■ロック(角田安正訳)『市民政府論』光文社古典新訳文庫、2011年。
中学の社会科の教科書で初めて見てから20年。やっとこ読みました。サーセン
社会契約論の古典。
人は自然状態(法の下に置かれていない状態)では、もともと持っている生命や財産に関する権利や自由をうまく守れない。ちょっと腕っぷしの強い他人に侵害されても訴え出る先がなくて、結局自由が小さくなってしまう。
そこで、何人かが集まって、自分たちが持っている権利を拠出して政府を作る。立法部は法律を作り、行政をやる人たちはその法に従って社会を運営していくことで、安定した状態をやっと達成することができる。
ところが、権力を預けられた部門を仕切っている人(国王だったり、合議体だったり)はしばしば、自分たちの好きなように国を運営し、そこで暮らす国民の生命や財産を好きなように簒奪しようとすることがある。
もともと、国ができたのは個々人が自分たちの生命や財産を守るためだったので、この大目的に反するような政府に対して国民は抵抗したり、政府を取り替えることができる。信任を失った政府はもう政府ではなくゴミだ。だから捨てちゃっていいのだ。それは「叛逆」と呼ばれるかもしれないが、神の前では罪ではない。
……といっても、これは単なる檄文ではなく、いろいろな批判を予想して再反論を展開しています。
「社会の最初に契約があったなんて記録は残ってねえじゃんよ」という批判が一番典型的ですが、これには「あったよ」と反論しています(ただし訳者も言っているように、ちょい苦しい)。
また、「政府転覆できるんだったら社会は不安定になっちゃうじゃん」という批判に対しては特に言葉を尽くして答えています。「Aさんが何かで政府に対して腹を立てた、というだけでは国民としての抵抗につながらないし、そもそも国民って相当耐え忍んでしまう性質があるので、いつも不安定になってしまう心配はない。政府の側にとっても、国民の生命と財産を侵害しないという簡単な原則を守るだけで安定が保たれるなんていい話じゃないか」みたいなことを言う。
それにしてもいったいこの人は何と戦っていたのか。それには訳者の解説が参考になります。
筆者は学生時代に清教徒革命を経験。壮年期に書いたこの本は名誉革命の支柱となったようです。イギリスがどうも落ち着かない17世紀において、王党派によってゾンビのように蘇らされた王権神授説+絶対王政の芽を丹念に潰し、立憲主義の優位を説く。こうした差し迫った背景が筆致に熱をこもらせ(訳もいい)、アメリカの独立やフランスの革命、そして現代のリバタリアンにまでつながるほどの影響力を持たせたのかなあと想像したりします。
この文章の中では既に、国と国の間はいまだに「自然状態」だと指摘されています。神の座が空席になっている現代において、どう「国家-間-社会」を構想するだろうか。筆者に聞いてみたい。