■アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2015年.
光文社古典新訳文庫の『リヴァイアサン』は2014年末に1巻が出てから一向に2巻が出ないので、先に上下巻が刊行されたこちらに手を付けてしまいました。
よい政治の礎となる「よい人」を作るのは若年からの習慣であり、「よい大人」はよいことをなす傾向がある。よい行いも悪い行いも自発的になされ、それが責任を発生させるということ。「よい」とはTPOを踏まえつつ極端に走らず適度であること、みたいなお話。二千何百年前によくこれだけギチギチと考えたねっていう感心とともに楽しく読めるので、上巻だけで500ページと長い本だけどこれはちゃんと通読すべきだと思った。
・「知ってるだけではだめ、やれないとだめ」という徹底した行動志向
・「子ども」をものの数と見てない感じw
・経験と論理と、例示や背理法などさまざまな角度から行う議論
・責任、正義、行為や記述といった西洋哲学のトピックやがぎっしり詰まってる
・過失、計画性なき故意、計画的犯行、みたいな現代使われてる刑罰の区別みたいのがもうある
というあたりが印象的でした。
以下、自分用メモ。下巻はこれから読む。
【第1巻】
・何か他の目的のための手段になるようなものではない、最高の善について考えたい
・で、それは政治学の扱う問題である
・その結論に求められる厳密さは、数学ほどかっちりしたものではなく、「大抵そうなる」くらいのもの
・人間が実現しうる最もよいものは「幸福」だが、その中身が何かは議論のあるところ
・幸福とは快楽のこと?名誉のこと?徳(アレテー)のこと?いずれも違うように思える
・「名誉」は他人に認めてもらう必要があるが、それには徳が必要なので、本質的ではない
・「徳」も完璧ではない。持っていても役立てないこともあるし、不幸が襲うこともある
・「富(カネ)」も、それを使って他の何かを得るためのものなので、最高善ではない
・では、プラトンにならって「善のイデア」が最高、とすべきか?
・でもそれって人間が手に入れられないもので、そういう話をしたいんじゃない
・あくまで「人間がなしうる、獲得しうる善」のことを追究したい
・「善」というのは、行為や選択の「目的」になるようなもの
・人が行うあらゆることの目的になるもの、それを最高善と言っていいと思う
・その最高善とは、「幸福」じゃないだろうか
・その「幸福」は、すべての人間に共通な機能を特定した上で、その開花した形だと考えてみたい
・それは「分別(ロゴス)を持っていること」で、それがちゃんと発揮されている状態である
・つまり幸福とは「徳(アレテー)を伴った魂の活動」だといえる
・ざくっとはそういうこと。詳細は今後、詰めていこう
・ところで、幸福は習得できるものだろうか、運任せなのだろうか
・幸福は「活動」にかかわるものである以上、運任せというのはいかにも違うようだ
・政治学の目的も、いかによい市民をつくるかを考えることにある
・一過性ではなく、持続的に徳に基づいて行動する人の人生は最も安定するはずだ
・そこに不運が訪れることもあるが、それで全体的な幸福が転覆するわけではない
・次に、幸福をもたらす「分別(ロゴス)」は魂のどこで働くのかを考えてみたい
・まず、植物とも共通な「栄養を摂取する(生命活動を維持する)」に関わる部分は除外する
・それ以外の欲求部分で、分別に従えるかどうかが、抑制のある人とない人を分けるようだ
・分別に従えない人でも、分別によって説得できる余地はあることにも注意しておく
・ロゴスといっても、数学者に見られるロゴスと、他人の助言を聞き入れるようなロゴスがある
・これに対応し、徳(アレテー)にも、知恵や思慮などに関する「知的な徳」と温和や節制などに関する「人柄の徳」があるようだ
【第2巻】
・「知的な徳」は教示によって生まれ、伸びていく。「人柄の徳」は習慣によって生まれる
・年少からの習慣によって、正しい行為に快を覚え、正しいことをなす人になる
・まぐれや人から言われてできるのではなく、自分で正しい行為を「正しいから」選び、攪乱要因にも耐えつつ、行えることが条件である
・つまり知っているだけではだめ。行為を伴わないと魂を優れた性向に導けない
