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ニコマコス倫理学(下)

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2016年.

浮き世にあって、いつか朽ちる肉体を持った人間が、善とか幸福とかを達成することはできるのか。できるのだ、とアリストテレスは考えたらしい。友達について、愛について、そして快楽について――永遠で普遍的な知識ではない、「だいたいそうなる」という程度の頼りない(?)法則性に満ちた世界の中で考えていく。ところが最後にさらっと「でも観想的生活が最高なんよ」と宣告される、そのショック!

は、おいといて。

下巻でもやっぱり思いましたが、この本はインスピレーションの宝庫です。よくある「これだけ昔によく考えたよね」というだけの感想にはとどまらないものがあります。
例えば「中間性」が徳だという考え方は、遺伝子が必ずブレーキとアクセルの組み合わせで働きながら生体をちょうどいい塩梅に保っていることを思い起こさせますし、さまざまな技能を持った人たちの間で「交換」が実現するためのメディアとして貨幣の存在理由を説明する様子は、『時間の比較社会学』でさまざまな暦を持つ共同体の交流を可能にする共通の時間のものさしを導入した、と考えたネタ元では?と思ったりもします。「公正な分け方」には「応分」と「等分」があらあな、という提案はセンが知らなかったはずはないよね、とも。近年の脳研究の進展で、その存在がどんどんやせ細っている「自由意思」の最後の砦は「欲求に背けること」だと言われるけれども、それがまさに「人柄の徳」の一つである「抑制」ですよね。そしてなにより、19世紀を待つまでもなく、極めてプラグマティックだと思う。

快苦って、友達って、そして国ってなんなんだ、と身の回りのものを切り刻み、分類し、そして別のものとつなげたくなる著者の傾向は、不遜ながら弊管理人も分け持っている気がします。多分そのために最後まで楽しく読んでいけたのだと思う。

以下、自分メモ。

【第6巻】
・超過でも不足でもない「中間性」をもたらす、正しい分別(ロゴス)とは何か。それを検討する
・徳(アレテー)には「人柄の徳」と「知的な徳」があった。人柄は前に述べたので、今回は知的な徳を検討

・その前に、魂について
・魂には、「分別を持つ部分」と、「分別を持たない部分」がある
・分別を持つ部分は、さらに「ほかのあり方を許容しない部分=学問的に知る部分」と「ほかのあり方を許容する部分=信念的な部分、推理して知る部分」がある。それぞれについて最善の性向が何かを把握する必要がある
・選択があって行為が起きる
・選択の始まりには、欲求と、それを実現しようとする分別の働きがある

・魂が真理を把握するのに使う性向には「技術」「学問的知識」「思慮深さ」「知恵」「知性」がある
・「学問的知識(エピステーメー)」は、ほかのあり方を許容しない。必然で永遠。演繹。教え、学ぶことができる
・「知性(ヌース)」は、ほかのあり方を許容する。学問的知識の出発点となる原理にかかわる
・「知恵(ソフィア)」は、「原理」と「原理から導かれた事柄」をどちらも知っていること。完全な学問的知識
・「技術(テクネー)」は、ほかのあり方を許容する物事=「制作」と「行為」のうち、制作にかかわる性向
・「思慮深さ(フロネーシス)」は、善く生きるための、「行為」を目的とする性向。それ自体が一つの徳でもある
・思慮深さは、人間的な事柄にかかわる。普遍だけでなく個別性も認識する

・思慮深さについて
・国(ポリス)にかかわる思慮深さのうち、統括的なもの=立法術、個別的なもの=政治学
・個人あるいは自分にかかわる思慮深さというのもある
・思慮深さと知性は対照的なものである。思慮深さは最終的なもの、知性は原理にかかわる。若者は数学者=知恵のある人にはなれるが、思慮深い人にはなれない。個別的なものは経験から知られるから

