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わたしは

■鹿島茂他編著『シャルリ・エブド事件を考える』白水社,2015年.

1月にフランスで起きたシャルリ・エブド事件について、3月に出版されたこの冊子を寝床で数ページずつ読みながらからぐねぐね考えているうちに、5月になって米国でもパロディみたいな事件が起きました。
整理できてませんが、こういう時はクエスチョンを自分で立てて自分で答えるのがいいのかもしれない。
ということで、以下は弊管理人が考えたこと、バージョン1.0です。一応、思ったことに理由も付けるよう努めました。2、3の原則を膨らませているだけですが。
練習問題は絶えず世界から与えられているので、今後も考える叩き台にしようかなと思ってます。

* * *

―今般の出版社襲撃は許容されるか?

「成員を殺したり傷つけたりしちゃだめ(刑罰は除く)」というルールを共有している集団の中で起きたことなので当然許容されない。襲撃犯をとっつかまえて処罰する、という作業が国家に求められるだけの話。

―道義的に許容されるかどうかって話は?

テロの口実に使っただけなら、真意がどこにあるか分からないので道義的な面でどうかという検討ができない。ので、問題はルールに照らしてどうかという面だけから考えることになるんじゃないか。
その結果は上で言ったように「許容されない」。

―背景にはフランスのマイノリティが置かれた状況が……

マクロな状況は個別のケースの説明に使っちゃだめじゃない?どれくらいの影響を与えたかとか言えないでしょう。当の本人の生い立ちがひどいとかの情状があるなら、それを酌めばいいと思う。
ただ、個別のケースに触発されて何らかの社会問題の存在に思いを馳せるのはありだと思うけど。

―今回の話についての判断はそれで終わり、つうことかしら。

終わりじゃないかな。

―じゃあ仮にの話。犯人が本当に気分を害していたとしてそれは考慮されるべきか。もっというと「嫌なこと言われたら暴力ふるっていい」という考えはアリか。

それはナシ。一般に、言論に対して暴力で応じると言論が多様にならない。多様にならないといいアイディアが出てくる機会が少なくなる。(多様さを抑えてもハッピーが増すようなルールがあるとかなら要再検討だけど)
今回はありえないが、経済的な制裁とかの別の圧力もだめだと思う。相手がものを言うための力を殺ぐ点では変わらないから。

―嫌な思いをした人はどう抵抗すればよかった?

抵抗するなら「言論には言論」というのがルール、ということでさしあたりいいと思う。
「黙殺」という手もあるが、それが有効なのは嫌な思いをした側のほうが強い場合。あるいは言ってる側がごく少数で、言われてるほうが多数の場合。
ただちょっと余計なお世話だが、黙殺が有効でも、黙殺してるうちに相手がのさばって自分の立場を危うくする可能性があるので、誰も何も言わなければ自分で言ったほうがいいこともある。

―すごく大切にしている価値を言論でくさされた場合でも言論で抗議しなきゃだめなのかね。

言論の多様性という根本的な価値に照らすとやっぱりだめで、「あんたの言ってることは合理的でない/道徳的でない/美しくない(つまらない)」のいずれかを言うってもんなんでしょう。

―フランス人から日本人が出っ歯のサルとして描かれたとしても?

同じで、フランスの歴史や文化や国民をくさす下品な絵を返すか、オリエンタリズムがうんぬんとか言ってみるか、「凡庸ですね」と言ってみるとか、まあそんな。
ただ、日本人がどう描かれるかという話を離れるけど、英国の王族の名前を動物園のサルにつけてみた騒動というのがあったときに思ったのは、相手がどういうコンテクストでそういう表現をしたかは考える必要があるということ。理由は、単純に自分の価値体系だけを参照して判断を下していると、自分の価値体系がもっと原理的な水準で間違っていた場合に、その発見が遅れるから。
たとえば、表現の害を判断する原理には(1)表現した側に他者を貶める意思がある(2)表現された側が貶められたと感じる(3)一般的に通用する価値観に照らしてダメ―という3つがあって、(2)or(3)だけで十分とする厳格な姿勢と、(1)+[(2)or(3)]を必要とする緩めな姿勢があるとする。
表現した側のコンテクストを探ってみたら、表現した側の文化では許容される表現だったとか、悪意に当たらない表現であったとかならば、望ましくはないが「放っておく」という選択肢が浮上するかもしれない。悪意がないなら、継続的に表現された側を害する可能性は低まるから。
そんな忖度ゲームに乗る気はない、というのも一つの立場だが、その立場が支配する世界に生きていると、自分の側のうっかりも一発アウトになるので危なっかしい(自分のわがままだけが通るという世界は最初から想定してない、念のため)。人間をどういうものと考えるかで意見は分かれるが、賢い人だけの世界に生きているのでなければ、「相手のコンテクストも考える」はルールに入れておいたほうがいい。
悪意がないものを放置しているとハラスメント(表現する側に悪意がなかった”としても”成立する嫌がらせ)が改善されないという問題も生じうるので、(2)or(3)だけでアウトにする厳しい姿勢をもって「悪意がないのは分かるが嫌だ」と発信するという考え方もある。特に習慣化されている場合は害が継続する可能性が高いから。しかしちょっと後でも触れるけど、表現規制には慎重になる必要がある。「嫌だ」と思っている側が正しいとは限らないからというのがその理由。

