

ホテルは駅から徒歩6,7分のところにあるGLO Hotelというところ。いいお部屋でした。
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さらに歩いて5,6分で大聖堂。1852年築。
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福音ルター派なせいか、中は質素ですね。
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写真だと分かりづらいですが、大聖堂は結構高いところにたっていて、階段には何人かが腰掛けてぼーっとしてます。現地の人に言わせると「やっと春がきたので日が照ってるうちは日光になるべく当たろうとしている」というのですが、どこまで本当か。
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* * *

今回お供をしていただく本は、ものっすごタイムリーに出たこちらの中公新書。

■石野裕子『物語フィンランドの歴史』中央公論新社,2017年.

【スウェーデン統治まで】
・いまフィンランドになっている地域には、8世紀ごろには西のスウェーデンからの入植が始まり、東からはノヴゴロド公国のスラヴ系民族が入植
・9~11世紀頃、ヨーロッパを荒らし回ったヴァイキングだったという証拠はないが、後に北欧諸国の連帯の文脈の中でフィンランドの祖先もヴァイキングもやってたことになったらしい(面白い)
・もともと自然信仰など土着宗教が根付いていた地域だが、11世紀にはローマ教会の北方十字軍が入ってキリスト教化。13世紀にはカトリック文化の影響下に
・十字軍はスウェーデンから遠征しており、ノヴゴロドがいる東への勢力拡大を図った。1323年にパハキナサーリ条約で国境画定。ここでフィンランド地方(ただし今の南西部だけ。内陸は荒れ地、北はもともとフィンランドと見なされていない)が正式にスウェーデン統治下に入る
・ここから500年以上、スウェーデンが統治。スウェーデン語が公用語に。主体は農民
・1700年からスウェーデンとロシアが戦った大北方戦争で踏み荒らされるなど、フィンランドはスウェーデンとロシアの争いの間に置かれる
・一方、16世紀に宗教改革でスウェーデンがプロテスタント(ルター派)に改宗すると、フィンランド住民もプロテスタントに改宗、聖書のフィンランド語訳が進行。1640年にはアカデミーができて知識人が育っていき、「フィンランド人」の出自や言語など「民族性」の自覚が進んだ

【ロシアへ】
・ナポレオンによるイギリスに対する大陸封鎖令への協力(ロシア)、非協力(スウェーデン)をめぐって両国が戦った「フィンランド戦争」の結果、1809年からフィンランドは「北欧」から切り離され、ロシア帝国の統治下に入る
・フィンランドは一定の自治が認められる。アレクサンドル1世は議会や議員、貴族の地位を保証し、信教の自由も認め、ルター派からロシア正教への強制改宗をしなかった。フィンランドは「大公国」となり、ロシアと異なる政治制度を持ったまま帝国に組み込まれた。スウェーデンからロシアへの移行で大きな混乱はなかった
・首都は1812年、西側にあるスウェーデンの影響力を弱めるため、もとのオーボからより東のヘルシンキに移転。サンクトペテルブルクを模した都市計画が策定された
・1848年の「諸国民の春」ではフィンランドにナショナリズムは生まれなかったが、ロシア側は警戒して検閲を導入・強化

* * *

と、ここで気になるのが、大聖堂の前にある「元老院広場」に立つおじさんの像。
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港が近いせいか海鳥に蹂躙されてますが、アレクサンドル2世です。
「中世から第2次世界大戦までフィンランドをさんざん踏み荒らし、戦後もガンガン内政干渉してきたロシアの皇帝がなんで街の真ん中に立っているのかスゲー不思議」と仕事で一緒になった英国の人がフィンランドの人に聞きまくっていましたが、「なんか結構自治権とか認めてくれたりしたしね」というお答えでした。ロシアで農奴解放(1861年)を進め、フィンランドでも自治の拡大や職業の自由を認めた彼は別枠、らしいです。

クリミア戦争の後にロシア皇帝がフィンランドの政治の安定を図るために身分制議会を定期的に開くようになると、フィンランド語を公用語とし、「農民文化」をアイデンティティとする「フェンノマン(フィンランド人気質)」というグループが生まれたとのこと。
そういや、この間読んだ『ホモ・ルーデンス』によく出てきていた叙事詩『カレワラ』はロンルートが口承詩を採集して編集したものですが、成立したのは1835年。そこから1880年代にかけて盛り上がった民族ロマン主義運動「カレリアニズム」に参加した音楽家がシベリウスですね。
(関係ないけどそこらの公園にフィンランドカラーの青や白の花が咲いてました)
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とはいえ、スウェーデン統治時代から貴族や知識階級が使っていたのはスウェーデン語(フィンランド語使用の推進者もスウェーデン語話者だった。ちなみにずっと時代は下るが、ムーミンもスウェーデン語で書かれている)で、今でもスウェーデン語が第2公用語になっています。標識にはフィンランド語とスウェーデン語が併記されています。
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ちなみに上のやつの意味は「券売機」(多分パーキングチケットの)。この単語はまだ結構似ているが、「フィンランド語とスウェーデン語ってそんな似てるんでしたっけ」って現地の人に聞いたら「全っ然違う」と。
モイモイ言ってるの(moiはhi、moimoiだとbyeらしい)かわいーなーと思いながら見てました。
あと、英語はスウェーデンのほうがちょっとうまい気がするけど、十分お上手でした。
ただ、おそらくoccasionとかchanceみたいな意味でpossibilityっていう単語を使う人が結構多くて気になった。フィンランド語でpossibilityを外来語として使ってたりとかするんだろうか。

余談、「フィンランド人はシャイだというがそう思うか」と前に出てきた英国人がフィンランド外務省の人に詰め寄っており「本当だ」との回答を得ていました。バス停で待ってる人たちがすっごくパーソナルスペースを広くとってるという話を聞いていたものの、実際そこまでではなかった気がする。ただし屋根のあるところからは確かにびろーんとはみ出てました。人と人の間隔は言われてみれば広かったかも。

* * *

一方、こちらの赤いのは1868年に建てられたロシア正教会のウスペンスキー寺院。
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中は派手。
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行きの飛行機で隣になった観光のおばさんが「前にヘルシンキにツアーで行ったときには赤い教会だけしか見られなかった」と言っていました。確かにどっちかだけ、だったらこっちかな。
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ちょっと高いところに上ると、いろんな方向に煙突が見えます。
フィンランドの工業化が進んだのは1860年代からで、製材に加えて製紙工業が盛んになりました。サンクトペテルブルクとの鉄道もつながり、輸出が盛んになったそう。

* * *

・そんでまた歴史の話になりますが、ロシアは1871年に統一したドイツを警戒し、防衛の体制固めをする過程でフィンランドのロシア化を図ります。独自の郵便制度をロシアの制度に統合し、ロシア語の地位向上や役人へのロシア人登用などを推進しました
・ロシア帝国はその後、日露戦争での敗北、国内での反乱などで疲弊し、フィンランド政体の回復や議会改革の要求を呑みます。1907年には初の女性「被」選挙権も実現します
・ただしロシア皇帝の権限はまだ強く残っており、皇帝による議会の解散も続発。ロシアへの一体化をさらに進めます。対して芸術は反ロシア化が進み、1889年には「フィンランディア」が初演。そういえばこちら↓、自分へのお土産、ウォッカ「フィンランディア」(ちっちゃい瓶)
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ついでに、シベリウスといえば、なんかよくわかんないモニュメントがあってインド人や中国人と思われる観光客がわらわらいたシベリウス公園にも行きました。
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閑話休題、
・ロシア革命が起こると、フィンランドは独立を宣言。「民族自決権」を綱領に掲げたボリシェヴィキ政権の承認も取り付けます。うまいなー。レーニンはフィンランドも革命やって社会主義に転んでくれると思っていたので認めたということもあるそうですが
・しかし、このあと格差を背景に、政府軍の「白衛隊」と革命を目指す「赤衛隊」に分かれた内戦が始まってしまいます
・1918年にやっとこ内戦が終わり、共和国ができます。当初は国の統一感を出すためドイツから国王を迎えようとしたら、第1次大戦でドイツが負けて計画が頓挫したとのこと。ふええ
・ちなみに日本との国交樹立は1919年(来年が100周年)
・「国民の家」(国家=家)という思想を背景に、福祉国家化に踏み出したのが1930年代(北欧としては後発だそうですが)
・内戦後の国の統一のため、フィンランド語の第1言語化運動も起きました。1937年にはヘルシンキ大学の行政言語がフィンランド語となります。ただしスウェーデン語も保護することに

・第2次大戦では、ドイツと不可侵条約を結んだもののドイツを信用していなかったソ連が、守りを固めるための領土交換などを求めてフィンランドに交渉を持ちかけますが、フィンランド側は中立政策をとっていた上、ソ連の意図を読み違えて決裂させ、結果としてソ連との戦争に入ってしまいます
・戦争はいったん休戦。そのあとドイツが北欧にまで進出すると、ドイツ軍の領土通過を認めるかわりにドイツからの武器調達や通商が盛んになるなど関係が深まっていきます。ドイツ軍のソ連侵攻に際してはフィンランドは中立を表明するものの、領土的な野心もあってドイツ軍に協力。結局、スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると一挙に旗色が悪くなり、厳しい休戦協定を結んで第2次大戦の終結を迎えました
・休戦協定でフィンランドはロシアに6億米ドル相当の賠償金を払うことになりましたが、ロシア側がおおかたを「鉄工品でくれ」と要求したことで、造船業などフィンランドの工業化が進みました
・また戦争責任裁判がフィンランド国内で行われ、戦時中の大統領や閣僚らが被告になりましたが、国内的には「でもしょうがなかったよね~」的な同情を集め、ドイツ占領下に置かれた他の北欧諸国と違って1人の死刑宣告も出ずに終結、戦争の”清算”を終えることになりました

・戦後はもう大国間の争いに巻き込まれるのは勘弁、ということで中立の道を行くことを決めます。ただしその中立は、ソ連とのつながりを保ちながら、西側からは「東の国」と見られることを回避するなど、微妙なバランスをとるという形でした
・この方は内戦時の白衛隊指揮から第2次大戦中のソ連との休戦交渉まで、危なくなると呼ばれて仕事をさせられたマンネルヘイムさんです。
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・ケッコネン大統領は、フルシチョフとの個人的な親しさをサウナでの会談などで築き、裏で外交を進めるという手法から「サウナ外交」と揶揄されたこともあるそうです

* * *

で、サウナ。連れて行っていただきました。街からちょっと外れたところにあるLöyly(蒸気って意味らしい)というところ。
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普通のサウナもありますが、フィンランド東部でメジャーだという「スモークサウナ」が体験できました。中真っ黒。ひとしきり温まったら、建物の背後にある海に浸かります。
弊管理人はえいやと飛び込みましたが、別に飛び込む必要はなく、設えられたはしごを使ってゆっくり浸ればよかったみたい。バルト海は冷たくて、手足を水にぎゅーっと握られるよう。船から落ちた人が死ぬ訳がわかりました。これほんとに健康にいいのかなあ。

サウナは出産の場所であり、食物の乾燥場所でもあり、亡くなった人の遺体を清める場所だとのことで、フィンランド人はサウナで生まれ、サウナから旅立つのだなと。海にも浸かったと言ったら「これでqualifiedだね」と言われたので、なんかそういう大事な場所なんでしょう。留学中に同じ寮にいたフィジーの子たちから「カヴァ」という白い汁を勧められて飲んだら妙に仲良くなれたのを思い出しました。多分違う話だけど。

サウナにレストランが併設されていて、海を見ながら食事ができます。
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おもくそピントがずれつつパーチの揚げ物。メシマズな国だと言われているらしいけど、ちゃんとしたところはちゃんとおいしかった。
他日、テウラスタモTeurastamoっていう施設で食べたバイキングのランチ。
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やっぱミートボールなのね。これもうまかったです。
昔、薬局だった建物を改装したカレリアCarelia Brasserie。
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3プレートランチなど。
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しかし最終日にはやはりエビチャーハン(意図しない大盛り)を食べてしまった。
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* * *

あとは岩に囲まれたテンペリアウキオ教会を見ました。
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かっちょいいヘルシンキ大学の図書館にも侵入。
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本棚は大部分が英語でした。550万人の国だとそりゃそうか。
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これ玄関入ったところです。上がってみるとオーバルの吹き抜けの周囲が勉強机になってました。
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この変な建物は礼拝所。騒がしい広場から一歩入ると、中は静かでした。
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新興住宅街にはでっかい鳥がいた。
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建設費の1%をアートに使う決まりがあるそう。必要かね、それ。
ちなみに、同じ区画に低所得の人が入る賃貸アパートと、高所得の人が買うマンションを混ぜて建てているということです。そうすると小学校とかで自然にいろんな階層の子が混ざる。いいね。
といいつつ、福祉国家でベーシックインカムも入れてみたような国で、カップを持った物乞いのおばさんが点々といたのはなぜだ(聞き忘れた。国籍ないと恩恵に与れないとかそういうことなのかも)。
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ムーミンショップの入ったショッピングセンターはご多分に漏れず吹き抜け。
そこはかとなく漂うヨーカドーな感じ。
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寿司屋、いろんなとこにありました。お互い魚食う人たちだからかね。
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マキッ&ウラマキッ。paritは「ペア」なので握り2巻の値段なんでしょうな。

最後に、空港のトイレ。左が男で右が女なんですけど。
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仕事中、赤ちゃんの服の色の話をしていたら「ジェンダーニュートラルカラーを導入している」というようなことを言っていて、進んでるねえと思ったものです。しかしトイレがこれじゃ迷うだろう。男女で区切るなら色も分けようよ。
あと海外では毎度のことだが小便器の位置が高い。チンコをほぼ水平に保つ必要がありました。

おしまい。
帰国便が成田に朝着で、ほとんど寝てないところから夜まで仕事したら2度ほど落ちました。

2018年04月22日

ダンデライオン

この土日は夏日。空が真っ青でしたが、あまり動き回る気も起きず、クリーニングに出していたセーターを取ってきたり、ジムに行ったり、お酒を飲んだりと、結局いつもの週末。
日曜はさばみりん、納豆、野菜炒め、昆布の佃煮で昼ご飯にしたところ、何かバタ臭いものが食べたくなり、お茶を求めて蔵前に出掛けました。
ダンデライオン・チョコレート。
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ブラウニーと冷アメリカン。とてもいい香り。チョコ屋だしなと期待してなかったコーシーも意外とよく合いました。しかし1食になるくらい重かったです。量的には6割でよかった。ホットチョコレートは思いとどまって正解。
買うならすぐ。座って食べるのも、待ったとしても回転は速い印象です。
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スメタナの「我が祖国」を聞き終わるまで歩いてから地下鉄で帰ろうと思ったら、余裕で上野まで歩いてしまいました。

* * *

30歳になる前くらいから、あまり臭くない酒としてウォッカを好んで飲んでいました。が、このところ体が辛くなることが多く、焼酎のお茶割りへの退却を進めています。(つまりキープボトルを焼酎に切り替えていくということ)
これ多分、体力の低下だけでなく、睡眠不足の日とぶつかることが多いせいかなと思います。何時に寝ても7時過ぎに目が覚めるので、日付が変わらないうちに布団に入ると体調がいいのですが、うっかり1時を回る日が結構あります。よくない。

* * *

■藤原晴彦『だましのテクニックの進化―昆虫の擬態の不思議』オーム社、2015年.
■藤原晴彦『似せてだます擬態の不思議な世界』化学同人、2007年.

擬態にもいろんなタイプがあって、防御のための擬態もあれば、攻撃のための擬態もある。
防御のための擬態の中にも、毒を持たないチョウが毒を持ったチョウに擬態するやり方があったり、毒を持ったチョウ同士が互いを似せて「危険性を知らない鳥に食べられるという、ある程度避けられないリスク」を分散させるやり方もある。

タコやヒラメみたいに環境に反応して機敏に擬態できるものもいれば、模様が最初からプログラムされていて、変更は進化によるしかないものもある。

表皮の細胞一つ一つが色素を作ったり作らなかったりしながら、ドット絵のように模様を作り上げる。擬態ってファッションみたいなもんだろうと軽視しがちですが、動物の発生が3次元のデザインだとすれば、体表の模様は2次元のデザイン。「何をどこに配置するか」を決め、指示を下す精鋭デザイナー集団が染色体上のどこかに隠れている。考えてみれば生物にとってごく基本的、かつ不思議なシステムです。

その秘密はDNAに書き込まれているはず。ということでダーウィン、ウォレス、ベイツから150年、遺伝情報の解読や分析技術が発達してきた今、ようやくそれに迫れるようになりつつあるらしい。研究対象が再現不能なために「疑似科学」と言われてきた進化論が「科学」になる過程でもあるのだとか。

2018年04月18日

ルーデンス

前にアマゾンでお古の文庫を買ったら随分汚いのが来て、捨てたことがありまして。
そしたら今般、講談社学術文庫で出た。折角ですしということで。

80年前の文章ですが、民族、言語、宗教を股にかけて「遊び」の諸相が描き出されていて、結構楽しく読みました。しかしその後、この本がどう読まれてきたのかは誰かに教えてほしい。
あと、訳者解説はカイヨワに結構厳しかったので、『遊びと人間』の解説も読まないといけない気がする。まあ多分そのうち。

■ヨハン・ホイジンガ(里見元一郎訳)『ホモ・ルーデンス―文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』講談社, 2018年.

人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した。

【遊びはこういうもの】
・遊びは文化現象である
・遊びは「余計なもの」である
・遊びは自由な=命令されていない、大らかな行為である。自由に使える時間の中で行われる
・遊びは生活上の必要から離れた、仮構の世界で行われるものである

・遊びは時間的に限定される(始めと終わりが明確にある)
・遊びは空間的に限定される(遊び場というのが設定される)

・遊びは規則を持っており、無視することは許されない
・遊びで人は何らかの役割を担う
・遊ぶ人は自分が遊んでいることを知っている(自覚的に規則と役割を引き受けている)
・それでも遊んでいる人はその役割に「なりきる」ことが求められる

・遊びは闘技的、対立的、競技的、党派生成的な性質を持つ。勝つことが肝心である
・勝ちたい、良いところを見せびらかしたいというのが社会的な遊びの原動力である
・不確定性をはらんだ遊びに勝つことは、神からの善や幸福の保証を意味する
・文化を豊かにするような遊びには、高揚感や没頭=真剣さが必要である

・遊びの共同体は遊びが終わってからも持続する(遊びが共同体を維持する)
・遊びは神話、祭礼儀式、神聖な行為の根っこにある。起きてほしいことを遊びとして「演じる」
・遊びはスポーツの根っこにもある
・遊びはたとえば次のようなところにも現れる:株の取引のような経済活動、訴訟(規則に縛られた言葉のゲーム。エスキモーは太鼓や歌で行う)、戦争(飾り立てた騎士道、礼節のゲーム)、知恵比べ(世界の秩序に直結した知=魔力を競い合うゲーム)、詩作(精神のゲーム、祝宴における叙事詩の暗誦、連歌も想起せよ)、哲学(レトリックの見せびらかし合いゲームを遊んだソフィスト、対立構図に立つプラトンの対話篇、学問論争)、ファッション(見せびらかしのゲーム)

・遊びの要素として、秩序、緊張、動き、楽しさ、無我夢中、が挙げられる
・「遊び」という言葉は、ゲルマン諸言語において真剣な闘技を、アラビア語やヨーロッパ諸言語において楽器の演奏を、ゲルマン諸言語や北米先住民の言葉で愛欲を表す言葉でもある

【遊びはこういうものではない】
・遊びは生物学的機能(生物学的に何かに役に立つから遊ぶ)ではない
・遊びの反対は「真面目」である(が、遊びは「真剣」に遊ばれる)
・祭祀的、儀式的、祝祭的性格がはがれ落ちた近代の遊びは機能不全といえる
・たとえばスポーツのように体系化、組織化、訓練が進むにつれ、遊びはその純粋さを失っていく
・社会的だった遊びが個人的なものになっていくと、遊びらしさはそがれていく
・ピュエリリズム。ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容、賞賛に付け批難に付け見境なく誇張すること、自己愛や使命感におもねる幻想にとりつかれやすいことなどの幼児的特徴(ファシズム批判)

……というような対比を頭に入れて読むと、本書で紹介される古今東西の膨大な「遊び」事例が整理されるかと思います。

今の語感でいうと、「遊び」は「ゲーム」という言葉のイメージとかなり近いと思う。
そんで多分こういうことだろうなと考えた:

第1に、文化、政治、外交などの中で、遊びの要素の増減はあっても、必然的に人は遊んでしまうのだということ。何かを探究しているうちに本来の目的を外れてオタク的な凝り方をしてしまったり、実利的なことを話し合っていたはずの議論がいつのまにか弁論大会みたいになってしまったりする、そのさなかに「あっ今、遊んでる!」と遊びを発見できるだろう、この本を読んでおくと。

第2に、遊びは「真面目」(遊びの欠如)と「頽廃」(遊びの過剰)という両極端の間の中庸なのだということ。遊びが何でないかについてはあまり(明瞭に)語られていないが、図式的にはそう思っておけばよさそうではある。

第3に、遊びは実用性、日常性、秩序、自然=必然性の「外側」なるものの気配を人間が感じ取る契機だということ。しかし、遊びは時間的・空間的に限られたものなので、必ず人間は「内側」に戻ってくる。それでも出掛ける前と同じところには着地しない、それによって世界が展開するのだということ。

そして、文化の駆動因である遊びが力を失うと、停滞、硬直化、腐敗が起きるということ。

2018年03月25日

行政学講義

東京は土曜に桜の満開宣言が出ました(備忘)。
土日とも晴れてて花見日和だったのですが、どちらもマストではないものの捨てがたいインプット系の仕事をしてしまいました。残念。

「仕事で見たあれは何だったんだろう」で後追い読書をするシリーズがグローバルジャスティス、国際法に続いてこれ。キレッキレ。世の中どうしてこうなってるの、という広い関心にも応えるいい本でした。新書にしては大部ですので、弊管理人の興味のあるところ、知らなかったところは厚めに、そうでないところはさらっと。

■金井利之『行政学講義』筑摩書房,2018年.

【1】「われわれ」被治者への支配としての行政

▽政治と行政
・為政者が被治者を統治するのが「支配」
・被治者が統治者になって自分を支配するのが「民主主義」=被治者と統治者の一致
・代表民主主義では、代表者=為政者を民主的に統制する必要がある
・支配の決定と実行をし、行政の作用のもととなっているのが「政治」
  →政治と行政の区別は、民主的支配の原理から発生する

・戦前体制
  ・天皇が統治権を総攬→公選職政治家が行政職員を指揮監督する関係は明確でない
  ・武力革命政権としての明治政府
    行政は為政者集団内の上下関係といえるかも(藩閥―官吏・公吏)
    縁故採用だけでなく、高文試験での選抜=近代官僚制(科挙がなかった日本で!)
    →試験制度、資格任用制度を経たサブ集団として分化してくる
  ・では政治家集団はどうやって再生産するか?
    (1)天皇の信任、天皇との近さで←実務的には既存政治家がリクルートする
    (2)政治家集団自身による縁故採用(コネ)←有能さを保証しない
    (3)内戦し続けて武勲で←軍人集団が政治をするようになると自壊(1945)
    (4)議会と民党との対立という「管理された平和的内戦」
      →ここで政府側傭兵として官僚が活用される。次世代政治家の供給源にも
 
・民主体制
  ・政治家は公選職政治家として位置づけが明確になる
    →民主制と官僚制という2つの支配原理が併存するようになる
  ・非民主体制では与党=統治者、野党=在野・被治者だったが、
    戦後は政党の与党能力が問われるようになる。野党の存在意義の曖昧化
  ・官僚が実質的に政治や政策決定を行う「官僚政治」は継続
    ※国士型=自分が天下国家を考えて政治を担おうとするタイプ
     政治型=政党政治家の正統性を受容し、政治に従うタイプ
     調整型=利害調整を重視するタイプ
  ・官僚と与党は協働を通じて似通ってくる→忖度。党派化↑、政権交代への対処能力↓

・「全体の奉仕者」(憲15)←→党派的官僚
  ・政治家は党派的選好を持った「一部の奉仕者」。複数政党制が「全体」を担保する
  ・行政職員に対する国民の選定・罷免権は明確に規定されていない
    →官僚が与党化しても「中立性」の毀損が見えにくい
  ・政権交代しても旧与党化した行政が新政権を拘束する
  →行政が政治全体からの指揮監督を得ない→民主体制と整合しない
  ・内閣人事局(2014)=党派的任用の制度化!

▽自治と行政
・「官治」=異質な他者による支配←→自治=同質な仲間による支配
  ※国政における「被治者と統治者の一致」でいう仲間は何?想像の共同体
・今日の「自治」≒地方自治

・戦前体制
    町村レベルでは地元有力者による支配を認めていた
    ただし明治政府は町村の監督も同時に実施していた
  ・国の出先機関(普通地方行政官庁)として府県庁、府県知事(官選)を設置
  ・町村は郡役所、郡長(官選)を設置し監督(1920年代に廃止。地理的単位として残存)
  ・府県には帝国議会より前から府県会(公選議会)があった
  ・自治としての府県制も存在(ややこしい)
  ・「地方制度」とは、国の地方行政制度+地域の地方自治制度
  ・市:公選議会に相当する市会が置かれた。市長は市会推薦→内務相選任
  ・町村:町村会は公選、町村長も選挙
    →官治の色が市より薄い。ただし国→町村長の機関委任事務も存在

・戦後体制
  ・民主化=国政自治の導入→地方自治は「国民」という統治者の意思実現を阻む?
    No. 現憲法では地方自治の制度的保障を確認している
    「国民」が地方自治体の「住民」を支配することは民主主義から正統化できない
  ・各層別の民主主義を成立させるには、国/都道府県/市区町村が分離しているべき
    →だが、戦前体制を引きずっている。国にも市区町村にも関係する仕事が多い
  ・民衆の意向には地域的差異がある→国政で野党的な立場も地域で支持されうる
    国の党派的傾向を緩和する作用があるかも

・権力分立のための自治
  ・権利保障は、民主主義(多数者の支配)だけではだめ
  ・権力分立:通常は「三権分立」だが、国レベルでは一連の組織に見えなくもない
    →立法/司法/行政(水平的権力分立)のほかに「自治制」(垂直的分立)が必要
  ・そのためなら地方は武力/宗教的権威/経済力で治めてもいい
    ……が、これらでは民主的正統性の調達ができなそう→住民自治
  ・国/地方×政治/行政の相互関係があり→p.61図4

▽民衆と行政
・支配そのものはなくせない(単純な弱肉強食に陥る)以上、せめてもの解決が自己支配
・行政は、公選職政治家が指揮監督しないと「自己支配」として納得できない
  政治家―(指揮監督)→行政―(支配)→民衆―(選挙)→政治家、のループ
  ※ただし、現状肯定と無責任体質を産む危険あり!
・上記回路に頼らず、行政という他者支配への反抗を制度化したのが「行政訴訟」
  そのため、司法(裁判所)は非民主的な要素を持っている
  少数派の無視が起きたとき、特に有効となる可能性あり
・行政を「他者」とみることは、民衆への自己責任回帰と諦念から離脱する契機にもなる
  参考)非民主制下の無責任
    ・ナショナリズム→「行政がこうなってる責任は国民に」(一億総懺悔)という操作
    ・結局、為政者は何をやってもOK、という事態

・被治者と統治者の同一性をどう確保するか
・民主制下では、身分制に基づいた行政職員の構成(家産官僚制)を否定
  →行政を異質の他者としない。実態は異質な他者による支配であっても不愉快感が減る
・公務員を日本国籍者に限るというのも同じ不愉快感の低減が理由か
  →しかし、被治者は日本国籍保有者に限らないはず
・戦前の高文試験は結局エリート階層からしか受からない
・戦後は公務員給与を民間並みにする=統治者と被治者の同一性を確保する手段の一つ
・しかし属性は:男女のアンバランス
  ただし「女性ならではの視点」を求めてバランスさせると性役割の固定に繋がるので注意
・行政過程への直接参加
  してくる人は本当に民衆の代表か?←→少数者の権利無視になってないか?

▽自由と行政
・情報公開を「知る権利」ではなく「説明責任」から進めてよいか?
・君主主権のもとで、民衆個々人の自由を確保するには?
  (1)権力分立。しかし君主主権とは共存しうる
  (2)国民主権への転換。しかし個々人は「国民」の単一意思に対する自由が保障されない
  (3)個々人の自由など基本的人権を、主権の上位にある「神聖な自然的権利」とする(仏)
    →(3)から(1)(2)を正当化する
    ※憲法前文「人類普遍の原理」。民主的決定でもやってはいけない侵害がある
・支配は避けられないが少ないほうがいい(夜警国家)/行政による自由の確保(行政国家)

【2】行政の外側にある制約

▽環境
・地理(資源など)、歴史(記憶、伝統など)、気候(災害)、自然環境、人口、
 家族形態の多様さ(ケア、子育て)、コミュニティ(近年は行政の便乗が困難に)

▽経済
・事業をやらない行政(非指令経済)は民間の上がりに依存している(租税収奪)
・受益=負担?
・収奪強化→経済疲弊(ラッファー曲線)
・経済界も行政に要望
・その制約への反作用として行政は経済を支配しようとする。国営企業、規制と誘導

▽外国
・国境画定(領域国家)→帝国→国民国家(国民の一部が統治者でない矛盾が起きる)
・支配の及ばない「外国」が確定する→外交、国際機関行政の必要性
  ※戦前の高文試験も行政科と外交科は分離

▽特に米国
・米国に対して日本は「自治体」的な側面を見せる
・ポツダム宣言:いわば「暴力革命」、国家主権の消滅
→自治権回復の条件:民主化、共産主義革命の否定、平和主義、米国監督下の再軍備
・日米安保:在日米軍という最強の「在日特権」、暴発を抑止する「瓶のふた」
・為政者のタイプも植民地っぽくなる
  (1)支配を受容しつつ交渉する面従腹背
  (2)本国(=米国)統治へ寄り添う植民地為政者型
  (3)本国留学を経て思考が同化、ソフトパワーに負け続ける植民地エリート型
  (4)対等な日米関係をベタに信じる
  (5)面従腹背しつつ謀反・独立を狙う第三世界の反共独裁者型

【3】行政の内側にある為政者連合の姿
▽組織
▽職員
▽外周の団体(拡大した行政)
▽人脈

【4】権力(被治者の同意を調達すること)の作用

▽4つの力と行政の作用
  ・政策に向けて使う―政策管理
  ・4つの力=行政資源の差配―総括管理

▽実力=物理的強制力。警察力と防衛力
・警察:国家警察→戦後の自治体警察→都道府県警察
・軍:日本の文民統制と米国からの間接的な文民統制

▽法力(法的権力)
・権力統制の手段
  (1)実力を持つ行政から立法を分離する
  (2)立法は被治者(の代表)が行う
  (3)不正義な立法を否定する違憲立法審査権を裁判所に持たせる
・実行力は実力が裏付けるが、一罰百戒はテロと同じ。萎縮効果
 →恣意的な実力行使を制御するための法力が、恣意的に実力行使する矛盾
 →法がそれ自体として支配の実効性を持つために:ウェーバーの「合法的支配」
  =合理的(予見可能)・非人格的(誰が為政者かに依存しない)な秩序への信仰や帰依
・官僚立法、法令協議、内閣法制局、国会答弁
・検察
・裁判所:行政のチェック/行政の用心棒、両方の顔を持ちうることに留意

▽財力(経済的権力)=財源と財政
・中央銀行の独立:行政サービスの財源確保と通貨価値の安定が両立しにくいため
  ただし人事は政府。独立性は限定的
・大蔵省(主計局)支配
・会計検査院

▽知力=情報。他の3権力の行使を円滑にする。被治者の内面管理をする
・被治者もこれを使って反作用を及ぼすことができる
・領域空間と領域内の人間(→徴兵)とその財力(→徴税)の把握
・戸籍=家父長制的な把握→いずれ個人番号へ?
・統計
・教育・文化:被治者が支配される能力。
  支配される「主体」の創出―国語、勘定、遵法……
  被治者と為政者の同一性の創出
  内面の自由つき完璧な同一性=完璧な民主制(ないと完璧な独裁)
  広報と情報秘匿は支配の道具 
  答責性←野党質問、記者会見
  諜報←情報機関
  知識の格差→権力の格差
    秘密保護法(行政>>市民)。情報秘匿は市民を「敵方」と位置づけている
    逆に行政<<市民だと、外部専門団体が行政を左右してしまう
    格差の縮小:情報公開制度、公文書管理制度、個人情報保護制度

2018年03月06日

階級と性差と職場飲み

■橋本健二『新・日本の階級社会』講談社, 2018年.

ほんと久しぶりに講談社現代新書を買った気がする。20年前は買う新書の大宗を占めていたのだけど。

「格差社会」を超えて「階級社会」と化した現代日本を議論するためのデータを主に紹介したうえで、どう乗り越えていくかのたたき台を示した本だと思います。出たらすぐ読まないとどんどん昔の話になるので、急いで。

本筋から若干外れますが、女性がどういうグループに分かれるかを論じた第5章が面白かった。「彼女たちの人生の多くは、本人の所属階級、配偶関係、夫の所属階級というわずかな要因によって決定されているのである」(p.200)。つまり有無も含めた「配偶者」を抜きにして女性の人生が語れないということ。

* * *

先日読んだ『日本のフェミニズム』のトークイベントに出掛けてきました。

当面は本と向き合おうと思います。

* * *

初任地を離れてから、自分のを含めてすべての歓送迎会を欠席しています。それにもかかわらず、そのことを知っている上司からなお、来月異動する同期の送別会の幹事をやってくれと打診がありました。
  「仕事ですか」
  『仕事じゃないけどさ』
  「じゃあすみませんがお断りします」
で終わりました。
きりがないんですよね。一生かかわるつもりはありません。

札幌から転勤するときも、送別会を断ったら、支社長から「なんて聞き分けがないんや。殴ったろか」と脅迫されましたが、
  「今まで誰も送ってないのに、僕だけ送ってもらうことはできません」
という超うまい論理構成で切り抜けました。謝絶の実績を積み重ねてきたことが奏功した事例。また、このような積み重ねによって周囲から「そういう人」と認知されることが大切ですね。
他人の配慮を期待したり迎合ばかりしていると、効率的に幸せにはなれない。

2018年02月28日

読んだり食ったり

■ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年』早川書房,2009年.

まだ読んどらんかったんかいというあれ。
480ページあって、200~300ページあたりで一度だらけたものの、そのあとは急に緊張感が戻って一気にフィニッシュしました。巻末にあるトマス・ピンチョンの解説の最後ではっとさせられました。これ絶対必要。電子書籍版にはついていないらしく、紙の本を買ってよかった。

1949年に書かれた本にして、既にナチスとソビエトを総括しきり、では徹底したディストピアはどんなものになるのだろうと思考実験を進めてるところが面白い。だからこれはソ連の風刺ではない。あと描写がとても映画的ですね。

弊管理人は「例え話」を使って何かを言うということに結構な警戒感があります。説明されるべき肝心なことを、それとは別のものを持ってきて説明すると的を外す、あるいは欺しになる危険が大きいから。なので、このフィクションを出汁にして時代診断をするのもちょっとと思う。考え方のライブラリに置いておくことは妨げないとしても。

* * *

ふと「おいしいもの食べたい欲」が戻ってきて、いろいろ食べました。
銀座で仕事があったので、グラニースミスのアップルパイをテイクアウトして会社のデスクで。
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褒めてるように聞こえないかもしれないが、マックのアップルパイのすごいいいやつ。
今回は季節メニューの酸味が強い林檎(その名もグラニースミス)のパイでした。レギュラーがほかに6種類あるそうなので、次は店内で、アイスかなんか添えて食べたい。コーヒーと。

* * *

赤坂見附、しろたえのチーズケーキなど。
日曜の閑散とした界隈でここだけ行列だったので、喫茶しにきたけどあほくさ、と思って持ち帰りに切り替えた次第。
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「ちっさ!」といったん落胆してしまいます。しかしこれはほぼクリームチーズですよね、というくらいの濃厚さなのでこのサイズでいいのだと思い直します。一発目のインパクトで平伏する味なわけではないものの、これは時々思い出して買いに行ってしまうかも。

* * *

西武新宿、焼きあご塩らーめん たかはし。
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これは厳しい寒さの中並んでこそおいしいのかもしれない。いや普通に食っても十二分においしい。

* * *

野菜は食べてます、念のため。

* * *

2月も晦日になってしまった。
年初からいろいろ種まきした案件の刈り取りは上旬で一応一段落しました。しかし、このまま仕事は少し出力高めで進むのもいいかなと思って、何かとぱたぱた動いています。そんな大したことはしないんですけど。そして多忙なほうが元気で明るい弊管理人の性格は健康にあまりよくないのではないかと思っています。

2018年02月18日

日本のフェミニズム

「性差別主義者でなければ皆フェミニスト」「フェミニズムを勉強することは大切ですが、生半可な勉強ではフェミニストと名乗ってはいけないということはありません」(p.10)という戸口の開放から入る。実際は奥深いし、貫徹するのは大変なのだけど、ぶん殴っといて「何で痛いか分かるか!?」と凄むみたいな本ではなかろうと俄然読む気が起きたのでした。

環境問題とかもそうですけど、歴史は繰り返す系の分野だと「いきさつ」を知っておくというのは大事だなと思います。相変わらずぼこぼこ浮上する問題たちの解決モデルをあらかじめ手近に引き寄せておけること、歴史を背負った用語とバズワードを見分けられること、カリカリしがちな人たちとお話できるようになること、あたりか。ブックレットくらいの大きさですが、知らないことがいっぱい書いてあって、弊管理人にとってはためになりました。

会社の図書室の新着本をかっさらうという最近のパターン。つまり買ってない。しかしこれは買って持っておいてもよかった。ごめん。このタイトルからすると続編が出るのだろうか。

■北原みのり編『日本のフェミニズム since1886性の戦い編』河出書房新社, 2017年.

▽原点:東京基督教婦人矯風会(矯風会)
・矢島楫子ら56人で1886年設立
・公娼と妾の廃止、禁酒を要求
・シスターフッド:慈愛館を設立(1894年、大久保百人町)。遊郭から逃げる娼婦の隠匿、就職支援、シングルマザーの自立支援など実施
・現代からは「性産業で働く女性を見下した保守的な運動」との批判あり(ex.雑誌「婦人新報」に「醜業婦」という表現も)

1. 日本のフェミニズム

・定義:「社会的、政治的、経済的に両性が平等だと信じる者」(アディーチェ)、「性差別主義的な抑圧をなくすための戦い」(フックス)、「性差別主義者以外」(三浦まり)

・第1波:男女同権を目指す。財産所有、政治参加、離婚、親権……
  明治時代には議会傍聴、政治結社への参加を解禁する法改正を要求
  大正以降は政治参加、選挙権(衆議院通過したが貴族院で否決)
  →選挙権は1945年に実現(ただし植民地出身男性からは剥奪)
  1946年に39人の女性代議士誕生(だが2017.10でも47人)
・廃娼運動:貧困と性差別の凝縮。国家建設と軍事化から生成
  1956年、売春防止法で一応の成果
  しかし売春の恐れをする女子の補導、保護更生。買春の責任は不問

・第2波:1970年代。ウーマン・リブの時代
  男性支配の社会構造(家父長制)からの解放。「個人的なことは政治的なこと」
  性規範の変革・性解放もテーマ
  中ピ連。ピンクのヘルメット、ミニスカ。「嘲笑」というバックラッシュ形態の顕在化
  リプロ。1972-1974年、経済理由の中絶禁止、障害を持つ胎児の中絶を可能にする「胎児条項」を入れる優生保護法改正の動きへの抵抗。女性団体、障害者団体の抗議で阻止
  1975年、世界女性会議(メキシコ)
  1977年、アジアの女たちの会(日本人男性による買春観光への反対)
    ※1973年、第1回日韓教会協議会での「キーセン観光」告発~慰安婦問題へ

・制度化(第3波):1980~1990年代
  1979年、女性差別撤廃条約の採択
  1985年、日本が批准→雇均法、家庭科の男女共修、国籍の父母両血統主義化
  1986年、土井たか子が社会党党首
  1989年、マドンナブーム。自民も野田聖子を擁立(女性代議士がいなかった)
  1995年、第4回世界女性会議(北京)、北京宣言と北京行動綱領
  1999年、男女共同参画社会基本法
  2001年、内閣府に男女共同参画局、DV防止法(議法)

・バックラッシュの時代
  1997年、「つくる会」~歴史修正主義
  慰安婦問題(1991年、金学順)ではアジア女性基金めぐり運動も割れる
    ※慰安婦制度は公娼制度が基礎なので、日本フェミの核心的論点といえる
  ジェンダーフリー(北京会議~)批判。内閣府の使用差し控え、図書撤去

・現在
  2016年、トランプ当選~ウィメンズマーチ
  痴漢、セクハラ、女子力、保育所、家事育児分担
  憲法24条改正(家族制度の強化)、少子化対策、2017年性犯罪の厳罰化後も残る課題

2. 廃娼運動

・戦前日本の人身売買。家の没落→遊郭への身売り→借金返済(年季明けへ)
  娼妓(政府公認、遊郭で売春する女性)、性病検査義務づけ(客を守るため)
  芸妓(三味線や歌、踊りが本業だが売春もする)
・借金返済はなかなか進まない(吉原では3/4が店の収入とも)
  1900年、廃業の自由を認定。しかし借金返済は残った
  森光子(遊郭から脱出、廃業達成)『光明に芽ぐむ日』(1926年)
・近代には遊郭は「貸座敷」へ。娼妓が場所を借りて自前の商売をする体裁に

・1886年、矯風会→1894年、慈愛館
・地方矯風会も順次設立、1920年代には廓清会と帝国議会、地方県会に廃止請願
・1916年、大阪飛田の遊郭建設に大阪支部(林歌子ら)が反対運動(失敗)
・1920年代は公娼制度批判が高まった(男の浪費批判)が、遊郭での買春も大衆化した
・1921年、婦人及児童の売買禁止条約。21歳未満の女性の売春勧誘禁止。日本は違反
・1931年、国際連盟の東洋婦女売買調査団による追及。政府は「自由意思による」と反論
・日中戦争以降、日本軍「慰安所」設置

3. 売春防止法

・1945年8月18日、内務省刑保局長「占領軍の駐屯地に性的慰安施設を」
  →芸妓、娼妓らに米兵の相手をさせる慰安所整備(東京に25カ所)
  ※「防波堤」論。援助交際擁護にまで引き継がれる
・1946年1月、GHQが「公娼制度廃止に関する覚書」を政府に送付
  「公娼はデモクラシーに違背する」→娼妓取締規則の廃止
  ただし次官会議は売淫禁止の例外として「必要悪としての特殊飲食店」を設定
  →「赤線」の誕生
  一方で特殊飲食店外の街娼を「闇の女」として取り締まり強化
  →17カ所の自立更生施設。後、売春防止法下で婦人保護施設に

・1947年1月、ポツダム政令勅令9号「婦女子に売淫させた者」への処罰
  ただし占領終了で無効になる恐れあり
  →1951年、矯風会などが「公娼制度復活反対協議会」、96万人の署名
 1953年、市川房枝ら超党派議員団。労働省で売春実態調査も
  買春処罰を盛った売春禁止法案作成、しかし否決
 1956年、閣法で売春防止法。人権への言及と買春処罰は削除、業者や街娼は処罰
  →公娼制度の終了

・残った課題:
  売春防止法では「性交」を禁止。風営法では「性交類似行為」を容認
  世界では買春防止法に変えていく流れ
  社会問題を背景にした売春に対応できず。2014年、女性自立支援法(仮)の要求も

4. リプロ運動

・Reproductive Health + Reproductive Rights。すべてのカップルと個人が、子どもの数、出産感覚、時期を自由かつ責任を持って決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという基本的権利と、最高水準の性と生殖に関する健康を享受する権利のこと
・第2波の時期、女性の自己決定権が強く主張されるようになった

・近代以降
  女性の性と生殖は国家権力、家父長制による管理対象とされてきた
  1880年の旧刑法、1907年の新刑法でも人工妊娠中絶の禁止(男性は不問)
  産めない女性への離婚言い渡し、未婚=処女思想
  1936年、女優・志賀暁子の堕胎裁判
  1941年、人口政策確立要綱。1夫婦に5人の子が目標。産めよ殖やせよ
 
・戦後。食糧難、住宅難
  1948年、優生保護法。「産むな殖やすな」への転換。堕胎の容認(経済条項)、
    中絶の増加
  1948年、助産婦が国家資格化。1952年の受胎調節指導員→避妊指導の普及
  1954年、加藤シヅエら「日本家族計画連盟」。避妊と性教育

・高度成長期。労働力不足
  1960年代末~「中絶は犯罪だ」
  1972年、優生保護法改正案。経済条項の削除、胎児条項の新設
  1972年、中ピ連でピル解禁訴え

・「優生(不良な子孫の出生防止)」部分の削除
  1994年、カイロ会議で国際的非難
  1996年、優生保護法→母体保護法。優生部分の削除
  現在、NIPT→中絶(新たな優生思想)、自己決定論→自己責任論、「産む機械」
  2003年、少子化社会対策基本法。少子化は「未曾有の事態」
    性教育の停滞←→2013年「女性手帳」(不発)、婚活、妊活、卵子の老化……
  ※堕胎罪は存続。中絶は悪、との視線も
  ※過去の不妊手術について国は「適法に行われた」

5. レズビアン運動

・1970年代、女性同性愛は「異性愛に向かう仮の姿」「女として成熟すれば治る病気」
  「女郎グモ」「化け物」
・1971年、鈴木道子「若草の会」。出会いの場(1986年閉会)
・1980年、相良直美事件。アウティング
・バブル時代、新宿二丁目への集積

・田中美津ら、リブ新宿センター。レズビアン・フェミニストも
  おしゃれは「男への媚び」。ノーメイク、ショートヘア、Tシャツ、ジーンズ
  女性ジェンダーの拒否
・国際女性会議→ダイク・ウィークエンドへ
・1990年代には、若者やトランス女性から「女らしくて何が悪い」と反発も

・1991年、ゲイ・ブーム
・1994年、パレード。G/Lの諍いで1996年頓挫
・Lの出会い系ポータルBravissima!、L&B向け『アニース』
・性指向の一形態であり、人権問題としての差別という理解の普及
・2003年、性同一性障害特例法→戸籍変更が可能に(これはTの話か)
・沈黙しがち、忘れられがちな運動

6. 80年代の「性の自己決定」

・1986年、西船橋駅ホーム転落死事件
  ストリッパー女性にちょっかいを出した高校教師が抵抗され線路に落下し死亡
・1987年、池袋事件
  買春男性がナイフで脅した女性に反撃され死亡
・1988年『働く女性の胸のうち』
  「三多摩の会」によるハラスメント、性虐待の調査結果
・1992年、ゆのまえ知子「夫(恋人)からの暴力調査研究」
  →2001年、DV防止法に
・「セックスワーカー論」からの反論。「性産業従事者への差別をフェミニストが助長」
・風俗は女性の最後のセーフティネット?

7. AVの中の性暴力

・2008年『ひとはみな、ハダカになる』―AVがごく普通のセックス?
  運動vs「表現の自由」
  →PAPS(2009年)。「AV出演強要」の相談。性暴力ではない?ファンタジー?
・作品の過激化、視聴者が「楽しむ権利」、出演者の「自己責任」論や違約金
・AV出演強要:意に反した出演、販売(ネット流出)、生産現場での性暴力、噂の拡散

コラム:2017年刑法改正

・強制性交等罪の創設:「女性器への男性器挿入」(旧法強姦罪)からの拡張。肛門、口への挿入も。男性の被害者も。(挿入するのが手指や異物の場合は見送り)

・法定刑の引き上げ:3年→5年以上の有期懲役。酌量減刑がなければ必ず実刑

・監護者強制性交等罪の創設:教師、スポーツ指導者、同居の親など、加害者が優位な立場にある場合、「逆らえない」ことで「暴行または脅迫」が成立しにくかった。改正で、影響力に乗じてわいせつ、性交等をすると強制わいせつまたは強制性交等罪と同様の処罰に

・今後の課題:
・本人の同意がないわいせつ、性交があっても、暴行や脅迫がなければ強制わいせつ罪、強制性交等罪が成立しない「性交同意年齢」(13歳)は据え置き
・暴行・脅迫の要件が厳しすぎ。裁判もそうだが、起訴の可否判断にも影響する

2018年02月13日

おそろしいビッグデータ

■山本龍彦『おそろしいビッグデータ』朝日新聞出版, 2017年.

会社の図書室みたいなところにある新着本の棚から、まだ誰も借りてない本をかっさらってくるのが弊管理人の最近の趣味です。
本書、小さな新書だけに明快です。ビッグデータ/AI万歳とかマジ大丈夫ですかというのは、やはり技術職以外の人に言ってもらわないとかんのでしょうね。

【プライバシー権の限界】

・私生活をのぞき見られ、暴露されないという「古典的プライバシー権」。ここには「更正を妨げられない(人生を再出発する)利益」=「時の経過」論≒適度に忘れられる権利、が含まれている
・そもそも、プライバシー権で守られるのは、自分で自分の人生をデザインするため
→常に見られているという感覚があると、行動を萎縮させ、民主主義にも悪影響を及ぼしうる
→一つ一つは些細な情報が統合されることで、その人全体を描き出す「プロファイリング」ができてしまう
→自分の情報の行方をコントロールする権利という「現代的プライバシー権」に発展(最高裁は正面から認めてはいないが、改正個人情報保護法には入っている)

・現代的プライバシー権が保障されていたとしても、個人情報を提供する際のプライバシーポリシーへの「同意」は危うい
  ・ポリシーはいちいち全部読まない
  ・同意しないとサービスを受けられない
・プロファイリングの材料になる「普通」の情報入手に対する規制が緩い
  ※EUの一般データ保護規則GDPRはプロファイリングの中止請求権を認めている
・一つ一つは特徴のない属性を寄せ集めていくと、個人が立ち現れてしまう
  これが要配慮個人情報入手の抜け道になってしまう
  ←なのに、日本の個人情報保護議論は情報セキュリティの話ばかり

・予測精度の向上のため、個人の履歴がどこまでも記録され、遡られる
  ・忘れられる権利、人生を再構築する自由(憲法13条、個人の尊重原理)の侵害
  ・データ・スティグマを恐れるために萎縮した人生を送ることになる
  ・親の人生や遺伝的特徴との相関が見えると、「血」による判断が有用に
    →個人の尊重原理がここでも侵害

【バーチャルスラム】

・(寓話)ビッグデータ解析で、大学時代に就活に失敗した履歴、ファストフード店での低賃金バイトの履歴などから「信用力が低い」と判断。融資拒否。それがさらに同様のプロファイリングをする組織からの連鎖的な排除につながる。SNSで同じ境遇の人と悩みを交換するとさらに信用力が低くなるとして交流を避け、孤立
・だが、既に導入されつつある――ソフトバンクなどが採用活動へのAI導入方針/みずほ銀行は個人向け融資判断にAIプロファイリングの導入を発表/中国のアリペイも信用力の査定サービスを開始

・AIの誤謬(うわべだけの相関関係を判断に取り入れてしまう可能性、集積データの偏りを排除できない、現実に存在しているバイアスが再生産される)のリスクが残る
・いずれにしてもやっているのは「あなたのようなセグメントへの評価」であって、「目の前のあなたへの評価」ではない
・しかも、高精度とされるAIの判断は疑われにくい
・AIの判断過程が不明、あるいは知財や「裏をかく」恐れを理由にアルゴリズムが開示されない
・プロファイリングにより、原因はよくわからないが排除されるという「新たな被差別集団」が誕生する(しかも誰がそこに落ちるかは予測しがたい)恐れ

【差別の助長】

・再犯リスクを評価するアルゴリズムにより、黒人の再犯リスクが高く見積もられ、裁判所でより重い刑罰が言い渡される→米国の裁判所で実際に再犯リスクの評価システムを導入
・もともとは刑務所の満杯を受けて、再犯リスクの低い人を社会で更正させる目的
→ところが、黒人の再犯リスクが白人の2倍と見積もられてしまった
→裁判官には「最終判断に使わないように」との警告(ルーミス判決)

・将来の犯罪を予測する「予測的ポリシング」による人種差別の助長も
→米FTCの懸念表明(2016.1)

【個別化マーケティング】

・「個人の尊重」の4層
  (1)生命の不可侵
  (2)身分制からの解放
  (3)人格の自律(自分の人生をデザインできる)
  (4)個人の選択と、その多様性の尊重
・セグメントに基づく評価を個人に押しつけることは(2)に抵触
・選択肢やニュースのカスタマイズ、不安に基づくマーケティングは(3)に抵触
・カスタマイズされた情報が意思決定を誘導することも考えられる
  →便利だが、逸脱や愚行の自由が剥奪される

【民主主義の危機】

・個人の政治的信条に関するデータ集積をもとに、おすすめニュースをカスタマイズ。その信条が強まる=フィルターバブル(パリサー)、デイリーミー(サンスティーン)
→集団分極化(仲間だけで話しているうちに過激な方向にシフトする現象)
→政治的分断
・対抗手段=バブルを崩すこと:伝統メディア、否応なく目に入るデモ行進
→ポータルサイト、ネットニュースにも反対意見へのリンク義務づけ?

・投票行動も操作できる可能性(FBによる実験=デジタル・ゲリマンダリング)
・ビッグデータ解析に基づいた選挙キャンペーン(オバマ)
・しかし、個別化選挙で勝った政治家は個別有権者の思い通りにはならない
→選挙で政治の正統性が調達できないかも

【対抗策】

▽GDPR
・プロファイリングに対する中止請求権
・自動処理のみによって重要な決定を下されない権利
・透明性の要請(アルゴリズム開示ではなく、何を判断に用いたか・その理由の開示)

▽米FTC
・ビッグデータ解析により不利な決定を行う際の理由開示
・人種・国籍・性別を理由にしていないかのチェックを企業に要求
・予測精度と公正さのバランスを要求
 (特定区域に特定属性が固まっていることがあるため、居住地を使わない判断も)

▽日本でやりうること
・プロファイリング「結果」へのコントロール権
・一定の時間を経過した過去を「ほどよく忘れてもらう」権利
・つながるネットワークを自分で選ぶ権利(≒データ・ポータビリティ)
・データに適度なノイズを混ぜるなど、匿名性を担保する技術
・データ提供者への直感的な告知
・データ提供を拒否してもサービス利用を拒否しないこと

2018年02月10日

神は数学者か?

■マリオ・リヴィオ(千葉敏生訳)『神は数学者か?―数学の不可思議な歴史』早川書房, 2017年.

数学が自然や宇宙をどうしてこんなにうまく説明できるのか?という「数学の不条理な有効性」問題(ユージン・ウィグナー)について考えた本。大半はピタゴラスからひも理論まで駆け抜ける数学、物理学の歴史で、最後の章が問いに対する応答になってます。

最近だけでも、ヒッグス粒子あったああああとか、重力波見えたああああとか、何十年、百年も前に理論的に予言されたものの存在が、実験や観察によって確かめられるということが相次いでありました。古くは惑星の軌道が計算によって非常に正確に予測できたり、ひもの結び目について構築された理論がDNAの分子構造にも適用できたりと、数学の不思議な予測性、発見性には枚挙に暇がありません。ひょっとして神は数学者で、それに基づいて宇宙を創造したのでしょうか。違うというなら、人間には自らが発明した数学を通して見られるように世界を見ているだけなのでしょうか。

※↓何かあったら読み返す用メモなので粗いです。

・宇宙が数学に支配されていると考えたのがピタゴラス学派。音楽、宇宙、そして「対(つい)」。数は道具ではなく、発見されるべき実体だった
・プラトンにとっては、数学的対象の世界は、五感で認識できる「仮の世界」とは独立した永劫普遍の世界、数学を使って「発見」すべき世界である。現代に至る「プラトン主義」の源流となる考え方だ
・アルキメデスはそうしたイデアと、現実ここにある図形や立体との関係を追究し、新たな定理や問題を見いだしていった。微積分の発想も既に取り入れている

・近代、宇宙の言語=数学と思考実験を手がかりに「経験では明らかにならない現象の原因」を探究したのがガリレオ。望遠鏡を自作し、それを宇宙に向けた。木星は衛星を持ち、金星は太陽の周りを回っていた。黒点を観察していたら太陽も自転しており、天の川は無数の星の集まりだということ、太陽系外に恒星があることも分かってしまった。聖書(の解釈を独占する教会)との矛盾

・さらにデカルトは宇宙だけでなく、人間の知識一般が数学の論理に従っていると考えた。一組の数値を使って、平面上の点の位置を明確に示すことができる解析幾何学が始まる。代数と幾何の共通言語の発見。関数は法則へとつながった
・そしてニュートンは重力の理論に辿り着いてしまう。抽象的な数学分野が、物理的な現象の説明の鍵であることが認識された時代だった

・では、社会や経済、生物は数学で記述できるか?――相互関係があまりに複雑なものに対するアプローチとして統計(過去)と確率(未来)が生まれる。グラントの死亡表研究、ケトレーによる正規分布の発見、ピアソンの相関係数。確率はギャンブルから遺伝学にまで取り入れられた

・事件は19世紀に起きる。ロバチェフスキーらによる非ユークリッド幾何学の構築。ガウスもそこに辿り着いていた。リーマンは直感的に想像可能な3を超える次元の幾何学の端緒を開く。公理が違えば別の幾何学が成立してしまう。数学は人間の心が発明したものなのではないか?

・20世紀、ラッセルは数学を論理に還元する。ド・モルガン、フレーゲ、ブールから記号論理学へ。ゲーデルは形式体系が不完全か矛盾していることを示した
・それにしても、数学の言語で表現された不完全な形式体系のゲームで、なぜ宇宙はこんなに説明できるのだろう

・最後の第9章が、その問題と正面から向き合う
・数に関する認知は人間の脳に備わっている、その前提が人間に数学で認知できる世界を数学的に描写させている(そういう眼鏡をかけているからそう見える)のかもしれない
・問題を切り分ければ、素数などの「概念」を発明し、素数に関する「定理」を発見する、という営みなだけなのかもしれない
・数学の発展とともに、宇宙を説明するのに適切な道具が生き残ってきているのだという進化的な説明もできそうだ
・あるいは、単に数学で説明しがたいものを見てないだけ、なのかもしれない
・いや、対象ごとに使いやすいツールを発明してきた、というのが本当ではないか
・結局、分からない。しかし絶対の保証がないところで探究を続ける、そういうもんではないか

非ユークリッド幾何学は確かに衝撃なのでしょうけど、それは従来の幾何学を倒したのではなく包摂しただけで、むしろ数学の一般性を高めたのではないかしらと思うのですが。読み物としてはエピソードいっぱいでとても面白かったです。

2018年01月13日

山谷と吉原

学生時代の友人からお声がけいただいて、TABICAというサイトで開催している街歩きツアー「吉原の今昔散策」に参加してきました。

スタート地点の南千住駅から歩いてすぐのところにあるのが、小塚原回向院。
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近隣の小塚原刑場で処刑された罪人や行き倒れの人たちが弔われているところだそうです。当時は禁止されていた解剖を杉田玄白らが行ったのもここ。安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内(ただし正式なお墓はそれぞれの出身地にあるそう)だけでなく、鼠小僧や、「報道協定」が初めて結ばれた誘拐事件「吉展ちゃん事件」(1963)の被害者・村越吉展氏(弊管理人は吉展ちゃん事件が報道協定のきっかけになったと勘違いしてましたが、それは「雅樹ちゃん事件」(1960)でした)のお地蔵さん、カール・ゴッチのお墓までありました。
謀反人のお墓がなぜ三つ葉葵のついたお寺にあるのかは分からないままでした。

お隣は延命院。同じく処刑された人らのための「首切り地蔵」がいます。
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小塚原刑場ってどこにあったのか、ネットで調べてもよくわからなかったのですが、今回やっと分かりました。延命院の隣から、現在の線路と、線路を渡ったところにある東京都交通局の施設のあたりまで細長く延びていたとのことです。火葬が追いつかず、かなりの土葬をしたせいで、つくばエクスプレスを通すときの調査で大量の人骨が出土したとか。
処刑されたものの供養――。悪霊化するのを恐れたのか(これは仏教の発想ではないのかもしれませんが)、それとも罪人もまた救われるべきと考えたのでしょうか。

刑場のあったあたりはやはり民間に分譲というわけにはいかず、都営アパートや都バスの基地になっています。いわくつきの地には学校が建つこともあり、それが「学校の怪談」というジャンルが生まれる元になったのではないか、とはガイドさんの推測。

北の小塚原、南は南大井の鈴ヶ森、あと八王子にあった大和田が江戸の3大刑場で、あとはコミュニティレベルの小さなものがあったそうです。小塚原は斬首、鈴ヶ森は磔と火あぶりで処刑をしていたとのこと。
小塚原は千住の宿場町の外れに位置していて、明治の初めくらいまでは首がさらされていたそうです。街に入る人たちに対して「秩序を乱すとこうだからね」と知らしめる意味があったのでしょうか。

跨線橋から刑場と逆のほうを見ると、貨物列車ががたごとと通り過ぎていきます。
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このあたりは荷揚げの中心地であり、都心方向への物流の起点となっていたそうです。さらに前回の東京オリンピック前には日雇い労働者が集まり、安宿も多い。それが現在は外国人旅行者に好んで利用されているのですね。

人足寄場、さらに食肉処理、皮なめし、解剖など、被差別階級の人たちが担った仕事が周辺に集積しています。皮なめしは水を大量に使うので川沿いにあったとのこと。浅草にはそうした社会の頭領・弾左衛門の屋敷があります。独自の裁判権を持つなど、高度な自治をしていたらしい。近代以降も革靴工場など、ゆかりのある産業が残ったそうです。

処刑される人たちが家族と別れる場所だった「泪橋」は、現在は交差点の名前に残っているのみ。その近くがいわゆるドヤ街の雰囲気を残した一角になっていて、ハローワーク、1泊2500円くらいの安い宿泊施設、寿司屋が点在しています。「あしたのジョー」の舞台もこのあたりだとのこと。
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旧山谷、現日本堤の交番は、ちょっとしたマンションくらいの大きさ。かつては暴動やデモが頻発したので、応援をとったり留置をしたりといった必要があって大きな交番になっているそうです。ちなみに、近くには有名なカフェ「バッハ」があるそうですが、立ち寄ることはできませんでした。

「いろは会」商店街に入ります。
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右側の垂れ幕は見にくいですが「山谷は日雇労働者の街 労働者を排除する再開発反対!!」と書かれています。「写真とるな!人権侵害やでえ」と声をかけてきたおっちゃんは関西弁でした。いろんなところから働きに来られているよう。

アーケードは老朽化が進んだので、昨年秋に屋根を取り払いました。
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再び屋根をかける予定はないそうです。
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寒い日が続きますが、日が照っているので日向にいると暖かかったです。
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そんで、前に天丼を食べに行った「土手の伊勢屋」の横っちょくらいに出て、吉原に行きますよ。

吉原大門(だいもん、ではなく、おおもん)に入る道は大きく曲がっています。出入りする人たちが見えにくいよう目隠しをする機能があったとのこと。今は大門があったところを示す柱が立っているだけです。
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こちら「金瓶梅」「鹿鳴館」などソープが並ぶメイン通り。昔はこの通り沿いのお店が一番ステータスが高く、病気をしたりして落ちぶれた遊女たちは街のはしっこのほうに住んでいたそう。その外には「お歯黒どぶ」という堀が巡らしてあり、出入り口は基本、大門に限定することで逃亡を防いでいました。

遊女は全盛期で3000人、もろもろのスタッフを入れると1万人くらいが働く街だったとか。スターの太夫から見習いの禿(かむろ)までヒエラルキーが存在し、15歳から10年ほどの間にキャリアを積みました。お金を持っている客には教養のある人もいたため、相手ができるよう囲碁、将棋、和歌、俳句などを勉強したそうです。

初めての客を大門まで迎えにいくのが「花魁道中」。これはお店の宣伝も兼ねていたということです。ファッションリーダーでもあったのですね。客を選ぶ権利は遊女のほうにあり、一度は大門近くの待合所で品定め、二度目は食事をしながら品定め。三度目でようやく夜をともにすることができたという。

吉原を出る方法は3つ。(1)年季明け=借金を返す、(2)身請けしてもらう、そして(3)死ぬ。

弁天さん、性病科クリニック、関東大震災の火炎旋風を逃れようと女性たちが飛び込んだ池の名残(多くは圧死だったそう)など、いろんなものが集まってます。
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台東病院の裏に出ると、竜泉の街。樋口一葉が一時期住んでいたそうです。記念館もあります。
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ガイドさんにお煎餅をごちそうになってしまいました。
製造は山梨県(笑)。でも、樋口家ってもともと山梨の出身なんですよね(一葉は東京生まれだが)。なんか関係があるのかな。

三ノ輪駅の近くまで来て、最後は「投込寺」こと浄閑寺。
安政の地震のときに死んだ遊女が投げ込み同然で運ばれたお寺だそうです。
吉原で遊んでいたらしい永井荷風も「死んだらここにお墓を作ってくれ」と希望していたものの家族の反対で実現せず、有志がお寺の裏手に文学碑を作ったとか。
そして、山谷で亡くなった人たちもここに眠っているそうです。
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太陽の下で働いた人びとを象徴する、ひまわりを持った地蔵。

いやほんと勉強になりました。

* * *

吉原とは関係ありませんが、年末から読んでた本、帰りの地下鉄でフィニッシュしました。

■冨田恭彦『カント入門講義―超越論的観念論のロジック』筑摩書房、2017年。

20年とか前に柏木達彦シリーズなど読んで以来、お久しぶりの冨田先生ですけど、なんか分かりやすさがパワーアップしてませんか。すごいね。『純粋理性批判』ってこういう話だったんか。弊管理人はどういうわけかヒュームってカントの敵だと思ってたけど全然違ってた。

2018年01月03日

国際法(3終)

EUができたのが中学生のころで、そのあと受験勉強とヨーロッパのわちゃわちゃが同時進行して、しかもECがまたできてる!?とかいって混乱しているうちに勉強しなくなり、なんかフランもマルクもなくなったねとかいってるところで知識がストップしていたEU。仕事で扱うことになるという因果……

あと、コソボとかアフガンとかシリアとか「なんで人んちに爆弾落としていいの??」という疑問もずっとほったらかしてた。不惑になっても知らないことばっかです。うへえ

(2)はこちら

* * *

【9】人権の国際的保障

・人権の国際的保障=各国内法+国際法による。国際社会による監視と問責
  eg.国際人権規約、児童の権利条約
  ←国内管轄事項への干渉?「国際法は国家間の関係を規律する」との齟齬?

・国家と人
  ・国家は領域内のすべての人に法律を適用する権限を行使する(領域管轄権)
  ・国家は領域内外の国民に対して一定の権限を行使し、保護する(対人管轄権)
  ・国家は国内法に基づいて国籍付与ができる→国民を決められる
    ・血統主義(日独など):父系主義(父親の国籍)/両系主義(最近の流れ)
    ・出生地主義(米など移民受け入れる国)
    ・無国籍が生じうる←無国籍の減少に関する条約(1961)、自由権規約で解消図る
    ・重国籍が生じうる←実効的国籍の原則(よりつながりの強い国籍国が保護)で対応

・人権の国際的保障
  ・両系主義の導入(女性の権利保護の立場から)
  ・国家は管轄下の個人に対して一定の人権保障義務あり(人権関係諸条約)
  ・歴史的には、難民や少数民族など、国家保護から外れたグループ向け
    →枢軸国による大規模人権侵害をきっかけに、普遍的人権擁護へシフト
    →国連憲章1条3項「人権および基本的自由を尊重するよう助長奨励」
      経済社会理事会の下に人権委員会を設置
  ・世界人権宣言(1948)→社会権規約と自由権規約(1966採択)
  ・国連によるアパルトヘイト問題などへの取り組み、公民権運動、NGO
    →人権保護は国内管轄事項ではなく、国際関心事項との認識が拡大した
  ・ただし、東側や新興独立国は柔軟性を要求。「人道的介入」の拒絶など
    ←西側も「ジェノサイドは座視しない」などと反論
  ・ウィーン宣言(1993):冷戦後の国際人権保障
    ・体制の如何を問わず、人権保護は国の義務と規定

・仕組み
・国連(総会、安保理、経済社会理事会、人権高等弁務官事務所)
  安保理:アパルトヘイト、クルド人抑圧、PKO、暫定統治機構、国際刑事裁判所
  人権委員会:調査・報告・勧告。重大かつ組織的な人権侵害について個人通報も受理
    →総会の下に人権理事会設置(2006)
  人権高等弁務官事務所(1993ウィーン会議が契機):人権理事会の事務局。調整、援助も
・条約(国際人権規約のほかに)
  人種差別撤廃条約、拷問等禁止条約、女子差別撤廃条約、児童の権利条約
  最近発効:移住労働者権利条約、強制失踪条約、障害者権利条約
  →締約国は、管轄権下の個人に対する人権保障の義務を他締約国に対して負う
  難民の地位に関する条約(1951)と議定書も

・実施の確保
  自由権規約の場合:独立の規約人権委が各国の報告審査、意見述べるなど
    選択議定書では個人が規約人権委に対して通報できる「個人通報制度」も
    (ただし日本などは受け入れていない)

・最近のトピック:法整備支援
  行政・司法制度の整備、組織的な法学教育→法曹養成

【10】ヨーロッパの統合

・ウエストファリア条約(1648)→主権国家(not諸侯、都市、宗教権力)が基本単位に
・二つの世界大戦、冷戦→ヨーロッパの没落→再生を図る
  1948 ベネルクス関税同盟
  1950 シューマン・プラン(独仏の石炭・鉄鋼生産を管理、西ドイツ復興)
  1951 パリ条約(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ECSC)独仏+ベネルクス+伊
  1957 ヨーロッパ経済共同体(EC)、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)
  *ECSC、EC、EURATOMの総称がヨーロッパ共同体(EC)
  1965 ヨーロッパ共同体機関合併条約でEC共通の委員会、理事会、総会、司法裁判所

・EC
  1960年代 関税同盟で域内関税の撤廃と共通関税の実施、農業政策
  1973 英、アイルランド、デンマークが加盟(9カ国に)
  1981 ギリシア、1986 スペイン、ポルトガル加盟(12カ国に)
  1992 共通市場の形成

・EUとユーロ
  1992.2 ヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)、EU創設。外交、司法でも統合
    *EEC→ヨーロッパ共同体(EC)。2002 ECSCが解散
  2002.1 ユーロ導入。金融政策がヨーロッパ中央銀行(ECB)に移譲
  ~EUの東方拡大
  2007 リスボン条約によるEU改革→ECはEUに吸収
  
・課題
  ・ヨーロッパ議会:全会一致の困難→特別多数決制
  ・ヨーロッパ憲法草案(2004)→蘭仏で批准否決
  ・トルコはヨーロッパか問題(=アジアって何だ?という問題にもなる)

・EU法
  ・EU条約(基本条約)―二次法規(規則、命令、決定)
    規則は加盟国の国内法に置き換えることなく直接に加盟国内の私人にも適用される
  ・EU法をどう見るか
    ・EUは国際組織→EUは国際法とみる見方
    ・EUは連邦国家への過程とみる→EU法は連邦法に似た特殊な国内法にもみえる
    *英仏が国連常任理事国として独特な地位を持ち続ける間は「加盟国は主権国家」

【11】紛争の平和的解決

・アドホックな対応から、戦争の制限・禁止へ
  1899 国際紛争平和的処理条約→国際審査の常設仲裁裁判所
  国連憲章2条3項 国際紛争の平和的手段による解決が「義務」に

・平和的解決の手段(国連憲章33条)
  外交交渉(当事者間の直接交渉)

  周旋と仲介(第三者による援助。周旋は便宜供与など限定的。仲介は解決案提示も)

  国際審査と国際調停(当事者の合意による国際委員会。審査は事実関係、調停は解決案)
    eg.ドッガー・バンク事件(1904)。国際審査委の結果で露→英に賠償金

  国際裁判(国際法に従った「拘束力のある」判決が下る)
    (1)仲裁裁判:手続きや仲裁人は当事者が選定。常設仲裁裁判所(1899~)
    (2)司法裁判:既存の裁判制度であらかじめ選ばれた裁判官が判断。ICJ
      ・強制管轄受諾制度:管轄権行使に同意、かつ同意国間の紛争で有効
      ・応訴管轄:一方によるICJ付託が可能。相手が応じれば合意付託。eg.竹島
  ほか、いろんな国際裁判制度
    ・国際行政裁判所(国際公務員の雇用関係紛争)
    ・ヨーロッパ人権条約、米州人権条約、バンジュール憲章で人権裁判所
    ・個人の国際犯罪には旧ユーゴ国際刑事裁判所、ルワンダ国際刑事裁判所など
    ・海洋では国際海洋法裁判所
    ・貿易では投資紛争解決国際センター(ICSID)

  国際組織による解決
    当事国が紛争解決できない→国連安保理に付託
    →調整手続きや方法の勧告/解決条件の提示
    *米州機構(OAS)、アフリカ連合(AU)など地域的国際組織が役割果たすことも

・実例
  ・テヘラン米国大使館人質事件(1979)
  ・ニカラグア事件(1979)
  ・みなみまぐろ事件(1999):日本が1905以来、仲裁裁判の当事国に
  ・ナミビア事件、東ティモール事件、パレスティナの壁事件:「対世的義務」
  ・南極における捕鯨事件

【12】国際社会と安全保障

・戦争=国家が組織した軍事組織の間で、一定期間継続して、相当の規模で行われる、
      武力行使を中心とした闘争状態

・正戦論(古代~中世) 十字軍(宗教的観点)、グロティウス(法的観点)
・無差別戦争観(~20C初頭) 国家主権の発現形態として、無制限の戦争の権利をもつ
  *無差別戦争観の下でいくら戦争法規を発達させても仕方なかった
・20Cの正戦論:戦争を制限・禁止する国際法規を作り、違反は「違法な戦争」とする
  eg.開戦に関する条約(1907):宣戦布告を伴わない戦争が違法に
・戦争そのものの禁止:パリ不戦条約(1928)
  *戦争に至らない武力行使は対象外。違反時の有効な制裁措置もなし
・広範な武力行使の禁止:国連憲章
  *経済力、政治力の行使がforceに含まれるかは議論継続中
  ・ニカラグア事件判決(1986)では、武力行使禁止原則は「国際慣習法」と認定

・国連憲章の下で例外的に合法とされる武力行使
  ・集団安全保障体制下での(安保理決定に従った)強制行動
  ・自衛権の行使(集団的自衛権を含む)
  ・旧敵国条項の援用(→早期削除の意思表示が1995に示されている)
・議論があるもの
  ・民族解放のための武力行使
  ・人道目的での武力行使(人道的介入)eg.NATOのコソボ空爆(1999)

・集団安全保障
  ・国際連盟で初めて実現(戦争または戦争の脅威は連盟国全体の利害関係事項)
  ・国連:武力行使原則禁止への違反に対する集権的対応
    ・加盟国に平和確保と侵略防止の行動を直接義務づけ
    ・安保理は国際社会の平和と安全維持に主要な責任を負う
    ・安保理決定の措置に対する加盟国の協力義務

・安保理による強制行動
  ・平和に対する脅威/平和の破壊/侵略行為の決定
   →暫定措置に従うよう要請
   →非軍事措置/軍事措置を決定
  ×拒否権あり、冷戦下では十分に機能せず
  ×「平和に対する脅威」に統一見解なし
  ×軍事措置の前提となる特別協定が不成立
・国連総会は安保理に比べると二次的、勧告的
・国連事務総長も「管理的権限」、憲章98条を根拠に平和と安全維持の権能を有する
  eg.レバノン国連監視団の拡大、ベトナム戦争、国連緊急軍の撤退など

・集団安全保障体制の補完
  ・国連総会の勧告権
  ・地域的集団安全保障
    (1)地域的取り決め:国連コントロール下。米州機構、アラブ連盟、アフリカ連合など
    (2)地域的機関:強制行動開始を自分で判断できる。NATO、日米安保など
  ・PKOの発展
    ~冷戦終結 休戦監視団、平和維持軍(合意・要請下、中立、武器は自衛)
    冷戦後 規模と派遣回数の拡大、大国の参加、機能多様化
    強制的な性格は「多国籍軍」に委ね、紛争後対応に限定した活動へ
  ・日本はPKO参加5原則(協力法1992、2001改正)

・将来
  ・国家の集団安全保障から「人間の安全保障」へ
  ・対テロ
    9.11後のアフガン武力行使は「個別的自衛権」(米)、「集団的自衛権」(英)
    IS対応でシリア、イラクへの武力行使は「自衛権の行使」(米)

【13】自由貿易体制と国際法

・国家の相互依存
  ・グロティウスが国際法の原則の一つに挙げた「通商の自由」
  ・中世イタリア都市国家間の「通商航海条約」
  ・重商主義~国家が直接、通商に乗り出す。「家産国家観」(国家は君主の私的財産)
  ・18C後半~私人・私企業による通商+外交的保護+通商航海条約→自由貿易体制
  ・恐慌→ブロック化→WWII

・WWII後
  ・ブレトン・ウッズ体制(ブレトン・ウッズ=ハバナ体制)
    IMF(金融)、IBRD(復興・開発援助)、国際貿易機関(ITO、貿易→結局設立されず)
  ・ITO起草と平行した関税引き下げ交渉→GATT(1947)
  ・GATT:最恵国待遇と内国民待遇の多辺化
    関税引き下げ交渉(1947 ジュネーヴ・ラウンド~1973 東京ラウンド)→日本に恩恵
  ・1980s~限界あらわに
    (1)米国など先進国のインフレと不況→保護主義的措置の蔓延
    (2)先進国経済のソフト化、サービス化←GATTは基本的にモノの貿易が対象
    (3)例外扱いされてきた農業、繊維分野にも適用求める声の高まり

・1986 ウルグアイ・ラウンド→WTO設立
    (1)国際法上の法人格を持つ(組織面での強化)
    (2)紛争解決機関の整備
      ・パネル設置「しない」ことを全員一致で決めないと設置される逆コンセンサス方式
      ・手続きに時間制限を課した
      ・不服申し立てを扱う上級委員会を設置
    (3)サービス、知的所有権に関しても規定。聖域の農業、繊維も自由化推進
  ・2001 中国加盟
  ・グローバリゼーションへの懸念(1999シアトル)→行き詰まりへ

・FTA、EPA締結し、域内での貿易自由化進める動き

【14】難民・犯罪・ネット・テロ・NGO

・国際社会の変化:国家が基本、国際法は二次的調整→より積極的な役割へ

・難民条約(1951)、難民議定書(1967)
  ・難民=人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または
  政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を
  有するために、本国の外にいる人々
  ・不法入国に刑罰を科さない、追放制限、本国送還の禁止(ノン・ルフルマンの原則)
    *難民を入国させること自体は義務づけていない
  ・自国民と同等に扱うこと
  ・拷問される可能性のある国への追放・送還禁止(拷問等禁止条約)

・条約難民(難民条約の定義に合う政治難民)+災害、紛争、貧困→「広義の難民」
  ・途上国から先進国への労働力の移動とも結びついている
  ・国境管理が追いつかなくなりつつある
  ・不法就労目的は送還、斡旋者は取り締まりも

・国際組織犯罪防止条約に付属する密入国議定書(2001)
  ・営利目的での移民斡旋取り締まり
  ・本国が送還された不法移民を受け入れる義務
・人身取引議定書
  ・人身取引の犯罪化
  ・被害者の保護・送還を規定

・移住労働者権利条約(1977、ヨーロッパ)(1990、国連)

・犯罪:刑事司法という「主権の牙城」に国際法が切り込む
  ・二国間条約:犯罪人引渡条約、刑事共助条約(日米、日韓)
    ・政治犯は引き渡さないとの原則
    ・自国で罪にならない行為での拘束、引き渡しは不当とする原則
    ・国によっては自国民を引き渡さない原則も

  ・多国間条約
    ・薬物:アヘン条約(1912)、麻薬単一条約(1961)、国連麻薬新条約(1988)
    ・国連国際組織犯罪防止条約(2000)+密入国、人身取引、銃器不正取引の3議定書
      ・途上国支援が特色。犯罪組織にセイフ・ヘイブンを与えない
    ・腐敗:国際商取引における外国公務員への贈賄防止条約(1997、OECD)
      ・2003には腐敗全般の普遍条約「国連腐敗防止条約」採択
      ・公務員の腐敗=資金洗浄の前提犯罪と考える

・ネット:サイバー犯罪条約(2001、ヨーロッパ審議会。ただし域外の国も締約可)
  ・違法アクセス、データ改ざん・詐欺、児童ポルノの処罰、データ保全、開示、
   提出命令、差し押さえ、欧州、通信傍受など詳細に規定

・テロ:テロリズムの定義について合意できていない
  ・ただし一般的理解はテロ資金供与防止条約(1999)にあり:
    ・文民その他の者であって、武力紛争の状況に直接参加しない者の死や
     重大な障害を引き起こすことを意図する行為
    ・その行為が、住民の威嚇や政府・国際機関に何らかの行為をすること/
     しないことを強要する目的である場合に限る

  ・これまでは、個別の行為にアプローチしてきた
    ・ハイジャック:ヘーグ条約(1970)、モントリオール条約(1971)
    ・シージャック:海洋航行の安全に対する不法行為の防止条約(1988)
    ・ほか国家代表等保護、人質、核物質防護、爆弾テロ、核テロ……
    ・犯人が自国領域内で見つかった場合の処罰、引き渡し(引き渡し犯罪化)
    ・9.11以降は資金提供の防止、テロ対策諸条約の締約国奨励(安保理決議1373)

・NGOの貢献
  ・対人地雷禁止条約、特定通常兵器使用禁止制限条約……
  ・役割:専門知、現場活動、国によっては政府代表団に入る
  ・限界:政治的正統性はない(選挙で選ばれてない)、責任追えない、中立性

【15】国際人道法

・残虐行為の防波堤としての「人道」:戦争でも許されないことがある
・戦争違法化前:交戦法規、武力紛争法
・戦争違法化後:一般住民の保護=国際人道法
  (1)戦闘の手段や方法に関するルール:
    ハーグ法(破裂弾規制、負傷兵保護など、19C後半から)
  (2)非戦闘員保護:ジュネーヴ法、ジュネーヴ諸条約(1949~)

・国際人道法
  ・兵器使用の禁止(過度の障害、不要な苦痛、戦闘員や軍事目標のみに向ける)
    ・劣化ウラン弾のように新たな兵器は解釈分かれることも→条約対応へ
    ・クラスター弾:対人地雷禁止条約(1997)、クラスター弾条約(2008)
    ・BC兵器:毒ガス禁止議定書(1925)、生物毒素兵器禁止条約(1972)など
    ・核兵器:ICJ勧告的意見(1996)で基本原則違反とされた
      が、自衛の極限的状況では合法/違法を明確に決定できないとした
      *日本国内では東京地裁が「国際法に反する」と判決(1963)
  ・軍事目標主義
    ・WWIIの絨毯爆撃→ジュネーヴ諸条約追加議定書で「無差別攻撃」として禁止
    ・点在する軍事目標の巻き添えもだめ
    ・文化財・礼拝所、ライフライン、自然環境、ダム・原発など破壊が危険な施設も×
  ・戦争犠牲者の保護
    ・戦闘員が捕虜となった場合:捕虜条約で保護
      *グアンタナモ収容容疑者を米は「敵性戦闘員」と呼称
    ・相手方の権力内の文民は文民条約などで保護。拷問、医学実験、人質など禁止
    ・特に子ども兵士:武力紛争における子どもの関与に関する選択議定書(2000)
      →18歳未満の戦闘参加を禁止

・守らせるためには
  ・戦時復仇:違反には同じ行為で仕返し。伝統的だが紛争激化させる恐れもあり今は禁止
  ・第三者機関による監視:ただし当事国が中立国や事実調査委に同意する必要あり困難
  ・戦争犯罪人の処罰:国内裁判所での裁判は形式的で終わる恐れ。内戦の規定もなし
  ・国際裁判所での訴追:旧ユーゴ紛争が契機。ルワンダも。ただし都度設置
    →国際刑事裁判所規程(1998)で、常設のICC設立。しかし米中露は未批准
  ・真実和解委員会:南アフリカ、シエラレオネ。対話し、赦す

【16】日本と国際法

(短いので略)

2017年12月28日

国際法(2)

きのう机上の整理をして帰ってきたこともあり、仕事納めの本日は出勤する必要がなさそうだったので家でネット経由の仕事をしてました。

で、本の続き(実はもうとっくに一度読み終わっていて、メモにするのを怠けていただけなので、着手すると速い)。環境だけでなく海、宇宙、感染症のお話もそういえば国境を越えるわけで、今年の仕事は本当に国際法と関連したものが多かったと感じます。
なんか職場では年明けからの担務の再編が噂されているようで、またなんか変わるのかね……まあいいけど。

(1)はこちらです。
(3)はこちら

* * *

【5】国家の国際責任(国家責任)

・義務違反(国際違法行為)の責任を問われる「者」
  国家、国際組織(PKO部隊など)、個人(戦争犯罪人など)
・国家はなかなか国際違法行為を認めない
  →対抗措置や報復、ICJへの付託、好意によるex gratia金銭支払い(第五福竜丸など)

・戦争が違法でない時代は軍事措置で片付けていた
  →19C以降、アジア、アフリカ、南米進出した欧米諸国民の外交的保護に起源
  →欧米は自国民の被害を、国内法の問題ではなく国際法違反とすべきと主張した
  →戦後、ILCの法典化作業で「国家責任条文」(2001採択)。未発効だが重要文書

・国家が国際違法行為をしたということの条件
  (1)その行為が国際法上、国家の行為とされる(公務員の行為、私人の行為の追認)
  (2)その行為が国際義務の違反を構成する(大使館や大使館員保護の義務違反など)
  eg. テヘラン大使館人質事件(1979)。ホメイニが学生の占拠を支持したことに対して

・違法性阻却事由
  ・事前同意
  ・自衛(国連憲章51条)
  ・対抗措置(他国の義務違反に義務違反で対抗する。ただし武力は×)
  ・不可抗力(自然現象や戦乱などで無理)
  ・遭難(人命救助の最後の手段として。eg. レインボー・ウォーリア号事件(1985))
  ・緊急避難(重大・急迫な危険から守る。eg. トリー・キャニオン号事件(1967))

・責任追及は被害国ができる
  ・外国船舶の領海侵犯→国家の威信のような精神的損害でもOK
  ・国際社会一般の利益を根拠に第三国が追究できるとまでは考えられていない
    (国家責任条文48条ではできそうだが、課題多し)
・国民が被害を受けた場合は→私人は国家責任を直接追及できない
  ・被害者の本国が、外交的保護権の行使で追及することはできる
  ・ただし、次の2要件を満たす必要あり
    (1)国籍継続の原則=被害者は継続してその国の国籍を持っている
    (2)国内的救済完了の原則=被害を受けた国内で法的な手を尽くした

・責任の果たし方:国際請求の様態
  ・当時国間での「交渉」
  ・第三者を介した「仲介」
  ・第三者を介した「調停」
  ・国際裁判への提訴
・責任が認定された場合の対応:国家責任の解除
  ・国際違法行為の中止
  ・再発防止の保証
  ・生じた損害の賠償
    ・違法行為の結果の除去
    ・原状回復(最も基本的。テヘラン人質事件なら大使館の明け渡しと人質解放)
    ・金銭賠償(被害算定と支払い)
    ・サティスファクション(陳謝、違法行為の確認、責任者の処罰)
  →これらの組み合わせで国家責任を解除する

【6】国際組織の発展と役割

・誕生
  ・三十年戦争→ウェストファリア条約(1648)で国際法秩序の基盤(ただし欧州内)
  ・産業革命→人や物の移動活発化→越境活動の規律する枠組みの必要性
  →欧州の河川管理のための「国際河川委員会」が初の国際組織
   ライン川中央委員会(1831)、クリミア戦争後のヨーロッパ・ダニューブ委員会(1856)
   感染症蔓延を防止する国際衛生理事会(コンスタンチノープル)→WHOへ

・19世紀後半:多分野での問題を国際的に処理する「国際行政連合」相次ぐ
  ・国際電気通信連合(1865)、万国郵便連合(1874)。WIPO,GATT-WTO、FAO,WHOの元も

・WWI→「(加盟国が)普遍的」かつ「(権限が)一般的」な国際連盟の誕生へ
  ・紛争の平和的解決、軍縮、人道的任務までが対象に
  ・ロカルノ条約(1925)、不戦条約(1928)→平和・秩序維持を連盟が担う
→しかしWWII→国際連合

・国際組織とは
  ・国家が構成員(この点でNGOと違う)
  ・国家間の合意(国連憲章、ユネスコ条約などの設立条約)が基礎
  ・一定の機能を遂行するための機能的団体(この点で国家と違う)
  ・常設的な機関をもつ(この点でアドホックな国際会議と違う)

・国際組織の類型
  ・普遍的組織(加盟国が地理的に限定されない)/地域的組織(EU、OAUなど)
  ・一般的組織(国連、AUなど)/専門的組織(ユネスコ、アジア開発銀行など)
  ・政治的組織(平和・安全維持を目的としたNATOなど)/非政治的組織(国際協力)

・課題
  ・WTO、IMF、IBRDによる環境破壊、文化的画一化を批判するNGOの声も
  ・アカウンタビリティの要求

【7】海と宇宙

・海や資源が有限だとの認識
  ・スペイン、ポルトガルの「全世界の海の領有」vs誰でも利用可とする英蘭の「自由海論」
  ・外国軍艦から沿岸を守るため、実効支配可能な範囲は領有できるとする「閉鎖海論」
  →調整の結果としての「公海自由の原則」。海=狭い領海+広い公海

・WWII後、漁業・海底開発の技術発展で修正必要に
  ・領海の幅3海里→12海里
  ・沿岸隣接の漁業資源や大陸棚開発の権利を主張するトルーマン宣言(1945)
    →排他的経済水域、大陸棚制度へ

・→包括的に扱う「国連海洋法条約」(1982採択、1994発効、日本批准は1996)
  ・領海(12海里)=領土と同じく主権が及ぶ。無害通航に関する法制定も可
  ・接続水域(基線から24海里)=違法行為を行った船舶を拿捕、処罰できる
  ・排他的経済水域(基線から200海里)=漁業資源など経済的利益について主権的権利
  ・大陸棚(200海里超の陸地の延長)=天然資源開発をする主権的権利
  ・公海(EEZの外側)
  ・深海底(大陸棚の外側)=人類の共同の財産。国際海底機構が管理
・ほか、紛争解決の国際海洋法裁判所などの制度も

・船
  ・船舶の国籍(船籍)をもち、公開状では旗国の管轄に服する「旗国主義」
    ただ、便宜船籍(パナマ、リベリアなど税金が安く、安全基準が緩やかな国)も多い
  ・海賊船や不審船(旗国の不明示/偽装)はどの国も臨検、逮捕できる
  ・潜水艦は領海では浮上、国旗掲げる必要。軍艦は各国で対応ばらばら
  ・海峡ではすべての船舶、航空機について無害通航権より緩やかな通過通航権

・国家間の対立
  ・日韓間のEEZは日韓漁業協定(1999)で調整
  ・日中間のEEZは日中漁業協定(2000)で
  ・大陸棚:白樺(春暁)ガス田開発(2004)→共同開発で合意(2008)
  ・沖ノ鳥島

・公海での漁業にも制限
  ・国連公海漁業実施協定(1995採択、2001発効、2006に日本にも効力)
    ストラドリング魚類(タラ、カレイなど)、高度回遊性魚類(マグロ、カツオなど)
  ・国際捕鯨取締条約→国際捕鯨委員会(IWC)。豪州による日本提訴

・宇宙
  ・ソ連の人工衛星打ち上げ→米ソの宇宙開発時代に
    →国連の宇宙空間平和利用委員会でルール作り→宇宙条約(1966)へ
  ・宇宙空間は国家による取得の対象にならないが、基地建設や資源開発はOK
  ・月協定では、月は「人類共同の財産」とされた(ただし批准は10数カ国のみ)
  ・宇宙空間は平和目的のために利用しなければならない
    ただしICBMの打ち上げ、軍事衛星の配置は禁止されていない
    *月は軍事基地、軍事実験とも×

・課題
  ・静止衛星軌道(高度36000km)の過密→利用ルールがない
  ・宇宙での商業活動の規制
  ・デブリなど宇宙の環境問題

【8】環境問題

・国際的な環境法
  ベーリング海オットセイ事件の仲裁判決(1893、英vs米)=生物資源の保護
  農業のための益鳥の保護のための条約(1902)
  トレイル溶鉱所事件(1941、米vs加)=大気・土壌汚染。しかしまだ伝統的規則の援用
・ストックホルム人間環境宣言(1972)
  リオ宣言(1992)
  持続可能な開発に関するヨハネスブルグ宣言(2002)

・環境条約
  ・個別分野で非常に多数の条約と、法的拘束力のない文書(ソフトロー)が重要
  ・枠組条約(一般的な目的や原則の規定)→具体的な「議定書」で具体化と履行確保
   eg. ECE長距離越境大気汚染条約(1979)→ヘルシンキ議定書(1985)
      オゾン層保護条約(1985)→モントリオール議定書(1987)
      気候変動枠組条約(1992)→京都議定書(1997)
      生物多様性条約(1992)→カルタヘナ議定書(2001)と名古屋議定書(2010)
  ・枠組条約に加わった国が議定書にも入る保証はないことに注意
  ・ソフトローを出す主体としては普遍的/地域的国際組織の役割が重要

・環境を巡る争い
  ・金銭賠償は十分でない
    (1)条約が規律する範囲外だと国家責任法の厳格な規則が適用される
    (2)予防、差し止めの権利が予定されていない
    (3)回復不可能な損害を補填できない(チェルノブイリなど)
  ・防止的措置
    ・事前通報、協議、同意(バーゼル条約)
    ・環境影響評価(ECE条約、南極条約、生物多様性条約)
  ・予防的アプローチ(予防原則)
  ・解決は二国間の枠組にそぐわないことが多い→締約国会議へ

・経済格差→「共通だが差異ある責任」(リオ宣言)
・GATT,WTOと環境を理由とした貿易制限の調停→今後の議論

2017年12月27日

国際法(1)

去年から今年の前半までの仕事では条約や国際交渉のことをずいぶん扱ったので、「あれ一体何だったの」という整理というかおさらい(←今更ともいう)。有斐閣アルマやストゥディアなど、最近2年以内に新版が出ている初学者向けの本をいくつかめくってみて、情報はしっかり入っていて(必須)、かつ読みやすい(副次的)だろうと思ったのが本書。

2ページで「地球上のすべての国家を当事国とする多数国間条約は未だかつて一度も存在したことがないし、これからもおそらく存在しないだろう」といっているのを見るにつけ、197カ国・地域が署名し、着々と締結してるパリ協定ってすごいんですねという思いを新たにします。

(2)はこちら

■植木俊哉編『ブリッジブック国際法[第3版]』信山社、2016年。

【1】国際社会におけるルールのかたちとはたらき

・国際社会≠国内社会
  ・立法機関、行政機関がない
  ・規範は自生的な性格をもつ→規範が常に問われ、解答も時代とともに変わる
  ・政府が存在しない。分権的社会

・国際社会における国家の行動を規律する規範=国際法の「法源(存在形態)」
  (1)条約=国家間の文書による合意
  (2)国際慣習法=すべての国家に適用(公海自由の原則、領空の無許可飛行の禁止)
  (3)文明国が認めた法の一般原則=各国内法の共通原則で国際関係に適用可能なもの

・国際慣習法の成立要件
  (1)一般慣行=大多数の国家による反復的な作為/不作為
  (2)そうした作為/不作為が法によるものだという「法的信念」
  *ただしいつ成立したかわかりにくい。内容も不明確→法典化(ベンサムが提唱)

・法典化
  ・代表例はハーグ平和会議(1899,1907)とハーグ国際法典編纂会議(1930)
    ←このころ、複数国家で取り組むべき問題、利益の存在が認められたため
  ・今日の法典化:国連総会の補助機関、国際法委員会(ILC,1947) が担う
    例)外交関係に関するウィーン条約、条約法条約など

・国際法における二つの規範
  (1)任意規範=当事者が合意すると逸脱できる
  (2)強行規範=当事者が合意しても逸脱できない
    ←国際社会にはないとされてきたが、条約法条約(1969)53条で存在確認
      強行規範に抵触する条約は無効(侵略戦争、植民地支配の禁止など)

・条約が及ぼす国内法体制への影響(各国の裁量)
  ・国内法の改正(例:女子差別撤廃条約→戸籍法改正で父母両系血統主義に)
  ・行政措置での対応
  ・解釈による抵触の回避

【2】条約

・最古の条約はBC3000頃のメソポタミア都市国家間
・今日的な条約の期限は17C中葉の西欧。対等な主権国家間の合意
  →私人間契約に似たものと考えられた(ローマ法の影響、私法類推)
  →二国間条約はこれでいいが、多数国間条約はそうもいかない

・合意は拘束するpacta sunt servanda
  ・条約は結構よく守られている(あまり脆弱なものとみてはならない)
  ・守らないときでも、国家は国際法の考え方を使って自分を正当化するもの
  ・守るのは、法制定者も法の適用対象者も国家だから(守らないと対抗措置も)

・手続き
  全権委任状を持った国家代表による外交交渉
  →条約文の採択、署名(条約文の確定)
  →条約の批准、批准書の交換や寄託(国家が拘束されることの最終的同意)
  →条約の発効

・外交の民主的コントロール
  .秘密外交の廃止、14カ条の宣言(ウィルソン、1918)
  *ただし、迅速な手続きでいいものは「行政協定」。議会承認なし
・日本:内閣は条約を締結するが、国会承認を経ること(憲法73条三)
  法律事項や財政支出を含むものは国会承認が必要(大平三原則、1974)

・留保
  条約全体の趣旨には賛同できても、特定の規定内容が国内事情と合わない場合
  →署名、批准の際に特定の法的効果を排除/変更する声明
  eg.日本の不戦条約1条と明治憲法、社会権規約(1979)
  ・できるだけ多くの国が締約国になれば条約の普遍性が上がるので許容される
  ・ただし条約の核心にかかわる留保は認められないのでは?
    →両立性の原則
      当事国ができるだけ同じ権利義務に服する「一体性」と
      できるだけ多くの国が当事国になる「普遍性」の均衡点を探ること
  ・国連海洋法条約や国際組織の基本条約のように、留保禁止の条約も存在
    →ただし、許される複数解釈の一つをとる「解釈宣言」で切り抜ける手も

・条約は第三者を害しも益しもしないpacta tertiis nec nocent nec prosunt
  が、政治的な影響は及ぼしうる。eg. 周辺事態法(1999)
・第三国への義務は書面による同意が必要だが、権利付与は拒否がなければOK
・条約が国際慣習法化した場合は例外(条約法条約38条)

【3】国際法主体としての国家

・国家:「領土」「人民」「政府」が3要素
・ただし20世紀初頭までは「文明国」のみが国際法上の「国家」とされていた
  →アジア、アフリカは「無主地」として植民地支配が正当化された
  →民族自決の原則が確立し、修正
  →信託統治地域(国連憲章11章)もパラオの独立(1994)で終了

・国家の誕生、変更、解体
  ・国家の承認は、国連加盟の承認とは別→既存の国家が個別に行う
    外交関係の樹立(両国間の合意)とも別の「一方的行為」
    通告や宣言による「明示的承認」と、条約締結などによる「黙示的承認」あり
    eg. 日本の東ティモールとの外交関係樹立は黙示的な国家承認
  ・国家の変更:非合法な政府交代(革命、クーデター)が起きた場合
    他国による政府承認(一方的行為)が必要
    ただし国内問題への干渉という意味合いを持ってしまう
    →最近は外交関係の維持/樹立/断絶で処理(政府承認の廃止傾向)
  ・解体、消滅:旧ユーゴ、東西ドイツ統一、チェコとスロバキアの分離独立など
    →旧国家の権利義務、財産や債務は?―「国家承継」の問題が発生する
    (1)従属地域が新独立国になる場合→白紙。クリーン・スレート理論
    (2)結合や分離の場合→包括承継
    *ただし、このルールは広く支持されているわけではない

・国家が一般に国際法上もつとされる「基本権」
  =独立権、平等権(→主権平等原則)、名誉権、国内管轄権(→内政不干渉原則)
・友好関係原則宣言(1970)での7つの基本原則
  武力不行使、紛争の平和的解決、国内事項不干渉、国家の相互協力義務、
  人民の同権および自決、国家の主権平等、憲章義務の誠実履行
・さらに自衛権、外交権、使節権など

・国家の平等とは?
  ・国際法の定立における平等
  ・国際法の適用における平等(法の下の平等)
    ←戦争の違法化、武力不行使義務で「力」の差に起因する不平等が解消した
    *ただしICJ判決の安保理による強制執行は、常任理事国に対しては事実上無理
  ・権利義務の内容に関する平等
    現代は、武力を背景にして締結された条約は無効(条約法条約52条)
    →19世紀の不平等条約のようなものはできにくくなっている
    ただし、具体的な権利義務がすべて平等というわけではない eg.京都議定書

・主権の及ぶ空間
・排他的領域主権
  ・領土
  ・領海(陸地から12海里)+内水=領水(外国船舶は無害通航権あり)
  ・領空=領土と領水の上空(外国民航機には協定に基づく飛行の権利あり)
・主権「的」権利
  ・排他的経済水域
  ・大陸棚
・公海、深海底、南極、宇宙は特定の国の排他的権利が及ばない

【4】外交官と領事館

・外交官=自国を代表して他国との交渉や決定に参加する
  大使など「使節団の長」と使節団の外交職員を指す
・外交関係に関するウィーン条約(1964発効、日本は1964批准)
・外交使節団=外交職員(外交官)+事務・技術職員+役務職員
  仕事は「本国を代表して行う任務」+「自国民の保護」

・領事官=各地で本国と自国民の利益、権利を守るための活動を行う
  +派遣国の国民への旅券、査証発給+国民への援助(相続、後見など)
・領事関係に関するウィーン条約(1963採択、1967発効、日本は1983加入)

・外交特権
  ・根拠は「職務遂行に必要な範囲で認められる」とする「職務説」が有力
  ・外交使節団への特権:公館の不可侵、公館への課税免除、書類の不可侵…
  ・外交官への特権:身体の不可侵、裁判権からの免除、租税の免除…
・領事特権
  ・もっぱら「職務説」
  ・特権は外交官より限定

・瀋陽の日本総領事館への脱北者駆け込み事件(2002)
  庇護を求める第三国の人を保護する権利を国際法上有するのか、という
  「外交的庇護」の問題を提起
  (*自国の領域内に逃れてきた個人を領域主権で保護するのは領域的庇護)
  ・領域国の主権侵害vs人道的配慮
    →外交的庇護が国際法上の権利として確立するかは今後
  *ただし、あくまでも庇護を求める人ではなく、国家の権利であることに注意

・国家元首、首相、大臣の特権
  ・戦争犯罪や人道に対する罪を除き、他国の裁判管轄権からの免除あり
    ただしピノチェトに対するスペイン→英国の引き渡し請求(1999)で議論に
    民族ヘイトのコンゴ外相に対するベルギーの逮捕状発給→2002ICJ判決も

2017年12月26日

パソコン買い換え

2012年に買ったVAIOの調子にむらが出てきたので、PCを買い換えました。
10年ぶりくらいにデスクトップ。Lenovoのideacentre510S(90GB0046JP)ってやつです。第7世代Core-i5、8GBで52888円。それとLGのモニタ22MP48HQ-Pを11980円で、前のノートと同じくらいの値段になりました。

デスクトップにした理由は主に2つ。

(1)机上のスペースを広くするため。PCを置いてある勉強机で飯を食ったり会社ノートを置いて仕事をしたりしていると、ノート置きっ放しは狭い。フットプリントはモニタの台のほうがはるかに小さいし、デスクトップのキーボードは邪魔なときは寄せておけます

(2)大きいモニタが欲しかった。大きいといっても21.5インチですけど。ちっちゃい画面はだんだん目がつらくなってきたのと、複数の画面を並べて作業するのって楽だなと会社の23インチを見ながら思っていたため

で、やっとWindows7→10になりました。そんなに難しいことはしないので特に困りません。
あと、無線LANを使い続けようと思ってUSB接続の子機アダプタ(ELECOM, WDC-867SU3S)を1490円で買いましたが、速度は40Mbpsくらいだし、高頻度で切れる。5mのケーブル(MCOのカテゴリ6A、ビックカメラで510円)でつなぐと90Mbpsくらい出で、当然切断もありません。本体の動作も相当軽くなりました。USBポートを通信に使うのはかなりの負担になっていたのかな?

モニタは画面が時々若干暗くなるんだけど、これは付属のHDMIケーブルの問題か、馴染み(?)の問題か……と思っていたら、エネルギーセーブ機能のせいでした。気になるので解除。

音は引き続きFMトランスミッターで飛ばしてコンポから聞いてます。
まあこれは当面このままでいいか。

* * *

25日の昼飯後、急に体調が悪くなり、帰宅してから深夜まで3回吐き、熱も出ました。
27日から鹿児島に出張することになっていたところ、この体調だとマジヤバイと思っていましたが、その出張案件が1月以降に延期になりました。奇跡が起きた。
先方から「ホントすみません」とお電話をいただいたのですが、「いえ万全を期してのことですから」と答えた声が弾みすぎていたのは否めない。

疲れがたまっていたところに、質の悪い鶏肉を食べたせいではないかと疑っています。2008年の12月末にも、やはり食べ過ぎで急性胃腸炎になってる。腹も身のうち。

* * *

■岡田匡『糖尿病とウジ虫治療―マゴットセラピーとは何か』岩波書店、2013年。

2017年11月30日

下旬まとめ

駒込で昼過ぎの仕事があったついでに寄った「きなり」。
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盛り付けがアレであまりおいしそうに見えないのですが、実際は芯の強い白醤油がとてもおいしく、一緒に頼んだ生姜の香りが効いてる炊き込みご飯に寄り道してから戻ってくるとスープが際立って、さらに満足しました。

* * *

金沢に1泊で出張してきました。
長野以遠の北陸新幹線も、金沢も初めて。

21世紀美術館は特に面白くなかった。

「ノーサイド」っていうところで食べたハントンライス。
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オムライスと白身魚のフライが何のシナジーも起こしてない。
むしろ「針の上で天使が何人踊れるか」的な空想を喚起する。(しない。)

「GOEN」ってところのおでんとお寿司。
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まず寿司だけ出てきて飲み物が来ないし、おねーさんはレジ操作も接客の仕方も把握できてないし、お通し400円とかで会計の2割を占めてるしで、素材はいいけど人と仕組みが全然だめだった。

新幹線で食べながら帰った中田屋のきんつばは謙抑的な甘さで好きでした。

仕事はあまり気が進まない感じで行きましたが、行ったら行ったで勉強になりました。

* * *

■ダニエル・ソロブ(大島義則他訳)『プライバシーなんていらない!?―情報社会における自由と安全』勁草書房、2017年

■都甲潔、中本高道『においと味を可視化する―化学感覚を扱う科学技術の最前線』フレグランスジャーナル社、2017年

2017年11月05日

チャヴ

■オーウェン・ジョーンズ(依田卓巳訳)『チャヴ―弱者を敵視する社会』海と月社、2017年

公営住宅に住んでいて暴力的、10代で妊娠し、人種差別主義者でアルコール依存の労働者階級の若者。憎悪を込めて彼らを指す「チャヴ(Chavs)」は、もともとはロマの言葉で「子ども」を指す「チャヴィ」からきた言葉だが、Council Housed And Violentの略語だ、なんてデマもある。

イギリスにおいて「階級」はなくなった、とたびたび主張されてきた。だが、そう考えてはいけない。いまでも極めて不平等な社会だし、近年その度合いは強くなっている。「階級の政治」から「アイデンティティの政治」への転回を経た世の中で、黒人や同性愛者を揶揄すれば相当な批判を受けるが、白人労働者階級は心置きなくクサせる。人種としてはマジョリティだし、”階級は存在しない”以上、彼らが苦境にあるのは彼ら自身の「向上心の欠如」によるものだということになる。こうしてアンダードッグは自分を責め続けるよう仕向けられる。

チャヴ・ヘイトの起源は1980年代のサッチャー時代に遡る。サッチャーは「階級は社会を分断する共産主義者の考え方だ」と切り捨て、集団ベースの問題解決ではなく、個々人の自助努力を称揚した。為替管理の緩和とポンド上昇によって金融業を繁栄させ、そのかわりに輸出が生命線だった製造業と工業労働者コミュニティを破壊、労働組合をこてんぱんに叩いた。結果、肉体的にはきついが、それなりの払いと安定があって誇りをもてる働き口が激減し、ただでさえ少ない雇用はスーパーやコールセンターに集約されていった。その帰結は大量失業、貧困、住宅事情の悪化、犯罪、薬物中毒、そして「嘲られる労働者階級」の誕生である。

ただ実際には、サッチャーの保守党は階級区分に深く根ざした政党であり、その政治は階級闘争そのものだったことを忘れてはならない。それは、パブリックスクール出身の中流階級が、自らの富と権力を固めるために仕掛けた、「上からの階級闘争」であった。目指したのは階級の解体ではなく、階級を見えなくすることだったのだ。

不思議なのは、多くの労働者を敵視した保守党がなぜ支持され続けたのかだ。からくりの一つは、労働者階級の中で「頑張れば上に行ける」と思う層と思わない層の間に亀裂を入れ、前者を取り込んだこと。もう一つは、対抗すべき労働党の意気消沈と弱体化だった。以来、福祉依存の敵視と公共サービスの削減、不平等の容認と低所得者により打撃の大きな税制の導入、果てはサッカーのチケット値上げによる低所得者の締め出しまで行われ、ポスト・サッチャーの時代にもプロジェクトは順調に完成へ向かう。貧困は社会問題ではなく、個人の資質の問題になっていった。

中流出身の議員や報道関係者、右派評論家らは労働者階級を理解する動機と視点を欠き、テレビや新聞は暴力や無気力の極端な例を全体状況のように描いて容赦なく労働者階級を貶める。労働党=ニュー・レイバーまでもが「向上心のある労働者」に焦点を当てる。ブレアが「能力主義(メリトクラシー)」を押し出し「いまやわれわれはみな中流階級だ」と言い放つに及んで、「チャヴ」の代弁者は消滅した。

その空白を埋めたのが、人種差別的なイギリス国民党(BNP)である。白人労働者階級はネグレクトされた民族的マイノリティだ、という多文化主義のハッキング。そして「チャヴは愚かだからBNPを支持する」――人種差別を否定するリベラルな価値観から、さらなるバッシングが噴出するとは!その一方で不十分な雇用、不十分な住居という社会問題の責めは社会の支配階層ではなく、移民に帰せられていくのだ。

2011年に書かれた本ですが、16年のBrexitもこの流れで理解できるんじゃないでしょうか。排除の社会学・応用編、あるいはポピュリズムの政治学。さてイギリスのケーススタディはどこの国まで敷衍できるかな。

2017年10月21日

心3題

■信原幸弘(編)『ワードマップ 心の哲学』新曜社, 2017年.

18年も前の留学時代に「心の哲学」を覗き見したとき、なんか小難しいけどこれ必要なのかな……と思ったまま遠ざかっていました。しかしその後、認知科学が発展し、ディープラーニングが興隆して、今ここすっごい面白いんじゃないかと思っていたところに、丁度良く見取り図が出たので買ってみました。いつだって自然科学の参照なしに人文学なんてできなかったと思うけれど、その結びつきが特に強まる時期に来たとも感じます。次のような項目に特に興味を持ちました。

・物と心は一つなのか二つなのか、脳がどうやって心を生むのか。
・「わたし」は(どのような意味で)存在するのか。
・美醜に関する経験の本質的特徴とは何か。利益と無関係であること?驚嘆で構成されること?……
・「心」と「世界」の境界はどこにあるのか。ノートに書き留めたメモ(つまり脳の外に固定された記憶)は拡張された心とはいえないか?慣習やルールなど「社会」とのかかわりにまで拡張することはできないか?
・精神疾患と身体疾患はどう違うのか。物理的治療と心理的治療とはどんな関係にあるのだろうか?(=心身問題の再燃!)精神医学におけるEBM、VBM、NBMとは?
・「依存状態」では何が起きているのか。対象を獲得することを繰り返すと、慣れてしまって快感は減り、気持ちは離れていくはずなのに、なぜ身体が対象をますます求めるのか?
・心はコンピュータで再現できるのか、コンピュータで超えることができるのか?

* * *

関連で、この夏聞いた放送大学のラジオ科目「比較認知科学」(今年改訂されたものらしい)が出色でした。比較は文化間比較ではなく、ヒトとサル、ハト、ネズミなど動物との比較です。実験によって明らかになってきた、動物の色や形の認識、記憶、感情、メタ認知などが人間とどう同じでどう違うのか。これを聞くと世界の見え方がちょっと変わってきます。

* * *

メンタルがやばげな妹からLINEで差し迫ったメッセージが来て、仕事が特に忙しい時期に入っていた弊管理人は、メッセージの影響で一時期結構やられました。やばい人に対して無視や停止要求をすることもできないので、仕事中はLINEを見ないことにして、終わったら気合いを入れて、まとまった時間、相手をしていました。

やりとりしていて気付いた特徴ですが、
(1)自分を環境から攻撃を受ける被害者の立場に置き(「かかってる医者が自分の大変さを理解してくれない、仕事がの負担が重い、騒音など住環境が悪い」)
(2)しかし自分も責め(「弱い自分が厭になる」)
(3)防衛的で変わろうとしない(アドバイスしても「もう十分やってる」、金銭的援助などを申し出ると「迷惑かけたくないから援助は求めない」)
ので、非常に対処しにくい。

一度とっくりとやりとりをして、どうも「隣戸の生活音や、他人が自分に良い感情を抱いていないのではないかなど、外部に対して過敏になっており、それが社会生活をストレスフルにしている」という整理にまでは辿り着きました。今後の方向性としては、恐らくかなり根本的な問題である「感覚の過敏さ」(あるいは「不安」)を薬でコントロールすることを第一に目指すことを提案しました。長くかかっているらしい医者が合ってないので、医者を変えるのがいいのではとも。

しかし、「感覚の過敏さ」にも原因があるはずです。それが引き起こす社会生活のストレスがさらに感覚過敏の一因になるという、ネガティブなループを作ってしまっているようでもあります。薬を使ってループを切断する試みが成功しなければ、次に考えるのは社会生活からいったん退避することでしょう。田舎に戻ることが手段かもしれませんが、田舎の父に負担がいくのでできれば避けたいところではあります。

また、社会生活のストレスもさることながら、それとは別のもっと深いところに、「感覚の過敏さ」を引き起こしている原因があるのかもしれません。思いつくのは家族との死別や大学中退前後のゴタゴタですが、これは精神療法で何とかしていく類のものではないかと推測します。ただし弊管理人(そして弊管理人がこの件について見解を聞いてみた人)は、妹は「もともとそういう体質の人」である可能性が高く、狙えるところはせいぜい「緩和」までだろうとも思っています。

長いこと交渉の薄い妹なので弊管理人が持っている情報は少なく、対処方法を考えるために来歴と現状を聞き取っていると非常に疲れるし、愚痴り返すと状況が悪化するため愚痴れず、ストレスも大きいです。「こういうストレス構造になっている」と説明しても、それを自力で解決しようという意思や行動にはつながらないかもしれない。ただ「うんうん大変やね」と聞くくらいの対処しかないようでもありますが、やばい人は「この人は話を聞いてくれる」と思うとその人にばかり話すので負担が集中するんですよね。近日、弊管理人の仕事が落ち着いたところで面談をすることになっており、またおなかがしくしくしそうです。

2017年09月23日

3連休のあれこれ

ちょっと足を伸ばして厚木のZUND-BARに行ってきました。
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あら炊きの塩。スープだけ、スープ+麺、スープ+麺+葱、でそれぞれ風味が変わります。頬張らずにじわっと楽しむべき出汁の味。「チーズダッカルビ好きっす」みたいな人には物足りないかもしれないが、老境の弊管理人は好きでした。

そんで温泉入ってさっさと帰ってきました。

* * *

放送大学のFMラジオ放送が2018年9月で終わり、受講してない人が聴けるのはBS放送だけになってしまいます。今はラジオをタイマー録音して持ち歩き、外回りや通勤時に聴いているのですが、さてどうしたらいいのでしょうか。

暫く考えていましたが、これだけのことだった。
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やってみたらできました。
・集合住宅の場合、BSはアンテナ端子とテレビのBSアンテナ端子を結べば普通に見られること
・録画機能のない普通のテレビにも、設定した時間に音声(と映像)を送り出す機能があること
これに気付いてなかったんですね、今まで。

* * *

暑さがましになってきたので、自炊再開しました。
昼はハンバーグ。6月から使ってない古い米と油と醤油をさっさと処理しなければ。

* * *

■Williams, H., Death, C., Global Justice: The Basics, Routledge, 2017.

グローバルジャスティスってなんやねんという疑問がここ暫くあって、丁度良く入門書が出たので手を付けてみました。
出発点はロールズで、それを踏み台にしたベイツやポッゲを経由し、セン、フレイザー、ヤングとかからポストモダニズムやラディカル・エコロジー、緑の国家まで多士済々駆け抜ける、大学初年度の学生さん向けの「リーダーとともに」読む概説って感じ。つまり本書だけだと、主要人物たちの布置は分かるが言ってることの内容はあまり分かった気にならない(語彙もノンネイティブには若干難しい)。でも弊管理人はおじさんなので、名前の羅列を見るとなんとなく何がしたい分野なのかが想像できました。

前半は思想小史。後半はアクティビズムの展開を紹介していて、去年たまたま仕事で絡んだ気候変動に重点を置いてあったので、後半のほうがサクサク読めました。そして、出会った国際NGOの人たちとか外交官とかがなんでああいう発言や行動をしていたか、やっと分かってきた。これは予想外の収穫。

この分野は理論と実践が両方大事というか、切り離せないよねというのは著者の言うとおり。ということはあまり「誰が何を言った」に偏らず、これ以降は具体的な国際問題を扱った文章に目を向けていったほうが楽しそうではあるね。

* * *

■仲正昌樹『NHK 100分 de 名著 2017年9月』NHK出版,2017年.

