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2018年11月12日

にちよう徒然

土曜は未明までの仕事を終えて、そのまま飲みに行っちゃって朝方帰宅。
日曜は昼前に起きて、同じくらいの時間に起きた友人と東中野の「ピッツェリア チーロ」で昼飯。グラタンコロッケ、レタスのシーザーサラダ、4種のピザが1枚にのっかったやつ。全部すごくうまかった。
そのあとミスドで暗くなってくるまでだべって1回解散。
夜は約束があったのだけど、相手が風邪ということで流れました。
で、さっき別れた友人が音楽の練習を終えるのを待って再集合し、別の友人も連れてカーシェアで「おふろの王様 志木」へ。
そのあと、和光の「くるまやラーメン」で味噌バターコーンラーメンを食しました。
バイパス沿いとかにあるイメージのお店で、今回一緒に食べた福島、宮城、長野出身のメンバーが「なつい」で一致した。そして全員が深く満足した。
この時点で23時、背徳の味が沁みるわけです。
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東京中心部で見かけないのでいつ以来だろうと思ったら、たぶん15年前。田舎で母親が亡くなった夜、妹と二人で自宅の近くのくるまやで夕飯食べたんでした。父は確か病院で夜を明かしたはず。

* * *

■三橋順子『新宿 「性なる街」の歴史地理』朝日新聞出版、2018年。

甲州街道に新設された宿場から遊郭へ、戦後の赤線へ、そして1960年代ごろから性的マイノリティの街へと変貌してきた新宿「あの辺」の歴史。新宿で寝起きし、食べ、遊んでいる弊管理人は脳内ストリートビューを再生し「そこがあれだったかーーーー!!」と興奮しながら読みました。

土日休みの強気なパスタ屋のちょい先にあった遊郭の境界、ゴールデン街の煮干ラーメン屋の建物の由来、二丁目ほぼど真ん中の半地下の中華料理屋と境を接する赤線、そしてタリーズの裏の不思議な路地。内藤新宿の「内藤」は母方の田舎とつながっていたのも初めて知った。

そのほか、東京の性産業の歴史にも話が及んでいて勉強になります。1月に友人に誘っていただき街歩きした吉原、前に住んでいた新小岩、ラーメンや「すた丼」食べに行っていた亀戸(食べる話ばっかりだな)、何かご縁がありますね。今の地理を知ってると4倍楽しい。

* * *

おじさん職掌見習い日記もまだまだ続きます。

若者が作った文章を商品に仕立てる役のおじさんですが、まあ相変わらず結構な大工事を繰り返しています。あまりに完成度の低いものが若者から送られてくることに腹を立てる同僚おじさんはちらほら見受けられ、弊管理人も血圧が10くらい上がることがなくもないのですが、最近ひとつの理解に達しました。若者の仕事は「できそこないの完成品」ではなく「そもそもからして素材」だと考えるべきだということ。

初心者かベテランかを問わず、一人で書いた文章には――程度の差はあっても――穴があるものです。だから、おじさんが一から書いたら完成品ができるかというとそういうものでもありません。まずは若者が書きたいものを形にし、それを客観的に見ることのできるおじさんが素材として受け止めて加除をし、それを投げ返してチェックを重ねる、というようなキャッチボールは不可欠なプロセスなのです。おじさんは検品係ではなく、ライン下流にいる組み立て担当者なのです。

若者時代、弊管理人は自分の投げた仕事がおじさん(おばさんもいるんですけど、ほとんど不満に思ったことがないので、おじさん)の恣意によって作り変えられると「おじさんの頭の中に正解があって、それに合わせて作り変えるだけなら最初から自分で作ればいいのに」と思っていたものです。でもそれはそうではなく、大枠はやはり現場を知っている若者が作るべきで、それがあって初めておじさんも改良の方向性を見いだすことができる。そう考えることで、おじさんの立ち位置がやっと正当化できました。

* * *

ぶつくさ言う用のツイッターアカウントを閉じてみて、ちょっとぶつくさ言いたい時に吐き出す先がないなあとは感じるのですが、それは持続しないので、今のところ特にぶつくさ用のアカウントをあらためて作ろうという気になってません。

ぶつくさ言うことはかえってその対象への執着を増すようでもあり、周囲も「うわ……」と思うだけであれば、誰得なのかという。今となっては。

2018年10月31日

概ね食べる話

某役所に寄ったついでに虎ノ門、カツとカレーの店 ジーエス。
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このお店がある通りは香港麺「新記」もあり、昼飯でお世話になっています。
カツもカレーもそれぞれおいしかったのですが、特にカツはちゃんと甘みや香りがあって、次はカツ定食(確か1000円)をいただこうと思いました。

週末は神保町の古本市をさまよっていたら友人から「焼肉食べたい」と連絡があり、いろいろ探した末に4人で高円寺のガッツ・グリルに行って学生価格のたべほをしてしまいました。上から2番目にいいコースで税抜き2180円。全然満足したけど。
そんで腹ごなしに高円寺から中野まで喋りながら歩いて別れました。
っていう話を20くらい下の若者にしたら「青春っすね!」と言われました。そうね。亡霊として青春を覗き見した感じですね。つか何、青春。友達と労力を惜しまず安上がりに楽しむこと?その逆に労力を惜しんで高いものを楽しむのが「大人のなんちゃら」かしら。

* * *

おなかが変。
多分食生活が乱れたせいなので修復修復。(←亡霊)

* * *

何年前だったか覚えていないくらい前に、食べ物に混ざっていた小石を噛んでから右上の奥歯が痛かったのですが、いよいよ噛んでないときにも痛みが出るようになったと定期チェックしている歯科医に言ったら、その歯をすごく削られて「歯髄炎」と診断されました。

いや、たぶん小石を噛んだときにどこかが欠けたかひびが入ったかして神経に力学的な負荷がかかっていたんだと思う。歯髄炎はその結果に過ぎなくて、だからそんなに深く削る必要はなかったはず。前々から「硬いもの噛んでから痛い」と言っていたのに「噛み合わせの問題」だとして噛み合わせ調整をされ、改善していなかったのでした。いよいよ弊管理人も「これは強く言って納得いくまで軌道修正させないと危ない」と思いました。

で、ちょっとでも違和感があると「痛いから調整して。力がかかるから痛いんだ」とクレームを入れ、すったもんだしながら痛まない状態まで調整して詰め物をし、なんとそれまで問題のない左側でしかほぼものが噛めなかったところ、両側で問題なく噛める状態を取り戻しました。ストレスなく食事ができることの素晴らしさ。

それにしても不必要な処置を随分した気がする。初めてかかってから8年、これまでは大きな問題なく歯のメンテをずっとしていたけど、あちらも歳食ってきたし、そろそろ完全お任せではだめだなと認識させられました。

* * *

この日記の連絡先にもしていたツイッターのアカウント@amebontanを閉じました。

* * *

結局、寝るとき毛布1枚のまま10月を終えます。
今年が暖かいのか、自分の体の変調なのか。

* * *

■石井暁『自衛隊の闇組織―秘密情報部隊「別班」の正体』講談社、2018年。
いただきました。ありがとうございます。

2018年10月09日

メタ倫理

一時期、弊管理人のタイムラインでやたら推されていたこの本。
こんなのが手に入るなんていい時代だねえ。

■佐藤岳志『メタ倫理学入門』勁草書房、2017年。

倫理学の分類
  規範倫理学:どうすべきか。功利主義、義務論、徳倫理学……
  応用倫理学:具体的な場面でどうすべきか。情報倫理、生命倫理……
  メタ倫理学:規範倫理学の前提を考える

メタ倫理学で問われること
  ・真理をめぐる問題
    (1)倫理の問題に答えはあるか
    (2)倫理的な事柄は普遍的か
  ・倫理、判断、行為をめぐる問題
    (3)倫理的な判断とは何をすることか
    (4)倫理的な判断は拘束力を持つか
  ・倫理に登場する概念をめぐる問題
    (5)善、正しい、価値、理由……とは何か(メタメタ倫理)

【2】メタ倫理学の立場
  ・客観主義
    ―正しさは客体(私たちが見る相手側)にある。倫理は「発見」される
    ※ムーア『倫理学原理』:「善いもの」と「善さ」の区別 cf.赤いトマトとその赤さ
     →その上で「善さ」について考える(メタ倫理学の創始)
     →善は定義不能。そして客観的に存在する
      ○見る人によらない、普遍的な善を考えられる
      ○善の概念が安定する
      ○善に関する議論で「正解」「不正解」が言える。「可謬性」が導入できる
      ×一体誰が客観的善を把握できるのか?独断に陥らないか?(エイヤー)
  ・主観主義
    ―「善さ」は客観的性質ではない。見ている人の側が、倫理を「創出」する
    ―倫理的な真理は存在しない、絶対正しい答えはないと考える傾向がある
      ○現に人や文化によって倫理判断が異なることが説明しやすい
      ○「なぜ自分の判断が正しいと分かるか」に答えやすい(「私がそう思ったから」)
      ○倫理の源泉を神など「私たち」とかけ離れたものに求めなくてよい
      ×男尊女卑や奴隷制などを外部から批判できない
      ×犯罪者の独善を批難できない
      ×「私たち」を超えた倫理がないと、結局は力のある者の倫理がまかり通る
  ・いいとこ取り
    ―例えばヘアの「指令主義」……ただし「どっちつかず」の批判

  ・道徳的相対主義
    ―各々の社会が正しさを決めるルールを持ち、どれが優れているとはいえない
    (1)事実レベルの相対主義
      ―現実問題として、社会ごとに道徳やそれに基づく行為は違っている
        ×表面的な違いの根源を探っていくと共通の規範が発見できる
    (2)規範レベルの相対主義
      ―それぞれ違っている道徳をどれも尊重しなければならない
        ×事実として違っていることと、それを全部尊重すべきことは別問題
        ×実際に残酷な慣習を目にして「ひどい」と思っても耐えなきゃいけないのか?
        ×相対主義は絶対的に正しいか?というパラドックスに陥る
    (3)メタレベルの相対主義
      ―相対主義も相対的である
        ×「相対主義も相対的」は絶対的か?
      ―相対主義は2階の主張として絶対的に主張してよい
        ×恣意的な区別ではないか?
      ―すべてではないが、いくつかの道徳的主張が相対的なのである
        ×相対的なものとそうでないものは説得的に分離できるか?

【3】倫理における真理をめぐる存在論・その1:非実在論
  ―道徳的事実や性質(道徳的真理)は存在しない(主観主義と相性が良い)
  ―例)人を殺すという行為の中に「悪さ」は存在しない
  ―認識論における非認知主義と親和的
    (道徳判断は道徳的真理の認知に必ずしも基づかない)

  ・錯誤理論(マッキー)
    ―「道徳的性質や事実」は存在せず、その虚偽に基づいて行う判断はすべて誤り
      ※つまりマッキーは認知主義かつ非実在論
    背理法(1)道徳が実在するなら誰にも同じように存在するはず、だが文化は多様
      ×人々の道徳は大枠では共通。無差別殺人の不許容など
    背理法(2)他のものと全く違った有り様や、それを感受する特殊能力を要求するのが変
    私たちを動機付けるのは外界の何かではなく、心の中の欲求や感情だけ(ヒューム主義)
      ×別に変じゃない。色や面白さなども外界に存在する(これは再反論も可)
      ×今は変に見えてるだけ(エーテルを想起)

  ・錯誤理論が正しいとすれば、どうする?
    (1)道徳を全廃:魔女狩りなど、錯誤と独断に基づく悲劇を生まないよう
      ×でも全廃論者も「魔女狩りはよくない」という道徳判断使ってない?
      ×道徳ってあったほうが社会が安定しない?
    (2)有用だから使う(道徳的虚構主義)―「サンタはいい子のところにしか来ない」など
      (2-1)解釈的虚構主義:みんなウソだと知っているが利用している
        ×不正義に心から怒っているとき、本当に道徳はフィクションと思っているか?
      (2-2)改革的虚構主義:みんなウソだと気付いてないので、気付いて利用すべき
        ×ウソだと分かったことに、そんなにコミットできるか?
    (3)別に今うまくいってるのでこのまま行きましょう(保存主義)
      ×それってプロパガンダでは?みんなに隠し通せますかね?
      ×道徳ってそんなに軽くていいのか?

【4】倫理における真理をめぐる存在論・その2-1:実在論(自然主義)
  ―道徳的な性質や事実は心のありようから独立して実際にある
  ―道徳の問いに答えはある
  (―が、「あるけど分からない」という不可知論は採りうる)
  ―道徳は全く奇妙でない形で存在する(自然主義)/奇妙だけど実在する(非自然主義)

  ・自然主義
    ―神、魂、オカルト的な超自然的なものに訴える必要がないという立場
    ―自然科学などで倫理は十分に説明できる。経験的に知りうる範囲に収まる

    ・素朴な自然主義(意味論的自然主義)
      ―善、悪、正義などは、実験や観察で知りうる何かの言い換えである
        (例えば善=快、悪=苦痛、とする功利主義など)
      ○分かりやすい。身近なものの言い換えなので確認しやすい、人に伝えやすい
      ×自然主義的誤謬を犯している(ムーアの「開かれた問い」論法)
        人は常に「快が増える」=「善」とは考えない(覚醒剤など)→開かれた問いである
        ※ムーアは善は定義不能だが、端的に存在すると考える(実在論)

    ・ムーアへの修正応答:還元主義的な自然主義
      ―ゾンビ。「ゾンビはAウイルスに感染した人である」的な説明
      (1)本当は閉じた問いだが、私たちがまだ気付いていない(分析的還元主義)
        ―「善」の用例を集めて/機能を明らかにし/同じ機能の別の概念に置換する
        ―善の辞書的な説明を作ると、別の言葉xに置換可能になる
        ―つまり、「善」の中に最初から置換可能な概念が入っていると考える
        ×善と別の言葉xが置換可能になる理由が分からない(特に理由はない?)
        ×どれくらい用例を集めたらいいか分からない(成熟した使用者に聞けばよい?)
      (2)特殊な仕方で閉じている(総合的還元主義)
        ―道徳的/自然的性質は、同一物の違う内容を指す(明けの明星/宵の明星)
        ―経験的な探究(科学)などを通じて、どんどん閉じさせていくことができる
        ×結びつく理由がわからない(「たまたま」で納得は得られるか?)
        ○ただし、探究→定義の提案→修正、という方法としての魅力がある

    ・非還元主義的な自然主義
      ―道徳的性質は、特定の自然的性質を意味しない。そこに還元されない
      (1)エルフ。人間とは違う種族が共存している
      (2)悪霊。人間に取り憑くことで実態を得ている
      ―コーネルリアリズム:仮説→対抗仮説の棄却→検証
       素粒子のように見えないものでも、あると仮定すると物事がうまく説明できるとする
      ○開かれた問い論法に対しても、経験的探究で問いを閉じることが可能と反論可能
      ×本当にそうなのかは怪しい。いつまでも問いは閉じないかもしれない
      ×自然的でないものが実在するというのは中途半端。悪霊がいるというようなもの
      ×道徳の眼鏡で見ているから見えるのでは?(でも、科学も理論を背景にしている)

  ・自然主義全体への批判
    ×誰にも共通の実在を示そうとしていながら、相対主義に陥ってしまう
      (道徳的な実在と自然的な実在の結びつきの理由、必然性がどうにも示せない)
    ×自然的な事実は私たちを直接動機付けられない

  ・それらの折衷

【5】倫理における真理をめぐる存在論・その2-2:実在論(非自然主義)
  ―道徳は独特な形ではあるが、個々人の心から離れて実在する(パーフィットら)

  ・神命説:神がそれを命じたから正しい(信じるか信じないかに関係なく実在する)
    ○道徳の権威性、規範性、行為指導性を与えられる
    ×エウテュプロン問題
      神が命じたから正しい→人間の道徳観に反した命令(皆殺しなど)を処理できない
      正しいから神が命じた→神の他に正しさの根拠があることになってしまう
    ×神の意志が人に分かるのか?(検証不能性)

  ・直観主義:善は善としか言いようがない(ムーア、プリチャード、ロス)
   →その後継としての強固な実在論:誰の意志からも独立な規範的真理がある
     (真理は構築されるのではなく、発見される)
    ○日常的な道徳観に合う。道徳は好みの問題ではない

  ・理由の実在論:実在するのは「善」ではなく「理由」である
   →規範性は権威ではなく「あることをする理由がある」ということ(行為のガイド)である
    ○私自身の信念を離れた理由が実在すると道徳が安定する←奇妙でない
    ×道徳の特別さを損なう
    ×「価値はないが理由はある」(脅された時など)場合、価値を理由に置き換えられない

【6】第3の立場

  ・準実在論(ブラックバーン):道徳的事実や性質は実在する「とみなされている」
    投影説:<ヒューム。価値観を投影してものを見ている。宝石に見いだす価値など
    ○高階の道徳(≒その文化での相場観)を投影するので安定が得られる
    ×道徳のリアルさが損なわれないか?
    ×人助けは善い→誰かを助けると判断する、であって、その逆ではないのでは?
    ×価値の細やかさを態度(肯定的/否定的)で説明し尽くせるか?

  ・感受性理論(マクダウェル、ウィギンズら)
    波長×色覚=色、のように、状況×受け手の道徳感覚(徳)=道徳、と考える
    ×事実と価値の区別をどうする
    ×適切な道徳感覚って何だと考えると説明が循環してしまう(それでいいとの応答も)
    ×これってただの非実在論では

  ・手続き的実在論(コースガードら)
    道徳は(法のように)適切な成立手続きを経て存在し始める。構成主義
    カント以来の伝統的倫理学を継承
    ×手続き的に正しくても実質的な内容がおかしい道徳はどうする?
    ×エウテュプロン問題→理性に期待するのみ
    ×適正な手続きは誰がどうやって決めるのか?→反省的均衡で

  ・静寂主義:そもそも実在とか問題じゃない。そういう議論はいらない
    実際に下される道徳判断はどういうもので、それがどう問題を解決するのかが大切
    ≒プラグマティズム
    ×実在と動機付け、道徳的態度はつながっているのでは?
    ×といいつつ、強固な実在論を誤りとする存在論にコミットしてない?

【7】道徳的な問いに答えるとはどういうことか(1)非認知主義・表出主義
  自分の感情を表し、相手の態度や行動を変える
  →道徳的事実の認知を必要としない
    道徳は自分たちの中から生み出され、自分たち自身を導く
  道徳判断が持つ独特な感情的色合いを説明できる
  行動のため背中を押す機能を説明できる
    
  ・表現型情緒主義:エイヤー。道徳判断は分析、総合どちらでもない
    「!」などと同じ。真偽が問えない
    ○記述主義が「これが真理」と押しつけてくる嘘くささを回避できる
    ×道徳判断をめぐる対話が成立しない。意見の不一致を説明できない
    ×道徳に安定性がない
    ×フレーゲ=ギーチ問題(pp.219-221)
    →20世紀前半のもの。現在ではあまり擁護されない

  ・説得型情緒主義:スティーブンソン。道徳判断は相手を説得するため
    ある程度合理的な理由を必要とする
    ある程度(説得の目的を持つことが前提だが)記述的な面をもつ
    いずれにしても普遍的なことを言っているのではない
    ×でも結局「Aはこう考える」「Bはそう考えない」が並立するだけでは?
    ×使う理由は恣意的、場当たり的なもので安定性はないのでは?
    ×フレーゲ=ギーチ問題

  ・指令主義:ヘア。勧めであり指令である
    勧め+道徳判断に関する記述(共同体に共有された道徳原理)=「Xはよい」
    道徳判断は普遍化可能であるべきである
    →ぎりぎりまで客観性を高めようとした立場
    ×安定性は?
    ×現実的に道徳判断は指令として使われていない?(無視しうる)
    ×言葉の使われ方より道徳そのものに注目すべきでは?

  ・規範表出主義:ギバード。私たちが受け入れている規範を表出している
    ある感情+その感情を肯定できるという規範に照らした判断=道徳判断
    規範:広い視野から見た得失、ゆるい直観主義、一貫性
    ○安定性が高まる。道徳的態度の多様性が説明しやすい。客観的
    ×フレーゲ=ギーチ問題
    ×融合問題:「道徳的にはまずいが面白い本」は「面白い」の修正を迫るか?
    
【8】道徳的な問いに答えるとはどういうことか(2)認知主義・記述主義
  道徳に関わる事実や真理を認知し、それを記述する
  道徳は世界に実在し、それが見えれば私たちは自らそれを目指す
  認知→信念形成→判断。事実判断「Xは甘い」も道徳判断「Xはよい」も変わらない
  ×では、事実判断から動機付けはどうやって形成されるのか?
    動機付けの内在主義:道徳判断は動機付けの力をもつ
    動機付けの外在主義:道徳判断は動機付けの力をもたない
      「よいと分かっていても実行しない」場合があることを重視する
      一方、「われわれは道徳的によいことをしたい欲求を持っている」とは考える
    →外在主義が正しいといえば、動機付けをどうやってもつか説明する必要はない

  ・ヒューム主義
    道徳判断そのものが動機づけないとしても、信念形成の時に動機づけは可能
    、に対して、「欲求が動機付けを行う」とする。信念と欲求の分離

【9】道徳的な問いはなぜ必要なのか、なぜ道徳的でなければならないのか

  ・道徳的とはどういうことか
    狭い道徳:他人にかかわる。ウソをつかない、優しくするなど
    広い道徳:自分の生き方(本書はこちらをとる)

  道徳的によく振る舞う必要などない、という立場
  ・ニヒリズム
    強者を搾取するために弱者が作り上げたのが道徳で、破壊されるべき(ニーチェ)
    ×といいつつ、自分は新しい道徳を提案してないか?
  ・非実在論
    そもそも道徳は実在していない
    ×利用価値はあるとみる虚構主義も、全廃主義も、自分の説が「よい」と言ってない?
  ・科学主義
    道徳は生存戦略として身につけてきた反応に過ぎない(暴露論証、debunking theory)
    ×howの話であって、「今この私が道徳に従う必要があるか」とは違う話では……
    ×決定論をとると、責任や非難、賞賛などが意味を失うのではないか

  道徳的によく振る舞う理由はある、という立場
  ・道具的価値に基づくから(それをすると何かの価値を達成できるから)
    協力により困難な課題が解決できる、ウソをつくと信頼を失う、など
    ×道徳はそれ自体で価値がないことになってしまう(得だから道徳的なのか?)
    ×最終的価値に価値を見いださない人は道徳的に振る舞う理由がなくなってしまう
  ・最終的価値に基づくから(それをすることが最終目標だから)
    カント主義的理性主義
      尊厳をもった存在であり続けるために自らに義務を課す
      人はどうしても自分を反省し、何がよいかを考えてしまう(コースガード)
      個々の人間を道具として使ってはならないとの道徳に制約される(ノージック)
    新アリストテレス主義的理性主義
      理性と道徳は切り離せず、理性的存在である以上、善を捨てられない(フット)
    ×善のハードル高すぎない?(赤信号無視など)
    ×理性で説明しすぎてない?(溺れる人を助ける判断時に理性を参照しているか)
    ×私たちの理性は道徳的に振る舞うものだ、というと悪との間で善の重みを問う
      深刻さを無視することになってしまうのでは?
    ×説明が循環してないか?(道徳的に振る舞うのはそれが道徳的だからだ)

  直観主義:そもそも理由などいらない(プリチャード)
    まっとうな人はその時々、考えなくてもやるし、それでいい
    ×直観任せになると、判断が違う2者が議論にならない
    ×といって何かの基準を入れると、それが直観できる力=「理性」主義と同じ穴に
 
  見方の倫理:従来の倫理学は行為や選択を重視しすぎ。「どう生きるか」を見ては?
    道徳判断に迫られる場面に「至るまでの日々」を見るべし(マードック)
    →私たちは選択の瞬間だけを生きているわけではない
    道徳的善を追求することは、世界を正しく捉えることになる
    と同時に、真なる善は私たちを引きつける cf.プラトン
    ×目下の問題に解決を与えられないのでは?
    ×相対主義に陥るのでは?

2018年09月16日

FISH統計

お昼は西新宿、FISH。
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当たり。夜のメニューも魅力的でした。今度行こう。

* * *

■滝川好夫『マンガでわかる統計学入門』新星出版社、2017年。

弊管理人の場合は「使う」人でも、まして「作る」人でもない、「見るだけ」の人ですので、いつもちらちら視界に入ってくるし一応は意味も分かっているつもりのp値とか信頼区間とかが、どうやってできているのかくらいまで分かる本書が有り難いのでした。

* * *

いくの?
いかないの?
どっちなのーーーー?

的な仕事とシフトが重なり、土曜は朝4時過ぎから仮眠を挟んで真夜中まで働いて、よせばいいのにちょっと飲んでしまいました。
回復しきってないのでQPコーワゴールドをドーピングします。

2018年08月24日

ウズベキスタン(1)

(※9/2 目下書きながらリバイス中です。9月中旬くらいにかけて本とかネットとかと照らし合わせつつ内容がちょいちょい更新されるかもしれません)

ウズベキスタンに行ってみたいと思ったのは、大阪の国立民族学博物館で見た中央~西アジアの陶器、特に青い色がすごくきれいだったというのがきっかけだったと思います。
長らく日本からの観光であってもビザが必要で、特に弊管理人は職業的にビザが取りにくいという話を聞いていた(仕事を偽って入った例も聞いた)ので、縁遠い国でありました。

ところが急転直下、今年の2月にビザ免除になり、それじゃあということで今回、初めてパッケージツアーに参加する形で行ってきました。いつものように独りの旅行も考えたのですが、さすがにウズベク語かロシア語ができないと厳しいとなると、ちょっときついかなと。

今回のお供は、ちょうどよく今年出たこちらの本。

■帯谷知可(編著)『ウズベキスタンを知るための60章』明石書店、2018年。
風土、歴史から現代の社会まで概観できるありがたい本。いろんな人が書いているので各章少しずつ内容がオーバーラップしていて、おさらいしつつ先に進めるのもよかったです。

■アントニー・スミス『ナショナリズムとは何か』筑摩書房、2018年。
7月の初めに手を付けたもので、特に旅行用に買ったわけではないですが、15世紀に遡る「遊牧ウズベク人」(エトニ)とソ連による「ウズベク民族」(ネイション)の創出がまさに本書の議論と重なって、それだけで白飯3杯いけました(?)

* * *

【8/24】

台風、雨、ムシムシ。前日いっぱいいっぱいまで仕事をして、6時起きで成田に向かったので、機内ですぐ寝てしまいました。

添乗員さんから航空券を受領。そういえば航空券持たずに空港に来るっていうのも初めてで何か落ち着かないですね。

ANAが地上業務をやっていたのでマイルが積めるかな?と思いましたが、聞いてみたら「どこのアライアンスにも入っていない」というウズベキスタン航空。火曜と金曜に飛んでいて、成田―タシケントで9時間半かかります。帰りは8時間弱。行きは偏西風にもろに逆らって飛ぶからかな。
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タシケントでの入国審査で何を聞かれるか若干不安でしたが、あっさりパス。税関申告もなくなっており、するっと国内に入れました。
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(↑本当は撮ってはいけないらしい空港の建物)

国内線に乗り換えて、タシケント―ヌクス(カラカルパクスタン自治共和国の首都)―ウルゲンチ。飛行機で隣になったヒヴァ在住らしい(言葉がわかんないけどガイドブックとか見ながら随分喋った)おばちゃんから、直径3センチくらいの球状の白いものをもらいました。食べてみると、六花亭の苺が中に入ったホワイトチョコみたいな見た目に反してものすごくしょっぱいチーズという感じ。ナイナイしてしまいたい衝動にかられましたが、おばちゃんの手前、水で流し込みました。
旅の後半、訪れたバザールで判明したのですが、これはラクダか牛のミルクから作ったヨーグルトを丸めて乾燥させた食べ物で、現地の人がよく作るらしい。これ。
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ウルゲンチからバスでヒヴァ。成田を昼前に出て、ホテル「マリカ・ヒヴァ」に入ったのが15時間後くらいだったか。ホテルはこんな感じ。ウズベキスタンのホテルはそれなりのクラスであってもお湯が出なかったり灯りがつかなかったりすることがあるので、部屋に入ったら点検して下さいと言われましたが、ぬるいながらもちゃんとお湯が出てシャワーが浴びられました。満足。
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時差は4時間で日本は翌日未明。当然すぐ寝ました。

(9月2日記)

2018年08月05日

逗子の海

お友達たくさんと逗子の海に行ってきました。
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台風が近づいているので幾分、波が高かったです。
ものすごい暑さの今年。気温31度、水温30度。水の外のほうが涼しく感じるくらい。
初めて、夕暮れまでいました。
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タコライスとスイカ食って、酒飲んで、泳ぎました。
花火。20年ぶりくらいかもしれない。
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すっごい楽しかった。
鉄壁の日焼け止めが奏功し、ヒリヒリしてません。

* * *

1日付でジュニアおじさん発令されました。シフトは朝7時~夕方4時(だが当然のように残業する)の「早出」と、夕方4時~午前2時の「夜勤」(こっちは残業ないが4時より前に出勤すること多し)がまぜこぜにやってくるので、気をつけて寝る時間を調整しないと体調ガタガタになるなと思いました。

現場を離れるとすごい勢いで現場感覚が衰えるような予感がします。ということでだいぶ縮小しつつも現場仕事をスケジュールに入れています。

* * *

高円寺、豆くじら。
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キーマは「アキンボ」を思わせる。ちょっと量が少ないな。

* * *

■久世濃子『オランウータン 森の哲人は子育ての達人』東京大学出版会、2018年。

2018年07月15日

遺伝人類学

■太田博樹『遺伝人類学入門―チンギス・ハンのDNAは何を語るか』筑摩書房、2018年。

古い人類の骨が見つかった、という論文を時たま目にするのですけど、人類進化の歴史の中で今回の研究成果がどう位置づけられるかを分かりやすく教えてくれるものは少ないので、どうしても何か「分かってない感じ」が残ります。あと、ホミニンて何だ~~!みたいに用語の独特さに辟易することも多々。そういうわけで、この本でざっと見させてもらったのは嬉しいところでした。

ただしハイライトは、婚姻システムや産業構造といった文化的な要因が、実は人類の遺伝子頻度の変化(進化)に影響を及ぼしていたかもしれないという、下のメモではさらっと流してしまった後半1/3くらいの部分です。千年単位という短期間に劇的な変化を起こす、文化というもののパワフルさ。

* * *

【ヒトの起源】

▽分類

・古典的な分類
 哺乳綱(哺乳類)
   霊長目(霊長類)
     ヒト上科Hominoidea=類人猿apes。尻尾がない猿
       ヒト科
         ヒト属
       ショウジョウ科Pongidae=大型類人猿great apes
         オランウータン(ポンゴ)属/ゴリラ属/チンパンジー(パン)属
       テナガザル科Hylobatidae
         テナガザル属

・ゲノム解読の進展で改定されつつある最近の分類
  ・ヒト上科が3→2科に
  ・ヒト科の中に遺伝的違いがわずかなことが分かってきた4属を入れた
 
    ヒト上科
       ヒト科
         オランウータン属/ゴリラ属/チンパンジー属/ヒト属
       テナガザル科
         テナガザル属
・ヒト、チンパンジー、ボノボを「ヒト族Hominini」とする考え方も出ている
・分類する学者には「細分派splitter」と「併合派lumper」という考え方の違いあり

▽ヒトと人類

・「ヒト」=現代人modern humans=ホモ・サピエンスHomo sapiens=現生人類
 (Homoは属名、sapiensは種名)。Homoは「ヒト属」、国際的には「ホモ属」
 「人類hominin」=ヒト属+アウストラロピテクス属などの属種を含む化石人類

・「人類の起源」は、チンパンジーとの共通祖先と分かれた700万~600万年前
・「ヒトの起源」は、解剖学的現代人が現れた20万~10万年前

・ホモ・サピエンスが、昔の日本の言い方だと「新人」
 ネアンテルタール人、ホモ・ハイデルベルゲンシスは「旧人」
 ホモ属の古いタイプが「原人」。ホモ・エレクトス、ホモ、ハビリスあたりまで
 それより古いアウストラロピテクス属、パラントロプス属などは「猿人」
※ただし現在は猿人、原人、旧人、新人という言い方は避けられている
  (1970年代以降、サル→ヒト進化が1系統という考え方が否定されてきたため。
   同じ時代に複数の種がいたことが分かってきている)

・猿人
 1974、アファレンシス猿人Australopithecus afarensis発見(個体名ルーシー)
  脳の容積は今のチンパンジー並みで歯は大きいが、直立二足歩行
 1994、ラミダス猿人(個体名アルディー)
 2001、チャド猿人Sahelanthropus tchadensis
  700万~600万年前、現時点で最古の人類の祖先と考えられている
  頭蓋骨底部の大後頭孔と脊柱の関節角度から、大脳を背骨で支えていた可能性

・原人
 1960s、ハビリス原人(昔はアウストラロピテクス属だったが、今はホモ属)
  道具、火の使用があったと推定。脳容積700ml(パンの倍だが現生人類の半分)
 ホモ・エレクトスHomo erectus
  ジャワ原人Pithecanthropus erectusと北京原人Sinanthropus pekinensisが
  現在は1種に統合されている
  100万~50万年前。ただし120万年前くらいの化石がタンザニアでも発見
  →アフリカで誕生し、その後アフリカから出たことを示す
  ★これより前はアフリカの外に出た証拠が見つかっていない

・旧人
 ネアンデルタール人Homo neanderthalensis
  30万年前までにヨーロッパ進出。鼻が高くて広く、眼窩上隆起あり
  脳容量は現生人類並みか、ちょっと大きいくらい
  ヨーロッパ~西アジアで骨格標本発見
 ★現生人類にネアンデルタール人から受け継いだとみられる多型が1-4%あり
 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは分岐したあと、どこかで混血した可能性
 →交配できたということは、両者を別種と考えるべきではないのではとの議論も
 ・デニソワ人(DNAしかなく学名がついてない)

・新人
 クロマニヨン人。解剖学的現代人。ラスコー壁画

・多地域進化説
  ホモ・エレクトスが170万~70万年前に出アフリカ
  →各地でホモ・サピエンスに進化
  *脳の2倍化という大変化が各地で起きたことを説明するため、頻繁な混血を想定
・アフリカ単一起源説
  ホモ・エレクトスが170万~70万年前に一度出アフリカ→いったん絶滅
  →アフリカでホモ・サピエンス(新種)が10万年前以降に出現
  →7万~6万年前に出アフリカ、拡散
  *つまり出アフリカは2回起きている
  *現生人類はアフリカで誕生した新種の子孫ということになる
  *1987UCB、ミトコンドリア・イブ仮説
    地球上のヒトの多様性がアフリカ出身者の範囲内に収まる
  *現生人類間の遺伝的多様性が小さいため、今は単一起源説が正しいとされている

【DNAから描く系統樹】

・系統樹の作成法
  最大節約法Maximum Parsimony Method
    進化のステップが最もシンプルになるものを選ぶ。幾何学的手法
  距離行列法Distance Matrix Method
    代数学的手法
  最尤法Maximum Likelihood Method
    統計学的手法
  近隣結合(NJ)法
    斎藤成也。よく使われる
・分岐年代の推定:分子時計。分子の進化速度の一定性

【進化】

・遺伝的多型genetic polymorphism=集団中の頻度1%以上の分子的バリエーション
・1%未満のものはレアバリアントrare variantという
・分子レベルの多型は「遺伝的多型」→「DNA多型」→「タンパク多型(酵素多型)」→お酒に強い/弱いなどの「表現型phenotype」。ただしDNA多型はタンパク多型を必ず生じさせるわけではない
・DNA多型の例)VNTR variable number of tandem repeat=100塩基ほどの繰り返し配列。2~7塩基と短い場合はSTRPという=DNA型鑑定に使用
・DNA多型の例)SNP。お酒のALDH2(アルデヒド脱水素酵素)、乳がんのBRCA1など。ただし1塩基で表現型を予測できるものは多くない

・遺伝子頻度の変動(進化)の要因
  突然変異mutation
    多くは生存にとって不利
    点突然変異/欠失/挿入、染色体レベルでは逆位/重複/転座
    遺伝的多型(集団内の1%以上)、その場所が「多型サイト」
    多型サイトにある個々のバリエーションが「アレル」(Gアレルとか)
    同じ染色体上の多型サイトの組み合わせが「ハプロタイプ」
  移住migration
  遺伝的浮動random genetic drift
    遺伝子頻度の偶然による変動。集団サイズが小さい時に効果が顕著
    たまたまあるアレルがちょっと多かったのが、世代を経ると圧倒的になるなど
  自然選択natural selection(←→人為選択=育種、品種改良)

・生物の時間的変化を説明する
  用不用説(ラマルク)
    よく使う器官が強化される。獲得形質の遺伝
    現在はほぼ否定。ただしエピジェネティクスでそれっぽい雰囲気も
  自然選択説(ダーウィン)
    突然変異が有利なら残っていく(有利さが必然的に進化を招く)
    *有利な変異が集団内で急速に増えるとき、その周辺の中立な変異も便乗し
    一緒に増える「ヒッチハイキング」が起き、これらが領域としてまとめて
    均質化・多様性の低下が起きることを「選択的一掃selective sweep」という
    例)ラクトース分解酵素
  中立説(木村資生)
    進化に寄与する変異はほとんどが有利でも不利でもない。有利なのは一部
    ある変異が増えるのは偶然。適者だからではない
    cf.米大陸先住民がO型ばかりになった「ボトルネック効果」。中立変異の固定
    *ボトルネック効果は出アフリカの時にも起きたとみられ、アフリカ内の
    遺伝的多様性>>アフリカ外の遺伝的多様性。→多因子疾患のもと?

【社会構造と進化】

・ミトコンドリアDNAは13種類の遺伝子と、リボソームRNAやトランスファーRNAの情報がコードされている。女性の系統のみに伝わる(自分が持っているのは母、祖母……の情報)
・Y染色体は精巣形成の引き金となり、男性を決定する遺伝子SRYが載っている。男性の系統のみに伝わる
→さまざまな集団の間の「地理的な距離」と「遺伝的な距離」を比べる。地理的な距離が離れるにつれて、男性は遺伝的な距離も広がるのに、女性はそうでない場合がある。おそらく女性が交換されるせいで移動距離が大きくなるような婚姻システムのせい

・日本人のルーツ
  置換説(モース)
    アイヌが住んでいたところに渡来民が来て置き換わった
    =日本人の直接の祖先は渡来民で、本土では縄文人の痕跡ほぼなし
  小進化説(鈴木尚)
    縄文時代以降、徐々に進化をして現代日本人になった
    =日本人の直接の祖先は縄文人で、渡来民の影響はほぼなし
  二重進化説(埴原和郎)
    アイヌと琉球人は東南アジア起源の縄文人の直接の子孫
    約2000年(以上)前に北東アジアから渡来民が九州周辺に入り、混血が進んだ
    ただし、北海道と琉球諸島では渡来民の遺伝的影響は少ない
    *混血は研究で確認。琉球人とアイヌではY染色体の共通タイプも発見

・古代日本人のDNA分析
・チンギス・ハンのY染色体
  社会選択:社会的に有利になった系統の特定ゲノム領域が選択的一掃と
       同じパターンを示す現象(社会・文化的な要因が集団のゲノム構造に
       変化を与える)
    ・一夫多妻的システムの反映?
      *ちなみに今村薫はサン族の多夫多妻制「大きなザーク」を報告
    ・農耕導入後、成功/不成功男性の系統が生まれた?(キヴィシルドら)
  「ゲノム・アジア100K」進行中。第3のボトルネック見つかるか?

2018年07月05日

ひがし北海道(2)

【7/2(月)】

天気の悪い日の谷間、曇りの予報。
北海道では、だいたいこういう時は結構青空が見えたりする、という予想通り。
宿の食事処のテラスに出て朝飯食いました。
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ご飯のおかわりを取りに行ってる間に、カラスに卵焼きを持って行かれました。
部屋の窓からはお食事中のエゾシカも。
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いま陸路ではアクセスできない知床半島の一番先を目指すボートツアーに参加しました。
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往復3時間かかります。
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柱状節理とか好きな人は飽きないはず。
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知床岬の突端は風が強いので高い木が生えてないそうです。国後島がきれいに見えました。
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弟子屈まで90キロくらい一気走りして、摩周そば「そば道楽」で大もり850円。
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硫黄山が近いので辺りに匂いがたちこめてます。
川湯温泉駅前の「森のホール」で上品な甘さのケーキをいただいて満腹。
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ケーキ320円だったと思いますが、3種+ドリンクで900円という破格のセットもあり、一瞬迷いました。でもそんなに食えないしな。

屈斜路湖を見て帰りましょう。
美幌峠は通ったことがあるので、今回は小清水側の「藻琴山展望駐車公園」へ。
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えっ全然きれいじゃないですか。
このあともうちょっと高いところにある「ハイランド小清水725」からも眺めました。こちらは湖から少し離れますが、眺望がとてもいいです。

「女満別空港」をカーナビに入れて運転していると、空港の近くで「こんなところ?」というくらいの田舎道をぐるぐる案内されました。じゃがいもや麦を作っている畑の、特に何かアピールしているわけではないが絵画的な風景を堪能しました。
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車を返してお土産買って帰りました。

* * *

飛行機で読み終わった本。

■見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波書店、2018年。

2018年06月23日

超予測力

■フィリップ・テトロック, ダン・ガードナー(土方奈美訳)『超予測力―不確実な時代の先を読む10カ条』早川書房, 2018年.

ハウツー本ぽいタイトルでちょっと嫌だったのですけど、以前から社会現象の予測は可能か(ちょっと違うけど、社会科学に予測はなじまないのか)ということに興味があったので手に入れてみました。
上記の問題には一応、「社会は複雑だから予測は無理」ということで納得はしているものの、でもなんかそんな割り切っちゃっていいのかなあという思いがありました。

この本の著者らは、「セルビアは2011年中にEU加盟候補国になるか」「東シナ海で船舶同士の武力衝突によって死者が出るか」といった国際情勢に関するたくさんの予測を幅広いバックグラウンドを持ったボランティアにやってもらう研究プロジェクトを通じて、次のような発見をしたといいます。

・一般人どころか、機密文書を読むことができる「専門家」に比べてもさまざまな問題の行く末をよく予測できる非専門家(=超予測者)は存在する(ちなみに「集合知」は優秀だが、集団の中である時期に高い予測力を発揮した人が次の時期にもそうであるわけではない。超予測者は逆に、コンスタントに高い予測力を発揮する。これは運<能力である証しである)
・超予測者はものすごくIQが高いわけでも、高度な数学を駆使して予測しているわけでもない
・考える「流儀」や「性格」が予測の正確さを保証している

それの「流儀」や「性格」は次のようなものでした。

・問題がざっくりしていたら、検証可能な(=当たったか外れたかが明確になるように定義された)小問題群に分解して、データを利用できるものはし、なければ推測してパーセンテージを出す(フェルミ推定)
(・12年後のアメリカ大統領選など、先のことすぎる問題はどう頑張っても当てずっぽう以上の成績は出せないので、そういうものには注力しない。筆者らの研究では、予測の正確さは5年後を境に低下する)
・論理と心理、自分の立場と相手の立場など、異なる複数の視点からものを考える。順番としては、まず「外側の視点」つまり一般的にはどうか、という調査から始め、「内側の視点」つまりことこの問題についてはどうか、という調査に進む。人は内側の視点に引っ張られがちな(アンカリングが起こりやすい)ため。ガーナの大統領選に関する問題が出されると、それを「ガーナについて知る良い機会」ととらえるなど、知的好奇心が旺盛であることも有利に働く
・調査で情報が集まったら、仮説を支持する意見(たとえば「南アフリカはダライ・ラマにビザを交付する」)だけでなく、それが間違っている(「交付しない」)可能性を検討する
・「ある/ない/どちらともいえない」という石器時代の確率論はもちろん、「60%対40%」といった10%単位の予測でさえない、「57%か58%か」という細かな検討をする。実際そのほうが予測精度も上がる
・運命論を採用しない。すべてのことは確率的に起こる(他でもありえた)と考える
・いったん立てた予測を小まめに修正する。ただし重要な情報の過小評価、些細な情報の過大評価を避ける。ある情報が事態をどの程度揺るがすかを考えて予測の修正幅を決める(ベイジアン)
・「自分の見方」はたたき台に過ぎないと考え、固執しない
・粘り強い
・チームワークは、グループシンク(安易な全員一致)にもいがみ合いにもならず、不快にならないように反対意見を戦わせ、反論をあえて募りもする。このとき、チームは多様なほうがいい。クローンばかりだと意見が間違ったときにも極端化する

直感や分かりやすい説明に飛びつく思考(システム1)は非常事態の中で行う即断や経験に裏打ちされた言語化しにくい判断が必要な時に使えますが、予測に使うべきなのは熟考あるいは科学的慎重さ(システム2)のほうです。
医療や政策、安全保障の世界では、システム2に基づいて検証可能な予測をし、結果が良くても悪くても検証し、修正するというサイクルが欠かせない。20世紀になってようやくシステム2に基づく評価をルーティン化した医療に比べて、政治評論はまだまだじゃないですかね、という厳しい指摘がされています。

まあ「原理的に無理」とかいって捨てちゃわないで、いろんな人がいろんな機会にやってみたらいいんじゃないですかね、社会に関する予測。研ぎ澄まされていれば結構当たるらしいし。と、そんなことを思いました。

あと、どうでもいいですが、
訳者が「病理学者」と訳しているのはたぶんpathologistで、これはがんの確定診断をする人という文脈なので「病理医」が適当じゃないでしょうか。「マサチューセッツ州総合病院」も、そのあとにハーバード大学の話が出てくるのでMassachusetts General Hospitalのことでしょう。ハーバード大医学部の関連病院のMGHは「マサチューセッツ総合病院」という定訳があるからそっちを使ったほうがいいと思った。全体的には読みやすい日本語だし致命的ではないとしても、ちょっと粗っぽいかな。

2018年05月25日

昔のいけないあれ

むかし同じ職場にいて、いまは他部署にいる女性の後輩が弊管理人の席に来ておしゃべりをしているうちに、セクハラについて仕事で扱っているという話が出たので、ついでで申し訳ないが15年以上前のいけない発言について謝りました。
服装に関する冗談だったのですが、それを言ったあと彼女は着替えてきた。当時「しまった」と思ったものの、「ごめんね」を切り出す機会がなくてずっと腹の底に澱みたいにたまってたのでした。
本人は全く覚えておらず、当時あげつらった服について解説したら「そんなの着てたのが恥ずかしい。全然いいからむしろ思い出さないで」と念押しして去って行きました。

* * *

■共同通信社原発事故取材班、高橋秀樹(編著)『全電源喪失の記憶』新潮社, 2018年.

いただきもの。いや、すばらしい。

2018年05月21日

読めてない

■新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社, 2018年.

会社の図書室の新着棚からかっさらってきたもの。
前半は今のAIでできることとできないことの整理をしていて、それはそれで参考になる。
バズワードで火照った頭を冷やすパート。

で、後半は、AIでできない仕事を担うための基盤となる読解力が本当に人間にあるのか?というお話。筋はほぼここに書いてあります。
それを試すテストの例題がいくつか紹介されているのですけど、弊管理人もしっかり間違えてショックを受けました。
上記記事では、「文章を読んでいるようで、実はちゃんと読んでいない。キーワードをポンポンポンと拾っている」という読み方を「AI読み」と呼んでいますが、思い当たる。大量の文章を急いでざーっと読んで大体何が書いてあるかを把握する、という仕事でよくやる読み方が習い性になっていて、それ以外の場面でも理解しながら読んでないのかもしれん。
むしろ、そうはいってもアウトプットをするときにはしっかり読み直すことが必要な仕事より、ざっと流しても怒られない個人的な読書のほうでこそ、AI読みをやっている恐れもある。

また、結構頭が痛くなったのは次の問題。

 「エベレストは世界で最も高い山である」

が正しいとき、次の文は正しいか

 「エルブルス山はエベレストより低い」

(1)正しい(2)間違っている(3)これだけからは判断できない

正解は(1)なんだそうですが、エルブルス山(5642m、ロシア連邦最高峰なんだって)を知らなかった弊管理人は(3)を選んでしまいました。

ぱっと問題文を見たとき、頭には「エルブルス山が架空の山である可能性(ある意味、世界の中にないので比較ができない)」、「エルブルス山が実在するとしても、エベレストと同じ高さである可能性(エベレストは最も高いが、エルブルス山が1位タイだとエベレスト「より低い」とはいえない)」が浮かび、少なくとも両方の山の高さが示されないと判断ができないと考えてしまったのです。思考の領域をうまく限定できないAI脳(?)なのか。いやまあ作問が甘いのかもしれないけど。

寝床で寝る前に読んでいたのに、目がさえて寝られなくなりました。

* * *

前回の日記以降に誕生日を迎えました。
当日のディナーはひとり松屋だったりしてほぼ忘れつつ過ごしました。

・なんかすごく酒に弱くなった(飲んで疲れやすくなった)
・早寝すると体調がよい
・覿面に頭が回らなくなってる気がする
・仕事が遅くなった

一部(特に頭)は疲れのせいな気がします。
このところ酒を控えるようにしています。

* * *

20日の日曜はからっと晴れて涼しく、今年1番爽やかな日になるはずだと思いました。

2018年04月28日

ヘルシンキ出張

たぶん最後の海外出張でヘルシンキに行ってきました。
4日間のやや弾丸で、ほんとヘルシンキだけ。フィンランドはいいとこっぽい感じがしたので、また観光で行くかもしんない。とりあえず仕事に直接関係しないことだけ以下に。

フィンエアーを使いました。機内食はわりとおいしかったです。A350-900はうるさくないし座り心地もいい。何より直行便(行き9:30、帰り8:30くらい)が楽だな、ほんと。
空港から中央駅は電車で30分です。
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駅前は広々してます。午後3時でこの光の加減で、日没は午後9時くらいでした。
気温は6度。冬のコートを1枚羽織れば、汗もかかずちょうど歩き回りやすいくらいの気候です。船のスケジュールとか観光施設のオープン時間などを見るに、一応4月までは「冬期」らしい。
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なんかちょっと町並みが「東」っぽい感じがするのは気のせいかな。
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訪れるまで超うろ覚えだった地図。サンクトペテルブルクこんな近いの!

