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現代政治理論(2)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

前に書いた第1章~第4章の続き。
かなりいい教科書の予感……!!

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第5章 平等
〈『正義論』とアメリカのリベラリズム〉
・L.ハーツ「自然的リベラリズム」。欧州と違い、世俗権力と教会の結びつきや、身分制秩序、強力な社会主義勢力が不在→一般市民の政治権力からの自由という、古典的リベラリズムの自然な共有
・19世紀後半からの産業化→格差、不平等をどう考えるか?
(1)保守主義=正当。結果つまり現状の倫理的追認。政府の介入を認めない。
(2)★リベラリズム=政治による社会改革を求める。福祉国家的政策。イギリスの「ニューリベラリズム」との共通性。独占禁止、移民の社会統合、都市環境の改善。ニューディール政策。L.ジョンソンの「偉大な社会」計画、奴隷解放。
→~1960年代、リベラリズムの絶頂→そして批判(経済効率性を損ない福祉依存を招く、国家や社会の統一性を損なう)→80年代以降、影響力の減退

・J.ロールズ『正義論』の登場(1971)。リベラリズムの基本原理の探究。ヨーロッパ式平等論=功利主義に対する評価
・「社会的基本財」(人間の価値実現に必要な財)=権利や自由、機会や権力、富や所得、自尊心。その適切な配分について
(1)正義の第1原理=平等な自由原理。ある人の基本的自由(最低限の市民的・政治的自由。選挙権、公職に就く権利、適正な刑事手続きを要求する権利、言論・集会の自由、私有財産権)の制約は、他者の基本的自由を擁護する場合にのみ可能である
→リベラルな社会形成のための最低限の条件
(2)正義の第2原理=社会・経済的資源配分。どういう時に不平等が許されるか
  (2-1)資源の獲得に有利な地位、職業に就く可能性が全員に開かれている(公正な機会均等原理)
  (2-2)不平等が、社会内の最も恵まれない人に最大限利益になる(格差原理)
→結果の平等論志向
・上の原理を導く道筋。原初状態において無知のヴェールをかぶせ、原理を選択させれば、各人はマキシミンルールを採用するであろう

〈『正義論』への批判〉
(1)リバタリアニズムからの批判
・R.ノージックの「最小国家論」=ロールズの福祉国家批判。ロックらが想定した「自然状態」で、人は権利侵害に対抗する私的段階「保護協会」を形成する。その後、保護協会間の紛争を通じて「支配的保護協会」が誕生する。協会に加入しない独立人(潜在的な挑戦者)が残るが、彼らにも権利保護サービスを無料提供して取り込む。→警察・国防と賠償機能を独占する「最小国家」の完成。
・「権原理論」。権原=資源保有の正当性。(1)誰にも保有されていないものを占有する「獲得」(2)同意の上で譲渡される「移転」(3)不正な取引の被害者に本来の財産を返す「匡正」。ロールズの拡張国家が行う再分配は、いずれにもあてはまらない不当なものだと批判する
*ただし、個人の自由な意思を尊重する点ではロールズと共通

(2)コミュニタリアニズムからの批判
・M.サンデル、M.ウォルツァー、A.マッキンタイア、C.テイラーら。ロールズの「原初状態」は共同体に埋め込まれた自我の在り方と反するし、原初状態における道徳的判断は独善になる危険がある
・サンデル:リベラリズムは、その改革主義的な政治に不可欠な政治権力や国家の所在を正当化できない。★政治的連帯の可能性も追求できない

〈ドゥオーキンと資源主義〉
・R.ドゥオーキン=平等論の課題を2つに整理
(1)資源主義=社会内における重要な資源配分の平等性に限定する
(2)福利主義=資源を使って実現する「望ましい状態」(福利)の平等
・ドゥオーキンとロールズは資源主義。資源主義は、例えば障害者への資源の傾斜配分が正当化できないという問題点がある。しかし、福利主義には、例えば贅沢をしたい人の欲求充足を、質素な生活で満足する人に優先させてしまうという問題点がある
・資源主義は、生じた不平等にどう対処をするか?
(1)当人の選択の結果として生じる不平等は自己責任。ただし「保険に入る」というオプションを用意する
(2)当人の選択によらない不平等(身体的障害など)は公的に救済する

