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現代政治理論(1)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

【2017年7月追記:続きはこちらにあります→(2)(3)(4終)

中古で購入。まだ5章を読んでる途中ですが、いろんなことが書いてありすぎて覚えらんない、メモとりながらじゃないとだめだーと思ったので、とりあえず1~4章分。

* * *

第1章 政治
・政治=国家や自治体という公権力の領域→「社会全般に見いだせるもの」へ(20世紀の政治学)
・R.ダール★「control, influence, power, authorityをかなりの程度含む人間関係の持続的なパターン」=2人いればそこに政治。日常的な「政治」の用法とも合致

・政治を特徴づける要素(1)権力とは?→仮置き「自分以外の行為者に、もともと意図していなかった行為をさせる能力」。社会における★対立の不可避性が権力を要請する
  =政治における「正解」のなさ
  =「変えられる」ということでもある
・政治を特徴づける要素(2)公共性とは?→「ある集団の構成員に共通に関係する秩序のあり方に関わる事柄」。意識されているとは限らない。こちらにも「公正さ」をめぐる対立の可能性
  H.アレント『人間の条件』:ポリスにおける多様な個人の相互行為。私的行為の調整ではない

・対立の不可避性:C.シュミット「友と敵」→C.ムフ「アゴーンの多元主義」=「われわれ」内の多様性が暴力を生まないためのルールの要請
・対立によって政治は顕在化する。決着すると再び隠れる


第2章 権力
・J.K.ガルブレイス:権力の分類:威嚇型(強制)、報償型(取引)、説得型(選好の変容)
・H.ラスウェル:権力の資源:富、知識、技能、尊敬、愛情、徳……
  J.ナイ「ソフトパワー」=他者の選好を形成する能力
  ただし、相手がそれを資源と認識しないと効力を発揮しない。★権力は「関係」

・権力に関する2つの見方(1)非対称的権力観、ゼロサム的権力観=意思の押しつけ(M.ウェーバー)
  ←抵抗の契機になりうるが、無力感を誘発する危険も
・権力に関する2つの見方(2)共同的権力観、非ゼロサム的権力観=説得による対立の解消
  (2-1)権力=集団の目標達成のため個人の義務遂行確保(T.パーソンズ『政治と社会構造』)
     (例:貨幣を成立させる力、警察への信用に基づいた協力)
  (2-2)権力=成員の自発的協力(アレント、社会契約説における国家の創出)
  ←成員の当事者意識を促すが、現状肯定に陥る危険も
*J.ハーバーマスの整理:非ゼロサムは創出や機能の説明、ゼロサムは行使や維持の説明

・正統性legitimacy=支配の「正しさ」
  ウェーバー「正統性の信仰」=服従者の内面からの支持。合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配。★被支配者が正しいと思ってくれることが必要→ダールに承継

・権力はどうすると見えるようになるか?:S.ルークスの整理
  1次元的権力観=誰の意見が通ったか(行動論的政治学)
  2次元的権力観=誰の意見が通ったか+あるトピックの争点化を阻んだのは誰か
  3次元的権力観=さらに、対立や対立の認識を説得により消滅させたのは誰か
・3次元的権力観になると、「当事者による対立の自覚」に注目していても権力は見えない
  →「客観的」に利害対立を判定する必要
  =「主意主義的権力観」から「構造としての権力」観へ
・構造としての権力:マルクス主義、M.フーコーの「規律権力」=自主性を通じた集団の統制。権力を行使する「誰か」はもういない。制度、知識、技術、既成事実が問題になる。国家だけでなく、社会にも主体化する権力の装置は存在する。では、自由はどこに?

・権力と自由:論点の素描
  (1)ゼロサム的権力観では「権力」と「自由」は対立関係
   非ゼロサム的権力観では「自由」の発現の結果、「権力」が現れる
  (2)人間は自由な主体か、構造に規定されているのか
  (3)権力分析→★秩序が変更可能であることを明らかにする
  (4)構造としての権力には「責任者」がいない。見出そうと無理をすると擬制を作り出してしまう


第3章 リベラリズムの展開
・リベラリズムはいろんな人が作り上げ、変容してきた歴史的構築物
・でも一応共通の特徴:個人の自由や自律性尊重する個人主義、絶対的権威や権力の拒絶

〈源流〉
・J.ロック。生命・自由・財産についての自然権を所有。侵害は自然法=神の法で禁止。市民の原初的合意で作られた政府、その役割は自然権の保護。信仰にも立ち入ってはいけない
・A.スミス。国家の役割は、分業と経済的自由がもたらした豊かな商業社会を外国の侵略、擾乱、無知な民衆から守ること=国防、司法、初等教育と公共事業。人民の利害は人民に調整させよ(見えざる手。そのほうがうまくいく)
・J.ベンサム。自然法や自然権はナンセンス、虚構。代わりに経験的原理=「功利の原理」。個人の幸福最大化の原理を社会に外挿→「最大多数の最大幸福」=多数者の同意。ただしスミスのように自動調節機構に任せてはいけない。みんなが賢いわけではないから。そこで法と刑罰で統制する→公益のための必要悪としての国家

