■ルソー(中山元訳)『人間不平等起源論』光文社古典新訳文庫、2008年。
2年前、震災対応の中で『社会契約論』を読みました。かの本が「今とこれから」についてだったとすれば、本書は「始めから今まで」といったところか。
ルソーの場合、自然状態の人間は、森の中で、互いに交流を持つこともなく、自然からの恵みによって自給自足し、自立できるだけの身体的な頑強さを持って生きている。
その自然状態から社会状態への移行が、「人間が環境に働きかけながら生活を改善していく力」を媒介にして、あるいは何か外部的な障害への直面を契機として、しかし長い長い時間をかけて、起きてくる。
まずはゆるやかな集団が形成され、そして家族が形成され、言語を操る社会ができ、鉄と小麦を利用した労働と所有の時代が到来し、国家ができ、国家同士の戦争状態が出現する。ルソーが主題にしている「不平等」の起源がここ(この不平等は、身体的な強さや弱さなどから生じる不平等ではなく、制度から生まれる不平等のこと)。
自由で平和だった自然状態から、隷属と戦争の社会状態へ。ここで財産を持っている人々は、自分の持っているものを守るために、同じく財産を持っている他人に働きかけ、「協同して財産を守る」ことを始める。これが社会と法の起源だという。
ということは、統治機構というのは、財産を持っている人たちが自分のために設立した管理組合であって、設立者たちの財布に恣意的に手を突っ込んでいいものでは全くないわけだ。設立者たちの手を離れて暴走を始めた管理組合は、その瞬間に正統性を失うことになる。
で、『社会契約論』では、そのへんを詳しく展開するわけですね。
とても丁寧な訳者解説がついていて、この論文がなぜ書かれなければならなかったのか、この論文は何と戦っていたのかを明らかにしてくれます。自らものを決める権利を人々から次第に剥奪し、服従を求める当時のジュネーブ政府の論拠の一つが、「惨めな自然状態から脱するために、自由を政府に委ねて庇護してもらう方式」の社会契約論だったこと。このあたりの背景を知らないで本文を読むと、見てきたような作り話を延々と語ってるように見えてしまってイライラするので注意が必要と思います。
よい社会の原理を見つけるために「後天的なもの」を次々と剥ぎ取って「最初の最初」に立ち返ってみようという思考実験。この手つきは200年余り後に登場する「無知のヴェール」の方法になめらかにつながっている気がします。
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ひとつ前の日記に出てきた私費(←ここ大事)留学志望の同僚については職場で会議が開かれて、メンバーひとりひとりに意見が求められました。
出た意見はだいたい、「長期的には社業のためになりそうだしOK」「いやまて、人繰りの厳しい職場に穴があくってどうよ」といったところ。自分のカネで行くんだから楽しみに行ってくりゃいいじゃん(どうせ1年のTaught Masterは200万円ほど払って知識とモラトリアムを買うようなところだし)と思うんですが、現実には賛成も反対も同じ、組織の論理に基づいていて厳しい。
それから今週は、いまどき超高い組織率を誇る労働組合の大会があり、覗いてきました。
みんな仕事に対して真剣で、正しいと思うことに対して誠実で、くらくら。
自分がこの瞬間この場にいることに特段の疑問を感じないで済んでいるとお見受けした。羨ましい。
そんなことが立て続けにあったせいもあり、会社にいながらどこにいるのかよくわからない、ぼやーんとした靄の中で昼間から夜中まで過ごし、帰ってきて寝てまた出かけるこの頃です。