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バイオ化する社会

■粥川準二『バイオ化する社会―「核時代」の生命と身体』青土社、2012年。

生殖補助技術、遺伝子医療、多能性幹細胞、慢性疼痛、気分障害、そして原発事故。
自然科学、特に医学や生物学の言葉で明晰に説明され・判断される事象たちの中に、というかその中にこそ、偏執狂的にすべての人たちを捕捉し、飲み込み、そして飲み込むそばから吐いていく現代の社会の姿はないか?そして吐き出され、うち捨てられたのは誰か?それを考えている、はず。

まずは、ニュースで見ることも多い上記いろんなトピックに関する、非常にコンパクトで明瞭な経過説明です。一気に読めます。科学をフィールドにしてきたライターの力量がここに。国内外の論文、報道、ステートメントの類、自ら行ったインタビュー等々をよく配置し、何かを考えたいと思う人たちに参照されるべきまとめになっていると思います。

そして、世上それらのトピックについて行われる解説はせいぜい、その機能や仕組みに関する術語を身近な言葉に置き換える程度のことしかしていませんが、著者はそこに不利益やリスクに晒される人たちを呼び出し、そうした不幸を招来する社会的文脈を浮かび上がらせようとします。襲った津波の高さよりも、一人当たり所得や自治体の財政状況と相関する犠牲者数、排卵誘発によって危うくなる女性の健康、着床前診断で選び取られる命と否定性を付与された生、腰痛に絡む心理社会的因子――。今や個人から政策まで、さまざまな意思決定のよすがとなっているバイオの言葉、それが覆い隠す社会問題をしつこく指摘しています。

でも、同時に少しひっかかりながら読みました。自分の子が健康に生まれてくるよう願うことや、そのためにさまざまな手を尽くすことが、既にその避けようとした障害を持って生まれた子の存在を否定することに即つながるのだろうか。彼らの幸せのための拠出を喜んでなした上で、なお自分の子の健康を追求し続けることは倫理的にアリではないか?なんてことを、風邪がようやく明けかけて久しぶりに寄ったスポーツクラブで自分の健康を追求しながら、弊管理人は考えていました。(筆者も、ある価値観の肯定と、その余の価値観の否定に必然的な関係があると言いたいわけではなく、しかし警鐘は必要、とのスタンスなのかもしれません、けども)

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2012年09月26日 23:24に投稿されたエントリーのページです。

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