NHK教育でやってる「100分de名著」の9月はアーレントの『全体主義の起原』。初めてテキストを買って読みました。みすず書房から出てる本は高い上に3巻構成なので二の足を踏んでいましたが、この紹介を読むと面白そうかもと思えます。

2017年09月08日

天草

【9/7】

熊本駅近くのレンタカー屋で車を借りて、8時過ぎに出発。目的地は天草の崎津地区です。

たっぷり2時間半かかりました。
教会は珍しい畳敷き。祭壇は、ちょうど旧庄屋宅で踏み絵をさせていた場所にあるそうです。
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崎津は「潜伏キリシタン」関連遺産の登録が目指されている場所の一つです。禁教下でも集落の人口の7割がキリシタンだったとされています。神社もお寺もあり、残り3割の非キリシタンと共存していたというのが不思議なところです。(もっとも、集落内、時には家族内でキリシタンと非キリシタンが混ざっているのは他でもある普通のことだそう)
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「みなと屋」という古い旅館を改装した資料館で、丸山さんという方にいろいろお話を聞きました。史料が豊富にあるわけではないので分からないが、村の一体性を重視した結果ではないかとのこと。また、地理的な遠さから、島原天草一揆に参加しなかったことも強い弾圧を免れた一因かもしれないとおっしゃっていました。
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一方、宣教師がいないところで250年もなぜ信仰が続いたのかは不思議です。旅行に持っていった大橋幸泰『潜伏キリシタン―江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社, 2014年)では、信仰共同体としての「コンフラリア」と、村の共同体の一員としてのアイデンティティがうまくバランスしていたことに原因を求めています。つまり、キリシタンであることはその人の唯一のアイデンティティではなくて、村の社会の中に埋没し、時にはお寺や神社の行事に参加したり踏絵をしたりしていたのだという。
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明治になって崎津の「潜伏キリシタン」は「キリスト教」に改宗したのですが、隣の今富という地区ではキリスト教が黙認されるようになっても改宗をせず、仏教徒のままキリシタンであり続ける「隠れキリシタン」の道を選んだそうです。水方(洗礼を授ける役)の一人を修験者がこなすなど、250年の間に仏教や修験道の要素が加わってオリジナルからはずいぶん形が変わっており、「本来はこういう感じ」という正解を見せられても納得ができなかったことが原因ではとのこと。
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なんでそもそもキリスト教がウケたのでしょうか。それも丸山さんに聞いてみましたが、ここに入ってきた宣教師が医者で、いろいろ困りごとを助けたことに恩義を感じたところから入ったのではないか、との説明でした。きっかけとしてはそうでしょうが、禁じられつつ250年も保持できるほどの動機は別のところにあったと思います。いろんなパンフレットを見ても、意外とここが触れられてないなあと。
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長崎の教会群に比べて、天草は圧倒的に展示や説明がしっかりしてました。
世界遺産になるのがいいかは分かりませんが、なりたいならなれるといいなと思います。

あとは、苓北町で「おっぱい岩」見て、
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カレー食って熊本に戻り、最終の飛行機で熊本空港から東京に戻りました。

2017年08月21日

種子島

年齢的にもう順番が回ってくることもないかな、と思っていた種子島出張(3回目。初回、2回目の前半後半)が土壇場で転がり込んできたので、2泊3日でほいほい行ってきました。
今回は有り難くも空席待ちが実り、夏限定の伊丹→種子島線が利用できました。
出発前、「プロペラ機じゃないの?」と職場のおにいさまに言われ「結構距離あるし、さすがにジェットでしょ~」と笑い飛ばしたらプロペラでした。
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東京では8月に入ってずっと雨でしたが、鹿児島は30度超えのピーカンです。
お仕事はさっくり終了。
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一緒にお仕事をした若者と「終わりましたねえ」と言いながら見た種子島の海、19時。
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星空も素晴らしかったです。

仕事は弊管理人含め3人。夕飯は連れ立って出掛け、地のものを食べました。
1日目の夜、南種子町の「一条」で出てきたショウブ。種子島の夏の味覚だそうです。
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このお店、メニューはなく、3000円のお任せコースだけと聞いて言ったのですが、小鉢6つ、切り干し大根(細くない。輪切り大根)とイカの煮物、すき焼き、このショウブ、締めのうどんとお腹がはちきれるくらいの量が出てきて「本当に3000円で済むの……?」と一同不安がよぎりました。でも3000円でした。やばい、これは。

2日目は「八千代」でナガラメ(トコブシっぽいなと思ったらトコブシらしい)。
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ここは鶏料理も結構推してますね。

弊管理人は生もの嫌いではなかったかと?
嫌いってほどじゃないんです。自分一人だと特に食べないだけで。

* * *

帰りは午前中の高速船で鹿児島市に出て、そこから飛行機。ですが、Uターンラッシュの日に当たったため、チケットとりが非常に難航。新幹線で7時間かけて帰るか……と真剣に検討していたところ、奇跡的に取れたのが20時10分発の鹿児島→成田です。

ちょっと時間があるので天文館「くろいわ」でラーメン。
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とんこつ。あっ好きあっ好き!

鹿児島中央駅の地下でまた「しろくま」食って帰りました。
ちょっと寄ったスポーツクラブで何の気なしに体重計に乗ったら、見慣れない数字を見て引きました。痩せようかな……

* * *

■神崎洋治『人工知能解体新書』SBクリエイティブ, 2017年.

行きの伊丹空港で買って、帰りの鹿児島空港でフィニッシュ。
ディープラーニングの仕組みをざくっと分かっておきたい、と思ったものの、ざっくりすぎて目的を遂げず。
使い方の実例は(若干古いが)多いのはよい。
誤字が多すぎて出版してはいけないレベル。人工知能に校閲してもらえ。

2017年08月09日

孤独な散歩者の夢想

■ルソー(永田千奈訳)『孤独な散歩者の夢想』光文社,2012年.

『エミール』の発禁と逮捕状の発布、逃亡生活ですっかり厭になっちゃった、ちょっと病んでる思想家のエッセイだとは知らずに、なんとなく手にとって読み始めて、のっけから「この世にたったひとり。」とか切り出されて面食らいました、正直。

無理矢理でも半分くらいまで読んだらサヨナラしようかな、と思いながら読み始めたものの、結局ずんずん最後まで読み切れてしまったのは、妙にこの「世の中めちゃ面倒」という感じ、なんかわかる、って思ってしまったからです。

第6の散歩では、人に親切をすると気持ちがいいし、したいのだけど、実際やってしまうと次も期待されて、義務みたいになっちゃって、もし途中で親切を中断すると、もともと何もしてなかった状態よりさらに裏切られた感じを相手に与えちゃって、ああもう諸々うぜえ、というぐねぐねが綴られています。倫理と義務が結びつくカントとか無理。しかも顔の見える関係性の中でだと超窮屈。こういう人が現代に生きていたら、フェイスブックで他人の気分の上げ下げに付き合わされるのとかまっぴらご免なので、友達ほとんど全員のフォローを外して、気の向いたときに自分から見に行くようにしてます、とか言いそう。ていうかそれ弊管理人。

第7の散歩は、年食うということの寂しさに満ちています。今から何を始めるというのもな、っつってとっつきやすい植物観賞にはまり、それにまつわる思い出に遊ぶというか、そういう手持ち無沙汰な状態。これも長く弊管理人が抱えながら反抗している気持ちではあります。ルソーの場合はさらに深刻で、第9の散歩では、子どもと接する時に、その反動として自分の老いを再認識してしまう、もっというとコンプレックスさえ醸し出してしまっている。「おっさんが近づいたら子どもも迷惑だよね」なんて悩んだりして……

優しい人でありたくて、しかし人間嫌い。でも他人が接してくれるのは嬉しくて、そういうことがあると舞い上がっちゃうのだけど、なんかその感謝の表出の仕方がぎこちない。痛いというか。で人間関係、ほんと面倒くさいっていうところに戻る。

世の中のことを考えるのには一区切りつけてあり、もうこの世で追求すべきミッションもないし、新たに何かをというつもりも気力もないのに、時間は中途半端にある。そんな「生きベタ」な自分のあれこれを、それでも思わず書き付けてしまう。でも書き付ける気になったのは多分、「でもまあいいか」という境地に達したからこそじゃないかと思います。そこにこそ普遍性(「なんかわかる」)への窓が開くというもの。いやどうかな。

2017年07月30日

観蓮会

先週のことですが、田無にある東大の農場で開かれた観蓮会に行ってきました。
休日限定の早朝覚醒により、朝7時のオープンに合わせて楽々現着。
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曇りで少し風がありました。でもかんかん照りだと体が辛いのでこれくらいがよい。
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蓮は、光があまり強くないほうがきれいに写る気がします。
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それぞれのピンクが夢のような発色でした。種はぞっとするんだけど。
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行く前はなんとなく池にいっぱい蓮が植わってるイメージを持っていましたが、実際は鉢や生け簀みたいのにさまざまな品種が入って並んでおり、「だよねえ」と思い直した次第。
ひまわりの迷路もありました。
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昔はそんなことを思ったことなかったのに、何か一斉にこっちを見ているようで気味が悪かったです。
駅前の松屋で朝飯食って帰りました。

* * *

この土日は寝たり起きたりしており、合間にいろんな人と会って、あっという間に過ぎていってしまいました。実家から桃が箱で届いたので朝に夕に食べてます。食物繊維が豊富で(皆まで言わない)

* * *

■加藤秀一『はじめてのジェンダー論』有斐閣, 2017年.

傷つけたり傷つけられたりしないために知識を仕入れ、関心を維持し、こういうじめじめ怒ってる人たちの世界になるべく踏み込まないで生きていきたいなと思わせてくれる筆致でした。説明が食い足りなく「なんで?」と思うところも少しありますが、見取り図として有用で、読みやすさもピカイチでした。

2017年07月19日

ろか

仕事先から、いつもと違ったルートで帰宅。大久保駅の近くを通ったら、よく行列してるお店がさくっと入れそうだったので、ふらっと入りました。「魯珈(ろか)」。
カレーとルーロー飯を頼みました。
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スパイス大好きな人が作ったカレー。おいしかったです。感じのよさもいいですね。
行列がない時に通りかかったらまた行く。

* * *

会社の別部署にいる優秀で人間のできた若者から「うちでボードゲームしましょ」と言われて、先日の連休の最終日に行ってきました。
弊管理人と、若者と奥様、同じ部署のさらに若者と、奥様のお友達の5人でおいしい昼食をいただいて、そのあと夕方まで楽しく遊びました。姑息、卑怯、いらいらする人がいると雰囲気が悪くなるものですが、全員スマート&ノーブルかつ真剣勝負だった。ああ清らかすぎて居づらい(うそ)

* * *

■岡本太郎『神秘日本』KADOKAWA, 2015年.

■亀田達也『モラルの起源』岩波書店, 2017年.

2017年07月02日

LGBTを読みとく

この週末やたら自宅で本を読んでいたのは、土曜は天気がよくなく、日曜は午後、自宅に配管清掃が回ってくるのを待機している必要があったためです。あまり雨の降らなかった梅雨もそろそろ終わりかな。

* * *

最先端やってる研究者にテキスト書く時間なんかねえんだよというお声も遠雷のように聞こえる昨今、それでも多分にマニュアルとかFAQ的な要素を含んだ新書を書くって偉いと思います。丁寧にやるかわりにパンピーにとっては結構なところまで行きますから、手をつっこんだ以上はついてきなさいね(にこり)というドS理学療法士のリハビリみたいな本ですが、ついていく価値あり。ほぼ知っていることでも、きれいに整理されていくというのは貴重な経験です。会社の図書室みたいなところに新着本として入っていたので手に取りました。つまり買ってない。ごめん。

分からなかったのは、人格としての同性愛という考え方ができる以前に「自分は同性愛者だ」と考える人がいなかったというのはいいとして、(1)それ力んで説明することで何を救おう/何と戦おうとしていたのか(2)そんでは「同性愛行為は前々からあった」という言い方ならいいのか、ということ。鮮やかだなあと思ったのはHIV/AIDSの問題とポスト構造主義がどうクィア・スタディーズを形成したかという説明と表。

■森山至貴『LGBTを読みとく』筑摩書房, 2017年.

▽とりあえずの分類

・個人の性別/性的指向sexual orientation(恋愛感情や性的欲望の向き先)が:
  女性/女性=レズビアン(女性同性愛者)
  男性/男性=ゲイ(男性同性愛者)
    *容貌、性格が「男性的」か「女性的」か、とは無関係
  性的指向が両性に向く=バイセクシュアル(両性愛者)
    *性的指向が1つとは限らない
    性愛に性別が関係ない=パンセクシュアル、を含む

・セックス(生物学的性別)/ジェンダー(社会的に割り当てられた性別、性差)
 /性自認(自分の性別に対する認識)
 を導入した上で:
    トランスセクシュアル=セックスと性自認の不一致
    (狭義の)トランスジェンダー=割り当てられた性別と性自認の不一致
    トランスヴェスタイト=容姿に関する割り当てへの違和
      *性自認は問題ではない。常に異性装しているとも限らない    
  これらをまとめて「(広義の)トランスジェンダー」と呼ぶことがある
      *性別の社会的な割り当てにはセックスも入るとの考え方→6章で

・LGBTの中でオーバーラップが生じるケース
  性別×性的指向×性自認で考えると、「トランスジェンダーの同性愛者」の存在も見える

・LGBTに含まれないケース
  性的指向が向く性別がない=アセクシュアル
  性自認(?)が男性でも女性でもない=Xジェンダー
  生物学的性に男性/女性が分けられる、との「性別二元論」にも疑問符を付けておく

▽前史 ★行為→人格

・中世キリスト教世界:生殖に結びつかない性行為(ソドミー)の禁止
・産業化→未来の労働力である子どもの保護→「悪い」性行為への厳罰化傾向
 その一つとしての「男性間の」性行為の厳罰化
  1871 独・刑法175条
  1885 英・改正刑法(ラブシェール条項)、ただし「放埒さ」への戒め
・性科学による「同性愛homosexuality」という言葉の提出と同性間性行為の医療化
  独刑法175条(非道徳的な「行為」を罰する)への反対の立場
  →男性間の性行為や親密関係(愛)を指向するという「人格」の治療を目指す
・この時点で「同性愛者」のアイデンティティを持つ個人が誕生
 また、この時に女性同性愛者も「発見」される

▽運動史

・ホモファイルhomophile運動(1950年代~、西側諸国)
  反ナチ、反マッカーシズム
  典型的な男性/女性らしさをもって既存の社会制度に取り入る「同化主義」的傾向
  医師、性科学者の権威を利用
  同性愛者のコミュニティ発展に貢献
・ゲイ解放運動(1960年代~)
  ストーンウォールの反乱(1969)*有名だが最初、というわけではない
  専門家の権威より、経験に根ざした反差別運動
  ただしこの時期、フェミニズムによるレズビアン差別など男女の状況には差異も
・レズビアン/ゲイ・スタディーズ
  担い手は同性愛の当事者(後のクィア・スタディーズとの違い)
・HIV/AIDSの問題(1980年代~)
  多様なマイノリティに及ぶ問題
  アイデンティティ×抵抗だけでは感染症に対処できないとの認識
  (他方、日本ではアイデンティティ醸成とコミュニティ深化を惹起)
・ポスト構造主義
  二項対立と脱構築(デリダ)
  網の目としての支配、その大規模さ(フーコー)
・HIV/AIDSの経験+ポスト構造主義からクィア・スタディーズへ

▽日本

・女性
  同性愛概念の輸入(1910年代)
  女学校での女性同士の親密関係(エス、おめ)、心中事件→問題の認識
  恐らくこの時代に自分を「同性愛者だ」とアイデンティファイした人もいたはず
  ただし成長過程で一過性に起きるものと考えられ、社会問題としては受け流された
  「レズビアン」という言葉はキンゼイ報告(1950年代)から
    その後、人格としてのレズビアンが根付く
・男性
  明治期の「学生男色」は鶏姦(当時違法)がなければ容認
  同性愛概念の輸入→「変態性欲」としての問題化、「悩める同性愛者」の源流
  キンゼイ~1960年代「ホモ」発明~1970年代「ホモ人口」で「集団」としての厚みを認識
・1990年代以降
  92 東京国際レズビアン&ゲイ映画祭
  94 パレード、全国キャラバン
  97 アカー「府中青年の家裁判」
  
▽TG史

1910 ヒルシュフェルト「トランスヴェスタイト」(異性装で性的興奮を得る者)の発明
  ただし同性愛とは未分化
1952 デンマークのヨルゲンセンが性別適合手術を受ける
  →同性愛とは違う「トランスセクシュアル」の顕在化
  医者、性科学者の権威による権利擁護の進展
1966 コンプトンズカフェテリアの反乱
*TGでもやはり男女格差、フェミとの関係の問題に留意
1980 DSM-IIIにGID掲載(cf.同性愛の脱病理化)
1990年代 GIDの周縁化、病理化への抵抗としてTG概念が普及。日本でも

▽クィア・スタディーズ

・3つの視座
  (1)差異に基づく連帯
  (2)否定的な価値付けの引き受け→価値の転倒
  (3)アイデンティティの両義性と流動性
・5つの基本概念
  (1)パフォーマティヴィティ
    バトラー。言葉の意味は使用の累積から産出される→本質への疑義
  (2)ホモソーシャリティ
    セジウィック。女性差別やホモフォビアを伴う異性愛男性間の紐帯
    →男性中心的な社会を維持する機能
  (3)ヘテロノーマティビティ
    ホモフォビア(反差別、ではあるが社会の問題を個人の心に矮小化する)
    →ヘテロセクシズム(異性愛を中心に据えた社会構造への注目)
    →ヘテロノーマティヴィティ(「正しい性」を頂点にした序列化への批判)
      →多様な「正しくない性」の連帯が可能に
  (4)新しいホモノーマティヴィティ
    ドゥガン。市場と消費に迎合した「裕福な同性愛者」の一人勝ち批判
  (5)ホモナショナリズム
    プア。国家が同性愛者を是認する見返りに、国家による他の差別を認める危険
    ピンクウォッシュ、イスラモフォビア批判

2017年07月01日

じんるいがく(終)

で、最後は引っかかった部分だけメモりながら土曜を使って一気読み。
400ページに1年かかってしまいました。
でもなんか教科書1冊走り抜けた達成感はある。

去年、(1)のエントリーに書いた「グローバル化によってフロンティアが消滅したら文化人類学はどうやって食ってくの」というお節介な心配には19章以降で少し(少しね)答えてくれたように思います。

あと最後の最後でsociologismという言葉があるってのを知った。
そのSociologyを次は読んでみようかなと。
16年ぶりくらいのメンテということで。

今回読んだ本はこちら。
■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.

* * *

19. Anthropology and the Paradoxes of Globalisation

・文化帝国主義、グローバル化、植民地主義、国際貿易、宣教師、技術、移動手段の高度化、国民国家の覆い→20世紀前半の文化人類学者は既に「未開」の文化の消滅を懸念
・1960-70年代のurgent anthropology:消え去る前に記述せよ、という緊迫感
・近年の懸念:社会間の接触の増加による複雑な関係が生成していること

▽それからどうなった
・植民地時代に研究された人たちは今、グローバルな経済、文化、政治の一部に
・国家が暴力を独占することで征服されることはなくなった
  が、採掘産業やプランテーション、宣教活動の侵入などが問題に
・アザンデに広がる賃労働者化、しかし魔術などの制度は残存
・ヤノマミは居住地内での金発見でグローバル経済に包摂
  先住民としてのヤノマミを世界に伝えるプロのスポークスパーソンも登場
  ただし多くは今も採集民(貨幣経済の重要さは増しているが)
  はしかの蔓延など困難も
・フランス統治下のマリでドゴンは敵のフラニから守られていた
  が、干ばつや人口増加に悩まされた
  現在はほとんどマリの国家に包摂され、通学やワクチン接種、仏語教育も享受
  イスラムによる文化変容も重要→ムスリムのフラニと平和的接触が可能に
・スーダンのヌアーとファー:内戦の影響
・トロブリアンド諸島では近代化により政治組織、経済、アイデンティティの政治に変化
  一方、親族システムや交換システムはいまだに機能している(重要性は低下したが)
・巨大なシステムとの接続でどうなったかがローカルの研究のスタート地点に
  →グローバルなシステムのさまざまな地点、レベルでの歴史的展開が主要課題

▽世界文化?
・文化的エントロピー(マリノフスキー)、文化グローバル化、クレオール化、雑種化、西洋化
  →「グローバル時代」にどうアプローチしたらいいのか
   グローバルとローカルの関係にどうアプローチしたらいいのか
・グローバル化:みんな同質になったのではなく、差異の表現方法が変わったとみるべき
・近代:WWI後、資本主義、近代国家、個人主義が人間存在にとって意味するところ
  →WWII後にその拡散は加速する
・最近数十年は、人、もの、アイデア、イメージの流れが全球スケールで加速
  時空間の圧縮(ハーヴェイ、1989)
  →空間が諸文化のバッファとなりえなくなった
・文化人類学も理論、方法の水準で複雑な課題に直面することに

▽近代化とグローバル化
・近代社会はそれぞれ違いがあるが、近代性には普遍性がある
  国家と市民権
  法制定権力や暴力の国家独占(ただしボコ・ハラムのような抵抗例も)
  賃労働と資本主義、資本が国土に縛られなくなる。半面、「南」の経済的従属
  貨幣=市場経済→持続可能な生産の優先度が下がる
  政治と経済が抽象的なグローバル・ネットワークに組み込まれる
  →どの個人もネットワークに決定的な影響力を行使できなくなる
  →単純な因果関係が描けなくなる(バタフライ効果)
  グローバルとローカルの接続(気候変動、原発事故)
  国連やNGOの道徳、政治的影響、ただしサンクションを与える力はまだ弱い
  AIDSの拡散にもグローバル化が顕現している

▽グローバル化の諸側面
・脱埋め込みDisembedding。距離が問題にならなくなる。社会生活が場所と切り離される
・加速Acceleration。輸送や通信が速く、安くなった。「遅れ」が意図せざる結果に
・標準化Standardisation。標準化と比較可能性。英語、モール、ホテルチェーン
・相互接続Interconnectedness。人々のつながりが濃く、速く、広く。国際ルールの要請
・移動性Mobility。あらゆるものが動く。移住、出張、国際会議、ツーリズムの増加
・混交Mixing。文化間の接点が増え、大規模に、多様に
・脆弱性Vulnerability。国境の希薄化と国際協調の重要性。病原体、テロリスト、温室ガス
・再埋め込みRe-embedding。上記諸傾向への反発。道徳コミット、アイデンティティの政治
  加速化にはスローカルチャー、標準化には「一点もの」、相互接続にはローカリズム、
  文化的純粋性の追求、脆弱性には自己決定、国境管理の再強化
  国際貿易の深化は都市スラムの拡大、移住は文化的再活性化も伴う
  →グローバル化はこのように弁証法的なプロセスである

・「ワールドミュージック」:非欧州の音楽家を欧州でフィーチャー、スタジオや電子楽器使用
  オーセンティックとは何か?という問い、欧州の音楽家が演奏した際の著作権、
  アフリカ音楽に対するJBの影響、「ワールドミュージック」内部の差異の不可視化
  実際はアフリカで聞かれていない「ホンモノのアフリカ音楽」、強く政治的な歌詞

▽グローバルな過程をローカルに受け止める
・ある地域でのイベント(米大統領選、オリンピックなど)は即座に世界で言及される
  が、拡散されない地域もある
  受け止め方もさまざま。Vogueは熱帯とパリで違う読まれ方をする
  南→北、という情報の流れもあり

▽ツーリズムと移住
・旅行、出張の増加
  →ホテル、空港、ビーチは文化と文化を架橋する「第3の文化」か?
  文化を観光化するサブサハラ
・移住をみる視点
  (1)ホスト国でのマジョリティとマイノリティ
  (2)ホスト国、母国での文化・社会組織
  (3)視点間の比較。ホスト国には「必要悪の労働者」、本人・本国には「外貨の源」
・どちらにしても誰もが「グローカル」
・「西洋文化」という言葉ももう不正確
  7~10億の人は一つにまとめられないし、他地域にも「西洋っぽい都市」はみられる
  →「近代」のことか?
・移住と文化アイデンティティ
  Nevis研究:移住先でのアイデンティティ確立
  純粋性、本来性authenticityの希求
  ポスト伝統(ギデンズ)時代、伝統はなくなるのではなく選択し、擁護するものになる

▽流離exileと脱領土化
  悪魔の詩:移動の途上。いかに世界や真理が違った場所では違って見えるか
・アパデュライAppadurai(1990)によるグローバルな文化流動の5側面
  (1)ethnoscape。人々の布置
  (2)technoscape。技術の布置
  (3)finanscape。資本の流れ。以上がインフラ。ただしどう動くかは予測しがたい
  (4)ideoscape。イデオロギーやメッセージの布置
  (5)mediascape。マスメディアの構成
 ポイントは脱領土化。
・帰結
  (1)流離する人口の増加
  (2)意識的な「(居)場所」の構築(自明でないからこそ)
    ロンドンでのNevisのようにネットワークあるいは結節点として構築されるかも
    意味づけも誰が見るかによって変わりうる(Rodman,1992)
  →遠隔ナショナリズム(アンダーソン)

▽人類学の帰結
・「伝統」と「近代」を経験的な意味で使えなくなった(●分からない)
・「社会」や「文化」が閉じたものとして扱えなくなった
・システム全体を描くことが難しくなった代わりに、フットボールやツーリズムなど個別の現象を分析する面白さが出てきた
・フィールドワークに加えて、幅広い文脈(統計、報道など)を参照する必要が出てきた

▽モダニティの土着化Indigenisation?
・マクルーハンの「グローバルビレッジ」:調和的というより、紛争を孕んだものとして描出
  相互行為と匿名性、ミクロとマクロの水準の混合
 →グローバル化の中心的なパラドックス:世界は小さくかつ大きくなった
 →民族・文化的断片化と近代的均質化の同時進行(フリードマン)
・サーリンズの「モダニティの土着化」。ナショナリズム、伝統主義
  cf.ソロモン諸島での母系→父系社会への移行。そのほうが土地所有権と整合する
  (Hviding,1994)

▽2つのローカライズ戦略
・フランス出稼ぎのコンゴ人les sapeurs:お金をためてフランスで服を買い、故国で消費を誇示。もともと権力のない出自だが、グローバルな消費文化を利用して地位を誇示する
・アイヌ(Sjoberg,1993)。日本政府に先住民族として認められるために、文化をコモディティ化・観光化し、(グローバルな)マーケットで価値のあるものとして売り出した

20 Public Anthropology

・アカデミアの外に向けた人類学
  一般向けの出版、政策提言、国際的な対話
・20世紀の制度化、WWII後の研究人口増→アカデミアへの引きこもり、自律
  ただ、ボアズのように人種差別的な偽科学批判をした人も
  多くの一般向け著作を残したマーガレット・ミードも
・イラク、アフガン侵攻のための「便利な」学問と見なされた経緯
  米軍やNATOにはエンベッド人類学者
・では、一般の人とのかかわりで何を目指すべきか?
  文化・グローバル化批判?研究対象の擁護?
  ハーバーマスの「3つの知識」:技術的、実践的、解放的
・ex.ノルウェーのrussefeiring(卒業生のどんちゃん騒ぎ)に対する新聞コメント
  →自分で組織する「通過儀礼」だとの説明
・ex.ノルウェーロマに関するコメント
  →賃労働を忌避するノマドの文化からの説明
→わからないものを文脈に位置付ける。道徳的な判断をするものではないが
・ex.移民政策
  →入ってくる側の視点から見たらどうか、という説明
→議論を方向付けはしないが、方法的文化相対主義からより多角的な検討を可能に

Epilogue: Making Anthropology Matter

・フィールドで道徳的に許されないことを見たら、それを外に伝えるべきか?
  たぶん、してもいい。ただし論文とは別の形でやる手はある
・自分の参加している社会を観察する:sociologism
  何でも社会学や人類学の枠組みで理解してしまう傾向
  芸術、文学、愛、美などを純粋な社会的産物として見る
  →世界は興味深い/深くない「現象」の束になってしまうのでは
・人類学は「他者」を扱うが、それは自己を反省的に眺める契機でもある
・単純化ではなく、より世界を複雑にする仕事なのかも
・人生の意味を教えてはくれないが、人生を意味あるものにするさまざまなやり方を教える
  答えをくれないかもしれないが、大きな疑問にかなり迫った感覚を与えてくれる

じんるいがく(9)

3カ月くらい空いてしまった。

* * *

17 Ethnicity

・「エスニシティ」の流行は60年代、ナショナリズムは80年代に、グローバルは90年代
・tribeからethnic groupへの移行も起きている(ethnic groupはどの社会にも存在)
・現代の紛争のほとんどはエスニシティや宗教が背景にある
・紛争でなくても、日常生活の至る所にエスニシティが影響を及ぼしている
・人類学では、マジョリティもエスニックグループと呼ぶ
・「あちらとは違う」という感覚があれば、そこにエスニックグループがある

▽もう少し特定を
・文化的に客観的な違いや集団間の隔たりがあるほどエスニシティが重要になる、というのは誤り
・文化的に近く、日常的な接触がある際に重要な意味を持つことがよくある
  ほとんど同じ人たちこそ、わずかな違いに敏感になる(cf.ベイトソン(1979))
  ←「違い」があるためには、何か共通性を持っていないといけない
・「文化的特徴」がエスニシティを作り出すわけではない。複数の文化の「境界」を見よ(Barth, 1969)
  →エスニシティは個人や集団の中にあるのではなく、「関係性」にある
・エスニシティの条件:
  メンバーや部外者による一般的認知
  文化的な特徴が宗教や結婚制度など何らかの社会的慣習に紐付いていること
  共通の歴史を持っているという認識(Tonkin et al. 1989; Smith 1999)
  起源の神話を共有していること

▽社会的分類とステレオタイプ
・分類が有効であるためには、アクターがそこに何らかの有用性を見出す必要がある
・ステレオタイプは、慣習的に存在すると思われている集団の特徴を単純化したもの
  労働者、女性、王族、など……
  道徳観と結びつくことが多い(ヒンドゥー教徒は自己中心的だ、など)
  →それが境界を強化し、自己イメージを明瞭化し、支配―被支配関係を再生産する
・混血はアノマリーとして迫害されがちだが、当事者が二つの属性を戦略的に使い分けることも

▽状況とエスニシティ
・人は状況により××族の人として振る舞ったり、雇用者として振る舞ったりする
・どう見られるかを巡るネゴシエーションも起きる
  eg.英国でバラモン出身のインド人がジャマイカ出身者と同じカテゴリに入れられるのを拒否
  →カテゴリー化への異議申し立てや、ステレオタイプへの挑戦を試みる
・二項対立化(サーミ/非サーミ)、補完化(どっちもノルウェー語を喋るよね)
  =dichotomisation and complementarisation
  二項対立では、相手を劣ったものととらえやすい。スティグマ化(サーミは不潔)
  補完化は学校で教えこまれたりする。同化への試み(外ではノルウェー語を使う)
→エスニシティは「関係性」や「プロセス」の中で顕現する

▽エスニック・アイデンティティ(象徴)と組織(政治)
・エスニック・グループが歴史的連続性を持つとというイデオロギー
  →エスニシティが「自然なもの」「長い歴史をもつもの」との印象を与える
・こうした信念には政治的な側面もある=組織
・ただし、「われわれ感覚」の強さや、グループが何を成員にもたらすかはさまざま
・日常からエスニシティを発露しているか、年に何度かのお祭りでだけ出すかもさまざま
・アイデンティティと組織のどちらがより基底的かも論争あり(Cohenは後者)
・政治・経済的な競争下ではエスニシティが重要性を増す
・Handelman(1977)によるエスニシティの強度の4段階
  (1)カテゴリー:起源神話の共有によるアイデンティティ形成。外では影響力なし
  (2)ネットワーク:エスニシティを媒介にした人間関係。仕事や住居、結婚相手の斡旋など
  (3)アソシエーション:目的をもった組織の形成
  (4)コミュニティ:明確な領域を基盤とした集団。分業や政治がエスニシティに基づいて動く

▽エスニシティとランク
・エスニシティだけでは集団内の位置は分からない。性別、年齢、階級などで内部は分化してる
・セグメント化されたアイデンティティ(1人の中に同心円状、またそれを横断する多くの属性がある)

▽「過去」のイデオロギー的使用
・共通起源の神話→現在の意味づけ、政治体制の基礎、アイデンティティの基礎となる
・現代でも同じ。口承ではなく記録によるが、多様な解釈を許すもの
・過去は特定の現代の見方を正統化するために操作される(ホブズボーム)
  ←「意図的」な伝統の創造。スコットランド高地の伝統など
・過去は多様に描ける。ナポレオン戦争を英/仏の子どもに教える際の違い。北米先住民の描写

18 Nationalism and Minorities

▽ナショナリズムと近代性
・ナショナリズム:文化的境界と政治的境界の一致を志向するイデオロギー(ゲルナー)
 ウェーバーなどは近代化、個人主義、官僚化によって取って代わられる旧習とみた
 が、逆に近代の産物であった(フランス啓蒙主義、ドイツ・ロマン主義時代)
・伝統と伝統主義は別もの、と考えるのが有用
 ナショナリズム=古い文化的伝統を強調する伝統主義
  だが本当に「古い」「伝統」というわけではない。ex.ノルウェー・ナショナリズム1850~

▽ナショナリズムと工業社会
・ゲルナーによると、産業化に伴って人々が親族、宗教、地域社会などの「根源primordialities」から切り離され、それを機能的に代替する社会の組織原理としてヨーロッパのナショナリズムが要請されたとする
・ナショナリズムは抽象的なコミュニティを前提にしている(顔の見える関係でなく)
 →想像の共同体。マスメディア、特に印刷メディアの発達が重要な役割を果たしている
  標準化された言語と世界観、教育→国民国家
・ナショナリズムは感情的な動員が可能な点で、イデオロギーより宗教や親族関係に近い
・エトニという古い共同体に根ざしているとの主張もあるが、シンボルの意味は昔は異なった

▽国民国家
・指導者は権力構造の維持と国民の基本的欲求の充足を達成する必要あり
・ナショナリズムに基礎を置いている
・暴力、法、秩序維持、徴税の権限の独占
・官僚機構、教育システム、共通の労働市場、国語
・多数の人々の動員(ヤノマミはせいぜい数百人。国家は何百万人)
・民族的多元主義は初期のほうが問題にならなかった

▽ナショナリズムとエスニシティ
・エスニックグループが自分の国を持つ権利を要求する→ナショナリズム(伝統的定義)
・ただし実際は、
  グループが「共通の意思」を持っているわけではない
    1人を見ても場合により民族/国民アイデンティティを使い分けている
  ナショナリズムは多数派のエスニックグループのイデオロギーであることも多い
  日常の用法では両者は混同して使われている
  民族と国家の範囲は多くの場合一致してない→マイノリティ問題が生まれる

▽マイノリティとマジョリティ
・権力と権力格差に注目したエスニシティ研究の代表例2つ:移住労働者、先住民
・「エスニックマイノリティ」は単に少数なだけでなく、政治的従属も含意する
・「マイノリティ」かどうかは場合による:
  (1)シク教徒はインド全体では2%だが、パンジャーブ州では65%
  (2)国家を作ることでマジョリティになれる
  (3)ハンガリー人やジャマイカ人は英国ではマイノリティだが、別の地域ではマジョリティ

▽権力の非対称性
・Copperbelt(2級市民としてのアフリカ鉱山労働者)の例
・Tambiah(1989)による現代社会のタイポロジー
  (1)マジョリティが90%以上を占めるほぼ同質な国(日本、アイスランド、バングラデシュ)
  (2)75-89%の大マジョリティ国(ブータン、ベトナム、トルコ)
  (3)50-75%+複数のマイノリティ(スリランカ、イラン、パキスタン、シンガポール)
  (4)ほぼ同規模の2グループ(ギアナ、トリニダード・トバゴ、マレーシア)
  (5)どの1グループもドミナントでない多民族国家(インド、モーリシャス、フィリピン)
・ただし社会の安定度、民主化の度合い、人権状況は上記分類と対応しない
  (モーリシャスは第3世界の中では最も安定度が高い部類に入るなど)
・民族問題は市民権、キャリア機会の不均衡から生まれるのが典型的

▽マイノリティに対する3つのアプローチ:隔離、同化、統合
・隔離:マイノリティを劣るものととらえ、物理的に切り離す(アパルトヘイト、北米の諸都市)
・同化:マイノリティの融合→消滅。イングランドにおけるノルマンの吸収
  強制される場合も、マイノリティが選択する場合もあり
  起こりやすい場合(米国の旧移民)も、起こりにくい(身体的特徴が顕著な黒人)場合も
・統合:アイデンティティを保ったまま、共通の制度に参加
・ほとんどの場合はこの3つのブレンド
・マジョリティが占有するもの:政治権力、言説、言語、コード、キャリア
  →労働市場などでマイノリティが不利になる
  ex.在ドイツのソマリア人は4言語使えても、ソマリア、スワヒリ、イタリア、アラビア語では
  労働市場で有利になれない

▽移民
・貧しい国から豊かな国への移民研究は主に3つの焦点:
  (1)受け入れ国側での差別の諸相
  (2)マジョリティと移民の文化の関係
  (3)アイデンティティ維持の戦略
・マジョリティ/マイノリティ関係の違い(Wallman, 1986)
  東ロンドンのBowでは緊張関係、南ロンドンのBatterseaではもっと緩い
  Batterseaでは個人が多様なグループに所属、職場も地元以外、流動的
   =オープンで不均質な社会
  境界を越える手段がたくさんある=「ゲート」と「ゲートキーパー」が多数存在する
  →架橋的な人間関係がコンフリクトを抑制する
・個人の視点から見ると、文化的コードを切り替えながら生きている
  受け入れ国側の人と接するときはエスニックな面を抑制、同郷人とは逆に
・Vertovecの造語「スーパー・ダイバーシティ」
  特に南北の「北」諸国での移民カテゴリーの多様化
  ジェンダー、年代、教育程度の多様化、受け入れ条件の多様化、経路・制度の多様化

▽「第4世界」―先住民
・近代と国民国家に直面→脆弱な立場に
・全ての住民が地球の先住民である以上、「先住民」は価値中立的には語り得ない
  →国民国家と潜在的に対立する政治的主体としての位置付け
   ただし、領土要求のプロジェクトが出てくることは少ない。人数的にも分化の程度でも
  最も先鋭的な対立が起きるのは土地の権利をめぐって
・先住民が可視化されるには、文化的変容が不可欠であるというパラドックス
  リテラシーを身につけ、メディアの扱いを覚え、政治に精通することで可能になる
  運動も「人権」概念に立脚し、国連の枠組みのもとで行われる
・文化/文化的アイデンティティ、伝統/伝統主義

▽民族の再活性化ethnic revitalisation
・しばらく眠っていた文化的象徴や習慣の再興。ただしオリジナルとは違ったもの
  伝統ではなく「伝統主義」。ex.トリニダードでのヒンドゥイズム
・近代国家のもとで起きる

▽アイデンティティの政治
・グローカルな現象。特定の地域、集団で起きるが、文化や権利に関するグローバルな言説に依拠することが成功の条件
 ex.ヒンドゥー・ナショナリズム
  「ヒンドゥーらしさhindutva」の登場は1930年代だが大規模な現象になったのは80年代
  90年代には政党BJPの台頭←「世俗国家だ」とする批判
  カーストや言語的な分離が、かえってヒンディーを分断する可能性も
・特徴
  外部との違いは強調され、内部の多様性は捨象される
  「被害者」として歴史を解釈
  文化的な継続性と純粋性が強調される
  混交、変容、外からの影響は無視される
  結束強化のためには、内部の非成員が悪魔化される
  集団を越えた結びつきが批判される
  過去のヒーローが近代的ナショナリストとして意味づけし直される
・対比を通じたアイデンティティ形成
  ナショナリズムやマイノリティ問題は近代の産物だが、伝統社会にも見られるのがこれ
・エスニックグループも国家も永続的なものではないことに注意

2017年06月24日

行動経済学

■Baddeley, Michelle, Behavioural Economics: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2017.

そのうち誰かに聞こう聞こうと思っていて聞いてないことなんですが、文献の名前を示すときに、著者のファーストネームをイニシャルにする(例えばBaddeley, M.とか)のって、フルネームが分からなくて不便じゃないのかな。(備忘)

なんかずいぶん前に大した志もなくアマゾンで予約注文していて、忘れたころにぽいっと送られてきた本。本社勤務に戻ったのに伴って通勤時間(=本を読む時間)が10分ほど延び、捗りました。偶々ナッジを仕事で扱う必要ができたので、うまい要約として一部参考にさせていただきたいと思います。
あまりメモをとるつもりもなかったのだけど、用語集として為になるなーと思いながら書いていったら随分な長さになってしまいました。伝統的/行動経済学の対比が図式的すぎるのかもとは思いつつ、やっぱり初心者にはこういう説明がいいのかもしれんとも。

1. 行動経済学の特徴

・「経済人」をただ受け入れない
  認知的限界がある:H.サイモンの限定合理性bounded rationality
  状況に規定される:V.スミスの環境合理性ecological rationality
  現状維持に固執する時がある:H.ライベンスタインの選択的合理性selective rationality

・実験で得られるデータを使う(政府統計などだけではなく)
→ただし、その代表性(学生だけが被験者でいいのか)や信頼性(被験者が本気でやってくれるかどうか)の点で困難も多い
・神経科学的なデータ(fMRIやTMS)も使う
・RCTも利用可能

2. インセンティブはお金だけではない

・外発的動機extrinsic motivation
  お金<物理的脅迫
  社会的な報酬(名声、地位)

・内発的動機intrinsic motivation
  プライド、義務感、忠誠心、純粋な楽しさ

・外発/内発は関係しあっている
  「お金」が「義務感」を閉め出してしまうcrowding outケース
  ex.保育園のお迎え遅れに罰金を課したら余計に遅れが増えたイスラエルの例
  ex.献血に対価を払ったらかえって減ってしまった例

・金銭的報酬の効果(お金をもらう)<社会的報酬の効果(自分のイメージの向上)
 かつ、両方揃うと強い動機を生む
  ex.D.アリエリーのClick for Charity実験
  ex.賃金の上昇→生産性の向上だが、それを「職場でのよい扱い」がブーストする

3. 人の経済行動は他人の影響を受ける

・不公平を嫌う(自分がされるのも、他人がされているのを見るのも嫌)inequity aversion
  二つのタイプがある
  (1)恵まれている人が、つらい人を見るのを嫌うadvantageous inequity aversion
  (2)人よりつらい立場になるのを嫌うdisdvantageous inequity aversion
 →(2)のほうが強い
・inequity aversionは霊長類にもみられる

・最後通牒ゲームultimatum game
  A氏は100ポンドのうち、いくらを相手と分けるかを決める
  B氏は自分の分け前を見て、承諾か拒否かを判断
  拒否した場合は両者とも取り分はゼロ
  合理的に考えるとB氏は1ポンドでも承諾。だが実際は40ポンドでも拒否例が出る
  =B氏は40ポンドを犠牲にしてでもA氏を懲罰したいということ
・脳イメージングで見ると、不公平な扱いには、悪臭などでむかついたのと同じ部分が反応

・判断の際には、平均的な他人がどうしているかsocial reference pointsを参照する
  ex.電気代の通知に「他の家はこうですよ」と書くと省エネ行動を誘発できる

・公共財ゲームpublic good games
  公共財(灯台など)は利用しつつ設置・維持費は負担しないのが合理的
  →結局は公共財が成立しない、というオチが予想される
  ところが実際は、地元のコミュニティなどが結構進んで負担する
・上記ゲームの変種で、第三者の見張りがつくと、積極的にフリーライダーを罰しようとする
  =愛他的懲罰altruistic punishmentという現象がみられる
  脳の報酬系が活性化する。規範侵害を罰するのは気持ちがいいらしい(ex.ネット炎上)
  これが協力行動の進化に重要な役割を負っていると思われる

・社会的アイデンティティも重要
  Tajfelの内集団in-group/外集団out-groups
  内集団への同一化と外集団への対抗のためには、人は結構な投資を辞さない
  Brexitもアイデンティティの危機を反映したか

・ハーディング現象(群衆行動)herding
  多くの人がやっていることをまねる傾向。二つ考えられる:
  (1)規範normative。社会規範が個人の判断を引きずる
    20人のグループで19人が誤答すると、残り1人は正答が分かっても誤答を選ぶ
    cf.ミラーニューロンの存在。相当原始的で強い傾向と思われる
  (2)情報informative。他人の行動(という情報)を見るとまねてしまう
    ATMが2台あって1台が行列、1台がガラガラでも、咄嗟に行列についてしまう
    ただし、「隠れた名店」という情報があっても無視してしまう危険性
    =負の外部性negative herding externality
・慣習に逆らって正解するより、慣習に従って間違うほうが評判を傷つけない(ケインズ)
・集団と一緒に行動したほうが安全であることが多い(ジャカルタの大通りを横切る時!)
・牛も捕食者に対する防御からハーディングする
・バブル現象も、ネットショッピングでも。市場を不安定化させ、人間行動を攪乱しうる
・ハーディングは、判断の時間と認知資源を節約するためのヒューリスティックの一種
  ex.冷蔵庫を買うとき、他人が買ってるものを選べばリサーチの手間が省ける

4. ヒューリスティックとその効果

・市場がそこまでうまく働かない理由を考えるとき:
  伝統的経済学は市場とそれを支える制度に注目する
  行動経済学はそのほかに、人間の意思決定に注目する
    そしてその意思決定は伝統的経済学が想定するほど難しい計算に基づいていない
    変化するし、推移律もいつも成立するとは限らない
    →「ソフトな合理性」を想定する

・ヒューリスティックを使った即断
  問題:情報の過多information overloadと選択肢の過多choice overload
  →どちらも多ければいいというものではない
・アイエンガーSheena Iyengarらの実験
  売り場に24種のジャムを並べると買う気をなくす(5種に限るほうがよい)
→経験則に基づいた即断=ヒューリスティックに頼る。ただしミスやバイアスも付きもの

・ヒューリスティックでは「損得計算」をしていない
・カーネマンとトベルスキーによる3類型:
  (1)利用可能性availability
    急いでいる時、容易にアクセスしたり想起したりできる情報を使う
    ex.とりあえず手近な資料ファイルを持って会議に急ぐ、いつも同じ旅行会社を使う
    心理学でいう初頭効果primacy effect、親近効果recency effectと関連
      ←真ん中より最初を覚えている
    買い物でいつも同じものを選んでしまう→比較サイトは脱却を助けるシステム
  (2)代表性representativeness
    アナロジーや似たものを利用して判断する
    ただし連言錯誤conjunction fallacyを引き起こしがち
    新しい情報が入っても古い信念を変えにくい
      確証バイアスconfirmation bias:「悪い人」が何を言っても悪さを増幅する
      認知的不協和cognitive dissonance:現状認識を操作して古い信念に合致させる
   (3)係留と調整anchoring/adjustment
    参照点から動きずらい
    ex.当てずっぽうで計算させると8x7x6x5x4...x1より1x2x3x4...x8が小さくなる
    参照点としてよくあるのはスタート地点。status quo bias/familiarity bias
      →判断を変えがたく、現状からの差分で変化を測ろうとする
    これを利用した例がオプトアウト方式
  
5. リスクを伴う選択

・経済学者は通常、リスクは定量化でき、リスクを好むかどうかは不変と考える
・が、行動経済学は「場合による」と考える。要因は:
  ・情報の「利用可能性」 ex.航空事故の報道で、道を歩くより危険と思い込む
  ・損失を獲得より重く考えるloss aversion

・プロスペクト理論(カーネマンとトベルスキー)vs.期待効用理論expected utility theory

・期待効用(理論)=将来の幸福や満足。しかし見誤ることがある
  すべての利用可能な情報を使い、計算の上で意思決定する
  決定したら変更しない  
  一貫性がある、推移律を満たす。リンゴ>オレンジ、オレンジ>バナナ、ならリンゴ>バナナ
・期待効用理論で説明できないこと:
  アレAllaisのパラドックス:人は異なったリスクには異なった反応を示す
    確実性効果certainty effectの存在はカーネマンらが確認
  エルスバーグEllesburgのパラドックス
    曖昧さ回避ambiguity aversion
→人は確実性や曖昧さなどに「重みづけ」をしている
・損失回避のためにはより大きなリスクをとる。利得のためにはリスクをあまり許容しない
  =reflection effect
  probabilistic insuranceよりcontingent insuranceが好まれる(●分からない)
・隔離効果isolation effect=ある要素を無視してしまう(すべての情報を考慮していない)

・そこで、より現実に即したプロスペクト理論
  特有のやり方で、それぞれの選択肢を判断している
  携帯を買うときに、すべてのカタログ情報を考慮してはいない
    →参照点への固定傾向、係留、現状への固執、損失回避
    授かり効果endowment effect=持っているものに固執する

・Thalerのメンタルアカウンティング→後述(Ch.6)
・後悔理論regret theory:将来の状態を複数想定する。そのどれも当人のコントロールを超越
  ex.傘を持って出るかどうか

6. 時間が選択に及ぼす影響

・時間選好time preference(=我慢強いかどうか)は人による
  が、個人個人の選好は一定だというのが多くの経済学者の考え
・時間選好には個人間の違いもないとするのが標準
  →しかしWarrenとPleeterの軍人年金に関する研究ではこれに反する結果が出た
    毎年払い×一生より、一括払いを92%が選択。白人、女性、大学出は年払いの傾向

・時間不整合性time inconsistency
  現在の選択では利益を焦るが、将来の選択ではより「待つ」ことができる
  現在バイアスpresent bias。より小さくて直近の利益を優先する
  ex.ダイエット、ジム通い、喫煙……
・時間不整合性は動物モデルにもみられる
  Ainslieによる鳩の実験
・Mischelらによるマシュマロ実験
  お菓子を我慢できる子どもを追跡
  →感情、認知機能により優れたティーンエイジャーに→有能な大人になったという話

・現在の利益vs.将来の利益という「時点間の闘争intertemporal tussles」
  これが人の内部で起きているのでは?
・fMRIで調べると、短期的利益→原始的、長期的利益→高次機能の部分が反応していた
  ただし、「すべての選択肢を60日後」にしても同じだったとの反論あり(Glimcerら)

・naifs/sophisticatesによる意思決定
  どちらも現在バイアスには支配されている
  が、sophisticatesは将来の利益のために、将来の選択肢を自分で制限できる
  →事前の自己拘束戦略pre-commitment strategyが使える
   cf.オデュッセウスvs.セイレーン、ジムの都度払い<月会費払い
  自己拘束契約commitment contractというのも。目標達成できないと損害が出る
  FitBits, iWatchesのようなテクノロジーの利用も可能に

・行動ライフサイクルモデルBehavioural life cycle models
  
・今日か明日か、という選択の際に利用している機構
  ・choice bracketing。複雑に相関した諸問題を単純化する
  ・mental accounting。お金の価値は場面によって違う
    宝くじで当たったお金は浪費するが、働いて稼いだお金は大切にする
    NYのタクシー運転手は忙しい日でも一定以上稼がない

・行動経済学×開発
  小幅で期間限定の肥料の値引き→現状バイアスの克服→結果としての増収

7. 性格、気分、感情が意思決定に及ぼす影響

・スリル追求的(危険なスポーツ、ギャンブル、金融)/リスク回避的、など

・よく使われる性格テスト:OCEAN
  Openness/Conscientiousness/Extraversion/Agreeableness/Neuroticism
・認知機能テスト:IQ、Cognitive Reflexivity Test(リスク選好も見ている)
・性格の把握は難しい←自己申告の調査票を使うので「よく見られたい」などのバイアス
・遺伝的要素も(Cesariniの二卵性双生児実験。ただし遺伝的要素は2割程度)

・性格と学業成績、仕事の業績、リーダーシップ、寿命の関連がみられる
・性格形成は環境に影響される(親の社会的地位と子のIQ→経済的成功にも)

・気分mood=対象がない、集合的に感じられることも/感情emotion=対象あり
・感情は非合理、との思い込みに挑戦したのがElsterら。合理性とコラボしているという
・感情はヒューリスティックの方向付けをする→affected heuristic
・感情+ヒューリスティックは認知プロセスに干渉する
  ex.飛行機事故の映像→リスク見積もりの歪み→飛行機に乗るのを控えるなど
・内臓感情visceal factorは、より生物的で協力な影響を与える要素
  cf.依存症。ニコチンガムや電子タバコはここの制御を試みている
・ダマシオのsomatic marker。
  ex.やけど(ソマティックマーカー)→火が怖くなる(感情)→火を遠ざける(行動)
  ex.脳損傷→強迫の出来→判断への支障→経済生活への支障

・二重システムモデルdual-system models(カーネマンのThninking, Fast and Slow)
  二つの思考プロセスがあるとする:
  (1)システム1:自動的、速い、直感的
  (2)システム2:認知的、熟慮、コントロールがきいている
・hot(判断ミスしやすい)-cold(冷静な) state

・感情と神経経済学
 ex.島皮質insulaの活動状態→否定的な感情→リスク回避的な行動
・ホルモン(テストステロンやコルチゾールなど)とトレーダーの行動の関係も
・精神分析からのアプローチも

8. 行動科学とマクロ経済

・リーマンショックの時に伝統的なマクロが同様
・しかし行動科学×マクロ経済は未発達←多様な人の選好を総合するのが大変
・悲観的/楽観的な空気→成長を左右 cf.ブレクジット決定後の意気消沈と経済
・予言の自己成就
・「時間」も重要。今日使うか、とっておくか
・ケインズの一般理論
  マクロに影響を与える役者:投機家speculatorsと企業家entrepreneurs
  投機家は短期の売買を追求、他の投機家をまねる傾向も cf.美人コンテスト
  企業家は長期(年~十年単位)、アニマルスピリット=楽天バイアスがかった行動
  両者のバランスがとれると全体がうまくいくが、不安定化するとマクロ経済を攪乱
  (AkerlovとShillerのアニマルスピリットはもっと広い)

・バブル、サブプライムローン危機
・季節性うつの景気への影響も
・集合的な「空気」が究極的な説明変数か

・新たなアウトカム指標としての「幸福」「福祉」
  しかし、質問紙の設計によって誘導ができてしまう難点も
・ビッグデータ収集、解析が新たなツールになるか

9. 公共政策

・ナッジを利用したエコ行動(参照点、損失重視、他人との比較、の利用例)
・英国HMRCによる税徴収
・プラスチックごみ袋の低減(失敗例)
・どれくらい効果がもつものかは要検証。適切な規模、再現性、効果が「ない」条件の探究も
・伝統的経済学とのコラボをどうやるか

2017年05月28日

5月後半あれこれ

ドイツから戻ってこっち、1日休みがあったものの時差ぼけ調整できたようなできないような感じで、そのあとは離着任の挨拶回りと新旧職場の通常業務が同時並行で入ってきてばたばた過ぎていきました。どっかで1日休みたいなと思ったものの、休めず。遺憾。

* * *

おいしかったものは、大久保駅近く「瀧元」の鱈豆腐。
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おだしに豆腐と鱈が浸ってます。おいしい。
立地と店構えは大衆的ですが、値段は大衆的じゃないです。

それから、新橋「駿」のランチに汁なし担々麺があったので賞味。
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屹立した何かはないけど、食べてよかったランチでした。
しかしやはりこのお店は水炊きを食べるべき。

* * *

土曜、仕事上がりに飲んでたお店で弊管理人が帰ったあとに暴力事件があったようで、疲弊したスタッフ&居合わせたお客さんと計4人で日曜夕方から慰労を兼ねて温泉にいってきました。
埼玉県杉戸町にある「雅楽の湯」。虫取り網を持った少年が田んぼわきを歩いているような、絵に描いて逆さに吊したような郊外だけあって、造りはゆったりしていて、人が多かったはずなのにゆっくりできました。

新宿に帰ってきてサイゼリヤで飲み。ワイン飲んでお腹いっぱい食べて1人2100円(震)。
「なんか、やっとお休みの日としてまとまった気がしたね」と言い合って別れましたとさ。

* * *

今年のクーラー初日は5月22日だった。
ちなみにGWから掛け布団なしの毛布のみで寝ている。

* * *

■岡本太郎『日本再発見 芸術風土記』KADOKAWA, 2015年.

岡本太郎の生き方は当然ながら弊管理人とは全然違うが、いいと思うものはかなり近いのではないかと思っています。そしてこの文章は本当に好き。『沖縄文化論』、これときて、次は『神秘日本』にいこうじゃないか。

■大澤真幸『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学』左右社, 2017年.

『まなざしの地獄』に解説を書いた2008年ごろから、大澤真幸は見田宗介がもうすぐいなくなると考え、その仕事を組み直して同時代の人たちへのアクセス性をよくしようとしているのではないかと勘ぐっています。対談ですがほとんどゼミで先生に喋らされてる学生みたい。

■プルースト, マルセル『失われた時を求めて』イースト・プレス, 2009年.

大学生のころ、フランス語の授業でさわりだけ読んだ作品を「まんがで読破」シリーズで。『宇宙皇子』と本作は読み通しても達成感以外何もなかろうと思ったので漫画で済まさせていただいた。必要十分であった。ドイツに行く途中の飛行機で読了。

2017年04月30日

連休もどき前半

新宿三丁目、モモタイ。
朝7時から夕方6時までやっていて、夜はガールズバーだそうです。
むかしこの店舗、港屋をパクったような蕎麦を出してましたっけね。
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よくあるタイ料理とひと味違った香り。
これは小皿料理も食べにまた来なければなるまい。

* * *

嫌すぎる出張が控えていて準備を少ししなければならないのもあり、また遊ぶ気分にならないのもあり、この連休は帰省するのはやめて6月に先送りし、東京で過ごすことにしました。
土曜は在宅で仕事と読書、日曜は昼ごろ中野のホームセンターに行って材木を買い、ベッドサイドの棚を作りました。そんで上記タイラーメンを食べて帰宅。

* * *

日曜早朝、何の夢だか忘れたけれども叫んで目が覚めました。
正月以来です。
そのあとは平和に二度寝。

* * *

昨年6月に就いた担当から、来月下旬をもって外れることになりました。
本来は2年はやることになっていたところ、「どうにも合わない」と1月下旬くらいから管理職にかけあっていたのが実ったようです。
良くも悪くもさまざま勉強になったのは事実ですが、無理する理由もないかなと。

* * *

そんな余裕あるんかいと自分にツッコみつつ、何年かぶりにリバーシブームを到来させてしまった。

* * *

■一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』筑摩書房, 2016年.

放送大学の教科書が下敷きになっているだけあって、力一杯わかりやすく書かれていると感じました。英米哲学の基本文献の邦訳につける訳者解説をまとめたような本なので、まだ読んでいないものを読んだらまたここに戻ってきたいと思います。
・留学中に授業で原書をつまみ食いした『アナーキー・国家・ユートピア』はやはり通読しないといけない気がひしひしした。しかし5500円……
・「生物学の哲学」は字面から想像してたのとちょっと違った。そのうち一冊読もう
・古本で買ったままになってる『人間知性研究』もいい加減手を付けないと
・あと『哲学探究』もなあ
・ベイズ主義に至ってはどう入っていけばよいやら……

2017年04月09日

関西、桜づくし

東京でいつもお世話になっている京都出身の知人が、今年の花見を京都でやるというので、土日を利用して大阪、京都に行ってきました。

新大阪から地下鉄、モノレールを乗り継いでニュータウン界隈へ。
去年始まったごく私的な岡本太郎ブームのハイライトというか、万博記念公園に行ってこちらを拝んでまいりました。
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重機と比べるとでかさが分かると思います。
特に見たかったのが裏側の顔で、こちらもやっと見ることができました。
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しばらくすると、内部が公開されることでしょう。

で、もう一つの目的が国立民族学博物館です。
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ソルボンヌでモースについて民族学を勉強した岡本太郎の作品がある公園の中にこれがある、というのは上出来じゃないでしょうか。ちょうど文化人類学の教科書を読んでいるところですから、もうすべての展示を興味深く見ました。
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無料の音声ガイドをお借りして丁寧に聴いていたら、いちばん最初のオセアニアのコーナーを抜けるのに30分くらいかかってしまいました。
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展示は建物の2階だけなのでボリュームは大したことないのかな、と思っていましたが、1時間くらいのろのろ見学したところで館内の案内図を見たらまだ2割くらいしか進んでないことが分かり、絶句。
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南北アメリカ、ヨーロッパあたりで「ひ、広い」と本格的に思い始め、しかしアフリカの日常生活の展示はまた面白く、西アジアはいつか行ってみたい!と思わされ、しかし東南アジアあたりからわりと早足になり、韓国もざっと流し、あっ中国は意外とエスニックで面白いかもと思ったものの、日本はもう飛ばし飛ばしで過ぎてしまいました。
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時間の制約もあるけど、もうかなり疲れていたというのもありましょう。にしても「金物」「木」「竹」「紙」の文化があるなあって視覚的に分かりますね。世界一周した感じがします。

昼飯をとらずに夕方になったので、そのまま難波に出て自由軒で昼飯?にしました。
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どこでお知りになったか、外国の方、ほんと多かった。
お店のおばちゃんも「はいはいセンターテーブルでサイドバイサイドでお願いします」と。
そんでもうちょっと食べられるかしらと思い、「わなか」でたこ焼き。
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あっつ!
深夜にお腹空くかな、もう一食食べることになるかな、と思いつつ、ちょっとお酒を飲みに行って、なんやかやつまんで、結局「夕飯」に当たるものは食べずに寝てしまいました。

翌朝は雨。
阪急で京都に向かいました。西院の喫茶店で朝飯食べて、バスで「原谷苑」に向かいました。
こんなとこ。あまりに鬱蒼とピンクで、死んじゃったかと思いました。
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個人所有のお庭(それもすごいが)で、桜の季節だけ一般公開しているそうです。
60年前からありますが、地元にしか知られていない名所らしく、聞こえてくるのは関西の言葉がほとんどでした。
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お弁当いただきます。(弊管理人のにだけ焼き魚が入ってないという非常に言い出しにくいミスに気づき、泣き寝入りした)
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主催者は「去年は満開のときに来たけど、今年はもうちょっと後やったなー」と悔しがってましたが、十分です。一体どんなものを見たんだ、去年。
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堪能したあと、さらに主催者提案でタクシーに分乗して平野神社。
こっちは染井吉野で満開です。空が見えない。すっげえ。
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全然知らない神社でした。これは地元の人に連れてこられないと分からない。
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神社マニアの知人は「えっ、これ何造りなの?」と。
なんか複数の様式が混ざった変な建築だったようですが、弊管理人には分かりませんでした。
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さらに鞍馬温泉に連れていっていただき、ひとっ風呂あびて市内に戻りました。
ここで夕飯に向かう人たちとさよならして、弊管理人は一人で新福菜館でラーメン。
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今回はチャーハン……と思ったけどラーメンにしてしまいました。
やはりうまかった。
「こだま」で本読みながらのろのろ帰ってきました。
主催者と地元の人たちの力のおかげで、疲れたけど大変幸せな週末でした。
今年の桜は十分すぎるほど楽しみました。ありがたいことです。
週明けが来なければもう100倍幸せなのですけど。

* * *

■岡本亮輔『江戸東京の聖地を歩く』筑摩書房, 2017年.

これ絶対面白いやつ、と思って発売すぐに手に入れました。
でまあ当然のように面白かった。東京に暮らして都合12年、東側にも西側にも住み、ぐるぐる歩いた経験のおかげで「あの場所を一枚剥がすと、そんな歴史があったかー」という驚きとともにページが進みます。

* * *

前後しますが、5日(水曜)に仕事がはけてから、ふらっと上野に行って夜桜を見てきました。
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ライトアップが20時までだそうで、着いたときには終わってしまっていました。
でもなかなか迫力があってよい。
不義理をしていた旧知のお店で一杯飲んで帰ってきました。

じんるいがく(8)

大阪、京都の行き帰りに「こだま」を使いました。最近使っていなかったEX-ICカードのサービスで、乗車3日前までに予約すると、グリーン車が「ぷらっとこだま」よりもさらに安い値段で利用できるということを知ったためです。

最近また怠けていた本書とポメラを持って、車内で片道1章ずつ読むことを目標にしました。ちょっとうとうとしたり、車内誌を読んだり、外を見たりしながら読んでちょうどいいくらいでした。
でもやっぱり若干長いな。「こだま」でのんびり、というのは名古屋くらいまでがいいのかもしれないです。

* * *

15 Language and Cognition

▽ウォーフ:翻訳の問題
・(サピア=)ウォーフ仮説
  言語の構造は世界の経験の仕方と密接に関係している
  ←「動き」に重点があるホピと、「もの」の北米言語の違い
  問題構造、世界観、日常生活を言語が規定する
  →では、アザンデ語から英語への翻訳は可能か?
  ウォーフはやっていたし、人類学はそれがないと不可能

・だが、問題がないわけではない
  人類はみな同じように思考しているのか?
  自分を「鳩だ」と形容するBororoをどうとらえるか?
  
・3つの問題
  (1)未開の人々は根本的に違った思考様式を持っているのか
  (2)そうだとすると、その生活世界を比較研究できるか
  (3)人類学の言葉は文化中立的か否か
→思考様式の違いは「民族」的な違いで、比較はすべきと考える
  (生得的な共通性の上に、文化的な違いが形成されている)
・ちなみに遺伝的特徴からの説明も不能
  (文化的多様性を説明できるほど違わない)

▽例として:ザンデの呪術(エヴァンス=プリチャード)
・蛇にかまれる→熱が出る、の部分ではなく、
  「なぜ他の誰でもないこの人がかまれるか」を説明する
=科学的な説明ができない「なぜ今」「なぜ私が」の意味付けを担う
・ただし、限界にも言及している
  (1)呪術に関する信念は科学的に非妥当(検証不能)
  (2)受け入れられているのは正しいからではなく、
    社会の統合機能を担っているから(構造機能主義)

・ウィンチ(1964)の反論
  呪術と科学をはっきりと区別することはできない
  天文学者も、十分に解明されていない「力」を盲信している
  科学の原理を信じていない人には科学実験は無意味
  ザンデの社会は呪術を維持しつつもうまく回っている
→あらゆる知識は文化的に構築されている
  人類学もその一つ。なぜ欧米で人類学が興ったのか?
・文化=ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム
→通約不可能。優劣は言えないし、比較もできないかも
・STSの対称性原理(Fuller, 2006)につながるものといえる
  比較時には中立的な言葉遣いで語るということ

・サーリンズとObeyesekereの論争~
  普遍主義と特殊主義の間の揺れ
→2000年代の「存在論的転回」
  やっぱり特殊性を十分に記述できていないのではとの認識

▽分類
・デュルケームとモース:思考様式と組織の共通性を指摘
  各文化が独自の思考様式を発展させるとの考え
  (ただしウィンチと違って科学の優位は疑わなかった)
・分類(知識体系の重要な要素)→知識
  知識は社会構造と権力に結びつく

・分類の原理は有用性と思われてきたが、違った
・例外は秩序への挑戦、カテゴリーの境界
  →特定の状況でしか食べられない、女性は触れない、など

・トーテミズムにおける分類
(トーテミズム=社会のサブ集団と、特定の自然現象との間に、
 儀礼的な関係づけを持たせた知識の体系)
  →この関連付けの仕方が人類学の関心事となった
・集団のアイデンティティとしての見方
  デュルケームは今日のトーテミズムを「旗」に見る
・ではなぜ、ある集団とある動物が紐付くか?
  熊狩りするから熊がシンボル、というわけではなさそう
  シンボル同士の関係性が人間界の関係性に対応か
  (レヴィ=ストロース)
  メタファーとメトニミー

・野生の思考:二項対立への注目(cf.ベイトソン)
  注目すべきは要素より要素間の関係
  ブリコラージュ
・冷たい(変化の少ない)/熱い(変化を許容する)社会
  伝統/近代
  ブリコラージュ/工業
  書かない/書く
  トーテム/歴史
・書くこと
  言葉をものに変換すること
  時間、空間的に固定すること(覚えていなくてよい)
  話し言葉を縮減したもの
  大規模な集団の中で考えの交換と連帯を可能にする

▽時間とスケール
・抽象的な時間(「1時間」とか)は文化的発明
  時計が時間を作り出しているともいえる
  未来を制御できる→神を超えた能力!(ブルデュー)
  欧州で最初の時計使用は僧侶の時間管理とされている
  「時計」こそが近代の主要テクノロジーといえる
  →非常に多くの人々の行動を組織化できるようになった
   (飛行機が客を待つか、客が出発時間に合わせるか)
・多くの文化では、時間は具体的行為や過程に埋め込まれている
  時間を「失った」り「つぶした」りはできない
  未来はまだ起きていないので、未来形が成立しない
  神話の時間と現在は切り離せない
→時計、書くこと、温度計などの「標準化」が巨大な社会を創出

▽知識と権力
・言葉使いがリアリティを編成→権力の維持に役立ちうる
  (ロシア:「自由」の用法を限るなど)
・マルクスは五感の使用も歴史的産物だと述べた

16 Complexity and Change

▽都市化
・複雑で大規模な都市では全体を見通すことができない
  マンチェスター学派
  複数のインフォーマント、複数箇所でのフィールドワーク
  全体の把握ではなく、あるイベントから示唆を得る
・どうするか
  ケーススタディ
  研究を特定のリサーチクエスチョンに限定する
  特定のサブグループに注目し、全体社会との関係を考える

▽医療
・3つの身体
  個人的、社会的、政治的(すべて文化的構築物)
・西洋医学/伝統医学

▽開発
・GDP還元主義の落とし穴
・エクアドルの豚増産プロジェクトの失敗
  豚はただの食べ物以上の意味を持つ存在だった
  新たなケージ飼いは地域の女性にとり過剰負担となった

▽人類学が受ける挑戦
・われわれ/かれら の区別のあいまい化
・オリエンタリズム
・内部の視点から記述する歴史
・人類学の脱植民地化
  インフォーマントによるチェック要求
  インフォーマント自らが記述する歴史
・「文化」の純粋さへの幻想→文化間の接触忌避
  →アパルトヘイトの知的バックボーンに!
・文化混合(←→文化の純粋性、本来性)
  ハイブリッド性(境界は保持したまま混ざっている)
  シンクレティズム(融合した部分に注目)
  ディアスポラ化(帰属先の文化が他国に)
  トランスナショナリズム(国境を越える社会的実在)
  拡散(物や意味の国境を越えた流動性)
  クレオール化(文化接触の結果、新たな形式が誕生)

2017年04月01日

とうとう春が

寒い雨の土曜。朝起きたら、窓際に置いた睡蓮木の花が咲いていました。
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何かしかし蕾にも咲きっぷりにも馴染みのない感じがあるなあ、と思って調べたら、南アフリカ原産でした。
日系ペルー人の知人が、見た目は全く日本人なのに表情が何か違う、みたいな感じか。違うか。

* * *

昼間、八王子の京王片倉近くにある「竜泉寺の湯」ってところに行きましたが、塩素くさくてあまり心地よくなかったです。

で、夜。
ローテンション同志であるところの友人と夕飯を食べることになり、この友人が交際している中国の子に教えてもらったという、池袋の「四川麻辣湯」に連れて行ってもらいました。
ロサ会館の近くにこんなのあったっけ、と思うくらい知らないと入らない雰囲気。路面店なのに。そして入ったとたんに外国の中華街の匂い!!
スープと麺の基本料金480円。そこに入れたい具(1個100円)を棚から好きなだけとってカゴに入れ、レジで会計します。麺はラーメンみたいのや、細い春雨、平べったい春雨(弊管理人はこれを選択)が選べます。スープの辛さもちょい辛から大辛まで。弊管理人は初心者なのでちょい辛にしました。
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ちょっと待つと、こういうのが来る。
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うめえあああ!
中辛を選んだ友人のスープもちょっと飲ませてもらいましたが、ちょっと痺れが足されるくらいですね。こっちでも大丈夫かも。
いいところを教えてもらいました。

* * *

明けて日曜は晴れてそこそこ暖かくなりました。
大学時代の同級生とお花見。
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母校のキャンパスの野球場にも春が降ってきていました。
ここの桜の枝ぶり、好きです。
満開まではもうちょっと。

そういえば大学の入学式は4月12日でしたが、会場近くの千鳥ヶ淵の桜が満開かちょっと盛りを過ぎたくらいの勢いで当時の写真にうつっています。
きょう、同級生とその話をしたら「その年は特に寒くて、だいぶ遅くまで雪が残ってたはず」と言っていました。そうだったか。

[4月3日追記:これまでの開花日と満開日をみると、確かに1996年の4月7日満開は前年と並んでこの四半世紀で最も遅いですが、顕著に遅いわけでもありませんでした。ちなみに定義は「さくらの開花とは、標本木のつぼみのうち、5~6輪の花が咲いた状態をいいます。満開は、全体の花芽の80%以上の花が咲いた状態をいいます」(金沢地方気象台)]

さすがに20年たつとみんな古くはなっているが、基本線は変わらない。
人文系の人たちのせいか、妙にすれた感じにもなってないところに安心感があります。
「ニュージーランドへの交換留学派遣を決めるための面接で、西洋古典学の先生から『ニュージーランドは西洋だと思うか』と聞かれて『西洋だ』と答えたが、今思うにそれは蛮勇だった」「俺はロックとバーリンで書いた卒論の口頭試問で『君が日本に生まれたことと自由の関係をどう思うか』と聞かれたので『覚悟を決めて生きたいと思います』と答えたら褒められた」といった艶っぽい昔話をしたり、「メルロ=ポンティって今時の学生も読んでるの?」とかきゃあきゃあおしゃべりできるというのは貴重なことです。

* * *

お花見中に職場から電話がかかってきて、やっぱり5月はドイツに行けという話になりました。
くう……(でも実は半分以上諦めていた)

* * *

■加藤周一『二〇世紀の自画像』筑摩書房, 2005年.

古い友人に「目指すところは全然違うが歩き方が(弊管理人と)似ている」と加藤周一を薦められたため、適当な古本を買って読んでみました。
が、半分ちょっとくらいまで頑張ったものの「もうええわ」となってしまいました。それ一つ一つが本1冊になるようなテーマをばさばさ整理しながら20世紀をまとめる対談のようなものを、今更食べる気にはなりませんでした。

2017年03月26日

3月は去りそう

3連休明けて火曜から1週間が始まると、せわしないけど息切れせずに走れていいですね。

土曜日は南青山の岡本太郎記念館に行ってきました。
新宿西口の渋谷餃子で餃子ランチを食べて餃子欲求を満たしてから、JRで原宿まで行って、てくてく歩きます。ものすげえ人人人。

ちょっと落ち着いたところで、表参道のベン&ジェリーズにて買い食い。
ケースの前で迷っていると、おねいさんが「試食できますよ」と声をかけてくださいました。
ちっちゃいスプーンで一口分、渡してくれます。いいサービスですね。3種類食べて↓これにしました(なんだっけ、ベリーっぽいやつ)。
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スプーンの上にはさらに「新発売の桃です」と別の味のアイスをのっけてくれてます。
結構甘いけど、中にホワイトチョコなんかも入ってて楽しい。

記念館は太郎氏のアトリエです。
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あっどうも。
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全館撮影可なのがよい。
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去年『沖縄文化論』で久高島に行くきっかけになったし、もう1冊、紀行文を読もうかな。
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詳しい解説もないし、物量は多くないので、岡本太郎をよく知らない人は先に川崎市岡本太郎美術館(リンク先は去年の日記)に行ったほうがいいと思います。
100円のコミュニティバスに乗って赤坂見附まで出て、定期で帰ってきました。

* * *

日曜は朝から寒い雨の日だったので、昼から深大寺の「湯守の里」に風呂に入りに行ってきました。調布駅前から送迎バスに乗車。アクセスは悪めでしたが、わりと空いてるし、露天風呂のあるお庭は鬱蒼として幽玄といえば幽玄だしで気に入りました。あまりかんかん照りでない昼間に来た方がいいな、ここは。

帰りは時間の関係で武蔵境駅行きの送迎バスに乗り、東中野で降りて昼飯食って帰りました。
なんか最近、電車やバスに乗ったり、長い距離歩くのが好きらしいです。

* * *

懸案が懸案を生んでるのだけど、もうあの、困り果てたなあ、という気持ち。

* * *

■ジョナサン・ウルフ『「正しい政策」がないならどうすべきか』(大澤津, 原田健二朗訳) 勁草書房, 2016年.
Wolff, Jonathan, Ethics and Public Policy: A Philosophical Inquiry, Routledge, 2011. の全訳。(書誌情報、どう書くのがいいのか……)

このところ、イギリスの大学の修士課程の導入科目で参考書になっている本の中から面白そうなのがないか探しています。で、この本は確かLSEのコース案内で見つけて、アマゾンで原書を買いかけたのですが、邦訳が最近出ていて、かつあまり原書より高くないことを知って、楽をしてしまいました。

でも、結果として邦訳のほうを買ってよかったと思います。哲学の研究者が政策立案に関与するというのはどういうことなのか、特にそういう実践がずいぶん進んでいる英国ではどうやっているのかといった、まとめと背景説明を訳者解説が引き受けてくれていて、とても助かりました。英国の研究者が英国の読者に向けて書いている本文だけではちょっと見えにくいので。

日本では各省庁の審議会に哲学の人が出てくることはまれだし、先端研究を扱う生命倫理専門調査会でもなんか今ひとつな議論ばかり。そのあたりと引き比べながら読みました。もちろん動物実験の是非や刑罰、保険制度など個別の議論も面白かったです。

2017年03月22日

3連休とその前後

金曜は不安定になったとみえる友人から夕食の誘いがあり、久しぶりに夏目坂の「高七」で天ぷらを食べました。夜は初めてですが、リーズナブルですね。
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天ぷら定食、かき揚げ丼つきというヘビーなメニューを頼んでしまいました。
「天ぷらは蒸し料理」というコンセプトは大いに共感するところです。
おいしかった。そして弊管理人的おすすめの一番はやはり上天丼であったことを確認。

とても控えめに飲んで帰りました。

* * *

土曜日はずっと不義理をしていた仕事先の集まりが東大本郷であったのでちょっと顔を出して、でもあまり面白くなかったので中座して、上野を散歩して帰りました。

ちょっと運動してから、とても控えめに飲んで帰りました。

* * *

日曜日は散歩がてら新中野のうどん屋「花は咲く」へ。
とり天ぶっかけ冷。
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弊管理人はうどんリテラシーがないと思うけど、つゆ、麺、とり天、全部おいしかった。
ピーク時間帯は結構並ぶんでしょうね。13:30くらいに行ったらほとんど待たなかったけど。
中野の島忠で睡蓮木の盆栽を買って帰宅、昼寝をしました。

ちょっとおつきあいで夜遊びして、3時半就寝。
すごい久しぶりにこんな時間まで遊びました。
懐かしい感じ。でももういいかな。

* * *

月曜日は久しぶりの友人が遊びに来ました。
6時間にわたっておしゃべりしましたが、弊管理人を駆動しているのは「怨念」の力だ、と喝破されて深く納得してしまいました。
あとは、「加藤周一とゴールは全く違うが考え方が似ているから、著作を読むと面白いと思う」と勧められたので、アマゾンで1円の古本を注文しました。
友人は弊管理人お勧めの文庫やら新書やらを棚から何冊か持って帰っていきました。もちろん自分で持っていたいけれども、じゃあもう一度読み通すかというと多分それはない。弊日記にメモは保存してありますしね。それなら面白く読んでくれる人にもらわれていくのも悪くないか、と思いました。

で、運動して、いつもにも増して控えめに飲んで、就寝。
飲んでばっかり、でも意外と普段話さない人たちといっぱい話した連休でした。

* * *

憂鬱な連休明けの火曜は、やはり体が重く、朝一番の用事を忘れてすっぽかし、しかもなんとパソコンを忘れて出勤するというあり得ないミスをし、滞在20分くらいで帰宅して、そのまま1日在宅で働きました。電話とパソコンがあれば大抵の用事は足りるもので、しこしこ仕事をしているうちに体調は普通くらいまで回復しました。

寒い雨の日でしたが、東京の桜はきょう21日に開花宣言が出ました。
とうとう春が来てしまった。来なくていいんだけど。
この冬は「すっごい寒い」と震える日がなかった気がします。
無印の裏ボアのブルゾンと、アマゾンで買った裏ボアのスウェットのおかげで、来客のあった1日以外は全くエアコンを使うことなく、暖かく過ごせてしまいました。

* * *

■足達英一郎他『投資家と企業のためのESG読本』日経BP社, 2016年.

必要があって、この4日で読みました。

2017年03月11日

じんるいがく(7)

通勤電車での細切れで時事的な読書と並行して走っている、「うちでメモをとりながら最近の教科書も読もうぜ」トラックでは、平日夜や休日の「ちょっと読んでは怠け、またちょっと読み」が細々と続いています。何のためにやっているのかは弊管理人としても全くもって不明ですけど。

宗教や儀礼を扱った章になると、がぜん記述が生き生きした印象です。この辺が文化人類学の本領だよねって弊管理人が(特に根拠なく)思っているからでしょうか。
抽象的なシンボルでこそ多様なものが統合できる、というくだりは改めて「そうねそうね」と思った。

* * *
13. Production, Nature and Technology

▽人間と自然の間の交換
・人間の生活と環境の間に相互関係があるという考え方は古代ギリシアから存在
・モンテスキューは、ヨーロッパで科学技術が発達したのは厳しい環境下で生存するためと考えた
・ハンチントン(1945)は雨の日と図書館利用の相関など、「気象決定論」を提唱
  =日照が多いと知的追求が少ない!今日でも「アフリカ人がエンジンを発明しなかった」ことの説明に
・一方、ダーウィンは「自然の中で生きている人でも生存のため十分知的である必要がある」と論じた
・もちろん決定論への反駁は容易。同じ気候でも違った発展をした地域はある

▽システム論と生態学
・生態学は生命科学の一部として発展したが、他分野にも波及した
  1920年代・Parkの「都市生態学」、サイバネティクス、システム理論
・ベイトソンの中心的な考え方は、同じ原理で多様なシステムが作動するということ
  イルカの意思疎通、統合失調症、進化などには共通のパターンがある
・システムの動的・連続的変化が、分類学的な説明に代わる人類学理論になるとの期待あり
  ただし、権力や志向性の説明がうまくできていないとの批判も
・生物学的な説明は、あくまで「メタファー」として使う必要がある

▽文化生態学
・2000年代末から「気候変動の人類学」が注目されるまで、文化生態学は米国の十八番だった
  例)1950~60年代のStewardやWhite
  英国は組織、フランスは認知や象徴に重点
・文化生態学の源流はダーウィン(やマルクス)
  文化は自足的に生成するというボアズ的相対主義とは全く違ったアプローチ
・ホワイト(1949)は、環境から与えられるエネルギーが社会発展を決めるとの主張
  ただし、ホワイトは文化を自律的な領域だと見ていたことにも注意
・スチュワードはマルクスと違って、生産関係だけが決定要因だとは見なかった
  家族から国家まで、さまざまな物質的要因が統合に関与していると主張
  さらに、文化的な「コア」と「それ以外」の区別も導入した

▽文化生態学とマルクス主義
・マルクス:手回し式の粉ひき→封建領主主導の社会、蒸気式→資本家の社会を創出
  熱帯サバンナ→農耕社会、熱帯雨林→狩猟採集 という文化生態学に通じる
・違いは歴史の動因:マルクス主義が階級闘争に注目、文化生態学は適応や技術に注目
・マルサスの人口論(生産は足し算で、人口は級数的に増える)への批判:イノベーションの無視
  →人口過密の日本、インドでの「緑の革命」を見よ
  →ただし天井もあるようだ(マルクスにとっては自然資源は無限だった)
・ただし、これら生態学的な見方は、意思や制度、規範を軽視しがちなことに注意
・また、こうしたグランドセオリーは文化・社会過程を「客観的要素」の従属変数と見てしまう
  →さまざまな要素の相互干渉を見落とす危険性あり
  スプーンで掘り出すべきものをブルドーザーでやっちゃうようなもの
・自然科学のボキャブラリーを借用することの危険性も
  もちろん人間も自然法則に従うが、その法則に対する人の反省、分類、理論化などは表現できるか?

▽ウェット/ドライな環境
・ギアツ(1972)によるバリ(湿潤)とモロッコ(乾燥)の比較
  作物の違い:米/オリーブ
    →組織の違い:灌漑や水路の管理組織subaks/水をめぐる競争
      →集団主義的/個人主義的?
    *決定論にいかないよう注意。社会や文化は結果であるだけでなく、原因の一部も構成する
・Fulaniの社会では地力→飼える家畜の数が人間集団の数を規定

▽環境の人為的変更
・社会は単に環境から影響を受けているだけではない。環境に働きかけてもいる
  ・アラビア半島の大部分では前千年紀の間に大規模な砂漠化を起こしている
  ・今日ではアラビア半島のような地域的改変ではなく、地球温暖化が問題に
・環境が不変なら、「人口」と「技術」の変化が環境に影響を与える2大要因である

・完新世(12000年前の最後の氷期後から現在まで)の後の新たな時代を名付ける
  →Anthropocene(人新世)。産業革命からの200年。人間活動による地球温暖化が特徴
  提唱したのはCrutzenとStoermer(2000)
・海面上昇による移住がアラスカやニューギニアなど各地で発生
・2004年にはイヌイットの団体が被害に関する法的救済を申し立て

▽技術
・人類学者が技術に関して陥りがちな二つの落とし穴(Pfaffenberger)
  (1)社会組織を考えるにあたって些細なこととして看過してしまう
  (2)技術決定論。社会や文化を決定づけるほど重要だと思ってしまう
    例)灌漑が集権的な政治体制を作るというWittfogelの「東洋的専制論」
  →社会関係とテクノロジーは相互形成する
・ラトゥールのANTでは、ネットワークは人間と、人間でないものactantをともに含む

▽生産の形態
・狩猟採集/園芸horticulturalists/農業agriculturalists/牧畜pastoralists/
  農場労働peasants/工業社会industrial societies(/情報社会information society
・資本主義
  ウォーラーステインの世界システム論:中心←半周縁←周縁の依存関係
  ↑マルクスの「従属理論」
  南北問題
・インフォーマルセクター(Hart, 1973)

14. Religion and Ritual

・19世紀までの学界は、宗教religionと異教paganism、迷信superstitionを区別していた
  異教は非キリスト教、迷信は科学、権威づけられた宗教、常識以外の領域
  →イスラムやアフリカの祖先信仰は異教、トロブリアンド諸島の呪術は迷信となる
・今日の人類学では、これらは「宗教」と「知識(行動を誘発するもの)」に整理される
  ただしこの区別も疑問に付されうる
・宗教の定義はまだ定まってないという人が多い
・Tylorの定義が最も古いものの一つで「超自然的なものを信じること」
  →自然と超自然は自明か?祖先の霊は?誰が決める?
・デュルケームに従うと、「世俗」と「神聖」を分けて、宗教は後者に属するものになる
  未開社会では、社会統合の機能を持つ
  「社会がその社会そのものを崇拝する」
  →ただし、宗教の多様さを説明する力はない
・ギアツ(1973)の定義では
  ・象徴の体系であって
  ・人の中に強く、持続的な気分や動機を持たせ
  ・存在に関する一般的な秩序の概念を形成し
  ・その概念に現実味をまとわせるようなもの
  =社会的な機能ではなく、個人の中で世界をどう意味づけるかに注目する
・ギアツにとっては、宗教は
  世界のモデル(存在論的な意義)と、行動のモデル(倫理的な意義)を提供する
  →エヴァンス=プリチャードのヌアー研究(1956)にも反映、現在も影響大
・WhitehouseやAtranの認知・進化学アプローチでは、心の進化の中で構築されたものとみる
  宗教を「理解」するだけでなく「説明」しようとうする
・他には、宗教は社会組織の乗り物ではないかという考え方も
  (→16-18章、アイデンティティの政治絡みで)

▽語られる/書かれる宗教
・書かれる宗教:
  聖典を持ち(1個だとコーラン、集合だと聖書)、その内容を信者が共有
  内容は文化的な文脈によらない
  世界に拡散することができる
  ただし、ヒンドゥー教や仏教は一神教と違って固定的な度合いが低い
・人類学で伝統的に研究されてきた宗教は聖典を持つキリスト教、イスラム教とは大分違う
  神はローカルで、全世界が同じ信仰を持つようなことを期待していない
  その社会の慣習に密着している
・シャーマンが職業として成立したのは相当早い
・Redfield(1955)のlittle(ヒーリングや透視、ニューエイジ)/great(キリスト教や科学)な伝統
・語られる宗教はローカル、教義が比較的少ない、非宗教的な領域ともつながっている
  アフリカのKaguruでは創造神がいるが、普段の相談先は祖先の霊
  死後の世界のイメージもあり。ただし狩猟採集民や(ポスト)工業化社会にはない例も
  生きている人間と死んだ人の魂の連続性
  祖先信仰は、死による生の継続の切断のショックを和らげる機能か

▽儀礼:実施される宗教
・社会・経済的な問題は専門家に解決を依頼。生死の不思議や人生の意味などは儀礼に
・儀礼=具体的な場面における宗教の表現
・デュルケーム(構造機能主義)では、社会統合の機能。社会が自身を崇拝している
  権力の正統化を可能にするイデオロギーの乗り物、かつ、参加者の感情に訴える
  社会の構成員に、社会のことと、自分の役割について内省する機会を与えるもの
・Turner(1969)は儀礼シンボルの多義性、あいまいさに注目
・ギアツ(1973)はバリの闘鶏に儀礼を見た
・Klausen(1999)は1994年の冬のオリンピックを分析
・象徴/社会、個人/集団の対立、社会の矛盾を解くものとして
・Gluckman(1956):スワジランドの王の戴冠式における無礼講→コンフリクトの解放機能
・ラパポート(1968):Tsembagaが定期的に行う戦闘→生態系への負荷を低減する機能

▽イデオロギーと社会的曖昧さ
・Leach(1954)のカチン族研究:
  カチンは独自の神と霊(nats)を信仰。natsは祖先の霊で、現世の秩序を引きずっている
  natsもリネージに属していて、貴族と平民が存在
  gumlao(平等主義)とgumsa(ヒエラルキー)という2つのイデオロギーに緊張関係がある
  →どちらが支配的な時期かによって聖職者の位置付けが変わる
  カチンにおける儀礼は、現世の秩序について間接的に語っていると考えられる
  →儀礼そのものが社会の不安定を作り出しているらしい
・Kapferer(1984)のシンハラ人研究:
  日常とスピリチュアルを往還する儀礼→世界の解像度が上がる
  ただし、没入している人より、離れて見ている人のほうに効果を認める(ギアツと逆)
・儀礼の一般理論を築くのは困難だが、儀礼が社会の複雑さを担保するとの点は共通

▽象徴の多義性
・どんな象徴が使われているか個別に注目するのではなく、体系に注目せよ
・キリスト教で白は美徳、黒は悪。「7」は聖なるものを示す
  聖餅はパンかつキリストの肉体→聖俗の架け橋となる
・象徴は「何かを意味する」とともに「何らかの作用をする」
・また、Turnerの用語では「多義的multivocal」である
・TurnerのNdembu研究では、ミルクツリーの白い樹液→母乳
  →少女の性成熟(生物学的意味)、母子のつながり(社会的意味)の2つにかかる
  さらに、母系社会や社会の一体性も表現しているという
  男性優位への反抗を示す際にも使われる。一体性だけでなく分裂まで意味する
・一般に、象徴のこうした多義性こそが社会の結束を作り出すと考えられる
・また、象徴は社会の構造や正統性と、存在や感情の両方に関与している
  →社会の成員それぞれの個人的体験を社会に繋ぐ役割
  (今日使われる、民族や国家の「旗」の機能も同じか)

▽儀礼に内在する複雑さ
・Bloch(1986)によるマダガスカルのMerinaの割礼研究
・演劇的なパフォーマンスと儀礼の切り分けは思ったより難しい
  →劇場人類学theatre anthropology(Hoem, 2005)(ここでは深入りしない)

▽国家における政治的儀礼
・Blochは、儀礼や象徴が曖昧なのは、矛盾をはらんだ社会の表象だからと考えた
  →イデオロギー(世界を単純化したもの)は必然的に人間存在と矛盾する
・近代国家でも:例えば国旗の抽象性によって、多様な国民が統合できる
・社会が変遷しても儀礼は残るが、意味は変わる:
  例えばロシアの新年。キリスト教以前→キリスト教→社会主義
  →新たな状況を、古いシステムを流用することによって見慣れたものにする作用
    (これは民族運動やナショナリズムでも見られる→18章)

▽現代の儀礼:サッカー
・現代の非宗教的な儀礼としてスポーツが挙げられる
・2014年のワールドカップは世界の3人に1人がテレビで見たといわれる
・サッカーの人類学的研究いろいろ:
  社会的ドラマとしてのサッカーファン(DaMatta, 1991)
  試合における男性性の称揚と、アイコンとしてのスタープレーヤー(Archetti, 1999)
  ナショナルアイデンティティの発露、世代間ギャップを埋めるものとして(Hognestad, 2003)
  ベルファストのグラスゴーファンなど、象徴の曖昧さの例として
  その他、多国籍のチーム編成、サポーターの多様性などグローバルな性格
  結果の予想不可能性→宗教や呪術との共通性?
  それにしても、サッカーファンは何を崇拝しているのか?

・フィールドワークなしには儀礼研究は不可能
・一般理論ができにくいのもこのトピック
・ただし、宗教的知識は儀礼として実施されて初めて意味を持つとはいえる
・聖書と自然科学のように、相矛盾した信念を持つことも現実的には可能
・状況に応じて使われる知識も変わる

2017年02月28日

ポピュリズムとは何か

■水島治郎『ポピュリズムとは何か』中央公論新社, 2016年.

一部は仕事絡み、そうでなくても個人的な興味でヨーロッパの現在をざくっと見ておきたいという気持ちがあったこともあり、イギリスのEU離脱やトランプを経て、ドイツやフランスの選挙を控えた今、これは是非読んでおかにゃならん気がする、ということで買いました。

個人的な興味との関連でいくと――さまざまな善が花開くためにこそ、土壌としての「正義」ってものが必要だよねという考え方が、「あいつは正義の敵」というイスラム批判に化けてしまうというあたり、厄介な事態が出てきたなと思います。
排外主義や反EU主義に惹かれていく「置き去りにされた人たち」を「あいつら分かっとらんね」と蔑む視線が、口に出さないがポピュリズム政党に投票する人たちを相当数生むというのも分かる。
この本は効果も副作用もあるポピュリズムという複雑な問題を分析したまでで、「さてどうする」を提示はしていませんが、たぶん解決策も複雑だっつうことなのでしょう。

いやもうとても勉強になった。たまたま前に同じ中公新書の『代議制民主主義』を読んだこともあって読みやすかったです。すごく無駄なく書いてあるので最初から最後までただ読めばいいのだけど、自分メモを一応↓
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▽ポピュリズムの定義

(1)固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴えるスタイル
 =リーダーの政治戦略・手法としてのポピュリズム
 例)中曽根、サッチャー、サルコジ、ベルルスコーニ
(2)「人民」の立場から既成政治やエリート批判をする「下(≠左/右)からの」運動
 =政治運動としてのポピュリズム(本書のフォーカスはこちら)
 例)フランス国民戦線、オーストリア自由党、Brexit、トランプ
・その「人民」が意味するのは:
 (2-1)健全な普通の人、サイレントマジョリティ(←→腐敗した特権層)
 (2-2)ひとかたまりとしての人民(←→特殊な利益関心を持つ団体、階級)
 (2-3)「われわれ」国民や主流民族集団(←→外国人、民族・宗教的少数者、外国資本)
・エリートの「タブー」「PC」「手続き」に対する挑戦が戦略となる
・既成政治に「民衆の声」をぶつけるカリスマの存在(必須ではないが)
・支配エリートの政策が変遷すれば、それへの対抗も変遷する「イデオロギーの薄さ」

▽民主主義の敵かというと、そうでもない。どころか、理念と結構重なる

 例)国民投票の広範な利用(墺自由党、仏国民戦線、瑞国民党、橋下)
・西欧では右派でも民主主義や議会主義は前提。敵視しているのは「代表制」ではないか
・民主主義の意義づけには
 (1)権力抑制を重視する「立憲主義(自由主義)的解釈」
 (2)人民の意思の実現を重視する「ポピュリズム敵解釈」
 の2つがあり、
・(1)に立つとポピュリズムには批判的になるが、制度重視で民衆に疎外感を生みやすい
・(2)は既成制度批判。左翼的ラディカル・デモクラシーとも共通する

▽民主主義にとってのポピュリズムの効果と副作用

・効果
 (1)周縁的集団の政治参加を促進
 (2)個別の社会集団を超えた「人民」を創出、政党システムの変動を喚起
 (3)「政治」を対立の場とすることで、世論や社会運動を活性化
・副作用
 (1)権力分立や抑制と均衡などを軽視しがち。多数にこだわると弱者が落ちる危険性
 (2)政治闘争を先鋭化させ、妥協や合意が困難になる
 (3)人民の意思や投票重視で、政党や議会、司法による「よき統治」を妨げる

▽どういうときに、どういう側面が顔を出すか

・民主主義の固定化した国でポピュリズムが出現すると
 →既成政党に緊張感が生まれ、民意への感度が高まる。民主主義の質を高める方向
・民主主義が固定化していない国で出現し、与党になると
 →「民衆の声」を盾に、権威主義的統治に落ちやすい(ペルーのフジモリ政権)

▽既成の政治勢力はどう対応するか(万能薬はないが)

(1)【敵対的】孤立化。ポピュリズム政党との協力や連立を避ける
  ただし「悪」のレッテル貼りによって、既成政党批判はますます強まるだろう
(2)【敵対的】非正統化/対決。積極的な攻撃
  ドイツの極右政党違法化、ベネズエラのチャベス政権に対するクーデター
(3)【融和的】適応/抱き込み。既成政党の自己改革で不満緩和、ポ政党の周縁化にも
  オーストリア国民党は自由党(ポ)と連立し、自党の主導権を回復
(4)【融和的】社会化。積極的にポ政党に働きかけ、変質を促す
  オーストリア。連立→政党内の分裂

▽類型

(1)「解放」としてのポピュリズム
  =既成の政治エリート支配への対抗、
   政治から疎外された農民、労働者、中間層などの政治参加・利益表出の経路として
  →弱者の地位向上、社会政策の展開を支える機能を持った
・19世紀末アメリカ
  格差拡大に対する共和党、民主党の冷淡さ。勤労者層の不満
  →1892年創設の「人民党」(別名ポピュリスト党)によるエリート批判
  ただし、白人農民のみへの焦点、既存政党の対応により、凋落も早かった
・20世紀ラテンアメリカ
  不平等、農園・鉱山主など少数エリートによる政治
  →ペロン(アルゼンチン)ら中間層出身リーダーが民衆動員、改革
  (1)交通、通信手段の発達を受けて肉声を全国に届けた
   *バルコニーから演説する「大衆への直接訴えかけ」スタイル
  (2)階級間連合で外国資本や寡頭支配層に対抗
  (3)輸入品の国産化(輸入代替工業化)と保護主義
  (4)ナショナリズム(先住民、混血、アフリカなどの価値を積極的に掲げた)
  (5)包摂性(低所得層、女性、若者に選挙権)
  →1970年代以降は軍事政権の弾圧を受けるなど下火に
・21世紀ラテンアメリカも依然、圧倒的な経済格差とアンダークラスが存在
  →国家の役割強化、福利増進への期待
  →チャベスとその後のポピュリズム政権の支持拡大

(2)「抑圧」としてのポピュリズム
 =排外主義の結びつき
・ただし、現代も「男女平等や民主主義の価値を認めないイスラム」の排撃は
  解放の論理に立っているとみることもできる(デンマーク国民党など)
  オランダのフォルタインは同性愛者を公言。
   →イスラムの同性愛・女性差別を追撃、「啓蒙主義的排外主義」と呼べる
  シャルリ・エブド事件に対する「言論の自由」からのイスラム批判
   →西洋の基本的価値であるリベラル・デモクラシーからの批判が困難
・1990年代以降のヨーロッパでポピュリズムが伸びた背景:
 (1)グローバル化、冷戦終結などで左右が中道に寄り、既成政治の不満表出経路が限定
  →ユーロ危機時のドイツでは、ギリシャ支援を「しない」という選択肢をポ党が提示
  →むしろポピュリズム政党は社会の安全弁?(←→ドゥテルテのような危険な例も)
 (2)労組、農民団体などの弱体化→無党派層の増大
  →既成政党・団体が「特権層(←→市民)」の代表と見なされる
  →オーストリア自由党など、既得権益批判で支持が得られるようになった
  *ラテンアメリカと違い、福祉の利用者が「新しい特権層」として排撃対象にも
 (3)グローバル化による格差拡大で「近代化の敗者」が生まれる
  →グローバル化、ヨーロッパ統合を一方的に受け入れる政治エリートへの反感
  ・オランダのウィルデルス党のEUエリート批判と「リベラル・ジハード」
  ・人種主義的なBNPの「節度ある代替」として伸びたイギリス独立党
   →分断された英国におけるChavsの静かな支持、Brexit
  ・置き去りにされた「ラストベルト」のトランプ支持
・現代ヨーロッパのポピュリズムの特徴
 (1)マスメディアの活用。タブー破り、ネット宣伝(ウィルデルスのオランダ自由党)
 (2)直接民主主義の活用
  極右起源の国民戦線(仏)、自由党(墺)、VB(ベルギー)の転回
  国民投票で市民層の不満をすくい上げる。特にスイス国民党
   →現状変更にNoが出やすい(国民投票の保守的機能。女性参政権の遅れなど)
 (3)福祉排外主義。「移民が福祉を濫用している」
  タブー破りとしての移民批判

2017年02月10日

オリエンタリズム

■サイード, E. W.『オリエンタリズム(上・下)』(今沢紀子訳)平凡社, 1993年.

学生時代に「読まなきゃ」と思って買ったのが20年近く(!!!)前。
会社に入ったころ、宿直勤務のときに読めるかなと思って職場に置いていたものの、そんなはずもなく、諸先輩方から「難しい本読んでんな」とからかわれて、本書は自宅に引きこもったのでありました。今般読み始めたのには特にきっかけはないのですが。
1978年の原著出版からだいぶ時間が経って、日本語訳が1986年。そんで平凡社ライブラリーになったのが1993年。そこからさらに四半世紀。その間に著者も亡くなってしまい、挑発の書もいつしか古典に叙せられて、なんというか悪い意味じゃなくて、古くなった感じがしました。

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「オリエンタリズム」は、狭義にはアジア(本書の主要な関心である中近東のほか、インド、中国、日本など)に関するヨーロッパ発祥の研究分野――人類学、社会学、歴史学、文献学などを動員した「地域研究」と呼ばれる学際領域に近いかもしれない――を指すが、もっと広い意味では「東洋(オリエント)」と「西洋(オクシデント)」の区別に基づく思考様式のことだといえる。オリエントを理解し、侵入し、支配し、教え導くための西洋の「知の様式(スタイル)」ということもできる。

オリエントの文献を渉猟し、オリエントを訪れ、学会で活動し、あるいは植民地官僚として奉職し、オリエントを解釈し、書き残すことによって、言説は不断に維持され、解像度を高め、強固さを増す。言語学者、官僚、軍人だけでなく、芸術家や文学者もまた政治の端くれとして、言説の再生産を担っていくのだ。

神秘のオリエント、深遠なオリエント、論理に馴染まず、永遠に発展せず、生殖力の強いオリエント。「われわれ西洋」と「かれら東洋」が分かたれ、「劣った東洋」との対比によって「優れた西洋」の自画像が立ち上がる。外側に出ることは困難だ。「現場を踏む」ということが、オリエントを内在的に理解することを保証せず、むしろステレオタイプを強化する契機になる。そういう困難さがある。

ではオリエントは自ら語るのだろうか?語ることはできない。言説の渦を回し続けるのは西洋であって、そこにオリエントが関与し、内容に承認を与えることはない。せいぜいインフォーマント扱いされるくらいだろうか。「自らを表象できないオリエントのために、西洋はやむを得ず表象という仕事をしている」、そんな使命感の下に。
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まとめるとこんな具合で、そのあたりは序説にさくっと書いてあり、あとは膨大な資料に当たりながら、14世紀から現代までのオリエンタリズムの変遷を辿るという構成です。全編面白く読んだかというとそうでもないんだけど、長い間本棚からじっとりと弊管理人を睨めていた未読の作品をやっとやっつけたので、まあいいか。

2017年01月26日

じんるいがく(6)

通勤電車で読むのはやめまして、夜とか時間のあるときにちょっとずつ進めることにしました。
重いし、メモにするときはもう一回流し読みしながらまとめることになるからです。
ということで、通勤電車ではもうちょっとスピード上げて読めるものに手を付けてます。

松の内に書いた(5)の続きで、
■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.

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11. Politics and Power

・権力:個人に課される制約であるとともに、安全を担保する法と秩序の源泉でもある
・産業化社会では何が政治か/でないかの特定は比較的容易(政策科学の対象)
・非産業化社会では日常生活の中でそれを見出すのは結構大変(どの社会にも政治はあるが)
  内閣や市政府に相当するものを探してもしょうがないことが多い
・そのかわり、政治人類学は次のようなことを見ることになる
  「どこで」「誰が」重要な政治的意思決定をし、誰が影響を受けるか
  どんな規則や規範が支配しているか
  どうやってヘゲモニーが挑戦を受けるか
  どんな罰があるか

・古典的な政治人類学は、1930-1960年代のブリティッシュ・スクールで発展
  中心的な問いは「国家(中心的な権威)を持たない社会は、どうやって統合されているか」
←→ポストコロニアルな現代の政治人類学の問いは:
  ローカルな共同体がどう中央政府に対抗しているか
  中央政府は住民に共有されている文化をどう利用し統治しているか

・この章では、国家をもたない社会における「政治」を扱う
  こうした社会は脆弱に見えるかもしれないが、実際はものすごく構造的に安定している
  (ヌアー、パシュトゥーンPathans、ヤノマミ……)
・二つの視点
  (1)それぞれの社会がどのように統合されているか(システムの視点)
  (2)諸個人はどのように自分の利害関心を実現させているか(アクターの視点)

▽権力と選択
・権力の定義
  「自分の意思を押しつけて他人の行動を変えさせられる能力」(ウェーバー,1919)
  マルクス主義者は、分業や法など社会の中の諸システムに埋め込まれた権力を見た
    (規範や暗黙のルールに従っている場合、「誰が」権力を行使しているかは特定できない)
    →「権力」は「慣習」「文化」「規範」と同義になってしまう?
  →政治人類学の文脈では、ウェーバーに従って権力/権威/影響力の用語法を採用しておくとよい
    権力は防衛の必要あり/権威は疑われないもの/影響力は黙従、マイルドな権力

・行為は、何らかの強制下にあるのか/それとも自由な選択なのか?
  どちらも正しい。何らかの「強いられた状況下で」「選択を行っている」
  例)資本制の下では金がないと投資できない。世襲制の下では王様を選べない、など
  「南」世界の主要な変化に、土地使用権がコミュニティ(WE)→個人(I)ベースに変わる、ということがある
・一方、個人はできる範囲でならいつも選択をしている
  例)工場を買うお金はないとしても、お金を貯めておくか、ビールを買うかは選択する
    Saloioの女性はフォーマルな政治へのアクセスはなくても、インフォーマルなルートで影響力を行使する
・つまり、誰もが程度の差はあれ、権力や影響力を行使している
  が、われわれの「権力」に対応する概念を対象の社会が持っていないことはある

▽権力の欠如状態powerlessnessと抵抗resistance
・権力の欠如は、権力が「少ない」のではなく、「ない」状態。語れないmutedグループ
  →効率的に自分たちの利益を実現することができない
  フーコーの表現では、主流の言説によって抑圧されている
・Lukes(2004)による「権力を研究する際の3つの視点」
  (1)目に見える意思決定プロセスへの注目(最も分かりやすい)
  (2)政治システムで取り扱われてはいるが、意思決定プロセスに出てこないものへの注目
  (3)公的な場で声を持たない集団への注目(見過ごされやすい。例)女性や先住民)
    →それでも、こうした集団は戦略的に存在を主張していく。貧農による集団的な抵抗など(Scott, 1985)

▽イデオロギーと正当化
・どんな社会でも権力者は正当性の主張をせざるをえない(暴力的な統治を行っていても)
  ブラジルのMundurucu族は、男性>女性に「聖なるトランペット」神話を利用
  ヒンドゥー社会ではバラモンが聖典を利用
  民主社会では「民意」を利用している
・非産業化社会では「生得的な地位」、産業化社会では「獲得した地位」を重視?←これはイデオロギー
  (1)産業化社会でも地位がすべて獲得されたものではない。階級や民族など社会的背景も影響
  (2)非産業化社会にもいろいろなパターンあり
・イデオロギーをとりあえずどう定義するか
  社会をどう組織化するか(政治、規則、善悪の区別)に関する文化の一側面である
  規範的な知識であって、明示的なものも暗黙のものもあり、修正を迫られることもある
・権力の欠如状態にある人も含めて、社会には基礎的な価値観が広く共有されている
  マルクスとマルキシストは、自分の利害に無自覚にこの価値観を共有している現象を「虚偽意識」とした
  →それを自覚することで抵抗の起点となるはず
・だが、社会を外から見ている人類学者としては、岡目八目を当然視していいかは疑問
  比較研究の際には「この社会は間違っている/正しい」を言うのは妥当でない
  もっと記述的。イデオロギーと慣習の関係など(これを構成員がフルに理解しているとは限らないが)

▽親族関係ベースの社会における統合と紛争
・エヴァンス=プリチャードによる南スーダンのヌアー研究(1940)
  敵がいるときだけ「族」としてまとまるa system of segmentary oppositions
  →紛争時のスコーピングによってどう連合するかが変わる柔軟さがある
  諸リネージや諸クランが同格だからそうなるので、もし王や貴族がいたら状況は違ったであろう
・ただし紛争仲介者的な位置付けの人はいる(leopard-skin chiefs)
  当事者の意見を聞いて落としどころを一定の重みをもって提案
  小さなリネージ出身で、それゆえに「中立」だと思われている
  仲裁の見返りに牛をもらうので裕福で、政治的に重要なアクターでもある
  こうした「政治の中と外に同時にいる」立ち位置は、宗教指導者にもみられる
・ヌアーはスーダン政府と対立。これはブラジルやベネズエラ政府とヤノマミの関係とは違った構図
  ヤノマミのリーダーは先住民族としてテレビや国際会議に出てくる
  →親族関係ベースの社会でも、大規模な組織が作れることはある
・こうした関係の在り方は近代社会でも。例)自分に近い個人や集団にほど忠誠を強めるルペン

▽獲得した地位と生得的な地位
・メラネシア(ニューギニアから東の島嶼地域)/ポリネシア(南太平洋~NZまで)の対比(Sahlins, 1963)
  親族関係ベースの自律的な小規模村落/プロの軍隊、税制、官僚制を備えた国
  リーダーは個人的な資質にもとづいて贈与競争により権力を獲得/世襲、王族あり
  リーダーは人脈を形成、多妻。次世代がリーダーを目指す/貴族クランの存在、王の権威は神授
  権力システムは個人的で成果志向、平等/制度的、ヒエラルキー
  権力の座は不安定/これはポリネシアも同じで、官僚機構や税負担の肥大化が反乱を招きうる
  焼き畑農業→富の蓄積がしにくい/灌漑農業→官僚や軍人を養うだけの富を蓄積できる
・ただし近代化で両者とも状況は変化
  貨幣経済の浸透で、財産の個人化(土地の個人所有)が出来

▽戦略的行為としての政治(行為者視点からの政治)
・政治の二つの定義
  (1)機関としての政治(権威的な意思決定)→個人や集団間の競争としての政治
  (2)システムとしての政治(言葉が媒介する権力と権威の流通)→統合作用としての政治
・パシュトゥーン人(パキスタン、穀物農作)の例(Barth, 1959)
  少数の土地所有者と、多くの小作人で構成
  男の子だけが相続できる(長男以外も)→どんどん土地が足りなくなる
  →遠くの男系親族と連合(近くとは土地使用権の抗争があるから。ただし兄弟同士は抗争しない)

・国家の誕生
  ウェーバー:国家による抑圧―課税と暴力の独占
  グローバル化は国家の力をさまざまな面で弱める

・コンゴの例(Friedman, 1991, 1994)
  継続的な経済的凋落の末、90年代前半に政府が無力化→国民から浮遊
  →コネ政府に→知識人の流出
・なぜ反乱が起きず国民が黙認してしまったか?
  経済の変化と移住で地域のクランが反乱を組織できなくなっていた
  困りごとの解決を政治的な行動ではなく呪術に訴えていた(magical world view)
  政府が国民を抑圧せず、単に「棄民」してしまった
  「モダニティとアフリカの伝統が最も噛み合わなかった例」(Ekholm Friedman)
・マダガスカルで政府による統治に明示的に反抗したツィミヘティの例も

▽政治的暴力
・北アイルランド紛争(1960年代~1998):身体を使ったプロテスト
  政治的主体の作られ方:身体、告白共同体、国家、ユートピア完成時の想像の共同体
  獄中での「ダーティ・プロテスト」(体を?洗うことを拒否)、「ブランケット・プロテスト」(囚人服の着用拒否)
  特定の身体的経験+イデオロギー→暴力の行使に結びついている
・戦争
  文化人類学では戦争を特徴づけるのは難しい(さまざまな特徴があるから)
  紛争や戦争のフィールドワークでは、自分だけでなくインフォーマントを守らねばならない
  「危害を加えてはならない」という倫理も守れないことがある
  文化人類学の成果がマイノリティの統治に利用されることも

12. Exchange and Consumption

・経済人類学
  経済を、社会や文化の一部とみて、他の部分との連関に注目する(経済単独で見ない)
  値段も栄養価も同じなら、なぜBではなくAを食べるのか→何を価値とするかを調べることで解ける
  資本制が唯一の解ではない。むしろ資本制は世界の中ではニューカマーといえる
  歴史の90%は狩猟採集
・人類学では、経済は2つの定義の仕方がある
  (1)システム的定義:物質、非物質の生産、分配、消費
  (2)アクター中心的定義:個々のアクターがさまざまな手段で価値を最大化するやり方に着目
・ポランニーの呼び方ではformalist/substantivist。政治など他の分野でも同じ
・「ホモ・エコノミカス」は、生産の単位が個人ではない社会では意味がない
  ロシアの研究(Chayanov)では、農民は生きるのに必要+ちょっと余裕があるくらいの生産をしていた
  →彼らは「最大化」ではなく「最適化」をしている
  ただし、formalistに言わせると、これは農民と株のブローカーでは優先順位が違うというだけの話
  →農民は生産の代わりに「余暇」を最大化しているのではないか?との指摘
  これは、資本制とそうでない経済に「質的な違いがある」か「基本は同じ」か、という対立

▽社会の一部としての経済
・マリノフスキーのトロブリアンド諸島研究:「クラ」
  「未開の」人々も、生物学的な必要を満たす以上のことをやっている
  収穫されたヤムを親族などにあげる(義務的贈与)
  →誰のところにたくさん集まるかで、共同体の中で誰が力を持っているかを示す
  →贈与は社会的な紐帯を再生産するだけでない、政治的な意味がある
・資本制経済では、カネのシステムは社会の中ではっきりした境界をもって存在しているとされてきた
  アンペイドワークはその外
  カネと価値のつながりに対しては、マルクスが疑義を提示(→『資本論』第1章。交換/使用価値)
・「value」は3種類の意味が混同して使われている(Graeber,2012)
  (1)哲学的、社会学的意味(「家族の価値」など)
  (2)古典的な経済的意味
  (3)「値(=あたい。何かと何かの違いを表すもの)」という意味
 →資本制経済でも、経済は実は明確な境界を持っていないのではないか?
・トロブリアンド諸島では、ヤムを育て、贈り、クラ交易をするときにあえて「経済」とは言われない
  経済は社会の中に溶け込み、生活のあらゆる側面に現れている
  女性、子どもも投資の対象だとは見られていない
  資本制は「需要と供給に基づく市場での交換」1つで成立しているが、諸島では80の交易形式が存在
  Gimwaliは、市場での豚や野菜の交換
  Lagaは、親族以外から買う呪術的な効果
  Pokalaは、10分の1税のようなもので、ヤムなどをえらい人にあげる
  Sagalは、葬式などの行事の際にただで配られる食べ物
  Urigubuは、姉妹や母親の夫にあげるヤム
  Kulaは、貝のブレスレットとネックレスが時計回り、反時計回りに渡されていく。島内&島の間で生起
    →利益を生まないが、Weiner(1998)は名声のためと分析(貝に前の持ち主の名前がついていく)

▽社会現象としての贈与
・ヤムを贈るときは、すぐに見返りが来ることを期待していないので「贈り物」とみることができる
  ヨーロッパで父→娘のお小遣いも同じ
  ただし、どちらのケースも、曖昧でも何らかの見返りを期待している(将来よろしく、とか感謝とか)
・メラネシアに限らず、世界の多くの経済は「贈与経済」(Strathern,1988)=価格が固定されないモノの分配
・贈与は他者との関係作りである:平和創出の手段、友情、忠誠→システムの統合維持
・コーヒーを買ってきてもらったとき、すぐに代金を払うのは、他人と道徳的な関係性を持ちたくないとの意味
・モースがポリネシアで見たのも同じ。互酬性は社会をくっつける「糊」だということ
  「全体的贈与」:宗教、法、道徳、経済がすべてその交換の中に現れるようなもの。現代では結婚指輪か

▽ポトラッチ、互酬性、権力
・北米のポトラッチはKwakiutlおよび近隣集団で実施。1884年にカナダで、数年後には米国でも禁止
  狩猟、漁労民でヒエラルキーを持っていて、貴族は相互に贈り物をして相対的地位を保っていた
  返礼をより多くという加速構造を持っていた
  冬には大規模なパーティを催して飲食、財産を燃やしたり奴隷を海に投げたりして財力を誇示
  →最も破壊できた人が首長になる
・もっとマイルドなものでは、フランスの婚姻時の贈り物習慣なども(モース、1924)
・ブルデューが引用したモースの互酬性に関する研究:Kabyleの社会
  家の完成の際に、それを称えるための食事ではなく金銭報酬を求めた石工の話
  →贈り物の交換より、市場での交換を求めた形
・レヴィ=ストロースは贈与を社会統合の基本としたが、モースは生け贄など他のシステムもあると考えた
  ←Weinerの反論。Inalienable Possessions
  (●よく分からない。贈与の対象になるのは、所有者と切り離せない譲渡不可能なものである、
  市場での交換の対象になるのは、切り離せるものだということらしい)

▽分配の諸形態
・贈与は社会統合の手段であり、個人間の関係を定義、再確認するものである
・資本制経済下では全く事情が違う。レジ係も客も、買い物終了後にお互いの顔など覚えていない
・ポランニーの3分類:
  (1)互酬性reciprocity。メラネシアなど贈与経済が優勢な社会での基本的な形式
  (2)再分配redistribution。政府や首長など中心的アクターがものを集めて配る(互酬性は中心がない)
  (3)市場交換。匿名で、交換ルールも各自が選択できる
  →ポランニーは市場交換が社会統合を危うくするが、同時に反発が起きるので全域化はしないと考えた
  社会には(1)(2)(3)いずれも存在するが、比重は社会によって違う
・再分配は権力構造の保存に役立ち、市場交換は膨大な人数を包括できる
・さらにインフォーマルセクターの存在も指摘される(Hart, 1973)
  大規模組織犯罪、密貿易、契約のない労働などが現代の経済グローバル化により拡大中

▽貨幣
・多くの場合、何を売買していいか/いけないか、という規範が社会の中にある
  資本制にもあって、愛、友情、忠誠などは売買できないとされている
  麻薬の売買も一般的には違法。セックスも社会によっては。武器も同様
  ただし、資本制は他の制度より売買できるものの範囲が広く、商品間の比較可能性も高い
  →その仲立ちとなるのが貨幣。マルクスの「交換価値」
  伝統的社会の多くは労働力や土地は売買の対象外だった
  貝を貨幣のように使った社会もあるが、交換の対象は限定的だった
・ナイジェリア・ティブ族Tivの例
  もともと土地はアイデンティティと強く結びついており、売買の対象外だった
  穀物、果物、野菜を作り、家畜を飼っていて、余剰は市場で売ることもある
  ただし、市場が唯一の分配システムではないmulticentric systemだった
  第2次大戦前は、3つの経済領域を持っていた:
   (1)日用品。主に市場で交換され、通約可能。最も低いレベルの交換
   (2)威信prestige。家畜、呪術用品、奴隷、超高級な輸入の織物など。真鍮の棒が貨幣代わり
   (3)女性と子どもの売り買い。人を購う手段は人。決済はすぐに行われるとは限らない
  各領域の内部での交換は道徳的に中立的。ただし領域をまたぐと交換基準がない
  特により低レベルの領域との交換を行うのはアホだととらえられている
→パックス・ブリタニカのもとで交易範囲が拡大、これまでの定義にない商品と触れるように
  さらにゴマの輸出で貨幣を手にするようになった
  数年ですべての商品の価値が貨幣で測れるようになってしまった(Bohannan,1959)
  結納もお金でするように。多くの人は「女性をモノで買っている=女性の価値を貶めている」と感じた
・ただし、貨幣経済の浸透が悪かったかどうかは場合による
  ブルデューのように「道徳的義務の網の目やヒエラルキーからの解放だ」ということもできる
  親族集団によって個人が交換されなくてもよくなり、自由恋愛が可能になったとの側面も
  そもそも人類学は価値判断することを初期的なタスクとしていない

▽情報技術としての貨幣
・貨幣経済の流入によって、経済は道徳や文化から切り離される
・そのかわり、非常に広い範囲の交易に開かれることになる
・生産したゴマが英国の食卓に上り、真鍮の棒では買えなかったTシャツやラジオが買える
・貨幣は国家ともつながっている。国家は貨幣を発行し、徴税する
・貨幣は負債ともつながっている→次第に格差が広がっていく

▽モノへの意味づけ
・モノへの意味づけは文化によって違う(Appadurai, 1986)。言葉、サービスといった抽象物も同じ
・例えば、トロブリアンド諸島では呪文が相続されたり売り買いされたりする
・マルクス:コモディティ化によってモノは比較、交換可能になる→ルカーチ、ハバーマスへ
・価値の体系を知ることが、社会の中の多様性を知る足がかりになる
 例)ブルデュー:アカデミアを地位と権力の交換をするアリーナとして見る
・モノは意味やアイデンティティとつながっている(家の内装など―Miller, 1998)
・記憶ともつながっている(墓石からビール缶、マッチ箱まで)

▽消費とグローバル化
・モースが言うように、(カネを仲立ちにしてもしなくても)交換は社会関係を創出する
・消費は人々の間の違いを作り出すと同時に、連帯や文化的な意味を作り出す
・一見、享楽のために見える消費が、実は全く違った意味を持っていることがある
  例)ポップス、ファストフードはアメリカ化と言われるが、セブンイレブンは日本の会社だったりする
  フォルクスワーゲンは中国でアメリカのメーカーの車より売れている
  トヨタはアメリカで3番目に売れている
  第3世界の家庭ではポケモンを見て、メルセデスを買い、ウィスキーを飲む。どれも米国と無関係
  ヒンディー・フィルムはインドネシア、セネガル、ナイジェリアなどで若者に受けている(Larkin)
・モダニティの土着化indiginisation of modernity。新たなモノや習慣が既存の意味の諸体系に入ってきて、
  それらをちょっとずつ変えつつ、しかしそれぞれを均一化しない(サーリンズ, 1994)
  官僚制、市場、コンピューターネットワーク、人権など、それぞれ地域によって違った定着の仕方をする
  モスクワではソ連崩壊後、マクドナルドが日常に入り込んだ
  →逆に言うとモスクワっ子はマックを「飼い慣らした」(Caldwell, 2004)
  こうした順応は、新たな要素がその文化の根本的なところに触らない限り起きる

▽交換再考
・交換のロジックにおいて、「西側世界」と「それ以外」を分ける考え方はそれほど自明ではない
・互酬と市場交換は相互排他的ではないし、それらの間に明確な線を引くこともできない
・サーリンズによるニューギニア研究では、住民は賃労働者になっていってもラジオなど近代的な道具を
  買っていたわけではなく、伝統的な制度のもとで、よりたくさんの豚を供物にしたりしていた
  →新しい経済システムの導入が古いシステムを葬り去るわけではない
・Davis(1992)はイギリスにもたくさんの交換形態があることを示した
  →伝統社会/近代社会、われわれ/かれら、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの二分法に疑義
  ただし、すべての社会が「同じ」と言っているわけではない

2017年01月08日

カーシェア

やや遅ればせながらタイムズでカーシェアリングを始めまして、慣らしを兼ねて命知らずの友人を助手席に、埼玉の「百観音温泉」に行ってきました。
かねて名前は聞いていたものの、久喜市というどこだっけレベルの北方(ツーリングだと東北道に入ってやれやれとひと休みしたくなる蓮田SAよりまだ北)ということもあり、実際訪れるのに数年を要しました。
日が暮れてからの出発、しかも寒い雨の連休中日。景色はありませんがお湯はなかなかでした。首都圏でここまでできればいいでしょう。外のぬる湯で1時間以上喋ってました。

帰りはまたこちらも数年の片思いを経て遂に到達という板橋の「元祖まぐろラーメン」。
170108maguroramen.jpg
しょうゆスタミナラーメンにしました。魚介の存在感たっぷり、がっつり、満足。
同行友人のノーマルしょうゆも一口もらいましたが、ノーマルには全然違うよさがあった。
油そばや、なんとパスタもあるそうで、また来て試したい。が、あまりついでのない土地でねえ。

行動範囲が広がることを期しての入会でした。
一緒に出かけられるお友達も増えるとよろしいが。

* * *

PCでのツイッターのクライアントは長いことSaezuriを使っていたのですが、いろいろ不具合が出てきて代わりにTweenを入れました。いろいろカスタマイズして、今のところ快調に使っております。

* * *

■吉川徹『現代日本の「社会の心」』有斐閣,2014年.

