■大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか―社会学的考察』青土社、2005年。
京都旅行中から読み始めて、出張時の電車やバスの中で読んでいてやっと読み終わった。フィニッシュは音楽聞きながらイッキでしたが。
ええと、『InterCommunication』55号(p.24)で佐藤俊樹氏に「大澤さんは宮台[真司]さんに比べて圧倒的に俯瞰優位、神様視点で話す人です」と形容されてました。
大澤氏がよく使う「第三者の審級」は「神様視点」といえると思うんですが、さらに「第三者の審級」を論じている大澤氏自体が神様視点に立っているともいえるので、うーんうまいこと言うなあとニヤニヤしたのでした。
んで。内容は、大澤社会学var.絵画と映画と音楽とスポーツ。以上。
骨組みは、
(1)わたくしどもは日々いろんな経験してますが、それを可能にするような前提になるような枠組みというのもありまして
(2)しかしその枠組みというヤツがあることが分かるには、日々の経験を通じてでないとできないんですね
(3)とゆことは、その枠組みはそれをいきなり発見することはできなくて、日々の経験を通じて発見できたときには「あっ、あったんだぁ(完了形)」という事後的な形でしかない
(4)その枠組みが見えるような「破れ」は日常の中にあることにも注意
(5)そこに「美」とか「他者」などというもののキモがありまして
(6)そういうものは「つかまえた!」と思っても、つかまえた瞬間にさらに奥にある枠組みが見えるという、どんどん逃げる構造を持っている
という感じかなあ。激しく違う気もする。
話は↑こんなようなすごく抽象的な原理をいろんな例に適用しながら繰り返しているのでとっつきにくいですが、この人の著作の魅力は、タイトルの巧みさを別にすると、その例選びの妙にあるような気がしてます。
■東浩紀(編)『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』青土社、2005年。
寝床に置いておいて、寝る前に数ページ繰って寝るという読み方でやっと読み終わった。フィニッシュは音楽聞きながらイッキでしたが。
東+鈴木謙介のホストが宮台、大澤、北田暁大というゲストをひとりずつ迎えて構成する鼎談3連発。
全体的に面白いんですが、特にうひひと思ったトピック:
・天皇とか亜細亜とか言い続ける宮台氏に対する、他の人たちの違和感
・「人間の責任の範囲は、基本的に物理的な条件で制限されている。……これは口頭の会話でも同じです。しゃべりつづけると疲れる。しゃべれなくなるから話題を変える。……僕は結局、応答すべき他者と応答すべきでない他者は、そういう物質的外部性で分けるほかないと思う」(p.237)のあたり。物質性を離れた論理の世界で応答責任とかのことを考えていて行き詰まったら、こういう突破のしかたもアリなんだなあと
・大澤氏が宮台氏をどう思っているか。ゴシップのように聞こえるけれども、アカデミズムに足を置きながら社会問題に斬り込むときの、大澤氏の「神様」を見れた気がします
いちばん勉強になったのは、ひとかたまりの文章を読みながら、何が語られたのかを考えると同時に「何が語られなかったのか」も考えないといけない、ということですかね。