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山谷と吉原

学生時代の友人からお声がけいただいて、TABICAというサイトで開催している街歩きツアー「吉原の今昔散策」に参加してきました。

スタート地点の南千住駅から歩いてすぐのところにあるのが、小塚原回向院。
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近隣の小塚原刑場で処刑された罪人や行き倒れの人たちが弔われているところだそうです。当時は禁止されていた解剖を杉田玄白らが行ったのもここ。安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内(ただし正式なお墓はそれぞれの出身地にあるそう)だけでなく、鼠小僧や、「報道協定」が初めて結ばれた誘拐事件「吉展ちゃん事件」(1963)の被害者・村越吉展氏(弊管理人は吉展ちゃん事件が報道協定のきっかけになったと勘違いしてましたが、それは「雅樹ちゃん事件」(1960)でした)のお地蔵さん、カール・ゴッチのお墓までありました。
謀反人のお墓がなぜ三つ葉葵のついたお寺にあるのかは分からないままでした。

お隣は延命院。同じく処刑された人らのための「首切り地蔵」がいます。
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小塚原刑場ってどこにあったのか、ネットで調べてもよくわからなかったのですが、今回やっと分かりました。延命院の隣から、現在の線路と、線路を渡ったところにある東京都交通局の施設のあたりまで細長く延びていたとのことです。火葬が追いつかず、かなりの土葬をしたせいで、つくばエクスプレスを通すときの調査で大量の人骨が出土したとか。
処刑されたものの供養――。悪霊化するのを恐れたのか(これは仏教の発想ではないのかもしれませんが)、それとも罪人もまた救われるべきと考えたのでしょうか。

刑場のあったあたりはやはり民間に分譲というわけにはいかず、都営アパートや都バスの基地になっています。いわくつきの地には学校が建つこともあり、それが「学校の怪談」というジャンルが生まれる元になったのではないか、とはガイドさんの推測。

北の小塚原、南は南大井の鈴ヶ森、あと八王子にあった大和田が江戸の3大刑場で、あとはコミュニティレベルの小さなものがあったそうです。小塚原は斬首、鈴ヶ森は磔と火あぶりで処刑をしていたとのこと。
小塚原は千住の宿場町の外れに位置していて、明治の初めくらいまでは首がさらされていたそうです。街に入る人たちに対して「秩序を乱すとこうだからね」と知らしめる意味があったのでしょうか。

跨線橋から刑場と逆のほうを見ると、貨物列車ががたごとと通り過ぎていきます。
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このあたりは荷揚げの中心地であり、都心方向への物流の起点となっていたそうです。さらに前回の東京オリンピック前には日雇い労働者が集まり、安宿も多い。それが現在は外国人旅行者に好んで利用されているのですね。

人足寄場、さらに食肉処理、皮なめし、解剖など、被差別階級の人たちが担った仕事が周辺に集積しています。皮なめしは水を大量に使うので川沿いにあったとのこと。浅草にはそうした社会の頭領・弾左衛門の屋敷があります。独自の裁判権を持つなど、高度な自治をしていたらしい。近代以降も革靴工場など、ゆかりのある産業が残ったそうです。

処刑される人たちが家族と別れる場所だった「泪橋」は、現在は交差点の名前に残っているのみ。その近くがいわゆるドヤ街の雰囲気を残した一角になっていて、ハローワーク、1泊2500円くらいの安い宿泊施設、寿司屋が点在しています。「あしたのジョー」の舞台もこのあたりだとのこと。
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旧山谷、現日本堤の交番は、ちょっとしたマンションくらいの大きさ。かつては暴動やデモが頻発したので、応援をとったり留置をしたりといった必要があって大きな交番になっているそうです。ちなみに、近くには有名なカフェ「バッハ」があるそうですが、立ち寄ることはできませんでした。

「いろは会」商店街に入ります。
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右側の垂れ幕は見にくいですが「山谷は日雇労働者の街 労働者を排除する再開発反対!!」と書かれています。「写真とるな!人権侵害やでえ」と声をかけてきたおっちゃんは関西弁でした。いろんなところから働きに来られているよう。

アーケードは老朽化が進んだので、昨年秋に屋根を取り払いました。
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再び屋根をかける予定はないそうです。
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寒い日が続きますが、日が照っているので日向にいると暖かかったです。
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そんで、前に天丼を食べに行った「土手の伊勢屋」の横っちょくらいに出て、吉原に行きますよ。

吉原大門(だいもん、ではなく、おおもん)に入る道は大きく曲がっています。出入りする人たちが見えにくいよう目隠しをする機能があったとのこと。今は大門があったところを示す柱が立っているだけです。
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こちら「金瓶梅」「鹿鳴館」などソープが並ぶメイン通り。昔はこの通り沿いのお店が一番ステータスが高く、病気をしたりして落ちぶれた遊女たちは街のはしっこのほうに住んでいたそう。その外には「お歯黒どぶ」という堀が巡らしてあり、出入り口は基本、大門に限定することで逃亡を防いでいました。

遊女は全盛期で3000人、もろもろのスタッフを入れると1万人くらいが働く街だったとか。スターの太夫から見習いの禿(かむろ)までヒエラルキーが存在し、15歳から10年ほどの間にキャリアを積みました。お金を持っている客には教養のある人もいたため、相手ができるよう囲碁、将棋、和歌、俳句などを勉強したそうです。

初めての客を大門まで迎えにいくのが「花魁道中」。これはお店の宣伝も兼ねていたということです。ファッションリーダーでもあったのですね。客を選ぶ権利は遊女のほうにあり、一度は大門近くの待合所で品定め、二度目は食事をしながら品定め。三度目でようやく夜をともにすることができたという。

吉原を出る方法は3つ。(1)年季明け=借金を返す、(2)身請けしてもらう、そして(3)死ぬ。

弁天さん、性病科クリニック、関東大震災の火炎旋風を逃れようと女性たちが飛び込んだ池の名残(多くは圧死だったそう)など、いろんなものが集まってます。
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台東病院の裏に出ると、竜泉の街。樋口一葉が一時期住んでいたそうです。記念館もあります。
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ガイドさんにお煎餅をごちそうになってしまいました。
製造は山梨県(笑)。でも、樋口家ってもともと山梨の出身なんですよね(一葉は東京生まれだが)。なんか関係があるのかな。

三ノ輪駅の近くまで来て、最後は「投込寺」こと浄閑寺。
安政の地震のときに死んだ遊女が投げ込み同然で運ばれたお寺だそうです。
吉原で遊んでいたらしい永井荷風も「死んだらここにお墓を作ってくれ」と希望していたものの家族の反対で実現せず、有志がお寺の裏手に文学碑を作ったとか。
そして、山谷で亡くなった人たちもここに眠っているそうです。
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太陽の下で働いた人びとを象徴する、ひまわりを持った地蔵。

いやほんと勉強になりました。

* * *

吉原とは関係ありませんが、年末から読んでた本、帰りの地下鉄でフィニッシュしました。

■冨田恭彦『カント入門講義―超越論的観念論のロジック』筑摩書房、2017年。

20年とか前に柏木達彦シリーズなど読んで以来、お久しぶりの冨田先生ですけど、なんか分かりやすさがパワーアップしてませんか。すごいね。『純粋理性批判』ってこういう話だったんか。弊管理人はどういうわけかヒュームってカントの敵だと思ってたけど全然違ってた。

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2018年01月13日 15:27に投稿されたエントリーのページです。

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