〈福利主義の展開〉
・A.セン。貧困が蔓延する途上国では、医療体制や栄養、教育の不足により、資源配分を平等にされてもそれを活かせない→与えられた資源を活かす能力(ケイパビリティ)の平等、選択可能な生き方の多様性が必要→福利の平等を保障すべき
・ただし、この平等は「生物的・社会的生存における最低限のライン」に限定されるべき(贅沢したい人の欲求充足が優先されてしまうという問題を再燃させないため)←「何の平等か?」と考える(ある問題に最もよく合った平等論を選択する)ことの重要性
*最低限の保障までは福利主義、その先の冒険は資源主義で、といった棲み分けが可能?
*いまそこにある不平等に焦点を絞ることで実現した、平等論の再興→W.キムリッカの少数派先住民族に関する平等論などへと展開


第6章 デモクラシー
〈デモクラシー論の展開〉
・「多数の人が集まって一つの結論を出す」デモクラシー論の軸
(1)意見の複数性という出発点と、一元性というゴールのどちらを重視するか
(2)代表制は可能か不可能か
*両者は理論的には別ものだが、複数制と代表制、一元性と直接性を結びつける人が結構いた
・ヘロドトスの3類型(支配者の数による):君主制、寡頭制=貴族政、デモクラシー。
・プラトンの警戒心「無知な大衆による非合理な政治」。アリストテレスの懸念「社会の多数である貧民の利害だけが突出するのではないか」
  ・多数への授権→衆愚政治→アナーキー状態→僭主政、という最悪の政体に行き着くという経験則(例:ナチス)
  ・J.マディソンはデモクラシー<共和制を主張。アメリカ連邦憲法では大統領制(デモクラシー)をとりつつ、司法審査制度などストッパー的制度も併設
・ルソー→T.ジェファーソンらの直接デモクラシー論へ接続
・A.トクヴィルのアメリカ診断:デモクラシーは多数派の専制を招くと思っていたが、アメリカを見るとそうでもない。自発的に多数の結社ができて意見を述べている。意見表明の多元性が確保できればリベラルなデモクラシーは可能ではないか?
・事実としては19世紀を通じて選挙権が拡大→デモクラシーは実現へ。産業化で大量発生した労働者の多数意見を無視できなくなっていった

〈大衆デモクラシーの成立〉
・G.ウォーラスの警告「非合理な判断を政治に持ち込むだけ」……だが、それを自覚できれば機能するはず
・W.リップマンの悲観「人は先入観=他人の意見=ステレオタイプを通してものを見る」……しょうがない。プロに任せろ
・A.シュンペーターの割り切り「普通の人が政策を決められると思うな。政策を決める人を決めるのが投票である」=デモクラシーとエリート主義は両立可能
・C.シュミット、ナチスの経験→デモクラシーと議会は停止させてはダメ

〈現代デモクラシーの諸相〉
・アメリカのデモクラシーは代表制を前提
・アメリカ型(競争型):R.ダールの多元主義。自発的結社たちによる不断の競争(「選挙の時だけ競争」だったシュンペーターを拡張)。デモクラシー<リベラリズム、の上で両者の統合を図る
・ヨーロッパ型(調整型):A.レイプハルトの多極共存型デモクラシー。P.シュミッターらの「ネオ・コーポラティズム」。北欧などでの長期連合政権、利益団体と政府とのネゴを通じた安定
・1960~70年代「政治の季節」が過ぎて……政治参加の低下。リベラリズムで調整するほどの水圧がなくなっちゃった。利害の複雑化で、代表制により人々の意見を反映できなくなった?直接制を求めている?
・多数者の専制:少数意見の排除=女性、非西洋……→W.コノリー「アゴーンのデモクラシー」による再定義。他者と接し、自分が変容することにデモクラシーの目的がある→ラディカル・デモクラシー

