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生物学の哲学

前々からそういうのがあるとは知っていたけど、ちょうど手軽そうな本出た!っつって買ったもの。本当は舞鶴から帰ってくるバスの中で読み終わっていたのですが、次に手を付けた『科学の人種主義とたたかう』がこれと少し繋がっていたため、ざっと読み直しながらメモを作ることにしました。

時代を隔てて使われている言葉の意味が同一かどうかを考えるような部分は哲学っぽい匂いもするのですが、多くは「これくらいの原理的な説明は遺伝学の教科書に載ってそう」という印象(確かめてないけど。すみません)。あるいは遺伝情報が「情報」なのかどうかのように、個人的にはどっちでもいいかな……という論点もありました。科学哲学に再吸収されないのかな。

とはいえコンパクトで一覧性があって説明も平易、というこのシリーズのご多分に漏れず有り難い本でした。

■Samir Okasha, Philosophy of BIology: A Very Short Introduction, New York: Oxford University Press, 2019.

【1】なぜ生物学の哲学か

・20世紀初頭に科学の方法に関する研究として「科学哲学」が登場

・1970年代にその1分野として「生物学の哲学」が出てきた。その背景は3つ

 (1)科学哲学の関心が物理学に寄りすぎていた
  ・戦間期の論理実証主義。自然法則の探究という科学観が生物学によくフィットしない
  ・クーンのパラダイム論(1962)もやっぱり相対性理論などを相手にしていた

 (2)生物学に面白い問題が出てきた
  ・20世紀前半の「新ダーウィニズム」←遺伝学や古生物学、動物学を踏まえて
  →遺伝子「変異」単位での淘汰という視点
  ・20世紀後半の「分子生物学」←1930年代のバクテリオファージ研究に発端
   ワトソン、クリックのDNA二重螺旋構造発見(1953)
  ・新たな概念の登場(J.モノー、E.マイヤー、J.M.スミスらが議論)
   (a)進化生物学によくある目的論的説明 eg.魚のえらは呼吸のためにある
   →こういう考え方はどこからきている?創造論を引きずっているのか?
    いかにして「機能」は発見されるのか?
    「機能」は2つ以上ありうるか? ……などが古典的な生物学の哲学の問い
   (b)遺伝学によくある「コミュニケーション」のボキャブラリー
    eg.コードするcoding, 情報information, 翻訳translation
   →なんで生物学の時だけ分子に情報学的な語彙が用いられるのか?
    文字通り受け取ればいいのか?それともただの例えなのか?

 (3)自然化された哲学naturalized philosophy=実験的手法=が生物学に触発された
  ←英米哲学のトレンド。経験科学との融合(クワイン~)
  eg. 「志向性」と特定の脳状態の関係
     ハチの8の字ダンスの表象機能に関する進化生物学的説明(R.ミリカン)

【2】進化と自然選択

・『種の起源』(1859)の中心的主張
 (1)種は環境に応じて変化する
 (2)現存する種は神が創造したのではなく、1つか少数の共通祖先の子孫である
 (3)進化の主な手段は自然選択である
 ※ダーウィンの祖父エラスムス・ダーウィンも(1)と似たことを言っているが、
  メカニズムについては言及なし。(3)を示したことが大きい

・自然選択が起きる条件
 (1)種に含まれる諸個体にバラエティがあること。完全にみんなが同じではないこと
 (2)それぞれの表現型に適応度の差があること
 (3)子は親にある程度似ること
→これを『種の起源』の中でかなりのスペースを割いて例を挙げながら議論している

・マルサスの人口論に着想
 →生物は限られた資源の中で、それぞれの表現型を利用し「生存競争」をしている

・デザイン論(目的論的議論)を掘り崩した
 eg. W.ペイリー。環境に合った表現型、複雑な構造の眼が自然にできるか?
    正確に時を刻む目的に適う時計は「意志的な創造者(職人)」がないとできない
 ←ダーウィンの自然選択(長い時間をかけて調整される)は論駁しえている
 ・ただし現在もインテリジェントデザイン論として生き続けている
  ただしこれは科学というより宗教的動機で生き延びている

