« 石その後 | メイン | 猿島 »

じんるいがく(7)

通勤電車での細切れで時事的な読書と並行して走っている、「うちでメモをとりながら最近の教科書も読もうぜ」トラックでは、平日夜や休日の「ちょっと読んでは怠け、またちょっと読み」が細々と続いています。何のためにやっているのかは弊管理人としても全くもって不明ですけど。

宗教や儀礼を扱った章になると、がぜん記述が生き生きした印象です。この辺が文化人類学の本領だよねって弊管理人が(特に根拠なく)思っているからでしょうか。
抽象的なシンボルでこそ多様なものが統合できる、というくだりは改めて「そうねそうね」と思った。

* * *
13. Production, Nature and Technology

▽人間と自然の間の交換
・人間の生活と環境の間に相互関係があるという考え方は古代ギリシアから存在
・モンテスキューは、ヨーロッパで科学技術が発達したのは厳しい環境下で生存するためと考えた
・ハンチントン(1945)は雨の日と図書館利用の相関など、「気象決定論」を提唱
  =日照が多いと知的追求が少ない!今日でも「アフリカ人がエンジンを発明しなかった」ことの説明に
・一方、ダーウィンは「自然の中で生きている人でも生存のため十分知的である必要がある」と論じた
・もちろん決定論への反駁は容易。同じ気候でも違った発展をした地域はある

▽システム論と生態学
・生態学は生命科学の一部として発展したが、他分野にも波及した
  1920年代・Parkの「都市生態学」、サイバネティクス、システム理論
・ベイトソンの中心的な考え方は、同じ原理で多様なシステムが作動するということ
  イルカの意思疎通、統合失調症、進化などには共通のパターンがある
・システムの動的・連続的変化が、分類学的な説明に代わる人類学理論になるとの期待あり
  ただし、権力や志向性の説明がうまくできていないとの批判も
・生物学的な説明は、あくまで「メタファー」として使う必要がある

▽文化生態学
・2000年代末から「気候変動の人類学」が注目されるまで、文化生態学は米国の十八番だった
  例)1950~60年代のStewardやWhite
  英国は組織、フランスは認知や象徴に重点
・文化生態学の源流はダーウィン(やマルクス)
  文化は自足的に生成するというボアズ的相対主義とは全く違ったアプローチ
・ホワイト(1949)は、環境から与えられるエネルギーが社会発展を決めるとの主張
  ただし、ホワイトは文化を自律的な領域だと見ていたことにも注意
・スチュワードはマルクスと違って、生産関係だけが決定要因だとは見なかった
  家族から国家まで、さまざまな物質的要因が統合に関与していると主張
  さらに、文化的な「コア」と「それ以外」の区別も導入した

▽文化生態学とマルクス主義
・マルクス:手回し式の粉ひき→封建領主主導の社会、蒸気式→資本家の社会を創出
  熱帯サバンナ→農耕社会、熱帯雨林→狩猟採集 という文化生態学に通じる
・違いは歴史の動因:マルクス主義が階級闘争に注目、文化生態学は適応や技術に注目
・マルサスの人口論(生産は足し算で、人口は級数的に増える)への批判:イノベーションの無視
  →人口過密の日本、インドでの「緑の革命」を見よ
  →ただし天井もあるようだ(マルクスにとっては自然資源は無限だった)
・ただし、これら生態学的な見方は、意思や制度、規範を軽視しがちなことに注意
・また、こうしたグランドセオリーは文化・社会過程を「客観的要素」の従属変数と見てしまう
  →さまざまな要素の相互干渉を見落とす危険性あり
  スプーンで掘り出すべきものをブルドーザーでやっちゃうようなもの
・自然科学のボキャブラリーを借用することの危険性も
  もちろん人間も自然法則に従うが、その法則に対する人の反省、分類、理論化などは表現できるか?

▽ウェット/ドライな環境
・ギアツ(1972)によるバリ(湿潤)とモロッコ(乾燥)の比較
  作物の違い:米/オリーブ
    →組織の違い:灌漑や水路の管理組織subaks/水をめぐる競争
      →集団主義的/個人主義的?
    *決定論にいかないよう注意。社会や文化は結果であるだけでなく、原因の一部も構成する
・Fulaniの社会では地力→飼える家畜の数が人間集団の数を規定

▽環境の人為的変更
・社会は単に環境から影響を受けているだけではない。環境に働きかけてもいる
  ・アラビア半島の大部分では前千年紀の間に大規模な砂漠化を起こしている
  ・今日ではアラビア半島のような地域的改変ではなく、地球温暖化が問題に
・環境が不変なら、「人口」と「技術」の変化が環境に影響を与える2大要因である

