通勤電車で読むのはやめまして、夜とか時間のあるときにちょっとずつ進めることにしました。
重いし、メモにするときはもう一回流し読みしながらまとめることになるからです。
ということで、通勤電車ではもうちょっとスピード上げて読めるものに手を付けてます。
松の内に書いた(5)の続きで、
■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.
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11. Politics and Power
・権力:個人に課される制約であるとともに、安全を担保する法と秩序の源泉でもある
・産業化社会では何が政治か/でないかの特定は比較的容易(政策科学の対象)
・非産業化社会では日常生活の中でそれを見出すのは結構大変(どの社会にも政治はあるが)
内閣や市政府に相当するものを探してもしょうがないことが多い
・そのかわり、政治人類学は次のようなことを見ることになる
「どこで」「誰が」重要な政治的意思決定をし、誰が影響を受けるか
どんな規則や規範が支配しているか
どうやってヘゲモニーが挑戦を受けるか
どんな罰があるか
・古典的な政治人類学は、1930-1960年代のブリティッシュ・スクールで発展
中心的な問いは「国家(中心的な権威)を持たない社会は、どうやって統合されているか」
←→ポストコロニアルな現代の政治人類学の問いは:
ローカルな共同体がどう中央政府に対抗しているか
中央政府は住民に共有されている文化をどう利用し統治しているか
・この章では、国家をもたない社会における「政治」を扱う
こうした社会は脆弱に見えるかもしれないが、実際はものすごく構造的に安定している
(ヌアー、パシュトゥーンPathans、ヤノマミ……)
・二つの視点
(1)それぞれの社会がどのように統合されているか(システムの視点)
(2)諸個人はどのように自分の利害関心を実現させているか(アクターの視点)
▽権力と選択
・権力の定義
「自分の意思を押しつけて他人の行動を変えさせられる能力」(ウェーバー,1919)
マルクス主義者は、分業や法など社会の中の諸システムに埋め込まれた権力を見た
(規範や暗黙のルールに従っている場合、「誰が」権力を行使しているかは特定できない)
→「権力」は「慣習」「文化」「規範」と同義になってしまう?
→政治人類学の文脈では、ウェーバーに従って権力/権威/影響力の用語法を採用しておくとよい
権力は防衛の必要あり/権威は疑われないもの/影響力は黙従、マイルドな権力
・行為は、何らかの強制下にあるのか/それとも自由な選択なのか?
どちらも正しい。何らかの「強いられた状況下で」「選択を行っている」
例)資本制の下では金がないと投資できない。世襲制の下では王様を選べない、など
「南」世界の主要な変化に、土地使用権がコミュニティ(WE)→個人(I)ベースに変わる、ということがある
・一方、個人はできる範囲でならいつも選択をしている
例)工場を買うお金はないとしても、お金を貯めておくか、ビールを買うかは選択する
Saloioの女性はフォーマルな政治へのアクセスはなくても、インフォーマルなルートで影響力を行使する
・つまり、誰もが程度の差はあれ、権力や影響力を行使している
が、われわれの「権力」に対応する概念を対象の社会が持っていないことはある
▽権力の欠如状態powerlessnessと抵抗resistance
・権力の欠如は、権力が「少ない」のではなく、「ない」状態。語れないmutedグループ
→効率的に自分たちの利益を実現することができない
フーコーの表現では、主流の言説によって抑圧されている
・Lukes(2004)による「権力を研究する際の3つの視点」
(1)目に見える意思決定プロセスへの注目(最も分かりやすい)
(2)政治システムで取り扱われてはいるが、意思決定プロセスに出てこないものへの注目
(3)公的な場で声を持たない集団への注目(見過ごされやすい。例)女性や先住民)
→それでも、こうした集団は戦略的に存在を主張していく。貧農による集団的な抵抗など(Scott, 1985)
▽イデオロギーと正当化
