■金森修、中島秀人(編)『科学論の現在』勁草書房、2002年。
学際研究は、オリジナルな方法を求めて深く潜っていこうとしてもあまりスリリングなことになることはなくて(なぜならそれは学際じゃなくて学の仕事だから)、借りてきた方法を道具としてうまく利用し、モノやコトへのオリジナルな着眼を軸にして、人をエッと言わせるストーリーを織り上げるところに面白さがあるのではないかと思います。
しかし一方で、ルポルタージュの海に漕ぎ出す前に、ざっと船(道具)のしつらえを見ておくことも必要。艤装を終えて、港にぷかぷか浮いてる船。この本はそんなあたりの位置にあるのかなと。
科学は、他者として近づいて眺めてるとなかなか面白い。ノーベル賞はわりと予想を当ててる人がいたり、ストックホルムでシンポジウムやるなど大学挙げてプロモーションやってるところがあったり、昔の受賞者が「あいつにはやるな」とか言ってると有力者でも受賞が遠のいたり、受賞有力という情報が駆け巡ると他の賞の受賞が増えてきたり、受賞者が受賞業績以外でもご意見番になっちゃったりする。ガラスの殻に入ったニュータイプの炭疽菌が出た-!と9.11のあと大騒ぎになったものの、10年もしてから「実験室で使ってる混ざりもののない素材で培養してるとガラスの殻は出てこないが、もうちょっと清潔度の低い環境でやるとケイ素を取り込んでガラスの殻を作るみたいです、テヘ」みたいな種明かしがあったりする。政府系研究所の事業仕分けでは「役員これだけ減らします、システム効率化します、研究成果が新聞何紙に載りました」で生き残れる、みたいな〈型〉が形成される。審議会は御用のひとと市民感覚代表のジャーナリストとガス抜き用の反対派を入れて中立寄りの委員長を立てておくとうまく正当性を調達できる。そして、おもちゃのカンヅメ・原発事故。
科学のアゴラでは、思想と社会と政治がドーブツとしての人間の中で混ざり合う。わくわくする。2002年の「科学論の現在」から9年経って、今の「科学論の現在」はどうなってんすかね。大学の講座とかあんまり多くないみたいですが、おもろい成果いっぱい出して元気でいつづけてほしいと願うのであります。