・「考え深さ」(思案の力が優れていること)について
・学問的知識ではない。学問的知識は思案を要求しないから
・勘の良さでもない。勘は推論を伴わないから
・判断でもない。判断は現実との対応関係で真偽が確定するが、思案は推理に基づく発見だから
・そこで、考え深さとは、「思考過程の正しさ」「優れた仕方で思案すること」のことではないか?
・思考過程=到達すべきもの、到達すべき仕方、思考にかける時間が適切であること
・考え深さは、思慮深さが設定した目的に到達するために有益な、思案のスタイルのことだと思われる

・「物わかりのよさ」について
・思慮深さに似ているが、違うものである
・思慮深さは「指令的」なもの=何をなすべきかにかかわる。物わかりのよさは単に「判別的」なもの

・「察しのよさ」(グノーメー。洞察、相手の心がわかる力)について
・「物わかりのよさ」とともに自然に身に付くもの。年齢を重ねるにつれてつくもの
・思慮深い人は、察しのよさや物わかりのよさも備えている

・思慮深さと知恵をめぐる、いくつかの難問
・知恵は何が幸せかを教えてくれないのではないか?(知恵の無関係性の難問)
・思慮深さは何で必要なのなのか?(思慮深さの無用性の難問)←すでに善い人には必要ないが、善い人に「なる」ために必要である。でも、健康のためには医者に従えばいいように、自分で習得する必要はないのでは?
・思慮深さは知恵に劣るのに、なぜ思慮深さが知恵を支配するのか?(逆転の難問)

・回答
・「頭のよさ」について
・設定された目標を達成する能力。ただし目標が悪ければ「ずる賢さ」になる
・つまり、頭のよさは、思慮深さの必要条件ではあるが、思慮深さそのものではない
・善い目的は、善い人でなければ見えない。従って、善い人でなければ思慮深い人にはなれない
※ソフィスト批判
・生まれ持った自然の性向に任せず、知性が身に付けば、行為に違いが出てくる
・徳(アレテー)とは、「正しい分別(ロゴス)=思慮深さを伴う性向」といえる
・思慮深さは知恵を支配しない。知恵「のために」指令する(?)

【第7巻】欲望の問題
・忌避すべき人柄として「悪徳」「抑制のなさ」「獣性」がある
・「悪徳」の反対は「徳」、「抑制のなさ」の反対は「抑制」だが、「獣性」の反対は何?
・それは(スパルタ人がよく言うような)「神的な徳」であろう

・「抑制のなさ」について
・「抑制のない人」は、自らの行為が劣悪だと知りながら、感情に引きずられてそれを為す。でも後悔するので、癒やしようはある。「不正」「劣悪」ではあっても、選択に基づいて悪をなす「悪徳」ではない
・「抑制のある人」は、自らの劣悪な欲望を分別(ロゴス)で抑える
※ただし、自らの信念にじっと留まり、説得を受け入れない「頑固者」や、身体的快楽を必要以下にしか感じない人など、一見、抑制のある人に見えてしまう人がいることに注意
・「節制の人」は、過剰な欲望をそもそも抱かない
・「放埒な人」は、目の前の快楽をいつも追究すべきと考えて、選択の上でそうしている。後悔しないので、癒やしがたい。悪徳である
※「快をもたらすものを知っている」と「それを欲望する」と「その通り行動する」ことにギャップがある

・「獣的な性向」について
・獣的な性向は、人肉食、生肉食などのほか、無思慮、臆病、苛立ち…
・病的な性向は、病気、狂気、習慣(幼少期の性的暴行など)から生じるもの。髪を引きちぎる、爪を噛む、男性同性愛、てんかん、分別のない蛮族…
・これらは「抑制」とは関係ない。従って、「悪い」とはいえないが、「恐ろしい」ものではある

・「激情」と「欲望」について
・激情は、分別の声をある程度までは聞くが、聞き間違い。せっかちで最後まで聞かない。猪突猛進
・欲望は、分別に従っていない。不正である
・「企みをする人」はさらに不正である(激情は企んでいない。企む人は獣性より一層悪いことをする)