2017年01月02日

じんるいがく(5)

(4)を書いたのは8月だよもう。生活乱れていたなあと。

引き続き、
■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.
のメモを。
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8. Marriage and Relatedness

・資産としての女性←精子は安価、卵子は高価
・一夫多妻polygynyは多くの社会で見られる
・一妻多夫polyandryは少ない
  Ethnographic Atlas Codebookにまとめられた1231社会の中で、チベットなど4社会しかない

・歴史的には、恋愛結婚が前提の社会はほとんど見られない
・結婚は集団同士の関係であって、個人間の関係が第一とは見なされていなかった
  特にマサイ族の社会では、恋愛結婚はむしろ不利益があると考えられた
  結婚は子育てと家畜の世話のための制度としてある
  マサイ族の女性は、結婚を「必要悪」とみている
・ただし、高い離婚率が近代社会の特徴だというのは正しくない

▽支度金(品)dowryと婚資bridewealth

・ヨーロッパとアジアの一部では(嫁が持っていく)持参品dowryは重要な制度だった
  持っていくのは食器やリネンなど
  婿の家が嫁を養うにあたっての補償、将来の相続に対するお返しという意味合い
  負担はかなり重く、インドでは女の赤ちゃん殺しの理由にも

・婿側→嫁側に贈る婚資bridewealthはもっとよくある制度。特にアフリカ
  嫁の労働力と生殖能力に対するお返しという意味合い
  婿が嫁とその子を買っているという見方もできる
・婚資の機能
 1)家族間の契約関係や相互信頼を生じさせる
 2)高額の婚資を集めるために婿側の親族が協力しあうことで、親族内の結束を固める

・レビレート婚levirate:寡婦になった兄(弟)の嫁と弟(兄)が結婚する
  父系を維持するため。婚資がよく行われているところで起きやすい
・ソロレート婚sororate:妻に死なれた夫が、妻の姉妹と結婚する
  死んだ妻の代わりを提供する意味合い。レビレート婚の単純な裏返しではない

▽半族moietyと婚姻marriage

・集団同士の女性の交換で最も多いのは、姉妹同士の交換
・半族:一つの社会の中で、女性を継続的に交換している二つのリネージのそれぞれ
  女性の交換に加えて、社会の中での分業も行われている(オーストラリアなど)
・ヤノマミ族の社会では、生物学的な繋がりの強い親族関係ほど政治的にも安定している
  ただし、戦争回避や花嫁探しのために遠いところと関係を結ぶこともある
・女性のやりとりがA→B、B→C、C→Aのように多くの半族間でサイクリックを形成することも
  非対称アライアンスシステムasymmetrical alliance systemという
  半族間の上下関係も含んだカチン族の複雑な例→p.141

・以上は外婚の場合だが、内婚で交換が行われることも
  特にヨーロッパの王族のように、階層システムのしっかりした社会で
・ただし、内婚、外婚の区別は相対的
  リネージ内婚に見えても、核家族を単位とすれば外婚と見ることもできる
  自由な米国でさえ、人種内婚が存在すると見ることもできる

▽基本構造と複合構造

・『親族の基本構造』
・共通祖先ではなく、女性の交換によって集団間の繋がりが発生・維持される
・親族関係の構成要素:兄弟―姉妹、夫―婦、父―息子、母親の兄弟―姉妹の息子
・誰が誰と結婚できるか/できないかを規定
・複雑な現代のシステムは、誰と結婚「できないか」だけを規定しており、安定性に欠ける
・男性と、母方のおじの関係が重要

▽自然か文化か

・NeedhamやSchneiderは「親族関係は生物学的な関係とは別に発明されたものである」と主張
・「文化人類学者の発明である」とまでいう(多くの人は言いすぎと考えるが……)
・文化的構築物なら、操作することもできる(グリーンランドなどに例あり)
・ただし重要部分は生物学的な関係に基づいている
・この論争は現在もホットに続いている

▽社会を超えて共通な部分

・全ての社会にある
  近親相姦と外婚に関するルール
  子供は生まれてからの数年は母親と暮らす
  生殖、相続に関するルール

・多くの社会にある:
  親族関係に基づいた地域的な政治的、経済的組織
  先祖あるいは先祖の霊への尊敬に基づいた宗教的、日常的ルール
  親族関係に基づいた権力の強さの違い

▽親族関係と官僚制:伝統社会と近代社会の原理

・近代社会でも、親族関係は至る所に影響を及ぼしている
  キャリア、政治的地位、住むところ、等々
・しかし、資本制下での労働市場は親族とは無関係。何になるかは個人の自由
・官僚制も、「一般」という抽象的な概念に奉仕する。しかも誰でも平等に扱う
・親族関係と官僚制は近代社会い併存するが、折衷は困難
・親族関係を超えた複雑な相互依存も存在
・自覚的にこの違いを論じたのはウェーバー→パーソンズ
・ネイション、あるいは「想像の共同体」といったメタフォリカルで代替的な親族関係への移行

▽ジェンダーとの関連

・有名な研究の多くは男性視点で、女性を独立のアクターと見ていない
・親族関係がどんなジェンダー関係を生み出すかも分析していない
  (どんなイデオロギーが男性優位を作り出しているのかなど)
・親族関係はジェンダー関係でもあるという視点

9. Gender and Age

・未開の社会は平等だと思ってフィールドに行ったら全然違った。ちゃんと分化している
  垂直方向の分化:ランクと権力の違い
  水平方向の分化:権力の違いには結びつかない分業

・例えば:
  狩猟採集社会での性別、年齢に基づいた分化
  小規模な農耕社会での首長の存在(ただし相続されるとは限らない)
  大規模な農耕社会での首長+官僚+軍人、貧富の差
・生まれついての地位/獲得できる地位

・性別sexと性差gender―人類学で「性差」は長くネグレクトされてきた
  マリノフスキーのトロブリアンド諸島研究における男性の役割誇張=androcentric
  1970年代からのフェミニズムの影響でようやく注目→男―女関係、性差がどう形成されるか
  
・社会分業の中の性差
  狩猟民hunter→狩猟採集民hunter and gathererもジェンダーを意識した言い換え
  男性は狩猟のことしか語らないので、フィールドワーカーの注意がそっちに行っていた
  が、実は女性、子どもの採集活動で得られる栄養価のほうがメインだった(南アフリカ)
  アフリカでは農業の主な担い手が女性だったという例も(Ester Boserup, 1970)
  集団内の「神話」で狩猟や男性の英雄が語られる→男性優位が形成されている?(Mundurucu)

・公の領域=男/私の領域=女
  女性が多くの仕事をしても、その多くが家庭内のもの(子育て、炊事、掃除)
  男性は外の仕事。高度に専門化した社会では政治、宗教を司ることも

・服従させる/する、の孕む問題
  男女の服従関係にはグラデーションあり
  ほとんど平等(マレーシアのChewong)から、女性が自身の人生をほぼ制御できないところまで
  「平等=よい」というのはエスノセントリズムかも?
  男性と女性は同じランキングシステムの中にいるわけではないのかも
   →ホピ族:女性は母親として、男性は神のメッセンジャーとしてそれぞれ重要
・では、「女性は服従させられている」とは何を意味するのか?
  宗教的に重要な位置を占められない?←→それでも他の面で女性のほうが強いことも
  政治的に?←→女性のネットワークが意思決定を司るケース(Saloio)

・男性=文化/女性=自然?
  女性は男性に飼い慣らされるべき自然?(Levi-Strauss)
  両性の生物学的な差異に発しているのか?
  しかし、女性が文化の継承を担っている社会も
  北アメリカや中東では、むしろ男性が(性的に)自然と位置付けられている
    →レイプは荒ぶる自然から自分を守れなかったほうが悪い、との観念
・上記図式は単純すぎ
  黒人=自然=肉体労働/白人=文化=頭脳労働、みたいな変種も
→こうしたイデオロギーは権力関係を根拠づけるための道具になっているのではないか

・男性の世界/女性の世界
  女性はあまり語らない/男性は自分の社会を語る→エスノグラフィーにバイアスがかかる?
  女性は体面を気にする/男性は評判を気にする(Caribbean)

・セクシュアリティ
  生殖器の性/ジェンダー自認/性自認/性交渉時の行動
  ゲイ、レズビアンは「中間の性」ととらえるところも
  ノルウェーのエイズ対策の中で生まれた「MSM」という言葉

・年齢
  ジェンダーと同じく、年齢も普遍的に見られる分類の一つ
  年齢も社会的に構築される
  狩猟や遊牧など身体的要求が高い一部の社会を除き、加齢につれてランクが上がる(Holy, 1990)
  産業化、ポスト産業化社会では逆。生産者ではなくなるし、昔の知識はすぐに古くなるから
・ニューギニアのBaktamanには年齢に従って7つのグレードが存在
  宗教的な通過儀礼によってランクが上がっていく
  最高位に上がるとすべての知識を受け渡されたことになり、政治的に強い制御力を得る
・「同級生」のつながりが強い社会も

・年齢とジェンダー
  カメルーンのBakweri:男性は40歳になって政治力と財産を持たないと結婚できない
    女性は性成熟からすぐに結婚
  子どもの社会化の2目的:大人になること、と、男性または女性になること
    →だから通過儀礼は男女でかなり違う(Mount Hagen, New Guinea)
  例)中東、男児も女児も母親と公衆浴場に行くが、通過儀礼後は男性は裸の女性を見られなくなる

・通過儀礼
  社会は通過儀礼を通じて再生産される(van Gennep, 1909)
    →社会構造を変えずに、社会を構成する人が新しい地位を獲得する
    →権利と義務、協力関係を構成員が再確認する
  Turnerの3段階説:隔離separation、境界状態liminality、再統合reintegration

・婚姻と死の儀礼
  婚姻:集団同士の連合と、社会の継続性の象徴
  死の儀礼が持つ2つの意味
   (1)死者を正しく現世からスピリチュアルな世界に移行させる
   (2)相続。社会の中のどの結びつきを強め、どれを弱めるかを決定する=社会関係の更新

・現代の通過儀礼
  洗礼、堅信、結婚の宗教的な重要性は失われつつあるが……
  スカンジナビアのプロテスタント社会では堅信後のパーティでスーツと腕時計をもらう→大人に
  ただし、成人、結婚とも、その前後であまり大きく人生は変わらないのが現代かも
  年齢についても、変化が速く、変化がよいとされる社会では若さに価値が置かれる

10. Caste and Class

・カースト
  生得的、変更は極端に難しい
  ヒンドゥー、インドに固有
  儀礼的な清浄/不浄の観念に基礎を置いている→高位カーストが低位カーストに触れると汚れる
  特定のカーストが婚姻・交流、職業と結びついている
  カーストごとに規範がある(高位→ベジタリアン、飲酒しないなど)
・4つの主要カースト=ヴァルナvarna(「色」という意味)
  バラモン(僧)、クシャトリヤ(王、戦士)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(職人、労働者)
  その外にダリットDalit(不可触民)
  上位3カーストはスピリチュアルな再生の儀式を行うので再生族twice-bornと呼ばれる
・ヒンディーの外の人たちの位置づけ
  ムスリムはそれ自体、低位カースト
  他の少数民族は不可触民として扱われる傾向あり
  →こうしたことのため、キリスト教や仏教に改宗する人も
・スリランカ、パキスタンにもカースト制度は存在

・実は、本当にヒンディーを分類しているのはジャーティである(Sriniva, 1952)
  ジャーティは「生まれ」との意味。共同体単位を指す
  何千と存在
  ジャーティとカーストの中間に、職業カーストが存在
    (例:ロハールLoharはインド中の鍛冶屋ジャーティがまとまったもの)
  不可触民はカースト制度の外にあるが、ジャーティは存在する
  低位ジャーティの中には、菜食主義を採用して高位に上がろうと試みるものがある
    →高位の文化とはこういうもの、という共通の了解はあるらしい
・ジャーティ間の分業体制をジャジマーニー制度Jajmaniと呼ぶ
  不浄カーストはトイレ掃除をすることで、文字通り不浄であることを示す
  伝統的には、こうした分業体制の中で貨幣はほとんど流通しなかった
・貨幣経済が浸透した現在、ジャジマーニー制度の維持は難しくなっている
  1)貨幣で何でも買えるから
  2)旧来のシステムの中にない新しい職業がたくさん生まれているから
  3)村落が都市に組み込まれて従来の結びつきが弱まっているから
  →ジャジマーニー制度がなくなったわけではないが、カーストは曖昧で可換になっている

・カースト上昇(カースト制度の存在を利用する)
  ある人が上に行こうとすると、3つのやり方がある
    1)上のカーストに行く(だが非常に困難)
    2)そのカーストの地位向上を図る
    3)カーストを捨てて外でキャリア構築する
  2)の例:酒造カーストは地位向上を図ってきたが、経済的向上と清浄/不浄は別だった
    →菜食主義を採用するなど、高位カーストの実践を取り入れ始める
    →バラモンに高額の金を払って浄化してもらい、清浄さを入手(経済→地位変換)
・カースト間紛争
  低位カーストのPanは経済的に酒造カーストのような手法が採れなかった
    →寺院に入れないので、自分たちで寺院を作って「清浄」をアピール、しかし認められず
    →公務員の割当枠を利用してその中に入った??(p.181、意味分からず)
    →バラモンは地位向上を認めていないが、公的セクターからバラモンに権力行使できるように
・つまり、経済や儀礼上の向上は可能だが、地位向上とは別の話ということらしい

・現代インドでのカースト制度:変化を余儀なくされている
  1)新たな職業の登場
  2)雇用が能力主義に
  3)政府が公共セクターへの雇用などで積極的にカースト間の差異をなくそうとしている
  4)互いが顔見知りでない「都市」化で、スティグマから逃れることが可能になっている
・ヒンドゥー主義の中でもカーストをなくそうとしている
  ガンディーが不可触民をハリジャン(神の子)と呼称
  さらにそれを否定しつつ不可触民の団体がカースト制度の撤廃を要求
  ただし、まだ根強く残っている

・階級
  生得的だが、階級間の移動もよくある
  多くの社会に見られる
  内在的な視点emicでは、獲得されたものと見られている
・マルクス主義の階級
  ブルジョワジーあるいは資本家(生産手段=土地、機械、工場などを所有)
  プチブル(生産手段を所有しているが、0~数人の雇用)
  労働者
  他には、貴族(土地所有で働く必要なし)、ルンペン、無職者など
 →では公務員や教師、研究者などは労働者か?うまく分類できないかも
・ウェーバーの社会階層social strata論では、経済の他に政治的、知的な力という軸を導入

・資本制の導による社会変動:プエルトリコ・サンノゼでのコーヒー・モノカルチャーへの移行(Wolf, 1969)
  土地所有者がコモンズに対する支配を強化
  →すべてが商品に、小規模自営農業者が労働者に
  →社会に階層分化が起きる
    (1)小規模自営農peasants
    (2)少数の人を使って生きるのに必要な以上の生産を行う中規模農家
    (3)自分の労働力を売る農業労働者rural labours
    (4)コーヒー農園を大規模に経営する地主

・文化階級
  多くの人がホワイトカラーになった現代社会では、資本の有無では階級を見分けづらい
  ヴェブレンの「顕示的消費」:ステータスシンボルの購入
  ブルデューのcultural classes:支配階級=「趣味のよさ」を定義できる階級
    必ずしも経済力とは一致しない。文化資本は教育歴と出身階級に依存
    →この階級は移動できる。カースト上昇を試みた醸造カーストを想起せよ
・ただし、どんな価値(文化、経済、政治……)が重視されるかはコンテクストによる

2016年12月04日

週末まとめ

気になっていた食べ物を食べに行く余裕ができたことは幸せです。
大久保駅近く、「牛すじカレー 小さなカレー家」の大盛り600円。
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驚愕する味、ではないのだけど、ぴりりと辛くておいしい。
夜までお腹の中で存在感を発揮してました。

「最近、新宿三丁目のエイトの餃子を食べてないんだよね」と友人と話していたら食べたくなった。
けど、行ってみたら口が担々麺をオーダーしてしまっていた。
そういう気分に任せた行動ができることも幸せです。
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ゴマがきいたマイルドで濃厚な担々麺じゃなくて、辛いやつが好きな人にはとてもいいと思う。
あと、パクチーと豚肉の水餃子(3つで150円)も頼んじゃった。安定。近々また来ちゃう。

* * *

2015年、14年、13年の12月の日記を見てみたら、どれも「忙しい」と書いてありました。
今振り返ってみると「そうだっけ?」と思うけど、まあなんやかやでずっと忙しいのであろう。

* * *

■古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』光文社,2016年.

これ多分気楽に読めて面白いだろうなと思ったらその通りだった。
90年代の反省会だとも読めるし、カタログでもあるし、実物を知っているインタビュイーが何人かいたので近況お聞きしてるようでもあるし。

で、この本の中で紹介された本を1冊買いました。
前にいい本の条件というのを4点挙げたけど、今回は「次の読書に繋がる」と「サクサク読める」に該当したということで。

2016年11月23日

マラケシュ(2)

マラケシュさくっと観光2日目。
まずはサーディアン廟に行きます。サアード朝の王様のお墓。

入場料100円。しかし全く意味のない入退管理設備。
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うんお墓お墓。
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次。バイア宮殿。
また意味のない入退管理設備。
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中はとても豪華です。
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19世紀のハレムだそう。
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天井の模様がすごい。偶像が描けないのでパターンなのか。
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そりゃ幾何学も発達するわなとか。
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入場料100円。今年一番価値のある100円だったかも。
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上ばかり見てしまいます。
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では、旧市街の北東に向かいましょう。また地元民が多くなってきます。
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皮なめし職人のエリアです。
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まだ足がついたような剥がしたばかりの皮を洗って、薬品に浸けて、毛を取り除く。
薬品はアンモニアが含まれる鳩の糞から作られてるらしく、すごいにおいでした。
ガイドを買って出たおじさんから「ガスマスクだ」といってミントの葉を渡されました。
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これは羊かな。
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手前にあるマスに、薬品が満たしてある。
なんか街外れにあるのも分かります。階級的な違いはあったのでしょうか?分からない。

で、連れて行かれるファクトリーショップ的なところ。
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小さい肩掛けカバンなら買ってもいいかな、と思って値段を聞くと950ディルハム(=9500円)だと。
ベルベル人と交渉開始。

「高い。無理」
『いくらなら出すんだ』
「100」
『はっ(←笑い)』
「150なら出せるかも」
『いやあ無理だわ』
「じゃあ帰る」
『ちょいまち、200でどう。スチューデントプライスだ』(学生だと思われたのか……)
「いやあぎりぎり170」
『200って相当だよ。200でいいでしょ』
「貧乏なんで」
『200なら持ってるだろう』
「170が上限。お昼が食べれなくなっちゃう」
『いやあさすがになあ』
「じゃあ帰るわ。どうも」
『分かった170でいい』

ということで950→170に負けてもらいました。まあこれでも利益が出るんだろうと思いますが、しかしあまり嬉しそうな顔をしていなかったので、結構頑張ったほうか。相手は200でずいぶん粘ったので、そこが一つの勝負ラインだったのかもしれない。そんなに欲しそうな顔してなかったのが、もう一段の値下げをしてもらう鍵だった気もします。iPadがちょうど入る大きさなので、クラッチバッグのかわりにしよう。

帰りしな、ガイドを買って出たおじさんが険しい顔で「50」とガイド料を要求してきたので、10渡して立ち去りました。支払うまではしつこいが、支払えば額が低くても諦めはいいな。

値札のない世界で値切って買うのは、アトラクションだと思えば楽しい面もあるけど面倒ですね。

中心近くまで戻ってきて、テラス席のあるレストランでお昼にしました。
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適当に入ったところでも、ちゃんとパスタがおいしい。
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建物の高さがだいたいどこも一緒なので、3階のテラス席に座ると街が見渡せます。
場所を変えてお茶。レモンタルトを食べながらだらだらしました。
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帰りはロイヤル・エア・モロッコでパリへ出て、そこから全日空で羽田。
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アトラス山脈がきれいに見えました。さようなら。
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* * *

機内で読み終わったもの。

■鷲田清一『人生はいつもちぐはぐ』角川書店,2016年.

似たような話ばっかで今ひとつ以下でした。

2016年11月03日

その日暮らし

■小川さやか『「その日暮らし」の人類学』光文社,2016年.

「本書は、Living for Today――その日その日を生きる――人びととそこに在る社会のしくみを論じることを通じて、わたしたちの生き方と、わたしたちが在る社会を再考することを目的としている」(p.7)

未来の予測可能性を追求し、明日や1カ月先や10年先を構想して、その目的に奉仕する現在を生きる――そんなわたしたちの単線的な時間感覚と、生活様式と、その周囲をがっちり固める制度を外から眺めてみる。

眺める。どこから?

コピー商品の行商と国をまたいだ仕入れの旅、日雇い、携帯電話を使った小銭の貸し借りまで駆使しながら生きつなぐタンザニアの「インフォーマル経済」の中からである。インフォーマル経済とは、政府の雇用統計に載らない、零細な自営業や日雇労働のことだそうだ。
騙されることも失敗することもある、失業もある、困難ではある、しかし人びとは知人や親族と、複雑に助けられ―助ける関係の中に浸されていて、日々をなんとか無事に生きている。「この雇用が切られたらおしまい」「この金を使ったら後がない」という不安はそこにない。

弊管理人はときどき、こういう「自分をロックイン状態から引きはがす」力を持った文章を求めてしまいます。日常を解毒する力といってもいいかもしれない。フィールド体験記かなと思って手に取ったら、かなり分析的な内容でしたが、解毒作用はちゃんとありました。
もちろん、地下鉄で読み終わったあと駅に降り立てば、「しかしこうしたタフで落ち着かないインフォーマル経済の世界に、自分は移住したいだろうか」と少しずつ醒めていくのですが。

* * *

そうして駅から帰宅して寝て起きると、予定と準備への執着に満ちた仕事界隈ではマラソンの日々はまだ続いていて、しかもところどころで「この100mくらいなぜ全力疾走できないのか」と叱咤されることもあり、毒は溜まり続けています(しかし溜まっていることから目を背けられるようになってはきた)。

フェイスブックもいよいよ居心地が悪くなってきたので、アカウントは残しつつ、用事や他の方の意見が聞きたい案件がない限り、見に行かないことにしました。

2016年10月22日

保守主義とは何か

■宇野重規『保守主義とは何か』中央公論新社,2016年.

や、やっと通勤電車の中では仕事関連以外の文章を読める状況になってきました。
アマゾンで安い雑貨を注文するにあたり、送料無料になる2000円にちょっと足りなかったため、何やら各所で評判のよいこの新書を一緒に買ってあったのでした(失礼)。

「右翼」とか「左翼」くらい、「保守」って意味の分からない言葉です。
それが何なのか、何と戦ってきたか(=何でないのか)、今いかにぐじゃぐじゃしているかが整頓されていて、ありがたい本でした。

それにしても、保守主義が「歴史を踏まえた漸進的改善+自由の重視」だと理解すれば、近代科学(社会科学も自然科学も)との親和性がとても高いように思えます。
しかし、通常科学の営みとともにパラダイムを維持しがたくなり、あるとき言葉の意味がぐるっと変わってしまうように、(クリシェとして使われる「時代の転換点」ではなく本当に)時代が変わる瞬間というのもまた訪れるのでしょうか。どうやって?凡人の死骸の集積がティッピングポイントを超えることにより?あるいは天才がひっくり返すのか?

---------以下、メモ。日本の保守主義の章は割愛

▽出発点としてのバーク(18c、英)

(・言葉そのものは1818、フランスでシャトーブリアンによる雑誌「保守主義者」に由来)
・自由の擁護。しかしフランス革命(を主導した急進派)と、その暴力性は批判
・歴史的に形成された政治、制度の安定的作用を「保守」する
・民主化を前提に、秩序ある漸進的改革を目指すべきと考える
・歴史的蓄積をすべて正しいとするのも、丸ごと捨てる(理性の驕り)のも誤り。活用が鍵
・フランス革命は歴史の断絶、かつ抽象的な原理に立つもの、自らの過去への蔑視
・アメリカ独立には宥和的。ただし大英帝国の秩序のもとで

▽反・社会主義としての保守主義

・エリオット。創造の前提としての伝統。芸術における「個性」(独りよがり)の無意味
 ヨーロッパ諸言語のハイブリッドとしての英語。その詩の豊かさ。多様性の重視
 文化を担う「集団」(not個人)、コモンセンス。オーウェルは階級支配の正当化として批判
 →コモンセンスの喪失、イデオロギー同士の裸の衝突が危機を招く

・チェスタトン『正統とは何か』。正統=正気。理性を超えるものを否認する唯物論は「狂気」

・ハイエク(保守主義者であることを否定、ただしバークに共感)←ヨーロッパ個人主義の伝統
 政府が設計した変化を批判
 自生的秩序(市場メカニズム)・法の秩序(進化的に形成されたルール)を擁護
 なぜなら、限られた人が全体を把握することは不可能だから
 (ただし保険によってしか救済できないリスクがあることも認める)
  =社会の複雑性、自由を否定してはならない
  →×保守主義は階層秩序を好み、特定階層から指導者を出す。変化を拒絶
   ○自由主義はエリートの存在は否定しないが、どこから選出するかは予め決まっていない

・オークショットの保守主義:宗教、王制、自然法や神的秩序を切り離す点に特徴
 西欧は変化を求めすぎてきた
 変化は避けられないとしても、適応するくらいでよいのでは
 →統治の本質は、多様な企てや利害を持った人たちの「衝突を回避する」こととみる
 →それに必要な儀式として、法や制度を提供することが統治の役割
 →「人類の会話」。認め合い、同化を求めないこと
  対話を通じて真理を追究するのではない=他人から学ぼうとしない「合理主義者」への批判
  技術知(画一性、完全性)/実践知(経験から学ぶもの)
  統一体/社交体
  共生=リベラリズム=井上達夫/伝統が培った行動規範=保守主義=西部邁

▽反・大きな政府としての保守主義―アメリカ

・マディソン。権力分立←政治的ユートピアの断念
・ただし、20c半ばまで保守主義が位置を占めることはなかった。ニューディールへの合意
・ウィーバー。精神の「重し」となる伝統の不可欠さ
・カーク。超越的秩序、人の多様性と神秘性、序列と階級。自由と所有権。計画的改造への懐疑

・保守主義の精神的背景:宗教的国家+反知性主義(反エリート)
・1950ー60s、ベトナム戦争。ベスト&ブライテストへの懐疑
 →ウィーバー、カークの著作が重みを持ち始める
・政治運動としての保守主義の背景:伝統主義+「リバタリアニズム」
 リベラリズムが「政府の権力抑制」から「大きな政府+自由」へと意味の変化を起こす
 →「小さな政府+選択」がリバタリアニズムに
 →政府不信+強固な個人主義。政府主導の進歩主義的改革へのアンチとしては保守だが……
・フリードマン:経済的リバタリアニズム。ノイジーマイノリティの特殊利益擁護を回避する
・ノージック:保護協会の乱立→支配的保護協会の出現→最小国家。やはり自生的プロセス
  多様なユートピアを許容する。逆にマルクス主義・社会主義は帝国主義ユートピアとして棄却

・ティーパーティー(ロン・ポール~)。小さな政府+個人の自由。ただし草の根で実態は多様
・ネオコン。イラク戦争主導、小さな政府へのこだわりはそう強くない。初期はトロツキストら。特異!
  ゴールドウォーターの敗北→保守の立て直し→ネオコンと合流→保守革命
・ネオコンの特徴:
  国際主義(反・孤立主義。源流がリベラル反共だからか)
  リアリズム。国際社会を道徳的理念の実現の場とみる。各国のレジームチェンジに関心
  社会改革への志向。主な反発対象はリベラルの左傾化か
・帰結:アメリカの分断。大きな政府/小さな政府という争点が、宗教・倫理と連動し左右を分極化
・現代アメリカの保守主義:市場化と宗教化の結合

▽ポストモダン(再帰的近代)の保守主義

・保守の優位
・アメリカ:イデオロギーや経済ではなく、感情の対立か?
・ジョナサン・ハイトの「道徳基盤」:ケア、公正、自由、忠誠、権威、神聖
  リベラルはケア、公正、自由を重視。普遍主義
  保守は六つを等しく扱う。仲間を大切にする
・ジョセフ・ヒース。脳は保守的、漸進的にしか変わらないが、合理的思考=長期的企図も重要
  適応的な改革だけでなく、オーバーホールが必要な時もあると主張

・保守主義:楽天的な進歩主義を批判するものとして生まれ、発展していった
 →進歩主義の旗色が悪くなった現在、保守主義の位置付けも分かりにくくなったのではないか

・何を保守するのか?―伝統や権威。これによってかえって人間は主体的になる
 →伝統や権威は現在、「根拠」を求められ、自明性を失っているのではないか
 →根拠などなくてもいい、は原理主義。これの台頭もポスト伝統的社会秩序の一側面
・一人ひとりが「何かを守る」ことについての考察。開放性と流動性(柔軟性)を伴った保守主義

2016年09月15日

9月前半まとめ

あっという間に9月が半分過ぎてしまいました……

* * *

上旬、沖縄・石垣島に出張してきました。

石垣島と西表島の間にある「石西礁湖」のサンゴの白化がひどかったです。
ちょっといつもの禁を破って、仕事中に撮った写真を……

舟の上からでも分かる感じ。
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ちょっと潜るとこんな。
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白保のアオサンゴ(外から見ると分かりませんが、肉が青いのでアオサンゴ)は元気そうでした。
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予定外に日焼けしてしまった。
石垣島は6年ぶりですが、中国方面からの観光客がものすごく増えて、ちょっとしたバブルだということです。ホテルもすごく取りにくくなってました。

* * *

5月に、冬のジャケットとマフラー2本とセーターを預けたクリーニング店が
6月末で閉店していたことに
8月末に気付きました。

当然、もぬけのから。

店舗で洗っていた個人営業のお店で、預けるときにお代を払って受け取りにいくだけの店で、電話番号とかの登録はしないので、先方から当然閉店の連絡はなし。

ものすごい大事な服はなかったけど、ううむやられた。
というか、クリーニング店の閉店って生まれて初めて行き当たったかもしれない。

しかも2日に1回くらい通る道にあるんですけど、気付かなかった。
それが一番衝撃的だった。

* * *

■交告尚史他『環境法入門[第3版]』有斐閣,2015年.

経費精算したい。

2016年08月28日

8月まとめ

もはや記憶が薄れてきている帰省は12-14日。

長野県大鹿村の中央構造線博物館に行きました。
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あと、いつものように母方の本家に行って伯母さん作のごちそう。
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祖母(95)は弊管理人が名乗ると認識するという状態は相変わらずで、健康状態もよさそうでした。
世話をしている伯母(74)は「100まで行かれたら私もきついけど行っちゃうかも」と。
写真が趣味の伯母はとうとう時代の流れに抗しきれなくなってデジカメに乗り換えましたが、まだPCを持っていません。せめて大画面で見られるようにと、テレビにつなげるHDMIケーブルをあげてきました。

父方の本家では3月に亡くなった祖父の新盆。
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坊主が忙しいとかで来ないというのに驚きました。しかし、ままあることらしい。

父(64)は3月で再就職した仕事も終了し、よこすメールでは「起きてずっとぼーっとしてる生活」などと言っていて弊管理人は若干心配していたのですが、ちゃんと職安に行って仕事を見つけてきたとのことでした。こういうところ、さすがというか。

* * *

15日から出勤しました。でも世の中はまだだらっとお盆が続いている感じの1週間。
やらなくてもいい仕事を、勉強を兼ねて1本こなしてこの週はおしまい。

* * *

その次の週は行事関係を忙しく回りつつ、1日は伊豆の海に潜ってきました。仕事というか、仕事の準備的なダイビングでした。
大学生のときにオーストラリアでオープンウォーターの免許をとって、そこから間に1、2回潜っただけで、ほとんど素人の状態です。2本潜ったうちの1本目は水中でうまく静止するのに難儀しましたが、2本目でわりと勘を取り戻しました。

すっごい疲れて寝たら翌日は5:30に目が覚めてしまい、疲れを2日引きずることになりました。

* * *

心頭滅却しているうちに8月が終わりそう。
9月以降ことし一杯は生活がちゃんと成り立たなさそうだなーと予測していますが、まあ仕方ない。ここ2年アイドリングさせてもらったので。
むかしはものをおもひけり。

* * *

本はちょこちょこ読んでました。

■小西雅子『地球温暖化は解決できるのか』岩波書店,2016年.

昨年12月に新しい地球温暖化対策の枠組みであるパリ協定が採択されてから、恐らく初の本じゃないでしょうか。ジュニア新書ということで、著者は表現を噛み砕くのに多大な苦労をされたようです。それでも「です・ます」調を「である」調に直せばそのまま大人用の新書になるくらいのレベルと感じました。
中身はほんと参考になります。

ちょっと仕事上の必要があって環境問題について知りたいなーと思って、ワンストップでいろいろ教えてくれる本を探していると、結局「環境法」と「環境科学」と「環境政治」などが共通のベースを持ちつつも、入口がかなり違っていることに気付かされました。特に国際交渉の情報は毎年更新されるので、ついていくのが大変。

■西岡秀三, 宮崎忠國, 村野健太郎『改訂新版 地球環境がわかる』技術評論社, 2015年.

それでこちらは「環境省入門」という感じ。あからさまにそういう本ではないんですけど、地球環境、国内の環境対策、廃棄物・リサイクル、水・大気・土壌の汚染、生物多様性など、環境省にある部局がそれぞれどの分野を受け持っているかに緩やかに対応したような章立てに見えました。
一般向けで俯瞰する本なので解説は最低限ですが、キーワードがきちんと盛り込まれていて、要約としてもなかなかいいと感じました。

■良永知義『食卓からマグロが消える日』飛鳥新社,2009年.

いただきもの。著者(魚病学)はこのタイトルがものすごく気に入らないようです。
養殖のことってほとんど知りません。勉強になりました。

2016年08月14日

じんるいがく(4)

帰省先から東京に戻る高速バスが渋滞で遅れており、車内で書いてます。
粗い(特に親族のところ)メモになってしまいました。
最近目が悪くなったような。疲れ目なのか、まさか老眼か。

* * *

6 Person and Society

・社会構造:個々の人たちとは無関係の抽象化された実体
  ラドクリフ=ブラウンらはそれがどう社会の維持に貢献しているかを解明しようとした
  例)宗教→社会の一体性を作り出す、家庭→生殖や社会化……
  「何かの超自然的なものを崇拝する=社会を崇拝している」(デュルケム)
 →機能を失うと、その制度は消滅する
・しかしいつも成員がその通りに行動するとは限らない
→ファース(Raymond Firth)による解決は:社会構造structureと社会組織organisationの区別
  社会構造は、確立したルール、慣習、制度などのパターン
  社会組織は、その中で実際に人がどう行動するかという側面
  例)聖書を勉強してもクリスチャンの振るまいは予測できない
→社会「過程」への注目を開いた

・社会システムsystemと社会構造structureの区別も重要
  社会システムはアクター同士が取り結ぶ一群の社会関係
    その境界は、それより外に出ると相互関係がぐっと減る地点
    システムはサブシステムに分けることもできる
  社会構造は全体的な社会関係を指す
・どちらも個人の行動を可能にすると同時に、制約するものでもある

・ソーシャルネットワーク
 継続的なコミュニケーションによってたえず創出される、個人を中心とした社会システムの一種
 最初に使ったのはジョン・バーンズJohn Barnes
  SNSはよい例
  脱中心的、はっきりとした形を持たない、不安定←→社会構造
  特に大規模な社会を分析するのに向いている

・では「規模scale」って何だ?
  (1)社会の再生産に必要な地位statusesの数
  (2)匿名性の程度
 個別のアクターの行動を規定する
 が、アクターがほり大きなシステムと接続することで変容することもある

・インターネット
  ローカル/グローバル、小規模/大規模、との二元論を超えるネットワーク
  脱中心的で脱地域的な「複数のネットワークで構成されるネットワーク」
  例)トロブリアンド諸島出身者のネットコミュニティ研究

・メアリー・ダグラスの「グループ×グリッド」
  グループ:社会の結びつきの強さ
  グリッド:社会の中で階層や知識がどの程度共有されているか
  強いグリッド×強いグループ:社会が個人の振る舞いを強く規定する
  強いグリッド×弱いグループ:服従的でありながら自己実現を求められる(中央アフリカ等)
・この分析方法では、一部のロンドン市民とピグミー族など、意外な集団が同じ位置に来ることも

・方法論的個人主義(スペンサー、ウェーバー)/全体主義(デュルケム、マルクス)
・人類学の個人中心的な分析手法は、構造機能主義への批判として登場
  1950年代に欧州。主にマリノフスキやウェーバーに触発されている
  「社会が目的を持つことなどあるのか?」
  制度は個人が行う行動の集積に過ぎない。原因でなく「結果」である
  全体主義は記述的であって、「なぜ」そういう制度ができたのかを説明できない
  そもそも制度は社会を安定化させてない(不安定の種を内包した制度もある9
  構造機能主義は今あまりはやってないが、民族誌を書く際の有用な足がかりではある

・構造の二重性the duality of structure(ギデンズ)
  構造は個人の行動を形作るとともに、個人の行動の蓄積によって形作られる
  ヘラクレイトス→シュッツ、マンハイム→バーガー、ラックマンLuckmann→ギデンズら
  個人は社会の中に投げ込まれ、社会を変えていく

・社会の記憶と知識の伝播
・なぜ英国の貧しい子は貧しい大人になるか→話す言葉が学校の勉強に合ってない
・白人と黒人の言葉使いの違い
・フェミニズムの視点
  (1)女性は男性とは違った見方で世界を見ている
  (2)女性は社会的な成功に必要な知識から遠ざけられている
・コナートンPaul Connertonの「社会的記憶」の3分類
  (1)個人的記憶(生育歴、個人的な体験)
  (2)認知的cognitive記憶(世界をどう見るか)
  (3)習慣的habitual記憶(身体に埋め込まれた記憶)←ここが大事
    足を組む、字を書くなど、身体的な訓練、ルールによる埋め込みで形成される
・スペルベルDan Sperberの「表象の疫学epidemiology of reporesentation」
  知識や技術は、ウイルスとは違った伝播の仕方をする
  →伝播するたびに、少しずつ変化する。このことへの注意喚起を促すもの
・ブルデューの「ハビトゥス」:無意識を規定する、身体に埋め込まれた文化
  →ブロッホ(Maurce Bloch)の「言語化されない」規定力
  →インフォーマント自身が言語化できない。
    フィールドワークでインタビューに注力しすぎると落とし穴に落ちるということ

・この章で見たこと
  (1)「(静的な)構造」から「過程」(あるいは変容)への変化
  (2)「機能」から「意味の解釈」への変化
   →人類学は社会科学より人文学っぽくなった

7. Kinship as Descent

・親族は特に1940年代まで研究の中心で、現在も関心を引き続けている
・なぜそんなに重要か→社会の成員の日常生活、キャリア、アイデンティティを規定する
・多くのシステムが親族関係とかかわりながら動いている

・インセスト・タブー。なぜタブーか?
  外のグループと通婚することで、ネットワークの拡大を狙う?
  遺伝病のリスクを低減する?→しかしこれは当事者がリスクを知らないので怪しい
  小さい頃から一緒にいる相手にはエロスを感じない?
  レヴィ=ストロース:男にとって女は「妻」か「きょうだい」。女の交換は根源的な互酬性?
・内婚/外婚
・父系/母系
  母系の社会は父系の単なる裏返しではない。母系でも男が政治力を持っている
・交差いとこ/平行いとこ
・(財産の)相続inheritanceと、(地位の)継承succession
・(血族を具体的に挙げられる)リネージと、(先祖を共有していると信じる)クラン

・親族関係は、自分の遺伝子をばらまきたいという根源的衝動の副産物か?
  1970年代、ウィルソンEdward O. Wilsonは社会科学は生物学の子だと主張
  ←→サーリンズ「遺伝的に近い集団の紐帯が強いなんて関係はねえよ」と批判
  今日では、文化的現象を「生物学的に機能的・適応的」と説明する人はほぼいない

2016年07月18日

じんるいがく(3)

4 The Social Person

・あらゆる行為は社会的に作られる(着る、意思疎通する、身振り…)
・生物学的に規定された欲求(栄養を取る、寝る…)もあるが、それを満たすやり方は社会的産物

・人間存在を(文化的に/生物学的に)×(共通/多様)の4象限に分けて考えてみる
  「生物学的に×多様」=遺伝的多様性。ただし人種ごとの違いは全体の0.012%に過ぎない
    →「人種」は文化的な構築物。権力やイデオロギーの視点のほうがなじむはず
  「文化的に×共通」と「文化的に×多様」が文化人類学の関心事。生物学では説明しきれない部分

・言語は人間のみが持つわけではなく、サルも固有名詞だけでなく一般名詞を理解するらしい
・ただし、多様な音を意味に結びつけたり、喋ったりするのは人間の業。それは文化を超えて共通
  だが、個別の言語はとても多様

・「技術の単純さ」をもって、ある人間集団の「自然との近さ」は測れない
  例)複雑な技術を持っているが、社会の在り方が自然に大きく影響されている狩猟採集のバンブチ
  自然は「敵」?「対象」?「主体」?
  最近は人間/自然の二分法を疑う動きも

・二つの自然
  (1)外的自然=生態系
  (2)内的自然=人間本性
  →どちらも「文化」の対立物とされている
・同時に、文化は本質的に自然と結びついている。文化の物質的基礎を自然から得ている
・自然は脅威、制御しにくいものとして把握されることが多いが、必要なものでもある
・自然と文化の関係を考える二つの視点
  (1)さまざまな文化でこの関係をどうとらえているか(この場合、自然は外部にあって表象される)
  (2)自然がどう社会や文化に影響を与えているか
  例題)大規模な自然破壊、気候変動。伝統的な知識が、持続可能性に(どう)貢献できるか

・行為actionと行動behaviour
  action=行為者が反省的にとらえうるものだという含意がある。人間のみ
  behaviour=人間や動物が引き起こす観察可能なイベント
 →マルクスの『資本論』における「大工」と「蜂の巣作り」の対比
 →actionは「そうしないこと」もできる。だから完璧な予測が難しい(というかできない)
・人類学、社会学ではactorは個人だけでなく、集団(国など)でもありうる
・相互行為interaction、関係性relationshipに注目する。つまり社会の最小単位は2人の関係である
・これらは分析用の言葉であって、emicな言葉には出てこないジャーゴンである

・地位statusと役割role(これもジャーゴン)
 社会のすべてのメンバーは、他人との関係において何らかの固有の権利・義務を持っている
 個々人は、異なった人に対して異なった権利・義務を持っている
 →status=社会的に定義された権利義務関係。それに対する周囲の「期待」も込み
   一人の人が「伯父」「歯医者」「隣人」「顧客」など、複数のstatusを持っている
   それぞれの個人は、この総計によって定義される
・statusには「付与されたものascribed」と「獲得したものachieved」がある
・同じ「職業」でも、伝統社会ではascribedだが、近代社会ではachievedだったりする
・近代社会は、多くのstatusがachievedである点で、伝統社会と質的に異なる
  ※ちょっとシンプルすぎるが、分析の出発点としては便利
・roleは、statusが定義する行動の範囲。王女というstatusは深夜にパブで酒を飲むことを許さない
  →この期待を裏切るとサンクションを食らう。この仕組みによって社会が安定する
・ただし、これらは行為者による「解釈」の余地があるので、外れることもよくある
  →だから社会科学の予測性は低い
  サルトル、ゴフマンのimpression managementも参考に

・権力power
・役割理論は権力を扱えないとの批判もある
  ある人は別の人に比べて、自分の人生に対するコントロールをしにくいなど
・ラッセル「社会科学における権力は、物理学におけるエネルギーと同じ」
  →中核的な概念だが、正確に定義するのが難しい
・社会の見方には「行為者」と「システム」に注目する二つのやり方がある
・権力を「行為者」目線で定義すると、誰かの意志に反して何かをやらせる力だといえる
・「システム」目線で定義すると、社会における権力関係の布置に注目することになる
・現代人類学者はこの二つを行き来しながら分析を行うことになる

・自己self
・役割理論への別の批判は、自己は一つの全体であり、複数の役割に分割はできないというもの
・地位も役割も、eticな言葉だということに注意
・比較研究から、ほぼすべての社会に「自己」「個人」という概念があることが分かっている
  ただし、その中身はかなり多様
・西洋では自己は分割不可能だが、非西洋では社会関係の集積だととらえられている
  メラネシアでは、負債を払い終えて相続が終わるまで、ある人が「死んだ」とは考えられない
  →すべての社会関係が清算されないと「個人」は死なない
  ズーニーインディアンでは、氏族の中に限られた名前しかなく、各々に特定の役割がある
  →人は自律的な個人ではない。与えられた役割を演じるもの
・公私の区別もさまざま

・身体body
・1970年代になって、身体が社会文化的なものだと考えられ始めた(メアリー・ダグラスを除く)
・身体は行為主体でもあり、社会のコードを書き込む場でもあるという考え方(医療人類学など)

5 Local Organisation

・今日の人類学は多様なフィールドで行われている
・それでも比較的小規模な集団を研究する重要性はある。なぜか?
  (1)方法論的に扱いやすい。全員と顔見知りになって関係性の全貌を掴むこともできる
  (2)小集団の中で関係性が簡潔しているかのように扱える※ただし本当はそうでもない

▽規範と統制
・全ての社会システムは、何が許される/許されないかに関するルール「規範norms」を必要とする
・それぞれの重要性には幅がある(絶対のルール~そうでもないルールまで)
・カバーする範囲も全人類(世界人権宣言)から小集団(仕事中はネクタイしなさい)までいろいろ
・必ず守られるものから、そうでないもの(virilocality=結婚した夫婦が夫の両親の近くに住む)まで
・全ての規範には賞/罰が伴う。正統な賞罰を与えられることが権力の原点
・システマティックに罰を与える仕組みを「社会統制social control」と呼ぶことができる

▽社会化
・社会の一人前のメンバーになるためのプロセス。世代間での文化の継続性も担っている
・分化の進んだ社会では、家族以外も担う。例えば学校、クラブ、スポーツ団体、テレビなど
・言葉をどう使うか、誰を尊敬するか、崇拝するか、などを学ぶことになる
・代表的な研究はマーガレット・ミードの『サモアの思春期』(ただし質への批判あり→p.79)

▽ライフステージと通過儀礼
・子供と大人の間には文化により何段階もあり、それぞれ違った権利、義務が設定されている
・ステージ移行の際に存在するのが通過儀礼。苦悩や剥奪などにより揺さぶられる公的行事
・「定年」もそう!賃労働者がほとんどの地位とネットワークを剥奪される
・何週間も隔離される社会も
・通過儀礼は必要だが、曖昧な立場の人間を抱えることは社会秩序にとっては脅威でもある

▽さまざまな社会制度
・個人とは無関係に存在する。ある核家族が分解しても核家族という制度は存続。王の死も同じ
・制度が変わると社会が変わる。フランス革命、アボリジニーが賃労働社会に巻き込まれるなど
→社会の継続や変化に注目するなら、制度を見よ

▽家族
・フィールドで最初に手が付けやすい社会制度は家族だといえる。どの社会にもある
・多くの場合は親族で構成され、多くの場合は同じ屋根の下に住んでいる
・西アフリカのフラニ族の例→pp.83-86

▽村
・家族だけで完結できないもの:政治、宗教、経済→もう一段上のレベルの制度としての「村」
・ドゴン族→pp.88-89
・ヤノマミ族→pp.90-92
・上記どれも社会制度において親族関係が重要な役割を果たしている

2016年07月17日

じんるいがく(2)/果実園

3. Fieldwork and Ethnography

▽フィールドワーク
・フィールドで人類学者は多少なりとも以下のように見られる
  (1)道化。へったくそな言葉を使って、暗黙のルールを破って回るような
  (2)専門家。ものすごく尊敬され、丁寧に扱われる。しかし裏側をなかなか見せてもらえない
・逆に、近代的な社会をフィールドにすると、そこの人から何の関心も持たれないこともある
・前近代的なフィールドでも、20世紀末には「プロ」のインフォーマントができてしまっていた

・フィールドではさまざまな手法でデータ集めをする
・構造化面接や統計的サンプリングなどと、非構造化参与観察などを組み合わせることが多い
・エヴァンス=プリチャードは「二重にマージナル」な存在と形容した。元いた社会からも、観察している社会からも距離をとっている存在ということ
・研究対象になっている人にそれと知らせないのは倫理的か?という問題もある
・観察者の性別、年齢、人種、階級などもフィールドワークに影響する
・もちろん対象の性質も

・テクニックは一般化できないが、さまざまなtipsが伝えられている
  ・インフォーマントと20分以上話すな(飽きられるから)
  ・紳士的に振る舞え
  ・何を知りたいかを明確にしてから行け などなど
・フィールドを見る目もいろいろ。マリノフスキーは実はトロブリアンド諸島の人を見下していたとも
・相手が嫌いだったとしても、いいフィールドワークをすることはできる。いいデータが集められるかが重要であって、何人友達ができたかはどうでもいいのだ

・過去のフィールドワークでは、エリート層に注目しすぎていたとの指摘がある
・エリート層のほうが質の良い情報を提供してくれるから+観察者とレベルが近いからであろう
・だがインフォーマントが上位カースト所属だったりすると、そのせいで情報が歪む可能性がある
・内側からの視点でものが見えるようになるには、時間がかかる
・しかし、見たいものしか見えてない危険性も
・観察者の「人間力」も出来を左右する点も特徴
・ただ、現地の人と「仕事として」仲良くすることにまつわる倫理問題もある

・研究には帰納的な面と、演繹的な面がある。事実の観測→一般的な事実の発見

▽慣れ親しんだ社会でのフィールドワーク
・社会学と違って、人類学には文化の多様性を明らかにし、消え去りそうなものの記録を残すという仕事がある
・ただ、観察者自身が属している社会を研究することも増えつつある。その理由:
  (1)ネットや人の移動の活発化などの環境変化によって、近代的/原始的の区別が曖昧になった
  (2)未開社会の分析に使ったツールが近代的社会間の比較にも使える
  (3)大きな研究資金を当てて、遠い世界でフィールドワークできる人が限られる
・一方、そういうフィールドワークへの反対論もある
  ・比較をやるなら文化的に遠い人たちを研究すべきではないか
  ・自文化は、他文化を見る際のベースラインとして使うべきではないか
・でも、そもそも自文化もそんなに均一ではない

・自文化の中でフィールドワークをやる利点としては知らない言語や慣習をわざわざ学習しなくてよい
・しかし、周囲に当たり前なものが多すぎるという欠点もある。homeblindness
  (トレーニングにより相当程度乗り越えられるが)

▽解釈と分析
・ボアズやマリノフスキーの時代と違って、現在は現地の言語や先行研究を事前に勉強してから行ける
・一つの村に留まって宗教、政治、経済を描き出すようなスタイルは古いものになった
 その理由は、現在はもっと大きなスケールで調査が行われる/対象に関して専門化が進んだから
・書いた作品が調査対象の人たちに読まれることも多くなっている

▽エスノグラフィー的現在と過去
・人類学のテクストは現在形で書かれる
・書かれたのが政治的に安定していた植民地時代か、その後かで記述は随分変わる
・「どうなっているか」を記述するもので、「どうやってできたか」を書いているのではない
 (ただ、1980年代以降は歴史的な記述も目立つようになった)
・一方、書かれた歴史があればそれを扱うのも有益とされる(クレーバー、エヴァンス=プリチャードら)
・異なる社会の間の関係を調べる時にも歴史的視点は重要

▽エスノグラフィーを書く/読む
・人類学者の仕事は書くことだとされてきた。が、その書き物は筆者の属性や調査の性格に規定される
・ということは、書く人が違えば書かれ方も変わってくる
・人類学やメタ人類学者は批評理論を持ち込んだりしてきた

▽翻訳問題
・自分の言語で他文化を言い表すとき、その文化の内的視点はいかにして保持できるか
・そもそも他文化を理解すること自体、できるのか
・トロブリアンド諸島とヤノマミの「親族関係」を比較することは可能か
・一つの解決法は「記述」(経験に近い)と「分析」(経験から遠い)を分けて考えることかもしれない
・ただし「記述」でさえ、必然的に人類学者による取捨選択を経たものであることに注意

▽エミックemicとエティックetic
・マーヴィン・ハリスが人類学に導入した二分法
  emic=その社会の構成員が経験したり表現したりするレベル
  etic=研究者が行う分析的な記述や説明
※オリジナルはケネス・パイク
  phonetics(音声学)=音同士の客観的な関係
  phonemics(音韻論)=音の意味
  からとっている
・ただし、人類学者がインフォーマントが見た世界を再現しようとしてもemicにならない。その理由:
  (1)「翻訳」が避けられない
  (2)発音されたものを書き留める作業において、発音の「現場」が捨象される
  (3)人類学者が書く対象の人になることはできない
 →本当のemicはその文化の人が自分で表現しないと成立しない
・emicが間違いで、eticが合っているという思い込みは妥当ではない
・emicが具体的で、eticが抽象的だということでも(必ずしも)ない
・ただし、人類学者が、現地の人が気付かない構造を見ることができるという点は重要
  ・強いバージョンは、自然科学者のように一般法則を見ようとする企て
  ・弱いバージョンは、ある社会をより多層的に説明しようとする企て

▽政治としての人類学
・人類学を勉強して、大学で教える人は少数。他は開発協力や出版、企業、病院などで勤務
・人類学者そのものも人類学的に研究できる
・カウンターカルチャーからの攻撃を受けることもあった
  ・人類学は植民地主義の延長ではないか?
  ・フェミニズムの視点がないのでは
・現在、専門化が進んで人類学業界の全体が見渡せなくなっているが、共通のコアを勉強することは大事

* * *

連休初日は果実園リーベルでモーニングしてみました。
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果物はおいしい。
甘いがこれはケーキではない。
フルーツサンドって中途半端な食べ物だなというのが、このたびの人生の結論です。
つまり、もう自分でお金を払って食べることはないであろう。
880円だと思ったら税抜き価格で、950円になったのもなんかなという感じでした。

2016年07月09日

じんるいがく(1)

超失礼だが、横目で見ながら文化人類学って最近大丈夫なのかなと思っていました。
でも、日常を解毒する手段としては期待してます。
つうか、ちゃんとざっと見したこともないんだ、ごめん。

なんだそれ。
というわけで、いくつかの修士課程の導入科目をネットで調べて、そこでわりと共通して参考文献になっている本のうち、一番新しい(そして結構重いが持ちやすい大きさではある)こちらをアマゾンで手に入れ、通勤電車で読み始めてます。
450ページくらいあるので、ちょっとずつ。

■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.

1 Anthropology: Comparison and Context

・文化人類学(←アメリカの)/社会人類学(←イギリスの)は、人類の文化や社会が「いかに多様か」、と同時に、「いかに似ているか」を明らかにする。多様性と普遍性を行き来する学問である(p.2)

・関心は社会の内部に存在するさまざまな関係性とともに、社会と社会の間の関係性にも及ぶ

・限られたフィールドでの研究によって、人類大の問題を考える学問だともいえる(p.3)

・かつては産業化されていない、小さな集団が研究対象というイメージがあったが、今はそうではなくなっている

・文化とは何か?:タイラーとギアツに従って、ざくっと「社会の構成員として人々が獲得する能力、もののとらえ方、そして行動様式である」と言っておく。ギアツは境界を持ったひとまとまりの全体、構成員の多くに共有された意味のシステムとして描いた。……しかし、内部の多様性をどう考えるか?メディアやグローバリゼーションによる均一化をどう織り込むか?依然として論争の的である(p.4)

・文化と社会って?:文化=獲得された認知とシンボル。社会=組織、相互行為、権力関係(p.5)

・文化人類学の特徴=経験に基づくことと、比較を重視すること
・他との違い:社会学と違って、近代的な社会だけに注目するわけではない。哲学と違って、調査を重視する。歴史学と違って、進行中の事柄を扱う。言語学と違って、言語の社会的・文化的なコンテクストに注目する。でも共通点もいっぱいある(p.6)

・自文化中心主義を避け、(方法的な)文化相対主義をとること(pp.8-10)

2 A Brief History of Anthropology

・他の社会科学と同じく、19世紀末~20世紀初頭にかけて成立した分野。だがその歴史の描き方はいろいろある(p.12)

前史
・文化人類学を「文化の多様性に関する研究」と定義すれば、それは古代ギリシアからあった。ヘロドトスの異民族描写もそうだし、ソフィストの相対主義もそう。だがヘロドトスには理論がなかったし、ソフィストにはフィールドワークがなかった
・もうちょっとましなご先祖としてはイブン・ハルドゥーンが挙げられる
・ヨーロッパでは、大航海時代に自分たちとはかけ離れた人々と出会ったころが画期か。モンテーニュ、ホッブズ、ヴィーコなどが文化の多様性について考えた第1世代といえそう

ヴィクトリア時代
・社会進化論によって特徴づけられる。進化の最先端としてのヨーロッパ。メイン(英)、モーガン(米)
・テンニースの「ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト」の二元論
・マルクス、エンゲルスの歴史観にも影響したか
・ダーウィンの進化論との関係も複雑。人類の共通性を裏付けるとともに、文化的<生物的という図式に落ちる危険性も

米国:ボアズ(独→米、1858-1942)
・今日まで続く米国の人類学の方法論の源流。'Four-Field Approach'、つまり(1)文化と社会(2)生物学的(3)考古学(4)言語人類学
・文化相対主義を中心に位置付けたことも重要な業績。それぞれの文化は独自の文脈において理解されるべきで、「発展度合い」などでランキングを作るべきではない。歴史についても単線的な発展を想定しない
・さらに、消滅の脅威にさらされている先住民族の文化も擁護するべきだと主張
・弟子にはマーガレット・ミード、ルース・ベネディクトら
・言語ではサピア、ウォーフと協働。多様な言語のそれぞれが世界認知のありかたを規定するという
・ボアズ以降、モーガンやダーウィンは米国で退潮。氏<育ち、に

英国:マリノフスキーとラドクリフ=ブラウン
・英国の社会人類学は、米国と違って、植民地経営に関連。例えばインドなら文化よりも諸民族間の政治関係など
・創始者の一人はマリノフスキー(ポーランド→英、1884-1942)。トロブリアンド諸島でのフィールドワークにより、民族誌的なデータ集めのスタンダードを構築。現地語を学び、日常的な人間関係を内側から記録する
・特に個人の行動に着目した。社会構造が行動を決定するのではなく、行動の在り方を枠づけるものととらえる
・すべての社会制度は相互に関連しあっており、あらゆる文脈から事象を理解すべき。biopsychological functionalism
・もう一人はラドクリフ=ブラウン(1881-1955)。デュルケームの影響。個人よりも制度に注目し、社会統合の法則を見出そうとする「自然科学(化学や物理学のような)としての社会科学」を目指した。すべての制度は、社会の維持を助ける何らかの機能を持っていると考える。第2次大戦後に退潮
・二人は視点は違うがどちらも機能主義。次に続く世代で統合が図られる。親族関係、政治や経済に注目したエヴァンズ=プリチャードなど

フランス:マルセル・モース(1872-1950)
・ドイツは第2次大戦後にナチズムに協力していた人類学/民族学が壊滅しかけたが、フランスは20世紀を通じてセンターであり続けた。英国ほど方法論に傾かず、米国よりも哲学的に野心的
・モース(デュルケームの甥)自身はフィールドワークをしなかったが、贈与や身体、犠牲、人間という概念などについてエッセイを著した
・同じくデュルケームに影響を受けたラドクリフ=ブラウンと違って、完全な「法則」よりも、さまざまな社会に見られる構造的な「類似性」を見つけようとしていた

20世紀後半の文化人類学
・研究者人口の増加とテーマの多様化
・フィールドの流行は太平洋諸国→アフリカ→北アメリカときて、50年代以降はラテンアメリカ、インド、東南アジアへ
・植民地支配の終焉によって、第三世界諸国から調査研究の許可が得られにくくなった。研究対象とされてきた社会にも知識人が現れて、対象化への反発も

構造主義
・レヴィ=ストロース(1908-2009)。構造主義言語学、モースの交換理論、レヴィ=ブリュールの原始的心性(これには反対だが)から影響を受ける。婚姻関係の研究など。構造主義は人類学にとどまらない波及を見せた。検証不能な概念を持ち込んだなどの批判もある
・もう一人はインド研究のルイ・デュモン(1911-99)。カーストに規定された自由なき個人を描出

構造機能主義のその後
・ラドクリフ=ブラウン本人も50年代には「自然法則」の探究してもしゃあないと言い出した。人類学は自然科学というよりむしろ人文学だと思うべきだと。「構造から意味へ」。米国のクローバーも同様
・レイモンド・ファース(1901-2002)は社会構造(規則の集合)と社会組織(実際に起きている過程の集合)を分けて考えるべきだと主張。個人の行動が構造と取り結ぶ動的な関係に注目。後にゲーム理論との結びつきも(p.26)
・マックス・グルックマン(1911-1975)は全体論的な見方を捨てて、社会構造の規定力はもっとずっとゆるいものと見るように

その他いろいろ(pp.27-31)
・1940年代以降の米国では、ボアズ的な文化相対主義とは別の流れとして、ネオ進化論やマルクス主義の復興など
・ジュリアン・スチュワードの「文化核心cultural core」(=分業などの基礎的な制度)と「それ以外」の区別
・レスリー・ホワイトは象徴文化により規定力があるとの見方
・マーヴィン・ハリスの文化唯物論
・生物学+人類学→文化生態学。儀礼を生態学の言葉で表現するラパポートのニューギニア研究など
・第2次大戦後の象徴人類学、認知人類学
・1970年代からはフェミニズムの影響。男女の世界の見方の違いを強調
Writing Culture(1986)「統合された社会なんて文化人類学が作り上げたフィクション。現実はもっと複雑で曖昧なものだ」→80~90年代に迎える文化人類学の学問分野としての危機
・文化相対主義は、その底にある共通性を隠そうとしているのではないか?cf.)チョムスキー

21世紀の文化人類学
・ブラジル、日本、ロシアにも大きな研究コミュニティを抱えている
・英米仏の違いはいまだ存在するが、混交は進んでいる
・伝統医学、地域の消費生活、広告、オンラインカルチャーなどテーマも多様化
・進化学や認知科学の知見が、社会生活や心の共通性に関する示唆を与えることも

2016年06月20日

かつ味の定食

新宿御苑の「かつ味」にふらっと寄ったら、夜も定食を食べられるようになってました。
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でっかくて脂のりのりの鮭かま定食、半熟卵と漬け物と小鉢がついて850円は、申し訳なくなってしまいます。
今度はちゃんと飲みにこよう。

* * *

■レヴィ=ストロース, C.(川田順造、渡辺公三訳)『レヴィ=ストロース講義』平凡社、.2005年.

なかなかよかった。

* * *

無印の「人をダメにするソファ」、普通に座るのではなく、仰向けやうつぶせで横たわるのに頻用してます。
それは措いても、結構疲れてます。

2016年06月06日

スウェーデン再び(2)

最終日、5時間ほど間ができたので、バスに乗って北方博物館に行ってきました。
仕事先から、さまざまな博物館がタダで見られるパスをもらっていたので。

道すがら、トラックの荷台に載ったお子様たちが音楽かけながらわーわー騒いでいました。
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高校生が卒業式のあと、ビール飲んでこうやって練り歩くんだそうです。
「やめさせてえんだけど」と市役所の人、苦笑。

さて、スウェーデンの500年分を見せちゃうよ、という博物館。
1907年オープン。ネオ・ルネサンスの重厚な建物です。
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入るとすぐに目に飛び込んでくるのが、グスタフ・ヴァーサ王(位1523-1560)の像。
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横から見たら片桐はいり。でもデンマークからの独立を果たしたヒーローらしいです。
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ちなみにこの人、現行1000クローナ紙幣になってますが、6月30日をもって新デザインのハマーショルドに取って代わられるそうです。
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こういう看板もgoogle翻訳で読めちゃう世の中って便利。携帯端末を持たずにオーストラリア半周とかしてた大学時代、一体どうやって動き回っていたのか思い出せない。

閑話休題。9世紀くらいからヴァイキングがいろんなところに出掛けていって(でも出掛けてた人たちは人口の1%程度で、ほとんどは農民だったとのこと)、17世紀までにどんどん版図を拡大。でも18世紀になるとロシアに負けだして、19世紀にはもう国内のことに集中することにした。第1次、第2次大戦では中立を維持したことで、戦災を被ることもなく産業を伸ばすことができたとのことです。

館内では、調度、食、装いなど、あらゆる面から生活の歴史を紹介しています。
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どこの民族もそうだけど、この人たちは特にデコってる気がする。
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先住民のサーミについても、かなり大きな展示がありました。
ウプサラにracial biologyの研究所が設立され、国主導で人種主義に基づき、頭の大きさなどさまざまな計測がされたことをサーミの側から告発するビデオも流されています。こういう黒歴史がちゃんと首都で見られることは大きいと思う。

食のコーナーでは、コーヒーがフィーチャーされていました。
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仕事ではいっぱいミーティングがあったのですが、どこに行っても「まずコーヒー」という雰囲気でした。現地をよく知っている人に聞いても、確かにすごくコーヒーを消費する人たちらしい。パーティもコーヒーとビスケットで、という展示が上記写真ですが、その歴史は意外に浅く、20世紀初頭くらいからだということです。
街中にもコーヒーショップがいっぱいありましたが、仕事で飲み過ぎたのであえて買って飲む機会がありませんでした。

受付で音声ガイドがタダで借りられます。
結構な説明量で、途中から飛ばし気味に見ましたが、たっぷり3時間。

午後3時になったランチは博物館内のレストランで。
イワシのマリネ、冷たいニンニクと香草のソースを試しました。
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臭くて酸っぱくて塩分きつめでした。
(その反動で、夜はグリーンカレーにしちゃった)

隣にあるスカンセンという野外博物館も駆け足で見学。
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古き良き時代の建造物を集めた「江戸東京たてもの園」みたいなところです。
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でも、どっちかというと弊管理人は動物園として楽しみました。
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* * *

あと、スウェーデンの人たちはほんとに英語がよくできます。
前の滞在の時にも誰かに聞いた気がしますが、昔はテレビで自前の番組があんまりなくて、英語のドラマや映画を字幕なしで流していて、そういうのを見てみんな英語を習得したのだということでした。まじか。それから、スウェーデン語はもともと英語と結構似てるというのもあるそうです。確かにアナウンスなんかを聞いていると、朝鮮語の中に日本語っぽい言葉が聞こえる程度には英語っぽい言葉が聞こえます。

いずれにしても、自国の人以外はスウェーデン語を喋ってなどくれないので、自分で”世界語”をできるようにするしかない、という事情もあるのでしょう。結果、ずいぶん世界が広がってるように見えます。

* * *

現地のホテルは、ご招待下さった元が用意してくれていて、それが多分結構いいところでした。
各国の同業者が集まる機会だったのですが、弊管理人だけは本来の予定にちょっとミーティングを追加したので滞在を1日延ばしました。

折角ならということで、その延泊分は自分で宿を探してみようと思って見つけたのが、中央駅からわりと近いのにリーズナブルだったColonial Hotelというところ。

9000円以上するお部屋がこちらになりますw
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2人用のホステルを1人で使う感じです。バス・トイレは共用。
ストックホルムのホテルの高さは異常です。「中心部のまともな部屋で2万円以下っていうのはありませんね」と半笑いで大使館の人が言っていたのは本当だった。
でも、窓からは向かいのアパートが丸見え(カーテン閉めない人ばかり)で面白かったです。
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ベランダにテーブルセットを置いてる家が多くて、よく人が出てくる。
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朝飯の部屋では、あんましお金持ちじゃない層の白人、というのも見られました。
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メシそのものは結構よかったです。前日まで泊まっていたホテルは、この基本線にパンケーキとかオーガニック野菜とかの余計なものが加わった感じ。やっぱり卵はみんな食べたいのね。

* * *

福祉国家としてのスウェーデンを見る機会はほとんどありませんでした。
国が面倒見てくれると思うと、勤労意欲はどうなんすかねと聞いてみましたが、「働かないと年金も出ないので、みんな結局わりとちゃんと働く」とのことでした。所得の2/3は税金と社会保障費に持って行かれるものの、いっぱい稼ぐとそれなりに老後のリターンがあるというシステムだそうです。
ただ、「仕事が残ってても時間になると帰っちゃう文化だと、いくら効率的にやるといっても、できる仕事量には限りがありますよね」とも。

道端に座ってる人も結構いました。
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* * *

■高岡望『日本はスウェーデンになるべきか』PHP研究所,2011年.

行きの飛行機で読んだ。さっと読めすぎて、大半の時間はメール書いたり資料読んだりしてました。
外交官(のちょっと高めな視点)から見たスウェーデン。今回の仕事には直接関係なかったものの、歴史、気質、社会保障の仕組みなど参考になりました。

■池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』新潮社,2016年.
■ジョイス,J.(バラエティ・アートワークス画)『ユリシーズ まんがで読破』イースト・プレス,2009年.

こちらは帰りの飛行機。
これもさっと読み終わってしまいました。

そういえば、スカンジナビア航空のメシはそこそこよかったです。

* * *

で、時差ぼけによって2時に目が覚め、この時間↓にこれ書いた次第。

2016年05月24日

表現の自由

■Warburton, N., Free Speech: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2009.

『「表現の自由」入門』という訳書のほうを本屋で先に見たのですけど、アマゾンではその半分以下の値段で原書が買えたため、そっちを読むことにしました。

ヘイトスピーチの問題で、表現の自由になるべく手をつけずに攻撃される側の負担を軽減するには、内容と形式を分けて、形式(騒音レベルとか)のみに対して規制をするというのがいいんじゃないかなと個人的には思っています。が、まずは表現の自由って何よというあたりをささっと見たかった。

以下メモ。5章と終章はあまり興味が惹かれなかったので簡略に。

【第1章】

・「おたくの意見には反対だが、その意見を言う権利は死守する」というヴォルテールの言葉にあるように、表現の自由は非常に大切にされてきました。世界人権宣言の第19条や、アメリカ合衆国憲法修正第1条などにも明示されています。

・表現の自由は、公的な場での活動に伴うものです。フィクションかノンフィックションか、事実か意見か、文章かイラストか何らかのパフォーマンスかは問いません。検閲は、こうした表現を規制することもありますし(シン・フェイン党の党首のスピーチを放送する際に俳優の声をかぶせるなど)、表現者を隔離することで表現活動をやりにくく・貧困にしてしまうこともあります(政治犯の収容など)。

・バーリンの2分法でいくと、表現の自由は「消極的自由」といえそうです。表現の障害になるもの、つまり検閲、投獄、法規制、暴力、焚書、サーチエンジンのブロック等を取り除くことです。(もっとも、マルクーゼのように「権力者がメディアを支配している社会では、表現の自由は単に権力者に有利なだけだ」と言う意見もありますが……)

・表現の自由は、民主的な社会では特に重要だとされています。(1)政策形成をするためには、たとえ不快なものであったとしても、さまざまな意見や情報に触れることが必要だからだ、という帰結主義的な理由がありますし、(2)人の自律性や尊厳を保証するものだから、という擁護の仕方もあります。ドゥオーキンは、表現の自由を認めない政府には正統性がないとまで言っています。

・しかし、それが誰かを傷つける言葉、プライバシーの曝露、社会を危険に陥れる情報であったら?表現の自由に優先する別の価値があるようにも思えます。ティム・スキャンロンは、神経ガスを非常に簡単に作る方法を公開してよいか?と例を挙げ、「何でも自由ではない」と注意を促しています。

・一方で、表現規制は一度許すと歯止めがかからなくなる恐れもあります。もちろん、その社会が置かれた状況によって必ずしも表現規制が全体主義には直結しないかもしれませんが。それでも、どこかで制限は必要ではあるようです。では、どうやって制限するのがよいのでしょう?

【第2章】J.S.ミルの「表現の自由」

・表現の自由を語る際の古典といえる『自由論』のミソは危害原則。他人に害をなさなければ自由を制限されないということ。これにより、”言論の自由市場”でさまざまな意見が交換され/衝突することで、より正しいのは何か、間違いとして棄却されるべき部分はどこか、が分かってくるわけです。この路線でいくことが進歩をもたらすという帰結主義的な考え方といえそうです。

・その際、独断を排除するべきだといいます。人は誰でも間違うものですし、一部あっていて一部間違っているということもあり得ます。しかし、自分は無謬と思い込んだり検閲を導入したりすることで、自身の誤りを訂正する機会を逸してしまいますし、自分が正しかったとしても、その証拠を得られなくなってしまうでしょう。

・もちろん、危害原則に従って、誰かに物理的な危害が及ぶような煽動は制限されなければなりません。それでも、心理的、経済的な危害は制限の対象から除かれています。これは今日のヘイトスピーチなどの状況を思い浮かべると、違和感のあるところです。

・そう、ミルの主張は全面的に受け入れ可能なわけではなさそうです。一つの批判は、想定しているのがアカデミックな論争のようにマナーを守って行われるようなものだが、実際はそんな行儀のよい状況ばかりではないということ。また、今日論争になるような問題は、事実関係やその解釈ではなく、特定の宗教に対するからかいなど、他人の尊重を欠いたような表現をめぐるものや、ポルノ表現だったりします。これはミルの想定した思想の自由市場で交換されるべき「真/偽を持った」表現とはちょっと違ったものなのではないでしょうか。

・また、ミルの主張に従うと、反対意見を持った人に積極的に発言の場を与えなければならないということにもなりそうです。しかし、「同じ土俵に乗ることによって、相手の意見が聞くに値するものだと一般に印象づけてしまう」という理由から、差別主義者やホロコースト否定論者、若い地球創造論者(Young Earth Creationist)との討論を拒否するNo Platform Argumentという立場もあります。これはミル的な帰結主義から導ける立場でもあります。
・ただ、これは検閲(言論弾圧)とは別ものだと考えてよいでしょう。極端な人にまで積極的に発言の場を与える義務はないし、ネット時代には自由に意見を発表することが可能ですし、「寛容な人にしか表現の自由を認めない」という検閲の一種にもあてはまるとはいえません。

【第3章】不快表現について

・人を不快にさせるような表現をする場合は、「表現の自由」を笠に着てはならないとの意見があります。しかし、共感できる表現だけに表現の自由を認めるというのは、そもそも表現の自由とはいえません。ミルの立場からも、制限が許されるのは煽動だけであって、単に不快だからというだけでは許されません。たとえばイスラム教国でムスリムでない人が豚肉を食べても、それは私的な行為なので国家が介入すべきではないし、豚肉食に肯定的な文章を新聞で発表したとしても、それは直接的な危害とはいえないので制限されるべきではありません。(しかし、反発する人たちが暴れるのを収めるのにコストがかかることを理由にして表現規制heckler's vetoが行われてしまうことがある)

・宗教に対する不敬を罰する法がある国もあります(1977年、英国でGay Newsにキリストに性的な侮辱を与えるような詩が載ったケースでは有罪まで出た)。前時代の遺物だとする見方もあれば、宗教は人生の基底的なものであって特別な保護に値するとの考えもあります。では、一神教信者が多神教信者を不快だと思うような、宗教同士の問題だったらどうなるでしょう?不敬を禁じようとすると、あちらが立てばこちらが立たずの状況が必然的に招かれます。

・「きつい言い方だけ規制すればいいのでは?」というのはどの宗教も平等に守れそうでいいですが、しかしマイルドに言っても逆鱗に触れるケースもありますし、何がマイルドな言い方かというのも難しいです(モンティ・パイソンのパロディを想起のこと)。そして、表現の自由は、おやさしい表現で行われた議論だけで達成されてきたものでもないはずです。挑発的な表現によって問題の所在に目が向くこともあります。

・おそらく、最も正当化ができそうな規制は「人を不快にさせること自体が目的の表現」かもしれません。これによって誠実な批判のほか、うっかりや無知によって不快表現をした場合を除外することが可能になります。ただ、作品の目的がクリアで、誰でも同じように解釈できるケースばかりではないというのが難点です(イスラムの女性の扱いを告発しようとした映画を作ったことで監督が殺された例など)。

・人種や宗教、性別に基づいて人を貶める「ヘイトスピーチ」に対する規制はどうでしょうか。これは中傷相手に届いてこそ効果があるものですし、時にはその輪を広げることも目的とするので、まず私的な活動とは言えません。標的になった人の生活を著しく損ねる表現活動を「表現の自由の鬼子」としつつ許容するのかどうかが問われることになります。

・表現の自由に基づいてヘイトスピーチを許容する根拠は2つあります。
(1)ヘイトスピーチと戦う最良の方法はカウンタースピーチである。規制は地下に潜らせるだけ
(2)表現規制が他にも波及する橋頭堡になってしまう
・英国やオーストリア、ドイツなど、民族的差別を禁じる法律で対応できる国もあります。
・哲学者のJennifer Hornsbyのように、ヘイトスピーチを自由主義的な視点から許容すると、結局、別に守られる必要の小さな人たちばかりの自由が守られることになるとして、反対する意見もあります。

【第4章】ポルノ

・ポルノグラフィは、性的な行為の明示によって、見る人に性的な興奮を与えるイメージです。が、視覚的な表現とは限りません。音や文字を使ったものも含みます。ポルノは多くの場合、(1)特にあけすけな「ハードコア」と(2)描写がややマイルドな「ソフトコア」を分けて考えます。

・ハードポルノはそもそも、表現だといえるのでしょうか。そもそも表現の自由とは関係のない案件なのかもしれません。ポルノの目的はメッセージを伝えることというよりも、性的興奮とマスターベーションの道具だといえます。製作の過程で誰にも危害がなければ、こうした作品を大人が求めるのに国が何も介入する理由はないという議論もあります。Frederick Schauerは「ポルノはバイブと一緒だ」としています。セックスの代替物だというわけです。

・Catherine MacKinnonとAndrea Dwokinもポルノは女性の従属であって、表現の自由案件ではないといいます。これに対して、ポルノ画像や映画がアイディアの伝達に使われる「こともある」、それゆえに言論市場に入ることもありうるという見方もあります。また、フェミニストの中でもWendy McElroyはポルノ賛成の論陣を張ります。理由は、ポルノが(1)性の可能性を概観させてくれる(2)セックスの代替物を安全に供給している(3)教科書には書いてないような情報を与えてくれる―という女性にとってのメリットがあり、それへのアクセスは保障されるべきだというもの。

・しかし、ポルノが身体的、精神的、社会的な危害につながるという指摘もあります。第一のポイントは、女優らは彼女らは社会的に弱い属性を持って業界に参入し、身体的な強制や感染症の危険を受けているという。精神的苦痛についても、ミルは考慮に入れないとしていますが、150年経った今では話は別です。

・もう一つのポイントは、ポルノ鑑賞によって性犯罪が喚起されるというもの。しかしこれまでの研究では、決定的な根拠は出ていません。MacKinnonは性犯罪に至るメカニズムを推定していますが、仮説に過ぎません。そもそも多くの人がポルノを見ているのに、性犯罪をしていない。しかし、ポルノと犯罪につながりがある可能性が大きいなら、何らかの規制は必要のように思えます。

・ヘテロセクシャルなポルノでは女性が性の対象として扱われているとして、フェミニストらが反対しています。胸が大きいなど、特定の体型を登場させることで、誤った期待を形成させるとか、性犯罪的な行為を喜んで受けているように描くことで、女性を貶めている、全ての女性がそうなのだと思わせるとの反対意見もあります。ただ、Ronald Dworkinのようなリベラリストは、製作の中で直接的な危害が及んだり、子どもが使われたりしていなければ、検閲はすべきでないと主張します。ポルノを見ることの帰結がさまざまあるとしても、誰かの危害に直結するわけでないなら、国家は中立的でいなければならないと。理由はやはり、検閲を始めると歯止めがきかなくなる恐れがあるからです。

・法は社会の道徳観を反映すべきものなので、ポルノが伝統的な家族の在り方や道徳に反するなら、法規制は正当化される、という立場もあります。社会のための規制、パターナリズム的なアプローチといえそうです。ただし、これには「政府は特定の道徳観に肩入れすべきではない」との批判があります。

・表現の自由を守ろうという人は、規制には単なる「むかつく」という以上の理由が必要だという前提を持っています。一方で、それでもどこかで線引きをする必要はあると多くの人が考えているのですが、どうやって線を引くかについてはなかなか一致のしにくいところです。児童ポルノはだめだとして、では、実在しない子どものCGだったら?児童ポルノの消費は実際の児童虐待に結びつくのか?……

・「アートだ」という主張がされた場合はどうでしょう。検閲を免れるべきでしょうか。「チャタレイ夫人の恋人」など、芸術としての価値は、検閲の適否を考える際に考慮すべきものなのか、そして、なぜ?一つの回答は、それが思想を伝えるからというもの。ただし、そうした理由を隠れ蓑に使われる可能性もある点が要注意です。もう一つの理由は、文化という社会の中で役割を果たしているものに対する制限には慎重であるべきだというもの。しかし、なぜ文化だけにそういう特別な価値が認められるのか、という不公平は指摘されうるでしょう。

【第5章】ネット

・コピーライト、レッシグ、引用、ゾーニングとか

【終章】

・検閲には理由がいるよとかそういう話
・華氏451は紙が燃える温度なんだって

2016年05月10日

代議制民主主義

■待鳥聡史『代議制民主主義』中央公論新社,2015年.

議会が首相や首長の暴走に対する歯止めになっていない。ある時には、逆に決定の邪魔ばかりしている。というか、よく分からない調整ばかりしていて有権者のための政治をやっていない気がする。もう議会なんていらないんじゃね?

――いや待って。そもそもその議会って何よ。
そこをよく考える本。

代議制民主主義は、有権者→政治家(専業の政策担当者)→官僚(専門知識を持った実施部隊)への「委任」と、逆方向に流れる「説明責任」という関係性をベースにした決定のシステムだといえる。具体的な姿を決めているのは、政治家や官僚の分担関係を決める「執政制度」と、政治家をどうやって選ぶかという「選挙制度」だ。
結果としてできる政治制度の特徴は、有権者の委任先となるエリートが一定の裁量を持って、有権者の短期的な関心を超えた決定をしたり、エリート間の競争と相互抑制によって極端に走る事態を避けたりする「自由主義」と、有権者の多様な意思をできるだけ政策決定に反映させることを目指す「民主主義」のブレンドとして表現することもできる。

つまり代議制民主主義には、さまざまなバリエーションができる。大統領制か議院内閣制か、投票の結果が議席配分に反映されやすい(比例度の高い)選挙制度か否か。それぞれの選択肢には利点と欠点があって、どう組み合わせても無条件にベストのシステムはできないようではある。そこがたえず懐疑の目にさらされる要因かもしれない。でも、その社会の来歴と、これから何を目指すかによって、組み合わせを変え、微調整を施していくこともできる。そこには直接民主主義など他の選択肢にはない、「しなやかさ」という利点があるのではないか?

初めはとっつきにくい文章だなと思ったのですが、メモを作りながら読んでみると、要所要所でおさらいをしながら先に進む親切さが見えてきました。

----以下、メモ。

【序章】

・背景としての議会不信(ヤジ、阿久根市、号泣……)

○代替構想としての熟議民主主義:一般人の討論を通じた決定
・課題の複雑さに専業の政策担当者や専門家が過剰な影響力を行使しているという問題の克服を図る
・討論しないで政策決定すると「多数派の専制」に陥るから

○直接投票による意思表明
・住民投票(小平市の道路問題、憲法95条→大阪都構想)
・国民投票(日本国憲法改正。デンマークでは国際機関への主権移譲について国民投票を義務づけ)

○一般意志2.0
・一般意志=集合知→データベース=行動と欲望の履歴とみる
・ルソーの空想をネットが具体化したもの
・熟議の限界を無意識(一般意志)が補う&一般意志の専制を熟議が抑制する

○代議制民主主義とは
・民主主義(社会を構成する全成人が決定過程に関与する方式)を具体化する方式の一つ
★委任と責任の連鎖関係が必要条件
  有権者―(政策決定の委任)→政治家―(政策実施の委任)→官僚
  有権者←(説明責任か落選か)―政治家←(説明責任か左遷か)―官僚
・↑この前提に「治者と被治者の同質性=委任するほうもされるほうも仲間」があったはず
・だが、議会批判は「治者と被治者に質的な違いがある」との思いに立っているのでは?
→同質であるべき?同質でないことは正当化できる?……

【第1章】議会と民主主義の歴史

・「ポリス時代に比べて社会が大きくなったから代議制が必要になった」?
→議会の発展は近代民主主義より古い。議会と民主主義は独立に発展してきた点に注意
・19世紀まで、議会は「自由主義」のための空間だった
★自由主義=利害代表者(エリート)間の競争と、過剰な権力行使の相互抑制
★民主主義=民意の政策決定への反映を第一に追求する
→議会と民主主義には緊張関係があり、代議制民主主義と直接民主主義には質的な違いがある

○古代→近代の民主主義
・古代ギリシャの民主主義
  自由人のみで、女性は参加不可の点が現代との相違点
  直接民主主義である点も相違点(小規模な政治体だからできた)
  しかし、血統や財産にかかわらず政策決定に関与できる点で「民主政」と言われる

○議会と民主主義の関係はもっと複雑
・議会の直接的な起源は、中世以降ヨーロッパでの「君主の諮問を受ける身分制議会」であろう
  ↑君主の権力が弱く、課税などには領主の同意が不可欠だった
・絶対王政期(16-17c)には衰退したが、近代立憲主義(制度的な権力者抑制)に道を開いたといえる
  イングランドは身分制議会→二院制の近代議会へ
  フランスは三部会の再開要求→王政打倒、共和制へ
  アメリカでは植民地議会が総督と対峙→独立革命へ
・しかし、まだ制限選挙。議会と民主主義の関係は明瞭ではなかった
★むしろ議会は、貴族やブルジョワジーが君主から財産を守るための拠点だった(ロック的自由主義)

○共和主義と民主主義
・18c啓蒙主義→共和主義。君主や貴族は、血統だけで地位を得ていていいのか?との疑問
★共和主義=市民的徳性(倫理的な卓越性、判断力)が持つ政治的意義の重視
  ※ただし、君主否定には直結しない点に注意。cf.マキャベリの「有徳な君主」
★共和主義は「ただそこに生まれただけで政策決定に関与できる」という民主主義とも対立しうる

○アメリカ―大統領制
・13邦(ステイト)が外交上の必要で作った同盟「連合規約」(1781)
・ワシントンら建国の父祖は多くが共和主義者だった
  →邦レベルの大衆政治と、邦同士の対立
→国民から直接負託を受けた「連邦政府」を位置付けた合衆国憲法(1787)へ
・有徳でない議員による政治も、君主制も避けるには?→権力分立を導入
  ・有権者が選出→下院議員(直接選挙)
  ・州議会が選出→上院議員(間接選挙)
  ・州ごとの選挙人団が選出→大統領(間接選挙)
  の間で権力を分割
→しかし、党派間競争を招き、政策決定の永続性は損なわれてしまった
→★エリートが自由に競争しつつ、全体としては妥当なところに落ち着く「多元主義」へ
  これにより、共和主義に代わって、民主主義による「多数者の専制」を抑止する

まとめると:近代自由主義の二つの系譜
・ロック的自由主義=社会契約によって君主から財産権を守る
・マディソン的自由主義=権力分立(多元主義)により「多数者の専制」に対抗する
  →ここで権力者の制度的抑制という「近代立憲主義」が「自由主義」と結びつく

・民主化:ジャクソニアン・デモクラシー下での男子普通選挙
→自由主義と民主主義の共存へ
・ポピュリズム(労働者の利害表出)vs革新主義(政治と行政の分離)
・民主主義+多元主義=アメリカン・デモクラシー

○イギリス等―議院内閣制
・国王の執政(官僚の指揮監督)を補佐するものとしての内閣(18世紀)
・下院多数派の選任した首相が内閣を組織、首相の辞任は内閣総辞職(19世紀)
・こうした移行の背景:
  (1)有権者資格の拡大
  (2)国家の役割の増大。財源調達や軍事で国民への依存が強まった

○代議制民主主義の拡大
・19世紀前半までは資産家が自費で行う「名望家政党」が中心
・19世紀末からは労働運動や農民運動を基盤とした「近代組織政党」「大衆政党」
・大衆政党は党員数の多さ、主張の一貫性、組織の堅固さが特徴
→20世紀、社会経済エリート(右派)vs大衆(左派)、の基本構図が成立
→国民ほとんどが代表者を持つ
=★政党システムの「凍結」(リプセットとロッカン)

○後発近代化諸国―立憲君主制
・君主の権限が憲法の範囲内に制限される→自由主義に行きやすい
・独、伊、露。非ヨーロッパでは日
・有権者資格の拡大により民主主義と議会が結合し、代議制民主主義へ

○全体主義の挑戦
・共産主義。自由主義はエリートの利害調整ではないか?
→プロレタリアートの利害追求に代議制は邪魔なのでは?
→露:共産党一党独裁が望ましいのではないか?
・ファシズム。代議制民主主義は「金持ち」だからできるのではないか?
→日独伊:英米覇権への反発、権力集中による社会・経済の運営
・共産主義、ファシズムともに「マス」を重視している
・第二次大戦後→ファシズム国家に代議制民主主義を植えることで占領政策が終了

○戦後和解体制
・労使協調、政府もそれを後押しする体制
・これにより、生産性の向上、共産主義イデオロギーの浸透防止ができる
・代議制民主主義も、保守政党vs社会民主主義政党の構図で安定

○行政国家化
・政策課題の複雑化→専門的な官僚による行政。省令など「委任立法」拡大
→議会の政策関与の余地が相対的に縮小
・補助金、社会保障は一度設定すると切れなくなる→利益集団自由主義へ
→1960年代、ベビーブーマーによる異議申し立てに直面
→代議制民主主義における民主主義的要素の強化が裏テーマと見ることができる
・政治参加の拡大→民意の多様化:NIMBY、ガヴァナビリティの危機

○凍結や戦後和解体制の消滅―1980年代
・経済的関心→文化的豊かさへ
・成長の終焉
→無党派層の拡大、政治不信
=既製の回路では有権者の民意が十分に表出できない

【第2章】
○1989年
・「反共」という共通前提の消失
・グローバル化→政党間の「違い」が打ち出せなくなる
・対処
(1)小選挙区制→政策決定の迅速化と小回り、大衆的でない決定も可能に:日伊
(2)比例代表制→弱者、少数者の意見を反映:NZ、EU
・右派政党の新自由主義、左派政党の「第三の道」
・トップリーダーを直接選出したいとの希望→「大統領制化」(ブレア、小泉)
  ・ただし、米では大統領と議会多数派の不一致が通例に
  →議院内閣制と大統領制の差が縮んだだけとみるべきか
・冷戦後、新たに代議制民主主義を採用する国相次ぐ「民主化の第3の波」

・代議制民主主義=自由主義と民主主義のブレンド
・どんなバリエーションがあるか?それが何に帰結するか?代議制の可能性は?

【第3章】構造と類型

○委任と責任の連鎖―なぜ生じるのか?
・有権者が政治家に委任をする動機
  全員参加ではできないタイムリーな決定を、一定の知識水準を持った人に適切にやってもらう
  →専業の政治家を要請。有権者は生業に時間を割ける
・政治家が官僚に委任をする動機
  個別の政策実施までやっていては次の政策決定ができない
・官僚や政治家が責任を負う動機
  そこから生活の糧を得ている。委任先の変更をされると生活が立ちゆかなくなる
  ※ちゃんと仕事をしているかのチェック機構として、選挙のほか監査、マニフェストなどが必要

○委任と責任の連鎖の制度的表現には、いろいろある
・二つの基幹的政治制度:執政制度と選挙制度
  →この組み合わせが代議制民主主義のバリエーションを生む
・執政制度は自由主義のルール化、選挙制度は民主主義のルール化ともいえる

○執政制度の分類―執政長官(首相や大統領)をどう選ぶか、任期打ち切りは可能か
・議院内閣制
  =議会が首相を選任。議会は解任もできる
  =議会多数派が首相を支えている。権力集中。議会―首相―官僚の関係が単線的
・自立内閣制
  =議会が首相を選任。議会は解任ができない(カナダの一部州など限定的)
・首相公選制
  =有権者が首相を選任。議会は解任できる

・大統領制
  =有権者が大統領を選任。議会は解任ができない
  =政府運営の権限を大統領と議会が分有。権力分立。自由主義的要素が最も強い
  ・省庁人事に議会の承認がいる米国のように、議会も行政に関与することも多い

・半大統領制=大統領と首相が両方ともいて、責任を分担している。権力共有
    大統領―議院内閣制型=大統領も議会も、首相を解任できる(ロシア)
    首相―大統領制型=議会は首相を解任できるが、大統領は首相を解任できない(フランス)

○選挙制度の分類
・多数代表制=候補者単位で上位者に議席を与える。比例制が低い
  定数1の「小選挙区制」
  定数2以上の「大選挙区制」(定数2~7は「中選挙区制」とも)

・比例代表制=政党単位で票を集計し、議席を割り振る。比例制が高い
  候補者リストの誰に投票するか決められる「非拘束名簿(オープンリスト)方式」
  決められない「拘束名簿(クローズドリスト)方式」

○基幹的政治制度は、政党にどんな影響を及ぼすか
・豊かになった1970-80年代、支持者の経済状況によって政党を特徴付けられなくなった
  →無党派の増大。結果として執政制度、選挙制度の影響が見えやすくなった
・二つの視点:政党システム=政党間関係、と、政党組織=政党内関係
・デュヴェルジェの法則:小選挙区制は二大政党制をもたらす
  →M+1ルールに発展:比例制の高い選挙制度の下では正答の数が増える
・政党の一体性:自発的な「凝集性」と、「規律」による一体性

・比例制が低い選挙制度(例えば小選挙区制)
  政党数が減る
  →少数の大規模政党が、多様な考え方の議員を抱える
  →幹部がヒラを押さえ込みやすくなる
  →規律が作用しやすくなる
  →有権者は意思を反映させにくくなる
  
・自由主義的要素が弱い制度(例えば議院内閣制)
  与党は内閣を基本的に支える
  →規律による一体性が形成されやすい(次回選挙での公認などを餌に)
  →野党も一致団結のインセンティブが強まる

○代議制民主主義の4類型
(1)ウェストミンスターモデル、あるいは多数主義型(イギリス、カナダなど)
  ・小選挙区制+議院内閣制
  ・雑居的な性格を持った(しかし規律が強く働く)大政党中心の政治になる
  ・有権者の意思から離れた決定もできることで、民主主義が強まりすぎないようにできる
  ・野党は立場を示すために討論するだけで、法案修正に結びつかない(アリーナ型政治)
  ・公約の実現がしやすいが、不適切な決定に対する抑制が働きにくい

(2)コンセンサスモデル、あるいは交渉型(ベルギー、スイス、ラテンアメリカ諸国など)
  ・比例代表制+大統領制
  ・国内の社会文化的な亀裂が深刻で、少数派が切り捨てられない場合に採用される
  ・有権者の意思の反映が、権力分立によって妨げられやすい
  ・中長期的に望ましいが、一部の人に不利益が行くような決定がやりにくい
  ・運用の難しい形態で、政治の不安定化も(軍事クーデタを招く例など)

(3)中間型1(アメリカ、台湾など)
  ・小選挙区制+大統領制
  ・議会の多数派形成が流動化
  ・政治勢力間の競争と相互抑制による自由主義を狙う
  ・多様な利害関心を政策決定に反映させることを重視した形態
  ・ただし、妥協的な決定や、大統領と議会多数派がぶつかる「決められない政治」に陥る可能性も

(4)中間型2(大陸ヨーロッパ諸国など)
  ・比例代表制+議院内閣制
  ・選挙で示された有権者の意向を極力そのまま政策決定につなげうる
  ・連立政権になりやすい
  ・議案の修正が頻繁に起こる
  ・少数派への配慮と、政策決定の行き詰まり回避を狙う
  ・ただしバランスは難しい。社会集団間に深刻な対立があるとデッドロック(2007、ベルギー)

○国政と地方政治で類型が違うこともよくある
・政党のあり方に影響を及ぼす
  政党内部の一体性が地方で相対的に低くなるなど
  大選挙区の地方政治で革新政党が多数になっても、国政では全然、という日本の例も
  国政と地方で政党のイメージが違ったり
  地方議員と国会議員の対立→中央と地方の協調が必要な政策が難しくなる
・日本の分析はp.184-

【第4章、終章】
・各国での改革←代議制民主主義への不満←委任・責任関係への不満
○議会の存在意義
・決められない政治:ねじれ+障害としての国会
・決めすぎる政治:官邸主導+無駄なものとしての国会
・地方政治(二元代表制=大統領制の一種)でも同様の問題
  権力分立なので悪いことではないが……
○「民意」との乖離
・自由主義的要素=裁量をどの程度認めるか?という問題
・説明責任が果たされないときに顕在化する
・例:中選挙区制は「気骨ある一言居士」を生みやすい
  (個人的な思いで設定した公約を果たせていないのに、制裁されないだけ)
 →独自公約はだいたい果たせない。しかし説明責任も果たされない
・解決:委任・責任関係の明確化をすること。精神論では解決しない

○大統領の現代化
・もともと大統領は、議会の多数派専制や怠慢を抑止する立場(米)
・しかし課題が複雑化した現代、大統領が官僚を使って政策を作り、議会をリード
  ※日本の地方政治の二元代表制もこの形態
○議院内閣制の大統領制化
・首相は議会多数派との関係を重視してきた
・が、近年はテレビ、ネットなどで有権者からの支持を資源にし始めている
・イスラエルでは首相公選制(1996-2001)も
  →しかし有権者と議会の両方から支持を調達すべき難しい仕組みだった

→執政制度は有権者支持・権力集中型に向かって収斂しつつあるように見える
→執政長官の強力化、そして議会の不評へ?
・迅速・的確な意思決定のための専門スタッフ増加、政治任用の多用
  →テクノクラート専制の恐れも
  (熟議→プロフェッショナルの専制、という恐れも)

○しかし、「無条件に優れた執政制度」は多分存在しない
・各地域の安定/不安定にはさまざまな要因がある
・各類型にもさまざまなバリエーションがある
  
○改革の方向性
・小選挙区制改革:裁量の一部制限。オーストラリア下院の選択投票制など
・マニフェストの普及:評価をしやすくする
・比例代表制改革:
  ・多数派形成をしやすくする。多数派プレミアム方式など
  ・有権者の選択範囲を拡大。非拘束名簿方式など
・混合制(小選挙区比例代表並立制など)
  ・ただし「汚染効果」が出現しうることに注意
・日本では参議院や地方政治の改革に遅れが見られるか

○その社会の現状と目標によって、採るべき道は変わってくるだろう
例えば
・深刻な亀裂がある社会→民主主義による包摂の重点化を
・同質性が高いが、既得権益を持った集団がいる→自由主義的リーダーシップを

・代議制民主主義は、自由主義と民主主義の接合によって成り立っている。大統領制と議院内閣制、小選挙区制や大選挙区制、比例代表制などのパーツ選択と組み合わせによって効率性/公平性などのチューンナップが可能。これは代議制民主主義の大きな利点と思われる

2016年04月20日

最近のいろいろ

熊本の地震はいろいろ意外な展開があって、弊管理人の仕事も影響を受けています。

東日本大震災のときに、知り合いの災害とは無関係な農林系公務員が「同僚が被災地対応に持って行かれた。年度末の忙しい時なのに迷惑」みたいなことをぐちゃぐちゃ言っていて、「この人無理」と思ったことを思い出しました。例外的な状況で、ある程度の諦めができないのはだめだよ。
って言ってると「一億総火の玉」を肯定してしまいそうだが、そこは事の内容により個別判断で。

* * *

忙中ちょっと仕事を抜けて、昨年9月に不慮の事故で亡くなった同僚の名前が火星と木星の間にある小惑星についた(弊管理人は少しお手伝いをした)ということで、記念にデータなどを額装したものを奥さんのところに届けにいってきました。

いろいろお話を伺っている中で、

・知人の税理士に「人が亡くなったあとの整理をしていると、いろいろ嫌なものを見ることになりますよ」と言われた
・実際まあいろいろ出てきた
・死亡を友人知人にお知らせするため、携帯を販売店に持ち込んで、死亡診断書などの書類を揃えて何とかロックを解除できた
・でもマックは、アップルストアに持っていってもガチガチにプロテクトがかかっていてデータが取り出せなかった(普通より相当ガチガチにしてあったらしい。スタッフにも「この人すごいですね」と言われたそう)

というのを聞いて、およそ10年更新していない遺書をそろそろ新しくしなきゃ、と思いました。

* * *

アマゾンのタイムセールを利用した断続的な買い物、今般はwifiのルーターを更新しました(3980円)。
従来のは確か2009年くらいに導入したものです。
「ひょっとして……」くらいの期待で買いましたが、ぶつぶつ切れていたiPadの通信が正常化し、さらにすんごく体感速度が向上しました。PCは変わらなかったけど。でもよかった。

* * *

忙中のほうが、のんべんだらりとしている期間よりいろんなことができることに気付きました。
1年半ぶり(!)の風呂掃除、wifiのルーター更新、ポロシャツ購入、掃除機導入、大物のゴミ捨て、書類整理。

* * *

■飯田高『法と社会科学をつなぐ』有斐閣,2016年.

法学って社会科学じゃなかったっけと思いながら、面白そうなので本来買おうと思っていた本を買わずに買った本。

・よい意思決定のためには、それまでにつぎ込んで戻ってこない資源・労力・時間は「サンクコスト(埋没費用)」として考慮すべきでない

・パレート効率性の改良型?としての「カルドア=ヒックス効率性」。状態AからBへの移行で得をする人が損をする人に補償をしても、なお利益が出るなら移行するのがよい

・公共財ゲームは、多くの人が「条件付き協力者」であることと、合理的な計算ではなく感情が人々の行動を支えていることを示す。他人が協力するなら自分もするが、自分だけ損をするのは嫌。と思う人が
多いなら、多くの人が協力している環境の下で協力行動が持続的になる

・いろいろなゲーム(モデルとしての)は、実はいくつかの社会状況が似ていても違ったものだったり、違ったように見えても実は似たものだったりするという鑑別を助けてくれる

・ある方向への収斂(カスケード)によって大損害がもたらされるのを防ぐ機構:正確な情報提供、秘密
投票、株価の値幅制限、メンバーの多様性、発言順に関するルール、など

・義憤→処罰行動→線条体の活性化(=満足感の期待)

・ハンドの定式。事故回避のための費用<事故の発生確率×重大性、なら事故を防げる立場にあった人に過失が認定できる

・いろんなバイアスはウィキペディアののlist of cognitive biasesに

あたりが「へー」と思ったこと。雑誌連載をまとめたもののため、本そのものはカタログ的だけど、企てはとても面白いと思う。
どうでもいいけど、この著者は「しうる」とか「なりうる」とか、よく言いますね。

2016年04月07日

低調めで

月曜は休みにしてるけど、仕事に出ちゃうかもなー
と思いながら、結局出ませんでした。
頭が重い感じがする。今にして思えば風邪ひき始めていたのかもしれない。
職場の衛生環境がいよいよ悪い(身体的にも、精神的にも)ので、そのせいにしたい気もする。
これまでは年に1回、ひくかどうかくらいだったのに。

夜は散歩がてら、新宿三丁目の「神場」。
独りで白ワインを飲みながらポテトサラダとあったかいレタスを食べ、
塩鱈の載ったお茶漬けで締めて帰ってきました。
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意外と大衆的な味でよかったです。

* * *

■高橋秀寿, 西成彦編『東欧の20世紀』人文書院,2006年.

1月にベルリンのDDR博物館とかで感じた強迫的な東ドイツdisは何だったのだろう、というのと、仕事で知り合ったハンガリーのおにーさんが「ブダペシュトいいよ~」と言っていたので本当に東欧いっちゃおうかなーと思ったのもあり、古本で買ってみました。
ファシズム、社会主義、EUと激しく揺れ、国境と民族と言語がぐっちゃぐちゃに重なりながらぶいぶい動いた(ひどいときは消されようとした)東欧の20世紀、特に後半に、どうやって「わたしたちの記憶」が作られてきたか、をめぐる論文集。

第2次大戦の終結がハッピーエンドであり、東欧のスタートであり、それには建国神話が必要であり、その神話に従うかどうかで国民と非国民が分かたれ、非国民(ユダヤとかロマとか)は抑圧の歴史を想起することを長い間禁じられ(例えばポーランド・イェネヴァブネでの――ナチではなく――主に現地住民によるユダヤ人虐殺)、その記憶は東西統一の時期に解放され、しかしドイツでは「東ドイツ」の歴史は「西ドイツ」に”没収”される。東的なものへの郷愁「オスタルギー」はそんな驕慢に対する「苦笑い」のようなものかもしれない。

* * *

熱はないのに鼻が詰まって咳が出てます。
週末は沖縄に行くつもりでしたが、天気も悪そうだし体力も自信ないし、ということで日延べ。

2016年03月26日

ニコマコス倫理学(下)

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2016年.

浮き世にあって、いつか朽ちる肉体を持った人間が、善とか幸福とかを達成することはできるのか。できるのだ、とアリストテレスは考えたらしい。友達について、愛について、そして快楽について――永遠で普遍的な知識ではない、「だいたいそうなる」という程度の頼りない(?)法則性に満ちた世界の中で考えていく。ところが最後にさらっと「でも観想的生活が最高なんよ」と宣告される、そのショック!

は、おいといて。

下巻でもやっぱり思いましたが、この本はインスピレーションの宝庫です。よくある「これだけ昔によく考えたよね」というだけの感想にはとどまらないものがあります。
例えば「中間性」が徳だという考え方は、遺伝子が必ずブレーキとアクセルの組み合わせで働きながら生体をちょうどいい塩梅に保っていることを思い起こさせますし、さまざまな技能を持った人たちの間で「交換」が実現するためのメディアとして貨幣の存在理由を説明する様子は、『時間の比較社会学』でさまざまな暦を持つ共同体の交流を可能にする共通の時間のものさしを導入した、と考えたネタ元では?と思ったりもします。「公正な分け方」には「応分」と「等分」があらあな、という提案はセンが知らなかったはずはないよね、とも。近年の脳研究の進展で、その存在がどんどんやせ細っている「自由意思」の最後の砦は「欲求に背けること」だと言われるけれども、それがまさに「人柄の徳」の一つである「抑制」ですよね。そしてなにより、19世紀を待つまでもなく、極めてプラグマティックだと思う。

快苦って、友達って、そして国ってなんなんだ、と身の回りのものを切り刻み、分類し、そして別のものとつなげたくなる著者の傾向は、不遜ながら弊管理人も分け持っている気がします。多分そのために最後まで楽しく読んでいけたのだと思う。

以下、自分メモ。

【第6巻】
・超過でも不足でもない「中間性」をもたらす、正しい分別(ロゴス)とは何か。それを検討する
・徳(アレテー)には「人柄の徳」と「知的な徳」があった。人柄は前に述べたので、今回は知的な徳を検討

・その前に、魂について
・魂には、「分別を持つ部分」と、「分別を持たない部分」がある
・分別を持つ部分は、さらに「ほかのあり方を許容しない部分=学問的に知る部分」と「ほかのあり方を許容する部分=信念的な部分、推理して知る部分」がある。それぞれについて最善の性向が何かを把握する必要がある
・選択があって行為が起きる
・選択の始まりには、欲求と、それを実現しようとする分別の働きがある

・魂が真理を把握するのに使う性向には「技術」「学問的知識」「思慮深さ」「知恵」「知性」がある
・「学問的知識(エピステーメー)」は、ほかのあり方を許容しない。必然で永遠。演繹。教え、学ぶことができる
・「知性(ヌース)」は、ほかのあり方を許容する。学問的知識の出発点となる原理にかかわる
・「知恵(ソフィア)」は、「原理」と「原理から導かれた事柄」をどちらも知っていること。完全な学問的知識
・「技術(テクネー)」は、ほかのあり方を許容する物事=「制作」と「行為」のうち、制作にかかわる性向
・「思慮深さ(フロネーシス)」は、善く生きるための、「行為」を目的とする性向。それ自体が一つの徳でもある
・思慮深さは、人間的な事柄にかかわる。普遍だけでなく個別性も認識する

・思慮深さについて
・国(ポリス)にかかわる思慮深さのうち、統括的なもの=立法術、個別的なもの=政治学
・個人あるいは自分にかかわる思慮深さというのもある
・思慮深さと知性は対照的なものである。思慮深さは最終的なもの、知性は原理にかかわる。若者は数学者=知恵のある人にはなれるが、思慮深い人にはなれない。個別的なものは経験から知られるから

・「考え深さ」(思案の力が優れていること)について
・学問的知識ではない。学問的知識は思案を要求しないから
・勘の良さでもない。勘は推論を伴わないから
・判断でもない。判断は現実との対応関係で真偽が確定するが、思案は推理に基づく発見だから
・そこで、考え深さとは、「思考過程の正しさ」「優れた仕方で思案すること」のことではないか?
・思考過程=到達すべきもの、到達すべき仕方、思考にかける時間が適切であること
・考え深さは、思慮深さが設定した目的に到達するために有益な、思案のスタイルのことだと思われる

・「物わかりのよさ」について
・思慮深さに似ているが、違うものである
・思慮深さは「指令的」なもの=何をなすべきかにかかわる。物わかりのよさは単に「判別的」なもの

・「察しのよさ」(グノーメー。洞察、相手の心がわかる力)について
・「物わかりのよさ」とともに自然に身に付くもの。年齢を重ねるにつれてつくもの
・思慮深い人は、察しのよさや物わかりのよさも備えている

・思慮深さと知恵をめぐる、いくつかの難問
・知恵は何が幸せかを教えてくれないのではないか?(知恵の無関係性の難問)
・思慮深さは何で必要なのなのか?(思慮深さの無用性の難問)←すでに善い人には必要ないが、善い人に「なる」ために必要である。でも、健康のためには医者に従えばいいように、自分で習得する必要はないのでは?
・思慮深さは知恵に劣るのに、なぜ思慮深さが知恵を支配するのか?(逆転の難問)

・回答
・「頭のよさ」について
・設定された目標を達成する能力。ただし目標が悪ければ「ずる賢さ」になる
・つまり、頭のよさは、思慮深さの必要条件ではあるが、思慮深さそのものではない
・善い目的は、善い人でなければ見えない。従って、善い人でなければ思慮深い人にはなれない
※ソフィスト批判
・生まれ持った自然の性向に任せず、知性が身に付けば、行為に違いが出てくる
・徳(アレテー)とは、「正しい分別(ロゴス)=思慮深さを伴う性向」といえる
・思慮深さは知恵を支配しない。知恵「のために」指令する(?)

