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たこうか

■鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ―〈多孔化〉した現実のなかで』NHK出版、2013年。

今ここという時空間には、「友達とメシを食う場」とか「家族がいて休息する場」といった意味がくっついている。ところがそこに、モバイル機器やソーシャルメディアといったツールを介して、職場の人間関係やら「物理的には離れているのにウェットなつながり」といった、ネット空間というもう一つの空間に属していたはずの意味が隕石のように飛び込んできて、それらが開けた壁の穴からは行動履歴や、社会一般に見せるつもりではなかった内輪ノリの軽口がうっかり漏出していく。
そうやって空間の一体性を支えていた意味のネットワークがずたずたになり、人と人の関係も人と空間の関係も断片化する。では、そんな荒廃の中に築くことができ・持続させることができる共同性って一体どんなものだろう?

うざったい共同体からの解放は、紐帯の喪失と同じこと。だから取るべき道は(1)共同性なんて期待しないで自由に任せ、どうしても残しておくべきものだけアーカイブしておけばいい(2)あるいは逆に、公共団体が定例的な式典の運営を通じてシステマティックに共同性を維持すればいい、のどちらかのような気がする。
でも、その間を行くような”第3の道”はないか。それは、共同性をずたずたにしたのが意味ならば、意味を利用して共同性を回復すればいいという考え方だと思う。たとえば、いつもそこにあり、いつ訪れて体験してもいいような「意味の空間」として、その土地の記憶を、物理的な空間に重ねて置いておくこと。ARを利用したテーマパーク、ドラマの舞台となった場所=「聖地」ようなものを作り出すなんてどうだろう。

2年ほど前、「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」という印象的なフレーズを発した人が、このところ震災で発生した(現在進行形の)史跡へのツーリズムを提唱している。そんなことと、弊管理人自身が1998年に訪れた神戸と、仕事として関わった2011年のことと、その後に読んだいろいろを思い出しながら読んだ。弊管理人はぼっち気質なので(1)でいいじゃんと思うのだけど。さらに、著者が提案した第3の道って、ナショナリズムのよすがとなるような伝統の創出に似た戦略に見える。使い方によっては危ない感じもするのだけど。

先週、新宿の紀伊国屋で、前月の深夜ラジオで出版を知ったこの本のタイトルを見たとき、こういう題材の本は出てすぐ読まないと古くなるから、と手に取りかけて、でも図書館で借りればいいか、と思い直し、でもすぐ読まないとと思い、「1300円以下だったら買おう」と思って値段を見たら1000円だったので買った。早く読んでよかった。

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2013年09月14日 00:15に投稿されたエントリーのページです。

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