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社会契約論

■重田園江『社会契約論』筑摩書房、2013年。

ある初期値(自然状態)とルール(人間本性)を定め、ゲームスタートで一丁上がり。社会はいかにして可能か、という疑問にこうして答える、社会契約論のイメージってそんなものでした。
そしてできあがったものが望ましいものだと、どうして言えるのかもよくわからなかった。混沌から秩序への相転移や、事実から価値を引き出すところに何か飛躍があるようで気持ち悪かったのかもしれません。契約がいつ起こるかも論者によってずいぶん違ってたりするし。

で、この本。

(1)際限のない欲望を持ち(2)恐怖や苦痛を嫌う、という単純な性質を持った個人を地上にばらまき、よーいドンしたあとの運動と凝集を描いたホッブズ。社会形成の原点から神様の力を排除したこと、人間の本質を相当しょうもないものと置いてシミュレーションをスタートすることでその結果における一般性を確保しようという発想で、新しい展望を開いた。

ところが、「始まりの契約なんて、どこ見てもなかっただろ」と身も蓋もないツッコミをヒュームが入れる。始まりにあったのは力で他人をねじ伏せる、力でねじ伏せられるという関係であって契約ではない。そうやって闘争状態が止んだ状態にあって、人が秩序を保つルールを受け入れるのは、それが便利だということに試行錯誤の中で気付いたからだ。それが累積し、拡大していく。拡大していくとシステマティックに秩序を維持できる仕組み=政府が必要とされる。どうしようもない政府だとその目的に適わないので転覆することもあるが、まあだいたいは惰性で存続する、そのおかげで経済活動の持続性が担保され、豊かにだってなれるわけだ。

潔癖なルソーは、この地に足が着いた、というかちょっと現状追認的でおおらかな感じもするヒュームが肌に合わない。といってホッブズのように「惨めな闘争状態が続くよりは国家があったほうがいいだろ、我慢しろ」といって国家が人々を軽んじる可能性に目をつぶる姿勢にも満足しなかった。「どうなっているか」から「どうあるべきか」のほうへ心を寄せ、「正しい国家」の原理を考えた。自らを一般意志に委ねる社会契約によって堕落や腐敗や不平等を脱し、各人が守られながら、しかし自由であるような状態、それを実現すること。しかしその一般意志というのが分かりにくい。

一般意志の一般性というのがどんなものかを、明瞭に示して見せたのがロールズだという。一人ひとりが違っている、そんな多様性を孕んだ人間集団が最低限納得できるルールを見出すために「無知のヴェール」という装置を発明した。
ある社会の中で生きる任意の人を拉致して魔法のヴェールをかぶせ、自らの属性や立場に関する情報を見えなくしてしまう。ポジショントークを不可能にするこの仕組みが、人を一般的な視点に立たせることになる。その上で、当該社会を見渡した上でどんなルールが望ましいかを選ばせ、ヴェールを外してふたたび社会の中へ帰すのだ。
おそらく無知のヴェールをかぶった人は、自分が実は金持ちであっても貧乏人であっても、男であっても女であっても、つまりその社会に生きる誰であったとしても著しくひどい目には遭わないような原理を選ぶだろう。それは合理的に考えれば(1)できるだけの自由を各人が確保しつつ(2)最も恵まれない人の境遇を改善するような傾向と機会均等が保証される限りで不平等を許容する、というものに自然となるはずだ。

乱暴な要約だけど、とにかく、まあそんな感じに読んだ。

その上で、弊管理人はこの本でわりと踏み台扱いされたヒューム(っぽい考え方)もそう悪くないなと思っている。
それぞれ違った自分や他人の誰もが違いを持ったまま尊重される、そういう多様性を前提にした「よい社会」の姿からすると、自分に近い者により強く感情移入する、という人の性質をベースにするヒュームは同質性という真反対のものを前提にした社会構想をやっているように見えるかもしれない。
でも、誰だって「私の視点」と「私の経験」を元手にするしかないんじゃないか(ローティを念頭に置いている)。ミソは、いかに多様な人とつきあい、遠くまで出掛けて、共感の能力と範囲を拡大していけるかだ。(共感の意味は「他人の気持ちが分かる」より広くとっていいと思っている。他人の感じ方を知るのは原理的に不可能だから。他人に触発されて自分の心に何かのイベントが起きれば、それを共感に含めてしまっていいんではないか)
ロールズが行き方を教えてくれた「一般的な視点」に立ったとき、そこから見える風景は恐らく、誰かがほいっと一式与えてくれるものではない。どこまで遠く広く見えるか・どれだけ多くのものを見過ごさずに見られるかは、蓄積された経験の量と多様さに依存すると思う。ルソーやロールズが設定した高邁なゴールに到達するには、案外ヒューム式に歩いていくことが必要かもしれない。フィリピンのスモーキー・マウンテンを旅し、そこでの凄絶な生活を目の当たりにした経験が「よい社会」の構想を駆動しているらしい著者のあとがきを読んで、そんなことを思った。

心のこもったいい本っす。面白かった。
カバーに載ってる著者近影が「人造人間」という字のプリントされたシャツを着ている。
ホッブズがartificial manと形容したリヴァイアサンの化身か……

* * *

全然話は変わりますが、このところ中央線で神田→お茶の水の移動をすることがよくあって、途中の高架を通過するたびに目の高さを通り過ぎていくガラス張りの変なカフェはなんだろうと思っていました。
これだった。1912-43年に存在した中央線万世橋駅の遺構!
本日探検。1階はちっちゃい雑貨屋や飲食店がいっぱい並ぶ空間。
131128mansei1.jpg
2階に上がると……
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自分の立ってる高さを中央線が通り過ぎていきます。(写真は神田方面に向いて撮った)
131128mansei2.jpg
このスペースの反対側(つまりお茶の水側)に、電車から見えていたカフェがありました。
露天の席もあって気持ちよさそう。
無印良品のをアレンジしたようなカレーを食って、すたこら仕事に行きましたとさ。

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2013年11月28日 23:59に投稿されたエントリーのページです。

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