・どんな社会でも権力者は正当性の主張をせざるをえない(暴力的な統治を行っていても)
ブラジルのMundurucu族は、男性>女性に「聖なるトランペット」神話を利用
ヒンドゥー社会ではバラモンが聖典を利用
民主社会では「民意」を利用している
・非産業化社会では「生得的な地位」、産業化社会では「獲得した地位」を重視?←これはイデオロギー
(1)産業化社会でも地位がすべて獲得されたものではない。階級や民族など社会的背景も影響
(2)非産業化社会にもいろいろなパターンあり
・イデオロギーをとりあえずどう定義するか
社会をどう組織化するか(政治、規則、善悪の区別)に関する文化の一側面である
規範的な知識であって、明示的なものも暗黙のものもあり、修正を迫られることもある
・権力の欠如状態にある人も含めて、社会には基礎的な価値観が広く共有されている
マルクスとマルキシストは、自分の利害に無自覚にこの価値観を共有している現象を「虚偽意識」とした
→それを自覚することで抵抗の起点となるはず
・だが、社会を外から見ている人類学者としては、岡目八目を当然視していいかは疑問
比較研究の際には「この社会は間違っている/正しい」を言うのは妥当でない
もっと記述的。イデオロギーと慣習の関係など(これを構成員がフルに理解しているとは限らないが)
▽親族関係ベースの社会における統合と紛争
・エヴァンス=プリチャードによる南スーダンのヌアー研究(1940)
敵がいるときだけ「族」としてまとまるa system of segmentary oppositions
→紛争時のスコーピングによってどう連合するかが変わる柔軟さがある
諸リネージや諸クランが同格だからそうなるので、もし王や貴族がいたら状況は違ったであろう
・ただし紛争仲介者的な位置付けの人はいる(leopard-skin chiefs)
当事者の意見を聞いて落としどころを一定の重みをもって提案
小さなリネージ出身で、それゆえに「中立」だと思われている
仲裁の見返りに牛をもらうので裕福で、政治的に重要なアクターでもある
こうした「政治の中と外に同時にいる」立ち位置は、宗教指導者にもみられる
・ヌアーはスーダン政府と対立。これはブラジルやベネズエラ政府とヤノマミの関係とは違った構図
ヤノマミのリーダーは先住民族としてテレビや国際会議に出てくる
→親族関係ベースの社会でも、大規模な組織が作れることはある
・こうした関係の在り方は近代社会でも。例)自分に近い個人や集団にほど忠誠を強めるルペン
▽獲得した地位と生得的な地位
・メラネシア(ニューギニアから東の島嶼地域)/ポリネシア(南太平洋~NZまで)の対比(Sahlins, 1963)
親族関係ベースの自律的な小規模村落/プロの軍隊、税制、官僚制を備えた国
リーダーは個人的な資質にもとづいて贈与競争により権力を獲得/世襲、王族あり
リーダーは人脈を形成、多妻。次世代がリーダーを目指す/貴族クランの存在、王の権威は神授
権力システムは個人的で成果志向、平等/制度的、ヒエラルキー
権力の座は不安定/これはポリネシアも同じで、官僚機構や税負担の肥大化が反乱を招きうる
焼き畑農業→富の蓄積がしにくい/灌漑農業→官僚や軍人を養うだけの富を蓄積できる
・ただし近代化で両者とも状況は変化
貨幣経済の浸透で、財産の個人化(土地の個人所有)が出来
▽戦略的行為としての政治(行為者視点からの政治)
・政治の二つの定義
(1)機関としての政治(権威的な意思決定)→個人や集団間の競争としての政治
(2)システムとしての政治(言葉が媒介する権力と権威の流通)→統合作用としての政治
・パシュトゥーン人(パキスタン、穀物農作)の例(Barth, 1959)
少数の土地所有者と、多くの小作人で構成
男の子だけが相続できる(長男以外も)→どんどん土地が足りなくなる
→遠くの男系親族と連合(近くとは土地使用権の抗争があるから。ただし兄弟同士は抗争しない)
・国家の誕生
ウェーバー:国家による抑圧―課税と暴力の独占
グローバル化は国家の力をさまざまな面で弱める
・コンゴの例(Friedman, 1991, 1994)
継続的な経済的凋落の末、90年代前半に政府が無力化→国民から浮遊
→コネ政府に→知識人の流出
・なぜ反乱が起きず国民が黙認してしまったか?
