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帝国的ナショナリズム

■大澤真幸『帝国的ナショナリズム』青土社、2004年。

短期間でも外国で暮らすといろんな刺激を受けるもので、研究者に限らずそれが文章を書く動機になるというのはすごくよくわかる。小熊英二さんの『インド日記』もこの本も(筆者は1998~99年に米国滞在)そうだけど、体験に突き動かされて書かれた文章は、荒削りでも迫ってくるものがありますね。

ええまあ荒削りな選集なのでこの本だけ読むとオカルトですが、これで興味持ったら『ナショナリズムの由来』と「自由の条件」(「群像」連載、単行本化もする気らしい)読んで下さいね、っておっしゃってるのでオカルト批判は読んでからやりましょう。(自分は『ナショナリズム~』が大冊すぎるのでこちらを先に手に取ったクチ)

まず読むべきなのはIV部をその一本だけで構成している書き下ろしの表題作。「アメリカが世界の警察をやりつつ自分勝手なのはなぜか?」を考えた作品です。
形式的にはこんな感じ:
(1)ナショナリズム(ネーションAの確立)
→行き着く先としての(2)帝国主義(宗主国Aに、ローカルなa、b、cが従属している)
→その否定(というか総合)としての(3)帝国的ナショナリズム(多文化主義Xに、A,B,C,a,b,cが従属している……ことになっているのに、実はAがXを体現しているふりをしている。その一方で、A,B,C,a,b,cはXのもとでそれぞれ自分の特殊性に執着することを許されている)

つまり、↑の(3)でいう、ユニバーサルを気取っているローカルAこそがアメリカ。
そして(3)にあるように多文化主義のもとで各国が固有の価値を求めた結果が、冷戦(=帝国主義)後に噴き上がったナショナリズムであり、さらにいえば90年代に日本で急に盛り上がった「Jナントカ」もその一部であり、「和」とか「邦」ではなく「J」という普遍的な記号を用いているところからも、それが従属国・日本における帝国的ナショナリズムの現れといえるんじゃないすか、というお話。

折しも米国売りの昨今ですが、今後の「宗主国」はどうなるんでしょうね。

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2008年03月15日 16:31に投稿されたエントリーのページです。

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