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いのたつ

■井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』毎日新聞出版, 2015年.

谷口功一さんによると、著者はまえあつのフレーズだと知らなかったそうであります。
タイトルどうよ、と思う人もいるでしょうし、井上達夫がここまで降りていかないかん状況か、と嘆く人もいるかもしれません。でも弊管理人はよかったと思います。やっと井上達夫入門が、しかも本人の手で出た。『共生の作法』も、大学生のときに出て話題になった『他者への自由』も濃度が高くて結構ハードル高かったので助かります(味わって読む技術が低いせい)。

リベラリズムには二つの起源があるという:
(1)啓蒙=因習や迷信からの解放。独断に陥る危険性もあるが、理性の限界を吟味する営みも啓蒙の伝統である。
(2)寛容=血みどろの宗教戦争への反省。他人がやってる不正義を許容してしまう危険性もあるが、他者の受容により自分を変容させる契機にもなりうる。
→これらのいいとこ取りをできる考え方はないものか。

そこで導かれるいくつかの考え方:
・「普遍化不可能な差別の排除」という正義概念(ある正義は、他者の視点に立ってみても受け入れ可能か、という判定テスト)の導入。
・そこから当然出てくるルールとして「ダブルスタンダードの禁止」。ダブスタは普遍化不可能だからね。
・権力による特定の道徳観の強制の排除。面従腹背を招くから、つまり、保護しようとしたものを堕落させてしまうから。
・批判的民主主義。エリートを含めてみんなそれぞれ愚かだからこそ、アカウンタビリティを確保した民主主義の中でお互いに批判しあって、「よりよいもの」に辿り着く必要がある。
・法が正統であること。その条件は二つ。(1)敗者が勝者になる可能性と(2)構造的少数者への基本権保障。

つまり、さまざまな「善」が花開く、そのための土壌として「正義」ってものが必要だろう。
価値相対主義はそれを用意できないはずだ。
というのが核かと思いました。

――学生のころの弊管理人はこういう考えを多分受け入れなかったんじゃないかと思いますが、今はだいぶ違います。可謬主義+普遍主義(というか、普遍を「志向する」主義。方法的普遍主義)のほうが、可謬主義+相対主義よりも粘り強く共生を探れて、いい世界が作れるような気がする。
ただ「『仲良くやろうぜ』を難しく言ったまで」、という印象は昔とあまり変わってません。この印象から出発してどこへ行くかは弊管理人の課題です。

時事問題への言及が多いです。それを読みながら、今まさに起きていることに対する判断を取り急ぎしなくてはいけないときに、やってみたほうがいい思考実験がいくつかある気がしました。
・自分の判断の方向性を極端まで進めてみる
・自分の判断基準をいろんなものに当てはめてみる
・同じことだと考えていたAとBが本当は別ものではないかと考えてみる
・別ものだと考えていたAとBが本当は同じものではないかと考えてみる
・原因と結果が本当は逆ではないかと考えてみる
・ここは動かしがたいと思った部分が本当に動かしがたいか考えてみる
あと、tipとして
・昔のことを考えるとき、記憶だけに頼らない
もっとあるかも。

ということで面白かったです。
「マハティールのインドネシア」とかいっちゃってますが、ご愛敬。

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2015年07月13日 11:58に投稿されたエントリーのページです。

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