【第7巻】欲望の問題
・忌避すべき人柄として「悪徳」「抑制のなさ」「獣性」がある
・「悪徳」の反対は「徳」、「抑制のなさ」の反対は「抑制」だが、「獣性」の反対は何?
・それは(スパルタ人がよく言うような)「神的な徳」であろう

・「抑制のなさ」について
・「抑制のない人」は、自らの行為が劣悪だと知りながら、感情に引きずられてそれを為す。でも後悔するので、癒やしようはある。「不正」「劣悪」ではあっても、選択に基づいて悪をなす「悪徳」ではない
・「抑制のある人」は、自らの劣悪な欲望を分別(ロゴス)で抑える
※ただし、自らの信念にじっと留まり、説得を受け入れない「頑固者」や、身体的快楽を必要以下にしか感じない人など、一見、抑制のある人に見えてしまう人がいることに注意
・「節制の人」は、過剰な欲望をそもそも抱かない
・「放埒な人」は、目の前の快楽をいつも追究すべきと考えて、選択の上でそうしている。後悔しないので、癒やしがたい。悪徳である
※「快をもたらすものを知っている」と「それを欲望する」と「その通り行動する」ことにギャップがある

・「獣的な性向」について
・獣的な性向は、人肉食、生肉食などのほか、無思慮、臆病、苛立ち…
・病的な性向は、病気、狂気、習慣(幼少期の性的暴行など)から生じるもの。髪を引きちぎる、爪を噛む、男性同性愛、てんかん、分別のない蛮族…
・これらは「抑制」とは関係ない。従って、「悪い」とはいえないが、「恐ろしい」ものではある

・「激情」と「欲望」について
・激情は、分別の声をある程度までは聞くが、聞き間違い。せっかちで最後まで聞かない。猪突猛進
・欲望は、分別に従っていない。不正である
・「企みをする人」はさらに不正である(激情は企んでいない。企む人は獣性より一層悪いことをする)

・快楽主義について
・快楽は悪い/善い快楽と悪い快楽がある/快楽は善いが最高善ではない―という立場がある
・誰しも快楽を追求しているが、みんなが同じ快楽を追求しているわけではない
・子どもや獣の快楽は、欲望と苦痛を伴う身体的な快楽。これが超過すると放埒になる
・思慮深い人は、そういう快楽をめぐる苦痛がないことを追求する
・節制の人は、こういう快楽を避けている(が、節制にふさわしい快楽というのもある)
・逆に、苦痛は限定抜きに避けるべきものである
・高尚な快楽は最高善とみなしうる

【第8巻】愛(フィリア)について
・愛は徳を伴うものである
・友人、親子、動物の中にもある。特に人間という種族の中にある
・愛は国をひとつに結び合わせる。協調も似たもの。立法家はこれを目指し、内乱を避ける
・愛の理由は三つある:(1)善い(2)快い(3)有用である
・友人とは、互いに意識的に好意を持ち、相手の善を願いあう存在
・無生物は愛の対象にならない。愛し返してこないから
・「快い」と「有用」は付帯的な愛である。快さや有用さを提供しなくなれば愛せなくなるから
・完全な愛とは、善い人々の間=徳の点で似ている人々の間に成立する持続的な愛である
・愛は性向に似ている。互いに相手と自分の善を願っている。双務的である。ともに日々を過ごす
・「恋(エロース)」は世話をする人が相手を見る喜びと、世話をされる喜び。双方は似てないし、美がなくなれば消える
・国同士の友好は「有益」だからである
・「優越性に基づく愛」もある。父→息子、年長→年少など。友人のように等分ではなく、比例的な関係
・愛は、愛されることのうちではなく、愛すること=徳のうちにある

・愛は共同性に伴う。ポリスは利益共同体、宗教団体や会食会は快楽の共同体、など
・国家体制/共同性/愛、の類比
(1)王政=最良。これの堕落形態(支配者のための政治)が僭主政/父―息子/優越性に基づく愛
(2)優秀者支配制。これの堕落形態は寡頭制/夫婦関係/徳に基づく愛
(3)財産査定制。これの堕落形態は民主制/兄弟・仲間関係/等しさに基づく愛
・善と快楽に基づく愛は不平を生みにくいが、有用さに基づく愛では生まれる。貪欲さが背景にあるから
・優越性に基づく愛も諍いを招くことがある。財貨や徳を与えられたら名誉をお返しするなどで釣り合わせる必要あり
【第9巻】愛(フィリアについて、続き)
・共同体の愛では、異なった価値の交換のための共通の尺度として「通貨」が使われる
・不平は「これをこれだけ与えた」と「これがこれだけ欲しかった」の齟齬から生じる
・お返しは、できるだけのものでやればよいが、得る側にその査定権があると考えてよかろう

・有用性や快楽に基づいた愛は、有用性や快楽がなくなると消滅する
・善に基づいた愛は、相手が不良になったら即解消とはいかず、善に転じるよう援助すべきである
・それでも救済できない時に、人は離れていく

・「友人関係」は「自分自身への愛(自己愛)」でもある
・友人には、(1)善(2)生存(3)同じ価値観を持つこと(4)苦楽をともにすること、のどれかが望まれる
・高潔な人(=欲望を知性で制御できる人)の場合、これは自分自身に望むことでもある
・逆に、劣悪な人は愛される要素を持っていないので、自分さえ愛することができない
・「好意」は愛そのものではなく、愛より時間的に手前に位置する
・見た目=一目惚れでも好意は抱くが、好意の交換という正義を欠いているから
・「協和」も愛の特徴に見える。共通の善と思われること、方針を選択して事をなすこと(国単位でも)
・高潔な人同士は共通の土台を持ち、協和できる。劣悪な人は自分だけが多く取ろうとしてできない
・愛は自分や相手の存在と、それが行動を通じて生み出したものが対象になる

・では、幸福な人に友人は必要か?
・答:優れた友人が必要。友人は外的な善の中で最大のもので、自分が為す善の受け取り先である
・また、善い人が、その友人である善い人を知覚することは自然本性的に望ましい(し、自分を省みるより、自分の映し鏡としての友人を見るほうがやりやすい)
・ともに生きることで、徳の鍛錬にもなる
・その数は少数でよい。そんなに多くの人と親密になることはできない(「へつらい」に堕する危険)

【第10巻】
・快楽論
・人も動物も快を選択し苦を避けるが、では快楽は善だろうか?―従来説の検討
・快楽は悪である苦痛の反対なので善という考え方がある→快楽「も」悪かもよ?そもそもこれらはセットなのか?
・快楽はそれ以上の理由(~のための快楽)にはならないので善という考え方もある
・快楽は善を増幅させる(善の一種である)という考えもある→快楽は最高善ではない
・→善から不良まで、ソースに応じたいろんな種類の快楽がある

・アリストテレス自身の快楽論
・快楽は運動や生成といった「完成までの過程を持つもの」ではなく、「その瞬間に完成するもの、それ自身が全体であるようなもの」である
・知覚の働きは対象に向かう活動で、最善の対象が完全なものとなる。その時が最も快い
・快楽はこうした活動を「完成させるもの」(活動のしめくくりに感じられる付随物)である

・もろもろの快楽は種類が異なる。知覚の活動も、その原因も多様で、それと結びついているから
・快楽は別の快楽に影響を受けやすい(演劇を見ていても役者が下手だと食うほうに集中してしまう)
・活動に応じて、高潔な快楽と劣悪な快楽がある。人によっても受け取り方が違う
・が、優れた人に快楽と感じられるものは実際に快楽であるといってよい
・つまり、完全で至福な人の活動で生まれるものが、人間の持つべき快楽である
・これで徳、愛、快楽についてはおしまい

・幸福論の概略
・幸福は性向ではない(第1巻5章、8章)
・幸福はそれ自体で自足した(他への踏み台にならないような)活動であり、人生の目的である
・幸福は、徳に基づく行為といえる
・権力者の「遊び」もそういうものに見えるが、権力者をまねする必要はない。要は高潔かどうかだ
・ということで、遊びは幸福でなく、休息に似たものである

・最も善い活動=幸福とは、「観想的な活動」(理論的に考える活動=知恵の徳に基づく活動=哲学)である
善いポイント。
(1)知性はわれわれに内在するもののうち最善のもので、知性が思考の対象にするものは最善の認識対象だから
(2)この活動は最も持続的だから
(3)最も快いから
(4)一人でも資源がなくてもできるから
(5)別の目的に奉仕するものではないという幸福の条件を満たしているから
(6)戦争とか政治とかのための忙しい諸活動で得た「余暇」で行う余裕のある活動だから
・この活動は人間的な懸案を超えた神的な部分を宿しているので、日常生活より優れている

・そのほかの徳に基づく生活は人間的で、二次的なものである
・それは人柄の徳=身体や感情に基づいた徳。一方、知性の徳は身体から切り離される
・完全な幸福=観想的な活動=神的。なぜなら神は行為も制作もせず、観想するものだから
・人は神の似像を宿しうる。ゆえに知恵ある人は、神に最も愛される
・ただ同時に、肉体を持っているので「外的な善」も必要とする

・善き人はどうやってできるか?自然?習慣?教示?
→あらかじめ習慣で素地を作ってある人こそ、教示や言葉(ロゴス)が根付く
→若いうちにそういう素養をつけるには、法による縛りが必要。大人にも実践させる法が必要
・法は(公共的な)ロゴスであるので、強制力を持っている
・公共的な配慮の形成には、普遍的な知識が必要。これがあって初めて個別の問題を解決できる
・善き人を作るには立法の知識が必要。ではどうやったらよい法が作れるのか?
→といって『政治学』に続く……

2016年03月03日

ニコマコス倫理学(上)

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2015年.

光文社古典新訳文庫の『リヴァイアサン』は2014年末に1巻が出てから一向に2巻が出ないので、先に上下巻が刊行されたこちらに手を付けてしまいました。

よい政治の礎となる「よい人」を作るのは若年からの習慣であり、「よい大人」はよいことをなす傾向がある。よい行いも悪い行いも自発的になされ、それが責任を発生させるということ。「よい」とはTPOを踏まえつつ極端に走らず適度であること、みたいなお話。二千何百年前によくこれだけギチギチと考えたねっていう感心とともに楽しく読めるので、上巻だけで500ページと長い本だけどこれはちゃんと通読すべきだと思った。

・「知ってるだけではだめ、やれないとだめ」という徹底した行動志向
・「子ども」をものの数と見てない感じw
・経験と論理と、例示や背理法などさまざまな角度から行う議論
・責任、正義、行為や記述といった西洋哲学のトピックやがぎっしり詰まってる
・過失、計画性なき故意、計画的犯行、みたいな現代使われてる刑罰の区別みたいのがもうある
というあたりが印象的でした。

以下、自分用メモ。下巻はこれから読む。

【第1巻】
・何か他の目的のための手段になるようなものではない、最高の善について考えたい
・で、それは政治学の扱う問題である
・その結論に求められる厳密さは、数学ほどかっちりしたものではなく、「大抵そうなる」くらいのもの

・人間が実現しうる最もよいものは「幸福」だが、その中身が何かは議論のあるところ
・幸福とは快楽のこと?名誉のこと?徳(アレテー)のこと?いずれも違うように思える
・「名誉」は他人に認めてもらう必要があるが、それには徳が必要なので、本質的ではない
・「徳」も完璧ではない。持っていても役立てないこともあるし、不幸が襲うこともある
・「富(カネ)」も、それを使って他の何かを得るためのものなので、最高善ではない

・では、プラトンにならって「善のイデア」が最高、とすべきか?
・でもそれって人間が手に入れられないもので、そういう話をしたいんじゃない
・あくまで「人間がなしうる、獲得しうる善」のことを追究したい

・「善」というのは、行為や選択の「目的」になるようなもの
・人が行うあらゆることの目的になるもの、それを最高善と言っていいと思う
・その最高善とは、「幸福」じゃないだろうか
・その「幸福」は、すべての人間に共通な機能を特定した上で、その開花した形だと考えてみたい
・それは「分別(ロゴス)を持っていること」で、それがちゃんと発揮されている状態である
・つまり幸福とは「徳(アレテー)を伴った魂の活動」だといえる
・ざくっとはそういうこと。詳細は今後、詰めていこう

・ところで、幸福は習得できるものだろうか、運任せなのだろうか
・幸福は「活動」にかかわるものである以上、運任せというのはいかにも違うようだ
・政治学の目的も、いかによい市民をつくるかを考えることにある
・一過性ではなく、持続的に徳に基づいて行動する人の人生は最も安定するはずだ
・そこに不運が訪れることもあるが、それで全体的な幸福が転覆するわけではない

・次に、幸福をもたらす「分別(ロゴス)」は魂のどこで働くのかを考えてみたい
・まず、植物とも共通な「栄養を摂取する(生命活動を維持する)」に関わる部分は除外する
・それ以外の欲求部分で、分別に従えるかどうかが、抑制のある人とない人を分けるようだ
・分別に従えない人でも、分別によって説得できる余地はあることにも注意しておく
・ロゴスといっても、数学者に見られるロゴスと、他人の助言を聞き入れるようなロゴスがある
・これに対応し、徳(アレテー)にも、知恵や思慮などに関する「知的な徳」と温和や節制などに関する「人柄の徳」があるようだ

【第2巻】
・「知的な徳」は教示によって生まれ、伸びていく。「人柄の徳」は習慣によって生まれる
・年少からの習慣によって、正しい行為に快を覚え、正しいことをなす人になる
・まぐれや人から言われてできるのではなく、自分で正しい行為を「正しいから」選び、攪乱要因にも耐えつつ、行えることが条件である
・つまり知っているだけではだめ。行為を伴わないと魂を優れた性向に導けない

・徳は、魂の中に現れる「感情」「能力」「性向」のうちの「性向」であるように思われる
・「感情」は怒り、欲望など。「能力」は感情を持つための身体的能力のこと
・「性向」はもっと長期的な傾向のこと。それを元に個別具体的な選択が行われるようなもの
・また徳(卓越性)とは「中間性」のこと。極端に寄らず、過不足ないこと。そして達成するのは難しい

【第3巻】
・徳がかかわる「行為」の構造について考える
・行為は、「自発的なもの」と「意に反したもの」に分けられる。賞賛/非難されるのは「自発的行為」
・「意に反した行為」は「強制されたもの」、「無知によるもの」に分けられる
・「強制された行為」は「物理的強制(船が風に流されたなど)」と「状況に迫られたもの」に分割可能
・ただし「状況に~(船が嵐に遭って積み荷を捨てるなど)」は自発性もまじっている
・「無知による意に反した行為」(≒うっかり)は、後悔を伴う。後悔しないのは「自発的な人ではない」とする
・というわけで、「自発的な行為」は、事情を理解した上で、その人が起点となって行う行為のこと
・徳も悪徳も自発的なものである
・「自発的な行為」は「ロゴスと思考に基づいた選択」を包含している
・(イコールではない。子どもや動物は自発的だが選択していない)

第3巻第6章以降しばらくは、個別の徳について取り上げる。
・「勇気」は恐れと自信の大きさの中間。美しい死(戦死)を恐れない人
・「勇気ある人」は臆病と向こう見ずの中間。恐ろしいものを適切に恐れる。自殺は逃避だから×
・「節制」は身体の快楽に関わる。食欲と性欲の過剰は「放埒」で、動物と共通
【第4巻】
・「気前よさ」は財貨に関わる。しかるべき相手に財貨を与えること。浪費とさもしさは×
・「物惜しみのなさ」は特に大きなスケールの出費に関わる。美のための出費。物惜しみと俗悪は×
・「志の高さ」は自分の大きさを知っていること。これが最善の人。うわべだけと卑屈は×
・ちなみに、自分の小ささを知っているのは「分をわきまえた節度の人」
・「温和な人」はしかるべき時にだけ怒る人。怒りっぽいのも全く怒らないのも×
・「篤実な人」は社交における中間性。必要な時には友人に意見する。へつらうのも口やかましいのも×
・自分をより大きくも小さくも見せない=「ふり」をしない無名の徳
・「機知に富んだ人」はおしゃべりの中間性。冗談のかけあいができる。低俗も野暮も×

【第5巻】
・正義について
・正義の徳とは、正しいことを望み、為す性向のこと
・正しい人とは、法を守る人、公平な人
・正義の徳は完全な徳。他の徳を包含していて、かつ自分にも他人にも使える
・ただし、同じ「正義」という言葉だが、全てを包含する正義と、包含されている部分的な正義がある(ややこしい)
・部分的な正義(つまり包含されているほうの正義)には「配分的正義」と「矯正的正義」がある
・配分的正義は、等しい者が等しく持ち、等しくない者は等しくなく持つこと。比例関係に従った配分
・矯正的正義は、当事者をそれぞれ等しく扱い、等しく(真ん中で)分けること
・また、これらの正義とまた違ったものとして、応報=交換(的正義)というものが考えられる
・履き物職人がサンダルと、大工が家を作って、それらを交換する場合など、多様な人の「共同」にあたっての均等化の原理
・そこで発明されるのが貨幣。貨幣は異なるプロダクトを通約し、交換可能にする

・ポリスにおける正しさには、取り決めにおける正しさ(法的な正しさ)と、自然本性的な正しさがある
・法的な正しさは共同体によって変わるが、自然本性的な正しさはどこでも同じものである

・不正には3類型がある
(1)無知ゆえの「過失=うっかり」。投げて渡そうとしたらぶつけてしまったような場合
(2)意図的だが計画性がない「不正行為」。かっとして殴るなど
(3)選択の上で行う「不正の悪徳による不正行為」

・「衡平さ」と「正しさ」の関係について
・「正しさ」には法的な正しさと、法で実現しきれない正しさを実現する「衡平」がある
・つまり、法という一般論で救えない個別事例、法の定めが明らかでない事案に対処するのが「衡平」
・高潔な人は、「衡平」にかかわり、実際に為す人のことである

2016年02月11日

プラグマ(改)

※ちょっといじりました 2016.2.15

■伊藤邦武『プラグマティズム入門』筑摩書房,2016年.

学生時代になぜかローティを面白いと思い、その流れでジェイムズやパースへと遡っていった覚えがあります。
社会思想の先生に「何がいいの」と問われて、咄嗟に「あけすけなところ」と答えましたが、今考えてもあながち外れていなかったような。

プラグマティズムは真理や言語といったオーソドックスな哲学のテーマから、政治、教育といった社会問題まで、いろんなことを語るのに使われています。つまり、プラグマティズムは何かを語るときの「態度」に関する態度表明なのだと言ったほうがよさそうです。

源流にあるパースやジェイムズの示した原則は
(1)可謬主義。絶対確実、永遠不変な知識を手にすることはできず、いま持っている知識は必然的に誤りの可能性を含んでいるということ
(2)実用主義。ある知識を「さしあたりの真理」と呼んでいいのではないか、という基準は、それによってより広い対象を説明できる、よりシンプルに説明できる、対象を思った通りに操作できる、といった「使いでのよさ」に求められるということ
にまとめられるでしょう。

思想の流れにおいてプラグマティズムがとっている代表的な立ち位置を一言で言うなら「反デカルト主義」でしょう。あらゆるものを疑っていって、最後に絶対確実な知識にたどり着きました、というデカルトと上記(1)はまず相容れません。そのポイントは見たところ二つあって、
・そもそも「あらゆるものを疑う」がナンセンス。疑ってるおまえはどこに立ってんの。おまえが疑う対象のネットワークによっておまえはできてるんちゃうの、という批判
・理性に従って見れば正しいゴールに到達できる、という考えが独断に過ぎないという批判
だと思います。確かに、「慣習や権威に頼った判断よりも、自分のアタマで考えるんだ」と訴えた点に意義はあったかもしれません。しかし、そんなんで哲学がめでたく終結したかというと全然してない。ちゃんとその現実見ろやと。言い換えれば、デカルトに対する「『分かった』はおめーの思い込みだろう」というひどい批判(苦笑)。とすれば、代わりに採るべき探究の方法は「みんなで批判しあいながら考えてコンセンサスを形成する」という、哲学の民主主義モデルとでも言いたくなるようなものになります。

倫理のような価値的な対象だけでなく、世界をどう把握するかという事実の問題も、実際どうやって探究が行われているかといえば、ある共同体における証拠の蓄積とコンセンサスの形成、そして動揺と、新たなコンセンサスの形成です(クーンぽい!)。つまり価値も事実も思ったほどはっきり分けられるものではない。
また、日常の知と専門の知もそんなに違った原理で動いているわけではありません。探究の深さというか、ある判断をする際に使える道具(知識)の量に違いはあれ、どちらも「とりあえずそこにある”絶対確実”とはいえないようなさしあたりのもの」を使って判断し、進んでいかなければならない。
こういう、長らく当然のように受け止められてきた二分法に対するアンチも、プラグマティズムから引き出されてくる重要な態度だと思います。

さて、そう考えてくると、何が正しいかは言語とか知識のネットワークの外に厳然と存在する「事実」と対応しているかどうかで判断できる、とは言えなくなります。クワインはそこで「真理とは、それらのネットワークの維持に貢献するもの=ネットワークにとって有用なものである」とした。

とすると、何が正しいかもネットワーク/共同体により違ってくることになります。そこから何かと評判の悪い相対主義に陥らず、なんとか「そうはいってもこれは正しくてあれは間違っている」ということを言えるような客観性を確保するってもんではないか、どうやったらできるのか、を考える必要が出てくるんだろうなあと思うところです。ところがローティは「そんなもんしかし、私は『われわれが真理と思うもの』の体系から外に出ることなんてできないんだから、『われわれ』から出発して他者との連帯を探るしかないでしょう」という自文化中心主義を提示してしまった。

パトナムに至ってはもう何が何だかわからない遍歴ののちに、そうはいっても人間誰しもある程度共通の自然に対する認識能力はあって、それをベースにした合意=真理への逢着はできるんだろうなあというなんだか普通なところに至ったようであります。

この本では始祖から現在まで、13人のプラグマティストが紹介されています。「源流」「少し前」「これから」という3部構成で、弊管理人が本を読んでいたときはまだ存命で(その頃には左翼がどうとか言うようになっていたけれども)書き物もしていたローティも、ローティの本によく出てきていたデイヴィッドソンもクワインも「少し前」の章に登場していたのを見て、時間の流れを感じました。

でも「これから」まで読んでみて、やっぱり弊管理人自身が興味があるのは、現代の人たちがパースとどう向き合うかみたいな業界内の議論よりも、「プラグマティズムを使って何を斬るか」だということが確認されました。もっとも、自然科学の探究では、民主主義的で実用主義的な真理観はもう(建前上は)当たり前になっていて、ではいったい何を斬れば面白いのでしょう。よくわかんない。

それと愚痴ですが、学生の優秀さに寄りかかって教える能力を鍛えてこなかった人によくある「●●的××論とか、ちゃんと説明されてない術語がいっぱい出てくる」「内容より位置づけに説明の力点がある」という悪い入門書に分類したい、これ。想定読者は誰なんだ?索引がほしい。

2016年01月25日

ヴェヌス

さっっっむい日曜日の夜、錦糸町の南インド料理「ヴェヌス」に参りました。
折角友人と二人なので、定食ではなく、アラカルトでいきますよ。

まずはニンジンのサラダを軽くやっつけて、ドーサ。
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中にキーマカレーが入ってます。野菜カレーとココナッツソースがついているので、これで調味。多分。
だいぶアジアンなガレットですな。うめえええ

写真みて絶対これうまいはず、と決めたにんにく味のタンドリーチキン。
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メニューににんにくって書いてあるんだから覚悟できてるでしょ?みたいなにんにく味。
うまくないはずがないじゃない、こんなの(涙

ほうれん草ごはんと、辛いマトンカレー。
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ごはんはナッツの風味と歯応えが至福です。カレーも暴力的じゃない強さが魅力ですね。
ただし、棗?と思って食べた赤い実は激辛で、二人してしばし悶絶しました。注意。

チーズナンと、野菜カレー。
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こっちのカレーは全然毛色が違い、優しくてfull of taste。
チーズナンは意外と甘い。そしてもちもち。弊管理人は好きです。どっちのカレーにも合いますなあ。

ええと、テンション上がったの、お分かりいただけるかと思います。
すごい数の未踏メニューがあるので、再訪を誓いました。
全部おいしかった。そしておなかいっぱい。幸せ。

* * *

あと、12月末からこれらを読んでた。

■吉田文和『ドイツの挑戦―エネルギー政策の日独比較』日本評論社,2015年.

■熊谷徹『脱原発を決めたドイツの挑戦』角川マガジンズ,2012年.

■ブラウン, L.『データでわかる 世界と日本のエネルギー大転換』(枝廣淳子訳)岩波書店,2016年.

2015年12月28日

戦後入門と70年暮れ

■加藤典洋『戦後入門』筑摩書房,2015年.

『敗戦後論』が出たのが大学生のころ(1997)で、何やら弊管理人の出ていた授業界隈がとても騒がしくなったのを思い出します。「国内の300万人の死者への弔いことを土台にすることで、アジアの2000万人につながることができる」という加藤の主張に論争を仕掛けたのがその授業をやってた先生だったためか。ドミニク・ラカプラのテクストを読んでacting outとかworking through(徹底操作)とかのことを習った記憶があります。それは面白かったのですけれど、弊管理人は論争を丁寧に辿ってはいなかったな。そんなことを懐かしく思い出しながら。

第一部の始めに書いてあるように、この本は(1)日本の対米従属の起源」、それを「日本人がなるべく考えない/語れないようにしてきた経過」を探り、(2)で、どうすればいいかを考えるのに割かれています。
それは、ごく短く言うと、
・帰依する先として「普遍の皮をかぶった特殊利害=米国」を選び続けてきた戦後を脱すること、
・しかし、戦前とのつながりを復活させるローカルな方向、ナショナリズムに向かうのではなく
・ほんとうの普遍→国際主義の理念→国連を国際社会への窓にするべきだ
という話と読みました。

こうした米国の描写は、大澤真幸の「帝国的ナショナリズム」を想起します。「超越的な第三者」をどこに求めるかという話かもしれない。話の流れとしては腑に落ちます。というか、第一次大戦からの流れが整理・解読されていく様子がとても勉強になります。しかし、提言部分で期待が表明されている当の国連は、その期待される役割に相応しいものかどうか。あるいは、相応しいものに改革できる可能性があるのかどうか。

2015年最後の本になりました。11月末に出張先の福岡で何気なく買った600ページの新書は、仕事納めをした28日の帰りの電車でやっと読み終わりました。
それにしても、通勤中に読んでる本に「対米従属」「憲法九条」などの言葉がちりばめられていると、多少周りの目が気になります。そういう「気になる」の淵源もまた、この本の中に解説されていた、のかな。

* * *

2015年はあまり古い本に手を付けず、時事問題に関係のある本と新書(特に分厚いやつ2冊)にかかずらいながら過ぎてしまいました。

2015年12月13日

渋谷餃子

日中20度になって街に3月下旬のような匂いが満ちていた金曜、朝から翌日未明まで職場にいたため外の記憶がない土曜を経て、日曜はしとしと寒い雨が降ったり止んだり。
昼飯、何か……と思って新宿西口方面に出ました。
適当に入ったお店、「渋谷餃子」でW餃子ランチ、780円。
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焼き、揚げ、水から選びます。「半分ずつ焼きと水にできます?」って聞いてみたらOKでした。
薄皮餃子、好きです。ニラ、ニンニク抜きもあるのですが、そんなもん選びません。
夜に至るまで自分の呼気がおいしそうな匂いになるので、長く楽しめるランチです。
新宿御苑のほうの福包は応分以上に混むことがあるので、バックアップとしていいな、ここ。

* * *

さて、どうして西口方面に行ったかというと、ヨドバシカメラで腕時計を買うためでした。
先週、泥酔して自転車に躓いてこけて膝から流血したりしていたのですが(ダメなじじいになってきた)、翌朝、腕時計がなくなっていたのでした。方々探したのですが見つからず、といって結構時間を気にする生活をしているので不便で、急ぎ買うことにしました。

今までスイスのMONDAINE(モンディーン)というメーカーの時計を使っていました。
すごく視認性がよくて、ゴテゴテしてないので大変気に入っていました。しかし、電池式なので2年に1回は3000円くらいかけて交換せねばならず、なぜか飛行機に乗ると遅れるという不思議なことも起きるなど多少の「問題ね」もありました(←笑うところ)。

2代続けてMONDAINEだったので少し目先を変えたいと思い、今度はSEIKOが海外で売っているSEIKO 5というシリーズの自動巻を選んでみました。欲しかったカレンダーもついていて、ちょうどいい。
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店員氏によると、自動巻って、誤差が結構出るそうです。そこ注意点。
でも、いきなり電池が切れて止まってました、電池交換に1週間、みたいな事態は避けられるので、まあいいか。

メンテナンスいらずという意味では、最もいいのは国内メーカーが作っているソーラー+電波なのですが、ちょっとケースが分厚くなるんですよね。CASIOにはまだスリムなやつがあったものの、腕に当ててみてもどこかしっくり来ませんでした。

というか、知らないうちに物をなくしてるのはだめだな。気をつけよう。

* * *

今月の「現代思想」の特集は見田宗介=真木悠介でした。
この方、孫弟子いないのかな。

2015年11月29日

ポランニーとか

■若森みどり『カール・ポランニーの経済学入門』平凡社,2015年.

行ってた学校によくポランニーに言及する先生がいたせいで「ポランニー読むべきかなー」と思った90年代末の学生時代には、どうもあまり著作へのアクセスがよくなくて(=高い&その辺にない)、何となくそのままになっていました。最近になって本が結構出ていますが、新訳の『大転換』は相変わらず高いし、文庫も含めてどれから手をつけていいか分からないし、とりあえず「自分では使わないけど、何を言った人かだけはぼやんと分かっておけばいいか」という低い志で手にとったのがこの本。新書なのに結構読むのに時間がかかりました。

人間の計画能力なんて当てにならんから、とにかく社会保障・民主主義・労働組合など、市場経済に対するあらゆる干渉を排除して、市場の自己調整機能にお任せしましょうという「経済的自由主義」でもなく、結局全てを経済問題にまとめてしまう「マルクス主義」でもない。経済を政治から切り離して考えず、民主的なコントロールの下に市場を置き、所得や余暇(政治参加する時間)や社会保障が行き渡らせた上で自由が可能になる「社会主義/よき産業社会」というべき別の道を、ポランニーは模索したということらしい。

『大転換』(1944)は、18世紀イギリスで生まれた資本主義=市場社会が、ドイツでファシズムを生むまでの過程を辿った作品だという。

生産用具の革新が、農村から切り離された人口の都市への流入と、都市スラムでの劣悪な生活と文化的破壊を招く。貧困大衆に対する賃金扶助としてスピーナムランド制(救貧法改革)が生まれたものの、これは福祉依存を生み、貧民を増やすものであるという反発に晒されることになった。救済は食糧生産の増加を上回る人口増加を招き、それが貧民の生活をかえって悪化させるほか、飢えへの恐れと働く意欲を失わせる、との批判を展開したマルサスがその代表格だ。逆に救済をやめれば、”自然法則に従って”事態は収拾に向かうという。教区における相互扶助の精神が消滅し、自己責任+自己調整的市場の思想が胚胎した。

一方オウエンは『新社会観』(1813-1816)で、貧困と犯罪の原因は「社会」にあると批判した。自由主義がいうように個人の責任なのでもなく、マルクス主義がいうように労働者搾取=経済の問題だけでもない。産業革命によって、労働の目的や倫理、文化・社会環境から労働者が切り離されたために起きているのだという。それなら、社会的保護を行う国家の機能はどうしても必要になるだろう。その上で初めて、人々が責任を持って社会を変えていく自由を行使できるようになるはずだ。

こうした相反する二つの思想から始まった潮流が、1914年の第一次世界大戦に至る80年の制度的なダイナミクスを形づくった。「競争的労働市場、金本位制、自由貿易」と「労働立法や農業関税、社会的保護・競争制限的制度」の間の緊張、それが二重運動と呼ばれる。20世紀前半にかけては、民主主義を後退させてまで国際金本位制を守ろうという努力がなされたにもかかわらず、第一次大戦後に通貨危機、恐慌、列強の金本位制離脱、ファシズム、ヴェルサイユ体制の瓦解へと展開していく様子が描かれていく。

経済的自由主義は「自然の流れに市場を任せることが自由と繁栄を保証するのだ」と吹聴しながら、いろいろなちょっかいを入れてくる政治から市場を独立させようとする。しかし、それは筋違いだというのがポランニーの立場のようだ。市場は労働・土地・貨幣という本来は商品でないものを商品として扱えるような制度を作り出し、それが強力に普及させられたからこそ成立している。つまり市場は自然に生まれたのではない。転倒した認識は、市場のためなら人々の生活や民主主義を制限してもいい、市場原理で実現できないことは仕方ない、というフィクションを生み、平和の行方を経済に委ねてしまう事態さえ招く。それでいて、市場原理を通じて害悪が生まれたとしても、それは干渉を生むような制度のせいだと言いつのって延命を図るのだ。本来、市場は社会に埋め込まれていなければならないのに――。

確かに干渉は全て悪、という原理はシンプルで分かりやすく、それだけに魅力のある考え方です。計画経済を目にして「人間のやることなんて不完全ですよ」と反発するリバタリアンな気持ちも分かります。ただ、好きに遊ぶには、安心して遊ぶためのフィールドとルールがなければならない。多くの文化を花開かせるためには、多文化主義そのものを侵そうとする動きには強硬に対抗しなければならない。そういう類の問題提起かな。ネオリベとかセーフティネットとかの言葉が流行ってから「そういえばポランニー」って思うまでに数年遅れたものの、ともかく折角の機会に危なっかしかった(そして実際破局に至ってしまった)昔のことを知っておくのも意義のあることだろうと思います。

* * *

そういえば仕事先に行ったり飲みに行ったりするときに歩きながらちょいちょい聞いている放送大学のラジオ科目ですが、2学期は今んとこ、この2番組が面白いです:
・日本の近現代('15)→今ある制度や習慣の源流がこんなとこだったの、という驚きが多い
・市民自治の知識と実践('15)→社会運動のコツ、みたいなお話が入ってて結構ツボです

2015年11月07日

科学は誰のものか

■平川秀幸『科学は誰のものか』日本放送出版協会,2010年.

暫く前から職場に転がっていたのを、やっと手に取りました。
福島第1原発事故の半年前に出ていた本。
知っているからできる、というわけではないが、知らないよりはいい、かな。

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・科学イメージの転換:「夢と希望」から「問題」へ
  夢と希望:~1960年代。理工系、中央研究所ブーム、大阪万博
  ターニングポイント:70年代。核開発、公害・環境問題
  新しい文化:新しい社会運動、環境政策

・統治からガバナンスへ
  社会の複雑化により、政府だけでは問題に対処できなくなった
   ガバナンス=政府、NPO、企業、個人による水平的、分散的、協同的な舵取り
   ガバメント=政府による意思決定、利害調整
  →95年の「ボランティア元年」、情報公開、パブコメ、審議会への一般人参加

 (1)リスクコミュニケーション:行政、専門家、企業、市民による情報交換と信頼構築
  70年代米国に端緒。食品、環境中の化学物質リスクに関するデータ開示要求など
  当初は「説得」と「受容」を目指すものだった→80~90年代に対話、協働へ
 (2)参加型テクノロジーアセスメント:新技術の実用化に先立って、社会・環境影響を評価
  60~70年代当初は科学者や行政官に限定
  86年のデンマーク技術委員会(DBT)設置を契機に、市民参加型が開始
  →87年、DBTによるコンセンサス会議。他にも市民陪審、シナリオワークショップなど

・信頼の危機:96年、英国のBSE危機
  「人への感染リスクは極めて小さい」としていた89年のサウスウッド報告書が転覆
  折しも、欧州市場に米国のGMトマトピューレが登場、安全論争になっていた
  「将来のリスク」に対する懸念+政府、企業への不信が蔓延
  →欠如モデル(市民は正しい理解を欠いているから不安なのだ)が通用しなくなった
  →科学技術コミュニケーションも「統治」から「ガバナンス」へ(00~01年、英国)
  00年代前半の「サイエンスカフェ」普及。「公共圏」における相互学習へ

・日本では
  98、99年に「遺伝子治療」「情報化社会」でSTS研究者がコンセンサス会議
  00年は農水省がGM作物でコンセンサス会議
  01年~の第2期科学技術基本計画で双方向コミュニケーションの推進盛る
  *ただし、いまだに「一般を教育する」路線のコミュニケーションが主流

・公共的ガバナンスが必要な理由
  「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」が増えた
  (1)科学の不確実性の増大。例)人への感染を予見できずに起きたBSE危機
  (2)科学技術が利害関係や価値観対立と深く関わるようになったこと

・科学の完全無欠幻想と、そこに立った政策の失敗
  (1)地震予知研究。64年文部省測地学審議会によるブループリント、78年大震法
  →その後、研究するほど「分からない」ことが分かってきた
  →97年測地学審議会「予知の実用化は困難」。地震防災基本計画の大幅変更へ
  (2)水俣病。56年に公式確認。しかし原因をメチル水銀と特定し公害認定したのは68年
  ←チッソ「メカニズムを科学的に正確に証明せよ」(クロと実証せよ)
  →行政の意思決定のハードルが上がった

・不確実性を理解する前提として:科学の知識はどうやって生み出されるか
  仮説→実験、観測による検証→論文化→他の研究者による利用、再現
  実験室にあるのは「作動中の科学science in action」。何が正答か、まだ分からない
  最先端=その後修正される可能性があるということ
  正しいとされていることでも、原理的には修正可能性、可謬性がある

・不確実性には二つのタイプがある
  (1)知られている無知known unknowns。何が分かっていないかが分かっている
   例)温暖化におけるエアロゾルの影響など。でも幅を持たせた予測はできる
  (2)知られざる無知unknown unknowns。全くの想定外
   例)フロンによるオゾン層破壊

・なぜ不確実性があるのか?
  (1)対象の問題:振る舞いが「確率的」な場合や、構成する要素が多すぎる場合
  (2)知る側の問題:測定限界、検出限界。連続的なものの数値解析は近似にとどまる
  モデル(単純化)と現実とのずれ
  実験条件(理想化)と現実のずれ

・科学技術と社会のディープな関係
  科学は価値中立的、というわけではない。「使い方が悪いから害悪になった」?
  →科学の純潔主義は、公共的ガバナンスの射程を社会に限ってしまうことになる
  共生成co-production。影響を与えあっている
   ・公的研究費や企業の研究費は社会的目的達成型の研究を増加させる
   ・基礎研究も、応用を支える基礎と見なされる「運命」にある
  政策と技術はパッケージになっている
   ・アーキテクチャ(低所得者が使う路線バスが入れない街区、寝転べないベンチ)
   ・世界の実験室化(携帯を社会で機能させるためには、インフラも導入する必要)
  →よい科学技術とは何か?それは誰にとってよいのか?を考えるのがガバナンスの一歩
   例)緑の革命:帰結=飢餓輸出、高収量作物の栽培負担による離農増
   例)医薬品開発:熱帯病治療の遅れ、市場の失敗。国際連帯税導入の動き

・科学の不確実性とどう付き合うか:論争の視点
  何が論点か?→結局、科学的な側面より、社会的な側面が大きい
  調べる人でデータも変わる(干潟埋め立てに際してのアセスメント方法の違いなど)
  挙証責任は誰が負うか
  リスクを受け入れる基準をどこに置くか=どんな社会を望むかという価値観の違い
  「分析による麻痺」を避けるための「予防原則」
    批判(1)疑陽性による過剰規制(「健康な科学」からの批判)
    批判(2)別のリスクが発生する(副作用のため薬を規制すると病気が増えるなど)
  →どちらに転んでも多少の利益があるno regrets policyを目指すか

・市民参加:ゆるっと踏み出す
  身近な人に話してみる
  ネットでの情報発信と交換
  ガバナンスへの参加は一時的でも構わない
  お金で支援してみる
  調べてみる、問い合わせてみる、パブコメしてみる

・当事者として動く
  AIDSの臨床試験デザインの非人道性の告発
  非専門家によるcommunity based research→偽薬を使わない試験の実現
  非専門家も専門性を獲得できる。「よい科学」観に基づいてまとめ上げる専門性
  反対派ではなく「疑問派」というスタンス
  公共空間で多様な背景の人たちと接し「はっとする」ことの重要さ
  知ることを協働化する:市民と大学が協力して調査研究するサイエンスショップの試み
  社会関係資本としての知識:不得意を補い合う、生活知を織り込む、交流の場を作る

2015年10月12日

景虎/音声

歌舞伎町のパスタ「景虎」。
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カウンターとテーブル席がある素っ気ないパスタ屋さん。
弊管理人が行ったときは静かなお客ばかりで、座ったカウンターの反対側の端では、いわくありげなおねいさんが大盛を啜ってました。
ひとりめしにちょうど良い感じ。また来る。

* * *

この連休は麺づいていて、天下一品のラーメン+チャーハンセットも初めて食べました。
チャーハンが意外とポロポロで香りもよくてうまかったです。

* * *

■山岸順一他『おしゃべりなコンピュータ』丸善出版,2015年.

仕事関係で音声合成技術の現在をざっと見ておく必要があり、新幹線での名古屋往復の時間を使って読みました。

2015年10月02日

【ペンディング】ヴェール論争

【10/4】↓すごいへたくそなまとめなので、書き直しを試みます


1月にシャルリ・エブドの襲撃が起きたあと、それなりにいろんな解説を読んだのだけど、なんというかフランスの社会に詳しい人が「自分は背景を知っていて一般人は知らない」ということをあまり意識しないで書いている感じがして消化不良でした。で、少しスコープを広げてみようと読んでみた本。ちょっときれいに整理しすぎだろうとも思いますが、見通しはつきます。メモは結構いっぱい書きましたが、ここではさわりだけ。

■ヨプケ, C. (伊藤豊他訳)『ヴェール論争』法政大学出版局, 2015年.

・本書の課題は、ムスリム女性のヘッドスカーフの受け入れに際してリベラリズムがどう機能するかを、これまで主に論じられてきたフランスだけでなく、ドイツ、イギリスに関しても見ることである
・リベラリズムには二つの顔がある。第1の顔は、さまざまな生の様式を調停する暫定協定としてのリベラリズム。第2の顔は、それ自体が一つの生の様式としてのリベラリズムである
・「国家の宗教に対する中立性」も、上記に対応した二つの顔を持つ。「宗教をどれも認める多元主義」(第1の顔)と「宗教はどれも一律に認めない社会統合のイデオロギー」(第2の顔)。後者の場合、そのイデオロギー自体が、いわば一個の宗教と化す可能性もある

・フランスは「ライシテ(非宗教性、政教分離)と共和主義的リベラリズム」。公的な場での宗教色を徹底排除する。リベラリズムの第2の顔に対応する。2004年に公立学校における「これ見よがしの」宗教的シンボルが禁止された。リベラルの下での抑圧ともいえる
・イギリスは「多文化主義的リベラリズム」。ヘッドスカーフは特に問題にならなかった。リベラリズムの第1の顔。ただ、目以外を全部覆う過激な形態に関しては学校の権限で禁止できるようになった
・ドイツは「キリスト教―西洋的なリベラリズム」。西洋的な価値に挑戦するようなイスラム的ヘッドスカーフは禁止、という立場。

・ヘッドスカーフはどんな意味を持っているのか:
・本来は特に政治的、宗教的意味はなかった。クルアーンでも社会慣習として規定されている
・ただ、イスラムにおける家父長制的な価値観、男性優位を具現しているともいえる。女性のセクシュアリティを夫に所有させ、封じ込める機能を持っている
・1980年代以降、西洋の下品さや物質主義、商業主義を拒否するものという意味合いが加わる
・どんな事情があったのか。公教育と都市化を背景に→イスラムに精通したムスリムが量産され→イスラム復興とともに→近代化・世俗化しつつ反西洋に傾いた
・さらにフランスでは、占領者側(フランス)がヴェールを除去しようとしたことで、抵抗のシンボルとしての意味が付加された
・ガスパールとコロスカヴァールは、フランスにおけるヴェールの多義性を以下のように分類した
(1)移住先でも出自を示すため。これはフランスに限らず、どの移住先にもある
(2)淑やかさのシンボル。セクシュアリティの管理の手段として親から課されるもの。ただし、同時に、ヴェールを付ければ家庭の外に出られるようになる、という「解放の可能性」としての意味も持つ。これが論争の種になる
(3)自立したフランス人であると同時にムスリムでもあるという二重性を示すために、自発的に身に着けられるもの←これがよく社会学の研究テーマになる
・ただし、いずれにしても宗教性は免れないことを忘れるべきではない(さもないと、ただのファッションになってしまう)。そして、宗教性の中心にあるのは女性の従属である

・誰のヘッドスカーフが、どんな場で問題になってきたか:
・ヘッドスカーフは、リベラリズム(国家の中立、個人の自立、男女平等)への挑戦だといえる。ただ、リベラリズムの下でヘッドスカーフを抑圧することも非リベラルになりえてしまう(フランスを見よ)
・司法は権利保護の立場を取る傾向を見せてきた。リベラルな国家は宗教の教義に介入したり管理したりしてはならない。だから裁判所は基本、何が宗教的かを定義できない。とすると、何かが宗教的かどうかの判断は基本、個人の主観に任されることになる
・一方、立法と行政は、治安や秩序といった集団の価値を優先させる傾向がある。宗教的権利は個人の領域だけに関するものではない。ヘッドスカーフは公的領域、特に職場と公立学校で問題化した
・公立学校でのヘッドスカーフ問題は、ドイツではヘッドスカーフを着けたい教師=国家の代理人=の宗教的権利が争点になった
・フランスでは、宗教やエスニシティを払拭し、自由で平等な国民を形成する場となる「共和国の聖域」、すなわち公立学校で教師が着用を禁止されることは、当たり前すぎて問題にもならなかった。規制論議の対象になったのはもっぱら学生のほうだった
・イギリスでは目以外の全身を覆う過激なヘッドスカーフのみが問題になり、学校の排除権が高等法院で認められたが、国家は特に関与しようとしなかった

・イギリスの対処は、ヘッドスカーフが政治的、宗教的な対立になるのを避けながら、「全身を覆われるとコミュニケーションに支障が出る」といった実利的な問題に絞ったという点では、それなりにうまい。しかし、ヨーロッパの中でも例外的に理解され受け入れられているイギリスでは、ムスリムは疎外されたマイノリティとして不満を募らせている
・フランスの対処は、ヘッドスカーフに対して厳しい方針を採ってきたが、国民統合の明確な条件を示しえていて、ムスリムの文化的統合度も高いといえる
・ドイツは、憲法レベルでは諸宗教の平等を掲げながら、地方政治レベルではキリスト教をひいきし、イスラムだけを排除しようとしている点で、リベラリズムを踏み外している。

2015年09月13日

平和のための戦争論

■植木千可子『平和のための戦争論』筑摩書房,2015年.

毎日のことにかまけていて集団的自衛権と安保法制のことを見聞きする機会を持っていませんでした。そのため、2014年7月の解釈改憲から1年以上のビハインドがあります。そこで、夏休みの旅行の移動時間を利用して基礎的なところだけ新書で読んでおこうと思い、荷物削減のために電子書籍を購入しました。
持ち運びがかさばらないのと、タブレットでもスマホでもそのとき手近な機器で読み続けられるのは便利です。一方、読み終わったあとにぱらぱらめくってさらうのが依然やりにくいと感じるのと、機器を落っことさないか、いつも頭のどこかが緊張しているのがちょっと。

で、本書は大変遅ればせながら読んでよかったです。
この辺分かっておかないと、叫んでる人の中でまともなのは誰か、まともな人はどうして叫んでいるのかを分かる足がかりが得られません。

-----以下、メモ-----

【2014年7月の閣議決定】

・集団的自衛権行使の容認の閣議決定が2014年7月に行われた
・内容は3つ
 (1)有事でも平時でもない侵害(グレーゾーン事態。離島への上陸など)への対処
  *いつグレーゾーンか?いつそこから有事になるのか?手続きは?
  *グレーゾーンで武力行使が認められるか?警察権に基づいて自衛隊が出せるか?
 (2)国際的な平和協力活動(駆けつけ警護。基地を出て自他国NGOなどを警護)
 (3)武力行使に当たりうる活動(日本と密接な国がやられたら日本も危ないとき)

・それ以前は、日本が戦争するのは、日本が直接攻撃された場合の反撃に限られていた
・武力行使の旧「3要件」
 (1)日本に対する急迫不正の侵害がある
 (2)排除のために他に適当な手段がない
 (3)必要最小限の実力行使に留まること
・新3要件の(1)
 (1)日本への武力攻撃、または日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃
  によって日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求権が覆される
  明白な危険がある

・集団的自衛権の行使により、日本は攻撃されていなくても戦争に加わることになる
・参戦するか、しないかの判断を迫られる局面が来る
 *「憲法解釈上できるけど、やりません」という選択肢を取るか?という局面も
 *ex.中国とフィリピンが南シナ海で紛争を起こしたら、関与すべきか?
・この転換は、孤立主義から国際主義(自国以外の地域での虐殺や人権侵害に介入する)への転換と見ることができる
 →助けてもらうためだけでなく、助ける義務も生じる

・必要性
 (1)紛争地域から避難してくる日本人などを守れない
 (2)アメリカが困ってる時に守らないと日本が困っても守ってくれない=味方を作ること
  *ただし、恩義に感じてくれるか?/戦争参加で事態改善するか?に注意
 (3)協力が増強する
  ・国際社会では軍事的貢献が評価される。cf.湾岸戦争
  ・平時の情報収集、共同訓練等
  *ただし、これが有事の際の政治決定を縛る危険性も
  *抑止につながるかもしれないが、対抗措置を生む危険性もある

【背景】

・米国が考える冷戦後の世界秩序
 (1)民主主義の拡大
 ←ドイルの民主平和論。民主主義国家同士は戦争をしないという歴史的事実
 (2)米国の覇権維持
 90年代初頭の米国は、日本が依存から脱却して独自の安保政策を進めると予想していた
 →日米安保の再定義
 軍事的には、コモンズ(海、空、宇宙、サイバー空間)の支配
 →コモンズの安全により国際システムが安定する+米国依存が実現する

・しかし、アフガン、イラク戦争による財政疲弊などでアメリカの力は低下している
・一方で、中国が台頭。国民が政府の決定を縛れる仕組みになっていない
→台頭国は現状維持に協力するか/挑戦するかの選択に直面する
→両国とも核保有していることに注意。これまでと違う覇権交代になるかも

・「厳しさを増す日本の安全保障環境」:実はそう厳しくない、そこが厳しい
 (1)北朝鮮の核兵器と弾道ミサイルの開発はどうか?←軍事バランスは韓国が優位
 (2)中国の軍備増強は?←まだ日米を脅かすほどではない
 *世界も脅威とまでは見てないかも。日本-(歴史+領土問題)の立場を想像せよ
→米国に日本を守る自明の理由を欠く
→米国の日本防衛へのコミットメントが減ると周囲から見られてしまう危険も増す
→日本側から同盟をつなぎ止める努力。また、米国の力の低下に対する補填

・大前提:紛争予防が目的であること
 作用がどんな反作用を呼ぶか?
 行動の結果、安全になるか?
 →日中関係に割かれている労力は適正か?

【戦争が起きる/戦争を予防する仕組み】

・楽観:戦争は両当事国が「(短期で)勝てる」と思ってしまうことで起きる
 (1)予測が間違っている←軍事的な力の見積もりは難しい
 (2)わざと間違える←負けるかも、という予想が認められない組織。1941日本
・焦り:先手必勝/早い者勝ちに見えてしまうと、状況が不安定化しやすい

・戦争の予防:水晶玉効果。未来がくっきり見えるようにすること
 →割に合わない=代償が大きい、と事前に分かること
・抑止
 (1)懲罰的抑止=攻撃したらひどい目にあうぞ
 (2)拒否的抑止=攻撃しても守りが堅いから無駄だぞ
・ただし、抑止力の増減や、抑止の成功は見えない
 (侵入されなかったのは番犬がいたからか、いい人だからか?両方の混在があり得る)
 失敗して初めて抑止が効いていなかったことが分かる
・抑止の成功の条件
 (1)報復や拒否する能力があって、それを使う意図がある
 (反面、強化していくと妥協しにくくなる。対立が深まる可能性も)
 (2)能力と意図があることを、正しく相手に伝えられる(交流やホットライン大事!)
 (3)状況に対する認識を両者が共有している
 (越えてはいけない一線がどこかが共有されている。湾岸戦争勃発ではミスあり)
・確実性は:核抑止>通常兵器による抑止>小規模侵害(離島への上陸など)の抑止
・抑止が相手を怯えさせて安全保障のジレンマに陥る可能性もある

・安全保障のジレンマ
 軍備を強くする→対抗措置(相手の軍備増強、同盟)を誘発→状況が不安定化
・ジレンマ激化の条件
 (1)攻撃が防御に比べて有利、早い者勝ち状況
 (2)攻撃と防御の区別がつきにくい(多機能な戦闘機の増機)
 (3)地理的条件。陸続きのほうがジレンマ起きやすい
 (4)もともと不信感がある
・日米中でジレンマは実際に起きた
 米国90年代の日本脅威論、日本の同盟不要論→日米同盟の漂流
  →同盟管理者の努力→96年の安保宣言、97年のガイドライン見直し
   →台湾海峡危機にバッティングし中国を刺激「敵はウチか!?」……

・「リベラル抑止」:軍事力と相互依存を組み合わせた抑止
 戦争をすると損だという状況を友好関係の維持によって作り出す
 ←貿易、留学生や観光客の往来、技術革新、環境問題やテロ対策など共通の問題……
・「英独は貿易のお得意さんだったが、第1次大戦は起きたじゃないか」
 ←当時と現在の違いは、国際的な貿易協定(長期的な枠組み)があること。
  制度化によって水晶玉がクリアになる。担当者が決まることも良い

【日本の選択肢】

(1)現状維持
 ○ 変化に伴う不安定化を引き起こさない
 × ジリ貧。世界が全般的に不安定化していったら……

(2)非軍事的国際主義:防衛政策はこのまま。民生的協力活動やODAの増額
 ○ 変化に伴う不安定化を生まない。国内的支持も得られやすい
 × 即効性がない。長期に予算をつけられるか。各地が不安定化すると継続が難しくなる

(3)軍事的孤立主義:防衛には積極的に軍事力を使う。他国やPKOには原則非関与
 ○ 他国の紛争に巻き込まれない。米国への依存度減。シグナルは明確
 × 軍事増強で周辺の警戒を呼ぶ。歴史認識の和解などに相当のエネルギー要する

(4)積極的軍事的国際主義:安保理決議に基づいて積極的に軍事力行使→集団安全保障
 ○ 米国の停滞を補填しつつ安全保障のジレンマを回避。日本も守ってもらえる
 × 集団安全保障の確立までには不確実性が大きい。防衛費が多大になる

(5)限定的軍事的国際主義:国連決議に基づき、民族浄化など相当ひどい件に限って関与
 ○ (4)に比べてコストが安い。他国との協力も促進
 × 防衛費は増。日本防衛に直結かは疑問。周辺諸国の理解必要。世論は支持するか?

2015年08月26日

8月読んだもの3

■田村慶子, 本田智津絵『シンガポール謎解き散歩』中経出版,2014年.

夏休みの後半に行く予定だけど、チキンライス食ってマーライオン見るだけだと1日持たないかもしれん、と危惧を抱いて買ってみたら、1週間くらい滞在してみたい気分になりました。

* * *

六つ上の友人と、高田馬場の「はま寿司」いってきました。
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ひっさしぶりの回転寿司。
なまもの嫌いだが炙り系と蒸しえび大好きの弊管理人は堪能しました。
若干、メニューに安易にマヨネーズを使いすぎだろうと思いました。

2015年08月21日

8月読んだもの2

■フィリンガム, L.A.(栗原仁,慎改康之訳)『フーコー』筑摩書房,2011年.

古本で安いのがあったので買ってしまいました。
訳者による著作紹介や用語集がついていてサービスよいのが好感。
フーコーはどこから手を付けていいかわからない上に、本が高い+難しい、ということでなかなかリーダー以外のものに触れられていないのですが、とりあえず最初から『知の考古学』『言葉と物』に行ってはいかんらしい。

2015年08月20日

8月読んだもの

■広井良典『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』岩波書店,2015年.

某官僚氏に「生命倫理とかやる人の中では、この人『は』まとも」と言われたので……
すっごいいろいろな文献を渉猟しながらすっごいスコープの広いお話をしていて一気に視点が高くなっていいのですが、見田―ロジスティック曲線の話に近いわりにはそこからの引用が少なめだった気が。

■三木敏夫『マレーシア新時代―高所得国入り』創成社,2015年.

ちょっとマレーシアに行くので、予習。
文章はひどいが、情報は豊かな本でした。

・人口約3000万人。マレー人+少数民族6割、華人2割、インド人1割以下
・イスラム、キリスト教、ヒンズー教、アニミズム等の棲み分け
・国語はマレー語。ほか中国語、英語が日常
・Malaysia My 2nd Home プログラム→長期滞在者(セカンドホーマー)受け入れ
・メディカルツアーも振興
・ゴム、錫輸出→1980年代~電子立国
・1986~直接投資。外資100%所有を認める門戸開放政策→投資ブーム
・5カ年の経済計画(現在は10次、~2015)+10年計画(工業化マスタープラン)
・1969、人種暴動「5月13日事件」→ブミプトラ政策(1971~)
  華人とマレー人の格差解消狙い、マレー人優遇
  ←通商交渉、TPPで問題に
・ブミプトラ・マイノリティ問題。マレー人と先住少数民族の格差問題。サラワク、サバ州
・女性の高学歴化(マレー人、華人を問わない)
・1948、国内治安法+煽動法。デモ禁止、逮捕状なき拘置、恣意的な拘置延長→2015改正
・3K職場中心に外国人労働者300万人。インドネシア、バングラデシュ、ネパール…
・1981~2003、マハティール首相。開発独裁、ブミプトラ政策、イスラム化
  →ハラール食品工業の振興、イスラム金融の整備
・1982~、ルックイースト政策。勤労、モラル、集団主義
・「ワワサン(vision)2020」で2020年先進国入りを掲げる(ちょっと無理っぽい)
・現ナジブ首相。「サツ・マレーシア(1 Malaysia)」「高所得国入り」提唱
・現在は第10次5カ年計画、2011~15。

■Teamバンミカス『まんがで読破 コーラン』イースト・プレス,2015年.

だって会社の同僚が「コーランは通読するもんじゃないです」とか言うから。
「旅行の予習の一環」という弊管理人程度の関心であれば、マンガは最良の媒体であります。
でもなんか実際、字ばっかりの本より全然雰囲気わかります。ありがたい。

ちなみに「だいたい何が書いてあるかだけ知りたい」程度だったダンテの『神曲』もこのシリーズで読みました。

2015年07月20日

連休メモ

3連休だということに直前まで気付かないまま突入しました。

金曜は深夜まで仕事して、それからちょっと寝酒を、と思ったらうっかり午前3時。

土曜は人助け的な活動。
あと、生活リズムが狂ってつらかった。

日曜は梅雨明け。すっごい暑かった。
普通の時間に寝て普通の時間に起きたので、とても元気になりました。
15年ぶりくらいに和田堀公園のプールへ独りで行きました。
150719wadabori.jpg
正午くらいに行ったのに、既に水が相当汚かった。
あと、独りでプールに行っても、やることはがしがし泳ぐことくらいしかありません。
結果、がしがし泳いでしまい、余計暑くなりました。

月曜はちょっと面談がありまして、自宅近くでスパゲッチ食べながら話してました。
暫く喉が痛かったのがやっと治ってきたのですが、喋りすぎていがらっぽい。

ほんとは日曜か月曜に山へ行こうと思っていたのですが、前後に人に会う予定を優先させたため延期にしました。暑いしね。
梅雨明けから盆までを夏とすると、夏など1カ月くらいしかありません。計画的に遊ばないと。

* * *

■蓼沼宏一『幸せのための経済学』岩波書店, 2011年.

■白井聡『永続敗戦論』太田出版,2013年.

* * *

連休は毎日洗濯した。
汗ばむ季節です。

* * *

物忘れというか、気付くべき事に気付けない、話が出てこない、そういう焦りが最近増しています。

先週は、出掛けようとして建物のエントランスまで行ったときに傘を持ってない!と思って傘を取りに戻ったのですが、「ゴミを捨てなきゃ」と思い出してゴミ袋を持ち、結局傘は持たずに外出し、傘を買うことになりました。本当にやばい。

ほんの4年前だったら数日思い悩んでいたことや、ずっと怒っていたことも、数十分から数時間しか持続しなくなりました。その点有り難いのですが、以前なら意識しなくてもできていたことが、「ぬん!」と頑張って意識するというか、自分にリマインドを出さないとできなくなりました。以前からちょっとそうでしたが、何かいつも頭がぼーっとしているんですよね。

これは病的な状態なんでしょうか。それとも40手前になるとこんなものなの?
カレンダーやメモや予習を活用しまくりながらではあっても仕事には支障が出ていないところをみると、ものすごく選択的に日常生活用の頭が悪くなっているのかもしれないです。それならまだいいんだけど。

2015年07月13日

いのたつ

■井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』毎日新聞出版, 2015年.

谷口功一さんによると、著者はまえあつのフレーズだと知らなかったそうであります。
タイトルどうよ、と思う人もいるでしょうし、井上達夫がここまで降りていかないかん状況か、と嘆く人もいるかもしれません。でも弊管理人はよかったと思います。やっと井上達夫入門が、しかも本人の手で出た。『共生の作法』も、大学生のときに出て話題になった『他者への自由』も濃度が高くて結構ハードル高かったので助かります(味わって読む技術が低いせい)。

リベラリズムには二つの起源があるという:
(1)啓蒙=因習や迷信からの解放。独断に陥る危険性もあるが、理性の限界を吟味する営みも啓蒙の伝統である。
(2)寛容=血みどろの宗教戦争への反省。他人がやってる不正義を許容してしまう危険性もあるが、他者の受容により自分を変容させる契機にもなりうる。
→これらのいいとこ取りをできる考え方はないものか。

そこで導かれるいくつかの考え方:
・「普遍化不可能な差別の排除」という正義概念(ある正義は、他者の視点に立ってみても受け入れ可能か、という判定テスト)の導入。
・そこから当然出てくるルールとして「ダブルスタンダードの禁止」。ダブスタは普遍化不可能だからね。
・権力による特定の道徳観の強制の排除。面従腹背を招くから、つまり、保護しようとしたものを堕落させてしまうから。
・批判的民主主義。エリートを含めてみんなそれぞれ愚かだからこそ、アカウンタビリティを確保した民主主義の中でお互いに批判しあって、「よりよいもの」に辿り着く必要がある。
・法が正統であること。その条件は二つ。(1)敗者が勝者になる可能性と(2)構造的少数者への基本権保障。

つまり、さまざまな「善」が花開く、そのための土壌として「正義」ってものが必要だろう。
価値相対主義はそれを用意できないはずだ。
というのが核かと思いました。

――学生のころの弊管理人はこういう考えを多分受け入れなかったんじゃないかと思いますが、今はだいぶ違います。可謬主義+普遍主義(というか、普遍を「志向する」主義。方法的普遍主義)のほうが、可謬主義+相対主義よりも粘り強く共生を探れて、いい世界が作れるような気がする。
ただ「『仲良くやろうぜ』を難しく言ったまで」、という印象は昔とあまり変わってません。この印象から出発してどこへ行くかは弊管理人の課題です。

時事問題への言及が多いです。それを読みながら、今まさに起きていることに対する判断を取り急ぎしなくてはいけないときに、やってみたほうがいい思考実験がいくつかある気がしました。
・自分の判断の方向性を極端まで進めてみる
・自分の判断基準をいろんなものに当てはめてみる
・同じことだと考えていたAとBが本当は別ものではないかと考えてみる
・別ものだと考えていたAとBが本当は同じものではないかと考えてみる
・原因と結果が本当は逆ではないかと考えてみる
・ここは動かしがたいと思った部分が本当に動かしがたいか考えてみる
あと、tipとして
・昔のことを考えるとき、記憶だけに頼らない
もっとあるかも。

ということで面白かったです。
「マハティールのインドネシア」とかいっちゃってますが、ご愛敬。

2015年06月28日

多数決、谷崎、脂質

■坂井豊貴『多数決を疑う』岩波書店,2015年.

一番いいと思う候補(者)に1票入れて、最も票を集めたら勝ち、というのが多数決。みんなで決めるから民主的だし、結果すなわち民意である――。多数決が当たり前に執行されている中では、こういうことを疑おうとも思わない。賛成/反対が社会を分断するのは致し方ないし、少数派にも開票結果は黙ってのんでもらおう。

それを疑う。多数決よりもっといい決め方があるのではないかということを、できるだけ「誰が考えてもそうなってしまう」仕方で考えてみたい。そういう本。

まず、多数決には「票割れ」という問題がある。2者が票を争っているときに、1番人気と近い第3の選択肢が出てくると、漁夫の利を得た2番人気が結果として勝ってしまう現象だ。2000年の米国大統領選挙で実際に起きた。もしブッシュではなくゴアが勝っていたら、その後の世界は大分ましだったかもしれない。ではもっと人々の意見を集約するのにいいルールはないものか。

まず紹介されるのは「ボルダルール」と呼ばれる集約ルールだ。18世紀フランスの科学者ボルダが提案したもので、選択肢が3個なら1位に3点、2位に2点、3位に1点と等差の点数を付ける。このルールは、それぞれの選択肢が1対1で対決したときに他の選択肢のいずれにも負けてしまう「ペア敗者」が1位になる事態を避けられるという利点がある。スロヴェニア共和国では、国会議員の選挙に一部採用されている。

日本の最高裁判事の国民審査のように、それぞれの候補にマルバツを付ける「是認投票」も、候補者が多い時には有権者一人ひとりができる意思表示の量が増えるのでなかなかいい。ただし、組織力の高い政党が定員ギリギリの数の候補(クローン候補)を立てて、彼らに全てマルをつけ、他にバツをつけて議席を独占するような「クローン問題」が起きる危険性はある。

別の選択肢は、ボルダの同時代人であるコンドルセが考案し、後年英国のペイトン・ヤングが修正した「コンドルセ・ヤングの最尤法」だ。コンドルセのアイディアでは、有権者は候補たちに順位をつけ、それぞれの候補たちを1対1で対決させてどちらが支持されているかを判断する。X>Y、Y>Z、Z>Xというジャンケンのような循環が発生することがあるが、最も僅差だった組み合わせを「有権者全体の意向が現れている可能性が最も低いもの」として棄却してしまうことで順位を確定させる。選択肢が4個以上になった時にはこの方法が使えない場合が出てくるが、データから統計的に「背後にある有権者全体の選好」を推定すればいいという考えでヤングが補正を加えた。この強みは、1対1対決でなら他の全ての候補に勝つ「ペア勝者」がきちんと選ばれるということにある。

このほか、自民党の党首選などで使われる「多数決+決選投票」、オリンピックの候補地を選ぶ際の「繰り返し最下位消去ルール」もある。コンドルセ、ボルダ、多数決も含め、同じデータを使っても、用いる集約ルールによって結果がばらばらということも起こりうる。「民意」というものが本当にあるのか、疑わしくなってくる。民意など存在せず、ある選び方を選んだ結果があるだけなのではないか。

では、どのルールがいいのだろう。筆者は、ボルダルールがペア敗者を1位にせず、ペア勝者が少なくともビリにはならないという「それなりの強み」に加えて「分かりやすさ」を持っているという点から、このルールを押す。特に議席1の小選挙区制や自治体の首長選挙に適しているという。

「民意」の存在が揺らいでしまった。今や「民主的」という言葉も再考を迫られている。

「陪審定理」というのがある。十分な情報を与えられ、個々人が独立して判断できる場合には、判断する人が多いほど、多数決の結果が正しい確率は1に近づいていくというもの。逆に少数派になったということは、間違っている可能性が高いということだ。ルソーの「一般意志」に引きつけていえば、少数派が多数派に従わされているのではなく、少数派も多数派も一般意志(というか、それが書き出された「法」)に従うことになる。
ただ、こうした判断は個別の利害関心から離れたトピックについてしか下せない。少数者の抑圧に直結するようなものは投票で決めてはいけないことにも注意が要る。多数決による権利侵害を回避する方策には(1)多数決より上位の審級を設ける=違憲立法審査権(2)複数機関で検討する=二院制(3)ハードルを50%より高くする――などが考えられる。

また、直接制と代表制の判断が食い違うことも「オルトロゴルスキーのパラドックス」として知られている。直接制のほうがみんなの意見が反映されるような気もするが、しかし膨大な人口を擁するコミュニティでは、直接制は時間的、コスト的にかなり無理筋な制度ではないだろうか。理想的な形ではないが、代表制には「議場で熟議が実現する」という可能性をメリットとして持っている。よく話し合うことで意見が収斂していくし、それでも意見の差が解消しないとき、その差が何によって生じているかも分かってくる。
満場一致は望ましいが、それができないとき、どれくらいの賛成を基準に物事を決めればいいのだろうか。過半数でいいのだろうか。3つの選択肢があるとして、X>Y、Y>Z、Z>Xという循環を排除し、多数意見が正当性を確保できるような基準は、計算により約63.2%だという。
ただし、これは直接制か代表制か、という二択の話ではない。筆者は最後に都道328号線問題という問題を紹介し、特殊利益を扱う場合に使える直接制的な考え方も紹介している。

とにかくいろいろなことが書いてあるが、筆者が一貫して試みているのは「現在通用している制度が、天から与えられたもののように動かせない」という考え方(あるいは「自明性の罠」)から読者を引きはがすことだと思う。しかも「多数決多数決というけど、少数者を尊重することだって大切だろう?」と観念的な説得を試みるのではなく、数理的な議論でかなりのところまで「別のやり方」の候補たちの利点と限界を示し、比較できることを示している。その方法は恐らく最も広く共有できる基盤の上に立っていて、それだけに強い。

そんなパキパキした議論を読んだあとに当たっちゃったのが

■谷崎潤一郎『陰翳礼賛』KADOKAWA, 2014年.

明るくて、一様で、かっちりして、のっぺりしてるのってなんかやーね、日本のぼやーんとした感じがいいやね、というおじさんの言いたい放題。
「しかしまあ事実関係のレベルで結構怪しいですけどね、西洋趣味に流れすぎる時代にあっての逆張りだと思えば仕方ないか。それにしては売れちゃったけど」という井上章一の解説がなんとも。

* * *

5月の健康診断でLDLコレステロールが限界を突破したので、摂生することにしました。
なんか身体に悪いかな、と思いながら漫然と続けていた生活習慣を改善するいい機会と捉えることにします。あまり無理をするつもりはないけれども、健康的な食事と運動が習い性になるように当面は気をつけつつ、様子を見る予定。
それにしても再検査と医者の問診を受けにいったけど、目も合わせずに「食事と運動、気をつけて下さいねーはーい」とまあ役にも立たないようなことしか言わない上にさっさと切り上げようとしたので、いろいろ質問してみたが、要領を得ませんでした。こんなのを1人1億もかけて養成してるというのはね。

2015年06月21日

新しい免疫入門

■審良静男,黒崎知博『新しい免疫入門』講談社,2014年.

それにしてもブルーバックスは本当にえらい。
専門家ばかり相手にしてる大御所(いや、大御所になると市民向けの講演もやるからそうでもないのか)に、この難解な免疫の世界を「気合い入れて読みさえすれば、非専門家でもちゃんと分かる」ところまで噛み砕いた本を書かせたのだから。
単に直線的に説明するのではなく、ちゃんと要所要所で「おさらいパート」を設けて読者がいまいる場所を確認させてくれる構成になっているというのも大変ありがたいです。
著者と編集者のその心意気に応えた、というより、メモ作りながら読まないと道に迷うという理由で、以下の長大な要約ができました。
後半に出てくるがん、炎症、自己免疫疾患、腸管免疫などは、もう分からないことだらけ。しかしそれだけに、ブレイクスルーへの期待が伝わってきます。
そして読み通した弊管理人えらい。

* * *

〈自然免疫の起動=だいたいの相手を認識〉

食細胞(マクロファージ)が相手構わず何でも食べる
→食細胞が活性化(消化能力、殺菌能力が増加)
→トル様受容体(食細胞が病原体を感知するセンサー)が細菌やウイルスの構成物質を認識
  TLR、RLR、CLR、NLR=パターン認識受容体。実は全身の細胞に存在
→食べたのが病原体と分かれば警報物質(サイトカイン:ケモカイン、IL、TNFなど)を出す
  ケモカイン:仲間の免疫細胞を呼び寄せる
  その他:周囲の食細胞の活性化を促す、血管壁を緩めて免疫細胞が通り抜けやすくする
→真っ先に好中球、少し遅れて応援のマクロファージが集まる
→炎症(免疫細胞がたくさん集まって活性化する)

〈自然免疫で撃退しきれなかった時→獲得免疫の始動=抗原に対するピンポイント対応〉

食細胞(樹状細胞)が末梢で病原体を食べる
→活性化+自殺タイマー始動(※自己細胞の死骸を食べた場合は活性化しない)
→リンパ節へ移動
→病原体のタンパク質を酵素でペプチドまで分解
→ペプチドはMHCクラスII分子と結合して、細胞表面に提示
→全身のリンパ節を巡回していたナイーブヘルパーT細胞(CD4+)が出会う
→(1)ナイーブヘルパーT細胞のT細胞抗原認識受容体と、MHCクラスII分子+ペプチドが結合
 (2)樹状細胞のCD80/86と、T細胞のCD28も結合(補助刺激分子)
 (3)活性化した樹状細胞からのサイトカインをT細胞が浴びる
→(1)~(3)が揃うとナイーブヘルパーT細胞が活性化

〈活性化ヘルパーT細胞が現場でマクロファージを活性化〉

→活性化ヘルパーT細胞が増殖(これが起きすぎないよう、樹状細胞は自殺)
 (→一部は記憶ヘルパーT細胞になる→免疫記憶)
→活性化ヘルパーT細胞が血流に乗り、ケモカインに導かれて現場到着
→(1)活性化マクロファージの表面に提示されたMHCクラスII+抗原ペプチドに結合
 (2)活性化マクロファージのCD80/86が活性化ヘルパーT細胞のCD28に結合し刺激
 (3)活性化ヘルパーT細胞はサイトカイン放出して活性化マクロファージに浴びせる
→活性化マクロファージがさらに活性化、食べまくる
→活性化ヘルパーT細胞が他のマクロファージにもサイトカインを浴びせて非特異的に活性化

〈一方そのころ、リンパ節では=B細胞がプラズマ細胞になって抗体産生能力を獲得〉

リンパ節に流れ着いた病原体の死骸の抗原決定基が、ナイーブB細胞の抗原認識受容体に適合すると結合
※B細胞の受容体は抗原そのものにくっつく。T細胞はMHCクラスII+抗原ペプチド
※B細胞の抗原認識受容体はY字型、抗体が細胞膜に発現したもの
→ナイーブB細胞がそのまま抗原を細胞内に引きずり込む
→ナイーブB細胞がちょっとだけ活性化
→ナイーブB細胞が酵素で抗原をペプチドまで分解
→MHCクラスII分子にペプチドを乗せて提示
→(1)リンパ節にたくさんいる活性化ヘルパーT細胞にくっつく
 (2)B細胞のCD80/86が活性化ヘルパーT細胞のCD28に結合し刺激
 (3)活性化ヘルパーT細胞がサイトカイン放出してB細胞に浴びせる

→B細胞が活性化、増殖
→活性化の際に、B細胞抗原認識受容体に突然変異を起こす
→抗原のショーウィンドウ役の濾胞樹状細胞(FDC)の元へ行って受容体とくっつくかテスト
→くっつけたものだけがプラズマ細胞(抗体産生細胞)になる(親和性成熟=抗体の仕上げ)
→B細胞の時に膜に持っていたIgMから、分泌用IgGへ抗体作製能力を変更(クラススイッチ)
→一部のプラズマ細胞が骨髄へ移動、大量のIgGを作って全身へ放出
※ここまで、病原体の侵入から1週間以上

※抗原がタンパク質を含まない(細菌の細胞壁などの)場合
→抗原決定基が反復して存在している場合は、一度に多くの受容体に刺激が入る
→B細胞が何とか活性化、ただしクラススイッチが入らずIgMで対応。親和性成熟も起きない
→このときは活性化ヘルパーT細胞と出会う必要がないので、反応は早い。5量体のIgMを分泌

〈抗体の働き=最後は自然免疫がしめくくる〉

(1)中和
細菌が作る毒素や、細菌が死んで壊れたときに漏れ出る毒素、ウイルスに抗体が結合
→細胞に取り込まれなくなる
→抗体+毒素の結合体を食細胞が食べておしまい
例)破傷風菌の毒素、ヘビ毒

(2)オプソニン化
抗体が抗原にくっつく
→抗体のY字の根本(Fc領域)に、食細胞のFc受容体が結合
→食細胞が激しく食べる

〈キラーT細胞による細胞感染対応〉

・抗体は細胞の中に入れないので、細胞感染したウイルスや細菌(クラミジア、リケッチア)に無力
→細菌ごと破壊すればいい

・全身の細胞が持つMHCクラスI分子には、普段は自己由来ペプチドが乗っている
・感染していると、病原体由来ペプチドも乗る
→これを目印に破壊する

樹状細胞はMHCクラスI、II両方に食べた病原体のペプチドを提示できる(クロスプレゼンテーション)
→ナイーブキラーT細胞(CD8+、細胞傷害性T細胞=CTL)が結合
→活性化キラーT細胞に(活性化ヘルパーT細胞のサイトカインも必要な場合がある)
→増殖
※一部は記憶キラーT細胞になる
→感染細胞のパターン認識受容体が寄生細菌等を認識すると、サイトカイン放出
 特にインターフェロンにより全身がウイルスに対して臨戦態勢に
 (1)細胞内でのウイルス複製を妨げる分子の発現
 (2)細胞表面へのMHC分子の発現促進
→ケモカインに誘導されて活性化キラーT細胞が感染部位へ
→二つの方法で感染細胞を破壊
 (1)特殊なタンパク質で相手細胞に穴を空け、酵素を投入。アポトーシスを誘導する
 (2)相手細胞が出しているアポトーシススイッチを押す
→アポトーシスを起こした細胞を食細胞が処理して終了

〈MHCクラスIを出させない病原体への対応→ナチュラルキラー細胞〉

(1)病原体感染をTLRなどが感知、あるいは病原体タンパク質合成のために細胞にストレスがかかるなどして、細胞表面にCD80/86やNKG2Dリガンドなどが出ている
 かつ
(2)病原体が邪魔をして、MHCクラスI分子が細胞表面に出ていない

このとき、NK細胞(自然免疫細胞)が細胞を破壊

〈補足:ヘルパーT細胞には3種類〉

(1)活性化ヘルパー1型T細胞=細胞による「細胞性免疫」。ウイルスや細胞内寄生細菌に対応?
・末梢でマクロファージを活性化
・抗原特異的にB細胞を活性化、IgGを放出させる→食細胞による貪食を誘導
・ナイーブキラーT細胞の活性化を助ける

(2)活性化ヘルパー2型T細胞=抗体がかかわる「液性免疫」。寄生虫に対応?
・抗原特異的にB細胞を活性化、IgGを放出させる
・抗原特異的にB細胞を活性化、IgEを放出させる
→IgEはマスト細胞の表面に結合
→マスト細胞が活性化
→細胞内のヒスタミン、ロイコトリエンなどを一気に放出
→蠕動運動の昂進、血管透過性を高めて粘液を増量
→寄生虫排除。これが目や鼻の粘膜で誤作動すると花粉症になるとされる
・好酸球(炎症物質の顆粒を細胞内に持っている)を活性化する
→寄生虫に結合したIgEを目印にして寄生虫に取り付き、活性化すると顆粒内物質を放出

(3)活性化ヘルパー17型T細胞=細胞外細菌や真菌に対応?
・末梢組織に行ってサイトカイン放出、ケモカイン発現により好中球を集める
・サイトカインにより腸管上皮細胞が抗菌ペプチドを放出

※2型、17型への分化の仕組みはまだよく分かっていない
※1型、2型、17型の役割にはオーバーラップがある。バランスも今後の課題

〈抗原認識受容体の多様性ができる仕組み〉

(疑問1)なぜ遺伝子は2万個しかないのに1000億種類の受容体ができるのか?
→抗体の各領域から遺伝子断片を選んで新しい遺伝子を作る「遺伝子再構成」が起きている

(疑問2)その1000億の中に、なぜ自己に反応するものがほとんどないのか?
▽T細胞の場合
→T細胞は、胸腺上皮細胞に提示されたMHC+自己ペプチドとお見合いをする
→その結果
 (1)強く結合する→アポトーシスのスイッチが入って死ぬ(自己に反応してしまうから)
 (2)適度に結合する→生き残る(MHC+抗原ペプチドに結合できそうだから)
 (3)全く結合しない→アポトーシスのスイッチが入って死ぬ(本番で役に立たなそうだから)
・ここまで、T細胞にはCD4も8も両方出ている
・お見合いで、MHCクラスI+自己ペプチドに適度に結合したT細胞はCD8が残る→キラーに
・お見合いで、MHCクラスII+自己ペプチドに適度に結合したT細胞はCD4が残る→ヘルパーに

▽B細胞の場合
・骨髄で成熟
・周囲の細胞や、体液中の分子などを自己抗原と考えて、いろいろお見合いをしてみる
→強く結合したらアポトーシスのスイッチが入って死ぬ
→それ以外は生き残る
※親和性成熟の際には、突然変異を起こしてぴったりくっつくものだけが生き残るが、ここでのプロセスはその逆

こうしたプロセスを経ても全員とお見合いできるわけではないため、自己反応性の免疫細胞は約10%存在していると見られている

〈誤作動を防ぐ/免疫反応を終わらせる〉

・アナジー
活性化していない樹状細胞に自己反応性のナイーブT細胞がくっつくと「アナジー」になる
=死んではいないが活性化しない。大半はそのまま死ぬ
病原体がいない平常時には、コツコツと自己反応性細胞を取り除いている

・制御性T細胞=CD4+細胞の約10%
活性化した樹状細胞が提示するMHCクラスII+自己ペプチドに張り付いて、自己反応性ナイーブT細胞が樹状細胞に結合できなくしてしまう
←胸腺で自己抗原に強く結合するT細胞の一部が生き残って制御性T細胞になるらしい

・制御性T細胞は免疫応答の抑制もする
表面のCTLA4分子が、活性化樹状細胞の表面にあるCD80/86に結合し、抑制シグナルを送る
→樹状細胞表面の補助刺激分子の発現が減る
→自己反応性でないナイーブT細胞の活性化が抑えられる
さらに、IL2と強く結合する受容体を持っており、これもT細胞活性化を阻む

・B細胞の制御機構はよく分かっていないが、自己反応性のB細胞を活性化するべき活性化ヘルパーT細胞がいなければ活性化は起きないということだろう

・免疫反応を終わらせる仕組み
ナイーブT細胞が活性化すると、アポトーシス誘導スイッチ(Fas)が表面に出る
→免疫反応の暴走時、あるいは収束の局面で活性化T細胞同士でFasスイッチを押し合う

〈免疫記憶〉

・抗原の2度目の侵入に対しては、反応が「速く」「パワフルに」なる
・ただ、プロセスの解明は難しい。理由は「記憶細胞」の数が少なくて実験しにくいから

・記憶細胞の定義:一度、抗原を経験し、そのあと抗原がない状況を生き延びている細胞
・どうも、記憶B細胞、記憶キラーT細胞、記憶ヘルパーT細胞というのはいるらしい
・活性化し増殖したB細胞、T細胞の一部が記憶細胞になる
→エフェクター細胞(働く細胞)は反応が終わると死ぬが、記憶細胞は生き続ける
→次に抗原が入ってきたとき、記憶細胞が活性化される
→エフェクター細胞になったり、そのままエフェクター機能を発揮する
※これ以上詳しいことはよく分からない
※T細胞には、エフェクター記憶T細胞(2度目にすぐに働く)とセントラル記憶T細胞(2度目にすぐ働かないが、増殖能力が高く、エフェクター細胞を生み出す)がいるらしい

〈腸管免疫〉

・腸管には体の免疫細胞の50%がいる
・腸管免疫では、単に異物=排除、ではなく、無害な異物は無視している

・小腸では、食物と一緒に流れてきた細菌やウイルスを粘膜上皮のM細胞がつかまえ、下にいる樹状細胞に渡す
→樹状細胞はパイエル板のナイーブヘルパーT細胞に抗原提示
→抗原特異的に活性化ヘルパーT細胞が誕生
→ナイーブB細胞も抗原を食べて少し活性化、活性化ヘルパーT細胞によって完全に活性化
→クラススイッチ、親和性成熟を経てプラズマ細胞前駆細胞に分化
※ただしここで、IgMから「IgA」へのクラススイッチが起きる点が全身免疫と違う
→前駆細胞は全身の血流に乗って、また腸管に帰ってきてプラズマ細胞になる
→IgAを腸内にむけて放出
→IgAの中和作用で病原体の機能を停止させ、そのまま体外へ排出(食細胞を呼ばない)
※腸の表面の粘液層にIgAが溶け込み、中へ入り込もうとする病原体をトラップするイメージ

・経口免疫寛容=食べたもののタンパク質には免疫反応が起きない
※仕組みは不明。腸管に多い制御性T細胞や腸内細菌が関与か

・好中球の集積や、抗菌ペプチドの分泌を促進させる活性化17型ヘルパーT細胞(腸管免疫のアクセル)への分化にかかわる「セグメント細菌」というのが腸にいるらしい
・ナイーブヘルパーT細胞から制御性T細胞(腸管免疫のブレーキ)への分化に、クロストリジア属の第46株という細菌がかかわっているらしい
※ブレーキ、アクセルともに腸内細菌が関与か

〈自然炎症〉

・TLRなどのパターン認識分子は、自己成分(内在性リガンド)の一部も認識することが分かってきた
・マクロファージや好中球などは、内在性リガンドでも炎症を起こす→「自然炎症」
・内在性リガンドは、ネクローシス(細胞の破裂)で出てくる大量のDNAやRNAなど
・大量ネクローシスの原因は、外傷、薬物、放射線など
・食細胞が損傷部を除去し、修復専門細胞が集積。自然炎症の目的は、組織修復の促進か
・自然炎症は痛風(内在性リガンドは尿酸結晶→IL1β放出→炎症→痛い!!)、アルツハイマー(Aβ繊維)、動脈硬化(コレステロール結晶)、糖尿病(ヒト膵アミロイド繊維)の原因にも?
・炎症を抑えるほうに働く調整役の「2型マクロファージ」というのもいるらしい

〈がんと自己免疫疾患〉

・がんを攻撃する:キラーT細胞、ナチュラルキラー細胞
・がんペプチドワクチン:治療ワクチン。がん細胞だけがMHCクラスI分子とともに提示するペプチドを狙う
・一部の抗がん剤はがん組織のネクローシスを引き起こしており、これががんを標的とした自然炎症につながっているのではないかとの見方も
・ペプチドワクチンがあまり効かない:がんももともと自己細胞のため、制御性T細胞が先に樹状細胞にくっついてしまい、活性化を抑えている?
・がん細胞のPD1L:活性化T細胞のPD1に結合して活性化を抑制、さらにPD1Lに抗アポトーシスシグナルが入ってしまう
・がんの出すサイトカインが、活性化ヘルパーT細胞を1型(ナイーブキラーT細胞を活性化させる)ではなく2型に誘導してしまう
・がんの出すサイトカインが、2型マクロファージを呼び寄せて炎症を抑えてしまう上、がんの血管新生を助けてしまう
・抗体療法:がん細胞表面の、増殖に関係する受容体に抗体をくっつけて機能喪失させる。さらに食細胞による貪食も誘起するらしい

・自己免疫疾患:制御性T細胞の機能不全、自己ペプチドに似た病原体由来ペプチドによる自己反応性アナジーT細胞の再活性化、親和性成熟の過程でできた自己反応性B細胞がきちんと死なない、自己反応性T細胞がきちんとアポトーシスしない、など

2015年06月19日

論理哲学論考

■ヴィトゲンシュタイン, L.(丘沢静也訳)『論理哲学論考』光文社,2014年.
■野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房,2006年.

骨組みだけでできた驚くべき建築。そんなもの見せられても「なんかすごい、けどわからん」と当惑する。ラッセルも困っただろう、現に出版に際して間違った解説を寄せてしまった。まして弊管理人には無理。というわけで野家さん(訳本に「出前講義」が収録されている)に助けを借りたが、なおもやもやしたので野矢さん(『読む』は大学院のゼミをもとに作った本らしい)にも当たり、付箋を貼ったり絵を描いたりしながら読んだ。ぼやーっとした何かを掴んだつもり、くらいになった。

世界は現実にそうなっている事実から成り立っている。各々の事実の布置である。
現実にはそうなっていないが、可能な事態も、それを構成する対象の布置である。
現実にそうなっている世界と、可能な事態を含んだ全体が、論理空間である。
論理空間の外枠が、思考の限界である。

論理空間を操作可能にするための道具が、言語である。
つまり、論理空間を言葉に写し取ったものが言語である。
そこには名からなる単純な要素命題があり、それが組み合わさって複合命題を作っている。
もととなる命題と、一定のルール(論理)に従った操作によってできている。
そうした言語の全体の外にあるのが、語り得ないものである。それは論理と倫理である。
語り得ないものである論理は、しかし言語を成立させる条件である。

やっているのは、何もない空間に純粋な言語のモデルを構築するようなことではない(何もない空間には積み木を積むべき地面がない)。イメージだけでいうと、慣れ親しんだ風景画像の解像度をとことん上げてみる、そんな営みなのだと思う。普段から使っている日常言語の全体を要素のレベルまで分析して、語り得るものと、語り得ないものの境界を画定させるような作業。ちなみに、境界を画定するルールは世界に含まれない。画定しているわたしも世界に含まれない。

そうしてみると、語り得るものってどうにもつまらなくないか。「1+2=3」は発見的な記述では全くなくて、最初からそうなってる世界をただ言葉にして見せるだけの静的な営為にすぎない。(だから科学の知識をダシにした会話は「こうなんだよ」「へー」で済んでしまって、なかなか花が咲かないのだ……)
推測だが、ウィトゲンシュタインは一通り世界の成り立ちが分かった段階で「つまんね」と思い、語り得ないが豊穣な倫理と論理のほうへ旅立っていったのではないか。
そして旅から戻って書いたのが『哲学探究』のようだ。野矢本の最後にさわりが書いてあった。たぶん、若書きの『論考』は純粋すぎたのだ。時間が経って「現実」から出発してはどうかと思うようになった。大人になったのかもしれない。もうちょっとしたら読んでみよう。(『探究』は高いからw)

2015年05月16日

わたしは

■鹿島茂他編著『シャルリ・エブド事件を考える』白水社,2015年.

1月にフランスで起きたシャルリ・エブド事件について、3月に出版されたこの冊子を寝床で数ページずつ読みながらからぐねぐね考えているうちに、5月になって米国でもパロディみたいな事件が起きました。
整理できてませんが、こういう時はクエスチョンを自分で立てて自分で答えるのがいいのかもしれない。
ということで、以下は弊管理人が考えたこと、バージョン1.0です。一応、思ったことに理由も付けるよう努めました。2、3の原則を膨らませているだけですが。
練習問題は絶えず世界から与えられているので、今後も考える叩き台にしようかなと思ってます。

* * *

―今般の出版社襲撃は許容されるか?

「成員を殺したり傷つけたりしちゃだめ(刑罰は除く)」というルールを共有している集団の中で起きたことなので当然許容されない。襲撃犯をとっつかまえて処罰する、という作業が国家に求められるだけの話。

―道義的に許容されるかどうかって話は?

テロの口実に使っただけなら、真意がどこにあるか分からないので道義的な面でどうかという検討ができない。ので、問題はルールに照らしてどうかという面だけから考えることになるんじゃないか。
その結果は上で言ったように「許容されない」。

―背景にはフランスのマイノリティが置かれた状況が……

マクロな状況は個別のケースの説明に使っちゃだめじゃない?どれくらいの影響を与えたかとか言えないでしょう。当の本人の生い立ちがひどいとかの情状があるなら、それを酌めばいいと思う。
ただ、個別のケースに触発されて何らかの社会問題の存在に思いを馳せるのはありだと思うけど。

―今回の話についての判断はそれで終わり、つうことかしら。

終わりじゃないかな。

―じゃあ仮にの話。犯人が本当に気分を害していたとしてそれは考慮されるべきか。もっというと「嫌なこと言われたら暴力ふるっていい」という考えはアリか。

それはナシ。一般に、言論に対して暴力で応じると言論が多様にならない。多様にならないといいアイディアが出てくる機会が少なくなる。(多様さを抑えてもハッピーが増すようなルールがあるとかなら要再検討だけど)
今回はありえないが、経済的な制裁とかの別の圧力もだめだと思う。相手がものを言うための力を殺ぐ点では変わらないから。

―嫌な思いをした人はどう抵抗すればよかった?

抵抗するなら「言論には言論」というのがルール、ということでさしあたりいいと思う。
「黙殺」という手もあるが、それが有効なのは嫌な思いをした側のほうが強い場合。あるいは言ってる側がごく少数で、言われてるほうが多数の場合。
ただちょっと余計なお世話だが、黙殺が有効でも、黙殺してるうちに相手がのさばって自分の立場を危うくする可能性があるので、誰も何も言わなければ自分で言ったほうがいいこともある。

―すごく大切にしている価値を言論でくさされた場合でも言論で抗議しなきゃだめなのかね。

言論の多様性という根本的な価値に照らすとやっぱりだめで、「あんたの言ってることは合理的でない/道徳的でない/美しくない(つまらない)」のいずれかを言うってもんなんでしょう。

―フランス人から日本人が出っ歯のサルとして描かれたとしても?

同じで、フランスの歴史や文化や国民をくさす下品な絵を返すか、オリエンタリズムがうんぬんとか言ってみるか、「凡庸ですね」と言ってみるとか、まあそんな。
ただ、日本人がどう描かれるかという話を離れるけど、英国の王族の名前を動物園のサルにつけてみた騒動というのがあったときに思ったのは、相手がどういうコンテクストでそういう表現をしたかは考える必要があるということ。理由は、単純に自分の価値体系だけを参照して判断を下していると、自分の価値体系がもっと原理的な水準で間違っていた場合に、その発見が遅れるから。
たとえば、表現の害を判断する原理には(1)表現した側に他者を貶める意思がある(2)表現された側が貶められたと感じる(3)一般的に通用する価値観に照らしてダメ―という3つがあって、(2)or(3)だけで十分とする厳格な姿勢と、(1)+[(2)or(3)]を必要とする緩めな姿勢があるとする。
表現した側のコンテクストを探ってみたら、表現した側の文化では許容される表現だったとか、悪意に当たらない表現であったとかならば、望ましくはないが「放っておく」という選択肢が浮上するかもしれない。悪意がないなら、継続的に表現された側を害する可能性は低まるから。
そんな忖度ゲームに乗る気はない、というのも一つの立場だが、その立場が支配する世界に生きていると、自分の側のうっかりも一発アウトになるので危なっかしい(自分のわがままだけが通るという世界は最初から想定してない、念のため)。人間をどういうものと考えるかで意見は分かれるが、賢い人だけの世界に生きているのでなければ、「相手のコンテクストも考える」はルールに入れておいたほうがいい。
悪意がないものを放置しているとハラスメント(表現する側に悪意がなかった”としても”成立する嫌がらせ)が改善されないという問題も生じうるので、(2)or(3)だけでアウトにする厳しい姿勢をもって「悪意がないのは分かるが嫌だ」と発信するという考え方もある。特に習慣化されている場合は害が継続する可能性が高いから。しかしちょっと後でも触れるけど、表現規制には慎重になる必要がある。「嫌だ」と思っている側が正しいとは限らないからというのがその理由。

―暴力その他の圧力で喋れなくするのは明らかにダメだとしても、がーっと何か言われて反論する気がそがれることだってあるんじゃない?それも多様性を損なうと思うけど。

あるでしょうね。「言われたら言い返せる鼻っ柱の強い個人になれ」というのは、かなり高い要求だと思う。
でもそれを理由にして何か言う自由を制限できるかなあ。できない気がする。
そういうアリーナに入場しない、というのはうまい手なんですよ。弊管理人もそういうふうに生きたい。けど、ニッチで息を潜めていても、息をしている限りは何かの拍子に見つかって矢を射かけられることはあるからね。
傾向として、声を出さない人の領域はどんどん声を出す人に侵されていくので、嫌であってもアリーナに出て行って頑張ったり備えたりする必要はあるんだろう。「頑張るべき」というのは弊管理人の好みには反するが、その好みは今のところ正当化できない。
自分で戦うのが無理なら鼻っ柱の強い代弁者に依頼するという手はあるが、資力(あるいは広い意味でのリソース)がなくて難しい場合もある。頼んでないのに勝手に代弁してくれる人も現れそうだが、そういうチャンスに頼るのはいかにも不安。
うまい解決法が思いつかない。

―結局、言論の内容に制約はないということ?

言論の自由を制限すると言論の多様さを損なうので原則としてはしないほうがいい。
でも、直接的で重大な影響を相手に及ぼすものはダメ、でいいと思う。
理由は、そういう侵害を相互に認めていると言論の自由というルールを支えている共同性が荒れてくるから。
ただし、制限は必要最小限であるべき。
それ以上細かい判断はケースバイケースになるしかない気がする。

―共同体の構成員以外は侵害していいのか?

いいも悪いもなく、やりたいならやれば?暴力で仕返しされるかもだけど、という話。
こちら側にも暴力を用意した上でやらないと危なっかしいなとは思うけど。
ただその人たちは、本当に共同体の外にいるのか、共同体に入り得ないのかはちゃんとチェックしたほうがいい。

―風刺画って方法はどうなの。いろんな国で問題になったけど。

風刺画も韜晦な小説もそうだけど、制作者がどんな思いを込めようが、読み取りにくい表現をすると、間違って読み取られる可能性が高くなる。それで読み取れないほうがバカ、という了解が通用する範囲はそう広くないと思う。
シャルリ・エブドの場合はそういうメディアを使った時点で、普遍性のあるメッセージを出そうというつもりはないなと思われるだろう。文化を超えて遠くに届く批評を目指すには、メディアの選択が変だった。分からせたいなら分かるように言うべき。コミュニケーションは発する側と受け取る側が両方で作るものだから。
でもそういう質の問題は「直接的で重大な影響」を及ぼすといえるか。いえないと思う。であれば規制の理由にはならない。
真面目で平明な評論ならよくて、挑発的で分かりにくい風刺はだめ、といいたいのではない。ただ聞く耳を持たれやすいものとそうでないものがある、という脇筋の話。

―制約の可否は誰が判断するの?

ルールを共有する「みんな」かな。全員にアンケートをしてもいいし、代表が話し合ってもいいけど、とにかく「みんな」の意思だとできるだけ多くの人が認められる何かの手続きを踏むこと。
そのとき、なんか言う側と言われる側の声の大きさ(なんか言われた場合の対抗手段)にバランスが取れているかを考慮すべきだろう。社会的な立場とか、拡散できる力とかがすごく不均衡な間柄で、強い側が弱い側に攻撃的なことを言う場合は、反論も同じくらいの力でできることが確保されているとの条件下でやる。
理由は、言論の多様さを担保するとともに、「直接的で重大な影響」があった場合に被害回復の機会を確保するため。「反論してるけど誰にも届かない」じゃ反論してないのと同じだし、「直接的で重大な影響」が弱い側に及んでるときに周りが気づけないのではまずい。
この理由でいくと、弱い側が強い側にいろいろ言うことは、ほとんど制限する理由がないことになる。しかし、「わたしは弱者」と名乗る側が本当は弱者ではなかった場合、不当に相手の言論を制限することになってしまうことには注意が必要。「誰が強いか/誰が弱いか」は当事者が決めるより「みんな」で決めるほうがマシかもしれない。
「誰が決めるか」の問題に戻ると、王様が一人でとか、世襲・学識で選ばれた「代表者」たちが決めるのは望ましくない。多くの人にそれなりの判断ができるための教育と、それなりの情報収集の手段が揃った世の中であればだが、「みんな」で話し合って決めたほうが少数の均質な背景を持った人達が気付かない点に気付く可能性が上がるし、納得もいく。

―それだと普通は多数決で決まるんだろうけど、「それでもやだ」と思っている少数の人がかわいそうじゃない?「誰かが『やだ』と言うものは、とにかく制限する」じゃだめ?

基本だめだろう。認めると言論の多様性が大きく損なわれる危険があるから。ある発言を封じるために「やだ」と言うようなことだって可能になってしまう。
ただ頭ごなしに「だめ」じゃなくて、その人が受けてるのは本当に「直接的で重大な影響」かどうか、吟味してみたほうがいい。もしその過程で「みんな」が間違ってる可能性が出てきたら、もう一回みんなで検討する。とっくり話し合ってみたけど、どうも基本的な立場が違うことが見えてきたら、しょうがないが「みんな」を優先させてもらう。
でも「みんな」側が不誠実な話し合いをする可能性もある。話の内容ではなく、話し合いの不誠実さを問題にして話し合う機会も作っておくとよい。
その話し合いについての話し合いが不誠実だったらこれも問題にして話し合ってもいいが、実務的にはその辺からルール設計で手を打つにもきりがなくなってくるので、反対者が地道に賛同者を集めて話し合いのルールを変更する運動を起こす方向にいくことになるかもしれない。
以上は、やはりルールを共有してる人達の間のこと。ルールの外にいる人とはやっぱり闘争になる。

―あなたはシャルリ?

それ、どういう意味?

2015年05月05日

夜と霧と法事

■フランクル, V.E.(池田香代子訳)『夜と霧 新版』みすず書房, 2002年.

ナチス強制収容所を体験した精神科医・心理学者の回想。著者はフロイトとアドラーの弟子なんだそうです。へーへー。

世紀転換期から20世紀中盤くらいまでの著作には「個人の心のダイナミズム」への関心が色濃く出ているものが特に多いのかなと思っています。外界と、インターフェイスとしての感覚器官と心に生じる像とかいったメカニカルな心の理論は昔からあったけれども、無意識の発見によって心はブラックボックスの度合いを深めたように見えます。その最大最悪のフィールドが収容所であり、その経験の読解に戦後のヨーロッパはほぼ全ての知力を費やしたのではないでしょうか。今なら経済合理性とか集団の行動パターンに力点を置いた分析がいっぱい出そうかなと思ったりして。

『夜と霧』は初版が1947年、この新版は1977年に出ています。初版を読んでいないので間違っているかも知れませんが、お仕事柄なのか、時間のせいなのか、ストレスマネジメントとしてそうなってしまったのか(多分これだと思うけど)、ルポルタージュというよりは、どこか体験を突き放した記述との印象を受けました。
しかしそれだけに、学校、職場、通勤電車を現代にも存在する「小さなアウシュヴィッツ」のように思い出しながら読むことが許されるように思えます。野蛮な消費行動だと非難されても、なお少し許されながら。

「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ」(p.71)

東北を津波が襲ったあとに現地入りしたテレビ局のクルーがキャッキャ騒いでいたことがサイバースペースで批難されているのを見ましたが、たぶん弊管理人が行ったとしても、ものすごくテンション上げていっぱい意味のないことを周囲と喋りあったと思いますね。(→と書きながらそういえば、と日記を探ったら2011年3月14日にやっぱりそんなことを書いていた)

…凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。 「人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」 これは、こう言い換えられるだろう。 「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。(p.122)
…生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。(p.129)
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。(p.134)

対照的に、のんべんだらりと過ぎていく日常という檻のない牢獄は、目的の喪失による離脱というフェイズを発生させない。

この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。(pp.144-145)

こうした区分に『イェルサレムのアイヒマン』(1963)が付けた大きな疑問符を、著者はどう受け取ったのでしょう。個性(フランクル)/環境(アレント)の区分もまたはっきりできなそうですが。

* * *

母と祖父の13回忌のため、ちょっと帰省していました。
無意味なお経、無意味な長時間の正座、無意味なばかりか事実関係がおかしい法話。
もうこういうの、いいんじゃないの。程度の差はあれ、たぶん一同そう思ったと思う。
「死んだらおしまい」と言っている父は毎日仏壇にご飯をあげている、そんな追想、追想じゃないな、同居の継続。そのほうが全然実質的なんだけど。

2015年04月29日

現代政治理論(4終)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

(3)の続き。
うひー、やっと終わった。でもすごい勉強になった。
おめーは30代も終盤になってまだ入門書を読んどるのかという考えもありましょうが、時々散らかってたものを整理する機会がいるんです、独りで本を読んでいるとね。

このところ、歳のせいか20代の時と違って「そうはいっても世界は進歩してる(少しずつだが以前の失敗を取り込んでる)っぽい」と思うようになり、しかし「どの問題を見ても一度は以前に考えられたことがあるっぽい」とも依然として思っています。そうすると、進展中の事態について何か考えないといけない時にとりあえず立つべきスタート地点と、そこに刻まれた失敗と修正の概要をいっぱい知っておくことが大切になる。専門性を持たない弊管理人はそんなわけで時々こういう本を読みたいと思います。

あとメモ作りながら読むってやっぱり有益。本にもよるけど。

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第10章 環境と政治
〈政治課題としての環境問題〉
・R.カーソン『沈黙の春』(1962)→アメリカの農薬規制のきっかけに。利便性・効率性追求の危険を周知
・D.メドウズら『成長の限界』(1972)→経済発展には終わりがあることを指摘。資源管理という地球規模課題が浮上
・自然環境の道具的理解:人間にとって望ましい状態を維持するものとしての、生態系の浄化機能の重要性=人間中心主義
・J.ドライゼク:人間の生命維持基盤としての「環境」=エコロジー
・A.ネス:人間の利害に関係なく、自然が有する内在的価値がある=ディープ・エコロジー(1989)
 ただし、そういう価値を見出すのも、あくまで人間だが……
・環境問題と公平・正義
 (1)環境変化の悪影響は弱者のもとで特に顕在化する
 (2)将来世代にツケが回る
 (3)自然の尊重をどう法的・政治的に具体化するか。自然をどう人間が代弁するか
・リベラル・デモクラシーとの兼ね合い:選択の自由と利益の最大化。コモンズの悲劇。国家による資源管理と環境保護は自由に抵触

〈緑の政治〉
・1960年代:開発に伴う環境破壊、産業由来の環境汚染=「環境問題」→各国で環境担当官庁の創設
・1970年代:都市への人口集中、生活に伴う汚染=「生活型公害」→加害者、被害者の切り分けが困難に
・1972:スウェーデン提唱で初の国際会合→越境汚染の問題=「地球環境問題」へ
・1987:国連ブルントラン委員会報告『われら共通の未来』の「持続可能な発展」→「成長の限界」からの転換
・1992:国連地球サミット『アジェンダ21』
  環境問題に取り組む資金捻出のため、経済成長を促す
  先進国の責任、予防原則の重要性、国際条約の成立に道筋
・ラディカル環境主義者:既存の政治経済システムはエコロジー的価値と正義の実現に寄与していない
  特にドイツ「緑の党」は脱原発を含む政策転換に成功。市場不信と個人の自己決定重視(左翼リバタリアン) 
・1970年代西欧の脱・物質主義的価値観(R.イングルハート)→エコ、反核、平和、第三世界との連帯:R.ダルトン「新しい政治」
  近代批判、官僚制化批判。しかし自由、平等、デモクラシーにはコミット→リベラル・デモクラシーとの新たな関係
・エコロジー的近代化:1980年代前半、ドイツから。経済と環境の相互補強。その基盤としての技術革新
  ただし政府、企業、市民の協調が必要なため、コーポラティズムの国で成功する傾向か
  副作用としての、ラディカル集団の穏健化、現実主義。途上国へのしわ寄せを見えにくくする?
・環境と経済の両立:世界を席巻したアイディアだが、単に産業社会に「緑の化粧」をしただけでは?

〈エコロジーの政治構想〉
・A.ドブソン『緑の政治思想』:ディープ・エコロジー政治思想。道具主義・改良主義は「表層的」と批判
 →環境問題の根本解決につながる「エコロジズム」の提唱
  経済的インセンティブではなくエコロジー的な動機付けに基づく市民として振る舞うこと
 ←でも、個人の陶冶だけでいいのか?
・環境問題は複雑。領域横断的な討議が必要=「エコロジー的合理性」(ドライゼク)
・討議デモクラシーへの期待。将来世代の声や自然の代弁を討議に組み込んでいく可能性

第11章 国境をこえる政治の理論
〈境界線の動揺と政治学〉
・自律的で時速的な意思決定の最高単位:古典古代はポリス、近代以後は主権国家、フランス革命以降は国民国家
・ウェストファリア・システム:国内政治と国際政治の厳密な区分け

〈ウェストファリア的秩序〉
・ウェストファリア条約(1648):
  領域国家:領域内では暴力を独占。国際政治では正統な主体となる
  宗教対立を争点としない
・国内=集権的、紛争解決の手続きがある、分業と相互依存がある
・国際=分権的、上位権力がない、対立の最終形態は戦争、階層性や分業関係はない
  →国際関係はいつも、潜在的な紛争状態にある
・H.ブル:国際政治の伝統3類型
  (1)ホッブズ的(現実主義的):潜在的戦争状態。秩序はあったとしても脆い
  (2)カント的(コスモポリタン的):国家だけでなく個人、社会的主体の協調も存在。人類的共同体に向かう
  (3)グロティウス的(国際主義的):ルールに則った紛争(外交、国際法、勢力均衡)。主体はあくまで国家
 これらはいつも併存してきたとする。
・ブルは(3)を支持。ただしそれでうまくいくのは激しい対立がない場合か
  →19世紀以降、福祉国家・ナショナリズムによる国家的動員→国内矛盾の解決を対外関係に転嫁
  →国家間の妥協が困難になった(E.H.カー)
・ナショナリズムの高揚で、国内で制御されている人間の支配欲が対外的に拡張主義として噴出(H.J.モーゲンソー)
  →米ソの「一国中心的普遍主義」同士の対立→激化。ホッブズ的状態に近くなる

〈国際政治の分権制をどう克服するか〉
・第1次対戦:動員装置としてのナショナリズム→総力戦、秘密外交→戦後の国際政治学成立につながる
・国家、戦争の暴力性をどう克服するか
  (1)国際法や国際機構の強化による、国家主権への制約
  (2)軍縮を通じた物理的制約
  (3)外交政策の民主的統制
  (4)自由貿易を通じた各国の相互依存深化(経済的リベラリズム、N.エンジェル)
・D.ミトラニーの「機能主義」(1933)。国家が持つ主権を多様な機能の束と見る
  機能ごとに専門の国際行政機構を設けて、国家の機能を少しずつそこに移す
  →こうすれば世界政府を作る必要はない
・「新機能主義」:地域的な機構に多様な権限を委譲する。初めは経済から、そして政治へ
  →各国エリートも地域機構への忠誠心を持ち始めるだろう
・自由貿易、機能主義、新機能主義は、国家権力の制約を志向する点で広義のリベラリズム
  ←でも、現実には国家は協調枠組みを破壊するくらいの力を手放さないだろう(現実主義からの懐疑)
  *米ソ対立は現実主義に説得力を与えた
  *ただ、先進資本主義国の関係はリベラリズム的状況に近い

〈グローバル化〉
・冷戦と南北問題で分裂の様相が支配的だった国際社会の中でも、1960年代末~70年代にかけて「地球的な問題群」があるとの認識が広がった→「宇宙船地球号」の流行。地球環境問題、第三世界の貧困、南北間の経済格差、開発、人権、国連人間環境会議(1972、ストックホルム)
・背景:大量生産・大量消費の経済成長がもたらす環境負荷、通信衛星などによる国際的コミュニケーションの拡大、「成長の限界」、宇宙空間から撮影した地球の映像→地球は有限な共同空間
・国際政治学の視座の転換:
  (1)国境横断的関係:国際政治の主体は国家だけではない
   多国籍企業、研究者の国際組織、国際的な業界団体、宗教組織の国境を越えた活動に注目
  (2)国家間の相互依存:国家間の相互依存進展による軍事力の有効性の相対的低下
・1970年代末以降のグローバル化の原動力=市場、金融自由化で開放された力。ネオリベ的グローバル化
  →小さな国家。国家の空洞化とデモクラシーの空洞化
・ワシントン・コンセンサス=自由貿易、資本市場の自由化、変動相場制、利子率の市場による決定、市場での規制緩和、民営化、緊縮財政、税制の累進制緩和、所有権と知財の絶対的保護。小さな政府のイデオロギーは依然としてエリートに支持されている

〈国境を越えるデモクラシーの理論〉
・ウェストファリア・システムから考える:
  (1)国内政治のデモクラシー
  (2)国際関係の民主化
・しかし「国際関係の民主化」の意味するところは?NGOや新しい社会運動が国際政治過程に参画すること?
・国内政治のデモクラシー(代表制デモクラシー)は国際関係の民主化の基礎になるのか?
・D.ヘルドの「コスモポリタンなデモクラシー」。現在の国内/国際デモクラシーには5つの乖離
  (1)法。個人の権利や義務に関する問題が国家を媒介せずに問われるようになった
  (2)政治体。世銀やIMF、EUが国家を拘束する意思決定をしている
  (3)安全保障。現実には覇権国家に各国が依存・従属している
  (4)アイデンティティ。グローバル化したメディアが先進資本主義国の文化的支配をもたらした
  (5)経済。市場に対する各国の管理能力が損なわれた
 →権力構造が国、地域、国際関係全般、に分散しているが、デモクラシーは国ごとにしかない
 なんのためのデモクラシー?→市民個々人の自律性向上
  (1)権力の恣意的な行使からの保護(古典的リベラリズム)
  (2)市民による意思決定への参加
  (3)意思決定に参加するための能力を確保できる環境整備
  (4)個人による資源入手の可能性を最大化
 →地理的、機能的に多層的な民主的コントロールが必要
 どうやる?
 →国、地域、国際の各レベルで、多層的なパブリック・ローの制定と執行
 →紛争解決の法も整備されていくはず
 *ただし、ヘルドはそれにむけて関係者をどう動員するかまでは触れていない
・個人は多様な「運命共同体」に委ねられている←国境の内側の共同体だけではない

〈新しい世界をつくる社会運動と政治理論〉
・2008年金融危機、それにもかかわらず温存されたネオリベ的イデオロギーや力の構造
・イラク戦争や対テロ戦争における国際社会の亀裂の深まり
→対抗するアンチ/カウンター/オルタナティブ・グローバリズム、NGO、トランスナショナルな/グローバルな市民社会
→対人地雷、国際刑事裁判所、クラスター爆弾禁止などの実績
・平等な市民の間の連帯を志向、「社会フォーラム」
・分配的正義:ロールズ『正義論』の発展→国際社会への敷衍(ベイツ、T.ポッゲら)
 議論は多様。ただし大きく分けて二つの立場
  (1)グロティウス的:国内/国際の区別を保持しつつ、貧困などの対策を各国に委ねる(現実はこちら)
  (2)カント的:貧困対策の責任・義務が国境を越えて成立すると考える(一貫性はこちら)
・人道的介入、正義の戦争:コソボ、アフガン内戦、ルワンダ、コンゴ
  介入と主権に関する国際委員会「保護する責任」論:国内政府が責任を果たさない場合に、国際社会が代行
  →人道支援から武力介入まで、2003イラク戦争はこれを採用せず。ただし2011NATOのリビア介入はこれ
  *ただし先進国による「人道帝国主義」に転化する危険を認識せよ

2015年04月26日

現代政治理論(3)

(2)の続き。
実は読んでるのはもう最終の第11章ですが、ノート化が追いつかなくて。
それにしても、とてもうまく構成されたこの本をもってしても、弊管理人は「共和制」と「公共性」の概念とその重要性がいまいちぴんと来ません。

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第8章 フェミニズムと政治理論

〈政治において「人間」とは誰のことか〉
・人権や政治の主体でなかった女性→O.グージュ『女性および女性市民の権利宣言』(1791)=「人権宣言」(1789)の女性版=で平等理念の訴え
・女性の権利否定の根拠
 (1)妊娠・出産等の肉体的性差=母性の強調
 (2)女性は政治活動に向かない=特性論
 (3)女性は家庭を守るべき=役割分業論

〈フェミニズムの展開〉
・第1波(19世紀後半~20世紀前半):女性が男性と同等の法的地位を持つこと。参政権と財産権。
 公/私の区別に立った「公的世界」での、地位・資格という「形式」の平等
 特性論と役割分業論に切り込めていなかった
・第2波(1960年代~):社会的・経済的女性差別の問題化
 B.フリーダン『新しい女性の創造』=定型化された女性像、女性への期待役割による心理的抑圧
 重要概念:「家父長制」「ジェンダー」
・家父長制(=patriarchy. 文化人類学のpatriarchalismとは別の概念)
 男性が女性を支配・抑圧する社会構造
 「個人的なことは政治的である」=★公/私の二分論に対する根本的挑戦
 (1)ラディカル・フェミニズム(K.ミレットら)=家庭(私)の抑圧構造が社会(公)的差別の根源
 →「本能」「個人のこと」「不運」から「権力関係」への読み直し
 (2)マルクス主義フェミニズム(M.D.コスタ、C.V.ヴェールホーフら)
 →家事・育児という「再生産」活動の無償労働化と労働市場での不平等を問題化。家父長制と資本主義の共犯関係
・ジェンダー=社会的・文化的な性別。「育ち」が作る性→つまり変更可能である!
 論点(1)性差のどこまでが生物学的に決まるか←上野「決着つかない」
 論点(2)「社会的・文化的な性差がある」ということをどう展開させていくか
   方向(a)男から押しつけられたアイデンティティに対抗するアイデンティティを主張する。本質主義
   =C.ギリガン『もうひとつの声』。抽象的な正しさより具体的な状況での配慮=独自の倫理観「ケアの倫理」
   方向(b)「女性の特徴」があるという発想の否定。構築主義。「一枚岩ではない」
   ←しかし、これが敷衍されるとマイノリティや社会的弱者が「集合的主体」を立ち上げることができなくならないか?

〈政治理論への寄与〉
(1)資本主義の「外部」を発見した。伝統的家族が担ってきた「再生産」というインフラに光が当たった
(2)私的領域というミクロな権力を主題化し、社会分析に応用した。公/私の区分を揺るがせた。
→以下の3点に留意
(a)用語をずらした
  従来の社会科学:公的=政治/私的=市場・市民社会
  フェミニズム:公的=政治・市場・市民社会/私的=家族
(b)私的領域も権力から自由でない
(c)公/私の区分を否定しているのではない。何が公的イシューになるのかに関して、再考を迫っている
・新しく定義された(市場ではない)私的領域=「親密圏」
 プライバシーの単位は家族ではなく、個人
 「家族」も婚姻家族だけではない。事実婚、同性愛……
 伝統的に家族が担ってきた育児・介護などをどう社会が担っていくか。役割分担の再考
 DV=「家族」内で放置されてきた暴力。公共圏と親密圏には違うルールが適用されるべきか?
・正義論へのインパクト
 (1)ケアの倫理→「関係性」を考えに入れる形での再編
 (2)公/私の線引き批判→リベラルな正義論の持つ中立性・普遍性批判
・「男並み」か「女性の特殊性」か、という2択から「多様性」(J.バトラー)へ


第9章 公共性と市民社会
〈「公共性」publicnessとは何か〉
限定しようという方向性:ネオリベ。自己責任。ゲーテッドコミュニテイ
強化しようという方向性:愛国心。ナショナリズム。治安向上のための「公共心」。反・市場原理主義
・公共性=国家か?開放されたものと見るか?

〈公的/私的〉
・アリストテレスの「政治的共同体」「ポリス的動物」。公=平等な自由人の領域。その反対はオイコス=経済、家族の領域
・でも、市場って公共的じゃないの?
  A.スミス:分業を通じた協力と依存のネットワークは公共性を阻害しない。国家はそれを教育や公共財の分配で補完すればよい
  J.=J.ルソー:市場は不平等のもと。公共性は市場を廃した自給自足的な小共和国でこそ実現される
  →G.W.F.ヘーゲルによる止揚:私益と公益をつなぐ「中間団体」=代表制&政党政治
    ただしマルクスにとって国家は支配のための装置

〈アレントとハーバーマス〉
アレント:ポリスとオイコスの区別は維持。私的―社会的―公的、に領域を分ける
 その上で公共的領域は、共通の関心事についての「活動」=言葉を通じた相互行為=の場とする
 公的領域は私的、社会的領域とは切断されている
 →市場や国家に公共性を見る議論に対する根本的な批判に
ハーバーマス『公共性の構造転換』:公共圏とは、われわれの社会生活の一領域で、公共的な意見が形成される
 市民的公共性=平等な「私的個人」の間に成立する関係。家族(親密圏)と市場。私を公につなぐ契機を与える
   ←制度的には、市民的公共性は選挙による議会制として現れる。非公式には、メディアやコーヒーハウスでの世論形成

〈政治的公共圏と討議デモクラシー〉
ハーバーマス『事実性と妥当性』
・討議を通じて作られた法規範は国家の強制力行使を制約/正統化する
  背景(1)特定の宗教、哲学によって(トップダウン的に)世界を意味づけることがもうできない=ポスト形而上学
  背景(2)高度に複雑化した現代=産業社会
 こうした討議が行われる開かれた空間=公共圏。さまざまな人と制度を貫通するコミュニケーション
 →公共的意見=世論の形成。このプロセスが「討議デモクラシー」と呼ばれる
・討議デモクラシーは、「言語によるコミュニケーションで形成される」点で経済や行政のシステムと違い、「最初から統合された共同体を要求しない」点で共和主義とも違う
・2つのやり方
  (1)制度化された公式な討議=立法議会での議論など
  (2)非公式な「政治的公共圏」での討議→議決を行うなどの制約がない→新しい問題(DVなど)の発掘→(1)に持ち込まれることも
・公共性を国家や民族に独占させない

〈現代の市民社会論〉
・1980-90年代の東欧民主化:党や国家の支配から自由な団体=教会、自主管理労働組合、自発的な市民組織=による
・西側でのケインズ型福祉国家の問題(肥大した官僚制国家と市場経済の剥き出しの力、という2つの問題)に、代表制デモクラシーがうまく対処できなかった
 →新しい政治の担い手:環境保護、平和、人権など金銭的利益に結びつかない社会運動、途上国や紛争地域支援の団体
・M.リーデル:市民社会=政治性、権力性を持たない私人間の関係としての社会
・M.ウォルツァー:市民社会=国家(強制力)とも市場(利益)とも区別される中間団体が構成するネットワーク
・第3の領域、としての市民社会。国家や企業に異議申し立てする「対抗性」と、NGO―政府協力などに見られる「補完性」の微妙なバランス

2015年04月19日

現代政治理論(2)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

前に書いた第1章~第4章の続き。
かなりいい教科書の予感……!!

