■ジョン・スチュアート・ミル(山岡洋一訳)『自由論』日経BP社、2011年。
14年ぶりくらいに読みました。
原理は単純で、
(1)個人は自分の行動が自分以外の人の利益に関係しない限り、社会に対して責任を負わない。社会がその行動を嫌うか是認できないとき、その人に助言や教示を与え、説得することができ、自分の幸福のために必要だと考えればその人を敬遠することができるが、それ以上の方法をとるのは正当だとはいえない。
(2)個人は他人の利益を損なう行動について社会に責任を負い、社会はみずからを守るために必要だと判断した場合、社会による制裁か法律による処罰をくだすことができる。
つまり他人に危害を加えなければない限り自由を保障されるべきだ(他者危害原則)ということのようです。
最初のほうの章では「思想・言論の自由」と「行動の自由」がそれぞれどうして必要なのかを検討しています。理由は、結局のところ、ぼくたちは全知全能ではなく、今ひろく信じられていることでさえ間違っているかもしれない(可謬主義)ので、反対論を気に入らないからといって封殺してしまうと、間違いを正されたり、両者の考えを止揚してよりよい考えに到達したりするチャンスを失ってしまうからです。たとえ今信じていることが合っていたとしても、反対論に触れることによって、自らの根拠を再認識し、知識の基盤を固められるから、やはり反対論をそもそも発言させないというのはよくない。
一見不愉快な行動についても、何が正しいかに関する知識を完全に持っている人などいないのだから、それが本当に悪いことなのかどうかはすぐに確定できない。その行動が他人に直接の危害が及ばないなら、周囲がしていいのはせいぜい「やめな」と説得し、だめだったらおつきあいをやめるところまでで、それ以上の制裁・処罰をするべきではないとも主張されています(愚行権、パターナリズム批判)。ただし、奴隷契約などを自発的に結んで「自由を手放す自由」は認められません。
他者危害原則にはいろんな限定がついています。
まず、分別のないガキに自由を保障せえという話ではないということ。何がよいことかを自分で考える力を身につけるため=大人になるために最低限必要な教育(ただし、特定の思想を植え付けるのではなく、方法論を教えるようなイメージ)を国が施して、修了試験を課すべきだとまで述べています。
また、自由を制限する理由となる他者危害は、かなり直接的な危害に限定されていることにも注目すべきだと思います。弊管理人など冗談で「あなたが息をしてると地球が温暖化して環境が壊れるから、息止めてもらえますか」なんて言ったことがあるのですが、こんなのは他者危害になりません(笑)。自由の制限を許すような「危害」の範囲を少しでも広げてしまうと、たやすく自由が無意味になってしまうからでしょう。
面白いのは、自由を制限しようとする役者として、政府だけでなく「世の中の多数派」も想定されている点です。自分や権威と違った考え方に不寛容な世間様が、いかに異端者に有形無形の圧力をかけて押し黙らせているかを苦々しく描いていますが、これは1850年代のイギリスの描写とはとても思えません。
このあたりは、著者がどういう社会が好ましいと思っているかにもつながっていると思います。結局、個人というのは孤立してあるものではなくて、時には権力を構成し、時には国に影響を及ぼす、そういう役割を持ったものだ。だからこそ、自由を保障することで個性を保護し、社会に多様性を持たせるべきで、その多様で活力ある個人たち、国を永続させる原動力になるのだと訴えているように思います。
また、国は必要以上の干渉を企図してはいけない。官僚機構を作るために国中の優秀な人をかき集めるようなことはしてはいけない。人材を集めすぎると行政をチェックする力のある人が外部に確保しなくなってしまい、そうなると人々があらゆることを行政にお任せし、国の活力が落ちてしまうから。このへんも含めて「時代や国が違っても似たようなことは起きるんだね」と思うこと多々でした。
具体的な問題について判断を下すにはちょっと物足りない大づかみな原則ですが、ここを一つの起点として後世のいろんな思想や制度が流れ出す、そういう水源地のような論文だったと思います。出版後に鬼籍には入られたのは残念ですが、訳者にブラボーを。