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オリエンタリズム

■サイード, E. W.『オリエンタリズム(上・下)』(今沢紀子訳)平凡社, 1993年.

学生時代に「読まなきゃ」と思って買ったのが20年近く(!!!)前。
会社に入ったころ、宿直勤務のときに読めるかなと思って職場に置いていたものの、そんなはずもなく、諸先輩方から「難しい本読んでんな」とからかわれて、本書は自宅に引きこもったのでありました。今般読み始めたのには特にきっかけはないのですが。
1978年の原著出版からだいぶ時間が経って、日本語訳が1986年。そんで平凡社ライブラリーになったのが1993年。そこからさらに四半世紀。その間に著者も亡くなってしまい、挑発の書もいつしか古典に叙せられて、なんというか悪い意味じゃなくて、古くなった感じがしました。

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「オリエンタリズム」は、狭義にはアジア(本書の主要な関心である中近東のほか、インド、中国、日本など)に関するヨーロッパ発祥の研究分野――人類学、社会学、歴史学、文献学などを動員した「地域研究」と呼ばれる学際領域に近いかもしれない――を指すが、もっと広い意味では「東洋(オリエント)」と「西洋(オクシデント)」の区別に基づく思考様式のことだといえる。オリエントを理解し、侵入し、支配し、教え導くための西洋の「知の様式(スタイル)」ということもできる。

オリエントの文献を渉猟し、オリエントを訪れ、学会で活動し、あるいは植民地官僚として奉職し、オリエントを解釈し、書き残すことによって、言説は不断に維持され、解像度を高め、強固さを増す。言語学者、官僚、軍人だけでなく、芸術家や文学者もまた政治の端くれとして、言説の再生産を担っていくのだ。

神秘のオリエント、深遠なオリエント、論理に馴染まず、永遠に発展せず、生殖力の強いオリエント。「われわれ西洋」と「かれら東洋」が分かたれ、「劣った東洋」との対比によって「優れた西洋」の自画像が立ち上がる。外側に出ることは困難だ。「現場を踏む」ということが、オリエントを内在的に理解することを保証せず、むしろステレオタイプを強化する契機になる。そういう困難さがある。

ではオリエントは自ら語るのだろうか?語ることはできない。言説の渦を回し続けるのは西洋であって、そこにオリエントが関与し、内容に承認を与えることはない。せいぜいインフォーマント扱いされるくらいだろうか。「自らを表象できないオリエントのために、西洋はやむを得ず表象という仕事をしている」、そんな使命感の下に。
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まとめるとこんな具合で、そのあたりは序説にさくっと書いてあり、あとは膨大な資料に当たりながら、14世紀から現代までのオリエンタリズムの変遷を辿るという構成です。全編面白く読んだかというとそうでもないんだけど、長い間本棚からじっとりと弊管理人を睨めていた未読の作品をやっとやっつけたので、まあいいか。

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2017年02月10日 20:19に投稿されたエントリーのページです。

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