街はトラムやバスなど公共交通網が発達していて便利に動けます。Google Mapsを使えばどこにでも行けるし、停車場には「あと何分で何番のバスが来るよ」といった表示が出ており、日本よりぶらぶらしやすい。
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鉄道も含め、ときどき検札が乗ってきて、有効な乗車券を持ってないと罰金というドイツでも見たスタイルです。たまたま出くわさなかったけど。
チャーターしたバスに乗って動いてる途中、ガイドさんが「さあこれが渋滞ですよ!」と指さしたのが信号待ちの列だったりしたくらい車も歩行者も混んでなかったです。ただしスパイクタイヤをはいた車が走ってたり、港近くでは大型車がぶんぶん行き交っていたりで空気は相応に汚い感じがしました。

ホテルは駅から徒歩6,7分のところにあるGLO Hotelというところ。いいお部屋でした。
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さらに歩いて5,6分で大聖堂。1852年築。
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福音ルター派なせいか、中は質素ですね。
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写真だと分かりづらいですが、大聖堂は結構高いところにたっていて、階段には何人かが腰掛けてぼーっとしてます。現地の人に言わせると「やっと春がきたので日が照ってるうちは日光になるべく当たろうとしている」というのですが、どこまで本当か。
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* * *

今回お供をしていただく本は、ものっすごタイムリーに出たこちらの中公新書。

■石野裕子『物語フィンランドの歴史』中央公論新社,2017年.

【スウェーデン統治まで】
・いまフィンランドになっている地域には、8世紀ごろには西のスウェーデンからの入植が始まり、東からはノヴゴロド公国のスラヴ系民族が入植
・9~11世紀頃、ヨーロッパを荒らし回ったヴァイキングだったという証拠はないが、後に北欧諸国の連帯の文脈の中でフィンランドの祖先もヴァイキングもやってたことになったらしい(面白い)
・もともと自然信仰など土着宗教が根付いていた地域だが、11世紀にはローマ教会の北方十字軍が入ってキリスト教化。13世紀にはカトリック文化の影響下に
・十字軍はスウェーデンから遠征しており、ノヴゴロドがいる東への勢力拡大を図った。1323年にパハキナサーリ条約で国境画定。ここでフィンランド地方(ただし今の南西部だけ。内陸は荒れ地、北はもともとフィンランドと見なされていない)が正式にスウェーデン統治下に入る
・ここから500年以上、スウェーデンが統治。スウェーデン語が公用語に。主体は農民
・1700年からスウェーデンとロシアが戦った大北方戦争で踏み荒らされるなど、フィンランドはスウェーデンとロシアの争いの間に置かれる
・一方、16世紀に宗教改革でスウェーデンがプロテスタント(ルター派)に改宗すると、フィンランド住民もプロテスタントに改宗、聖書のフィンランド語訳が進行。1640年にはアカデミーができて知識人が育っていき、「フィンランド人」の出自や言語など「民族性」の自覚が進んだ

【ロシアへ】
・ナポレオンによるイギリスに対する大陸封鎖令への協力(ロシア)、非協力(スウェーデン)をめぐって両国が戦った「フィンランド戦争」の結果、1809年からフィンランドは「北欧」から切り離され、ロシア帝国の統治下に入る
・フィンランドは一定の自治が認められる。アレクサンドル1世は議会や議員、貴族の地位を保証し、信教の自由も認め、ルター派からロシア正教への強制改宗をしなかった。フィンランドは「大公国」となり、ロシアと異なる政治制度を持ったまま帝国に組み込まれた。スウェーデンからロシアへの移行で大きな混乱はなかった
・首都は1812年、西側にあるスウェーデンの影響力を弱めるため、もとのオーボからより東のヘルシンキに移転。サンクトペテルブルクを模した都市計画が策定された
・1848年の「諸国民の春」ではフィンランドにナショナリズムは生まれなかったが、ロシア側は警戒して検閲を導入・強化

* * *

と、ここで気になるのが、大聖堂の前にある「元老院広場」に立つおじさんの像。
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港が近いせいか海鳥に蹂躙されてますが、アレクサンドル2世です。
「中世から第2次世界大戦までフィンランドをさんざん踏み荒らし、戦後もガンガン内政干渉してきたロシアの皇帝がなんで街の真ん中に立っているのかスゲー不思議」と仕事で一緒になった英国の人がフィンランドの人に聞きまくっていましたが、「なんか結構自治権とか認めてくれたりしたしね」というお答えでした。ロシアで農奴解放(1861年)を進め、フィンランドでも自治の拡大や職業の自由を認めた彼は別枠、らしいです。

クリミア戦争の後にロシア皇帝がフィンランドの政治の安定を図るために身分制議会を定期的に開くようになると、フィンランド語を公用語とし、「農民文化」をアイデンティティとする「フェンノマン(フィンランド人気質)」というグループが生まれたとのこと。
そういや、この間読んだ『ホモ・ルーデンス』によく出てきていた叙事詩『カレワラ』はロンルートが口承詩を採集して編集したものですが、成立したのは1835年。そこから1880年代にかけて盛り上がった民族ロマン主義運動「カレリアニズム」に参加した音楽家がシベリウスですね。
(関係ないけどそこらの公園にフィンランドカラーの青や白の花が咲いてました)
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とはいえ、スウェーデン統治時代から貴族や知識階級が使っていたのはスウェーデン語(フィンランド語使用の推進者もスウェーデン語話者だった。ちなみにずっと時代は下るが、ムーミンもスウェーデン語で書かれている)で、今でもスウェーデン語が第2公用語になっています。標識にはフィンランド語とスウェーデン語が併記されています。
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ちなみに上のやつの意味は「券売機」(多分パーキングチケットの)。この単語はまだ結構似ているが、「フィンランド語とスウェーデン語ってそんな似てるんでしたっけ」って現地の人に聞いたら「全っ然違う」と。
モイモイ言ってるの(moiはhi、moimoiだとbyeらしい)かわいーなーと思いながら見てました。
あと、英語はスウェーデンのほうがちょっとうまい気がするけど、十分お上手でした。
ただ、おそらくoccasionとかchanceみたいな意味でpossibilityっていう単語を使う人が結構多くて気になった。フィンランド語でpossibilityを外来語として使ってたりとかするんだろうか。

余談、「フィンランド人はシャイだというがそう思うか」と前に出てきた英国人がフィンランド外務省の人に詰め寄っており「本当だ」との回答を得ていました。バス停で待ってる人たちがすっごくパーソナルスペースを広くとってるという話を聞いていたものの、実際そこまでではなかった気がする。ただし屋根のあるところからは確かにびろーんとはみ出てました。人と人の間隔は言われてみれば広かったかも。

* * *

一方、こちらの赤いのは1868年に建てられたロシア正教会のウスペンスキー寺院。
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中は派手。
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行きの飛行機で隣になった観光のおばさんが「前にヘルシンキにツアーで行ったときには赤い教会だけしか見られなかった」と言っていました。確かにどっちかだけ、だったらこっちかな。
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ちょっと高いところに上ると、いろんな方向に煙突が見えます。
フィンランドの工業化が進んだのは1860年代からで、製材に加えて製紙工業が盛んになりました。サンクトペテルブルクとの鉄道もつながり、輸出が盛んになったそう。

* * *

・そんでまた歴史の話になりますが、ロシアは1871年に統一したドイツを警戒し、防衛の体制固めをする過程でフィンランドのロシア化を図ります。独自の郵便制度をロシアの制度に統合し、ロシア語の地位向上や役人へのロシア人登用などを推進しました
・ロシア帝国はその後、日露戦争での敗北、国内での反乱などで疲弊し、フィンランド政体の回復や議会改革の要求を呑みます。1907年には初の女性「被」選挙権も実現します
・ただしロシア皇帝の権限はまだ強く残っており、皇帝による議会の解散も続発。ロシアへの一体化をさらに進めます。対して芸術は反ロシア化が進み、1889年には「フィンランディア」が初演。そういえばこちら↓、自分へのお土産、ウォッカ「フィンランディア」(ちっちゃい瓶)
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ついでに、シベリウスといえば、なんかよくわかんないモニュメントがあってインド人や中国人と思われる観光客がわらわらいたシベリウス公園にも行きました。
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閑話休題、
・ロシア革命が起こると、フィンランドは独立を宣言。「民族自決権」を綱領に掲げたボリシェヴィキ政権の承認も取り付けます。うまいなー。レーニンはフィンランドも革命やって社会主義に転んでくれると思っていたので認めたということもあるそうですが
・しかし、このあと格差を背景に、政府軍の「白衛隊」と革命を目指す「赤衛隊」に分かれた内戦が始まってしまいます
・1918年にやっとこ内戦が終わり、共和国ができます。当初は国の統一感を出すためドイツから国王を迎えようとしたら、第1次大戦でドイツが負けて計画が頓挫したとのこと。ふええ
・ちなみに日本との国交樹立は1919年(来年が100周年)
・「国民の家」(国家=家)という思想を背景に、福祉国家化に踏み出したのが1930年代(北欧としては後発だそうですが)
・内戦後の国の統一のため、フィンランド語の第1言語化運動も起きました。1937年にはヘルシンキ大学の行政言語がフィンランド語となります。ただしスウェーデン語も保護することに

・第2次大戦では、ドイツと不可侵条約を結んだもののドイツを信用していなかったソ連が、守りを固めるための領土交換などを求めてフィンランドに交渉を持ちかけますが、フィンランド側は中立政策をとっていた上、ソ連の意図を読み違えて決裂させ、結果としてソ連との戦争に入ってしまいます
・戦争はいったん休戦。そのあとドイツが北欧にまで進出すると、ドイツ軍の領土通過を認めるかわりにドイツからの武器調達や通商が盛んになるなど関係が深まっていきます。ドイツ軍のソ連侵攻に際してはフィンランドは中立を表明するものの、領土的な野心もあってドイツ軍に協力。結局、スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると一挙に旗色が悪くなり、厳しい休戦協定を結んで第2次大戦の終結を迎えました
・休戦協定でフィンランドはロシアに6億米ドル相当の賠償金を払うことになりましたが、ロシア側がおおかたを「鉄工品でくれ」と要求したことで、造船業などフィンランドの工業化が進みました
・また戦争責任裁判がフィンランド国内で行われ、戦時中の大統領や閣僚らが被告になりましたが、国内的には「でもしょうがなかったよね~」的な同情を集め、ドイツ占領下に置かれた他の北欧諸国と違って1人の死刑宣告も出ずに終結、戦争の”清算”を終えることになりました

・戦後はもう大国間の争いに巻き込まれるのは勘弁、ということで中立の道を行くことを決めます。ただしその中立は、ソ連とのつながりを保ちながら、西側からは「東の国」と見られることを回避するなど、微妙なバランスをとるという形でした
・この方は内戦時の白衛隊指揮から第2次大戦中のソ連との休戦交渉まで、危なくなると呼ばれて仕事をさせられたマンネルヘイムさんです。
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・ケッコネン大統領は、フルシチョフとの個人的な親しさをサウナでの会談などで築き、裏で外交を進めるという手法から「サウナ外交」と揶揄されたこともあるそうです

* * *

で、サウナ。連れて行っていただきました。街からちょっと外れたところにあるLöyly(蒸気って意味らしい)というところ。
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普通のサウナもありますが、フィンランド東部でメジャーだという「スモークサウナ」が体験できました。中真っ黒。ひとしきり温まったら、建物の背後にある海に浸かります。
弊管理人はえいやと飛び込みましたが、別に飛び込む必要はなく、設えられたはしごを使ってゆっくり浸ればよかったみたい。バルト海は冷たくて、手足を水にぎゅーっと握られるよう。船から落ちた人が死ぬ訳がわかりました。これほんとに健康にいいのかなあ。

サウナは出産の場所であり、食物の乾燥場所でもあり、亡くなった人の遺体を清める場所だとのことで、フィンランド人はサウナで生まれ、サウナから旅立つのだなと。海にも浸かったと言ったら「これでqualifiedだね」と言われたので、なんかそういう大事な場所なんでしょう。留学中に同じ寮にいたフィジーの子たちから「カヴァ」という白い汁を勧められて飲んだら妙に仲良くなれたのを思い出しました。多分違う話だけど。

サウナにレストランが併設されていて、海を見ながら食事ができます。
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おもくそピントがずれつつパーチの揚げ物。メシマズな国だと言われているらしいけど、ちゃんとしたところはちゃんとおいしかった。
他日、テウラスタモTeurastamoっていう施設で食べたバイキングのランチ。
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やっぱミートボールなのね。これもうまかったです。
昔、薬局だった建物を改装したカレリアCarelia Brasserie。
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3プレートランチなど。
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しかし最終日にはやはりエビチャーハン(意図しない大盛り)を食べてしまった。
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* * *

あとは岩に囲まれたテンペリアウキオ教会を見ました。
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かっちょいいヘルシンキ大学の図書館にも侵入。
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本棚は大部分が英語でした。550万人の国だとそりゃそうか。
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これ玄関入ったところです。上がってみるとオーバルの吹き抜けの周囲が勉強机になってました。
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この変な建物は礼拝所。騒がしい広場から一歩入ると、中は静かでした。
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新興住宅街にはでっかい鳥がいた。
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建設費の1%をアートに使う決まりがあるそう。必要かね、それ。
ちなみに、同じ区画に低所得の人が入る賃貸アパートと、高所得の人が買うマンションを混ぜて建てているということです。そうすると小学校とかで自然にいろんな階層の子が混ざる。いいね。
といいつつ、福祉国家でベーシックインカムも入れてみたような国で、カップを持った物乞いのおばさんが点々といたのはなぜだ(聞き忘れた。国籍ないと恩恵に与れないとかそういうことなのかも)。
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ムーミンショップの入ったショッピングセンターはご多分に漏れず吹き抜け。
そこはかとなく漂うヨーカドーな感じ。
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寿司屋、いろんなとこにありました。お互い魚食う人たちだからかね。
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マキッ&ウラマキッ。paritは「ペア」なので握り2巻の値段なんでしょうな。

最後に、空港のトイレ。左が男で右が女なんですけど。
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仕事中、赤ちゃんの服の色の話をしていたら「ジェンダーニュートラルカラーを導入している」というようなことを言っていて、進んでるねえと思ったものです。しかしトイレがこれじゃ迷うだろう。男女で区切るなら色も分けようよ。
あと海外では毎度のことだが小便器の位置が高い。チンコをほぼ水平に保つ必要がありました。

おしまい。
帰国便が成田に朝着で、ほとんど寝てないところから夜まで仕事したら2度ほど落ちました。

2018年04月22日

ダンデライオン

この土日は夏日。空が真っ青でしたが、あまり動き回る気も起きず、クリーニングに出していたセーターを取ってきたり、ジムに行ったり、お酒を飲んだりと、結局いつもの週末。
日曜はさばみりん、納豆、野菜炒め、昆布の佃煮で昼ご飯にしたところ、何かバタ臭いものが食べたくなり、お茶を求めて蔵前に出掛けました。
ダンデライオン・チョコレート。
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ブラウニーと冷アメリカン。とてもいい香り。チョコ屋だしなと期待してなかったコーシーも意外とよく合いました。しかし1食になるくらい重かったです。量的には6割でよかった。ホットチョコレートは思いとどまって正解。
買うならすぐ。座って食べるのも、待ったとしても回転は速い印象です。
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スメタナの「我が祖国」を聞き終わるまで歩いてから地下鉄で帰ろうと思ったら、余裕で上野まで歩いてしまいました。

* * *

30歳になる前くらいから、あまり臭くない酒としてウォッカを好んで飲んでいました。が、このところ体が辛くなることが多く、焼酎のお茶割りへの退却を進めています。(つまりキープボトルを焼酎に切り替えていくということ)
これ多分、体力の低下だけでなく、睡眠不足の日とぶつかることが多いせいかなと思います。何時に寝ても7時過ぎに目が覚めるので、日付が変わらないうちに布団に入ると体調がいいのですが、うっかり1時を回る日が結構あります。よくない。

* * *

■藤原晴彦『だましのテクニックの進化―昆虫の擬態の不思議』オーム社、2015年.
■藤原晴彦『似せてだます擬態の不思議な世界』化学同人、2007年.

擬態にもいろんなタイプがあって、防御のための擬態もあれば、攻撃のための擬態もある。
防御のための擬態の中にも、毒を持たないチョウが毒を持ったチョウに擬態するやり方があったり、毒を持ったチョウ同士が互いを似せて「危険性を知らない鳥に食べられるという、ある程度避けられないリスク」を分散させるやり方もある。

タコやヒラメみたいに環境に反応して機敏に擬態できるものもいれば、模様が最初からプログラムされていて、変更は進化によるしかないものもある。

表皮の細胞一つ一つが色素を作ったり作らなかったりしながら、ドット絵のように模様を作り上げる。擬態ってファッションみたいなもんだろうと軽視しがちですが、動物の発生が3次元のデザインだとすれば、体表の模様は2次元のデザイン。「何をどこに配置するか」を決め、指示を下す精鋭デザイナー集団が染色体上のどこかに隠れている。考えてみれば生物にとってごく基本的、かつ不思議なシステムです。

その秘密はDNAに書き込まれているはず。ということでダーウィン、ウォレス、ベイツから150年、遺伝情報の解読や分析技術が発達してきた今、ようやくそれに迫れるようになりつつあるらしい。研究対象が再現不能なために「疑似科学」と言われてきた進化論が「科学」になる過程でもあるのだとか。

2018年04月18日

ルーデンス

前にアマゾンでお古の文庫を買ったら随分汚いのが来て、捨てたことがありまして。
そしたら今般、講談社学術文庫で出た。折角ですしということで。

80年前の文章ですが、民族、言語、宗教を股にかけて「遊び」の諸相が描き出されていて、結構楽しく読みました。しかしその後、この本がどう読まれてきたのかは誰かに教えてほしい。
あと、訳者解説はカイヨワに結構厳しかったので、『遊びと人間』の解説も読まないといけない気がする。まあ多分そのうち。

■ヨハン・ホイジンガ(里見元一郎訳)『ホモ・ルーデンス―文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』講談社, 2018年.

人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した。

【遊びはこういうもの】
・遊びは文化現象である
・遊びは「余計なもの」である
・遊びは自由な=命令されていない、大らかな行為である。自由に使える時間の中で行われる
・遊びは生活上の必要から離れた、仮構の世界で行われるものである

・遊びは時間的に限定される(始めと終わりが明確にある)
・遊びは空間的に限定される(遊び場というのが設定される)

・遊びは規則を持っており、無視することは許されない
・遊びで人は何らかの役割を担う
・遊ぶ人は自分が遊んでいることを知っている(自覚的に規則と役割を引き受けている)
・それでも遊んでいる人はその役割に「なりきる」ことが求められる

・遊びは闘技的、対立的、競技的、党派生成的な性質を持つ。勝つことが肝心である
・勝ちたい、良いところを見せびらかしたいというのが社会的な遊びの原動力である
・不確定性をはらんだ遊びに勝つことは、神からの善や幸福の保証を意味する
・文化を豊かにするような遊びには、高揚感や没頭=真剣さが必要である

・遊びの共同体は遊びが終わってからも持続する(遊びが共同体を維持する)
・遊びは神話、祭礼儀式、神聖な行為の根っこにある。起きてほしいことを遊びとして「演じる」
・遊びはスポーツの根っこにもある
・遊びはたとえば次のようなところにも現れる:株の取引のような経済活動、訴訟(規則に縛られた言葉のゲーム。エスキモーは太鼓や歌で行う)、戦争(飾り立てた騎士道、礼節のゲーム)、知恵比べ(世界の秩序に直結した知=魔力を競い合うゲーム)、詩作(精神のゲーム、祝宴における叙事詩の暗誦、連歌も想起せよ)、哲学(レトリックの見せびらかし合いゲームを遊んだソフィスト、対立構図に立つプラトンの対話篇、学問論争)、ファッション(見せびらかしのゲーム)

・遊びの要素として、秩序、緊張、動き、楽しさ、無我夢中、が挙げられる
・「遊び」という言葉は、ゲルマン諸言語において真剣な闘技を、アラビア語やヨーロッパ諸言語において楽器の演奏を、ゲルマン諸言語や北米先住民の言葉で愛欲を表す言葉でもある

【遊びはこういうものではない】
・遊びは生物学的機能(生物学的に何かに役に立つから遊ぶ)ではない
・遊びの反対は「真面目」である(が、遊びは「真剣」に遊ばれる)
・祭祀的、儀式的、祝祭的性格がはがれ落ちた近代の遊びは機能不全といえる
・たとえばスポーツのように体系化、組織化、訓練が進むにつれ、遊びはその純粋さを失っていく
・社会的だった遊びが個人的なものになっていくと、遊びらしさはそがれていく
・ピュエリリズム。ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容、賞賛に付け批難に付け見境なく誇張すること、自己愛や使命感におもねる幻想にとりつかれやすいことなどの幼児的特徴(ファシズム批判)

……というような対比を頭に入れて読むと、本書で紹介される古今東西の膨大な「遊び」事例が整理されるかと思います。

今の語感でいうと、「遊び」は「ゲーム」という言葉のイメージとかなり近いと思う。
そんで多分こういうことだろうなと考えた:

第1に、文化、政治、外交などの中で、遊びの要素の増減はあっても、必然的に人は遊んでしまうのだということ。何かを探究しているうちに本来の目的を外れてオタク的な凝り方をしてしまったり、実利的なことを話し合っていたはずの議論がいつのまにか弁論大会みたいになってしまったりする、そのさなかに「あっ今、遊んでる!」と遊びを発見できるだろう、この本を読んでおくと。

第2に、遊びは「真面目」(遊びの欠如)と「頽廃」(遊びの過剰)という両極端の間の中庸なのだということ。遊びが何でないかについてはあまり(明瞭に)語られていないが、図式的にはそう思っておけばよさそうではある。

第3に、遊びは実用性、日常性、秩序、自然=必然性の「外側」なるものの気配を人間が感じ取る契機だということ。しかし、遊びは時間的・空間的に限られたものなので、必ず人間は「内側」に戻ってくる。それでも出掛ける前と同じところには着地しない、それによって世界が展開するのだということ。

そして、文化の駆動因である遊びが力を失うと、停滞、硬直化、腐敗が起きるということ。

2018年03月25日

行政学講義

東京は土曜に桜の満開宣言が出ました(備忘)。
土日とも晴れてて花見日和だったのですが、どちらもマストではないものの捨てがたいインプット系の仕事をしてしまいました。残念。

「仕事で見たあれは何だったんだろう」で後追い読書をするシリーズがグローバルジャスティス、国際法に続いてこれ。キレッキレ。世の中どうしてこうなってるの、という広い関心にも応えるいい本でした。新書にしては大部ですので、弊管理人の興味のあるところ、知らなかったところは厚めに、そうでないところはさらっと。

■金井利之『行政学講義』筑摩書房,2018年.

【1】「われわれ」被治者への支配としての行政

▽政治と行政
・為政者が被治者を統治するのが「支配」
・被治者が統治者になって自分を支配するのが「民主主義」=被治者と統治者の一致
・代表民主主義では、代表者=為政者を民主的に統制する必要がある
・支配の決定と実行をし、行政の作用のもととなっているのが「政治」
  →政治と行政の区別は、民主的支配の原理から発生する

・戦前体制
  ・天皇が統治権を総攬→公選職政治家が行政職員を指揮監督する関係は明確でない
  ・武力革命政権としての明治政府
    行政は為政者集団内の上下関係といえるかも(藩閥―官吏・公吏)
    縁故採用だけでなく、高文試験での選抜=近代官僚制(科挙がなかった日本で!)
    →試験制度、資格任用制度を経たサブ集団として分化してくる
  ・では政治家集団はどうやって再生産するか?
    (1)天皇の信任、天皇との近さで←実務的には既存政治家がリクルートする
    (2)政治家集団自身による縁故採用(コネ)←有能さを保証しない
    (3)内戦し続けて武勲で←軍人集団が政治をするようになると自壊(1945)
    (4)議会と民党との対立という「管理された平和的内戦」
      →ここで政府側傭兵として官僚が活用される。次世代政治家の供給源にも
 
・民主体制
  ・政治家は公選職政治家として位置づけが明確になる
    →民主制と官僚制という2つの支配原理が併存するようになる
  ・非民主体制では与党=統治者、野党=在野・被治者だったが、
    戦後は政党の与党能力が問われるようになる。野党の存在意義の曖昧化
  ・官僚が実質的に政治や政策決定を行う「官僚政治」は継続
    ※国士型=自分が天下国家を考えて政治を担おうとするタイプ
     政治型=政党政治家の正統性を受容し、政治に従うタイプ
     調整型=利害調整を重視するタイプ
  ・官僚と与党は協働を通じて似通ってくる→忖度。党派化↑、政権交代への対処能力↓

・「全体の奉仕者」(憲15)←→党派的官僚
  ・政治家は党派的選好を持った「一部の奉仕者」。複数政党制が「全体」を担保する
  ・行政職員に対する国民の選定・罷免権は明確に規定されていない
    →官僚が与党化しても「中立性」の毀損が見えにくい
  ・政権交代しても旧与党化した行政が新政権を拘束する
  →行政が政治全体からの指揮監督を得ない→民主体制と整合しない
  ・内閣人事局(2014)=党派的任用の制度化!

▽自治と行政
・「官治」=異質な他者による支配←→自治=同質な仲間による支配
  ※国政における「被治者と統治者の一致」でいう仲間は何?想像の共同体
・今日の「自治」≒地方自治

・戦前体制
    町村レベルでは地元有力者による支配を認めていた
    ただし明治政府は町村の監督も同時に実施していた
  ・国の出先機関(普通地方行政官庁)として府県庁、府県知事(官選)を設置
  ・町村は郡役所、郡長(官選)を設置し監督(1920年代に廃止。地理的単位として残存)
  ・府県には帝国議会より前から府県会(公選議会)があった
  ・自治としての府県制も存在(ややこしい)
  ・「地方制度」とは、国の地方行政制度+地域の地方自治制度
  ・市:公選議会に相当する市会が置かれた。市長は市会推薦→内務相選任
  ・町村:町村会は公選、町村長も選挙
    →官治の色が市より薄い。ただし国→町村長の機関委任事務も存在

・戦後体制
  ・民主化=国政自治の導入→地方自治は「国民」という統治者の意思実現を阻む?
    No. 現憲法では地方自治の制度的保障を確認している
    「国民」が地方自治体の「住民」を支配することは民主主義から正統化できない
  ・各層別の民主主義を成立させるには、国/都道府県/市区町村が分離しているべき
    →だが、戦前体制を引きずっている。国にも市区町村にも関係する仕事が多い
  ・民衆の意向には地域的差異がある→国政で野党的な立場も地域で支持されうる
    国の党派的傾向を緩和する作用があるかも

・権力分立のための自治
  ・権利保障は、民主主義(多数者の支配)だけではだめ
  ・権力分立:通常は「三権分立」だが、国レベルでは一連の組織に見えなくもない
    →立法/司法/行政(水平的権力分立)のほかに「自治制」(垂直的分立)が必要
  ・そのためなら地方は武力/宗教的権威/経済力で治めてもいい
    ……が、これらでは民主的正統性の調達ができなそう→住民自治
  ・国/地方×政治/行政の相互関係があり→p.61図4

▽民衆と行政
・支配そのものはなくせない(単純な弱肉強食に陥る)以上、せめてもの解決が自己支配
・行政は、公選職政治家が指揮監督しないと「自己支配」として納得できない
  政治家―(指揮監督)→行政―(支配)→民衆―(選挙)→政治家、のループ
  ※ただし、現状肯定と無責任体質を産む危険あり!
・上記回路に頼らず、行政という他者支配への反抗を制度化したのが「行政訴訟」
  そのため、司法(裁判所)は非民主的な要素を持っている
  少数派の無視が起きたとき、特に有効となる可能性あり
・行政を「他者」とみることは、民衆への自己責任回帰と諦念から離脱する契機にもなる
  参考)非民主制下の無責任
    ・ナショナリズム→「行政がこうなってる責任は国民に」(一億総懺悔)という操作
    ・結局、為政者は何をやってもOK、という事態

・被治者と統治者の同一性をどう確保するか
・民主制下では、身分制に基づいた行政職員の構成(家産官僚制)を否定
  →行政を異質の他者としない。実態は異質な他者による支配であっても不愉快感が減る
・公務員を日本国籍者に限るというのも同じ不愉快感の低減が理由か
  →しかし、被治者は日本国籍保有者に限らないはず
・戦前の高文試験は結局エリート階層からしか受からない
・戦後は公務員給与を民間並みにする=統治者と被治者の同一性を確保する手段の一つ
・しかし属性は:男女のアンバランス
  ただし「女性ならではの視点」を求めてバランスさせると性役割の固定に繋がるので注意
・行政過程への直接参加
  してくる人は本当に民衆の代表か?←→少数者の権利無視になってないか?

▽自由と行政
・情報公開を「知る権利」ではなく「説明責任」から進めてよいか?
・君主主権のもとで、民衆個々人の自由を確保するには?
  (1)権力分立。しかし君主主権とは共存しうる
  (2)国民主権への転換。しかし個々人は「国民」の単一意思に対する自由が保障されない
  (3)個々人の自由など基本的人権を、主権の上位にある「神聖な自然的権利」とする(仏)
    →(3)から(1)(2)を正当化する
    ※憲法前文「人類普遍の原理」。民主的決定でもやってはいけない侵害がある
・支配は避けられないが少ないほうがいい(夜警国家)/行政による自由の確保(行政国家)

【2】行政の外側にある制約

▽環境
・地理(資源など)、歴史(記憶、伝統など)、気候(災害)、自然環境、人口、
 家族形態の多様さ(ケア、子育て)、コミュニティ(近年は行政の便乗が困難に)

▽経済
・事業をやらない行政(非指令経済)は民間の上がりに依存している(租税収奪)
・受益=負担?
・収奪強化→経済疲弊(ラッファー曲線)
・経済界も行政に要望
・その制約への反作用として行政は経済を支配しようとする。国営企業、規制と誘導

▽外国
・国境画定(領域国家)→帝国→国民国家(国民の一部が統治者でない矛盾が起きる)
・支配の及ばない「外国」が確定する→外交、国際機関行政の必要性
  ※戦前の高文試験も行政科と外交科は分離

▽特に米国
・米国に対して日本は「自治体」的な側面を見せる
・ポツダム宣言:いわば「暴力革命」、国家主権の消滅
→自治権回復の条件:民主化、共産主義革命の否定、平和主義、米国監督下の再軍備
・日米安保:在日米軍という最強の「在日特権」、暴発を抑止する「瓶のふた」
・為政者のタイプも植民地っぽくなる
  (1)支配を受容しつつ交渉する面従腹背
  (2)本国(=米国)統治へ寄り添う植民地為政者型
  (3)本国留学を経て思考が同化、ソフトパワーに負け続ける植民地エリート型
  (4)対等な日米関係をベタに信じる
  (5)面従腹背しつつ謀反・独立を狙う第三世界の反共独裁者型

【3】行政の内側にある為政者連合の姿
▽組織
▽職員
▽外周の団体(拡大した行政)
▽人脈

【4】権力(被治者の同意を調達すること)の作用

▽4つの力と行政の作用
  ・政策に向けて使う―政策管理
  ・4つの力=行政資源の差配―総括管理

▽実力=物理的強制力。警察力と防衛力
・警察:国家警察→戦後の自治体警察→都道府県警察
・軍:日本の文民統制と米国からの間接的な文民統制

▽法力(法的権力)
・権力統制の手段
  (1)実力を持つ行政から立法を分離する
  (2)立法は被治者(の代表)が行う
  (3)不正義な立法を否定する違憲立法審査権を裁判所に持たせる
・実行力は実力が裏付けるが、一罰百戒はテロと同じ。萎縮効果
 →恣意的な実力行使を制御するための法力が、恣意的に実力行使する矛盾
 →法がそれ自体として支配の実効性を持つために:ウェーバーの「合法的支配」
  =合理的(予見可能)・非人格的(誰が為政者かに依存しない)な秩序への信仰や帰依
・官僚立法、法令協議、内閣法制局、国会答弁
・検察
・裁判所:行政のチェック/行政の用心棒、両方の顔を持ちうることに留意

▽財力(経済的権力)=財源と財政
・中央銀行の独立:行政サービスの財源確保と通貨価値の安定が両立しにくいため
  ただし人事は政府。独立性は限定的
・大蔵省(主計局)支配
・会計検査院

▽知力=情報。他の3権力の行使を円滑にする。被治者の内面管理をする
・被治者もこれを使って反作用を及ぼすことができる
・領域空間と領域内の人間(→徴兵)とその財力(→徴税)の把握
・戸籍=家父長制的な把握→いずれ個人番号へ?
・統計
・教育・文化:被治者が支配される能力。
  支配される「主体」の創出―国語、勘定、遵法……
  被治者と為政者の同一性の創出
  内面の自由つき完璧な同一性=完璧な民主制(ないと完璧な独裁)
  広報と情報秘匿は支配の道具 
  答責性←野党質問、記者会見
  諜報←情報機関
  知識の格差→権力の格差
    秘密保護法(行政>>市民)。情報秘匿は市民を「敵方」と位置づけている
    逆に行政<<市民だと、外部専門団体が行政を左右してしまう
    格差の縮小:情報公開制度、公文書管理制度、個人情報保護制度

2018年03月06日

階級と性差と職場飲み

■橋本健二『新・日本の階級社会』講談社, 2018年.

ほんと久しぶりに講談社現代新書を買った気がする。20年前は買う新書の大宗を占めていたのだけど。

「格差社会」を超えて「階級社会」と化した現代日本を議論するためのデータを主に紹介したうえで、どう乗り越えていくかのたたき台を示した本だと思います。出たらすぐ読まないとどんどん昔の話になるので、急いで。

本筋から若干外れますが、女性がどういうグループに分かれるかを論じた第5章が面白かった。「彼女たちの人生の多くは、本人の所属階級、配偶関係、夫の所属階級というわずかな要因によって決定されているのである」(p.200)。つまり有無も含めた「配偶者」を抜きにして女性の人生が語れないということ。

* * *

先日読んだ『日本のフェミニズム』のトークイベントに出掛けてきました。

当面は本と向き合おうと思います。

* * *

初任地を離れてから、自分のを含めてすべての歓送迎会を欠席しています。それにもかかわらず、そのことを知っている上司からなお、来月異動する同期の送別会の幹事をやってくれと打診がありました。
  「仕事ですか」
  『仕事じゃないけどさ』
  「じゃあすみませんがお断りします」
で終わりました。
きりがないんですよね。一生かかわるつもりはありません。

札幌から転勤するときも、送別会を断ったら、支社長から「なんて聞き分けがないんや。殴ったろか」と脅迫されましたが、
  「今まで誰も送ってないのに、僕だけ送ってもらうことはできません」
という超うまい論理構成で切り抜けました。謝絶の実績を積み重ねてきたことが奏功した事例。また、このような積み重ねによって周囲から「そういう人」と認知されることが大切ですね。
他人の配慮を期待したり迎合ばかりしていると、効率的に幸せにはなれない。

2018年02月28日

読んだり食ったり

■ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年』早川書房,2009年.

まだ読んどらんかったんかいというあれ。
480ページあって、200~300ページあたりで一度だらけたものの、そのあとは急に緊張感が戻って一気にフィニッシュしました。巻末にあるトマス・ピンチョンの解説の最後ではっとさせられました。これ絶対必要。電子書籍版にはついていないらしく、紙の本を買ってよかった。

1949年に書かれた本にして、既にナチスとソビエトを総括しきり、では徹底したディストピアはどんなものになるのだろうと思考実験を進めてるところが面白い。だからこれはソ連の風刺ではない。あと描写がとても映画的ですね。

弊管理人は「例え話」を使って何かを言うということに結構な警戒感があります。説明されるべき肝心なことを、それとは別のものを持ってきて説明すると的を外す、あるいは欺しになる危険が大きいから。なので、このフィクションを出汁にして時代診断をするのもちょっとと思う。考え方のライブラリに置いておくことは妨げないとしても。

* * *

ふと「おいしいもの食べたい欲」が戻ってきて、いろいろ食べました。
銀座で仕事があったので、グラニースミスのアップルパイをテイクアウトして会社のデスクで。
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褒めてるように聞こえないかもしれないが、マックのアップルパイのすごいいいやつ。
今回は季節メニューの酸味が強い林檎(その名もグラニースミス)のパイでした。レギュラーがほかに6種類あるそうなので、次は店内で、アイスかなんか添えて食べたい。コーヒーと。

* * *

赤坂見附、しろたえのチーズケーキなど。
日曜の閑散とした界隈でここだけ行列だったので、喫茶しにきたけどあほくさ、と思って持ち帰りに切り替えた次第。
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「ちっさ!」といったん落胆してしまいます。しかしこれはほぼクリームチーズですよね、というくらいの濃厚さなのでこのサイズでいいのだと思い直します。一発目のインパクトで平伏する味なわけではないものの、これは時々思い出して買いに行ってしまうかも。

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西武新宿、焼きあご塩らーめん たかはし。
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これは厳しい寒さの中並んでこそおいしいのかもしれない。いや普通に食っても十二分においしい。

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野菜は食べてます、念のため。

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2月も晦日になってしまった。
年初からいろいろ種まきした案件の刈り取りは上旬で一応一段落しました。しかし、このまま仕事は少し出力高めで進むのもいいかなと思って、何かとぱたぱた動いています。そんな大したことはしないんですけど。そして多忙なほうが元気で明るい弊管理人の性格は健康にあまりよくないのではないかと思っています。

2018年02月18日

日本のフェミニズム

「性差別主義者でなければ皆フェミニスト」「フェミニズムを勉強することは大切ですが、生半可な勉強ではフェミニストと名乗ってはいけないということはありません」(p.10)という戸口の開放から入る。実際は奥深いし、貫徹するのは大変なのだけど、ぶん殴っといて「何で痛いか分かるか!?」と凄むみたいな本ではなかろうと俄然読む気が起きたのでした。

環境問題とかもそうですけど、歴史は繰り返す系の分野だと「いきさつ」を知っておくというのは大事だなと思います。相変わらずぼこぼこ浮上する問題たちの解決モデルをあらかじめ手近に引き寄せておけること、歴史を背負った用語とバズワードを見分けられること、カリカリしがちな人たちとお話できるようになること、あたりか。ブックレットくらいの大きさですが、知らないことがいっぱい書いてあって、弊管理人にとってはためになりました。

会社の図書室の新着本をかっさらうという最近のパターン。つまり買ってない。しかしこれは買って持っておいてもよかった。ごめん。このタイトルからすると続編が出るのだろうか。

■北原みのり編『日本のフェミニズム since1886性の戦い編』河出書房新社, 2017年.

▽原点:東京基督教婦人矯風会(矯風会)
・矢島楫子ら56人で1886年設立
・公娼と妾の廃止、禁酒を要求
・シスターフッド:慈愛館を設立(1894年、大久保百人町)。遊郭から逃げる娼婦の隠匿、就職支援、シングルマザーの自立支援など実施
・現代からは「性産業で働く女性を見下した保守的な運動」との批判あり(ex.雑誌「婦人新報」に「醜業婦」という表現も)

1. 日本のフェミニズム

・定義:「社会的、政治的、経済的に両性が平等だと信じる者」(アディーチェ)、「性差別主義的な抑圧をなくすための戦い」(フックス)、「性差別主義者以外」(三浦まり)

・第1波:男女同権を目指す。財産所有、政治参加、離婚、親権……
  明治時代には議会傍聴、政治結社への参加を解禁する法改正を要求
  大正以降は政治参加、選挙権(衆議院通過したが貴族院で否決)
  →選挙権は1945年に実現(ただし植民地出身男性からは剥奪)
  1946年に39人の女性代議士誕生(だが2017.10でも47人)
・廃娼運動:貧困と性差別の凝縮。国家建設と軍事化から生成
  1956年、売春防止法で一応の成果
  しかし売春の恐れをする女子の補導、保護更生。買春の責任は不問

・第2波:1970年代。ウーマン・リブの時代
  男性支配の社会構造(家父長制)からの解放。「個人的なことは政治的なこと」
  性規範の変革・性解放もテーマ
  中ピ連。ピンクのヘルメット、ミニスカ。「嘲笑」というバックラッシュ形態の顕在化
  リプロ。1972-1974年、経済理由の中絶禁止、障害を持つ胎児の中絶を可能にする「胎児条項」を入れる優生保護法改正の動きへの抵抗。女性団体、障害者団体の抗議で阻止
  1975年、世界女性会議(メキシコ)
  1977年、アジアの女たちの会(日本人男性による買春観光への反対)
    ※1973年、第1回日韓教会協議会での「キーセン観光」告発~慰安婦問題へ

・制度化(第3波):1980~1990年代
  1979年、女性差別撤廃条約の採択
  1985年、日本が批准→雇均法、家庭科の男女共修、国籍の父母両血統主義化
  1986年、土井たか子が社会党党首
  1989年、マドンナブーム。自民も野田聖子を擁立(女性代議士がいなかった)
  1995年、第4回世界女性会議(北京)、北京宣言と北京行動綱領
  1999年、男女共同参画社会基本法
  2001年、内閣府に男女共同参画局、DV防止法(議法)

・バックラッシュの時代
  1997年、「つくる会」~歴史修正主義
  慰安婦問題(1991年、金学順)ではアジア女性基金めぐり運動も割れる
    ※慰安婦制度は公娼制度が基礎なので、日本フェミの核心的論点といえる
  ジェンダーフリー(北京会議~)批判。内閣府の使用差し控え、図書撤去

・現在
  2016年、トランプ当選~ウィメンズマーチ
  痴漢、セクハラ、女子力、保育所、家事育児分担
  憲法24条改正(家族制度の強化)、少子化対策、2017年性犯罪の厳罰化後も残る課題

2. 廃娼運動

・戦前日本の人身売買。家の没落→遊郭への身売り→借金返済(年季明けへ)
  娼妓(政府公認、遊郭で売春する女性)、性病検査義務づけ(客を守るため)
  芸妓(三味線や歌、踊りが本業だが売春もする)
・借金返済はなかなか進まない(吉原では3/4が店の収入とも)
  1900年、廃業の自由を認定。しかし借金返済は残った
  森光子(遊郭から脱出、廃業達成)『光明に芽ぐむ日』(1926年)
・近代には遊郭は「貸座敷」へ。娼妓が場所を借りて自前の商売をする体裁に

・1886年、矯風会→1894年、慈愛館
・地方矯風会も順次設立、1920年代には廓清会と帝国議会、地方県会に廃止請願
・1916年、大阪飛田の遊郭建設に大阪支部(林歌子ら)が反対運動(失敗)
・1920年代は公娼制度批判が高まった(男の浪費批判)が、遊郭での買春も大衆化した
・1921年、婦人及児童の売買禁止条約。21歳未満の女性の売春勧誘禁止。日本は違反
・1931年、国際連盟の東洋婦女売買調査団による追及。政府は「自由意思による」と反論
・日中戦争以降、日本軍「慰安所」設置

3. 売春防止法

・1945年8月18日、内務省刑保局長「占領軍の駐屯地に性的慰安施設を」
  →芸妓、娼妓らに米兵の相手をさせる慰安所整備(東京に25カ所)
  ※「防波堤」論。援助交際擁護にまで引き継がれる
・1946年1月、GHQが「公娼制度廃止に関する覚書」を政府に送付
  「公娼はデモクラシーに違背する」→娼妓取締規則の廃止
  ただし次官会議は売淫禁止の例外として「必要悪としての特殊飲食店」を設定
  →「赤線」の誕生
  一方で特殊飲食店外の街娼を「闇の女」として取り締まり強化
  →17カ所の自立更生施設。後、売春防止法下で婦人保護施設に

・1947年1月、ポツダム政令勅令9号「婦女子に売淫させた者」への処罰
  ただし占領終了で無効になる恐れあり
  →1951年、矯風会などが「公娼制度復活反対協議会」、96万人の署名
 1953年、市川房枝ら超党派議員団。労働省で売春実態調査も
  買春処罰を盛った売春禁止法案作成、しかし否決
 1956年、閣法で売春防止法。人権への言及と買春処罰は削除、業者や街娼は処罰
  →公娼制度の終了

・残った課題:
  売春防止法では「性交」を禁止。風営法では「性交類似行為」を容認
  世界では買春防止法に変えていく流れ
  社会問題を背景にした売春に対応できず。2014年、女性自立支援法(仮)の要求も

4. リプロ運動

・Reproductive Health + Reproductive Rights。すべてのカップルと個人が、子どもの数、出産感覚、時期を自由かつ責任を持って決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという基本的権利と、最高水準の性と生殖に関する健康を享受する権利のこと
・第2波の時期、女性の自己決定権が強く主張されるようになった

・近代以降
  女性の性と生殖は国家権力、家父長制による管理対象とされてきた
  1880年の旧刑法、1907年の新刑法でも人工妊娠中絶の禁止(男性は不問)
  産めない女性への離婚言い渡し、未婚=処女思想
  1936年、女優・志賀暁子の堕胎裁判
  1941年、人口政策確立要綱。1夫婦に5人の子が目標。産めよ殖やせよ
 
・戦後。食糧難、住宅難
  1948年、優生保護法。「産むな殖やすな」への転換。堕胎の容認(経済条項)、
    中絶の増加
  1948年、助産婦が国家資格化。1952年の受胎調節指導員→避妊指導の普及
  1954年、加藤シヅエら「日本家族計画連盟」。避妊と性教育

・高度成長期。労働力不足
  1960年代末~「中絶は犯罪だ」
  1972年、優生保護法改正案。経済条項の削除、胎児条項の新設
  1972年、中ピ連でピル解禁訴え

・「優生(不良な子孫の出生防止)」部分の削除
  1994年、カイロ会議で国際的非難
  1996年、優生保護法→母体保護法。優生部分の削除
  現在、NIPT→中絶(新たな優生思想)、自己決定論→自己責任論、「産む機械」
  2003年、少子化社会対策基本法。少子化は「未曾有の事態」
    性教育の停滞←→2013年「女性手帳」(不発)、婚活、妊活、卵子の老化……
  ※堕胎罪は存続。中絶は悪、との視線も
  ※過去の不妊手術について国は「適法に行われた」

5. レズビアン運動

・1970年代、女性同性愛は「異性愛に向かう仮の姿」「女として成熟すれば治る病気」
  「女郎グモ」「化け物」
・1971年、鈴木道子「若草の会」。出会いの場(1986年閉会)
・1980年、相良直美事件。アウティング
・バブル時代、新宿二丁目への集積

・田中美津ら、リブ新宿センター。レズビアン・フェミニストも
  おしゃれは「男への媚び」。ノーメイク、ショートヘア、Tシャツ、ジーンズ
  女性ジェンダーの拒否
・国際女性会議→ダイク・ウィークエンドへ
・1990年代には、若者やトランス女性から「女らしくて何が悪い」と反発も

・1991年、ゲイ・ブーム
・1994年、パレード。G/Lの諍いで1996年頓挫
・Lの出会い系ポータルBravissima!、L&B向け『アニース』
・性指向の一形態であり、人権問題としての差別という理解の普及
・2003年、性同一性障害特例法→戸籍変更が可能に(これはTの話か)
・沈黙しがち、忘れられがちな運動

6. 80年代の「性の自己決定」

・1986年、西船橋駅ホーム転落死事件
  ストリッパー女性にちょっかいを出した高校教師が抵抗され線路に落下し死亡
・1987年、池袋事件
  買春男性がナイフで脅した女性に反撃され死亡
・1988年『働く女性の胸のうち』
  「三多摩の会」によるハラスメント、性虐待の調査結果
・1992年、ゆのまえ知子「夫(恋人)からの暴力調査研究」
  →2001年、DV防止法に
・「セックスワーカー論」からの反論。「性産業従事者への差別をフェミニストが助長」
・風俗は女性の最後のセーフティネット?

7. AVの中の性暴力

・2008年『ひとはみな、ハダカになる』―AVがごく普通のセックス?
  運動vs「表現の自由」
  →PAPS(2009年)。「AV出演強要」の相談。性暴力ではない?ファンタジー?
・作品の過激化、視聴者が「楽しむ権利」、出演者の「自己責任」論や違約金
・AV出演強要:意に反した出演、販売(ネット流出)、生産現場での性暴力、噂の拡散

コラム:2017年刑法改正

・強制性交等罪の創設:「女性器への男性器挿入」(旧法強姦罪)からの拡張。肛門、口への挿入も。男性の被害者も。(挿入するのが手指や異物の場合は見送り)

・法定刑の引き上げ:3年→5年以上の有期懲役。酌量減刑がなければ必ず実刑

・監護者強制性交等罪の創設:教師、スポーツ指導者、同居の親など、加害者が優位な立場にある場合、「逆らえない」ことで「暴行または脅迫」が成立しにくかった。改正で、影響力に乗じてわいせつ、性交等をすると強制わいせつまたは強制性交等罪と同様の処罰に

・今後の課題:
・本人の同意がないわいせつ、性交があっても、暴行や脅迫がなければ強制わいせつ罪、強制性交等罪が成立しない「性交同意年齢」(13歳)は据え置き
・暴行・脅迫の要件が厳しすぎ。裁判もそうだが、起訴の可否判断にも影響する

2018年02月13日

おそろしいビッグデータ

■山本龍彦『おそろしいビッグデータ』朝日新聞出版, 2017年.

