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詩学

大阪での通勤は徒歩15分ほどで、深夜帰宅も楽々なのが有り難いのですが、その代わり地下鉄通勤で本を読んでいた東京時代に比べてめっきり読書がはかどらなくなってしまいました。この本も1月から読んでいてやっと終わった。これはちょっと考えものです。何とかしないと。

■アリストテレス(三浦洋訳)『詩学』光文社、2019年。

BSラジオでタダで聞かせてもらっている放送大学の『美学・芸術学研究』(青山昌文教授)と、エーコの『薔薇の名前』で立て続けに出てきて何何それそれ、で読んだ。

悲劇のストーリーの作り方を通じて、クリエイティブっつうのはこういう理知的な営為ぜよ、っていうことをがちがちの理詰めで語る。で、その重厚な構築物を一通り味わってから2400年後のむちゃくちゃ豪華で懇切丁寧な訳者解説を読めるの、もうほんと同じ時代に出てくれてありがとうと思う。まあ弊管理人の大学時代には20年ほど間に合わなかったのだけど、1000年単位で見れば誤差ですやね。

悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣であり、作品の部分ごとに別々の種類の快く響く言葉を用いて、叙述して伝えるのではなく演じる仕方により、[ストーリーが観劇者に生じさせる]憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである。(p.50)

この定義に立って、よい悲劇とは何か(何を達成するものか)、どうやって作ればよいのかを考えていきます。

「『憐れみ』とは不幸になるのにふさわしくないのに不幸になった人物に対して起こるものであるし、『怖れ』とは、私たちと似たような人物が不幸になった場合に[同じ不幸が自分を襲うかもしれないと感じて]起こるものだからである」(p.92)というくだりにあるように、観劇は自分と演じられている役の比較を要請される知的な営みなのだと訳者は説明します。まさにこういう態度が後年、恍惚的=デュオニソス的なものを称揚したニーチェから、理知的=アポロン的と非難されたポイントでもあると。

そして、物事の本質の理解に基づき、どういったものが成功した悲劇で、どういったものが失敗しているのかを考える。これは明らかに「イデアの劣化コピーである現実、の、劣化コピーであって、しかも低俗な快感を与えようとする劇なんてやめちまえ」とするプラトンの「詩人追放論」への反論だといいます。
そこでこの本ではあまり取り上げられていませんが、青山氏の講義で「模倣=ミーメーシスとは、本質の強化的な提示である」という解説を先に聞いていると、いや詩作も含めた芸術全般を特徴づける「模倣」は、劣化コピーどころか、本質に迫る活動そのものなんだという反論にすっと入っていけると思います。

テクニックについての解説も面白いです。Aを目指していたのに非Aが起きてしまう「逆転」、ある瞬間に重要なことがはっと気付かれる「再認」、凄惨さが憐れみや怖れを呼び起こす「受難」など、成功のための仕掛けを導入し、さらにそれぞれが効果を発揮するための条件、凡庸なものに終わってしまうパターンを紹介していきます。
キャラ(性格)設定にあたっても「優れている」「(性別などの)属性にふさわしい」「その人らしい」「一貫している」といった条件を示します。
ストーリーについても、こちらは経験則ですが「矛盾がない」「普遍性がある」「こんがらがっていた事態が解決する」「伝承をうまく使う」「合唱をはめこむ」といったチェック項目を挙げています。

解説では、『薔薇の名前』の鍵となった「幻の『詩学』第2巻」が本当にあったのかどうかについても考察し、さらに近現代にこの作品がどう受容されてきたのかも紹介してくれています。本当は一冊、解説本を買って腹に落とすところ、こんなにしてもらっていいのかしらと。またいつか立ち返ってざっと読みたいと思います。

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2020年03月20日 18:04に投稿されたエントリーのページです。

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