・ネオ・ダーウィニズム
 ・ダーウィンの進化論は、その証明を後に譲った点が2つある
  (1)集団内の多様性はどうやって発生するのか?
   →自然選択は多様性を減じる方向に作用するので、変異が発生するとの証明が必要
  (2)親と子が似るのはどうしてか?
 →いずれも現在の遺伝学で回答可能
 ・ネオ・ダーウィニズムは「ランダムな変異」と「自然選択」が2大原理
  「進化」を集団内の遺伝子頻度の変化と定義することが多い
 ・また、親の獲得形質(筋トレの成果など)が子に伝わるというラマルク的説明を拒否
  ※ただしエピジェネティクスや腸内細菌などの知見からすると完全にナシではない
 ・ラマルクは「個体」、ダーウィンは「集団」を適応の単位とみている

・マイヤーの「探究の2類型」
 ・Proximate:特定の生物機構はどうやってhow機能するか
  eg.哺乳類の体温調節はどのようにされているか?
  →それが起きる因果的連鎖を記述すればよい
   進化の歴史は参照する必要がなく、創造説に立っても説明はできる
 ・Ultimate:なぜwhyの議論 eg.なぜ鮭は生まれた川に帰ってくるのか?
  →進化的にそれが有利であることを記述すればよい

・進化論が科学者以外にもみんなに受け入れられているとは限らない理由
 (1)生活実感にそぐわない。動植物に共通祖先がいたとはにわかに信じられない
 (2)人間の特権的地位を剥奪する
 (3)多くの宗教の教義と合わない
・上記(1)に対する証拠提示
 ・違う種(例えば馬と牛)が解剖学的に驚くほど似たボディプランになっていること
 ・脊椎動物の胚が極めて似ていること
 ・細菌から人間まで、極めて似た遺伝子を使っていること(これが一番強烈)
 →これらは共通祖先を想定すると極めてうまく説明できる
・「でも所詮、仮説でしょ?」
 ←そうなんだけど、多くのエビデンスがうまくはまる。なんなら他にも仮説はいっぱい

【3】機能と適応

・「機能function」によく訴えるのが生物学の特徴
 ※function-attributing statementsだがfor, in order toで表されるものも含む
 eg. カニの甲羅の機能は身を守ることである
    ←→天文学者は「惑星の機能」とか言わない
・しかし、何これ?
 (1)単に「効果」のことである
  ←しかしカニの甲羅の機能は内蔵を保持することである、とは言わない
   複数ある効果のうちなぜどれかだけが機能と言われるのか?
 (2)果たすべき役割、という規範的意味である
  ←誰が「べき」を判断するのか?自然科学って記述的じゃなくていいの?

 (3)生物学的適応度に関係した形質のことである(前章のultimate=whyに対する説明)
  ←これはなかなかよさそう。だがこれだけではない(後述)
・人工物についても機能は云々される
 人工物の機能は、創造者である人間の意図に照らして決まる
 →ということは、生物学で機能トークをやるのも創造説をひきずっているからか?
  ←「盲腸には実は機能があった」は単に創造説をひきずっているだけとも思えない
 →自然選択というものが創造者(人間)っぽく感じられているからでは?
  ←無生物についても「氷河の機能」とか言えるけどいいのか?
・結局、人気があるのは目的論的説明(自然選択のうえで有利=選択効果説)。上記(3)
 ←しかし「機能」が複数見いだせてしまう場合もある eg.シロクマの毛皮
  因果関係の最後にあるもの
 ←もともとの目的とは違う機能も eg.鳥の羽:体温調節→飛ぶ どれが本当の機能?
 ←進化論以前の「機能」という言葉は… eg.ハーヴェイが発見した心臓の「機能」は?
  eg.進化論とは関係ない分子生物学的に発見された「機能」は?