・徳は、魂の中に現れる「感情」「能力」「性向」のうちの「性向」であるように思われる
・「感情」は怒り、欲望など。「能力」は感情を持つための身体的能力のこと
・「性向」はもっと長期的な傾向のこと。それを元に個別具体的な選択が行われるようなもの
・また徳(卓越性)とは「中間性」のこと。極端に寄らず、過不足ないこと。そして達成するのは難しい
【第3巻】
・徳がかかわる「行為」の構造について考える
・行為は、「自発的なもの」と「意に反したもの」に分けられる。賞賛/非難されるのは「自発的行為」
・「意に反した行為」は「強制されたもの」、「無知によるもの」に分けられる
・「強制された行為」は「物理的強制(船が風に流されたなど)」と「状況に迫られたもの」に分割可能
・ただし「状況に~(船が嵐に遭って積み荷を捨てるなど)」は自発性もまじっている
・「無知による意に反した行為」(≒うっかり)は、後悔を伴う。後悔しないのは「自発的な人ではない」とする
・というわけで、「自発的な行為」は、事情を理解した上で、その人が起点となって行う行為のこと
・徳も悪徳も自発的なものである
・「自発的な行為」は「ロゴスと思考に基づいた選択」を包含している
・(イコールではない。子どもや動物は自発的だが選択していない)
第3巻第6章以降しばらくは、個別の徳について取り上げる。
・「勇気」は恐れと自信の大きさの中間。美しい死(戦死)を恐れない人
・「勇気ある人」は臆病と向こう見ずの中間。恐ろしいものを適切に恐れる。自殺は逃避だから×
・「節制」は身体の快楽に関わる。食欲と性欲の過剰は「放埒」で、動物と共通
【第4巻】
・「気前よさ」は財貨に関わる。しかるべき相手に財貨を与えること。浪費とさもしさは×
・「物惜しみのなさ」は特に大きなスケールの出費に関わる。美のための出費。物惜しみと俗悪は×
・「志の高さ」は自分の大きさを知っていること。これが最善の人。うわべだけと卑屈は×
・ちなみに、自分の小ささを知っているのは「分をわきまえた節度の人」
・「温和な人」はしかるべき時にだけ怒る人。怒りっぽいのも全く怒らないのも×
・「篤実な人」は社交における中間性。必要な時には友人に意見する。へつらうのも口やかましいのも×
・自分をより大きくも小さくも見せない=「ふり」をしない無名の徳
・「機知に富んだ人」はおしゃべりの中間性。冗談のかけあいができる。低俗も野暮も×
【第5巻】
・正義について
・正義の徳とは、正しいことを望み、為す性向のこと
・正しい人とは、法を守る人、公平な人
・正義の徳は完全な徳。他の徳を包含していて、かつ自分にも他人にも使える
・ただし、同じ「正義」という言葉だが、全てを包含する正義と、包含されている部分的な正義がある(ややこしい)
・部分的な正義(つまり包含されているほうの正義)には「配分的正義」と「矯正的正義」がある
・配分的正義は、等しい者が等しく持ち、等しくない者は等しくなく持つこと。比例関係に従った配分
・矯正的正義は、当事者をそれぞれ等しく扱い、等しく(真ん中で)分けること
・また、これらの正義とまた違ったものとして、応報=交換(的正義)というものが考えられる
・履き物職人がサンダルと、大工が家を作って、それらを交換する場合など、多様な人の「共同」にあたっての均等化の原理
・そこで発明されるのが貨幣。貨幣は異なるプロダクトを通約し、交換可能にする
・ポリスにおける正しさには、取り決めにおける正しさ(法的な正しさ)と、自然本性的な正しさがある
・法的な正しさは共同体によって変わるが、自然本性的な正しさはどこでも同じものである
・不正には3類型がある
(1)無知ゆえの「過失=うっかり」。投げて渡そうとしたらぶつけてしまったような場合
(2)意図的だが計画性がない「不正行為」。かっとして殴るなど
(3)選択の上で行う「不正の悪徳による不正行為」
・「衡平さ」と「正しさ」の関係について
・「正しさ」には法的な正しさと、法で実現しきれない正しさを実現する「衡平」がある
・つまり、法という一般論で救えない個別事例、法の定めが明らかでない事案に対処するのが「衡平」
・高潔な人は、「衡平」にかかわり、実際に為す人のことである