〈ベンサム以降:人格の成長〉
・J.S.ミル=ベンサムの修正。幸福は量的増大とともに、能力と個性の発展という質的面も追求されるべき→多様性の許容、他者危害防止の原則。脅威は国家だけでなく、★抑圧的な多数派も→労働者階級の知的、道徳的な陶冶を通じて「自由」と「デモクラシー」の両立を図る
・T.H.グリーン。人格の成長という共通善(アリストテレス)は独りでできることではない。社会の成員たちの相互協力。国家はそれを保証するべきで、飲酒制限などの道徳的介入も容認する。理想主義的リベラリズム。

〈イギリスの長期不況:国家による放任から介入、集産主義へ〉
・H.スペンサー。社会有機体説→自然の流れに国家が介入してはならない→徹底した個人主義と放任(→現代アメリカのリバタリアニズムの思想的基礎の一つへ)
・スペンサー以後(1)フェビアン主義。貧富の分化は有機体としての社会の存在を脅かす→社会的連帯。土地や生産手段の国有化。ただし革命ではなく議会エリートによる政治を通じた改革。社会の効率的管理。ナショナルミニマム。ベンサムの方向性の一つの極限→社会主義、社会民主主義へ
・スペンサー以後(2)ニューリベラリズム。規律と生活条件の改善を通じた「倫理的調和」。人格発展のためには国家による条件整備が必要→課税と再分配→20世紀のリベラルな福祉国家へ

〈福祉国家と、福祉国家への批判〉
・ニューリベラリズム→J.M.ケインズ。利己的行動が公益につながるとの★根拠はない→「投資の社会化」。国家介入による消費と投資の誘発、完全雇用の実現。社会主義には行かずに自由放任を手放す。管理された資本主義によるリベラリズムの維持(効率化と自由の両立)。ケインズ型福祉国家
・F.A.ハイエクからの批判。全体主義は集産主義の帰結。包括的で単一の価値や完全な倫理規範などないのに、社会とその資源を単一の目的に向けて組織化しようとしており、独裁や生活の統制を招く。そもそも市場や自生的秩序の管理は不可能。★ただし自由放任の礼賛ではなく、秩序維持の方策としての最低限の社会保障は必要だとした→1980年代のサッチャー、レーガン、ネオリベへ


第4章 現代の自由論
〈二つの自由〉
・I.バーリン「積極的自由」「消極的自由」
・消極的自由=干渉の欠如としての自由。他人から妨害や強制をされずに、自分がやりたいことをやれるということ
→価値多元論。個人個人の活動を調整するためのルールは最小限に限定されるべき。ロック、ミル、トクヴィルの立場はこちら
・積極的自由=自己支配としての自由。自分が自分に対してルールを課す権力や権威となること。その資力や能力があること
→価値一元論に支えられた合理主義的教説と結びつくことで、「理性的な自己支配」が理想化される。さらに、それが非理性的と見なされた他人への「理性的な自己支配」の強制に転化する可能性

・E.フロム「~への自由」「~からの自由」。全体主義を象徴するのは「~への自由」だとしても、全体主義を招来するのは、前近代的な紐帯「からの自由」によって生じた孤独や不安ではないか

〈自立と自由〉
・E.カント。人間は自分の定めたルールに従う=自律的。動物は本能や物理法則に従う。
・C.テイラー
  積極的自由=行使概念=実際に使うこと。自律的選択を通じて道徳的な自分を表現する
  消極的自由=機会概念=行使の可能性があれば自由。実際するかどうかは問わない
テイラーが価値を認めるのは行使概念のほう。個人の道徳的な表現ができる=自由、その基礎になるのは共同体の道徳的伝統。逆に個人に恣意的な道徳の表現を許す消極的自由は、共同体を破壊する
→積極的自由vs.消極的自由
→コミュニタリアニズムvs.個人主義
→★道徳的に見て望ましいvs.合理的に見て望ましい

・共和主義的自由(N.マキアヴェリ~)=支配の欠如。他者に隷属していない状態。自治による市民的自由以上のものを志向していないので、消極的自由といえる。ただし、共同で権力を確立・維持するために市民参加は必須。この点は「国家からの自由」を志向するリベラリズムの存立条件にもなりそう。ただし、共和主義は「政治参加」に特権的地位を与える点で、価値多元的なリベラリズムと相容れない。また共和主義は、市民の理想に適合しない人(女性、貧民、少数民族など)を市民として認めない排他性を孕む危険がある

・C.マクファーソン。消極的自由→自由放任は貧困や失業など、自由の実現をかえって阻むような状態を招かないか?
→リベラルな福祉国家、あるいは「国家からの自由&国家による自由」の可能性(健康で文化的な最低限度の生活の保障)
批判(1)しかし、これは国家による財産権の侵害=古典的リベラリズムと対立する方向性ではないか
批判(2)健康な生活という理想は、フーコーの「生命権力」に繋がる?
・制限や禁止をする権力ではなく、方向付ける権力。健康で文化的な方向へ主体化する権力(パノプティコン)←規格化した生の様式から自分自身を引きはがして主体形成を行う、自己固有の「倫理」による対抗=「実存の美学」

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2015年04月05日 22:35に投稿されたエントリーのページです。

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