・快楽主義について
・快楽は悪い/善い快楽と悪い快楽がある/快楽は善いが最高善ではない―という立場がある
・誰しも快楽を追求しているが、みんなが同じ快楽を追求しているわけではない
・子どもや獣の快楽は、欲望と苦痛を伴う身体的な快楽。これが超過すると放埒になる
・思慮深い人は、そういう快楽をめぐる苦痛がないことを追求する
・節制の人は、こういう快楽を避けている(が、節制にふさわしい快楽というのもある)
・逆に、苦痛は限定抜きに避けるべきものである
・高尚な快楽は最高善とみなしうる

【第8巻】愛(フィリア)について
・愛は徳を伴うものである
・友人、親子、動物の中にもある。特に人間という種族の中にある
・愛は国をひとつに結び合わせる。協調も似たもの。立法家はこれを目指し、内乱を避ける
・愛の理由は三つある:(1)善い(2)快い(3)有用である
・友人とは、互いに意識的に好意を持ち、相手の善を願いあう存在
・無生物は愛の対象にならない。愛し返してこないから
・「快い」と「有用」は付帯的な愛である。快さや有用さを提供しなくなれば愛せなくなるから
・完全な愛とは、善い人々の間=徳の点で似ている人々の間に成立する持続的な愛である
・愛は性向に似ている。互いに相手と自分の善を願っている。双務的である。ともに日々を過ごす
・「恋(エロース)」は世話をする人が相手を見る喜びと、世話をされる喜び。双方は似てないし、美がなくなれば消える
・国同士の友好は「有益」だからである
・「優越性に基づく愛」もある。父→息子、年長→年少など。友人のように等分ではなく、比例的な関係
・愛は、愛されることのうちではなく、愛すること=徳のうちにある

・愛は共同性に伴う。ポリスは利益共同体、宗教団体や会食会は快楽の共同体、など
・国家体制/共同性/愛、の類比
(1)王政=最良。これの堕落形態(支配者のための政治)が僭主政/父―息子/優越性に基づく愛
(2)優秀者支配制。これの堕落形態は寡頭制/夫婦関係/徳に基づく愛
(3)財産査定制。これの堕落形態は民主制/兄弟・仲間関係/等しさに基づく愛
・善と快楽に基づく愛は不平を生みにくいが、有用さに基づく愛では生まれる。貪欲さが背景にあるから
・優越性に基づく愛も諍いを招くことがある。財貨や徳を与えられたら名誉をお返しするなどで釣り合わせる必要あり
【第9巻】愛(フィリアについて、続き)
・共同体の愛では、異なった価値の交換のための共通の尺度として「通貨」が使われる
・不平は「これをこれだけ与えた」と「これがこれだけ欲しかった」の齟齬から生じる
・お返しは、できるだけのものでやればよいが、得る側にその査定権があると考えてよかろう

・有用性や快楽に基づいた愛は、有用性や快楽がなくなると消滅する
・善に基づいた愛は、相手が不良になったら即解消とはいかず、善に転じるよう援助すべきである
・それでも救済できない時に、人は離れていく

・「友人関係」は「自分自身への愛(自己愛)」でもある
・友人には、(1)善(2)生存(3)同じ価値観を持つこと(4)苦楽をともにすること、のどれかが望まれる
・高潔な人(=欲望を知性で制御できる人)の場合、これは自分自身に望むことでもある
・逆に、劣悪な人は愛される要素を持っていないので、自分さえ愛することができない
・「好意」は愛そのものではなく、愛より時間的に手前に位置する
・見た目=一目惚れでも好意は抱くが、好意の交換という正義を欠いているから
・「協和」も愛の特徴に見える。共通の善と思われること、方針を選択して事をなすこと(国単位でも)
・高潔な人同士は共通の土台を持ち、協和できる。劣悪な人は自分だけが多く取ろうとしてできない
・愛は自分や相手の存在と、それが行動を通じて生み出したものが対象になる