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第5章 平等
〈『正義論』とアメリカのリベラリズム〉
・L.ハーツ「自然的リベラリズム」。欧州と違い、世俗権力と教会の結びつきや、身分制秩序、強力な社会主義勢力が不在→一般市民の政治権力からの自由という、古典的リベラリズムの自然な共有
・19世紀後半からの産業化→格差、不平等をどう考えるか?
(1)保守主義=正当。結果つまり現状の倫理的追認。政府の介入を認めない。
(2)★リベラリズム=政治による社会改革を求める。福祉国家的政策。イギリスの「ニューリベラリズム」との共通性。独占禁止、移民の社会統合、都市環境の改善。ニューディール政策。L.ジョンソンの「偉大な社会」計画、奴隷解放。
→~1960年代、リベラリズムの絶頂→そして批判(経済効率性を損ない福祉依存を招く、国家や社会の統一性を損なう)→80年代以降、影響力の減退

・J.ロールズ『正義論』の登場(1971)。リベラリズムの基本原理の探究。ヨーロッパ式平等論=功利主義に対する評価
・「社会的基本財」(人間の価値実現に必要な財)=権利や自由、機会や権力、富や所得、自尊心。その適切な配分について
(1)正義の第1原理=平等な自由原理。ある人の基本的自由(最低限の市民的・政治的自由。選挙権、公職に就く権利、適正な刑事手続きを要求する権利、言論・集会の自由、私有財産権)の制約は、他者の基本的自由を擁護する場合にのみ可能である
→リベラルな社会形成のための最低限の条件
(2)正義の第2原理=社会・経済的資源配分。どういう時に不平等が許されるか
  (2-1)資源の獲得に有利な地位、職業に就く可能性が全員に開かれている(公正な機会均等原理)
  (2-2)不平等が、社会内の最も恵まれない人に最大限利益になる(格差原理)
→結果の平等論志向
・上の原理を導く道筋。原初状態において無知のヴェールをかぶせ、原理を選択させれば、各人はマキシミンルールを採用するであろう

〈『正義論』への批判〉
(1)リバタリアニズムからの批判
・R.ノージックの「最小国家論」=ロールズの福祉国家批判。ロックらが想定した「自然状態」で、人は権利侵害に対抗する私的段階「保護協会」を形成する。その後、保護協会間の紛争を通じて「支配的保護協会」が誕生する。協会に加入しない独立人(潜在的な挑戦者)が残るが、彼らにも権利保護サービスを無料提供して取り込む。→警察・国防と賠償機能を独占する「最小国家」の完成。
・「権原理論」。権原=資源保有の正当性。(1)誰にも保有されていないものを占有する「獲得」(2)同意の上で譲渡される「移転」(3)不正な取引の被害者に本来の財産を返す「匡正」。ロールズの拡張国家が行う再分配は、いずれにもあてはまらない不当なものだと批判する
*ただし、個人の自由な意思を尊重する点ではロールズと共通

(2)コミュニタリアニズムからの批判
・M.サンデル、M.ウォルツァー、A.マッキンタイア、C.テイラーら。ロールズの「原初状態」は共同体に埋め込まれた自我の在り方と反するし、原初状態における道徳的判断は独善になる危険がある
・サンデル:リベラリズムは、その改革主義的な政治に不可欠な政治権力や国家の所在を正当化できない。★政治的連帯の可能性も追求できない

〈ドゥオーキンと資源主義〉
・R.ドゥオーキン=平等論の課題を2つに整理
(1)資源主義=社会内における重要な資源配分の平等性に限定する
(2)福利主義=資源を使って実現する「望ましい状態」(福利)の平等
・ドゥオーキンとロールズは資源主義。資源主義は、例えば障害者への資源の傾斜配分が正当化できないという問題点がある。しかし、福利主義には、例えば贅沢をしたい人の欲求充足を、質素な生活で満足する人に優先させてしまうという問題点がある
・資源主義は、生じた不平等にどう対処をするか?
(1)当人の選択の結果として生じる不平等は自己責任。ただし「保険に入る」というオプションを用意する
(2)当人の選択によらない不平等(身体的障害など)は公的に救済する

〈福利主義の展開〉
・A.セン。貧困が蔓延する途上国では、医療体制や栄養、教育の不足により、資源配分を平等にされてもそれを活かせない→与えられた資源を活かす能力(ケイパビリティ)の平等、選択可能な生き方の多様性が必要→福利の平等を保障すべき
・ただし、この平等は「生物的・社会的生存における最低限のライン」に限定されるべき(贅沢したい人の欲求充足が優先されてしまうという問題を再燃させないため)←「何の平等か?」と考える(ある問題に最もよく合った平等論を選択する)ことの重要性
*最低限の保障までは福利主義、その先の冒険は資源主義で、といった棲み分けが可能?
*いまそこにある不平等に焦点を絞ることで実現した、平等論の再興→W.キムリッカの少数派先住民族に関する平等論などへと展開


第6章 デモクラシー
〈デモクラシー論の展開〉
・「多数の人が集まって一つの結論を出す」デモクラシー論の軸
(1)意見の複数性という出発点と、一元性というゴールのどちらを重視するか
(2)代表制は可能か不可能か
*両者は理論的には別ものだが、複数制と代表制、一元性と直接性を結びつける人が結構いた
・ヘロドトスの3類型(支配者の数による):君主制、寡頭制=貴族政、デモクラシー。
・プラトンの警戒心「無知な大衆による非合理な政治」。アリストテレスの懸念「社会の多数である貧民の利害だけが突出するのではないか」
  ・多数への授権→衆愚政治→アナーキー状態→僭主政、という最悪の政体に行き着くという経験則(例:ナチス)
  ・J.マディソンはデモクラシー<共和制を主張。アメリカ連邦憲法では大統領制(デモクラシー)をとりつつ、司法審査制度などストッパー的制度も併設
・ルソー→T.ジェファーソンらの直接デモクラシー論へ接続
・A.トクヴィルのアメリカ診断:デモクラシーは多数派の専制を招くと思っていたが、アメリカを見るとそうでもない。自発的に多数の結社ができて意見を述べている。意見表明の多元性が確保できればリベラルなデモクラシーは可能ではないか?
・事実としては19世紀を通じて選挙権が拡大→デモクラシーは実現へ。産業化で大量発生した労働者の多数意見を無視できなくなっていった

〈大衆デモクラシーの成立〉
・G.ウォーラスの警告「非合理な判断を政治に持ち込むだけ」……だが、それを自覚できれば機能するはず
・W.リップマンの悲観「人は先入観=他人の意見=ステレオタイプを通してものを見る」……しょうがない。プロに任せろ
・A.シュンペーターの割り切り「普通の人が政策を決められると思うな。政策を決める人を決めるのが投票である」=デモクラシーとエリート主義は両立可能
・C.シュミット、ナチスの経験→デモクラシーと議会は停止させてはダメ

〈現代デモクラシーの諸相〉
・アメリカのデモクラシーは代表制を前提
・アメリカ型(競争型):R.ダールの多元主義。自発的結社たちによる不断の競争(「選挙の時だけ競争」だったシュンペーターを拡張)。デモクラシー<リベラリズム、の上で両者の統合を図る
・ヨーロッパ型(調整型):A.レイプハルトの多極共存型デモクラシー。P.シュミッターらの「ネオ・コーポラティズム」。北欧などでの長期連合政権、利益団体と政府とのネゴを通じた安定
・1960~70年代「政治の季節」が過ぎて……政治参加の低下。リベラリズムで調整するほどの水圧がなくなっちゃった。利害の複雑化で、代表制により人々の意見を反映できなくなった?直接制を求めている?
・多数者の専制:少数意見の排除=女性、非西洋……→W.コノリー「アゴーンのデモクラシー」による再定義。他者と接し、自分が変容することにデモクラシーの目的がある→ラディカル・デモクラシー

〈討議デモクラシーとラディカル・デモクラシー〉
・討議デモクラシー=討議を通じた合意形成を重視
  (1)一般市民による討議。人の話を聞いて自己反省する=選好の変容がありうるような討議
  (2)ルールを守った理性的な討議(これには「理性的」という枠づけの権力性を見る批判もある)
  (3)代表制を否定しない、討議を通じた意見の深化によって代表制を補完する
・ラディカル・デモクラシー=意見対立の表出を重視する
  (1)古典的な直接デモクラシーに近い。下からの権力創出(S.ウォーリン)(代表制も否定しない)
  (2)抵抗=既存の支配権力に対する「異議申し立て」
・2本立てのデモクラシー。多元的・直接的なデモクラシーは市民社会の非公式な次元で受け持ち、公式の政治的決定では代表制を尊重する。そこで討議と決定の関係をどう考えるか

〈ネーションとデモクラシー〉
・同質的なネーションによる統治機構=ネーションステート(国民国家)という前提。その上に実現する主権は国内外ともに絶対的
→近年、この同質性の擬制性が際立ってきた。マイノリティ、差異の重視
・デモクラシー=全員による決定。しかしその「全員」とは誰のことか?


第7章 ネーションとエスニシティ
〈ネーションとナショナリズム〉
・ネーションの2つの意味
 (1)言語・宗教・文化・エスニシティなどを共有する同質的な集団←こっちが古い。中世大学で使われた「同郷者natio」
 (2)国家(state)が管轄する人々の全体←フランス革命から(1)と合流。主権者=人民の均質性
・ナショナリズム=(1)(2)を一致させようという運動。ただしネーション間の差異が「優劣」に読み替えられる現象も→排他、差別
・同質性としてのネーションの功:連帯、再分配の根拠。罪:内部の差異の否定、選択的な歴史の忘却、伝統の発明、動員の根拠
・J.G.フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』:同質性としてのネーション。ただし言語と文化の共通性に根拠を見たもので、血と土(ナチ)とは別物と見ておいてあげたい
・E.ルナン『国民とは何か』:ネーションに自然的・実体的基礎はない。個々人の自由意思で「一つでありたい」という選択が日々なされている。明るく自由なネーションのイメージ。共和国フランス(ただし実態は結構違う。入退会が自由だったこともない)
*フィヒテとルナンの違いは、国民国家をまだ実現していなかったドイツと、既に実現していたフランスの違いを反映か
・E.ゲルナー:ナショナリズムの経済的起源。工業やサービス業の勃興→新技術を理解するための読み書きの必要性→学校、標準語、統一した歴史観→帰属意識
*でもなぜ、産業化が一応収束した段階でもネーションの観念は残り、強化さえされているのか?
・A.スミス:ネーションはゲルナーほど人為的ではない。ネーション成立の「タネ」となる同質性がそれ以前にあったはず
・B.アンダーソン:ネーションの観念の成立における、印刷媒体の役割。ルターのドイツ語聖書+活版印刷技術→「ドイツ民族」の創出

〈多文化主義〉
・政治の主役「われわれ」とは誰か?どんな範囲か?
・多文化主義=国民国家内に存在する複数のエスニックグループに対する平等な政治的処遇を求める運動。1971年カナダの多文化主義採用、1980年代アメリカでの教育カリキュラム修正……
・多元主義批判としての多文化主義:少数派エスニックグループはいくら多元主義の下で自由競争しても多数になれることはない。永続的な抑圧状態を何ともできない
 →それぞれのアイデンティティが承認されるかどうか。承認をめぐる政治
・承認をめぐる政治が出てくる要因
 (1)身分制秩序の崩壊→アイデンティティは選び取るものに
 (2)選び取ったアイデンティティの承認を社会に対して自分から積極的に求める必要
・承認に向けた2つのアプローチ
 (1)普遍主義の政治:全市民に対する諸権利の平等。奴隷解放から公民権運動までのアメリカなど
  公的な場における同化政策/私的な場における固有文化の尊重
 (2)差異の政治:独自性を保障するような処遇
  エスニックグループの存続と独自性維持の権利=キムリッカの「集団別権利」。自治権や文化権、議会に枠を確保する特別代表権など
*ただし個人はエスニシティだけでなく、ジェンダー、年齢、障害といった諸アイデンティティを重層的に持っていて、これが衝突する可能性も
*アイデンティティ闘争の場は国家だけでない。言語の覇権をめぐる国際競争など

2015年04月18日

ぎょうざやさんなど

柏にカブリIPMUの講演会聞きにいったら希望者多くて入れなかった。クソめ滅びろ。

という気分になったところでテイクアウト専門の「ぎょうざやさん」で餃子10個350円、チャーハン小盛り450円を注文。
「お待たせしましたー」と袋を渡されて受け取る。

   ずしり。

なんか嫌な予感がしながら2時間かけて帰宅しました。
どっかの公園で食べようと思ったのですが、公園というものがなくてね。
開披、チャーハン小盛り。
150418gyozayasan.jpg
餃子はわりと普通。どちらも味は普通(冷めたせいか)。
話の種だな。

* * *

今日、たぶん一年のうちで一番いい気候です。

* * *

今週前半、ちょっと必要があり、ものすごく急いで本を3冊読んだ。

■伊賀忍者研究会編『忍者の教科書 新萬川集海』笠間書院,2014年.
■伊賀忍者研究会編『忍者の教科書2 新萬川集海』笠間書院, 2015年.
■傳田光洋『皮膚感覚と人間のこころ』新潮社,2013年.

* * *

徒歩での移動中は、相変わらず放送大学を聞いてます。
まだ始まったばかりですが、新しい授業では「貧困と社会」「ロシアの政治と外交」が面白いですね。

* * *

前々から行ってみたいと思っていた銀座のLAZYでパングラタンを食いました。とってもうまかった。
あと、ポルチーニ茸とフォアグラのリゾットで昇天。
いろいろ食って、ワイン2本空けて3人で18000円。場所考えると全然悪くないんじゃないかな。
仕事の懇談だったので写真は撮れず。近いうちに今度は友達連れて再訪したい!!

* * *

前々回の日記に出てきた友人は肺転移したがんについて「治らない。薬でコントロールするしかない」と言われたそう。
ちょうどパーティの日で、ホストとして盛り上げていた彼は、すみっこにいた弊管理人のところに来てそれを伝え、一瞬泣き、騒々しい中へ戻っていった。結局その一瞬ではどんな言葉も発せられなかった。別れ際にした握手を介して、その時の感情がいくばくか伝わっていたらと願うけれども……

2015年04月05日

現代政治理論(1)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

【2017年7月追記:続きはこちらにあります→(2)(3)(4終)

中古で購入。まだ5章を読んでる途中ですが、いろんなことが書いてありすぎて覚えらんない、メモとりながらじゃないとだめだーと思ったので、とりあえず1~4章分。

* * *

第1章 政治
・政治=国家や自治体という公権力の領域→「社会全般に見いだせるもの」へ(20世紀の政治学)
・R.ダール★「control, influence, power, authorityをかなりの程度含む人間関係の持続的なパターン」=2人いればそこに政治。日常的な「政治」の用法とも合致

・政治を特徴づける要素(1)権力とは?→仮置き「自分以外の行為者に、もともと意図していなかった行為をさせる能力」。社会における★対立の不可避性が権力を要請する
  =政治における「正解」のなさ
  =「変えられる」ということでもある
・政治を特徴づける要素(2)公共性とは?→「ある集団の構成員に共通に関係する秩序のあり方に関わる事柄」。意識されているとは限らない。こちらにも「公正さ」をめぐる対立の可能性
  H.アレント『人間の条件』:ポリスにおける多様な個人の相互行為。私的行為の調整ではない

・対立の不可避性:C.シュミット「友と敵」→C.ムフ「アゴーンの多元主義」=「われわれ」内の多様性が暴力を生まないためのルールの要請
・対立によって政治は顕在化する。決着すると再び隠れる


第2章 権力
・J.K.ガルブレイス:権力の分類:威嚇型(強制)、報償型(取引)、説得型(選好の変容)
・H.ラスウェル:権力の資源:富、知識、技能、尊敬、愛情、徳……
  J.ナイ「ソフトパワー」=他者の選好を形成する能力
  ただし、相手がそれを資源と認識しないと効力を発揮しない。★権力は「関係」

・権力に関する2つの見方(1)非対称的権力観、ゼロサム的権力観=意思の押しつけ(M.ウェーバー)
  ←抵抗の契機になりうるが、無力感を誘発する危険も
・権力に関する2つの見方(2)共同的権力観、非ゼロサム的権力観=説得による対立の解消
  (2-1)権力=集団の目標達成のため個人の義務遂行確保(T.パーソンズ『政治と社会構造』)
     (例:貨幣を成立させる力、警察への信用に基づいた協力)
  (2-2)権力=成員の自発的協力(アレント、社会契約説における国家の創出)
  ←成員の当事者意識を促すが、現状肯定に陥る危険も
*J.ハーバーマスの整理:非ゼロサムは創出や機能の説明、ゼロサムは行使や維持の説明

・正統性legitimacy=支配の「正しさ」
  ウェーバー「正統性の信仰」=服従者の内面からの支持。合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配。★被支配者が正しいと思ってくれることが必要→ダールに承継

・権力はどうすると見えるようになるか?:S.ルークスの整理
  1次元的権力観=誰の意見が通ったか(行動論的政治学)
  2次元的権力観=誰の意見が通ったか+あるトピックの争点化を阻んだのは誰か
  3次元的権力観=さらに、対立や対立の認識を説得により消滅させたのは誰か
・3次元的権力観になると、「当事者による対立の自覚」に注目していても権力は見えない
  →「客観的」に利害対立を判定する必要
  =「主意主義的権力観」から「構造としての権力」観へ
・構造としての権力:マルクス主義、M.フーコーの「規律権力」=自主性を通じた集団の統制。権力を行使する「誰か」はもういない。制度、知識、技術、既成事実が問題になる。国家だけでなく、社会にも主体化する権力の装置は存在する。では、自由はどこに?

・権力と自由:論点の素描
  (1)ゼロサム的権力観では「権力」と「自由」は対立関係
   非ゼロサム的権力観では「自由」の発現の結果、「権力」が現れる
  (2)人間は自由な主体か、構造に規定されているのか
  (3)権力分析→★秩序が変更可能であることを明らかにする
  (4)構造としての権力には「責任者」がいない。見出そうと無理をすると擬制を作り出してしまう


第3章 リベラリズムの展開
・リベラリズムはいろんな人が作り上げ、変容してきた歴史的構築物
・でも一応共通の特徴:個人の自由や自律性尊重する個人主義、絶対的権威や権力の拒絶

〈源流〉
・J.ロック。生命・自由・財産についての自然権を所有。侵害は自然法=神の法で禁止。市民の原初的合意で作られた政府、その役割は自然権の保護。信仰にも立ち入ってはいけない
・A.スミス。国家の役割は、分業と経済的自由がもたらした豊かな商業社会を外国の侵略、擾乱、無知な民衆から守ること=国防、司法、初等教育と公共事業。人民の利害は人民に調整させよ(見えざる手。そのほうがうまくいく)
・J.ベンサム。自然法や自然権はナンセンス、虚構。代わりに経験的原理=「功利の原理」。個人の幸福最大化の原理を社会に外挿→「最大多数の最大幸福」=多数者の同意。ただしスミスのように自動調節機構に任せてはいけない。みんなが賢いわけではないから。そこで法と刑罰で統制する→公益のための必要悪としての国家

〈ベンサム以降:人格の成長〉
・J.S.ミル=ベンサムの修正。幸福は量的増大とともに、能力と個性の発展という質的面も追求されるべき→多様性の許容、他者危害防止の原則。脅威は国家だけでなく、★抑圧的な多数派も→労働者階級の知的、道徳的な陶冶を通じて「自由」と「デモクラシー」の両立を図る
・T.H.グリーン。人格の成長という共通善(アリストテレス)は独りでできることではない。社会の成員たちの相互協力。国家はそれを保証するべきで、飲酒制限などの道徳的介入も容認する。理想主義的リベラリズム。

〈イギリスの長期不況:国家による放任から介入、集産主義へ〉
・H.スペンサー。社会有機体説→自然の流れに国家が介入してはならない→徹底した個人主義と放任(→現代アメリカのリバタリアニズムの思想的基礎の一つへ)
・スペンサー以後(1)フェビアン主義。貧富の分化は有機体としての社会の存在を脅かす→社会的連帯。土地や生産手段の国有化。ただし革命ではなく議会エリートによる政治を通じた改革。社会の効率的管理。ナショナルミニマム。ベンサムの方向性の一つの極限→社会主義、社会民主主義へ
・スペンサー以後(2)ニューリベラリズム。規律と生活条件の改善を通じた「倫理的調和」。人格発展のためには国家による条件整備が必要→課税と再分配→20世紀のリベラルな福祉国家へ

〈福祉国家と、福祉国家への批判〉
・ニューリベラリズム→J.M.ケインズ。利己的行動が公益につながるとの★根拠はない→「投資の社会化」。国家介入による消費と投資の誘発、完全雇用の実現。社会主義には行かずに自由放任を手放す。管理された資本主義によるリベラリズムの維持(効率化と自由の両立)。ケインズ型福祉国家
・F.A.ハイエクからの批判。全体主義は集産主義の帰結。包括的で単一の価値や完全な倫理規範などないのに、社会とその資源を単一の目的に向けて組織化しようとしており、独裁や生活の統制を招く。そもそも市場や自生的秩序の管理は不可能。★ただし自由放任の礼賛ではなく、秩序維持の方策としての最低限の社会保障は必要だとした→1980年代のサッチャー、レーガン、ネオリベへ


第4章 現代の自由論
〈二つの自由〉
・I.バーリン「積極的自由」「消極的自由」
・消極的自由=干渉の欠如としての自由。他人から妨害や強制をされずに、自分がやりたいことをやれるということ
→価値多元論。個人個人の活動を調整するためのルールは最小限に限定されるべき。ロック、ミル、トクヴィルの立場はこちら
・積極的自由=自己支配としての自由。自分が自分に対してルールを課す権力や権威となること。その資力や能力があること
→価値一元論に支えられた合理主義的教説と結びつくことで、「理性的な自己支配」が理想化される。さらに、それが非理性的と見なされた他人への「理性的な自己支配」の強制に転化する可能性

・E.フロム「~への自由」「~からの自由」。全体主義を象徴するのは「~への自由」だとしても、全体主義を招来するのは、前近代的な紐帯「からの自由」によって生じた孤独や不安ではないか

〈自立と自由〉
・E.カント。人間は自分の定めたルールに従う=自律的。動物は本能や物理法則に従う。
・C.テイラー
  積極的自由=行使概念=実際に使うこと。自律的選択を通じて道徳的な自分を表現する
  消極的自由=機会概念=行使の可能性があれば自由。実際するかどうかは問わない
テイラーが価値を認めるのは行使概念のほう。個人の道徳的な表現ができる=自由、その基礎になるのは共同体の道徳的伝統。逆に個人に恣意的な道徳の表現を許す消極的自由は、共同体を破壊する
→積極的自由vs.消極的自由
→コミュニタリアニズムvs.個人主義
→★道徳的に見て望ましいvs.合理的に見て望ましい

・共和主義的自由(N.マキアヴェリ~)=支配の欠如。他者に隷属していない状態。自治による市民的自由以上のものを志向していないので、消極的自由といえる。ただし、共同で権力を確立・維持するために市民参加は必須。この点は「国家からの自由」を志向するリベラリズムの存立条件にもなりそう。ただし、共和主義は「政治参加」に特権的地位を与える点で、価値多元的なリベラリズムと相容れない。また共和主義は、市民の理想に適合しない人(女性、貧民、少数民族など)を市民として認めない排他性を孕む危険がある

・C.マクファーソン。消極的自由→自由放任は貧困や失業など、自由の実現をかえって阻むような状態を招かないか?
→リベラルな福祉国家、あるいは「国家からの自由&国家による自由」の可能性(健康で文化的な最低限度の生活の保障)
批判(1)しかし、これは国家による財産権の侵害=古典的リベラリズムと対立する方向性ではないか
批判(2)健康な生活という理想は、フーコーの「生命権力」に繋がる?
・制限や禁止をする権力ではなく、方向付ける権力。健康で文化的な方向へ主体化する権力(パノプティコン)←規格化した生の様式から自分自身を引きはがして主体形成を行う、自己固有の「倫理」による対抗=「実存の美学」

2015年03月26日

3月後半のつれづれ

3月後半も休みはなく、あまり内発的動機のない仕事に時間をとられていました。

ある日のランチは新宿・天府舫。
本郷にある栄児とご関係があるようです。
麻婆豆腐のランチは、味玉と餃子が食べ放題なんだそうです。
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栄児と同じ味。
しびれる!!!!!
多分ときどき行ってしまう!!!!

* * *

本は新書2冊でした。
いずれも楽しかったけど、いま体力がないので要約は見送り。

■廣野由美子『批評理論入門』中央公論新社, 2005年.

フランケンシュタインを読みながら、批評の手法をだーーーっと「やってみせる」本。
なんか見取り図としてとてもよくできてると思いました。先日読んだ某・法哲学の本とは逆で。
ポスコロとかフェミとかもまた「こんな切り口ありますよ」というご提案の一つだと思えば、うっかり当たっちゃってもそんなに損した気分にもならないわけで。

■小山慶太『入門 現代物理学』中央公論新社, 2014年.

ヒッグス粒子がとうとう発見された!と騒がれた時に、「真空はとても賑やか」という謎のフレーズが弊管理人の耳を通り過ぎていきました。でもエーテルなんてないんでしょ?と思いつつ気になっていた、その辺の歴史と現在がやっと分かった~

* * *

また京都に行ってきました。今日が本番。
お仕事先とお話しするのはとても楽しかったのだけど、そのあと社内的な処理でまたいつものようにどっぷり疲れた。おいしそう、と思うといろんな人が手をつっこんできて結局ごちゃごちゃする。
京都駅→タクシー→現地→タクシー→京都駅。
タクシーの窓から桜が咲いているように見えた、というくらいの花見度。

* * *

それはそうと今朝、新幹線に乗るために某線で東京駅に向かっていたら、乗った駅で扉にはさまれたかばんの肩掛けひもが東京駅まで取れず(そちら側の扉が結局一度も開かなかった)、しかも東京駅からの折り返しが意外とすぐだったため、ひもをかばんから外して脱出。

ホームの駅員に事情を話して
「出てきたら回収して連絡ほしいんですけど」
「出てきたら回収でいいんですね?」
「出てこなければ回収できないでしょう」
みたいなバカな話をして名前と連絡先を伝えたのだけど、それをメモ帳に書いてる様子を見て直感した。こいつ一応言われたことを書いてるだけで、絶対回収を試みる気ない。クレーマーをいなす感じの振る舞い、弊管理人もよくやるので。

* * *

今日は弊管理人が京都にいってる間に東京で仕事に穴があいたらしく、しかし職場ではそれが弊管理人の持ち場だと思い込んでいたらしく、問い合わせがこちらに来ました。
それ、いつも時間が合うからやってただけで、アサインされた覚えとか全くないんですよね。
ということで謝る必要がないので謝りませんでした。貧乏ってやーね。

* * *

先週末は土曜の仕事が終わった後、うっかり酒を混ぜ呑みしてしまい、夜中の早い時間に死亡。
翌日曜は10時に一ツ橋、13時に霞ヶ関で仕事だったのですが、一ツ橋はすっ飛ばしてしまいました。
ほんとは霞ヶ関もすっ飛ばしそうなくらい悪魔が囁いていたものの、気力で出勤、そして18時ごろ蘇生。
死と再生を経てちょっとリフレッシュしました。そうなんですよ。そういうリフレッシュもあるんですよ。

2015年03月14日

3月のつれづれ

3月に入ってわたわたしているうちに半ばになってしまいました。

このかん、特に重要な仕事をしていたわけではありませんが、内発的な動機に乏しい仕事の準備をとぼとぼとし、あとは都度の頼まれ仕事をびやっとこなし、しかし何人かの人と楽しいおしゃべりをし、今までちょっと偉そうで恐そうだなーと思っていた人と意外に打ち解けることができるなどしていました。
毎年同じな気がするけど、なんとなく3月は落ち着かない。

今日は日帰りで京都出張。
10時半に東京を出て17時半には京都を出るというとんぼ返り(現在は岐阜のあたりを通過中)。
食えたものといえばこの
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お茶味のぶよぶよした甘味。
別にお茶の味の菓子って好きじゃないんですよね。

* * *

月初めに、渋谷に行く用事があって「おまかせ亭」でオムライス食いました。
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なんか女子ばっかだった。
ランチ1200円ですが、サラダとコーヒーとデザート(この日はココアのロールケーキだった)がつくので、結構満足度高いです。オムライスも酸味が強いソースに香草やスパイスでアクセントをつけてあって、おいしくいただきました。

* * *

今年前半はブックガイドとして入門書をいくつか読みましょうねと思ってまして、
馴染みのなかったハート、ドゥオーキン、ウォルツァーとかをざざっと見渡せそうかなということで手に取ったこれ、

■森村進『法哲学講義』筑摩書房,2015年.

いや確かにタイトルは「講義」であって「入門」なんて書いてないんですけど、
 ・その「○○的××主義」「△△論」「□□説」ってつまり何ですか
 ・なんかイメージできないんで例え話してもらえませんか
 ・なんでそんなこと考える必要があるんですか
といった疑問をいろんなところで抱く本でした。

ある程度知識を持ってる人が、先生の話を聞きながら考えを整理する、的な使い方にはいいかも。と思ったのは、正義論やメタ倫理学を扱った後半の章にさしかかるとぐっと頭に入りやすくなったからです。
でも英語の教科書だったら、普通 xxxism is ...といってさくっと一言でこれから扱う主題をまとめてから説明に入るよな。

* * *

職場で「あ、そうだ」と思ってすたたたと小走りで階下に向かったが、階段の踊り場で完全に用事が頭から抜け、どこに向かっていたか、何を「あ、そうだ」と思ったか、そのまま全く思い出せなくなる、という出来事がありました。ちょっと人の名前が出てこないとかではない、やばい感じの抜け方。

* * *

現在の部屋に引っ越して3カ月。間取りは1LD・Kなのに11.7畳のリビングにベッドを入れてワンルーム生活をしていたのを一念発起して改め、洋室にベッドを運び込んで、ようやく普通の家具配置になりました。

5.5畳の洋室にベッドと衣類と電子ピアノを入れたので結構ぎゅうぎゅうです。しかし、洋室は最初から寝室想定で作られているのか、窓の防音がリビングよりいいので静かで、たまたま買った遮光カーテンも優秀なので、ゆっくり寝られます。早くこうすればよかったな。

かわりにリビングがPC机とこたつとコンポだけになったのでがらんとしています。
「生活感はあるんだけど、あまりに必要最低限のものがきっちり配置されすぎていて遊びがない」と友人の評。
そういわれても特に何かで満たす気もありません。

2015年02月17日

珉珉

赤坂某所で夕方の仕事がありまして。
冷たい雨の中、訪ねたのが「珉珉」。
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餃子が有名な老舗です。中はすすけた古い大衆中華料理屋。
五目チャーハンと餃子を頼みました。
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餃子が大変ジューシーでおいしい。
ここのポイントは、酢と胡椒だけのタレ(テーブルで店員さんが作ってくれます)。
これはいいアイディア。別のお店でもやろう。
チャーハンと、お願いすると出してくれるザーサイも合います。おなかいっぱい。
お会計は1290円です。値段は全然大衆的でないな。
増分費用効果比を勘案し、弊管理人は引き続き京都王将の餃子とチャーハンを愛用するであろう。

■上野修『スピノザの世界』講談社,2005年.

オーストラリア往復したけど、ほとんど手がつけられなかったのがこの本。今日は横浜―東京間の行き来があり、電車の中で読み進められるかな~と思っていたら、読み終えられました。

岩波文庫の『エチカ』は去年読んだのですが、誰かに解説してほしいという思いがずっとありました。それで本書を手に取りました。
この本は『エチカ』の入口に当たる『知性改善論』から一緒に走ってくれます。語り口は非常に初心者に気を遣ってくれていますが、それでも歯ごたえがあります。
それで分かったのは、去年読んだ段階では、ほとんど弊管理人には『エチカ』が読めてなかったということ!そしてこの親切な本も咀嚼しきれないまま過ぎてしまった感が強いです!がー!
いずれスピノザとこの本にはまた戻ってくる気がする。

2015年02月11日

歴史とは何か

オーストラリア行は長旅だし、新書2冊くらい読めるかな~、と思って持っていきましたが、読み終わったのはこれのみでした。

■カー, E.H.『歴史とは何か』(清水幾太郎訳)岩波書店, 1962年.

ケンブリッジ大学で行われた講演の記録What is History?(1961)を訳したものです。日本の大学では歴史学の入門授業で文献として指定されるような基本書だったようですが、今でもそうなのかしら。

本は6章に分かれてます。

【1】「歴史的事実」、つまり歴史学の対象とするのに値するような事実というのは、過去に起こったことや古い文書が自発的に構成するようなものではない。歴史家が「これが歴史的事実だ」と判断することによって作り上げるものだ。
それでは、歴史の解釈は歴史家の数だけあってどれも正しい、というか正しいとか正しくないとかいう比較はできない、というような懐疑主義(弊管理人は「相対主義」と呼んだほうがいいような気がする)に陥ってしまう心配が生じるだろう。しかしそうではない。歴史家が「これだ」と思って行う事実の選定も、その解釈も、あくまで仮のものである。実際は事実の選定が解釈に、解釈が事実の選定に影響を及ぼし、妥当性がチェックされながら作業は進んでいく。
つまり「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」だといえる。(これがキーフレーズらしい)

【2】では、この「対話」を行っている「現在」とか「過去」というのは何のことなのか。英雄物語の主人公になるような個人なのか、それとも、集団や集団間の関係といった「時代」なのか。答えは後者である。
大原則として、個人は社会を離れて存在しない。キーパーソンになるような歴史上の人物でさえ、ある重要な事件を起こすには多数の賛同者を必要とする。さらに歴史的事件も、その人(たち)が意図や思想とは無関係の方向に転がって起きた例もある。歴史は英雄物語ではなく、社会の物語である。
もちろん、歴史を読み解く歴史家自身も歴史の中にいる。そのときどきの思想状況など環境にものの見方を規定されている。つまり、歴史という対話は個人vs個人ではなく、社会vs社会として行われていると見るべきだ。

【3】次に、歴史は科学なのかを考えてみたい。
18~19世紀の自然科学は、例外のない普遍的な法則を発見する営みとして見られていた。社会科学でも市場、賃金、人口の法則がそういうものとして発見されていたが、こういう考えはもう古びてしまった。ポアンカレが指摘するように、科学者が作る命題は「仮説」であって、後続の研究によって検証されることを免れない。命題→経験的事実による検証→命題の洗練、という作業はまさに対話であって、これは歴史学の仕事にも当てはまるだろう。しかし、歴史は科学とは違うのだ、という次のような反論もありそうだ。ポイントに分けて一つ一つ検討する。

(1)科学は一般、歴史は特殊を扱う――歴史的事実は確かにどれも1回限り起きたことという意味では特殊だが、それは科学の命題を作る経験的事実も同じで、どの地層、どの物質も同じではない。しかし同時に、やはり歴史も科学と同じように、特殊な対象たちに対して「戦争」「テロ」「国家」といった一般名詞を使う時点で一般化を志向している。

(2)歴史は何の教訓も与えない――上のような一般化は、すなわち事実Aから見出した教訓を事実Bに適用しようという営みである。民族自決を無視するのは危険だ、秘密文書を闇に葬ってしまうのは危険だ、といった原則は筆者の参加した平和会議にも活かされた。個別の事実たちを比較検討することによって、それらをさらに深く理解できるという効能もある。

(3)歴史は予見できない――確かに、出来事はさまざまな要因が複雑に絡み合った末に生じるので、ある国にいつ革命が起きるかを予見することは歴史学にはできない。しかし、こういう条件にある国は、革命が起きる蓋然性が高いという分析をし、その分析に基づいた行動を関係者に促すことはできる。その精度は自然科学と比肩すべきレベルにはないのは事実だが、原理的には同じだ。自然科学の命題も「実験室条件ではそうだ」ということ、あるいはモデルであって、いろんな攪乱要因がある現実の状況におかれた個別の事物が法則通りに振る舞うことを保証するものではない。

(4)歴史は人間が自分自身を観察しているので、どうしても主観的である――確かに、観察者とその観察対象が連続的に相互作用すること、その相互作用がどんどん変化することは、社会科学の著しい特徴と思われる。しかし近年、観察するものとされるものの厳格な区別は自然科学(特に物理学)でもだんだん揺らいできているようにも思える。

また、歴史家が過去の出来事に関して道徳的な判断をすべきかどうかについては、歴史の解釈には常に価値判断が入り込むため、そうした判断に巻き込まれる可能性はあることを知っておくべきだと考える。もちろんその価値判断も環境に規定されているわけだが。

いずれにせよ、「なぜ」と問い続ける態度と根本的な手続きにおいて、歴史は物理と変わるものではない。

【4】上のように、歴史家は「なぜ」と問い続けるものであり、偉大な歴史家や思想家は、新しい「なぜ」を提出するものである。では、「なぜ」に対してどうやって答えたらよいのだろうか。
ある事件が起きた原因を課題とする学生レポートなら、経済、政治、思想、個人的資質から見た原因を複数挙げ、次にそのリストを重要度に従って秩序づけるようなことが求められる。その重み付けは、ある原因が「その事件を起こすのにどれくらい貢献するか」といってもよい。また、他の類似事件も決定づけるような一般性の高さがあるかを考える必要もある。例えば、甲が飲酒運転して煙草を買いに出た乙をはねた事件では、乙がスモーカーであることより甲が飲酒運転したことのほうがより事故の原因として一般性が高いと考えればよい。
クレオパトラの鼻の高さという偶然の要素がアクチウムの戦闘の結果を決めたというような「歴史は偶然の連鎖」説への対処も同じで、そうした偶然は確かに原因を構成するけれども、他でも同様の事件を起こすような一般性=合理性を持った原因としての意味はない些末なものということになる。

【5】歴史は過去と現在の対話だ、と言った。しかしよく考えてみれば、現在というのは過去と未来の界面でしかない。過去の教訓は必然的に、未来への教訓ということを含んでいるのではないか。歴史は「未来」あるいは「進歩」をどう考えたらよいのだろうか。
斥けておくべきなのは、「歴史の目的は歴史の外(神)にある」という神秘主義と、「歴史に目的はない」という冷笑主義、それから「進歩には始まりと終わりがある」という考え方だ。そうではなく、過去の延長上にその都度現れるゴールに向けた不断の前進を進歩と呼びたい。ゴール=絶対者は唯一不変ではなく、もっとダイナミックなものなのだ。現在の自分を規定する環境、事実の取捨選択を可能にしている価値基準を意識すること=未来の視点に立とうとしてみること。未来を過と関係づけ、長いスパンで考えられる(「未来と過去の対話を行える」!)人こそが「より客観的な歴史家」といえるのかもしれない。

【6】略

古い本ですが、社会科学に初めて触れるときに(できれば高校生のうちに)読んでおくべき論点の詰まった、必読の本だったなあと思います。ちゃんと議論を追えたかどうかは分からないけど。

2015年02月02日

種子島仕事終了

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やっとおわた。

でもって、現地を14時半に出て、レンタカーと高速船とバスと飛行機と電車を乗り継いで帰宅できたのが23時半。
もう体力が残っていないので、以下の読み終わった本は要約などせず掲示だけ(あとで追記するかも、しないかも)。でもどっちもいい本でしたよ。

■シーナ・アイエンガー『選択の科学』文藝春秋、2014年。

■池内恵『イスラーム国の衝撃』文藝春秋、2015年。

2015年01月04日

年末年始と戦後70年

30日から2日まで帰省しました。

大晦日は毎年恒例の、本家で伯母さんのお料理。
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毎年ちょっとずつ献立を変えているそうです。確かに確かに。

夏、弊管理人を認識しなくなっていた母方(=本家)の祖母は、名乗ると弊管理人の愛称を呼びました。
そして、元日の朝にお雑煮を食べ、昼に山菜そばを食べて本家を辞する時には、握手を求めてきて、弊管理人は握手をして別れました。認知症状が出る前にはなかったことです。
祖母はよく食べ、声もしっかり出ていて、話しかけると笑い、しばらく大丈夫そうです。
元日は雪が強まって、山奥にいる父方の祖父母には会いに行けませんでした。

2006年の正月に携帯の機種変更という非常につまらない案件をめぐってもめて以来あまり喋らなくなっていた弊管理人と妹は、元日にかけて多少喋りました。
しかし、またつまらないことで喋らなくなりました。
暖房を入れている部屋の戸を弊管理人がちゃんと閉めないとかそういう正しい指摘を受け、「はいはい正しい正しい。その調子で友達百人作ってくれ」と弊管理人が言ったのが最後。
またちゃんと喋るのは数年後かもしれませんが、この兄妹はそういう距離感が合っているようです。

平素独居の父はベッドでiPadをいじり、音楽やyoutubeを鑑賞しながら「そのうち動けなくなって、ここでクソにまみれて死ぬ気がする」と言ったので、「その前に帰ってくるから」と言っておきました。これは結構本気です。が、もうちょっと頑張っておいてほしいとは思います。
「子供の世話にはならない」とずっと言っていた父ですが、そんな考えは老いの中で簡単に霧消するでしょう。

紙焼きの写真を貼り付けた大昔からのアルバムをスキャンするという次回のタスクができました。
はがしてドキュメントスキャナ、というのは可能だろうか?
貼ったままハンディスキャナ、が無難か?
春の連休までに考えようと思います。

* * *

この年越しに読んでいた本が、これ。

■佐藤卓己『増補 八月十五日の神話』筑摩書房、2014年。

連合国に対するポツダム宣言受諾の通達と終戦詔書の日付は1945年8月14日、
玉音放送で国民が知ったのは8月15日、
大本営からの陸海軍に対する停戦命令は8月16日、
降伏文書の調印は9月2日、
サンフランシスコ講和条約が発効して占領が終わったのが1952年4月28日。
8月15日が終戦記念日と定められたのが1963年(5月14日の全国戦没者追悼式実施要項、第2次池田勇人内閣)、
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」は1982年(4月13日閣議決定、鈴木善幸内閣)。

8月15日=終戦記念日、のイコールは意外に意義が乏しく国際的にもほとんど通用していないし、この等式が制度化されたのも結構最近だった。実は戦後10年までは玉音放送の記憶は薄れてかけてさえいたらしい。

でも、読む前の弊管理人を含めて多くの人はいま、8月15日=終戦記念日ということを疑っていない。
「お盆」という畑に蒔かれた玉音の種、丸山真男(8月15日没!ちなみに石原莞爾もらしい)の「8・15革命」論や『世界』誌の8・15特集シリーズ、高校野球、メディアの戦後x年企画、教科書、そして国内政治、それに影響される国際政治。いろんなものを吸い込み、そして生み出した言説によってさらに強化されていく8月15日の神話、その成立の過程が描かれています。
情報量が多くてついていくのがちょっと大変ですが、疑っていなかったものの神話性が暴かれていく読書体験はとてもスリリングでした。

戦後60年の2005年に新書で出された本書を読みそびれていてアマゾンで探していました。しばらく前から絶版になってる……と残念がっていたら年末に増補、文庫化されました。わー超うれしいけどなんで?と思ったら戦後70年だった。
情緒=追悼の日・8月15日と、政治=平和の日・9月2日を分けるべきだ、という著者の提言つきであります。これも含めて、今年の春や夏に向けて考えを走らせるには十分な時期の出版だったと思う。
スクリャービン没後100年は記念であって喪ではないが、戦後70年はいまだ喪中っぽい。

2014年12月16日

新居と暗黒物質

引っ越しから1週間経ちました。まだあまり住み慣れた感じがしません。
本とCDの段ボールがほぼそのまま残っているからか。
文庫を並べられる小さめの軽い本棚を買ってみました。しかし、期待したほど収納できないうちに一杯になってしまいました。これまで大半を押し入れにしまっていたけど、今そこまで収納に余裕があるわけでもないんだよな。

間取りは1LDKですが、結局リビングのキッチン寄りに勉強机、奥にパイプベッドを置いてワンルーム生活を始めてしまいました。部屋にいるときはほとんど机に就いていますし、メシも机で食うので、スペースそんなにいらないんですよね。

考えてみれば先週初めまで住んでいた部屋は14畳(収納別)+キッチンという広さがあったのに、実際生活していたのは6畳のじゅうたんの上でした。
学生時代から1~3年に一度は引っ越しをしていたので、ソファもダイニングテーブルも持ったことがないし、家具も軽いものばかりのモバイル生活です。ここ5年は1カ所にいたけど、引っ越す可能性は今後もあります。引き続き重い家具を持つことはないかも。

* * *

化粧水がそろそろ切れるので買わなきゃ、とドラッグストアで買ったのを忘れて、アマゾンでもう1本買ってしまいました。ドラッグストアで買ったのを通勤かばんの中から発見して「ええええ!」となった。同じものを二つ買ったのは初めて。40代の扉を開けてしまった感じ。いやもっと深刻か。

* * *

■鈴木洋一郎『暗黒物質とは何か』幻冬舎、2013年。

暗黒物質とは何か、を説明している部分はそう多くありません。まあまだ見つかってないしね。
Unidentified Flying Objectと一緒で、なんやようわからんものを仮にそう呼んでいる。
それを見つけるためのXMASSという実験を岐阜県の神岡鉱山跡でやっている人です。
UFOと並べると怪しくなっちゃうけど、こちらはちゃんとした科学実験(たぶん)。

・宇宙の組成
普通の物質=4.9%
暗黒物質=26.8%
暗黒エネルギー=68.3%

・候補物質
(1)MACHO。質量の小さな目に見えない天体。存在はするが、COBEやWMAPで観測された物質のゆらぎが説明できない。量も少なすぎる。
(2)ニュートリノ。確かに大量にあるが、質量が少なすぎる。光速に近い速さで移動しているので、現在あるような物質の濃淡を作れない(すぐに一様に広がってしまう)。
(3)WIMP。質量が大きいが、他の物質とほとんど相互作用しない。現在最も有力なのがこれ。未発見の超対称性粒子のうち、ゲージーノ(光子、Zボソン)、ヒグシーノが候補。

・XMASS
暗黒物質に蹴飛ばされたキセノンの原子核から出たエネルギーが周囲のキセノンが紫外線を出す。それを光電子増倍管でキャッチする。

2014年12月05日

栄児

お茶の水で夕方に仕事があったので、ちょっと歩いて、栄児(ロンアール)家庭料理 本郷店。

汁なし担々麺を頼む。「辛さはどうしますか?」と聞かれたので、普通より一段階辛い「辛口」を頼んでみました。
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 おー

  おおおお!!!!

唇が痺れる。でもうまい!
おまけで餃子がつきましたが、こちらにも唐辛子がたっぷりかかってました。
多分ここ、他のメニューもレベル高い気がする。
お店もきれいです。今度は誰かと来よう。

* * *

■クロフォード, D.(永田恭介訳)『ウイルス』丸善出版, 2014年.

カプシドとエンベロープってどう違うのと同僚から聞かれて、そういえばちゃんと解説してる本を見たことないなと思い手に取ったのですが、あまりちゃんと解説してませんでした。
でも考えてみるとウイルスって不思議すぎる。どこからきたんだ、そしていつからいるんだ。そして多様なウイルス界のどれほどをわれわれは知っているのだろう。そんな興味を喚起する本。

ちなみにこの本、オックスフォード大学出版局のA Very Short Introductionシリーズの邦訳でした。
以前、「一冊でわかる」シリーズとして訳出が進んでいましたが、やめたのかね。

2014年11月15日

本とかいろいろ

■Dodds, K., Geopolitics: A Very Short Introduction (2nd ed.), Oxford: Oxford University Press, 2014.

地政学。領土と資源。ナチによる利用によって汚れたこの言葉は冷戦下のアメリカで復活する。
しかし、あえて歴史学や社会学、あるいは国際政治学とは違った一つの領域として存在する必要があるのだろうか、と読んで疑問は深まったのでした。

■池上英洋『西洋美術史入門〈実践編〉』筑摩書房, 2014年.

もらいものの本。

絵の読み方。
・いつ、どこで、誰が、どのように、何を描いたかを特定する(1次調査)
・1次調査に使った史料を使って、誰が、いくらで、どういう意図で注文したか、作者がどこに所属し、それ以前にどんな絵を描いていたか、当時の評価はどうだったかを調べる
・その当時、その地域では、政治、経済、宗教、疫病などがどんな状況だったか調べる
といった方法を、いくつかの題材を使ってやって見せてくれるのですが、これがもうすごい。面白い。
キリスト教を、西洋史を、絵画の技法を知っていると、その絵の中にいつも「見えて」いるのに「見て」いなかった情報が次から次へと顕現する。

* * *

社内に鰻の専門家がいるのですが、その方が勧めてくれた日本橋「いづもや」で鰻重を食べました。
鰻のうまいまずいはよく分かんないんだけどな、と思っていましたが、うまかった!(そして高かった)
自称「鰻中毒」のお仕事相手と、「鰻すっごい好き」という上司ともに「うまい」と言ってました。
このように仕事絡みだったので写真撮れず。
晴れの日にまた行こう。

* * *

10月から悪かった体調が回復。
甘いもの我慢して、自炊で野菜食べて、よく寝て暖かくしてようねって話でした。

* * *

睡眠についてのレクチャーを聞くことがありました。
・寝酒はダメ(晩酌はよい)
・昼寝は午後早めに10分
・眠くないのに無理して床につかなくてよい
・寝付きがよくなる条件は各人で見つけましょう
というあたりが「へえ」でした。
健康づくりのための睡眠指針2014」よくできてます。ちゃんと根拠となる文献を示しています。

2014年10月23日

札幌出張

札幌に1泊で出張してきました。

魚菜で晩酌。
砂川彗星と、おまかせ5品を頼みます。まずは甘エビと生わかめ。
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ああああぷりっぷり。

もずくと、いか。
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し、しみる……

ポテトサラダ。
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ごまが効いてます。あと刻んだピクルス入ってません?心憎いポテサラ。

炊いたやつ、いろいろ。
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胡椒と食べる牡蠣、うめーなー
ほたてはずずずず、じゅじゅじゅわっと体に沁みる。
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落花生と北海しまえび氏。

最後はほっけスティック。
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じっくり焼いたほっけが、うまくないわけない。
これで3000円いかないんですけど。どういうこと。

キーンと冷えた札幌の空気。在札幌友人たちは「寒いよねー、今日」と言っていましたが、心地よく懐かしい寒さです。これから12月半ばまで、ただ寒いだけの時期が続きますよね。

翌日は昼過ぎに北海道大学で仕事だったので、狸小路の宿と大学の間で牡蠣を食べようと思っていましたが、定休日。ぐぬぬ……

ということでぶらぶら北上していたら、結局大学まで来てしまいました。
北大病院の前にあるロンズキッチンでエスカロップいっときましょう。
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タケノコのピラフにトンカツのっけてデミグラスソースかけてあります。
根室の食べ物ですが、こんなところで食えるとは。

北大はちょうど銀杏並木がきれいでした。
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期待以上に面白かった仕事を終えて、札幌駅まで戻ります。

地元の甘味・洋食師匠に教わった四つ葉ホワイトコージでパフェ食いますよ。
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うがー満足した。帰る!

札幌来たら元気になった。

* * *

■堂嶋大輔、渡邊雄一郎『マンガ 生物学に強くなる』講談社、2014年。

行き帰りの飛行機で読んでました。
これ、とてもいい。というか生物学は絵で勉強しないとだめだろうって思う。
iPS細胞までカバーしていた。えらい。
ゲノム編集やノンコーディングRNA、エピジェネティクスとかのアツイ分野も紹介してほしかった。

* * *

今月は出張があと2回。来月はあんまり行きたくないやつが1回だが、これは回避できないかなー

2014年10月03日

ル・モンド

最近、週末が仕事でつぶれてばかりなので、木曜は休みを取ってしまいました。
昼飯の新小岩「一颯」のラーメンが今ひとつだったので、夕飯はちゃんと食べたい。
しかし、独り。
というわけで、新宿西口のバスターミナル近く、「ル・モンド」。
サーロインステーキの定食(150g, 1260円。ランチはもうちょっと安いらしい)を頼みました。
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うんうん、おいしい。
お皿の上だと食べているうちに冷めてくるので、これ以上の分量はいりません。

* * *

■鷲田清一『哲学の使い方』岩波書店,2014年.

2014年09月27日

非線形科学

■蔵本由紀『同期する世界』集英社,2014年.
■蔵本由紀『非線形科学』集英社, 2007年.
■蔵本由紀『新しい自然学―非線形科学の可能性』岩波書店,2003年.

ばらばらに動き始めたメトロノームが、不安定な台の振動を通して互いに歩調をそろえ、最後にはすべてが同じ動きになるという実験画像があります。一つ一つのリズムが相互作用し、マクロなレベルでのリズムを作り出す、集団同期と呼ばれる現象です。
こうした現象は生物にも無生物にも見られます。心臓の心筋細胞は、音頭を取るペースメーカー細胞の合図を受けて心拍を生みますが、この集団リズムが乱れると不整脈となり、AEDでリセットする必要が出てきます。また、ホタルの集団では個体が全体の光り方を見ながら周期を調整し、全体が一斉に明滅するようになります。同期現象を初めて報告した17世紀オランダの科学者ホイヘンスは、壁に取り付けた二つの振り子時計が必ず同じリズムになることを発見したのでした。

一見なんの関係もない自然現象の背後に、共通性が隠れている。そのことは、著者が1975年に作った式によって数理的に把握することが可能になりました。そのアイディアは、「リズム=周期的に継続する運動」の担い手を円運動する粒子に見立て、それらの相互作用を粒子同士の位置関係として表すというもの。いろいろな現象から本質以外の部分を取り除く「縮約」という作業を通じてモデルが作られました。現実から一歩離れる代わりに、現実を貫く共通性のレベルに視点を持っていけるというものです。

ものを分子に、原子に、そして素粒子に分解し、ミクロの世界を調べて、それを積み上げていけばマクロのことが分かる。そういう発想の科学とは違って、複雑なものを複雑なままに、五感で感じられるマクロなレベルをそのままに把握しようとします。それがマクロの世界を知るための方法だといいます。単語や音節のレベルを調べる言語学と、文章を調べる文学、個人の内面を調べる心理学と、集団の行動を調べる社会学など、調べるもののレベルが違えば適した説明の方法も違うようなものでしょうか。

これらリズムの担い手はいずれも、外部からエネルギーを取り入れ、内部で変換し、それを捨てることで同一性を保つ実体たちです。細胞とか組織とか生物は食って代謝して出しているし、メトロノームもぜんまいにためたエネルギーを取り出し、消費して散逸させています。そうした(生き物でないものを含めて)生き生きした実体が自己組織化を起こし、秩序を立ち上げる。イリヤ・プリゴジンの散逸構造論に着想を得た著者の研究が、力いっぱい平易に書かれています。(それでもかなり歯ごたえがあるんだけど。余談ですが、学生時代に読んだ現代思想の本に一瞬出てきたプリゴジンが何を言っていたのか、ようやく分かりました)

ちょっとした必要があって立て続けに3冊読みましたが、弊管理人的には、まずは『同期する世界』を入り口に、『非線形科学』へカオス、ゆらぎ、ネットワークも含めた見取り図を見に行くのがよいと思います。もっと知りたいと思ったら『新しい自然学』で著者の科学論・マニフェストを聞いてみるという感じか。

2014年09月26日

神学・政治論と、いろいろ

■スピノザ, B.『神学・政治論(上・下)』(吉田量彦訳)光文社, 2014年.

鷲田清一の新しい新書を読んでいたら、フランスのバカロレアの問題の一つに、『神学・政治論』の一節を注解せよというものがあった、と書いてありました。高校生が触れるような本を人生も折り返し近くなって手に取るおぢさんこと弊管理人。かなしい(笑)

人生、いつも思い通りならいいけれども、実際そううまくいくものではない。だから人は不運を恐れ、恐れから迷信にすがる。迷信は宗教というおべべを着せられて君主による統治の道具として利用される。しかしそんな統治は民衆を奴隷化し、誰もが持っている自由を真っ向から否定し、意見の相違を悪と決めつけ、紛争をいたずらに煽るようなものになるのではないのか?
そこで、自由の尊さと、さらに自由を認めても国の平和も道徳も損なわれないこと、そればかりか、自由を踏みにじれば平和も道徳も損なわれることを示そうとする。(序文)

著者はまず、聖書をまっさらな心で読み直すことを通じて、神学から哲学を引き離そうとする。これが前半の神学編ともいえる部分だ。

聖書には預言者による預言がたくさん出てくる。しかし、預言者は知的に優れた人というよりは道徳心が豊かな人であって、隣人愛や正義を語っているだけだ。その中核部分だけが信じるに値するのであって、それ以外の部分は、例えば神や聖霊の姿を老人と表現したり炎と形容したりと随分あやふやで、「神の○○」というのも吟味してみれば程度が甚だしいということの比喩に過ぎなかったりする。つまり預言は、預言者たちそれぞれの気質や理解力、さらには受け手・読み手の理解力に規定されつつ、預言者たちの想像力によって脚色された部分をかなり含んでいた。そうした記述は確実性の期待できるものではない(1章、2章)

また、ヘブライ人は神から選ばれ国を持たされたと言われるが、それはヘブライ人を律法に服従させるためのレトリックに過ぎなかった。神が特定の民族だけを選ぶということはない。モーセが受け取った律法も、ヘブライ人の国だけで通じるようなローカルなものに過ぎず、しかも国が存続した期間のみ縛る、限定的なものだったことが分かる。(3章)

そもそも幸福が約束されるのは、知性によって自然の一般法則(=神の法)に迫ることを通じてなのだが、聖書に書いてあるような歴史物語から神の法に迫れるわけではないし、神の法は儀礼とも特につながりはない。現に、キリスト教が禁じられている国でも、幸福に生きることはできる。日本を見ればよい。歴史物語だって、理解力に乏しい民衆向けの表現手段に過ぎない。
自然法則を超えるような事象=奇跡についても同じで、キャッチーさを狙っていろいろ盛っている記述を聖書から除いてみれば、特に奇跡の存在を証拠立てるようなものはない。というか、自然の一定不変の法則こそ神の法なのだから、それを破るようなものが存在できるはずがないのだ。(4、5、6章)

とすると、聖書というのは一体なんなんだろうか。神の言葉、幸福の源泉、救済への道が示されているというが、現実は神学者が自分の思いつきを他人に強制するためのダシになっているのではないか?それは間違った在り方だと思う。人は自由に宗教上のことを判断する権利を持っているはずだ。

そこで、以降では、聖書の物語を注意深く読み直してみる。(7章)
聖書各巻の歴史を書かれていることに基づいて検証すると、モーセ五書やサムエル記などはその時代よりずっと後の人でないと知らないことが書かれていることから、本人が書いたものとは言えない。そればかりか、ざっと2000年以上にわたって多くの作者が書いてきたことが分かってくる。さらに、どの書物を聖書に含めるか、含めないかは、おそらく律法に詳しい人たちの相談によって決められている。(8、9、10、11章)

こうした史料批判から言えることは、聖書は神から送られた手紙なのではなく、むしろ非常に人間的なプロセスで書かれていて、書かれたその時その場の読み手である一般の人達に分かってもらえるように、さまざまな言い回しや装飾が施されているということだ。神からのメッセージといえるのは、正義と愛と神への服従、この極度にシンプルで明白な指針だけだと思えばいい。まさにその一点において聖書は有用なものだといえる。
聖書に対するこんな態度は不敬だと指弾されるかもしれない。しかし、その指摘はかえって、神の言葉以外を崇める迷信に結びつきはしないだろうか?(12、13章)

聖書は、さまざまな宗派の人がいいように解釈し、さまざまな理解力の人が自分なりに理解してきた。ただし、それ自体は責められるべきことではない。問題なのは、たとえ相手がまともな信仰を持ち、隣人を愛する人であっても、自分と違う解釈をしたという理由だけで排撃しようという態度なのだ。
このように信仰は道徳の問題であって、真理の探究である哲学とは関係がない。(14章)
同時に、神から贈られた理性、つまり哲学するための道具を封印し、方便として書かれた歴史物語を盲信する理由もない。哲学する自由は神学も許容するところなのだ。(15章)

ここからは後半の政治論。
ここまでの議論を土台として、平和を実現するために自由がどれだけ大事かという話題を展開する。

まず、人は誰でも、自分を守り、自分のやりたいことをやる自然の権利を持っている。けれども、全員がそれを好き放題に行使していると、いつまでたっても世の中が落ち着かない。そこで、各人が理性に基づいてその権利を他人と持ち合い、他人を自分と同じように尊重する契約を結ぶことになる。こうして国や法が生まれ、個々人から権利を託された権力者が秩序を保障するのだ。
権力者の命令に従うといっても、個人が奴隷になることを意味しない。個人は自分の利益のために契約という行為をしたのであって、他者のために行為する奴隷とは別物だ。政体としては独裁制、寡頭制、神権政治などが考えられるが、特に民主制を採用することが自由への道だといえる。(16、17、18章)

そこでは、宗教を権力の傘の下に置いておくことが重要である。そもそも、宗教が持つ権利は、人々によって打ち立てられた権力から付与されているのだから、これは当然である。というか、神の直接統治など存在しない。神は永遠の真理そのものであって、手前勝手な法を押しつけるような存在ではないからだ。(19章)

また、支配者たちは、人の行動を法で規制することはできても、心の中にまで指図することはできない。自由に考え、発言することは自然な権利であり、誰もがついやってしまう癖のようなものであり、学問や技能の発展の礎であって、それを個々人から切り離すことは不可能だ。人々が全員、全く同じことを考えるということなど起こらないし、多様な意見を暴力的な政治によって抑えようとしても、それは支配者の権利を最初に生み出した契約を揺るがすだけである。もともと国は人の自由のために作られたのだから。
体制を安定して維持していくためには、自由に考え、自由に発言することをすべての人に認めるしかない。それが結論となる。(20章)

……という話だったはず。
日本語として読みやすく訳す工夫、なぜこの訳語を選んだのかを細かく注釈で示す誠実さ、そして該博な知識を動員して作り上げた名訳だと思います。着手は2010年だったそうです。大変お疲れ様、でも今後数十年にわたって参照されるはず。

1670年に匿名で出版され、4年後には発禁になってしまった本。その当時のスピノザとオランダを取り巻く状況と、当時この本が与えたインパクトについて触れた解説も、作品をそれが書かれた文脈の中に置いて見せ、当時と現代を架橋するという解説の役割を認識して書かれたもので、素晴らしかったです。

社会契約や自由のほか、自然科学を考える軸にもなりそう。これから何回も思い出すことになるでしょう。
無神論が完成するのは、ものを考えたり言ったりする時にいちいち神様に触れなくなった時なのだ。たぶん。

* * *

■ローレンス, B.『コーラン』(池内恵訳)ポプラ社, 2008年.

イスラム、そろそろ勉強しなきゃかなあと思っていました。それで「コーランでも読もうと思う」と会社の後輩に話したところ「コーランは通読するのには向いてないですよ」と教えてもらったため(なんつう会社だ)、まず、と手に取ったのがこれ。

ムハンマドからビン=ラディンまで、コーランの受容史を駆け抜けた。
面白かったのですが、ちゃんと消化するには、もう少し読書が必要。

読書記録の順番は前後しますが、エルサレム繋がりということで6月に上巻を買ったままにしていた『神学・政治論』に手を付ける気になった本だったというわけでして。

* * *

9月に入ってとんと日記を書いてなかったのは、忙しくて土日も出勤していたのと、土日は出勤後に酒に溺れて疲れて寝ちゃっていたためでした。

* * *

今期の放送大学は「社会心理学」の授業が面白かった。
名著を10冊紹介するシリーズ。
対ヘイトとかの背景知識としてオルポートの『偏見の心理』を読んでおいてもいいかなと思ったものの、絶版みたい。残念。関連した概説書はあるっぽい。立ち読みしてみる。

* * *

先日、ランチで浜松町の「鯛樹」に入りました。
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卵の入っただしに、鯛とわけぎと海苔をぶっこんで混ぜ、高級卵かけご飯にするのです!

2014年08月29日

アジアカレーハウス

「錦糸町・丸井の真裏にある『アジアカレーハウス』がアツいんですよ」

敬愛してやまないアキンボのマスターからそう言われたら行かぬわけにはいきません。
とはいえ、営業時間は20時から。普段はこの時間までに退勤できるなら帰り道にメシを食ってしまいますし、帰れないなら社食で食べてるころ。しばらく行けないまま時が経ち、今日。

わりと女性一人とかだと恐い感じの道にあります。
といっても別に歩いていて襲われるわけじゃないので、気にしなければなんともないんですけど。
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小料理屋みたいなカウンターに小料理屋みたいな椅子が五つ。
メニューがないので座ると自動的にお料理(1000円)が出てきます。
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水曜と金曜がスペシャル、あとの日は普通のカレーが出てくるんですと。
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バングラデシュの方が、この界隈で働く人たちのためにやってるらしい。
現地に行ったことがないので現地の味だとかは言えませんが、日本人に出せない味。
しかしうまい。確かにこれはアツイ。

カウンターは日本人ばかりで埋まってしまいました。
もうちょっとすると行列作るようになるんだろうか。ぐぐぐ……

* * *

■カフカ, F.(丘沢静也訳)『変身/掟の前で 他2編』光文社、2007年。

放送大学に「世界の名作を読む('11)」というテクスト分析の入門編みたいなラジオ授業があって、ここ何日かそれを聴きながら通勤したり外回りしたりしてました。
工藤庸子、柴田元幸、池内紀、沼野充義という大御所(というか駒場の地域文化界隈の友達だろう、この顔ぶれは)が名作を周り番で紹介します。それぞれ面白いのですが、実際に読みたいと思わされたのは池内紀の「変身」語りでした。そんなわけで出張先の京都で購入、帰りの新幹線で読み始め、新横浜くらいで1冊読み終わりました。
(それとは関係なく、柴田元幸のテンションを7割増くらいにすると菊池成孔になりますな)

「変身」は高校くらいの時に読んだような気がします。しかしディテールは忘れていました。
勤め人になって読み直してみると、これは出勤前の寝床で「会社行きたくねーなー」と思いながら、このままミスマッチだとかいって会社やめちゃって、引きこもって、家庭が壊れそうになって……とふくらませた空想のように読めますね。不条理劇なんかじゃなくて、とても身につまされる寓話というか。

2014年08月10日

最近のつれづれ

とりあえず食い物の話。
ほっともっとのガパオが健闘している!
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* * *

この20日ほどの間に、実はいろいろ読んでいた。

■藤田大雪『ソクラテスの弁明』叢書ムーセイオン刊行会,2013年.

道理で押して説得に失敗した最古の記録か。
死刑が出たあと、裁判員に向かって「おまえら後悔するぞ、ばーかばーか」と言うジジイが痛い。

それはいいとして、
死というものが死後の世界への移動だとすれば、そこはこんなクソ現世よりいいところだと思うし、
死すなわち無だとしても、それはクソ現世よりいい状態かもしれない。
そうソクラテスがとらえているのが面白いと思いました。

ちょうど先週、過去いっしょに仕事をしたことのある人が、(おそらく)ここ最近置かれていた辛い立場に耐えかねて自殺してしまったという報せに触れて、同じようなことを考えたからです。つまり、死ぬほど辛い思いをしたというのは大変な不幸ですが、自殺はそういうクソなシチュエーションから逃れる手段の一つとして正当化されると思う。
知らない人の自殺には「死なないで説明責任を果たすべきだった」とか「遺された人たちの悲しさを考えると死ぬべきではなかった」などと本人の社会的な立場に関連したつまんない論評を加えるのが人の常です。しかし知っている人だと、そういう論評も頭には浮かぶものの、そのほかに本人の主観について慮ってしまったりするもの。

本とは関係ありませんが、意識が混濁しているような状態だと、自殺のような重大事でも、しない、と、する、の間にある壁を越えてしまうことはありうるな、と思ったこの週末でした(半覚醒の状態で、普段なら送らないけど送りたい気もしていた内容のメールを送った、という程度のことがあった)。

■宇野重規『民主主義のつくり方』筑摩書房,2013年.

(前半)教科書を書いてほしい感じ(→と思って調べたら有斐閣アルマ書いておられた)
(後半)希望学方面の文章は読んでも頭に残らないのってなぜなのだろう

■東浩紀『弱いつながり』幻冬舎,2014年.

・凝り固まった日常を攪乱するのは物理的な移動。ネットを持って旅に出よう
・「現地の生活者目線でものを見るのが正しい」みたいな「ほんとうの旅」像に囚われるのはやめよう
と、軽やかに観光旅行に送り出してくれる本。夏休みの予定考えないとな。
ところで、上の宇野本にも「弱いつながり」が出てきてました。

* * *

実家の父から箱で送られてきた桃(16玉入り)を、すごい勢いで食べているところです。
うまいね、桃。うまいよ。大好き。

2014年07月21日

溺れる/救われる

■レーヴィ, P. 『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳)朝日新聞出版,2014年.

アウシュヴィッツから生還し、その後40年余を生き続けて1987年に自殺したプリーモ・レーヴィが死の前年に出版した本です。日本では2000年に翻訳が出て、今般選書に入りました。
ラーゲル(強制収容所)の記憶と、時代を下るとともに現れる記憶の歪み、そして人々の認知の歪みに向き合い、その体験をいくつかの主題に結実させ、それをエピソードとともに差し出した。誰にも、いつの時代にも起こり得ることとして。

ユダヤ人を抹殺するとともに、その記録と記憶を抹殺しようとしていたさなかでも、完璧にそれを遂行することはできていなかった。とすれば、同時代のドイツにラーゲルの実態が広く共有されなかったのは、SSだけではなく、目と耳と口を塞いだ多くの一般人の責任でもある。戦後40年の間に、その事実は振り返ることが可能になる程度に蓄積したが、同時に直接の経験者は次々と世を去り、共有された記憶もまた砂のようにこぼれ落ちていく。(序文)

虐待者の記憶は時間が経つほどに構築される。命令された、仕方なかった。そして被虐待者の記憶も時間とともに薄れ、あいまいになる。それどころか、事が起きている最中にも認知は曲がる―「戦争はもうすぐ終わる」「ポーランドのパルチザンが収容所を解放し始めている」(1 虐待の記憶)

ラーゲルに存在したのは迫害者と犠牲者の単純な分割ではなかった。そこには「灰色の領域」があった。到着したばかりの「新入り」を殴るのは古参の仲間=生き残るために特権を求め、それを得た囚人=当局への協力者で、ラーゲルの中には複雑な構造があった。それは全体主義社会の縮図だった。その極北が「特別部隊(ゾンダーコマンドス)」として選抜されたユダヤ人を中心とする囚人たちで、十分な食事を与えるかわりに死体の髪を切り、金歯を抜き、荷物をより分け、死体を焼く任務を遂行した。しかしその秘密を外に持ち出さないよう、彼ら自身も数ヶ月のうちに殺された。任務を分有しながら犠牲者となる、灰色の領域の住人。彼らが置かれた状態こそが真正の「命令による強制の状態」であり、ナチが法廷で主張した「命令された」という言辞のぬるさをあぶり出すのだ。ポーランドはウーチのゲットーで議長として君臨し、ドイツに取り入り、やはりガス室に消えたハイム・ルムコフスキもまた灰色の領域の人だった。しかし「自らのもろい部分を権力に絡め取られることはない」と確信することなど、私たちのうちの誰にできるのだろうか?(2 灰色の領域)

戦争の終わり、隷属状態からの解放。しかし、それが苦痛からの解放となるとは限らない。生き残った中には「恥辱感」を抱いた人がいた。収容所の中では動物のように暮らしており、動物は自殺をしなかった。生きることに忙しかった。しかし解放後には耐え難い反省の時期が訪れた。命と引き替えにではあったが、できたはずの抵抗をせず、仲間との連帯を放棄し、自分の生存に集中した。誰かの犠牲と引き替えに今、生きているのかもしれない。不可逆的に消耗した「回教徒(ムーゼルマン)」という隠語で呼ばれた人たちも、抵抗の闘士も、生き残って語るべき人たちこそが帰ってこなかった。(3 恥辱)

収容所には、ドイツ語を知らないイタリアのユダヤ人がいた。ドイツ語で発せられるSSの命令が理解できない、生きる糧をどうやって得たらいいか分からない、殴られないように知っておくべき規則を理解できない。したがって、どこから危険が降ってくるかも予測できない。意思疎通ができないことは、生命維持にとってはマイナスに働いた。隠語、イディッシュ語、ゲーテのとは違った卑俗なドイツ語が飛び交い、収容所ごとに言葉の体系ができていた。収容所と別の収容所の間は隔てられ、群島のようだった。そして、その外にいる家族や祖国からは切り離されていた。既にそれらが存在しない人もいた。(4 意思疎通)

侵略や戦争といった目的達成のための暴力と違う、「無益な暴力」が収容所を支配していた。老人、病人を問わず詰め込み、水も便所も供給しないまま行われた鉄道移送。人間から尊厳を奪い、獣に変身させる排泄の強制や禁止、剃毛、スプーンを使わずスープを「なめさせる」こと、病人や死人までも整列させて行う点呼、入れ墨、科学的に意味のない人体実験。できるだけ大きな苦痛と卑しめを伴った死を強制する。その遺灰や遺髪は産業利用に供される。(5 無益な暴力)

「理解しようとするな」というラーゲルの教えと、理解しようとする教養の齟齬。信仰を持つ者の強靱さと、ラーゲルの邪悪さを目の当たりにして無信仰を強めた著者および哲学者のジャン・アメリー。(6 アウシュヴィッツの知識人)

アウシュヴィッツを生き延び、そのことを語る者に、いつも問いかけられること。
「なぜ脱走しなかったのですか」――しかし戦争捕虜と違って、寒さと飢えと病気と暴力によって体力を奪われ、灰色の領域の住人たちや一人の逃亡で引き起こされる混乱を恐れた同輩たちからの監視の中にあり、脱走して匿われる場所もないのに?
「なぜ反乱を起こさなかったのですか」――実際に反乱は起き、そしてほとんど成功しなかった。また、多くの人たちは究極的な抑圧の中で消耗しきっており、反乱を起こすことができなかった。
「なぜラーゲルに連れてこられるような事態になる前に逃げなかったのですか」――当時のヨーロッパは現在と違い、外国は遠いところであり、移住には費用やつてが必要だった。そしてヨーロッパのユダヤ主義は定住的で、家庭的な道徳律を持っていた。何より、不安な推測は現実になるまでできないものである。今だって核爆弾と第三次世界大戦の危機はないといえるだろうか。なぜ影響の及ばなそうな南太平洋の国々にあらかじめ私たちは逃げ出さないのだろうか?(7 ステレオタイプ)

1947年に出版した『アウシュヴィッツは終わらない』のドイツ語訳に対して、40通ほどの手紙が寄せられた。命令されたから仕方なく従った、一部の指導者が引き起こしたことだ。しかし、その政権は投票によって選ばれており、「鬼畜なやつら」と「騙されたわれわれ」の区別はできない。迫害を実行したのは「悪い教育」を受けただけの普通の人々だった。そして暴力はその後も常に世界のここかしこにある。何世代かを経て、マイナーチェンジを施したアドルフ・ヒトラーが現れる可能性はある。警戒は続けなければならない。(8 ドイツ人からの手紙、結論)

* * *

■町田康『パンク侍、斬られて候』角川書店,2006年.

職場の人に貸してもらった本。
風刺と見ることもできるけど、そんなことは気にせず酸鼻などんちゃん騒ぎを楽しめばいいんだと思う!

* * *

最近の買い物、二つ。

(1)ソニーのノイズキャンセリングイヤホン、MDR-NWBT20N。
2年ほど使った先代が断線したので買いました。通勤電車に地下部分があるので、ノイズキャンセリング機能は必須なのです。Bluetoothを搭載していて、しかも手許で再生/停止、早送り/巻き戻しができるので、iPodをカバンの中に入れたままにできるのが、使ってみて気付いた大変便利な点です。

(2)東京西川の敷き布団AIR 01。
いつからか覚えてないくらい昔から使っていた敷き布団を何となく取り替えたくなって、どうせならということで、ちょっと高いやつを買ってみました。
ウレタンでできてます。なんかぼこぼこ山がいっぱいついてるスポンジの上に寝てる感じ。ネットの口コミでは[腰痛が治った」「途中で起きなくなった」など絶賛が相次いでいますが、そういえば弊管理人はもともとそんなに運動器や睡眠に問題を抱えていたわけではないので、あまり実感はないかも。
それより今は体が慣れようとしている段階と感じます。ウレタンの臭いも気になるといえば気になる。評価はもうちょっと経ってからかなあ。

* * *

3連休は真ん中の日に働いてしまい、連休ではなくなりました。
その内容についてはいろいろ言いたいこともありますが、言ってもしょうがないので沈黙。
それより、そろそろ夏休みのことを考えるのだ。

2014年07月08日

ガルブレイス

■中村達也『ガルブレイスを読む』岩波書店,2012年.

ヴェブレン、ガルブレイス、サミュエルソン、制度派、新古典派総合。ミクロもマクロも知らない、そもそも経済専攻でない大学2年の冬にうっかり取った授業では、教授の研究室で同級生二人とコーヒーをいただきながら(そういえば当時はコーヒーもほとんど飲んだことがなかった)英語文献を読むという恐ろしいシチュエーションになってしまい、しかもほとんど消化しないまま、よくわかんない言葉を覚えて終わったのが思い出です。

その覚えたうちの一人、ガルブレイスの『ゆたかな社会』はしばしば耳にするので気になってはいましたが、そのものをいきなり手に取るのはちょっと躊躇われました。もうとにかく経済って分からない。普段は原典を読んでから解説、がよい順番なのですけれど、全くなじみのない分野はまず解説、これもまたセオリーだと思ってます。

本書は1983年の一般向けセミナーをまとめて88年に出版された本を改訂・補筆し、2012年に岩波現代文庫に入ったもの。1950年代から90年代までの主要な著書を一つ一つ分かりやすい言葉で解説しながら、ガルブレイスの思想の年代記を作り上げています。それによればガルブレイスという人は、一生かけてオリジナルな一つの体系を組み立てたというよりは、その時々の主流の経済学と社会通念を批判し、鋭い洞察力と豊かな引用、風刺を駆使して来るべき時代の予言をしてみせる、異端の経済学者だったらしい。

『アメリカの資本主義』(1952年)のキーワードは「拮抗力」です。普通の考えでは、多数の小さな企業が参加する競争的市場が成立していれば、「神の見えざる手」=自然の調整機能が働いて万事うまくいく。その例外事態である大企業による独占を防ぐための独禁政策が必要とされるわけです。
しかし、ガルブレイスは大企業には固有の存在価値があるという。複雑・高度化した20世紀の科学技術を使って革新を起こすためには、巨大な元手の蓄積が必要になります。企業の大規模化は、技術革新の原動力として肯定的な意味を持っているのです。
では、大企業の好き勝手は放置されるかというと、そうでもない。実際に起きていることは1社の独占ではなく、数社による寡占状態で、そこには競争があります。ある企業から見て上流にある原料業界でも、下流にある小売業界でも、同じように力のある少数の企業が競争していれば、業界の内に対しても外に対しても、1社だけが傍若無人に振る舞えないようにする「拮抗力」が働きます。巨大企業の中に生じる巨大労働組合もまた、そうした拮抗力の源となります。政府がすべきことは、独禁政策によって技術革新の担い手である巨大企業を排除するのではなく、拮抗力を支援するような政策を実行することなのだといいます。
逆に、拮抗力をキャンセルしてしまうような力がインフレにはある。そして、その懸念はこの出版以降、実際のものとなります。

次の『ゆたかな社会』(初版1958年、69年、76年、84年、98年に改訂)は、アメリカが持続的な経済成長モードに入った時期に書かれました。成長を礼賛するのではなくて、成長が必然的に生む病理に焦点を当てることで、貧困を前提にする従来の経済学にアンチを唱えた本といえそうです。
まず、それ以前の経済にあった「古い病」として、「物質的貧困」「不平等」「経済危機」を挙げます。これを克服するのが最大の課題だったのですが、成長の時代に入るといずれも緩和されます。しかし、新たに「依存効果」「慢性的インフレ」「社会的バランスの喪失」という三つの病が現れます。
「依存効果」というのは、大企業が大量生産と並行して広告・宣伝を通じて大量消費を促し、消費者が消費に依存する状態。「慢性的インフレ」は、戦時や革命下ではなく、ものが豊富にある平時の世の中で緩やかにインフレが続く状態。「社会的バランスの喪失」は、私的な財やサービスの充実に比べて、公共インフラの整備が立ち後れていることを指しています。それぞれに対策を打ち出していますが、特に「依存効果」への対策として、大量消費にブレーキをかける売上税の導入とともに、雇用創出のための生産拡大を牽制しようとベーシックインカムの導入を提案しているのが目を引きます。

『新しい産業国家』(1967年、71年、78年)では、経済の主役となった大企業の振る舞いをクローズアップしました。
大企業を中心とした経済体制を象徴する言葉が「計画化」です。ここでも重要な背景となるのが技術の高度化・複雑化です。製品の企画段階から世に出るまでに長い時間と専門的な知識を要するようになり、生産設備にも大きな投資が避けられない。必然的に組織は巨大化し、あるキャラの立った個人の独裁ではなく、高水準の教育を受けたさまざまな分野の専門家集団(テクノストラクチュア)による支配体制を採用し、軍産複合体に見られるように政府との結びつきを強め、依存効果を通じて消費者をコントロールし、消費者に商品の選択の自由を残しながら、選択肢の幅を支配することもできるようになります。消費者主権に立った新古典派とは対極の見方です。
さらに、調達にまつわる不確実性を減らすため原材料を供給する会社をグループに取り込み、価格変動のリスクを避けようと大量・長期の契約を結んで調達を行うようになります(航空会社が燃料を随分先の分まで押さえるようなものかな)。
また、テクノストラクチュアを駆り立てる動機も前時代とは変わります。強制されて、あるいは金銭目的で動くというよりは、組織内での一体感を得たり、逆に組織を自分の思うとおりに動かしてやろうという欲求。これを加味して大企業の動態を理解する必要が出てきたといいます。

オイルショックの1973年に出版された『経済学と公共目的』は、『新しい産業国家』では注目されなかった中小企業も分析の中に含め「で、どうすればいいのか」を考えた本といえます。経済成長が分配の問題をうまく解消してくれていた時代が終わり、「どう分けるか」を初めとしたさまざまな課題が浮上しつつありました。
大企業の「計画化体制」(市場を支配する体制)と対比されるのが、中小企業が構成する「市場体制」(市場で決まった価格を受け入れて経営する企業たちの体制)です。ここでしかできないことは、農業のように非定型的で一極集中しづらい生産、床屋のようなサービスの生産、そして美しい一品もののような芸術的価値の生産です。こうした生産が将来重要になるだろうといいます。
しかし、現状としては計画化体制と市場体制の格差は広がっている。そこで、政府は大企業と癒着するのではなく、逆にそのガバナンスに手を突っ込み、公共的な方向へ引っ張っていくべきだとします。例えば環境問題への対応、例えばインフレ対策。そして住宅、教育、福祉政策に力を入れること。

最後にテーマになるのが『権力の解剖』(1983年)です。ケインズ的な政策が60年代のような有効性を失い、市場の力を頼むサッチャー、レーガン政権ができた時代です。しかし、競争的な市場なら自動的な調整機構が働くので権力が登場する余地は少ないのですが、現実は寡占市場です。誰かが支配し、誰かに力を及ぼしています。権力を考える必要が出てきます。
権力の類型として、強靱な・あるいはカリスマ的なリーダーによる「威嚇権力(脅し)」、財力を背景にした「報償権力(見返り)」、そして組織が操る「条件付け権力」を置きます。最後のは現代を特徴づける「自覚しないまま従ってしまう権力」で、広告・宣伝や教育によって浸透します。そして、それぞれの権力には対抗する権力が生まれますが、それがうまくバランスするとは限らないという、やや悲観的なビジョンを持っているようです。

なるほど、どの本もはっと目を見開かせるキャッチフレーズに満ちています。主流や定説の中でぼやーんとしてしまった頭を覚醒させる言葉、それを概観させてくれます。技術決定論ぽい経済観も興味深かったです。とても魅力的な解説ですが、よくできすぎていて原著に手を付ける意欲が多少そがれますかね……

* * *

先週は日帰り神戸、のはずが、半分予想していた通り東京に帰れなくなり、とりあえず大阪まで戻って投宿、6時前に起きて翌日9時から普通に東京に出勤するという疲れる出張をしてしまいました。

三宮の「トゥーストゥース・ガーデンレストラン」で腹ごしらえに食ったクレープ。
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んまかったー
次はメシ食いたい。

2014年06月22日

本を読む

弊管理人と本とのおつきあいを、自分用メモを兼ねて書いておきたいと思います。

【なぜ読むか、何を読むか】

弊管理人はもともと本を読む習慣はありませんでした。中学の時にはあまりに本を読まなすぎて国語の成績を下げられたほどです。親は結構活字を読む人なのですが、どうしたことでしょう。

それでもするっと大学に入りました。ところが、周囲の、特に東京の私立・中高一貫校から来たような同級生たちが、入学直後の自己紹介で「好きな作家はジェイムス・ジョイスです」「ポスト構造主義に興味があります」などと意味の分からないことを言っていたのに衝撃を受けました。

文献を読んで発表をする練習となる必修の授業でも
  せんせ「では感想をどうぞ」
  弊管理人「えっと、難しかったです……」
  せんせ「あ、はい。次の方」
  次の方「この議論にはマイノリティという視点が欠けていると思います。云々」
という教養とお作法の差を経験し、とりあえずいろんな本を手に取るようになりました。

しかしそれで最終的に追いついたかといえばそんなこともなく、放任気味な大学生活の中で勉強やアウトプットの仕方を習得せず、必読書とされるものをきちんと読まないままテキトーな卒論を書いて卒業してしまいました。
結果、不足感とか、やるべきことをやらないで通過してしまった後悔が残った。それが今に至るまでなんとなくページをめくっている動機かなと思っています(追記:動機「の一部」です、たぶん、反芻してみると)。でもま、それでも本好きというほどの読み方ではないんですけど。

在学中や就職してしばらくは、次の理由から、新書や新進の著者の本をよく読んでいました。
・新しい本は、古い本を踏まえて書いてあるのだから、新しい本のほうによりよいことが書いてあると思った
・概説書は、必読書を要約して書いてあるのだから、概説書を読むほうが効率がいいと思った

これはこれで速効性の利益はあったのですが、しかしどうも自分のものになってない感じもしていたように思います。特に日本語の本には碌な要約がなかった。

で、わりと最近になってやっと、古典は古典でちゃんと読もうという「忘れ物回収プロジェクト」を始めました。就職してから、何か情報を得るのに又聞きは危ない、本人に直接聞いたほうがいいという経験が重なったせいもあるのかも。何年続くか分かりませんが、
・特に分野を限らないで、ある本を読みながら「次はあれかな」と思った本を渡り歩いていく
・いい解説、いい訳、値段がお手頃、あたりをゆるく優先する
・でも偶然勧められた本やその時々に話題になった本との浮気を恥じない
・ついでに、ちょっと人に見せたい本棚を作るつもりで本を選ぶ
・焦らない、早く読むことを偉いと思わない
・ただし、一語一語にあまり拘泥せず、それなりのスピードで進むことも理解のためには大切
・どーしようもない本に当たってしまった時も、半分くらいまでは頑張ってページをめくる
というのを基本線にして進めています。

【本を1日どれくらいの時間、読むか】

生来まったく本の虫ではないので、手持ち無沙汰の時にしか読みません。
平日は通勤電車に乗っている間(20分×往復)が標準で、面白く読んでいる本なら仕事中にちょっとできた待機の間にも読みます。
休日はどこかに出掛けようと電車に乗った時に読みます。ただし初めての土地の場合は車窓の風景に見入ってしまうので読みません。電車以外ではあまり読みませんが、ときどき喫茶店に入って読むこともあります。

通勤電車のペースに慣れたせいか、1回読み始めて注意が持続するのは20分くらいです。
それ以上読む時間がある場合でも、ちょっとツイッターを見たりとか、別のことをしてから再開します。

読むのも結構遅いほうではないでしょうか。文庫本の場合、電車の片道20分で10~15ページくらいです。

【どうやって読むか】

弊管理人が本を読む機会は大抵メモが取りにくい(電車の中とか、ふとできた時間とか)ので、妥協して次のような手順を取るようになりました。ほんとはメモがいいんですけどね。

1 助走として、解説、あとがきを先に読む
2 本文を読み始める
3 この際、付箋を鋏で縦に3等分し、裏表紙の前のページにまとめて貼り付けておく
4 大切だと思ったところ、変だと思ったところに付箋を貼りながら読む(3、4は下の写真参照)
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5 頭の中にポンチ絵を描きながら読む。読み進めながらポンチ絵に修正を施す
6 解説、あとがきをもう一度読む。解説が役に立たない場合、手頃な解説書を別途1冊読む
7 弊サイトの管理画面を立ち上げる
8 ポストイットを貼った箇所に注意しながらを最初からもう一度ざっと読み、エントリを書く
9 書く内容は:本をどう理解したか(ポンチ絵を字にする)、どこが面白かったか、どこにイライラしたか、これまでに読んだ本と何か関連することがあったかどうか
10 本棚にしまって次の本を通勤カバンに入れる

この方法には、話の筋とその時の心境をざくっと掴み、それを記憶として固定し、後でもうちょっとちゃんと参照したくなった時に辿る、という作業がしやすい利点があるかなと思っています。
弊管理人は、1冊に深く関わるより、浅い読書を重ねながらイメージをだんだん濃くしていくタイプの理解をする癖があるようなので、こういうスタイルになったのかもしれません。1冊1冊について弊サイトに書きつける作業はインデックス作りのようなものと考えています。

ただし仕事用に読む本や書類はこの限りではありません。大抵の場合は厳密さとスピードが求められるので、頭の中ではなく、デスクでお絵描きし、シソーラスのようなものを作りながら読みます。あと、分かってる人と話して確認するという作業も結構やります。

弊管理人は「小説もビジネス書もほとんど読まない」「目的を持って読んでいない」「いつもぼっちで読んでいる」と、本とは結構特殊なつきあい方をしているので、誰かの役に立つとも思えませんが、一応こんなところです。ここ改善するといいよ、というような助言がありましたら是非教えて下さい。

* * *

2010年の終わりから3年半にわたって弊管理人のさまざまな悪事の片棒を担いできたiPod Touch、先週アスファルトに落とした際に画面にいっぱいひびが走ったのを機に引退となりました。実のところOSのアップデートが重なったせいか動作はかなり遅くなっていましたし、バッテリーもへたっていたので、いいきっかけだったのかもしれません。

後継は現行の第5世代iPod Touch。第6世代がもうすぐ出るんちゃうかという思いはありながらも、アップルのウェブストアで整備済み品(外装とバッテリーを交換した中古)が安く出ていたので買ってしまいました。深センから3日かけて来るのな。へー。
これで引き続き外でのメールもネットもiPodでできるので、ガラケーユーザーは当面継続です。iPodが軽い動作、ちゃんと1日もつバッテリーに変わって新たな悪事に手を染めることになりそうです。

* * *

夏至の土曜と今日は静かに過ごしました。
雨の朝だと明るくならないので長めに寝られていいっすね。

2014年06月17日

エピジェネ

■仲野徹『エピジェネティクス』岩波書店,2014年.

細胞核の中に入っているゲノムが1冊の本で、筋肉の章、神経の章、骨の章、……みたいに、いろんな情報が書かれたページからなっていると考えてみる。そうすると、生活史の場面場面に応じて、必要なページを読み、かつ読んではいけないページを読み飛ばすようなが機能が必要になる、それがエピジェネティクスと呼ばれているらしい。

代表的なものの一つは、DNAの糸をボビンにがっちり巻き付けて読み取りをできなくしてしまったり、逆にそれをほどいて読み取りを可能にしたりするような「ヒストン修飾」という仕組み。もう一つは、DNAそのものに「読み取り禁止」の目印が付いたり外れたりする「DNAメチル化」という仕組み。例えば小麦の春化、女王蜂と働き蜂の分化、プレーリーハタネズミの一夫一婦制に関与しているとのこと。
こうした仕組みが何かの弾みで乱れると、生命のマクロな営みに悪影響を与えることは容易に想像できます。がんや生活習慣病の研究でも、そうしたことが垣間見えているそうです。

読んでみて、病気や健康などに対する理解の解像度が上がったような気分になります。身体の状態は「遺伝的要因」と「環境要因」のブレンドでできていると考えられますが、おそらく「遺伝的要因」の中にも「DNA塩基配列や染色体の正常/異常」と「プログラムされたエピジェネティックな制御(ゲノム刷り込みとか)」があり、また「環境要因」の中にも「そのときどきの環境に対応したエピジェネティックな変化」と「環境が直接、体に与える影響(病原体の感染とか、事故とか)」の区別があるのかなと思いました。

しかし、説明してもらって色々分かってくるとそれ以上に分からないことが出てきます。弊管理人が最も気になったのは、遺伝子の発現を制御するエピジェネティクス、を、制御しているのは何なのか?ということ。出生から数十年先まで記憶されている、ものによっては(確実さは低いものの)世代を超えて伝わるというのも驚きですが、その情報は一体どこに書き込まれているのか。興味がそそられます。

「おおきく六つのカテゴリーに大別する」みたいなうっかり表現や、「染色体の不安定性」「クローニング」「高スループット型の次世代シーケンサー」などの一言説明を要する用語がいきなり出てくる箇所など、ちょっとした不満点もありますが、ブルーバックスで出てる類書よりも(岩波新書のせいか?)ぐっと親しみやすさに心を砕いてある印象です。ヒストン修飾やDNAメチル化の状態を調べる手法(と、その限界)も解説されていて参考になりました。

* * *

週末は久しぶりに徹夜飲み。
ちゃんぽんしたので頭にキてしまいました。

* * *

先週末から今週にかけて、仕事関係の重苦しい寄り合いがありました。
弊管理人は「なんか重苦しいですね」と思いながら内職してました。

2014年06月08日

エチカ

■スピノザ, B.『エチカ(上)(下)』(畠中尚志訳)岩波書店,1951年.

始めに置いた定義と公理に基づいて証明を重ね、神と精神の本質、そして倫理に至ろうという試み。1675年ごろには完成していたとされています。

全体は5部構成。

第1部ではまず、「神、すなわち自然」であること(汎神論)を導きます。
神は「永遠・無限の属性」が無限に集まってできており、あらゆるものの原因かつ唯一のもの、つまり「全体そのもの」だという。
自然の中にある何であっても神やその属性のある一様態といえ、それらはすべて「必然的=予定されたもの」なのだとする。逆に言うと、「偶然なもの」というのは存在しない。偶然と思えるものがあったとしても、それは、それについてわれわれがよく知らないからそう思えているだけなのだ。
つまり、自然には「原因」と「法則」があるだけで、「目的」というものはない(目的があるように見えたとしても、人間がそういう偏見を持っているというだけのこと)。人間も当然その一部なので、「自由」などというものはないことになります。

第2部では、身体と精神が人間という一つのものが持つ二つの側面だということを述べます。

第3部は、人間の感情についてのパート。喜び(自分がより大なる完全性へ向かっていることの自覚)、悲しみ(自分がより小なる完全性へ向かっていることの自覚)、欲望(自己保存への衝動)、という三つの要素のブレンドと状況との関係によって、希望、恐怖、好意、憤慨、ねたみ、謙遜、後悔といったさまざまな感情ができているということを証明していきます。

そして第4部から、ようやくエチカ(倫理学)の本筋に入ります。
人間は、身体の外側にあるいろいろなものから受ける刺激によって感情を喚起されますが、スピノザはそれを「受動的である」と表現します。移ろいやすい環境に自分の存在が支配されている状態、それはつまり「隷属的」なのだと否定的に評価します。
それに対して、妥当な観念や理性に基づく行動は「能動的」であるとして称揚します。人間はそれを通じて神(つまり自然)への認識や愛を深めるわけで、その活動こそが(意味づけをしなおされた)「自由」であり、辿り着いた認識が永遠・絶対の「善」ということになる。

それにしても、その理性はどういう作用をするんでしょうか?それは何より、各人が自身に内在する法則に従って自身の存在を維持しながら、より大なる完全性を目指すということです。
しかし、自分一人で遂行することはできません。外部(特に他人)の力を得なければならない。そこで理想的には、各人が「みんなの共通の利益」を目指すようになるだろうということが導かれる。各人が自分の利益のために行動するということが、全体のために行動するということと等しくなるということです。エゴイズムの総和として実現する、相互扶助や社会的な紐帯。さらに、そうした扶助をシステマティックに実現する手段として国家が有用であること、国家の法律に従うことが人をより自由にするということも帰結します。

しかし人間はどう頑張っても、ある程度は感情に翻弄され、他人との間に相互扶助ではなく対立的な関係を築いてしまいがちです。また「憐れみ」のような感情に従い、結果としては相互扶助が成立することもあるかもしれませんが、やはりそれでは不安定で、誤りさえ含みうる、頼りのない秩序に過ぎません。

では、どうやって感情を制御し、理性によるグリップを効かせていくのか。それを検討したのが最後の第5部です。その鍵は、人間自身と、人間を取り巻く自然を一歩一歩理解していくこと。それに基づいて、自分が何に従って行動しているかを知りながら行動すること。そうした営みが喜びや幸福をもたらすと主張する。またその喜びの源泉は神なので、そういう知的活動に勤しみ、神に関する認識を増していこうというドライブ、それが即ち「神に対する知的愛」なのだという。楽なことではないが、それが生成し滅びる運命にある人間の肉体の有限性を超えた、精神の永遠さへと至る営みなのです。たぶん。

始めにも書きましたが、証明問題を次々と解いていくような体裁の本です。副題も「幾何学的秩序によって証明された」です。しかし読んでいくとところどころ飛躍や無理があって、それこそ「幾何学的に証明された」というのはちょっとなあ……と感じずにはいられません。

それでも、この形式に対するこだわりは、読む側に強い印象を与えます。現存するあらゆる手を使っても直接観察することができない素粒子の性質を、手持ちの知識と数学を駆使しながら追い詰めていく理論物理の情熱を思わせます。そこから生活実感に反する知識が得られたとしても、「だって、計算していったら出てきちゃった結果だもん」と確信とともに主張することができるのも、こうした手法の利点かもしれない。

ところが、経験的な手法では追いつかない対象を捕まえるために用いた手法が、かえって神なしでも自然科学はできる、というメッセージを発しているようにも見えます。(自然に目的はない、というのは進化論を予言していますよね……)
スピノザは「無神論」だと非難されたこともあったようですが、確かに神が自然そのもの、全体そのものであって、そこに外部がないなら、それを神と呼ぶなら呼べばいいが、呼ばなくても別にいいですもんね。冷徹に、ひたすら分析するという態度を通じて国家の必要性も言えてしまったし、倫理的な生活とはどんなものなのかも描けてしまった(少なくとも著者の中ではちゃんとしたつながりを持って)。それならそれで、と言っているように聞こえたら、そりゃ怒る人は怒るわな、と思います。そのへんの議論は全くフォローしてないので解説書でも読まないといかんのですが。

『エチカ』は学生のころからずっと読まなと思っていた本。忘れ物回収プロジェクトの一環で読みました。ついでにこのあと、ちょうど先月に新しい訳が出たばかりの『神学・政治論』に進みたい感じが結構しますが、ちょっと優先すべき買い置きの本があるのでいったん寄り道します。

* * *

ところで先週末、1998年に出た『社会学文献事典』がおねだん4分の1くらいの縮刷版として再び発売されたというので弊管理人のTLが沸いていたため、いそいそと紀伊国屋に行ってめくってみました。
うーん手許にあると便利そうだけど、衝動買いするには衝動が足りないかなー、という感想。

独りぼっちで本を読む弊管理人が訳者解説などに期待するのは、内容のポイント、同じ著者が書いた関連文献との関係、当時その著者が戦った相手、現在に対して示唆するもの、を全てではなくていいのでできるだけカバーしてくれることです(余計なことですが、決して訳者や著者の苦労や身の上の話、楽屋ネタ、当該文献とは別に前提知識を必要とするような注釈、ではない)。それには文庫本で20~30ページは必要だと思っており、上記『事典』はちょっと食い足りないというか、使い道があまりはっきりイメージできなかった。ちょうど読んでいた『エチカ』の解説がかなり優秀だったことも響きました。

* * *

灼熱だった先週末とうって変わって、梅雨入りしたこの週末はずっと肌寒い雨降りでした。

新宿南口から徒歩5分くらい、「風雲児」のラーメン。
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列なしで座れてラッキー、と思った次の瞬間に店内を待ちの客が埋め尽くしました。
ラーメンはこってり目、でもしつこくない。中太麺も絶妙。うまい。並ばないなら食いたい。
あと、大将が妙に物腰柔らかいです。うるさい(元気のよすぎる)お店より好き。

ちなみに時々言わないといけない気がしますが、弊管理人はラーメンと天丼ばかり食べているわけではありません。

* * *

夏になると体がショートスリープモードに入って、だいたい6時間くらいの睡眠で朝、目覚めてしまいます。おそらく今住んでいる部屋に開口部が多いので、日が昇ると部屋がそれなりに明るくなってしまうためであろうと思っています。
先週、掛け布団をやめて毛布一枚で寝るようになった頃から特にはっきりそうなっていて、それは例年通りなのですが、先週はなぜか午後5時くらいに30分くらいデスクで居眠りする日が続きました。
ちょっとした午睡は体にもいいようなので、今年の夏は早寝早起き午後ちょっとう睡眠、くらいで行ってみようかな。

2014年06月01日

銀笹

真夏日の土曜出勤、上司が「外に出ていいから」と言うので昼飯に出掛けました。
銀座8丁目、というか弊管理人の心象地図では築地の外れ、「銀笹」。

塩ラーメンと鯛飯がいいようなので、頼みました。
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塩ラーメン850円、これはうまいわー。海老のつみれも叉焼も作り込まれていて、途中から薬味を入れて味を変えたりしながら、ちゃんと「一食いただいた」という実感が得られます。
写真にはうまく写っていませんが、葱ととてもよく合う麺、つゆです。歳のせいかもう一段薄味でもよかった気はしますが、十分許容範囲です。器もいいよね。
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鯛飯はそれだけでも上品な炊き込みご飯でいいんだけど、お店の勧めるとおりラーメンの汁をちょっとレンゲですくってかけると、鯛茶漬け風になって俄然味が豊かになります。

ちょっとした行列ができていましたが、おそらくタイミングの問題。わりとすぐ入れました。
平日はもっと厳しそう。

* * *

■グラムシ, A. 『新編 現代の君主』(上村忠男訳)筑摩書房, 2008年。

せっかくなら「サバルタン」の源流をちょっと見ておこうと思って当たってみたものの、問題意識が共有できなすぎて辛かった。現代の君主―一人ではない「政党」の形態を取る―の駆動原理と意義を考えたものと推察しますが、なんか日比谷公園の森の向こうからかすかに聞こえてくるアジテーションくらいにしか受け止められなかった。

知識をもって世の中に影響を与えたり与えようと思ったり与えうると思っている人ではないので(弊管理人の労働には多少そうせざるをえない面があるが、現段階で自己イメージ形成への貢献はほぼ0)、知識人発―知識人宛みたいなお話はもう当面いいかなと。

見回せば、目の前にいない他人のためにまでカッとなれるような暑苦しい人たちが弊管理人の周囲に結構いるため、敬意を表しつつ自分はもうしばらくコミットメントに欠けた姿勢を続けていていいんじゃないかしら。ということで、状況が変わったらお会いしましょう、どうもすんません、じゃまた。

* * *

MovableTypeの古いバージョンだとセキュリティ上危ないというニュースが回ってきたためアップデートを考えたのですが、最新バージョンにするには、月100円くらいで借りている今のサーバーをもっといい契約にしないといけないことが判明し、二度足を踏みつつ対策を考えています。絵日記だしねえ……

2014年05月05日

連休中途半端日記

連休4月パートは曜日の並びが悪かったので、5月3-6日は集中して人が動くだろう、帰省辛そうだなーと思って及び腰でした。が、4日夕方にバスで帰省して5日夕方に特急で戻ってきたら全然辛くありませんでしたとさ。

今年は父親の運転で木曽に行きました。
昼神温泉から国道256号に入って北上します。なんと桜が満開。
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はなもも街道の異名があります。はなももというのはこれ。
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一つの木に、赤白桃の3色の花が咲きます。なんか長野にしては派手派手しくてきれーです。

妻籠宿を散歩。
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澤田屋で、この時期だけの朴葉巻をいただきました。
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開くとこう。
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あんこが中に入ってます。柏餅みたいなもんです。

開田高原から御嶽山。
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いやあきれい。長野の山ってなんか枯れたようなくすんだような色で、これを見ると帰ってきた気がします。
「まつば」でそばを食おうと思いましたが、あまりの列に断念。
代わりに木曽福島に出る途中で適当に入ったそば屋(名前確認せず)で食いましたが、これがうまかった!

権兵衛峠を越えて伊那に出て、上諏訪から特急に乗って帰りました。

夕飯は幡ヶ谷の「カリヒオ」に初めて入り、ドライカレー+キーマ+温玉。
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よいねよいね。先達によるとスパイシーチキンカレーもうまいらしいので今度な。
疲れて寝たのに、早朝に地震で起こされました。あー

* * *

追記。6日はお呼ばれの餃子宅飲み堪能したー

* * *

一方、読んだもの。

■町田康『人間小唄』講談社,2014年.
職場の上司から借りた。
なんぞこれ。
in turn解説者拉致られろ。

■バウマン, Z.『リキッド・モダニティを読みとく』(酒井邦秀訳)筑摩書房,2014年.
2008~09年に書簡形式で書かれた44のエッセイ。
リーマン・ショックと環境問題をすごく気にしてた時期に書いたのねという回がいくつかあったが、08年の過去になりっぷりを思うに感慨深いというか。
全体、さらっと読んでしまうたぐいの文章ですが、訳者あとがきに倣って、よかったと思う回を。
高尚な芸術だけを食う、ブルデューのいうような「文化的エリート」はもういなくて、ポップもテレビもつまみ食い消費するのがエリートの作法となっているという18。
ゲーティッド・コミュニティの風景から入って、アメリカの不平等とうつと服役者数を考え、トリクルダウン仮説を疑う21。
確率は世界の乱雑さと「やればできる」という傲岸の折り合いであるというベックを引き合いに、リスクと全球的な対処の必要性を言った28。
ミルグラム実験、アブグレイブ収容所での虐待を研究したジンバルドの『ルシファー・エフェクト』、ポーランドのユダヤ人大量殺人に関与したドイツ警察101予備隊の例から、鬼の所行を喜んでする人が2割、断固拒否する人が2割、日和見が6割という。嗜虐が個人の性格ではなく、多数の独立した要素が干渉してできた結果だと見れば、流動化して権威が分散する近代状況はよい方向に作用しているのではないかと見る42。

* * *

えー4月は3回しか日記書かなかったのか。
しかも1回は書くことないとかすぱげっちのザルひっくり返したとかそんな話……

2014年04月26日

サバルタン

■スピヴァク,G.C.『サバルタンは語ることができるか』(上村忠男訳)みすず書房,1998年.
■モートン,S.『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』(本橋哲也訳)青土社,2005年.

5世紀にわたった植民地支配後の=ポストコロニアルな政治状況の下でも、第三世界の国々には依然としてジェンダー、人種、民族、宗教、階級に基づいた/しばしば横断した差別構造が温存されている。それは、植民者文化が現地エリートの中に受け継がれて命脈を保ちながら、解放後の軍政や開発独裁などを導いたからなのではないか。
ポストコロニアルな状況の中で抑圧された人たちを「サバルタン」と呼ぶことまではできるとして、それでは、第一世界の知識人がかれらの歴史を、生活をrepresent(代表/表象)することは可能か?可能ならばいかにして可能か?

第一世界が第三世界を他者として、自前の枠組みを使いながら読解を試みる。後進地域に残る人権侵害の悪しき慣習を告発し、是正し、現地女性を救済する。コロニアルな時代から続く、そうした独善的な発想と方法を漫然と用いるなら、第三世界のサバルタンは永遠に客体の立場に置かれ、自らを表現する道を閉ざされてしまう。仮にサバルタンが積極的な抵抗を試みたとしても、それは表象する力を持った支配階級のフィルタを通してしか表象されず、どのみちサバルタンは語ることができないまま、構造が維持・強化される。

そこでunlearnというプロセスが有効になるように思える。第一世界の知識人としての自分の位置を意識し、それをカッコに入れること。裏側から言うと、相手との距離を知り、その上で相手の具体性に学ぶという構えをとること。自分探しのために他人を読まないこと。
あるいは戦略的には、多様性を持った人たちの集団をひとまとめに呼ぶ(「インドの女性」など)ということを作業仮説として認め、当面の課題を解決するために使ったあとは「でもそうしたかれらも一枚岩ではないので」と潔く解体して次段階の差異に分け入っていくこと。
言葉と指示対象の結びつきが構造的に不安定であるというデリダを踏み台にして(踏み台にできるほどソリッドではないんだろうけど)、書かれているものを何が支えており、書かれていないのは何かを考え続けること。
ボケがいないと成立しないツッコミみたいな論理やな、という印象が支配しかけたが、ツッコミに開かれつつツッコミを織り込める限り織り込んだボケをやるのに利用することも可能そうだと思い直した。

しかし今や、問題は一国内のポストコロニアル状況から、全球的な差別構造に視点を移さなければならなくなっているらしい。第一世界が第三世界に繁栄の基礎を依存しながら、同時に抑圧し忘却している現状。
また、第一世界の内部に生じているサバルタン(例えば、先進国内でも災害に対して極端に脆弱な地域、グループがあること)という古い問題もある。

大学生だった1990年代終盤ににわかに耳に入り、そのあとあまり聞かなくなった『サバルタン』を、先日バトラー解説本を読んだ余勢でようやく読んだ。が、難しかった(複雑というより不親切という意味で)し、その訳者解説が食い足りなかったので解説本も買って読んだ。そのあと『サバルタン』の付箋を貼っておいたところに戻って拾い読みしたらそれなりに読めた。すごい。
内容は意外と去年から読んでいたナショナリズム方面の話と結びつきそうで興味深かった。ただ実のところ「女性」方面の話には知識人でも女性でもない弊管理人が踏み込んでみてもいいことは少なそうなので、手持ちの地図に「地雷原」と印を付けたうえでしばらく敬遠することにした。この後の旅の中でときどき反芻することになると思います。次は十数年前に買ったきり読んでないサイードに寄ってみるか、あるいは数百年戻るか。

2014年03月31日

花見

今年も靖国神社の夜桜を見てきました。
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2013年3月31日2010年3月28日と同じ場所ですが、この写真は反対側を向いて撮ったものです。
朝から気温は高いのに嵐のような天気だったものの、午後には雨が上がって風もほぼ止み、この集まりでは初めて「暖かい中で」「満開の」桜を楽しむことができました。お酒を飲みながらぼーっと上を見ていました。
来年は桜が見られるだろうか?と根拠のない疑問がわいた今年でした。

* * *

■黒岩麻里『消えゆくY染色体と男たちの運命:オトコの生物学』学研メディカル秀潤社、2014年。

遺伝子と性ホルモンの作用によって男、女がどう作られていくのか、イクメンやらイケメンやらはどの程度生物学的に説明できるのかといったことをチラ見させてくれる本です。「男」をつくるY染色体は退化を続けていて、いずれ消滅してしまうといわれていますが、既に消滅しながら男が生まれ続けている動物種もあり、そこにどんな裏技があるのかについても紹介されています。

このあいだ読んだバトラー本を思い出しつつ読むと、「精子を作るのがオス、卵子を作るのがメス」とばっさり定義づけてさっさと話を始めるのが妙に印象に残ります。これを踏み台にすると、性染色体をXXで持っているのに、性決定遺伝子が乗ったY染色体の一部がX染色体にくっついているために体がオスになっている状態を「性分化疾患」と名付けることができる。「疾患」もまたもっともらしい定義ができるはずで、いずれにしても言葉によって現実にまとまりが与えられていく。そう指摘したところで「はあ。そうですね。それで?」という感じがしてしまうこちら(生物学)の世界。隔たった二つの世界というよりは、ぴったりくっついた二つのレイヤーのよう。

2014年03月25日

三つの対話

■バークリ(戸田剛文訳)『ハイラスとフィロナスの三つの対話』岩波書店、2008年。

UCBをカリフォルニア大バークレー校とか言うのに、なぜGeorge Berkeleyはバークリなのか。まあいいけど。
1713年の著書です。

目や皮膚や舌といった感覚器官を通して知覚される観念「赤さ」「丸さ」「甘酸っぱさ」の集合体こそが「リンゴ」の実在そのものであって、そこから離れたリンゴという物が存在するのではない、という非物質主義を採るバークリ=フィロナスが、リンゴの知覚の原因となる「何か」が外界に実在するという物質主義を採るハイラスをこてんぱんにする、哲学徒同士の対話篇。
  フィ「その何かっつうのは知覚できないの?」
  ハ「できるなら知覚の原因にはならんでしょう」
  フィ「じゃあその知覚もできない何かが存在するなんてどうして分かるんだコンチクショウ」
  ハ「ぎゃー」
みたいな論理(まとめすぎ)。フィロナスの非物質主義は懐疑論の誹りを受けますが、結局は「不可知なもの」を恣意的に置くハイラスの物質主義のほうにそのレッテルが突き返されるのです。デカルトやロックのように、粒子でできた物質が→身体に働きかけ→情報が神経を伝わって脳に至り→心の中に観念が生じるという「粒子仮説」に対する徹底反論。「ほほう、じゃあ物質っつうのは身体に働きかけるような能動性を持っとるんだな?」

では、各人が勝手に自分のスクリーンに映っただけの実在とおつきあいをしているのに、なぜ、あなたと私で「このリンゴ」をめぐって会話が成立するのか。それはすべての原因である「神」の知覚をわれわれが分け持っているからだ、と説明されてしまう。
それはちょっと、えー、って感じになりますが、本作はいろんな議論の萌芽を含んでいる気がします。

知覚から離れた「ほんとうのもの」を否定するのは、イデア論に対する批判に思える。
各個人の外側にある物質が何らかの性質を、確かに発しているのだと考えれば、それは「アフォーダンス」と呼べるかもしれない。
実在を構成する観念というのはすなわち「クオリア」でしょう。
そして、実在は観念の束だというが、「束ねる」というゴムバンドみたいな役割をしているのは多分、「理論」です。「観察の理論負荷性」の理論。
「環境=世界そのもの」と「私」の間に「疑似環境」というスクリーンが挟まっているという図式でメディアや世論を考えたリップマンも、バークリの議論をどこかで参考にしたのではないか。
ちくちくとうるさいフィロナスの存在もまた、ハイラスの心に現れる観念の束にすぎないと考えれば「独我論」に引き寄せられていく感じがする。
根源に「神」を置いて解決するのはズルい感じがしますが、しかしなかなか否定しがたい。ビレンケンの初期宇宙論は「無の中にぽっと宇宙の種が生まれた」と主張するが、逆に宗教者はそれを一笑に付すかもしれません。やはり究極の原因が何かあったという信念を人は求めてしまうのかもしれない。もっとも弊管理人は十数年前の留学中、うっかり同じ寮にいた敬虔なプロテスタントのおにいさんに「で、その神の原因は何なんですかね」と切り返してしまって激しい議論になったことがあるんですが。

ヘタクソな対話篇は、一方的に教えてあげる先生と、一方的に質問して教えてもらう生徒が出てきて、対話形式じゃなくてもいいような、解説的文章を細切れにしただけの会話を展開しますが、本作はそうなってなくて面白い。ハイラスが粘るいらつく狼狽する粘る困る蒸し返す諦める。フィロナスが呆れる諭す譲歩する追い詰める宥める。読者はいつも分が悪いハイラスに心情的に肩入れし、そしてフィロナスにひっくり返される、悔しい、でも痛快です。

* * *

早起きして、外で仕事して、うっかり夕方に職場に戻ったら仕事に巻き込まれた。疲れた。
今日、東京は桜の開花宣言がありました。暖かい。今年初めて、シャツ+ジャケットで出勤しました。

2014年03月16日

バトラーなど

■サラ・サリー(竹村和子他訳)『ジュディス・バトラー』青土社、2005年。

↑この著者名読むと「さはさりながら」っていう言葉が浮かぶんですけど。

性役割のように社会的に構成されていると理解しやすいものから、性別という厳然とした事実に思われるものまで、アイデンティティは言葉によって不断に形づくられている。言葉によって名付け、名指し、定義づけ、理解し、その理解を使って新しい理解を生み出す。そうした運動には始まりも終わりもなく、それを主導する特定の人物というのもいない。
海面に、潮の流れの加減でできている渦を発見することがある。渦は不断の流れの中で、たまたまある時、それと分かる形を取っており、次の瞬間には形を変え、いつの間にか消える。その渦も渦の周囲も同じく水でできており、互いに影響しあっている。渦を発生させる原因はどの一つの水分子にも帰することができない。そんなイメージを思い浮かべながら読んだ。

アイデンティティは厳然としていて、不変で、首尾一貫した実在なのではなくて、海水=言葉が作用する「過程」であること、その言葉の位置づけは使われていくうちに変わりうること、ある言葉を発するという行為が及ぼす影響もいつも同じでないこと、言葉が指す対象さえも偶々揺らぐことがあると分かってくる。
それなら今度は、誰かを罵り、不本意なカテゴリーに閉じ込めるような言葉の使われ方に対して、何らかの力を意図的にかけたり、罵られる側がそれをハックしたりすることによって、そうした暴力性を固定していた鎖を外せる可能性があるのではないか。

  「(侮辱の意図をもって)おまえレズビアンか」
  「そうだ!(ドヤ顔)」
  「」

そんなやりとりを本の中では紹介しているが、もっと情報量が豊かでイメージをふくらませやすい一例は12年ちょっと前の「伝説のオカマ」東郷健の記事(それに続いて「『伝説のオカマ』は差別か」論争というのもあった)ではないかと思う。

言葉の意味、属性、主体といったものを流動化させ、そこに人を抑圧する仕組みの転覆や解体のきっかけを見出す。この戦略は、場面場面に適用するには少し研磨が必要なものの、十分に使えると思う(論じている人がどこまで実践的な意図を持っているかは知らないが)。
その上でいくつか、ほんとにざっと、思いつくままに。

(1)オカマとかレズとかの言葉が、解放目的にであっても使い込まれて本質っぽくならないような不断の注意が必要そう。また、ある言葉を「弱い側」が占有してよいのかどうか(「ノンケはオカマという言葉を使ってはいけない」という言葉狩りが許されるか)。同時に、「寝た子を起こす言葉」に化け、ある程度以上の解放が進まない(腫れ物として固定化する)という懸念。

(2)「強者」とされた側が同じ論法を利用する可能性。というよりこういう闘争は不可避よね。
     「(侮辱の意図をもって)いいご身分ですね」
     「おかげさまで!(ドヤ顔)」
     「」

(3)そもそも「(ドヤ顔)」が何らかの効力を持つような道徳的素養を持った人にしか、この戦術は通じない気もする(もっともこういう悩みも、ある程度豊かな集団の中でないと前面に出てきにくそうだなとも思う)。そういうレベル高めの人に届けばいいんだという考え方はあるかもしれないけど、それだとレベル高めの人=抑圧を主導する主体、という虚構の図式を作り出してしまいはしないかな。

(4)フロイトからいろいろ借りているっぽいですが、個人的には、「お前には分からないが、私には分かる。お前の心の中はこうなっているのである」みたいな検証不能の読解を押しつけてくる、内心をめぐるカルト、といっては言葉が悪いですが、あまりその辺に近づきたくない気分です。

(5)罵倒の言葉に対して「(ドヤ顔)」で切り返せるほどエネルギッシュではない人に、救いはないのだろうか。切り返すこともできないくらい弱い人を、切り返すパワーや発言力や立場のある「おしあわせな人」が代弁することが本当にできるのか。→と思うとだんだんスピヴァクに興味が向いていくのですが、すぐには手を付けないかもしれません。

* * *

■糸山浩司他『宇宙と素粒子のなりたち』京都大学学術出版会、2013年。

むずい。まじでこんな内容で市民講演会やったの?と思った。

* * *

サントリーホールで、京都市交響楽団(広上淳一指揮)の公演を聴いてきました。
ニコライ・ルガンスキーがピアノソロを務める、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。
1階席6列19番の席だと、こう見えます。かなり近い。
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いい席でした。いい席だったけど、手をちゃんと見たいと思うと、もう5~6列後ろがよかったかも。ピアノの演目の場合、12~15列17~19番あたりが至適かと思いました。
この切符を取ったあと、著作権切れ(確か2004年)より前に3900円も出して買ったまま放置していたブージー・アンド・ホークスの楽譜を使い、予習として、ゆっくりならなんとか一通り弾けるように練習していました。ので、もう今日は気分はルガンスキー(笑)。いつも聴いてるピアノ協奏曲全曲録音がルガンスキーのものだったので、いちど生で聴きたかったのです。技巧派というイメージはそのままでしたが、意外と演歌な歌い方をする方かなという発見も。あと、でかい。広上さんが小さいので余計に際立つのか。

そのあとはマーラーの「巨人」で広上さん相変わらずのぴょんぴょん熱演ぶりを堪能。
隣の知らないおじさんとともに頭の上で拍手しました。なんかコージーでいい演奏会だったっす。

* * *

コンサートに合わせたわけではないのですが、飲み友に勧められて、タマーシュ・ヴァーシャーリというピアニストがグラモフォンで録音したラフコン全曲のCDを中古で買いました。感想:いい。自由。

* * *

先週のお仕事は、あまりハッピーではないお話で忙しかった。
体の調子を戻すのに土日かけてしまいました。
昼飯はサブウェイのサンドイッチだったので、夜はがつんと新小岩「ウッチーズ」でハンバーグ250gと大ライスをぺろり。
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2014年03月09日

久々に休んだ感じ

9時間寝て起きて、客用布団を干して、洗濯して、いろいろこなしてだらだらしてたら夕方。
半月ぶりにスポーツクラブに行って、錦糸町のアキンボで夕飯にしました。

夜のメニューは前菜3種とカレーのセットです。
奥からツブ貝(だっけ?)、豆、ピクルス。
ピクルスはキンカンとパプリカです。キンカンは最初「プチトマト?」と思って口に入れると、甘酸っぱいので驚きます。店主氏、してやったりのお顔。
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カレーは定番のチキンとラムキーマと週替わりから選びます。
今夜は、週替わりのサバカレー(大盛)にしました。直感が囁きました、絶対おいしいはずだと。
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あーーーーーーーー、大げさでなく、魂が浄化されるーーーーーーー。
さらさらのチキンカレーと違ってちょっとどろどろ感があって、しかも結構存在感のある甘みがあったんだけど、あれはなんだろう。玉葱だけで出る味じゃないよね。果物のチャツネのような……
幸せな気分で、なおかつ一口ひとくちを惜しみながらいただきました。
弊管理人が最も敬愛してやまないお店です。

* * *

いとこの子が大学に受かったそうです。
けっこういい国立の文学部。「センター試験で(多少)しくった」とのことで、当初狙っていた大学から少しレベルを落として2次で受けようと思っている何校かをピックアップしたところで伯母(当該受験生から見るとおばあちゃん)から弊管理人に相談があり、最も暮らしやすそうな都市を選んで「ここがいいんじゃない」と言っておきました。まあ足切りにさえ遭わなければ第1志望を諦める必要はないだろうとは思いましたけどね。

そのアドバイスのせいばかりではないでしょうが、その都市の大学を受けて桜が咲いたもよう。
いーなー、これから大学生か。専攻にかかわらず外国語、しっかりやってね。とおっちゃんは思います。

* * *

■Sen, Amartya, A Wish a Day for a Week, Penguin, 2014.

