3. Fieldwork and Ethnography
▽フィールドワーク
・フィールドで人類学者は多少なりとも以下のように見られる
(1)道化。へったくそな言葉を使って、暗黙のルールを破って回るような
(2)専門家。ものすごく尊敬され、丁寧に扱われる。しかし裏側をなかなか見せてもらえない
・逆に、近代的な社会をフィールドにすると、そこの人から何の関心も持たれないこともある
・前近代的なフィールドでも、20世紀末には「プロ」のインフォーマントができてしまっていた
・フィールドではさまざまな手法でデータ集めをする
・構造化面接や統計的サンプリングなどと、非構造化参与観察などを組み合わせることが多い
・エヴァンス=プリチャードは「二重にマージナル」な存在と形容した。元いた社会からも、観察している社会からも距離をとっている存在ということ
・研究対象になっている人にそれと知らせないのは倫理的か?という問題もある
・観察者の性別、年齢、人種、階級などもフィールドワークに影響する
・もちろん対象の性質も
・テクニックは一般化できないが、さまざまなtipsが伝えられている
・インフォーマントと20分以上話すな(飽きられるから)
・紳士的に振る舞え
・何を知りたいかを明確にしてから行け などなど
・フィールドを見る目もいろいろ。マリノフスキーは実はトロブリアンド諸島の人を見下していたとも
・相手が嫌いだったとしても、いいフィールドワークをすることはできる。いいデータが集められるかが重要であって、何人友達ができたかはどうでもいいのだ
・過去のフィールドワークでは、エリート層に注目しすぎていたとの指摘がある
・エリート層のほうが質の良い情報を提供してくれるから+観察者とレベルが近いからであろう
・だがインフォーマントが上位カースト所属だったりすると、そのせいで情報が歪む可能性がある
・内側からの視点でものが見えるようになるには、時間がかかる
・しかし、見たいものしか見えてない危険性も
・観察者の「人間力」も出来を左右する点も特徴
・ただ、現地の人と「仕事として」仲良くすることにまつわる倫理問題もある
・研究には帰納的な面と、演繹的な面がある。事実の観測→一般的な事実の発見
▽慣れ親しんだ社会でのフィールドワーク
・社会学と違って、人類学には文化の多様性を明らかにし、消え去りそうなものの記録を残すという仕事がある
・ただ、観察者自身が属している社会を研究することも増えつつある。その理由:
(1)ネットや人の移動の活発化などの環境変化によって、近代的/原始的の区別が曖昧になった
(2)未開社会の分析に使ったツールが近代的社会間の比較にも使える
(3)大きな研究資金を当てて、遠い世界でフィールドワークできる人が限られる
・一方、そういうフィールドワークへの反対論もある
・比較をやるなら文化的に遠い人たちを研究すべきではないか
・自文化は、他文化を見る際のベースラインとして使うべきではないか
・でも、そもそも自文化もそんなに均一ではない
・自文化の中でフィールドワークをやる利点としては知らない言語や慣習をわざわざ学習しなくてよい
・しかし、周囲に当たり前なものが多すぎるという欠点もある。homeblindness
(トレーニングにより相当程度乗り越えられるが)
▽解釈と分析
・ボアズやマリノフスキーの時代と違って、現在は現地の言語や先行研究を事前に勉強してから行ける
・一つの村に留まって宗教、政治、経済を描き出すようなスタイルは古いものになった
その理由は、現在はもっと大きなスケールで調査が行われる/対象に関して専門化が進んだから
・書いた作品が調査対象の人たちに読まれることも多くなっている
▽エスノグラフィー的現在と過去
・人類学のテクストは現在形で書かれる
・書かれたのが政治的に安定していた植民地時代か、その後かで記述は随分変わる
・「どうなっているか」を記述するもので、「どうやってできたか」を書いているのではない
(ただ、1980年代以降は歴史的な記述も目立つようになった)
・一方、書かれた歴史があればそれを扱うのも有益とされる(クレーバー、エヴァンス=プリチャードら)
・異なる社会の間の関係を調べる時にも歴史的視点は重要
▽エスノグラフィーを書く/読む
・人類学者の仕事は書くことだとされてきた。が、その書き物は筆者の属性や調査の性格に規定される
・ということは、書く人が違えば書かれ方も変わってくる
・人類学やメタ人類学者は批評理論を持ち込んだりしてきた
▽翻訳問題
・自分の言語で他文化を言い表すとき、その文化の内的視点はいかにして保持できるか
・そもそも他文化を理解すること自体、できるのか
・トロブリアンド諸島とヤノマミの「親族関係」を比較することは可能か
・一つの解決法は「記述」(経験に近い)と「分析」(経験から遠い)を分けて考えることかもしれない
・ただし「記述」でさえ、必然的に人類学者による取捨選択を経たものであることに注意
▽エミックemicとエティックetic
・マーヴィン・ハリスが人類学に導入した二分法
emic=その社会の構成員が経験したり表現したりするレベル
etic=研究者が行う分析的な記述や説明
※オリジナルはケネス・パイク
phonetics(音声学)=音同士の客観的な関係
phonemics(音韻論)=音の意味
からとっている
・ただし、人類学者がインフォーマントが見た世界を再現しようとしてもemicにならない。その理由:
(1)「翻訳」が避けられない
(2)発音されたものを書き留める作業において、発音の「現場」が捨象される
(3)人類学者が書く対象の人になることはできない
→本当のemicはその文化の人が自分で表現しないと成立しない
・emicが間違いで、eticが合っているという思い込みは妥当ではない
・emicが具体的で、eticが抽象的だということでも(必ずしも)ない
・ただし、人類学者が、現地の人が気付かない構造を見ることができるという点は重要
・強いバージョンは、自然科学者のように一般法則を見ようとする企て
・弱いバージョンは、ある社会をより多層的に説明しようとする企て
▽政治としての人類学
・人類学を勉強して、大学で教える人は少数。他は開発協力や出版、企業、病院などで勤務
・人類学者そのものも人類学的に研究できる
・カウンターカルチャーからの攻撃を受けることもあった
・人類学は植民地主義の延長ではないか?
・フェミニズムの視点がないのでは
・現在、専門化が進んで人類学業界の全体が見渡せなくなっているが、共通のコアを勉強することは大事
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連休初日は果実園リーベルでモーニングしてみました。
果物はおいしい。
甘いがこれはケーキではない。
フルーツサンドって中途半端な食べ物だなというのが、このたびの人生の結論です。
つまり、もう自分でお金を払って食べることはないであろう。
880円だと思ったら税抜き価格で、950円になったのもなんかなという感じでした。