経済の変化と移住で地域のクランが反乱を組織できなくなっていた
困りごとの解決を政治的な行動ではなく呪術に訴えていた(magical world view)
政府が国民を抑圧せず、単に「棄民」してしまった
「モダニティとアフリカの伝統が最も噛み合わなかった例」(Ekholm Friedman)
・マダガスカルで政府による統治に明示的に反抗したツィミヘティの例も
▽政治的暴力
・北アイルランド紛争(1960年代~1998):身体を使ったプロテスト
政治的主体の作られ方:身体、告白共同体、国家、ユートピア完成時の想像の共同体
獄中での「ダーティ・プロテスト」(体を?洗うことを拒否)、「ブランケット・プロテスト」(囚人服の着用拒否)
特定の身体的経験+イデオロギー→暴力の行使に結びついている
・戦争
文化人類学では戦争を特徴づけるのは難しい(さまざまな特徴があるから)
紛争や戦争のフィールドワークでは、自分だけでなくインフォーマントを守らねばならない
「危害を加えてはならない」という倫理も守れないことがある
文化人類学の成果がマイノリティの統治に利用されることも
12. Exchange and Consumption
・経済人類学
経済を、社会や文化の一部とみて、他の部分との連関に注目する(経済単独で見ない)
値段も栄養価も同じなら、なぜBではなくAを食べるのか→何を価値とするかを調べることで解ける
資本制が唯一の解ではない。むしろ資本制は世界の中ではニューカマーといえる
歴史の90%は狩猟採集
・人類学では、経済は2つの定義の仕方がある
(1)システム的定義:物質、非物質の生産、分配、消費
(2)アクター中心的定義:個々のアクターがさまざまな手段で価値を最大化するやり方に着目
・ポランニーの呼び方ではformalist/substantivist。政治など他の分野でも同じ
・「ホモ・エコノミカス」は、生産の単位が個人ではない社会では意味がない
ロシアの研究(Chayanov)では、農民は生きるのに必要+ちょっと余裕があるくらいの生産をしていた
→彼らは「最大化」ではなく「最適化」をしている
ただし、formalistに言わせると、これは農民と株のブローカーでは優先順位が違うというだけの話
→農民は生産の代わりに「余暇」を最大化しているのではないか?との指摘
これは、資本制とそうでない経済に「質的な違いがある」か「基本は同じ」か、という対立
▽社会の一部としての経済
・マリノフスキーのトロブリアンド諸島研究:「クラ」
「未開の」人々も、生物学的な必要を満たす以上のことをやっている
収穫されたヤムを親族などにあげる(義務的贈与)
→誰のところにたくさん集まるかで、共同体の中で誰が力を持っているかを示す
→贈与は社会的な紐帯を再生産するだけでない、政治的な意味がある
・資本制経済では、カネのシステムは社会の中ではっきりした境界をもって存在しているとされてきた
アンペイドワークはその外
カネと価値のつながりに対しては、マルクスが疑義を提示(→『資本論』第1章。交換/使用価値)
・「value」は3種類の意味が混同して使われている(Graeber,2012)
(1)哲学的、社会学的意味(「家族の価値」など)
(2)古典的な経済的意味
(3)「値(=あたい。何かと何かの違いを表すもの)」という意味
→資本制経済でも、経済は実は明確な境界を持っていないのではないか?