・完新世(12000年前の最後の氷期後から現在まで)の後の新たな時代を名付ける
  →Anthropocene(人新世)。産業革命からの200年。人間活動による地球温暖化が特徴
  提唱したのはCrutzenとStoermer(2000)
・海面上昇による移住がアラスカやニューギニアなど各地で発生
・2004年にはイヌイットの団体が被害に関する法的救済を申し立て

▽技術
・人類学者が技術に関して陥りがちな二つの落とし穴(Pfaffenberger)
  (1)社会組織を考えるにあたって些細なこととして看過してしまう
  (2)技術決定論。社会や文化を決定づけるほど重要だと思ってしまう
    例)灌漑が集権的な政治体制を作るというWittfogelの「東洋的専制論」
  →社会関係とテクノロジーは相互形成する
・ラトゥールのANTでは、ネットワークは人間と、人間でないものactantをともに含む

▽生産の形態
・狩猟採集/園芸horticulturalists/農業agriculturalists/牧畜pastoralists/
  農場労働peasants/工業社会industrial societies(/情報社会information society
・資本主義
  ウォーラーステインの世界システム論:中心←半周縁←周縁の依存関係
  ↑マルクスの「従属理論」
  南北問題
・インフォーマルセクター(Hart, 1973)

14. Religion and Ritual

・19世紀までの学界は、宗教religionと異教paganism、迷信superstitionを区別していた
  異教は非キリスト教、迷信は科学、権威づけられた宗教、常識以外の領域
  →イスラムやアフリカの祖先信仰は異教、トロブリアンド諸島の呪術は迷信となる
・今日の人類学では、これらは「宗教」と「知識(行動を誘発するもの)」に整理される
  ただしこの区別も疑問に付されうる
・宗教の定義はまだ定まってないという人が多い
・Tylorの定義が最も古いものの一つで「超自然的なものを信じること」
  →自然と超自然は自明か?祖先の霊は?誰が決める?
・デュルケームに従うと、「世俗」と「神聖」を分けて、宗教は後者に属するものになる
  未開社会では、社会統合の機能を持つ
  「社会がその社会そのものを崇拝する」
  →ただし、宗教の多様さを説明する力はない
・ギアツ(1973)の定義では
  ・象徴の体系であって
  ・人の中に強く、持続的な気分や動機を持たせ
  ・存在に関する一般的な秩序の概念を形成し
  ・その概念に現実味をまとわせるようなもの
  =社会的な機能ではなく、個人の中で世界をどう意味づけるかに注目する
・ギアツにとっては、宗教は
  世界のモデル(存在論的な意義)と、行動のモデル(倫理的な意義)を提供する
  →エヴァンス=プリチャードのヌアー研究(1956)にも反映、現在も影響大
・WhitehouseやAtranの認知・進化学アプローチでは、心の進化の中で構築されたものとみる
  宗教を「理解」するだけでなく「説明」しようとうする
・他には、宗教は社会組織の乗り物ではないかという考え方も
  (→16-18章、アイデンティティの政治絡みで)

▽語られる/書かれる宗教
・書かれる宗教:
  聖典を持ち(1個だとコーラン、集合だと聖書)、その内容を信者が共有
  内容は文化的な文脈によらない
  世界に拡散することができる
  ただし、ヒンドゥー教や仏教は一神教と違って固定的な度合いが低い
・人類学で伝統的に研究されてきた宗教は聖典を持つキリスト教、イスラム教とは大分違う
  神はローカルで、全世界が同じ信仰を持つようなことを期待していない
  その社会の慣習に密着している
・シャーマンが職業として成立したのは相当早い
・Redfield(1955)のlittle(ヒーリングや透視、ニューエイジ)/great(キリスト教や科学)な伝統
・語られる宗教はローカル、教義が比較的少ない、非宗教的な領域ともつながっている
  アフリカのKaguruでは創造神がいるが、普段の相談先は祖先の霊
  死後の世界のイメージもあり。ただし狩猟採集民や(ポスト)工業化社会にはない例も
  生きている人間と死んだ人の魂の連続性
  祖先信仰は、死による生の継続の切断のショックを和らげる機能か