・対抗馬としての因果的役割理論causal role theory of function
 ・脳のように複雑な仕組みがどうやって働いているか
  eg.脳のある部分の機能とは、システム全体に対する貢献のこととみる
    体温調節機能における視床下部の機能は、血液の温度を監視することである
  eg.獲得免疫におけるT細胞、B細胞……

・目的論的説明はwhy、因果論的説明はhowに答えているともいえる
 双方の説明が一致することもあり、そのせいでこの区別があまり重視されてないのかも

・「これがこの組織の機能です」という決めつけが間違いである可能性について
  (グールド&レウォンティン)
 ・環境における適応をみる?進化は人間のスパンでは見えないが
 ・単なる進化の副産物に機能を見いだしてしまう可能性はないか?
  一つの遺伝子が複数の影響を及ぼすことも知られている
 ・人の鳥肌のように痕跡としてだけ残っているものに機能を見てしまわないか?
 ・四本足のように「最初にできちゃったので広まっただけ」に機能を見てしまわないか?
→あらゆる組織に機能がある、という思い込みの危険
 個別の組織ごとに分けて考えるのではなく、全体論的に考えるべきではとの提案

【4】選択の単位について

・ダーウィン:個体単位 eg.足の速いチーターがより子孫を残しやすい

・個体より小さなレベル
 細胞単位 eg.脊椎動物の免疫、神経発生、がん
 →ただし効果は個体の寿命限り
 遺伝子単位

・個体より大きなレベルとして:集団単位group selection
 →これにより、利他行動(個体の損、集団の利益)がなぜ存在するかが説明できる
   協力により、自分本位の個体ばかりの集団では達成できないことができる
   (これには個人選択派のダーウィンも気付いていた)
 ←「個体の得がたまたま集団の得になっている」というG.C.ウイリアムズの反論
  現代の数理モデルでも、集団選択のほうが弱いとされている
  (が見逃せない程度の反論もある)
・でも、利他行動はどう説明する?
 →血縁選択kin selection。利他行動は近親者のみが対象(集団内一般ではない)
  →利他遺伝子が優勢になっていく 
  ハミルトンの法則(1964):相手の利得×近さ>コスト、の時に利他行動が進化する
・人間には当てはまるか?
 →当てはまる。ただし社会組織(会社や政府など)では血縁関係なくても協力する
・血縁選択と集団選択は同じものだとの見方も eg.女王蜂のための犠牲

・遺伝子単位:ドーキンスの「利己的な遺伝子」(1976)
 各遺伝子は集団内の他のアレル(染色体の同じ位置を占める変種)と競争している
 →これで利他行動も説明可能
 アウトロー遺伝子(他を出し抜いて自分が増える遺伝子)もある

・最近四半世紀の選択単位を巡る議論
 J.M.スミスとサトマーリのthe major transitions in evolution
  細胞小器官や細胞が統合されていくということ(細胞内共生、コロニー…)
  すべての生物は社会的だとの含意

【5】種と分類

・伝統的な分類法はリンネ方式
 ・すべての個体に種speciesを割り当てる
 ・すべての種に属genusを割り当てる、
   以下、科family、目order、綱class、門phylum、界kingdom
 ※リンネはダーウィン以前の人で、神の創造した客観的・永遠の分類の解明を試みた
  それぞれの種が共通祖先から進化したという考え方に立ってない
・分類学taxonomyから20世紀に体系学systematicsが誕生
 しかし分類の基本原理については今日もまだ合意ができていない。ポイントは2つ

