■デイヴィッド・オレル『明日をどこまで計算できるか?―「予測する科学」の歴史と可能性』早川書房、2010年。
Orrell, D., Apollo's Arrow: The Science of Prediction and the Future of Everything, HarperCollins, 2007.
いやしくも科学を標榜するなら、予測をしてみせて下さい。
学生のころ、連想ゲームみたいに言葉を接ぎながら文学や世界を読み解いてみせる人文・社会科学系の授業を受けつつ、そう心の中で毒づいていました。
そんなことだから、本屋でこの本をタイトル買いする羽目になったのも当然です。
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神殿で賜る神の言葉、ピュタゴラスの数学、天体の運行の計算。
そもそも人間はその最初期から明日のことを知りたいと思っていたはずです。作物のこと、運命のこと。
拠って立つ方法論はいろいろですが、その営みは景気循環を、感染爆発を、そして気候変動を知ろうとする今日までずっと続いています。つまり、それは今に至るまで成功していない。長期的な予測をしようと思っても、ゲタを投げるのと当たり外れは変わらなかった。
すべては自然の法則に従っているはずだから、それを見つければ未来を完全に記述できるはずでした。しかし、数学と観測を不断にブラッシュアップしても、モデルが不完全だったり観測が不完全だったりするせいで目的が達成できない。そのうち、未来を完全に記述することがそもそも不可能であることさえ判明してしまう。経済も遺伝子も天気も、機械ではなく不確定性をはらんだ複雑な存在=いきもの。挑戦と敗北の3000年史。
では科学は無駄なのでしょうか、希望はないのでしょうか。
歯切れの悪い回答ですが、完全な楽観も悲観もするべきではない。科学は現状を分析することができる。そして現実に模したある条件を設定して、結果を予測することはできる。さらにおそらく何が分かり、何が分からないかも知ることができる。武器はそれでいい。それを研ぎ澄ましながら不確定性に切り込んでいく、それが人間が人間としてできる営みであり、自由の淵源でもあるのでしょう。
(著者は1962年生まれ、オックスフォード大で数学の博士号取得。カナダ在住の数学者、サイエンスライター)