・トロブリアンド諸島では、ヤムを育て、贈り、クラ交易をするときにあえて「経済」とは言われない
経済は社会の中に溶け込み、生活のあらゆる側面に現れている
女性、子どもも投資の対象だとは見られていない
資本制は「需要と供給に基づく市場での交換」1つで成立しているが、諸島では80の交易形式が存在
Gimwaliは、市場での豚や野菜の交換
Lagaは、親族以外から買う呪術的な効果
Pokalaは、10分の1税のようなもので、ヤムなどをえらい人にあげる
Sagalは、葬式などの行事の際にただで配られる食べ物
Urigubuは、姉妹や母親の夫にあげるヤム
Kulaは、貝のブレスレットとネックレスが時計回り、反時計回りに渡されていく。島内&島の間で生起
→利益を生まないが、Weiner(1998)は名声のためと分析(貝に前の持ち主の名前がついていく)
▽社会現象としての贈与
・ヤムを贈るときは、すぐに見返りが来ることを期待していないので「贈り物」とみることができる
ヨーロッパで父→娘のお小遣いも同じ
ただし、どちらのケースも、曖昧でも何らかの見返りを期待している(将来よろしく、とか感謝とか)
・メラネシアに限らず、世界の多くの経済は「贈与経済」(Strathern,1988)=価格が固定されないモノの分配
・贈与は他者との関係作りである:平和創出の手段、友情、忠誠→システムの統合維持
・コーヒーを買ってきてもらったとき、すぐに代金を払うのは、他人と道徳的な関係性を持ちたくないとの意味
・モースがポリネシアで見たのも同じ。互酬性は社会をくっつける「糊」だということ
「全体的贈与」:宗教、法、道徳、経済がすべてその交換の中に現れるようなもの。現代では結婚指輪か
▽ポトラッチ、互酬性、権力
・北米のポトラッチはKwakiutlおよび近隣集団で実施。1884年にカナダで、数年後には米国でも禁止
狩猟、漁労民でヒエラルキーを持っていて、貴族は相互に贈り物をして相対的地位を保っていた
返礼をより多くという加速構造を持っていた
冬には大規模なパーティを催して飲食、財産を燃やしたり奴隷を海に投げたりして財力を誇示
→最も破壊できた人が首長になる
・もっとマイルドなものでは、フランスの婚姻時の贈り物習慣なども(モース、1924)
・ブルデューが引用したモースの互酬性に関する研究:Kabyleの社会
家の完成の際に、それを称えるための食事ではなく金銭報酬を求めた石工の話
→贈り物の交換より、市場での交換を求めた形
・レヴィ=ストロースは贈与を社会統合の基本としたが、モースは生け贄など他のシステムもあると考えた
←Weinerの反論。Inalienable Possessions
(●よく分からない。贈与の対象になるのは、所有者と切り離せない譲渡不可能なものである、
市場での交換の対象になるのは、切り離せるものだということらしい)
▽分配の諸形態
・贈与は社会統合の手段であり、個人間の関係を定義、再確認するものである
・資本制経済下では全く事情が違う。レジ係も客も、買い物終了後にお互いの顔など覚えていない
・ポランニーの3分類:
(1)互酬性reciprocity。メラネシアなど贈与経済が優勢な社会での基本的な形式
(2)再分配redistribution。政府や首長など中心的アクターがものを集めて配る(互酬性は中心がない)
(3)市場交換。匿名で、交換ルールも各自が選択できる
→ポランニーは市場交換が社会統合を危うくするが、同時に反発が起きるので全域化はしないと考えた
社会には(1)(2)(3)いずれも存在するが、比重は社会によって違う
・再分配は権力構造の保存に役立ち、市場交換は膨大な人数を包括できる
・さらにインフォーマルセクターの存在も指摘される(Hart, 1973)
大規模組織犯罪、密貿易、契約のない労働などが現代の経済グローバル化により拡大中
▽貨幣
・多くの場合、何を売買していいか/いけないか、という規範が社会の中にある
資本制にもあって、愛、友情、忠誠などは売買できないとされている
麻薬の売買も一般的には違法。セックスも社会によっては。武器も同様
ただし、資本制は他の制度より売買できるものの範囲が広く、商品間の比較可能性も高い
→その仲立ちとなるのが貨幣。マルクスの「交換価値」
伝統的社会の多くは労働力や土地は売買の対象外だった
貝を貨幣のように使った社会もあるが、交換の対象は限定的だった
・ナイジェリア・ティブ族Tivの例
もともと土地はアイデンティティと強く結びついており、売買の対象外だった
穀物、果物、野菜を作り、家畜を飼っていて、余剰は市場で売ることもある