今年1月のジャイプール・フェスティバル(Jaipur Literature Festival)での基調講演です。

講演で何を喋ろう、と悩んでいたセン。だが、インドがGSAT-14通信衛星の打ち上げに成功し、「世界のエリート・クラブ入りした」とのニュースに触れ、想像力が飛翔する。そして上空にて女神the Goddess of Medium Things (略してGMT!!)に出会い、7つのお願いをするのだ。

インドにおいて人文学の教育を再興してほしい。右派にしっかりしてほしい。左派にもしっかりしてほしい。メディアには最も貧しい人たちのことをもっと取り上げてほしい(電力に対する補助金もいいが、電力が届いていない人たちへのケアの何と少ないことか)。根強い貧困の克服のため、子供への教育や予防接種を施し、女性を男性と平等に扱い、トイレのある家を与え、質の良い高等教育と持続可能な環境を与えてほしい。最近出てしまった同性愛禁止という、個人の自由に干渉するような司法判断をひっくり返してほしい。議論好きの国民性を活かして、さまざまな社会問題に注意が向くようにしてほしい―。

センのお願いを聞いたGMTは「それって全部、インドが自分でできることじゃん」と言う。「どうすりゃいいんでしょう」センは聞き返す。「ソーシャルメディアを使いなさい。それから、とにかく本を読むことです。つうことでそろそろ時間です。ジャイプール・フェスティバルにいってらっしゃい!」とGMTに送り出されたセンが演壇に降り立つ。「そんなわけで皆さんようこそ!」基調講演が結ばれる。
GMT=the Goddess of Medium Things=本という媒体medium、中庸、中範囲、中くらいなるものの化身との対話形式を借りた真摯な風刺と、颯爽とした言葉運びで駆け抜ける素敵なスクリプト!

2014年02月16日

クリトン

■プラトン『クリトン』(藤田大雪訳)叢書ムーセイオン刊行会、2013年。

学生時代に英語の授業で読んだ気がしますが、よく覚えてません。
死刑を言い渡されて明日にも執行、という状態で牢屋にいるソクラテスのもとへ来たお友達のクリトンが、脱獄を勧めるシーンから始まる対話篇です。「正義に反する仕打ちを受けたんだからこっちだって仕返ししてやればいいんだ。逃げる先は確保できるし、親に死なれたら小さい子供は辛いでしょうよ」

これに対してソクラテスはイタコ芸(違)によって国法を呼び出し、仮想の対話を始めます。
国法に従って婚姻した両親から生まれ、国法に従って養育され、アテナイが大好きであまり外国旅行にも行かず、仮にこの国が嫌いになれば出て行く自由だって保証されていて、裁判で「国外追放か死刑か」を選ばされたときにも死刑を選んだのに、明日死ぬかもとなったら脱獄って……何言っちゃってんのキミ?と国法は詰る。「自分は正しくないと思うから」とか言って気ままに契約を破るようなヤツは他の国に逃げたって軽蔑されるし、あの世にいったってあの世の法が許しやしませんよと。
「こう言われたら何と言い返そう」とソクラテスから投げかけられたクリトンは言葉を失ってしまう。

「悪法も法」だという主張だ、としばしばまとめられますが、ソクラテスはそう言ってません。独裁や圧政の下に暮らしているなら自由も責任も生じる余地があまりないけれど、アテナイでは留まる自由も去る自由も、おかしな法を説得=ロゴスの力によって改善する機会も与えられている。自由な国の政治に参加する市民は、自らの行動の結果に対する責任が最も厳格に問われるというわけだ。おかしな法がまかり通るようなら、それを許した市民がその責めを負う。大衆が悪いだの制度が悪いだのというのは自由な国の成員が言っていいセリフではないという。

プラトンはどんな思いでこれを記していたんでしょうね。市井の変わったおっさんとして排斥されたソクラテスを見て、「こりゃあ、やっぱり哲学者も統治者側に行っとかないとだめだわな」と思ったのでは、なんて想像してます。

* * *

上記の本の訳者の名前を承けたわけではありませんが、金曜もまたえらい雪でした。
早々に帰宅するように、と会社の総務からお達しが来ていたのですが、大学時代の同級生2人と夜、渋谷で予定していた飲み会を敢行してしまいました。22時前に切り上げれば帰れるだろうと踏んだところ、運よくつつがなく帰宅して寝ることができました。

翌土曜日は築地で昼過ぎから仕事があったため、少し遅めに起きたらなんだか寝てる間に世の中が大混乱だったようです。築地で会った方は「昨日は中央線の電車内で1泊した」と疲れた様子だったので、タイミングと利用する線によっては弊管理人も大変な目に遭っていたかもしれなかった。

まあ大雪が降る時に不要不急の外出をしてはだめですね。特に人口密集地では一カ所がスタックすると、その周辺に人がいることによって、さらに被害が大きくなる方向に転がるように思います。

* * *

その同級生2人は部活の同輩で、某工学部准教授(既婚、昨年3人目の子が生まれた)と、某企業研究所ユニットリーダー(既婚、子持ち)になっていました。
2人は学生とか部下とかのメンタル対応が大変だという話で意気投合していました。わー、そんなこと気にしなきゃいけないの?大変だ。いやあ行き先分かれりゃ分かれるもんですね、と相変わらず独身ヒラ社員の弊管理人は思いました。あと准教授氏が「おれ最近右傾化してて、タモガミ支持なんだよね」と言ってたのがウケタ。

ちなみに10日の日記に書いた、16年前の大雪のときに部活終わってからキャッキャいいながら雪合戦とかやっていたのが彼ら。その話をしたら「あー、そんなことあったような、なかったような」くらいの反応でした。
運動部の慣習で、彼らとだけは呼び捨てしあいます。弊管理人は普段、人には必ず敬称をつけて呼ぶのですが、その例外です。

2014年02月10日

今週のつれづれ

先週のいつか忘れたけど、新橋にある、愛媛・香川のアンテナショップのレストラン「かおりひめ」で遅い昼食をとりました。
今治のB級グルメらしい焼豚玉子丼と、うどんのセット。
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うまくないわけないじゃないの、こんな組み合わせ。
なんかずっと悲しい気分だったのが、案の定これで霧散した。
寒い、ひもじい、眠いを解決すると、落ちてる状態はあらかた克服される。

* * *

土曜の東京は吹雪に。
昼間にちょっとスポーツクラブに行ってきましたが、夜にかけて風雪は強まり、ちょっと出掛けて一杯……というのは全く無理な天候になってしまいました。
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翌朝はこんな感じ。
最終的には何十年ぶりみたいな積雪になりました。ニュースでは16年前の東京の大雪への言及もあったようです。確かに大学2年の冬、雪がこんもり積もった体育館前の広場で部活の友人とキャッキャいいながら遊んだ記憶があります。成人式が大変だったと思い出す同級生の声もありましたが、弊管理人は成人式に出ていないのでそういう覚えはないです。それ以前はそもそも東京にいないのでわかんない。

* * *

■清水哲郎『生命と環境の倫理』放送大学教育振興会、2010年。

古本で買った放送大学の教科書。
生命、環境、死生学のミニ事典として使いそうな気がするので、会社のデスクに置いておこうと思ってます。
応用倫理はまだまだ知らないことばかりです。環境倫理のところにパーフィット、シンガー、ヨナスの簡単な紹介が載っていて、やっと「おお、こういうところにいた人たちなの?」と。

* * *

東京都知事選があった。
弊管理人は自分の想定していた投票先と情勢を勘案し、自分が投票をしたとしても結果に影響を与える可能性はないと判断して投票せず、他人事な感じを楽しみながらテレビ見たり(仕事先で)、「投票しよう!」みたいな友人の正義ツイートにイヤミツイートを返したりしながら過ごしました。

感想。
(1)やっぱり極端より普通がいいと思うわな。
(2)主要候補者の立ち位置にかぶりが少なかったため、右のほうの人とかネットの人とかがどれくらい都内に存在するかの悉皆調査っぽくなっててためになった。

* * *

KFCの復活したフライドフィッシュを食べてみた。
むかーし「フィッシュフライ」という名前で売ってなかったっけ。
記憶が美化されているだけかもしれないが、なんか味、ボリュームとも期待したほどではなかった。
ニュージーランドの田舎町で食べた豪快なフィッシェンチャーップス(なまった)また食いたい。

2014年02月02日

だれのための仕事

■鷲田清一『だれのための仕事』講談社、2011年。

見田宗介が言ってた「~への疎外」を労働に使ったエッセイ(随筆、というよりは試論のほう)。
面白かったような気がするんだけど、読み終わってから急に忙しくなって、しばらく机の上にほっぽっていたら忘れちゃったい。

* * *

そういうわけで土日とも働いてしまった。
うがー

* * *

ところで2週間くらい続いてる鼻の奥がじーんとなってるやつ。
ひょっとしてこれ風邪ではなくて花粉でしょうかね。

2014年01月21日

贈与論

■マルセル・モース(吉田禎吾、江川純一訳)『贈与論』筑摩書房、2009年。

プレゼントをする、お返しをする。
ほのぼのしたおつきあいと思いきや、米大陸やアジア、オセアニアなどのさまざまな集団に見出され、このたびの分析の対象となっている「ポトラッチ」と呼ばれる体系は、贈る義務、受け取る義務、そしてより多く返す義務を基礎に置いている。そこで繰り広げられる気前の良さ競争は拡大を続け、時には闘争的でさえある。贈る→贈られる、という物の動きとは反対方向に債務が動き、受け取ったパスを次に回すことができない者は面目を失ってしまう。
贈り物をしあう首長は先祖や神々を背負い、贈られる物そのものにも魂が見出される。受け取ったものはしばしば、その場で破壊され、天に「お返し」される。

つまり、交換の体系の中では、ただ物が移動しているのではない。物の交換が人間関係を作り出し、それが回り続けることによって共同体のルールが安定し、構成員に物資が行き渡り、社会的な地位が保持され、霊的な世界との交流が成立する。おそらく、交換が社会を作っている。「全体的給付体系」と名付けられるのはそのためだろう。

「プリミティブ」な集団に見られるこうしたシステムが、あちらの集団でもこちらの集団でも見出された。それならばこれは、古代の遺物というよりは原初的な経済の姿というべきなのだ。原初的なものであれば「モダン」な集団や個人たちもシェアしているはずだ。われわれが独り占めする者、施さない者を嫌うのは、それが社会を危機に陥れると直感するからなのではないか?

* * *

それはそうと、久しぶりに痔になりました。
下半身を冷やしすぎた覚えはないのに、なんだろう。
先週は東海と関西に出張して、一日中座りっぱなしの行事とかがあって疲れたせいだろうか。
とりあえず軟膏塗って1週間様子見ることにしてます。セルフメディケーション(かっこよくない)

2014年01月13日

液状監視

■ジグムント・バウマン+デイヴィッド・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について―リキッド・サーベイランスをめぐる7章』青土社、2013年。

もらった本。
タイトル長いよ。
しかし内容はタイトル通り。

ネット通販や検索や携帯電話や埋め込み型の無線チップといったサービスを自発的に利用しながら、次々と個人情報や行動記録を監視システムに提供し、そこから自動的に導かれた分析結果によって自分の行動が方向付けられる、そんなDo It Yourselfともいえるような監視の形。
そこには「監視するコイツ」と特定できるような個性はなくて、中立的なアルゴリズムのようなものが、断片化され顔をなくした情報としての個人を処理している。監視する主体は蒸発し、監視される側が利便や安心を口実に監視を求め、監視に荷担もしている。

そうした監視の仕組みは消費を覆い、情報を得る手段を取り込み、また入国管理などのセキュリティシステムを駆動しながらスタンダードになり、全球的に広まっていく。人々を自動的に・片っ端から「上客」と「買えない奴ら」に分けて商品を薦め、本人たちに気付かれないように「インテリ」や「アンダークラス」と分類した上でそれぞれに合った検索結果を返し、国境では「安全な属性の来訪者」の群れから「潜在的テロリスト」を抽出して追い返す。
人を機械的に峻別し、分断し、そして排除された人たちと包摂された人たちを相互に見えなくしていく。そこに新しい監視の問題が見出される。

強迫的に飲み込み、飲み込んだそばから吐き出していく「過食症」的な後期近代(ジョック・ヤングが描いた)を思い出します。

* * *

3連休のうち土曜と月曜は働きました。
土曜は19時くらいに仕事を終えて、遊びにいこうかなと思ったけれど、21時に寝床に入って11時間寝てしまった。かえって疲れたかも。
でも週明け4日でまた週末だというのがちょっとした救い。

* * *

やることリストを作ると仕事が格段に効率的になりますな。
今更だけど。

2014年01月10日

統治の技術

■ニッコロ・マキアヴェッリ(佐々木毅訳)『君主論』講談社、2004年。

手段を選ばず統治せよ、みたいな乱暴なお話と思いがちです。
しかし読んでみると、執拗に場合分けをし、その条件に応じて取るべき行動を冷静に示して見せる、理想や原理よりも実用を重視した政治「技術」論という印象を受けます。君主向けの手引書とも取れるし、あるいはそれを装いながら実は大衆向けに「偉い人はこんなこと考えて皆さんを治めてますよ」と教える暴露本という見方もできる。中間管理職がインスピレーションを受けてしまう自己啓発書の古典かもしれない(笑、ほとんど読んだことないけど)。

場合分けと対処方針は、こんな感じで進んでいきます。

・政体は共和制か、君主制か。
  君主制なら、君主は安定した世襲か、新興か。
  (新興の君主が最も統治で苦労をするので、以下そういう場合を中心に話を進める)

・新たに獲得した領地は、自分のところと同じ地域・言語か。
  (同じなら旧君主の血統を根絶やしにし、一方で旧来の制度はいじらないこと。
   違うならリアルタイムで見張り・対処できるよう自分がそこに移住したほうがいい。
   植民も有効)

・君主の部下に統治させるか、土着の諸侯に任せるか。
  (諸侯がいるほうが統治を安定させるのが難しい。
   なお賢い部下の意見は大事だが、誰から何を聞いてどう判断するかは主体的に)

・君主になったのは実力か、運か。
  (実力の場合は新領土獲得には苦労するが維持は簡単。運だと逆)
 極悪非道な方法だったか、好意によって受け入れられたのか。
  (残酷な行為は必要に迫られて行う一度きりにしないと統治は安定しない。
   民衆に好かれ、必要とされたなら安泰だが、貴族の支持でなった場合は注意)

・自分の軍隊を使うか、傭兵を使うか、援軍を当てにするか。
  (傭兵はモチベーションが低いし、援軍で勝つとその後の脅威になるので、
   自分の軍隊を使いましょう。平時も教養などにかまけて軍事を忘れてはダメ)

・気前がよいのと、けちなのと、どっちがよいか。
  (君主にとって危険なのは軽蔑と憎悪だが、気前よく振る舞っているとだんだん
   民衆を圧迫することになり、この二つを招来する。けちのほうがまし)

・慈悲深いのと残酷なのと、どっちがよいか。
  (慈悲深さが混乱を招くことがある。残酷さの実害が及ぶ範囲を限定して
   恐れられつつ憎悪されないようにしたほうが安全)

・信義を守るのと、ずるいのは、どっちがよいか。
  (信義の人と思われるように振る舞うのはいいが、必要に応じてずるく
   なれるような資質は持っておいたほうがよい。なにしろ結果で判断されるので)

・その他、自分を脅かすような敵を育てないこと、味方を獲得すること、
  力や詐術で勝つこと、民衆に愛されると同時に恐れられるようにすること、
  兵士に慕われると同時に畏敬されること、度量が多きく気前がよいこと、
  しっかり食料と防衛手段を確保することが必要。教会も注意な。

重要なのは、こうした助言が、法律も伝統もある中で国を維持していこうとする君主ではなくて、まさに今から統治を確立しようとする君主に向けられたものだという点。イタリアの混乱を経験した著者ならではの問題意識か。
ルールのない中でルールメイキングをするようなものだから、優先されるのは倫理的であることなんかではなく結果を出すことであって、信義や民衆の好意といった個別の論点と対処方針は当然、この目的に合うかどうかから判断される。反対に、安定した社会の中でこの本に寄りかかり、「うそも方便さ」などと軽々に言うのは慎まねばね、ということ。

四国の旅行に本を持たずに出かけてしまったため、高松駅前の本屋で適当に買った本でした。

■佐藤俊哉『宇宙怪人しまりす 医療統計を学ぶ』岩波書店、2005年。

医療統計の人に「とっかかりが欲しいので、なんか1冊推薦して」と頼んだらこれを薦められました。図書館で借りて2時間くらいで走破。
論文のテーブルを読んで意味が分かるレベルにはちょい足りない。でもこの本を経てネットに漕ぎ出すと、そこらに落ちてる初学者用のパワポなどが読めるようになります。善哉善哉
この分野も統治の技術なんですよね。いろんな意味で。

2013年12月29日

ネイションとエスニシティ

■アントニー・D・スミス(巣山靖司他訳)『ネイションとエスニシティ』名古屋大学出版会、1999年。

読むのに1か月かかった……。

アンダーソンや、特にゲルナーのように、ネイションとナショナリズムというのは純粋に近代の産物と考えるのには無理がある。古代にも、ネイションのような性格を持った共同体や、ナショナリズムのような運動があったし、それが近代のネイションやナショナリズムの根っこになっている。そういう「エスニシティ→ネイション」の歴史を見渡した上で、現在起きているさまざまな現象を読むべきではないか、という本。

まず、前近代にあったエスニックな共同体、近代的ネイションの祖先となるような共同体を「エトニ」と呼ぶ。何らかの事情で経験とその解釈を共有・蓄積し、世代を超えて受け継いできた人たちの集団のことだという。
エトニはそれぞれ名前を持ち、それによって別のエトニから区別される。また、同じ出自や血統を持っている(と了解している)。歴史と、独自の文化(制度、伝承、衣食住、……)を持つ。そして、そこに住んでいるかどうかはともかくとして、「郷土」があり、連帯感がある。ただし、分業を基礎にした経済的な一体性や、共通の法的権利や政治組織というのはまだない。
こういう特徴を持ったエトニは、それはもう歴史的にも地理的にも至る所に見られる。

エトニの維持、強化には宗教の存在が重要だった。一つは、共同体内に共有される「起源」「神話」を守る側面。それから、さまざまな宗派が共同体の境界を画しうること。さらに、聖職者や書記といった専門家が信仰を記録し、一般に伝えることでコミュニケーションのインフラを整備したといえるかもしれない。
戦争もまた、アイデンティティを維持・強化していくのに貢献する。別の共同体との接触・衝突は、エスニシティ主義を育てる。侵略に対する抵抗や失われた領土の回復、血統の回復、文化の復興などに向けた運動として現れてくる。

そうして、あるエトニは数世紀、千年と続いていく。あるものは解体してしまう。存続の可否を分けるのは侵略を受けやすいか、文化的な吸収が起きやすいような位置関係にあるかなどもあるが、大きい要素は宗教的な信念・儀式・経典の持つ凝集力の違いらしい。

エトニには、二つの類型が見て取れる。
・水平的共同体=貴族的。都市の裕福な商人層、聖職者、律法学者も含み、上層がゆるくつながっている。範囲もぼやっとしている。
・垂直的共同体=平民的。都市を基盤に、聖職者や商工業者、町の支配階層。ただし都市周辺の農村地域にも程度の差はあれ浸透している。つながりの力は強い。都市国家の同盟、辺境、部族連合などの分類が可能。

これが、ネイションの形成過程に見られる2類型に引き継がれ、歴史的に通過したり混ざったりしながら現代に至る。
・領域的ネイション=西欧的。明確な領域と、その範囲内にいる人に同一な権利と義務が割り当てられる。市民権と、国家が標準化する共通な文化という特徴も備えている。
・エスニックなネイション=東欧、アジアやアフリカ。共通の血統と起源をもつという想定、大衆の参加を基礎にする人民主義、習慣から形成する法と・方言から昇格した通用語、土着主義に依拠する。

近代を画するのは三つの革命だという。(1)封建制から資本主義への移行(2)軍事や行政における官僚制の登場(3)文化・教育・知識の世俗化と統一。
固有の土地と政治体を持つためのレースに多くのエトニが参加せざるを得なくなる。
そうしてできたネイションも、その継続のために、政治(未来志向)だけでなく、歴史(過去志向)をやはり必要としている。歴史は、考古学や文献学といった「科学」によってあらためて発見・解釈され、エトニが持っていた神話のように集団に固定される。このように近代的なネイションは前近代のエスニックな要素とつながっており、それを無視して「ナショナリズムは乗り越え可能」などというのは誤診のもとなのだ。

みたいな話だと読んだ。
師匠のゲルナーとは確かに対立している面もあるけれど、全体的には「ネイションやナショナリズムは近代の産物」という考えを一定受け入れつつ、歴史的な方向へ「拡張」するような議論かなという印象を受けました。
すべてのネイションが国家を持てるわけではないのが現実で、そのことに対する怨念をためないシステムとして、一つの国家の中でさまざまなネイションが保護され、ある程度の自立を認められるような連邦制に(遠い)希望を託す。と同時に、本が出た1986年から数年後には到来するナショナリスティックな混乱の時代を見通していたような気もします。

2013年11月28日

社会契約論

■重田園江『社会契約論』筑摩書房、2013年。

ある初期値(自然状態)とルール(人間本性)を定め、ゲームスタートで一丁上がり。社会はいかにして可能か、という疑問にこうして答える、社会契約論のイメージってそんなものでした。
そしてできあがったものが望ましいものだと、どうして言えるのかもよくわからなかった。混沌から秩序への相転移や、事実から価値を引き出すところに何か飛躍があるようで気持ち悪かったのかもしれません。契約がいつ起こるかも論者によってずいぶん違ってたりするし。

で、この本。

(1)際限のない欲望を持ち(2)恐怖や苦痛を嫌う、という単純な性質を持った個人を地上にばらまき、よーいドンしたあとの運動と凝集を描いたホッブズ。社会形成の原点から神様の力を排除したこと、人間の本質を相当しょうもないものと置いてシミュレーションをスタートすることでその結果における一般性を確保しようという発想で、新しい展望を開いた。

ところが、「始まりの契約なんて、どこ見てもなかっただろ」と身も蓋もないツッコミをヒュームが入れる。始まりにあったのは力で他人をねじ伏せる、力でねじ伏せられるという関係であって契約ではない。そうやって闘争状態が止んだ状態にあって、人が秩序を保つルールを受け入れるのは、それが便利だということに試行錯誤の中で気付いたからだ。それが累積し、拡大していく。拡大していくとシステマティックに秩序を維持できる仕組み=政府が必要とされる。どうしようもない政府だとその目的に適わないので転覆することもあるが、まあだいたいは惰性で存続する、そのおかげで経済活動の持続性が担保され、豊かにだってなれるわけだ。

潔癖なルソーは、この地に足が着いた、というかちょっと現状追認的でおおらかな感じもするヒュームが肌に合わない。といってホッブズのように「惨めな闘争状態が続くよりは国家があったほうがいいだろ、我慢しろ」といって国家が人々を軽んじる可能性に目をつぶる姿勢にも満足しなかった。「どうなっているか」から「どうあるべきか」のほうへ心を寄せ、「正しい国家」の原理を考えた。自らを一般意志に委ねる社会契約によって堕落や腐敗や不平等を脱し、各人が守られながら、しかし自由であるような状態、それを実現すること。しかしその一般意志というのが分かりにくい。

一般意志の一般性というのがどんなものかを、明瞭に示して見せたのがロールズだという。一人ひとりが違っている、そんな多様性を孕んだ人間集団が最低限納得できるルールを見出すために「無知のヴェール」という装置を発明した。
ある社会の中で生きる任意の人を拉致して魔法のヴェールをかぶせ、自らの属性や立場に関する情報を見えなくしてしまう。ポジショントークを不可能にするこの仕組みが、人を一般的な視点に立たせることになる。その上で、当該社会を見渡した上でどんなルールが望ましいかを選ばせ、ヴェールを外してふたたび社会の中へ帰すのだ。
おそらく無知のヴェールをかぶった人は、自分が実は金持ちであっても貧乏人であっても、男であっても女であっても、つまりその社会に生きる誰であったとしても著しくひどい目には遭わないような原理を選ぶだろう。それは合理的に考えれば(1)できるだけの自由を各人が確保しつつ(2)最も恵まれない人の境遇を改善するような傾向と機会均等が保証される限りで不平等を許容する、というものに自然となるはずだ。

乱暴な要約だけど、とにかく、まあそんな感じに読んだ。

その上で、弊管理人はこの本でわりと踏み台扱いされたヒューム(っぽい考え方)もそう悪くないなと思っている。
それぞれ違った自分や他人の誰もが違いを持ったまま尊重される、そういう多様性を前提にした「よい社会」の姿からすると、自分に近い者により強く感情移入する、という人の性質をベースにするヒュームは同質性という真反対のものを前提にした社会構想をやっているように見えるかもしれない。
でも、誰だって「私の視点」と「私の経験」を元手にするしかないんじゃないか(ローティを念頭に置いている)。ミソは、いかに多様な人とつきあい、遠くまで出掛けて、共感の能力と範囲を拡大していけるかだ。(共感の意味は「他人の気持ちが分かる」より広くとっていいと思っている。他人の感じ方を知るのは原理的に不可能だから。他人に触発されて自分の心に何かのイベントが起きれば、それを共感に含めてしまっていいんではないか)
ロールズが行き方を教えてくれた「一般的な視点」に立ったとき、そこから見える風景は恐らく、誰かがほいっと一式与えてくれるものではない。どこまで遠く広く見えるか・どれだけ多くのものを見過ごさずに見られるかは、蓄積された経験の量と多様さに依存すると思う。ルソーやロールズが設定した高邁なゴールに到達するには、案外ヒューム式に歩いていくことが必要かもしれない。フィリピンのスモーキー・マウンテンを旅し、そこでの凄絶な生活を目の当たりにした経験が「よい社会」の構想を駆動しているらしい著者のあとがきを読んで、そんなことを思った。

心のこもったいい本っす。面白かった。
カバーに載ってる著者近影が「人造人間」という字のプリントされたシャツを着ている。
ホッブズがartificial manと形容したリヴァイアサンの化身か……

* * *

全然話は変わりますが、このところ中央線で神田→お茶の水の移動をすることがよくあって、途中の高架を通過するたびに目の高さを通り過ぎていくガラス張りの変なカフェはなんだろうと思っていました。
これだった。1912-43年に存在した中央線万世橋駅の遺構!
本日探検。1階はちっちゃい雑貨屋や飲食店がいっぱい並ぶ空間。
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2階に上がると……
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自分の立ってる高さを中央線が通り過ぎていきます。(写真は神田方面に向いて撮った)
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このスペースの反対側(つまりお茶の水側)に、電車から見えていたカフェがありました。
露天の席もあって気持ちよさそう。
無印良品のをアレンジしたようなカレーを食って、すたこら仕事に行きましたとさ。

2013年11月17日

エピジェネ

■太田邦史『エピゲノムと生命』講談社、2013年。

エピジェネティクスきてるよな、いつか何か読まないと。そう思っていました。
ちょうどよくこの夏に一番新しい入門書が出たので、早速(もう晩秋ですが)。

DNAは生命の設計図と言われます。
そこには筋肉や骨、神経など、体のすみずみまで、作り方が書いてある。
そして、同じ個体ならどこの細胞を持ってきても、核の中には一体分すべての設計図が入っている。
でも、網膜の細胞には網膜の細胞としての形や働きを持つのに必要でない、大半のページには鍵がかかっている。それは心筋でも脳神経でも肝細胞でも同じこと。むやみに他の細胞に変身したら困るから。

そのように鍵をかける(時には外す)仕組み――いつ、どういう環境条件のもとで、どの遺伝子が、どれだけ働いたらいいか、つまり「DNA=設計図、の読み方」――というのがあるらしい。それがエピゲノム。DNAが担っている情報の総体(ゲノム)の外(epi)にある情報体系。

体ができる時にはDNAの制御をするために当然働くし、生活習慣や環境によってもその働きを柔軟に変化させる。DNAそのものではなくて、DNAの読み方に変化が起き、それが細胞に記憶され、細胞分裂を経ても引き継がれる。
変化が悪いほうに働けば生活習慣病や精神疾患などになるだろうし、人為的に安定を保つ術が見つかれば創薬につながりうる。しかも、そうやって個体が獲得した姿形や気質、行動に関する細胞の記憶のあるものは次世代にまで伝わってしまうという。

まだ分かっていないことが相当多い分野のようです。DNAの配列を中心に研究されてきたジェネティクスでも難病などに関連する遺伝要因はいっぱい見つかったけれども、糖尿病やがんなど、環境が発症に相当絡むようなものはエピジェネティクスが進むことでもっと分かることがある気がします。

また、階層の再生産のようにこれまで社会的とされてきた現象や、親から虐待された人が自分の子どもを虐待するというような「そうかもねとは思うけどよく考えるとなんで?」な現象にも、案外生物学的な基礎があることが分かってくるかもしれない。社会を理科で説明する?いつか来た道ですなあと笑うのもいいが、でも実際どれだけ説明できるかは検討する価値が十分あると思います。

面白いけど、ちょい難しい。もう1冊読んだほうがいいかな。

* * *

次は気合い入れてあの高い本買って読むかー、と新宿(南口のほうの)紀伊国屋に行ったら、なかった。
んでまた安い本買っちゃった。面白そうだけど。

* * *

鼻毛に白髪発見。

* * *

この土日の夕飯は鍋でキャベツを食っていた。
土曜は運動してたら昼飯が遅くなり(ついでに、行こうか迷ってた勉強会を完全に失念していた)、日曜は昼間からうっかり強い酒を飲んでしまうなど摂食のタイミングが乱れたため。

2013年11月11日

宇宙の話2冊

■佐藤勝彦『インフレーション宇宙論』講談社、2010年。
■多田将『すごい宇宙講義』イースト・プレス、2013年。

ビッグバンがばーん!てなって宇宙ができたというけど、なんでビッグバンが起きたんだっけ?というか始まりがビッグバンでホントにいいの?という話が佐藤本。そもそもこの著者が、宇宙がちっちゃい点としてポンと生まれた後に急激な膨張をしたという「インフレーション理論」を提唱した人で、その理論がビッグバンの何をどう解決したのかから、「ほかの宇宙はないのか?」「宇宙はどう終わるのか?」までを噛んで含めるように教えてくれます。ちょっと訳あって再読しました。

で、6月に出た多田本です。
こちらは素粒子という超こまかいものを研究している人。
この本、すげえ。
物理の門外漢が一体何を分かってないかが分かってて説明している。
暗黒物質とか暗黒エネルギーって何よとか、宇宙が膨張してるってどういうことよとか、XMASSって一体何してるのとか、とにかく高校までに習わないのにニュースには平気で出てくる言葉たちについて、ただ「こういうことです」と辞典的に示すのではなく、どうしてそういう概念が必要とされ、どういう道筋で理論が組み立てられ、それを確かめるためにどんな実験が行われたかということを誤魔化さず、はぐらかさずに話す。とにかくアインシュタインから話す。
え、いまその辺の分野どうなってんの、と思った人は必読だと思う。多言を要さない。必読。

2013年11月02日

ファウスト

■ゲーテ(池内紀訳)『ファウスト 第二部』集英社、2004年。

いくら音色に気を使っても、一拍一拍が間延びしていてはバラードの全体像が見渡せないように、「じっくり読む」は必ずしも「ゆっくり読む」ではないと思っています。頭に入りにくい部分は必要に応じて後から読み直すとして、それなりのテンポで字を追っていく、それで解像度は多少低くても煌びやかに展開する物語の印象が心に浮かんだとすれば、それでいいんじゃないか。

インテリでめんどくさい好色のおっさんファウストが悪魔メフィストフェレスと契約して若返り、世間知らずの女の子をたぶらかして破滅させた第一部に続く第二部は、時間と空間と現実/ファンタジーの境界を超え、さまざまな役者とばらばらの声色が飛び交う狂騒そのものです。
男と女が結びあって子どもが生成し、国家による保証と人間の想像力が結合して紙切れがおカネになり、火と水やら、金と土やらを混ぜれば人造人間ホムンクルスだってできてしまう。そもそものモチーフは本作のはるか以前からヨーロッパに流通していた錬金術師「ファウスト博士」の伝説から借りているのだから、これら騒々しく爆ぜる物語の要素たちを貫くのが反応や合成、つまり「化け学」なのは当然なのかもしれません。
それを青年期から82歳で死ぬまで、長い時間をかけて書いた。わがまま放題を言って彷徨してうっかり何人も殺して、目まぐるしく立ち回り続けるファウストを描く若くて無闇なパワーと、神話と歴史と文学と政治の膨大な経験が混ぜこぜになって奇妙な雰囲気を漂わせている。んで、最後はやっぱりおねーちゃんと救済に着地(というか昇天)する。まじか、と思うけどそんなもの。駆け足で読むとむしろ、その世界が俯瞰できる気がします。
いろんなところが謎めいていて、各所に餌もばらまいてあるから、食いついて何か言いたくなる人がいっぱい出てくる。そういう良さがある。背景と成果と意義と限界を一直線につなげた隙のないストーリーを披露して、フロアからの質問が全く出なくてしーんとした中、座長が場をとりつくろうため確認質問をする、そんな口演より多分、楽しいよね。

第一部を読んだ先週も書きましたが、弊管理人は小説とか戯曲とかを楽しむ素養がないようです。「読みやすい訳も出てるようだし、読んどいたほうがよかろ」で読みました。そういう読み手にとっては、この作品が書かれた当時の中でどういう位置にあったか、ドイツ語の話し手がこの作品を声に出して読むとどんな心象が形作られるかなど述べた各巻末の解説がとても楽しかったです。

* * *

木、金と急に滋賀県に出張する用事ができまして、帰りの新幹線で読み終えました。
滋賀県には初めて行くけど心躍らない、と某所でつぶやいたら、友人から「竹生島がいいらしい」とお勧めをいただきました。しかし時間がなくて立ち寄れませんでした。そのうち遊びで行きたい。いやどうかな。

* * *

錦糸町の「佐市」が期間限定で豆乳仕立て、ホタテと生のりのラーメンをやってました。
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ありだな。クラムチャウダーっぽくない?

2013年10月27日

一週間つれづれ

金、土と大阪出張してました。
天満にある「梨花食堂」というカレー屋を教えてもらって、仕事が終わったら行こうと思っていました。
しかし、頭痛と腹痛が辛かったため、さっさと帰京。
ちなみに体調は新幹線に乗ったとたんにけろっと戻りました。
ということで、ご当地らしいものといえばこれくらい。
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そのあと職場で荷物を下ろしてから帰宅し、酒場へ。
用事含みだったのでさっと済ませ、お酒はちょっとにして帰って寝よう、と思ったらうっかり痛飲してしまいました。早い時間に崩壊したので終電前の電車に滑り込み、しかし乗り換えで席を確保する自信がなかったので途中駅からタクシーで1時ごろ帰宅、歯も磨かずにベッドで死亡。
朝方いったん目を覚まして歯を磨いたのを挟んで11時間寝て起きると、アルコール代謝がほぼ完了していたもよう。室内を点検しましたが、財布もちゃんとあるし、飲む前に買って裸で持ってた本もなくさずに持ち帰っていました。玄関の床の上に靴が載っていた以外に異常はありませんでした。
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タクシー使うほど酔ったのは昨年5月5日以来か。
きょう1日がかりで酩酊してる間の記憶を少しずつ掘り出していく作業をしました。普段、自分が何を抑えつけて生きているかが分かってしまって嫌なものです。が、過去いくつかの失敗を経て、その噴出の仕方は制御できるようになりつつあるらしいことも確認。
酒による死と再生は痛みを伴う経験であって、そんなにしたいものでもないけれど、再生の日の夕暮れごろには不思議な浄化/やりきった感があるのも事実……

* * *

霞ヶ関で16時に昼食、というパターンが最近ちょくちょくある。
解決は霞ヶ関コモンゲートにある「のぶや」がそこそこ。
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歯ごたえのある田舎そばにのり、ごま、天かす、卵は新橋の「港屋」ほぼそのまんまですが、ひとけのない店内と座って食べられるのがよい。

■ゲーテ(池内紀訳)『ファウスト 第一部』集英社、2004年。

「読みたい」よりも「読んどいたほうがいいだろう」で手を付けた作品です。
お話はメンドクサイおやじとメンドクサイおねーちゃんの絡み。
でも最後についてた訳者解説が、短いけれどとても面白かった。
いろいろ思うところがありました。第二部を読んでからまとめて。

2013年10月20日

最強の=便利な

■西内啓『統計学が最強の学問である』ダイヤモンド社、2013年。

年初に出てこれまでにすっごい売れたらしい本。会社で蔵書の放出があって、そこに出ていたのでかっさらってきて読んでみました。
統計とのおつきあいの仕方に関しては、ざくっと難しいほうから
 (1)ツールを作る
 (2)誰かが作ったツールを使って新しい発見をする
 (3)誰かの発見を何かに使う
 (4)誰かの発見の意味が分かる
という4つ(+統計について考え込んでしまう、という番外)があると想像していて、普通に暮らす分には(4)の「読める(あわよくば騙されない)」ができれば御の字なんではないかと思います。また、できたからといって(4)→(3)→(2)→(1)とステップを上がっていく必要があるわけではなく、(3)を究めることで良い政策を立案するとか(4)に習熟して信頼されるコミュニケーターになる、というのも立派な生き方のはず。
で、この本は「(4)でいいけど(3)にもちょっと興味あり」くらいの人の入り口になるのではないでしょうかね。
煽ってるタイトルのおかげで、乗っかる人、ちょっかい出すが協力して、多くの人のコンプレックスを刺激する幾度か目のムーブメントになったようでよかったよかった。

* * *

ニコニコ動画に上がってる岡田斗司夫さんの風立ちぬ読解がとても面白かった。

2013年10月13日

御岳山

「御嶽山」でググっても長野の山ばかり出てくるの、なぜだろう、と思っていたら「御岳山(みたけさん)」だった。
3連休すべて弩ピーカンのようなので、出掛けないで家にいると気分が沈むと思いまして、東京の涯まで行くことにしました。

といっても、9時くらいに起きてご飯を食べてから出立を決めたので、家を出たのは10時半。中央線を立川駅で乗り換え、さらに青梅線に入って青梅駅で4両編成の短い電車に乗り換えて、御岳駅へ。
初めて来たよ、こんなとこ。
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バスに乗り換え、さらにケーブルカーに乗ります。
バス終点のあたり、マイカーは駐車場がどこも満車で大渋滞。車で来ちゃだめのようです。
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路線は結構急でした。登ったところに展望ポイントがあります。
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拡大しておもくそレタッチするとこう。スカイツリーや都心部の高層ビルも見えました。
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100円のリフトでもうちょっと上まで行けます。
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参道の商店街~武蔵御嶽神社を過ぎると、あとは明るい山道。
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こんなとこを歩いていきます。
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セキヤノアキチョウジ。
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鎖を手繰りながら登る「天狗岩」。上に天狗さんの像あり。
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滝。天狗岩から「5分」と案内がありますが、高低差がかなりあってハードです。
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結構疲れてケーブルカー駅の近くまで戻ってきて15時。遅い昼飯でも、と思ったら、まともなご飯が食べられそうなところでは「昼食は終了」という。ぷりぷり。

帰りは青梅線が人身事故で止まっちゃって、2時間ほどの行程がさらに1時間延びるという事態に。でも持って行った本(↓これ)が読み終わったから、いいか。

ケーブルカーに犬が乗れるせいか、犬連れが多かったです。
マイナスイオンとかパワースポットとかのオカルトな煽り文句も多め。

■ジル・ドゥルーズ、アンドレ・クレソン(合田正人訳)『ヒューム』筑摩書房、2000年。

先日、『人間本性論』『人間知性研究』は原書だとkindleストアで0円というのに衝撃を受けました。
でもまあ、そうだよなと。ヒュームの身も蓋もない哲学は、とにかくいろんなものの「始まり」です。訳だって全部文庫に入っていてもよさそうなもの。ところが今あるものはクソ高い本ばかりで大変残念です。
ドゥルーズと聞いて身構えたものの、案外とっつきやすくて助かった。『人間本性論』の抄訳、「奇蹟論」、本書ときて、次は『人間知性研究』だな……

2013年10月06日

えび、ひも

千駄ヶ谷、五ノ神製作所。
霧雨の昨晩。20時すぎに訪れると、10人弱の行列ができていました。
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待ったのは20分くらいか。海老つけ麺+味玉を注文。
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よく名古屋に行った同僚がお土産に買ってくるえびせん、あれを粉々にして魚介の濃厚なスープに入れたような風味です。麺が太いので4-5本ずつつけて食べる戦略が奏功した。
うまいですけどね、濃ゆい。最後の一口を食べ終わると同時に「おえっぷ」。

* * *

■大栗博司『大栗先生の超弦理論入門』講談社、2013年。

物質を構成する最小単位は「粒」のようなものではなく、びよんびよんと振動する「弦(ひも)」だという超弦理論を解説したブルーバックス。
前に川合本を読んでから4年くらい経ち、この間何かとこの分野の切れ端を見聞きしたこともあって少し分かるようになったけど、まだ9次元の話はきつい。でも、準備運動となる最初の3章くらいで「場」とか「くりこみ」のイメージが掴めたという収穫はありました。ということは、もう1冊何か別の本を読めば「弦」の像ももう少しはっきり結ばれるのかもしれない。

2013年10月04日

民族とネイション

■塩川伸明『民族とネイション』岩波書店、2008年。

学生のときの語学の授業で教材になったQu'est-ce qu'une nation?を読んでから、そういや一体何ですかねと思いながら放ってきた(つまり上記教材ではよく分からなかった)ネイションとその周辺について。I章を使って概念の整理を↓

・エスニシティ=血縁、言語、宗教、文化など(のうちのどれか)を共有していると信じている、それなりの人数を含んだ集団。本当に共有しているか、科学的に見てもそうかといったことは問わない。
とりあえず、民族性という性質としての意味と、「エスニックグループ」「エトノス」「エトニ」といった集団としての意味をまとめてこの言葉で表す。(中身や線引きは流動しうる。「民族」でも同じ)

・民族=エスニシティを基盤として、一国に匹敵するような政治単位になることを志向するようになった集団。「○○人」「○○族」。言語の共有が重要な指標とされることがある。

・国民=ある国家の正統な構成員の総体。内部がエスニックに同質とは限らない。

・ネイション=民族と国民、両方の意味合いがある。この言葉の中にエスニックなニュアンスがどれくらい含まれているかは時代や国によって結構変わる。国籍が出生地主義の英語や仏語だと「国民」に近い。独語や露語はエスニックな色づけが濃い。

・ナショナリズム=国家と民族を一致させようという考え方や運動(ゲルナーが典型)。
こう考えると、民族の分布と国家の領域の関係が4類型に分けられる。
(1)民族の分布>国家の領域。朝鮮半島、中国と台湾、アラブなど。
(2)民族の分布<国家の領域。例多数。この場合のナショナリズムは分離独立、自治獲得、連邦化を要求。
(3)民族の分布≒国家の領域。ナショナリズムは定義上起こらないはずだが、それでも「われわれには民族的自覚が足りない」と鼓舞する動きが起きてくる可能性。また国内少数民族、在外同胞問題も孕みうる。
(4)民族が散在。ディアスポラ。華僑、印僑、ユダヤ人など。本国や本拠地があるパターンとないパターン。

・パトリオティズム=次の二つの場合が考えられる。
(1)範囲の大小。
1-1:広く国家への忠誠がナショナリズム、より狭い郷土への愛着がパトリオティズム。
1-2:逆に、国家に対するのがパトリオティズムで、愛郷心がナショナリズム。例えばソヴェト・パトリオティズムとウクライナ・ナショナリズム。グレート・ブリテンへのパトリオティズムとスコットランド・ナショナリズムなど。

(2)コミットの仕方。
単純素朴な愛着心=パトリオティズム、自覚的なイデオロギー=ナショナリズム。
公共性や自由を基礎にしたもの=パトリオティズム。排他的、偏狭=ナショナリズム。
「よいナショナリズムをパトリオティズムと呼ぶ」というニュアンスが感じられるが、固定的・一方的なラベリングに陥る可能性があるので注意。よいものがいつまでもよいかは怪しいし、中の人が主張するのか、外から分析しているのかで見方が違うことも大いにあるでしょう。

・民族のとらえ方。ただし2極の間にいろいろな立場あり。
(1)歴史:近代主義(近代に出現した)/原初主義(もともとあった)
(2)生成の仕方:構築主義(文脈の中でつくられた)/本質主義(自然に基礎を持つ)
(3)運動の原動力:道具主義(設計された)/表出主義(わき上がった)

と、まずはこれくらいのツールを持っておくと、本書でこのあと展開する地域ごとの分析を読むときの見通しがよくなるし、人が「われわれ」と「かれら」を分ける有様を考えるときの拠り所にもなってくれる。コンパクトで有用、新書の役割を十分に果たす有り難い本と思いました。

2013年09月20日

脳とセミコン

■池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』講談社、2013年。
職場に転がっていたブルーバックスです。
脳科学の研究者が出身高校でやった講義を書き起こしたもの。

脳(というか意識)は体の隅々まで統括するリーダーではなく、頭蓋骨の中の暗い部屋で感覚器から上がってくる情報をモニタで確認しながら、外で起こっていることをうだうだ想像してはストーリーにまとめる孤独なアームチェア文筆家のようなものらしい。経験の蓄積に基づいて素早く反応を返すような直感的な作業は隣室の秘書「無意識さん」がこちらに相談もせずぱきぱきと片付けてくれる。自分は暗闇で悶々と考えている。世界というのはそうやって作り上げたストーリーのことであって、それ以上ではない。でもそんな仕事ぶりだから、結構間違えたり騙されたりする、そんな愛らしいうかつさも持っている。

脳から見た世界ってどんなものなのか?脳を外から見るとどんななのか?それを実験を通じて明らかにしていくと、これまで数千年にわたって優秀な脳たちが考えてきたいろんなアイディアを考え直すきっかけになる。
自分が正しいと過信しないで、すべては誤っている可能性があるという前提を受け入れよと求める可謬主義も、まあなんか道路の速度規制みたいなもんかと思っていた。けれども、記憶や信念というものがかなり捏造されやすかったり、外部からの入力に引きずられたりしがちなことが実験的にも示されてしまうと、もっと大事にせないかんなと思ったりする。
ヒュームも、脳に与える刺激を工夫すれば感覚から情動から幽体離脱まで作れてしまうことを知ったらドヤ顔して見せるかもしれん。
行動しようとする意志より先に、実は脳が行動の準備を始めてしまっているとなると、自由意志を再定義しなくちゃいけなくなる(実際、本の中ではそれを試みている)。
入力された信号が一定の強さを超えると出力する、そんな単純なデバイスであるニューロンと、それらのネットワークと、たまに生じる入力信号のノイズ。それだけの集積がかくも複雑な「心」を形づくっているとしたら、逆にベンサムが夢見たような「幸福」の測定だってできるような気がしてはこないか。

いや、著者は全然そんなこと言ってませんけど、読みながらいろいろ空想してました。
ひさびさに通勤時間が飛ぶように過ぎる、おもろい本でした。

たまたま今日、某所で理研脳センターの宮脇敦史さんの講演を聴きました。光るタンパク質を使った生体のイメージングをやっている方で、生物の発生の過程や脳の深部の探検など、動画をガンガン使い、アングルをぐるんぐるん変えて見せながら聴衆を引き込んでいく、魅力的な講演でした。
わりと高齢の理系出身者が多い会場でしたが、最後のQ&Aセッションで質問に立ったじいちゃんが「この講演を学生のときに聴けていたら……」と切り出していたのが印象的でした。社交辞令じゃなくて、たぶん本当にそう思ったんだろう、そういう口ぶりだった。
研究に没頭して新しい知識を作り出すのも大切だけど、学生でもじいちゃんでも、誰かの心にイベントを起こすことも意義深い仕事。できる人はやろうぜ、アウトリーチ。そんなことを思いました。

■西久保靖彦『最新 半導体のしくみ』ナツメ社、2010年。
ちょっと必要がありまして一気読み。
半導体って言葉がいっぱい出てきて難しいなあと思っていたのがうまく整理されました。
恥ずかしながら発光ダイオードがどうして光るか、やっと分かった。
本当は「more Moore/ more than Moore/ beyond CMOSって何?」というのが知りたくて手に取ったんですが、そこは特に言及なし。でもま、いいか。

* * *

北海道の3泊4日で食生活が荒れてンコの量が減り、色が黒くなり、水に沈むようになってしまっていたため、帰ってきてすぐに普段より野菜をいっぱい食べて2日半ほどで元に戻しました。緑黄色野菜も大切だけど、キャベツの威力がすごいな。

2013年09月14日

たこうか

■鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ―〈多孔化〉した現実のなかで』NHK出版、2013年。

今ここという時空間には、「友達とメシを食う場」とか「家族がいて休息する場」といった意味がくっついている。ところがそこに、モバイル機器やソーシャルメディアといったツールを介して、職場の人間関係やら「物理的には離れているのにウェットなつながり」といった、ネット空間というもう一つの空間に属していたはずの意味が隕石のように飛び込んできて、それらが開けた壁の穴からは行動履歴や、社会一般に見せるつもりではなかった内輪ノリの軽口がうっかり漏出していく。
そうやって空間の一体性を支えていた意味のネットワークがずたずたになり、人と人の関係も人と空間の関係も断片化する。では、そんな荒廃の中に築くことができ・持続させることができる共同性って一体どんなものだろう?

うざったい共同体からの解放は、紐帯の喪失と同じこと。だから取るべき道は(1)共同性なんて期待しないで自由に任せ、どうしても残しておくべきものだけアーカイブしておけばいい(2)あるいは逆に、公共団体が定例的な式典の運営を通じてシステマティックに共同性を維持すればいい、のどちらかのような気がする。
でも、その間を行くような”第3の道”はないか。それは、共同性をずたずたにしたのが意味ならば、意味を利用して共同性を回復すればいいという考え方だと思う。たとえば、いつもそこにあり、いつ訪れて体験してもいいような「意味の空間」として、その土地の記憶を、物理的な空間に重ねて置いておくこと。ARを利用したテーマパーク、ドラマの舞台となった場所=「聖地」ようなものを作り出すなんてどうだろう。

2年ほど前、「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」という印象的なフレーズを発した人が、このところ震災で発生した(現在進行形の)史跡へのツーリズムを提唱している。そんなことと、弊管理人自身が1998年に訪れた神戸と、仕事として関わった2011年のことと、その後に読んだいろいろを思い出しながら読んだ。弊管理人はぼっち気質なので(1)でいいじゃんと思うのだけど。さらに、著者が提案した第3の道って、ナショナリズムのよすがとなるような伝統の創出に似た戦略に見える。使い方によっては危ない感じもするのだけど。

先週、新宿の紀伊国屋で、前月の深夜ラジオで出版を知ったこの本のタイトルを見たとき、こういう題材の本は出てすぐ読まないと古くなるから、と手に取りかけて、でも図書館で借りればいいか、と思い直し、でもすぐ読まないとと思い、「1300円以下だったら買おう」と思って値段を見たら1000円だったので買った。早く読んでよかった。

2013年08月24日

弁当と2冊

水曜のことですが、仕事が午後からだったので、錦糸町の台湾料理屋にて「鉄道弁当」でお昼。
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叉焼と漬け物と高菜がおかずで、この下の段に野菜炒めの載ったごはんがあります。
なかなか。

そのあと日本橋に移動してから、ミカド珈琲のスタンドコーナーでモカソフトをなめなめ一服。
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相変わらず暑い日も多いけど、なんとなく日陰に入った時とか、風が吹いた時とか、秋を感じさせる週になりました。

* * * このかん読んだ本。

■辨野義己『大便通』幻冬舎、2012年。

腸内細菌とウンコの話。
ちょっと必要があって読んだ。便秘だとか、そういう事情ではありません。

■西村義樹、野矢茂樹『言語学の教室』中央公論社、2013年。

「Aが私に話しかける」と「Aが私に話しかけてくる」はどちらも意味は通じるんだけども、表現の違いは何によって生じるのか。Aが知り合いか他者かでどうも違う感じがする。相手の属性の違いが自分の世界に対して及ぼす力が違うような気がする。
認知と言語を結びつけて考える、認知言語学。それって何だよ、という野矢さんのツッコミに西村さんが答える形で認知言語学の考え方や生成文法との違いなどを明らかにしていく対話篇。おもしろかった。

2013年08月15日

盆休み備忘

■14日、周囲で何かと話題の『風立ちぬ』を見た

インテリ飛行機設計技師のあんちゃんと、結核もちのセレブおねーちゃんがドラマチックな出会いと別離から何年かして再会した避暑地で恋に落ちて、最後はおねーちゃんが死ぬメロドラマ。

一歩引いてしまうとそれだけです。「生きねば」というメッセージもうざベタい。だけどとにもかくにも、よく描き込まれた絵物語に2時間体を浸すのが、正しい享受の仕方。原作もたぶん知らなくていい。夢が現実に、現実が夢にすっと入り込みながら淡々と話が進んでいく、ふわふわした全体がそのように提案している気がします。
そう思って見るといい映画なんだと思う。鑑賞後、こんなふうに何か言いたくなりますしね。

大正~昭和初期ごろの結核がどんな病気だったかとか、先進工業国としてのドイツと「20年遅れた」日本の関係など、前提知識がけっこうないと難しい。席の両側は母娘(とみられる2人)2組で、いずれも40がらみのおかーさんはぐすぐす泣き、娘さんらは「わかんない」とむくれていました。ついでに前にいた20代くらいのカップルは「難しいね……」とぼそり、後ろのヲタと思われる男性は「庵野の声が……」。まあそうなるわな。

喫煙のシーンが多いことに文句が出ているそうですが、「あほか」以上の感想はありません。あほか以上に何か言おうとするとすっごい長くなりそうなので。

それにしても実に6年ぶりに映画館で映画を見ました。この、現実からちょっとの間切り離される体験もいいなあ。映画ももっと見よう。

■その他

帰省して見た田舎の状況は、春の連休よりはもう少し、次の問題が迫っていたように感じました。

上記、久しぶりの映画と、山と、ほかにちょっとここに書くほどでもないことなどによって、先週末までまことにギリギリと締まっていた心を弛める機会にすることができました。
(今日出勤して、一時停止していた時間の流れが再開しちゃったんですけど)

■理化学研究所脳科学総合研究センター『脳科学の教科書 こころ編』岩波書店、2013年。

前読んだこれの姉妹書で、出るのを結構待っていた本。
相変わらず優れた見取り図です。索引が欲しかったなー

2013年08月07日

ハングリータイガー

横浜で昼の仕事を終えて、横浜駅近くで遅めのランチ。
ハングリータイガーのハンバーグ。
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肉とスパイスうまうま!油はねはね!床ぬるぬる!

小学生~高校生のころ、戸塚に伯父が住んでいて、一人で遊びにいくと保土ケ谷の店舗で食べさせてもらったハンバーグです。味はあんまり覚えてないけど、家で食べるのとだいぶ違ーう、とテンション上がったような記憶があります。ですのでもう20年近く食ってなかったということか。

昔食べてうまかったものでも、今食べると「おや?」くらいなものもありますが、これは変わらずうまかった。にしても午後2時半に行ってもちょっと待ちました。人気あるのだね。夜に入ってもおなか減りません。

* * *

以下は記録だけ。

■太田省一『社会は笑う・増補版―ボケとツッコミの人間関係』青弓社、2013年。

かつて専門職が供給していた「お笑い」の空間。その外に立っていたはずの観客を、ボケる素人を、「素(す)」を、むき出しの感情を、次々と内部へと飲み込んでいくダイナミクス。

は、いいとして、なんか乗れない本だった……
であるであるとうるさい語尾とか、風雲たけし城をゲームにたとえるならRPGじゃなくて面クリア型のアクションゲームじゃないのかとか、「ブーアスティン的な意味における」とか持ち出しといて説明ないのかよとか、もろもろ、もろもろ、本に入り込むのを阻む引っかかりが多くて……
個別の分析も、なるほどねえと思うものもあればその読み方は違うんじゃないかというものも……
みんなが知ってるものを扱うだけに言葉はかちっと定義・説明してから使おうよとか……
弊管理人の読む力が問題なのかと、もやもや……

お笑いの読み解きを通じて社会の理論に迫っているように見えて、実は社会について持ってた仮説の切れ味をお笑いの分野で試しているような印象を持ちましたが、思い過ごしかね。まあいいや。

2013年07月27日

カニ冷製とネットワーク

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佐市@錦糸町に夏のメニュー、冷製かにトマトつけ麺が出ていたので食べてみました。
うむ、弊管理人はつけ麺なら付け汁が熱いほうが好きだということを確認。
次はいつもの牡蠣ラーメンに戻ると思う。

■Guido Caldarelli and Michele Catanzaro, Networks: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2012.
インターネットも感染症も航空路線も人間関係も、点と線でつないだグラフにまで抽象化してみると意外と特徴や振る舞いが似ていたりする。問題はそこからどうやってもう一度具体的な分析や予測に降りていくか、かな。

* * *

隅田川の花火大会。エアコンのきいた自宅でひとりテレ東の中継を見ていたら、暴風雨に雷鳴まで轟きだし、さながら浴衣での台風中継に。
開始30分で中止、そのあと延々と過去の映像を流していて、BGMがついたら早朝のテレビみたい。時ならぬトラブルでテンションがちょっと上がった。

* * *

そのあと、1カ月くらい放ってあった台所の蛍光灯交換をとうとう完遂。

* * *

会社貸与のパソコンのハードディスクが物理的に壊れ、今日はその対応で結局会社に行ってしまった。

* * *

ばててるっぽい。
2-3月に続いて、ジムに行ってもいつもの重さと回数がいつものようにはこなせてない。
さらに今週水曜は起きたら気怠すぎて、午後出勤に。

* * *

大学時代の友達と1時間あまり電話。
自分の話し方(この場合は使う語彙と言い回し)が仕事のときや飲み友達と話すときと全く違うことに気付く。話しながら気付くくらい頭の違うところを使っている感じがした。
そういえば、年に2、3度帰省したときも「一族の中の弊管理人」の位置づけで普段と全く違うことを違うスピードで話している。

2013年07月18日

私的所有論[第2版]

■立岩真也『私的所有論[第2版]』生活書院、2013年。

大学生だった1997年に初版が出たとき、学校の生協でちらちら見ていた本。でも6000円(*)。買うのもちょっと、で図書館で借りたこともあったけど、開いてみてわあ無理、サクサク読める本じゃない、私的所有しないとだめだ、と思って、うだうだしているうちに16年経ってしまいました。

(*)この値段については本書[第2版]に言い訳と経緯が書いてあって、著者えらい、と思った。でもその事情を知っていたとしても6000円の本は買わなかったと思う。

6月、新宿の大好きなカレー屋の近くにあるマニアック本屋「模索舎」で[第2版]を見つけて、値段が1800円になっているのを見て、すぐ購入。1カ月あまりかかって読み終わりました。通勤電車の片道18分で15ページ、つまり1日30ページ。

(1)つくったものは(2)おれのもの。ということは、(1’)いっぱいつくったら(2’)つくっただけおれのもの。そのかわり、つくれない人は少しも取れない。少しも取れないことで、生きてさえいけない人が出てしまう。それ、おかしくないか。そこでほとんどの人が疑っていない(1)と(2)のつながりの根拠を問い、溶かしてみる。

おれのものはどう処分しようとおれの勝手。でも処分してはいけないものがある気がする。肉体とか命とか。でも「○○だから処分してはダメ」という論理だと、○○(貧困とか不平等とか強制とか?)がクリアされれば処分していいようでもある。それでいいのか?そもそも他の問題と比べて身体の問題を何か特別扱いしていないか?人を売買の対象、操れる客体にすることが自分の存在の条件を侵すからダメなのか?ていうか人ってどこまでが人だ?胎児は?胚は?出生前の=いまだ存在しない他者について、誰が・何を・どこまで・いじっていいのか?

空気読まないヒュームおじさんのように、みんなが「これは、まあ、そういうもんかな」と思っているか、気にもとめていないほど当たり前のものを次々とばらばらにしていきます。でも解体後の荒野で「とにかく生きて暮らすことができる」ための仕組みを提案されても、読み進めながら感化され疑り深くなった読者、特に「生きてるって、そんなにいいことなのか」と心のどこかで思っているような贅沢気質の読者は、しっかと受け止められない、かも。

すっごい量の注がありますが、生殖補助医療、出生前検査、安楽死・尊厳死、優生学、所有と分配などのテーマの文献案内として使えると思います。

あと、構成はすごく親切なのに、文章が読みにくい。口で話すときのよどみや行き来や挿入がそのまま文字になっているようなテイだからかな(後年書かれた本によると、筆者は文章がぐねぐねしていると文句をいっぱい言われ、もはや開き直っているらしい)。

ところでこの本、過去の読書と結構呼応しています。
・先月にかけて読んでたルソーとかロックとかの社会契約説の本。まさに私的所有を全ての出発点に置いているけれども、それでいいのか?という問いに導かれて、もう一度根っこから社会構想をしてみるのが本書。
・それから、去年の秋に『バイオ化する社会』を読んだときの感想で書いた疑問を一緒に考えてくれるような章が含まれていて、引き込まれるように読んだ。
3年前に読んだ『人間の条件―そんなものない』をあとがきとしてもう一度読むという手もある。

2013年06月13日

人間不平等起源論

■ルソー(中山元訳)『人間不平等起源論』光文社古典新訳文庫、2008年。

2年前、震災対応の中で『社会契約論』を読みました。かの本が「今とこれから」についてだったとすれば、本書は「始めから今まで」といったところか。

ルソーの場合、自然状態の人間は、森の中で、互いに交流を持つこともなく、自然からの恵みによって自給自足し、自立できるだけの身体的な頑強さを持って生きている。
その自然状態から社会状態への移行が、「人間が環境に働きかけながら生活を改善していく力」を媒介にして、あるいは何か外部的な障害への直面を契機として、しかし長い長い時間をかけて、起きてくる。
まずはゆるやかな集団が形成され、そして家族が形成され、言語を操る社会ができ、鉄と小麦を利用した労働と所有の時代が到来し、国家ができ、国家同士の戦争状態が出現する。ルソーが主題にしている「不平等」の起源がここ(この不平等は、身体的な強さや弱さなどから生じる不平等ではなく、制度から生まれる不平等のこと)。
自由で平和だった自然状態から、隷属と戦争の社会状態へ。ここで財産を持っている人々は、自分の持っているものを守るために、同じく財産を持っている他人に働きかけ、「協同して財産を守る」ことを始める。これが社会と法の起源だという。
ということは、統治機構というのは、財産を持っている人たちが自分のために設立した管理組合であって、設立者たちの財布に恣意的に手を突っ込んでいいものでは全くないわけだ。設立者たちの手を離れて暴走を始めた管理組合は、その瞬間に正統性を失うことになる。
で、『社会契約論』では、そのへんを詳しく展開するわけですね。

とても丁寧な訳者解説がついていて、この論文がなぜ書かれなければならなかったのか、この論文は何と戦っていたのかを明らかにしてくれます。自らものを決める権利を人々から次第に剥奪し、服従を求める当時のジュネーブ政府の論拠の一つが、「惨めな自然状態から脱するために、自由を政府に委ねて庇護してもらう方式」の社会契約論だったこと。このあたりの背景を知らないで本文を読むと、見てきたような作り話を延々と語ってるように見えてしまってイライラするので注意が必要と思います。

よい社会の原理を見つけるために「後天的なもの」を次々と剥ぎ取って「最初の最初」に立ち返ってみようという思考実験。この手つきは200年余り後に登場する「無知のヴェール」の方法になめらかにつながっている気がします。

* * *

ひとつ前の日記に出てきた私費(←ここ大事)留学志望の同僚については職場で会議が開かれて、メンバーひとりひとりに意見が求められました。
出た意見はだいたい、「長期的には社業のためになりそうだしOK」「いやまて、人繰りの厳しい職場に穴があくってどうよ」といったところ。自分のカネで行くんだから楽しみに行ってくりゃいいじゃん(どうせ1年のTaught Masterは200万円ほど払って知識とモラトリアムを買うようなところだし)と思うんですが、現実には賛成も反対も同じ、組織の論理に基づいていて厳しい。

それから今週は、いまどき超高い組織率を誇る労働組合の大会があり、覗いてきました。
みんな仕事に対して真剣で、正しいと思うことに対して誠実で、くらくら。
自分がこの瞬間この場にいることに特段の疑問を感じないで済んでいるとお見受けした。羨ましい。

そんなことが立て続けにあったせいもあり、会社にいながらどこにいるのかよくわからない、ぼやーんとした靄の中で昼間から夜中まで過ごし、帰ってきて寝てまた出かけるこの頃です。

2013年05月30日

トンテキと憲法

仕事前に渋谷で昼飯、「東京トンテキ」。
昼12時にして既に行列。しかし前にいたのは5人組と3人組で、1人だった弊管理人は先にさっとカウンター席に通されたのでありました。
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豚+ステーキとくると、ジュージューいってるイメージだったのですが、むしろソースに浸った煮豚。といっても煮たわけではなく、低温のラードでゆっくり火を通すことで柔らかく仕上がるということのよう。ソースはわりと複雑、やや酸味が強い。どす黒い見た目ほど濃くなくて、食べ終わるまでに緩やかにちょうどいい塩梅になってきます。
うん、こういうものだと思って食べればうまい。もたれない。というか、名前から「東京チ○ラめし」みたいなジャンクっぷりを予想しがち。実際は全く違いました。画像はトンテキ定食の大(300g)、1200円。

■長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年。

あるトラップが仕掛けてあり、新宿の紀伊国屋でこの本を手に取ったときにそれに引っかかってしまったので、苦笑しながら買ったもの。
表題は上の通りですが、内容からすると「立憲主義とは何か」って感じの本です。
内容は明快でキレキレ(こう使っておけば、キレキレをぷっつんの意味で取られることもなかろう)。あえてここにメモする必要がないと思うので感想が短いだけで、つまんなかったからということではありません。逆。

2013年05月18日

コピペとグルメとエロス

■ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』晶文社クラシックス、1999年。

一点ものの芸術作品が霊的な何か(凄味?)を帯びていて、見る人はそれに孤独に対峙し、吸い寄せられる。写真だの映画だのといった複製技術を前提につくられた作品は逆に、消費者のもとに届けられ、試すような視線で気まぐれに見つめられる。

世俗化し、大衆化し、規格化するという視覚芸術の変化は、音楽と同じく、あるいはたぶん学芸一般と同じく、近代のセオリーにのっかって起きたことのように見える。で、それが政治化するという著者の同時代の危機感を、弊管理人たちはその80年未来から読んでいるわけです。いまこれを、骨董品を眺める以外のやり方でどう読んだらいいんだろう。頼りの解説も1970年付です。復刊するならyoutubeまでを繋ぐ解説をつけてほしかったなあなんて。

■マルサス(斉藤悦則訳)『人口論』光文社古典新訳文庫、2011年。

・まずもって人の本質というのは食欲と性欲であります。
・そしてそれが深刻な問題の源泉なんです。人口は倍々ゲームで増えていくが、食糧生産は足し算的にしか増えない。だから成り行きに任せると必ず飢える人が出てしまう。
・それは人間に解決可能な問題でしょうか?いやあそんなことないですね。夢想するのは勝手だけど、それを実現するなんてできっこない。
・もちろん農業は大事です。どんどん耕すべきだと思う。でも一時、豊かになっても、それで子どもを養えるようになれば人口が増える。食糧はすぐに足りなくなる。
・あおりを食うのは食糧を手に入れる原資に乏しい貧乏人です。お金をあげたって、食糧の量が変わらないなら値段が上がるだけだから無駄です。放っておいてもぎりぎり生きていける程度に貧乏で、そうすると人口増加は抑制されるっていう状態に落ち着く。畢竟、世の中そういうもんじゃないですか。しょうがないですよ、もうね。

・いやちょっとまって、怒らないで。あのね、でもですね、理想の社会はできないにしたって、ぼくたちは問題に直面するからこそ賢くなれると思う。貧富の差をなくすのは無理かもしれない。不幸な人はいつだって出現する。でもせめて、中間層をできるだけ大きくしよう、そして社会の総体として幸せの量をできるだけ多くしようと頑張ることはできる。できるだけの努力をする、それしかないんじゃないかな。

そんな話だったかと。「である」と「べき」がちょっと混線してる気持ち悪さも感じなくはない。
前半の話をもってすっごく批判される人らしい。でも終盤の何章かを使って「人口と食糧の増え方に関する悲しい自然法則」に抗おうじゃないかと励ましている。予防線張ってるだけなのか、それとも基本はあるがままにすべきだけど最低限の再分配は必要よねっていうハイエクのご先祖なのか。どうやってやるんじゃいという気はするけど。

* * *

この週末は概ね晴れて、涼しい風が吹いていて、特筆すべき気持ちの良さでした。
常夜鍋で夕飯にしました。
独り焼肉も独り鍋も全く楽しめる弊管理人です。
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2013年05月08日

想像の共同体

■ベネディクト・アンダーソン(白石隆、白石さや訳)『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』書籍工房早山、2007年。

「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意志決定主体]として想像される」

弊管理人はいまだ四国に上陸したことがないのですが、そこにもやはりほぼ同じ言葉を話し、ほぼ同じニュースを見ており、ほぼ同じ教育を受け、あまり強い信仰を持っておらず、なんとなく日本という国名を昔から共有している気がしており、そして朝鮮半島やユーラシア大陸の人たちとは多くの点で異なっており、かつ首都から遠く離れても首都住民と同じような権利と義務を持っている、そんな人たちが当然いるはずだと想像している。同じことを四国の民も想像していると想像している。そんな心の中の現象。
そうした「国民」の、実は南北アメリカに遡れる起源と成立条件について、そして情報・通信技術や資本主義の発展(=世界を時間的・空間的にまったいらにしていく力)と絡み合いながらアジアで、東欧で変奏されながら歌い継がれていく様子について。

(では、それぞれの国の国語のほかに英語を使ってつながりあい、ネットを使って全球的に出来事と価値とを交換できる今をどうみたらいいんでしょう。地球規模のインテリ共同体みたいなものはあんましできてないように見える。そしてなお、20世紀半ばにかけて固まった国境はかくも越えがたいように見える)

つうか、今頃何言ってんのと思われるでしょうけど、
すんごく面白かったですー、ぐえー
いま、なんとなく当たり前で強固な実体のように思われているものの正体を、世界を駆けずり・タイムトラベルしながら追い詰めていく。そんな旅を終えて戻ってきた現在は、前とちょっと違って見えるっていう、いい本の典型。

2013年04月21日

金子半之介

大手町で仕事終了、日曜17時半、曇天、気温7度。
この条件なら、さすがにありつけるだろう、
日本橋、金子半之介。
タイミングを間違えるとおっそろしい行列ができている店ですが、今日は弊管理人の前に8人。
1人/2分のペースではけていき、入れました、とうとう。
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天丼880円(メニューはこれしかない)+ご飯大盛り100円。
すんごい穴子。半熟卵!エビ2、ししとう、ホタテとイカのかきあげ。
行列店は入るまでの苦労に見合う味が得られることがあまりないんですが、見合った。
ただし、穴子1本食うと、お腹がどすーんってなる。

* * *

いまアプリで0円のマンガ『鈴木先生』を読み終わりました。
ここのところ弊管理人の睡眠を奪っていた作品。

2013年04月18日

ことばの力学

■白井恭弘『ことばの力学―応用言語学への招待』岩波新書、2013年。

「どのような言語を使ってある現象を説明するか、これも、はっきりと言わずに隠れたメッセージを伝える有効な方法で、メディアによって多用されています」(p.137)

ほほうと思って読んでいくと、

「二〇一二年には、iPS細胞によると称する虚偽発表をめぐって、日本の科学報道のいい加減さがNatureという世界的な科学雑誌でもとりあげられました」(p.148)

とか言っている。この件、朝日新聞や毎日新聞は事前に情報を吟味した上で虚偽発表の内容を報道することを回避しえているのですが、筆者は「一部」を「すべて」に誤認しやすい「日本の科学報道のいい加減さ」という表現を使ってどんなメッセージをお伝えになろうとしたのかな。しかも「世界的な」科学雑誌、という権威を笠に着て。

「『証拠に基づいた社会(evidence-based society)』を目指していくべきでしょう」(p.iii)

というのが基本姿勢なのだそうですが、

「原発事故、放射能汚染、反原発運動など、原発推進にとって不利になる重要な情報が、海外のメディアでは大きく取り上げられているにもかかわらず、日本では無視されたということが何度もあって、」(pp.134-5)

って。その証拠はどこに……
雑だなーと思って読んでいたら最後のほうに

「本書についても鵜呑みにせず、批判的に読んでもらえればと思います」(p.197)

と。本書そのものがレッスンだったか。うはー
この分野についてよく知らない読者に新しい知識を与えるという面では有用な本だと思うのですけれど、べき論に行くと議論が粗っぽい。

2013年04月17日

ハイエクに学べ

■仲正昌樹『いまこそハイエクに学べ』春秋社、2011年。

なんとなくハイエクがどういう人かくらいは知っておいたほうがいいと思っていて、新書ならばと松原隆一郎『ケインズとハイエク』を買ってみたのですが、50ページほどで挫折。こんなときは、仲正氏の本なら大丈夫だろうということでスイッチしました。松原本にはケインズやハイエクが書いた文章をちょっと読んでから戻ってこようと思います。

保守的でない伝統主義というか――ある人間集団において歴史的に形成されてきた秩序(自生的秩序)による制約を最小限に受けながら、個人たちが営む活動が、秩序そのものをアップデートしていく。そういうゲームのルール設定をハイエクは擁護する。
その敵は、例えば社会主義のように「あるべき社会の形」というゴールをまず設定し、それに向けて統制をかけていくような考え方ということになるだろう。人は善い社会とは何かを的確に構想できるほど賢くないからだ。
そんな印象を受けましたが、どうでしょ。

読むのにけっこう時間がかかりました。ちょっとこのかん忙しかったこともありますが、なによりこの本にはいろんなことが書いてあるので。この本を読んで、やっぱり『自由の条件』読みたい、と思いましたが、お高いのな。ちょっと考える。

あ、そうそう、3刷を読みましたが、誤字脱字多すぎです。

2013年03月20日

油そば、栄養、親鸞

新小岩、燈郎で汁なしあぶらそば。
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うっかり「野菜多め」と言ったらキャベツともやしがフルヘッヘンド((c)某杉田氏)。
「にんにく普通」と言ったら消化管がにんにく臭で埋め尽くされた。
汁なしなんですけど、野菜の水かなんか知らないがどんぶりの底にずいぶんお水がたまってました。
日高屋の野菜たっぷりタンメンに代わる野菜摂取のソースに認定。野菜多すぎてだいぶ薄味になってたけど。

■岡村浩嗣『ジムに通う人の栄養学』講談社ブルーバックス、2013年。

・運動後、できるだけ早くメシを食え
・運動中のスポーツドリンク、いいよ
・ちゃんと食事していればプロテインは不要
・炭水化物も肉もちゃんと食べよう
・脂肪を落とすなら絶食より運動です
など、ストイックで辛いダイエットのイメージを覆す、けっこう革新的なメッセージが多いと見たがどうか。
あと、さすがブルーバックス。いろんな論文からデータを引っ張ってきて結論を導いていく姿勢が素敵。生理学的な説明も大変勉強になります。

■唯円(著)親鸞(述)川村湊(訳)『歎異抄』光文社古典新訳文庫、2009年。

「とにかく南無阿弥陀仏と唱えてりゃいいから」というシンプルな親鸞(浄土真宗)の教えも、時間が経つといろいろ曲がった解釈がされたり、藁人形叩きみたいのが出てきたりする。どうも誤解されてることも多いんで、師匠が言ってたことを分かりやすく書いておきますよ、という文章。唯円が本当にそう語ったかのように、京都弁でおもくそ砕けた調子の訳になっています。

最後には流罪目録というのがついていて、法然以下お弟子さんたち(親鸞含む)が弾圧を受けた際の処分が短く紹介されています。さらにその後に「教えを信じる機縁のない人にはむやみに読ませてはだめよ」との奥書がある(これは筆写した蓮如の文かな?)。教え+苦難の歴史+ある程度の閉鎖性が、教団を維持していくためのエッセンスつうことなんでしょうか。

いくら経典を勉強したって修行したって、しょせん人にできることなんてたかが知れてます。そんなことより、アミダさんが全員救ってくれるって言っているんだから、完全にそれに委ねてしまえばいい。そういう気になったときには既に救われることになってるんです。救われようとしてジタバタしない分、悪人のほうがまだそのゴールに近いともいえませんかね、という。

こういう、私というものを究極まで矮小化していく方向性が、現世の否定や無気力ではなく、かえって(浄土へ行くための戒律なんて意味ないからといって)肉も食う結婚もするというパワフルな欲求開放に向かってる感じが不思議だなあと思ったり、人事からいろんなものをはぎ取っていったその果てに神を見てしまったデカルトとの近さや遠さをもやもや考えたりしながら読みましたとさ。

2013年03月10日

自由論

■ジョン・スチュアート・ミル(山岡洋一訳)『自由論』日経BP社、2011年。

14年ぶりくらいに読みました。

原理は単純で、
(1)個人は自分の行動が自分以外の人の利益に関係しない限り、社会に対して責任を負わない。社会がその行動を嫌うか是認できないとき、その人に助言や教示を与え、説得することができ、自分の幸福のために必要だと考えればその人を敬遠することができるが、それ以上の方法をとるのは正当だとはいえない。
(2)個人は他人の利益を損なう行動について社会に責任を負い、社会はみずからを守るために必要だと判断した場合、社会による制裁か法律による処罰をくだすことができる。
つまり他人に危害を加えなければない限り自由を保障されるべきだ(他者危害原則)ということのようです。

最初のほうの章では「思想・言論の自由」と「行動の自由」がそれぞれどうして必要なのかを検討しています。理由は、結局のところ、ぼくたちは全知全能ではなく、今ひろく信じられていることでさえ間違っているかもしれない(可謬主義)ので、反対論を気に入らないからといって封殺してしまうと、間違いを正されたり、両者の考えを止揚してよりよい考えに到達したりするチャンスを失ってしまうからです。たとえ今信じていることが合っていたとしても、反対論に触れることによって、自らの根拠を再認識し、知識の基盤を固められるから、やはり反対論をそもそも発言させないというのはよくない。
一見不愉快な行動についても、何が正しいかに関する知識を完全に持っている人などいないのだから、それが本当に悪いことなのかどうかはすぐに確定できない。その行動が他人に直接の危害が及ばないなら、周囲がしていいのはせいぜい「やめな」と説得し、だめだったらおつきあいをやめるところまでで、それ以上の制裁・処罰をするべきではないとも主張されています(愚行権、パターナリズム批判)。ただし、奴隷契約などを自発的に結んで「自由を手放す自由」は認められません。

他者危害原則にはいろんな限定がついています。

まず、分別のないガキに自由を保障せえという話ではないということ。何がよいことかを自分で考える力を身につけるため=大人になるために最低限必要な教育(ただし、特定の思想を植え付けるのではなく、方法論を教えるようなイメージ)を国が施して、修了試験を課すべきだとまで述べています。

また、自由を制限する理由となる他者危害は、かなり直接的な危害に限定されていることにも注目すべきだと思います。弊管理人など冗談で「あなたが息をしてると地球が温暖化して環境が壊れるから、息止めてもらえますか」なんて言ったことがあるのですが、こんなのは他者危害になりません(笑)。自由の制限を許すような「危害」の範囲を少しでも広げてしまうと、たやすく自由が無意味になってしまうからでしょう。

面白いのは、自由を制限しようとする役者として、政府だけでなく「世の中の多数派」も想定されている点です。自分や権威と違った考え方に不寛容な世間様が、いかに異端者に有形無形の圧力をかけて押し黙らせているかを苦々しく描いていますが、これは1850年代のイギリスの描写とはとても思えません。

このあたりは、著者がどういう社会が好ましいと思っているかにもつながっていると思います。結局、個人というのは孤立してあるものではなくて、時には権力を構成し、時には国に影響を及ぼす、そういう役割を持ったものだ。だからこそ、自由を保障することで個性を保護し、社会に多様性を持たせるべきで、その多様で活力ある個人たち、国を永続させる原動力になるのだと訴えているように思います。
また、国は必要以上の干渉を企図してはいけない。官僚機構を作るために国中の優秀な人をかき集めるようなことはしてはいけない。人材を集めすぎると行政をチェックする力のある人が外部に確保しなくなってしまい、そうなると人々があらゆることを行政にお任せし、国の活力が落ちてしまうから。このへんも含めて「時代や国が違っても似たようなことは起きるんだね」と思うこと多々でした。

具体的な問題について判断を下すにはちょっと物足りない大づかみな原則ですが、ここを一つの起点として後世のいろんな思想や制度が流れ出す、そういう水源地のような論文だったと思います。出版後に鬼籍には入られたのは残念ですが、訳者にブラボーを。

2013年03月03日

評価と贈与の経済学

■内田樹、岡田斗司夫FREEex『評価と贈与の経済学』徳間書店、2013年。

月曜の出張にひっかけて、今日は朝から泊まりで遠出をする予定でした。
新幹線なので本を1冊仕入れていこう、と昨晩買ったのがこれ。

ところが今朝、東京駅まで行ったところで全身が怠くなり断念。
あげく、急に無理な感じになったのであたふたとiPod Touchで予約取り消しの作業をしているうちにEX-ICカードを紛失するという負のおまけつき。

がっくりしながら家に帰って、一日ほぼベッドの中で過ごしました。
うとうとしては眠り、目覚めてはこれを読み進めているうちに終わってしまいました。

2回前の日記から書いてますが、ここ10日ほどの体調不良はいったいなんだろう。
しじゅう頭にもやがかかった感じ。ちょっとがんばるとズキンズキンとくる頭痛。あと、げっぷが多い時があります。眠る時間も短めになった気がする。でもすっと起きられない。
熱はないし、血圧も普通。最近特別ハードな生活だったというわけでもない。
去年後半からの疲労が出たかなという疑いを強くしています。
第2の可能性は、かまってちゃんの不定愁訴ごっこ。
そっちだと単に面倒くさい人なので、ここで書くだけにしとこっと。

で、本の内容はお二人の対談です。
人柄が資本よねって話。
弊管理人の場合、これくらいのことなら日常的に教えてくれる大人たちが周囲にいるというのは幸せなのかもしれない(弊日記にもぽつぽつご登場してます)。

2013年02月26日

3冊

力むとズキズキと頭痛がする状態が続いてます。頭蓋骨の中で脳が張ってる感じがしていてぼーっとします。なんか気持ち悪い。
ここ1、2週間、モニタを睨み付ける日々だったので、眼精疲労からきているのではないかという気もしてきました。あきらめて回復を待ちますか。

そういうわけであまり元気がないので、読んだという記録だけ。

■九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫、1979年。
いき=クール&ドリーマーでセクシー。それをくどくど分析。
手つきは面白い。でもこんなにねちっこくこの題材を考える必要性はよくわかんない。

■大澤真幸『生権力の思想』ちくま新書、2013年。
かみさま役の記録。

■長沼毅『生命とは何だろう?』集英社インターナショナル、2013年。
前半。生命の特徴として、代謝、増殖、細胞膜、進化を挙げる。うんうんって思う。
後半。20億年を70ページで見てきたように語るというアクロバットをやりきってる。

2013年02月17日

イケズの構造

■入江敦彦『イケズの構造』新潮社、2009年。

ロンドン在住で、今般来日していた著者のお話を直接聞ける機会がありまして、その予習のため購入。
これまでイケズが何であるかをよく知らないまま京都出身の友人を揶揄していたのですが、ようやく姿が見えてまいりました。

比較的閉じており、かつ「よそさん」の侵入がしばしば起こる社会で習得され伝承される、言葉の裏読みゲーム。
  「コーヒー飲まはりますか」
  「そない急かんでもコーヒーなと一杯あがっておいきやす」
  「喉渇きましたなあ。コーヒーでもどないです」
  「コーヒーでよろしか」
の4種類のオファー(に見えるもの)のうち、本当にコーヒーを飲んでもいいのは1つだけだそうです。怖!

おそらくこうしたゲームはルールを共有する者(=仲間)としない者(=侵入者)を峻別し、攻撃的な侵入者にはカウンターを食らわせる機能を持っている。つまり防衛の一形態ということですね。ただし徹頭徹尾、言葉の世界で行われるこのゲームの成立条件は、自分がパンチを食らったことを理解できる程度の言語能力が侵入者の側にあることですが。
と同時に、これは侵入者に対して「教育を受けてメンバーシップを得るチャンス」を開いているのかもしれない。たとえ地元に生まれたとしても、人は京都人として生まれるのではない、イケズの洗礼を経て京都人になるのです、たぶん。「よそさん」にもその点、機会は平等に開かれているのです、いや、どうかな。
そんな秘儀に触れる(やられる)ため京都に赴く観光客もいるそう。「ご丁寧に扉がついてる城壁」に囲まれた都市の一つの魅力なんでしょうかね。

単行本から文庫、そして電子書籍にもなった(※)本書、著者によると通算15万部(!)売れており、そのうち10万部が京都での実績らしい(笑)。身上書代わりに配るなどの使い方をされているようで。

※ちなみに弊管理人は急いで入手する必要のあった今回、初めてアマゾンで電子書籍を買ってnexus7で読みました。紙の本のようにページを押さえたりめくったりするのに両手を使う必要がないので、電車の中で立って読むのに超便利。ただし液晶でないとちょっと目は疲れるか。

で、本書を読んだ勢いで今は九鬼周造の『「いき」の構造』に手をつけてます。

ビッグデータ社会の希望と憂鬱

■森健『ビッグデータ社会の希望と憂鬱』河出文庫、2012年。

筆者が2005年に出した本をアップデート・補筆・改題したもの。
ユーザーの行動を逐一追跡し、数値化し、保存し、データ同士を結びつけ、探知し、予測し、フィードバックする。そうした情報技術の進化は、制度を作る企業や官庁から描けば便利で安全で自由な明るい未来像を結ぶことでしょう。しかし、その裏面にあるのは悪用や誤用だけでなく、善意の使用までもがあいまって成立するユーザーの監視と馴致と不自由というディストピアかもしれない。
さらにややこしいのは、そうした危なっかしいシステムを要請したのは、効率や利便や可視化を望み、ポイントという報酬をもらう見返りに承認しつづけてきたユーザー側だったということ。実際、障害を持った人や中山間地に住む人の生活を改善したりしているのも承知している。電力も情報もそうですが、依存しているものを批判するのはかくも難しい。

オーウェル、フーコー、レッシグなど分析の際に援用する枠組みは他でもお目にかかるものですが、何よりジャーナリストの本領は公式、非公式を問わず膨大に読んで聞いて並べて見せること。それに成功している本だと思います。05年までのITはもう歴史になってしまった(ICタグなんて懐かしい響き、02年サッカーワールドカップのときの顔認証システム導入もほとんど琥珀色の記憶です)。いや去年のことだってちゃんと覚えてなんかいない。でも昔のことを知っていないと構造が分からない、失敗は繰り返すし、予防もできない。

6年前に読んだ大屋本を思い出しながら読了。

■ギンジン(Pf)のラフマニノフ:ピアノ協奏曲1番と4番オリジナル版(ONDINE: ODE977-2)

これ、すごく面白かった。
よく演奏される情感豊かな2、3番と違って、パキパキ進んでさっと終わる1、4番。普段耳にするものは改訂版で、こちらはオリジナル版(世界初録音)とのこと。メロメロロマンチックな味付けがより濃く効いていてこっちのほうが好みという人もいるのでは。

2013年02月11日

ゲノムが語る生命像

■本庶佑『ゲノムが語る生命像―現代人のための最新・生命科学入門』講談社ブルーバックス、2013年。

仕事と仕事の合間にふと立ち寄った本屋で見かけて「この新刊、「買っといたほうがいい気がする」と思ったものの、虫の知らせで買わずに職場に帰ったら、転がっていた。

分子免疫学の大御所である著者が27年前に書いたブルーバックスは24刷(!)までいったそうで、それをこのほど大幅アップデートして、今の生命科学を知るためのトピックスを52節で紹介した本。
DNAや遺伝の仕組みってどうなってるんだ、っていう基本の部分は鎌谷直之『オンリーワン・ゲノム』のほうがとっつきやすい印象。一方、遺伝子工学の手法の解説はとても簡明で情報量も多い。エピジェネティクスとか自然免疫/獲得免疫、光遺伝学やゲノムコホート研究といった最近の動きも紹介されていてためになります。特に筆者の専門である免疫関係の記述はさすがにとても詳しい。一部ちょっと難しいところがありますけどね。

最後の2割くらいの部分は生命観とか幸福について語っていますが、まあこれは「思い」の部分でしょうから「ふーん」くらいで読み流せばよかろうかと。生命科学は文理問わずに知っておくべき、というのはホントその通りだと思う。

巻末に索引がついているので、今後は分からない言葉が出てきたときに引く事典のように使おうかななんて思ってます。

* * *

・今日は早起きして、午前中はマンソンの内見で四谷界隈を歩き回る。帰ってきたら16時過ぎに眠くなり、タイマーをかけて40分ほど寝た。20時も近くなってから夕飯の準備をして食べる。ごはんを一口食べて、空腹に気付く。

・20歳の自分に教えてあげたいこと。
  洗濯物はピンチから外すたびに畳んで積めば部屋がちらからない
  食器は毎食後に洗うと台所が汚れない
  本はよほど分からないところ以外は飛ばし読みするな
  弾けない場所は弾けるまで練習しろ
つまり、今やれることは今やっておくほうが結局余計な手間がかからないということ。

・MONDAINEの腕時計は結局、1カ月の旅を経て先週金曜日に帰ってきました。デザインは大好きなんだけど、体が弱いんだよね、この舶来っ子は。ピンチヒッターを務めてくれた光発電のCASIOさん(自民党の若林正俊氏みたいな存在)、おつかれっした。

2013年02月01日

脳科学の教科書・神経編

■理化学研究所脳科学総合研究センター『脳科学の教科書 神経編』岩波ジュニア新書、2011年。

ぱらっと適当なページをめくってみると「小脳には、前庭反射のほかにも、このような可塑性シナプスを含む神経回路がモジュール状に何組もあって……」などの記述にぶつかり、「こりゃあジュニア新書には無理ちゃいますか」という気分になります。が、最初から読んでみると、脳神経系をめぐる用語の意味、図解、そして構造を”教科書的”によく紹介してあり、知識の整理という点だけを取っても得るものの多い本だと思いました。感じる、動く、覚える、忘れる、といった基本的な出来事が起きているとき、脳を構成する細胞や化学物質たちが行うスマートな共同作業に驚かされます。そして自分たちのことなのにまだ分からないことがいかに多いかも。

2013年01月24日

キヨミズ准教授

■木村草太『キヨミズ准教授の法学入門』星海社新書、2012年。

いくら待っても図書館に入らなかったので買いました……
法学のことを何も知らない弊管理人は快調かつ面白く読みました。
ブックガイドもいいですなあ。

2013年01月21日

社会学の方法

■佐藤俊樹『社会学の方法』ミネルヴァ書房、2011年。

・今期の年末年始休み読書は「たまにはちょい難しそうな本を」とあまり考えもなく手に取った本書
・重要なことがいっぱい書いてあるものの、読むのに難儀。4割以上、分かってない感じ。6割弱は分かったつもりになっておいた
・でも、日々の出来事に追われてわーってなった2012年から離礁するにあたっての元気がちょっと以上に出た
・ちなみに、iTunes Uで視聴できる「社会学ワンダーランド」(2010年)と併せて味わいたい。リンク先には講義レポートが載っていますが、そこに書いてない面白いこともいっぱい言っているので講義は聴いたほうがいいです
・社会学を作った歴史上の人たちの方法を紹介&評価して、
その次にコンテンポラリー社会学の話題を 抽象的な話 と 実例 を組み合わせて解説していくうちに、
読んでるほうが「あ、ここまでしてきた社会学の方法の描写の仕方そのものが社会学の方法の実践例になってるんでは?」と気付くトリッキーな構成
・理論もいいけどやっぱりモノグラフだろう、モノグラフ、というメッセージがほとばしっている
・あとマートン愛も
・というわけで、これ読んだら、次のステップとして先達の手ほどきを受けながら一度自分で何かの分析をやってみる、というのがいいのだと思いますが、弊管理人は学生ではないため、そこに進みがたいのが残念
・ところで去年は市野川さんが一般向けの「社会学とは何か本」を出していましたが、48歳って一度まとめをしておきたくなる年頃なのかしら

2012年12月16日

出張に持って行った2冊

■鷲田清一『大事なものは見えにくい』角川ソフィア文庫、2012年。

そのことばかり考えていた仕事が山を越えたところでやっと荷物から取り出して読み始めました。心のマッサージを期待して。そしてはっとさせられること多し。
一方、報道記者やお笑い芸人など、さまざまなしがらみ・力関係・構造に抗えないまま仕事をこなす小さきアイヒマンたちへの視線は厳しく、救済はそこにない。自分で自分のことを決められる幸せな人同士が共有すべき美学、と割り切ればいいのですけれど。

■ダーウィン(渡辺政隆訳)『種の起源(下)』光文社古典新訳文庫、2009年。

・現在の遺伝学から見てこの本に書いてあることがどれくらい合っているかという星取り表はどこかにないかな。
・ダーウィン以後のキーワードを超スピードでさらった末尾解説がイイ。これ、ふくらませて1冊にしてほしいくらい。

2012年11月27日

種の起源〈上〉

■チャールズ・ダーウィン(渡辺政隆訳)『種の起源〈上〉』光文社古典新訳文庫、2009年。

一定の頻度で起きる突然変異。些細なものであっても、獲得した特徴が、与えられた環境の中で少しでもその生き物の生き残りを助けるならば、その特徴は世代を経るごとにどんどん蓄積され広がっていく。あまりに長い時間をかけて起こる現象のため、誰も直接には目撃したことのない「自然淘汰」のアイディア。そこに読者を誘うために、まず上巻は人間によって行われる動植物の品種改良の話から入ります。

5年がかりの世界一周の旅で見聞きしたもの、自然に分け入って採集したものを縦横無尽に紹介しながら、今ある種たちは、そのままの姿、そのままの多様性で神が作りたもうたとの「創造説」を端々で批判する。そして自分の説の弱点をさらけ出しながらも「自然淘汰説」を擁護する。

では変種と変種の間に位置する、中間的な奴らはどこへいったのか?本能も自然淘汰で説明できるのか?淘汰される単位は個体なのか、それとも種なのか?

を検討するあたりまでが上巻。

・確かに遺伝学の人と話していて聞く単語やアイディアが続々登場する。バイブルといってもいい本らしいことは窺える
・一方、今の知見からすると、遺伝の法則も知らず、もちろん遺伝子の正体がDNAという物質であることも知らない時代の著者が純粋に観察から導き出してきた数々の発見の、どれが合っててどれが間違っているかの星取り表みたいな文献は欲しい
・絶賛するほどワクワクする本かっていうとまあそこまでではない
・19世紀的な収集癖というか、どばーっと集めてがばーっと見渡すように分析する「ナチュラリスト」のエネルギーが感じられるところは面白い
・何度も言うが、この文庫シリーズの訳はいい

といったところで下巻にとりかかるです。

2012年11月23日

オンリー・ワン・ゲノム

■鎌谷直之『オンリー・ワン・ゲノム―今こそ「遺伝と多様性」を知ろう』星の環会、2009年。

あと1カ月ちょいで突入する2013年は、ヒトゲノムの完全解読から10年、DNA二重らせん構造の提唱から60年に当たる年。たぶん科学館や書店なんかでいろんな企画が行われるでしょうから、その前にちょっと手軽におさらいしておけないかなー、と思っていて図書館で出会ったのがこの本です(しかしこれは買って手元に置いておくべき本だった、というのが読後のちょっとした後悔)。

何がゲノムを構成しているのか、遺伝の仕組みとはどんなものか、1990年から2003年まで行われた国際プロジェクト「ヒトゲノム計画」で分かったことと、その知識をもとにすることでできてきたことって何なのか。という、遺伝学Geneticsとゲノム科学Genomicsのミソの部分を初心者むけに、図や例え話なども使いながら解説しています。

この本のいいところは、必要な術語を省略せず、しかしちゃんと解説しながら使ってるところです。「連鎖解析」とか「全ゲノム関連解析」(あるいはゲノムワイド関連解析、GWAS)とかって、ググっても出てくる文書が難しくて、かゆいところに手の届く解説にはたどり着けません(でした、弊管理人は)。が、この本の数ページで「あ、こういうものだったんだ」とアイディアを掴むことができた。著者は理化学研究所で最前線の研究を引っ張ってきた人なので、おそらく普段は正確だが相当難しい言葉で喋っているのではないでしょうか。でもそこにサイエンスライターが入って噛み砕き、構成をして、難しいけどゆっくり読めば分かる本に仕立てているのが成功の秘訣ではないかと思います。

このところ、近所の図書館に行ったときは青少年向けの本棚をさっとチェックすることにしています。特に理系出身でない弊管理人くらいだと、結局この棚のレベルが一番しっくりくるので(もうちょっと知るために教科書を読んだり、さらに細かいことを調べるために専門書に当たる足がかりにもなる)。
その際、ちゃんと実績のある研究者が著者になっているものを選ぶことが大切だと思います。

2012年11月11日

憂鬱と官能を教えた学校

じつに1ヶ月、行き帰りの電車で本を読むことがまったくできなくなっていました。理由は二つで、仕事で読む文章の量が多くなりすぎたことと、自分の時間に何かを読む気力がなかったことです。

下記の本を読み終わり、昨日、久しぶりに本を1冊買いました。

■菊地成孔、大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』河出文庫、2010年。

2012年10月08日

絶叫委員会

■穂村弘『絶叫委員会』筑摩書房、2010年。

攻撃は最大の防御というけれどもそれは本当。逆に退却戦が長引いてくると疲れるし、しまいには戦っている意味合いを問い始めて奈落の底をうかがう始末です。
そんなとき、野菜不足の外食に飽いた体がトマトを求めるように、頭が新しい言葉を欲しがります。舞台を回転させ、光の当たり具合を変える原動力を。

図書館で借りて1日で読んだ。
こういうのばっかり読んで「本を年300冊読んでます」とか言うのもどうかと思うけど。

2012年10月03日

マクルーハンの光景

■宮澤淳一『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』みすず書房、2008年。

カナダはなぜか傑出した変態を生みます。マーシャル・マクルーハン、グレン・グールド、あとオスカー・ピーターソン。理知的なのが行きすぎて飛んじゃってる。

この本はマクルーハンを味わうための、ホップ・ステップ・ジャンプの3講で構成されています。エッセンスの詰まった「外心の呵責」という短編をパラグラフ・リーディングでじっくり味わう1講。ホット/クール、メディア、メッセージ、マッサージといった鍵概念の把握を目標に、少しスピードアップして代表的な著作を駆け抜ける2講。ジョン・レノンやグールド、ジョン・ケージなど、新しい芸術をする人たちにマクルーハンが与えた影響を概観しながら、電子メディアが変容せしめた世界の今とこれからのギスギスとキラキラを見透す、「地球村」についての3講。
それぞれ趣向が変えてあって飽きない。それでいて全体を通して説明が親切で有り難いです。

こんなこと言ったらあれですけど、マクルーハンて、訳書が高価で、かつ素人が独りで読むにはちょっとついていきにくい文章、そのうえもう50年も前のこと。当座は質の良い解説に出会えたらそれで満足しとこう、と思う人によいかと。

2012年09月26日

バイオ化する社会

■粥川準二『バイオ化する社会―「核時代」の生命と身体』青土社、2012年。

生殖補助技術、遺伝子医療、多能性幹細胞、慢性疼痛、気分障害、そして原発事故。
自然科学、特に医学や生物学の言葉で明晰に説明され・判断される事象たちの中に、というかその中にこそ、偏執狂的にすべての人たちを捕捉し、飲み込み、そして飲み込むそばから吐いていく現代の社会の姿はないか?そして吐き出され、うち捨てられたのは誰か?それを考えている、はず。

まずは、ニュースで見ることも多い上記いろんなトピックに関する、非常にコンパクトで明瞭な経過説明です。一気に読めます。科学をフィールドにしてきたライターの力量がここに。国内外の論文、報道、ステートメントの類、自ら行ったインタビュー等々をよく配置し、何かを考えたいと思う人たちに参照されるべきまとめになっていると思います。

そして、世上それらのトピックについて行われる解説はせいぜい、その機能や仕組みに関する術語を身近な言葉に置き換える程度のことしかしていませんが、著者はそこに不利益やリスクに晒される人たちを呼び出し、そうした不幸を招来する社会的文脈を浮かび上がらせようとします。襲った津波の高さよりも、一人当たり所得や自治体の財政状況と相関する犠牲者数、排卵誘発によって危うくなる女性の健康、着床前診断で選び取られる命と否定性を付与された生、腰痛に絡む心理社会的因子――。今や個人から政策まで、さまざまな意思決定のよすがとなっているバイオの言葉、それが覆い隠す社会問題をしつこく指摘しています。

でも、同時に少しひっかかりながら読みました。自分の子が健康に生まれてくるよう願うことや、そのためにさまざまな手を尽くすことが、既にその避けようとした障害を持って生まれた子の存在を否定することに即つながるのだろうか。彼らの幸せのための拠出を喜んでなした上で、なお自分の子の健康を追求し続けることは倫理的にアリではないか?なんてことを、風邪がようやく明けかけて久しぶりに寄ったスポーツクラブで自分の健康を追求しながら、弊管理人は考えていました。(筆者も、ある価値観の肯定と、その余の価値観の否定に必然的な関係があると言いたいわけではなく、しかし警鐘は必要、とのスタンスなのかもしれません、けども)

2012年09月22日

四次元

■根上生也『四次元が見えるようになる本』日本評論社、2012年。

4次元といっても縦横高さ+時間、の「4次元時空」ではなくて、xyzの3本の軸にもう1本、直交する軸が入った4次元空間のこと。なんて言われても想像できない。
が、4次元が見える筆者(数学者)はもう、数式も使わずにつきっきりで面倒を見てくれる。1次元(線の世界)から2次元(面の世界)へ、2次元から3次元(立体の世界)へ、と階段を上がった勢いで4次元に上がろうとしてみる。逆に、3次元を紙の上(2次元)に投影できることを応用して4次元を3次元に投影してみようとする。そんなレッスンを経て、確かに4次元空間がイメージできる気がしてくる。
と同時に、自分の場合は、ちょっと4次元が見えるたびに頭がぐわんぐわんして、何度かオエッてなりました。かつてない読書体験。何の役に立つのとか無粋なこと、聞くな!

2012年09月16日

動物に魂はあるのか

■金森修『動物に魂はあるのか』中公新書、2012年。

お掃除ロボットのルンバを買った友達が、仕事から帰るとルンバがバッテリー切れで掃除途中で止まっちゃってたり、玄関の段差に落ちちゃってたりして愛おしくなる、なんて話をしていました。

石に魂を見ることはめったにないが、石の下にいたダンゴムシを潰すのはちょっと気がとがめる。犬には感情だけでなく、判断力があるようにさえ見える。ボノボの知能ってすごいんだっけ?それでは「未開」の人々は?死にゆく"脳死状態"の人は?
――動物に魂はあるのか、それとも動物は外的な刺激に定型的に反応する機械にすぎないのか。デカルトが「動物=機械」論という極論で提起した論争は百数十年を経て一応中庸なところに落ち着いたけれども、それは完全に終わったとも言えず、「われわれ」と「われわれ以外」を分ける論理と倫理ってどういうものなのか、という広くて重要な問題に繋がっている気がする。それを考える入り口に立つためのブックガイド、かな。(ダンゴムシとボノボとロボットは出てきませんw)

いや、私は分かってるんですけどね、入門書ですし、紙幅が限られてるから割愛してるんですよ、ええ。っていう(おそらくチクチク重箱の隅をつつきそうな専門家が読んだ時用の)言い訳がいっぱい出てきて多少うるさい。でも、ニワトリを壁に叩き付けたり獣や原住民をスポーツハンティングしちゃったりしてた人たちが家畜福祉とか捕鯨反対とかいうのに鼻白む前に、あっちの世界で歴史的にどういう問題が立てられてきたのか、前史としてのアリストテレスからデリダ、シンガーまで見渡すことができる、まあ有用な本かと思います。

2012年09月09日

バースト!

■アルバート=ラズロ・バラバシ(青木薫監訳)『バースト! 人間行動を支配するパターン』NHK出版、2012年。
Albert-Laszlo Barabasi, BURSTS: The Hidden Pattern Behind Everything, Dutton Adult, 2010.

「確率・予測」関連でまた一つ。

個人の行動の予測は、実はけっこうできる。メールの送信やウェブサイトのクリック数などは、短時間に集中して行われ(バーストが起き)、そのあと暫く沈黙が続く、というパターンを示す。原因はおそらく人が、自分の抱えたタスクに「優先順位付け」をしているためだと考える。それはSNSや携帯電話の位置情報、アクセスログ、受療記録など、人の行動を常に監視しデータを集積するシステムが張り巡らされて初めて定量的に言えるようになってきたことでもある。そこで初めて、人間が全くランダムに行動するという仮定に立ってこそ予測ができるポアソン的な考え方から抜け出ることができる。でも、人間の集団=社会のレベルで予測するのは(まだ)無理のようですけどね。

16世紀ハンガリーの農民戦争と21世紀の世界を描いた二つの話が行ったり来たりしつつ、次第に交わっていく、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』っぽい構成ですが、弊管理人は抵抗なくいつも以上のペースで読みました(ということは密度が低かったということか)。
普段駆使している数式を全く使わないということでお話の流れは分かりやすい反面、「なんでそういう結論になったの?」となる省略のきつい箇所もいくつか。ていうか、個人の起こすバーストのパターンって要は生活上繰り返される「くせ」のことで、集団レベルではそれが混ざっちゃうから予測できず(いや、でも「法人」という1人格の振る舞いとかはある程度予測できる気もするけど)、歴史上の事件は各々特殊な条件下で1度しか起きないので予測できないっていうだけのことなんじゃあ……

監訳者あとがきは全体のうまい要約になっていますが、本文に仕込まれたちょっとした(ほんとにちょっとした)サプライズのタネは伏せています。監訳者も弊管理人のように、本を読むときにあとがきから読む人だったりするのかしら。

2012年08月31日

大阪出張

ちょっと気の進まない仕事で大阪に行ってました。
仕事のほうは、まあ、はい、ええ、言及しない。

そんなことより、友人のアドバイスによりおいしいものを食べました。

東梅田/揚子江ラーメン「名門」
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ポン引きの皆さんが立ち並ぶ通りにあります。
ラーメン650円。透明なスープ。あっさり、細麺、うまい。このへんのお店で飲んだ後にちょっとしょっぱいもの、と思ったときに至適かと思います。チャーシューがぺらぺらですが、これもっと食ってみたい感じになります。チャーシュー麺にしても+100円なんですね。ほほう。

その近くのお好み焼き「どんたく」
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とんぺい焼き800円。厚い豚ロースが薄焼き卵に包まれて、大量のマヨネーズと辛子とお好みソースが塗られております。うめーなー、これ。
名物ツンデレおばちゃんお一人でやってる有名店らしいです。友人からは生存確認も兼ねて勧められました。お客さんでいつもいっぱいみたい。ちょっと裏路地みたいなところにあるので、初めてだと場所が分かりづらいかも。店の外観もなかなか味があるのですが、写真撮り忘れました。常連さんとは丁々発止、弊管理人は一見のうえに口数が少ないので目と目で話しておりました。
オーダーは3回聞かれました(!)飲み物はお客さんが取ってくれます(!)お会計は横のお客さんがやってくれました(!)
ごちそうさま~と言って出ようとすると「ありがと~(はぁと)」と。惚れる。

で、やっぱり最後の飯は「ピッコロ」。
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先日は超濃厚なスペシャルを賞味したので、今回はスタンダード650円。あっ、こっちもなかなか。だいぶインデアンカレーに近づいたかも。
ちょうどレトルトのセールをやっていたので2つ買ってしまいました。

あと、帰りの電車で読みおわった。
■三中信宏『系統樹思考の世界』講談社現代新書、2006年。

系統樹が、生物だけではなく、文学作品とか言語とかいった分野でどうやって描かれているか、実例を解説し、書き方や読み方を噛み砕いて紹介してくれるような本かと思って買ったのですが、ちょっとそういった内容とは違ったかも。歴史学は科学かとか、前置き的な話がずーっと続くような感覚。でも、これは勝手に期待した弊管理人が悪いだけで、本は悪くないです。んでその筆致はというと、系統樹のまわりを陶酔しながらひらっひらひらっひら舞う著者を、体育座りで見せられる感じ。

2012年08月17日

パスタと本

昼過ぎに有明でお仕事があったので、たまにはちょっと早めに行って昼飯を現地で食ってみるかと「トラットリア・アルポルト」へ。
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片岡護氏のお店。って、どなた?
サラダと飲み物がついたパスタランチ、ボロネーゼを選んで大盛り指定で1522円。

なかなかおいしいです。
238円のレトルトパスタソースの1.08倍くらいうまい。
これがラ・パウザで880円で出てきたら満足したと思う。
ちなみに、内装は中途半端。
店員さんの手際は今ひとつ。
メニューが厚紙でノケゾル。

あと、一冊読み終わった。

■市野川容孝『社会学』岩波書店、2012年。

ふつうの読者に「社会学ってさあ」という本を作ると、まずはスペンサー、コント、デュルケーム、で、マルクス、ヴェーバー、ジンメル、んでもって、パーソンズ……あたりで読む方は嫌になっちゃうのが定番。
この本もそのへんの名前は出てくるし、もっといっぱい別の人も登場するが、単なる紹介ではない。「社会」「社会的」「社会学」「社会科学」といった言葉がその原テキストが書かれた時代に何を意味していて、それは同時代あるいは旧時代のどんな論者が謳っていたどんな概念と対立していたのか、今の人たちは当時の何を見て「いない」のか(今、社会学として書かれているものには、何が書かれていないのか)を丹念に掘り出していく。というか、著者はそれをしていないらしい今の(特に日本の)社会学に苛々しながら掘っている。ま、そういうちょっと新しい読み方で旅する源流、あるいみ社会思想史、あるいは社会学の歴史社会学、なんというか'Sociology' in Society。
この探究の目的は「社会学に何ができるか」なのだそう。告発のモノグラフとはまた違ったアプローチで、社会学を使って「どうにかする」つもりだ。次はどうなるんだ。気になる。

2012年08月04日

功利主義入門

■児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学』ちくま新書、2012年。

沖縄から帰ってくる飛行機と、昨日ちょっと買い物に出たときの電車の中で一気読み。
これ、たぶん中学生でも十分読める本だと思う。ものすごく親切に書いてあります。ベンサム(ベンタム)やミルの時代に提唱された「最大多数の最大幸福」というシンプルな原理がその後、どんな批判にさらされて洗練されながら、どんな流派を生み出してきたか。厚生経済学や社会哲学といったお隣の領域とどんな関係を持っているか。最近の脳科学などが「幸福」の中身をどう明らかにしてきたか(そしてまでできていないか)、といった、「功利主義の現在」がざっくり分かる。巻末のブックガイドも、易しいものからちょっと難しいものまで厳選して並べてあっていいですね。
個人的には公衆衛生政策(喫煙、予防接種、メタボ検診……)と倫理の関係に触れた第5章にすごく関心がそそられました。いま、この問題を扱った本を書かれているようなので、出たらぜひ読んでみたいと思います。

2012年07月26日

確率の科学史

■マイケル・カプラン、エレン・カプラン『確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで』朝日新聞社、2007年。

一昨年くらいから科学論の入門書にいくつかあたるうちに、リスク、偶然、そして確率を扱った本を手に取るようになったところをみると、弊管理人の中期的な関心はこのあたりにあったのかなあ、と最近振り返りつつあります。人間を含む自然の正体が書かれている非常によくできた本(書き手は自然自身でも神でも何でもいい)が誰にも見えないところに実はあって、それに迫っていく手段が確率なんだっていうナイーブなイメージから出発してどこまで行けるかな。

さてこの本は、確率の理論史を古代から現代まで一本道で描いたものではなくて、賭博から保険、医療、裁判、天気予報、戦争、そして物質の存在、といったいろいろな分野に確率が利用されるようになった経緯と、その展開の様子をオムニバス形式で紹介したもの。およそ何かと何かの間に関係があるという判断には確率の利用がつきものです。そこで、確率の歴史を書くに際して、さまざまなシステムの起源たちに当たってみる、それが本書がとった構成だと思います。とても魅力的なトピックが選び出されていて、珍しく後ろにいくほど読むスピードが上がりました。

2012年07月13日

暗黙知の次元

■マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫、2003年。

人は自分で意識して言語化できることだけを知っているのではない、という有名なアレ。
日本語での初訳から30年経って読むという乗り遅れ方。
でも、全文読んでみると、内容は上記の一文に尽きない豊かなもの。
暗黙知の次元こそが理解へ、イノベーションへ、そして倫理へと私たちを駆動する。
随所にソヴィエト・ロシアへのうんざり感が書かれてますが、それは「いくら周到に作っても、計画した社会には人間はつかまえきれないんだぜ」という批判。
この本よりさらに60年余り前に見出された「無意識」の拡張であり、この本より30年くらいあとに弊管理人がよく使ってた「可謬主義」の源流だったような気がする。って言ってしまってはつまらないのか。

* * *

7月に入っても仕事は落ち着かず(これは力不足)、さりとてやる気など全くなく(これは先月より引き続き)、それに加えて9時間寝て出社しても午後には身体が怠くなるようになってしまい、午後10時11時には困憊して朦朧とした状態で電車に乗って家に帰るという生活が続いていました。

なんだこの体調の悪さは、と思っていたのですが、今日なんとなく分かった。
会社が節電か何かで例年より蒸し暑くなってるんじゃないか?
家でクーラーきかして作業してると結構元気なんですよ。
会社行くのやめようかな。

2012年05月31日

確率

■Haigh, John, Probability: A Very Short Introduction, New York: Oxford University Press, 2012.

リスクとか考えるならワードマップで準備運動、ということで手を付けてみました。
コンパクトだが、コンパクトすぎて多少調べものがいるかも。でも一望することはできる。事例は豊富。

Craig Ventner(Venterの間違いか?)がNobel Laureateとなってた(p.115)けど、ベンターってまだノーベル賞取ってないよね?

