前にアマゾンでお古の文庫を買ったら随分汚いのが来て、捨てたことがありまして。
そしたら今般、講談社学術文庫で出た。折角ですしということで。
80年前の文章ですが、民族、言語、宗教を股にかけて「遊び」の諸相が描き出されていて、結構楽しく読みました。しかしその後、この本がどう読まれてきたのかは誰かに教えてほしい。
あと、訳者解説はカイヨワに結構厳しかったので、『遊びと人間』の解説も読まないといけない気がする。まあ多分そのうち。
■ヨハン・ホイジンガ(里見元一郎訳)『ホモ・ルーデンス―文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』講談社, 2018年.
人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した。
【遊びはこういうもの】
・遊びは文化現象である
・遊びは「余計なもの」である
・遊びは自由な=命令されていない、大らかな行為である。自由に使える時間の中で行われる
・遊びは生活上の必要から離れた、仮構の世界で行われるものである
・遊びは時間的に限定される(始めと終わりが明確にある)
・遊びは空間的に限定される(遊び場というのが設定される)
・遊びは規則を持っており、無視することは許されない
・遊びで人は何らかの役割を担う
・遊ぶ人は自分が遊んでいることを知っている(自覚的に規則と役割を引き受けている)
・それでも遊んでいる人はその役割に「なりきる」ことが求められる
・遊びは闘技的、対立的、競技的、党派生成的な性質を持つ。勝つことが肝心である
・勝ちたい、良いところを見せびらかしたいというのが社会的な遊びの原動力である
・不確定性をはらんだ遊びに勝つことは、神からの善や幸福の保証を意味する
・文化を豊かにするような遊びには、高揚感や没頭=真剣さが必要である
・遊びの共同体は遊びが終わってからも持続する(遊びが共同体を維持する)
・遊びは神話、祭礼儀式、神聖な行為の根っこにある。起きてほしいことを遊びとして「演じる」
・遊びはスポーツの根っこにもある
・遊びはたとえば次のようなところにも現れる:株の取引のような経済活動、訴訟(規則に縛られた言葉のゲーム。エスキモーは太鼓や歌で行う)、戦争(飾り立てた騎士道、礼節のゲーム)、知恵比べ(世界の秩序に直結した知=魔力を競い合うゲーム)、詩作(精神のゲーム、祝宴における叙事詩の暗誦、連歌も想起せよ)、哲学(レトリックの見せびらかし合いゲームを遊んだソフィスト、対立構図に立つプラトンの対話篇、学問論争)、ファッション(見せびらかしのゲーム)
・遊びの要素として、秩序、緊張、動き、楽しさ、無我夢中、が挙げられる
・「遊び」という言葉は、ゲルマン諸言語において真剣な闘技を、アラビア語やヨーロッパ諸言語において楽器の演奏を、ゲルマン諸言語や北米先住民の言葉で愛欲を表す言葉でもある
【遊びはこういうものではない】
・遊びは生物学的機能(生物学的に何かに役に立つから遊ぶ)ではない
・遊びの反対は「真面目」である(が、遊びは「真剣」に遊ばれる)
・祭祀的、儀式的、祝祭的性格がはがれ落ちた近代の遊びは機能不全といえる
・たとえばスポーツのように体系化、組織化、訓練が進むにつれ、遊びはその純粋さを失っていく
・社会的だった遊びが個人的なものになっていくと、遊びらしさはそがれていく
・ピュエリリズム。ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容、賞賛に付け批難に付け見境なく誇張すること、自己愛や使命感におもねる幻想にとりつかれやすいことなどの幼児的特徴(ファシズム批判)
……というような対比を頭に入れて読むと、本書で紹介される古今東西の膨大な「遊び」事例が整理されるかと思います。
今の語感でいうと、「遊び」は「ゲーム」という言葉のイメージとかなり近いと思う。
そんで多分こういうことだろうなと考えた:
第1に、文化、政治、外交などの中で、遊びの要素の増減はあっても、必然的に人は遊んでしまうのだということ。何かを探究しているうちに本来の目的を外れてオタク的な凝り方をしてしまったり、実利的なことを話し合っていたはずの議論がいつのまにか弁論大会みたいになってしまったりする、そのさなかに「あっ今、遊んでる!」と遊びを発見できるだろう、この本を読んでおくと。
第2に、遊びは「真面目」(遊びの欠如)と「頽廃」(遊びの過剰)という両極端の間の中庸なのだということ。遊びが何でないかについてはあまり(明瞭に)語られていないが、図式的にはそう思っておけばよさそうではある。
第3に、遊びは実用性、日常性、秩序、自然=必然性の「外側」なるものの気配を人間が感じ取る契機だということ。しかし、遊びは時間的・空間的に限られたものなので、必ず人間は「内側」に戻ってくる。それでも出掛ける前と同じところには着地しない、それによって世界が展開するのだということ。
そして、文化の駆動因である遊びが力を失うと、停滞、硬直化、腐敗が起きるということ。