目白駅から7分ほど歩いたところにある、自由学園明日館の見学に行ってきました。
ガイドツアーに参加させてもらい、いろいろ聞いてきたので、メモを。
(※細部間違っているかもしれません。ご容赦かご指摘下さい)
新聞記者出身で「家庭之友」(のち「婦人之友」)を創刊した羽仁吉一・もと子夫妻(もと子さんは初の女性新聞記者らしい)が女学校として1921年に設立したのが自由学園です。生徒には活動的な女性になるよう、着物ではなく動きやすい洋服の着用を求めたそう。その後、学園は小学校も始めるなどして手狭になったため、13年後の1934年に東久留米市へ移転しています。
校舎の設計は夫妻の友人の建築家・後藤新と、その師匠で帝国ホテルの設計のため来日していたフランク・ロイド・ライトです。夫妻から、詰め込み教育ではなく、学校生活がそのまま教育になるような私立学校を作りたいとの構想を聞かされて共鳴し、多忙のなか校舎の設計を引き受けました。
現在、日本に残っているライトの四つの建築のうち一つがこの校舎。移転後は卒業生のさまざまな活動に使われてきたそうです。ドイツ・バウハウスの講師だったヨハネス・イッテンによる美術・デザイン学校「イッテン・シューレ」などに学んだ女性たちによる「工芸研究所」もここに置かれました。
建物は関東大震災も戦争もくぐり抜けましたが、老朽化が激しくなりました。一時は学園の経営のために売り払おうかという話も出かけましたが、卒業生や建築家らが保存運動を展開。1997年に残すことが決定され、重要文化財の指定を受けました。オリジナルをどう生かすか、調査などを経て2001年に国や都などのお金計8億円をかけた修復事業が完了しました。
こちらは食堂。ライトの設計の特徴の一つが幾何学的な装飾だとされています。シカゴでルイス・サリヴァンらの事務所にいたとき、フリーハンドの天才とされたサリヴァンにはいつまでたっても追いつけないと悟り、「自分は定規とコンパスでデザインをする」と決めたとのこと。
もう一つは、軒高を低く抑えて水平に広く展開した「プレーリーハウス(草原様式)」で、実際に敷地に立ってみると、そのコンパクトさと、意外な軽やかさに気付きます。入口の扉を隔てた中と外で床の高さも材質も同じです。しかし、乾燥した米国中部と違って湿気とシロアリの出る日本にこの様式を適用したため、建物の傷みを促す一因となってしまったとのことです。今は下にアスファルトを敷いたり、防虫剤を床材に塗ったりして対策しているそうです。
教室にはもともと照明はなかったそうです。現代とは明るさの感覚が違ったのでしょうか。
造りは骨組みではなく壁で屋根を支える「バルーンフレーム」という、現在のツーバイフォーの先祖に当たるような方式。中は木と漆喰の質素な印象です。
毎朝の礼拝が行われていたホールは、入ると頭上にロフトの床が大きくせり出していて、圧迫感があります。大きな窓も全体を見ることができません。しかし、
窓のほうへ歩み出ると、それまでの圧迫感の反動のように、俄然その空間が大きく感じられます。これはライトが他の建物にも使う方法なのだそうです。
振り返ると暖炉があります。これは団欒を重んじたライトのこだわりでもあったようですが、木造の重要文化財で火をたくのは容易ではないようです。
火をたいてもいい場合がいくつかあります。(1)寺の中で使うような宗教の火である(2)人が住んでいる建物で日常使わなければならない火である(3)申請しチェックを受けた上での使用である―の三つがあり、ここでは(3)として、冬期の夜間見学や、ここで結婚式を挙げた人たちを招いて開くクリスマスディナーの際に使っているそうです。
ここは建物を会議や会食、式典などに使いながら文化的価値を保とうとする「動態保存」を行っています。今日もある部屋で、なんと卒業生である107歳の女性の誕生会をやっていました。
そういえば、銅板の軽い屋根ですが、何やら瓦ぶきみたいな模様というか形をしているのに気付きました。説明をして下さった館長さんに聞いてみましたが、「よく聞かれるが、なぜなのか、ここだけの特徴か分からない」とおっしゃっていました。
もう一つ、部屋のドアノブが結構高いところにあります。アメリカ人の体のサイズに合わせたのかと思いましたが、ライトが担当した部分よりも、遠藤が作ったところのほうがなお高いそうで、これも理由はよくわからないとのことでした。
バルコニーからホールを見下ろしたところです。見学は500円ですが、100円足すとコーヒーまたは紅茶と、クッキーかケーキがつきます。おいしくいただいて辞しました。
なお、道をはさんだところにある講堂は耐震補強中で見られませんでした。建てたときは5カ月という速さで普請したものの、壁の補強をするところが壁面がほとんど窓になっており、ほぼ解体しつつ補強することになったため、2年半の工期を見込んでいるとのことです。秋に補強中の講堂を公開するそうなので、もし覚えていたら見に行ってみようと思います。
遠藤はライトに「息子」と呼ばれるほど大切にされた弟子で、一生ライト風の建築からは離れなかったそうです。一方、土浦やレーモンドのようにコルビュジエに接近していった弟子もいたのだとか。折しもコルビュジエが設計した国立西洋美術館などが世界文化遺産になることが決まり、あえてのライト(笑)を見に行く形になってしまいました。
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そのまま池袋まで歩いて、ロサ会館に入ってる「チェック」でオムライスを食べました。
大学2、3年の時にこの辺に住んでいて、その時以来なので18年ぶりくらいだと思う。
紙ナプキンにおじさんの顔が描いてあるのも当時からだった気がする。
おじさんも大分古くなってるけどたぶんこの人だったはず。
完成された味でおいしいです。今900円だけど当時いくらだったかなあ。
悶々としていた学生時代が蘇ってきて、くらくらしました。
ずっと来ることのなかった池袋西口の駅前は、抱いていた印象の70%くらいの大きさでした。
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で、さらに歩いて当時住んでいた家を見に行ってしまいました。
毎月家賃を渡していたおばさんがちょうど外にいたので話しかけてしまい、話し声を聞いて出てきた娘さんともどもに怪しまれました(そりゃそうだ)が、大学名と時期を言うと、なんとなくそんな学生がいたということを思い出されたようでした。
何百回と通った路地を歩きながら、いやもう、当時はまったく想像しなかったような10数年を過ごしてしまったと思った次第です。しかし次の瞬間、それは当時から将来のことを考えていなかったからだろうと思い直しました。