会社の図書室みたいなところにある新着本の棚から、まだ誰も借りてない本をかっさらってくるのが弊管理人の最近の趣味です。
本書、小さな新書だけに明快です。ビッグデータ/AI万歳とかマジ大丈夫ですかというのは、やはり技術職以外の人に言ってもらわないとかんのでしょうね。

【プライバシー権の限界】

・私生活をのぞき見られ、暴露されないという「古典的プライバシー権」。ここには「更正を妨げられない(人生を再出発する)利益」=「時の経過」論≒適度に忘れられる権利、が含まれている
・そもそも、プライバシー権で守られるのは、自分で自分の人生をデザインするため
→常に見られているという感覚があると、行動を萎縮させ、民主主義にも悪影響を及ぼしうる
→一つ一つは些細な情報が統合されることで、その人全体を描き出す「プロファイリング」ができてしまう
→自分の情報の行方をコントロールする権利という「現代的プライバシー権」に発展(最高裁は正面から認めてはいないが、改正個人情報保護法には入っている)

・現代的プライバシー権が保障されていたとしても、個人情報を提供する際のプライバシーポリシーへの「同意」は危うい
  ・ポリシーはいちいち全部読まない
  ・同意しないとサービスを受けられない
・プロファイリングの材料になる「普通」の情報入手に対する規制が緩い
  ※EUの一般データ保護規則GDPRはプロファイリングの中止請求権を認めている
・一つ一つは特徴のない属性を寄せ集めていくと、個人が立ち現れてしまう
  これが要配慮個人情報入手の抜け道になってしまう
  ←なのに、日本の個人情報保護議論は情報セキュリティの話ばかり

・予測精度の向上のため、個人の履歴がどこまでも記録され、遡られる
  ・忘れられる権利、人生を再構築する自由(憲法13条、個人の尊重原理)の侵害
  ・データ・スティグマを恐れるために萎縮した人生を送ることになる
  ・親の人生や遺伝的特徴との相関が見えると、「血」による判断が有用に
    →個人の尊重原理がここでも侵害

【バーチャルスラム】

・(寓話)ビッグデータ解析で、大学時代に就活に失敗した履歴、ファストフード店での低賃金バイトの履歴などから「信用力が低い」と判断。融資拒否。それがさらに同様のプロファイリングをする組織からの連鎖的な排除につながる。SNSで同じ境遇の人と悩みを交換するとさらに信用力が低くなるとして交流を避け、孤立
・だが、既に導入されつつある――ソフトバンクなどが採用活動へのAI導入方針/みずほ銀行は個人向け融資判断にAIプロファイリングの導入を発表/中国のアリペイも信用力の査定サービスを開始

・AIの誤謬(うわべだけの相関関係を判断に取り入れてしまう可能性、集積データの偏りを排除できない、現実に存在しているバイアスが再生産される)のリスクが残る
・いずれにしてもやっているのは「あなたのようなセグメントへの評価」であって、「目の前のあなたへの評価」ではない
・しかも、高精度とされるAIの判断は疑われにくい
・AIの判断過程が不明、あるいは知財や「裏をかく」恐れを理由にアルゴリズムが開示されない
・プロファイリングにより、原因はよくわからないが排除されるという「新たな被差別集団」が誕生する(しかも誰がそこに落ちるかは予測しがたい)恐れ

【差別の助長】

・再犯リスクを評価するアルゴリズムにより、黒人の再犯リスクが高く見積もられ、裁判所でより重い刑罰が言い渡される→米国の裁判所で実際に再犯リスクの評価システムを導入
・もともとは刑務所の満杯を受けて、再犯リスクの低い人を社会で更正させる目的
→ところが、黒人の再犯リスクが白人の2倍と見積もられてしまった
→裁判官には「最終判断に使わないように」との警告(ルーミス判決)

・将来の犯罪を予測する「予測的ポリシング」による人種差別の助長も
→米FTCの懸念表明(2016.1)

【個別化マーケティング】

・「個人の尊重」の4層
  (1)生命の不可侵
  (2)身分制からの解放
  (3)人格の自律(自分の人生をデザインできる)
  (4)個人の選択と、その多様性の尊重
・セグメントに基づく評価を個人に押しつけることは(2)に抵触
・選択肢やニュースのカスタマイズ、不安に基づくマーケティングは(3)に抵触
・カスタマイズされた情報が意思決定を誘導することも考えられる
  →便利だが、逸脱や愚行の自由が剥奪される

【民主主義の危機】

・個人の政治的信条に関するデータ集積をもとに、おすすめニュースをカスタマイズ。その信条が強まる=フィルターバブル(パリサー)、デイリーミー(サンスティーン)
→集団分極化(仲間だけで話しているうちに過激な方向にシフトする現象)
→政治的分断
・対抗手段=バブルを崩すこと:伝統メディア、否応なく目に入るデモ行進
→ポータルサイト、ネットニュースにも反対意見へのリンク義務づけ?

・投票行動も操作できる可能性(FBによる実験=デジタル・ゲリマンダリング)
・ビッグデータ解析に基づいた選挙キャンペーン(オバマ)
・しかし、個別化選挙で勝った政治家は個別有権者の思い通りにはならない
→選挙で政治の正統性が調達できないかも

【対抗策】

▽GDPR
・プロファイリングに対する中止請求権
・自動処理のみによって重要な決定を下されない権利
・透明性の要請(アルゴリズム開示ではなく、何を判断に用いたか・その理由の開示)

▽米FTC
・ビッグデータ解析により不利な決定を行う際の理由開示
・人種・国籍・性別を理由にしていないかのチェックを企業に要求
・予測精度と公正さのバランスを要求
 (特定区域に特定属性が固まっていることがあるため、居住地を使わない判断も)

▽日本でやりうること
・プロファイリング「結果」へのコントロール権
・一定の時間を経過した過去を「ほどよく忘れてもらう」権利
・つながるネットワークを自分で選ぶ権利(≒データ・ポータビリティ)
・データに適度なノイズを混ぜるなど、匿名性を担保する技術
・データ提供者への直感的な告知
・データ提供を拒否してもサービス利用を拒否しないこと

2018年02月10日

神は数学者か?

■マリオ・リヴィオ(千葉敏生訳)『神は数学者か?―数学の不可思議な歴史』早川書房, 2017年.

数学が自然や宇宙をどうしてこんなにうまく説明できるのか?という「数学の不条理な有効性」問題(ユージン・ウィグナー)について考えた本。大半はピタゴラスからひも理論まで駆け抜ける数学、物理学の歴史で、最後の章が問いに対する応答になってます。

最近だけでも、ヒッグス粒子あったああああとか、重力波見えたああああとか、何十年、百年も前に理論的に予言されたものの存在が、実験や観察によって確かめられるということが相次いでありました。古くは惑星の軌道が計算によって非常に正確に予測できたり、ひもの結び目について構築された理論がDNAの分子構造にも適用できたりと、数学の不思議な予測性、発見性には枚挙に暇がありません。ひょっとして神は数学者で、それに基づいて宇宙を創造したのでしょうか。違うというなら、人間には自らが発明した数学を通して見られるように世界を見ているだけなのでしょうか。

※↓何かあったら読み返す用メモなので粗いです。

・宇宙が数学に支配されていると考えたのがピタゴラス学派。音楽、宇宙、そして「対(つい)」。数は道具ではなく、発見されるべき実体だった
・プラトンにとっては、数学的対象の世界は、五感で認識できる「仮の世界」とは独立した永劫普遍の世界、数学を使って「発見」すべき世界である。現代に至る「プラトン主義」の源流となる考え方だ
・アルキメデスはそうしたイデアと、現実ここにある図形や立体との関係を追究し、新たな定理や問題を見いだしていった。微積分の発想も既に取り入れている

・近代、宇宙の言語=数学と思考実験を手がかりに「経験では明らかにならない現象の原因」を探究したのがガリレオ。望遠鏡を自作し、それを宇宙に向けた。木星は衛星を持ち、金星は太陽の周りを回っていた。黒点を観察していたら太陽も自転しており、天の川は無数の星の集まりだということ、太陽系外に恒星があることも分かってしまった。聖書(の解釈を独占する教会)との矛盾

・さらにデカルトは宇宙だけでなく、人間の知識一般が数学の論理に従っていると考えた。一組の数値を使って、平面上の点の位置を明確に示すことができる解析幾何学が始まる。代数と幾何の共通言語の発見。関数は法則へとつながった
・そしてニュートンは重力の理論に辿り着いてしまう。抽象的な数学分野が、物理的な現象の説明の鍵であることが認識された時代だった

・では、社会や経済、生物は数学で記述できるか?――相互関係があまりに複雑なものに対するアプローチとして統計(過去)と確率(未来)が生まれる。グラントの死亡表研究、ケトレーによる正規分布の発見、ピアソンの相関係数。確率はギャンブルから遺伝学にまで取り入れられた

・事件は19世紀に起きる。ロバチェフスキーらによる非ユークリッド幾何学の構築。ガウスもそこに辿り着いていた。リーマンは直感的に想像可能な3を超える次元の幾何学の端緒を開く。公理が違えば別の幾何学が成立してしまう。数学は人間の心が発明したものなのではないか?

・20世紀、ラッセルは数学を論理に還元する。ド・モルガン、フレーゲ、ブールから記号論理学へ。ゲーデルは形式体系が不完全か矛盾していることを示した
・それにしても、数学の言語で表現された不完全な形式体系のゲームで、なぜ宇宙はこんなに説明できるのだろう

・最後の第9章が、その問題と正面から向き合う
・数に関する認知は人間の脳に備わっている、その前提が人間に数学で認知できる世界を数学的に描写させている(そういう眼鏡をかけているからそう見える)のかもしれない
・問題を切り分ければ、素数などの「概念」を発明し、素数に関する「定理」を発見する、という営みなだけなのかもしれない
・数学の発展とともに、宇宙を説明するのに適切な道具が生き残ってきているのだという進化的な説明もできそうだ
・あるいは、単に数学で説明しがたいものを見てないだけ、なのかもしれない
・いや、対象ごとに使いやすいツールを発明してきた、というのが本当ではないか
・結局、分からない。しかし絶対の保証がないところで探究を続ける、そういうもんではないか

非ユークリッド幾何学は確かに衝撃なのでしょうけど、それは従来の幾何学を倒したのではなく包摂しただけで、むしろ数学の一般性を高めたのではないかしらと思うのですが。読み物としてはエピソードいっぱいでとても面白かったです。

2018年01月13日

山谷と吉原

学生時代の友人からお声がけいただいて、TABICAというサイトで開催している街歩きツアー「吉原の今昔散策」に参加してきました。

スタート地点の南千住駅から歩いてすぐのところにあるのが、小塚原回向院。
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近隣の小塚原刑場で処刑された罪人や行き倒れの人たちが弔われているところだそうです。当時は禁止されていた解剖を杉田玄白らが行ったのもここ。安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内(ただし正式なお墓はそれぞれの出身地にあるそう)だけでなく、鼠小僧や、「報道協定」が初めて結ばれた誘拐事件「吉展ちゃん事件」(1963)の被害者・村越吉展氏(弊管理人は吉展ちゃん事件が報道協定のきっかけになったと勘違いしてましたが、それは「雅樹ちゃん事件」(1960)でした)のお地蔵さん、カール・ゴッチのお墓までありました。
謀反人のお墓がなぜ三つ葉葵のついたお寺にあるのかは分からないままでした。

お隣は延命院。同じく処刑された人らのための「首切り地蔵」がいます。
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小塚原刑場ってどこにあったのか、ネットで調べてもよくわからなかったのですが、今回やっと分かりました。延命院の隣から、現在の線路と、線路を渡ったところにある東京都交通局の施設のあたりまで細長く延びていたとのことです。火葬が追いつかず、かなりの土葬をしたせいで、つくばエクスプレスを通すときの調査で大量の人骨が出土したとか。
処刑されたものの供養――。悪霊化するのを恐れたのか(これは仏教の発想ではないのかもしれませんが)、それとも罪人もまた救われるべきと考えたのでしょうか。

刑場のあったあたりはやはり民間に分譲というわけにはいかず、都営アパートや都バスの基地になっています。いわくつきの地には学校が建つこともあり、それが「学校の怪談」というジャンルが生まれる元になったのではないか、とはガイドさんの推測。

北の小塚原、南は南大井の鈴ヶ森、あと八王子にあった大和田が江戸の3大刑場で、あとはコミュニティレベルの小さなものがあったそうです。小塚原は斬首、鈴ヶ森は磔と火あぶりで処刑をしていたとのこと。
小塚原は千住の宿場町の外れに位置していて、明治の初めくらいまでは首がさらされていたそうです。街に入る人たちに対して「秩序を乱すとこうだからね」と知らしめる意味があったのでしょうか。

跨線橋から刑場と逆のほうを見ると、貨物列車ががたごとと通り過ぎていきます。
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このあたりは荷揚げの中心地であり、都心方向への物流の起点となっていたそうです。さらに前回の東京オリンピック前には日雇い労働者が集まり、安宿も多い。それが現在は外国人旅行者に好んで利用されているのですね。

人足寄場、さらに食肉処理、皮なめし、解剖など、被差別階級の人たちが担った仕事が周辺に集積しています。皮なめしは水を大量に使うので川沿いにあったとのこと。浅草にはそうした社会の頭領・弾左衛門の屋敷があります。独自の裁判権を持つなど、高度な自治をしていたらしい。近代以降も革靴工場など、ゆかりのある産業が残ったそうです。

処刑される人たちが家族と別れる場所だった「泪橋」は、現在は交差点の名前に残っているのみ。その近くがいわゆるドヤ街の雰囲気を残した一角になっていて、ハローワーク、1泊2500円くらいの安い宿泊施設、寿司屋が点在しています。「あしたのジョー」の舞台もこのあたりだとのこと。
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旧山谷、現日本堤の交番は、ちょっとしたマンションくらいの大きさ。かつては暴動やデモが頻発したので、応援をとったり留置をしたりといった必要があって大きな交番になっているそうです。ちなみに、近くには有名なカフェ「バッハ」があるそうですが、立ち寄ることはできませんでした。

「いろは会」商店街に入ります。
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右側の垂れ幕は見にくいですが「山谷は日雇労働者の街 労働者を排除する再開発反対!!」と書かれています。「写真とるな!人権侵害やでえ」と声をかけてきたおっちゃんは関西弁でした。いろんなところから働きに来られているよう。

アーケードは老朽化が進んだので、昨年秋に屋根を取り払いました。
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再び屋根をかける予定はないそうです。
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寒い日が続きますが、日が照っているので日向にいると暖かかったです。
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そんで、前に天丼を食べに行った「土手の伊勢屋」の横っちょくらいに出て、吉原に行きますよ。

吉原大門(だいもん、ではなく、おおもん)に入る道は大きく曲がっています。出入りする人たちが見えにくいよう目隠しをする機能があったとのこと。今は大門があったところを示す柱が立っているだけです。
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こちら「金瓶梅」「鹿鳴館」などソープが並ぶメイン通り。昔はこの通り沿いのお店が一番ステータスが高く、病気をしたりして落ちぶれた遊女たちは街のはしっこのほうに住んでいたそう。その外には「お歯黒どぶ」という堀が巡らしてあり、出入り口は基本、大門に限定することで逃亡を防いでいました。

遊女は全盛期で3000人、もろもろのスタッフを入れると1万人くらいが働く街だったとか。スターの太夫から見習いの禿(かむろ)までヒエラルキーが存在し、15歳から10年ほどの間にキャリアを積みました。お金を持っている客には教養のある人もいたため、相手ができるよう囲碁、将棋、和歌、俳句などを勉強したそうです。

初めての客を大門まで迎えにいくのが「花魁道中」。これはお店の宣伝も兼ねていたということです。ファッションリーダーでもあったのですね。客を選ぶ権利は遊女のほうにあり、一度は大門近くの待合所で品定め、二度目は食事をしながら品定め。三度目でようやく夜をともにすることができたという。

吉原を出る方法は3つ。(1)年季明け=借金を返す、(2)身請けしてもらう、そして(3)死ぬ。

弁天さん、性病科クリニック、関東大震災の火炎旋風を逃れようと女性たちが飛び込んだ池の名残(多くは圧死だったそう)など、いろんなものが集まってます。
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台東病院の裏に出ると、竜泉の街。樋口一葉が一時期住んでいたそうです。記念館もあります。
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ガイドさんにお煎餅をごちそうになってしまいました。
製造は山梨県(笑)。でも、樋口家ってもともと山梨の出身なんですよね(一葉は東京生まれだが)。なんか関係があるのかな。

三ノ輪駅の近くまで来て、最後は「投込寺」こと浄閑寺。
安政の地震のときに死んだ遊女が投げ込み同然で運ばれたお寺だそうです。
吉原で遊んでいたらしい永井荷風も「死んだらここにお墓を作ってくれ」と希望していたものの家族の反対で実現せず、有志がお寺の裏手に文学碑を作ったとか。
そして、山谷で亡くなった人たちもここに眠っているそうです。
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太陽の下で働いた人びとを象徴する、ひまわりを持った地蔵。

いやほんと勉強になりました。

* * *

吉原とは関係ありませんが、年末から読んでた本、帰りの地下鉄でフィニッシュしました。

■冨田恭彦『カント入門講義―超越論的観念論のロジック』筑摩書房、2017年。

20年とか前に柏木達彦シリーズなど読んで以来、お久しぶりの冨田先生ですけど、なんか分かりやすさがパワーアップしてませんか。すごいね。『純粋理性批判』ってこういう話だったんか。弊管理人はどういうわけかヒュームってカントの敵だと思ってたけど全然違ってた。

2018年01月03日

国際法(3終)

EUができたのが中学生のころで、そのあと受験勉強とヨーロッパのわちゃわちゃが同時進行して、しかもECがまたできてる!?とかいって混乱しているうちに勉強しなくなり、なんかフランもマルクもなくなったねとかいってるところで知識がストップしていたEU。仕事で扱うことになるという因果……

あと、コソボとかアフガンとかシリアとか「なんで人んちに爆弾落としていいの??」という疑問もずっとほったらかしてた。不惑になっても知らないことばっかです。うへえ

(2)はこちら

* * *

【9】人権の国際的保障

・人権の国際的保障=各国内法+国際法による。国際社会による監視と問責
  eg.国際人権規約、児童の権利条約
  ←国内管轄事項への干渉?「国際法は国家間の関係を規律する」との齟齬?

・国家と人
  ・国家は領域内のすべての人に法律を適用する権限を行使する(領域管轄権)
  ・国家は領域内外の国民に対して一定の権限を行使し、保護する(対人管轄権)
  ・国家は国内法に基づいて国籍付与ができる→国民を決められる
    ・血統主義(日独など):父系主義(父親の国籍)/両系主義(最近の流れ)
    ・出生地主義(米など移民受け入れる国)
    ・無国籍が生じうる←無国籍の減少に関する条約(1961)、自由権規約で解消図る
    ・重国籍が生じうる←実効的国籍の原則(よりつながりの強い国籍国が保護)で対応

・人権の国際的保障
  ・両系主義の導入(女性の権利保護の立場から)
  ・国家は管轄下の個人に対して一定の人権保障義務あり(人権関係諸条約)
  ・歴史的には、難民や少数民族など、国家保護から外れたグループ向け
    →枢軸国による大規模人権侵害をきっかけに、普遍的人権擁護へシフト
    →国連憲章1条3項「人権および基本的自由を尊重するよう助長奨励」
      経済社会理事会の下に人権委員会を設置
  ・世界人権宣言(1948)→社会権規約と自由権規約(1966採択)
  ・国連によるアパルトヘイト問題などへの取り組み、公民権運動、NGO
    →人権保護は国内管轄事項ではなく、国際関心事項との認識が拡大した
  ・ただし、東側や新興独立国は柔軟性を要求。「人道的介入」の拒絶など
    ←西側も「ジェノサイドは座視しない」などと反論
  ・ウィーン宣言(1993):冷戦後の国際人権保障
    ・体制の如何を問わず、人権保護は国の義務と規定

・仕組み
・国連(総会、安保理、経済社会理事会、人権高等弁務官事務所)
  安保理:アパルトヘイト、クルド人抑圧、PKO、暫定統治機構、国際刑事裁判所
  人権委員会:調査・報告・勧告。重大かつ組織的な人権侵害について個人通報も受理
    →総会の下に人権理事会設置(2006)
  人権高等弁務官事務所(1993ウィーン会議が契機):人権理事会の事務局。調整、援助も
・条約(国際人権規約のほかに)
  人種差別撤廃条約、拷問等禁止条約、女子差別撤廃条約、児童の権利条約
  最近発効:移住労働者権利条約、強制失踪条約、障害者権利条約
  →締約国は、管轄権下の個人に対する人権保障の義務を他締約国に対して負う
  難民の地位に関する条約(1951)と議定書も

・実施の確保
  自由権規約の場合:独立の規約人権委が各国の報告審査、意見述べるなど
    選択議定書では個人が規約人権委に対して通報できる「個人通報制度」も
    (ただし日本などは受け入れていない)

・最近のトピック:法整備支援
  行政・司法制度の整備、組織的な法学教育→法曹養成

【10】ヨーロッパの統合

・ウエストファリア条約(1648)→主権国家(not諸侯、都市、宗教権力)が基本単位に
・二つの世界大戦、冷戦→ヨーロッパの没落→再生を図る
  1948 ベネルクス関税同盟
  1950 シューマン・プラン(独仏の石炭・鉄鋼生産を管理、西ドイツ復興)
  1951 パリ条約(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ECSC)独仏+ベネルクス+伊
  1957 ヨーロッパ経済共同体(EC)、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)
  *ECSC、EC、EURATOMの総称がヨーロッパ共同体(EC)
  1965 ヨーロッパ共同体機関合併条約でEC共通の委員会、理事会、総会、司法裁判所

・EC
  1960年代 関税同盟で域内関税の撤廃と共通関税の実施、農業政策
  1973 英、アイルランド、デンマークが加盟(9カ国に)
  1981 ギリシア、1986 スペイン、ポルトガル加盟(12カ国に)
  1992 共通市場の形成

・EUとユーロ
  1992.2 ヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)、EU創設。外交、司法でも統合
    *EEC→ヨーロッパ共同体(EC)。2002 ECSCが解散
  2002.1 ユーロ導入。金融政策がヨーロッパ中央銀行(ECB)に移譲
  ~EUの東方拡大
  2007 リスボン条約によるEU改革→ECはEUに吸収
  
・課題
  ・ヨーロッパ議会:全会一致の困難→特別多数決制
  ・ヨーロッパ憲法草案(2004)→蘭仏で批准否決
  ・トルコはヨーロッパか問題(=アジアって何だ?という問題にもなる)

・EU法
  ・EU条約(基本条約)―二次法規(規則、命令、決定)
    規則は加盟国の国内法に置き換えることなく直接に加盟国内の私人にも適用される
  ・EU法をどう見るか
    ・EUは国際組織→EUは国際法とみる見方
    ・EUは連邦国家への過程とみる→EU法は連邦法に似た特殊な国内法にもみえる
    *英仏が国連常任理事国として独特な地位を持ち続ける間は「加盟国は主権国家」

【11】紛争の平和的解決

・アドホックな対応から、戦争の制限・禁止へ
  1899 国際紛争平和的処理条約→国際審査の常設仲裁裁判所
  国連憲章2条3項 国際紛争の平和的手段による解決が「義務」に

・平和的解決の手段(国連憲章33条)
  外交交渉(当事者間の直接交渉)

  周旋と仲介(第三者による援助。周旋は便宜供与など限定的。仲介は解決案提示も)

  国際審査と国際調停(当事者の合意による国際委員会。審査は事実関係、調停は解決案)
    eg.ドッガー・バンク事件(1904)。国際審査委の結果で露→英に賠償金

  国際裁判(国際法に従った「拘束力のある」判決が下る)
    (1)仲裁裁判:手続きや仲裁人は当事者が選定。常設仲裁裁判所(1899~)
    (2)司法裁判:既存の裁判制度であらかじめ選ばれた裁判官が判断。ICJ
      ・強制管轄受諾制度:管轄権行使に同意、かつ同意国間の紛争で有効
      ・応訴管轄:一方によるICJ付託が可能。相手が応じれば合意付託。eg.竹島
  ほか、いろんな国際裁判制度
    ・国際行政裁判所(国際公務員の雇用関係紛争)
    ・ヨーロッパ人権条約、米州人権条約、バンジュール憲章で人権裁判所
    ・個人の国際犯罪には旧ユーゴ国際刑事裁判所、ルワンダ国際刑事裁判所など
    ・海洋では国際海洋法裁判所
    ・貿易では投資紛争解決国際センター(ICSID)

  国際組織による解決
    当事国が紛争解決できない→国連安保理に付託
    →調整手続きや方法の勧告/解決条件の提示
    *米州機構(OAS)、アフリカ連合(AU)など地域的国際組織が役割果たすことも

・実例
  ・テヘラン米国大使館人質事件(1979)
  ・ニカラグア事件(1979)
  ・みなみまぐろ事件(1999):日本が1905以来、仲裁裁判の当事国に
  ・ナミビア事件、東ティモール事件、パレスティナの壁事件:「対世的義務」
  ・南極における捕鯨事件

【12】国際社会と安全保障

・戦争=国家が組織した軍事組織の間で、一定期間継続して、相当の規模で行われる、
      武力行使を中心とした闘争状態

・正戦論(古代~中世) 十字軍(宗教的観点)、グロティウス(法的観点)
・無差別戦争観(~20C初頭) 国家主権の発現形態として、無制限の戦争の権利をもつ
  *無差別戦争観の下でいくら戦争法規を発達させても仕方なかった
・20Cの正戦論:戦争を制限・禁止する国際法規を作り、違反は「違法な戦争」とする
  eg.開戦に関する条約(1907):宣戦布告を伴わない戦争が違法に
・戦争そのものの禁止:パリ不戦条約(1928)
  *戦争に至らない武力行使は対象外。違反時の有効な制裁措置もなし
・広範な武力行使の禁止:国連憲章
  *経済力、政治力の行使がforceに含まれるかは議論継続中
  ・ニカラグア事件判決(1986)では、武力行使禁止原則は「国際慣習法」と認定

・国連憲章の下で例外的に合法とされる武力行使
  ・集団安全保障体制下での(安保理決定に従った)強制行動
  ・自衛権の行使(集団的自衛権を含む)
  ・旧敵国条項の援用(→早期削除の意思表示が1995に示されている)
・議論があるもの
  ・民族解放のための武力行使
  ・人道目的での武力行使(人道的介入)eg.NATOのコソボ空爆(1999)

・集団安全保障
  ・国際連盟で初めて実現(戦争または戦争の脅威は連盟国全体の利害関係事項)
  ・国連:武力行使原則禁止への違反に対する集権的対応
    ・加盟国に平和確保と侵略防止の行動を直接義務づけ
    ・安保理は国際社会の平和と安全維持に主要な責任を負う
    ・安保理決定の措置に対する加盟国の協力義務

・安保理による強制行動
  ・平和に対する脅威/平和の破壊/侵略行為の決定
   →暫定措置に従うよう要請
   →非軍事措置/軍事措置を決定
  ×拒否権あり、冷戦下では十分に機能せず
  ×「平和に対する脅威」に統一見解なし
  ×軍事措置の前提となる特別協定が不成立
・国連総会は安保理に比べると二次的、勧告的
・国連事務総長も「管理的権限」、憲章98条を根拠に平和と安全維持の権能を有する
  eg.レバノン国連監視団の拡大、ベトナム戦争、国連緊急軍の撤退など

・集団安全保障体制の補完
  ・国連総会の勧告権
  ・地域的集団安全保障
    (1)地域的取り決め:国連コントロール下。米州機構、アラブ連盟、アフリカ連合など
    (2)地域的機関:強制行動開始を自分で判断できる。NATO、日米安保など
  ・PKOの発展
    ~冷戦終結 休戦監視団、平和維持軍(合意・要請下、中立、武器は自衛)
    冷戦後 規模と派遣回数の拡大、大国の参加、機能多様化
    強制的な性格は「多国籍軍」に委ね、紛争後対応に限定した活動へ
  ・日本はPKO参加5原則(協力法1992、2001改正)

・将来
  ・国家の集団安全保障から「人間の安全保障」へ
  ・対テロ
    9.11後のアフガン武力行使は「個別的自衛権」(米)、「集団的自衛権」(英)
    IS対応でシリア、イラクへの武力行使は「自衛権の行使」(米)

【13】自由貿易体制と国際法

・国家の相互依存
  ・グロティウスが国際法の原則の一つに挙げた「通商の自由」
  ・中世イタリア都市国家間の「通商航海条約」
  ・重商主義~国家が直接、通商に乗り出す。「家産国家観」(国家は君主の私的財産)
  ・18C後半~私人・私企業による通商+外交的保護+通商航海条約→自由貿易体制
  ・恐慌→ブロック化→WWII

・WWII後
  ・ブレトン・ウッズ体制(ブレトン・ウッズ=ハバナ体制)
    IMF(金融)、IBRD(復興・開発援助)、国際貿易機関(ITO、貿易→結局設立されず)
  ・ITO起草と平行した関税引き下げ交渉→GATT(1947)
  ・GATT:最恵国待遇と内国民待遇の多辺化
    関税引き下げ交渉(1947 ジュネーヴ・ラウンド~1973 東京ラウンド)→日本に恩恵
  ・1980s~限界あらわに
    (1)米国など先進国のインフレと不況→保護主義的措置の蔓延
    (2)先進国経済のソフト化、サービス化←GATTは基本的にモノの貿易が対象
    (3)例外扱いされてきた農業、繊維分野にも適用求める声の高まり

・1986 ウルグアイ・ラウンド→WTO設立
    (1)国際法上の法人格を持つ(組織面での強化)
    (2)紛争解決機関の整備
      ・パネル設置「しない」ことを全員一致で決めないと設置される逆コンセンサス方式
      ・手続きに時間制限を課した
      ・不服申し立てを扱う上級委員会を設置
    (3)サービス、知的所有権に関しても規定。聖域の農業、繊維も自由化推進
  ・2001 中国加盟
  ・グローバリゼーションへの懸念(1999シアトル)→行き詰まりへ

・FTA、EPA締結し、域内での貿易自由化進める動き

【14】難民・犯罪・ネット・テロ・NGO

・国際社会の変化:国家が基本、国際法は二次的調整→より積極的な役割へ

・難民条約(1951)、難民議定書(1967)
  ・難民=人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または
  政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を
  有するために、本国の外にいる人々
  ・不法入国に刑罰を科さない、追放制限、本国送還の禁止(ノン・ルフルマンの原則)
    *難民を入国させること自体は義務づけていない
  ・自国民と同等に扱うこと
  ・拷問される可能性のある国への追放・送還禁止(拷問等禁止条約)

・条約難民(難民条約の定義に合う政治難民)+災害、紛争、貧困→「広義の難民」
  ・途上国から先進国への労働力の移動とも結びついている
  ・国境管理が追いつかなくなりつつある
  ・不法就労目的は送還、斡旋者は取り締まりも

・国際組織犯罪防止条約に付属する密入国議定書(2001)
  ・営利目的での移民斡旋取り締まり
  ・本国が送還された不法移民を受け入れる義務
・人身取引議定書
  ・人身取引の犯罪化
  ・被害者の保護・送還を規定

・移住労働者権利条約(1977、ヨーロッパ)(1990、国連)

・犯罪:刑事司法という「主権の牙城」に国際法が切り込む
  ・二国間条約:犯罪人引渡条約、刑事共助条約(日米、日韓)
    ・政治犯は引き渡さないとの原則
    ・自国で罪にならない行為での拘束、引き渡しは不当とする原則
    ・国によっては自国民を引き渡さない原則も

  ・多国間条約
    ・薬物:アヘン条約(1912)、麻薬単一条約(1961)、国連麻薬新条約(1988)
    ・国連国際組織犯罪防止条約(2000)+密入国、人身取引、銃器不正取引の3議定書
      ・途上国支援が特色。犯罪組織にセイフ・ヘイブンを与えない
    ・腐敗:国際商取引における外国公務員への贈賄防止条約(1997、OECD)
      ・2003には腐敗全般の普遍条約「国連腐敗防止条約」採択
      ・公務員の腐敗=資金洗浄の前提犯罪と考える

・ネット:サイバー犯罪条約(2001、ヨーロッパ審議会。ただし域外の国も締約可)
  ・違法アクセス、データ改ざん・詐欺、児童ポルノの処罰、データ保全、開示、
   提出命令、差し押さえ、欧州、通信傍受など詳細に規定

・テロ:テロリズムの定義について合意できていない
  ・ただし一般的理解はテロ資金供与防止条約(1999)にあり:
    ・文民その他の者であって、武力紛争の状況に直接参加しない者の死や
     重大な障害を引き起こすことを意図する行為
    ・その行為が、住民の威嚇や政府・国際機関に何らかの行為をすること/
     しないことを強要する目的である場合に限る

  ・これまでは、個別の行為にアプローチしてきた
    ・ハイジャック:ヘーグ条約(1970)、モントリオール条約(1971)
    ・シージャック:海洋航行の安全に対する不法行為の防止条約(1988)
    ・ほか国家代表等保護、人質、核物質防護、爆弾テロ、核テロ……
    ・犯人が自国領域内で見つかった場合の処罰、引き渡し(引き渡し犯罪化)
    ・9.11以降は資金提供の防止、テロ対策諸条約の締約国奨励(安保理決議1373)

・NGOの貢献
  ・対人地雷禁止条約、特定通常兵器使用禁止制限条約……
  ・役割:専門知、現場活動、国によっては政府代表団に入る
  ・限界:政治的正統性はない(選挙で選ばれてない)、責任追えない、中立性

【15】国際人道法

・残虐行為の防波堤としての「人道」:戦争でも許されないことがある
・戦争違法化前:交戦法規、武力紛争法
・戦争違法化後:一般住民の保護=国際人道法
  (1)戦闘の手段や方法に関するルール:
    ハーグ法(破裂弾規制、負傷兵保護など、19C後半から)
  (2)非戦闘員保護:ジュネーヴ法、ジュネーヴ諸条約(1949~)

・国際人道法
  ・兵器使用の禁止(過度の障害、不要な苦痛、戦闘員や軍事目標のみに向ける)
    ・劣化ウラン弾のように新たな兵器は解釈分かれることも→条約対応へ
    ・クラスター弾:対人地雷禁止条約(1997)、クラスター弾条約(2008)
    ・BC兵器:毒ガス禁止議定書(1925)、生物毒素兵器禁止条約(1972)など
    ・核兵器:ICJ勧告的意見(1996)で基本原則違反とされた
      が、自衛の極限的状況では合法/違法を明確に決定できないとした
      *日本国内では東京地裁が「国際法に反する」と判決(1963)
  ・軍事目標主義
    ・WWIIの絨毯爆撃→ジュネーヴ諸条約追加議定書で「無差別攻撃」として禁止
    ・点在する軍事目標の巻き添えもだめ
    ・文化財・礼拝所、ライフライン、自然環境、ダム・原発など破壊が危険な施設も×
  ・戦争犠牲者の保護
    ・戦闘員が捕虜となった場合:捕虜条約で保護
      *グアンタナモ収容容疑者を米は「敵性戦闘員」と呼称
    ・相手方の権力内の文民は文民条約などで保護。拷問、医学実験、人質など禁止
    ・特に子ども兵士:武力紛争における子どもの関与に関する選択議定書(2000)
      →18歳未満の戦闘参加を禁止

・守らせるためには
  ・戦時復仇:違反には同じ行為で仕返し。伝統的だが紛争激化させる恐れもあり今は禁止
  ・第三者機関による監視:ただし当事国が中立国や事実調査委に同意する必要あり困難
  ・戦争犯罪人の処罰:国内裁判所での裁判は形式的で終わる恐れ。内戦の規定もなし
  ・国際裁判所での訴追:旧ユーゴ紛争が契機。ルワンダも。ただし都度設置
    →国際刑事裁判所規程(1998)で、常設のICC設立。しかし米中露は未批准
  ・真実和解委員会:南アフリカ、シエラレオネ。対話し、赦す

【16】日本と国際法

(短いので略)

2017年12月28日

国際法(2)

きのう机上の整理をして帰ってきたこともあり、仕事納めの本日は出勤する必要がなさそうだったので家でネット経由の仕事をしてました。

で、本の続き(実はもうとっくに一度読み終わっていて、メモにするのを怠けていただけなので、着手すると速い)。環境だけでなく海、宇宙、感染症のお話もそういえば国境を越えるわけで、今年の仕事は本当に国際法と関連したものが多かったと感じます。
なんか職場では年明けからの担務の再編が噂されているようで、またなんか変わるのかね……まあいいけど。

(1)はこちらです。
(3)はこちら

* * *

【5】国家の国際責任(国家責任)

・義務違反(国際違法行為)の責任を問われる「者」
  国家、国際組織(PKO部隊など)、個人(戦争犯罪人など)
・国家はなかなか国際違法行為を認めない
  →対抗措置や報復、ICJへの付託、好意によるex gratia金銭支払い(第五福竜丸など)

・戦争が違法でない時代は軍事措置で片付けていた
  →19C以降、アジア、アフリカ、南米進出した欧米諸国民の外交的保護に起源
  →欧米は自国民の被害を、国内法の問題ではなく国際法違反とすべきと主張した
  →戦後、ILCの法典化作業で「国家責任条文」(2001採択)。未発効だが重要文書

・国家が国際違法行為をしたということの条件
  (1)その行為が国際法上、国家の行為とされる(公務員の行為、私人の行為の追認)
  (2)その行為が国際義務の違反を構成する(大使館や大使館員保護の義務違反など)
  eg. テヘラン大使館人質事件(1979)。ホメイニが学生の占拠を支持したことに対して

・違法性阻却事由
  ・事前同意
  ・自衛(国連憲章51条)
  ・対抗措置(他国の義務違反に義務違反で対抗する。ただし武力は×)
  ・不可抗力(自然現象や戦乱などで無理)
  ・遭難(人命救助の最後の手段として。eg. レインボー・ウォーリア号事件(1985))
  ・緊急避難(重大・急迫な危険から守る。eg. トリー・キャニオン号事件(1967))

・責任追及は被害国ができる
  ・外国船舶の領海侵犯→国家の威信のような精神的損害でもOK
  ・国際社会一般の利益を根拠に第三国が追究できるとまでは考えられていない
    (国家責任条文48条ではできそうだが、課題多し)
・国民が被害を受けた場合は→私人は国家責任を直接追及できない
  ・被害者の本国が、外交的保護権の行使で追及することはできる
  ・ただし、次の2要件を満たす必要あり
    (1)国籍継続の原則=被害者は継続してその国の国籍を持っている
    (2)国内的救済完了の原則=被害を受けた国内で法的な手を尽くした

・責任の果たし方:国際請求の様態
  ・当時国間での「交渉」
  ・第三者を介した「仲介」
  ・第三者を介した「調停」
  ・国際裁判への提訴
・責任が認定された場合の対応:国家責任の解除
  ・国際違法行為の中止
  ・再発防止の保証
  ・生じた損害の賠償
    ・違法行為の結果の除去
    ・原状回復(最も基本的。テヘラン人質事件なら大使館の明け渡しと人質解放)
    ・金銭賠償(被害算定と支払い)
    ・サティスファクション(陳謝、違法行為の確認、責任者の処罰)
  →これらの組み合わせで国家責任を解除する

【6】国際組織の発展と役割

・誕生
  ・三十年戦争→ウェストファリア条約(1648)で国際法秩序の基盤(ただし欧州内)
  ・産業革命→人や物の移動活発化→越境活動の規律する枠組みの必要性
  →欧州の河川管理のための「国際河川委員会」が初の国際組織
   ライン川中央委員会(1831)、クリミア戦争後のヨーロッパ・ダニューブ委員会(1856)
   感染症蔓延を防止する国際衛生理事会(コンスタンチノープル)→WHOへ

・19世紀後半:多分野での問題を国際的に処理する「国際行政連合」相次ぐ
  ・国際電気通信連合(1865)、万国郵便連合(1874)。WIPO,GATT-WTO、FAO,WHOの元も

・WWI→「(加盟国が)普遍的」かつ「(権限が)一般的」な国際連盟の誕生へ
  ・紛争の平和的解決、軍縮、人道的任務までが対象に
  ・ロカルノ条約(1925)、不戦条約(1928)→平和・秩序維持を連盟が担う
→しかしWWII→国際連合

・国際組織とは
  ・国家が構成員(この点でNGOと違う)
  ・国家間の合意(国連憲章、ユネスコ条約などの設立条約)が基礎
  ・一定の機能を遂行するための機能的団体(この点で国家と違う)
  ・常設的な機関をもつ(この点でアドホックな国際会議と違う)

・国際組織の類型
  ・普遍的組織(加盟国が地理的に限定されない)/地域的組織(EU、OAUなど)
  ・一般的組織(国連、AUなど)/専門的組織(ユネスコ、アジア開発銀行など)
  ・政治的組織(平和・安全維持を目的としたNATOなど)/非政治的組織(国際協力)

・課題
  ・WTO、IMF、IBRDによる環境破壊、文化的画一化を批判するNGOの声も
  ・アカウンタビリティの要求

【7】海と宇宙

・海や資源が有限だとの認識
  ・スペイン、ポルトガルの「全世界の海の領有」vs誰でも利用可とする英蘭の「自由海論」
  ・外国軍艦から沿岸を守るため、実効支配可能な範囲は領有できるとする「閉鎖海論」
  →調整の結果としての「公海自由の原則」。海=狭い領海+広い公海

・WWII後、漁業・海底開発の技術発展で修正必要に
  ・領海の幅3海里→12海里
  ・沿岸隣接の漁業資源や大陸棚開発の権利を主張するトルーマン宣言(1945)
    →排他的経済水域、大陸棚制度へ

・→包括的に扱う「国連海洋法条約」(1982採択、1994発効、日本批准は1996)
  ・領海(12海里)=領土と同じく主権が及ぶ。無害通航に関する法制定も可
  ・接続水域(基線から24海里)=違法行為を行った船舶を拿捕、処罰できる
  ・排他的経済水域(基線から200海里)=漁業資源など経済的利益について主権的権利
  ・大陸棚(200海里超の陸地の延長)=天然資源開発をする主権的権利
  ・公海(EEZの外側)
  ・深海底(大陸棚の外側)=人類の共同の財産。国際海底機構が管理
・ほか、紛争解決の国際海洋法裁判所などの制度も

・船
  ・船舶の国籍(船籍)をもち、公開状では旗国の管轄に服する「旗国主義」
    ただ、便宜船籍(パナマ、リベリアなど税金が安く、安全基準が緩やかな国)も多い
  ・海賊船や不審船(旗国の不明示/偽装)はどの国も臨検、逮捕できる
  ・潜水艦は領海では浮上、国旗掲げる必要。軍艦は各国で対応ばらばら
  ・海峡ではすべての船舶、航空機について無害通航権より緩やかな通過通航権

・国家間の対立
  ・日韓間のEEZは日韓漁業協定(1999)で調整
  ・日中間のEEZは日中漁業協定(2000)で
  ・大陸棚:白樺(春暁)ガス田開発(2004)→共同開発で合意(2008)
  ・沖ノ鳥島

・公海での漁業にも制限
  ・国連公海漁業実施協定(1995採択、2001発効、2006に日本にも効力)
    ストラドリング魚類(タラ、カレイなど)、高度回遊性魚類(マグロ、カツオなど)
  ・国際捕鯨取締条約→国際捕鯨委員会(IWC)。豪州による日本提訴

・宇宙
  ・ソ連の人工衛星打ち上げ→米ソの宇宙開発時代に
    →国連の宇宙空間平和利用委員会でルール作り→宇宙条約(1966)へ
  ・宇宙空間は国家による取得の対象にならないが、基地建設や資源開発はOK
  ・月協定では、月は「人類共同の財産」とされた(ただし批准は10数カ国のみ)
  ・宇宙空間は平和目的のために利用しなければならない
    ただしICBMの打ち上げ、軍事衛星の配置は禁止されていない
    *月は軍事基地、軍事実験とも×

・課題
  ・静止衛星軌道(高度36000km)の過密→利用ルールがない
  ・宇宙での商業活動の規制
  ・デブリなど宇宙の環境問題

【8】環境問題

・国際的な環境法
  ベーリング海オットセイ事件の仲裁判決(1893、英vs米)=生物資源の保護
  農業のための益鳥の保護のための条約(1902)
  トレイル溶鉱所事件(1941、米vs加)=大気・土壌汚染。しかしまだ伝統的規則の援用
・ストックホルム人間環境宣言(1972)
  リオ宣言(1992)
  持続可能な開発に関するヨハネスブルグ宣言(2002)

・環境条約
  ・個別分野で非常に多数の条約と、法的拘束力のない文書(ソフトロー)が重要
  ・枠組条約(一般的な目的や原則の規定)→具体的な「議定書」で具体化と履行確保
   eg. ECE長距離越境大気汚染条約(1979)→ヘルシンキ議定書(1985)
      オゾン層保護条約(1985)→モントリオール議定書(1987)
      気候変動枠組条約(1992)→京都議定書(1997)
      生物多様性条約(1992)→カルタヘナ議定書(2001)と名古屋議定書(2010)
  ・枠組条約に加わった国が議定書にも入る保証はないことに注意
  ・ソフトローを出す主体としては普遍的/地域的国際組織の役割が重要

・環境を巡る争い
  ・金銭賠償は十分でない
    (1)条約が規律する範囲外だと国家責任法の厳格な規則が適用される
    (2)予防、差し止めの権利が予定されていない
    (3)回復不可能な損害を補填できない(チェルノブイリなど)
  ・防止的措置
    ・事前通報、協議、同意(バーゼル条約)
    ・環境影響評価(ECE条約、南極条約、生物多様性条約)
  ・予防的アプローチ(予防原則)
  ・解決は二国間の枠組にそぐわないことが多い→締約国会議へ

・経済格差→「共通だが差異ある責任」(リオ宣言)
・GATT,WTOと環境を理由とした貿易制限の調停→今後の議論

2017年12月27日

国際法(1)

去年から今年の前半までの仕事では条約や国際交渉のことをずいぶん扱ったので、「あれ一体何だったの」という整理というかおさらい(←今更ともいう)。有斐閣アルマやストゥディアなど、最近2年以内に新版が出ている初学者向けの本をいくつかめくってみて、情報はしっかり入っていて(必須)、かつ読みやすい(副次的)だろうと思ったのが本書。

2ページで「地球上のすべての国家を当事国とする多数国間条約は未だかつて一度も存在したことがないし、これからもおそらく存在しないだろう」といっているのを見るにつけ、197カ国・地域が署名し、着々と締結してるパリ協定ってすごいんですねという思いを新たにします。

(2)はこちら

■植木俊哉編『ブリッジブック国際法[第3版]』信山社、2016年。

【1】国際社会におけるルールのかたちとはたらき

・国際社会≠国内社会
  ・立法機関、行政機関がない
  ・規範は自生的な性格をもつ→規範が常に問われ、解答も時代とともに変わる
  ・政府が存在しない。分権的社会

・国際社会における国家の行動を規律する規範=国際法の「法源(存在形態)」
  (1)条約=国家間の文書による合意
  (2)国際慣習法=すべての国家に適用(公海自由の原則、領空の無許可飛行の禁止)
  (3)文明国が認めた法の一般原則=各国内法の共通原則で国際関係に適用可能なもの

・国際慣習法の成立要件
  (1)一般慣行=大多数の国家による反復的な作為/不作為
  (2)そうした作為/不作為が法によるものだという「法的信念」
  *ただしいつ成立したかわかりにくい。内容も不明確→法典化(ベンサムが提唱)

・法典化
  ・代表例はハーグ平和会議(1899,1907)とハーグ国際法典編纂会議(1930)
    ←このころ、複数国家で取り組むべき問題、利益の存在が認められたため
  ・今日の法典化:国連総会の補助機関、国際法委員会(ILC,1947) が担う
    例)外交関係に関するウィーン条約、条約法条約など

・国際法における二つの規範
  (1)任意規範=当事者が合意すると逸脱できる
  (2)強行規範=当事者が合意しても逸脱できない
    ←国際社会にはないとされてきたが、条約法条約(1969)53条で存在確認
      強行規範に抵触する条約は無効(侵略戦争、植民地支配の禁止など)

・条約が及ぼす国内法体制への影響(各国の裁量)
  ・国内法の改正(例:女子差別撤廃条約→戸籍法改正で父母両系血統主義に)
  ・行政措置での対応
  ・解釈による抵触の回避

【2】条約

・最古の条約はBC3000頃のメソポタミア都市国家間
・今日的な条約の期限は17C中葉の西欧。対等な主権国家間の合意
  →私人間契約に似たものと考えられた(ローマ法の影響、私法類推)
  →二国間条約はこれでいいが、多数国間条約はそうもいかない

・合意は拘束するpacta sunt servanda
  ・条約は結構よく守られている(あまり脆弱なものとみてはならない)
  ・守らないときでも、国家は国際法の考え方を使って自分を正当化するもの
  ・守るのは、法制定者も法の適用対象者も国家だから(守らないと対抗措置も)

・手続き
  全権委任状を持った国家代表による外交交渉
  →条約文の採択、署名(条約文の確定)
  →条約の批准、批准書の交換や寄託(国家が拘束されることの最終的同意)
  →条約の発効

・外交の民主的コントロール
  .秘密外交の廃止、14カ条の宣言(ウィルソン、1918)
  *ただし、迅速な手続きでいいものは「行政協定」。議会承認なし
・日本:内閣は条約を締結するが、国会承認を経ること(憲法73条三)
  法律事項や財政支出を含むものは国会承認が必要(大平三原則、1974)

・留保
  条約全体の趣旨には賛同できても、特定の規定内容が国内事情と合わない場合
  →署名、批准の際に特定の法的効果を排除/変更する声明
  eg.日本の不戦条約1条と明治憲法、社会権規約(1979)
  ・できるだけ多くの国が締約国になれば条約の普遍性が上がるので許容される
  ・ただし条約の核心にかかわる留保は認められないのでは?
    →両立性の原則
      当事国ができるだけ同じ権利義務に服する「一体性」と
      できるだけ多くの国が当事国になる「普遍性」の均衡点を探ること
  ・国連海洋法条約や国際組織の基本条約のように、留保禁止の条約も存在
    →ただし、許される複数解釈の一つをとる「解釈宣言」で切り抜ける手も

・条約は第三者を害しも益しもしないpacta tertiis nec nocent nec prosunt
  が、政治的な影響は及ぼしうる。eg. 周辺事態法(1999)
・第三国への義務は書面による同意が必要だが、権利付与は拒否がなければOK
・条約が国際慣習法化した場合は例外(条約法条約38条)

【3】国際法主体としての国家

・国家:「領土」「人民」「政府」が3要素
・ただし20世紀初頭までは「文明国」のみが国際法上の「国家」とされていた
  →アジア、アフリカは「無主地」として植民地支配が正当化された
  →民族自決の原則が確立し、修正
  →信託統治地域(国連憲章11章)もパラオの独立(1994)で終了

・国家の誕生、変更、解体
  ・国家の承認は、国連加盟の承認とは別→既存の国家が個別に行う
    外交関係の樹立(両国間の合意)とも別の「一方的行為」
    通告や宣言による「明示的承認」と、条約締結などによる「黙示的承認」あり
    eg. 日本の東ティモールとの外交関係樹立は黙示的な国家承認
  ・国家の変更:非合法な政府交代(革命、クーデター)が起きた場合
    他国による政府承認(一方的行為)が必要
    ただし国内問題への干渉という意味合いを持ってしまう
    →最近は外交関係の維持/樹立/断絶で処理(政府承認の廃止傾向)
  ・解体、消滅:旧ユーゴ、東西ドイツ統一、チェコとスロバキアの分離独立など
    →旧国家の権利義務、財産や債務は?―「国家承継」の問題が発生する
    (1)従属地域が新独立国になる場合→白紙。クリーン・スレート理論
    (2)結合や分離の場合→包括承継
    *ただし、このルールは広く支持されているわけではない

・国家が一般に国際法上もつとされる「基本権」
  =独立権、平等権(→主権平等原則)、名誉権、国内管轄権(→内政不干渉原則)
・友好関係原則宣言(1970)での7つの基本原則
  武力不行使、紛争の平和的解決、国内事項不干渉、国家の相互協力義務、
  人民の同権および自決、国家の主権平等、憲章義務の誠実履行
・さらに自衛権、外交権、使節権など

・国家の平等とは?
  ・国際法の定立における平等
  ・国際法の適用における平等(法の下の平等)
    ←戦争の違法化、武力不行使義務で「力」の差に起因する不平等が解消した
    *ただしICJ判決の安保理による強制執行は、常任理事国に対しては事実上無理
  ・権利義務の内容に関する平等
    現代は、武力を背景にして締結された条約は無効(条約法条約52条)
    →19世紀の不平等条約のようなものはできにくくなっている
    ただし、具体的な権利義務がすべて平等というわけではない eg.京都議定書

・主権の及ぶ空間
・排他的領域主権
  ・領土
  ・領海(陸地から12海里)+内水=領水(外国船舶は無害通航権あり)
  ・領空=領土と領水の上空(外国民航機には協定に基づく飛行の権利あり)
・主権「的」権利
  ・排他的経済水域
  ・大陸棚
・公海、深海底、南極、宇宙は特定の国の排他的権利が及ばない

【4】外交官と領事館

・外交官=自国を代表して他国との交渉や決定に参加する
  大使など「使節団の長」と使節団の外交職員を指す
・外交関係に関するウィーン条約(1964発効、日本は1964批准)
・外交使節団=外交職員(外交官)+事務・技術職員+役務職員
  仕事は「本国を代表して行う任務」+「自国民の保護」

・領事官=各地で本国と自国民の利益、権利を守るための活動を行う
  +派遣国の国民への旅券、査証発給+国民への援助(相続、後見など)
・領事関係に関するウィーン条約(1963採択、1967発効、日本は1983加入)

・外交特権
  ・根拠は「職務遂行に必要な範囲で認められる」とする「職務説」が有力
  ・外交使節団への特権:公館の不可侵、公館への課税免除、書類の不可侵…
  ・外交官への特権:身体の不可侵、裁判権からの免除、租税の免除…
・領事特権
  ・もっぱら「職務説」
  ・特権は外交官より限定

・瀋陽の日本総領事館への脱北者駆け込み事件(2002)
  庇護を求める第三国の人を保護する権利を国際法上有するのか、という
  「外交的庇護」の問題を提起
  (*自国の領域内に逃れてきた個人を領域主権で保護するのは領域的庇護)
  ・領域国の主権侵害vs人道的配慮
    →外交的庇護が国際法上の権利として確立するかは今後
  *ただし、あくまでも庇護を求める人ではなく、国家の権利であることに注意

・国家元首、首相、大臣の特権
  ・戦争犯罪や人道に対する罪を除き、他国の裁判管轄権からの免除あり
    ただしピノチェトに対するスペイン→英国の引き渡し請求(1999)で議論に
    民族ヘイトのコンゴ外相に対するベルギーの逮捕状発給→2002ICJ判決も

2017年12月26日

パソコン買い換え

2012年に買ったVAIOの調子にむらが出てきたので、PCを買い換えました。
10年ぶりくらいにデスクトップ。Lenovoのideacentre510S(90GB0046JP)ってやつです。第7世代Core-i5、8GBで52888円。それとLGのモニタ22MP48HQ-Pを11980円で、前のノートと同じくらいの値段になりました。

デスクトップにした理由は主に2つ。

(1)机上のスペースを広くするため。PCを置いてある勉強机で飯を食ったり会社ノートを置いて仕事をしたりしていると、ノート置きっ放しは狭い。フットプリントはモニタの台のほうがはるかに小さいし、デスクトップのキーボードは邪魔なときは寄せておけます

(2)大きいモニタが欲しかった。大きいといっても21.5インチですけど。ちっちゃい画面はだんだん目がつらくなってきたのと、複数の画面を並べて作業するのって楽だなと会社の23インチを見ながら思っていたため

で、やっとWindows7→10になりました。そんなに難しいことはしないので特に困りません。
あと、無線LANを使い続けようと思ってUSB接続の子機アダプタ(ELECOM, WDC-867SU3S)を1490円で買いましたが、速度は40Mbpsくらいだし、高頻度で切れる。5mのケーブル(MCOのカテゴリ6A、ビックカメラで510円)でつなぐと90Mbpsくらい出で、当然切断もありません。本体の動作も相当軽くなりました。USBポートを通信に使うのはかなりの負担になっていたのかな?