〈討議デモクラシーとラディカル・デモクラシー〉
・討議デモクラシー=討議を通じた合意形成を重視
  (1)一般市民による討議。人の話を聞いて自己反省する=選好の変容がありうるような討議
  (2)ルールを守った理性的な討議(これには「理性的」という枠づけの権力性を見る批判もある)
  (3)代表制を否定しない、討議を通じた意見の深化によって代表制を補完する
・ラディカル・デモクラシー=意見対立の表出を重視する
  (1)古典的な直接デモクラシーに近い。下からの権力創出(S.ウォーリン)(代表制も否定しない)
  (2)抵抗=既存の支配権力に対する「異議申し立て」
・2本立てのデモクラシー。多元的・直接的なデモクラシーは市民社会の非公式な次元で受け持ち、公式の政治的決定では代表制を尊重する。そこで討議と決定の関係をどう考えるか

〈ネーションとデモクラシー〉
・同質的なネーションによる統治機構=ネーションステート(国民国家)という前提。その上に実現する主権は国内外ともに絶対的
→近年、この同質性の擬制性が際立ってきた。マイノリティ、差異の重視
・デモクラシー=全員による決定。しかしその「全員」とは誰のことか?


第7章 ネーションとエスニシティ
〈ネーションとナショナリズム〉
・ネーションの2つの意味
 (1)言語・宗教・文化・エスニシティなどを共有する同質的な集団←こっちが古い。中世大学で使われた「同郷者natio」
 (2)国家(state)が管轄する人々の全体←フランス革命から(1)と合流。主権者=人民の均質性
・ナショナリズム=(1)(2)を一致させようという運動。ただしネーション間の差異が「優劣」に読み替えられる現象も→排他、差別
・同質性としてのネーションの功:連帯、再分配の根拠。罪:内部の差異の否定、選択的な歴史の忘却、伝統の発明、動員の根拠
・J.G.フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』:同質性としてのネーション。ただし言語と文化の共通性に根拠を見たもので、血と土(ナチ)とは別物と見ておいてあげたい
・E.ルナン『国民とは何か』:ネーションに自然的・実体的基礎はない。個々人の自由意思で「一つでありたい」という選択が日々なされている。明るく自由なネーションのイメージ。共和国フランス(ただし実態は結構違う。入退会が自由だったこともない)
*フィヒテとルナンの違いは、国民国家をまだ実現していなかったドイツと、既に実現していたフランスの違いを反映か
・E.ゲルナー:ナショナリズムの経済的起源。工業やサービス業の勃興→新技術を理解するための読み書きの必要性→学校、標準語、統一した歴史観→帰属意識
*でもなぜ、産業化が一応収束した段階でもネーションの観念は残り、強化さえされているのか?
・A.スミス:ネーションはゲルナーほど人為的ではない。ネーション成立の「タネ」となる同質性がそれ以前にあったはず
・B.アンダーソン:ネーションの観念の成立における、印刷媒体の役割。ルターのドイツ語聖書+活版印刷技術→「ドイツ民族」の創出

〈多文化主義〉
・政治の主役「われわれ」とは誰か?どんな範囲か?
・多文化主義=国民国家内に存在する複数のエスニックグループに対する平等な政治的処遇を求める運動。1971年カナダの多文化主義採用、1980年代アメリカでの教育カリキュラム修正……
・多元主義批判としての多文化主義:少数派エスニックグループはいくら多元主義の下で自由競争しても多数になれることはない。永続的な抑圧状態を何ともできない
 →それぞれのアイデンティティが承認されるかどうか。承認をめぐる政治
・承認をめぐる政治が出てくる要因
 (1)身分制秩序の崩壊→アイデンティティは選び取るものに
 (2)選び取ったアイデンティティの承認を社会に対して自分から積極的に求める必要
・承認に向けた2つのアプローチ
 (1)普遍主義の政治:全市民に対する諸権利の平等。奴隷解放から公民権運動までのアメリカなど
  公的な場における同化政策/私的な場における固有文化の尊重
 (2)差異の政治:独自性を保障するような処遇
  エスニックグループの存続と独自性維持の権利=キムリッカの「集団別権利」。自治権や文化権、議会に枠を確保する特別代表権など
*ただし個人はエスニシティだけでなく、ジェンダー、年齢、障害といった諸アイデンティティを重層的に持っていて、これが衝突する可能性も
*アイデンティティ闘争の場は国家だけでない。言語の覇権をめぐる国際競争など

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2015年04月19日 00:25に投稿されたエントリーのページです。

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