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はじめてのウィトゲンシュタイン

■古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』NHK出版、2020年。

12~1月に鬼界訳の『哲学探究』を読んでから「あれ、一体なんだったんでしょう……」と助けを求めて読み始めたのがこれ。『探究』は『論考』をどう乗り越えたのか、以前に、『論考』は何を言っていたのか、というスタートラインのはるか手前に戻って助走をつけるといいのであった。というか遍歴も含めて「ほぼまるごとウィトゲンシュタイン」を示してもらった感じ。そしてこの著者は「ここ重要よ」ということは何度も書く人だったのもよかった。

物事に対して一つの図式的な理解を発見したとき、嬉しくなってそれに固執してしまうことや、「なんかそれっぽい」言葉を「それが意味するのはどういうことか?どういう文脈に置かれているのか?」と吟味せずに使っちゃうこと、紋切り型に育ててしまうことの危険性を思った。それから、自然言語処理ができるアルゴリズムには何が必要なのか、という問題とつながっているのではないかと思った。一方、これだけ熱心に解説してもらっても、なお決定論/自由意思論が無意味というのがすとんと落ちないので、これは後でもう1回。

とはいえ、なんやら5年越しでやっとウィトゲンシュタインの主著を一度歩いた、これで関連書に行ってもいいかな、という気分になった。ぶへえ

以下はメモ。


◆前期の代表作『論理哲学論考』が目指したこと
・有意味に語りうることと有意味には語り得ない、語ろうとすると無意味になることの線引きをアプリオリな形、つまり特定の場所や時代に縛られない形で(=永遠の相のもとに(p.69))やることである(p.38)
・世界に生じうる事態すべてを語れる「究極の言語」でも語りえないものを明らかにすることである(p.53)
・世界の存在理由や観念と実在、普遍的な倫理や美など、哲学的な問題とされていたものは多くが「語りえないもの」の領域に属することを言おうとしている(pp.38-39)

◆語りえないものの一つが「論理」である
・命題とは現実の像あるいは模型である(写像理論)
・単語の並びを、真や偽でありえる「有意味な命題」にする秩序が「論理」である(例えば「雪が降っている」は有意味だが「いる降ってが雪」は無意味)。ただし日本語だとかフランス語だとかの個別の言語の秩序のことではなく、それら個別言語の間の翻訳を可能にするような普遍的な秩序のことであって、それは「こういうものです」と言語によって明示することができない。われわれが端的に理解することによって示されるしかない。世界の外にあって世界に反映されるしかない(p.47)

◆語りえないもののもう一つは「世界の存在」である
・個別のものが存在するということではない。例えば「太陽が存在する」という命題には世界の存在が反映されている、個別のものが存在することによって世界の存在は「示されている」が、それ自体を対象化できない(pp.54-55)
・世界が存在するということは、個別の何かがある、ということとは違った単なる「ある」「存在する」ということで、そのことに有意味に問うたり答えたりできない(p.69)

◆独我論、実在論も語りえない
・独我論とは「世界とは私の世界である」との形態をとる(p.60)
・世界のあり方について何ごとかを語っている私(形而上学的な主体、あるいは哲学的な自我)自体は対象化できない。それは世界の中というより世界の限界、世界の可能性それ自体のことである(pp.61-62)
・「そこにあるものは私が見ているそれだ」を積み重ねていく=独我論を徹底していくと、結局単に実在を語っているのと違わなくなる。結局、私はそこに世界のあり方が反映しているところのものである。そして両方とも語りえない(pp.64-65)

◆決定論、自由意志論も語りえない
・世界を永遠の相のもとに(=ありとあらゆる事態の可能性を含む世界全体を)眺めるとき、そこで実際に起きる事態はすべて偶然である(pp.69-71)。太陽が明日も昇るというのは必然のように思えるが、今日いきなり爆発してなくなる可能性もある
・必然性は論理的必然性のみであり、ある出来事が起きたことと別の出来事が起きることは「推測」できても「推論」はできない。論理の外ではすべてが偶然である
・因果関係はどれも必然的ではない。「世界は自然法則に支配されている」「自由意思が存在する」は無意味である。因果関係はさまざまに説明されてきたが、そのやり方は一つではない(例:神を持ち出すか、自然法則を持ち出すか)(pp.72-79)

◆価値、幸福、死も語りえない
・世界を永遠の相のもとに見ると、すべての事態が偶然なので重みはつかず、価値の大小もない。世界に驚く、奇跡として見ることができるだけ(pp.78-87)
・「アプリオリに満たされる」??(p.87)

◆そして、『論考』の主張もまた無意味である
・触媒としての、通り過ぎるべき書物(p.91)