モニタは画面が時々若干暗くなるんだけど、これは付属のHDMIケーブルの問題か、馴染み(?)の問題か……と思っていたら、エネルギーセーブ機能のせいでした。気になるので解除。

音は引き続きFMトランスミッターで飛ばしてコンポから聞いてます。
まあこれは当面このままでいいか。

* * *

25日の昼飯後、急に体調が悪くなり、帰宅してから深夜まで3回吐き、熱も出ました。
27日から鹿児島に出張することになっていたところ、この体調だとマジヤバイと思っていましたが、その出張案件が1月以降に延期になりました。奇跡が起きた。
先方から「ホントすみません」とお電話をいただいたのですが、「いえ万全を期してのことですから」と答えた声が弾みすぎていたのは否めない。

疲れがたまっていたところに、質の悪い鶏肉を食べたせいではないかと疑っています。2008年の12月末にも、やはり食べ過ぎで急性胃腸炎になってる。腹も身のうち。

* * *

■岡田匡『糖尿病とウジ虫治療―マゴットセラピーとは何か』岩波書店、2013年。

2017年11月30日

下旬まとめ

駒込で昼過ぎの仕事があったついでに寄った「きなり」。
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盛り付けがアレであまりおいしそうに見えないのですが、実際は芯の強い白醤油がとてもおいしく、一緒に頼んだ生姜の香りが効いてる炊き込みご飯に寄り道してから戻ってくるとスープが際立って、さらに満足しました。

* * *

金沢に1泊で出張してきました。
長野以遠の北陸新幹線も、金沢も初めて。

21世紀美術館は特に面白くなかった。

「ノーサイド」っていうところで食べたハントンライス。
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オムライスと白身魚のフライが何のシナジーも起こしてない。
むしろ「針の上で天使が何人踊れるか」的な空想を喚起する。(しない。)

「GOEN」ってところのおでんとお寿司。
171130goen.jpg
まず寿司だけ出てきて飲み物が来ないし、おねーさんはレジ操作も接客の仕方も把握できてないし、お通し400円とかで会計の2割を占めてるしで、素材はいいけど人と仕組みが全然だめだった。

新幹線で食べながら帰った中田屋のきんつばは謙抑的な甘さで好きでした。

仕事はあまり気が進まない感じで行きましたが、行ったら行ったで勉強になりました。

* * *

■ダニエル・ソロブ(大島義則他訳)『プライバシーなんていらない!?―情報社会における自由と安全』勁草書房、2017年

■都甲潔、中本高道『においと味を可視化する―化学感覚を扱う科学技術の最前線』フレグランスジャーナル社、2017年

2017年11月05日

チャヴ

■オーウェン・ジョーンズ(依田卓巳訳)『チャヴ―弱者を敵視する社会』海と月社、2017年

公営住宅に住んでいて暴力的、10代で妊娠し、人種差別主義者でアルコール依存の労働者階級の若者。憎悪を込めて彼らを指す「チャヴ(Chavs)」は、もともとはロマの言葉で「子ども」を指す「チャヴィ」からきた言葉だが、Council Housed And Violentの略語だ、なんてデマもある。

イギリスにおいて「階級」はなくなった、とたびたび主張されてきた。だが、そう考えてはいけない。いまでも極めて不平等な社会だし、近年その度合いは強くなっている。「階級の政治」から「アイデンティティの政治」への転回を経た世の中で、黒人や同性愛者を揶揄すれば相当な批判を受けるが、白人労働者階級は心置きなくクサせる。人種としてはマジョリティだし、”階級は存在しない”以上、彼らが苦境にあるのは彼ら自身の「向上心の欠如」によるものだということになる。こうしてアンダードッグは自分を責め続けるよう仕向けられる。

チャヴ・ヘイトの起源は1980年代のサッチャー時代に遡る。サッチャーは「階級は社会を分断する共産主義者の考え方だ」と切り捨て、集団ベースの問題解決ではなく、個々人の自助努力を称揚した。為替管理の緩和とポンド上昇によって金融業を繁栄させ、そのかわりに輸出が生命線だった製造業と工業労働者コミュニティを破壊、労働組合をこてんぱんに叩いた。結果、肉体的にはきついが、それなりの払いと安定があって誇りをもてる働き口が激減し、ただでさえ少ない雇用はスーパーやコールセンターに集約されていった。その帰結は大量失業、貧困、住宅事情の悪化、犯罪、薬物中毒、そして「嘲られる労働者階級」の誕生である。

ただ実際には、サッチャーの保守党は階級区分に深く根ざした政党であり、その政治は階級闘争そのものだったことを忘れてはならない。それは、パブリックスクール出身の中流階級が、自らの富と権力を固めるために仕掛けた、「上からの階級闘争」であった。目指したのは階級の解体ではなく、階級を見えなくすることだったのだ。

不思議なのは、多くの労働者を敵視した保守党がなぜ支持され続けたのかだ。からくりの一つは、労働者階級の中で「頑張れば上に行ける」と思う層と思わない層の間に亀裂を入れ、前者を取り込んだこと。もう一つは、対抗すべき労働党の意気消沈と弱体化だった。以来、福祉依存の敵視と公共サービスの削減、不平等の容認と低所得者により打撃の大きな税制の導入、果てはサッカーのチケット値上げによる低所得者の締め出しまで行われ、ポスト・サッチャーの時代にもプロジェクトは順調に完成へ向かう。貧困は社会問題ではなく、個人の資質の問題になっていった。

中流出身の議員や報道関係者、右派評論家らは労働者階級を理解する動機と視点を欠き、テレビや新聞は暴力や無気力の極端な例を全体状況のように描いて容赦なく労働者階級を貶める。労働党=ニュー・レイバーまでもが「向上心のある労働者」に焦点を当てる。ブレアが「能力主義(メリトクラシー)」を押し出し「いまやわれわれはみな中流階級だ」と言い放つに及んで、「チャヴ」の代弁者は消滅した。

その空白を埋めたのが、人種差別的なイギリス国民党(BNP)である。白人労働者階級はネグレクトされた民族的マイノリティだ、という多文化主義のハッキング。そして「チャヴは愚かだからBNPを支持する」――人種差別を否定するリベラルな価値観から、さらなるバッシングが噴出するとは!その一方で不十分な雇用、不十分な住居という社会問題の責めは社会の支配階層ではなく、移民に帰せられていくのだ。

2011年に書かれた本ですが、16年のBrexitもこの流れで理解できるんじゃないでしょうか。排除の社会学・応用編、あるいはポピュリズムの政治学。さてイギリスのケーススタディはどこの国まで敷衍できるかな。

2017年10月21日

心3題

■信原幸弘(編)『ワードマップ 心の哲学』新曜社, 2017年.

18年も前の留学時代に「心の哲学」を覗き見したとき、なんか小難しいけどこれ必要なのかな……と思ったまま遠ざかっていました。しかしその後、認知科学が発展し、ディープラーニングが興隆して、今ここすっごい面白いんじゃないかと思っていたところに、丁度良く見取り図が出たので買ってみました。いつだって自然科学の参照なしに人文学なんてできなかったと思うけれど、その結びつきが特に強まる時期に来たとも感じます。次のような項目に特に興味を持ちました。

・物と心は一つなのか二つなのか、脳がどうやって心を生むのか。
・「わたし」は(どのような意味で)存在するのか。
・美醜に関する経験の本質的特徴とは何か。利益と無関係であること?驚嘆で構成されること?……
・「心」と「世界」の境界はどこにあるのか。ノートに書き留めたメモ(つまり脳の外に固定された記憶)は拡張された心とはいえないか?慣習やルールなど「社会」とのかかわりにまで拡張することはできないか?
・精神疾患と身体疾患はどう違うのか。物理的治療と心理的治療とはどんな関係にあるのだろうか?(=心身問題の再燃!)精神医学におけるEBM、VBM、NBMとは?
・「依存状態」では何が起きているのか。対象を獲得することを繰り返すと、慣れてしまって快感は減り、気持ちは離れていくはずなのに、なぜ身体が対象をますます求めるのか?
・心はコンピュータで再現できるのか、コンピュータで超えることができるのか?

* * *

関連で、この夏聞いた放送大学のラジオ科目「比較認知科学」(今年改訂されたものらしい)が出色でした。比較は文化間比較ではなく、ヒトとサル、ハト、ネズミなど動物との比較です。実験によって明らかになってきた、動物の色や形の認識、記憶、感情、メタ認知などが人間とどう同じでどう違うのか。これを聞くと世界の見え方がちょっと変わってきます。

* * *

メンタルがやばげな妹からLINEで差し迫ったメッセージが来て、仕事が特に忙しい時期に入っていた弊管理人は、メッセージの影響で一時期結構やられました。やばい人に対して無視や停止要求をすることもできないので、仕事中はLINEを見ないことにして、終わったら気合いを入れて、まとまった時間、相手をしていました。

やりとりしていて気付いた特徴ですが、
(1)自分を環境から攻撃を受ける被害者の立場に置き(「かかってる医者が自分の大変さを理解してくれない、仕事がの負担が重い、騒音など住環境が悪い」)
(2)しかし自分も責め(「弱い自分が厭になる」)
(3)防衛的で変わろうとしない(アドバイスしても「もう十分やってる」、金銭的援助などを申し出ると「迷惑かけたくないから援助は求めない」)
ので、非常に対処しにくい。

一度とっくりとやりとりをして、どうも「隣戸の生活音や、他人が自分に良い感情を抱いていないのではないかなど、外部に対して過敏になっており、それが社会生活をストレスフルにしている」という整理にまでは辿り着きました。今後の方向性としては、恐らくかなり根本的な問題である「感覚の過敏さ」(あるいは「不安」)を薬でコントロールすることを第一に目指すことを提案しました。長くかかっているらしい医者が合ってないので、医者を変えるのがいいのではとも。

しかし、「感覚の過敏さ」にも原因があるはずです。それが引き起こす社会生活のストレスがさらに感覚過敏の一因になるという、ネガティブなループを作ってしまっているようでもあります。薬を使ってループを切断する試みが成功しなければ、次に考えるのは社会生活からいったん退避することでしょう。田舎に戻ることが手段かもしれませんが、田舎の父に負担がいくのでできれば避けたいところではあります。

また、社会生活のストレスもさることながら、それとは別のもっと深いところに、「感覚の過敏さ」を引き起こしている原因があるのかもしれません。思いつくのは家族との死別や大学中退前後のゴタゴタですが、これは精神療法で何とかしていく類のものではないかと推測します。ただし弊管理人(そして弊管理人がこの件について見解を聞いてみた人)は、妹は「もともとそういう体質の人」である可能性が高く、狙えるところはせいぜい「緩和」までだろうとも思っています。

長いこと交渉の薄い妹なので弊管理人が持っている情報は少なく、対処方法を考えるために来歴と現状を聞き取っていると非常に疲れるし、愚痴り返すと状況が悪化するため愚痴れず、ストレスも大きいです。「こういうストレス構造になっている」と説明しても、それを自力で解決しようという意思や行動にはつながらないかもしれない。ただ「うんうん大変やね」と聞くくらいの対処しかないようでもありますが、やばい人は「この人は話を聞いてくれる」と思うとその人にばかり話すので負担が集中するんですよね。近日、弊管理人の仕事が落ち着いたところで面談をすることになっており、またおなかがしくしくしそうです。

2017年09月23日

3連休のあれこれ

ちょっと足を伸ばして厚木のZUND-BARに行ってきました。
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あら炊きの塩。スープだけ、スープ+麺、スープ+麺+葱、でそれぞれ風味が変わります。頬張らずにじわっと楽しむべき出汁の味。「チーズダッカルビ好きっす」みたいな人には物足りないかもしれないが、老境の弊管理人は好きでした。

そんで温泉入ってさっさと帰ってきました。

* * *

放送大学のFMラジオ放送が2018年9月で終わり、受講してない人が聴けるのはBS放送だけになってしまいます。今はラジオをタイマー録音して持ち歩き、外回りや通勤時に聴いているのですが、さてどうしたらいいのでしょうか。

暫く考えていましたが、これだけのことだった。
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やってみたらできました。
・集合住宅の場合、BSはアンテナ端子とテレビのBSアンテナ端子を結べば普通に見られること
・録画機能のない普通のテレビにも、設定した時間に音声(と映像)を送り出す機能があること
これに気付いてなかったんですね、今まで。

* * *

暑さがましになってきたので、自炊再開しました。
昼はハンバーグ。6月から使ってない古い米と油と醤油をさっさと処理しなければ。

* * *

■Williams, H., Death, C., Global Justice: The Basics, Routledge, 2017.

グローバルジャスティスってなんやねんという疑問がここ暫くあって、丁度良く入門書が出たので手を付けてみました。
出発点はロールズで、それを踏み台にしたベイツやポッゲを経由し、セン、フレイザー、ヤングとかからポストモダニズムやラディカル・エコロジー、緑の国家まで多士済々駆け抜ける、大学初年度の学生さん向けの「リーダーとともに」読む概説って感じ。つまり本書だけだと、主要人物たちの布置は分かるが言ってることの内容はあまり分かった気にならない(語彙もノンネイティブには若干難しい)。でも弊管理人はおじさんなので、名前の羅列を見るとなんとなく何がしたい分野なのかが想像できました。

前半は思想小史。後半はアクティビズムの展開を紹介していて、去年たまたま仕事で絡んだ気候変動に重点を置いてあったので、後半のほうがサクサク読めました。そして、出会った国際NGOの人たちとか外交官とかがなんでああいう発言や行動をしていたか、やっと分かってきた。これは予想外の収穫。

この分野は理論と実践が両方大事というか、切り離せないよねというのは著者の言うとおり。ということはあまり「誰が何を言った」に偏らず、これ以降は具体的な国際問題を扱った文章に目を向けていったほうが楽しそうではあるね。

* * *

■仲正昌樹『NHK 100分 de 名著 2017年9月』NHK出版,2017年.

NHK教育でやってる「100分de名著」の9月はアーレントの『全体主義の起原』。初めてテキストを買って読みました。みすず書房から出てる本は高い上に3巻構成なので二の足を踏んでいましたが、この紹介を読むと面白そうかもと思えます。

2017年09月08日

天草

【9/7】

熊本駅近くのレンタカー屋で車を借りて、8時過ぎに出発。目的地は天草の崎津地区です。

たっぷり2時間半かかりました。
教会は珍しい畳敷き。祭壇は、ちょうど旧庄屋宅で踏み絵をさせていた場所にあるそうです。
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崎津は「潜伏キリシタン」関連遺産の登録が目指されている場所の一つです。禁教下でも集落の人口の7割がキリシタンだったとされています。神社もお寺もあり、残り3割の非キリシタンと共存していたというのが不思議なところです。(もっとも、集落内、時には家族内でキリシタンと非キリシタンが混ざっているのは他でもある普通のことだそう)
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「みなと屋」という古い旅館を改装した資料館で、丸山さんという方にいろいろお話を聞きました。史料が豊富にあるわけではないので分からないが、村の一体性を重視した結果ではないかとのこと。また、地理的な遠さから、島原天草一揆に参加しなかったことも強い弾圧を免れた一因かもしれないとおっしゃっていました。
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一方、宣教師がいないところで250年もなぜ信仰が続いたのかは不思議です。旅行に持っていった大橋幸泰『潜伏キリシタン―江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社, 2014年)では、信仰共同体としての「コンフラリア」と、村の共同体の一員としてのアイデンティティがうまくバランスしていたことに原因を求めています。つまり、キリシタンであることはその人の唯一のアイデンティティではなくて、村の社会の中に埋没し、時にはお寺や神社の行事に参加したり踏絵をしたりしていたのだという。
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明治になって崎津の「潜伏キリシタン」は「キリスト教」に改宗したのですが、隣の今富という地区ではキリスト教が黙認されるようになっても改宗をせず、仏教徒のままキリシタンであり続ける「隠れキリシタン」の道を選んだそうです。水方(洗礼を授ける役)の一人を修験者がこなすなど、250年の間に仏教や修験道の要素が加わってオリジナルからはずいぶん形が変わっており、「本来はこういう感じ」という正解を見せられても納得ができなかったことが原因ではとのこと。
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なんでそもそもキリスト教がウケたのでしょうか。それも丸山さんに聞いてみましたが、ここに入ってきた宣教師が医者で、いろいろ困りごとを助けたことに恩義を感じたところから入ったのではないか、との説明でした。きっかけとしてはそうでしょうが、禁じられつつ250年も保持できるほどの動機は別のところにあったと思います。いろんなパンフレットを見ても、意外とここが触れられてないなあと。
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長崎の教会群に比べて、天草は圧倒的に展示や説明がしっかりしてました。
世界遺産になるのがいいかは分かりませんが、なりたいならなれるといいなと思います。

あとは、苓北町で「おっぱい岩」見て、
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カレー食って熊本に戻り、最終の飛行機で熊本空港から東京に戻りました。

2017年08月21日

種子島

年齢的にもう順番が回ってくることもないかな、と思っていた種子島出張(3回目。初回、2回目の前半後半)が土壇場で転がり込んできたので、2泊3日でほいほい行ってきました。
今回は有り難くも空席待ちが実り、夏限定の伊丹→種子島線が利用できました。
出発前、「プロペラ機じゃないの?」と職場のおにいさまに言われ「結構距離あるし、さすがにジェットでしょ~」と笑い飛ばしたらプロペラでした。
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東京では8月に入ってずっと雨でしたが、鹿児島は30度超えのピーカンです。
お仕事はさっくり終了。
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一緒にお仕事をした若者と「終わりましたねえ」と言いながら見た種子島の海、19時。
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星空も素晴らしかったです。

仕事は弊管理人含め3人。夕飯は連れ立って出掛け、地のものを食べました。
1日目の夜、南種子町の「一条」で出てきたショウブ。種子島の夏の味覚だそうです。
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このお店、メニューはなく、3000円のお任せコースだけと聞いて言ったのですが、小鉢6つ、切り干し大根(細くない。輪切り大根)とイカの煮物、すき焼き、このショウブ、締めのうどんとお腹がはちきれるくらいの量が出てきて「本当に3000円で済むの……?」と一同不安がよぎりました。でも3000円でした。やばい、これは。

2日目は「八千代」でナガラメ(トコブシっぽいなと思ったらトコブシらしい)。
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ここは鶏料理も結構推してますね。

弊管理人は生もの嫌いではなかったかと?
嫌いってほどじゃないんです。自分一人だと特に食べないだけで。

* * *

帰りは午前中の高速船で鹿児島市に出て、そこから飛行機。ですが、Uターンラッシュの日に当たったため、チケットとりが非常に難航。新幹線で7時間かけて帰るか……と真剣に検討していたところ、奇跡的に取れたのが20時10分発の鹿児島→成田です。

ちょっと時間があるので天文館「くろいわ」でラーメン。
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とんこつ。あっ好きあっ好き!

鹿児島中央駅の地下でまた「しろくま」食って帰りました。
ちょっと寄ったスポーツクラブで何の気なしに体重計に乗ったら、見慣れない数字を見て引きました。痩せようかな……

* * *

■神崎洋治『人工知能解体新書』SBクリエイティブ, 2017年.

行きの伊丹空港で買って、帰りの鹿児島空港でフィニッシュ。
ディープラーニングの仕組みをざくっと分かっておきたい、と思ったものの、ざっくりすぎて目的を遂げず。
使い方の実例は(若干古いが)多いのはよい。
誤字が多すぎて出版してはいけないレベル。人工知能に校閲してもらえ。

2017年08月09日

孤独な散歩者の夢想

■ルソー(永田千奈訳)『孤独な散歩者の夢想』光文社,2012年.

『エミール』の発禁と逮捕状の発布、逃亡生活ですっかり厭になっちゃった、ちょっと病んでる思想家のエッセイだとは知らずに、なんとなく手にとって読み始めて、のっけから「この世にたったひとり。」とか切り出されて面食らいました、正直。

無理矢理でも半分くらいまで読んだらサヨナラしようかな、と思いながら読み始めたものの、結局ずんずん最後まで読み切れてしまったのは、妙にこの「世の中めちゃ面倒」という感じ、なんかわかる、って思ってしまったからです。

第6の散歩では、人に親切をすると気持ちがいいし、したいのだけど、実際やってしまうと次も期待されて、義務みたいになっちゃって、もし途中で親切を中断すると、もともと何もしてなかった状態よりさらに裏切られた感じを相手に与えちゃって、ああもう諸々うぜえ、というぐねぐねが綴られています。倫理と義務が結びつくカントとか無理。しかも顔の見える関係性の中でだと超窮屈。こういう人が現代に生きていたら、フェイスブックで他人の気分の上げ下げに付き合わされるのとかまっぴらご免なので、友達ほとんど全員のフォローを外して、気の向いたときに自分から見に行くようにしてます、とか言いそう。ていうかそれ弊管理人。

第7の散歩は、年食うということの寂しさに満ちています。今から何を始めるというのもな、っつってとっつきやすい植物観賞にはまり、それにまつわる思い出に遊ぶというか、そういう手持ち無沙汰な状態。これも長く弊管理人が抱えながら反抗している気持ちではあります。ルソーの場合はさらに深刻で、第9の散歩では、子どもと接する時に、その反動として自分の老いを再認識してしまう、もっというとコンプレックスさえ醸し出してしまっている。「おっさんが近づいたら子どもも迷惑だよね」なんて悩んだりして……

優しい人でありたくて、しかし人間嫌い。でも他人が接してくれるのは嬉しくて、そういうことがあると舞い上がっちゃうのだけど、なんかその感謝の表出の仕方がぎこちない。痛いというか。で人間関係、ほんと面倒くさいっていうところに戻る。

世の中のことを考えるのには一区切りつけてあり、もうこの世で追求すべきミッションもないし、新たに何かをというつもりも気力もないのに、時間は中途半端にある。そんな「生きベタ」な自分のあれこれを、それでも思わず書き付けてしまう。でも書き付ける気になったのは多分、「でもまあいいか」という境地に達したからこそじゃないかと思います。そこにこそ普遍性(「なんかわかる」)への窓が開くというもの。いやどうかな。

2017年07月30日

観蓮会

先週のことですが、田無にある東大の農場で開かれた観蓮会に行ってきました。
休日限定の早朝覚醒により、朝7時のオープンに合わせて楽々現着。
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曇りで少し風がありました。でもかんかん照りだと体が辛いのでこれくらいがよい。
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蓮は、光があまり強くないほうがきれいに写る気がします。
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それぞれのピンクが夢のような発色でした。種はぞっとするんだけど。
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行く前はなんとなく池にいっぱい蓮が植わってるイメージを持っていましたが、実際は鉢や生け簀みたいのにさまざまな品種が入って並んでおり、「だよねえ」と思い直した次第。
ひまわりの迷路もありました。
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昔はそんなことを思ったことなかったのに、何か一斉にこっちを見ているようで気味が悪かったです。
駅前の松屋で朝飯食って帰りました。

* * *

この土日は寝たり起きたりしており、合間にいろんな人と会って、あっという間に過ぎていってしまいました。実家から桃が箱で届いたので朝に夕に食べてます。食物繊維が豊富で(皆まで言わない)

* * *

■加藤秀一『はじめてのジェンダー論』有斐閣, 2017年.

傷つけたり傷つけられたりしないために知識を仕入れ、関心を維持し、こういうじめじめ怒ってる人たちの世界になるべく踏み込まないで生きていきたいなと思わせてくれる筆致でした。説明が食い足りなく「なんで?」と思うところも少しありますが、見取り図として有用で、読みやすさもピカイチでした。

2017年07月19日

ろか

仕事先から、いつもと違ったルートで帰宅。大久保駅の近くを通ったら、よく行列してるお店がさくっと入れそうだったので、ふらっと入りました。「魯珈(ろか)」。
カレーとルーロー飯を頼みました。
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スパイス大好きな人が作ったカレー。おいしかったです。感じのよさもいいですね。
行列がない時に通りかかったらまた行く。

* * *

会社の別部署にいる優秀で人間のできた若者から「うちでボードゲームしましょ」と言われて、先日の連休の最終日に行ってきました。
弊管理人と、若者と奥様、同じ部署のさらに若者と、奥様のお友達の5人でおいしい昼食をいただいて、そのあと夕方まで楽しく遊びました。姑息、卑怯、いらいらする人がいると雰囲気が悪くなるものですが、全員スマート&ノーブルかつ真剣勝負だった。ああ清らかすぎて居づらい(うそ)

* * *

■岡本太郎『神秘日本』KADOKAWA, 2015年.

■亀田達也『モラルの起源』岩波書店, 2017年.

2017年07月02日

LGBTを読みとく

この週末やたら自宅で本を読んでいたのは、土曜は天気がよくなく、日曜は午後、自宅に配管清掃が回ってくるのを待機している必要があったためです。あまり雨の降らなかった梅雨もそろそろ終わりかな。

* * *

最先端やってる研究者にテキスト書く時間なんかねえんだよというお声も遠雷のように聞こえる昨今、それでも多分にマニュアルとかFAQ的な要素を含んだ新書を書くって偉いと思います。丁寧にやるかわりにパンピーにとっては結構なところまで行きますから、手をつっこんだ以上はついてきなさいね(にこり)というドS理学療法士のリハビリみたいな本ですが、ついていく価値あり。ほぼ知っていることでも、きれいに整理されていくというのは貴重な経験です。会社の図書室みたいなところに新着本として入っていたので手に取りました。つまり買ってない。ごめん。

分からなかったのは、人格としての同性愛という考え方ができる以前に「自分は同性愛者だ」と考える人がいなかったというのはいいとして、(1)それ力んで説明することで何を救おう/何と戦おうとしていたのか(2)そんでは「同性愛行為は前々からあった」という言い方ならいいのか、ということ。鮮やかだなあと思ったのはHIV/AIDSの問題とポスト構造主義がどうクィア・スタディーズを形成したかという説明と表。

■森山至貴『LGBTを読みとく』筑摩書房, 2017年.

▽とりあえずの分類

・個人の性別/性的指向sexual orientation(恋愛感情や性的欲望の向き先)が:
  女性/女性=レズビアン(女性同性愛者)
  男性/男性=ゲイ(男性同性愛者)
    *容貌、性格が「男性的」か「女性的」か、とは無関係
  性的指向が両性に向く=バイセクシュアル(両性愛者)
    *性的指向が1つとは限らない
    性愛に性別が関係ない=パンセクシュアル、を含む

・セックス(生物学的性別)/ジェンダー(社会的に割り当てられた性別、性差)
 /性自認(自分の性別に対する認識)
 を導入した上で:
    トランスセクシュアル=セックスと性自認の不一致
    (狭義の)トランスジェンダー=割り当てられた性別と性自認の不一致
    トランスヴェスタイト=容姿に関する割り当てへの違和
      *性自認は問題ではない。常に異性装しているとも限らない    
  これらをまとめて「(広義の)トランスジェンダー」と呼ぶことがある
      *性別の社会的な割り当てにはセックスも入るとの考え方→6章で

・LGBTの中でオーバーラップが生じるケース
  性別×性的指向×性自認で考えると、「トランスジェンダーの同性愛者」の存在も見える

・LGBTに含まれないケース
  性的指向が向く性別がない=アセクシュアル
  性自認(?)が男性でも女性でもない=Xジェンダー
  生物学的性に男性/女性が分けられる、との「性別二元論」にも疑問符を付けておく

▽前史 ★行為→人格

・中世キリスト教世界:生殖に結びつかない性行為(ソドミー)の禁止
・産業化→未来の労働力である子どもの保護→「悪い」性行為への厳罰化傾向
 その一つとしての「男性間の」性行為の厳罰化
  1871 独・刑法175条
  1885 英・改正刑法(ラブシェール条項)、ただし「放埒さ」への戒め
・性科学による「同性愛homosexuality」という言葉の提出と同性間性行為の医療化
  独刑法175条(非道徳的な「行為」を罰する)への反対の立場
  →男性間の性行為や親密関係(愛)を指向するという「人格」の治療を目指す
・この時点で「同性愛者」のアイデンティティを持つ個人が誕生
 また、この時に女性同性愛者も「発見」される

▽運動史

・ホモファイルhomophile運動(1950年代~、西側諸国)
  反ナチ、反マッカーシズム
  典型的な男性/女性らしさをもって既存の社会制度に取り入る「同化主義」的傾向
  医師、性科学者の権威を利用
  同性愛者のコミュニティ発展に貢献
・ゲイ解放運動(1960年代~)
  ストーンウォールの反乱(1969)*有名だが最初、というわけではない
  専門家の権威より、経験に根ざした反差別運動
  ただしこの時期、フェミニズムによるレズビアン差別など男女の状況には差異も
・レズビアン/ゲイ・スタディーズ
  担い手は同性愛の当事者(後のクィア・スタディーズとの違い)
・HIV/AIDSの問題(1980年代~)
  多様なマイノリティに及ぶ問題
  アイデンティティ×抵抗だけでは感染症に対処できないとの認識
  (他方、日本ではアイデンティティ醸成とコミュニティ深化を惹起)
・ポスト構造主義
  二項対立と脱構築(デリダ)
  網の目としての支配、その大規模さ(フーコー)
・HIV/AIDSの経験+ポスト構造主義からクィア・スタディーズへ

▽日本

・女性
  同性愛概念の輸入(1910年代)
  女学校での女性同士の親密関係(エス、おめ)、心中事件→問題の認識
  恐らくこの時代に自分を「同性愛者だ」とアイデンティファイした人もいたはず
  ただし成長過程で一過性に起きるものと考えられ、社会問題としては受け流された
  「レズビアン」という言葉はキンゼイ報告(1950年代)から
    その後、人格としてのレズビアンが根付く
・男性
  明治期の「学生男色」は鶏姦(当時違法)がなければ容認
  同性愛概念の輸入→「変態性欲」としての問題化、「悩める同性愛者」の源流
  キンゼイ~1960年代「ホモ」発明~1970年代「ホモ人口」で「集団」としての厚みを認識
・1990年代以降
  92 東京国際レズビアン&ゲイ映画祭
  94 パレード、全国キャラバン
  97 アカー「府中青年の家裁判」
  
▽TG史

1910 ヒルシュフェルト「トランスヴェスタイト」(異性装で性的興奮を得る者)の発明
  ただし同性愛とは未分化
1952 デンマークのヨルゲンセンが性別適合手術を受ける
  →同性愛とは違う「トランスセクシュアル」の顕在化
  医者、性科学者の権威による権利擁護の進展
1966 コンプトンズカフェテリアの反乱
*TGでもやはり男女格差、フェミとの関係の問題に留意
1980 DSM-IIIにGID掲載(cf.同性愛の脱病理化)
1990年代 GIDの周縁化、病理化への抵抗としてTG概念が普及。日本でも

▽クィア・スタディーズ

・3つの視座
  (1)差異に基づく連帯
  (2)否定的な価値付けの引き受け→価値の転倒
  (3)アイデンティティの両義性と流動性
・5つの基本概念
  (1)パフォーマティヴィティ
    バトラー。言葉の意味は使用の累積から産出される→本質への疑義
  (2)ホモソーシャリティ
    セジウィック。女性差別やホモフォビアを伴う異性愛男性間の紐帯
    →男性中心的な社会を維持する機能
  (3)ヘテロノーマティビティ
    ホモフォビア(反差別、ではあるが社会の問題を個人の心に矮小化する)
    →ヘテロセクシズム(異性愛を中心に据えた社会構造への注目)
    →ヘテロノーマティヴィティ(「正しい性」を頂点にした序列化への批判)
      →多様な「正しくない性」の連帯が可能に
  (4)新しいホモノーマティヴィティ
    ドゥガン。市場と消費に迎合した「裕福な同性愛者」の一人勝ち批判
  (5)ホモナショナリズム
    プア。国家が同性愛者を是認する見返りに、国家による他の差別を認める危険
    ピンクウォッシュ、イスラモフォビア批判

2017年07月01日

じんるいがく(終)

で、最後は引っかかった部分だけメモりながら土曜を使って一気読み。
400ページに1年かかってしまいました。
でもなんか教科書1冊走り抜けた達成感はある。

去年、(1)のエントリーに書いた「グローバル化によってフロンティアが消滅したら文化人類学はどうやって食ってくの」というお節介な心配には19章以降で少し(少しね)答えてくれたように思います。

あと最後の最後でsociologismという言葉があるってのを知った。
そのSociologyを次は読んでみようかなと。
16年ぶりくらいのメンテということで。

今回読んだ本はこちら。
■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.

* * *

19. Anthropology and the Paradoxes of Globalisation

・文化帝国主義、グローバル化、植民地主義、国際貿易、宣教師、技術、移動手段の高度化、国民国家の覆い→20世紀前半の文化人類学者は既に「未開」の文化の消滅を懸念
・1960-70年代のurgent anthropology:消え去る前に記述せよ、という緊迫感
・近年の懸念:社会間の接触の増加による複雑な関係が生成していること

▽それからどうなった
・植民地時代に研究された人たちは今、グローバルな経済、文化、政治の一部に
・国家が暴力を独占することで征服されることはなくなった
  が、採掘産業やプランテーション、宣教活動の侵入などが問題に
・アザンデに広がる賃労働者化、しかし魔術などの制度は残存
・ヤノマミは居住地内での金発見でグローバル経済に包摂
  先住民としてのヤノマミを世界に伝えるプロのスポークスパーソンも登場
  ただし多くは今も採集民(貨幣経済の重要さは増しているが)
  はしかの蔓延など困難も
・フランス統治下のマリでドゴンは敵のフラニから守られていた
  が、干ばつや人口増加に悩まされた
  現在はほとんどマリの国家に包摂され、通学やワクチン接種、仏語教育も享受
  イスラムによる文化変容も重要→ムスリムのフラニと平和的接触が可能に
・スーダンのヌアーとファー:内戦の影響
・トロブリアンド諸島では近代化により政治組織、経済、アイデンティティの政治に変化
  一方、親族システムや交換システムはいまだに機能している(重要性は低下したが)
・巨大なシステムとの接続でどうなったかがローカルの研究のスタート地点に
  →グローバルなシステムのさまざまな地点、レベルでの歴史的展開が主要課題

▽世界文化?
・文化的エントロピー(マリノフスキー)、文化グローバル化、クレオール化、雑種化、西洋化
  →「グローバル時代」にどうアプローチしたらいいのか
   グローバルとローカルの関係にどうアプローチしたらいいのか
・グローバル化:みんな同質になったのではなく、差異の表現方法が変わったとみるべき
・近代:WWI後、資本主義、近代国家、個人主義が人間存在にとって意味するところ
  →WWII後にその拡散は加速する
・最近数十年は、人、もの、アイデア、イメージの流れが全球スケールで加速
  時空間の圧縮(ハーヴェイ、1989)
  →空間が諸文化のバッファとなりえなくなった
・文化人類学も理論、方法の水準で複雑な課題に直面することに

▽近代化とグローバル化
・近代社会はそれぞれ違いがあるが、近代性には普遍性がある
  国家と市民権
  法制定権力や暴力の国家独占(ただしボコ・ハラムのような抵抗例も)
  賃労働と資本主義、資本が国土に縛られなくなる。半面、「南」の経済的従属
  貨幣=市場経済→持続可能な生産の優先度が下がる
  政治と経済が抽象的なグローバル・ネットワークに組み込まれる
  →どの個人もネットワークに決定的な影響力を行使できなくなる
  →単純な因果関係が描けなくなる(バタフライ効果)
  グローバルとローカルの接続(気候変動、原発事故)
  国連やNGOの道徳、政治的影響、ただしサンクションを与える力はまだ弱い
  AIDSの拡散にもグローバル化が顕現している

▽グローバル化の諸側面
・脱埋め込みDisembedding。距離が問題にならなくなる。社会生活が場所と切り離される
・加速Acceleration。輸送や通信が速く、安くなった。「遅れ」が意図せざる結果に
・標準化Standardisation。標準化と比較可能性。英語、モール、ホテルチェーン
・相互接続Interconnectedness。人々のつながりが濃く、速く、広く。国際ルールの要請
・移動性Mobility。あらゆるものが動く。移住、出張、国際会議、ツーリズムの増加
・混交Mixing。文化間の接点が増え、大規模に、多様に
・脆弱性Vulnerability。国境の希薄化と国際協調の重要性。病原体、テロリスト、温室ガス
・再埋め込みRe-embedding。上記諸傾向への反発。道徳コミット、アイデンティティの政治
  加速化にはスローカルチャー、標準化には「一点もの」、相互接続にはローカリズム、
  文化的純粋性の追求、脆弱性には自己決定、国境管理の再強化
  国際貿易の深化は都市スラムの拡大、移住は文化的再活性化も伴う
  →グローバル化はこのように弁証法的なプロセスである

・「ワールドミュージック」:非欧州の音楽家を欧州でフィーチャー、スタジオや電子楽器使用
  オーセンティックとは何か?という問い、欧州の音楽家が演奏した際の著作権、
  アフリカ音楽に対するJBの影響、「ワールドミュージック」内部の差異の不可視化
  実際はアフリカで聞かれていない「ホンモノのアフリカ音楽」、強く政治的な歌詞

▽グローバルな過程をローカルに受け止める
・ある地域でのイベント(米大統領選、オリンピックなど)は即座に世界で言及される
  が、拡散されない地域もある
  受け止め方もさまざま。Vogueは熱帯とパリで違う読まれ方をする
  南→北、という情報の流れもあり

▽ツーリズムと移住
・旅行、出張の増加
  →ホテル、空港、ビーチは文化と文化を架橋する「第3の文化」か?
  文化を観光化するサブサハラ
・移住をみる視点
  (1)ホスト国でのマジョリティとマイノリティ
  (2)ホスト国、母国での文化・社会組織
  (3)視点間の比較。ホスト国には「必要悪の労働者」、本人・本国には「外貨の源」
・どちらにしても誰もが「グローカル」
・「西洋文化」という言葉ももう不正確
  7~10億の人は一つにまとめられないし、他地域にも「西洋っぽい都市」はみられる
  →「近代」のことか?
・移住と文化アイデンティティ
  Nevis研究:移住先でのアイデンティティ確立
  純粋性、本来性authenticityの希求
  ポスト伝統(ギデンズ)時代、伝統はなくなるのではなく選択し、擁護するものになる

▽流離exileと脱領土化
  悪魔の詩:移動の途上。いかに世界や真理が違った場所では違って見えるか
・アパデュライAppadurai(1990)によるグローバルな文化流動の5側面
  (1)ethnoscape。人々の布置
  (2)technoscape。技術の布置
  (3)finanscape。資本の流れ。以上がインフラ。ただしどう動くかは予測しがたい
  (4)ideoscape。イデオロギーやメッセージの布置
  (5)mediascape。マスメディアの構成
 ポイントは脱領土化。
・帰結
  (1)流離する人口の増加
  (2)意識的な「(居)場所」の構築(自明でないからこそ)
    ロンドンでのNevisのようにネットワークあるいは結節点として構築されるかも
    意味づけも誰が見るかによって変わりうる(Rodman,1992)
  →遠隔ナショナリズム(アンダーソン)

▽人類学の帰結
・「伝統」と「近代」を経験的な意味で使えなくなった(●分からない)
・「社会」や「文化」が閉じたものとして扱えなくなった
・システム全体を描くことが難しくなった代わりに、フットボールやツーリズムなど個別の現象を分析する面白さが出てきた
・フィールドワークに加えて、幅広い文脈(統計、報道など)を参照する必要が出てきた

▽モダニティの土着化Indigenisation?
・マクルーハンの「グローバルビレッジ」:調和的というより、紛争を孕んだものとして描出
  相互行為と匿名性、ミクロとマクロの水準の混合
 →グローバル化の中心的なパラドックス:世界は小さくかつ大きくなった
 →民族・文化的断片化と近代的均質化の同時進行(フリードマン)
・サーリンズの「モダニティの土着化」。ナショナリズム、伝統主義
  cf.ソロモン諸島での母系→父系社会への移行。そのほうが土地所有権と整合する
  (Hviding,1994)

▽2つのローカライズ戦略
・フランス出稼ぎのコンゴ人les sapeurs:お金をためてフランスで服を買い、故国で消費を誇示。もともと権力のない出自だが、グローバルな消費文化を利用して地位を誇示する
・アイヌ(Sjoberg,1993)。日本政府に先住民族として認められるために、文化をコモディティ化・観光化し、(グローバルな)マーケットで価値のあるものとして売り出した

20 Public Anthropology

・アカデミアの外に向けた人類学
  一般向けの出版、政策提言、国際的な対話
・20世紀の制度化、WWII後の研究人口増→アカデミアへの引きこもり、自律
  ただ、ボアズのように人種差別的な偽科学批判をした人も
  多くの一般向け著作を残したマーガレット・ミードも
・イラク、アフガン侵攻のための「便利な」学問と見なされた経緯
  米軍やNATOにはエンベッド人類学者
・では、一般の人とのかかわりで何を目指すべきか?
  文化・グローバル化批判?研究対象の擁護?
  ハーバーマスの「3つの知識」:技術的、実践的、解放的
・ex.ノルウェーのrussefeiring(卒業生のどんちゃん騒ぎ)に対する新聞コメント
  →自分で組織する「通過儀礼」だとの説明
・ex.ノルウェーロマに関するコメント
  →賃労働を忌避するノマドの文化からの説明
→わからないものを文脈に位置付ける。道徳的な判断をするものではないが
・ex.移民政策
  →入ってくる側の視点から見たらどうか、という説明
→議論を方向付けはしないが、方法的文化相対主義からより多角的な検討を可能に

Epilogue: Making Anthropology Matter

・フィールドで道徳的に許されないことを見たら、それを外に伝えるべきか?
  たぶん、してもいい。ただし論文とは別の形でやる手はある
・自分の参加している社会を観察する:sociologism
  何でも社会学や人類学の枠組みで理解してしまう傾向
  芸術、文学、愛、美などを純粋な社会的産物として見る
  →世界は興味深い/深くない「現象」の束になってしまうのでは
・人類学は「他者」を扱うが、それは自己を反省的に眺める契機でもある
・単純化ではなく、より世界を複雑にする仕事なのかも
・人生の意味を教えてはくれないが、人生を意味あるものにするさまざまなやり方を教える
  答えをくれないかもしれないが、大きな疑問にかなり迫った感覚を与えてくれる

じんるいがく(9)

3カ月くらい空いてしまった。

* * *

17 Ethnicity

・「エスニシティ」の流行は60年代、ナショナリズムは80年代に、グローバルは90年代
・tribeからethnic groupへの移行も起きている(ethnic groupはどの社会にも存在)
・現代の紛争のほとんどはエスニシティや宗教が背景にある
・紛争でなくても、日常生活の至る所にエスニシティが影響を及ぼしている
・人類学では、マジョリティもエスニックグループと呼ぶ
・「あちらとは違う」という感覚があれば、そこにエスニックグループがある

▽もう少し特定を
・文化的に客観的な違いや集団間の隔たりがあるほどエスニシティが重要になる、というのは誤り
・文化的に近く、日常的な接触がある際に重要な意味を持つことがよくある
  ほとんど同じ人たちこそ、わずかな違いに敏感になる(cf.ベイトソン(1979))
  ←「違い」があるためには、何か共通性を持っていないといけない
・「文化的特徴」がエスニシティを作り出すわけではない。複数の文化の「境界」を見よ(Barth, 1969)
  →エスニシティは個人や集団の中にあるのではなく、「関係性」にある
・エスニシティの条件:
  メンバーや部外者による一般的認知
  文化的な特徴が宗教や結婚制度など何らかの社会的慣習に紐付いていること
  共通の歴史を持っているという認識(Tonkin et al. 1989; Smith 1999)
  起源の神話を共有していること

▽社会的分類とステレオタイプ
・分類が有効であるためには、アクターがそこに何らかの有用性を見出す必要がある
・ステレオタイプは、慣習的に存在すると思われている集団の特徴を単純化したもの
  労働者、女性、王族、など……
  道徳観と結びつくことが多い(ヒンドゥー教徒は自己中心的だ、など)
  →それが境界を強化し、自己イメージを明瞭化し、支配―被支配関係を再生産する
・混血はアノマリーとして迫害されがちだが、当事者が二つの属性を戦略的に使い分けることも

▽状況とエスニシティ
・人は状況により××族の人として振る舞ったり、雇用者として振る舞ったりする
・どう見られるかを巡るネゴシエーションも起きる
  eg.英国でバラモン出身のインド人がジャマイカ出身者と同じカテゴリに入れられるのを拒否
  →カテゴリー化への異議申し立てや、ステレオタイプへの挑戦を試みる
・二項対立化(サーミ/非サーミ)、補完化(どっちもノルウェー語を喋るよね)
  =dichotomisation and complementarisation
  二項対立では、相手を劣ったものととらえやすい。スティグマ化(サーミは不潔)
  補完化は学校で教えこまれたりする。同化への試み(外ではノルウェー語を使う)
→エスニシティは「関係性」や「プロセス」の中で顕現する

▽エスニック・アイデンティティ(象徴)と組織(政治)
・エスニック・グループが歴史的連続性を持つとというイデオロギー
  →エスニシティが「自然なもの」「長い歴史をもつもの」との印象を与える
・こうした信念には政治的な側面もある=組織
・ただし、「われわれ感覚」の強さや、グループが何を成員にもたらすかはさまざま
・日常からエスニシティを発露しているか、年に何度かのお祭りでだけ出すかもさまざま
・アイデンティティと組織のどちらがより基底的かも論争あり(Cohenは後者)
・政治・経済的な競争下ではエスニシティが重要性を増す
・Handelman(1977)によるエスニシティの強度の4段階
  (1)カテゴリー:起源神話の共有によるアイデンティティ形成。外では影響力なし
  (2)ネットワーク:エスニシティを媒介にした人間関係。仕事や住居、結婚相手の斡旋など
  (3)アソシエーション:目的をもった組織の形成
  (4)コミュニティ:明確な領域を基盤とした集団。分業や政治がエスニシティに基づいて動く