・では、幸福な人に友人は必要か?
・答:優れた友人が必要。友人は外的な善の中で最大のもので、自分が為す善の受け取り先である
・また、善い人が、その友人である善い人を知覚することは自然本性的に望ましい(し、自分を省みるより、自分の映し鏡としての友人を見るほうがやりやすい)
・ともに生きることで、徳の鍛錬にもなる
・その数は少数でよい。そんなに多くの人と親密になることはできない(「へつらい」に堕する危険)

【第10巻】
・快楽論
・人も動物も快を選択し苦を避けるが、では快楽は善だろうか?―従来説の検討
・快楽は悪である苦痛の反対なので善という考え方がある→快楽「も」悪かもよ?そもそもこれらはセットなのか?
・快楽はそれ以上の理由(~のための快楽)にはならないので善という考え方もある
・快楽は善を増幅させる(善の一種である)という考えもある→快楽は最高善ではない
・→善から不良まで、ソースに応じたいろんな種類の快楽がある

・アリストテレス自身の快楽論
・快楽は運動や生成といった「完成までの過程を持つもの」ではなく、「その瞬間に完成するもの、それ自身が全体であるようなもの」である
・知覚の働きは対象に向かう活動で、最善の対象が完全なものとなる。その時が最も快い
・快楽はこうした活動を「完成させるもの」(活動のしめくくりに感じられる付随物)である

・もろもろの快楽は種類が異なる。知覚の活動も、その原因も多様で、それと結びついているから
・快楽は別の快楽に影響を受けやすい(演劇を見ていても役者が下手だと食うほうに集中してしまう)
・活動に応じて、高潔な快楽と劣悪な快楽がある。人によっても受け取り方が違う
・が、優れた人に快楽と感じられるものは実際に快楽であるといってよい
・つまり、完全で至福な人の活動で生まれるものが、人間の持つべき快楽である
・これで徳、愛、快楽についてはおしまい

・幸福論の概略
・幸福は性向ではない(第1巻5章、8章)
・幸福はそれ自体で自足した(他への踏み台にならないような)活動であり、人生の目的である
・幸福は、徳に基づく行為といえる
・権力者の「遊び」もそういうものに見えるが、権力者をまねする必要はない。要は高潔かどうかだ
・ということで、遊びは幸福でなく、休息に似たものである

・最も善い活動=幸福とは、「観想的な活動」(理論的に考える活動=知恵の徳に基づく活動=哲学)である
善いポイント。
(1)知性はわれわれに内在するもののうち最善のもので、知性が思考の対象にするものは最善の認識対象だから
(2)この活動は最も持続的だから
(3)最も快いから
(4)一人でも資源がなくてもできるから
(5)別の目的に奉仕するものではないという幸福の条件を満たしているから
(6)戦争とか政治とかのための忙しい諸活動で得た「余暇」で行う余裕のある活動だから
・この活動は人間的な懸案を超えた神的な部分を宿しているので、日常生活より優れている

・そのほかの徳に基づく生活は人間的で、二次的なものである
・それは人柄の徳=身体や感情に基づいた徳。一方、知性の徳は身体から切り離される
・完全な幸福=観想的な活動=神的。なぜなら神は行為も制作もせず、観想するものだから
・人は神の似像を宿しうる。ゆえに知恵ある人は、神に最も愛される
・ただ同時に、肉体を持っているので「外的な善」も必要とする

・善き人はどうやってできるか?自然?習慣?教示?
→あらかじめ習慣で素地を作ってある人こそ、教示や言葉(ロゴス)が根付く
→若いうちにそういう素養をつけるには、法による縛りが必要。大人にも実践させる法が必要
・法は(公共的な)ロゴスであるので、強制力を持っている
・公共的な配慮の形成には、普遍的な知識が必要。これがあって初めて個別の問題を解決できる
・善き人を作るには立法の知識が必要。ではどうやったらよい法が作れるのか?
→といって『政治学』に続く……

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2016年03月26日 19:30に投稿されたエントリーのページです。

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