■大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007年。
おもろかった。
個人が行動とか嗜好などのデータの束として把握され、本人の知らないところで蓄積されていく監視社会に反発を覚えるのはなんでだろう?
著者は別にそうは言っていないが、自分の思うところそれは「自分に関する情報」という自分の分身(あるいは持ち物)が同意もなしに持っていかれているという、泥棒にあったような感覚であるような気がする。
それでも、例えば街頭の監視カメラとかアマゾンの「おすすめ」みたいに、個人に関するデータの蓄積は犯罪を防いだり興味のある本を差し出してくれたりといったhappinessをもたらすものとして、ぼくら自身が要請している側面がある。
そこで犯罪防止を例にとって少し細かくみてみれば、個人に関するデータの蓄積の利用方法としては次の2つがある;犯罪を起こす"可能性"のある人をあらかじめ排除してしまうような「事前規制」型の利用方法と、犯罪が実際に起きた場合に蓄積したデータから犯人の追跡を容易にするような「事後規制」型の利用方法。個人データの蓄積全般に広げてみれば、事前規制は予測不可能なことが起きないことを目標にしているという点で、創造の自由を侵しているといえる。それに対して事後規制は誰かの権利を侵害するようなことが起きた場合に、その補修を助けるものといえる。監視社会へのニーズは後者と親和的なんじゃないか。
起こり得ることは常に予測可能なことばかりではないが、良い結果が出たとしても悪い結果が出たとしても、それに対する責任を引き受け行為する、そのとき「自由な個人」が立ち現れてくる。
とまあ、自分がいいねぇ~と思ったところだけつなぎ合わせると上のような感じの筋書きになるんですけども、この読み方が合ってるかどうかはわかりません。
「監視社会を支えてるのはみんなの要請です」はべつに新しい指摘ではないけれど、じゃあどんな監視社会ならいいのか、を考える努力はこういう方向でやるといいかもね、と思った。語り口が親切なので好感です。思想系社会学者とかが使うよくわからん「自分語」みたいのがなくて。