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ヒューマンエラーは裁けるか

■シドニー・デッカー(芳賀繁監訳)『ヒューマンエラーは裁けるか』東京大学出版会、2009年。
(Dekker, Sidney. JUST CULTURE: Balancing Safety and Accountability, Ashgate Publishing, 2007.)

医療や航空といった、一歩間違えれば重大な事故につながる業界で働いている実務者たちがミスを犯した場合、それをどう扱ったらいいのか。

ヘタクソをとっつかまえて裁判にかければ、相応の報いを与えられ、真実が明らかになる。そう考えるのは浅薄にすぎる、ということを著者はまず指摘します。
裁判は「この人からはこう見える、しかし別の人から見るとこうだ」という複線的なストーリー、複数の真実を並立させることが少なく、不利な証言を拒めるためほんとうのことが語られるとも限らず、被告にされた人への罰が決定するだけで背後の構造的な問題が無視され今後の安全性向上も担保されない。では、どうすればいいのか。

とにかく、誠実に仕事に取り組んだ中で起きたエラーは、組織全体の視点から今後へのレッスンとして活かすことを最大の目標とする(たぶん被害者や家族も、自分の被害がシステムの改良につながることに意義を見出す)。そのためには司法を介入させず、エラーを起こした人を罰したり屈辱を感じさせたりしないことで、起きたことを隠さずに事故調査機関に話させること。調査は門外漢が後知恵で「こうするべきだった」とやるのではなく、エラーをした人の視点を追体験できる同じ分野の専門家が行うこと。収集した情報の報道や司法関係者による使用に注意すること。
また、こうしたシステムがきちんと働くために、専門家組織内の信頼感(正直に話したことがちゃんと活かされるという)、組織と司法の間の信頼感(犯罪や重大な懈怠によるケースなどはちゃんと組織からの通報があるという)の醸成が必要だということ。

一方で、情報の開示についてはもう少し知りたかった。
事故被害者側への情報提供は必要ではあっても、そこから報道や司法に流出する可能性は十分にあると思うのですが、それをどう止めるか(漏洩に対する刑事罰を科す?)。また事故調査報告書をまったく一般公表しないと事故調査への信頼感が生まれないと思うのですが、報告書をどう扱うか(裁判に使わないことをルール化する?個々の登場人物が特定されないバージョンを別途作成する?)。

とはいえ、エラーに対して「スケープゴートを見つけて刑事罰!」という対処の仕方には、被害者も加害者も第三者もなんかヘンだなーと思っているだろうと感じていたのですが(だから本屋でタイトル買いしました。また日本では医療事故調設置の動きものろのろですが進んでいますね)、それがどうヘンなのか解きほぐしてくれる本で、扱う事例にも重みがあり、ためになる読書でした(訳も読みやすかったです)。

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2010年03月28日 11:45に投稿されたエントリーのページです。

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