▽エスニシティとランク
・エスニシティだけでは集団内の位置は分からない。性別、年齢、階級などで内部は分化してる
・セグメント化されたアイデンティティ(1人の中に同心円状、またそれを横断する多くの属性がある)

▽「過去」のイデオロギー的使用
・共通起源の神話→現在の意味づけ、政治体制の基礎、アイデンティティの基礎となる
・現代でも同じ。口承ではなく記録によるが、多様な解釈を許すもの
・過去は特定の現代の見方を正統化するために操作される(ホブズボーム)
  ←「意図的」な伝統の創造。スコットランド高地の伝統など
・過去は多様に描ける。ナポレオン戦争を英/仏の子どもに教える際の違い。北米先住民の描写

18 Nationalism and Minorities

▽ナショナリズムと近代性
・ナショナリズム:文化的境界と政治的境界の一致を志向するイデオロギー(ゲルナー)
 ウェーバーなどは近代化、個人主義、官僚化によって取って代わられる旧習とみた
 が、逆に近代の産物であった(フランス啓蒙主義、ドイツ・ロマン主義時代)
・伝統と伝統主義は別もの、と考えるのが有用
 ナショナリズム=古い文化的伝統を強調する伝統主義
  だが本当に「古い」「伝統」というわけではない。ex.ノルウェー・ナショナリズム1850~

▽ナショナリズムと工業社会
・ゲルナーによると、産業化に伴って人々が親族、宗教、地域社会などの「根源primordialities」から切り離され、それを機能的に代替する社会の組織原理としてヨーロッパのナショナリズムが要請されたとする
・ナショナリズムは抽象的なコミュニティを前提にしている(顔の見える関係でなく)
 →想像の共同体。マスメディア、特に印刷メディアの発達が重要な役割を果たしている
  標準化された言語と世界観、教育→国民国家
・ナショナリズムは感情的な動員が可能な点で、イデオロギーより宗教や親族関係に近い
・エトニという古い共同体に根ざしているとの主張もあるが、シンボルの意味は昔は異なった

▽国民国家
・指導者は権力構造の維持と国民の基本的欲求の充足を達成する必要あり
・ナショナリズムに基礎を置いている
・暴力、法、秩序維持、徴税の権限の独占
・官僚機構、教育システム、共通の労働市場、国語
・多数の人々の動員(ヤノマミはせいぜい数百人。国家は何百万人)
・民族的多元主義は初期のほうが問題にならなかった

▽ナショナリズムとエスニシティ
・エスニックグループが自分の国を持つ権利を要求する→ナショナリズム(伝統的定義)
・ただし実際は、
  グループが「共通の意思」を持っているわけではない
    1人を見ても場合により民族/国民アイデンティティを使い分けている
  ナショナリズムは多数派のエスニックグループのイデオロギーであることも多い
  日常の用法では両者は混同して使われている
  民族と国家の範囲は多くの場合一致してない→マイノリティ問題が生まれる

▽マイノリティとマジョリティ
・権力と権力格差に注目したエスニシティ研究の代表例2つ:移住労働者、先住民
・「エスニックマイノリティ」は単に少数なだけでなく、政治的従属も含意する
・「マイノリティ」かどうかは場合による:
  (1)シク教徒はインド全体では2%だが、パンジャーブ州では65%
  (2)国家を作ることでマジョリティになれる
  (3)ハンガリー人やジャマイカ人は英国ではマイノリティだが、別の地域ではマジョリティ

▽権力の非対称性
・Copperbelt(2級市民としてのアフリカ鉱山労働者)の例
・Tambiah(1989)による現代社会のタイポロジー
  (1)マジョリティが90%以上を占めるほぼ同質な国(日本、アイスランド、バングラデシュ)
  (2)75-89%の大マジョリティ国(ブータン、ベトナム、トルコ)
  (3)50-75%+複数のマイノリティ(スリランカ、イラン、パキスタン、シンガポール)
  (4)ほぼ同規模の2グループ(ギアナ、トリニダード・トバゴ、マレーシア)
  (5)どの1グループもドミナントでない多民族国家(インド、モーリシャス、フィリピン)
・ただし社会の安定度、民主化の度合い、人権状況は上記分類と対応しない
  (モーリシャスは第3世界の中では最も安定度が高い部類に入るなど)
・民族問題は市民権、キャリア機会の不均衡から生まれるのが典型的

▽マイノリティに対する3つのアプローチ:隔離、同化、統合
・隔離:マイノリティを劣るものととらえ、物理的に切り離す(アパルトヘイト、北米の諸都市)
・同化:マイノリティの融合→消滅。イングランドにおけるノルマンの吸収
  強制される場合も、マイノリティが選択する場合もあり
  起こりやすい場合(米国の旧移民)も、起こりにくい(身体的特徴が顕著な黒人)場合も
・統合:アイデンティティを保ったまま、共通の制度に参加
・ほとんどの場合はこの3つのブレンド
・マジョリティが占有するもの:政治権力、言説、言語、コード、キャリア
  →労働市場などでマイノリティが不利になる
  ex.在ドイツのソマリア人は4言語使えても、ソマリア、スワヒリ、イタリア、アラビア語では
  労働市場で有利になれない

▽移民
・貧しい国から豊かな国への移民研究は主に3つの焦点:
  (1)受け入れ国側での差別の諸相
  (2)マジョリティと移民の文化の関係
  (3)アイデンティティ維持の戦略
・マジョリティ/マイノリティ関係の違い(Wallman, 1986)
  東ロンドンのBowでは緊張関係、南ロンドンのBatterseaではもっと緩い
  Batterseaでは個人が多様なグループに所属、職場も地元以外、流動的
   =オープンで不均質な社会
  境界を越える手段がたくさんある=「ゲート」と「ゲートキーパー」が多数存在する
  →架橋的な人間関係がコンフリクトを抑制する
・個人の視点から見ると、文化的コードを切り替えながら生きている
  受け入れ国側の人と接するときはエスニックな面を抑制、同郷人とは逆に
・Vertovecの造語「スーパー・ダイバーシティ」
  特に南北の「北」諸国での移民カテゴリーの多様化
  ジェンダー、年代、教育程度の多様化、受け入れ条件の多様化、経路・制度の多様化

▽「第4世界」―先住民
・近代と国民国家に直面→脆弱な立場に
・全ての住民が地球の先住民である以上、「先住民」は価値中立的には語り得ない
  →国民国家と潜在的に対立する政治的主体としての位置付け
   ただし、領土要求のプロジェクトが出てくることは少ない。人数的にも分化の程度でも
  最も先鋭的な対立が起きるのは土地の権利をめぐって
・先住民が可視化されるには、文化的変容が不可欠であるというパラドックス
  リテラシーを身につけ、メディアの扱いを覚え、政治に精通することで可能になる
  運動も「人権」概念に立脚し、国連の枠組みのもとで行われる
・文化/文化的アイデンティティ、伝統/伝統主義

▽民族の再活性化ethnic revitalisation
・しばらく眠っていた文化的象徴や習慣の再興。ただしオリジナルとは違ったもの
  伝統ではなく「伝統主義」。ex.トリニダードでのヒンドゥイズム
・近代国家のもとで起きる

▽アイデンティティの政治
・グローカルな現象。特定の地域、集団で起きるが、文化や権利に関するグローバルな言説に依拠することが成功の条件
 ex.ヒンドゥー・ナショナリズム
  「ヒンドゥーらしさhindutva」の登場は1930年代だが大規模な現象になったのは80年代
  90年代には政党BJPの台頭←「世俗国家だ」とする批判
  カーストや言語的な分離が、かえってヒンディーを分断する可能性も
・特徴
  外部との違いは強調され、内部の多様性は捨象される
  「被害者」として歴史を解釈
  文化的な継続性と純粋性が強調される
  混交、変容、外からの影響は無視される
  結束強化のためには、内部の非成員が悪魔化される
  集団を越えた結びつきが批判される
  過去のヒーローが近代的ナショナリストとして意味づけし直される
・対比を通じたアイデンティティ形成
  ナショナリズムやマイノリティ問題は近代の産物だが、伝統社会にも見られるのがこれ
・エスニックグループも国家も永続的なものではないことに注意

2017年06月24日

行動経済学

■Baddeley, Michelle, Behavioural Economics: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2017.

そのうち誰かに聞こう聞こうと思っていて聞いてないことなんですが、文献の名前を示すときに、著者のファーストネームをイニシャルにする(例えばBaddeley, M.とか)のって、フルネームが分からなくて不便じゃないのかな。(備忘)

なんかずいぶん前に大した志もなくアマゾンで予約注文していて、忘れたころにぽいっと送られてきた本。本社勤務に戻ったのに伴って通勤時間(=本を読む時間)が10分ほど延び、捗りました。偶々ナッジを仕事で扱う必要ができたので、うまい要約として一部参考にさせていただきたいと思います。
あまりメモをとるつもりもなかったのだけど、用語集として為になるなーと思いながら書いていったら随分な長さになってしまいました。伝統的/行動経済学の対比が図式的すぎるのかもとは思いつつ、やっぱり初心者にはこういう説明がいいのかもしれんとも。

1. 行動経済学の特徴

・「経済人」をただ受け入れない
  認知的限界がある:H.サイモンの限定合理性bounded rationality
  状況に規定される:V.スミスの環境合理性ecological rationality
  現状維持に固執する時がある:H.ライベンスタインの選択的合理性selective rationality

・実験で得られるデータを使う(政府統計などだけではなく)
→ただし、その代表性(学生だけが被験者でいいのか)や信頼性(被験者が本気でやってくれるかどうか)の点で困難も多い
・神経科学的なデータ(fMRIやTMS)も使う
・RCTも利用可能

2. インセンティブはお金だけではない

・外発的動機extrinsic motivation
  お金<物理的脅迫
  社会的な報酬(名声、地位)

・内発的動機intrinsic motivation
  プライド、義務感、忠誠心、純粋な楽しさ

・外発/内発は関係しあっている
  「お金」が「義務感」を閉め出してしまうcrowding outケース
  ex.保育園のお迎え遅れに罰金を課したら余計に遅れが増えたイスラエルの例
  ex.献血に対価を払ったらかえって減ってしまった例

・金銭的報酬の効果(お金をもらう)<社会的報酬の効果(自分のイメージの向上)
 かつ、両方揃うと強い動機を生む
  ex.D.アリエリーのClick for Charity実験
  ex.賃金の上昇→生産性の向上だが、それを「職場でのよい扱い」がブーストする

3. 人の経済行動は他人の影響を受ける

・不公平を嫌う(自分がされるのも、他人がされているのを見るのも嫌)inequity aversion
  二つのタイプがある
  (1)恵まれている人が、つらい人を見るのを嫌うadvantageous inequity aversion
  (2)人よりつらい立場になるのを嫌うdisdvantageous inequity aversion
 →(2)のほうが強い
・inequity aversionは霊長類にもみられる

・最後通牒ゲームultimatum game
  A氏は100ポンドのうち、いくらを相手と分けるかを決める
  B氏は自分の分け前を見て、承諾か拒否かを判断
  拒否した場合は両者とも取り分はゼロ
  合理的に考えるとB氏は1ポンドでも承諾。だが実際は40ポンドでも拒否例が出る
  =B氏は40ポンドを犠牲にしてでもA氏を懲罰したいということ
・脳イメージングで見ると、不公平な扱いには、悪臭などでむかついたのと同じ部分が反応

・判断の際には、平均的な他人がどうしているかsocial reference pointsを参照する
  ex.電気代の通知に「他の家はこうですよ」と書くと省エネ行動を誘発できる

・公共財ゲームpublic good games
  公共財(灯台など)は利用しつつ設置・維持費は負担しないのが合理的
  →結局は公共財が成立しない、というオチが予想される
  ところが実際は、地元のコミュニティなどが結構進んで負担する
・上記ゲームの変種で、第三者の見張りがつくと、積極的にフリーライダーを罰しようとする
  =愛他的懲罰altruistic punishmentという現象がみられる
  脳の報酬系が活性化する。規範侵害を罰するのは気持ちがいいらしい(ex.ネット炎上)
  これが協力行動の進化に重要な役割を負っていると思われる

・社会的アイデンティティも重要
  Tajfelの内集団in-group/外集団out-groups
  内集団への同一化と外集団への対抗のためには、人は結構な投資を辞さない
  Brexitもアイデンティティの危機を反映したか

・ハーディング現象(群衆行動)herding
  多くの人がやっていることをまねる傾向。二つ考えられる:
  (1)規範normative。社会規範が個人の判断を引きずる
    20人のグループで19人が誤答すると、残り1人は正答が分かっても誤答を選ぶ
    cf.ミラーニューロンの存在。相当原始的で強い傾向と思われる
  (2)情報informative。他人の行動(という情報)を見るとまねてしまう
    ATMが2台あって1台が行列、1台がガラガラでも、咄嗟に行列についてしまう
    ただし、「隠れた名店」という情報があっても無視してしまう危険性
    =負の外部性negative herding externality
・慣習に逆らって正解するより、慣習に従って間違うほうが評判を傷つけない(ケインズ)
・集団と一緒に行動したほうが安全であることが多い(ジャカルタの大通りを横切る時!)
・牛も捕食者に対する防御からハーディングする
・バブル現象も、ネットショッピングでも。市場を不安定化させ、人間行動を攪乱しうる
・ハーディングは、判断の時間と認知資源を節約するためのヒューリスティックの一種
  ex.冷蔵庫を買うとき、他人が買ってるものを選べばリサーチの手間が省ける

4. ヒューリスティックとその効果

・市場がそこまでうまく働かない理由を考えるとき:
  伝統的経済学は市場とそれを支える制度に注目する
  行動経済学はそのほかに、人間の意思決定に注目する
    そしてその意思決定は伝統的経済学が想定するほど難しい計算に基づいていない
    変化するし、推移律もいつも成立するとは限らない
    →「ソフトな合理性」を想定する

・ヒューリスティックを使った即断
  問題:情報の過多information overloadと選択肢の過多choice overload
  →どちらも多ければいいというものではない
・アイエンガーSheena Iyengarらの実験
  売り場に24種のジャムを並べると買う気をなくす(5種に限るほうがよい)
→経験則に基づいた即断=ヒューリスティックに頼る。ただしミスやバイアスも付きもの

・ヒューリスティックでは「損得計算」をしていない
・カーネマンとトベルスキーによる3類型:
  (1)利用可能性availability
    急いでいる時、容易にアクセスしたり想起したりできる情報を使う
    ex.とりあえず手近な資料ファイルを持って会議に急ぐ、いつも同じ旅行会社を使う
    心理学でいう初頭効果primacy effect、親近効果recency effectと関連
      ←真ん中より最初を覚えている
    買い物でいつも同じものを選んでしまう→比較サイトは脱却を助けるシステム
  (2)代表性representativeness
    アナロジーや似たものを利用して判断する
    ただし連言錯誤conjunction fallacyを引き起こしがち
    新しい情報が入っても古い信念を変えにくい
      確証バイアスconfirmation bias:「悪い人」が何を言っても悪さを増幅する
      認知的不協和cognitive dissonance:現状認識を操作して古い信念に合致させる
   (3)係留と調整anchoring/adjustment
    参照点から動きずらい
    ex.当てずっぽうで計算させると8x7x6x5x4...x1より1x2x3x4...x8が小さくなる
    参照点としてよくあるのはスタート地点。status quo bias/familiarity bias
      →判断を変えがたく、現状からの差分で変化を測ろうとする
    これを利用した例がオプトアウト方式
  
5. リスクを伴う選択

・経済学者は通常、リスクは定量化でき、リスクを好むかどうかは不変と考える
・が、行動経済学は「場合による」と考える。要因は:
  ・情報の「利用可能性」 ex.航空事故の報道で、道を歩くより危険と思い込む
  ・損失を獲得より重く考えるloss aversion

・プロスペクト理論(カーネマンとトベルスキー)vs.期待効用理論expected utility theory

・期待効用(理論)=将来の幸福や満足。しかし見誤ることがある
  すべての利用可能な情報を使い、計算の上で意思決定する
  決定したら変更しない  
  一貫性がある、推移律を満たす。リンゴ>オレンジ、オレンジ>バナナ、ならリンゴ>バナナ
・期待効用理論で説明できないこと:
  アレAllaisのパラドックス:人は異なったリスクには異なった反応を示す
    確実性効果certainty effectの存在はカーネマンらが確認
  エルスバーグEllesburgのパラドックス
    曖昧さ回避ambiguity aversion
→人は確実性や曖昧さなどに「重みづけ」をしている
・損失回避のためにはより大きなリスクをとる。利得のためにはリスクをあまり許容しない
  =reflection effect
  probabilistic insuranceよりcontingent insuranceが好まれる(●分からない)
・隔離効果isolation effect=ある要素を無視してしまう(すべての情報を考慮していない)

・そこで、より現実に即したプロスペクト理論
  特有のやり方で、それぞれの選択肢を判断している
  携帯を買うときに、すべてのカタログ情報を考慮してはいない
    →参照点への固定傾向、係留、現状への固執、損失回避
    授かり効果endowment effect=持っているものに固執する

・Thalerのメンタルアカウンティング→後述(Ch.6)
・後悔理論regret theory:将来の状態を複数想定する。そのどれも当人のコントロールを超越
  ex.傘を持って出るかどうか

6. 時間が選択に及ぼす影響

・時間選好time preference(=我慢強いかどうか)は人による
  が、個人個人の選好は一定だというのが多くの経済学者の考え
・時間選好には個人間の違いもないとするのが標準
  →しかしWarrenとPleeterの軍人年金に関する研究ではこれに反する結果が出た
    毎年払い×一生より、一括払いを92%が選択。白人、女性、大学出は年払いの傾向

・時間不整合性time inconsistency
  現在の選択では利益を焦るが、将来の選択ではより「待つ」ことができる
  現在バイアスpresent bias。より小さくて直近の利益を優先する
  ex.ダイエット、ジム通い、喫煙……
・時間不整合性は動物モデルにもみられる
  Ainslieによる鳩の実験
・Mischelらによるマシュマロ実験
  お菓子を我慢できる子どもを追跡
  →感情、認知機能により優れたティーンエイジャーに→有能な大人になったという話

・現在の利益vs.将来の利益という「時点間の闘争intertemporal tussles」
  これが人の内部で起きているのでは?
・fMRIで調べると、短期的利益→原始的、長期的利益→高次機能の部分が反応していた
  ただし、「すべての選択肢を60日後」にしても同じだったとの反論あり(Glimcerら)

・naifs/sophisticatesによる意思決定
  どちらも現在バイアスには支配されている
  が、sophisticatesは将来の利益のために、将来の選択肢を自分で制限できる
  →事前の自己拘束戦略pre-commitment strategyが使える
   cf.オデュッセウスvs.セイレーン、ジムの都度払い<月会費払い
  自己拘束契約commitment contractというのも。目標達成できないと損害が出る
  FitBits, iWatchesのようなテクノロジーの利用も可能に

・行動ライフサイクルモデルBehavioural life cycle models
  
・今日か明日か、という選択の際に利用している機構
  ・choice bracketing。複雑に相関した諸問題を単純化する
  ・mental accounting。お金の価値は場面によって違う
    宝くじで当たったお金は浪費するが、働いて稼いだお金は大切にする
    NYのタクシー運転手は忙しい日でも一定以上稼がない

・行動経済学×開発
  小幅で期間限定の肥料の値引き→現状バイアスの克服→結果としての増収

7. 性格、気分、感情が意思決定に及ぼす影響

・スリル追求的(危険なスポーツ、ギャンブル、金融)/リスク回避的、など

・よく使われる性格テスト:OCEAN
  Openness/Conscientiousness/Extraversion/Agreeableness/Neuroticism
・認知機能テスト:IQ、Cognitive Reflexivity Test(リスク選好も見ている)
・性格の把握は難しい←自己申告の調査票を使うので「よく見られたい」などのバイアス
・遺伝的要素も(Cesariniの二卵性双生児実験。ただし遺伝的要素は2割程度)

・性格と学業成績、仕事の業績、リーダーシップ、寿命の関連がみられる
・性格形成は環境に影響される(親の社会的地位と子のIQ→経済的成功にも)

・気分mood=対象がない、集合的に感じられることも/感情emotion=対象あり
・感情は非合理、との思い込みに挑戦したのがElsterら。合理性とコラボしているという
・感情はヒューリスティックの方向付けをする→affected heuristic
・感情+ヒューリスティックは認知プロセスに干渉する
  ex.飛行機事故の映像→リスク見積もりの歪み→飛行機に乗るのを控えるなど
・内臓感情visceal factorは、より生物的で協力な影響を与える要素
  cf.依存症。ニコチンガムや電子タバコはここの制御を試みている
・ダマシオのsomatic marker。
  ex.やけど(ソマティックマーカー)→火が怖くなる(感情)→火を遠ざける(行動)
  ex.脳損傷→強迫の出来→判断への支障→経済生活への支障

・二重システムモデルdual-system models(カーネマンのThninking, Fast and Slow)
  二つの思考プロセスがあるとする:
  (1)システム1:自動的、速い、直感的
  (2)システム2:認知的、熟慮、コントロールがきいている
・hot(判断ミスしやすい)-cold(冷静な) state

・感情と神経経済学
 ex.島皮質insulaの活動状態→否定的な感情→リスク回避的な行動
・ホルモン(テストステロンやコルチゾールなど)とトレーダーの行動の関係も
・精神分析からのアプローチも

8. 行動科学とマクロ経済

・リーマンショックの時に伝統的なマクロが同様
・しかし行動科学×マクロ経済は未発達←多様な人の選好を総合するのが大変
・悲観的/楽観的な空気→成長を左右 cf.ブレクジット決定後の意気消沈と経済
・予言の自己成就
・「時間」も重要。今日使うか、とっておくか
・ケインズの一般理論
  マクロに影響を与える役者:投機家speculatorsと企業家entrepreneurs
  投機家は短期の売買を追求、他の投機家をまねる傾向も cf.美人コンテスト
  企業家は長期(年~十年単位)、アニマルスピリット=楽天バイアスがかった行動
  両者のバランスがとれると全体がうまくいくが、不安定化するとマクロ経済を攪乱
  (AkerlovとShillerのアニマルスピリットはもっと広い)

・バブル、サブプライムローン危機
・季節性うつの景気への影響も
・集合的な「空気」が究極的な説明変数か

・新たなアウトカム指標としての「幸福」「福祉」
  しかし、質問紙の設計によって誘導ができてしまう難点も
・ビッグデータ収集、解析が新たなツールになるか

9. 公共政策

・ナッジを利用したエコ行動(参照点、損失重視、他人との比較、の利用例)
・英国HMRCによる税徴収
・プラスチックごみ袋の低減(失敗例)
・どれくらい効果がもつものかは要検証。適切な規模、再現性、効果が「ない」条件の探究も
・伝統的経済学とのコラボをどうやるか

2017年05月28日

5月後半あれこれ

ドイツから戻ってこっち、1日休みがあったものの時差ぼけ調整できたようなできないような感じで、そのあとは離着任の挨拶回りと新旧職場の通常業務が同時並行で入ってきてばたばた過ぎていきました。どっかで1日休みたいなと思ったものの、休めず。遺憾。

* * *

おいしかったものは、大久保駅近く「瀧元」の鱈豆腐。
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おだしに豆腐と鱈が浸ってます。おいしい。
立地と店構えは大衆的ですが、値段は大衆的じゃないです。

それから、新橋「駿」のランチに汁なし担々麺があったので賞味。
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屹立した何かはないけど、食べてよかったランチでした。
しかしやはりこのお店は水炊きを食べるべき。

* * *

土曜、仕事上がりに飲んでたお店で弊管理人が帰ったあとに暴力事件があったようで、疲弊したスタッフ&居合わせたお客さんと計4人で日曜夕方から慰労を兼ねて温泉にいってきました。
埼玉県杉戸町にある「雅楽の湯」。虫取り網を持った少年が田んぼわきを歩いているような、絵に描いて逆さに吊したような郊外だけあって、造りはゆったりしていて、人が多かったはずなのにゆっくりできました。

新宿に帰ってきてサイゼリヤで飲み。ワイン飲んでお腹いっぱい食べて1人2100円(震)。
「なんか、やっとお休みの日としてまとまった気がしたね」と言い合って別れましたとさ。

* * *

今年のクーラー初日は5月22日だった。
ちなみにGWから掛け布団なしの毛布のみで寝ている。

* * *

■岡本太郎『日本再発見 芸術風土記』KADOKAWA, 2015年.

岡本太郎の生き方は当然ながら弊管理人とは全然違うが、いいと思うものはかなり近いのではないかと思っています。そしてこの文章は本当に好き。『沖縄文化論』、これときて、次は『神秘日本』にいこうじゃないか。

■大澤真幸『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学』左右社, 2017年.

『まなざしの地獄』に解説を書いた2008年ごろから、大澤真幸は見田宗介がもうすぐいなくなると考え、その仕事を組み直して同時代の人たちへのアクセス性をよくしようとしているのではないかと勘ぐっています。対談ですがほとんどゼミで先生に喋らされてる学生みたい。

■プルースト, マルセル『失われた時を求めて』イースト・プレス, 2009年.

大学生のころ、フランス語の授業でさわりだけ読んだ作品を「まんがで読破」シリーズで。『宇宙皇子』と本作は読み通しても達成感以外何もなかろうと思ったので漫画で済まさせていただいた。必要十分であった。ドイツに行く途中の飛行機で読了。

2017年04月30日

連休もどき前半

新宿三丁目、モモタイ。
朝7時から夕方6時までやっていて、夜はガールズバーだそうです。
むかしこの店舗、港屋をパクったような蕎麦を出してましたっけね。
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よくあるタイ料理とひと味違った香り。
これは小皿料理も食べにまた来なければなるまい。

* * *

嫌すぎる出張が控えていて準備を少ししなければならないのもあり、また遊ぶ気分にならないのもあり、この連休は帰省するのはやめて6月に先送りし、東京で過ごすことにしました。
土曜は在宅で仕事と読書、日曜は昼ごろ中野のホームセンターに行って材木を買い、ベッドサイドの棚を作りました。そんで上記タイラーメンを食べて帰宅。

* * *

日曜早朝、何の夢だか忘れたけれども叫んで目が覚めました。
正月以来です。
そのあとは平和に二度寝。

* * *

昨年6月に就いた担当から、来月下旬をもって外れることになりました。
本来は2年はやることになっていたところ、「どうにも合わない」と1月下旬くらいから管理職にかけあっていたのが実ったようです。
良くも悪くもさまざま勉強になったのは事実ですが、無理する理由もないかなと。

* * *

そんな余裕あるんかいと自分にツッコみつつ、何年かぶりにリバーシブームを到来させてしまった。

* * *

■一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』筑摩書房, 2016年.

放送大学の教科書が下敷きになっているだけあって、力一杯わかりやすく書かれていると感じました。英米哲学の基本文献の邦訳につける訳者解説をまとめたような本なので、まだ読んでいないものを読んだらまたここに戻ってきたいと思います。
・留学中に授業で原書をつまみ食いした『アナーキー・国家・ユートピア』はやはり通読しないといけない気がひしひしした。しかし5500円……
・「生物学の哲学」は字面から想像してたのとちょっと違った。そのうち一冊読もう
・古本で買ったままになってる『人間知性研究』もいい加減手を付けないと
・あと『哲学探究』もなあ
・ベイズ主義に至ってはどう入っていけばよいやら……

2017年04月09日

関西、桜づくし

東京でいつもお世話になっている京都出身の知人が、今年の花見を京都でやるというので、土日を利用して大阪、京都に行ってきました。

新大阪から地下鉄、モノレールを乗り継いでニュータウン界隈へ。
去年始まったごく私的な岡本太郎ブームのハイライトというか、万博記念公園に行ってこちらを拝んでまいりました。
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重機と比べるとでかさが分かると思います。
特に見たかったのが裏側の顔で、こちらもやっと見ることができました。
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しばらくすると、内部が公開されることでしょう。

で、もう一つの目的が国立民族学博物館です。
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ソルボンヌでモースについて民族学を勉強した岡本太郎の作品がある公園の中にこれがある、というのは上出来じゃないでしょうか。ちょうど文化人類学の教科書を読んでいるところですから、もうすべての展示を興味深く見ました。
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無料の音声ガイドをお借りして丁寧に聴いていたら、いちばん最初のオセアニアのコーナーを抜けるのに30分くらいかかってしまいました。
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展示は建物の2階だけなのでボリュームは大したことないのかな、と思っていましたが、1時間くらいのろのろ見学したところで館内の案内図を見たらまだ2割くらいしか進んでないことが分かり、絶句。
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南北アメリカ、ヨーロッパあたりで「ひ、広い」と本格的に思い始め、しかしアフリカの日常生活の展示はまた面白く、西アジアはいつか行ってみたい!と思わされ、しかし東南アジアあたりからわりと早足になり、韓国もざっと流し、あっ中国は意外とエスニックで面白いかもと思ったものの、日本はもう飛ばし飛ばしで過ぎてしまいました。
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時間の制約もあるけど、もうかなり疲れていたというのもありましょう。にしても「金物」「木」「竹」「紙」の文化があるなあって視覚的に分かりますね。世界一周した感じがします。

昼飯をとらずに夕方になったので、そのまま難波に出て自由軒で昼飯?にしました。
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どこでお知りになったか、外国の方、ほんと多かった。
お店のおばちゃんも「はいはいセンターテーブルでサイドバイサイドでお願いします」と。
そんでもうちょっと食べられるかしらと思い、「わなか」でたこ焼き。
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あっつ!
深夜にお腹空くかな、もう一食食べることになるかな、と思いつつ、ちょっとお酒を飲みに行って、なんやかやつまんで、結局「夕飯」に当たるものは食べずに寝てしまいました。

翌朝は雨。
阪急で京都に向かいました。西院の喫茶店で朝飯食べて、バスで「原谷苑」に向かいました。
こんなとこ。あまりに鬱蒼とピンクで、死んじゃったかと思いました。
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個人所有のお庭(それもすごいが)で、桜の季節だけ一般公開しているそうです。
60年前からありますが、地元にしか知られていない名所らしく、聞こえてくるのは関西の言葉がほとんどでした。
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お弁当いただきます。(弊管理人のにだけ焼き魚が入ってないという非常に言い出しにくいミスに気づき、泣き寝入りした)
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主催者は「去年は満開のときに来たけど、今年はもうちょっと後やったなー」と悔しがってましたが、十分です。一体どんなものを見たんだ、去年。
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堪能したあと、さらに主催者提案でタクシーに分乗して平野神社。
こっちは染井吉野で満開です。空が見えない。すっげえ。
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全然知らない神社でした。これは地元の人に連れてこられないと分からない。
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神社マニアの知人は「えっ、これ何造りなの?」と。
なんか複数の様式が混ざった変な建築だったようですが、弊管理人には分かりませんでした。
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さらに鞍馬温泉に連れていっていただき、ひとっ風呂あびて市内に戻りました。
ここで夕飯に向かう人たちとさよならして、弊管理人は一人で新福菜館でラーメン。
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今回はチャーハン……と思ったけどラーメンにしてしまいました。
やはりうまかった。
「こだま」で本読みながらのろのろ帰ってきました。
主催者と地元の人たちの力のおかげで、疲れたけど大変幸せな週末でした。
今年の桜は十分すぎるほど楽しみました。ありがたいことです。
週明けが来なければもう100倍幸せなのですけど。

* * *

■岡本亮輔『江戸東京の聖地を歩く』筑摩書房, 2017年.

これ絶対面白いやつ、と思って発売すぐに手に入れました。
でまあ当然のように面白かった。東京に暮らして都合12年、東側にも西側にも住み、ぐるぐる歩いた経験のおかげで「あの場所を一枚剥がすと、そんな歴史があったかー」という驚きとともにページが進みます。

* * *

前後しますが、5日(水曜)に仕事がはけてから、ふらっと上野に行って夜桜を見てきました。
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ライトアップが20時までだそうで、着いたときには終わってしまっていました。
でもなかなか迫力があってよい。
不義理をしていた旧知のお店で一杯飲んで帰ってきました。

じんるいがく(8)

大阪、京都の行き帰りに「こだま」を使いました。最近使っていなかったEX-ICカードのサービスで、乗車3日前までに予約すると、グリーン車が「ぷらっとこだま」よりもさらに安い値段で利用できるということを知ったためです。

最近また怠けていた本書とポメラを持って、車内で片道1章ずつ読むことを目標にしました。ちょっとうとうとしたり、車内誌を読んだり、外を見たりしながら読んでちょうどいいくらいでした。
でもやっぱり若干長いな。「こだま」でのんびり、というのは名古屋くらいまでがいいのかもしれないです。

* * *

15 Language and Cognition

▽ウォーフ:翻訳の問題
・(サピア=)ウォーフ仮説
  言語の構造は世界の経験の仕方と密接に関係している
  ←「動き」に重点があるホピと、「もの」の北米言語の違い
  問題構造、世界観、日常生活を言語が規定する
  →では、アザンデ語から英語への翻訳は可能か?
  ウォーフはやっていたし、人類学はそれがないと不可能

・だが、問題がないわけではない
  人類はみな同じように思考しているのか?
  自分を「鳩だ」と形容するBororoをどうとらえるか?
  
・3つの問題
  (1)未開の人々は根本的に違った思考様式を持っているのか
  (2)そうだとすると、その生活世界を比較研究できるか
  (3)人類学の言葉は文化中立的か否か
→思考様式の違いは「民族」的な違いで、比較はすべきと考える
  (生得的な共通性の上に、文化的な違いが形成されている)
・ちなみに遺伝的特徴からの説明も不能
  (文化的多様性を説明できるほど違わない)

▽例として:ザンデの呪術(エヴァンス=プリチャード)
・蛇にかまれる→熱が出る、の部分ではなく、
  「なぜ他の誰でもないこの人がかまれるか」を説明する
=科学的な説明ができない「なぜ今」「なぜ私が」の意味付けを担う
・ただし、限界にも言及している
  (1)呪術に関する信念は科学的に非妥当(検証不能)
  (2)受け入れられているのは正しいからではなく、
    社会の統合機能を担っているから(構造機能主義)

・ウィンチ(1964)の反論
  呪術と科学をはっきりと区別することはできない
  天文学者も、十分に解明されていない「力」を盲信している
  科学の原理を信じていない人には科学実験は無意味
  ザンデの社会は呪術を維持しつつもうまく回っている
→あらゆる知識は文化的に構築されている
  人類学もその一つ。なぜ欧米で人類学が興ったのか?
・文化=ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム
→通約不可能。優劣は言えないし、比較もできないかも
・STSの対称性原理(Fuller, 2006)につながるものといえる
  比較時には中立的な言葉遣いで語るということ

・サーリンズとObeyesekereの論争~
  普遍主義と特殊主義の間の揺れ
→2000年代の「存在論的転回」
  やっぱり特殊性を十分に記述できていないのではとの認識

▽分類
・デュルケームとモース:思考様式と組織の共通性を指摘
  各文化が独自の思考様式を発展させるとの考え
  (ただしウィンチと違って科学の優位は疑わなかった)
・分類(知識体系の重要な要素)→知識
  知識は社会構造と権力に結びつく

・分類の原理は有用性と思われてきたが、違った
・例外は秩序への挑戦、カテゴリーの境界
  →特定の状況でしか食べられない、女性は触れない、など

・トーテミズムにおける分類
(トーテミズム=社会のサブ集団と、特定の自然現象との間に、
 儀礼的な関係づけを持たせた知識の体系)
  →この関連付けの仕方が人類学の関心事となった
・集団のアイデンティティとしての見方
  デュルケームは今日のトーテミズムを「旗」に見る
・ではなぜ、ある集団とある動物が紐付くか?
  熊狩りするから熊がシンボル、というわけではなさそう
  シンボル同士の関係性が人間界の関係性に対応か
  (レヴィ=ストロース)
  メタファーとメトニミー

・野生の思考:二項対立への注目(cf.ベイトソン)
  注目すべきは要素より要素間の関係
  ブリコラージュ
・冷たい(変化の少ない)/熱い(変化を許容する)社会
  伝統/近代
  ブリコラージュ/工業
  書かない/書く
  トーテム/歴史
・書くこと
  言葉をものに変換すること
  時間、空間的に固定すること(覚えていなくてよい)
  話し言葉を縮減したもの
  大規模な集団の中で考えの交換と連帯を可能にする

▽時間とスケール
・抽象的な時間(「1時間」とか)は文化的発明
  時計が時間を作り出しているともいえる
  未来を制御できる→神を超えた能力!(ブルデュー)
  欧州で最初の時計使用は僧侶の時間管理とされている
  「時計」こそが近代の主要テクノロジーといえる
  →非常に多くの人々の行動を組織化できるようになった
   (飛行機が客を待つか、客が出発時間に合わせるか)
・多くの文化では、時間は具体的行為や過程に埋め込まれている
  時間を「失った」り「つぶした」りはできない
  未来はまだ起きていないので、未来形が成立しない
  神話の時間と現在は切り離せない
→時計、書くこと、温度計などの「標準化」が巨大な社会を創出

▽知識と権力
・言葉使いがリアリティを編成→権力の維持に役立ちうる
  (ロシア:「自由」の用法を限るなど)
・マルクスは五感の使用も歴史的産物だと述べた

16 Complexity and Change

▽都市化
・複雑で大規模な都市では全体を見通すことができない
  マンチェスター学派
  複数のインフォーマント、複数箇所でのフィールドワーク
  全体の把握ではなく、あるイベントから示唆を得る
・どうするか
  ケーススタディ
  研究を特定のリサーチクエスチョンに限定する
  特定のサブグループに注目し、全体社会との関係を考える

▽医療
・3つの身体
  個人的、社会的、政治的(すべて文化的構築物)
・西洋医学/伝統医学

▽開発
・GDP還元主義の落とし穴
・エクアドルの豚増産プロジェクトの失敗
  豚はただの食べ物以上の意味を持つ存在だった
  新たなケージ飼いは地域の女性にとり過剰負担となった

▽人類学が受ける挑戦
・われわれ/かれら の区別のあいまい化
・オリエンタリズム
・内部の視点から記述する歴史
・人類学の脱植民地化
  インフォーマントによるチェック要求
  インフォーマント自らが記述する歴史
・「文化」の純粋さへの幻想→文化間の接触忌避
  →アパルトヘイトの知的バックボーンに!
・文化混合(←→文化の純粋性、本来性)
  ハイブリッド性(境界は保持したまま混ざっている)
  シンクレティズム(融合した部分に注目)
  ディアスポラ化(帰属先の文化が他国に)
  トランスナショナリズム(国境を越える社会的実在)
  拡散(物や意味の国境を越えた流動性)
  クレオール化(文化接触の結果、新たな形式が誕生)

2017年04月01日

とうとう春が

寒い雨の土曜。朝起きたら、窓際に置いた睡蓮木の花が咲いていました。
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何かしかし蕾にも咲きっぷりにも馴染みのない感じがあるなあ、と思って調べたら、南アフリカ原産でした。
日系ペルー人の知人が、見た目は全く日本人なのに表情が何か違う、みたいな感じか。違うか。

* * *

昼間、八王子の京王片倉近くにある「竜泉寺の湯」ってところに行きましたが、塩素くさくてあまり心地よくなかったです。

で、夜。
ローテンション同志であるところの友人と夕飯を食べることになり、この友人が交際している中国の子に教えてもらったという、池袋の「四川麻辣湯」に連れて行ってもらいました。
ロサ会館の近くにこんなのあったっけ、と思うくらい知らないと入らない雰囲気。路面店なのに。そして入ったとたんに外国の中華街の匂い!!
スープと麺の基本料金480円。そこに入れたい具(1個100円)を棚から好きなだけとってカゴに入れ、レジで会計します。麺はラーメンみたいのや、細い春雨、平べったい春雨(弊管理人はこれを選択)が選べます。スープの辛さもちょい辛から大辛まで。弊管理人は初心者なのでちょい辛にしました。
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ちょっと待つと、こういうのが来る。
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うめえあああ!
中辛を選んだ友人のスープもちょっと飲ませてもらいましたが、ちょっと痺れが足されるくらいですね。こっちでも大丈夫かも。
いいところを教えてもらいました。

* * *

明けて日曜は晴れてそこそこ暖かくなりました。
大学時代の同級生とお花見。
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母校のキャンパスの野球場にも春が降ってきていました。
ここの桜の枝ぶり、好きです。
満開まではもうちょっと。

そういえば大学の入学式は4月12日でしたが、会場近くの千鳥ヶ淵の桜が満開かちょっと盛りを過ぎたくらいの勢いで当時の写真にうつっています。
きょう、同級生とその話をしたら「その年は特に寒くて、だいぶ遅くまで雪が残ってたはず」と言っていました。そうだったか。

[4月3日追記:これまでの開花日と満開日をみると、確かに1996年の4月7日満開は前年と並んでこの四半世紀で最も遅いですが、顕著に遅いわけでもありませんでした。ちなみに定義は「さくらの開花とは、標本木のつぼみのうち、5~6輪の花が咲いた状態をいいます。満開は、全体の花芽の80%以上の花が咲いた状態をいいます」(金沢地方気象台)]

さすがに20年たつとみんな古くはなっているが、基本線は変わらない。
人文系の人たちのせいか、妙にすれた感じにもなってないところに安心感があります。
「ニュージーランドへの交換留学派遣を決めるための面接で、西洋古典学の先生から『ニュージーランドは西洋だと思うか』と聞かれて『西洋だ』と答えたが、今思うにそれは蛮勇だった」「俺はロックとバーリンで書いた卒論の口頭試問で『君が日本に生まれたことと自由の関係をどう思うか』と聞かれたので『覚悟を決めて生きたいと思います』と答えたら褒められた」といった艶っぽい昔話をしたり、「メルロ=ポンティって今時の学生も読んでるの?」とかきゃあきゃあおしゃべりできるというのは貴重なことです。

* * *

お花見中に職場から電話がかかってきて、やっぱり5月はドイツに行けという話になりました。
くう……(でも実は半分以上諦めていた)

* * *

■加藤周一『二〇世紀の自画像』筑摩書房, 2005年.

古い友人に「目指すところは全然違うが歩き方が(弊管理人と)似ている」と加藤周一を薦められたため、適当な古本を買って読んでみました。
が、半分ちょっとくらいまで頑張ったものの「もうええわ」となってしまいました。それ一つ一つが本1冊になるようなテーマをばさばさ整理しながら20世紀をまとめる対談のようなものを、今更食べる気にはなりませんでした。

2017年03月26日

3月は去りそう

3連休明けて火曜から1週間が始まると、せわしないけど息切れせずに走れていいですね。

土曜日は南青山の岡本太郎記念館に行ってきました。
新宿西口の渋谷餃子で餃子ランチを食べて餃子欲求を満たしてから、JRで原宿まで行って、てくてく歩きます。ものすげえ人人人。

ちょっと落ち着いたところで、表参道のベン&ジェリーズにて買い食い。
ケースの前で迷っていると、おねいさんが「試食できますよ」と声をかけてくださいました。
ちっちゃいスプーンで一口分、渡してくれます。いいサービスですね。3種類食べて↓これにしました(なんだっけ、ベリーっぽいやつ)。
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スプーンの上にはさらに「新発売の桃です」と別の味のアイスをのっけてくれてます。
結構甘いけど、中にホワイトチョコなんかも入ってて楽しい。

記念館は太郎氏のアトリエです。
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あっどうも。
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全館撮影可なのがよい。
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去年『沖縄文化論』で久高島に行くきっかけになったし、もう1冊、紀行文を読もうかな。
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詳しい解説もないし、物量は多くないので、岡本太郎をよく知らない人は先に川崎市岡本太郎美術館(リンク先は去年の日記)に行ったほうがいいと思います。
100円のコミュニティバスに乗って赤坂見附まで出て、定期で帰ってきました。

* * *

日曜は朝から寒い雨の日だったので、昼から深大寺の「湯守の里」に風呂に入りに行ってきました。調布駅前から送迎バスに乗車。アクセスは悪めでしたが、わりと空いてるし、露天風呂のあるお庭は鬱蒼として幽玄といえば幽玄だしで気に入りました。あまりかんかん照りでない昼間に来た方がいいな、ここは。

帰りは時間の関係で武蔵境駅行きの送迎バスに乗り、東中野で降りて昼飯食って帰りました。
なんか最近、電車やバスに乗ったり、長い距離歩くのが好きらしいです。

* * *

懸案が懸案を生んでるのだけど、もうあの、困り果てたなあ、という気持ち。

* * *

■ジョナサン・ウルフ『「正しい政策」がないならどうすべきか』(大澤津, 原田健二朗訳) 勁草書房, 2016年.
Wolff, Jonathan, Ethics and Public Policy: A Philosophical Inquiry, Routledge, 2011. の全訳。(書誌情報、どう書くのがいいのか……)

このところ、イギリスの大学の修士課程の導入科目で参考書になっている本の中から面白そうなのがないか探しています。で、この本は確かLSEのコース案内で見つけて、アマゾンで原書を買いかけたのですが、邦訳が最近出ていて、かつあまり原書より高くないことを知って、楽をしてしまいました。

でも、結果として邦訳のほうを買ってよかったと思います。哲学の研究者が政策立案に関与するというのはどういうことなのか、特にそういう実践がずいぶん進んでいる英国ではどうやっているのかといった、まとめと背景説明を訳者解説が引き受けてくれていて、とても助かりました。英国の研究者が英国の読者に向けて書いている本文だけではちょっと見えにくいので。

日本では各省庁の審議会に哲学の人が出てくることはまれだし、先端研究を扱う生命倫理専門調査会でもなんか今ひとつな議論ばかり。そのあたりと引き比べながら読みました。もちろん動物実験の是非や刑罰、保険制度など個別の議論も面白かったです。

2017年03月22日

3連休とその前後

金曜は不安定になったとみえる友人から夕食の誘いがあり、久しぶりに夏目坂の「高七」で天ぷらを食べました。夜は初めてですが、リーズナブルですね。
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天ぷら定食、かき揚げ丼つきというヘビーなメニューを頼んでしまいました。
「天ぷらは蒸し料理」というコンセプトは大いに共感するところです。
おいしかった。そして弊管理人的おすすめの一番はやはり上天丼であったことを確認。

とても控えめに飲んで帰りました。

* * *

土曜日はずっと不義理をしていた仕事先の集まりが東大本郷であったのでちょっと顔を出して、でもあまり面白くなかったので中座して、上野を散歩して帰りました。

ちょっと運動してから、とても控えめに飲んで帰りました。

* * *

日曜日は散歩がてら新中野のうどん屋「花は咲く」へ。
とり天ぶっかけ冷。
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弊管理人はうどんリテラシーがないと思うけど、つゆ、麺、とり天、全部おいしかった。
ピーク時間帯は結構並ぶんでしょうね。13:30くらいに行ったらほとんど待たなかったけど。
中野の島忠で睡蓮木の盆栽を買って帰宅、昼寝をしました。

ちょっとおつきあいで夜遊びして、3時半就寝。
すごい久しぶりにこんな時間まで遊びました。
懐かしい感じ。でももういいかな。

* * *

月曜日は久しぶりの友人が遊びに来ました。
6時間にわたっておしゃべりしましたが、弊管理人を駆動しているのは「怨念」の力だ、と喝破されて深く納得してしまいました。
あとは、「加藤周一とゴールは全く違うが考え方が似ているから、著作を読むと面白いと思う」と勧められたので、アマゾンで1円の古本を注文しました。
友人は弊管理人お勧めの文庫やら新書やらを棚から何冊か持って帰っていきました。もちろん自分で持っていたいけれども、じゃあもう一度読み通すかというと多分それはない。弊日記にメモは保存してありますしね。それなら面白く読んでくれる人にもらわれていくのも悪くないか、と思いました。

で、運動して、いつもにも増して控えめに飲んで、就寝。
飲んでばっかり、でも意外と普段話さない人たちといっぱい話した連休でした。

* * *

憂鬱な連休明けの火曜は、やはり体が重く、朝一番の用事を忘れてすっぽかし、しかもなんとパソコンを忘れて出勤するというあり得ないミスをし、滞在20分くらいで帰宅して、そのまま1日在宅で働きました。電話とパソコンがあれば大抵の用事は足りるもので、しこしこ仕事をしているうちに体調は普通くらいまで回復しました。

寒い雨の日でしたが、東京の桜はきょう21日に開花宣言が出ました。
とうとう春が来てしまった。来なくていいんだけど。
この冬は「すっごい寒い」と震える日がなかった気がします。
無印の裏ボアのブルゾンと、アマゾンで買った裏ボアのスウェットのおかげで、来客のあった1日以外は全くエアコンを使うことなく、暖かく過ごせてしまいました。

* * *

■足達英一郎他『投資家と企業のためのESG読本』日経BP社, 2016年.