(1)個体を種に当てはめる原理:種問題species problem。種とは何か
 ・元素のように、そこに含まれる個体が一様ではない
   種の中に遺伝的多様性があり、それが変化する→必要十分な性質が決まらない
   DNAバーコード(共通性の高い部分)もいつも目印になるとは限らない
 ・E.マイヤーによる解決:Biological Species Concept (BSC)
   同種に属する個体は生殖可能な子どもを作れるreproductively isolated
   →種間では遺伝子の流入が起きない
 ・BSCには限界もある
   (a)無性生殖する生物には使えない
   (b)生殖可能かは程度の問題。2種が接するhybrid zoneでは交雑が起きうる
     植物では異種間の交雑がよく起きる
   (c)輪状種ring speciesの存在。a-b-c-dが隣接しつつ輪のように分布していると、
    a-b,b-c,c-dは交雑できるのにd-aができない場合がある
    ※ただしこれは致命的な反証ではない。
     レアなのと、種に分裂する途中と見なされうるため
 ・BSCの代替案(30種類くらいあるが、どれも普遍的でない)
   ecological species concept
   phylogenetic species concept
   morphological species concept など
   ……といって「種」の概念を放棄するのも不便
 ・M.ギーゼリンとD.ハルの提案
   種を、特定の時と場所に現れ去っていく複雑な一個の個体のように見る
   個体―種関係を細胞―個体関係のように見る cf.アリとコロニー
   個体を種の構成員ではなく部分と見る cf.変異した細胞も体の一部
  →普遍的な分類法則を発見できない(しなくてよい)。例外を許容する
  →「人間本性」などというものもないことになる

(2)種を属に当てはめる原理
 ・系統分類学phylogenetic systematics/分岐分類学cladistics
  →分類は進化の歴史を反映したものであるべきだというのが基本アイディア
 ・種以上のレベルはすべて単系統monophyleticでないといけない
  →単一の祖先種からすべてが生まれていて、しかもそれ以外があってはいけない
 ・ホモロジー(共通祖先から受け継いだ共通の性質)を分有している
 ・系統分類学のライバル
  (1)表形分類学phenetic school:進化の歴史ではなく、観察可能な類似性に基づく
   ←ただし、これだと主観的だとの批判あり。よく似た2種の食性が全然違ったら?
  (2)進化分類学evolutionary taxonomy:進化に基づくが、厳密な単系統を要求しない
   →鳥類を除外した「爬虫類」を許容する。鳥類はトカゲやワニとえらく違うので
   ←これも主観的との批判は成立する
 ・現在は分子生物学の進歩によって、DNAシーケンスデータが豊富にある
  →系統分類がやりやすくなった

【6】遺伝子

・メンデルと分子遺伝学の「遺伝子」は同じものか?
  同じだとするとメンデルは分子遺伝学に還元できるが、「同じ」説は実は不人気

・遺伝子とは?―一言でいうのは実は難しい。1領域1たんぱくとは限らない
 ・たんぱく質をコードする領域を遠くから制御している部分は遺伝子に入るのか問題
 ・選択的スプライシングalternative splicingで同領域から違うたんぱく質ができる
 ・overlapping genesは1領域を複数遺伝子が共有している
 ―それでも日々の研究は問題なく進む。実験の正しさ/概念定義の厳密さの違い

・なぜことさら「情報」というのか?
 ・コードの恣意性:CACという配列がヒスチジンをコードする必然性がない=記号的
 ・遺伝子発現に制御領域や転写因子からの「シグナル」交換が必要(J.M.スミス)
 ・しかし疑問視の向きもある
  ・メタファーにすぎない
  ・ゲノムは自律的ではない(細胞が環境応答し制御している)
  ・エピゲノムの存在(ゲノムだけが次世代に伝わり発生を司るわけではない)

【7】人間の行動、心、文化

・人間は特別か?人間は生物学の言葉で(どこまで)語れるか?
 (1)語れる派:臓器と同じく心も進化の産物
 (2)語れない派:規範や文化はかなりの部分、自然のプロセスから外れている
 ―これらの中間に位置する立場がいくらでもある。解像度の問題も
  eg.つがいを作るのは生物的だが、婚姻慣習は文化特異的だったり
 ―二分法的な問題の立て方自体がおかしいとの指摘も