ただし、市場が唯一の分配システムではないmulticentric systemだった
第2次大戦前は、3つの経済領域を持っていた:
(1)日用品。主に市場で交換され、通約可能。最も低いレベルの交換
(2)威信prestige。家畜、呪術用品、奴隷、超高級な輸入の織物など。真鍮の棒が貨幣代わり
(3)女性と子どもの売り買い。人を購う手段は人。決済はすぐに行われるとは限らない
各領域の内部での交換は道徳的に中立的。ただし領域をまたぐと交換基準がない
特により低レベルの領域との交換を行うのはアホだととらえられている
→パックス・ブリタニカのもとで交易範囲が拡大、これまでの定義にない商品と触れるように
さらにゴマの輸出で貨幣を手にするようになった
数年ですべての商品の価値が貨幣で測れるようになってしまった(Bohannan,1959)
結納もお金でするように。多くの人は「女性をモノで買っている=女性の価値を貶めている」と感じた
・ただし、貨幣経済の浸透が悪かったかどうかは場合による
ブルデューのように「道徳的義務の網の目やヒエラルキーからの解放だ」ということもできる
親族集団によって個人が交換されなくてもよくなり、自由恋愛が可能になったとの側面も
そもそも人類学は価値判断することを初期的なタスクとしていない
▽情報技術としての貨幣
・貨幣経済の流入によって、経済は道徳や文化から切り離される
・そのかわり、非常に広い範囲の交易に開かれることになる
・生産したゴマが英国の食卓に上り、真鍮の棒では買えなかったTシャツやラジオが買える
・貨幣は国家ともつながっている。国家は貨幣を発行し、徴税する
・貨幣は負債ともつながっている→次第に格差が広がっていく
▽モノへの意味づけ
・モノへの意味づけは文化によって違う(Appadurai, 1986)。言葉、サービスといった抽象物も同じ
・例えば、トロブリアンド諸島では呪文が相続されたり売り買いされたりする
・マルクス:コモディティ化によってモノは比較、交換可能になる→ルカーチ、ハバーマスへ
・価値の体系を知ることが、社会の中の多様性を知る足がかりになる
例)ブルデュー:アカデミアを地位と権力の交換をするアリーナとして見る
・モノは意味やアイデンティティとつながっている(家の内装など―Miller, 1998)
・記憶ともつながっている(墓石からビール缶、マッチ箱まで)
▽消費とグローバル化
・モースが言うように、(カネを仲立ちにしてもしなくても)交換は社会関係を創出する
・消費は人々の間の違いを作り出すと同時に、連帯や文化的な意味を作り出す
・一見、享楽のために見える消費が、実は全く違った意味を持っていることがある
例)ポップス、ファストフードはアメリカ化と言われるが、セブンイレブンは日本の会社だったりする
フォルクスワーゲンは中国でアメリカのメーカーの車より売れている
トヨタはアメリカで3番目に売れている
第3世界の家庭ではポケモンを見て、メルセデスを買い、ウィスキーを飲む。どれも米国と無関係
ヒンディー・フィルムはインドネシア、セネガル、ナイジェリアなどで若者に受けている(Larkin)
・モダニティの土着化indiginisation of modernity。新たなモノや習慣が既存の意味の諸体系に入ってきて、
それらをちょっとずつ変えつつ、しかしそれぞれを均一化しない(サーリンズ, 1994)
官僚制、市場、コンピューターネットワーク、人権など、それぞれ地域によって違った定着の仕方をする
モスクワではソ連崩壊後、マクドナルドが日常に入り込んだ
→逆に言うとモスクワっ子はマックを「飼い慣らした」(Caldwell, 2004)
こうした順応は、新たな要素がその文化の根本的なところに触らない限り起きる
▽交換再考
・交換のロジックにおいて、「西側世界」と「それ以外」を分ける考え方はそれほど自明ではない
・互酬と市場交換は相互排他的ではないし、それらの間に明確な線を引くこともできない
・サーリンズによるニューギニア研究では、住民は賃労働者になっていってもラジオなど近代的な道具を
買っていたわけではなく、伝統的な制度のもとで、よりたくさんの豚を供物にしたりしていた
→新しい経済システムの導入が古いシステムを葬り去るわけではない
・Davis(1992)はイギリスにもたくさんの交換形態があることを示した
→伝統社会/近代社会、われわれ/かれら、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの二分法に疑義
ただし、すべての社会が「同じ」と言っているわけではない