■ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』晶文社クラシックス、1999年。
一点ものの芸術作品が霊的な何か(凄味?)を帯びていて、見る人はそれに孤独に対峙し、吸い寄せられる。写真だの映画だのといった複製技術を前提につくられた作品は逆に、消費者のもとに届けられ、試すような視線で気まぐれに見つめられる。
世俗化し、大衆化し、規格化するという視覚芸術の変化は、音楽と同じく、あるいはたぶん学芸一般と同じく、近代のセオリーにのっかって起きたことのように見える。で、それが政治化するという著者の同時代の危機感を、弊管理人たちはその80年未来から読んでいるわけです。いまこれを、骨董品を眺める以外のやり方でどう読んだらいいんだろう。頼りの解説も1970年付です。復刊するならyoutubeまでを繋ぐ解説をつけてほしかったなあなんて。
■マルサス(斉藤悦則訳)『人口論』光文社古典新訳文庫、2011年。
・まずもって人の本質というのは食欲と性欲であります。
・そしてそれが深刻な問題の源泉なんです。人口は倍々ゲームで増えていくが、食糧生産は足し算的にしか増えない。だから成り行きに任せると必ず飢える人が出てしまう。
・それは人間に解決可能な問題でしょうか?いやあそんなことないですね。夢想するのは勝手だけど、それを実現するなんてできっこない。
・もちろん農業は大事です。どんどん耕すべきだと思う。でも一時、豊かになっても、それで子どもを養えるようになれば人口が増える。食糧はすぐに足りなくなる。
・あおりを食うのは食糧を手に入れる原資に乏しい貧乏人です。お金をあげたって、食糧の量が変わらないなら値段が上がるだけだから無駄です。放っておいてもぎりぎり生きていける程度に貧乏で、そうすると人口増加は抑制されるっていう状態に落ち着く。畢竟、世の中そういうもんじゃないですか。しょうがないですよ、もうね。
・いやちょっとまって、怒らないで。あのね、でもですね、理想の社会はできないにしたって、ぼくたちは問題に直面するからこそ賢くなれると思う。貧富の差をなくすのは無理かもしれない。不幸な人はいつだって出現する。でもせめて、中間層をできるだけ大きくしよう、そして社会の総体として幸せの量をできるだけ多くしようと頑張ることはできる。できるだけの努力をする、それしかないんじゃないかな。
そんな話だったかと。「である」と「べき」がちょっと混線してる気持ち悪さも感じなくはない。
前半の話をもってすっごく批判される人らしい。でも終盤の何章かを使って「人口と食糧の増え方に関する悲しい自然法則」に抗おうじゃないかと励ましている。予防線張ってるだけなのか、それとも基本はあるがままにすべきだけど最低限の再分配は必要よねっていうハイエクのご先祖なのか。どうやってやるんじゃいという気はするけど。
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この週末は概ね晴れて、涼しい風が吹いていて、特筆すべき気持ちの良さでした。
常夜鍋で夕飯にしました。
独り焼肉も独り鍋も全く楽しめる弊管理人です。