・氏か育ちかnature/nurture
 ・ビクトリア時代はfeeble-minded(多くは学習障害と思われる)遺伝子が議論に
 ・C.ハーンスタインとR.マレーは黒人のIQが低いとThe Bell Curveで主張(1994)
 ・ヒュームは事実/当為を区分したが、「科学は客観的事実だけ扱う」はナイーブ
  →客観的描写と見えるものや問題設定自体が価値判断を含んでいる
 ・定義が不十分、区切り方がおかしいという批判
  nature:遺伝的という意味だったり、本能的という意味だったり
 ・個体レベルでみると、
  発生・発達においては遺伝/環境要因が相互作用するのが常
  eg.フェニルケトン尿症は変異のある子でも食事療法で正常発達可能
   →この病気は遺伝子によるか環境によるか、という問いがおかしい
 ・集団レベルでみても、
  同じ病因遺伝子を持っていて発症する人/しない人がいる
  違う環境で育った一卵性双生児は……
  先天的=遺伝的かも注意。「2本足」の中にも事故による切断は後天的
  遺伝的に近い→似た環境を経験しやすい、という因果が相関関係に隠れていることも
   →環境要因の貢献度に関する分析を誤らせる恐れがある
 ・生物学はnature/nurture問題を解けない。ただ問題をクリアにするには役立つかも

・社会生物学
 ・1970sの社会生物学の新アプローチ:人間行動や社会構造を進化的視点から
  eg.近親婚禁忌は先天異常のリスクを高め、淘汰圧を受ける E.ウィルソン
   男性同性愛も生殖の点では不利だが進化的意味があるのでは(これは想像)
  →優生学につながるとの批判はあったが、今から見ると批判には政治的動機が強い
  ―ただし「社会科学は生物学に吸収できる」との主張は無理
   (1)社会科学の問いはどちらかというとproximal(←【2】)
   (2)社会生物学は遺伝子と行動を単純に結びつけすぎ(環境要因を看過)
   (3)人間行動はそんなに普遍的でない。状況や文化でかなり変わる

・進化心理学(1980s~)へ
 ・進化学の視点は保持するが、行動ではなく認知・心理に着目
 ・言語処理、顔認識など個別タスクを担当する「メンタル・モジュール」の集合とみる
 ・ただし全面的に適応的ではない。環境変化が早すぎてミスマッチ起こしている部分も
  「石器時代マインド」をひきずった結果が精神疾患かも?
 ・議論も:
  ・性行動や男女差にやけに注目する
  ・エビデンスからはみ出た主張をすることも
  ・適応の視点が実証より先にありすぎるのでは
  ・こういう決定論的な見方にありがちな「自由意思」処理の問題
   eg.男の荒っぽい行動はそいつのせいか、遺伝子のせいか
     ←まあ全面的に遺伝子のせいと考えてる人はいないが

・文化進化
 ・人間集団ごとに極めて違う慣習、それも数千年でできている
  →遺伝的背景からは遊離。ただしダーウィン的進化”類似”のプロセスは想定できる
   「より適応的な文化」の選択(狩猟採集vs農業など)
   多様な環境に合った多様な文化が定着している
 ・文化と生物的基盤の関係
  ・認知機能に依拠しているという意味では依存
  ・進化の起きるスピードが文化のほうが全然早いという違いにおいては独立
  ・進化が水平方向にも起きるという点でも、変異が垂直にしか伝わらない生物と違う
    ←これには「細菌は水平伝播もある」との反証あり
  ・インタラクション(文化と生物の共進化)がある場合も
    eg.牛の家畜化と牛乳の消化酵素
  ・ドーキンスの「ミーム」(複製能を持った文化進化の単位)
    ※面白いが定義があいまいで扱いづらい eg.キリスト教文化は1ミームか多か?
     文化のアトム化への疑問も
    →あまり受け入れられていない
  ・生物との違いは、変異がランダムに起きるわけではないこと
    eg.バイキングの船の形は何も考えず色々作った結果が選択されたのではなかろう
   →むしろラマルク的(後天的な獲得形質が伝播する)では?
   ※ただし、ラマルク拒否はネオダーウィニズムから
    また、エピジェネティクスを考えるとラマルク的な面も
  ・生物と同じく、選択単位(個人か集団か)の問題もある
    規範と違反者への懲罰は、個人よりは集団の利益として進化したと考えるべき

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2020年07月29日 11:10に投稿されたエントリーのページです。

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