■クロード・レヴィ=ストロース(川田順造訳)『悲しき熱帯Ⅱ』中公クラシックス、2001年。
Ⅰの日記はこっち(大したこと書いてないけど)。
「私は旅や探検家が嫌いだ」という印象的な一文で始まった長い長い紀行文の最終盤で、読者は次の謎解きのような記述に突き当たります。
このように論を進める[未開の社会もわれわれの社会も、全面的に善だったり悪だったりすることもないし、それらを包むより広い文脈の中に位置づけることで絶対的に違うことにもならないとする]ことは、あれこれの部族の「野蛮な」仕来りへの想いを掻き立てられて陶然となる旅行譚愛好者を戸惑わせるだろう(Ⅱ、p.375)
最初の一文がはっと思い出されます。
「われわれ」が「野蛮」に差し向ける好奇の視線、進んだ/遅れたという区別を二つの社会の間に厳然と置きながらファンタジーを消費する態度へのアンチが、あの最初の一文を書かせたのではないでしょうか。そして自分が書こうとする旅行譚もまた、そんな視線を喜ばせるようなことになりかねないのだと。なにより、南米と亜大陸というふたつの熱帯に漂う悲しさは、そのかなりの部分が「われわれ」による蹂躙によってもたらされているのだと。
Ⅰに続いて、民族学者(そういや文化人類学っていう言葉はこの本に出てこないね)の鋭い目を通して書かれたインディオ諸部族の記録はとても読み応えがあります。
さらにその目は「われわれの社会」の近未来(中公クラシックスを読んでる者の同時代)までも見透しているように感じます。
最後のほうには、社会に対する脅威を無力化するときに「食べる(食人の慣行がある)社会」と、「吐き出す(隔離する=われわれの)社会」を対比していますが、弊管理人はこのくだりで、ジョック・ヤングが現代社会の排除のありようを形容するのに使った「過剰包摂(bulimia=過食症=食っては吐く=次々と差異を包摂していく一方で排除されるべき脅威を作り続ける)」というアイディアの源流を見た気がしました。
さらに、世界を部分に解体しながらフラット化し、熱死に向かって突き進む現代に対する批判は『無痛文明論』の到来をほのめかしているようにも思えてしまいます。思えてしまいませんか?そうでもない?(笑)
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余談。父親59才の誕生日です。オメデトウ父!オカンを追い越しちゃったね(;_;)