―暴力その他の圧力で喋れなくするのは明らかにダメだとしても、がーっと何か言われて反論する気がそがれることだってあるんじゃない?それも多様性を損なうと思うけど。

あるでしょうね。「言われたら言い返せる鼻っ柱の強い個人になれ」というのは、かなり高い要求だと思う。
でもそれを理由にして何か言う自由を制限できるかなあ。できない気がする。
そういうアリーナに入場しない、というのはうまい手なんですよ。弊管理人もそういうふうに生きたい。けど、ニッチで息を潜めていても、息をしている限りは何かの拍子に見つかって矢を射かけられることはあるからね。
傾向として、声を出さない人の領域はどんどん声を出す人に侵されていくので、嫌であってもアリーナに出て行って頑張ったり備えたりする必要はあるんだろう。「頑張るべき」というのは弊管理人の好みには反するが、その好みは今のところ正当化できない。
自分で戦うのが無理なら鼻っ柱の強い代弁者に依頼するという手はあるが、資力(あるいは広い意味でのリソース)がなくて難しい場合もある。頼んでないのに勝手に代弁してくれる人も現れそうだが、そういうチャンスに頼るのはいかにも不安。
うまい解決法が思いつかない。

―結局、言論の内容に制約はないということ?

言論の自由を制限すると言論の多様さを損なうので原則としてはしないほうがいい。
でも、直接的で重大な影響を相手に及ぼすものはダメ、でいいと思う。
理由は、そういう侵害を相互に認めていると言論の自由というルールを支えている共同性が荒れてくるから。
ただし、制限は必要最小限であるべき。
それ以上細かい判断はケースバイケースになるしかない気がする。

―共同体の構成員以外は侵害していいのか?

いいも悪いもなく、やりたいならやれば?暴力で仕返しされるかもだけど、という話。
こちら側にも暴力を用意した上でやらないと危なっかしいなとは思うけど。
ただその人たちは、本当に共同体の外にいるのか、共同体に入り得ないのかはちゃんとチェックしたほうがいい。

―風刺画って方法はどうなの。いろんな国で問題になったけど。

風刺画も韜晦な小説もそうだけど、制作者がどんな思いを込めようが、読み取りにくい表現をすると、間違って読み取られる可能性が高くなる。それで読み取れないほうがバカ、という了解が通用する範囲はそう広くないと思う。
シャルリ・エブドの場合はそういうメディアを使った時点で、普遍性のあるメッセージを出そうというつもりはないなと思われるだろう。文化を超えて遠くに届く批評を目指すには、メディアの選択が変だった。分からせたいなら分かるように言うべき。コミュニケーションは発する側と受け取る側が両方で作るものだから。
でもそういう質の問題は「直接的で重大な影響」を及ぼすといえるか。いえないと思う。であれば規制の理由にはならない。
真面目で平明な評論ならよくて、挑発的で分かりにくい風刺はだめ、といいたいのではない。ただ聞く耳を持たれやすいものとそうでないものがある、という脇筋の話。

―制約の可否は誰が判断するの?

ルールを共有する「みんな」かな。全員にアンケートをしてもいいし、代表が話し合ってもいいけど、とにかく「みんな」の意思だとできるだけ多くの人が認められる何かの手続きを踏むこと。
そのとき、なんか言う側と言われる側の声の大きさ(なんか言われた場合の対抗手段)にバランスが取れているかを考慮すべきだろう。社会的な立場とか、拡散できる力とかがすごく不均衡な間柄で、強い側が弱い側に攻撃的なことを言う場合は、反論も同じくらいの力でできることが確保されているとの条件下でやる。
理由は、言論の多様さを担保するとともに、「直接的で重大な影響」があった場合に被害回復の機会を確保するため。「反論してるけど誰にも届かない」じゃ反論してないのと同じだし、「直接的で重大な影響」が弱い側に及んでるときに周りが気づけないのではまずい。
この理由でいくと、弱い側が強い側にいろいろ言うことは、ほとんど制限する理由がないことになる。しかし、「わたしは弱者」と名乗る側が本当は弱者ではなかった場合、不当に相手の言論を制限することになってしまうことには注意が必要。「誰が強いか/誰が弱いか」は当事者が決めるより「みんな」で決めるほうがマシかもしれない。
「誰が決めるか」の問題に戻ると、王様が一人でとか、世襲・学識で選ばれた「代表者」たちが決めるのは望ましくない。多くの人にそれなりの判断ができるための教育と、それなりの情報収集の手段が揃った世の中であればだが、「みんな」で話し合って決めたほうが少数の均質な背景を持った人達が気付かない点に気付く可能性が上がるし、納得もいく。

―それだと普通は多数決で決まるんだろうけど、「それでもやだ」と思っている少数の人がかわいそうじゃない?「誰かが『やだ』と言うものは、とにかく制限する」じゃだめ?

基本だめだろう。認めると言論の多様性が大きく損なわれる危険があるから。ある発言を封じるために「やだ」と言うようなことだって可能になってしまう。
ただ頭ごなしに「だめ」じゃなくて、その人が受けてるのは本当に「直接的で重大な影響」かどうか、吟味してみたほうがいい。もしその過程で「みんな」が間違ってる可能性が出てきたら、もう一回みんなで検討する。とっくり話し合ってみたけど、どうも基本的な立場が違うことが見えてきたら、しょうがないが「みんな」を優先させてもらう。
でも「みんな」側が不誠実な話し合いをする可能性もある。話の内容ではなく、話し合いの不誠実さを問題にして話し合う機会も作っておくとよい。
その話し合いについての話し合いが不誠実だったらこれも問題にして話し合ってもいいが、実務的にはその辺からルール設計で手を打つにもきりがなくなってくるので、反対者が地道に賛同者を集めて話し合いのルールを変更する運動を起こす方向にいくことになるかもしれない。
以上は、やはりルールを共有してる人達の間のこと。ルールの外にいる人とはやっぱり闘争になる。

―あなたはシャルリ?

それ、どういう意味?

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2015年05月16日 14:20に投稿されたエントリーのページです。

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