必要があって、この4日で読みました。

2017年03月11日

じんるいがく(7)

通勤電車での細切れで時事的な読書と並行して走っている、「うちでメモをとりながら最近の教科書も読もうぜ」トラックでは、平日夜や休日の「ちょっと読んでは怠け、またちょっと読み」が細々と続いています。何のためにやっているのかは弊管理人としても全くもって不明ですけど。

宗教や儀礼を扱った章になると、がぜん記述が生き生きした印象です。この辺が文化人類学の本領だよねって弊管理人が(特に根拠なく)思っているからでしょうか。
抽象的なシンボルでこそ多様なものが統合できる、というくだりは改めて「そうねそうね」と思った。

* * *
13. Production, Nature and Technology

▽人間と自然の間の交換
・人間の生活と環境の間に相互関係があるという考え方は古代ギリシアから存在
・モンテスキューは、ヨーロッパで科学技術が発達したのは厳しい環境下で生存するためと考えた
・ハンチントン(1945)は雨の日と図書館利用の相関など、「気象決定論」を提唱
  =日照が多いと知的追求が少ない!今日でも「アフリカ人がエンジンを発明しなかった」ことの説明に
・一方、ダーウィンは「自然の中で生きている人でも生存のため十分知的である必要がある」と論じた
・もちろん決定論への反駁は容易。同じ気候でも違った発展をした地域はある

▽システム論と生態学
・生態学は生命科学の一部として発展したが、他分野にも波及した
  1920年代・Parkの「都市生態学」、サイバネティクス、システム理論
・ベイトソンの中心的な考え方は、同じ原理で多様なシステムが作動するということ
  イルカの意思疎通、統合失調症、進化などには共通のパターンがある
・システムの動的・連続的変化が、分類学的な説明に代わる人類学理論になるとの期待あり
  ただし、権力や志向性の説明がうまくできていないとの批判も
・生物学的な説明は、あくまで「メタファー」として使う必要がある

▽文化生態学
・2000年代末から「気候変動の人類学」が注目されるまで、文化生態学は米国の十八番だった
  例)1950~60年代のStewardやWhite
  英国は組織、フランスは認知や象徴に重点
・文化生態学の源流はダーウィン(やマルクス)
  文化は自足的に生成するというボアズ的相対主義とは全く違ったアプローチ
・ホワイト(1949)は、環境から与えられるエネルギーが社会発展を決めるとの主張
  ただし、ホワイトは文化を自律的な領域だと見ていたことにも注意
・スチュワードはマルクスと違って、生産関係だけが決定要因だとは見なかった
  家族から国家まで、さまざまな物質的要因が統合に関与していると主張
  さらに、文化的な「コア」と「それ以外」の区別も導入した

▽文化生態学とマルクス主義
・マルクス:手回し式の粉ひき→封建領主主導の社会、蒸気式→資本家の社会を創出
  熱帯サバンナ→農耕社会、熱帯雨林→狩猟採集 という文化生態学に通じる
・違いは歴史の動因:マルクス主義が階級闘争に注目、文化生態学は適応や技術に注目
・マルサスの人口論(生産は足し算で、人口は級数的に増える)への批判:イノベーションの無視
  →人口過密の日本、インドでの「緑の革命」を見よ
  →ただし天井もあるようだ(マルクスにとっては自然資源は無限だった)
・ただし、これら生態学的な見方は、意思や制度、規範を軽視しがちなことに注意
・また、こうしたグランドセオリーは文化・社会過程を「客観的要素」の従属変数と見てしまう
  →さまざまな要素の相互干渉を見落とす危険性あり
  スプーンで掘り出すべきものをブルドーザーでやっちゃうようなもの
・自然科学のボキャブラリーを借用することの危険性も
  もちろん人間も自然法則に従うが、その法則に対する人の反省、分類、理論化などは表現できるか?

▽ウェット/ドライな環境
・ギアツ(1972)によるバリ(湿潤)とモロッコ(乾燥)の比較
  作物の違い:米/オリーブ
    →組織の違い:灌漑や水路の管理組織subaks/水をめぐる競争
      →集団主義的/個人主義的?
    *決定論にいかないよう注意。社会や文化は結果であるだけでなく、原因の一部も構成する
・Fulaniの社会では地力→飼える家畜の数が人間集団の数を規定

▽環境の人為的変更
・社会は単に環境から影響を受けているだけではない。環境に働きかけてもいる
  ・アラビア半島の大部分では前千年紀の間に大規模な砂漠化を起こしている
  ・今日ではアラビア半島のような地域的改変ではなく、地球温暖化が問題に
・環境が不変なら、「人口」と「技術」の変化が環境に影響を与える2大要因である

・完新世(12000年前の最後の氷期後から現在まで)の後の新たな時代を名付ける
  →Anthropocene(人新世)。産業革命からの200年。人間活動による地球温暖化が特徴
  提唱したのはCrutzenとStoermer(2000)
・海面上昇による移住がアラスカやニューギニアなど各地で発生
・2004年にはイヌイットの団体が被害に関する法的救済を申し立て

▽技術
・人類学者が技術に関して陥りがちな二つの落とし穴(Pfaffenberger)
  (1)社会組織を考えるにあたって些細なこととして看過してしまう
  (2)技術決定論。社会や文化を決定づけるほど重要だと思ってしまう
    例)灌漑が集権的な政治体制を作るというWittfogelの「東洋的専制論」
  →社会関係とテクノロジーは相互形成する
・ラトゥールのANTでは、ネットワークは人間と、人間でないものactantをともに含む

▽生産の形態
・狩猟採集/園芸horticulturalists/農業agriculturalists/牧畜pastoralists/
  農場労働peasants/工業社会industrial societies(/情報社会information society
・資本主義
  ウォーラーステインの世界システム論:中心←半周縁←周縁の依存関係
  ↑マルクスの「従属理論」
  南北問題
・インフォーマルセクター(Hart, 1973)

14. Religion and Ritual

・19世紀までの学界は、宗教religionと異教paganism、迷信superstitionを区別していた
  異教は非キリスト教、迷信は科学、権威づけられた宗教、常識以外の領域
  →イスラムやアフリカの祖先信仰は異教、トロブリアンド諸島の呪術は迷信となる
・今日の人類学では、これらは「宗教」と「知識(行動を誘発するもの)」に整理される
  ただしこの区別も疑問に付されうる
・宗教の定義はまだ定まってないという人が多い
・Tylorの定義が最も古いものの一つで「超自然的なものを信じること」
  →自然と超自然は自明か?祖先の霊は?誰が決める?
・デュルケームに従うと、「世俗」と「神聖」を分けて、宗教は後者に属するものになる
  未開社会では、社会統合の機能を持つ
  「社会がその社会そのものを崇拝する」
  →ただし、宗教の多様さを説明する力はない
・ギアツ(1973)の定義では
  ・象徴の体系であって
  ・人の中に強く、持続的な気分や動機を持たせ
  ・存在に関する一般的な秩序の概念を形成し
  ・その概念に現実味をまとわせるようなもの
  =社会的な機能ではなく、個人の中で世界をどう意味づけるかに注目する
・ギアツにとっては、宗教は
  世界のモデル(存在論的な意義)と、行動のモデル(倫理的な意義)を提供する
  →エヴァンス=プリチャードのヌアー研究(1956)にも反映、現在も影響大
・WhitehouseやAtranの認知・進化学アプローチでは、心の進化の中で構築されたものとみる
  宗教を「理解」するだけでなく「説明」しようとうする
・他には、宗教は社会組織の乗り物ではないかという考え方も
  (→16-18章、アイデンティティの政治絡みで)

▽語られる/書かれる宗教
・書かれる宗教:
  聖典を持ち(1個だとコーラン、集合だと聖書)、その内容を信者が共有
  内容は文化的な文脈によらない
  世界に拡散することができる
  ただし、ヒンドゥー教や仏教は一神教と違って固定的な度合いが低い
・人類学で伝統的に研究されてきた宗教は聖典を持つキリスト教、イスラム教とは大分違う
  神はローカルで、全世界が同じ信仰を持つようなことを期待していない
  その社会の慣習に密着している
・シャーマンが職業として成立したのは相当早い
・Redfield(1955)のlittle(ヒーリングや透視、ニューエイジ)/great(キリスト教や科学)な伝統
・語られる宗教はローカル、教義が比較的少ない、非宗教的な領域ともつながっている
  アフリカのKaguruでは創造神がいるが、普段の相談先は祖先の霊
  死後の世界のイメージもあり。ただし狩猟採集民や(ポスト)工業化社会にはない例も
  生きている人間と死んだ人の魂の連続性
  祖先信仰は、死による生の継続の切断のショックを和らげる機能か

▽儀礼:実施される宗教
・社会・経済的な問題は専門家に解決を依頼。生死の不思議や人生の意味などは儀礼に
・儀礼=具体的な場面における宗教の表現
・デュルケーム(構造機能主義)では、社会統合の機能。社会が自身を崇拝している
  権力の正統化を可能にするイデオロギーの乗り物、かつ、参加者の感情に訴える
  社会の構成員に、社会のことと、自分の役割について内省する機会を与えるもの
・Turner(1969)は儀礼シンボルの多義性、あいまいさに注目
・ギアツ(1973)はバリの闘鶏に儀礼を見た
・Klausen(1999)は1994年の冬のオリンピックを分析
・象徴/社会、個人/集団の対立、社会の矛盾を解くものとして
・Gluckman(1956):スワジランドの王の戴冠式における無礼講→コンフリクトの解放機能
・ラパポート(1968):Tsembagaが定期的に行う戦闘→生態系への負荷を低減する機能

▽イデオロギーと社会的曖昧さ
・Leach(1954)のカチン族研究:
  カチンは独自の神と霊(nats)を信仰。natsは祖先の霊で、現世の秩序を引きずっている
  natsもリネージに属していて、貴族と平民が存在
  gumlao(平等主義)とgumsa(ヒエラルキー)という2つのイデオロギーに緊張関係がある
  →どちらが支配的な時期かによって聖職者の位置付けが変わる
  カチンにおける儀礼は、現世の秩序について間接的に語っていると考えられる
  →儀礼そのものが社会の不安定を作り出しているらしい
・Kapferer(1984)のシンハラ人研究:
  日常とスピリチュアルを往還する儀礼→世界の解像度が上がる
  ただし、没入している人より、離れて見ている人のほうに効果を認める(ギアツと逆)
・儀礼の一般理論を築くのは困難だが、儀礼が社会の複雑さを担保するとの点は共通

▽象徴の多義性
・どんな象徴が使われているか個別に注目するのではなく、体系に注目せよ
・キリスト教で白は美徳、黒は悪。「7」は聖なるものを示す
  聖餅はパンかつキリストの肉体→聖俗の架け橋となる
・象徴は「何かを意味する」とともに「何らかの作用をする」
・また、Turnerの用語では「多義的multivocal」である
・TurnerのNdembu研究では、ミルクツリーの白い樹液→母乳
  →少女の性成熟(生物学的意味)、母子のつながり(社会的意味)の2つにかかる
  さらに、母系社会や社会の一体性も表現しているという
  男性優位への反抗を示す際にも使われる。一体性だけでなく分裂まで意味する
・一般に、象徴のこうした多義性こそが社会の結束を作り出すと考えられる
・また、象徴は社会の構造や正統性と、存在や感情の両方に関与している
  →社会の成員それぞれの個人的体験を社会に繋ぐ役割
  (今日使われる、民族や国家の「旗」の機能も同じか)

▽儀礼に内在する複雑さ
・Bloch(1986)によるマダガスカルのMerinaの割礼研究
・演劇的なパフォーマンスと儀礼の切り分けは思ったより難しい
  →劇場人類学theatre anthropology(Hoem, 2005)(ここでは深入りしない)

▽国家における政治的儀礼
・Blochは、儀礼や象徴が曖昧なのは、矛盾をはらんだ社会の表象だからと考えた
  →イデオロギー(世界を単純化したもの)は必然的に人間存在と矛盾する
・近代国家でも:例えば国旗の抽象性によって、多様な国民が統合できる
・社会が変遷しても儀礼は残るが、意味は変わる:
  例えばロシアの新年。キリスト教以前→キリスト教→社会主義
  →新たな状況を、古いシステムを流用することによって見慣れたものにする作用
    (これは民族運動やナショナリズムでも見られる→18章)

▽現代の儀礼:サッカー
・現代の非宗教的な儀礼としてスポーツが挙げられる
・2014年のワールドカップは世界の3人に1人がテレビで見たといわれる
・サッカーの人類学的研究いろいろ:
  社会的ドラマとしてのサッカーファン(DaMatta, 1991)
  試合における男性性の称揚と、アイコンとしてのスタープレーヤー(Archetti, 1999)
  ナショナルアイデンティティの発露、世代間ギャップを埋めるものとして(Hognestad, 2003)
  ベルファストのグラスゴーファンなど、象徴の曖昧さの例として
  その他、多国籍のチーム編成、サポーターの多様性などグローバルな性格
  結果の予想不可能性→宗教や呪術との共通性?
  それにしても、サッカーファンは何を崇拝しているのか?

・フィールドワークなしには儀礼研究は不可能
・一般理論ができにくいのもこのトピック
・ただし、宗教的知識は儀礼として実施されて初めて意味を持つとはいえる
・聖書と自然科学のように、相矛盾した信念を持つことも現実的には可能
・状況に応じて使われる知識も変わる

2017年02月28日

ポピュリズムとは何か

■水島治郎『ポピュリズムとは何か』中央公論新社, 2016年.

一部は仕事絡み、そうでなくても個人的な興味でヨーロッパの現在をざくっと見ておきたいという気持ちがあったこともあり、イギリスのEU離脱やトランプを経て、ドイツやフランスの選挙を控えた今、これは是非読んでおかにゃならん気がする、ということで買いました。

個人的な興味との関連でいくと――さまざまな善が花開くためにこそ、土壌としての「正義」ってものが必要だよねという考え方が、「あいつは正義の敵」というイスラム批判に化けてしまうというあたり、厄介な事態が出てきたなと思います。
排外主義や反EU主義に惹かれていく「置き去りにされた人たち」を「あいつら分かっとらんね」と蔑む視線が、口に出さないがポピュリズム政党に投票する人たちを相当数生むというのも分かる。
この本は効果も副作用もあるポピュリズムという複雑な問題を分析したまでで、「さてどうする」を提示はしていませんが、たぶん解決策も複雑だっつうことなのでしょう。

いやもうとても勉強になった。たまたま前に同じ中公新書の『代議制民主主義』を読んだこともあって読みやすかったです。すごく無駄なく書いてあるので最初から最後までただ読めばいいのだけど、自分メモを一応↓
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▽ポピュリズムの定義

(1)固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴えるスタイル
 =リーダーの政治戦略・手法としてのポピュリズム
 例)中曽根、サッチャー、サルコジ、ベルルスコーニ
(2)「人民」の立場から既成政治やエリート批判をする「下(≠左/右)からの」運動
 =政治運動としてのポピュリズム(本書のフォーカスはこちら)
 例)フランス国民戦線、オーストリア自由党、Brexit、トランプ
・その「人民」が意味するのは:
 (2-1)健全な普通の人、サイレントマジョリティ(←→腐敗した特権層)
 (2-2)ひとかたまりとしての人民(←→特殊な利益関心を持つ団体、階級)
 (2-3)「われわれ」国民や主流民族集団(←→外国人、民族・宗教的少数者、外国資本)
・エリートの「タブー」「PC」「手続き」に対する挑戦が戦略となる
・既成政治に「民衆の声」をぶつけるカリスマの存在(必須ではないが)
・支配エリートの政策が変遷すれば、それへの対抗も変遷する「イデオロギーの薄さ」

▽民主主義の敵かというと、そうでもない。どころか、理念と結構重なる

 例)国民投票の広範な利用(墺自由党、仏国民戦線、瑞国民党、橋下)
・西欧では右派でも民主主義や議会主義は前提。敵視しているのは「代表制」ではないか
・民主主義の意義づけには
 (1)権力抑制を重視する「立憲主義(自由主義)的解釈」
 (2)人民の意思の実現を重視する「ポピュリズム敵解釈」
 の2つがあり、
・(1)に立つとポピュリズムには批判的になるが、制度重視で民衆に疎外感を生みやすい
・(2)は既成制度批判。左翼的ラディカル・デモクラシーとも共通する

▽民主主義にとってのポピュリズムの効果と副作用

・効果
 (1)周縁的集団の政治参加を促進
 (2)個別の社会集団を超えた「人民」を創出、政党システムの変動を喚起
 (3)「政治」を対立の場とすることで、世論や社会運動を活性化
・副作用
 (1)権力分立や抑制と均衡などを軽視しがち。多数にこだわると弱者が落ちる危険性
 (2)政治闘争を先鋭化させ、妥協や合意が困難になる
 (3)人民の意思や投票重視で、政党や議会、司法による「よき統治」を妨げる

▽どういうときに、どういう側面が顔を出すか

・民主主義の固定化した国でポピュリズムが出現すると
 →既成政党に緊張感が生まれ、民意への感度が高まる。民主主義の質を高める方向
・民主主義が固定化していない国で出現し、与党になると
 →「民衆の声」を盾に、権威主義的統治に落ちやすい(ペルーのフジモリ政権)

▽既成の政治勢力はどう対応するか(万能薬はないが)

(1)【敵対的】孤立化。ポピュリズム政党との協力や連立を避ける
  ただし「悪」のレッテル貼りによって、既成政党批判はますます強まるだろう
(2)【敵対的】非正統化/対決。積極的な攻撃
  ドイツの極右政党違法化、ベネズエラのチャベス政権に対するクーデター
(3)【融和的】適応/抱き込み。既成政党の自己改革で不満緩和、ポ政党の周縁化にも
  オーストリア国民党は自由党(ポ)と連立し、自党の主導権を回復
(4)【融和的】社会化。積極的にポ政党に働きかけ、変質を促す
  オーストリア。連立→政党内の分裂

▽類型

(1)「解放」としてのポピュリズム
  =既成の政治エリート支配への対抗、
   政治から疎外された農民、労働者、中間層などの政治参加・利益表出の経路として
  →弱者の地位向上、社会政策の展開を支える機能を持った
・19世紀末アメリカ
  格差拡大に対する共和党、民主党の冷淡さ。勤労者層の不満
  →1892年創設の「人民党」(別名ポピュリスト党)によるエリート批判
  ただし、白人農民のみへの焦点、既存政党の対応により、凋落も早かった
・20世紀ラテンアメリカ
  不平等、農園・鉱山主など少数エリートによる政治
  →ペロン(アルゼンチン)ら中間層出身リーダーが民衆動員、改革
  (1)交通、通信手段の発達を受けて肉声を全国に届けた
   *バルコニーから演説する「大衆への直接訴えかけ」スタイル
  (2)階級間連合で外国資本や寡頭支配層に対抗
  (3)輸入品の国産化(輸入代替工業化)と保護主義
  (4)ナショナリズム(先住民、混血、アフリカなどの価値を積極的に掲げた)
  (5)包摂性(低所得層、女性、若者に選挙権)
  →1970年代以降は軍事政権の弾圧を受けるなど下火に
・21世紀ラテンアメリカも依然、圧倒的な経済格差とアンダークラスが存在
  →国家の役割強化、福利増進への期待
  →チャベスとその後のポピュリズム政権の支持拡大

(2)「抑圧」としてのポピュリズム
 =排外主義の結びつき
・ただし、現代も「男女平等や民主主義の価値を認めないイスラム」の排撃は
  解放の論理に立っているとみることもできる(デンマーク国民党など)
  オランダのフォルタインは同性愛者を公言。
   →イスラムの同性愛・女性差別を追撃、「啓蒙主義的排外主義」と呼べる
  シャルリ・エブド事件に対する「言論の自由」からのイスラム批判
   →西洋の基本的価値であるリベラル・デモクラシーからの批判が困難
・1990年代以降のヨーロッパでポピュリズムが伸びた背景:
 (1)グローバル化、冷戦終結などで左右が中道に寄り、既成政治の不満表出経路が限定
  →ユーロ危機時のドイツでは、ギリシャ支援を「しない」という選択肢をポ党が提示
  →むしろポピュリズム政党は社会の安全弁?(←→ドゥテルテのような危険な例も)
 (2)労組、農民団体などの弱体化→無党派層の増大
  →既成政党・団体が「特権層(←→市民)」の代表と見なされる
  →オーストリア自由党など、既得権益批判で支持が得られるようになった
  *ラテンアメリカと違い、福祉の利用者が「新しい特権層」として排撃対象にも
 (3)グローバル化による格差拡大で「近代化の敗者」が生まれる
  →グローバル化、ヨーロッパ統合を一方的に受け入れる政治エリートへの反感
  ・オランダのウィルデルス党のEUエリート批判と「リベラル・ジハード」
  ・人種主義的なBNPの「節度ある代替」として伸びたイギリス独立党
   →分断された英国におけるChavsの静かな支持、Brexit
  ・置き去りにされた「ラストベルト」のトランプ支持
・現代ヨーロッパのポピュリズムの特徴
 (1)マスメディアの活用。タブー破り、ネット宣伝(ウィルデルスのオランダ自由党)
 (2)直接民主主義の活用
  極右起源の国民戦線(仏)、自由党(墺)、VB(ベルギー)の転回
  国民投票で市民層の不満をすくい上げる。特にスイス国民党
   →現状変更にNoが出やすい(国民投票の保守的機能。女性参政権の遅れなど)
 (3)福祉排外主義。「移民が福祉を濫用している」
  タブー破りとしての移民批判

2017年02月10日

オリエンタリズム

■サイード, E. W.『オリエンタリズム(上・下)』(今沢紀子訳)平凡社, 1993年.

学生時代に「読まなきゃ」と思って買ったのが20年近く(!!!)前。
会社に入ったころ、宿直勤務のときに読めるかなと思って職場に置いていたものの、そんなはずもなく、諸先輩方から「難しい本読んでんな」とからかわれて、本書は自宅に引きこもったのでありました。今般読み始めたのには特にきっかけはないのですが。
1978年の原著出版からだいぶ時間が経って、日本語訳が1986年。そんで平凡社ライブラリーになったのが1993年。そこからさらに四半世紀。その間に著者も亡くなってしまい、挑発の書もいつしか古典に叙せられて、なんというか悪い意味じゃなくて、古くなった感じがしました。

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「オリエンタリズム」は、狭義にはアジア(本書の主要な関心である中近東のほか、インド、中国、日本など)に関するヨーロッパ発祥の研究分野――人類学、社会学、歴史学、文献学などを動員した「地域研究」と呼ばれる学際領域に近いかもしれない――を指すが、もっと広い意味では「東洋(オリエント)」と「西洋(オクシデント)」の区別に基づく思考様式のことだといえる。オリエントを理解し、侵入し、支配し、教え導くための西洋の「知の様式(スタイル)」ということもできる。

オリエントの文献を渉猟し、オリエントを訪れ、学会で活動し、あるいは植民地官僚として奉職し、オリエントを解釈し、書き残すことによって、言説は不断に維持され、解像度を高め、強固さを増す。言語学者、官僚、軍人だけでなく、芸術家や文学者もまた政治の端くれとして、言説の再生産を担っていくのだ。

神秘のオリエント、深遠なオリエント、論理に馴染まず、永遠に発展せず、生殖力の強いオリエント。「われわれ西洋」と「かれら東洋」が分かたれ、「劣った東洋」との対比によって「優れた西洋」の自画像が立ち上がる。外側に出ることは困難だ。「現場を踏む」ということが、オリエントを内在的に理解することを保証せず、むしろステレオタイプを強化する契機になる。そういう困難さがある。

ではオリエントは自ら語るのだろうか?語ることはできない。言説の渦を回し続けるのは西洋であって、そこにオリエントが関与し、内容に承認を与えることはない。せいぜいインフォーマント扱いされるくらいだろうか。「自らを表象できないオリエントのために、西洋はやむを得ず表象という仕事をしている」、そんな使命感の下に。
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まとめるとこんな具合で、そのあたりは序説にさくっと書いてあり、あとは膨大な資料に当たりながら、14世紀から現代までのオリエンタリズムの変遷を辿るという構成です。全編面白く読んだかというとそうでもないんだけど、長い間本棚からじっとりと弊管理人を睨めていた未読の作品をやっとやっつけたので、まあいいか。

2017年01月26日

じんるいがく(6)

通勤電車で読むのはやめまして、夜とか時間のあるときにちょっとずつ進めることにしました。
重いし、メモにするときはもう一回流し読みしながらまとめることになるからです。
ということで、通勤電車ではもうちょっとスピード上げて読めるものに手を付けてます。

松の内に書いた(5)の続きで、
■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.

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11. Politics and Power

・権力:個人に課される制約であるとともに、安全を担保する法と秩序の源泉でもある
・産業化社会では何が政治か/でないかの特定は比較的容易(政策科学の対象)
・非産業化社会では日常生活の中でそれを見出すのは結構大変(どの社会にも政治はあるが)
  内閣や市政府に相当するものを探してもしょうがないことが多い
・そのかわり、政治人類学は次のようなことを見ることになる
  「どこで」「誰が」重要な政治的意思決定をし、誰が影響を受けるか
  どんな規則や規範が支配しているか
  どうやってヘゲモニーが挑戦を受けるか
  どんな罰があるか

・古典的な政治人類学は、1930-1960年代のブリティッシュ・スクールで発展
  中心的な問いは「国家(中心的な権威)を持たない社会は、どうやって統合されているか」
←→ポストコロニアルな現代の政治人類学の問いは:
  ローカルな共同体がどう中央政府に対抗しているか
  中央政府は住民に共有されている文化をどう利用し統治しているか

・この章では、国家をもたない社会における「政治」を扱う
  こうした社会は脆弱に見えるかもしれないが、実際はものすごく構造的に安定している
  (ヌアー、パシュトゥーンPathans、ヤノマミ……)
・二つの視点
  (1)それぞれの社会がどのように統合されているか(システムの視点)
  (2)諸個人はどのように自分の利害関心を実現させているか(アクターの視点)

▽権力と選択
・権力の定義
  「自分の意思を押しつけて他人の行動を変えさせられる能力」(ウェーバー,1919)
  マルクス主義者は、分業や法など社会の中の諸システムに埋め込まれた権力を見た
    (規範や暗黙のルールに従っている場合、「誰が」権力を行使しているかは特定できない)
    →「権力」は「慣習」「文化」「規範」と同義になってしまう?
  →政治人類学の文脈では、ウェーバーに従って権力/権威/影響力の用語法を採用しておくとよい
    権力は防衛の必要あり/権威は疑われないもの/影響力は黙従、マイルドな権力

・行為は、何らかの強制下にあるのか/それとも自由な選択なのか?
  どちらも正しい。何らかの「強いられた状況下で」「選択を行っている」
  例)資本制の下では金がないと投資できない。世襲制の下では王様を選べない、など
  「南」世界の主要な変化に、土地使用権がコミュニティ(WE)→個人(I)ベースに変わる、ということがある
・一方、個人はできる範囲でならいつも選択をしている
  例)工場を買うお金はないとしても、お金を貯めておくか、ビールを買うかは選択する
    Saloioの女性はフォーマルな政治へのアクセスはなくても、インフォーマルなルートで影響力を行使する
・つまり、誰もが程度の差はあれ、権力や影響力を行使している
  が、われわれの「権力」に対応する概念を対象の社会が持っていないことはある

▽権力の欠如状態powerlessnessと抵抗resistance
・権力の欠如は、権力が「少ない」のではなく、「ない」状態。語れないmutedグループ
  →効率的に自分たちの利益を実現することができない
  フーコーの表現では、主流の言説によって抑圧されている
・Lukes(2004)による「権力を研究する際の3つの視点」
  (1)目に見える意思決定プロセスへの注目(最も分かりやすい)
  (2)政治システムで取り扱われてはいるが、意思決定プロセスに出てこないものへの注目
  (3)公的な場で声を持たない集団への注目(見過ごされやすい。例)女性や先住民)
    →それでも、こうした集団は戦略的に存在を主張していく。貧農による集団的な抵抗など(Scott, 1985)

▽イデオロギーと正当化
・どんな社会でも権力者は正当性の主張をせざるをえない(暴力的な統治を行っていても)
  ブラジルのMundurucu族は、男性>女性に「聖なるトランペット」神話を利用
  ヒンドゥー社会ではバラモンが聖典を利用
  民主社会では「民意」を利用している
・非産業化社会では「生得的な地位」、産業化社会では「獲得した地位」を重視?←これはイデオロギー
  (1)産業化社会でも地位がすべて獲得されたものではない。階級や民族など社会的背景も影響
  (2)非産業化社会にもいろいろなパターンあり
・イデオロギーをとりあえずどう定義するか
  社会をどう組織化するか(政治、規則、善悪の区別)に関する文化の一側面である
  規範的な知識であって、明示的なものも暗黙のものもあり、修正を迫られることもある
・権力の欠如状態にある人も含めて、社会には基礎的な価値観が広く共有されている
  マルクスとマルキシストは、自分の利害に無自覚にこの価値観を共有している現象を「虚偽意識」とした
  →それを自覚することで抵抗の起点となるはず
・だが、社会を外から見ている人類学者としては、岡目八目を当然視していいかは疑問
  比較研究の際には「この社会は間違っている/正しい」を言うのは妥当でない
  もっと記述的。イデオロギーと慣習の関係など(これを構成員がフルに理解しているとは限らないが)

▽親族関係ベースの社会における統合と紛争
・エヴァンス=プリチャードによる南スーダンのヌアー研究(1940)
  敵がいるときだけ「族」としてまとまるa system of segmentary oppositions
  →紛争時のスコーピングによってどう連合するかが変わる柔軟さがある
  諸リネージや諸クランが同格だからそうなるので、もし王や貴族がいたら状況は違ったであろう
・ただし紛争仲介者的な位置付けの人はいる(leopard-skin chiefs)
  当事者の意見を聞いて落としどころを一定の重みをもって提案
  小さなリネージ出身で、それゆえに「中立」だと思われている
  仲裁の見返りに牛をもらうので裕福で、政治的に重要なアクターでもある
  こうした「政治の中と外に同時にいる」立ち位置は、宗教指導者にもみられる
・ヌアーはスーダン政府と対立。これはブラジルやベネズエラ政府とヤノマミの関係とは違った構図
  ヤノマミのリーダーは先住民族としてテレビや国際会議に出てくる
  →親族関係ベースの社会でも、大規模な組織が作れることはある
・こうした関係の在り方は近代社会でも。例)自分に近い個人や集団にほど忠誠を強めるルペン

▽獲得した地位と生得的な地位
・メラネシア(ニューギニアから東の島嶼地域)/ポリネシア(南太平洋~NZまで)の対比(Sahlins, 1963)
  親族関係ベースの自律的な小規模村落/プロの軍隊、税制、官僚制を備えた国
  リーダーは個人的な資質にもとづいて贈与競争により権力を獲得/世襲、王族あり
  リーダーは人脈を形成、多妻。次世代がリーダーを目指す/貴族クランの存在、王の権威は神授
  権力システムは個人的で成果志向、平等/制度的、ヒエラルキー
  権力の座は不安定/これはポリネシアも同じで、官僚機構や税負担の肥大化が反乱を招きうる
  焼き畑農業→富の蓄積がしにくい/灌漑農業→官僚や軍人を養うだけの富を蓄積できる
・ただし近代化で両者とも状況は変化
  貨幣経済の浸透で、財産の個人化(土地の個人所有)が出来

▽戦略的行為としての政治(行為者視点からの政治)
・政治の二つの定義
  (1)機関としての政治(権威的な意思決定)→個人や集団間の競争としての政治
  (2)システムとしての政治(言葉が媒介する権力と権威の流通)→統合作用としての政治
・パシュトゥーン人(パキスタン、穀物農作)の例(Barth, 1959)
  少数の土地所有者と、多くの小作人で構成
  男の子だけが相続できる(長男以外も)→どんどん土地が足りなくなる
  →遠くの男系親族と連合(近くとは土地使用権の抗争があるから。ただし兄弟同士は抗争しない)

・国家の誕生
  ウェーバー:国家による抑圧―課税と暴力の独占
  グローバル化は国家の力をさまざまな面で弱める

・コンゴの例(Friedman, 1991, 1994)
  継続的な経済的凋落の末、90年代前半に政府が無力化→国民から浮遊
  →コネ政府に→知識人の流出
・なぜ反乱が起きず国民が黙認してしまったか?
  経済の変化と移住で地域のクランが反乱を組織できなくなっていた
  困りごとの解決を政治的な行動ではなく呪術に訴えていた(magical world view)
  政府が国民を抑圧せず、単に「棄民」してしまった
  「モダニティとアフリカの伝統が最も噛み合わなかった例」(Ekholm Friedman)
・マダガスカルで政府による統治に明示的に反抗したツィミヘティの例も

▽政治的暴力
・北アイルランド紛争(1960年代~1998):身体を使ったプロテスト
  政治的主体の作られ方:身体、告白共同体、国家、ユートピア完成時の想像の共同体
  獄中での「ダーティ・プロテスト」(体を?洗うことを拒否)、「ブランケット・プロテスト」(囚人服の着用拒否)
  特定の身体的経験+イデオロギー→暴力の行使に結びついている
・戦争
  文化人類学では戦争を特徴づけるのは難しい(さまざまな特徴があるから)
  紛争や戦争のフィールドワークでは、自分だけでなくインフォーマントを守らねばならない
  「危害を加えてはならない」という倫理も守れないことがある
  文化人類学の成果がマイノリティの統治に利用されることも

12. Exchange and Consumption

・経済人類学
  経済を、社会や文化の一部とみて、他の部分との連関に注目する(経済単独で見ない)
  値段も栄養価も同じなら、なぜBではなくAを食べるのか→何を価値とするかを調べることで解ける
  資本制が唯一の解ではない。むしろ資本制は世界の中ではニューカマーといえる
  歴史の90%は狩猟採集
・人類学では、経済は2つの定義の仕方がある
  (1)システム的定義:物質、非物質の生産、分配、消費
  (2)アクター中心的定義:個々のアクターがさまざまな手段で価値を最大化するやり方に着目
・ポランニーの呼び方ではformalist/substantivist。政治など他の分野でも同じ
・「ホモ・エコノミカス」は、生産の単位が個人ではない社会では意味がない
  ロシアの研究(Chayanov)では、農民は生きるのに必要+ちょっと余裕があるくらいの生産をしていた
  →彼らは「最大化」ではなく「最適化」をしている
  ただし、formalistに言わせると、これは農民と株のブローカーでは優先順位が違うというだけの話
  →農民は生産の代わりに「余暇」を最大化しているのではないか?との指摘
  これは、資本制とそうでない経済に「質的な違いがある」か「基本は同じ」か、という対立

▽社会の一部としての経済
・マリノフスキーのトロブリアンド諸島研究:「クラ」
  「未開の」人々も、生物学的な必要を満たす以上のことをやっている
  収穫されたヤムを親族などにあげる(義務的贈与)
  →誰のところにたくさん集まるかで、共同体の中で誰が力を持っているかを示す
  →贈与は社会的な紐帯を再生産するだけでない、政治的な意味がある
・資本制経済では、カネのシステムは社会の中ではっきりした境界をもって存在しているとされてきた
  アンペイドワークはその外
  カネと価値のつながりに対しては、マルクスが疑義を提示(→『資本論』第1章。交換/使用価値)
・「value」は3種類の意味が混同して使われている(Graeber,2012)
  (1)哲学的、社会学的意味(「家族の価値」など)
  (2)古典的な経済的意味
  (3)「値(=あたい。何かと何かの違いを表すもの)」という意味
 →資本制経済でも、経済は実は明確な境界を持っていないのではないか?
・トロブリアンド諸島では、ヤムを育て、贈り、クラ交易をするときにあえて「経済」とは言われない
  経済は社会の中に溶け込み、生活のあらゆる側面に現れている
  女性、子どもも投資の対象だとは見られていない
  資本制は「需要と供給に基づく市場での交換」1つで成立しているが、諸島では80の交易形式が存在
  Gimwaliは、市場での豚や野菜の交換
  Lagaは、親族以外から買う呪術的な効果
  Pokalaは、10分の1税のようなもので、ヤムなどをえらい人にあげる
  Sagalは、葬式などの行事の際にただで配られる食べ物
  Urigubuは、姉妹や母親の夫にあげるヤム
  Kulaは、貝のブレスレットとネックレスが時計回り、反時計回りに渡されていく。島内&島の間で生起
    →利益を生まないが、Weiner(1998)は名声のためと分析(貝に前の持ち主の名前がついていく)

▽社会現象としての贈与
・ヤムを贈るときは、すぐに見返りが来ることを期待していないので「贈り物」とみることができる
  ヨーロッパで父→娘のお小遣いも同じ
  ただし、どちらのケースも、曖昧でも何らかの見返りを期待している(将来よろしく、とか感謝とか)
・メラネシアに限らず、世界の多くの経済は「贈与経済」(Strathern,1988)=価格が固定されないモノの分配
・贈与は他者との関係作りである:平和創出の手段、友情、忠誠→システムの統合維持
・コーヒーを買ってきてもらったとき、すぐに代金を払うのは、他人と道徳的な関係性を持ちたくないとの意味
・モースがポリネシアで見たのも同じ。互酬性は社会をくっつける「糊」だということ
  「全体的贈与」:宗教、法、道徳、経済がすべてその交換の中に現れるようなもの。現代では結婚指輪か

▽ポトラッチ、互酬性、権力
・北米のポトラッチはKwakiutlおよび近隣集団で実施。1884年にカナダで、数年後には米国でも禁止
  狩猟、漁労民でヒエラルキーを持っていて、貴族は相互に贈り物をして相対的地位を保っていた
  返礼をより多くという加速構造を持っていた
  冬には大規模なパーティを催して飲食、財産を燃やしたり奴隷を海に投げたりして財力を誇示
  →最も破壊できた人が首長になる
・もっとマイルドなものでは、フランスの婚姻時の贈り物習慣なども(モース、1924)
・ブルデューが引用したモースの互酬性に関する研究:Kabyleの社会
  家の完成の際に、それを称えるための食事ではなく金銭報酬を求めた石工の話
  →贈り物の交換より、市場での交換を求めた形
・レヴィ=ストロースは贈与を社会統合の基本としたが、モースは生け贄など他のシステムもあると考えた
  ←Weinerの反論。Inalienable Possessions
  (●よく分からない。贈与の対象になるのは、所有者と切り離せない譲渡不可能なものである、
  市場での交換の対象になるのは、切り離せるものだということらしい)

▽分配の諸形態
・贈与は社会統合の手段であり、個人間の関係を定義、再確認するものである
・資本制経済下では全く事情が違う。レジ係も客も、買い物終了後にお互いの顔など覚えていない
・ポランニーの3分類:
  (1)互酬性reciprocity。メラネシアなど贈与経済が優勢な社会での基本的な形式
  (2)再分配redistribution。政府や首長など中心的アクターがものを集めて配る(互酬性は中心がない)
  (3)市場交換。匿名で、交換ルールも各自が選択できる
  →ポランニーは市場交換が社会統合を危うくするが、同時に反発が起きるので全域化はしないと考えた
  社会には(1)(2)(3)いずれも存在するが、比重は社会によって違う
・再分配は権力構造の保存に役立ち、市場交換は膨大な人数を包括できる
・さらにインフォーマルセクターの存在も指摘される(Hart, 1973)
  大規模組織犯罪、密貿易、契約のない労働などが現代の経済グローバル化により拡大中

▽貨幣
・多くの場合、何を売買していいか/いけないか、という規範が社会の中にある
  資本制にもあって、愛、友情、忠誠などは売買できないとされている
  麻薬の売買も一般的には違法。セックスも社会によっては。武器も同様
  ただし、資本制は他の制度より売買できるものの範囲が広く、商品間の比較可能性も高い
  →その仲立ちとなるのが貨幣。マルクスの「交換価値」
  伝統的社会の多くは労働力や土地は売買の対象外だった
  貝を貨幣のように使った社会もあるが、交換の対象は限定的だった
・ナイジェリア・ティブ族Tivの例
  もともと土地はアイデンティティと強く結びついており、売買の対象外だった
  穀物、果物、野菜を作り、家畜を飼っていて、余剰は市場で売ることもある
  ただし、市場が唯一の分配システムではないmulticentric systemだった
  第2次大戦前は、3つの経済領域を持っていた:
   (1)日用品。主に市場で交換され、通約可能。最も低いレベルの交換
   (2)威信prestige。家畜、呪術用品、奴隷、超高級な輸入の織物など。真鍮の棒が貨幣代わり
   (3)女性と子どもの売り買い。人を購う手段は人。決済はすぐに行われるとは限らない
  各領域の内部での交換は道徳的に中立的。ただし領域をまたぐと交換基準がない
  特により低レベルの領域との交換を行うのはアホだととらえられている
→パックス・ブリタニカのもとで交易範囲が拡大、これまでの定義にない商品と触れるように
  さらにゴマの輸出で貨幣を手にするようになった
  数年ですべての商品の価値が貨幣で測れるようになってしまった(Bohannan,1959)
  結納もお金でするように。多くの人は「女性をモノで買っている=女性の価値を貶めている」と感じた
・ただし、貨幣経済の浸透が悪かったかどうかは場合による
  ブルデューのように「道徳的義務の網の目やヒエラルキーからの解放だ」ということもできる
  親族集団によって個人が交換されなくてもよくなり、自由恋愛が可能になったとの側面も
  そもそも人類学は価値判断することを初期的なタスクとしていない

▽情報技術としての貨幣
・貨幣経済の流入によって、経済は道徳や文化から切り離される
・そのかわり、非常に広い範囲の交易に開かれることになる
・生産したゴマが英国の食卓に上り、真鍮の棒では買えなかったTシャツやラジオが買える
・貨幣は国家ともつながっている。国家は貨幣を発行し、徴税する
・貨幣は負債ともつながっている→次第に格差が広がっていく

▽モノへの意味づけ
・モノへの意味づけは文化によって違う(Appadurai, 1986)。言葉、サービスといった抽象物も同じ
・例えば、トロブリアンド諸島では呪文が相続されたり売り買いされたりする
・マルクス:コモディティ化によってモノは比較、交換可能になる→ルカーチ、ハバーマスへ
・価値の体系を知ることが、社会の中の多様性を知る足がかりになる
 例)ブルデュー:アカデミアを地位と権力の交換をするアリーナとして見る
・モノは意味やアイデンティティとつながっている(家の内装など―Miller, 1998)
・記憶ともつながっている(墓石からビール缶、マッチ箱まで)

▽消費とグローバル化
・モースが言うように、(カネを仲立ちにしてもしなくても)交換は社会関係を創出する
・消費は人々の間の違いを作り出すと同時に、連帯や文化的な意味を作り出す
・一見、享楽のために見える消費が、実は全く違った意味を持っていることがある
  例)ポップス、ファストフードはアメリカ化と言われるが、セブンイレブンは日本の会社だったりする
  フォルクスワーゲンは中国でアメリカのメーカーの車より売れている
  トヨタはアメリカで3番目に売れている
  第3世界の家庭ではポケモンを見て、メルセデスを買い、ウィスキーを飲む。どれも米国と無関係
  ヒンディー・フィルムはインドネシア、セネガル、ナイジェリアなどで若者に受けている(Larkin)
・モダニティの土着化indiginisation of modernity。新たなモノや習慣が既存の意味の諸体系に入ってきて、
  それらをちょっとずつ変えつつ、しかしそれぞれを均一化しない(サーリンズ, 1994)
  官僚制、市場、コンピューターネットワーク、人権など、それぞれ地域によって違った定着の仕方をする
  モスクワではソ連崩壊後、マクドナルドが日常に入り込んだ
  →逆に言うとモスクワっ子はマックを「飼い慣らした」(Caldwell, 2004)
  こうした順応は、新たな要素がその文化の根本的なところに触らない限り起きる

▽交換再考
・交換のロジックにおいて、「西側世界」と「それ以外」を分ける考え方はそれほど自明ではない
・互酬と市場交換は相互排他的ではないし、それらの間に明確な線を引くこともできない
・サーリンズによるニューギニア研究では、住民は賃労働者になっていってもラジオなど近代的な道具を
  買っていたわけではなく、伝統的な制度のもとで、よりたくさんの豚を供物にしたりしていた
  →新しい経済システムの導入が古いシステムを葬り去るわけではない
・Davis(1992)はイギリスにもたくさんの交換形態があることを示した
  →伝統社会/近代社会、われわれ/かれら、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの二分法に疑義
  ただし、すべての社会が「同じ」と言っているわけではない

2017年01月08日

カーシェア

やや遅ればせながらタイムズでカーシェアリングを始めまして、慣らしを兼ねて命知らずの友人を助手席に、埼玉の「百観音温泉」に行ってきました。
かねて名前は聞いていたものの、久喜市というどこだっけレベルの北方(ツーリングだと東北道に入ってやれやれとひと休みしたくなる蓮田SAよりまだ北)ということもあり、実際訪れるのに数年を要しました。
日が暮れてからの出発、しかも寒い雨の連休中日。景色はありませんがお湯はなかなかでした。首都圏でここまでできればいいでしょう。外のぬる湯で1時間以上喋ってました。

帰りはまたこちらも数年の片思いを経て遂に到達という板橋の「元祖まぐろラーメン」。
170108maguroramen.jpg
しょうゆスタミナラーメンにしました。魚介の存在感たっぷり、がっつり、満足。
同行友人のノーマルしょうゆも一口もらいましたが、ノーマルには全然違うよさがあった。
油そばや、なんとパスタもあるそうで、また来て試したい。が、あまりついでのない土地でねえ。

行動範囲が広がることを期しての入会でした。
一緒に出かけられるお友達も増えるとよろしいが。

* * *

PCでのツイッターのクライアントは長いことSaezuriを使っていたのですが、いろいろ不具合が出てきて代わりにTweenを入れました。いろいろカスタマイズして、今のところ快調に使っております。

* * *

■吉川徹『現代日本の「社会の心」』有斐閣,2014年.