2012年05月19日

パラダイムとは何か

■野家啓一『パラダイムとは何か―クーンの科学史革命』講談社学術文庫、2008年。

90年代の終わりに、「現代思想の冒険者たち」というシリーズが出版されました。20世紀の思想をつくってきた思想家たちを総括する内容でとても読みやすく、当時大学生だった自分も何冊か手に取りました。本書もそのうちの一冊ですが、あれからいろいろな本を通過して、14年経ってふたたび文庫版を読んでみると、当時よりも格段に面白く読めました。

「パラダイム」という言葉を人口に膾炙させるきっかけとなった『科学革命の構造』を62年に出版して以来、科学の合理性や進歩を否定したとして厳しい批判に晒されてきたトーマス・クーンを〈科学〉殺人事件の被告人に見立て、検事にそれまでの科学哲学者たちを置き、著者は弁護人を買って出るという構成。刑事裁判の仕組みをちょっとだけ知っていればとてもよく事件の構図と被告人の来歴を把握できる、優れた、そしてちょっと感動的でさえある法廷取材記になっています。

科学革命が起こる過程は、だいたい次のようなものだといいます。
ある研究分野を創出するような基本的課題と概念と研究結果のセット(「パラダイム」。モノとしては、典型的には「教科書」に結実する)が生まれ
→そこから生じてくるさまざまな課題にみんなして取り組み(「通常科学」の時期)
→しかし問題を解いているうちに次々と理論に合わない事例が蓄積していってパラダイムが揺さぶられ(「危機」の出来。この「通常科学を突き詰めるプロセス」を経ないと新旧パラダイムの緊張関係や革命に繋がらないことにも注意)
→そのころ生まれ、旧パラダイムと併走を始めていた新しいセット、つまり新パラダイムへの移行が起きる(「科学革命」)
→始めに戻る。

旧パラダイムと新パラダイムでは、たとえば「力」「運動」「質量」といった同じ言葉を使っていても、その意味が変わってしまっており、新旧のパラダイムを比較して「こっちよりあっちのほうが正しい」と評価できるような判事の立場が設定できない(本法廷ではポパーが判事を務めていますが、この人は検事と同じ立場なので、本当は判事の席にいてはいけないのですね)。これが「真理に向けた科学の累積的進歩」を否定したとして反発を呼んだポイントだったようです。

筆者は、批判に反論し、誤解を解きほぐしながら、クーンの弁護を進めていきます。

確かにクーンは「真理に向けた科学の累積的進歩」を否定しましたが、
第一に、それは科学革命の時期(パズルの盤自体が変わっちゃう時期)の話であって、通常科学(みんながパズルを解いてる段階)の内部では累積進歩が起きていると認めている。
第二に、科学が累積的に真理に近づくという見方は確かに否定する。けれども、かわりに、科学は革命期に「進化」をしているのだと見るのが適切だという。つまり、起きているのは生物がやっているような最終目標のない進化であると考える。科学が進化するときには基本設計が変化するだけであって、何かの積み増しが起きているのではない。

新旧パラダイムはまったくコミュニケート不可能だとも誤解されているが、両方を理解することはある程度は可能で、新たに異文化を学ぶときのように、概念のセットの翻訳作業のような方法を通じて迫っていくことができるはずだという(科学史研究者としてクーンがした仕事の方法がこれ)……など、など。

この本では、彼が何を追撃していたかも丁寧に解説してくれています。科学哲学のクーン前史とパラダイム論争、科学社会学の流れと基本概念がざっと見られる、親切な本だと思います。

あ、あと最近これも読んだ。
■アレックス・ローゼンバーグ(東克明他訳)『科学哲学』春秋社、2011年。
けど、訳文に全く馴染めず、校正も甘く、まず読み物として苦痛すぎて飛ばし読みせざるをえず。
ストロング・プログラムを「強いプログラム」って訳すのは普通なんだっけか。

2012年05月09日

おしゃべりな細胞たち

■大和雅之『おしゃべりな細胞たち』講談社、2012年。

この間に続き、細胞シートをやっている先生の本。ただし今度は対談集で、「再生医療をよく知らない人」「美容業界を知ってる人」「再生医療と科学コミュニケーションのことを知ってる人」「医学の人だが再生医療の人ではない人」「ビジネスの人」とお話されてます。相手が相手ということもあり、易しい言葉で語ってくれるのがうれしいですね。ただもう「インジャリーした(外傷を受けた)ところの組織を」とか「フェイル(失敗)してしまう」とか、この業界の人たちの癖なんでしょうけど、ルー大柴みたいなしゃべり方をそのまま採録しなくたっていいやん、とは思います。

再生医療というと、とかく患者が少ない難病を治そうとか、あるいは命や生活の質にかかわる重大な病気をとか、そういうミッションが語られることが多くて、それは正しいことで、かつ著者もそういうことをやっている人なんだけど、一方で「いや、でも、とば口として美容とか、そういうところから使っていくのもありじゃないかなあ」という柔らかい考え方をしているところが面白いなあと思います。医学を医療として、そしてビジネスとして成り立たせていくのに結構有効な戦略かも、と思ったりもします。

医学部の教授ですが、理学部出身の変わり種(日本では、だそうですが)の著者。再生医療だけでなく、SFを語り、行政を語り、そして「とんがった事業のやり方」を語る。

2012年05月03日

細胞シートの奇跡

■岡野光夫『細胞シートの奇跡』祥伝社、2012年。

再生医療というとここ数年は多能性幹細胞=iPS細胞とES細胞が特に注目されていますが、患者を治しているかというとそれはまだ緒に就いたところという段階。
これに対して、患者自身の細胞(幹細胞に限らない)をお皿の上で培養してシート状にし、悪くなったところにぺたっと貼り付けて失われた機能を補ったり回復させたりする、そういう著者らの医科学と工学を融合した再生医療は、もう一歩先を歩いています。角膜、心筋、歯根膜、膵臓、そして中耳など、シートを作る基礎の技術が、さまざまな領域において新しい治療に向けた研究を芽吹かせています。おそらく多能性幹細胞とのコラボも数年のうちに成果が見えてくるでしょう。
高分子研究から入り、独自の組織工学、医工学を展開させ、ベッドにまで届けた円熟の著者が、これまでを振り返るとともに、普及に向けた「これからのあと一歩」を展望する。

で、展望の部分では新しい医療技術と薬事法の齟齬とか社会のリスク受容とかといった社会・制度面の話を熱く語ってますが、「...どの分野よりも優秀な人材が集まる医学部には、もっと大きな投資をしてもいいでしょう」(p.198)とか言っちゃうのが残念。あと、無闇に横文字が多いとか、難しめの用語が説明なく使われいたりとかいうのは(筆者ではなく)編集がちょっとまずい。そのへんを除くと、細胞シートのわくわくする可能性と筆者の熱意がビシビシ伝わってくるいい本だと思います。

2012年04月27日

分析哲学講義

■青山拓央『分析哲学講義』ちくま新書、2012年。

2012年04月18日

偶然の科学

■ダンカン・ワッツ(青木創訳)『偶然の科学』早川書房、2012年。
Watts, Duncan, Everything is Obvious: Once You Know the Answer, Crown Business, 2011.

それにしてもどうして、社会科学は社会のことを予測できないのだろう。
というのが、弊管理人の抱いている素朴で根強い疑問でありました。

「なんかおもしろそう」で特に内容も知らず古本購入した本書ですけれども、偶然にもこの疑問に共鳴してくれているような内容で、面白く読みました。

条件を統制して何回も行える実験や、比較的パターン化して何回も起こる出来事と違って、社会のことは大抵は条件を統制できず、成り立ちが複雑で、しかも歴史上に一回しか起きない。
何かが起きたあとにそれがなぜ起きたかを後付けで説明するときでさえ、起きなかったことと比較したりするのは困難なので「それが起きたのはそれが起きる条件が揃っていたからだ」というほとんど当たり前のことしか言えないことが多い。過去に起きたことをうまく説明できたとしても、それが未来に当てはまる保証がない。未来を予測しようにも、何が予測に値いする重要事項か(いつからいつの間に起こる何を予測したらいいのか)は事前に分からない。予測すべきことが分かったとして、ミクロのレベルのわずかな違いがマクロのレベルのとんでもない差を生んだり、予測したこと自体が結果に影響して予測が確定できなくなったり。とどのつまり生成していくのは「偶然起きたこと」と、それを追いかける「そう当てにならない後知恵」―。

で、じゃあどうすればいいかというと、今起きていることを測定し→対応すること。つまり現場に分け入って、よく調べて、その変化に迅速に対応するということだという。このアプローチをとっている衣料品小売のZARAの例。そして、ツイッターだのフェイスブックだのと、ネットでのデータ蓄積が進んできた近年だからこそ可能になった、膨大な情報の収集と解析。この技術状況は、測定だけでなく、低コストでサンプル数の多い「サイバースペース上で行う実験」さえ可能にしつつある。そこで得られる知識というのはすべてを支配する法則ではないが、少なくとも些末な個別の事象の記述よりは包括的な「(時間的にも空間的にも)中くらいの範囲が説明できる理論」なのかもしれない。そしてそのようなものであっても、ぼくたちがとらわれがちで、よく間違ってもいる「常識」を手放す道具になってくれるのかもしれない。

ダンカン・ワッツは1971年オーストラリア生まれ。理論応用力学で博士号。「スモールワールド現象」(世間は狭いって話)に関する研究で脚光を浴びた。コロンビア大学社会学部教授。

※訳、いいです!

2012年04月02日

リスク

■Baruch Fischhoff and John Kadvany, Risk: A Very Short Introduction, New York: Oxford University Press, 2011.

去年はベックの『危険社会』がよく売れたらしい。
でもねー、5250円ですよ。文庫化してくれないかなあ。
それならamazon.comで……と思ったらこっちも結構高い。
それはそうだ。英語も翻訳版ですもんねw

リスクを定義し、測り、行動を決定する。
リスク認知はしばしば歪み、しかしそれを乗り越える方法もある。
危険を避けて、よいものを得る、ということは、まるごとその社会が何を大切で何が恐いと考えているかを反映しているのですね。
そんな論点をざっと見る本。

2012年03月24日

社会の中の科学

■中島秀人『社会の中の科学』放送大学教育振興会、2008年。

古本で安く手に入ったので頭の整理。

科学 = to know = 哲学→科学革命→科学アカデミー→
技術 = to make = 奴隷の仕事→産業革命→大量生産→

→そして、この二つが「科学技術」あるいは「科学・技術」(・あるいは「工学」)として結びつくのは意外に最近、ここ150年ほどのこと。一方では企業が研究所をその中に抱えて電気や通信といった「単なる従来技術の改良」では生み出せない製品・サービスを作り出したし、もう一方では国家が産業そして軍事における競争力の確保のために科学を抱き込み発展させていったという。

それは科学が分業化・専門化し→制度化し→広域化そして全域化し→その結果としてそれ自体が公害や大事故といったリスクの源になる(再帰-化っていったらいいのか)までの軌跡。科学もまたご多分に漏れず近代化のセオリーと寝ていたのだ。なんてこの本は言ってないけど。

2012年03月18日

夢よりも深い覚醒へ

■大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ―3.11後の哲学』岩波新書、2012年。

ここ1年に限らず、弊管理人の周囲に常にあった疑問に(1)「なぜ、日本は核の怖さを知っているのに原子力発電をこれほど歓迎してきたのか」というものと(2)「未来の世代に対する倫理をどう考えたらいいのか」というものがありました。
3.11を「きっかけ」にしてそれらの疑問は切実に迫った。そうした思いがひりひりしているうちに書かれた文章がこれ。

神のいなくなった時代にピンチヒッターの役割をどんな存在にやってもらうか、といういつもの問題意識が底にあり、最後に少しその具体的な提案がついてます。
第三者の審級(集団としての意思決定)←媒介者(弁護士のように一方の側に立つのではなく、ただ聞き、理解する役)←(個別の利害を)訴え出る人、という直線的に並んだ3者構造による意思決定。
(「内輪の議論ばっかやってんなよ、みんなの前でもそれ言えますか、アンタ」という、ナイーヴな熟議への批判をやっているという点では、直接の言及はありませんが、『一般意志2.0』に触発されているようにも見えます。)
しかし、媒介者がうまく丸め込まれてしまう(まさにマスメディアのように)危険性というのはないのか。この構造があったとしたら3.11の準カタストロフを未遂に終わらせることはできたのか。と、新しい疑問を背負わされて読書が終わる。ひょっとしたらもう一度読む。

↓あと最近これも読んだ。
■八木沢敬『分析哲学入門』講談社選書メチエ、2011年。

2012年03月04日

光より速い

■『現代思想』Vol.40-1、青土社、2012年。

1月号の特集は、光より速いニュートリノの話。

門外漢と専門家が対談しながら
門外漢「ね、先生、『タイムマシンができるかも』とかいっちゃって、日本のマスコミってバカですよね。外国のサイエンスジャーナリストは知識もあって素晴らしいのに」
専門家「いやー、でもねー、これだけ素粒子物理が一般の人の目に触れるようなニュースになったことって、そうそうなかったと思うんですよー」
みたいなくだりが。

しかし、ビッグサイエンスの人の視点って、わりとこうだなあと思い当たる。
ひとつは公費をものすごく使って研究をやっているということ、もうひとつは門外漢の想像を超えた世界(11次元とかだよ!)を扱っていること、おそらくはそれらがあるために、細かい話はもう抜きにしてでも自分たちが何をやっているのかを分かりやすく一般に伝えたいというマインドの高い人(面白いんだよ実はこれ、というコミュニケーション)、あるいは一般に伝えなければならない場に立たされる機会(研究費の維持・獲得のため)が多い人が結構いるような気がする。
騒がれ方が妥当かそうじゃないかはもちろん大切なことだけれども、それ以上に、そうした人たちが自分たちの領域が社会で一定以上の注目を浴びたことにちょっとした感慨を抱いている、そんな様子。あー、医科学あたりの人と対照的かもとか(略

それはそうと、物理の「中の人」かつOPERA実験の「外の人」が今回のように「とても綿密に検討された上ですごく変な結果が出てきた」ような出来事をどう受け止めるか、わりと長々と語る貴重な企画だと思いました。「それでも機器がおかしいんだろう」から「定説の拡張で済むんじゃない?」、果ては「相当数の理論が棄却されるかも」まで幅があるのが興味深い。
想像だけですが、理論の人は実験の人の「外側」にいるし、大型加速器なんかで行われる「世界で私しかやってない」実験に至っては大半の人が「外の人」(追試さえおいそれとできない)なので、同じ「素粒子物理の中の人」が語っていてもどこか野次馬的というか、面白がってる感じがある。あ、「これって僕の業績につなげられるかな?」という反応もありますね。

ちょうど読んでいる間に「なんか実験装置上のミスがあったっぽい」というニュースも入ってきて「なあんだ」となりかけましたが、まだまだホットな話題ですね。

2012年02月27日

ゲノムサイエンス

■榊佳之『ゲノムサイエンス』講談社ブルーバックス、2007年。

ヒトゲノムの全配列決定をめぐる競争の緊張感が伝わってくる。
その後、この成果が何に使われているかの解説もうれしい。
中にいた人だからこそ描けるゲノム研究史。
情報量はすごく多いですが、注意深く読めば分かります。
「○○疾患の遺伝子を特定 △△大チーム」とかいう記事の背景は知っていて損はないです。

2012年02月22日

ハワイの歴史と文化

■矢口祐人『ハワイの歴史と文化』中公新書、2002年。

1月の訪米の最後にハワイに寄ったとき、日本人観光客や、それをあてこんだセールスあれこれ、リゾートホテル、夜中まであいてるブランドショップの狭間、そして仕事先の日本風の名字の人たち、郊外のお寺、「バターもち」という名の変な食べ物、その他ふと訪れた郊外の至る所に「何か気になるネイティヴ・ハワイアンとか昔の日本人の残り香」というのがあって、それこそ何か読んであれらが何だったのか分からないと気持ち悪い!という体験をしました。
帰国して真っ先に思い浮かんだのがこの著者です。初めてお話を聞いたのは、もう14年前になりますか。

日本人はまずサトウキビ農園の労働者として移住。そうした人たちは他にもさまざまな国から来ていて、白人の農場主は彼らが団結しないよう分断統治しながら安く使った。偏見に晒されながらハワイ人、米国人としてのアイデンティティを形成するなかで起きたパールハーバー急襲は、外からの偏見と米国人としてのアイデンティティをふたつながら強めるきっかけとなったようです。
戦後のハワイは観光立国。砂浜と青空とフラダンスの国、その裏で忘れられかける「古典のフラ」。土地を乗っ取られ、血は混ざり、文化は潜行し、そして恢復に向かうネイティヴ・ハワイアンの地位。

いや、概観するにはとてもいい本です。ブックガイドも親切。
この新書を足がかりに、最近この著者がまた出された本や、もっと特定のトピックを扱ったものに進んでみようと思ってます。

2012年02月12日

漢方

■渡辺賢治『日本人が知らない漢方の力』祥伝社新書、2012年。

2012年02月10日

暇倫

■國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、2011年。

去年かなり話題になった本。会社の方にお借りしまして。

    終わらない日常を生きるにあたって、趣味を持とうぜ

ということだと思うのですが、どうか。
ていうか、ここに到達するまでの整理が熱くていろいろ重要なことを言っている(=道のりをたどることのほうが重要な)ので、↑に書いた弊管理人のはしたないまとめにめげずに手に取ってみるといいと思います。
内容に関連したことは弊サイトのあちこちに書いてありますので、あえてここはこれだけ。

2012年02月02日

呪いの時代

■内田樹『呪いの時代』新潮社、2011年。

ある方からの「超絶面白い」との薦めで購入しましたが。

現代日本のナルシシズムを叱る。
卑しい者を斬る手つきが冷たい。
勘のよい人の文章。
でも雑誌連載のように時々読むくらいが弊管理人には合う。

2012年01月03日

1億3000万人の自然エネルギー

■飯田哲也『1億3000万人の自然エネルギー』講談社、2011年。

・「脱原発っていうけど、代替案あんのかよー」という不安には「もうやってるところがあるのだよ」と教えてあげるのが一番いいですよね。それをやっている。
・長さ、具体性、レイアウト。これはまさしく「マニフェスト」だな。すぐ読めます。

2012年01月02日

科学的思考

■戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』NHK出版新書、2011年。

せっかく冬休みに入ってるのに、いろいろ思い出すような本を読みたくないんですけど
……と思いながらも信頼できる筋からの強い押しがあって帰省中に始めた2011年最後の読書。確かにいい本だった、これ。

[自然]科学って一体何をやっているの?という疑問に答える第Ⅰ部は、科学史・科学哲学(ちなみに、このナカポツで結ばれたふたつの分野は決して切り離せないんだなあという思いも強くしてくれるパートです)の代表的なトピックの紹介や、科学と疑似科学を分けるもの(科学を科学っぽくしているもの)とは何かについての考察など。説明するってどういうこと?仮説はどうやって立てる?それをどう検証する?

第Ⅱ部では、シロウトと科学はどうつきあっているの?/いくの?という科学技術社会論(STS)的な視点から、「科学リテラシー」と呼ばれているものの正体を追い詰めていきます。主にダシになっているのは、昨年の原発事故をはじめとした原子力・放射線関係の話題。

科学論についての一般人向けの講義をもとにしたそう。「新書っつってもこれくらい分かるでしょ」と説明を怠ったまま――あるいはヘタクソな説明つきで――専門用語を使って読者を置いてきぼりにすることがない。章の終わりには練習問題と、箇条書きのまとめがついていて、「わかったー?」と一度振り返ってから次に進んでくれる。章と章がちゃんとつながっていて道に迷わない。「次はこれなんか読むといいよ」というお土産的ブックガイドもつけてある。

”光より速い”ニュートリノとか、低線量被ばくの危険性とかいった個別の事象について、百家争鳴のツイートを追いかけたり一喜一憂したりするのに疲れたとき、一歩退いて「そもそもの仕組み」を知ることができたらもうちょっと落ち着いて考えられるのに、と思うでしょう。ていうか、昨年ほど多くの人がそう思った年はなかったのでは。だからこういう本が必要とされたし、最初に手に取る本として十二分に役割を果たしたのだろうと思います。おすすめだ、おすすめ。

【追記】関係ないけど、
120102loverslockcafe.jpg
今日は前から入ってみようと思っていた新宿のラバーズロックカフェで昼飯を食いました。
ロコモコ。飲み物ついて950円ならまあお値打ちではないだろうか。
まわりの女子たちはタコライス食ってました。
甘いもののラインナップがおいしそうだったので、今度はお茶しに来てみようっと。

2011年12月30日

市民政府論

■ロック(角田安正訳)『市民政府論』光文社古典新訳文庫、2011年。

中学の社会科の教科書で初めて見てから20年。やっとこ読みました。サーセン

社会契約論の古典。
人は自然状態(法の下に置かれていない状態)では、もともと持っている生命や財産に関する権利や自由をうまく守れない。ちょっと腕っぷしの強い他人に侵害されても訴え出る先がなくて、結局自由が小さくなってしまう。
そこで、何人かが集まって、自分たちが持っている権利を拠出して政府を作る。立法部は法律を作り、行政をやる人たちはその法に従って社会を運営していくことで、安定した状態をやっと達成することができる。
ところが、権力を預けられた部門を仕切っている人(国王だったり、合議体だったり)はしばしば、自分たちの好きなように国を運営し、そこで暮らす国民の生命や財産を好きなように簒奪しようとすることがある。
もともと、国ができたのは個々人が自分たちの生命や財産を守るためだったので、この大目的に反するような政府に対して国民は抵抗したり、政府を取り替えることができる。信任を失った政府はもう政府ではなくゴミだ。だから捨てちゃっていいのだ。それは「叛逆」と呼ばれるかもしれないが、神の前では罪ではない。

……といっても、これは単なる檄文ではなく、いろいろな批判を予想して再反論を展開しています。
「社会の最初に契約があったなんて記録は残ってねえじゃんよ」という批判が一番典型的ですが、これには「あったよ」と反論しています(ただし訳者も言っているように、ちょい苦しい)。
また、「政府転覆できるんだったら社会は不安定になっちゃうじゃん」という批判に対しては特に言葉を尽くして答えています。「Aさんが何かで政府に対して腹を立てた、というだけでは国民としての抵抗につながらないし、そもそも国民って相当耐え忍んでしまう性質があるので、いつも不安定になってしまう心配はない。政府の側にとっても、国民の生命と財産を侵害しないという簡単な原則を守るだけで安定が保たれるなんていい話じゃないか」みたいなことを言う。

それにしてもいったいこの人は何と戦っていたのか。それには訳者の解説が参考になります。
筆者は学生時代に清教徒革命を経験。壮年期に書いたこの本は名誉革命の支柱となったようです。イギリスがどうも落ち着かない17世紀において、王党派によってゾンビのように蘇らされた王権神授説+絶対王政の芽を丹念に潰し、立憲主義の優位を説く。こうした差し迫った背景が筆致に熱をこもらせ(訳もいい)、アメリカの独立やフランスの革命、そして現代のリバタリアンにまでつながるほどの影響力を持たせたのかなあと想像したりします。
この文章の中では既に、国と国の間はいまだに「自然状態」だと指摘されています。神の座が空席になっている現代において、どう「国家-間-社会」を構想するだろうか。筆者に聞いてみたい。

2011年12月17日

エネルギーを考える新書2冊

■飯田哲也『エネルギー進化論―「第4の革命」が日本を変える』ちくま新書、2011年。
■長谷川公一『脱原子力社会へ―電力をグリーン化する』岩波新書、2011年。

「原発」はまだましとして、話が環境とエネルギーとかいって広くなると、技術と政策と社会の話が混ざり合って、重要なのにとっかかりが得にくい、厄介な分野だというのが弊管理人の認識でした。各地の先進事例とかの紹介を読むと「へえすごいね」と思うが自分の生活にどう結び付くかとはちょっと断絶してる感じ。次世代のエネルギーや蓄電池の技術開発が語られるとなんか夢っぽくていつ実現する話ですかって思う。政策やイデオロギーはどの立ち位置から論じるにしても相手をぶったたこうという気迫がすごくて怯える。

しかし、だんだんこういう話も勉強しなきゃいけない状況になってきた。そこでまずは頻出語彙を確認するために新書を、しかも3.11以降ににわかに登場した人じゃなくて、かつ比較的穏やかに書いているっぽい人のを。と手に取ったのがこれら。長谷川本は原発事故の状況を説明した最初のほうにいくつも事実関係の怪しい個所があって読む気がメゲかけましたが、頑張って読んでいたら乗り切れました。

飯田さんは技術方面出身で政策に切り込んできた人、長谷川さんは社会学(社会運動研究)から入って脱原発をずっと言ってきた人。80年代には始まっていた世界の脱原発、サクラメント電力公社の原発閉鎖、固定価格買い取り制度、飯田市のおひさま太陽光発電所、発電としての節電、そして日本の電源をどう置き換えていくか等々、2人の関心はかなりオーバーラップしつつアプローチが微妙に違うので、この2冊を立て続けに読むという選択は我ながらなかなかよかった。これを足掛かりに各論に入っていければと思います。でも各論かつ非デンパ系の著者によるもので今年の状況を踏まえた本ってそんなに出てるのかな。

それにしても、3.11を「オレの時代が来た日」としてはしたなく歓迎してる感じが染み出てる書き物(「痛ましい災害となった『が』これを『奇貨』として」とか書いちゃうやつ)が意外と多くて、どれだけ正しくてもそれってヒク。上記2冊がそうだと言っているわけではありません。

2011年12月04日

一般意志2.0

■東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』講談社、2011年。

「『動物』の社会」構想。

ネットに絶えず蓄積されていく人々の(自分でも気付いていないような)欲望を収集、解析して可視化する技術が現在、整いつつある。この欲望のデータベースを――250年も前に考えられたルソーの「一般意志」がとうとう顕現したとみて(それを一般意志2.0と名付け)――よりよい社会づくりに活用できないだろうか。

そこで、フロイトの
  「エス(欲望)」←「自我(調整役)」→「超自我(建前)」
という個人の心の見取り図を統治に応用して、
  「一般意志2.0」←「政府2.0」→「熟議」
という形を検討する。つまり、今まで抜けていた左の項(一般意志2.0)を補って、やじろべえを完成させるわけだ。
社会が複雑化しすぎて全体を見渡せる人がいない時代には、一方に「感想くらいしか抱いていない、統治への参加が不活性な、素人」、もう一方に「実際はタコツボだが普遍を装った、ほぼ排他的に統治に参加する、専門家」の極ができてしまう。そこで局所的な利益や声の大小などで政治が進められてしまい、いろいろな歪みが溜まっていく。そんな状況を突破するアイディアがこれらしい。

筆者が考えているのは「よい社会とはどういう状態か」というより、「よい社会をつくる手続きとはどういうものか」であるように見える。複雑な社会で「何が善か」を収斂させるのは難しいものね(にしても、その手続きが正しいことはどうやって確かめるんだろう)。
たしかに最終章ではありうる未来社会をデッサンしているけれど、この位置付けはたぶん「一例」にすぎない。そこでは政府は特定のライフスタイルを優遇するようなコミットメントをすべてやめ、生存のための条件(=あらゆる意味でのセキュリティ)守るだけの最小国家になっているみたいだ。でも、そういう生活の最低保障の内容と境界ってちゃんと定まるのかなあとか、いろいろと疑問は浮かぶ。
そう、この原理にどう肉付けをし、よりシアワセな社会を導くシステムに彫琢していくかを考えることは次のミッションで、そこは読者もアタマつかって考えようぜと言われている感じがした。

読み進めていくと、その都度疑問がでてきたり、「これってあの人の……」といろんな思想家の影がよぎる。そして筆者は次の章ではちゃんとその疑問に答え、種明かしをしてくれる。読者の手を引いて旅路をちゃんと辿らせてくれる、とてもよく構成された本。

2011年11月11日

世論(上)

■ウォルタ・リップマン『世論(上)』岩波文庫、1987年。
(Lippmann, Walter, Public Opinion, The Macmillan Company, 1922.)

私 ― 疑似環境(現実というものの像) ― 環境(ナマの現実)

という構造。疑似環境というのは「ナマの現実」と「私」の間にあるスクリーンで、ここに「(私が直接アクセスできない)ナマの現実」と「私の持っているステレオタイプ」から構成された「現実というものの像」が作られて、これにもとづいて私がいろいろと判断をしたり、これにむけて私がいろいろと行動を起こすわけです。ところが、当然ですが行動の影響は「ナマの現実」のほうに与える。3者の複雑な相互作用。では、そういう疑似環境とかステレオタイプってどういうもんですかね、という考察。

超優秀なのに、大学でも政府でもなくジャーナリズムに行ってしまった当時きっての知識人、いろんなテクストを自在に引っ張りながらお話を進めるその文章がキレイ。主張自体は今から見れば別に斬新というほどでもないので、上巻だけでやめよかなーと途中で思ったのですが、豊富な例示が意外に興味深いのと、下巻もちょっと気になるのでこのあと頑張って読んでみます。
社会現象を個人の心理から説明しようという感じが、時代を感じさせます。

2011年11月05日

科学論の現在

■金森修、中島秀人(編)『科学論の現在』勁草書房、2002年。

学際研究は、オリジナルな方法を求めて深く潜っていこうとしてもあまりスリリングなことになることはなくて(なぜならそれは学際じゃなくて学の仕事だから)、借りてきた方法を道具としてうまく利用し、モノやコトへのオリジナルな着眼を軸にして、人をエッと言わせるストーリーを織り上げるところに面白さがあるのではないかと思います。
しかし一方で、ルポルタージュの海に漕ぎ出す前に、ざっと船(道具)のしつらえを見ておくことも必要。艤装を終えて、港にぷかぷか浮いてる船。この本はそんなあたりの位置にあるのかなと。

科学は、他者として近づいて眺めてるとなかなか面白い。ノーベル賞はわりと予想を当ててる人がいたり、ストックホルムでシンポジウムやるなど大学挙げてプロモーションやってるところがあったり、昔の受賞者が「あいつにはやるな」とか言ってると有力者でも受賞が遠のいたり、受賞有力という情報が駆け巡ると他の賞の受賞が増えてきたり、受賞者が受賞業績以外でもご意見番になっちゃったりする。ガラスの殻に入ったニュータイプの炭疽菌が出た-!と9.11のあと大騒ぎになったものの、10年もしてから「実験室で使ってる混ざりもののない素材で培養してるとガラスの殻は出てこないが、もうちょっと清潔度の低い環境でやるとケイ素を取り込んでガラスの殻を作るみたいです、テヘ」みたいな種明かしがあったりする。政府系研究所の事業仕分けでは「役員これだけ減らします、システム効率化します、研究成果が新聞何紙に載りました」で生き残れる、みたいな〈型〉が形成される。審議会は御用のひとと市民感覚代表のジャーナリストとガス抜き用の反対派を入れて中立寄りの委員長を立てておくとうまく正当性を調達できる。そして、おもちゃのカンヅメ・原発事故。

科学のアゴラでは、思想と社会と政治がドーブツとしての人間の中で混ざり合う。わくわくする。2002年の「科学論の現在」から9年経って、今の「科学論の現在」はどうなってんすかね。大学の講座とかあんまり多くないみたいですが、おもろい成果いっぱい出して元気でいつづけてほしいと願うのであります。

2011年10月29日

もうダマ

■菊地誠ほか『もうダマされないための「科学」講義』光文社新書、2011年。

シノドスの人たちによる科学論講義集。地元図書館から「予約してた本が入ったよ」という報せをもらったので、借りてきて1泊出張の行き帰りで読みました。買わなくてもいいかなと思ったので借りましたが、まあそのとおり借りればいい感じでした(つまらなかったという意味ではない。それなりだが面白かった)。

科学と疑似/ニセ科学の線引きとか、科学報道の足りてないこととか、科学コミュニケーションが「あんたモノを知らないから教えてやるよ」から脱却するにはどうしたらいいかとか、そんなお話。やっぱりScience Studiesは実例に寄り添って展開すると頭に入りますね。これを難しくしたような『科学論の現在』(勁草書房)を並行して読んでたところですが、その理解の助けにもなります。
ところで、この本はかなり配慮されてるほうだと思いますが、報道批判は具体的に問題の記事を特定してやるべきで、「メディアは」とか「マスコミは」というのはなるべく避けたほうがいい。マスコミっていうのは代表者のいない多様性をはらんだ集団だし、メディアっつうとさらに広くなっちゃって話がもやっとしますんでね。

で、別にこれは本の価値を損なうものではないのですが、「斑目春樹」だの「表現系」だの「脅威の生命力」だのといった誤字は恥ずかしいのでちゃんと直してほしい(って前にもこんなこと書いたエントリがあったな)。弊管理人は一時期シノドスのメルマガを購読してたことがありましたが、ほどなくしてやめたのは、あまりに校正が甘くてイライラすることも理由の一つでした。

2011年10月06日

人性論

■ヒューム(土岐邦夫、小西嘉四郎訳)『人性論』中公クラシックス、2010年。

この本には、「人性論」(抄,1739-40)と「原始契約について」(1748)という小論の訳が収録されてます。

いずれにせよ、「それ、ホントにホント?」と疑っていくのがスタイル。

AとBの間に因果関係がある(AによってBが起きる)っていうけど、AだのBだのといったものごとが、「因果関係」という実体めいたものを持っているわけではない。そんなもん、取り出して確認できるものではない。
Aが起きたすぐ後にBが起きる、それがいつも起きることによって、それを経験する「私」の心が慣れて、次にAが起こればBが起きるだろう、と自然に思うようになる。つまり習い性、あるいは「気のせい」、それが因果関係の正体であって、それは「ものごと」ではなくて「私」のほうに帰属してる現象なんだと。

あるいは、政府と、統治される人々の間には社会契約が結ばれているとかいいますけど、そんなもの今まであったためしがないじゃん。
為政者は暴力で実権を握って、臣民が不承不承従ってる間に慣れてきて、秩序になってる。それだけのことじゃないの?

因果関係とか、原始契約とか、そういう五感で感じられるわけでもないのに「ある」と言われてるもの、それってなんか怪しい。「ホント?」って疑ってるうちに、「ある」と言われていたものが崩れ去って、人間の感情とか性質が結局のところ源泉だっていう、身も蓋もない事実が見えてくる。
デカルトも、あれもこれもと疑ってはみたけど、すがれるものが次々否定されていくうちに、会ったこともない「神様」を残したまま打ち止めにしてしまった。でもヒュームはもっと空気読めない人で、神様みたいに世の中がみんな信じなきゃいけないから的に信じてることでも、「それホントじゃない」と思えばその気持ちに正直になって否定する。そういう生真面目なところが弊管理人は好きですし、20世紀には「言葉とモノが一対一で結びついてるなんてウソだよね」と言えるところまでいけた近現代の哲学の原動力だなー、えらいなー、と思ったりしてます。

2011年10月01日

科学読書3つ

重ねがさね思うのですが、こういう本を(仕事ではなく)読む一般人って何を得たくて手に取るのでしょうね。

■朝日新聞大阪本社科学医療グループ『iPS細胞とはなにか』講談社、2011年。

新聞記事の文体を本1冊分読まされるのはキツイ。
でも「ES細胞の倫理問題」なるもの、内外の研究支援態勢、生命科学や臨床への応用ってどうなってるのか、特許競争の状況など、iPS細胞とそれをめぐるポイントはだいたい網羅しているので、「いま」を知るには適した本であろうと思う。
ただしこの本の内容の多くは賞味期限が1年以内。
あとけっこう目立つものを含め誤植がちらほら。ちゃんと校正して世に出そう。70点。

■八代嘉美『増補 iPS細胞』平凡社、2011年。

で、取材ではなく調べもので構成しているのがこちら。
iPS細胞前史と「成り立ちと仕組み」の部分までちゃんと書いている。研究者が書くと、素人の「おっかなびっくり」感がなく比喩や言い換えができていて安定感がある。
2008年に出た増補前の新書は、一般人にわかるように・しかし大切なことは余さず説明しようとするその姿勢にほんとに感銘を受けながら読んだ。
増補はその後の研究の流れの解説がひとつ、あと規制やらお金の話やらがひとつ。やや難しい印象。でもお値打ちに変わりはない。75点。

■吉野彰『リチウムイオン電池物語』シーエムシー出版、2004年。

リチウムイオン電池「が、できるまで」を、開発者が語ったもの。1時間あれば読めます。
ただし、リチウムイオン電池がなぜ欲され(エジソンの時代からあまり変わってないというニカド電池はどこが弱かったのか)、そこにどういう人たちが絡んで正負の電極材料が開発され(オックスフォードででコバルト酸リチウムの正極材料への適格性を見いだした人たちにも苦闘と工夫はあったはず)、どの程度の市場が形成され(いま1兆円規模、2020年には3兆円と言われてますね)、今後どう使われていき(ハイブリッドカーとか自然エネルギーを安定して使うための蓄電池とかか)、そしてどういう限界があるのか(リチウムって高いし安定供給できるかは楽観できないでしょう)、といったあたりにももちっと濃ゆく触れてほしかった。
企業研究者らしく、「特許のツボ」的な話にはかなり力が入ってましたし、ははあと勉強になりました。
そういや、なんで旭化成の研究者が開発したのに商業化したのはソニーなのかね。
偉大な開発者が披露する秘話は貴重なんだけど、もうちょっと編集側がサポートして構成や内容を練ればよかったのに、折角なら。55点。

2011年09月19日

すごい実験

多田将『すごい実験―高校生にもわかる素粒子物理の最前線』イースト・プレス、2011年。

何はともあれ、上の筆者名に貼ったリンクから、ご尊顔を拝んでいただきたい。
この本のカバーが真っ黄色なわけがわかる気がしまいか。

終わりました?では本題に。
ニュートリノっていうとなんか地方都市の街外れにある、無駄にイタリア風な(?)装飾を施したラブホっぽい名前だけど、今年の初夏に(局地的に)話題になったニュースの主役だ。物質を構成する、今のところ分かっている中で最も小さい粒子。

茨城県東海村にある巨大な実験施設でこの粒子をすんごい数作って、ぎゅんぎゅん回しながら加速し、どかんと打ち出す。で、これはものすごく小さいのでまっすぐ地中を通り抜けて、295km離れた岐阜県神岡町にある「スーパーカミオカンデ」を通るんですね。そこでキャッチしてみたら、どうも飛んでる途中で一部、変身しちゃったやつがいたらしい。
ニュートリノには電子、ミュー、タウの3種類があって、今回はミューが(ひょっとしたら途中でタウになって、それから)電子にかわっていたという「兆候」があった。今まで変身するということは分かっていたけれども、ミューが電子になるっていうのは具体的には観測されていなかったので、これはすごい、「兆候」よりもっと確実な「証明された」というレベルまでデータが蓄積すればノーベル賞も!ということになった。これが標記「すごい実験」。

そう言われるとなんかすごいんだけど、どうすごいの?をちゃんと知ろうとすると、素粒子ってなんなのか、素粒子ってどういう性質を持っているのか、それを使った実験ってどういう原理でやってるのか、謎が解けると何が分かるのか、などフツーの人たちが引っかかるいろんなことを解説しなければいけない。それを300ページ余りかけてわかりやすーく講義してくれるのがこの本。今年初めに高校生向けに行われた講義の記録をもとにしていて、図(マンガ)もいっぱいつけてくれているのがパワポ脳にはうれしいです。今まで断片的に聞いていたいろんな言葉が整理されていくのが楽しくて、丸1日で読んだ。

直近に読んだ「でっかいほう(宇宙)」の物理の話とうってかわって、今度は「ちっこいほう(素粒子)」の話。しかし、出てくる単語は驚くほど共通しているんだな。つまり両極限はつながってる。陳腐な連想ですが、よく物理のイロハのイを語るときに出てくるグラショウの「ウロボロスの蛇」の図があらためて思い出されます。

2011年09月17日

インフレーション宇宙論

■佐藤勝彦『インフレーション宇宙論』講談社、2010年。

久しぶりの科学読書。

誕生から137億年。いま宇宙が膨張し続けているということは、さかのぼってみれば始まりは密度と温度が無限に高い1点から始まったってことでしょう。でも、こんな点は物理学の範疇を超えてしまうような存在だ(他にもいくつか不都合がある)。そういう神の領域みたいなのを作るのではなく、なんとか徹頭徹尾、物理学の言葉で説明できないかということで出てきたのが、筆者が80年代に提唱したインフレーション理論。いまではいろんな改良が加えられつつ、宇宙の創生を説明するための標準的な理論になっているらしい。

無の状態から、非常に小さい確率ではあったけれど、ものすごく高いエネルギーをぎゅっと詰め込まれた宇宙が「ぽこっ」と生まれる。そのエネルギーは斥力を持っているので、ほどなく急激に膨張する(「ぽこっ」の10のマイナス36乗秒後から指数関数的に膨らむ=インフレーション)とともに、エネルギーがあらかた熱に変換されてアツアツになる。そのあとは膨張とともに冷却が進み、その過程でガスが凝縮して銀河や銀河団が生まれてくるという。
この「無からぽこっと」の部分がなんとも変な感じなのですが、量子論の考えではそういうことがあるっていうんだから、素人は「そうなんだー」というしかない。

そして(筆者は、予測には証拠がないので科学ではないともいえると言いますが)10の100乗年後までには銀河もブラックホールも蒸発してしまい、冷たくて味気ない宇宙になっているのではないかというシナリオさえ出てくる。そうならない可能性もあるみたいだけど。

理論屋の天才がひねった「こうすればいろんなことが無理なく説明できる」という計算結果を、実証屋が職人技で「そうね、それにはこんな証拠があるね」と援護射撃する、物理学の華麗な分業。ここ100年の宇宙(創生)論の発展がサクッと描かれています。カルチャーセンターでしゃべった内容をもとにした、とても平易な文章です。

2011年09月10日

思想地図β2

■東浩紀編『思想地図β Vol.2』コンテクチュアズ、2011年。

考えるのが仕事の人が、本気出してものを書くと、やっぱりよい。

2011年08月30日

か・てつ

■Samir, Okasha, Philosophy of Science: A Very Short Science, New York: Oxford University Press, 2002.

STSじゃなくて科学哲学のほうのイントロ本では何が紹介されているんだろう?と思って読んでみました。やっぱりクーンはこっちでも重要なのね、ということで科学革命、ちゃんと読もうと。

2011年08月11日

ふしぎなキリスト教

■橋爪大三郎、大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書、2011年。

上司が片付け中のロッカーに入っているのを見つけて
  「それ、面白いらしいですねー」
  「抱腹絶倒。読む?」
  「いいっすかー」
的に貸してもらって読みました。

人の噂とあら探しが大好きで、話してるだけでずしーんと暗い気持ちになる大人が多い弊社ですが、いまいる部はこういう「仕事と関係ない本」を読む人がいたりして、なかなかいいところだと思ってます(でも社内的には嫌な大人たちから袋叩きだったりする)。

内容は、一つのストーリーとしては面白い。
ただし解釈が独特なので安易な引用(つまりこれで分かったと思うこと)には注意が必要かなと。

ところで表紙の著者表記「橋爪大三郎×大澤真幸」なんですけど、これってボーイズラブ的には「タチ×ウ(くだらないので強制終了

2011年08月09日

旅の間に読んだ2冊

■高根正昭『創造の方法学』講談社現代新書、1979年。

いやー、これ多変量解析だからさー、
とか仕事相手に言われてもよく分かんなかったのが、なんとなく分かりましたw

人間や社会について考えるための方法論(学)って何やるにも大切だと思うんですけど、質的/量的研究、実験、参与観察、それらの条件や短所・長所って、ちゃんと習った覚えがない。行ってた大学では1、2年生用に「方法論基礎」っていう授業があったけど、そんなことやってたかな。
15年前に読んでおくべきだった。とてもわかりやすいし、方法論をきちんと勉強しなきゃオリジナルなものなんて作れないなっていうのがビシビシ伝わる。
著者は30年前に若くして亡くなってしまっていたようです。これアップデートしたり続編出したりしてほしかった。とても残念。

■小熊英二『増補改訂 日本という国』イースト・プレス、2011年。

冒頭、福沢諭吉の『学問のすすめ』はサルにも分かるよう書かれたというエピソードが紹介されてますが、著者は「この本もサルにも分かるように書いた」って言いたいんでは……

さておき、よりみちパン!セっていうシリーズの1冊です。明治と昭和と平成のニッポン―アジア・アメリカ関係がもんのすごくコンパクトにまとまってます。新幹線の京都→東京間で読み切るくらい。さっくりまとまりすぎてて「むむ?」っていう部分もあるけど、それはあえて疑問と議論を喚起するためのものだと思っておこう。
ただ、引用もとが示されてない引用多し。註いっぱいにはしたくないシリーズなのかもしんないけど、やっぱりどこから引っ張ってきた言葉かは書いとかないといかんのでは。

2011年08月01日

STSにうもん

■Sismondo, Sergio, An Introduction to Science and Technology Studies, West Sussex: Blackwell Publishing, 2010.

衆目の一致することっていうのは、たいてい意地悪な(?)人文・社会系の人たちの「それホントはちがうんだよー」というツッコミに晒される運命。(自然)科学はそうしたネタの宝庫でもあるらしく、「科学技術社会論(STS)」という一分野までできちゃったということで、その教科書がこの本。

客観的で普遍的な科学的知識、インパクトの証しとしての論文引用数、再現性が担保されてるとか、科学の世界の議論は公平・不偏だとか、まあそういうクリシェをひっくり返すか、少なくともその文脈依存性や社会的に構築されたもの性を示すため、ラボに実例に分け入っていく――そういうことをやってるようです。パラダイムやANT、観察の理論負荷性などの理論や、研究者コミュニティ、ジャーナル、政策決定といったフィールドの紹介に加えて、黄教授のスキャンダル、薬の治験をめぐる問題、チャレンジャー事故など豊富な事例が盛り込まれ、読む人を飽きさせない構成になってると思います。

STS=科学×(歴史+哲学+社会学+人類学)ってところでしょうか。そもそもが( )の中に入ってる学問の応用みたいな分野なのかもしれませんが、最後の章ではSTSの応用として、開発や投資に対するどんな示唆がありうるのか、考えてます。西洋からみれば科学・技術というのは、植民地を経営してきた軍事や資本の礎であり、アフリカや南米のローカル文化(あるいはローカル科学・技術)の土壌にどう根付かせ"発展"を促すかという、現在にもつながる切実な問題の核であり続けてきたのでしょう。こういう視点って、ちょっと日本から見ると新鮮に感じるところかもしれない。余談ですが、エジンバラ大にはまさに「科学・技術と国際開発」を冠したコースなんかもあるんですね。

ところでこの本、けっこう難しい単語も出てくるので辞書は必須。通勤電車でちょっとずつ読んでた弊管理人は、片手で持った状態で親指で操作できて、6000円くらいで買えてジーニアス大英和が入ってるこの電子辞書(wordtank S502)の威力を思い知りましたとさ。

2011年07月18日

世界をやりなおしても生命は生まれるか?

■長沼毅『世界をやりなおしても生命は生まれるか?―生物の本質にせまるメタ生物学講義』朝日出版社、2011年。

ちくしょう、ちくしょう。だって、こんな気になるタイトルを付けられたら読むしかないじゃないか。
四六判・タイトル買い、という失敗パターン(←あくまで弊管理人の個人的ジンクス)が揃ってしまって嫌な予感がしていました。

ところがどっこい、面白かった。
生命科学をやっている広島大の准教授が、広大附属福山高で行った講演と、その後3日間にわたって10人の生徒と行ったセッションの記録。
生命ってなんだべか、という疑問に迫るやり方はいろいろあると思いますが、今回は生命の限界=生命じゃないものとの境界まで行ってみることで本質を発見してみようというアプローチを取られているように見えます。

生徒さんに常識のたがを外して考えてもらおうと、まず「どんな能力でも得られるとしたら、何ができるようになりたいか?どんな形になりたいか?」と聞いてみます。
――頭から生えたタケコプターで空を飛びたい、えら呼吸でずっと水に潜っていたい、高くジャンプしたい、手足を増やしたい、切断されても治癒できる体がいい。実はそんな極端な生物は既に存在していたりして、そんな能力はなんで可能なのか、ぼくたちとどれくらい離れており・どんなところで似ているのか、なんてことを考えてみる。

じゃあ今度は「生物」が共通して持っているとされている特徴を精査しよう。「増える」「食べる/排泄する」「外界と隔てる膜を持っている」。これってどういうことだろうか?また、そうじゃないけど生物だっていえる存在はありうるんだろうか?

では、生物は数式で表せるのか?できるならどの程度までできるのか?大局的にみるとエントロピーが増えていって最後に熱的死に至るであろう宇宙で、生命ってどういう働きを持っているのか?先生が投げかける疑問も自由に飛翔します。

この本の魅力的なところは、生命と生命研究の極北――(ぼくたちからしてみれば)過酷な環境にいる生物のありよう、進化とボディデザイン、人工生命、コンピュータ上での生命の再現など――「えっ」と驚くような事例を豊富に・即妙にちりばめて、読む人の「生命」概念をぐいぐい拡げ、ゆさゆさと動かしていくところだと思います。あと印象的なのは、参加してる高校生たちが、マジデ?って思うくらい優秀なこと。

2011年07月03日

天災と国防

■寺田寅彦『天災と国防』講談社学術文庫、2011年。

3月11日の津波のあとに、ネット界隈で「津浪と人間」という文章が話題になりました。東北の太平洋沿岸は数十年に一度は大きな津波に襲われ苦い思いをして、「ここから下に家を建てるな」みたいな碑が建てられたりしても、やっぱりしばらくすると海辺に人が住んじゃう、これどうしたものかね、というようなお話。それが収録された寺田の災害エッセイ集がこちら。6月に文庫で出ました。

解説は原発事故調の委員長を務めることになった「失敗学」の畑村洋太郎さん。解説の終わりについてる日付が2011年5月になっているところを見ると、委員長就任を打診されたころの文章でしょう。「人は忘れるもの」という寺田のスタンスに共鳴しながら、最悪を想定したシミュレーションを続け備えることと、「災難教育」つまり怖かった記憶を次の一撃まで持続させることの重要性を記しています。また、前提として今回の原発事故に関しては原因究明を責任追及から切り離すべきとの立場を明確にしています。

震災発生以来いろんな本が緊急出版されましたが、自分ルールとして、震災にショックを受けたり脱原発の風にのっかったりして書かれた本は(自分自身の意見と同じか違うかにかかわらず)信用しないことにしてます。今の状況でたとえば脱原発に乗っかるのは、震災前に安全神話に乗っかるのと基本的に心性は一緒だと思われるからです。逆に、震災前から書かれていて、なお今の状況をうまく言い当てている文章は信じてもいいかなという気になってます。というわけで災害関連の本で初めて自腹で買ったのがこれ。80年かそこらで人は変わらんものだな~というのが感想。

2011年06月15日

子供と魔法

■オリヴィエ・ベラミー(藤本優子訳)『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』音楽之友社、2011年。

5月の別府アルゲリッチ音楽祭に出発する少し前、会社の後輩から渡されたこの本に手を付けたのはつい先週末。そこから一気に読み終わりました。

アルゲリッチの初めから今までを、本人というよりは、そのときどきにかかわった人たちの証言をもとにまとめた本。
神童時代、渡欧とコンクール優勝、演奏会のキャンセル、ソロからの退却、音楽祭と、仲間と、親しい人たちとの別離。いろいろな局面を経ても、変わらず第一線で――どころか生ける伝説として――活躍してきた彼女の、危ういが強靱な生の一面を描いていると思います。魔法と/の子供を裡に持ち続けた巨人の姿。

2011年06月07日

普通をだれも教えてくれない

■鷲田清一『新編 普通をだれも教えてくれない』ちくま学芸文庫、2010年。

鷲田さんはいっぱいエッセイを書いていて、ずらっと読んでいくと何回か同じことを書いていることに気付く。
いらいらすることについて何回か同じことを書いていることが多いように思う。
うまくはまると、くすくす笑える。
15年も前の文章はさすがにちょっと古いと感じることもある。

5月のアタマからちょくちょく読んでいて、今日は福岡空港で読み終わりました。

(後日追記)
↑出張から帰ってきてくったくたに疲れているときに書いた文章で、なんかいろいろ変ですが、要は面白かったんです。ええ。

2011年05月31日

神様と神様目線

■デカルト(山田弘明訳)『方法序説』ちくま学芸文庫、2010年。

「我思う、ゆえに我あり」で有名な本ですよね。

いろいろ学校で勉強して、でも飽き足らなくて旅に出て、軍隊に入ったりして、でもやっぱり独りでいろいろ思いをめぐらしていたら、考えがまとまってきました。
生活の上ではなんでもかんでも疑っていたらやっていけないのは分かるけど、学問やるんだったら、絶対確実な前提から出発して、問題をちゃんと切り分けて、コツコツ積み上げていくべきだよ。そのためにはまず疑えるものは全部疑って……最後に残った「どうしても疑えないもの」は、疑ってる当の僕自身の精神だよな。あとそれを保証してるのはやっぱり神様じゃね?
こういう哲学的な基礎があってはじめて自然科学の問題って解けると思う。解剖とかー、解析幾何とかー、地動せt……え?ガリレオがなんかヤバいことになってんの?面倒くさ!まあそれはともかく、人って誰でも神様から理性を分けてもらってるので、ちゃんとやれば誰でも難しいことだって分かるようになると思うわけ。とりあえず僕の成果、本にしとくから、よかったら読んで役立ててちょうだい!

といった内容。論理の飛躍がところどころにあるけど、さまざまな分野の基礎としての数学、部分の積み上げとしての全体、機械のように理解される生体など、いまに至る科学の源流(というか、現代の科学の反省点)を見る思いがします。ハーヴェイとかが同時代の人として出てくるところとか、精神がなくても生き物は動くことがある事例として「切断されてすぐの首が、土を噛むことだってあるでしょ」というスゴイのを挙げるとか、時代を感じさせます(笑)

デカルトの他の著作も自在に引きながら補足説明をしてくれている大量の訳注や訳者解説がとても有用です。テキストの読解ってこうやるんだぜ、みたいな教材にもなりそう。

■大澤真幸 THINKING O 第9号「天皇の謎を解きます」

待ち合わせの時間つぶしに買ったのですが、とうとう待ち人は現れなかった……。

2011年05月15日

珈琲グルメ

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福島駅近くの喫茶店「珈琲グルメ」。
16日付で同じ職場から福島に赴任する先輩と一緒に入りました。
珈琲ババロア!
これで思い残すことはございません。

というわけで、夜までかかった仕事が終わって、最終の新幹線に乗って帰ってきました。
特に売りのない地方都市、福島。まあのんびりしてるし、人混みはないし(でもなぜか歓楽街は大きい)、いいところだとは思います。でもなんか寂しげ。
あー疲れた、あー。
今夜は久しぶりに自分の布団で眠ります。

2011年05月11日

社会契約論

■ルソー(中山元訳)『社会契約論/ジュネーヴ草稿』光文社古典新訳文庫、2008年。

地震のエネルギーによって、ぼくたちがそれ以前とは少し違った世界に連れてこられてしまった、そんな感じのする時間の中でちょこちょこ読んでいたのがこの本でした。世界がちょっと違って見えると、そういえば世界ってどうやってできているんだっけと立ち止まる機会にもなる。地震後はじめての「読んだもの」カテゴリーのエントリーなんですよね、これ。

ばらばらだった個人が、めいめい好きなように自分の持ち物を拡大している状態よりも安全に自分のものが守れる状態(社会)を望んだとき。自分のすべてをいったん拠出して、「私+私+私+……」ではなく「われわれ」という一個の実体(主権者)と、そのルール(一般意志→法)を作り出す。その運用はそれ専門の係(政府)にやらせるが、忘れてはいけないことは、かれら主権者である「われわれ」が雇った運用係に過ぎないということだ。「われわれ」は頻回に会合を開いて、この運用係がちゃんとためになる仕事をしているか、代える必要がないのか吟味することになるという。
その展開はまるで、初期値(人間の生まれ持っている性質)と原理(主権とか一般とかいった言葉の定義)を決めて、よい社会を導くシミュレーション。

とにかくいろんなことが書いてある本です。多くの記述がいまだ古びておらず、いまのぼくたちを取り巻く政治体制や他の国のことなどと比べながら読まされてしまいます。

100ページにおよぶ訳者解説がついているので、解説→本文→解説と読むと味が出るかも。今年、個人的にやってる「恥ずかしながら今ごろ古典を読むキャンペーン」は続く。

2011年03月09日

プロタゴラス

■プラトン(中澤務訳)『プロタゴラス―あるソフィストとの対話』光文社古典新訳文庫、2010年。

この文庫、評判いいようです。新書がなんだか興味の惹かれないタイトルばかりになってきてしまった今、読んどかないと始まらないけど訳文が古かったりやたら格調高かったりしてイマイチ手が出なかった古典を「読みやすく」訳し直す、というのは商売的にもいい着眼だと思う。

さて、サンデル先生が東大に来る!とかいって見に行く市井読書家よろしく、プロタゴラスが近所に来てる!といって興奮するミーハー坊っちゃんのヒポクラテス君(同名だが医者のほうではない)に連れられて、プロタゴラスに会いに行ったソクラテスが「徳(アレテー。知恵、節度、勇気……など人間の持ちうる美点)は他人に教えてあげられるものなのか?」をめぐって論戦を繰り広げる様子を描いたもの。

ただし、読み通しても、当初の問いに対して「これが決定版」という答えは書いてありません。

当代一流のソフィスト(弁論の先生=金をもらって徳を教える商売の人)であるプロタゴラスと、「徳を教えてあげよう、なんて軽々しく言うのってなんかウソくさい、自分には知らないことがあるということをちゃんと分かっているのが本当の知識ちゃうんか」というひねくれソクラテスが論争をし、最後はソクラテスがプロタゴラスを黙らせちゃう。ところがソクラテスが至った結論は「徳は教えられる」という、当初の考えとは逆のものだった、というどんでん返し。

この過程を辿りながら、現代の読者たちは「この部分ってごまかしてない?」「あ、変な議論が挟まった!」などと思わずツッコミながら読んでしまいますが、その「読み考える過程」がまさにソクラテスの考える哲学というもののあり方を体現してしまう、というトリック。それを楽しむ本なのだと思います。トリビアのようなものを得るのではなくね。

2011年03月06日

すべてはどのように終わるのか

■クリス・インピー(小野木明恵訳)『すべてはどのように終わるのか―あなたの死から宇宙の最後まで』早川書房、2011年。

宇宙物理学の研究者による、「終わり」の話。生物個体の終わり、人類の終わり、生態系の終わり、太陽系の終わり、銀河の終わり、そして宇宙の終わりが、どのようなものになるのか。
この手の舶来科学読み物って、何かのテーマについての始まりから今までを辿るようなものが多いのですが、本書はさらにそれが「どう終わるのか」についてまで視点を拡げているところが特徴的かと思います。
面白いけど、ちょっと詰め込みすぎの感がありました(特にご専門の宇宙に入ってから)。

2011年02月18日

悲しき熱帯Ⅱ

■クロード・レヴィ=ストロース(川田順造訳)『悲しき熱帯Ⅱ』中公クラシックス、2001年。
Ⅰの日記はこっち(大したこと書いてないけど)。

「私は旅や探検家が嫌いだ」という印象的な一文で始まった長い長い紀行文の最終盤で、読者は次の謎解きのような記述に突き当たります。

このように論を進める[未開の社会もわれわれの社会も、全面的に善だったり悪だったりすることもないし、それらを包むより広い文脈の中に位置づけることで絶対的に違うことにもならないとする]ことは、あれこれの部族の「野蛮な」仕来りへの想いを掻き立てられて陶然となる旅行譚愛好者を戸惑わせるだろう(Ⅱ、p.375)

最初の一文がはっと思い出されます。

「われわれ」が「野蛮」に差し向ける好奇の視線、進んだ/遅れたという区別を二つの社会の間に厳然と置きながらファンタジーを消費する態度へのアンチが、あの最初の一文を書かせたのではないでしょうか。そして自分が書こうとする旅行譚もまた、そんな視線を喜ばせるようなことになりかねないのだと。なにより、南米と亜大陸というふたつの熱帯に漂う悲しさは、そのかなりの部分が「われわれ」による蹂躙によってもたらされているのだと。

Ⅰに続いて、民族学者(そういや文化人類学っていう言葉はこの本に出てこないね)の鋭い目を通して書かれたインディオ諸部族の記録はとても読み応えがあります。
さらにその目は「われわれの社会」の近未来(中公クラシックスを読んでる者の同時代)までも見透しているように感じます。
最後のほうには、社会に対する脅威を無力化するときに「食べる(食人の慣行がある)社会」と、「吐き出す(隔離する=われわれの)社会」を対比していますが、弊管理人はこのくだりで、ジョック・ヤングが現代社会の排除のありようを形容するのに使った「過剰包摂(bulimia=過食症=食っては吐く=次々と差異を包摂していく一方で排除されるべき脅威を作り続ける)」というアイディアの源流を見た気がしました。
さらに、世界を部分に解体しながらフラット化し、熱死に向かって突き進む現代に対する批判は『無痛文明論』の到来をほのめかしているようにも思えてしまいます。思えてしまいませんか?そうでもない?(笑)

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余談。父親59才の誕生日です。オメデトウ父!オカンを追い越しちゃったね(;_;)

2011年02月10日

AR

■丸子かおり『AR〈拡張現実〉入門』アスキー新書、2010年。

科学読書。
まあ対象が対象なので仕方ないことなのだろうけど、ググれば出てくるくらいの情報でした。

2011年01月30日

悲しき熱帯Ⅰ

■クロード・レヴィ=ストロース(川田順造訳)『悲しき熱帯Ⅰ』中公クラシックス、2001年。

今ごろ読んどんのかい、という声もありましょうが(でも今年はあと何回かこういうお叱りを受けるような読書をしたい)、通勤電車で今月前半からちょこちょこ読んでました。
よく知らないで学術書かと思ってとりかかったら、しばらくはまるっきり紀行文。で、終盤にさしかかってあっあっ本題に入ったっぽい!と思ったらⅡに続く(笑)
でも、目の前で起きていることの後ろにあるものを見通すセンスがほとばしっているのがビシビシと伝わってくる、凄みのある文章です。

それにしても原文の力もあるのかもしれませんが、訳がいいなー、つうかすげえなー。
訳すほうも博覧強記じゃないと追いつかないと思う。

感想文もⅡに続く!(いつになるやら)

2011年01月24日

巨大翼竜は飛べたのか

■佐藤克文『巨大翼竜は飛べたのか―スケールと行動の動物学』平凡社新書、2011年。

データロガーという装置があります。動物の体に取り付けて、向いている方角や動きのスピードなどを記録するもの。水棲哺乳類とか鳥といった、直接行動を観察するのが困難な動物をふん捕まえて装置を取り付け、放して、機器をまた回収。そこに入っているデータを解析すれば、一体かれらが海や空で何をしているのかがわかる、というシロモノ。

著者とそのお弟子さんたちは、ペンギンだのウミガメだのミズナギドリだの、いろいろな動物にデータロガーをつけてその体のスケールと行動の関係を考察してきました。その成果のひとつとして、空に生きている動物たち(鳥)には、持続的に飛び続けられる「体型」にある制限があることがわかってきます。

さらに、それを既に滅びてしまった中生代の空飛ぶ爬虫類「翼竜」にあてはめてみると、現在推定されている体重と翼開長が正しかったとすれば、長い時間飛ぶことができない体だったという結論が必然的に導かれてしまう。
2009年にそうした論文を発表すると、ネット界隈でものすごく叩かれたらしい。それじゃあ解説いたしやしょう、というのがこの本。

恐竜の姿とかって、化石などの手掛かりをもとに、現生生物を参考にしながら「うーん、こんなもんだろう」と復元していくしかないわけです。少し時代をさかのぼるとその方法もかなり適当だったこともあるようですが、最近の古生物学者の中には、足いっぽんでも正確に復元するため、機能と形態について徹底的に研究している人たちが多い。
「飛び続けられない翼竜」説についても、それは完全に正しいかもしれないし、現在推定されている体重や翼長が間違っているのかもしれない。あるいは古代の環境のほうが何か違ったのかもしれないし、ひょっとしたらこの説を支えている前提を堀崩す何らかの発見されていない事実があるのかもしれない。いずれにしても、筆者らの研究が古生物の復元にあたって考えなければならない一つの面を提示しえたといえると思います。
徹頭徹尾、法則に従いながら、しかしその法則をなかなか明らかにしてくれない自然の謎掛けに挑戦する。そんな科学者のお仕事。

2011年01月13日

無痛文明論

■森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003年。

前々から気になっていて、でもけっこう大部なので年末年始を利用して読みましょ、と思ったらわりと時間かかってしまいました。

苦痛を避け、快楽を求める「身体の欲望」を持った個人が集まると、その欲望は単なる足し算を越えて一個の実体を形成し、そうした欲望をかなえるためのモノや制度を次々と生み出していく。
たとえばあらかじめ障害の有無を調べ、中絶によって親が負担を回避することさえ可能にする出生前診断や胎児条項、暴れる程度さえ管理された自然・ビオトープ、そして快適追求テクノロジーの集積としての大都市……。そうしたものの総体「無痛文明」は、構造の安定性を志向し、しかしすきあらば拡張しようとし、そのために誰かが犠牲になることを厭わない。無痛文明はまた、それを生み出した個人たちにむけて再び貫入し、欲望によってエネルギーを与えられ、そして強化されていく。
その渦に巻き込まれ/構成する個人たちの姿は、栄養と薬をチューブで与えられながら温度と湿度を調節された部屋ですやすやと昏睡する患者を連想させる。まるで生きながら死んでいるかのようだ。

筆者はそうした「無痛文明」に対して宣戦布告する。
なぜ人びとがコストと時間をかけて求め築いてきたそれを否定しなければならないのか。それは、無痛文明を生きるということはウソの人生を生きるということだからであり、無痛文明を解体することは、世界を十全に味わい、「悔いのない人生を生きる」ことなのだという。

では、どう戦うのか。
いろいろ書かれているが、弊管理人なりにまとめれば、無痛文明のありようを知り、告発し、さらにそれが自分の中にもあることを知り、告発し、それと向き合い、逆用するという運動を繰り広げていくことなのだと思う。

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2010年12月30日

医療倫理

■T. Hope, MEDICAL ETHICS: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2004.

このあいだの地理学の本といっしょに買ったやつです。
問題を分析する、調べものをする、思考実験を試みる。こうしたことを必要なだけやってやっと哲学になるんだよー、ということを、安楽死/尊厳死、医療政策の立案、生殖補助医療と「まだ生まれていない存在」に対する倫理、精神障害者を特別扱いするべきか、出生前診断と情報へのアクセス権、途上国での治験にも透けて見える南北問題、といったケースに即して教えてくれる本です。

いっこ前のエントリーで、パイが大きくならない時代の配分のあり方についてちょっと触れましたが、実はそれを書いた時って、この本のあるパートに「資源が限られている場合、命に関わる分野で誰かのためにお金を使うということは、別の誰かの命を削ることである」という至極そのとおりなくだりを見つけて、それがずーんと重く響いていたときでもあったわけです。

(そういや今年、日本で〈正義〉の話をするのが流行ったのはなんでかというと、お金を含めたいろんな「リソース」がふんだんにある時代がいよいよ完全に終わってもう戻って来ないと思われている中で、じゃあどう分けたらいいのかということにみんな潜在的に関心を持っていたからじゃないかと弊管理人は思っているんですが)

構成だけでなく言葉遣いも平易です。高校生の副読本にも使えるかもしんない。

2010年12月10日

「正義」について論じます

なんか周辺でわりと話題になっていた大澤真幸さんの個人誌『THINKING 「O」』の第8号。宮台真司さんとの対談と、大澤さんの論文を収録。

去年、政権党のトップ=総理大臣が所信表明演説の中で使ったキャッチフレーズ「居場所と出番」「新しい公共」を聞いて、「おお、社会的包摂に本腰を入れるのだね」と援護射撃を始めようとした人たちもいれば、政治家ふぜいが思想家の真似事しやがってと冷笑した人たちもいたかと記憶してます。
いずれにしてもなんだか遠い昔の出来事のような感じがする。相変わらず政府の側は社会の隅々までコントロールを保持しようとしており、民の側は自分のところにお金を引っ張ってきつつ責任は政府に押しつけようとしているように見えます。そしてそれを取り巻く環境の認識は「鎖国か開国か」みたいなところにまだとどまっているよう。
そんではその、現実においてはまだ実験さえ始まっていない(か、よく見えるようになってない)共同体の再創出と、共同体のお外とのつきあい方、それはいったいどんな姿をしているのか、あるいはいったいどんな条件が必要なのかしら。
そんなことを考えながら読んだらええのかなと思います。

2010年12月04日

地理

■J. A. Matthews and D. T. Herbert, GEOGRAPHY: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2008.

同じ学部にあるあの人文地理学ってなんだろなー
なんで理学部にも地理学科があるんだろなー

と、高校の社会科で地理を選択しなかった弊管理人は学生時代に思っておりました。

さらに、働き始めてからも、汐留の高層ビル群が都心にヒートアイランド現象をもたらしているのではないか、というニュースの中で、専門家として地理学の先生がコメントしていたのにも「なんで地理?」とひっかかっていました。

そこでまあ、「なんなの、これ」程度の疑問なので、Amazonでは1000円以下(なんと11月初めには円高のせいか700円台だった。新宿のジュンク堂ではもうちょっと高かった)で買えるこのVery Short Introductionsシリーズにお伺いを立てたわけです。

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で、ざっというと、
地理学とは「空間、場所、環境に関する探究」であるということ。自然地理学は地表のちょっと下からちょっと上までを研究対象とし(下から上に地質、生態、気象のイメージ)、人文地理学は「場所」という視点から人間の活動を考える(社会、政治、経済、表象、歴史……)。
近代的な地理学の歴史は、世界が広くなった19世紀、「どこに何があるか」という探検と植民地支配のツールとしての地図作りに端を発して→上記のような専門分化、量的・質的といった手法の分化でどんどん細かく分かれ→最近はまた統合・学際領域としてのアイデンティティを探ってます、みたいなものらしい。
たとえばエル・ニーニョがどこにどういう影響を及ぼすかとか、イースター島だけがなんで不毛の地になっちゃったのとか、氷期と間氷期ってどういうサイクルで来てるのとか、環境変動に人間活動の影響ってどの程度あるのとか、犯罪の多い地域って他と何が違っているのとか、住民は「地元」ってどこまでのことだと思っているのかとか、ある地域にどんな人がどんな配置で暮らしているのかとか、そんなことを考えたりしている。
手法はフィールドワークだったり統計分析だったり衛星画像の分析だったりインタビュー調査だったりコンピュータによるモデリングだったり、それらの組み合わせだったりと、いろいろ。

でもさあ、これだけ多様だと、そのうち気象学だったり情報学だったり、文学や政策科学だったりといった他領域と差別化できる「何か」(方法?)を持った領域たちに八つ裂きに持って行かれてなくなっちゃうんじゃないかなあ、なんてモヤモヤしながら読んでました(筆者もそういう感じは持っていて、それなりの解答は与えてます)。

構成はすんごくしっかりしてるので読みやすかったです。

2010年11月11日

行動経済学

■友野典男『行動経済学―経済は「感情」で動いている』光文社新書、2006年。

情報も時間も限られた中でいろんなことをサクサク判断していかなきゃいけない、というのは生きるにおいてよくあることです。人は自分の経験や現状に引きずられ、冒険を避け、ずるい人にイラっとしたり、いいことをして良い気分になったりしながらいろんな選択をこなし、多くの場合はそれでうまくいき、しかし時々間違えたり騙されたりするわけです。
そうした心の構造がわかってみると、感情を持った「現実にいる人」というのが、ただ自分の利益を最大化しようと行動するだけの「経済人」とどれほど違うかが定量的にわかってくる。
多くのトピックと例示を使って、心理学と経済学の幸せな結婚を垣間見せてくれる、そんなよくできた本です。

ふむふむと読んでいると、政策的な含意もいっぱい浮かんでくると思います。
人の心に損失を利得より過大評価するという傾向があるとすれば、私刑を許すと必然的に復讐の連鎖を引き起こすことがわかりますし、年収350万円が400万円になる人生が、年収500万円が450万円になる人生よりうれしいなら、なんで超低成長時代が落ち着いた気分ではなく悶々とした気分を蔓延させるのか腑に落ちる気がします。

閑話。
いつかの集まりで、社会学の人がうっかり「経済学は合理的なプレイヤーを想定していますが、実際はもちろんそうなってなんかいないわけで」と口走ったところ、経済学の人が「そんなことくらい社会科学の女王たる経済学は既に織り込んでます」とツッコムというアレレなやりとりがあり、かばんの中に読みさしのこの本を持っていた自分は梅干しを食べたような顔をしながら見ておりましたのでした。休題しないまま終わり。

2010年10月23日

いのちの選択

■小松美彦、市野川容孝、田中智彦編『いのちの選択―今、考えたい脳死・臓器移植』岩波ブックレット、2010年。

臓器移植に関連する本の中でもこの本は最もコンパクトで情報量の豊かなハンドブックのひとつといっていいでしょう。09年の法改正の過程まで盛り込んだ本自体があまり多くないと思いますし。

脳死は人の死なのか、現行の脳死判定基準はそれでいいのか、臓器移植はレシピエント(移植を受ける人)の命を救うのか、救うとすれば唯一の道なのか。こうした問いにすべて「イエス」と答える声なら関連学会のえらいひとたちのうち誰に聞いても簡単に返ってきますが、逆に、「ノー」とおおっぴらに(←ここ重要)言える人は現場のことをよく知っている医療者の中には少ない。門外漢でその専門性の高い分野についてもの申す人もまた多くない。

そんななかで、「この現在進行形の問題に直面して何も言わない応用倫理学なんて、ねえw」とばかりに哲学、社会学のひとたちが切り込んだ意欲作です。基本的に脳死・臓器移植に対しては慎重・反対の論調ですが、報道、行政、医療の各界でもっとも普段から流通しているのは推進・せいぜい中立の立場からの言説なので、やっとまともにバランスを取れる本が出てきたという感じ。

2010年10月12日

世界がわかる宗教社会学入門

■橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』ちくま文庫、2006年。

読みました。

2010年09月28日

世界リスク社会論

■ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊』ちくま学芸文庫、2010年。

読んだ。

2010年09月24日

サブカルチャー神話解体

■宮台真司、石原英樹、大塚明子『増補サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』2007年、ちくま文庫。

1993年に出版されたものの再刊となる本書を、2007年の刊行と(たしか)ほぼ同時に買って、ちびっと読んでは本棚に置き、また電車でしばらく読んでは本棚に置き、を繰り返してようやく読み終わりました。なにしろ550ページあるんですよ。
少女マンガ・音楽・性、の、70-80年代、を中心として、ものすごい物量と駆動力で読み解いていく本でして、その密度(1冊にいろんなことが書いてある度)からしてこんなところに要約を書けるものではございやせん。そのかわり何かほとばしってる若い俊英の風圧をびしびしと感じたということだけは書いておきます。

この増補版には初刊から14年を経て宮台さんが寄せた新しいあとがきと、たぶんそのあとがきまで含めて本書を読んでから書いたと思われる上野千鶴子さんの解説がついています。特に「この本には分析方法の開示が欠けている」と指弾しながらも、才気走る文章の全体と時代を見抜く目の鋭さを評価するあたり、そして「さてオッサンになって時代から遅れ始めた宮台はこれから何を見せてくれるのかね」と挑発混じりに期待してみせるあたり、気持ち悪い(いい意味で)愛を見た気がします。なにしろ弊管理人はこの解説に触発されて、15年くらい前――当時ブルセラやらオウムやらについて発言していた宮台さんについて「いいけど、あと10年同じことをやっていたらバカ」とやはり上野さんがどこかで評していたことがうっすら思い出され、その気持ち悪い(いい意味で)愛の持続ぶりにまたほっこりしながら本を閉じたわけです。

ところで、同じあとがきで「この本の続きを書くことは宮台さんの仕事ではなく、いま時代と一緒に走る体力のある若いフィールドワーカーのやるべきことだ」と上野さんは指摘しました。しかし今年の3月に東工大であった「クール・ジャパノロジー」シンポをみると、93年以降のことも考える気満々な感じがします。やはり続きは書かれるのでしょうか、そうだとすればどんな形で?

2010年09月20日

生きることを哲学する

大澤真幸さんの個人誌THINKING Oの6号。対談のお相手は鷲田清一さん、特集は「生きることを哲学する」です。

今回は、直前に読んだ立岩本と問題意識がつながっています。
いま現実的な問題がいろいろ・こまごまと論じられているけれども、大抵がスタートもゴールも弥縫とか(悪いほうの意味での)諦念になっていしまっていて、「今とは別のありようの社会を・構成原理の水準から」考える(つまり社会構想する)ことが少ないといえるんじゃないか。そんなことが話題になってます。

本来は哲学がそういうことを引き受けるはず。だけれど、平易なヨーロッパの言葉で書かれたはずの書物が、日本に移植されるときには小難しい専門用語の着物を着せられてしまっていたりして、どうも広く共有されて多くの人が参加した議論の場を作り上げるようなものになっていない。「多くの人」の側は側で、複雑だったり難しかったりする問題に直面すると、それに立ち向かい・結果の責任をとるということを「専門家」というセクターを作って・丸投げすることで、問題と向き合うことを避けてしまう。
で、まあ、そんなことを考えている鷲田さんがやってる哲学カフェなんかが紹介されております。

(ちまちましたこと考えてる自称哲学者、つうのが誰なのか名指してもらいたいところだけれど、それやるとまたちまちました論争になりそうだしねえ)

専門性の海に深く潜行している人は「まだそんなことゆっとんの」と言うのかもしれませんが、個人的には、今回の対談は、普段「専門家」の仕事を(しばしば時間が無くてすっごく表層的に)参照しながら「現実問題」のインデックスを作っていくという自分の仕事の特性に結びついていて、ずずんときた。(そしてこの次に買っていまのろのろ読んでる本も同じ問題意識の本だったりする)

2010年09月17日

人間の条件 そんなものない

■立岩真也『人間の条件 そんなものない』理論社、2010年。

できる人とできない人がいて、できるとよいことがあったってよい。だからといってできないから悪いということもない。できる人が自分でたくさん作ったら、それは全部そのできる人のものにしてよい、というのは何かおかしい。機会が平等でみんながんばって競争すれば差がなくなっていくというのはなんか変。むしろ差は開くし、それはおかしいと思う。そこで、社会の中にあるものを均等割りしつつ、頑張ってできる人には頑張ってもらうためにちょっと色をつける、くらいの分配の仕方ってできないものだろうか。また、ものをつくる時の材料や、仕事そのものも分けてもいいのではないか。そんなことが書いてある。

のだと思うのですが、違うかもしれません。あー

働くことと、その成果を、できるだけ各々が自由や自尊心を侵されない生活ができるように分けられる、そういう今とは違う社会のありようをかなり根っこから愚直に構想する様子が見て取れる気がします。「よりみちパン!セ」という中高生以上向け(なのかね?)のシリーズの一冊です。立岩真也入門。

さておき、

筆者は、それはもうほんとうにいろんなところで、いかに自分の本が(本当はそんなつもりで書いていないのに)ぐねぐね回りくどくて難しいと評価されているかをしきりに気にしている様子で、読んでいるこちらも話の筋とは別に「なんでこの人の文章はわかりにくい(と思われる)のか」も考えながら読まされる羽目になります。
実は何年も前に、同じ筆者の『私的所有論』を図書館で借りて読み始めて挫折した(返却期限の2週間では読めない+かといって買うには高い)経験があり、しかしこの人の本にはとても重要なことが書いてある気がして、ずっと気になっていた身です。問題意識は筆者および筆者の読者と共有している気がします。

この本を1冊読んだ経験だけですが、結論から言うと、筆者の文章が読みにくいのは「慣れの問題」が8割。音読する速さで黙読しているとだんだん引き込まれて、1冊読み終わるころにはほかの本も読んでみるべと元気がわいてきます。
あと2割は、はやりの言葉とかをあんまり使わないせいで、キーワードを追いながらサクサク読んでいくと言っていることがわかる、みたいな作りになっていないためだと思います。
本当に悪い文章は構成がぐちゃぐちゃだったり、関係ない話が混ざっていたり、つなぎの言葉が少なかったりするので、最初は筆者の文章もそうなんじゃないかと疑いながら読んでいましたが、むしろ無駄なもののない、けれども時々振り返って「ちょっと、おさらいする?」みたいに配慮してくれる親切な文章だというのが読み終わっての印象です。快調に読み飛ばそうとすると途端に道に迷うけどね。

2010年09月10日

高校生のための科学キーワード100

【2010.9.11書き直し】

■久我羅内『高校生のための科学キーワード100』ちくま新書、2009年。

私ももと高校生なので、やっぱりこの本の対象読者かなと思うわけです。
だって15年前の高校生が教わったことと今の高校生が教わることって、それなりに違うでしょうし、高校生だって物理、化学、地学、生物全部の科目を取ったりしないしね。

夕焼けがきれい、ああこれがレイリー散乱。
”超能力者”がテレビを通じて視聴者の選んだトランプをあてたのは偶然の一致?
すべての女性の祖先、20万年前のアフリカにいたひとりの女性「ミトコンドリア・イブ」って、ちょっとネーミングがチャーミングではないな。
DNA鑑定って、ブルーレイって、こういうことだったのな。
共感覚が再現できたら、スクリャービンのソナタはどんな色に見えるのだろう。
免疫系って警察みたいだ。情報、捜査、学校なんかがあって。
CTとMRIの違いがやっとわかりました(涙)。
理論物理の人たちが紙とアタマで導いた予想を、実験物理の人たちがとんでもない装置を作り出して実証する。どっちもかっこいい。
右の鼻をほじっている自分と左の鼻をほじっている自分が、マルチバース(多宇宙)として併存しているって?

100のキーワードが、見開きで1つずつコンパクトに説明されています。
量子論や相対性理論、宇宙論のあたりは1つのキーワードを読んで次のページをめくるとゆるやかに話がつながっていて、へえ、へえと言いながら読み進められます。ゲノム科学のほうは自分もすこーし、ほんのすこーしだけ親しみがあるのですが、とてもキーワードのチョイスがいいなと思いました。
思えば、ある分野の本を読んでいると、別の分野に読書が飛び移ることって意外にないかもしれない。こうやって粗々でもいいから地図をときどき見るのは楽しいですね。

2010年08月27日

現代人類学のプラクシス

■山下晋司・福島真人編『現代人類学のプラクシス』有斐閣、2005年。

未開の社会に住み込んでモノやヒトがどういう決まりのもとで動き回っているのかを解き明かす、というのじゃない人類学、現代をフィールドにした人類学って何やねんというのをざっと見せる感じ。
そのフィールドとは医療であり開発であり工場であり学校であり、その見え方とはある方法論=芯のまわりを回転するルポルタージュであるように思えますが、どうか。(ということは、まずもって読み物としてつまんない民族誌って価値ないよね、と言いたくなるけど、まあ禁欲して言わない(←言った))
300ページ弱に17章も詰め込んでるので、ほんとにざっと見せる感じです。

2010年08月26日

暮らしをデザインする

■宮脇檀『暮らしをデザインする』丸善、2003年。

建築家、故・宮脇さんの短文集。
たてもの、ではなく、暮らし、に軸足を置いて、そこからもう一歩を調度に、街づくりに、そして居住空間としての航空機に踏み出しながら綴っておられます。
題材はいろいろですが、視点は「うつくしいか、そして快適か」と一貫して明瞭です。
そうね、高速バスで外の景色に飽いたらちょっと開いて、また外を見る、なんて読み方をしたい。

(本人の肉声を感じさせる体言止めが印象的な文体。)

2010年08月20日

Cultural Anthropology

Cultural Anthropology: The Human Challenge という英語圏の大学で導入用として使われている(と思われる)文化人類学の教科書を買ってみました。これが13版だそうです。日本語の教科書でいいものがあればと思っていたのですが、そのへんの本屋で手に入る範囲のものをいくつか立ち読みしても、どれもちょっと食指が動かないというか、「授業で使う本」ではあっても「自習ができる本」ではない感じがして、「えいや」で注文してしまいました(International EditionというのがAmazon.co.jpで買えた)。5000円以上するんですけど、これでも多分けっこう安い方だと思う。

英語の教科書というのはいくつか触ったことがあるのですが、まず分厚い。分厚いけれども、きちんと言葉の定義をしてから説明をする。表現が平易。構成が明確。図版が豊富。
「日本語を解する」とは違って「英語を解する」というだけでは全く読者像が結べない、つまり、基礎知識として高校までに何を教わったかも英国とニュージーランドとシンガポールの大学生では全然違うし、宗教も歴史もユーモアのツボもかれらの間で全く違う(はずな)ので、とにかく読者に対して「英語を解する」以上の期待を全くしないで編集すると、こういうスタイルになるのではないかと思います。
というわけで、まあそこそこ版を重ねている実績のある教科書なら大丈夫だべと、中身も見ないで買いました。これから興味の惹かれそうなところをつまみ食いしていきます。

教科書のようなものを読みたいと思った動機は、この領域の間口の広さ、つかみ所のない感じ、エスノグラフィーというのをいくつか読んで感じる「これはルポルタージュと呼んでいるものと同じなのか違うのか」みたいなもやもや、そのあたりを少し整理して喉のつかえを取り除きたいなあと思ったからです。
いつ読み終わるかわかんないので、今回は読み始めのところでエントリ作っときました。

2010年08月18日

株式会社 家族

■山田かおり『株式会社 家族』リトルモア、2010年。

同じ会社の中で本とたわむれている(戦っている?)かつての同僚から強烈にプッシュされたというだけで、終業後に丸善に走って入手したんですけど。

あまり他罰的に書きたくないので、表現を少し調整させていただきますと、弊管理人はエッセイに親しむ素養と環境に絶望的に欠けていると思います。

「くすっと笑える日常こぼれ話」が本になって売られている。しかし弊管理人の友人連中には岩波講座級のシリーズものが構成できるくらい面白い人たちが何人もいることもあって、(1)ちょっと面白いくらいではその日の弊管理人の経験に何も付け加わらず(2)それくらいならブログでやっとけばどうでしょうかと思ってしまうようなのです。

昨年、大宮エリー『生きるコント〈2〉』を友人から勧められ、その友人につきあってサイン会にまで行ったことがありました。列に並んで待っている間に読み切ってから、寝床に置いてある目覚まし時計の下敷きになったまま一度も手を触れていなく、今そういえばと思って検索してみたらこの本を読んだことさえ弊blogに記録を残していなかったよう。そういうお金の使い方をまたやってしまった自分に若干凹んでいます。久しぶりにモチベーションの高い日記は書けましたけどねえ。

2010年08月03日

生きものは昼夜をよむ

■沼田英治『生きものは昼夜をよむ』岩波ジュニア新書、2000年。

非趣味読書。でもかなり面白かったです。

生きものの多くは季節に合わせて変態したり休眠したり生殖したりするわけですけれど、それではどうやって季節を測っているかというと、暖かくなったとか寒くなったとかいう温度の変化ではなく、日の長さの変化なのだという。温度と違って、日の出ている間というのは毎年同じ日には同じ長さで、しかも一年の中で規則的に長短が変わるから判断材料としては信頼度が高いということらしいのですね。

目や脳にある光受容器(光を感じる部分)に光が当たると、その情報が神経を通って脳のどこかにあると考えられている、日の長さを測ったりその情報を蓄積する機構に達する。そこがほぼ24時間周期で動く体内時計(概日時計)に時刻を問い合わせ、いまが本来明るい時間か暗い時間かに従って季節を判断し、さまざまな生理現象を起こす内分泌系に信号を送るというシステムになっているらしい。

たとえていえば、窓の外を見て「明るいな~」と気付いたとき、部屋の中の時計を見て朝5時だったら「ああ夏なんだねー」と判断してデートの準備をする(逆に、朝7時でも暗かったら冬だと判断してふて寝)。そんなことをしていると考えられているのだそう(外的符合モデルという【追記】←ほかに内的符合モデルというのもあって決着はついていないらしい)。

20世紀のはじめのほうに始まったこの分野の研究が、いろんな反論に揉まれながら100年かけてどこまで来たか、そしてカメムシを題材に研究を続けてきた著者がどうやってこの分野にページを書き加えてきたか、そんなことが解説されています。
「ジュニア」にはけっこう難しいですが、でも理科の好きな中学生なら丁寧に読んで「すげえ」と思ってくれるだろうな、と思いながら読みました。

ちなみに、本には書いてないですが、人間にこの「日の長さに反応する性質」がない(=「光周性」がない=一年中繁殖する)のは、人間はみんなアフリカ人だかららしいです。光周性があるのは、温帯から寒帯にかけての、季節がちゃんとあるところでは冬をじっと越さないと命にかかわる生きものたちにみられるということ。そーかー

2010年07月31日

環境倫理学

■鬼頭秀一、福永真弓編『環境倫理学』東京大学出版会、2009年。

問題を発見したりクローズアップしたりするのに「あれか、これか」の二項対立はある意味避けて通れないのかもしれません。そうだとしても「あれもありつつ、これも」あるいは「あれから、これへ」に議論を移していくべき時期というのも、また、あるんじゃないか。
さまざまなフィールドから、二項対立を超えるための試みが報告されてます。

環境倫理を勉強した友人とこの本のことを話していたとき「初めての人が読む本じゃないかもしれない」と言われましたが、初めてでもいいかもしれないです、読んでみると。意外と筆者たちが何と戦っているのかは見えます。必ずしも筆者たちが同じ方向を向いていないところも自然でいい。

2010年07月14日

知性の限界

■高橋昌一郎『知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性』講談社現代新書、2010年。

びゅんびゅん読めるので、科学哲学とかの単語に萌える人ならさっさと読んだらいいと思う(ただし勉強したことある人はお客さん対象外)。
が、あえていうならこんな感じ↓

第1章 言語の限界
→言語ゲーム、文化相対主義、ポストモダ~ンw
→もちっといくなら『思想化される周辺世界』(古いが)

第2章 予測の限界
→株、天気、地震の予測(の限界)
→圧縮ファイルを解凍すると『明日をどこまで計算できるか?』

第3章 思考の限界
→神の存在証明とか
→えーとうーんと『進化の存在証明』

今日はこれフィニッシュしようと一生懸命読んでて、帰りの電車、快速なのに2駅乗り過ごしたよう(涙)

2010年06月05日

現代思想の教科書

■石田英敬『現代思想の教科書―世界を考える知の地平15章』ちくま学芸文庫、2010年。

放送大学の教科書の文庫版。授業の復習としてならさくさく読めます。初学にはもうちょっと卑近な例をいろいろ挙げてあげると親切かもしれない。最近の教科書はどうなっているんだろうと手に取り、通勤電車で読んでました。

個人的にツボだったのは巻末の読書案内で、15ページほどの短いスペースに詰め込まれた一言つき参考文献は「次の一歩」を踏み出すのに必要十分なものと感じました。読んでおくべき原典(の訳)はこれ、ただしこの訳書は問題が多いのでお勧めしない、外国の理論を日本のフィールドで展開してる本はこれ、難しければこの入門書や解説書はどうかね、とサインポスティングしてくれているので助かります。

ときどき1冊まるまるブックガイド、みたいな本がありますが、文献1冊1ページ程度の要約ではやはり凝縮されすぎてて読んだことない人には伝わらないよね(読んだ人の「答え合わせ」には有用かもしれないけど、そんな使い方あんまりしないと思う)。やはり噛んで含んで内容を教えてあげるより、権威的に「これ読んどけ」と本を投げてよこすのが正しいブックガイドなんではないかと思う次第です。

2010年06月01日

明日をどこまで計算できるか?

■デイヴィッド・オレル『明日をどこまで計算できるか?―「予測する科学」の歴史と可能性』早川書房、2010年。
Orrell, D., Apollo's Arrow: The Science of Prediction and the Future of Everything, HarperCollins, 2007.

  いやしくも科学を標榜するなら、予測をしてみせて下さい。

学生のころ、連想ゲームみたいに言葉を接ぎながら文学や世界を読み解いてみせる人文・社会科学系の授業を受けつつ、そう心の中で毒づいていました。
そんなことだから、本屋でこの本をタイトル買いする羽目になったのも当然です。

- - -

神殿で賜る神の言葉、ピュタゴラスの数学、天体の運行の計算。
そもそも人間はその最初期から明日のことを知りたいと思っていたはずです。作物のこと、運命のこと。

拠って立つ方法論はいろいろですが、その営みは景気循環を、感染爆発を、そして気候変動を知ろうとする今日までずっと続いています。つまり、それは今に至るまで成功していない。長期的な予測をしようと思っても、ゲタを投げるのと当たり外れは変わらなかった。

すべては自然の法則に従っているはずだから、それを見つければ未来を完全に記述できるはずでした。しかし、数学と観測を不断にブラッシュアップしても、モデルが不完全だったり観測が不完全だったりするせいで目的が達成できない。そのうち、未来を完全に記述することがそもそも不可能であることさえ判明してしまう。経済も遺伝子も天気も、機械ではなく不確定性をはらんだ複雑な存在=いきもの。挑戦と敗北の3000年史。

では科学は無駄なのでしょうか、希望はないのでしょうか。
歯切れの悪い回答ですが、完全な楽観も悲観もするべきではない。科学は現状を分析することができる。そして現実に模したある条件を設定して、結果を予測することはできる。さらにおそらく何が分かり、何が分からないかも知ることができる。武器はそれでいい。それを研ぎ澄ましながら不確定性に切り込んでいく、それが人間が人間としてできる営みであり、自由の淵源でもあるのでしょう。

(著者は1962年生まれ、オックスフォード大で数学の博士号取得。カナダ在住の数学者、サイエンスライター)

2010年05月20日

物語 数学の歴史

■加藤文元『物語 数学の歴史』中公新書、2009年。

すみません、本とは関係ない思い出話をします。

もう13、4年前、大学1年目か2年目に松本幸夫という先生がやっていた文系むけの数学の授業を取りました。非ユークリッド幾何学、群論、多様体とか、まあとにかく当時の自分にとってはぶっとんだ内容をざざっと紹介し、ひえええ一体どんな期末試験になるんだろうとガクブルしていたところ、配られた問題用紙にあったのは

  今期教えたようなことは社会で何の役に立つか書きなさい

というような問題文1行でした(文言は正確ではないと思う)。自分の回答もよく覚えてませんが、なぜか「A」評定をいただいたはずです。
それから10年も経って、仕事でお会いした数学出身の某大学の情報科学の先生と話していたときにこの話をしたら「それはいい問題ねー」とおっしゃっていたのもこれまた意味不明で、自分にとって数学はいつも、このようにときどき姿を現しては誘惑し、追いかけても追いつかない神秘的な存在のままでいます。

振り返ってみれば、たぶん5つとか6つとかの分野について1学期間で走り抜け、しかもその基本的なアイディアの断片くらいは学生に授ける教授法ってのも実はすごかったんじゃないかと思う。そして、あの授業をもう一度復習させてくれるような本を探しながら、30代もなかばにさしかかってしまっているわけです。そろそろ先生に聞いてみようかな?

2010年05月11日

読んだもの2つ

最近、読む意欲がちょっと減退してます。たぶんリズム的なもの、か、買ってみたけどそんなに熱心になれない本がいくつかフィニッシュできないまま残っているせいか。

■秋山幹男他『予防接種被害の救済』信山社、2007年。
非趣味読書。92年に東京高裁判決が出て確定した予防接種禍訴訟を振り返るシンポジウムの記録。

この判決を受けて、94年に予防接種制度改正(強制接種の廃止、健康被害救済の拡大など)がなされましたが、現在はそのときのやや抑制的な方向での改正とは逆方向を向いているように見える、2度目の大きな改正(接種の公費負担、対象ワクチンの拡大、病気のサーベイランス態勢強化、行政に対する専門家による助言組織の創設)に向けて動き出してます。

というわけで今般の動きの源流を探るために。

■大澤真幸「普天間基地圏外移設案」朝日出版、2010年。
なんか電子書籍として1000部限定でタダ配布されていたので、いただきました。

・普天間問題の唯一の完全解決策は、(沖縄)県外、ではなく(あらゆる)圏外(への)移設、つまり廃止である。
・現在の沖縄の基地反対運動は2つの意味でダメで、
(1)騒音とか環境といった基地の個別の問題を挙げると、それに配慮した形での建設を許してしまう
(2)県外に持っていけ、では地域のワガママに矮小化する
・問題の本質は、自分の領域を主権の及ばない人たちが大手を振って歩き回っているということであって、
・沖縄はまさに沖縄というローカルなレベルではなく、日本とかアジアとかいうより普遍的なものが抱える問題を凝縮して体現している、という点から突破を図るべき(沖縄vs日本の政府vsアメリカ、ではなく、沖縄=日本vsアメリカ)
・振り返れば過去の成功した革命はいずれも、特殊を普遍に接続する論理構成をとっている。
・考えてみると普天間基地はアメリカ側の都合のためにある。ならば日本には断固、普天間基地の廃止を主張する理由がある。移設費用なんて仕分けちゃえよー

というような話。筆者が主張している「第一歩としての沖縄と徳之島の連帯」はもうやってるし、基地反対運動の中には廃止は当然含まれているだろうから、ちょっと「えー?」と思う部分はありますが、まあこれは政権に向けたアドバイスなのでしょうし、大筋は自分もそうだなーと思います。にしても、いつになく筆運びも言葉選びも乱暴な文章ですが、現実と切り結ぶときの方便としてやられているのでしょうか。

2010年04月04日

THINKING 「O」

■「大澤真幸 THINKING 「O」創刊号」左右社、2010年。

昨年、大学を去った大澤真幸さんが雑誌をつくりました。
THINKING 「O(オー)」;考える真幸?なんつって

”現場”で活躍する人との対談録と、そこで考えたことをまとめた文章で構成するそうです。
一回目はペシャワール会の中村哲さん。

2002年に金子勝さんとやった『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)の仕事がとても面白かったんじゃないかな、なんて感じました。相対的に静かな文献やシステムではなく、感染力のあるプロみたいな人を相手に、自分の武器(理論)の切れ味を試すスリルが、そこにはあるのかもしれない。

意外にも、古い九州男児としての自分の素養を隠さずに(「国際人」ぶらずに)アフガニスタンの地元に入り込んだ中村さんが、地元の人たちだけではなしえなかった共同体のまとまりと水路作りを完遂しえたのはなぜか?という疑問に対し、キリスト教の三位一体説の解釈を武器に切り込んでいます。そうくるかー

次は「民主党を考える」だそうです。まじでー

2010年04月02日

聖書の読み方

■大貫隆『聖書の読み方』岩波新書、2010年。

聖書はいきなり通読しようとすると大変だよー挫折するよー
ということと、傾向と、対策、的な、ものが、説明されて、います。
キリスト教徒ではないが、いちおう聖書は読んどかねばなるまいと思っていて、いきなり通読しようとしていた私ですが、危なかった。そして、これで心構えができた気がします。

2010年03月28日

ヒューマンエラーは裁けるか

■シドニー・デッカー(芳賀繁監訳)『ヒューマンエラーは裁けるか』東京大学出版会、2009年。
(Dekker, Sidney. JUST CULTURE: Balancing Safety and Accountability, Ashgate Publishing, 2007.)

医療や航空といった、一歩間違えれば重大な事故につながる業界で働いている実務者たちがミスを犯した場合、それをどう扱ったらいいのか。

ヘタクソをとっつかまえて裁判にかければ、相応の報いを与えられ、真実が明らかになる。そう考えるのは浅薄にすぎる、ということを著者はまず指摘します。
裁判は「この人からはこう見える、しかし別の人から見るとこうだ」という複線的なストーリー、複数の真実を並立させることが少なく、不利な証言を拒めるためほんとうのことが語られるとも限らず、被告にされた人への罰が決定するだけで背後の構造的な問題が無視され今後の安全性向上も担保されない。では、どうすればいいのか。

とにかく、誠実に仕事に取り組んだ中で起きたエラーは、組織全体の視点から今後へのレッスンとして活かすことを最大の目標とする(たぶん被害者や家族も、自分の被害がシステムの改良につながることに意義を見出す)。そのためには司法を介入させず、エラーを起こした人を罰したり屈辱を感じさせたりしないことで、起きたことを隠さずに事故調査機関に話させること。調査は門外漢が後知恵で「こうするべきだった」とやるのではなく、エラーをした人の視点を追体験できる同じ分野の専門家が行うこと。収集した情報の報道や司法関係者による使用に注意すること。
また、こうしたシステムがきちんと働くために、専門家組織内の信頼感(正直に話したことがちゃんと活かされるという)、組織と司法の間の信頼感(犯罪や重大な懈怠によるケースなどはちゃんと組織からの通報があるという)の醸成が必要だということ。

一方で、情報の開示についてはもう少し知りたかった。
事故被害者側への情報提供は必要ではあっても、そこから報道や司法に流出する可能性は十分にあると思うのですが、それをどう止めるか(漏洩に対する刑事罰を科す?)。また事故調査報告書をまったく一般公表しないと事故調査への信頼感が生まれないと思うのですが、報告書をどう扱うか(裁判に使わないことをルール化する?個々の登場人物が特定されないバージョンを別途作成する?)。

とはいえ、エラーに対して「スケープゴートを見つけて刑事罰!」という対処の仕方には、被害者も加害者も第三者もなんかヘンだなーと思っているだろうと感じていたのですが(だから本屋でタイトル買いしました。また日本では医療事故調設置の動きものろのろですが進んでいますね)、それがどうヘンなのか解きほぐしてくれる本で、扱う事例にも重みがあり、ためになる読書でした(訳も読みやすかったです)。

2010年03月22日

利己的な遺伝子

■リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』紀伊國屋書店、2006年。

生物個体の中にひっそりと息づく自己複製子=遺伝子。生物進化の歴史の本当の主役はこの遺伝子たちで、個体はその乗り物にすぎない。遺伝子たちは仲間を増やし、時間を超えて生き続けるために個体に乗り込む。環境の影響を受けながらも環境を操作し、個体の寿命が近づけば配偶子のカプセルで脱出し、次の個体へと乗り継いでいくわけだ。

そこにはどんな慈愛も計画もない。自らを複製し、ときどき変異しながら生き残っていくこと、この作業を遺伝子は淡々とこなしていく。
親子の愛はその遺伝的近さから生じる。赤の他人に比べれば親子は50%という高率で自分自身なのだから大切にするのが合理的だ。
生殖は、かけるエネルギーをできるだけ小さくしながら最大限の効果を挙げようとする個体間の駆け引きだとみれば、男が子育てを一生懸命しないことを、男女の配偶子の大きさや運動性の差から説明することだってできる。
裏切り屋か、お人好しか、怒るときはちゃんと怒るのか。そんな戦略によって生き残りゲームの中で勝つ確率が変わる。どんな態度をとることが最善なのかもほとんど決まってくる。
さらにさらに、遺伝よりもずっと高速で伝播と発展を繰り返す人間の「知識」だって、生き残りゲームに参画する自己複製子と考えることができるだろう。

ここまで遺伝子のことを、生き残る「意志」とか「目的」を持った存在かのように表現したけれども、それはあくまで便宜的なもので、実際そこにあるのは「環境とのやりとりの中で、ある種の遺伝子が生き残った」という結果の集積でしかない。よく「菌が薬剤耐性を獲得する」となにか菌が目的をもってそうしたかのように表現されることがあるが、そこで起きているのはたとえば「薬を途中で飲まなくなる→菌の群れの中にたまたま発生した耐性菌が生き残って増える→投薬を再開しても薬が効く菌が死ぬだけ→耐性菌ばかりになる」という因果の連鎖にすぎないように。

*  *  *

著者はこの本を、サイエンス・フィクションのように読めばいい、と書いています。いろいろな生命現象の説明をつける本という読み方もできる一方、SFのように読み進めれば、そこに形作られるのは、「ぼく」「あなた」といった個体を区別する容器が溶け去り、無数の微小な自己複製子たちがひしめく茫漠とした世界のイメージかもしれません。そういう、世界の見え方を変える力があるという意味で、たしかにこの本は文芸作品でもあるのではないかという気がします。

(学校出て10年も経つのに、30年以上前に出たこの基本書を読んでなかった恥ずかしさもちょっと書き加えておきますw)

2010年03月13日

ベーシック・インカム入門

■山森亮『ベーシック・インカム入門―無条件給付の基本所得を考える』光文社新書、2009年。

ベーシック・インカムとは、生活に必要な所得を、無条件で、すべての個人に給付する政策なのだそうです。生活保護や雇用保険といった現在広く行われている所得保障にかわるものとして構想されています。

ご多分にもれず、弊管理人も「はあ?」と思いました。まず、無条件ですべての人に給付されるなら、誰も生産を行わなくなるのではないか。そんなお金はどこから出てくるのか。著者も最初にこの考え方を聞いたときは同じく嫌悪感をもったと告白されています。与党が突然これを軸にした社会保障の再編を言い出せば、このところの政治の常套句「バラマキ政策」「財源はどうする」と野党から激しい批判を浴びせられることでしょう。

そんなことは百も承知で、著者は、実は古来さまざまな国でさまざまな論者からベーシック・インカムが提唱されてきたことを明らかにし、さらにそのポイントをひとつひとつ擁護していきます。
無条件給付は、審査つきの給付が非常にしばしば生み出す「給付の資格があるのに受けられない人」を作らない、それは審査を行う行政的な手間を省略でき、かつ行政の恣意を排除するからだということ。個人単位の給付は、家庭内での無賃労働(家事、子育て、介護…)への賃金としての意味付けにも、家族を単位としてきた税制や社会保障の再編にもなりうること、男女など個人間の区別をつけないこと。現物支給でなくお金でもらえることは、その中での個人のやりくりの自由を確保できること。などなど。

そして、誰も働かなくなるのではないかという論点に対しては、それに合わせた新しい税制を提案する経済学者を引き合いに出すだけでなく、ラッセルやフロムといった意外な顔ぶれまで登場させ、「そもそも現在の労働というのは、飢え死にへの恐怖によって人を劣悪な強制労働に駆り立てているのではないか?」「何もしなくていい時、本当に人は何もしないだろうか?」などと労働の意味や心理にまで立ち返って問いかけます。

それじゃあ、いったいいくら支給すればいいのか。そうはいってもやっぱりみんな断然今より働かなくなるんじゃないか。そんな疑問は残りますが、これはしかし、次の読書へのステップのような気もする。
そんなに困った環境で働いているわけではないですが、それにしても時々は逃げたい気持ちになり、しかし失業への恐怖だけで踏みとどまる、働くということをあれこれ考える、そんなこともあった弊管理人はわりと噛みしめながら読みました。

2010年02月28日

ピアニストになりたい!

■岡田暁生『ピアニストになりたい!―19世紀 もうひとつの音楽史』春秋社、2008年。

ピアノ演奏技法の19世紀。

ピアノは職人が一台一台注文に応じて作り上げる上流階級の贅沢品から、工場で生産される製品に。木製の枠に金属の弦をものすごい緊張力で張り巡らせたグランドピアノは、19世紀初頭のフォルテピアノに比べて鍵盤が8倍(!)重くなった。

こうした道具の変化とも絡まりあいながら、ピアノ「作品」からは「練習曲」が分離し、さらに曲としてのまとまりさえ捨象された「テクニック」が生まれてくる。全体(曲)を部分(テクニック)の集積に落とし込み、そのひとつひとつを徹底的に鍛え上げることで全体の完成に迫っていく。
そこに必要とされるのは師匠から盗む霊感ではなく、ストイックな指の教練課程を通じて鍛え上げられたマッチョな手だ。まるで、ピンの製造過程を要素に分解し、工場労働者には個別の要素についての習熟だけを要求することで、結果的にピンの生産力を飛躍的に向上させようとするように。

ピアノ教育も、家庭教師がつきっきりで良家の子女を教育するスタイルから、音楽学校で”それなり”の家の子供たちを大人数のクラスに詰め込み、カリキュラムに従って”それなり”のピアノ弾きに養成するスタイルにかわっていく。

現代のわれわれが「ピアノ弾くならまずハノンだよなー」と思ってしまうその思考は、音楽史においてごくごく限定された時期に生まれ、広がったものなのだということを見せ、相対化してくれます。さらに、このロマン派の時代に花開いた「ソナタ」という形式さえ、短いモチーフという部分をさまざまに展開させたものが全体を構成しているという還元主義的な成り立ちをしているとのこと。

そう、世俗化、大衆化、専門化(その内実は分解→反復→強化!)」。「近代化」の理論は音楽の、とりわけ「技法」の世界をも斬ることができるか。そんな試みをかなり意識的にやっているように見えました。いや斬れまくってます。だからとても読みやすい。逆に話がちょっと見えやすすぎるともいえそうですが(笑)

2010年02月24日

免疫学はやっぱりおもしろい、+α

■子安重夫『免疫学はやっぱりおもしろい』羊土社、2008年。

ゼロから学ぶ1冊目にはちょと辛い……
もっと単純なポンチ絵でざっくり理解してから、知識の整理と追加に使うのがいい本かも。しかしこれより易しいものを求めるとなると、何を読んだものか。

そこで

■長野敬ほか監修『サイエンスビュー 生物総合資料』2009年、実教出版。

高校生物の資料集(税込820円!)を開くわけですが、これが超すげえ。上記1冊分のエッセンスが6ページにまとまってます。これでまた上記の本に戻るといいっぽい。

免疫学って難しい分野のようなのですが、システム全体を警備会社に見立てて、現業(やっつける)、情報(覚える)、学校(養成する)といった各部門の役割に勝手に振り分けながら考えるのが有効で、しかもほんとによくできているなあと感心するわけです。

2010年02月08日

インフルエンザ パンデミック

■河岡義裕、堀本研子『インフルエンザ パンデミック―新型ウイルスの謎に迫る』講談社ブルーバックス、2009年。

ううむもっと早く読めばよかった。
情報の洪水の中でいろいろな説がほとんど同時に飛び込んできて混乱していたのですが、「どうしてそういう説が出るのか」の水準で説明してもらうとすっきりと整理されていきます。登場する情報は09年9月までのもの。

・09年の新型は季節性と同程度の病原性(ウイルスに毒はないので、「毒性」というのは厳密には間違いらしい)と早合点するべきではない→変異で全身に感染する高病原性になる可能性がある
・ワクチンは打っても感染を100%予防できるわけではないし、副反応は0にはできない。治療薬や学校閉鎖などの社会的な処置を併用する必要がある
・タミフルやリレンザなどの治療薬を使っていると必ず薬剤耐性菌が出てくる。中途半端に服用を止めてはだめ。従来と働き方の違うものも含め新しい薬が開発されつつある(1月に発売された塩野義、2月初めに承認申請した第一三共、申請予定の富山化学工業など国産も出てきつつありますね)
くらいは何かの時にあわあわしないために知っておきたい。

そのほか
・ウイルスは細胞に自分を食べさせて侵入し、乗っ取って自分の複製を作らせて外へ飛び出していく
・小さな変異(コピーミスによる。毎年季節性インフルにかかる原因)と大きな変異(細胞に2種類以上のウイルスが感染して混ざる。「H○N△」の○△の部分が変わる)がある
・種によってウイルスの取り付き先が違う(変異するとブタ→ヒトなどの感染が起きる)
・「生ワクチン」は病原性を弱めたウイルスそのものでよく効くが副反応もそれなり。「不活化ワクチン」はウイルスの破片などで、副反応の心配は少ないが目や鼻だけの手配写真のようなもので免疫の効きは落ちる
など、そもそものメカニズム解説や研究史についても、門外漢にもわかるようイラストと平易な文章を工夫してあってポイント高いです。

2010年02月05日

著作権の世紀

■福井健策『著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」』集英社新書、2010年。

創作されたものをコピーしたり組み合わせたりする技術が改良され、情報の流通がより早く、より広くなると、情報の独占制度としての著作権はどういう地図の中に置かれることになるのか。

何が著作権で保護され、どれだけの間保護され、何が法の問題で、何が法の外の問題で、何がグレーゾーンで処理され、それと作品を利用したさらなる創作やアーカイブ化などの活動の促進はどう折り合いをつけていくことができるのか。本来は著作権で保護されないモノを疑似著作権の対象物として囲い込もうとする昨今の動きについて。そんなことを考えます。

森進一の「おふくろさん」改作問題、槇原敬之vs.松本零士、フェアユースとJASRAC、村上隆に海洋堂のフィギュアにマルセル・デュシャンまで出てきます。おお、これってこういう問題だったのか、と感心しながら読み進む感じ。頭のいい人の文章という感じで、よくある「いろいろ寄り道している間に本筋との距離感がわからなくなる」みたいなことがなく読み通せます。

NHKの視点・論点に出てらしてお話が面白かったので買ってみました。勉強になりました。

2010年01月31日

国語教科書の中の「日本」

■石原千秋『国語教科書の中の「日本」』ちくま新書、2009年。

91年の『読むための理論』以来のごぶさたでした。
コクゴ・テキストのテクスト分析。

なぜ動物ばかり、田舎の話ばかり、昔話ばかり、出てくるのか。なぜ平和教育ものは個人的な物語ばかりなのか。なぜ父親が絡んでこないのか……。教科書、教室、受験に至る国語教育が――教わる側(を)だけでなくひょっとしたら教える側さえ(を)も――知らないうちにある価値を内面化した人たちの共同体を作り出すための装置であることを、教科書に採録された数々の文章の横断的な分析を通して示唆してみる。そんな本だと思います。所々「そうかー?」と思うところもあるけれども、まあそこは新書、全体としてはサクサク楽しく読みました。

大学に入って初めて出会うテクスト論というのは、それまでに読んできたliteratureの種明かし的なところがあって面白いんだけど、高校までの「国語」という教科がliteratureとlanguage(と、ほかいろいろ)の複合体であることを考えると、もうちょっと早い時期からこういうことを教えてもいいんじゃないかなー、なんて無責任に思ったりします。

2010年01月25日

社会思想史を学ぶ

■山脇直司『社会思想史を学ぶ』ちくま新書、2009年。

図書館で借りました。すみません。でも後悔してません。

非西欧への目配り。
非単線進化の史観。
いま立っているところから出発するしかない。
……それって新しい切り口か?(修辞疑問)

えと、もう個性だからということでいいと思うのですが、私がこれまで当たったこの先生の著書はすべて総花的だった。冷戦後くらいを語ろうとしてもやっぱりベーコンまで遡ってしまうのは、いろいろ知っていすぎることに起因する癖だと思う。というわけで提案ですが、本筋以外の話は思い切って註に入れてしまったらどうでしょう。

2010年01月16日

解ける問題 解けない問題

■野崎昭弘『解ける問題 解けない問題』講談社、2009年。

四六判でイラスト豊富な、ものすごくとっつきやすい感じの薄めの単行本と思って手に取ったら、実はネコの皮をかぶったブルーバックスで難しいというサプライズ(笑)

アルゴリズム入門。最終的には、ある問題を解く方法が「存在しない」ことを証明する、という、聞いただけで難しげなことを人間がやってのけるところまで見られます。面白いんだけど誰に勧めていいかまったくわからないのは、周りに数学の話なんかする人がいないからだろうよ。

2010年01月01日

生物と無生物のあいだ

サントリー学芸賞。へえと思いながら読んでなかった本が、実家に帰省したら本棚にあった。東京に戻る前に急いで読んだ。読めた。

■福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書、2007年。

・まず、筆者が押し出す「動的平衡」という概念について。
生物個体を構成する分子は絶えず入れ替わりながら(動的)、しかし個体であることを保ち続けている。そして致命的なものでなければ、欠損が生じたとしてもなんとかしてそれを埋め合わせる力を持っている(平衡)。アイディア自体はどこかで聞いたような気もしますけど。

GP2というたんぱく質の役割を調べるために、それを生まれつき体内で生成できないマウス(ノックアウトマウス)を作ってどんな不具合が出るか見てみたが、何も不具合がなかった。その欠損はおそらく「動的平衡」の作用によって発生の過程で埋め合わされていたのだろう、という驚きが描かれてます。

で、後日談。GP2の働きは先ごろ理化学研究所などが解明しましたね。このリリースはまったく福岡氏への言及なし。で、彼が噛んでいる機関発のこちらのリリースを見ると、彼がノックアウトマウスを作ることでいかにこの発見に寄与したかをアピールしまくってます。
俺が俺がというのは研究者としては自然なんでしょうが、それより、GP2は結局、腸管の免疫応答に関係があり、ノックアウトマウスではこれが働いていなかったとのこと(理研リリースより)。ということは、ノックアウトマウスにおけるGP2の欠損って、動的平衡で埋め合わされてなんかいなかったんじゃ……

・あとは、DNA研究の歴史。これが本書の中で結構な量を占めてます。知ってる人には退屈でしょうが、まあ新書読むのは素人でしょうから……

・それから、ところどころに筆者の自分史だのニューヨーク、ボストンの情景描写だの。どっちでもいいです、そんなの。

2009年12月29日

右翼と左翼

■浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎新書、2006年。

このあいだ友人とカレーを食べたあと、近くのマクドナルドの寒いテラスでコーヒーをすすりながら話をしていたとき、ふとしたことからその友人が「右翼はよく見かけるけど左翼って何してるんだろうね」と言いました。今も細々とやってる成田はわかりやすいけど、雇用とかヒノマルとか、あれって左翼?そういえば右翼とか左翼って何?ということについて、自分なりにイメージはあるものの(いつかの日記に書いたけれども、理想が昔にあるのが右翼で未来にあるのが左翼、などいくつかの整理をしてみていた)ひとがどう考えていたかはちゃんと読んだことがなかった。

この新書が出たときからなんとなく目には止まっていたものの、これまたなんとなく手に取る機会がないままだったのですが、ちょうど図書館にあったので借りてきて読みました。

この本がやっているのは、わりと手に入りやすい文献を渡り歩いて、第一に、右翼/左翼という言葉がどんな内容を代表しているのかを整理すること、第二に、右翼/左翼という言葉が生まれた革命期からのフランスとヨーロッパ、明治から現在までの日本でその意味がどう変遷してきたかを概観することです。

じっさい情報量は多いですがすぐ読めるので興味があればどうぞとお勧めしておいて、超ざっくり言うと
・右翼/左翼は時代によって内容が変わる
(・たとえば、極右が舞台から退いてしまうと、それまでの中道右派くらいが極右の席に座り、さらにそれも退いてしまうと当初は中道左派だったのがどんどん右側の席に追いやられていくような動態)
・いちばん大まかには、やっぱり右翼/左翼=保守/革新と言い換えていいっぽい
(・もっとも舞台が当初の左でいっぱいになってくると、右翼/左翼=自由/平等くらいまでいくっぽい)
・そうすると何についての?という疑問が沸くが、これがまた当初は政治上の統制志向/非統制志向くらいの話だったのが、経済、文化、さらに外交、軍事などの軸が入ってきてチョー複雑になってきている
みたいなことだと思っていればとりあえずいいのではないかしら。

2009年12月23日

「おろかもの」の正義論

■小林和之『「おろかもの」の正義論』ちくま新書、2004年。

カミサマとかエライヒトに「正しさ」の権威付けを求めない場合(=そこからあてのない自由な探求に出発するのが「おろかもの」なのかな)に、「正しさ」というものをどう考えたらよいか。

11章構成で、その多くは脳死・臓器移植、死刑、環境問題と南北問題など具体的な問題を取り上げています。
そのひとつひとつは詰め方に食い足りないところはあるけれども、とても考えさせられ、多くの人にとって新しい視点をもたらしてくれる評論だと思います(非趣味読書のつもりで読み始めてはいないのですが、脳死・臓器移植についてはこれまでのもやもやした感じに言葉を与えてもらった)。
ただ終盤にさしかかったあたりで「ところで、正しさってなんだろう」という疑問をふと抱いてしまう。あらゆる具体例から離れた短いまとめが最後にあったらよかったと思うのですが。
読後感の中にうすぼんやりと浮かぶのは、正しさとは人にやさしくということだ、というような印象です。いや、そもそも「正しいいうのはこういうことだ」ということを指し示す本ではないのでしょうが、正しさということを、この本を通じて少しブレイクダウンすると、そうなるのかもしれない。これが合っているかハズレているかはよくわかりません。

それにしてもこの著者、CiNiiとかAmazonとかで探してもこれっきりまったく文章を発表してる形跡がないんですが、どうしたんでしょうか。ウェブサイトも持っているようだけど出版後に更新止まってるし。

2009年12月13日

文科系のためのDNA入門

■武村政春『文科系のためのDNA入門』ちくま新書、2008年。

非趣味読書。内容は表題の通り(笑)
でも仕事絡みでないと手に取らないであろう本を読む機会があるというのはいいことなんだと思います。もともとなにか必要が生じないと本を読まないたちなので。

遺伝子とDNAの使い分け、DNAとRNAの違いも怪しかった(いや一応高校の生物でやった気はするんだけど)自分にとっては、分子生物学方面でよく出てくるスニップスだの転写因子だのメチル化だのといった用語も含めて、基礎から見取り図を示してくれるこういう本はありがたいものです。図書館で借りた本ですが、これは買って事典的に手元に置いておいてもよかったかも。

2009年12月07日

解剖男

■遠藤秀紀『解剖男』講談社現代新書、2006年。

時期的に電車男のパクリかね、このタイトルは。どうかと。

ええ非趣味読書です。
いまは東大の総合研究博物館の教授やっておられます遠藤先生による、「遺体科学」の紹介本。
筋肉などの軟組織や骨などの硬い組織からわかること。その第一歩は「系統=その種の来歴」と「適応=その種の工夫」という視点。たとえばヒトの頭骨に脊髄の出口がついているのは系統、それが四足歩行動物と違って真下についているのは二足歩行への適応、そんな感じでしょうか。
形態と機能はとても密接に結び付いている。なにをするためにこの形なのか、この形だとどう動くのか、そもそも動物の体の構造はどうなっているのか、そういう知を膨大に積み上げていく営みが遺体科学ということのよう。

で、筆致は濃ゆい。へえと思う知識の記述も多いですが、いろんな人(個人名はない)の悪口が書いてあります。こんなに必要なのかと思うほどですが。まあ個性でしょう。
ちょうど今月から博物館でこの先生が監修した展示「命の認識」が始まります。

2009年11月28日

iPS細胞ができた!

■山中伸弥、畑中正一『iPS細胞ができた!―ひろがる人類の夢』集英社、2008年。

もちろん非趣味読書。
京大の畑中名誉教授と山中教授との対談。このあいだ読んだ新書があればこれはとくにいらないと思う。ただまあ山中さんの自分語りがちょっと読みたければ意味はあるかもしんない。あとは活字がでかくて30分で読めるところか。
ところどころ話がかみ合っていなかったり、余計な「うーん」とか「ええと」まで入っていたりと、「ほんとにただ対談させてテープ起こししたでしょ」という建て付け。ただしこれは編集が悪い。

2009年11月10日

ピアノ・ノート

■チャールズ・ローゼン(朝倉和子訳)『ピアノ・ノート―演奏家と聴き手のために』みすず書房、2009年。
Rosen, Charles. Piano Notes: The World of the Pianist, New York: Free Press, 2002.

