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引き続きコロナ

弊日記には珍しく時事的なメモを引き続き。合ってるかは知らない。
非専門家なので、ああだこうだと考えること自体を楽しんでいるだけです。

・いまの対策は感染拡大のペースを落とすもので、医療が逼迫して人が余計に死ぬのを避けるため(つまり早かれ遅かれ一定死ぬことは織り込んでいる)。そして終着点は、大半の人が一度かかって免疫を獲得することなのではないか(全員でなくていい。かかってない人がかかったことのある人に囲まれると、かかったことのある人が壁になってウイルスは入ってこない)。時間稼ぎをしている途中でワクチンができれば、それで大半の人が免疫を獲得できるので最高

・感染拡大のペースを落とすと必然的に対策は長期化する。1年を超えてひょっとして2、3年とか。そのうちたぶん、経済停滞と病気のどちらがたくさん人を殺すかという議論になる。で問題の軸は、どの年代が死にやすいかという病気の特性から、どの階層が死にやすいかという社会的格差に移るし、そうなるべき。健康への負荷は風邪~インフル程度でしょ、という割り切り方はあり、それを考慮して社会的・経済的な負荷と比較考量してもいい

・その場合、1人が次の人にうつし→その人がまた次の人にうつし→…、というタイプ(仮に「連鎖型」、和歌山の病院)は拡大ペースが遅いので、ある程度許容していいかもしれない。まずいのは密閉&密集の空間に1人が飛び込んで一気に多数にうつすタイプ(仮に「爆発型」、ライブハウスや屋形船)で、こちらを重点的に回避するというのが基本になるのではないか。密閉&密集という環境にならないジャンルを再開していくと、クラブでウェイは年単位で無理かもしれない。陸上競技はいいけどバスケはダメ、4人の飲み会はいいけど50人の歓送迎会はダメ、とかの線引き問題も出てくる

・中国が強烈な対策でピークアウトしたらしいから、数ヶ月頑張れば封じ込めは可能じゃないのという見方もあると思う。けど、無症状の感染者が一定うつしているというのと、うつすペースが速い(serial intervalが短い)らしいと聞くと、罹患ゼロに持ち込むのは極めて難しい気がする。今の国内対策がこれを目指していて、科学的には可能だとしても、社会的・経済的な負荷に耐えられなくて諦めないといけない時がわりとすぐ来るのではないか

・仮にゼロにできたとして、それで制限解除したら流行再燃しないかな。たぶん無症状の感染者が世界中を動き回ってるし、清浄国(地域)とそうでない国(地域)を分けて交通というのはどこまで効果的か。世界中で終息しないと正常には戻らなそう

・なんか「政府に縛ってもらうの好き」かつ「強制的に縛られない部分は緩い」よねという印象。「うちは諸事情とデータ勘案してこうやることにします」と考えて個別にルール設定をしていったほうが、医学と社会の両方に折り合いをつけた落としどころに行けそうだし、今のところ制度的にはそれができる状態なんだけど。例えば、学校に関してはまだ感染者の出てない県教委が授業続行していて、ああいうのをもっと小さい単位でもできたらという気はする

・もっともこれは自由な社会を前提にした話で、最も効率的に押さえ込めるのは全体主義の社会なのかもしれない。と一瞬思ったが、そう単純ではないな。たぶん全体主義の社会にもアングラレイヤーがあって、そっちのが危ないか。いやどうかな

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2020年03月15日 11:08に投稿されたエントリーのページです。

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