◆「像」の前期→後期:世界の模型→イメージ/確定的→大体/永遠の相→生活実践
・前期における像:世界のあり方を写し取る模型としての像(p.132)
・後期における像:物事に対する特定の見方をするときに人が抱いているイメージ。「人間の行動は石の落下運動のようなものだ」というとき、石の落下のイメージ(像)で人間をとらえている。これを言うとき、石を思い描いているのではなく、石「になぞらえて」把握しているという意味での像(pp.129-130)
・ただし「泥棒の行動を石の落下のように捉える」といっても、「法則性を見いだそうという科学的な視点」と「責任がないことを言おうとする法律家の視点」がありうる。像は物事の見方や活動の仕方を確定的ではなく、曖昧に方向付けるものだということ。「自然法則による決定論」の企ては結局ぼんやりしている(p.136)
=あるいは「意味不明(≠無意味)である」(p.138)
=「アプリオリに有意味」ということはいえない、文脈による、「…とはどういうことか?」「具体的に何を言っているのか?」と問わなければならない、という点で前期の『論考』批判になる(p.141)
・どんな記号列でも、それを有意味にする文脈がないとは限らない(p.155)
・「永遠の相のもとに世界を見下ろす」こともまた一つの像にすぎない(p.163)→後期は「地上に降り立つ」

◆『哲学探究』の問題提起
・アウグスティヌスの例:机を指さす→「机」という語を理解する。言葉=指示対象、というのはしかし、名詞という限定的な言葉にあてはまるだけの像ではないか。「5」とか「赤」は何を指しているのか?(pp.168-172)ごく限られた例に依拠してすべてを説明しようとする(こういう発想に縛り付けられている「精神的痙攣」p.198)ところに哲学の混乱の根があるのではないか(p.175)

◆本質論を地上に引き下ろす道具
・規則のパラドックス:「0から2を足していく」―規則は原理的にはどうとでも解釈可能(アプリオリに意味が決定していない)。行為の仕方を一意に決められない。言葉の意味(例:「石を拾う」)も実は不確定である(pp.176-183)
・言語ゲーム:では言葉の意味は何によって決まるか?生活の中での使用である。「言葉と、それが織り込まれた諸行為の全体」が言語ゲームである←→「語は対象を指示する」。(pp.183-186)
・家族的類似性:「ゲーム」と呼ばれるものも、すべてに共通する本質があるわけではない。互いが何かしら似ており、共通性は生成変化する。言語ゲームでも「報告」「推測」「仮説検証」「創作」……などいろいろ
・いずれも「○○とは何か」を地上に下ろしてくる営みである。「普遍的で形而上学的なことを言いたくなったとき、そこで自分が本当はどんな具体例を思い描いているのかと問うこと。普遍的な意味を持つと言い張る像について、その像はどこから取って来られたのかと問うこと」(p.191)。
・哲学は「人間の自然誌」を考察/創作!すべきだということ(p.195)
・地上に下ろしても言葉の意味はいろいろ。例)粒子。砂粒のことか、量子のことか、等(pp.193-194)

◆方法としての「形態学」
・ゲーテの「形態学」:外見上は違う個物に共通する「内的なもの」を見いだす。植物をいろいろ見ているうちに「原植物」の存在を確信する。原型→そのメタモルフォーゼの反復、という図式。「葉」という「原器官」=隠された原型の発見。進化発生学のほか、フレーザー、シュペングラーなどへの展開(pp.196-199)
・それはイデア的なものかも。シラーの批判。cf.「犬」というものは存在するか?
・ウィトゲンシュタインによる受容:個物の間に類似性や連関を発見することによって「展望をきかせる(全体を秩序づけてみることができるようになる)」という効用
・ウィトゲンシュタインによる批判:ただし、連結項の発見の仕方(見る視点)は一つではない。「原型」もまた一つの「像」である。像に合わせて現実を歪めていないかは注意が必要。あくまで現実をあるがままにどう描くかに使うのが像である(pp.206-214)し、★一つの連結項を発見しても探究を止めないことが、硬直から解放されるために必要である(pp.223-224)
・連結項は創作されることもある cf.社会契約説における「自然状態」(p.219)
・アスペクト:連結項を見いだすことで、日常の見方の転換がもたらされる(pp.220-221)そして多様なアスペクトを(見下ろすのではなく)見渡すことであるがままに捉えられる物事が存在する(p.224)

◆心、知識、アスペクト
・多様な心的概念に対して、心を物のようにとらえる像(例:痛いの痛いの飛んでいけ)に固着してしまうことの問題。奴隷制度に対する怒り、のような「評価としての感情」に目が向かなくなること(pp.243-245)
・特定領域の神経細胞の興奮という像としてだけ見ることの問題。「悲しい」の持続は、その間にちょっとした楽しさや気散じができていたとしても持続している(=物理プロセスと無関係な感情の持続がある)という事実が見えなくなること(pp.245-248)
・「私が悲しいことを私は知っている」の無意味。知っているかどうか疑える場合に「知っている」は意味を持つが、無意味なものに意味を感じてしまうときには、文法を見渡すことができていないのかもしれない
・「アスペクトの閃き」。無秩序に見えていたものが急に秩序だつ。関連性が見える。数列の一般項が見える。しかし「分かった」ということはその一瞬の閃きの像のことではなく、その後に正しく実践できるか(例:数列を正しく書いていけるか)という「状況」によって示される。
・アスペクトの閃き自体も、さまざまなパターンが家族的類似性でつながってできている概念である(pp.283-286)
・「アスペクト盲」

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2021年02月17日 23:44に投稿されたエントリーのページです。

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