■竹田青嗣『人間の未来 ―ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書、2009年。
ポストモダン「後」の社会の原理をどう構想しましょうかね、ということをヘーゲルに依拠しながら考えていく本です。
近代社会のキモである国家や資本主義。それを「階級的支配のための装置だ」と否定したり「そもそも幻想にすぎない」と否認したりしても、どこへも行き着かない。
なんでって、資本主義は生産と消費をどんどん拡大することで、初めて人間を欠乏状態から来る富の奪い合い(万人の万人に対する闘争)から救い出したわけだし、それと同時に暴力を国家が一元管理して、人々は暴力ではなくルールによる競争を通じて自由を実現していく条件は、少なくともできてるじゃない。国家を否定しても暴力の渦の中に戻るだけだし、資本主義を否定してもやはり富の欠乏によって暴力による奪い合いに戻るだけでしょ?ということを繰り返し説明します。
では、現在のように国際的なマネーゲームが各国の国内ルールなんてお構いなしに格差と金融崩壊を作りだし(そこで蓄積した不満がテロをも招来し)、大量消費と大量生産が資源を食いつぶそうとしているときに、近代をどう修正したらいいんだろうか?
資源を食いつぶすことで起こるのは、かつて資本主義が始まる前に慢性的にあった「欠乏」に再び人間を突き落とすことであって、それは暴力による奪い合い状態を復活させるのだとまず気づくこと。
それを避けるために、近代国家が作ってきた「国民間の(暴力でなく)ルールによる統制」というものを、国家間のルールによる統制にまで広げていくこと。これらが必要だといいます。
資本主義が19-20世紀に生み出した問題に対して、資本主義じゃあダメ、かわりに共産主義という究極を!とごり押しした「絶対主義」も、そうした大きな物語が倒れたあとに「何言っても空しいよねー」と引きこもってしまった「相対主義」も、まあそう考えたい気持ちは分かるけど、もうそろそろ死亡宣告でいいでしょう。
そこで参考になるのが実はヘーゲルで、彼は既に「絶対」も「相対」もだめ、ということを言っていて、かわりに、人にとっての「よいこと」というのはそもそもみんな違っているので、それらをルールのもとで戦わせながら「より普遍的なのはどれか?」を探求していくべきだ、そのプロセスに人の自由の本質がある、という示唆を与えてくれるのだそうです。
で、私の感想ですけども。
(1)この本読みながら、ローティの「自文化中心主義」を思い出してました。究極の真実なんつうものはそもそも知り得ないので、自分の立ち位置から出発して、しかし自分も間違っているかもしれないという態度を保ちながら、異なる価値を持つ人たちと接する中で「より多くの人が合意できる落としどころ」を探していくしかないんだという考え。そんなもんヘーゲルが200年も前に言ってるよ、ってのはほんとかいな?と思いつつ(『精神現象学』読んでないので……)やっぱりこの辺に落としどころ求めるしかないのねー、と思った。
(2)少し前にあるところで友人が「大きな物語の終焉→ポストモダン」は、実は「より大きな物語(地球規模・国家ではなく人間社会全体の問題)の出現→立ちすくむ」ではないか?と言っていたのですが、その整理のしかたがかなりいいとこ行ってたんじゃないかと思いながらこの本を読んでました。
ただ少し修正するとすれば「大きな物語の終焉→ポストモダン・期を同じくして・より大きな物語の出現→ポスト・ポストモダンの思想が必要になっちゃったが、それがないことによるオロオロ感」なのかなという気がしてます。
面白かったかどうかはこの感想文の長さで気づいて下さい(笑)