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論理哲学論考

■ヴィトゲンシュタイン, L.(丘沢静也訳)『論理哲学論考』光文社,2014年.
■野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房,2006年.

骨組みだけでできた驚くべき建築。そんなもの見せられても「なんかすごい、けどわからん」と当惑する。ラッセルも困っただろう、現に出版に際して間違った解説を寄せてしまった。まして弊管理人には無理。というわけで野家さん(訳本に「出前講義」が収録されている)に助けを借りたが、なおもやもやしたので野矢さん(『読む』は大学院のゼミをもとに作った本らしい)にも当たり、付箋を貼ったり絵を描いたりしながら読んだ。ぼやーっとした何かを掴んだつもり、くらいになった。

世界は現実にそうなっている事実から成り立っている。各々の事実の布置である。
現実にはそうなっていないが、可能な事態も、それを構成する対象の布置である。
現実にそうなっている世界と、可能な事態を含んだ全体が、論理空間である。
論理空間の外枠が、思考の限界である。

論理空間を操作可能にするための道具が、言語である。
つまり、論理空間を言葉に写し取ったものが言語である。
そこには名からなる単純な要素命題があり、それが組み合わさって複合命題を作っている。
もととなる命題と、一定のルール(論理)に従った操作によってできている。
そうした言語の全体の外にあるのが、語り得ないものである。それは論理と倫理である。
語り得ないものである論理は、しかし言語を成立させる条件である。

やっているのは、何もない空間に純粋な言語のモデルを構築するようなことではない(何もない空間には積み木を積むべき地面がない)。イメージだけでいうと、慣れ親しんだ風景画像の解像度をとことん上げてみる、そんな営みなのだと思う。普段から使っている日常言語の全体を要素のレベルまで分析して、語り得るものと、語り得ないものの境界を画定させるような作業。ちなみに、境界を画定するルールは世界に含まれない。画定しているわたしも世界に含まれない。

そうしてみると、語り得るものってどうにもつまらなくないか。「1+2=3」は発見的な記述では全くなくて、最初からそうなってる世界をただ言葉にして見せるだけの静的な営為にすぎない。(だから科学の知識をダシにした会話は「こうなんだよ」「へー」で済んでしまって、なかなか花が咲かないのだ……)
推測だが、ウィトゲンシュタインは一通り世界の成り立ちが分かった段階で「つまんね」と思い、語り得ないが豊穣な倫理と論理のほうへ旅立っていったのではないか。
そして旅から戻って書いたのが『哲学探究』のようだ。野矢本の最後にさわりが書いてあった。たぶん、若書きの『論考』は純粋すぎたのだ。時間が経って「現実」から出発してはどうかと思うようになった。大人になったのかもしれない。もうちょっとしたら読んでみよう。(『探究』は高いからw)

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2015年06月19日 09:46に投稿されたエントリーのページです。

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