2017年01月02日

じんるいがく(5)

(4)を書いたのは8月だよもう。生活乱れていたなあと。

引き続き、
■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.
のメモを。
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8. Marriage and Relatedness

・資産としての女性←精子は安価、卵子は高価
・一夫多妻polygynyは多くの社会で見られる
・一妻多夫polyandryは少ない
  Ethnographic Atlas Codebookにまとめられた1231社会の中で、チベットなど4社会しかない

・歴史的には、恋愛結婚が前提の社会はほとんど見られない
・結婚は集団同士の関係であって、個人間の関係が第一とは見なされていなかった
  特にマサイ族の社会では、恋愛結婚はむしろ不利益があると考えられた
  結婚は子育てと家畜の世話のための制度としてある
  マサイ族の女性は、結婚を「必要悪」とみている
・ただし、高い離婚率が近代社会の特徴だというのは正しくない

▽支度金(品)dowryと婚資bridewealth

・ヨーロッパとアジアの一部では(嫁が持っていく)持参品dowryは重要な制度だった
  持っていくのは食器やリネンなど
  婿の家が嫁を養うにあたっての補償、将来の相続に対するお返しという意味合い
  負担はかなり重く、インドでは女の赤ちゃん殺しの理由にも

・婿側→嫁側に贈る婚資bridewealthはもっとよくある制度。特にアフリカ
  嫁の労働力と生殖能力に対するお返しという意味合い
  婿が嫁とその子を買っているという見方もできる
・婚資の機能
 1)家族間の契約関係や相互信頼を生じさせる
 2)高額の婚資を集めるために婿側の親族が協力しあうことで、親族内の結束を固める

・レビレート婚levirate:寡婦になった兄(弟)の嫁と弟(兄)が結婚する
  父系を維持するため。婚資がよく行われているところで起きやすい
・ソロレート婚sororate:妻に死なれた夫が、妻の姉妹と結婚する
  死んだ妻の代わりを提供する意味合い。レビレート婚の単純な裏返しではない

▽半族moietyと婚姻marriage

・集団同士の女性の交換で最も多いのは、姉妹同士の交換
・半族:一つの社会の中で、女性を継続的に交換している二つのリネージのそれぞれ
  女性の交換に加えて、社会の中での分業も行われている(オーストラリアなど)
・ヤノマミ族の社会では、生物学的な繋がりの強い親族関係ほど政治的にも安定している
  ただし、戦争回避や花嫁探しのために遠いところと関係を結ぶこともある
・女性のやりとりがA→B、B→C、C→Aのように多くの半族間でサイクリックを形成することも
  非対称アライアンスシステムasymmetrical alliance systemという
  半族間の上下関係も含んだカチン族の複雑な例→p.141

・以上は外婚の場合だが、内婚で交換が行われることも
  特にヨーロッパの王族のように、階層システムのしっかりした社会で
・ただし、内婚、外婚の区別は相対的
  リネージ内婚に見えても、核家族を単位とすれば外婚と見ることもできる
  自由な米国でさえ、人種内婚が存在すると見ることもできる

▽基本構造と複合構造

・『親族の基本構造』
・共通祖先ではなく、女性の交換によって集団間の繋がりが発生・維持される
・親族関係の構成要素:兄弟―姉妹、夫―婦、父―息子、母親の兄弟―姉妹の息子
・誰が誰と結婚できるか/できないかを規定
・複雑な現代のシステムは、誰と結婚「できないか」だけを規定しており、安定性に欠ける
・男性と、母方のおじの関係が重要

▽自然か文化か

・NeedhamやSchneiderは「親族関係は生物学的な関係とは別に発明されたものである」と主張
・「文化人類学者の発明である」とまでいう(多くの人は言いすぎと考えるが……)
・文化的構築物なら、操作することもできる(グリーンランドなどに例あり)
・ただし重要部分は生物学的な関係に基づいている
・この論争は現在もホットに続いている

▽社会を超えて共通な部分

・全ての社会にある
  近親相姦と外婚に関するルール
  子供は生まれてからの数年は母親と暮らす
  生殖、相続に関するルール

・多くの社会にある:
  親族関係に基づいた地域的な政治的、経済的組織
  先祖あるいは先祖の霊への尊敬に基づいた宗教的、日常的ルール
  親族関係に基づいた権力の強さの違い

▽親族関係と官僚制:伝統社会と近代社会の原理

・近代社会でも、親族関係は至る所に影響を及ぼしている
  キャリア、政治的地位、住むところ、等々
・しかし、資本制下での労働市場は親族とは無関係。何になるかは個人の自由
・官僚制も、「一般」という抽象的な概念に奉仕する。しかも誰でも平等に扱う
・親族関係と官僚制は近代社会い併存するが、折衷は困難
・親族関係を超えた複雑な相互依存も存在
・自覚的にこの違いを論じたのはウェーバー→パーソンズ
・ネイション、あるいは「想像の共同体」といったメタフォリカルで代替的な親族関係への移行

▽ジェンダーとの関連

・有名な研究の多くは男性視点で、女性を独立のアクターと見ていない
・親族関係がどんなジェンダー関係を生み出すかも分析していない
  (どんなイデオロギーが男性優位を作り出しているのかなど)
・親族関係はジェンダー関係でもあるという視点

9. Gender and Age

・未開の社会は平等だと思ってフィールドに行ったら全然違った。ちゃんと分化している
  垂直方向の分化:ランクと権力の違い
  水平方向の分化:権力の違いには結びつかない分業

・例えば:
  狩猟採集社会での性別、年齢に基づいた分化
  小規模な農耕社会での首長の存在(ただし相続されるとは限らない)
  大規模な農耕社会での首長+官僚+軍人、貧富の差
・生まれついての地位/獲得できる地位

・性別sexと性差gender―人類学で「性差」は長くネグレクトされてきた
  マリノフスキーのトロブリアンド諸島研究における男性の役割誇張=androcentric
  1970年代からのフェミニズムの影響でようやく注目→男―女関係、性差がどう形成されるか
  
・社会分業の中の性差
  狩猟民hunter→狩猟採集民hunter and gathererもジェンダーを意識した言い換え
  男性は狩猟のことしか語らないので、フィールドワーカーの注意がそっちに行っていた
  が、実は女性、子どもの採集活動で得られる栄養価のほうがメインだった(南アフリカ)
  アフリカでは農業の主な担い手が女性だったという例も(Ester Boserup, 1970)
  集団内の「神話」で狩猟や男性の英雄が語られる→男性優位が形成されている?(Mundurucu)

・公の領域=男/私の領域=女
  女性が多くの仕事をしても、その多くが家庭内のもの(子育て、炊事、掃除)
  男性は外の仕事。高度に専門化した社会では政治、宗教を司ることも

・服従させる/する、の孕む問題
  男女の服従関係にはグラデーションあり
  ほとんど平等(マレーシアのChewong)から、女性が自身の人生をほぼ制御できないところまで
  「平等=よい」というのはエスノセントリズムかも?
  男性と女性は同じランキングシステムの中にいるわけではないのかも
   →ホピ族:女性は母親として、男性は神のメッセンジャーとしてそれぞれ重要
・では、「女性は服従させられている」とは何を意味するのか?
  宗教的に重要な位置を占められない?←→それでも他の面で女性のほうが強いことも
  政治的に?←→女性のネットワークが意思決定を司るケース(Saloio)

・男性=文化/女性=自然?
  女性は男性に飼い慣らされるべき自然?(Levi-Strauss)
  両性の生物学的な差異に発しているのか?
  しかし、女性が文化の継承を担っている社会も
  北アメリカや中東では、むしろ男性が(性的に)自然と位置付けられている
    →レイプは荒ぶる自然から自分を守れなかったほうが悪い、との観念
・上記図式は単純すぎ
  黒人=自然=肉体労働/白人=文化=頭脳労働、みたいな変種も
→こうしたイデオロギーは権力関係を根拠づけるための道具になっているのではないか

・男性の世界/女性の世界
  女性はあまり語らない/男性は自分の社会を語る→エスノグラフィーにバイアスがかかる?
  女性は体面を気にする/男性は評判を気にする(Caribbean)

・セクシュアリティ
  生殖器の性/ジェンダー自認/性自認/性交渉時の行動
  ゲイ、レズビアンは「中間の性」ととらえるところも
  ノルウェーのエイズ対策の中で生まれた「MSM」という言葉

・年齢
  ジェンダーと同じく、年齢も普遍的に見られる分類の一つ
  年齢も社会的に構築される
  狩猟や遊牧など身体的要求が高い一部の社会を除き、加齢につれてランクが上がる(Holy, 1990)
  産業化、ポスト産業化社会では逆。生産者ではなくなるし、昔の知識はすぐに古くなるから
・ニューギニアのBaktamanには年齢に従って7つのグレードが存在
  宗教的な通過儀礼によってランクが上がっていく
  最高位に上がるとすべての知識を受け渡されたことになり、政治的に強い制御力を得る
・「同級生」のつながりが強い社会も

・年齢とジェンダー
  カメルーンのBakweri:男性は40歳になって政治力と財産を持たないと結婚できない
    女性は性成熟からすぐに結婚
  子どもの社会化の2目的:大人になること、と、男性または女性になること
    →だから通過儀礼は男女でかなり違う(Mount Hagen, New Guinea)
  例)中東、男児も女児も母親と公衆浴場に行くが、通過儀礼後は男性は裸の女性を見られなくなる

・通過儀礼
  社会は通過儀礼を通じて再生産される(van Gennep, 1909)
    →社会構造を変えずに、社会を構成する人が新しい地位を獲得する
    →権利と義務、協力関係を構成員が再確認する
  Turnerの3段階説:隔離separation、境界状態liminality、再統合reintegration

・婚姻と死の儀礼
  婚姻:集団同士の連合と、社会の継続性の象徴
  死の儀礼が持つ2つの意味
   (1)死者を正しく現世からスピリチュアルな世界に移行させる
   (2)相続。社会の中のどの結びつきを強め、どれを弱めるかを決定する=社会関係の更新

・現代の通過儀礼
  洗礼、堅信、結婚の宗教的な重要性は失われつつあるが……
  スカンジナビアのプロテスタント社会では堅信後のパーティでスーツと腕時計をもらう→大人に
  ただし、成人、結婚とも、その前後であまり大きく人生は変わらないのが現代かも
  年齢についても、変化が速く、変化がよいとされる社会では若さに価値が置かれる

10. Caste and Class

・カースト
  生得的、変更は極端に難しい
  ヒンドゥー、インドに固有
  儀礼的な清浄/不浄の観念に基礎を置いている→高位カーストが低位カーストに触れると汚れる
  特定のカーストが婚姻・交流、職業と結びついている
  カーストごとに規範がある(高位→ベジタリアン、飲酒しないなど)
・4つの主要カースト=ヴァルナvarna(「色」という意味)
  バラモン(僧)、クシャトリヤ(王、戦士)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(職人、労働者)
  その外にダリットDalit(不可触民)
  上位3カーストはスピリチュアルな再生の儀式を行うので再生族twice-bornと呼ばれる
・ヒンディーの外の人たちの位置づけ
  ムスリムはそれ自体、低位カースト
  他の少数民族は不可触民として扱われる傾向あり
  →こうしたことのため、キリスト教や仏教に改宗する人も
・スリランカ、パキスタンにもカースト制度は存在

・実は、本当にヒンディーを分類しているのはジャーティである(Sriniva, 1952)
  ジャーティは「生まれ」との意味。共同体単位を指す
  何千と存在
  ジャーティとカーストの中間に、職業カーストが存在
    (例:ロハールLoharはインド中の鍛冶屋ジャーティがまとまったもの)
  不可触民はカースト制度の外にあるが、ジャーティは存在する
  低位ジャーティの中には、菜食主義を採用して高位に上がろうと試みるものがある
    →高位の文化とはこういうもの、という共通の了解はあるらしい
・ジャーティ間の分業体制をジャジマーニー制度Jajmaniと呼ぶ
  不浄カーストはトイレ掃除をすることで、文字通り不浄であることを示す
  伝統的には、こうした分業体制の中で貨幣はほとんど流通しなかった
・貨幣経済が浸透した現在、ジャジマーニー制度の維持は難しくなっている
  1)貨幣で何でも買えるから
  2)旧来のシステムの中にない新しい職業がたくさん生まれているから
  3)村落が都市に組み込まれて従来の結びつきが弱まっているから
  →ジャジマーニー制度がなくなったわけではないが、カーストは曖昧で可換になっている

・カースト上昇(カースト制度の存在を利用する)
  ある人が上に行こうとすると、3つのやり方がある
    1)上のカーストに行く(だが非常に困難)
    2)そのカーストの地位向上を図る
    3)カーストを捨てて外でキャリア構築する
  2)の例:酒造カーストは地位向上を図ってきたが、経済的向上と清浄/不浄は別だった
    →菜食主義を採用するなど、高位カーストの実践を取り入れ始める
    →バラモンに高額の金を払って浄化してもらい、清浄さを入手(経済→地位変換)
・カースト間紛争
  低位カーストのPanは経済的に酒造カーストのような手法が採れなかった
    →寺院に入れないので、自分たちで寺院を作って「清浄」をアピール、しかし認められず
    →公務員の割当枠を利用してその中に入った??(p.181、意味分からず)
    →バラモンは地位向上を認めていないが、公的セクターからバラモンに権力行使できるように
・つまり、経済や儀礼上の向上は可能だが、地位向上とは別の話ということらしい

・現代インドでのカースト制度:変化を余儀なくされている
  1)新たな職業の登場
  2)雇用が能力主義に
  3)政府が公共セクターへの雇用などで積極的にカースト間の差異をなくそうとしている
  4)互いが顔見知りでない「都市」化で、スティグマから逃れることが可能になっている
・ヒンドゥー主義の中でもカーストをなくそうとしている
  ガンディーが不可触民をハリジャン(神の子)と呼称
  さらにそれを否定しつつ不可触民の団体がカースト制度の撤廃を要求
  ただし、まだ根強く残っている

・階級
  生得的だが、階級間の移動もよくある
  多くの社会に見られる
  内在的な視点emicでは、獲得されたものと見られている
・マルクス主義の階級
  ブルジョワジーあるいは資本家(生産手段=土地、機械、工場などを所有)
  プチブル(生産手段を所有しているが、0~数人の雇用)
  労働者
  他には、貴族(土地所有で働く必要なし)、ルンペン、無職者など
 →では公務員や教師、研究者などは労働者か?うまく分類できないかも
・ウェーバーの社会階層social strata論では、経済の他に政治的、知的な力という軸を導入

・資本制の導による社会変動:プエルトリコ・サンノゼでのコーヒー・モノカルチャーへの移行(Wolf, 1969)
  土地所有者がコモンズに対する支配を強化
  →すべてが商品に、小規模自営農業者が労働者に
  →社会に階層分化が起きる
    (1)小規模自営農peasants
    (2)少数の人を使って生きるのに必要な以上の生産を行う中規模農家
    (3)自分の労働力を売る農業労働者rural labours
    (4)コーヒー農園を大規模に経営する地主

・文化階級
  多くの人がホワイトカラーになった現代社会では、資本の有無では階級を見分けづらい
  ヴェブレンの「顕示的消費」:ステータスシンボルの購入
  ブルデューのcultural classes:支配階級=「趣味のよさ」を定義できる階級
    必ずしも経済力とは一致しない。文化資本は教育歴と出身階級に依存
    →この階級は移動できる。カースト上昇を試みた醸造カーストを想起せよ
・ただし、どんな価値(文化、経済、政治……)が重視されるかはコンテクストによる

2016年12月04日

週末まとめ

気になっていた食べ物を食べに行く余裕ができたことは幸せです。
大久保駅近く、「牛すじカレー 小さなカレー家」の大盛り600円。
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驚愕する味、ではないのだけど、ぴりりと辛くておいしい。
夜までお腹の中で存在感を発揮してました。

「最近、新宿三丁目のエイトの餃子を食べてないんだよね」と友人と話していたら食べたくなった。
けど、行ってみたら口が担々麺をオーダーしてしまっていた。
そういう気分に任せた行動ができることも幸せです。
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ゴマがきいたマイルドで濃厚な担々麺じゃなくて、辛いやつが好きな人にはとてもいいと思う。
あと、パクチーと豚肉の水餃子(3つで150円)も頼んじゃった。安定。近々また来ちゃう。

* * *

2015年、14年、13年の12月の日記を見てみたら、どれも「忙しい」と書いてありました。
今振り返ってみると「そうだっけ?」と思うけど、まあなんやかやでずっと忙しいのであろう。

* * *

■古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』光文社,2016年.

これ多分気楽に読めて面白いだろうなと思ったらその通りだった。
90年代の反省会だとも読めるし、カタログでもあるし、実物を知っているインタビュイーが何人かいたので近況お聞きしてるようでもあるし。

で、この本の中で紹介された本を1冊買いました。
前にいい本の条件というのを4点挙げたけど、今回は「次の読書に繋がる」と「サクサク読める」に該当したということで。

2016年11月23日

マラケシュ(2)

マラケシュさくっと観光2日目。
まずはサーディアン廟に行きます。サアード朝の王様のお墓。

入場料100円。しかし全く意味のない入退管理設備。
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うんお墓お墓。
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次。バイア宮殿。
また意味のない入退管理設備。
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中はとても豪華です。
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19世紀のハレムだそう。
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天井の模様がすごい。偶像が描けないのでパターンなのか。
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そりゃ幾何学も発達するわなとか。
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入場料100円。今年一番価値のある100円だったかも。
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上ばかり見てしまいます。
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では、旧市街の北東に向かいましょう。また地元民が多くなってきます。
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皮なめし職人のエリアです。
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まだ足がついたような剥がしたばかりの皮を洗って、薬品に浸けて、毛を取り除く。
薬品はアンモニアが含まれる鳩の糞から作られてるらしく、すごいにおいでした。
ガイドを買って出たおじさんから「ガスマスクだ」といってミントの葉を渡されました。
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これは羊かな。
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手前にあるマスに、薬品が満たしてある。
なんか街外れにあるのも分かります。階級的な違いはあったのでしょうか?分からない。

で、連れて行かれるファクトリーショップ的なところ。
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小さい肩掛けカバンなら買ってもいいかな、と思って値段を聞くと950ディルハム(=9500円)だと。
ベルベル人と交渉開始。

「高い。無理」
『いくらなら出すんだ』
「100」
『はっ(←笑い)』
「150なら出せるかも」
『いやあ無理だわ』
「じゃあ帰る」
『ちょいまち、200でどう。スチューデントプライスだ』(学生だと思われたのか……)
「いやあぎりぎり170」
『200って相当だよ。200でいいでしょ』
「貧乏なんで」
『200なら持ってるだろう』
「170が上限。お昼が食べれなくなっちゃう」
『いやあさすがになあ』
「じゃあ帰るわ。どうも」
『分かった170でいい』

ということで950→170に負けてもらいました。まあこれでも利益が出るんだろうと思いますが、しかしあまり嬉しそうな顔をしていなかったので、結構頑張ったほうか。相手は200でずいぶん粘ったので、そこが一つの勝負ラインだったのかもしれない。そんなに欲しそうな顔してなかったのが、もう一段の値下げをしてもらう鍵だった気もします。iPadがちょうど入る大きさなので、クラッチバッグのかわりにしよう。

帰りしな、ガイドを買って出たおじさんが険しい顔で「50」とガイド料を要求してきたので、10渡して立ち去りました。支払うまではしつこいが、支払えば額が低くても諦めはいいな。

値札のない世界で値切って買うのは、アトラクションだと思えば楽しい面もあるけど面倒ですね。

中心近くまで戻ってきて、テラス席のあるレストランでお昼にしました。
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適当に入ったところでも、ちゃんとパスタがおいしい。
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建物の高さがだいたいどこも一緒なので、3階のテラス席に座ると街が見渡せます。
場所を変えてお茶。レモンタルトを食べながらだらだらしました。
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帰りはロイヤル・エア・モロッコでパリへ出て、そこから全日空で羽田。
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アトラス山脈がきれいに見えました。さようなら。
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* * *

機内で読み終わったもの。

■鷲田清一『人生はいつもちぐはぐ』角川書店,2016年.

似たような話ばっかで今ひとつ以下でした。

2016年11月03日

その日暮らし

■小川さやか『「その日暮らし」の人類学』光文社,2016年.

「本書は、Living for Today――その日その日を生きる――人びととそこに在る社会のしくみを論じることを通じて、わたしたちの生き方と、わたしたちが在る社会を再考することを目的としている」(p.7)

未来の予測可能性を追求し、明日や1カ月先や10年先を構想して、その目的に奉仕する現在を生きる――そんなわたしたちの単線的な時間感覚と、生活様式と、その周囲をがっちり固める制度を外から眺めてみる。

眺める。どこから?

コピー商品の行商と国をまたいだ仕入れの旅、日雇い、携帯電話を使った小銭の貸し借りまで駆使しながら生きつなぐタンザニアの「インフォーマル経済」の中からである。インフォーマル経済とは、政府の雇用統計に載らない、零細な自営業や日雇労働のことだそうだ。
騙されることも失敗することもある、失業もある、困難ではある、しかし人びとは知人や親族と、複雑に助けられ―助ける関係の中に浸されていて、日々をなんとか無事に生きている。「この雇用が切られたらおしまい」「この金を使ったら後がない」という不安はそこにない。

弊管理人はときどき、こういう「自分をロックイン状態から引きはがす」力を持った文章を求めてしまいます。日常を解毒する力といってもいいかもしれない。フィールド体験記かなと思って手に取ったら、かなり分析的な内容でしたが、解毒作用はちゃんとありました。
もちろん、地下鉄で読み終わったあと駅に降り立てば、「しかしこうしたタフで落ち着かないインフォーマル経済の世界に、自分は移住したいだろうか」と少しずつ醒めていくのですが。

* * *

そうして駅から帰宅して寝て起きると、予定と準備への執着に満ちた仕事界隈ではマラソンの日々はまだ続いていて、しかもところどころで「この100mくらいなぜ全力疾走できないのか」と叱咤されることもあり、毒は溜まり続けています(しかし溜まっていることから目を背けられるようになってはきた)。

フェイスブックもいよいよ居心地が悪くなってきたので、アカウントは残しつつ、用事や他の方の意見が聞きたい案件がない限り、見に行かないことにしました。

2016年10月22日

保守主義とは何か

■宇野重規『保守主義とは何か』中央公論新社,2016年.

や、やっと通勤電車の中では仕事関連以外の文章を読める状況になってきました。
アマゾンで安い雑貨を注文するにあたり、送料無料になる2000円にちょっと足りなかったため、何やら各所で評判のよいこの新書を一緒に買ってあったのでした(失礼)。

「右翼」とか「左翼」くらい、「保守」って意味の分からない言葉です。
それが何なのか、何と戦ってきたか(=何でないのか)、今いかにぐじゃぐじゃしているかが整頓されていて、ありがたい本でした。

それにしても、保守主義が「歴史を踏まえた漸進的改善+自由の重視」だと理解すれば、近代科学(社会科学も自然科学も)との親和性がとても高いように思えます。
しかし、通常科学の営みとともにパラダイムを維持しがたくなり、あるとき言葉の意味がぐるっと変わってしまうように、(クリシェとして使われる「時代の転換点」ではなく本当に)時代が変わる瞬間というのもまた訪れるのでしょうか。どうやって?凡人の死骸の集積がティッピングポイントを超えることにより?あるいは天才がひっくり返すのか?

---------以下、メモ。日本の保守主義の章は割愛

▽出発点としてのバーク(18c、英)

(・言葉そのものは1818、フランスでシャトーブリアンによる雑誌「保守主義者」に由来)
・自由の擁護。しかしフランス革命(を主導した急進派)と、その暴力性は批判
・歴史的に形成された政治、制度の安定的作用を「保守」する
・民主化を前提に、秩序ある漸進的改革を目指すべきと考える
・歴史的蓄積をすべて正しいとするのも、丸ごと捨てる(理性の驕り)のも誤り。活用が鍵
・フランス革命は歴史の断絶、かつ抽象的な原理に立つもの、自らの過去への蔑視
・アメリカ独立には宥和的。ただし大英帝国の秩序のもとで

▽反・社会主義としての保守主義

・エリオット。創造の前提としての伝統。芸術における「個性」(独りよがり)の無意味
 ヨーロッパ諸言語のハイブリッドとしての英語。その詩の豊かさ。多様性の重視
 文化を担う「集団」(not個人)、コモンセンス。オーウェルは階級支配の正当化として批判
 →コモンセンスの喪失、イデオロギー同士の裸の衝突が危機を招く

・チェスタトン『正統とは何か』。正統=正気。理性を超えるものを否認する唯物論は「狂気」

・ハイエク(保守主義者であることを否定、ただしバークに共感)←ヨーロッパ個人主義の伝統
 政府が設計した変化を批判
 自生的秩序(市場メカニズム)・法の秩序(進化的に形成されたルール)を擁護
 なぜなら、限られた人が全体を把握することは不可能だから
 (ただし保険によってしか救済できないリスクがあることも認める)
  =社会の複雑性、自由を否定してはならない
  →×保守主義は階層秩序を好み、特定階層から指導者を出す。変化を拒絶
   ○自由主義はエリートの存在は否定しないが、どこから選出するかは予め決まっていない

・オークショットの保守主義:宗教、王制、自然法や神的秩序を切り離す点に特徴
 西欧は変化を求めすぎてきた
 変化は避けられないとしても、適応するくらいでよいのでは
 →統治の本質は、多様な企てや利害を持った人たちの「衝突を回避する」こととみる
 →それに必要な儀式として、法や制度を提供することが統治の役割
 →「人類の会話」。認め合い、同化を求めないこと
  対話を通じて真理を追究するのではない=他人から学ぼうとしない「合理主義者」への批判
  技術知(画一性、完全性)/実践知(経験から学ぶもの)
  統一体/社交体
  共生=リベラリズム=井上達夫/伝統が培った行動規範=保守主義=西部邁

▽反・大きな政府としての保守主義―アメリカ

・マディソン。権力分立←政治的ユートピアの断念
・ただし、20c半ばまで保守主義が位置を占めることはなかった。ニューディールへの合意
・ウィーバー。精神の「重し」となる伝統の不可欠さ
・カーク。超越的秩序、人の多様性と神秘性、序列と階級。自由と所有権。計画的改造への懐疑

・保守主義の精神的背景:宗教的国家+反知性主義(反エリート)
・1950ー60s、ベトナム戦争。ベスト&ブライテストへの懐疑
 →ウィーバー、カークの著作が重みを持ち始める
・政治運動としての保守主義の背景:伝統主義+「リバタリアニズム」
 リベラリズムが「政府の権力抑制」から「大きな政府+自由」へと意味の変化を起こす
 →「小さな政府+選択」がリバタリアニズムに
 →政府不信+強固な個人主義。政府主導の進歩主義的改革へのアンチとしては保守だが……
・フリードマン:経済的リバタリアニズム。ノイジーマイノリティの特殊利益擁護を回避する
・ノージック:保護協会の乱立→支配的保護協会の出現→最小国家。やはり自生的プロセス
  多様なユートピアを許容する。逆にマルクス主義・社会主義は帝国主義ユートピアとして棄却

・ティーパーティー(ロン・ポール~)。小さな政府+個人の自由。ただし草の根で実態は多様
・ネオコン。イラク戦争主導、小さな政府へのこだわりはそう強くない。初期はトロツキストら。特異!
  ゴールドウォーターの敗北→保守の立て直し→ネオコンと合流→保守革命
・ネオコンの特徴:
  国際主義(反・孤立主義。源流がリベラル反共だからか)
  リアリズム。国際社会を道徳的理念の実現の場とみる。各国のレジームチェンジに関心
  社会改革への志向。主な反発対象はリベラルの左傾化か
・帰結:アメリカの分断。大きな政府/小さな政府という争点が、宗教・倫理と連動し左右を分極化
・現代アメリカの保守主義:市場化と宗教化の結合

▽ポストモダン(再帰的近代)の保守主義

・保守の優位
・アメリカ:イデオロギーや経済ではなく、感情の対立か?
・ジョナサン・ハイトの「道徳基盤」:ケア、公正、自由、忠誠、権威、神聖
  リベラルはケア、公正、自由を重視。普遍主義
  保守は六つを等しく扱う。仲間を大切にする
・ジョセフ・ヒース。脳は保守的、漸進的にしか変わらないが、合理的思考=長期的企図も重要
  適応的な改革だけでなく、オーバーホールが必要な時もあると主張

・保守主義:楽天的な進歩主義を批判するものとして生まれ、発展していった
 →進歩主義の旗色が悪くなった現在、保守主義の位置付けも分かりにくくなったのではないか

・何を保守するのか?―伝統や権威。これによってかえって人間は主体的になる
 →伝統や権威は現在、「根拠」を求められ、自明性を失っているのではないか
 →根拠などなくてもいい、は原理主義。これの台頭もポスト伝統的社会秩序の一側面
・一人ひとりが「何かを守る」ことについての考察。開放性と流動性(柔軟性)を伴った保守主義

2016年09月15日

9月前半まとめ

あっという間に9月が半分過ぎてしまいました……

* * *

上旬、沖縄・石垣島に出張してきました。

石垣島と西表島の間にある「石西礁湖」のサンゴの白化がひどかったです。
ちょっといつもの禁を破って、仕事中に撮った写真を……

舟の上からでも分かる感じ。
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ちょっと潜るとこんな。
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白保のアオサンゴ(外から見ると分かりませんが、肉が青いのでアオサンゴ)は元気そうでした。
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予定外に日焼けしてしまった。
石垣島は6年ぶりですが、中国方面からの観光客がものすごく増えて、ちょっとしたバブルだということです。ホテルもすごく取りにくくなってました。

* * *

5月に、冬のジャケットとマフラー2本とセーターを預けたクリーニング店が
6月末で閉店していたことに
8月末に気付きました。

当然、もぬけのから。

店舗で洗っていた個人営業のお店で、預けるときにお代を払って受け取りにいくだけの店で、電話番号とかの登録はしないので、先方から当然閉店の連絡はなし。

ものすごい大事な服はなかったけど、ううむやられた。
というか、クリーニング店の閉店って生まれて初めて行き当たったかもしれない。

しかも2日に1回くらい通る道にあるんですけど、気付かなかった。
それが一番衝撃的だった。

* * *

■交告尚史他『環境法入門[第3版]』有斐閣,2015年.

経費精算したい。

2016年08月28日

8月まとめ

もはや記憶が薄れてきている帰省は12-14日。

長野県大鹿村の中央構造線博物館に行きました。
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あと、いつものように母方の本家に行って伯母さん作のごちそう。
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祖母(95)は弊管理人が名乗ると認識するという状態は相変わらずで、健康状態もよさそうでした。
世話をしている伯母(74)は「100まで行かれたら私もきついけど行っちゃうかも」と。
写真が趣味の伯母はとうとう時代の流れに抗しきれなくなってデジカメに乗り換えましたが、まだPCを持っていません。せめて大画面で見られるようにと、テレビにつなげるHDMIケーブルをあげてきました。

父方の本家では3月に亡くなった祖父の新盆。
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坊主が忙しいとかで来ないというのに驚きました。しかし、ままあることらしい。

父(64)は3月で再就職した仕事も終了し、よこすメールでは「起きてずっとぼーっとしてる生活」などと言っていて弊管理人は若干心配していたのですが、ちゃんと職安に行って仕事を見つけてきたとのことでした。こういうところ、さすがというか。

* * *

15日から出勤しました。でも世の中はまだだらっとお盆が続いている感じの1週間。
やらなくてもいい仕事を、勉強を兼ねて1本こなしてこの週はおしまい。

* * *

その次の週は行事関係を忙しく回りつつ、1日は伊豆の海に潜ってきました。仕事というか、仕事の準備的なダイビングでした。
大学生のときにオーストラリアでオープンウォーターの免許をとって、そこから間に1、2回潜っただけで、ほとんど素人の状態です。2本潜ったうちの1本目は水中でうまく静止するのに難儀しましたが、2本目でわりと勘を取り戻しました。

すっごい疲れて寝たら翌日は5:30に目が覚めてしまい、疲れを2日引きずることになりました。

* * *

心頭滅却しているうちに8月が終わりそう。
9月以降ことし一杯は生活がちゃんと成り立たなさそうだなーと予測していますが、まあ仕方ない。ここ2年アイドリングさせてもらったので。
むかしはものをおもひけり。

* * *

本はちょこちょこ読んでました。

■小西雅子『地球温暖化は解決できるのか』岩波書店,2016年.

昨年12月に新しい地球温暖化対策の枠組みであるパリ協定が採択されてから、恐らく初の本じゃないでしょうか。ジュニア新書ということで、著者は表現を噛み砕くのに多大な苦労をされたようです。それでも「です・ます」調を「である」調に直せばそのまま大人用の新書になるくらいのレベルと感じました。
中身はほんと参考になります。

ちょっと仕事上の必要があって環境問題について知りたいなーと思って、ワンストップでいろいろ教えてくれる本を探していると、結局「環境法」と「環境科学」と「環境政治」などが共通のベースを持ちつつも、入口がかなり違っていることに気付かされました。特に国際交渉の情報は毎年更新されるので、ついていくのが大変。

■西岡秀三, 宮崎忠國, 村野健太郎『改訂新版 地球環境がわかる』技術評論社, 2015年.

それでこちらは「環境省入門」という感じ。あからさまにそういう本ではないんですけど、地球環境、国内の環境対策、廃棄物・リサイクル、水・大気・土壌の汚染、生物多様性など、環境省にある部局がそれぞれどの分野を受け持っているかに緩やかに対応したような章立てに見えました。
一般向けで俯瞰する本なので解説は最低限ですが、キーワードがきちんと盛り込まれていて、要約としてもなかなかいいと感じました。

■良永知義『食卓からマグロが消える日』飛鳥新社,2009年.

いただきもの。著者(魚病学)はこのタイトルがものすごく気に入らないようです。
養殖のことってほとんど知りません。勉強になりました。

2016年08月14日

じんるいがく(4)

帰省先から東京に戻る高速バスが渋滞で遅れており、車内で書いてます。
粗い(特に親族のところ)メモになってしまいました。
最近目が悪くなったような。疲れ目なのか、まさか老眼か。

* * *

6 Person and Society

・社会構造:個々の人たちとは無関係の抽象化された実体
  ラドクリフ=ブラウンらはそれがどう社会の維持に貢献しているかを解明しようとした
  例)宗教→社会の一体性を作り出す、家庭→生殖や社会化……
  「何かの超自然的なものを崇拝する=社会を崇拝している」(デュルケム)
 →機能を失うと、その制度は消滅する
・しかしいつも成員がその通りに行動するとは限らない
→ファース(Raymond Firth)による解決は:社会構造structureと社会組織organisationの区別
  社会構造は、確立したルール、慣習、制度などのパターン
  社会組織は、その中で実際に人がどう行動するかという側面
  例)聖書を勉強してもクリスチャンの振るまいは予測できない
→社会「過程」への注目を開いた

・社会システムsystemと社会構造structureの区別も重要
  社会システムはアクター同士が取り結ぶ一群の社会関係
    その境界は、それより外に出ると相互関係がぐっと減る地点
    システムはサブシステムに分けることもできる
  社会構造は全体的な社会関係を指す
・どちらも個人の行動を可能にすると同時に、制約するものでもある

・ソーシャルネットワーク
 継続的なコミュニケーションによってたえず創出される、個人を中心とした社会システムの一種
 最初に使ったのはジョン・バーンズJohn Barnes
  SNSはよい例
  脱中心的、はっきりとした形を持たない、不安定←→社会構造
  特に大規模な社会を分析するのに向いている

・では「規模scale」って何だ?
  (1)社会の再生産に必要な地位statusesの数
  (2)匿名性の程度
 個別のアクターの行動を規定する
 が、アクターがほり大きなシステムと接続することで変容することもある

・インターネット
  ローカル/グローバル、小規模/大規模、との二元論を超えるネットワーク
  脱中心的で脱地域的な「複数のネットワークで構成されるネットワーク」
  例)トロブリアンド諸島出身者のネットコミュニティ研究

・メアリー・ダグラスの「グループ×グリッド」
  グループ:社会の結びつきの強さ
  グリッド:社会の中で階層や知識がどの程度共有されているか
  強いグリッド×強いグループ:社会が個人の振る舞いを強く規定する
  強いグリッド×弱いグループ:服従的でありながら自己実現を求められる(中央アフリカ等)
・この分析方法では、一部のロンドン市民とピグミー族など、意外な集団が同じ位置に来ることも

・方法論的個人主義(スペンサー、ウェーバー)/全体主義(デュルケム、マルクス)
・人類学の個人中心的な分析手法は、構造機能主義への批判として登場
  1950年代に欧州。主にマリノフスキやウェーバーに触発されている
  「社会が目的を持つことなどあるのか?」
  制度は個人が行う行動の集積に過ぎない。原因でなく「結果」である
  全体主義は記述的であって、「なぜ」そういう制度ができたのかを説明できない
  そもそも制度は社会を安定化させてない(不安定の種を内包した制度もある9
  構造機能主義は今あまりはやってないが、民族誌を書く際の有用な足がかりではある

・構造の二重性the duality of structure(ギデンズ)
  構造は個人の行動を形作るとともに、個人の行動の蓄積によって形作られる
  ヘラクレイトス→シュッツ、マンハイム→バーガー、ラックマンLuckmann→ギデンズら
  個人は社会の中に投げ込まれ、社会を変えていく

・社会の記憶と知識の伝播
・なぜ英国の貧しい子は貧しい大人になるか→話す言葉が学校の勉強に合ってない
・白人と黒人の言葉使いの違い
・フェミニズムの視点
  (1)女性は男性とは違った見方で世界を見ている
  (2)女性は社会的な成功に必要な知識から遠ざけられている
・コナートンPaul Connertonの「社会的記憶」の3分類
  (1)個人的記憶(生育歴、個人的な体験)
  (2)認知的cognitive記憶(世界をどう見るか)
  (3)習慣的habitual記憶(身体に埋め込まれた記憶)←ここが大事
    足を組む、字を書くなど、身体的な訓練、ルールによる埋め込みで形成される
・スペルベルDan Sperberの「表象の疫学epidemiology of reporesentation」
  知識や技術は、ウイルスとは違った伝播の仕方をする
  →伝播するたびに、少しずつ変化する。このことへの注意喚起を促すもの
・ブルデューの「ハビトゥス」:無意識を規定する、身体に埋め込まれた文化
  →ブロッホ(Maurce Bloch)の「言語化されない」規定力
  →インフォーマント自身が言語化できない。
    フィールドワークでインタビューに注力しすぎると落とし穴に落ちるということ

・この章で見たこと
  (1)「(静的な)構造」から「過程」(あるいは変容)への変化
  (2)「機能」から「意味の解釈」への変化
   →人類学は社会科学より人文学っぽくなった

7. Kinship as Descent

・親族は特に1940年代まで研究の中心で、現在も関心を引き続けている
・なぜそんなに重要か→社会の成員の日常生活、キャリア、アイデンティティを規定する
・多くのシステムが親族関係とかかわりながら動いている

・インセスト・タブー。なぜタブーか?
  外のグループと通婚することで、ネットワークの拡大を狙う?
  遺伝病のリスクを低減する?→しかしこれは当事者がリスクを知らないので怪しい
  小さい頃から一緒にいる相手にはエロスを感じない?
  レヴィ=ストロース:男にとって女は「妻」か「きょうだい」。女の交換は根源的な互酬性?
・内婚/外婚
・父系/母系
  母系の社会は父系の単なる裏返しではない。母系でも男が政治力を持っている
・交差いとこ/平行いとこ
・(財産の)相続inheritanceと、(地位の)継承succession
・(血族を具体的に挙げられる)リネージと、(先祖を共有していると信じる)クラン

・親族関係は、自分の遺伝子をばらまきたいという根源的衝動の副産物か?
  1970年代、ウィルソンEdward O. Wilsonは社会科学は生物学の子だと主張
  ←→サーリンズ「遺伝的に近い集団の紐帯が強いなんて関係はねえよ」と批判
  今日では、文化的現象を「生物学的に機能的・適応的」と説明する人はほぼいない

2016年07月18日

じんるいがく(3)

4 The Social Person

・あらゆる行為は社会的に作られる(着る、意思疎通する、身振り…)
・生物学的に規定された欲求(栄養を取る、寝る…)もあるが、それを満たすやり方は社会的産物

・人間存在を(文化的に/生物学的に)×(共通/多様)の4象限に分けて考えてみる
  「生物学的に×多様」=遺伝的多様性。ただし人種ごとの違いは全体の0.012%に過ぎない
    →「人種」は文化的な構築物。権力やイデオロギーの視点のほうがなじむはず
  「文化的に×共通」と「文化的に×多様」が文化人類学の関心事。生物学では説明しきれない部分

・言語は人間のみが持つわけではなく、サルも固有名詞だけでなく一般名詞を理解するらしい
・ただし、多様な音を意味に結びつけたり、喋ったりするのは人間の業。それは文化を超えて共通
  だが、個別の言語はとても多様

・「技術の単純さ」をもって、ある人間集団の「自然との近さ」は測れない
  例)複雑な技術を持っているが、社会の在り方が自然に大きく影響されている狩猟採集のバンブチ
  自然は「敵」?「対象」?「主体」?
  最近は人間/自然の二分法を疑う動きも

・二つの自然
  (1)外的自然=生態系
  (2)内的自然=人間本性
  →どちらも「文化」の対立物とされている
・同時に、文化は本質的に自然と結びついている。文化の物質的基礎を自然から得ている
・自然は脅威、制御しにくいものとして把握されることが多いが、必要なものでもある
・自然と文化の関係を考える二つの視点
  (1)さまざまな文化でこの関係をどうとらえているか(この場合、自然は外部にあって表象される)
  (2)自然がどう社会や文化に影響を与えているか
  例題)大規模な自然破壊、気候変動。伝統的な知識が、持続可能性に(どう)貢献できるか

・行為actionと行動behaviour
  action=行為者が反省的にとらえうるものだという含意がある。人間のみ
  behaviour=人間や動物が引き起こす観察可能なイベント
 →マルクスの『資本論』における「大工」と「蜂の巣作り」の対比
 →actionは「そうしないこと」もできる。だから完璧な予測が難しい(というかできない)
・人類学、社会学ではactorは個人だけでなく、集団(国など)でもありうる
・相互行為interaction、関係性relationshipに注目する。つまり社会の最小単位は2人の関係である
・これらは分析用の言葉であって、emicな言葉には出てこないジャーゴンである

・地位statusと役割role(これもジャーゴン)
 社会のすべてのメンバーは、他人との関係において何らかの固有の権利・義務を持っている
 個々人は、異なった人に対して異なった権利・義務を持っている
 →status=社会的に定義された権利義務関係。それに対する周囲の「期待」も込み
   一人の人が「伯父」「歯医者」「隣人」「顧客」など、複数のstatusを持っている
   それぞれの個人は、この総計によって定義される
・statusには「付与されたものascribed」と「獲得したものachieved」がある
・同じ「職業」でも、伝統社会ではascribedだが、近代社会ではachievedだったりする
・近代社会は、多くのstatusがachievedである点で、伝統社会と質的に異なる
  ※ちょっとシンプルすぎるが、分析の出発点としては便利
・roleは、statusが定義する行動の範囲。王女というstatusは深夜にパブで酒を飲むことを許さない
  →この期待を裏切るとサンクションを食らう。この仕組みによって社会が安定する
・ただし、これらは行為者による「解釈」の余地があるので、外れることもよくある
  →だから社会科学の予測性は低い
  サルトル、ゴフマンのimpression managementも参考に

・権力power
・役割理論は権力を扱えないとの批判もある
  ある人は別の人に比べて、自分の人生に対するコントロールをしにくいなど
・ラッセル「社会科学における権力は、物理学におけるエネルギーと同じ」
  →中核的な概念だが、正確に定義するのが難しい
・社会の見方には「行為者」と「システム」に注目する二つのやり方がある
・権力を「行為者」目線で定義すると、誰かの意志に反して何かをやらせる力だといえる
・「システム」目線で定義すると、社会における権力関係の布置に注目することになる
・現代人類学者はこの二つを行き来しながら分析を行うことになる

・自己self
・役割理論への別の批判は、自己は一つの全体であり、複数の役割に分割はできないというもの
・地位も役割も、eticな言葉だということに注意
・比較研究から、ほぼすべての社会に「自己」「個人」という概念があることが分かっている
  ただし、その中身はかなり多様
・西洋では自己は分割不可能だが、非西洋では社会関係の集積だととらえられている
  メラネシアでは、負債を払い終えて相続が終わるまで、ある人が「死んだ」とは考えられない
  →すべての社会関係が清算されないと「個人」は死なない
  ズーニーインディアンでは、氏族の中に限られた名前しかなく、各々に特定の役割がある
  →人は自律的な個人ではない。与えられた役割を演じるもの
・公私の区別もさまざま

・身体body
・1970年代になって、身体が社会文化的なものだと考えられ始めた(メアリー・ダグラスを除く)
・身体は行為主体でもあり、社会のコードを書き込む場でもあるという考え方(医療人類学など)

5 Local Organisation

・今日の人類学は多様なフィールドで行われている
・それでも比較的小規模な集団を研究する重要性はある。なぜか?
  (1)方法論的に扱いやすい。全員と顔見知りになって関係性の全貌を掴むこともできる
  (2)小集団の中で関係性が簡潔しているかのように扱える※ただし本当はそうでもない

▽規範と統制
・全ての社会システムは、何が許される/許されないかに関するルール「規範norms」を必要とする
・それぞれの重要性には幅がある(絶対のルール~そうでもないルールまで)
・カバーする範囲も全人類(世界人権宣言)から小集団(仕事中はネクタイしなさい)までいろいろ
・必ず守られるものから、そうでないもの(virilocality=結婚した夫婦が夫の両親の近くに住む)まで
・全ての規範には賞/罰が伴う。正統な賞罰を与えられることが権力の原点
・システマティックに罰を与える仕組みを「社会統制social control」と呼ぶことができる

▽社会化
・社会の一人前のメンバーになるためのプロセス。世代間での文化の継続性も担っている
・分化の進んだ社会では、家族以外も担う。例えば学校、クラブ、スポーツ団体、テレビなど
・言葉をどう使うか、誰を尊敬するか、崇拝するか、などを学ぶことになる
・代表的な研究はマーガレット・ミードの『サモアの思春期』(ただし質への批判あり→p.79)

▽ライフステージと通過儀礼
・子供と大人の間には文化により何段階もあり、それぞれ違った権利、義務が設定されている
・ステージ移行の際に存在するのが通過儀礼。苦悩や剥奪などにより揺さぶられる公的行事
・「定年」もそう!賃労働者がほとんどの地位とネットワークを剥奪される
・何週間も隔離される社会も
・通過儀礼は必要だが、曖昧な立場の人間を抱えることは社会秩序にとっては脅威でもある

▽さまざまな社会制度
・個人とは無関係に存在する。ある核家族が分解しても核家族という制度は存続。王の死も同じ
・制度が変わると社会が変わる。フランス革命、アボリジニーが賃労働社会に巻き込まれるなど
→社会の継続や変化に注目するなら、制度を見よ

▽家族
・フィールドで最初に手が付けやすい社会制度は家族だといえる。どの社会にもある
・多くの場合は親族で構成され、多くの場合は同じ屋根の下に住んでいる
・西アフリカのフラニ族の例→pp.83-86

▽村
・家族だけで完結できないもの:政治、宗教、経済→もう一段上のレベルの制度としての「村」
・ドゴン族→pp.88-89
・ヤノマミ族→pp.90-92
・上記どれも社会制度において親族関係が重要な役割を果たしている

2016年07月17日

じんるいがく(2)/果実園

3. Fieldwork and Ethnography

▽フィールドワーク
・フィールドで人類学者は多少なりとも以下のように見られる
  (1)道化。へったくそな言葉を使って、暗黙のルールを破って回るような
  (2)専門家。ものすごく尊敬され、丁寧に扱われる。しかし裏側をなかなか見せてもらえない
・逆に、近代的な社会をフィールドにすると、そこの人から何の関心も持たれないこともある
・前近代的なフィールドでも、20世紀末には「プロ」のインフォーマントができてしまっていた

・フィールドではさまざまな手法でデータ集めをする
・構造化面接や統計的サンプリングなどと、非構造化参与観察などを組み合わせることが多い
・エヴァンス=プリチャードは「二重にマージナル」な存在と形容した。元いた社会からも、観察している社会からも距離をとっている存在ということ
・研究対象になっている人にそれと知らせないのは倫理的か?という問題もある
・観察者の性別、年齢、人種、階級などもフィールドワークに影響する
・もちろん対象の性質も

・テクニックは一般化できないが、さまざまなtipsが伝えられている
  ・インフォーマントと20分以上話すな(飽きられるから)
  ・紳士的に振る舞え
  ・何を知りたいかを明確にしてから行け などなど
・フィールドを見る目もいろいろ。マリノフスキーは実はトロブリアンド諸島の人を見下していたとも
・相手が嫌いだったとしても、いいフィールドワークをすることはできる。いいデータが集められるかが重要であって、何人友達ができたかはどうでもいいのだ

・過去のフィールドワークでは、エリート層に注目しすぎていたとの指摘がある
・エリート層のほうが質の良い情報を提供してくれるから+観察者とレベルが近いからであろう
・だがインフォーマントが上位カースト所属だったりすると、そのせいで情報が歪む可能性がある
・内側からの視点でものが見えるようになるには、時間がかかる
・しかし、見たいものしか見えてない危険性も
・観察者の「人間力」も出来を左右する点も特徴
・ただ、現地の人と「仕事として」仲良くすることにまつわる倫理問題もある

・研究には帰納的な面と、演繹的な面がある。事実の観測→一般的な事実の発見

▽慣れ親しんだ社会でのフィールドワーク
・社会学と違って、人類学には文化の多様性を明らかにし、消え去りそうなものの記録を残すという仕事がある
・ただ、観察者自身が属している社会を研究することも増えつつある。その理由:
  (1)ネットや人の移動の活発化などの環境変化によって、近代的/原始的の区別が曖昧になった
  (2)未開社会の分析に使ったツールが近代的社会間の比較にも使える
  (3)大きな研究資金を当てて、遠い世界でフィールドワークできる人が限られる
・一方、そういうフィールドワークへの反対論もある
  ・比較をやるなら文化的に遠い人たちを研究すべきではないか
  ・自文化は、他文化を見る際のベースラインとして使うべきではないか
・でも、そもそも自文化もそんなに均一ではない

・自文化の中でフィールドワークをやる利点としては知らない言語や慣習をわざわざ学習しなくてよい
・しかし、周囲に当たり前なものが多すぎるという欠点もある。homeblindness
  (トレーニングにより相当程度乗り越えられるが)

▽解釈と分析
・ボアズやマリノフスキーの時代と違って、現在は現地の言語や先行研究を事前に勉強してから行ける
・一つの村に留まって宗教、政治、経済を描き出すようなスタイルは古いものになった
 その理由は、現在はもっと大きなスケールで調査が行われる/対象に関して専門化が進んだから
・書いた作品が調査対象の人たちに読まれることも多くなっている

▽エスノグラフィー的現在と過去
・人類学のテクストは現在形で書かれる
・書かれたのが政治的に安定していた植民地時代か、その後かで記述は随分変わる
・「どうなっているか」を記述するもので、「どうやってできたか」を書いているのではない
 (ただ、1980年代以降は歴史的な記述も目立つようになった)
・一方、書かれた歴史があればそれを扱うのも有益とされる(クレーバー、エヴァンス=プリチャードら)
・異なる社会の間の関係を調べる時にも歴史的視点は重要

▽エスノグラフィーを書く/読む
・人類学者の仕事は書くことだとされてきた。が、その書き物は筆者の属性や調査の性格に規定される
・ということは、書く人が違えば書かれ方も変わってくる
・人類学やメタ人類学者は批評理論を持ち込んだりしてきた

▽翻訳問題
・自分の言語で他文化を言い表すとき、その文化の内的視点はいかにして保持できるか
・そもそも他文化を理解すること自体、できるのか
・トロブリアンド諸島とヤノマミの「親族関係」を比較することは可能か
・一つの解決法は「記述」(経験に近い)と「分析」(経験から遠い)を分けて考えることかもしれない
・ただし「記述」でさえ、必然的に人類学者による取捨選択を経たものであることに注意

▽エミックemicとエティックetic
・マーヴィン・ハリスが人類学に導入した二分法
  emic=その社会の構成員が経験したり表現したりするレベル
  etic=研究者が行う分析的な記述や説明
※オリジナルはケネス・パイク
  phonetics(音声学)=音同士の客観的な関係
  phonemics(音韻論)=音の意味
  からとっている
・ただし、人類学者がインフォーマントが見た世界を再現しようとしてもemicにならない。その理由:
  (1)「翻訳」が避けられない
  (2)発音されたものを書き留める作業において、発音の「現場」が捨象される
  (3)人類学者が書く対象の人になることはできない
 →本当のemicはその文化の人が自分で表現しないと成立しない
・emicが間違いで、eticが合っているという思い込みは妥当ではない
・emicが具体的で、eticが抽象的だということでも(必ずしも)ない
・ただし、人類学者が、現地の人が気付かない構造を見ることができるという点は重要
  ・強いバージョンは、自然科学者のように一般法則を見ようとする企て
  ・弱いバージョンは、ある社会をより多層的に説明しようとする企て

▽政治としての人類学
・人類学を勉強して、大学で教える人は少数。他は開発協力や出版、企業、病院などで勤務
・人類学者そのものも人類学的に研究できる
・カウンターカルチャーからの攻撃を受けることもあった
  ・人類学は植民地主義の延長ではないか?
  ・フェミニズムの視点がないのでは
・現在、専門化が進んで人類学業界の全体が見渡せなくなっているが、共通のコアを勉強することは大事

* * *

連休初日は果実園リーベルでモーニングしてみました。
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果物はおいしい。
甘いがこれはケーキではない。
フルーツサンドって中途半端な食べ物だなというのが、このたびの人生の結論です。
つまり、もう自分でお金を払って食べることはないであろう。
880円だと思ったら税抜き価格で、950円になったのもなんかなという感じでした。

2016年07月09日

じんるいがく(1)

超失礼だが、横目で見ながら文化人類学って最近大丈夫なのかなと思っていました。
でも、日常を解毒する手段としては期待してます。
つうか、ちゃんとざっと見したこともないんだ、ごめん。

なんだそれ。
というわけで、いくつかの修士課程の導入科目をネットで調べて、そこでわりと共通して参考文献になっている本のうち、一番新しい(そして結構重いが持ちやすい大きさではある)こちらをアマゾンで手に入れ、通勤電車で読み始めてます。
450ページくらいあるので、ちょっとずつ。

■Eriksen, T. H., Small Places, Large Issues: An Introduction to Social and Cultural Anthropology (4th ed.), Pluto Press, 2015.

