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「当たり前」の断章

先日、いつもお世話になりっぱなしの仕事先のおとーさん(49)と行きつけの飲み屋でいつものように談笑していた。
芥川龍之介の話になり、遺書にあった「将来に対する唯ぼんやりした不安」に触れたとき、おとーさんは「将来に不安のねえ奴ぁいねえだろ」と笑った。

おとーさんは会社をやっていて順調で、人脈もものすごく広くて何でも知っている。不安とかとは無縁の人のように見えていたけれど、そんな人にとってもやはり将来は安定したものでもくっきり見通せるものでもない。なにか自分の頭の中の重石が一部ぼろっと欠けたような気がした。

思えば誰にとっても未来は不安定というか不確定で、永遠に潰れない会社や永遠に斜陽にならない産業や永遠に失業しない夫というのは仮構に過ぎない。考えてみれば当たり前のことで、さらにいえば口に出すほどのこともない当たり前のことだ。しかしあえて口に出すことによって聞く者に銃弾を撃ち込むことがある。先日の飲み屋では「自分の不安」が相対化されるプラスのインパクト。しかしTPOによっては「つまり安心などどこにもないのだ」というニヒリズムに突き落とす言葉だったかもしれない。

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わかりきったことをあえて言葉にすることで与えられるインパクトというのがある。言葉の意味ではなく、言葉の持つ「押し」の力の領域での出来事だ。

好き同士で既に関係に入っている間柄でもあえて「好きです」と伝える言葉の押しの力は、やはり随時供給するべきものだと思う。「ありがとう」もそう。「常にありがとうと思ってます」と最初に一度だけ言うのと、「ありがとう」をどんどこ供給するのでは、意味価は同じでも押しの力が違う。そこを分かっておかないといけないと思う。

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「言わないでも分かり合える関係が理想です」という考えはあるだろう。けれども自分は言葉に表されないものを酌む能力が低いせいか、あるいは言葉に表されないものに対する信頼が薄いせいか、そういう考えには与しない/できない。

コドモが家族に求めるような「自分を読み取ってほしい欲求」をオトナになって引きずるのは甘いと思うのだけれど、どうだろうか。ま、自分がそういう甘さから抜けられているかどうかは、怪しいのだけれど。(そしてたまには甘えたっていいとも思うけれど)

コメント (2)

e-com:

前半の「自分だけじゃないのか!」っていう話と
後半の対他関係のダブルコンティンジェンシーの話は、
言葉のインパクトの文脈が相当違うような気もするのだけど。

「オトナになる」(という言い方のナイーブさは置いといて)とは、
漠然とした不安を解消することではなく、
それと折り合いつきあっていけるようになることなのかな
と思っとります。
漠然とした不安を、自分の「全体」や「根幹」を脅かすかのような
大味の感覚に回収させないというか。
漠然とした不安のうち、具体的な問題に落とせるところは落とす
みたいな。「不惑」ってそういうもんなんかなーって。
芥川さんはオトナへの橋を最後の最後で渡りきれなかったんだろうなと。

管理人:

そうそ、3つのパートはつながってないから「断章」なの。

不安を解毒するプロセスという点では宗教とオトナ化は似てるかもしんないね。一方で、説明をつけるか(宗教)別のことにかまけて紛らせるか(オトナ化)が相違点かなと思う。

そういや不安とはそもそも漠然としたものをいうんだ(≠不満)、って島田裕巳さんが新書で書いてただすな。

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2008年03月08日 00:24に投稿されたエントリーのページです。

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