新聞の書評欄で紹介されたのを見て興味を持ちました。
著者はかのフランツ・リストの孫弟子に当たるアメリカのコンサートピアニスト。
工業製品としてのピアノの発展と身体の変容。より大音量を出せるようになり、トレモロは難しくなり、ペダルが増える。バッハからベートーヴェンに、リストに、ドビュッシーにと変遷を続けるピアノ奏法と使用する筋肉の関係。コンクールと成形されるピアニスト。録音技術の登場と録音の長時間化・切り張り技術の発達により「演奏」の意味は個性の表現から何回聞いても引っ掛からない音符の再現に変化していく。19世紀の魂を20世紀に香らせた著者の、マテリアルとしてのピアノに対する分析的な態度と、それを支える強靱な教養。え、フランス文学で博士号持ってるの?うへえ。
それにしてもいろんな本見てて思いますが、現代音楽の不人気をどう考えるかっていうのは現代に生きながら西洋音楽を考える人の共通テーマなのかしら。
内容は濃いですが、文章自体は平明で譜例も多いのでさっくさく読めます。面白かったです。

iPS細胞

■八代嘉美『iPS細胞―世紀の発見が医療を変える』平凡社新書、2008年。

非趣味読書。2時間ちょいあれば読めます。ていうかそれくらいの勢いで読む必要ができちゃって読みました(笑)

著者は当時、東大博士課程在学中の幹細胞研究者。
表題にあるiPS細胞が登場するのは本書の後半で、それまで延々ES細胞の話が続きますが、iPS細胞はその前史を語らないと全く位置付けが分からないので、やっぱりこの本は最初から丁寧に読むべきです。
サイエンスライティングに興味があるとのことですが、初学者にも分かりやすい文章で、しかし必要なキーワードや説明を落とすことなく書かれているので本当におすすめです。

特にこの分野は、紙幅の限られるニュース記事では新しい知見しか書かれていないので、途中から興味を持った人には非常にとっつきにくいと感じていました。この本はiPS細胞を知りたいと思った人の最初の一歩として重宝されると思います。ま、iPS細胞の勉強を始めたいと思う一般人て誰やねんという気もするのですが。

こういう本に接するにつけ、文章が書ける理系院卒の研究者が増えてきたら文系学部出身の科学部記者なんてすぐ要らなくなるよねって思います。

2009年11月01日

低炭素革命と地球の未来

■竹田青嗣、橋爪大三郎『低炭素革命と地球の未来』ポット出版、2009年。

東京駅の近くの丸善をさまよっていたとき、わりとプッシュ気味な陳列をされていたので買ってみました。

えっと、いまいち。ていうか、読まなくていい本。

竹田さんの『人間の未来』(読んだ)と橋爪さんの『「炭素会計」入門』(まだ読んでない)にもとづいたシンポジウムの記録ですけど、別にこの本読まなくても前2著を読めばいいと思う。竹田本を読むと橋爪本へのリダイレクトがちゃんとしてあるし、値段も2著足したよりこの本のが高いし。対談もフロアとの質疑応答とかも別にって感じ。こういうテープ起こししてハイできましたみたいな文章こそ炭素排出して本にしてないでどっかのホームページにでもアップしとけばいいのに、ねえ。

2009年10月25日

だいなそー

■小林快次監修『超最新・恐竜ワールド』日本放送出版協会、2006年。
■伊藤恵夫監修『恐竜』ランダムハウス講談社、2007年。
■小林快次他監修『恐竜の復元』学習研究社、2008年。

非趣味読書。寒い日曜日だったので家でこもって勉強してました。

恐竜といえば『のび太の恐竜』(29年前だ!ガーン)で知識が止まっているため、少し一般向けの(だけど子供向けとは限らない)本でアップデートしておかないといけないのです。

そういえば映画ではでっかい爬虫類がドスドス駆け回って狩りをしたりしているのですが、その1シーンだけでも「姿勢」「走る速さ」「体表の色」「食性」「周囲の環境」など非常に論争的なテーマが露頭している。数十年の間に、たとえば足の形や住んでいる場所、尻尾を引きずっているかいないかなど、微妙に再現画が変わってきているのだそうです(のび太の恐竜2006にも、恐竜学の進展を加味した変更が加えられているそうです)。言われないと気づかないよねー

恐竜研究というと、標本を掘っているところと展示されているところしかイメージできないし、そこしか一般向けの企画では扱われにくい部分はあるものの、バックヤードでの研究はなにやらすごく面白そうだなあと最近思ってます。
CTを使って内部を詳しく調べ、そこに材料力学や組織学、進化生物学、脳科学、気候学、植物学などさまざまな知見を使いながら古い時代の脊椎動物の有り様を復元していくそうです。

そのあたりが少し載っているのが『超最新~』ですかね。このあたりを担っている日本の研究者というのはほとんど管理人と同世代の博士たち。これより少し上の世代、監修者の小林さん(北大博物館准教授)は71年生まれ。標本が乏しい日本での研究は、上のような手法上の革新を核にして進んでいくのかもしれないです。

2009年10月21日

今こそアーレントを読み直す

■仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』講談社現代新書、2009年。

確かに筆者の言うようにアーレントの人気は根強いと思います。新刊本を気ままに読む生活をしていてもいろんなところで言及され続けてますし。その点、路線違いですけど、デリダって亡くなったとたんにフェイドアウトしつつある感じ、しません?(誰に聞いておるのか)

いやはい原典読めって話なんですけど、原典のどれから手を付けたらいいかを知りたくて手に取った本です(『アイヒマン』は6-7年前読んだ)。結論からいうとやっぱり手近なのは『人間の条件』だな。それが終わったら『全体主義の起源』。いつになるやら。

私利私欲の要求から自由な個人が、政治という舞台で丁々発止の討議を繰り広げる。
ただし舞台なので、そうしたアクターたちのプレイを第三者的に見守り、ジャッジする観客という役割もまた尊重されなければならない。

そのモデルは「政治とは富の分配のことです」というよくある説明とも違うし、「討議しているうちにひとつの真理に達するでしょう」という普遍主義的な企画でもないし、「やっぱり外野より活動家が偉いよね」というアクティヴィズム賛美ではもちろんないです。それが現実のいったいどこに顕現するのかようわかりませんが、でもそれはそれでいいと思う。という歯にものが挟まった感じこそがアーレントの本領だというんですね。

もはやそれを目が覚めるようだとか示唆に富んでいるは思わないけど、まとめとしては分かりやすいです。通勤電車で読むのにちょうどいいくらいかなあ。それでもちょっと物足りないかも。

なんて思いながら読み終わって、次の本次の本と思いながら八重洲ブックセンターをぶらついていたら、仲正さん、とうとう自伝とか出しちゃったのな。なんか、えー、とか思いながら夕暮れの八重洲を歩いて次の仕事に向かったのでした。

2009年10月10日

音楽入門

■伊福部昭『音楽入門』全音楽譜出版社、2003年。

ゴジラのテーマでおなじみ、しかし実は現代日本の代表的な作曲家の一人、伊福部昭氏が1951年(!)に書いた入門書です。

が、これがまたすごい。

音楽は音のみで美しくあるべきだとするのが氏の主張なのですが、そのため小林秀雄のようにごてごてと文学的な修飾を尽くして評論したり、音だけで訴えかけきれないものを表題に託したり、情景など音楽の外にあるものを写し取ることに価値を見出すことを徹底批判します。一方で音をばらばらに配置したり数学的に配置したりする実験もまた、数(あるいは乱数)その存立を頼っているために批判の対象になる。
そして全球化する西洋音楽の進出に対して、民族音楽の素養をまずつけることを主張してます。それは、排他的な民族主義なのではなくて、国際社会に漕ぎ出す者にアイデンティティクライシスを起こさないための智恵を授けているようにも見える。

一見すると頑迷なおっさんのわがまま音楽批評のようにも見えますが、最後につけられた解説によれば、これは全て敗戦後の日本の軽薄な西洋音楽受容を批判したものだという。釧路生まれ、独学で音楽を勉強しながら北大農学部を出て勤めて賞とって音大教授になって学長にまでなっちゃう異色の人っぽい、とんがった感じが随所に見られる本です。こんな啓蒙書、本当の入門者が読んでもわかんないと思うけど(笑)

岡田暁生さんが「新しいクラシックとはジャズだ」と文庫に書いてて「へー、そうだねー」と思ったのですが(→『西洋音楽史』)、50年前に同じこと言ってました、伊福部氏が。やっぱり古典は読むもんだな。

2009年10月06日

グローバリゼーションの倫理学

■ピーター・シンガー(山内友三郎他訳)『グローバリゼーションの倫理学』昭和堂、2005年。
Singer, Peter. One World: The Ethics of Globalization, New Haven: Yale University Press, 2004.

英語圏では名の知れた功利主義系応用倫理学者、といったらいいでしょうか。
某オセアニアの大学で哲学の授業を取っていたとき、特によく出てきた名前です。オーストラリア出身の方だというところまでは知っていましたが、だいぶ運動もやった方だというのは訳者解説で初めて知りました。うん、確かに米ブッシュ政権に対する痛烈な批判や、具体的な提言をつけて章を締めくくるところなんかはその片鱗が見えますね。それだけにYes We Canが出てくる前に読めばよかった(3年くらい本棚にしまったままなぜか手を付けてなかった)。

環境問題のコストは誰がどう負担するべきか。WTOは不平等を促進するか。主権国家への人道的介入はどういう条件のもとで許されるか。途上国援助をしぶることは正当化できるのか。諸問題が国境を越える時代の倫理学を構想する。答えの出ている問題もあるし、出ていない問題もあります。政策学のテキストかと思うくらい網羅的に資料を読み込んでいる部分もある。かと思うとヘアもカントもノージックもウォルツァーも出てきます。
おそらく史上もっとも出来の悪い大統領が去った今、シンガーは何を言うのか。アップデートしてほしい本ではあります。そのわりにあんまり強烈な印象の残る本ではないのはなぜかな。

2009年09月28日

後期近代の眩暈

■ジョック・ヤング(木下ちがや他訳)『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』青土社、2008年。
Young, Jock. The Vertigo of Late Modernity, London: SAGE Publications, 2007.

まえに読んだ『排除型社会』の続編。9.11以降に書かれた続編であれば絶対に読んでおかなければならないと思って手に取りました。

前著の訳はすごく読みやすくてよかったんですけど、こっちは(拙劣ではないだけいいけど)固いなー。

犯罪、アンダークラス、テロ、セレブ、新しいメディア。全球を覆い尽くすまでにその触手を伸ばし、世界のすみずみまで飲み込みながら、その中から次々と”異分子”を同定して排除する。そういう「強迫的に包摂と排除を繰り返す」運動のことを「過剰包摂」と訳したようなのですが、まさにその様子を一言で表すキーワードbulimiaは、そのまま「(強迫的に食っては吐く)過食症」と訳すのが一番分かりやすかったんじゃないかなあ。

で、そこに潜むのは「われわれ」と「かれら」を分かとうとする衝動であって、その衝動の背景にあるのは経済・だけでなく・アイデンティティの流動化と不安定化だー、みたいな図式はとてもわかりやすい。

でも個人的には、この本の見どころは、図式の目新しさとかではなくて、随所にちりばめられた社会批評の多彩さではないかしらと思うのであります。いかに「われわれ」と「かれら」が似ているか、近接し・混ざりあっているか、”問題”の帰責先を構造ではなくて個人に指定してしまっているか、などについての事例を重ね、ボリュームのあるミルクレープを作り上げているのだと思います。(ドトールのミルクレープ、食いてーなー)

2009年09月10日

はじめての〈超ひも理論〉

朝、出勤する年上の彼女を駅まで送って1000円もらい、コンビニでおにぎりか何かを買って帰ってゴロゴロ。夕飯の支度を少し早めにして家を出て、手元のお金でちょっとパチンコをしてから、夕暮れの駅で彼女を出迎え、一緒に歩いて帰る。あまり言葉は交わさない。手も繋がない。

■川合光『はじめての〈超ひも理論〉』講談社現代新書、2005年。

超ひも理論は、そんな超ひもな男の生き方を理論化したものではございません。
もっとも小さな「もの」は「粒」ではなくて「ひも」という考え方。
それを考えることで、10のマイナス33乗メートルくらいの大きさからビッグバンが起こるという宇宙の始まりが記述できるともいう。(さらに、どうも今の宇宙はビッグバンとビッグシュリンクを50回くらいくりかえした末の宇宙らしい)

ついていけるのはこれくらい(笑)。
図表も非常に豊富で、どうやら革命的にわかりやすい物理の本らしいということはうかがえます(これはこれですごいことだと思う)が、もうね、宇宙が「ぷっ」と始まるとか、10次元の世界を考えればいいとか、虚時間では2分の1の長さが2倍に等しくなっちゃったりするとか、その言葉が言葉として理解できる以上の理解ができません。面白い経験でした。

2009年09月05日

単位の成り立ち

■西條敏美『単位の成り立ち』恒星社厚生閣、2009年。

ま、仕事絡みで。
メートル、キログラム、ヘルツ、ビットなど32の単位を取り上げて、その前史と歴史をざっと見る、単位トリビアですな。

ところで気づいている方もいらっしゃるかもしれませんが、このblogに上がってる本の感想は、文章の長さと思い入れの深さがだいたい対応してます(あまりにひどくて怒ってる場合でもそれはそれで思い入れが深いので多少長くなってるかも)。

2009年08月30日

日本の臓器移植

■相川厚『日本の臓器移植―現役腎移植医のジハード』河出書房新社、2009年。

ジハードねー
「聖戦」とばかり訳されるうちに元の意味からいろんなものが抜け落ちた言葉だねー

ええ引き続き仕事関係の読書。
腎臓がご専門の先生です。
脳死下臓器移植賛成、病気腎移植反対、あと腎臓病と透析なんかの話。とても文章がわかりやすいです。

2009年08月19日

子どもの脳死・移植

■杉本健郎『子どもの脳死・移植』クリエイツかもがわ、2003年。

仕事絡みで勉強のためにこのテーマの資料をどんばん当たっているところです。

本書はお子さんが交通事故に遭い、脳死、移植を経験した小児科医がお書きになってます。
家族の死を看取る病室の筆者が、専門家と親の視点をいったりきたりしながら事実を見つめ、記す。なんかずーんと重い気持ちになります。こういうのはなんか類似の経験がない人にはあまり響かないと思いますけどね。

7月に、15歳未満からの臓器提供もできるとした改正臓器移植法(A案)が成立しましたが、この本はかなりのページを割いて小児の脳死臓器移植を検討しており、資料的にも非常に勉強になります。

2009年08月09日

ニッポンの思想

■佐々木敦『ニッポンの思想』講談社現代新書、2009年。

フェリーの中で読むなら軽いものがよかろうと手に取った本でございます。
ニューアカから東浩紀まで。
そういやこの間復活した「朝日ジャーナル」に載ってそうな文章だすね。

2009年07月12日

アニマルウェルフェア

■佐藤衆介『アニマルウェルフェア―動物の幸せについての科学と倫理』東京大学出版会、2005年。

仕事で行き当たった本です。

アニマルウェルフェア(Animal Welfare)は動物福祉とか家畜福祉などと訳されていて、今年をはさんで±5年ほどの日本の畜産業にひとつの潮流を作る考え方ではないかと思います。
簡単に言うと、家畜、ペット、実験動物、動物園の動物など人間と関わって生きている動物の感じる肉体的、心理的苦痛を軽減すべきであるということ。

畜産に限っていえば、欧米諸国では動物に苦痛を与えないような飼い方のガイドラインが作られたり、そうした飼い方で飼われた動物の肉や卵に認証制度を入れたりといった動きが起きています。それを野菜でいう有機野菜のように高付加価値の商品として国や地域の内外で流通させていこうという流れができてきています。

この考え方については「家畜のストレスが少ないと病気に強くなる」とか「乳の質がよくなる」などの科学的サポートと、「生き物である以上それをむやみに苦しめるべきでない」という倫理的サポートが混在しているように見えます。この本は前者にも言及はしつつ、主に後者に立って家畜福祉の考え方を正当化しています。「どうせ殺すのになんの福祉か」といった素朴な疑問にも答えられる内容になっていると思います。

尻尾を切る、歯を削る、飼いかごに入れる、繋いで育てる、親子を離す、高栄養の餌ばかり食べさせる。そうした飼い方がストレスを与え、どういう行動を発現させるか。それをどうやって避けるか。基準を作りどう評価するか。なぜ西洋でそうした家畜福祉への運動が起きたか。動物への共感は文化差があるのか。などなど検討しており、とても考えさせられます。

国内では現在は限られた規模、限られた畜産家が実践するのみの家畜福祉とはいえ、たとえば欧米からの倫理上の圧力が強まったら、あるいは家畜福祉の基準をクリアした高付加価値の畜産物が流入したら、それが国内市場でも受け入れられ始めたら。横目で外国の動きを気にしつつ、しかしなんとなく避けて通れない問題に成長する気もする。というわけで農水省や畜産技術協会などが勉強会や和製の基準作りを進めています。この本が出てからの動きです。ご興味があれば同協会のHPなどへ。

2009年06月20日

ピアノ奏法

■井上直幸『ピアノ奏法』春秋社、1998年。

楽譜を読む。腕の重みで弾く。指先で弾く。指を上から落とす。鍵盤を引っ掻く。ペダルを全部踏む。半分踏む。リズム。テンポ。ハーモニー。

「ピアノを弾く」を要素に分解して、それぞれについてプロが何を考えながら演奏しているかの一端を見せてくれています。

いや、聡明な人には当たり前のことかもしれませんけど、小さいころからなんとなくピアノを習っていてこういうことって改めて考えたことなかったなあと、個人的には目からウロコの連続でした。

ソナタに手を付け始めたくらいの?レスニーに手当たり次第教えてあげたい。
インタビューを本にしたような形式なのでとても読みやすく、譜例も豊富で楽しい本です。

2009年06月05日

排除型社会

■ジョック・ヤング(青木秀男他訳)『排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異』洛北出版、2007年。
Young, Jock. The Exclusive Society: Social Exclusion, Crime and Difference in Late Modernity, London: SAGE Publications, 1999.

「安定的で同質な(そして安定性と同質性を求める)包摂型社会」から「変動と分断を推し進める排除型社会」への移行と、排除型社会を「犯罪」の観点から照らし出そうという試み、ですかね。

個人主義と市場の浸透が進んだ20世紀の後半3分の1の時期。経済的には成長が終わって格差や所得の不公正分配が進み、社会的には規範が不安定になったり小集団ごとに分かれるようになったりして、社会の見通しがきかなくなったという。

そのなかで、メディアなどを通じて広がる「努力と成功」みたいなイデオロギーと不公正分配が結びつくことで「相対的剥奪」の感覚が蔓延し、あるいは入り組んだ小集団の中でアンダークラスなど弱い立場の人々を道徳の欠如などと結びつけ、それをわれわれとは違う本質を持った人々と決めつけ(悪魔化し)て排除する、そうした背景を排除型社会の犯罪は持っているとみる。

そうした犯罪問題の病巣を叩こうにも複雑に入り組んだ社会の中でそれは特定しにくいためか、あるいは特定できたとしても叩けないほどがっちりと根を張っているかしているためか、結果として犯罪に対する反応は、リスクを回避するための計算と設計を施す「保険統計的」な態度になってくる。

結局、筆者が最後に描く処方箋は、上のような分析結果のそのまま逆をいくものになる。
個人や集団の本質化を解除し、アイデンティティが流動し・溶け合うものだととらえること。リスク計算と排除ではなく、分配の公正さを回復すること。「昔はよかった」と包摂型社会に戻ろうとすることではなく……

・500ページ以上あるんですけども、訳がいいのでガツンガツン読めます
・「それって新しいのかね」という疑問はあり(でも、相対的剥奪ってこうやって使うんだー、と勉強になった)、また「実証もあんましないよね」という気もしますが、評論としてはとても根底的・多角的に考えてあって面白いです
・9.11以前に書かれた本なので、このあと続編的な本に進みたいと思ってます

2009年05月28日

いじめの構造

■内藤朝雄『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか』講談社現代新書、2009年。

現象や言説を手際よく分類したりクローズアップしたりしながら、それらの背後に隠れた時代性を明らかにしました。ジャジャーン
みたいな芸当を蹴り倒し、数十カ所ナイフを突き刺し、呪詛を……みたいな情念を感じますなあ。いやこういうの好きですけど。
いじめの起こる心理的・社会的な構造を特定し、パーツごとに名前をつけ、そしてその中に病変の根を見出し、そこに効く薬を処方する。そういう実践志向な方法論に立って書かれています。

たとえば、いじめる側がいじめによって得る「全能感」、これに一度つきあうと、少しでも意に沿わないことが起きた場合に、損なわれた全能感の回復のためにより苛烈ないじめが起きるということを突き止めれば、最初の段階でうっかりいじめっ子に従ってしまうことがいかに危険かがわかる。

たとえば、いじめてもそれが「傷害罪」にならず、教室という狭い世界の掟では大した罰が与えられない(どころか、いじめをチクった=外の論理を持ち込もうとした側がむしろ非難される)とすれば、ほとんどのいじめっ子はいじめることのリスクが小さいからこそいじめをやめないのだということを突き止めれば、教室に「刑法」を介入させることがいかに大切かがわかる。

など、など。

内容については、かなり平易に書かれているので、ここでまとめるまでもなくさっと読めると思います。
強制的に子供を狭い世界に押し込め、「人とちがっている」ことを認めない掟の中で互いの顔色と場の空気を読みながら場当たり的に行動させる、学校という不自由な空間を開放すること。経験的にはなんとなくこうしたらいいんだろうなあ、と多くの人が思っている、そうした開放に向けて、プロジェクトをきちんと組み、根拠づける。意義のあるお仕事だと思います。

これ、でも、オトナのいじめに挑むにはさらに周到な作戦が必要だなー、とも思いながら読みました。
強制的に押し込まれた学校と違って、オトナの世界にある会社とか趣味のコミュニティとか、そういう集団って「自分で選択して入った」もののように見えて、実は賃金とか人間関係とかを人質にとって「抜けるのに相当のリスクとコストを課す」でもって「意外に代替できる集団がない」ところが多いでしょう。そういうところで起きるいじめにどう取り組んだらいいのだろう。
次の作品も読んでみたいです。

2009年05月22日

相対主義の極北(改)

■入不二基義『相対主義の極北』ちくま学芸文庫、2009年。
底本は2001年、春秋社。

※4月29日に書いた感想文の不出来感をずっと引きずっていて気持ち悪かったので少し書き直します。

「Aと考えるのはあなたの拠って立つ枠組みがそうさせてるんです」(相対主義者)

という言いっぷりに対して

「それだってあなたの拠って立つ枠組みに言わされてるだけなんじゃないの?」という反論。
通常はこれが「相対主義は自己論駁的である」という相対主義への決定的な批判とされているのですが、

「そうなんです、『Aと考えるのは枠組みに相対的なんです』という考えも枠組みに相対的なんです」と応答した瞬間、

「Aと考えるのは枠組みに相対的なんです、という考えも枠組みに相対的なんです、という考えも枠組みに相対的なんです、という考えも……」という無限の相対化の運動が始まってしまう。

結局、相対主義というのは、何かを積極的に提示する形の定まった考え方の様式であるのではなくて、「拠って立つ枠組み」から常に滑り落ち続ける運動のことではないか。そんなふうに考えさせられる本です。

そしてその無限回の滑落の果てにたどり着く「絶対的な根拠」。そんなものをもし想定するとすれば、その可能性を想定することはできるが、その内実が何なのか積極的に言うことができない(言った瞬間にそれは相対化されるから)、まさに「神」になるんですね。

人知を超えた存在のはずの神が何を創り、考えたか、なんてことを人間ごときが勝手にあれこれ想像したところで、それはその人間が拠って立つ枠組みに規定されたものじゃないか、といって「人間が構築した神」を解体する無限の運動に打って出た相対主義のシニカルさを極限まで追求すると、なぜかほんとうの(!)神的なものがその決して到達できない「果て」の位置に予感されてしまうという、不気味な結末。

これはこれで十分面白い。野矢茂樹さんの解説も面白い。

でも、好みによっては
うん、わかった。……で、何?
という疑問を喚起するよね。つまりそういう相対主義の姿を明らかにすることで、どうしたいのか、何に応用できるのか、という。
回答(1)は「そんなん関係ねえんだよ。単に知りたかった、それでいいじゃん」と超然とすること。
回答(2)はここから文化人類学みたいな異文化研究のほうに逸れていくということ(「相手のことが完全に分かった」という状態がありえないことを前提とすれば、よくわかんない他者に対して、同化も排除もしないおつきあいの仕方ができるんじゃないかという気もする)。

こういうことに興味のある人には非常に読みやすく、興味のない人には1ページ読むのさえ辛い本だと思いました。

2009年05月05日

人でなしの経済理論

■ハロルド・ウィンター(山形浩生訳)『人でなしの経済理論―トレードオフの経済学』バジリコ、2009年。
Winter, Harold. TRADE-OFFS: An Introduction to Economic Reasoning and Social Issues, Chicago: The University of Chicago Press, 2005.

まあ要は、メリットとデメリットだけに注目すると意外と一般の道徳観とは違った結論がでるかもしれませんよということを、臓器売買や違法コピーや喫煙や日照権や製造物責任なんかを例にとりながら見せるわけですわ。
なんか、訳がねー。高校生が評論文訳すとこうなるよねー、みたいな、なんというか、アメリカーンな砕けた感じの口調を描こうとして描けていないような、そんな、あれでした。
あと、うまいことキャッチーなタイトルつけると、読む人が中身に過大な期待をしてしまってよくないな。

内容?上に書いた通りですけど。

2009年05月03日

「生きづらさ」の臨界

GWの札幌はピーカンに次ぐピーカン!
でも……

■湯浅誠、河添誠編『「生きづらさ」の臨界―〝溜め〟のある社会へ』旬報社、2008年。

会社に転がっていたのをお借りしてきて読みました。
ちょうど湯浅さんが直前に読んだ『不平等の再検討』に言及してまして「おっ」と思ったのですが。

今年の年越し朝生を見たときに「貧困問題」の複雑さ(論点の多さ)に圧倒されつつ、でもこの人たちの本を一冊は読まねばなるまいと思ってたんですけど、このとっつきやすそうな鼎談本でさえ「正規だが低待遇、と、非正規」「社会問題と個人の問題」「適応力の問題と精神疾患の問題」と、そうしたセットのはざまに落ちたケースへの目配り、など複雑に絡まり合って頭が過熱気味でした。
最後にそうしたいろいろな分野の活動をネットワーキングしていくことや、そういう活動に人が集まるための条件(参加しなくてもいい「退避場」のようなものの必要性)について言及されていました。

感じたことは大きく2つで、
(1)特に湯浅さんは「社会科学にもっと頑張ってほしい」ということを何回か言われてました。「学問対現場」みたいな、どちらかといえば味方同士の分断を回避する智恵って大事だなあと思ったのが一つ。
(2)もう一つ、救済の対象が「働きたくても働けない人」から「働く意欲がない人」にまで拡大しても、さらに「働く意欲を喚起するような救いの手を払いのける人」みたいな外部が生まれる、その「より遠いところにいる他者」はやっぱり救済するのか/どうして(how and why)救済するのか、みたいな疑問がもやもやっと浮かびました。それは「そんなヤツラはほっとけ」と思っているからではなくて、もし自分が支援側の当事者だったらどうしたらいいんだろう?という当惑。

2009年04月29日

不平等の再検討

■アマルティア・セン『不平等の再検討』岩波書店、1999年。
Sen, Amartya. Inequality Reexamined, Oxford: Oxford University Press, 1992.

4月は日記が少なかったなー。
理由はよくわかりません。
忙しかったといえば忙しかったが、そうでもないといえばそうでもなかった。
花園だんごとか初代の醤油ラーメン(大盛)とかの写真もありますし、温泉宿に一人泊まって原稿書いたりとか、おいしい魚の煮付けや牡蠣のバケツ蒸しを食べたりもしていたのですが、なんか字にする気が起こらなかったのね。

ま、いいんですけど。

センの本をと。
(不)平等を考えるときに、所得とか、幸せ度(効用)の平等よりも、個々の人が自分の生き方の幅を広げていけるような、自由の平等を目指すようなアプローチを使ったほうがいいんじゃねえの、みたいなお話。

当たり前といえば当たり前ですが、人はそれぞれ違っていて、大きな病気を持っているとか、その社会の中で差別されているグループ(階級だとか、性別だとか)に入っているとかいった人たちは、そうでない人たちと同じだけの銭カネをもらったとしても、それを使って増やせる人生の選択肢はより少ないかもしれない。また、一人当たりGDPは低いけれど平均寿命は長い国があるとか、先進国の中で貧困があるとか、そういう現象も、所得だけに注目しているとうまく説明できない。

一方、幸せ度の平等に注目したとしても、最初からものすごく不幸な境遇に置かれている人は、もともと多くを望まないように慣れてしまっていて、少しの手当で幸せ度が大幅にアップしてしまう(逆に、わりと幸せな人の幸せ度をさらにアップさせようとするとたくさん資源を使うことになる)ようなことが考えられ、これもあまりいい方法論ではない。

人がいろいろな文化的・経済的・環境的な制約から自由になったら、当然これくらいは望むだろうという(長く生きたり、予防できる病気にならないで過ごしたり、あまり恥ずかしい思いをせずに生きたりといった)ことは何かを考え、それを個々人が実現していけたり、実現する自由を得られたりすることを重視したほうがいいんじゃないか、ということをさまざまな角度から考えています。

印象に残った部分だけつまみ食いするとこんな感じですが、ほかにも分配の正義論に対する色々な示唆がちりばめてあって、門外漢もへええとか言いながら読める本だったと思います。訳文も自然でいいですね。

2009年03月28日

銭ゲバ

■ジョージ秋山『銭ゲバ(上・下)』幻冬舎文庫、2007年。
初出は「少年サンデー」1970-1971年。

土曜の夕方、布団にこもって上下巻一気読み。超下がるズラー(笑)

ブラック系は大抵いける私ですが、かなりちっちゃい頃から唯一ダメなのが貧乏ネタ。といって食うに困る家に育ったわけではない(どうでもいいけど今から振り返ると不気味なほどウエットな家族だった)のに、なんででしょうね。
漫画自体は、当時は衝撃をもって迎えられたそうですが、私の見るところ「あらすじに絵を乗せました」みたいな感じであまり凝った作りではないとは感じました。悪いことする→ばれそうになる→殺す、の繰り返し。完全に先が読めてくる(最後だけ意外)。ジャンプでいう戦う→勝つ→より強い敵登場、みたいなパターン化された展開は雑誌連載の常なのかし。

TVドラマのほうは2、3回見ただけですが、だいぶ違った作りになっているそうです。では原作をとamazonで取り寄せて読んでみた次第です。
いっしょに買ったのが『無知の涙』ってのがセンスよい。我ながら。えー

2009年03月14日

欲情の作法

■渡辺淳一『欲情の作法』幻冬舎、2009年。

1週間で20万部売れたというのを聞いて、膨大な費用と手間をかけて部数の出ない本を書き続けるノンフィクション業界に怨嗟の声が渦巻いているようです。アハハハハハハハハハハハ
某80代女性が読了した本書、「それ貸して下さい!」と申し出たら「あげる」と言われ持ち帰って読ませていただきました。219ページ、所要時間24分。

内容。
・男は明るくてマメでスケベであるべし
・女はケバいのはだめ。あと男はけっこう傷つきやすいことを忘れずに
・声をかけてから射精するまでのtips(「ほめよう」「ソファを買おう」「ホテルのバーは地下ではなく最上階のを使おう」「挿入を焦るな」など)

感想。
・「そんなにたくさん足があってどうやって歩いているの?」と言われて、考え始めたら歩けなくなってしまったムカデさんの寓話(出典忘れた)を思い出した
・きゃあきゃあ言いながら回し読みする、よくできたコミュニケーション喚起装置

2009年03月08日

使える!確率的思考

■小島寛之『使える!確率的思考』ちくま新書、2005年。

確率・統計業界の観光案内所。

サイコロ1万回振ると6の目の出る確率は大体6分の1、とかそんな学校で習ったようなお話から、「結果を得るたびにそれまでの推定を修正していく」という普段ふつうにやっている推論に近い考え方のベイジアン、どういう仕組みで何がどれだけ起こるかが分からない場合(不確定性下)の確率論、人々を集合とみたときの「合理的な選択」と、実存がする選択のズレ=賭けとか優柔不断……、などメニュー豊富です。

ここでだいたいのイメージを掴んで、もうちょっと詳しい本に進むもよし、ニッチなところでは、文体を解析して誰が書いたものかを推定する計量文献学に進んでもよし、集合としての幸福と個人の幸福の齟齬について悩みたければトロッコ問題でうんうん言ってみたい気もする。流動性選好(優柔不断)と貨幣の商品化なんてテーマも面白そう。ベイズと討議民主主義を結びつけたらやり過ぎかしら。なにより「何を知りたいときにどのツールを用いたらいいか」「どういうツールを開発すれば何がわかるようになるか」といった設計のコツとか、知りたいですね。ま、別に何に使うわけでもないですけど。

2009年02月28日

人間の未来

■竹田青嗣『人間の未来 ―ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書、2009年。

ポストモダン「後」の社会の原理をどう構想しましょうかね、ということをヘーゲルに依拠しながら考えていく本です。

近代社会のキモである国家や資本主義。それを「階級的支配のための装置だ」と否定したり「そもそも幻想にすぎない」と否認したりしても、どこへも行き着かない。
なんでって、資本主義は生産と消費をどんどん拡大することで、初めて人間を欠乏状態から来る富の奪い合い(万人の万人に対する闘争)から救い出したわけだし、それと同時に暴力を国家が一元管理して、人々は暴力ではなくルールによる競争を通じて自由を実現していく条件は、少なくともできてるじゃない。国家を否定しても暴力の渦の中に戻るだけだし、資本主義を否定してもやはり富の欠乏によって暴力による奪い合いに戻るだけでしょ?ということを繰り返し説明します。

では、現在のように国際的なマネーゲームが各国の国内ルールなんてお構いなしに格差と金融崩壊を作りだし(そこで蓄積した不満がテロをも招来し)、大量消費と大量生産が資源を食いつぶそうとしているときに、近代をどう修正したらいいんだろうか?
資源を食いつぶすことで起こるのは、かつて資本主義が始まる前に慢性的にあった「欠乏」に再び人間を突き落とすことであって、それは暴力による奪い合い状態を復活させるのだとまず気づくこと。
それを避けるために、近代国家が作ってきた「国民間の(暴力でなく)ルールによる統制」というものを、国家間のルールによる統制にまで広げていくこと。これらが必要だといいます。

資本主義が19-20世紀に生み出した問題に対して、資本主義じゃあダメ、かわりに共産主義という究極を!とごり押しした「絶対主義」も、そうした大きな物語が倒れたあとに「何言っても空しいよねー」と引きこもってしまった「相対主義」も、まあそう考えたい気持ちは分かるけど、もうそろそろ死亡宣告でいいでしょう。
そこで参考になるのが実はヘーゲルで、彼は既に「絶対」も「相対」もだめ、ということを言っていて、かわりに、人にとっての「よいこと」というのはそもそもみんな違っているので、それらをルールのもとで戦わせながら「より普遍的なのはどれか?」を探求していくべきだ、そのプロセスに人の自由の本質がある、という示唆を与えてくれるのだそうです。

で、私の感想ですけども。
(1)この本読みながら、ローティの「自文化中心主義」を思い出してました。究極の真実なんつうものはそもそも知り得ないので、自分の立ち位置から出発して、しかし自分も間違っているかもしれないという態度を保ちながら、異なる価値を持つ人たちと接する中で「より多くの人が合意できる落としどころ」を探していくしかないんだという考え。そんなもんヘーゲルが200年も前に言ってるよ、ってのはほんとかいな?と思いつつ(『精神現象学』読んでないので……)やっぱりこの辺に落としどころ求めるしかないのねー、と思った。

(2)少し前にあるところで友人が「大きな物語の終焉→ポストモダン」は、実は「より大きな物語(地球規模・国家ではなく人間社会全体の問題)の出現→立ちすくむ」ではないか?と言っていたのですが、その整理のしかたがかなりいいとこ行ってたんじゃないかと思いながらこの本を読んでました。
ただ少し修正するとすれば「大きな物語の終焉→ポストモダン・期を同じくして・より大きな物語の出現→ポスト・ポストモダンの思想が必要になっちゃったが、それがないことによるオロオロ感」なのかなという気がしてます。

面白かったかどうかはこの感想文の長さで気づいて下さい(笑)

2009年02月15日

1冊でわかる経済学

■パーサ・ダスグプタ著、植田和弘ほか訳『1冊でわかる経済学』岩波書店、2008年。
Partha Dasgupta, Economics: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2007.

アマルティア・センの『不平等の再検討』を読もうと思ってページを開いたものの、こりゃ経済学の入門書をまず読まないかんなとページを閉じ、そして本を探し始めた1月。
ノーベル賞おめでとう記念でスティグリッツ経済学でも、と思ったら3分冊で計15000円、2000ページのボリュームに尻込みし、この安直な表題の入門書に手を出したというわけ。

感想。予想外におもしろかった。

米国とエチオピアに住む二人の仮想の女の子を登場させ、なぜ一人は豊かに、もう一人は貧しく暮らし、そして今後もそのままなのかを問いながら、経済学の考え方を紹介していきます。

リスクから身を守る保険、信頼できる政府、幅広く資金を集める株式会社と有限責任、知識産業と特許。こうしたさまざまな制度が、共同体を超えて互いに顔も知らない人々が協働し、自分たちだけでやるよりも多くの富を生産し、それを分け合うことをいかにして可能にするかを概観します。

さらに、これまでキャッチフレーズであるという以上に知られてこなかった「持続可能な発展」について1章を割いて見通しを与え、終章で共同体も市場も供給できないどんな財を政府が与えるべきかを検討しています。

訳者解説によると、この本は入門書としてはかなり特異な構成になっているそうですが、スタンダードを踏まえていない自分にはそのズレ具合が分かりません(笑)やっぱり2000ページ読むのか。アー

2009年02月14日

学校って何だろう

■苅谷剛彦『学校って何だろう―教育の社会学入門』ちくま文庫、2005年。

意外に待ち時間が多かった出張先で急遽仕入れた本。
毎日中学生新聞に連載した文章を本にしたものだそうです。
実は教育社会学関係の本を読むのはこれが初めてだったので、とても楽しく読ませていただきました。

(1)当たり前と思われているものを見つけてきて(2)別の時代や別の国と比べ、その「当たり前」を支えているものを発見する。
題材は試験、校則、カリキュラム、教科書、生徒、先生、学校と社会など。
(1)の作業が結構難しいんだろうなー、と思いながら読んでました。

読者の中学生たちには、考えるためのいろんな材料と問いが投げかけられます。
31のオッサン(私)が読者だと、全編にわたって「クイズ教育社会学、元ネタは何でしょう!」に見えました。

2009年01月07日

サブリミナル・インパクト

■下條信輔『サブリミナル・インパクト』ちくま新書、2008年。

1996年に『サブリミナル・マインド』(中公新書)を出し、東大からカリフォルニア工科大に移ってしまった下條せんせ。干支がひとまわりして出た前著の応用編です。

意識に上らないサブリミナルなもの、それが理性に先立つのだということをまず示す。
そのサブリミナルなものに直接訴えかけ操作する(そしてそれを意識上では自分自身の自由な選択だと感じさせる)現代のメディア、マーケット、そして政治について。

大澤真幸のいう「現実への逃避」、東浩紀のいう「動物化」あたりを、認知神経科学から見るとこうなります、的な話とお見受けしました。

それにしても実験心理の人が社会診断をやるとは、またずいぶんと禁欲を破ったなあと思いながら読みました。ま、新書だっつうのもあるでしょうし、誰かがやらねば的な仕事であるのかもしれません。いや違うな、そんなのとっくにフツーのことになっているっぽい(神経経済学!)。

2008年12月28日

コーヒーが廻り 世界史が廻る

■臼井隆一郎『コーヒーが廻り 世界史が廻る』中公新書、1992年。

東アフリカを原産地とするコーヒーは、15世紀のアラビアで禁欲と厭世のスーフィズムに「夜の礼拝に眠気を払い、食欲などの欲望を払う」と受け入れられ、その旅を開始する。

イスラム世界の「コーヒーの家」を、商人や外交官がヨーロッパに持ち込んだ。17世紀後半のイギリスではコーヒーハウスが政治経済の情報センターとして、そしておしゃべりを通じて「市民」を形成する場として機能するものの、「旦那が下らないおしゃべりに興じているばかりかコーヒーのせいでセックスが弱くなった」とするカフェから疎外された女性らの反発に遭い、やがて紅茶にその旅路を阻まれることになる。

対照的にフランスでは革命に向けたアジテーションの震源地としてカフェが根を張り、同時に増大する需要に対応するため西インドでのプランテーション経営が始まる。カフェに胚胎した自由・平等・博愛の思想は原産地の黒人奴隷とまで絡まり合い、ハイチ独立にまで進展していく。

遅れてきたドイツがコーヒーの原産地・東アフリカに求めた植民地政策の失敗。「働かない黒人は人種的に遅れている」―人種主義の萌芽。管理の手法としての官僚制。その不幸な結婚が産み落としたファシズムもまたコーヒーの香りをまとっている。
モノカルチャーのブラジル。それを攪乱する乱高下するコーヒー市場。モノに操られる国家、そして国民。黒い血液は近代市民社会を循環する――。

秀逸なタイトルが示しているように、世界史の中をいつもコーヒーは廻っています。と同時に、コーヒーの視点から見ればまさにこの人間の欲望を改造する魔力を持った液体を軸に世界史が転回/展開しているともいえます。ヨーロッパ近代と植民地と世界戦争の500年を駆け抜ける筆致は軽やかだが計算し尽くされたもので、読む者を引き込み、ときどきシャレを言ってはマッハで流したりもしつつ、世界中を引きずり回します。
実は10年以上前に筆者のドイツ文学の授業を受けたことがあるんですが、確かにこんな文章を書きそうな(いい意味での)ヤなオヤジだったような印象があります(笑)。

歴史は物語、社会も物語。だったらその記述には芸が求められるんじゃない?
冬休みにオススメ。

2008年12月24日

哲学初歩

■田中美知太郎『哲学初歩』岩波現代文庫、2007年。

初版は1950年、この文庫の底本は1977年の改版。

哲学史をざーっとさらう本ではなく、「哲学とは何か」「その意味は何か」「それを学ぶことはできるのか」「何を探求するのか」といった哲学の最初の一歩について、プラトンとその周辺を中心にぐだぐだ(超失礼)と考える本です。とても平易な文章で書かれています。

諸科学を上から傘のように覆う「原理の学」としての哲学は、どうやら一から十までを教えることのできるものではなさそうで、せいぜいできるのは馬を水のあるところまで引っ張っていくようなこと。あとは人間にもともと備わった理性の力で各自が究めるものである。その先には究極の幸福があるはずだが、それはあくまで理想の世界に想定できるものであって、哲学はそれを目指した永遠の知識の追求なんでござんす。

みたいな話。

2008年12月18日

まなざしの地獄

■見田宗介『まなざしの地獄―尽きなく生きることの社会学』河出書房新社、2008年。

さまざまな論者がさまざまなところで参照してきた有名な論文が29年ぶりの単行本に。
「まなざしの地獄」(初出1973年)
「新しい望郷の歌」(同1965年)
の2本と、大澤真幸さんによる解説がついてます。

「まなざしの地獄」は、連続射殺犯N・Nの残した書き物と、当時の労働についてのいくつかの統計の解読。地方を捨て新しい自分を打ち立てようとする本人と、地方出身とか貧乏だとかいう属性の負荷をかれに帰属させつづける都会の視線との齟齬を指摘し、さらにそこから高度成長社会の構造的なきしみを剔抉してます。

その背景を語る「新しい望郷の歌」では、高度成長の日本で、人々にとっての物質・経済・情愛の根拠である「家郷home」というものが、そのルーツを過去に求めるべき田舎から、都市でこれから作り上げていくべきマイホーム・核家族へと大きな転回を遂げていることを描き出してます。

40年ほど前の論文が2008年に再び出版されるにあたって必要な作業―収録された2本を繋ぐことと、それを現在と繋ぐこと―は、最後の大澤解説が受け持ってます。
N・Nと、今年あった秋葉原連続殺傷のKを対照させ、かれらを産んだ社会を対照させること。
ポスト・マイホームのさらに新しい「家郷」のありかたについて言及すること。
そして、一人の極端な存在=犯罪者を踏切板として、社会について語ることができるのかどうか。

ものすごく個人的な感想をよっつ。

1 田舎出身の自分が見田の『時間の比較社会学』から読み取ったひとつのメッセージは「ルーツから切り離されることは解放であり喪失である」ということなんですが、その香りがこの本にも漂っていた気がしました。

2 大澤さん、解説の中で見田のことをずっと「見田先生」と呼んでます。1997年だったか、政治学の大森彌さんの授業で、ある学生が「丸山真男」と呼び捨てにしたとき、大森さんが「丸山先生も呼び捨てされる時代になったんですねぇ~」(丸山は95年没)と遠い目をしてらしたのを思い出しました。

3 大澤解説は『おまえが若者を語るな!』への一つの回答として読める気がした。もっとも大澤さんは『おまえが~』では批判も言及もされてませんけど。

4 やっぱり見田宗介の文章はいい。

2008年12月14日

続 氷点

■三浦綾子『続 氷点(上・下)』角川文庫、2008年。
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北海道を飛び回る生活をしながらこの本を読んでいると、不思議な符合に見舞われることがあります。
昨夏、青函フェリーの中で氷点を読んでいたときはちょうど洞爺丸台風でフェリーが沈むシーン。
そして今日は、北見への出張の帰り、ふと時間が余って石北線の女満別駅(memambetsu, 旧女満別町、現在は合併して大空町)で電車を降り、歩いて1分の網走湖畔で写真を撮り、それから近くのホテルで温泉に浸かって、空港に行って待合所で本を読んでいると、ちょうど最後のシーンに網走湖畔が出てくるという偶然に。

そのほかにも、海に向かう小樽のメインストリート。いつも仕事で出入りしている北海道大学のクラーク会館、並木通り、図書館。それから、今年100周年を迎えた北大の美術部「黒百合会」。見知った場所と名前が、舞台となった戦後と現在をつないでくれます。

そういえば、三浦綾子の本を強烈に薦めた会社の先輩は「テーマは『人をゆるす』ですよ」と言ってこの作品を語っていましたが、うん、そのとおりだ。何度もこのフレーズが頭をよぎりました。

山と谷と、愛と死と、純粋さと意地悪、そして苦悩と―救済。そんなソリッドな構成が読み進める人に抜群の安心と見通しを与える、エンターテイメントのひとつの極致だなー、と思いました。

2008年12月10日

社会学

■長谷川公一ほか『社会学』有斐閣、2007年。

学部後半~院受験くらいのレベルらしい社会学の教科書。でも新書読めるくらいの人なら誰でも楽しめると思います。

もと同級生の社会学者にひょんなことから薦めてもらって10月初めくらいから寝る前に数~十数ページずつ読み進めてたんですけど(何回かは睡眠導入剤として使わせていただいたw)、いや、これホントによくできてますわ。

大学入学からもう干支が一回りしてしまったものの、その間に同時多発テロがあり、「格差社会」とか言われ始め、ユビキタスコンピューティングもだいぶそれっぽくなってきていて、そのへんのポンチ絵を示してくれる本て、なかなか出会えてなかったんですよね。

どうも入門書でもスペンサー、コント、デュルケーム。マルクス、ウェーバー、ジンメル。ミード、パーソンズ……あたりで嫌になっちゃった経験があるだけに、身の回りの出来事に引きつけて読める本であることはポイント高い。

いい本の条件とは優先順に:
(1)驚きがある
(2)知識が得られる
(3)次の読書に繋がる
(4)サクサク読める
だと思ってます。この本は(2)と(3)。拍手。
ぜひとも学部生が入れ替わる4年にいっぺんくらいは改訂してほしい(辛そうだな)。

2008年12月07日

アキハバラ発

■大澤真幸ほか『アキハバラ発〈00年代〉への問い』岩波書店、2008年。

秋葉原の無差別殺人についていろんな人が数ページずつ。

『おまえが若者を語るな!』じゃないですけど、あれだ、一つの具体例も示さず「マスコミは」「メディアは」とお書きになるのはちょっとねえ。まあ自分は『おまえが…』の著者よりは正義に燃えてないので、まあ所詮エッセイですしねとあまり目くじらは立てないのですけれど。

「若者」も「マスコミ」もそうですけど、代表(representativeの意味での)とかスポークスパーソンを持たず、しかも構成している個人とか会社の特徴に相当のバリエーションがある集団を”全体として”批判することの最大の危険性は、反論を受けない安全地帯に論者を置いてしまうことだと自分は思ってます。

ま、そういうエッセイが複数収録されてます。

2008年11月10日

有珠山 火の山とともに

■岡田弘『有珠山 火の山とともに』北海道新聞社、2008年。

仕事絡みで読んだ本。
著者は北海道大学の名誉教授です。ついでに高校の30年以上先輩です。ネプチューンの堀内健が歳いったらこんな顔になるかなー、と思ってます。どうでもいいけど。

1977年の有珠山噴火のときに、当時プレートテクトニクスの研究者だった岡田氏が偶然現地入りしたことから火山学に転じ、以後国内外の噴火災害に触れながら減災の研究にハマっていく様子がものすごく細かく書いてあります。それが臨場感を醸していて、自伝というよりは良質のルポルタージュだと感じました。写真も迫力のあるものがかなり盛られてます。
2000年の有珠山噴火のときに、「一両日中に噴火する」と予言して住民を避難させた学者として有名になった人(昨年度に定年退官)。当時はテレビでその会見部分だけ見ていたのでわからなかったのですが、本を読んでみるとそれは霊感でもなく科学に基づいて出した判断だったということがよくわかります。

語り下ろしを字に起こしたのでしょうが、一般向けというには専門用語の解説がなかったりとちょっと不親切な部分もありますね。あと誤字も。まあこれは著者というよりは編集側の甘さ。

2008年10月28日

ジャーナリズム崩壊

■上杉隆『ジャーナリズム崩壊』幻冬舎新書、2008年。

上司が読んだらしく職場の共有机にぽんと置いてあったので昼休みにマッハ読み。

記者クラブ批判はごもっとも。
アメリカでは新聞の役割は論説と解説で、速報は通信社の専門。これもごもっとも。
NHKはこすっからい組織。うははは、そうだろうねえ。

通底するのは「他社と同じ報道をしないとダメ」という横並び意識。記者クラブはもう言うまでもなく、日本で新聞やテレビが通信社と速報合戦やメディアスクラムをやっているのも、考えてみれば同じ原理に立っている。

で、おおかたの人はおかしいと思っているんだけれども変えられない。
で、おかしいと言う人は偉くなれない。

いち早く東京で夕刊を廃止して、webで通信社の速報ニュースを流しつつ紙面は論説を濃くするという産経新聞のチャレンジはそれなりに当たったと思うんですけどね。あとに続く会社はあまりないなあ。

ひとつだけツッコむとすれば、この手の本でひとつ気がかりなのは、外国メディアの人間がみんな崇高だとか教養豊かだとか、そういう幻想を持たれそうだなあということですが。

2008年10月26日

おまえが若者を語るな!

■後藤和智『おまえが若者を語るな!』角川oneテーマ21、2008年。

著者「宮台真司とそのお友達と手下が蔓延させた、浅薄で何ら実証的でない社会分析もどきのものを片っ端から名指しでぶった切った本なんですけど」

わたくし「雨もようの寒い日曜日を使って一気読みさせてもらいました。久しぶりに脳を使ったら途中でエンゼルパイと牛乳が必要になっちゃって……いやその、おっしゃってることは確かにそうなんですけど、本であげつらってるのはどれも新書みたいですし、ちゃんとした議論は学術書に譲って、ぼくらはアドホックに提示される物語を『あるある』とか『そりゃないわ』くらいな調子で消費していけばいいんでは」

著者「だめです。そうやって糞論説を垂れ流しながら成り上がっていった宮台は政策に影響を及ぼしたりしてるでしょう。こういう統計データも参照せずに思い込みで世代論を展開するような輩を許してると実害が出るんです」

わたくし「す、すみません」

著者「だいたいほら、自分の興味あるサブカル作品とか話したことある女子高生の言ってたこととか、そんな局所的な証拠から社会全体を語るとかってひどいでしょう」

わたくし「うーん自分の見たところ、作品や証言って、一般論を組み立てる上での材料として使っているケースもあるけど、別立ての思索の中から導いた一般論の切れ味を示す例として使ってるケースも多いと思うんですけど」

著者「だからその一般論を導くのに統計も使わず妄想だけでやってるわけでしょーが!」

わたくし「あがががががが」

著者「その意味でこの本は、手抜きの議論をもとに安易な世代論に参画し、自分以外の世代を敵として作り出して叩いて何かを解決した気になる、そんな知的怠慢をぶちのめすエポックメーキングな本だと思うんですが」

わたくし「うん、読んでる途中に『これは釣られる人多いだろうな』と思ってネットでブログ書評をいくつか見たんですけど、『ならば著者は世代論に代わるものを提出せよ』っていうツッコミは多いものの――個人的にはぶっ壊す仕事には別に対案は必ずしも必要ないとは思うんですが――おおむね『それでも言ってることは正しいね』というものが多かったように思いますね」

著者「そうでしょう、今後はこれを本棚に置いて今までのあなたの浅はかな読書生活を見直して……」

わたくし「あ、でもすいません、実はこの本、平日のランチ後に紀伊国屋で表紙を見たときに、著者名とタイトルからあまりにどんな構成の本か想像できたので、買わずに図書館で借りてしまいました」

著者「ぎゃふん」

2008年10月20日

王様は裸だと言った子供はその後どうなったか

■森達也『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』集英社新書、2007年。

これはー、買うべきかなー、借りて済まそうかなー、と紀伊国屋で表紙とにらめっこしたあげく(待ち合わせ直前で急いでいたのだ)直感で買うのをやめ、その後図書館で借りた本。

え、まあ、2時間くらいで読めるのでそれでよかったと思いますが。
読書もある局面においてはフィジカルな活動で、たまにはページを颯爽とめくる、前にはさんだ栞と今ページを押さえる指の間に次々と紙が堆積していく、そんなスピードの快楽を味わったっていいんじゃないかと、そういうあれ。

で、内容。おとぎ話から仮面ライダーや芥川作品などに、筆者が勝手に身も蓋もない解釈と改作を加えた短文集でして。正義と善意が勝つ古典に同調圧力や集団の暴力性や教条主義や偽善などを見いだして「王様は裸だ」的ちょっと嫌みなツッコミを入れるものの、表題作では結局「でもそういう『空気読めない』ツッコミが世を救うことはないんですけどね」と拗ねてみせる、そういう屈折した仕掛けは見えた。
嫌いじゃないです。豆知識もちりばめてあるしねえ。触れると何でも黄金になってしまう王様とロバの耳の王様は同じ人だとか、へぇ~と思いましタ。

2008年10月09日

不可能性の時代

■大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、2008年。

神なき時代に共生を実現する鍵は、最も遠い他者に向かって積極的に自分を開いていくことであろう。みたいな話(すげえひでえまとめ)。

理想の時代→夢の時代→虚構の時代(ここまで見田宗介)→大澤『虚構の時代の果て』(ちくま新書、1996年)→東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年)→大澤『不可能性の時代』。
個人的には東(つうかコジェーヴ)の「動物の時代」がいちばんネーミングとしてはいいんじゃないかと思いますけど。

さて次は、買ったきり読んでなかった川合光『はじめての〈超ひも理論〉』(講談社現代新書)を読もうかなー、と思ったけど、一昨日ノーベル物理学賞を受けたのがこの話で、ちょっとミーハーくさいので分野の近い別の本に手をつけることにしました(笑)

閑話。それにしても、「物理学賞と化学賞で日本人4人受賞」のうち2人が米国籍なんですけど、これって日本人2人+米国人2人じゃないの?と一瞬思ったあと、でもアインシュタインてアメリカ人でもドイツ人でもなくユダヤ人だろうし、ラフマニノフはやっぱりアメリカ人じゃなくて、せいぜいロシア系アメリカ人。ソ連からドイツに亡命して日本に定住したブーニンは日本人とは決して思えないなあとつらつら考えた。

越境した博士たちに自分だったらどうインタビューするだろう。「あなたのアイデンティティはどこにあるのですか。日本?アメリカ?両方?どちらでもない?それともこの質問は無意味ですか?」

2008年09月21日

本いくつか

5月から読んだ本がこれくらいしか……
感想文をそれぞれつらつらと書きたくなりつつ放置してるうちに面倒になったのでまとめてひとこと。

■大澤真幸『逆説の民主主義』角川oneテーマ21、2008年。
■真木悠介『時間の比較社会学』岩波現代文庫、2003年。
  <岩波書店、1981年。 (読んだのは8年ぶり2回目)
■森政稔『変貌する民主主義』ちくま新書、2008年。

救済を構想すると必然的に「それ以外」がこぼれ落ちるわけですが、それをどうしようどうしようどうしようとぐだぐだ考えつつまだブレイクスルー(あるいはストンと落ちる折り合いの付け方)には達しないねえううむ。ということを(1)真木は本の中で語られていない部分において語り、(2)大澤は社会の方面から、森は政治の方面から語っている感じ。かしらん。
ちなみにお勧めかと言われればどの本もお勧めです。

2008年08月16日

北方領土問題

■岩下明裕『北方領土問題』中公新書、2005年。

時間も経ってるし、四島返還なんてロシアの世論が許すわけないし、二島とかゼロとかでは日本も引っ込みつかないし、ここはひとつ面積で半々に割って択捉以外の三島返還でどうすかね、というお話し。

いやまあそんな単純な言い方はしてませんけど(いろんな論点に丁寧に目配りしていると思う)、とても読みやすい本ですし、北方領土問題って何さと思う人はこの本と、あとは教科書的に外務省の『われらの北方領土』を読むとだいぶ分かった気になるのではないかと思います。「じゃあどうしたらいいのか」にそれなりの紙幅を割いているのが、学者の仕事としてはかなり思い切っているなあと好印象でした。

仕事に関わることなのでここには書けませんでしたが7月の終わりごろからちょこっと”北方領土”に触れる機会がありまして、参考書として読みました。
北方領土にロシア人二世三世が増え、いっぽう日本人元居住者は次々と亡くなっていくわけで、時間の経過は返還運動にとってプラスに働くわけがないでしょうから、個人的には二島でまあ及第すれすれ、三島ならよくできました、とにかく早く国境を確定したほうがいいだろう、と考えてます。両国ともに「100点ではないが、メリットのほうが大きい解決ができました」と自国内むけにアピールでき、それが世論に受け入れられる落としどころとして「3島」つうのはかなりいい線いってる気はするんですが。

2008年04月09日

ウェブ社会の思想

4月に入ってから中くらいの仕事がいくつも飛び込んできていてイヤーな感じです。
完全オフでどっか行きたいなあ……

■鈴木謙介『ウェブ社会の思想』NHKブックス、2007年。

ユビキタス化によって、社会の至る所で自分の嗜好や行動に関するデータが集められ、そのデータの集積が自分自身の実際の選択に先回りして「あなたの選択はこれ」と示してくるネット状況(amazonを想起するとわかりやすい)で、自由はどうやって確保できるのか、というおはなし。
しかしこうしたネットが提示する「あなたの宿命」はあくまで不完全でしかありえなく、あなたを取り巻くナマの外部=他者とあなた自身が取り結ぶ関係にこそ、「データ→予測」回路の自動的な作動に回収できないものを提供してくれるんです、という結論だった気がする。

っていうか。

著者本人が、ネット関連の論点集として読んでもらってもいい、というようなことを書いてますが、そのとおり割り切ってネタ本として楽しんだほうがいいかもしれません。
ブログで日々の出来事を綴る(自分のことだ!笑)とはどういうことか、「炎上」が起こるメカニズム、「選択肢が奪われているのに気付かない」という自由の剝奪の形、とかいった論点は、読後に反芻しながら考えてみるのにいい素材だと思います。

2008年03月24日

アフォーダンス入門

■佐々木正人『アフォーダンス入門』講談社学術文庫、2008年。

アフォーダンスって何やねんとここ何年か思いながらちゃんと本を読むことがなかったので、文字が大きくて文章が平易なこの本にお世話になることにしました。

アフォーダンスは、動物個体の外にある「環境」の中にあって、個体に対して与える可能性のこと、とでも言っておけばいいんでしょうか。「水」のアフォーダンスなら「泳ぐ」「飲む」「汚れを落とす」など。
そうした水が意味するところのもの=泳ぐ、飲む、……、というのは、個体の中に備え付けられた反射でも概念に従う行為でも試行錯誤の結果でもなくて、環境の中に存在していて、そこに個体が働きかけつつ行為が作り上げられていくようなものだというのですね。
こうした環境と個体の相互作用こそが知の正体であると考え、その知を扱うのが「生態心理学」なんだということでしょう。

さて、それが何の役に立つのかといえば、知性に関するよりよい説明ができます、というくらいなのかな、という感想ですが、連想ゲーム的に思いついたのは、ここから環境の操作によって人間の知性を操作できそうだという「アーキテクチャ」の話につなげることってできないんだろうか?とドキドキしつつ次の読書に続きます→鈴木謙介『ウェブ社会の思想』(読み終わったらリンク張ります)

2008年03月15日

帝国的ナショナリズム

■大澤真幸『帝国的ナショナリズム』青土社、2004年。

短期間でも外国で暮らすといろんな刺激を受けるもので、研究者に限らずそれが文章を書く動機になるというのはすごくよくわかる。小熊英二さんの『インド日記』もこの本も(筆者は1998~99年に米国滞在)そうだけど、体験に突き動かされて書かれた文章は、荒削りでも迫ってくるものがありますね。

ええまあ荒削りな選集なのでこの本だけ読むとオカルトですが、これで興味持ったら『ナショナリズムの由来』と「自由の条件」(「群像」連載、単行本化もする気らしい)読んで下さいね、っておっしゃってるのでオカルト批判は読んでからやりましょう。(自分は『ナショナリズム~』が大冊すぎるのでこちらを先に手に取ったクチ)

まず読むべきなのはIV部をその一本だけで構成している書き下ろしの表題作。「アメリカが世界の警察をやりつつ自分勝手なのはなぜか?」を考えた作品です。
形式的にはこんな感じ:
(1)ナショナリズム(ネーションAの確立)
→行き着く先としての(2)帝国主義(宗主国Aに、ローカルなa、b、cが従属している)
→その否定(というか総合)としての(3)帝国的ナショナリズム(多文化主義Xに、A,B,C,a,b,cが従属している……ことになっているのに、実はAがXを体現しているふりをしている。その一方で、A,B,C,a,b,cはXのもとでそれぞれ自分の特殊性に執着することを許されている)

つまり、↑の(3)でいう、ユニバーサルを気取っているローカルAこそがアメリカ。
そして(3)にあるように多文化主義のもとで各国が固有の価値を求めた結果が、冷戦(=帝国主義)後に噴き上がったナショナリズムであり、さらにいえば90年代に日本で急に盛り上がった「Jナントカ」もその一部であり、「和」とか「邦」ではなく「J」という普遍的な記号を用いているところからも、それが従属国・日本における帝国的ナショナリズムの現れといえるんじゃないすか、というお話。

折しも米国売りの昨今ですが、今後の「宗主国」はどうなるんでしょうね。

2008年02月24日

哲学の冒険

■内山節『哲学の冒険』平凡社、1999年。

働く、食べる、考える。ギリシア市民のでも中世貴族のでもない、「ぼくたちの哲学」は、日々働き家事もやり将来を案じながら行う思索だ。
苦役のような仕事の毎日も、永遠のような長い宇宙の時間からみればとるに足らない一瞬の閃光にすぎない。そこに救いを見いだすこともできる。逆に、誰もが時代の子であり、日常の中にこそ微細な喜びがあり、そこに自己実現とか美しい生のエッセンスがあるのかもしれない。

ま、そんなこと書いてありませんけど、そんなこと考えました。
美しく生きるというのはどういうことで、どうすればいいのか。答えはわからないが歩きながら考える、そんな本です。読みやすいです。

2008年02月06日

M2

■宮台真司、宮崎哲弥『M2:ナショナリズムの作法』インフォバーン、2007年。

2008年01月30日

枢密院議長の日記

■佐野眞一『枢密院議長の日記』講談社現代新書、2007年。

明治・大正期に法務、枢密畑で活躍した倉富勇三郎が書きまくった膨大な日記を読み通し、皇室や華族といったアッパークラスの隠れたエピソード、歴史的事件の内幕話の数々を紹介する。
倉富の日記も面白いが、ひいひい言いながら悪筆の日記と格闘した佐野氏の独白がほほ笑ましくて良い。

2008年01月07日

反骨のコツ

■團藤重光、伊東乾『反骨のコツ』朝日新書、2007年。

刑事訴訟法学者・團藤重光の自分語り、死刑反対、それと戦中戦後史のゴシップ。

それはいいとして、これ、御歳94歳の團藤氏への伊東氏によるインタビューなんですが、この伊東氏という人、決定的にインタビューがへったくそだと感じた。
第一に偉い先生にお話を戴く、っていうスタンスのわりにインタビュアーが語りすぎ。と同時に『反骨のコツ』とかいいつつ内容に先生の言うことをへへえと頂戴する以上のツッコミが見えない。さらに「本にする=ひとに見せる対談」だという意識が足りなくてエピソードの寄せ集めみたいな散漫さに。

というわけで、これ読むくらいなら團藤氏の著書を読んだほうがよかろうと思いました。内容云々以前。

2008年01月05日

日本の現代住宅

■ギャラリー・間(編)『日本の現代住宅 1985-2005』TOTO出版、2005年。

住宅建築の20年。特徴のある120余の住宅を駆け足で巡る。amazonのレビューにあるように駆け足すぎてあまり味わっている余裕はないが事典としては使えるはず。

2007年12月12日

建築のABC

■ジェイムズ・F・オゴーマン『建築のABC』白揚社、2000年。

著者は大学の美術史教授。
古代ローマの建築家・ウィトルウィウスが建築の3要素として挙げた「用」「強」「美」にそれぞれ
用:機能、平面図、依頼主
強:構造、断面図、施工者
美:美しさ、立面図、建築家
を結び付け、解説してあります。
外国人が書いているせいか用いる実例もドームがどうだとかヴォールト(天蓋)がどうだとか、あまり日本の建築にはみられないものが多くて、まあ当たり前なんですけども、所変われば入門書も変わるのだなあと実感した次第。

2007年12月07日

住居論

■山本理顕『新編 住居論』平凡社ライブラリー、2004年。

筆者によって30年あまりにわたって書かれた文章を集めた本。
設計の発表時につけられた解説文などが入ってます。

・出入り口には外と住居をつなぐもののほか、住居と共有空間(集合住宅の中庭のように)をつなぐものがある
・客間のように、パブリックな空間(外)とプライベートな空間(寝室など)の間に立つバッファのような機能を果たす構造がある
などなど、住居を構成するいろいろな要素がそれぞれ、内とか外とかいった空間を細かく機能に分節していくものだというような発想がおもしろかった。

2007年12月01日

住まい

■萩原修監修『あたらしい教科書 10 住まい』プチグラパブリッシング、2006年。

行為、道具立て、彩り、時間、人、場所、つくる、といったキーワードと「住まい」を結び付け、工務店のドアをたたく2歩手前のブレインストーミングをさせてくれる教科書。その家で何をしたいのか、誰が住むのか、時間とともに何がかわっていくのか、などヒントが羅列されてます。

2007年11月30日

東京から考える

■東浩紀・北田暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』NHKブックス、2007年。

東北田の街歩き放談。

いろんなことが語られてますが、おもしろいと思ったのは、ITの発達によって情報を得るコストが低くなったことや、ジャスコ的なもの:コンビニ、ドンキホーテなどが街を覆い均質化してきたことなどにより、文化的なレベルの高低と経済的なレベルの高低が一致しなくなってきているという指摘。ちょっと前に読んだ橋本努本が指摘していた「経済的成功」と「クリエイティビティ」の乖離というのを思い出しながら読んでました。

2007年11月20日

建築家の仕事

強化月間で。

■畑中章宏編『建築家の仕事』平凡社、2006年。

6組の建築家と編者との対談。同じ東京の町並みを見てもその秩序のなさが軽やかでいいという人もいれば嘆かわしいという人もいる。つきつめていくと解が見えてくる学問ではなくて、共感を基礎に築く芸術をやっとるのかな。
インタビューに先だって「好きな本は何ですか」とか「嫌いなものは何ですか」などを聞いたアンケートをやったらしいが、「そういう質問には答えられません」的な底の浅い高慢ちきな態度が散見されてワラエタ。

自由に生きるとはどういうことか

最近読書づいてまして。

■橋本努『自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論』ちくま新書、2007年。

「自由に生きるとはどういうことか」と掲げつつ、この本が述べているのは、終戦直後から00年代までの日本社会がどういう行動に価値を置いてきたのか(何がそれぞれの時代の「神様」だったのか)ということだったように思う。

終戦直後に流行したのはそれまで抑圧されてきたエロス、それがぱっと咲いて散ったあとには高度成長の時代、「連合国側を勝利に導いた英国のパブリック・スクール式規律訓練が日本には必要なんだ」というスポ根と「市場経済の中で戦っていける自立した個人になるべきだ」という勤労の倫理。
闘争の季節には「既存の社会・制度をぶっ壊すための運動に身を投じて真っ白に燃え尽きろ」というあしたのジョー的物語。しかしそれも季節が過ぎれば企業社会に絡め取られていく。
80年代の尾崎豊は学校に代表されるような管理社会に薬物や消費で対抗するが、たどり着くのは胎内回帰のような愛だった。
90年代にはそんな退行(内向)と社会不安が結びつき、オウムやエヴァンゲリオンなど「世界リセット→救済もの(?)」が登場する。けれども、これもいつかは裏切られる夢。
00年代進行しているのは「消費」から「創造」へのシフトで、アメリカでは既に「創造階級」や「ボボズBourgeois Bohemians」といった文化的(芸術やソフトウエアの)創造を行う集団が台頭している。

この本の中では「自由であるとはどういうことか(自由の中身)」については何も語っていない。自分はそれについてこの本のひとつの裏メッセージだと思うのだけれど、ここそこで匂わされているように、自由というのはかっちりと「こういうもの」と定義できるものではなくて、そこに向かって行動が動機づけられるようなあいまいなユートピアだ、ってことなんだろう。(個人的には、自由というのは「○○よりは自由」という個別の比較において感じられる構造のことだと思うんだけど、それはまあまだよくまとまって考えてないのでこれ以上は書けません)

で、具体的にどう変わってきたのか、という日本社会分析の部分は、90年代までについてはこの本より9年も前に同じ新書で出ている大澤真幸の『虚構の時代の果て』のほうがスマートにまとまっている印象。でも「創造階級」の紹介の部分は「へえ」って思った。そしてそのクリエイティヴであることの価値と収入という金銭的価値を結びつけないで考えることが「格差社会」に蔓延する怨念を中和する鍵なんですよ、という示唆もなるほどという感想。ただその大事な部分がさらっと書かれすぎじゃないかとは思った。

というわけで並行して読み始めた『帝国の条件』に期待期待。

2007年11月17日

反社会学講座

■パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年。

今年、加筆された文庫版が出ましたが図書館にはありませんでしたので古い方。

少年犯罪やフリーター、少子化など「社会問題」をデータも大して示さずに問題に仕立て上げて見せる言説に対していろんな根拠を挙げながらツッコミを入れていくわけですけど、それって「反社会学」ではなくまさしく正統な社会学ちゃいますの。(当サイトを見ている人の中にプロの社会学研究者がいるので「正統な社会学」とか書くのには5ミリくらいの勇気がいるのだ、笑)

(現代の若者が好きこのんで簡単に職を変えてるとか、なんか90年代終わりくらいに書かれた本ぽいような現状認識の古くささも嗅ぎ取れるのが不思議なところ。でもまあそれはいいとしよう。)

読みながら赤川学『子どもが減って何が悪いか!』を思い出した。なんかそのへんの30代社会学者が新書で書きそうな「外国とか昔のこととか、ちゃんと調べてもの言いなさいよ」「統計でウソ言っちゃいけませんよ」的手つきのツッコミ20章。「パオロ・マッツァリーノ」が若手社会学者何人かで作ってるユニットだったりすると大納得だけど。

ちなみに著者はこんなサイト運営してます。

2007年11月16日

「建築学」の教科書

■安藤忠雄ほか『「建築学」の教科書』彰国社、2003年。

最近、建築の関係の本に当たり始めており。というのも、これもまた現実逃避の一環で、住宅情報のサイトで間取りをたくさん見ながらここにソファを置いてカーペットはライトグリーンで、なんてことを考え始めたら自分の家を自分で設計したくなり、さらに「ビフォーアフター」とか目にしては感心したりとかして、そういえば建築っていうのはどうなってるんだべか、と考えているからなのです。

通信制の大学で建築を勉強すると、既に大学を出ている人は2年次から編入して3年で課程を終えられ、そうすると2級建築士試験の受験資格が得られる(1級は2年間の実務経験が必要だそうだ)というので、もしかして時間ができたら勉強だけでもしてみるかな、と思っているのです。

で、この本はといえば、建築家とか、それ兼大学教授が寄ってたかって今何を考えているかを初学者、それも建築学の門の前に立ったばかりの人たちに向けて一筆書いてみたという内容。建築の歴史を考えている人、材料について考えている人、美しいとは何かを考えている人、古代や現代の建築について考えている人、建築家について考えている人、建築事務所の経営について考えている人、などいろいろいることがわかりました。とっつきやすいです。マル。

2007年11月15日

あなたのTシャツはどこから来たのか?

〈ハードカバーも読もうキャンペーン〉

■ピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』東洋経済新報社、2007年。

フロリダで買い求めた$5.99のTシャツ。その来し方行く末を追いながらグローバリゼーションを考える。学術的というよりはノンフィクションのように読める本です。

アメリカ南部で生産された綿は上海に運ばれて糸から布へ、そして縫製されアメリカに戻ってくる。ウォルマートで買い求められ、飽きると古着としてアジアやアフリカへ売られていく。3大陸をまたに掛けたTシャツの旅。その経済過程のほとんどに政治が介入している。それは国内繊維産業界に押されたアメリカの強烈で複雑な保護主義政策であり、それに対抗する中国製の安い衣料品を求める小売業界の自由貿易主義でもある。ほんとうにフリーなマーケットが作用するのは、古着となったTシャツがアフリカに売られる局面だけだ。

筆者の立場は単純な市場信奉ではない。「経済だけ見ていてはダメ」ということだ。国際経済に巻き込まれようとする人たちはそこに働く政治過程に何らかの形で参加していかなければならないと示唆する。また英国で起こった産業革命以来、繊維産業を支えてきた「底辺=工場労働者」はヨーロッパから北米へ、そしてアジアへと絶えず移動しながら消滅しないことは認めながらも、それが最貧層の人たちを農村から解放したこと、さまざまな市民運動によって労働環境の改善も行われてきたことを強調する。生活の向上のために必要なファクターとして「教育」も挙げられている。

Tシャツの話題をグローバリゼーションの全体像に敷延することはできないけれど、壁に穿たれたのぞき穴として次につながる読書になったと思います。

2007年11月07日

本の感想こまごま

■多木浩二『肖像写真―時代のまなざし』岩波新書、2007年。(11月7日)
肖像写真を写真の黎明期から3人の写真家の作品をめぐって読み解く。
図版が多くて一気に読める。

■佐藤和歌子『間取りの手帖』リトル・モア、2003年。(11月10日)
■佐藤和歌子『間取り相談室』ぴあ、2005年。(11月10日)
間取りは想像力をかきたてられる。
ロフトとかメゾネットみたいな立体的な間取りって惹かれます。実際住みやすいかというと疑問ですけど。

■大庭健『善と悪―倫理学への招待』岩波新書、2006年。(11月12日)
私は他人あっての私。善悪を弁別する感性を磨いて互いを尊重しあって生きて行けたらいいよね、ってことを小難しく書いた本。

2007年11月01日

〈個〉からはじめる生命論

■加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』NHKブックス、2007年。

・生命倫理がその対象とするべきものは、一般論としての「生命」とか「種」とかではなくて、名前を持った唯一の存在としての「誰か」であります。

って話、多分。で、
・だから何?
と思った。

いろいろ興味深い論点が詰まっていて、それらの検討は個別にはおもしろいけど、自分にはそれらの関連がよくわかりませんでした。おすすめはしません。興味があればどうぞ。

2007年10月17日

バガヴァッド・ギーターの世界

■上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界』ちくま学芸文庫、2007年。

ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の解説書。
執着をなくすといっても何もしないで無気力にじっとしているのはダメで、ちゃんと社会人としてやるべきことをやって、しかるべき段階まで行ったあとには最高神に関する知識を学びなさいってこと。
「良い子悪い子普通の子」じゃないが、何を食べ、どんな姿勢で仕事をし、どんな暮らしをすると死後に上昇するか、また人間になるか、下等生物に生まれ変わるか決まるんですって。

そしてますます自分の生き方に自信をなくすのだった(笑泣

2007年09月08日

自由とは何か

■大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007年。

おもろかった。

個人が行動とか嗜好などのデータの束として把握され、本人の知らないところで蓄積されていく監視社会に反発を覚えるのはなんでだろう?
著者は別にそうは言っていないが、自分の思うところそれは「自分に関する情報」という自分の分身(あるいは持ち物)が同意もなしに持っていかれているという、泥棒にあったような感覚であるような気がする。

それでも、例えば街頭の監視カメラとかアマゾンの「おすすめ」みたいに、個人に関するデータの蓄積は犯罪を防いだり興味のある本を差し出してくれたりといったhappinessをもたらすものとして、ぼくら自身が要請している側面がある。

そこで犯罪防止を例にとって少し細かくみてみれば、個人に関するデータの蓄積の利用方法としては次の2つがある;犯罪を起こす"可能性"のある人をあらかじめ排除してしまうような「事前規制」型の利用方法と、犯罪が実際に起きた場合に蓄積したデータから犯人の追跡を容易にするような「事後規制」型の利用方法。個人データの蓄積全般に広げてみれば、事前規制は予測不可能なことが起きないことを目標にしているという点で、創造の自由を侵しているといえる。それに対して事後規制は誰かの権利を侵害するようなことが起きた場合に、その補修を助けるものといえる。監視社会へのニーズは後者と親和的なんじゃないか。

起こり得ることは常に予測可能なことばかりではないが、良い結果が出たとしても悪い結果が出たとしても、それに対する責任を引き受け行為する、そのとき「自由な個人」が立ち現れてくる。

とまあ、自分がいいねぇ~と思ったところだけつなぎ合わせると上のような感じの筋書きになるんですけども、この読み方が合ってるかどうかはわかりません。
「監視社会を支えてるのはみんなの要請です」はべつに新しい指摘ではないけれど、じゃあどんな監視社会ならいいのか、を考える努力はこういう方向でやるといいかもね、と思った。語り口が親切なので好感です。思想系社会学者とかが使うよくわからん「自分語」みたいのがなくて。

2007年09月03日

計算不可能性を設計する

■神成淳司、宮台真司『計算不可能性を設計する』ウェイツ、2007年。

宮台真司は発言の中に「○○的」「○○化」「○○性」が出てくる頻度をもうちょっと減らすとよいと思う。
神成淳司の発言だけを繋げて読むと、なかなか実例に富んでいて面白いコンピューター社会論だと思う。

2007年08月14日

フォト・ジャーナリストの眼

■長倉洋海『フォト・ジャーナリストの眼』岩波新書、1992年。

下のエントリーと同じく、北東北旅行中に能代の古本屋で仕入れたもの。
エルサルバドルからアフガン、フィリピンへ、そして山谷へ。そこで見たもの、撮ったものについて。

個人的には、良質のルポルタージュというのはただ見たもの、聞いたこと、それについて感じたことを書き連ねるだけではなく、その背景にある社会・思考の構造にまで一歩以上踏み込んだものであるべきだと思っているんですが、その意味ではこの本はあまり良質だとは思いません。新書という分量の制約もあったかもしれませんが。

それはそうとして、他人の行かないところに行く、他人のしない工夫をして取材対象に迫っていく、その情熱はどばどば溢れている著書だったと思います。
ネットの危険性、肖像権とかプライバシーとか、いろんなことで人を撮ることがますます難しくなる日本で、フォト・ジャーナリストはどうやって仕事をしていくのか。著者に伺ってみたい気がします。何て答えてくれるでしょうか。

氷点

■三浦綾子『氷点(上・下)』角川文庫、1982年。

下のエントリーのとおり、北東北旅行の最後、青森港で延々とフェリーを待ったときにイッキ読みした本です。
人生においてよく本を薦められるということがありますが、あまり多いので2人以上から薦められたら読むことにしています。この本が久しぶりのそれ。「笑点」のタイトルは番組開始当時にブームとなっていたこの本のタイトルをもじったものだそうですよ。へえええ

娘を殺された夫婦が、殺人犯の自殺によって孤児となったかれの娘を引き取って育てるおはなし。病院を経営する夫、美貌の妻、利発な息子と娘、という一見非の打ち所のない家族のなかで、「殺人犯の娘が家族にいる」という秘密をめぐる苦悩と愛憎が描写されていきます。テーマは「原罪」とのこと、それがどういう意味かは読み通したときに初めてわかる気がします。

2007年07月30日

中学校のシャルパンティエ

■小谷野敦『中学校のシャルパンティエ』青土社、2003年。

昨夜あった長時間拘束の仕事中に3時間で一気読み。音楽にまつわる書き下ろし短編エッセイ集です。

読みながら考えたことなのだけれど、私にとっていい読書とは(1)知識を増やしてくれる(2)次の読書に繋げてくれる、というもので、だから小説はほとんど読まないし、うじうじこねこねと弄るような思索にもあまり興味をそそられない。

で、この本は(1)(2)ともありましたので満足。

それにしても今月のエントリー数は二けた。けっこう書いたな。なんでだろう?

2007年07月27日

さびしさの授業

■伏見憲明『さびしさの授業』理論社、2004年。

「中学生以上すべての人の」とコピーのついた「よりみちパン!セ」という新書の一冊。ルビつき。2時間で読めます。世界と自分とをつなぐ橋、生きるを続行する意義。それって何であって、どうやって見いだしていくのかについて。
ワタクシがこの本が誰に力を与えるのかわかんないのはたぶん(1)歳を食ったからであり(2)今の自分がもっとマテリアルなレベルで疲れてるからだろうなー、と思った。
それはそうとして、自分の生い立ちについての記述がそこここに出てくるのに自意識の臭みがほとんどないのと、スーパーマンのサクセスストーリー紹介ではなく「ふつうの人」がどう着地したらいいのかを考えているところがいいねえ、と思いました。

2007年07月20日

音を視る、時を聴く

■大森荘蔵、坂本龍一『音を視る、時を聴く[哲学講義]』ちくま学芸文庫、2007年。

1982年に行われた対談。大森氏はすでに故人です。
未来、現在、過去、私、イメージ。これらについて論ずる際の適切な「表現」って何だ。というようなことを二人がつらつらと話し合ってます。自分は結局表現の問題かいな、とちょっと不満でしたけど。
「いま」というのは幅のない一瞬のことではなく、はっきり何秒とは決まらないが一定の範囲の時間のことだ、とか。
「未来」とかそのイメージというのは、脳の中にあるのではなくて、自分の外・世界の中にあるのであって「いま」とは顕現の仕方が違うのだとか。
そんなようなお話だったように思います。

2007年07月15日

ゲーム的リアリズムの誕生

■東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年。

ライトノベルやゲームといった作品の中の世界と、作品を読む/プレイするひとたちがいる外の世界。2000年代に登場したいくつかの作品では、「中の世界」で完結するのではなく、「外の世界」の構造(プレイヤーというものの性格、プレイヤーが置かれているポストモダンの世界、オタクというものの特質)をその中に取り込んでいる。それをふまえれば、こうした作品群の批評では「中の世界」内での整合性や「外の世界」と対比してリアリティを語ったりしているだけでは不十分で、「外の世界」の構造・を・織り込んだ「中の世界」のあり方について分析する必要がある、ということ。かな。

いくつかの作品を具体的に分析しながら話が進んでいきます。あらかじめ読んだりプレイしたりしてから読むとすっと入れるかもしれない。自分は何年か前に本書で取り上げられている「AIR」というゲームを妹からもらって(!!)やったことがありましたが、それ以外については本書で紹介されたあらすじから内容を推測しながら進むことになりました。それにしても分厚いねー。

2007年07月06日

音楽の基礎

■芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書、1971年。

音楽の館、玄関を開けたところにある大広間。装飾のほどこされた重厚な雰囲気の調度品、そして和声学、型式学、音楽史などに続く扉が見える。そんな本。

「音」について語るのにまず「静寂」から入り、人間の耳の特性に触れ、音を高さ・強さ・長さ・音色の構成要素に分解して見せる。とても分析的で、しかも平易な言葉で。
バッハがどうして空前絶後なのか。ドビュッシーがどうして革命的なのか。現代音楽とどうやってつきあったらいいのか。東洋の音楽の可能性。そんなことも含めて含蓄に満ちた200ページです。オススメ。

2007年05月26日

物理学者、ゴミと闘う

■広瀬立成『物理学者、ゴミと闘う』講談社現代新書、2007年。

×大量生産、大量消費
○「もったいない」の精神
を環境問題をいろいろ調べて総花的に語る本。

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職場では仕事の都合上NHKをつけっぱなしにしているんですが、ルー大柴とかが歌ってる「MOTTAINAI」って出来の悪い曲が毎日かかって耳障りなのー。

2007年04月22日

思考の用語辞典

■中山元『思考の用語辞典』ちくま学芸文庫、2007年。

100の(主に西洋)哲学・思想用語について4-5ページほどの解説を加えてます。語源をギリシアに求め、そこから啓蒙の時代、20世紀哲学と展開。まるでブログに書いているような軽い文体で分かりやすく説明されてます。
もっとも、これはこの本が悪いのではなく総花的な本の宿命だと思うのですが、これで何かが分かった感じはあまりせず、粉ジュースのような、「なんだか哲学っぽい味」のような読後感。語源辞典およびブックガイドとして読むのがよろしいかと思います。

初版本当時(2000年)に書いたまえがきには100の用語のどこから読んでもいい、と書いてあるが、文庫版のあとがきには最初から読んで欲しいとある。著者の筆致の変遷が理由だそうですが、私の場合はばらばらに読み進めていたら最後にはどこを読んでないかわからなくなったので、やっぱり最初から読むべきです、これは。

資本主義から市民主義へ

■岩井克人+三浦雅士『資本主義から市民主義へ』新書館、2006年。

岩井克人へのインタビュー。同じ著者の『貨幣論』『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』まで読んだ気になれちゃうお得なご本でして。

(1)言語・法・貨幣はいずれも神・宗教・労働といった超越や根拠をもたない社会的実在で(2)だからこそ何かの拍子で崩壊しかねないシステムでもある(特に貨幣=資本主義)。(3)その可能性を最小化するために法や貨幣に回収しきれない信任とか倫理=市民社会が要請される。

というようなことだと思うんですが、(A)言語によって作られる市民社会って、やっぱり法や貨幣と同じように自壊の危険は孕んでるんじゃないかしらんとか(B)市民社会って超越じゃないのかしらん、とかいう疑問は残り……(たぶん読み込み不足

といっても、この本の価値は言語・法・貨幣ってそもそもなんなんですか、ということをつらつら考える部分にあると思いますので、提言より考察を楽しむ感じで読むといいんじゃないかな。

2007年03月04日

森のバロック

■中沢新一『森のバロック』講談社学術文庫、2006年。

南方熊楠の評伝。原本は1992年刊。
「20世紀初頭にこれだけ進んだこと考えてました」といっても、すごいねえとは思うけれど、現在の水準からみてもなお参考にするべきものがないなら、あんまり読む価値ってないよねえ、どうかなあと思いながら読み進めてみました。

二元論を超えるもの、原初の混沌、全てが全てと繋がっていること、いくつもの体系を行き来する視点。このへんに西欧の学問を乗り越える鍵を見いだせるとのことでしたが、おお乗り越えてる!って感じは特に受けませんでした。

これを踏み台にして、中沢氏は「対称性人類学」への道を切り開いていったそうですが、そっちを読んでから戻ってくるとああなるほどねと思えてくるのかもしれんです。

2007年01月11日

人権と国家

■スラヴォイ・ジジェク『人権と国家―世界の本質をめぐる考察』集英社新書、2006年。

帰省するときに新千歳空港で買った本。ジジェクへのインタビューと、間に挟まってるインタビューを行ったのは岡崎玲子さんというひと。1985年生まれ。若ぇ!そのうらやましい経歴はこちら。英語を喋ることもそうだし、こういうインタビューの敢行もそうだけど、クソ度胸(と、それを発揮していることに気付かないある種の麻痺もあればなおよい)が大事なんす。

世界を皮肉るのに使えるワンフレーズ集という感じ(褒めてます)。
列挙しようと思ったけど面倒なのでやめ。ざっくざく読めるので読みましょう。

2006年12月17日

絵の教室

■安野光雅『絵の教室』中公新書、2006年。

NHK人間講座のテキストを再編集したもの。
どうやったらうまく描けるかよりも、遠近法、写真、写実主義、自画像、空想など絵にまつわるキーワードを通して、絵画というものの特徴を考える機会といったらいいでしょうか。

『写真について話そう』についてのエントリーを書いたあとに読み始めた本です。けっこう呼応する部分があって面白く読みました。

当たり前のことですが、「あるものを写し取る」ということにかけては写真と絵画は深く関係している一方、「ないものを表現する」については絵画の特徴として際立っている。そのために必要なものこそ本の中にちょくちょく顔を出す言葉「イマジネーション」、それと「知識」だと思います。
人間の体や昆虫、植物などなど、ものの構造を知識として持っていることで、ただ見ただけでは再現/表現representできないものをできるようになる。だから知識はそれをどう組み合わせるかについての技術=イマジネーションを下支えしているもだと自分は解釈しますけども、あってるかな。

2006年11月30日

クオリア入門

■茂木健一郎『クオリア入門―心が脳を感じるとき』ちくま学芸文庫、2006年。

最近テレビで見かける「クオリアの語り部」w茂木氏の本を初めて読んでみました。

・心とか私ってのは脳のどういうメカニズムに宿っているのか知りたい。
・クオリアというのは音とか色など、ニューロンが反応している前意識的な「質感」のこと。「あの赤い感じ」「ヴァイオリンのあの音質」
・ポインタというのはそのクオリアを意識に上らせる働き。「これがリンゴ」(=現象学でいう「志向性」)
・そのポインタの起点に「私」があるんではないか。

という具合で、「心はどこにあるのか」という疑問に答える本ではなく、その疑問を腑分けして、何について考えなきゃいけないのかを考える本でございました。

(1)ポインタの起点=「私」なのはいいとしても、ポインタがどうしてhow and why生まれるのかは結局わかんない気がする(逆にその問題を考えないとすると、ポインタの起点=「私」、というのがファイナルアンサーでいいような気もする)
(2)そういや、そもそもなんで「私」のありかなんて考える必要があるのか

などと素人は思うのですが、しかし掘っていくと面白そうな分野だと思います。

ところでこの本に出てきた「両眼視野闘争」というのがありまして、それを体験できるこんなサイトもあります。ほんとうは両眼から入った2つの異なる図形がゆらゆらと入れ替わるように「見え」ないといけないらしいんですが、私、ときどき二つが「重なって」見えます。なぜ?

参考:茂木健一郎氏のブログ「茂木健一郎 クオリア日記

2006年11月28日

写真について話そう

■飯沢耕太郎『写真について話そう』角川書店、2004年。

京都造形芸術大学の写真講座の教科書として書かれた本だそうです。
対話篇で、写真の歴史から、絵画との関係、さまざまなジャンル、セルフポートレートって何だとか、デジタル写真って一体何なのか、といったことを粗々ですが紹介していきます。サックサク読めます。
自分にとっては写真って、なんか撮影とか撮像素子がうんぬんとかの技術面ばかり気になっていましたが、「藝術」としての写真について考えてみるのも楽しいなあと思わせてくれた本です。
これを踏み台に別の本とか写真集に進んでいけると楽しいかもしんない。

2006年11月18日

エスノメソドロジー

■ガーフィンケル、ハロルドほか『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』せりか書房、1987年。

もはや「ひと昔前」になんなんとする学生時代に、基本書として指定されながら読んでなかった本でございまして。そして今や本自体は「ふた昔前」のものになってしまいまして。

ま、いいんですけど。エスノメソドロジーというなんかよくわかんない方法論の論文集です。エスノメソドロジーとはなにかについては、編訳者があとがきに記しているので引用。

……要は、「あたりまえ」の領域には、私たちがふだん”実際におこなっているが見えていない、すなわち反省していないさまざまな問題がはらんだ推論や行為”がうずまいていることだ。それに対して、たとえば「会話」を詳細に記述し、「あたりまえ」の領域へ踏み込んでいく。こうした……”もう一つの現実”へ旅立つプロセス。これが”エスノメソドロジーすること”なのだ。

世の中でフツーに話されたり書かれたりしたものを元にして、当の話したり書いたりしている人たちが無意識に前提している考え方とか行動様式を明らかにし、さらにそれらを誰が、どういう力を使って動かしているかを明らかにしていくという営み。

自分なりの考えですが、それをやるには、話されたり書かれたものの中に留まって「それが何を意味しているのか」を考えるのではなく、逆に「そこでは話されていないことや書かれていないこと」を突き止めることが一つの方法になる気がする。「脱構築」の実践?

それから、こうした営みは、世界の解釈の仕方というのはいくつもあって、そのうちどれが「正しい」というのは神様が決める絶対的なものではなく、いろんな人たちの力関係に左右されるんだというメッセージも発していると思う。これは(誤解を恐れずにどどんと押し出せば)相対主義的あるいは文化人類学の教えでしょう。

そうして引き出してきた「そういう話し方や書き方をみんなにさせるような力」を摘出するとか、さまざまな手法で「<常識>を皮肉る」というのは社会学そのものだと思うんですけど、それがなぜサブタイトルにあるように「解体」なのかしら(僕らが見た90年代後半の社会学は解体を既に経た社会学だからか)。

と、いろいろ考えながら読んでみました。急ぎならあとがきだけつまみ食いでもいいと思うけど、個別の論文も結構楽しかった。

2006年10月28日

カーテンコールのあとで

■スタニスラフ・ブーニン『カーテンコールのあとで』主婦と生活社、1990年。

stage6でブーニンの演奏するショパンのピアノ協奏曲の映像を見つけてから(キーワードpianoとかで検索してみて下さい)ヘビロー中なのですが、それこそ恥ずかしながら映像ではほとんど見たことのなかったブーニンの演奏がCDの印象よりよほど派手でベッタベタだったことに驚き、そういや全然この人のこと知らなかったわいなとこの本を手にした次第。

生い立ちから音楽学校、音楽院、ロン=ティボーとショパンコンクールでの優勝など人生のかどかどでソヴィエト・ロシア体制の暗部に触れ、とうとう果たした母親と一緒の国外演奏会の機会をとらえ西ドイツで間一髪の亡命を達成するまで。最後にはNHKがやったコンクールの特集番組でブームとなった日本に一章を割いていて、ひいきっぷりも垣間見える。個人史の視点から構成された”政治”はかなり引き込まれるドキュメンタリーになってます。

有名人から身の回りまで、スゴイ人たちを見るにつけ「なんでアンタそんな人になれたの?」っていうことに関心のある自分は、他人が切り取った「伝記」よりも、自分のことをよく知っている人が書いた「自伝」が好きなんです。

自分が小学生のころに有名になった人なので、まだ40歳てのはなんだか変な感じ。読売が夏にインタビュー行ってます。これもまた率直な語りでいいですね。

2006年10月08日

『ミグ25事件』

■原田暻『ドキュメント ミグ25事件』航空新聞社、1978年。
(↑あきら、は日へんに景です念のため)

1976年9月、ソ連(当時)から当時最新鋭の戦闘機ミグ25が函館空港に着陸し、パイロットがそのまま米国に亡命したという事件(ベレンコ中尉亡命事件)、そのドキュメントです。著者は読売新聞記者。
冷戦下のことですから、まず領空侵犯ばかりか着陸までされてしまった、米軍が機体の調査に加わった、ソ連との関係が緊張した、など当時は大騒ぎになったようで、その内幕を実に克明に描いています。自分は仕事に関連するので読んだのですが、特別の関心がないとちょっと眠たいかも。
この事件は本来の手続きを無視した現場の判断で出動が行われていたことなど(下記文献)から、いまでも自衛隊の正史には登場しないそうです。ベレンコ氏は現在もアメリカに住んでいて、航空ショーのプロデュースなどをやっているもよう(30周年を機に制作されたSTVの特集でやっていた)。

(参考)大小田八尋『ミグ25事件の真相:闇に葬られた防衛出動』学習研究社(学研M文庫)、2001年

2006年09月17日

『整体入門』

■野口晴哉『整体入門』ちくま文庫、2002年。

そういや、〈身体〉ブームっていつの間に去ったのかね。

2004年4月、朝日新聞で見田宗介が「私の野口晴哉」という連載をやったことがありまして、そのときに「誰それ?」と興味を持ってから本を買うまで2年半経ってしまいました。
身体の探求のひとつとしてどうぞ。
そのあと何か読みたいと思ったら、南鄕継正『武道の理論』なんていかがかしら。

2006年09月16日

『丸山眞男』

■苅部直『丸山眞男―リベラリストの肖像』岩波新書、2006年。

大学5年目の2000年、『日本政治思想史研究』を取り上げた授業の中で姜尚中が「丸山眞男という人は、とてもtimidな[憶病な]人だったのではないか」と評していたのがなぜか心に残ってます。

で、この苅部本。仕事解説というよりは評伝、伝記的な読み物として面白く読めました。
戦時体制、学生運動、戦後民主主義へのバックラッシュ、など時代や思想の左右を問わず吹き出す抑圧に対して、普遍的な価値としての自由を対置する―優秀だが辛辣で鼻持ちならない(※)―知識人というイメージ。けれどもそれは戦中に投獄された際、抑圧に屈したというものすごく個人的な原体験に裏打ちされている。この人のもともとの志向は社会の改良ではなく、顔の見える範囲の人たちと心安い関係を結ぶにはどうしたらいいのか、といったミクロなものだったんじゃないかしらん、と思いました。

※三島由紀夫と林房雄が対談の中で丸山を批判したのに対する切り返し「事実上黙殺するだけじゃなくて、軽蔑をもって黙殺すると公言します」はいつか使ってみたいフレーズですな(笑

2006年08月31日

『新しい高校生物の教科書』

■栃内新、左巻健男『新しい高校生物の教科書』講談社ブルーバックス、2006年。

高校1年のときにさわりだけ習った生物。10年経った先々月、仕事先の研究室で「mRNAってなんでしたっけ」と言って相手の絶句を誘発してしまったため、勉強すっかと手に取った本ですが。
すっごく面白かった。生命体の発生から環境問題までわかりやすく+包括的に+細かく(教科書ってそういうもんかw)解説してくれてます。
細胞の中に取り込まれて共生していた別の細胞がミトコンドリアになったとか、分子式で見る光合成とか、「目で見る」「耳で聞く」の仕組み、それから免疫、進化、などなど、へぇ~っということばかりでした。必読。シリーズにはほかに地学、物理、化学があるようです。

2006年06月24日

『「資本」論』

■稲葉振一郎『「資本」論』ちくま新書、2005年。

財産を持たない人間でも「労働力」という資本(人的資本)を持っていると考えることで、私的所有、市場、資本主義という制度のなかでなんとかプレーヤー資格(=資本)を持った人として労働者を位置づけようよ。だって財産がないからといって今の制度の外に出るってのはどうもムリだし、プレーヤーとして認められないまま制度の中に居残ってもキツイでしょう。

みたいな話だと思うんですけど、そんなようなことが言いたかったことは300ページのうち280ページくらいまで進まないとわかりませんでした。(でも今見たらカバーに書いてあった!笑)

2006年06月18日

藤子・F・不二雄[異色短編集]

■藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿』小学館文庫、1995年。
■同『気楽に殺ろうよ』同、同。

秋田出張はホント「待ち」の時間が多いので、街の古本屋で2冊仕入れました。
まあ別に云々する必要もなく面白いのでぜひ読んで下さい。収録作品の初出は1969-1977年。

で、余計なこと。
そうはいっても一人の人間が描いているのでなんとなく類型のようなものが。
・時間旅行もの
・平行世界もの
・環境問題もの
・神様視点もの
・立場逆転もの
現にある「常識」とか「科学」の構造をとらえて→それをずらしたり反転させたりするのがサイエンスフィクションだとすると、こうしたテーマに集約されるのは不思議ではないですけどね。

あと、単純な感想。
・人物の描き分けができるって当たり前のようでいて素晴らしい(→イマドキの雑誌をみよ)
・サイエンスに依拠したフィクションて、やっぱり一定の教養がないとかけないのね

『社会学入門』

個人的には「どうしたんだ岩波新書フェア♪」と呼んでいるのですが、岩波新書が新赤版1000点突破記念で表紙のレイアウトやカバーの紙をちょっと変えたんですね。そしてそのラインナップが意外にかなり面白そう。amazonでとりあえず3冊買って読み始めました。

目下、秋田県に出張中。けっこうヒマな時間が多いので本読んでます。

■見田宗介『社会学入門―人間と社会の未来』岩波新書、2006年。

同じ岩波新書の『現代社会の理論』の続編的な位置付けのようです。この人の講義は直接聴いたことないんですが「自分の著書を読むだけでつまんない」というのが当時授業を取っていた周囲の評価でした……(まあゼミは別なんでしょうが)

この本自体は体系的な教科書というより小論集として読むといいと思います。
興味を持った章に応じて『気流の鳴る音』『時間の比較社会学』『自我の起源』『現代社会の理論』『宮沢賢治』あたりに進めばいいのではないかと。前2著は個人的に特にオススメです。ちょっと前まで絶版で非常に手に入りにくかったのですが、筑摩書房で復刊してます。

「社会」学といっても、この筆者の問題関心の根っこは「どうしたらツラくない仕方で生きていけるか」だと思うんです。そこからツラさを生むシステムを見つけてそれに名前を付け、さらにそのツラさを感じなくてもいいような社会構想を探っていく。ここでやっと社会-学social studiesになっていくんじゃないかしらん。
ツラさを共有できる人には参考になる著書が多いです。そうじゃない人は……知らない(笑

2006年06月12日

『危ないお仕事!』

■北尾トロ『危ないお仕事!』新潮文庫、2006年。

超能力セミナー、新聞拡張団、ダッチワイフ製造業、などなど普段あまりご縁のない仕事の現場ルポ、インタビュー。面白かったです。

新書だと1分1ページが精々ですが、これはその倍の速度で読めます。

そういえば昔、速読法に興味を持ったことがあったけど、難しい本って速読して内容は理解できるんでしょうかね。

2006年04月18日

『「ニート」って言うな!』

■本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年。

どういうわけか各方面でブームなので読んでみた次第。3人の著者が1部ずつ担当してます。

(1)本田
・まずもって働く意欲があるのに体調などの事情で求職できていない人や、求職している人まで「ニート」に含めるのはけしからん
・そして労働問題(という社会問題)を個人の責に帰すのもやめなさい。具体的には、
 ・「正社員」の地位を、新卒以外の人にもオープンにしなさい
 ・学校ではもっと職業に役立つことを教えなさい

(2)内藤
・特殊な少年事件を普遍的な問題のように扱い、扇情によって飯を食うマスメディアと、社会が不透明になって不安なオヤジどもの共犯関係によって、「ニート」(というか若者)への憎悪が生産されておる。(昔から「パラサイト・シングル」だの「フリーター」だのといって繰り返され・拡大再生産されてきた構造)
・閉ざされた世界(観)のなかで弱い者イジメをしてないで、他人の内面に関してはそれが自分の気にくわないものであっても干渉しない、自由な社会にしようじゃないか

(3)後藤
ニートを
○社会構造の問題として扱っている言説、
×自己責任や教育の問題として扱っている言説、
×本来の「ニート」の定義からやけに拡張して使っている言説、
をそれぞれ列挙してみました

って感じ。統計のトリックとか紋切り型への注意喚起という、ごくごく普通に良心的なことをすると世の中のニート論の大半が死んじゃう、という痛快っていうかオソロシイっていうかトホホな本。

2006年04月12日

『人間の安全保障』

■アマルティア・セン『人間の安全保障』集英社新書、2006年。

ノーベルを受賞したインド出身の経済学者による小論集。講演で喋ったり、新聞に寄稿した文章なので非常に読みやすいです。

「人間の安全保障」は(自分の理解では)「国」ではなく「個人」の生活に注目し、そこから身体への危険や疾病といったリスクを取り除くことで基本的な人権を守ろうと考えること。
そうした考察のなかで、自分が本来持っている権利を知り、それを主張する言葉を得、あるいはより収入の高い職に就くための手段としての基礎教育の重要性が強調されます。

読んでみると、センは現状から出発して、そのなかのどの部分を改善するかという現実的な発想で語っているように見えます。
まず「民主制とは西洋固有のものではないし、グローバル化も近代・西洋から始まったものではない」と語ることで、西洋至上主義と反西洋原理主義(とでもいうのかな)という「自文化中心主義」のふたつの極端を牽制し、民主制やグローバル化のメリットを強調する。そのうえで独裁や偏った再分配を許すシステムを列挙して攻撃するというやり方。
それから「人権」については、そのための立法ばかりではなく、そもそも問題があることの認知や、火急の問題に対する運動、さらにその理論的基礎付け、自由な討論を通じた「人権とは何か」の検討を主張してます。

偏狭はだめよという可謬主義や、話し合いで決めましょうという討議への信頼は決して目新しい発想ではありませんが、非西洋から見た世界を、例証を含め言葉を尽くして語ろうとしているところがいいなあと思った次第です。ほかにも読んでみよう。

2006年03月20日

『法社会学』

■村山真維、濱野亮『法社会学』有斐閣、2003年。

警察や検察や裁判所や弁護士によって法が運用されるときには、必ずしも書かれていることが必要十分に実現されているわけではない。法の執行をするわけではないけれど法の枠内で仕事をする行政機関についても、それは同じこと。
実際は人的資源や時間の制約があるせいで、それぞれの機関が裁量を発揮して法を動員しなくてもいい解決の仕方(微罪処分、起訴猶予、行政指導、それとか単なるアドバイスなどなど)を用いているのでそうなるのですが、ではそれが
(1)日本ではどれくらい行われているのか、それはなぜか
(2)外国ではどうなっているのか
(3)どう変容してきたのか/していくのか
といったところを考えようとすると、法という一連の決まりの整合性や中身を考える「法学」の外に出て、「社会」(社会って何よ、というのはまた別の大問題ですがぁぁ)と法との関係を考えるこういう学問になるんですかな。

本自体はまあ普通に教科書です。

2006年03月11日

『ウンコな議論』

■ハリー・G・フランクファート(山形浩生・訳)『ウンコな議論』筑摩書房、2006年。

ウンコな議論とは何か。On Bullshitが原題で、それをキャッチーながらもイメージのわかない「ウンコ(な)議論」と訳してしまったので分かりにくいが、要は「その場しのぎのテキトーな議論」で、「その真偽なんて別に気にせず口にされる」(この点で、「偽であることを知っていて言う」という「嘘」というものと区別される)ようなものですかね。そういう定義づけを延々やっているのが本文です。まあ「ウンコな議論」のウンコな例を挙げれば、首相の国会答弁なんかかしら。

で、だからどうだというと「ウンコな議論が蔓延しててムカつくんだコノヤロー」でありましょう。そんなこと本文には書いてないけど、きっとそうです。

というわけでこの本をひとことで表すと「知的怠慢批判」。

気をつけなければいけないのは、「知的怠慢批判」もコピーを繰り返すうちにそれ自体が知的怠慢=ウンコ議論になるということで、こういうのはタイミングとプレゼンテーションを仕方をよく計って出すのが肝要であります。

訳者による本文とほぼ同量の解説によれば、悪しき相対主義や反知性主義、つまり「ああも言えるしこうも言える。あれもこれもつきつめていってもキリがないもんだから真面目に真実を追求したってしょうがないやね」という1970年代の空気に倦んだ著者が、当時は匿名の怪文書として発表したのがこのOn Bullshitだそうです。おおもとの問題意識が正しいとしても、それが知的怠慢の言い訳として使われる状況にイライラしている様子が本文の最後にちょこっと書かれています。

紀伊国屋に平積みになっていたこの本のタイトルを見て手にはとってみたものの、なんとなく1365円出して買うのはやめていたところ、一昨日、後輩君の机上の本立てにしっかり収まっているのを発見したので借りて読んだのでありました。読後感は「買わなくて正解」。つまんないという意味ではありま千円。

2006年02月27日

やっと読み終わった

■大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか―社会学的考察』青土社、2005年。

京都旅行中から読み始めて、出張時の電車やバスの中で読んでいてやっと読み終わった。フィニッシュは音楽聞きながらイッキでしたが。

ええと、『InterCommunication』55号(p.24)で佐藤俊樹氏に「大澤さんは宮台[真司]さんに比べて圧倒的に俯瞰優位、神様視点で話す人です」と形容されてました。
大澤氏がよく使う「第三者の審級」は「神様視点」といえると思うんですが、さらに「第三者の審級」を論じている大澤氏自体が神様視点に立っているともいえるので、うーんうまいこと言うなあとニヤニヤしたのでした。

んで。内容は、大澤社会学var.絵画と映画と音楽とスポーツ。以上。
骨組みは、
(1)わたくしどもは日々いろんな経験してますが、それを可能にするような前提になるような枠組みというのもありまして
(2)しかしその枠組みというヤツがあることが分かるには、日々の経験を通じてでないとできないんですね
(3)とゆことは、その枠組みはそれをいきなり発見することはできなくて、日々の経験を通じて発見できたときには「あっ、あったんだぁ(完了形)」という事後的な形でしかない
(4)その枠組みが見えるような「破れ」は日常の中にあることにも注意
(5)そこに「美」とか「他者」などというもののキモがありまして
(6)そういうものは「つかまえた!」と思っても、つかまえた瞬間にさらに奥にある枠組みが見えるという、どんどん逃げる構造を持っている
という感じかなあ。激しく違う気もする。

話は↑こんなようなすごく抽象的な原理をいろんな例に適用しながら繰り返しているのでとっつきにくいですが、この人の著作の魅力は、タイトルの巧みさを別にすると、その例選びの妙にあるような気がしてます。

■東浩紀(編)『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』青土社、2005年。

寝床に置いておいて、寝る前に数ページ繰って寝るという読み方でやっと読み終わった。フィニッシュは音楽聞きながらイッキでしたが。

東+鈴木謙介のホストが宮台、大澤、北田暁大というゲストをひとりずつ迎えて構成する鼎談3連発。
全体的に面白いんですが、特にうひひと思ったトピック:
・天皇とか亜細亜とか言い続ける宮台氏に対する、他の人たちの違和感
・「人間の責任の範囲は、基本的に物理的な条件で制限されている。……これは口頭の会話でも同じです。しゃべりつづけると疲れる。しゃべれなくなるから話題を変える。……僕は結局、応答すべき他者と応答すべきでない他者は、そういう物質的外部性で分けるほかないと思う」(p.237)のあたり。物質性を離れた論理の世界で応答責任とかのことを考えていて行き詰まったら、こういう突破のしかたもアリなんだなあと
・大澤氏が宮台氏をどう思っているか。ゴシップのように聞こえるけれども、アカデミズムに足を置きながら社会問題に斬り込むときの、大澤氏の「神様」を見れた気がします

いちばん勉強になったのは、ひとかたまりの文章を読みながら、何が語られたのかを考えると同時に「何が語られなかったのか」も考えないといけない、ということですかね。

2006年01月27日

『リヴァイアサン』

■長尾龍一『リヴァイアサン―近代国家の思想と歴史』講談社学術文庫、1994年。

第1部は国家論史、第2部はホッブズ、ケルゼン、シュミットの読解。

「近代国家」だなんて便宜的に作り出した概念にすぎない、というのを忘れて、まるで意志をもって実在するかのように扱って自明視し、自国のことばかり考えていてはダメ。かつてその中の住民にとっては「世界そのもの」と同じ意味だった「帝国」はもうなくなっちゃったけど、それにかわる「国連」を強化して平和を達成しませうよ……というのが著者の主張だと思うんですけども。

そのへんの主張は「はじめに」「おわりに」あたりに書いてありまして、サンドイッチの中身の部分は発表済み論文のアンソロジーなので、それは「ふーん」「へええ」と勉強するつもりで読めばよさそう。

あと、神なき時代に倫理は命令=力を失い、計算合理性だけが残る、みたいな状況は別に21世紀に発見しなくてもホッブズの時代には既に陳腐化していたのね。あーあ

2006年01月14日

『「責任」ってなに?』

■大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書、2005年。

「あのときには、ああしかできなかった」と弁明することで責任を回避しようとすることができるのかを、倫理学(と、分析哲学)の手法で検討した本。そういう問いを押し出した時点で責任の回避は「できない」って答えなのがバレバレですが。

ミソの部分は「『役割を果たしているだけの自分』と『そんな状況に追い込まれなければひどいことなんかしなかったはずの、ほんとうの自分』を切り離すことはできないの、周りに流されてやっちゃったアンタもやっぱり他でもないアンタその人です」ということ。(自分なら「もし『役割を果たしているだけの自分』ってのが本当の自分と違うなら、わかりました、本当の自分とやらは免責しましょう、ただし『役割を果たしているだけの自分』さんにはきっちり責任とってもらいますからどうぞ分離して突き出して下さいな」と言うかな)

組織の歯車として粛々とユダヤ人の虐殺を遂行したというアイヒマンの責任をどう考えるかというのは、普遍につながる問題として個人的に抱えていました。ひとつの見方を教えてもらった気がします。

ついでに紹介すると、本ではこのミソの部分に至るまでに、けっこういろんな興味深いトピックを扱っています。
・そもそも「責任(をとる)」って何を意味してるのか(一人の自律した人間として他者とのコミュニケーションを行うこと?)
・自分の意志でやったんだから責任とりなさいよと言われても、「意志」なんてものは環境に対する脳の生体反応なんだから虚構なんです、よって責任なんか取れません、というへそ曲がりにどう応答するか
・ひとつの結果がいろいろな原因から成り立っているけど、それでも、責任は発生するのか
などなど。

最後に戦争責任とか、現代日本の企業社会や学校(いじめ)などを論じていますが、これはまあ余技レベル。基礎倫理に軸足を置きながら応用倫理・事例分析もやってみる、という基本姿勢(?)には共感できます。逆をやったほかの本は「わがまま社会分析」に終わっちゃったのが多い気がするので…

2006年01月11日

『国家の自縛』

■佐藤優『国家の自縛』産経新聞出版、2005年。

[読み手に不親切な感想]
1990年代までに、ポストモダンが「おまえ自身はどうなんじゃい」という問いかけをとうとう自分自身にまで向けて焼け野原になっちゃった後、残ったのは「情報→分析→対処」がいかにうまく遂行できるか、という「戦略」「ゲーム」だったのかしらん、と素人はぼんやり思った。

[んで、この本について]
産経の元モスクワ特派員による、ムネヲ事件で逮捕されたロシア屋の外交官さんへのインタビュー。
話題は専門のロシア外交からネオコン、北朝鮮、中韓など周辺にも広がっていきますが、単なる外交の裏舞台の暴露本ではないし、時事放談でもない。(1)個別の事実、(2)それを可能にした歴史・地理的条件、(3)それを抽象化した思想文化、の3層を高速で行き来しながら組み立てる外交論(それと表裏一体の国家論)。
当たり前のことかもしれませんが、こういう3層構造は外交の構造でもあり、外交に携わってきた佐藤氏のアタマの構造でもあるんでしょうね(余談だけど、本を出すなどの言論活動をすることそのものにもまたインテリジェンスとしての"語られない目的"があるんじゃないかな)。ここにはウエットな感情論や紋切り型は入り込む余地がない。特に産経側インタビュアーの「靖国」「歴史教科書」「反日」に関する質問への回答にそれが現れているように見えました。
個別の議論が妥当かどうかはよくわからないので「へぇ」と言いつつ読むのみですが、3層それぞれの勉強って大事やね、ということくらいは分かった、つもり。

2006年01月04日

読むのは、これから。

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自分へのお年玉として本をむやみに購入。

■大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか―社会学的考察』青土社、2005年。
■長尾龍一『リヴァイアサン―近代国家の思想と歴史』講談社学術文庫、2004年。
■東浩紀『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』青土社、2005年。
■フレデリック・ドラヴィエ『目でみる筋力トレーニングの解剖学』大修館書店、2002年。
■大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書、2005年。

ラインナップ見るとうすっぺら人間っぷりがばれますか。
あ、言うまでもないですか。
読むのは、これから。面白いといいなあ。

2006年01月03日

『匂いのエロティシズム』

■鈴木隆『匂いのエロティシズム』集英社新書、2002年。

イマイチ。
オリジナリティがあるのは「匂い」について本格的な研究がないという問題提起くらいかしら。進化論とか持ち出して匂いとエロスの関係の始源を辿ろうとしつつ、「ではないだろうか」「否定はできないだろう」みたいな"非科学的言辞"を溢れさせるのはどうよ。
あとラバーとかのフェティシズムへの共感がないのにこういうものについて語ろうとするのにも無理があると思う。
タイトルにエロがつく本は読む前の期待が高まっちゃって余計落胆が大きいですな。教訓としましょう(笑

2005年12月24日

『西洋音楽史』

岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』中公新書、2005年。

特に最終章が音楽版『近代化の理論』だなっと思ったのは富永本のすぐ後に読んだからかしら。
中世からバロック、古典、ロマンと通って、第二次大戦あたりまでの西洋音楽史を通観しとります。といっても、著者が意識しているように「誰が何年にどこで何を作曲しました」という史実の羅列ではなくて、そうした個別の史実を繋ぐ「時代性」みたいなものを描き出そうとしている本です。

宗教(中世)→貴族のカルチャー(バロック)→市民のカルチャー(古典)→「芸術」と「娯楽」への分裂(ロマン)→「実験」(12音技法など)と「名演」(ブーレーズの指揮転向など)と「大衆受け」(アングロサクソン系ポピュラー音楽)への分裂、(と、それらの統合例としてのモダン・ジャズ)

てな感じで、世俗化→広域化→専門分化というまさに「近代化」!のストーリーが非常に分かりやすく書かれてます。
で、本書に挙げられている名曲なり名演なりを実際にCDで聞くと楽しさ倍増というわけだ。パチパチ

2005年12月08日

『近代化の理論』

■富永健一『近代化の理論 ―近代化における西洋と東洋』講談社学術文庫、2004年。
夏くらいに買ったような。たまに乗る電車の中などで少しずつ読み進めてやっと終わりました。もともと放送大学の社会学講座用テキストを再構成したもので、「わかる人だけ分かればいいよ」的な学術書と違って、非常にわかりやすく書いてあるので、ためになりました。
社会が総体としては複雑になり、広がる一方で、構成する単位はどんどん小さくなり、専門的に特化していく(近代化していく)過程を、「家族」「組織」「地域社会」「国家」といったいろいろなレベルで言葉の定義の確認とともに解説=体系化してます。
最後の「ポストモダン批判」と「高齢化社会展望」はまあ同時代を扱っているので版を重ねたらもう少しアップデートしてほしいと思います(つまりちょっと古めかしい)が、全体的には「読んで得する歴史教科書」ってところでどうでしょうかね。

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