▽儀礼:実施される宗教
・社会・経済的な問題は専門家に解決を依頼。生死の不思議や人生の意味などは儀礼に
・儀礼=具体的な場面における宗教の表現
・デュルケーム(構造機能主義)では、社会統合の機能。社会が自身を崇拝している
  権力の正統化を可能にするイデオロギーの乗り物、かつ、参加者の感情に訴える
  社会の構成員に、社会のことと、自分の役割について内省する機会を与えるもの
・Turner(1969)は儀礼シンボルの多義性、あいまいさに注目
・ギアツ(1973)はバリの闘鶏に儀礼を見た
・Klausen(1999)は1994年の冬のオリンピックを分析
・象徴/社会、個人/集団の対立、社会の矛盾を解くものとして
・Gluckman(1956):スワジランドの王の戴冠式における無礼講→コンフリクトの解放機能
・ラパポート(1968):Tsembagaが定期的に行う戦闘→生態系への負荷を低減する機能

▽イデオロギーと社会的曖昧さ
・Leach(1954)のカチン族研究:
  カチンは独自の神と霊(nats)を信仰。natsは祖先の霊で、現世の秩序を引きずっている
  natsもリネージに属していて、貴族と平民が存在
  gumlao(平等主義)とgumsa(ヒエラルキー)という2つのイデオロギーに緊張関係がある
  →どちらが支配的な時期かによって聖職者の位置付けが変わる
  カチンにおける儀礼は、現世の秩序について間接的に語っていると考えられる
  →儀礼そのものが社会の不安定を作り出しているらしい
・Kapferer(1984)のシンハラ人研究:
  日常とスピリチュアルを往還する儀礼→世界の解像度が上がる
  ただし、没入している人より、離れて見ている人のほうに効果を認める(ギアツと逆)
・儀礼の一般理論を築くのは困難だが、儀礼が社会の複雑さを担保するとの点は共通

▽象徴の多義性
・どんな象徴が使われているか個別に注目するのではなく、体系に注目せよ
・キリスト教で白は美徳、黒は悪。「7」は聖なるものを示す
  聖餅はパンかつキリストの肉体→聖俗の架け橋となる
・象徴は「何かを意味する」とともに「何らかの作用をする」
・また、Turnerの用語では「多義的multivocal」である
・TurnerのNdembu研究では、ミルクツリーの白い樹液→母乳
  →少女の性成熟(生物学的意味)、母子のつながり(社会的意味)の2つにかかる
  さらに、母系社会や社会の一体性も表現しているという
  男性優位への反抗を示す際にも使われる。一体性だけでなく分裂まで意味する
・一般に、象徴のこうした多義性こそが社会の結束を作り出すと考えられる
・また、象徴は社会の構造や正統性と、存在や感情の両方に関与している
  →社会の成員それぞれの個人的体験を社会に繋ぐ役割
  (今日使われる、民族や国家の「旗」の機能も同じか)

▽儀礼に内在する複雑さ
・Bloch(1986)によるマダガスカルのMerinaの割礼研究
・演劇的なパフォーマンスと儀礼の切り分けは思ったより難しい
  →劇場人類学theatre anthropology(Hoem, 2005)(ここでは深入りしない)

▽国家における政治的儀礼
・Blochは、儀礼や象徴が曖昧なのは、矛盾をはらんだ社会の表象だからと考えた
  →イデオロギー(世界を単純化したもの)は必然的に人間存在と矛盾する
・近代国家でも:例えば国旗の抽象性によって、多様な国民が統合できる
・社会が変遷しても儀礼は残るが、意味は変わる:
  例えばロシアの新年。キリスト教以前→キリスト教→社会主義
  →新たな状況を、古いシステムを流用することによって見慣れたものにする作用
    (これは民族運動やナショナリズムでも見られる→18章)

▽現代の儀礼:サッカー
・現代の非宗教的な儀礼としてスポーツが挙げられる
・2014年のワールドカップは世界の3人に1人がテレビで見たといわれる
・サッカーの人類学的研究いろいろ:
  社会的ドラマとしてのサッカーファン(DaMatta, 1991)
  試合における男性性の称揚と、アイコンとしてのスタープレーヤー(Archetti, 1999)
  ナショナルアイデンティティの発露、世代間ギャップを埋めるものとして(Hognestad, 2003)
  ベルファストのグラスゴーファンなど、象徴の曖昧さの例として
  その他、多国籍のチーム編成、サポーターの多様性などグローバルな性格
  結果の予想不可能性→宗教や呪術との共通性?
  それにしても、サッカーファンは何を崇拝しているのか?

・フィールドワークなしには儀礼研究は不可能
・一般理論ができにくいのもこのトピック
・ただし、宗教的知識は儀礼として実施されて初めて意味を持つとはいえる
・聖書と自然科学のように、相矛盾した信念を持つことも現実的には可能
・状況に応じて使われる知識も変わる

About

2017年03月11日 22:21に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「石その後」です。

次の投稿は「猿島」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35