■サラ・サリー(竹村和子他訳)『ジュディス・バトラー』青土社、2005年。
↑この著者名読むと「さはさりながら」っていう言葉が浮かぶんですけど。
性役割のように社会的に構成されていると理解しやすいものから、性別という厳然とした事実に思われるものまで、アイデンティティは言葉によって不断に形づくられている。言葉によって名付け、名指し、定義づけ、理解し、その理解を使って新しい理解を生み出す。そうした運動には始まりも終わりもなく、それを主導する特定の人物というのもいない。
海面に、潮の流れの加減でできている渦を発見することがある。渦は不断の流れの中で、たまたまある時、それと分かる形を取っており、次の瞬間には形を変え、いつの間にか消える。その渦も渦の周囲も同じく水でできており、互いに影響しあっている。渦を発生させる原因はどの一つの水分子にも帰することができない。そんなイメージを思い浮かべながら読んだ。
アイデンティティは厳然としていて、不変で、首尾一貫した実在なのではなくて、海水=言葉が作用する「過程」であること、その言葉の位置づけは使われていくうちに変わりうること、ある言葉を発するという行為が及ぼす影響もいつも同じでないこと、言葉が指す対象さえも偶々揺らぐことがあると分かってくる。
それなら今度は、誰かを罵り、不本意なカテゴリーに閉じ込めるような言葉の使われ方に対して、何らかの力を意図的にかけたり、罵られる側がそれをハックしたりすることによって、そうした暴力性を固定していた鎖を外せる可能性があるのではないか。
「(侮辱の意図をもって)おまえレズビアンか」
「そうだ!(ドヤ顔)」
「」
そんなやりとりを本の中では紹介しているが、もっと情報量が豊かでイメージをふくらませやすい一例は12年ちょっと前の「伝説のオカマ」東郷健の記事(それに続いて「『伝説のオカマ』は差別か」論争というのもあった)ではないかと思う。
言葉の意味、属性、主体といったものを流動化させ、そこに人を抑圧する仕組みの転覆や解体のきっかけを見出す。この戦略は、場面場面に適用するには少し研磨が必要なものの、十分に使えると思う(論じている人がどこまで実践的な意図を持っているかは知らないが)。
その上でいくつか、ほんとにざっと、思いつくままに。
(1)オカマとかレズとかの言葉が、解放目的にであっても使い込まれて本質っぽくならないような不断の注意が必要そう。また、ある言葉を「弱い側」が占有してよいのかどうか(「ノンケはオカマという言葉を使ってはいけない」という言葉狩りが許されるか)。同時に、「寝た子を起こす言葉」に化け、ある程度以上の解放が進まない(腫れ物として固定化する)という懸念。
(2)「強者」とされた側が同じ論法を利用する可能性。というよりこういう闘争は不可避よね。
「(侮辱の意図をもって)いいご身分ですね」
「おかげさまで!(ドヤ顔)」
「」
(3)そもそも「(ドヤ顔)」が何らかの効力を持つような道徳的素養を持った人にしか、この戦術は通じない気もする(もっともこういう悩みも、ある程度豊かな集団の中でないと前面に出てきにくそうだなとも思う)。そういうレベル高めの人に届けばいいんだという考え方はあるかもしれないけど、それだとレベル高めの人=抑圧を主導する主体、という虚構の図式を作り出してしまいはしないかな。
(4)フロイトからいろいろ借りているっぽいですが、個人的には、「お前には分からないが、私には分かる。お前の心の中はこうなっているのである」みたいな検証不能の読解を押しつけてくる、内心をめぐるカルト、といっては言葉が悪いですが、あまりその辺に近づきたくない気分です。
(5)罵倒の言葉に対して「(ドヤ顔)」で切り返せるほどエネルギッシュではない人に、救いはないのだろうか。切り返すこともできないくらい弱い人を、切り返すパワーや発言力や立場のある「おしあわせな人」が代弁することが本当にできるのか。→と思うとだんだんスピヴァクに興味が向いていくのですが、すぐには手を付けないかもしれません。
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■糸山浩司他『宇宙と素粒子のなりたち』京都大学学術出版会、2013年。
むずい。まじでこんな内容で市民講演会やったの?と思った。
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サントリーホールで、京都市交響楽団(広上淳一指揮)の公演を聴いてきました。
ニコライ・ルガンスキーがピアノソロを務める、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。
1階席6列19番の席だと、こう見えます。かなり近い。
いい席でした。いい席だったけど、手をちゃんと見たいと思うと、もう5~6列後ろがよかったかも。ピアノの演目の場合、12~15列17~19番あたりが至適かと思いました。
この切符を取ったあと、著作権切れ(確か2004年)より前に3900円も出して買ったまま放置していたブージー・アンド・ホークスの楽譜を使い、予習として、ゆっくりならなんとか一通り弾けるように練習していました。ので、もう今日は気分はルガンスキー(笑)。いつも聴いてるピアノ協奏曲全曲録音がルガンスキーのものだったので、いちど生で聴きたかったのです。技巧派というイメージはそのままでしたが、意外と演歌な歌い方をする方かなという発見も。あと、でかい。広上さんが小さいので余計に際立つのか。
そのあとはマーラーの「巨人」で広上さん相変わらずのぴょんぴょん熱演ぶりを堪能。
隣の知らないおじさんとともに頭の上で拍手しました。なんかコージーでいい演奏会だったっす。
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コンサートに合わせたわけではないのですが、飲み友に勧められて、タマーシュ・ヴァーシャーリというピアニストがグラモフォンで録音したラフコン全曲のCDを中古で買いました。感想:いい。自由。
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先週のお仕事は、あまりハッピーではないお話で忙しかった。
体の調子を戻すのに土日かけてしまいました。
昼飯はサブウェイのサンドイッチだったので、夜はがつんと新小岩「ウッチーズ」でハンバーグ250gと大ライスをぺろり。