1 Anthropology: Comparison and Context

・文化人類学(←アメリカの)/社会人類学(←イギリスの)は、人類の文化や社会が「いかに多様か」、と同時に、「いかに似ているか」を明らかにする。多様性と普遍性を行き来する学問である(p.2)

・関心は社会の内部に存在するさまざまな関係性とともに、社会と社会の間の関係性にも及ぶ

・限られたフィールドでの研究によって、人類大の問題を考える学問だともいえる(p.3)

・かつては産業化されていない、小さな集団が研究対象というイメージがあったが、今はそうではなくなっている

・文化とは何か?:タイラーとギアツに従って、ざくっと「社会の構成員として人々が獲得する能力、もののとらえ方、そして行動様式である」と言っておく。ギアツは境界を持ったひとまとまりの全体、構成員の多くに共有された意味のシステムとして描いた。……しかし、内部の多様性をどう考えるか?メディアやグローバリゼーションによる均一化をどう織り込むか?依然として論争の的である(p.4)

・文化と社会って?:文化=獲得された認知とシンボル。社会=組織、相互行為、権力関係(p.5)

・文化人類学の特徴=経験に基づくことと、比較を重視すること
・他との違い:社会学と違って、近代的な社会だけに注目するわけではない。哲学と違って、調査を重視する。歴史学と違って、進行中の事柄を扱う。言語学と違って、言語の社会的・文化的なコンテクストに注目する。でも共通点もいっぱいある(p.6)

・自文化中心主義を避け、(方法的な)文化相対主義をとること(pp.8-10)

2 A Brief History of Anthropology

・他の社会科学と同じく、19世紀末~20世紀初頭にかけて成立した分野。だがその歴史の描き方はいろいろある(p.12)

前史
・文化人類学を「文化の多様性に関する研究」と定義すれば、それは古代ギリシアからあった。ヘロドトスの異民族描写もそうだし、ソフィストの相対主義もそう。だがヘロドトスには理論がなかったし、ソフィストにはフィールドワークがなかった
・もうちょっとましなご先祖としてはイブン・ハルドゥーンが挙げられる
・ヨーロッパでは、大航海時代に自分たちとはかけ離れた人々と出会ったころが画期か。モンテーニュ、ホッブズ、ヴィーコなどが文化の多様性について考えた第1世代といえそう

ヴィクトリア時代
・社会進化論によって特徴づけられる。進化の最先端としてのヨーロッパ。メイン(英)、モーガン(米)
・テンニースの「ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト」の二元論
・マルクス、エンゲルスの歴史観にも影響したか
・ダーウィンの進化論との関係も複雑。人類の共通性を裏付けるとともに、文化的<生物的という図式に落ちる危険性も

米国:ボアズ(独→米、1858-1942)
・今日まで続く米国の人類学の方法論の源流。'Four-Field Approach'、つまり(1)文化と社会(2)生物学的(3)考古学(4)言語人類学
・文化相対主義を中心に位置付けたことも重要な業績。それぞれの文化は独自の文脈において理解されるべきで、「発展度合い」などでランキングを作るべきではない。歴史についても単線的な発展を想定しない
・さらに、消滅の脅威にさらされている先住民族の文化も擁護するべきだと主張
・弟子にはマーガレット・ミード、ルース・ベネディクトら
・言語ではサピア、ウォーフと協働。多様な言語のそれぞれが世界認知のありかたを規定するという
・ボアズ以降、モーガンやダーウィンは米国で退潮。氏<育ち、に

英国:マリノフスキーとラドクリフ=ブラウン
・英国の社会人類学は、米国と違って、植民地経営に関連。例えばインドなら文化よりも諸民族間の政治関係など
・創始者の一人はマリノフスキー(ポーランド→英、1884-1942)。トロブリアンド諸島でのフィールドワークにより、民族誌的なデータ集めのスタンダードを構築。現地語を学び、日常的な人間関係を内側から記録する
・特に個人の行動に着目した。社会構造が行動を決定するのではなく、行動の在り方を枠づけるものととらえる
・すべての社会制度は相互に関連しあっており、あらゆる文脈から事象を理解すべき。biopsychological functionalism
・もう一人はラドクリフ=ブラウン(1881-1955)。デュルケームの影響。個人よりも制度に注目し、社会統合の法則を見出そうとする「自然科学(化学や物理学のような)としての社会科学」を目指した。すべての制度は、社会の維持を助ける何らかの機能を持っていると考える。第2次大戦後に退潮
・二人は視点は違うがどちらも機能主義。次に続く世代で統合が図られる。親族関係、政治や経済に注目したエヴァンズ=プリチャードなど

フランス:マルセル・モース(1872-1950)
・ドイツは第2次大戦後にナチズムに協力していた人類学/民族学が壊滅しかけたが、フランスは20世紀を通じてセンターであり続けた。英国ほど方法論に傾かず、米国よりも哲学的に野心的
・モース(デュルケームの甥)自身はフィールドワークをしなかったが、贈与や身体、犠牲、人間という概念などについてエッセイを著した
・同じくデュルケームに影響を受けたラドクリフ=ブラウンと違って、完全な「法則」よりも、さまざまな社会に見られる構造的な「類似性」を見つけようとしていた

20世紀後半の文化人類学
・研究者人口の増加とテーマの多様化
・フィールドの流行は太平洋諸国→アフリカ→北アメリカときて、50年代以降はラテンアメリカ、インド、東南アジアへ
・植民地支配の終焉によって、第三世界諸国から調査研究の許可が得られにくくなった。研究対象とされてきた社会にも知識人が現れて、対象化への反発も

構造主義
・レヴィ=ストロース(1908-2009)。構造主義言語学、モースの交換理論、レヴィ=ブリュールの原始的心性(これには反対だが)から影響を受ける。婚姻関係の研究など。構造主義は人類学にとどまらない波及を見せた。検証不能な概念を持ち込んだなどの批判もある
・もう一人はインド研究のルイ・デュモン(1911-99)。カーストに規定された自由なき個人を描出

構造機能主義のその後
・ラドクリフ=ブラウン本人も50年代には「自然法則」の探究してもしゃあないと言い出した。人類学は自然科学というよりむしろ人文学だと思うべきだと。「構造から意味へ」。米国のクローバーも同様
・レイモンド・ファース(1901-2002)は社会構造(規則の集合)と社会組織(実際に起きている過程の集合)を分けて考えるべきだと主張。個人の行動が構造と取り結ぶ動的な関係に注目。後にゲーム理論との結びつきも(p.26)
・マックス・グルックマン(1911-1975)は全体論的な見方を捨てて、社会構造の規定力はもっとずっとゆるいものと見るように

その他いろいろ(pp.27-31)
・1940年代以降の米国では、ボアズ的な文化相対主義とは別の流れとして、ネオ進化論やマルクス主義の復興など
・ジュリアン・スチュワードの「文化核心cultural core」(=分業などの基礎的な制度)と「それ以外」の区別
・レスリー・ホワイトは象徴文化により規定力があるとの見方
・マーヴィン・ハリスの文化唯物論
・生物学+人類学→文化生態学。儀礼を生態学の言葉で表現するラパポートのニューギニア研究など
・第2次大戦後の象徴人類学、認知人類学
・1970年代からはフェミニズムの影響。男女の世界の見方の違いを強調
Writing Culture(1986)「統合された社会なんて文化人類学が作り上げたフィクション。現実はもっと複雑で曖昧なものだ」→80~90年代に迎える文化人類学の学問分野としての危機
・文化相対主義は、その底にある共通性を隠そうとしているのではないか?cf.)チョムスキー

21世紀の文化人類学
・ブラジル、日本、ロシアにも大きな研究コミュニティを抱えている
・英米仏の違いはいまだ存在するが、混交は進んでいる
・伝統医学、地域の消費生活、広告、オンラインカルチャーなどテーマも多様化
・進化学や認知科学の知見が、社会生活や心の共通性に関する示唆を与えることも

2016年06月20日

かつ味の定食

新宿御苑の「かつ味」にふらっと寄ったら、夜も定食を食べられるようになってました。
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でっかくて脂のりのりの鮭かま定食、半熟卵と漬け物と小鉢がついて850円は、申し訳なくなってしまいます。
今度はちゃんと飲みにこよう。

* * *

■レヴィ=ストロース, C.(川田順造、渡辺公三訳)『レヴィ=ストロース講義』平凡社、.2005年.

なかなかよかった。

* * *

無印の「人をダメにするソファ」、普通に座るのではなく、仰向けやうつぶせで横たわるのに頻用してます。
それは措いても、結構疲れてます。

2016年06月06日

スウェーデン再び(2)

最終日、5時間ほど間ができたので、バスに乗って北方博物館に行ってきました。
仕事先から、さまざまな博物館がタダで見られるパスをもらっていたので。

道すがら、トラックの荷台に載ったお子様たちが音楽かけながらわーわー騒いでいました。
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高校生が卒業式のあと、ビール飲んでこうやって練り歩くんだそうです。
「やめさせてえんだけど」と市役所の人、苦笑。

さて、スウェーデンの500年分を見せちゃうよ、という博物館。
1907年オープン。ネオ・ルネサンスの重厚な建物です。
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入るとすぐに目に飛び込んでくるのが、グスタフ・ヴァーサ王(位1523-1560)の像。
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横から見たら片桐はいり。でもデンマークからの独立を果たしたヒーローらしいです。
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ちなみにこの人、現行1000クローナ紙幣になってますが、6月30日をもって新デザインのハマーショルドに取って代わられるそうです。
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こういう看板もgoogle翻訳で読めちゃう世の中って便利。携帯端末を持たずにオーストラリア半周とかしてた大学時代、一体どうやって動き回っていたのか思い出せない。

閑話休題。9世紀くらいからヴァイキングがいろんなところに出掛けていって(でも出掛けてた人たちは人口の1%程度で、ほとんどは農民だったとのこと)、17世紀までにどんどん版図を拡大。でも18世紀になるとロシアに負けだして、19世紀にはもう国内のことに集中することにした。第1次、第2次大戦では中立を維持したことで、戦災を被ることもなく産業を伸ばすことができたとのことです。

館内では、調度、食、装いなど、あらゆる面から生活の歴史を紹介しています。
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どこの民族もそうだけど、この人たちは特にデコってる気がする。
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先住民のサーミについても、かなり大きな展示がありました。
ウプサラにracial biologyの研究所が設立され、国主導で人種主義に基づき、頭の大きさなどさまざまな計測がされたことをサーミの側から告発するビデオも流されています。こういう黒歴史がちゃんと首都で見られることは大きいと思う。

食のコーナーでは、コーヒーがフィーチャーされていました。
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仕事ではいっぱいミーティングがあったのですが、どこに行っても「まずコーヒー」という雰囲気でした。現地をよく知っている人に聞いても、確かにすごくコーヒーを消費する人たちらしい。パーティもコーヒーとビスケットで、という展示が上記写真ですが、その歴史は意外に浅く、20世紀初頭くらいからだということです。
街中にもコーヒーショップがいっぱいありましたが、仕事で飲み過ぎたのであえて買って飲む機会がありませんでした。

受付で音声ガイドがタダで借りられます。
結構な説明量で、途中から飛ばし気味に見ましたが、たっぷり3時間。

午後3時になったランチは博物館内のレストランで。
イワシのマリネ、冷たいニンニクと香草のソースを試しました。
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臭くて酸っぱくて塩分きつめでした。
(その反動で、夜はグリーンカレーにしちゃった)

隣にあるスカンセンという野外博物館も駆け足で見学。
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古き良き時代の建造物を集めた「江戸東京たてもの園」みたいなところです。
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でも、どっちかというと弊管理人は動物園として楽しみました。
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* * *

あと、スウェーデンの人たちはほんとに英語がよくできます。
前の滞在の時にも誰かに聞いた気がしますが、昔はテレビで自前の番組があんまりなくて、英語のドラマや映画を字幕なしで流していて、そういうのを見てみんな英語を習得したのだということでした。まじか。それから、スウェーデン語はもともと英語と結構似てるというのもあるそうです。確かにアナウンスなんかを聞いていると、朝鮮語の中に日本語っぽい言葉が聞こえる程度には英語っぽい言葉が聞こえます。

いずれにしても、自国の人以外はスウェーデン語を喋ってなどくれないので、自分で”世界語”をできるようにするしかない、という事情もあるのでしょう。結果、ずいぶん世界が広がってるように見えます。

* * *

現地のホテルは、ご招待下さった元が用意してくれていて、それが多分結構いいところでした。
各国の同業者が集まる機会だったのですが、弊管理人だけは本来の予定にちょっとミーティングを追加したので滞在を1日延ばしました。

折角ならということで、その延泊分は自分で宿を探してみようと思って見つけたのが、中央駅からわりと近いのにリーズナブルだったColonial Hotelというところ。

9000円以上するお部屋がこちらになりますw
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2人用のホステルを1人で使う感じです。バス・トイレは共用。
ストックホルムのホテルの高さは異常です。「中心部のまともな部屋で2万円以下っていうのはありませんね」と半笑いで大使館の人が言っていたのは本当だった。
でも、窓からは向かいのアパートが丸見え(カーテン閉めない人ばかり)で面白かったです。
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ベランダにテーブルセットを置いてる家が多くて、よく人が出てくる。
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朝飯の部屋では、あんましお金持ちじゃない層の白人、というのも見られました。
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メシそのものは結構よかったです。前日まで泊まっていたホテルは、この基本線にパンケーキとかオーガニック野菜とかの余計なものが加わった感じ。やっぱり卵はみんな食べたいのね。

* * *

福祉国家としてのスウェーデンを見る機会はほとんどありませんでした。
国が面倒見てくれると思うと、勤労意欲はどうなんすかねと聞いてみましたが、「働かないと年金も出ないので、みんな結局わりとちゃんと働く」とのことでした。所得の2/3は税金と社会保障費に持って行かれるものの、いっぱい稼ぐとそれなりに老後のリターンがあるというシステムだそうです。
ただ、「仕事が残ってても時間になると帰っちゃう文化だと、いくら効率的にやるといっても、できる仕事量には限りがありますよね」とも。

道端に座ってる人も結構いました。
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* * *

■高岡望『日本はスウェーデンになるべきか』PHP研究所,2011年.

行きの飛行機で読んだ。さっと読めすぎて、大半の時間はメール書いたり資料読んだりしてました。
外交官(のちょっと高めな視点)から見たスウェーデン。今回の仕事には直接関係なかったものの、歴史、気質、社会保障の仕組みなど参考になりました。

■池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』新潮社,2016年.
■ジョイス,J.(バラエティ・アートワークス画)『ユリシーズ まんがで読破』イースト・プレス,2009年.

こちらは帰りの飛行機。
これもさっと読み終わってしまいました。

そういえば、スカンジナビア航空のメシはそこそこよかったです。

* * *

で、時差ぼけによって2時に目が覚め、この時間↓にこれ書いた次第。

2016年05月24日

表現の自由

■Warburton, N., Free Speech: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2009.

『「表現の自由」入門』という訳書のほうを本屋で先に見たのですけど、アマゾンではその半分以下の値段で原書が買えたため、そっちを読むことにしました。

ヘイトスピーチの問題で、表現の自由になるべく手をつけずに攻撃される側の負担を軽減するには、内容と形式を分けて、形式(騒音レベルとか)のみに対して規制をするというのがいいんじゃないかなと個人的には思っています。が、まずは表現の自由って何よというあたりをささっと見たかった。

以下メモ。5章と終章はあまり興味が惹かれなかったので簡略に。

【第1章】

・「おたくの意見には反対だが、その意見を言う権利は死守する」というヴォルテールの言葉にあるように、表現の自由は非常に大切にされてきました。世界人権宣言の第19条や、アメリカ合衆国憲法修正第1条などにも明示されています。

・表現の自由は、公的な場での活動に伴うものです。フィクションかノンフィックションか、事実か意見か、文章かイラストか何らかのパフォーマンスかは問いません。検閲は、こうした表現を規制することもありますし(シン・フェイン党の党首のスピーチを放送する際に俳優の声をかぶせるなど)、表現者を隔離することで表現活動をやりにくく・貧困にしてしまうこともあります(政治犯の収容など)。

・バーリンの2分法でいくと、表現の自由は「消極的自由」といえそうです。表現の障害になるもの、つまり検閲、投獄、法規制、暴力、焚書、サーチエンジンのブロック等を取り除くことです。(もっとも、マルクーゼのように「権力者がメディアを支配している社会では、表現の自由は単に権力者に有利なだけだ」と言う意見もありますが……)

・表現の自由は、民主的な社会では特に重要だとされています。(1)政策形成をするためには、たとえ不快なものであったとしても、さまざまな意見や情報に触れることが必要だからだ、という帰結主義的な理由がありますし、(2)人の自律性や尊厳を保証するものだから、という擁護の仕方もあります。ドゥオーキンは、表現の自由を認めない政府には正統性がないとまで言っています。

・しかし、それが誰かを傷つける言葉、プライバシーの曝露、社会を危険に陥れる情報であったら?表現の自由に優先する別の価値があるようにも思えます。ティム・スキャンロンは、神経ガスを非常に簡単に作る方法を公開してよいか?と例を挙げ、「何でも自由ではない」と注意を促しています。

・一方で、表現規制は一度許すと歯止めがかからなくなる恐れもあります。もちろん、その社会が置かれた状況によって必ずしも表現規制が全体主義には直結しないかもしれませんが。それでも、どこかで制限は必要ではあるようです。では、どうやって制限するのがよいのでしょう?

【第2章】J.S.ミルの「表現の自由」

・表現の自由を語る際の古典といえる『自由論』のミソは危害原則。他人に害をなさなければ自由を制限されないということ。これにより、”言論の自由市場”でさまざまな意見が交換され/衝突することで、より正しいのは何か、間違いとして棄却されるべき部分はどこか、が分かってくるわけです。この路線でいくことが進歩をもたらすという帰結主義的な考え方といえそうです。

・その際、独断を排除するべきだといいます。人は誰でも間違うものですし、一部あっていて一部間違っているということもあり得ます。しかし、自分は無謬と思い込んだり検閲を導入したりすることで、自身の誤りを訂正する機会を逸してしまいますし、自分が正しかったとしても、その証拠を得られなくなってしまうでしょう。

・もちろん、危害原則に従って、誰かに物理的な危害が及ぶような煽動は制限されなければなりません。それでも、心理的、経済的な危害は制限の対象から除かれています。これは今日のヘイトスピーチなどの状況を思い浮かべると、違和感のあるところです。

・そう、ミルの主張は全面的に受け入れ可能なわけではなさそうです。一つの批判は、想定しているのがアカデミックな論争のようにマナーを守って行われるようなものだが、実際はそんな行儀のよい状況ばかりではないということ。また、今日論争になるような問題は、事実関係やその解釈ではなく、特定の宗教に対するからかいなど、他人の尊重を欠いたような表現をめぐるものや、ポルノ表現だったりします。これはミルの想定した思想の自由市場で交換されるべき「真/偽を持った」表現とはちょっと違ったものなのではないでしょうか。

・また、ミルの主張に従うと、反対意見を持った人に積極的に発言の場を与えなければならないということにもなりそうです。しかし、「同じ土俵に乗ることによって、相手の意見が聞くに値するものだと一般に印象づけてしまう」という理由から、差別主義者やホロコースト否定論者、若い地球創造論者(Young Earth Creationist)との討論を拒否するNo Platform Argumentという立場もあります。これはミル的な帰結主義から導ける立場でもあります。
・ただ、これは検閲(言論弾圧)とは別ものだと考えてよいでしょう。極端な人にまで積極的に発言の場を与える義務はないし、ネット時代には自由に意見を発表することが可能ですし、「寛容な人にしか表現の自由を認めない」という検閲の一種にもあてはまるとはいえません。

【第3章】不快表現について

・人を不快にさせるような表現をする場合は、「表現の自由」を笠に着てはならないとの意見があります。しかし、共感できる表現だけに表現の自由を認めるというのは、そもそも表現の自由とはいえません。ミルの立場からも、制限が許されるのは煽動だけであって、単に不快だからというだけでは許されません。たとえばイスラム教国でムスリムでない人が豚肉を食べても、それは私的な行為なので国家が介入すべきではないし、豚肉食に肯定的な文章を新聞で発表したとしても、それは直接的な危害とはいえないので制限されるべきではありません。(しかし、反発する人たちが暴れるのを収めるのにコストがかかることを理由にして表現規制heckler's vetoが行われてしまうことがある)

・宗教に対する不敬を罰する法がある国もあります(1977年、英国でGay Newsにキリストに性的な侮辱を与えるような詩が載ったケースでは有罪まで出た)。前時代の遺物だとする見方もあれば、宗教は人生の基底的なものであって特別な保護に値するとの考えもあります。では、一神教信者が多神教信者を不快だと思うような、宗教同士の問題だったらどうなるでしょう?不敬を禁じようとすると、あちらが立てばこちらが立たずの状況が必然的に招かれます。

・「きつい言い方だけ規制すればいいのでは?」というのはどの宗教も平等に守れそうでいいですが、しかしマイルドに言っても逆鱗に触れるケースもありますし、何がマイルドな言い方かというのも難しいです(モンティ・パイソンのパロディを想起のこと)。そして、表現の自由は、おやさしい表現で行われた議論だけで達成されてきたものでもないはずです。挑発的な表現によって問題の所在に目が向くこともあります。

・おそらく、最も正当化ができそうな規制は「人を不快にさせること自体が目的の表現」かもしれません。これによって誠実な批判のほか、うっかりや無知によって不快表現をした場合を除外することが可能になります。ただ、作品の目的がクリアで、誰でも同じように解釈できるケースばかりではないというのが難点です(イスラムの女性の扱いを告発しようとした映画を作ったことで監督が殺された例など)。

・人種や宗教、性別に基づいて人を貶める「ヘイトスピーチ」に対する規制はどうでしょうか。これは中傷相手に届いてこそ効果があるものですし、時にはその輪を広げることも目的とするので、まず私的な活動とは言えません。標的になった人の生活を著しく損ねる表現活動を「表現の自由の鬼子」としつつ許容するのかどうかが問われることになります。

・表現の自由に基づいてヘイトスピーチを許容する根拠は2つあります。
(1)ヘイトスピーチと戦う最良の方法はカウンタースピーチである。規制は地下に潜らせるだけ
(2)表現規制が他にも波及する橋頭堡になってしまう
・英国やオーストリア、ドイツなど、民族的差別を禁じる法律で対応できる国もあります。
・哲学者のJennifer Hornsbyのように、ヘイトスピーチを自由主義的な視点から許容すると、結局、別に守られる必要の小さな人たちばかりの自由が守られることになるとして、反対する意見もあります。

【第4章】ポルノ

・ポルノグラフィは、性的な行為の明示によって、見る人に性的な興奮を与えるイメージです。が、視覚的な表現とは限りません。音や文字を使ったものも含みます。ポルノは多くの場合、(1)特にあけすけな「ハードコア」と(2)描写がややマイルドな「ソフトコア」を分けて考えます。

・ハードポルノはそもそも、表現だといえるのでしょうか。そもそも表現の自由とは関係のない案件なのかもしれません。ポルノの目的はメッセージを伝えることというよりも、性的興奮とマスターベーションの道具だといえます。製作の過程で誰にも危害がなければ、こうした作品を大人が求めるのに国が何も介入する理由はないという議論もあります。Frederick Schauerは「ポルノはバイブと一緒だ」としています。セックスの代替物だというわけです。

・Catherine MacKinnonとAndrea Dwokinもポルノは女性の従属であって、表現の自由案件ではないといいます。これに対して、ポルノ画像や映画がアイディアの伝達に使われる「こともある」、それゆえに言論市場に入ることもありうるという見方もあります。また、フェミニストの中でもWendy McElroyはポルノ賛成の論陣を張ります。理由は、ポルノが(1)性の可能性を概観させてくれる(2)セックスの代替物を安全に供給している(3)教科書には書いてないような情報を与えてくれる―という女性にとってのメリットがあり、それへのアクセスは保障されるべきだというもの。

・しかし、ポルノが身体的、精神的、社会的な危害につながるという指摘もあります。第一のポイントは、女優らは彼女らは社会的に弱い属性を持って業界に参入し、身体的な強制や感染症の危険を受けているという。精神的苦痛についても、ミルは考慮に入れないとしていますが、150年経った今では話は別です。

・もう一つのポイントは、ポルノ鑑賞によって性犯罪が喚起されるというもの。しかしこれまでの研究では、決定的な根拠は出ていません。MacKinnonは性犯罪に至るメカニズムを推定していますが、仮説に過ぎません。そもそも多くの人がポルノを見ているのに、性犯罪をしていない。しかし、ポルノと犯罪につながりがある可能性が大きいなら、何らかの規制は必要のように思えます。

・ヘテロセクシャルなポルノでは女性が性の対象として扱われているとして、フェミニストらが反対しています。胸が大きいなど、特定の体型を登場させることで、誤った期待を形成させるとか、性犯罪的な行為を喜んで受けているように描くことで、女性を貶めている、全ての女性がそうなのだと思わせるとの反対意見もあります。ただ、Ronald Dworkinのようなリベラリストは、製作の中で直接的な危害が及んだり、子どもが使われたりしていなければ、検閲はすべきでないと主張します。ポルノを見ることの帰結がさまざまあるとしても、誰かの危害に直結するわけでないなら、国家は中立的でいなければならないと。理由はやはり、検閲を始めると歯止めがきかなくなる恐れがあるからです。

・法は社会の道徳観を反映すべきものなので、ポルノが伝統的な家族の在り方や道徳に反するなら、法規制は正当化される、という立場もあります。社会のための規制、パターナリズム的なアプローチといえそうです。ただし、これには「政府は特定の道徳観に肩入れすべきではない」との批判があります。

・表現の自由を守ろうという人は、規制には単なる「むかつく」という以上の理由が必要だという前提を持っています。一方で、それでもどこかで線引きをする必要はあると多くの人が考えているのですが、どうやって線を引くかについてはなかなか一致のしにくいところです。児童ポルノはだめだとして、では、実在しない子どものCGだったら?児童ポルノの消費は実際の児童虐待に結びつくのか?……

・「アートだ」という主張がされた場合はどうでしょう。検閲を免れるべきでしょうか。「チャタレイ夫人の恋人」など、芸術としての価値は、検閲の適否を考える際に考慮すべきものなのか、そして、なぜ?一つの回答は、それが思想を伝えるからというもの。ただし、そうした理由を隠れ蓑に使われる可能性もある点が要注意です。もう一つの理由は、文化という社会の中で役割を果たしているものに対する制限には慎重であるべきだというもの。しかし、なぜ文化だけにそういう特別な価値が認められるのか、という不公平は指摘されうるでしょう。

【第5章】ネット

・コピーライト、レッシグ、引用、ゾーニングとか

【終章】

・検閲には理由がいるよとかそういう話
・華氏451は紙が燃える温度なんだって

2016年05月10日

代議制民主主義

■待鳥聡史『代議制民主主義』中央公論新社,2015年.

議会が首相や首長の暴走に対する歯止めになっていない。ある時には、逆に決定の邪魔ばかりしている。というか、よく分からない調整ばかりしていて有権者のための政治をやっていない気がする。もう議会なんていらないんじゃね?

――いや待って。そもそもその議会って何よ。
そこをよく考える本。

代議制民主主義は、有権者→政治家(専業の政策担当者)→官僚(専門知識を持った実施部隊)への「委任」と、逆方向に流れる「説明責任」という関係性をベースにした決定のシステムだといえる。具体的な姿を決めているのは、政治家や官僚の分担関係を決める「執政制度」と、政治家をどうやって選ぶかという「選挙制度」だ。
結果としてできる政治制度の特徴は、有権者の委任先となるエリートが一定の裁量を持って、有権者の短期的な関心を超えた決定をしたり、エリート間の競争と相互抑制によって極端に走る事態を避けたりする「自由主義」と、有権者の多様な意思をできるだけ政策決定に反映させることを目指す「民主主義」のブレンドとして表現することもできる。

つまり代議制民主主義には、さまざまなバリエーションができる。大統領制か議院内閣制か、投票の結果が議席配分に反映されやすい(比例度の高い)選挙制度か否か。それぞれの選択肢には利点と欠点があって、どう組み合わせても無条件にベストのシステムはできないようではある。そこがたえず懐疑の目にさらされる要因かもしれない。でも、その社会の来歴と、これから何を目指すかによって、組み合わせを変え、微調整を施していくこともできる。そこには直接民主主義など他の選択肢にはない、「しなやかさ」という利点があるのではないか?

初めはとっつきにくい文章だなと思ったのですが、メモを作りながら読んでみると、要所要所でおさらいをしながら先に進む親切さが見えてきました。

----以下、メモ。

【序章】

・背景としての議会不信(ヤジ、阿久根市、号泣……)

○代替構想としての熟議民主主義:一般人の討論を通じた決定
・課題の複雑さに専業の政策担当者や専門家が過剰な影響力を行使しているという問題の克服を図る
・討論しないで政策決定すると「多数派の専制」に陥るから

○直接投票による意思表明
・住民投票(小平市の道路問題、憲法95条→大阪都構想)
・国民投票(日本国憲法改正。デンマークでは国際機関への主権移譲について国民投票を義務づけ)

○一般意志2.0
・一般意志=集合知→データベース=行動と欲望の履歴とみる
・ルソーの空想をネットが具体化したもの
・熟議の限界を無意識(一般意志)が補う&一般意志の専制を熟議が抑制する

○代議制民主主義とは
・民主主義(社会を構成する全成人が決定過程に関与する方式)を具体化する方式の一つ
★委任と責任の連鎖関係が必要条件
  有権者―(政策決定の委任)→政治家―(政策実施の委任)→官僚
  有権者←(説明責任か落選か)―政治家←(説明責任か左遷か)―官僚
・↑この前提に「治者と被治者の同質性=委任するほうもされるほうも仲間」があったはず
・だが、議会批判は「治者と被治者に質的な違いがある」との思いに立っているのでは?
→同質であるべき?同質でないことは正当化できる?……

【第1章】議会と民主主義の歴史

・「ポリス時代に比べて社会が大きくなったから代議制が必要になった」?
→議会の発展は近代民主主義より古い。議会と民主主義は独立に発展してきた点に注意
・19世紀まで、議会は「自由主義」のための空間だった
★自由主義=利害代表者(エリート)間の競争と、過剰な権力行使の相互抑制
★民主主義=民意の政策決定への反映を第一に追求する
→議会と民主主義には緊張関係があり、代議制民主主義と直接民主主義には質的な違いがある

○古代→近代の民主主義
・古代ギリシャの民主主義
  自由人のみで、女性は参加不可の点が現代との相違点
  直接民主主義である点も相違点(小規模な政治体だからできた)
  しかし、血統や財産にかかわらず政策決定に関与できる点で「民主政」と言われる

○議会と民主主義の関係はもっと複雑
・議会の直接的な起源は、中世以降ヨーロッパでの「君主の諮問を受ける身分制議会」であろう
  ↑君主の権力が弱く、課税などには領主の同意が不可欠だった
・絶対王政期(16-17c)には衰退したが、近代立憲主義(制度的な権力者抑制)に道を開いたといえる
  イングランドは身分制議会→二院制の近代議会へ
  フランスは三部会の再開要求→王政打倒、共和制へ
  アメリカでは植民地議会が総督と対峙→独立革命へ
・しかし、まだ制限選挙。議会と民主主義の関係は明瞭ではなかった
★むしろ議会は、貴族やブルジョワジーが君主から財産を守るための拠点だった(ロック的自由主義)

○共和主義と民主主義
・18c啓蒙主義→共和主義。君主や貴族は、血統だけで地位を得ていていいのか?との疑問
★共和主義=市民的徳性(倫理的な卓越性、判断力)が持つ政治的意義の重視
  ※ただし、君主否定には直結しない点に注意。cf.マキャベリの「有徳な君主」
★共和主義は「ただそこに生まれただけで政策決定に関与できる」という民主主義とも対立しうる

○アメリカ―大統領制
・13邦(ステイト)が外交上の必要で作った同盟「連合規約」(1781)
・ワシントンら建国の父祖は多くが共和主義者だった
  →邦レベルの大衆政治と、邦同士の対立
→国民から直接負託を受けた「連邦政府」を位置付けた合衆国憲法(1787)へ
・有徳でない議員による政治も、君主制も避けるには?→権力分立を導入
  ・有権者が選出→下院議員(直接選挙)
  ・州議会が選出→上院議員(間接選挙)
  ・州ごとの選挙人団が選出→大統領(間接選挙)
  の間で権力を分割
→しかし、党派間競争を招き、政策決定の永続性は損なわれてしまった
→★エリートが自由に競争しつつ、全体としては妥当なところに落ち着く「多元主義」へ
  これにより、共和主義に代わって、民主主義による「多数者の専制」を抑止する

まとめると:近代自由主義の二つの系譜
・ロック的自由主義=社会契約によって君主から財産権を守る
・マディソン的自由主義=権力分立(多元主義)により「多数者の専制」に対抗する
  →ここで権力者の制度的抑制という「近代立憲主義」が「自由主義」と結びつく

・民主化:ジャクソニアン・デモクラシー下での男子普通選挙
→自由主義と民主主義の共存へ
・ポピュリズム(労働者の利害表出)vs革新主義(政治と行政の分離)
・民主主義+多元主義=アメリカン・デモクラシー

○イギリス等―議院内閣制
・国王の執政(官僚の指揮監督)を補佐するものとしての内閣(18世紀)
・下院多数派の選任した首相が内閣を組織、首相の辞任は内閣総辞職(19世紀)
・こうした移行の背景:
  (1)有権者資格の拡大
  (2)国家の役割の増大。財源調達や軍事で国民への依存が強まった

○代議制民主主義の拡大
・19世紀前半までは資産家が自費で行う「名望家政党」が中心
・19世紀末からは労働運動や農民運動を基盤とした「近代組織政党」「大衆政党」
・大衆政党は党員数の多さ、主張の一貫性、組織の堅固さが特徴
→20世紀、社会経済エリート(右派)vs大衆(左派)、の基本構図が成立
→国民ほとんどが代表者を持つ
=★政党システムの「凍結」(リプセットとロッカン)

○後発近代化諸国―立憲君主制
・君主の権限が憲法の範囲内に制限される→自由主義に行きやすい
・独、伊、露。非ヨーロッパでは日
・有権者資格の拡大により民主主義と議会が結合し、代議制民主主義へ

○全体主義の挑戦
・共産主義。自由主義はエリートの利害調整ではないか?
→プロレタリアートの利害追求に代議制は邪魔なのでは?
→露:共産党一党独裁が望ましいのではないか?
・ファシズム。代議制民主主義は「金持ち」だからできるのではないか?
→日独伊:英米覇権への反発、権力集中による社会・経済の運営
・共産主義、ファシズムともに「マス」を重視している
・第二次大戦後→ファシズム国家に代議制民主主義を植えることで占領政策が終了

○戦後和解体制
・労使協調、政府もそれを後押しする体制
・これにより、生産性の向上、共産主義イデオロギーの浸透防止ができる
・代議制民主主義も、保守政党vs社会民主主義政党の構図で安定

○行政国家化
・政策課題の複雑化→専門的な官僚による行政。省令など「委任立法」拡大
→議会の政策関与の余地が相対的に縮小
・補助金、社会保障は一度設定すると切れなくなる→利益集団自由主義へ
→1960年代、ベビーブーマーによる異議申し立てに直面
→代議制民主主義における民主主義的要素の強化が裏テーマと見ることができる
・政治参加の拡大→民意の多様化:NIMBY、ガヴァナビリティの危機

○凍結や戦後和解体制の消滅―1980年代
・経済的関心→文化的豊かさへ
・成長の終焉
→無党派層の拡大、政治不信
=既製の回路では有権者の民意が十分に表出できない

【第2章】
○1989年
・「反共」という共通前提の消失
・グローバル化→政党間の「違い」が打ち出せなくなる
・対処
(1)小選挙区制→政策決定の迅速化と小回り、大衆的でない決定も可能に:日伊
(2)比例代表制→弱者、少数者の意見を反映:NZ、EU
・右派政党の新自由主義、左派政党の「第三の道」
・トップリーダーを直接選出したいとの希望→「大統領制化」(ブレア、小泉)
  ・ただし、米では大統領と議会多数派の不一致が通例に
  →議院内閣制と大統領制の差が縮んだだけとみるべきか
・冷戦後、新たに代議制民主主義を採用する国相次ぐ「民主化の第3の波」

・代議制民主主義=自由主義と民主主義のブレンド
・どんなバリエーションがあるか?それが何に帰結するか?代議制の可能性は?

【第3章】構造と類型

○委任と責任の連鎖―なぜ生じるのか?
・有権者が政治家に委任をする動機
  全員参加ではできないタイムリーな決定を、一定の知識水準を持った人に適切にやってもらう
  →専業の政治家を要請。有権者は生業に時間を割ける
・政治家が官僚に委任をする動機
  個別の政策実施までやっていては次の政策決定ができない
・官僚や政治家が責任を負う動機
  そこから生活の糧を得ている。委任先の変更をされると生活が立ちゆかなくなる
  ※ちゃんと仕事をしているかのチェック機構として、選挙のほか監査、マニフェストなどが必要

○委任と責任の連鎖の制度的表現には、いろいろある
・二つの基幹的政治制度:執政制度と選挙制度
  →この組み合わせが代議制民主主義のバリエーションを生む
・執政制度は自由主義のルール化、選挙制度は民主主義のルール化ともいえる

○執政制度の分類―執政長官(首相や大統領)をどう選ぶか、任期打ち切りは可能か
・議院内閣制
  =議会が首相を選任。議会は解任もできる
  =議会多数派が首相を支えている。権力集中。議会―首相―官僚の関係が単線的
・自立内閣制
  =議会が首相を選任。議会は解任ができない(カナダの一部州など限定的)
・首相公選制
  =有権者が首相を選任。議会は解任できる

・大統領制
  =有権者が大統領を選任。議会は解任ができない
  =政府運営の権限を大統領と議会が分有。権力分立。自由主義的要素が最も強い
  ・省庁人事に議会の承認がいる米国のように、議会も行政に関与することも多い

・半大統領制=大統領と首相が両方ともいて、責任を分担している。権力共有
    大統領―議院内閣制型=大統領も議会も、首相を解任できる(ロシア)
    首相―大統領制型=議会は首相を解任できるが、大統領は首相を解任できない(フランス)

○選挙制度の分類
・多数代表制=候補者単位で上位者に議席を与える。比例制が低い
  定数1の「小選挙区制」
  定数2以上の「大選挙区制」(定数2~7は「中選挙区制」とも)

・比例代表制=政党単位で票を集計し、議席を割り振る。比例制が高い
  候補者リストの誰に投票するか決められる「非拘束名簿(オープンリスト)方式」
  決められない「拘束名簿(クローズドリスト)方式」

○基幹的政治制度は、政党にどんな影響を及ぼすか
・豊かになった1970-80年代、支持者の経済状況によって政党を特徴付けられなくなった
  →無党派の増大。結果として執政制度、選挙制度の影響が見えやすくなった
・二つの視点:政党システム=政党間関係、と、政党組織=政党内関係
・デュヴェルジェの法則:小選挙区制は二大政党制をもたらす
  →M+1ルールに発展:比例制の高い選挙制度の下では正答の数が増える
・政党の一体性:自発的な「凝集性」と、「規律」による一体性

・比例制が低い選挙制度(例えば小選挙区制)
  政党数が減る
  →少数の大規模政党が、多様な考え方の議員を抱える
  →幹部がヒラを押さえ込みやすくなる
  →規律が作用しやすくなる
  →有権者は意思を反映させにくくなる
  
・自由主義的要素が弱い制度(例えば議院内閣制)
  与党は内閣を基本的に支える
  →規律による一体性が形成されやすい(次回選挙での公認などを餌に)
  →野党も一致団結のインセンティブが強まる

○代議制民主主義の4類型
(1)ウェストミンスターモデル、あるいは多数主義型(イギリス、カナダなど)
  ・小選挙区制+議院内閣制
  ・雑居的な性格を持った(しかし規律が強く働く)大政党中心の政治になる
  ・有権者の意思から離れた決定もできることで、民主主義が強まりすぎないようにできる
  ・野党は立場を示すために討論するだけで、法案修正に結びつかない(アリーナ型政治)
  ・公約の実現がしやすいが、不適切な決定に対する抑制が働きにくい

(2)コンセンサスモデル、あるいは交渉型(ベルギー、スイス、ラテンアメリカ諸国など)
  ・比例代表制+大統領制
  ・国内の社会文化的な亀裂が深刻で、少数派が切り捨てられない場合に採用される
  ・有権者の意思の反映が、権力分立によって妨げられやすい
  ・中長期的に望ましいが、一部の人に不利益が行くような決定がやりにくい
  ・運用の難しい形態で、政治の不安定化も(軍事クーデタを招く例など)

(3)中間型1(アメリカ、台湾など)
  ・小選挙区制+大統領制
  ・議会の多数派形成が流動化
  ・政治勢力間の競争と相互抑制による自由主義を狙う
  ・多様な利害関心を政策決定に反映させることを重視した形態
  ・ただし、妥協的な決定や、大統領と議会多数派がぶつかる「決められない政治」に陥る可能性も

(4)中間型2(大陸ヨーロッパ諸国など)
  ・比例代表制+議院内閣制
  ・選挙で示された有権者の意向を極力そのまま政策決定につなげうる
  ・連立政権になりやすい
  ・議案の修正が頻繁に起こる
  ・少数派への配慮と、政策決定の行き詰まり回避を狙う
  ・ただしバランスは難しい。社会集団間に深刻な対立があるとデッドロック(2007、ベルギー)

○国政と地方政治で類型が違うこともよくある
・政党のあり方に影響を及ぼす
  政党内部の一体性が地方で相対的に低くなるなど
  大選挙区の地方政治で革新政党が多数になっても、国政では全然、という日本の例も
  国政と地方で政党のイメージが違ったり
  地方議員と国会議員の対立→中央と地方の協調が必要な政策が難しくなる
・日本の分析はp.184-

【第4章、終章】
・各国での改革←代議制民主主義への不満←委任・責任関係への不満
○議会の存在意義
・決められない政治:ねじれ+障害としての国会
・決めすぎる政治:官邸主導+無駄なものとしての国会
・地方政治(二元代表制=大統領制の一種)でも同様の問題
  権力分立なので悪いことではないが……
○「民意」との乖離
・自由主義的要素=裁量をどの程度認めるか?という問題
・説明責任が果たされないときに顕在化する
・例:中選挙区制は「気骨ある一言居士」を生みやすい
  (個人的な思いで設定した公約を果たせていないのに、制裁されないだけ)
 →独自公約はだいたい果たせない。しかし説明責任も果たされない
・解決:委任・責任関係の明確化をすること。精神論では解決しない

○大統領の現代化
・もともと大統領は、議会の多数派専制や怠慢を抑止する立場(米)
・しかし課題が複雑化した現代、大統領が官僚を使って政策を作り、議会をリード
  ※日本の地方政治の二元代表制もこの形態
○議院内閣制の大統領制化
・首相は議会多数派との関係を重視してきた
・が、近年はテレビ、ネットなどで有権者からの支持を資源にし始めている
・イスラエルでは首相公選制(1996-2001)も
  →しかし有権者と議会の両方から支持を調達すべき難しい仕組みだった

→執政制度は有権者支持・権力集中型に向かって収斂しつつあるように見える
→執政長官の強力化、そして議会の不評へ?
・迅速・的確な意思決定のための専門スタッフ増加、政治任用の多用
  →テクノクラート専制の恐れも
  (熟議→プロフェッショナルの専制、という恐れも)

○しかし、「無条件に優れた執政制度」は多分存在しない
・各地域の安定/不安定にはさまざまな要因がある
・各類型にもさまざまなバリエーションがある
  
○改革の方向性
・小選挙区制改革:裁量の一部制限。オーストラリア下院の選択投票制など
・マニフェストの普及:評価をしやすくする
・比例代表制改革:
  ・多数派形成をしやすくする。多数派プレミアム方式など
  ・有権者の選択範囲を拡大。非拘束名簿方式など
・混合制(小選挙区比例代表並立制など)
  ・ただし「汚染効果」が出現しうることに注意
・日本では参議院や地方政治の改革に遅れが見られるか

○その社会の現状と目標によって、採るべき道は変わってくるだろう
例えば
・深刻な亀裂がある社会→民主主義による包摂の重点化を
・同質性が高いが、既得権益を持った集団がいる→自由主義的リーダーシップを

・代議制民主主義は、自由主義と民主主義の接合によって成り立っている。大統領制と議院内閣制、小選挙区制や大選挙区制、比例代表制などのパーツ選択と組み合わせによって効率性/公平性などのチューンナップが可能。これは代議制民主主義の大きな利点と思われる

2016年04月20日

最近のいろいろ

熊本の地震はいろいろ意外な展開があって、弊管理人の仕事も影響を受けています。

東日本大震災のときに、知り合いの災害とは無関係な農林系公務員が「同僚が被災地対応に持って行かれた。年度末の忙しい時なのに迷惑」みたいなことをぐちゃぐちゃ言っていて、「この人無理」と思ったことを思い出しました。例外的な状況で、ある程度の諦めができないのはだめだよ。
って言ってると「一億総火の玉」を肯定してしまいそうだが、そこは事の内容により個別判断で。

* * *

忙中ちょっと仕事を抜けて、昨年9月に不慮の事故で亡くなった同僚の名前が火星と木星の間にある小惑星についた(弊管理人は少しお手伝いをした)ということで、記念にデータなどを額装したものを奥さんのところに届けにいってきました。

いろいろお話を伺っている中で、

・知人の税理士に「人が亡くなったあとの整理をしていると、いろいろ嫌なものを見ることになりますよ」と言われた
・実際まあいろいろ出てきた
・死亡を友人知人にお知らせするため、携帯を販売店に持ち込んで、死亡診断書などの書類を揃えて何とかロックを解除できた
・でもマックは、アップルストアに持っていってもガチガチにプロテクトがかかっていてデータが取り出せなかった(普通より相当ガチガチにしてあったらしい。スタッフにも「この人すごいですね」と言われたそう)

というのを聞いて、およそ10年更新していない遺書をそろそろ新しくしなきゃ、と思いました。

* * *

アマゾンのタイムセールを利用した断続的な買い物、今般はwifiのルーターを更新しました(3980円)。
従来のは確か2009年くらいに導入したものです。
「ひょっとして……」くらいの期待で買いましたが、ぶつぶつ切れていたiPadの通信が正常化し、さらにすんごく体感速度が向上しました。PCは変わらなかったけど。でもよかった。

* * *

忙中のほうが、のんべんだらりとしている期間よりいろんなことができることに気付きました。
1年半ぶり(!)の風呂掃除、wifiのルーター更新、ポロシャツ購入、掃除機導入、大物のゴミ捨て、書類整理。

* * *

■飯田高『法と社会科学をつなぐ』有斐閣,2016年.

法学って社会科学じゃなかったっけと思いながら、面白そうなので本来買おうと思っていた本を買わずに買った本。

・よい意思決定のためには、それまでにつぎ込んで戻ってこない資源・労力・時間は「サンクコスト(埋没費用)」として考慮すべきでない

・パレート効率性の改良型?としての「カルドア=ヒックス効率性」。状態AからBへの移行で得をする人が損をする人に補償をしても、なお利益が出るなら移行するのがよい

・公共財ゲームは、多くの人が「条件付き協力者」であることと、合理的な計算ではなく感情が人々の行動を支えていることを示す。他人が協力するなら自分もするが、自分だけ損をするのは嫌。と思う人が
多いなら、多くの人が協力している環境の下で協力行動が持続的になる

・いろいろなゲーム(モデルとしての)は、実はいくつかの社会状況が似ていても違ったものだったり、違ったように見えても実は似たものだったりするという鑑別を助けてくれる

・ある方向への収斂(カスケード)によって大損害がもたらされるのを防ぐ機構:正確な情報提供、秘密
投票、株価の値幅制限、メンバーの多様性、発言順に関するルール、など

・義憤→処罰行動→線条体の活性化(=満足感の期待)

・ハンドの定式。事故回避のための費用<事故の発生確率×重大性、なら事故を防げる立場にあった人に過失が認定できる

・いろんなバイアスはウィキペディアののlist of cognitive biasesに

あたりが「へー」と思ったこと。雑誌連載をまとめたもののため、本そのものはカタログ的だけど、企てはとても面白いと思う。
どうでもいいけど、この著者は「しうる」とか「なりうる」とか、よく言いますね。

2016年04月07日

低調めで

月曜は休みにしてるけど、仕事に出ちゃうかもなー
と思いながら、結局出ませんでした。
頭が重い感じがする。今にして思えば風邪ひき始めていたのかもしれない。
職場の衛生環境がいよいよ悪い(身体的にも、精神的にも)ので、そのせいにしたい気もする。
これまでは年に1回、ひくかどうかくらいだったのに。

夜は散歩がてら、新宿三丁目の「神場」。
独りで白ワインを飲みながらポテトサラダとあったかいレタスを食べ、
塩鱈の載ったお茶漬けで締めて帰ってきました。
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意外と大衆的な味でよかったです。

* * *

■高橋秀寿, 西成彦編『東欧の20世紀』人文書院,2006年.

1月にベルリンのDDR博物館とかで感じた強迫的な東ドイツdisは何だったのだろう、というのと、仕事で知り合ったハンガリーのおにーさんが「ブダペシュトいいよ~」と言っていたので本当に東欧いっちゃおうかなーと思ったのもあり、古本で買ってみました。
ファシズム、社会主義、EUと激しく揺れ、国境と民族と言語がぐっちゃぐちゃに重なりながらぶいぶい動いた(ひどいときは消されようとした)東欧の20世紀、特に後半に、どうやって「わたしたちの記憶」が作られてきたか、をめぐる論文集。

第2次大戦の終結がハッピーエンドであり、東欧のスタートであり、それには建国神話が必要であり、その神話に従うかどうかで国民と非国民が分かたれ、非国民(ユダヤとかロマとか)は抑圧の歴史を想起することを長い間禁じられ(例えばポーランド・イェネヴァブネでの――ナチではなく――主に現地住民によるユダヤ人虐殺)、その記憶は東西統一の時期に解放され、しかしドイツでは「東ドイツ」の歴史は「西ドイツ」に”没収”される。東的なものへの郷愁「オスタルギー」はそんな驕慢に対する「苦笑い」のようなものかもしれない。

* * *

熱はないのに鼻が詰まって咳が出てます。
週末は沖縄に行くつもりでしたが、天気も悪そうだし体力も自信ないし、ということで日延べ。

2016年03月26日

ニコマコス倫理学(下)

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2016年.

浮き世にあって、いつか朽ちる肉体を持った人間が、善とか幸福とかを達成することはできるのか。できるのだ、とアリストテレスは考えたらしい。友達について、愛について、そして快楽について――永遠で普遍的な知識ではない、「だいたいそうなる」という程度の頼りない(?)法則性に満ちた世界の中で考えていく。ところが最後にさらっと「でも観想的生活が最高なんよ」と宣告される、そのショック!

は、おいといて。

下巻でもやっぱり思いましたが、この本はインスピレーションの宝庫です。よくある「これだけ昔によく考えたよね」というだけの感想にはとどまらないものがあります。
例えば「中間性」が徳だという考え方は、遺伝子が必ずブレーキとアクセルの組み合わせで働きながら生体をちょうどいい塩梅に保っていることを思い起こさせますし、さまざまな技能を持った人たちの間で「交換」が実現するためのメディアとして貨幣の存在理由を説明する様子は、『時間の比較社会学』でさまざまな暦を持つ共同体の交流を可能にする共通の時間のものさしを導入した、と考えたネタ元では?と思ったりもします。「公正な分け方」には「応分」と「等分」があらあな、という提案はセンが知らなかったはずはないよね、とも。近年の脳研究の進展で、その存在がどんどんやせ細っている「自由意思」の最後の砦は「欲求に背けること」だと言われるけれども、それがまさに「人柄の徳」の一つである「抑制」ですよね。そしてなにより、19世紀を待つまでもなく、極めてプラグマティックだと思う。

快苦って、友達って、そして国ってなんなんだ、と身の回りのものを切り刻み、分類し、そして別のものとつなげたくなる著者の傾向は、不遜ながら弊管理人も分け持っている気がします。多分そのために最後まで楽しく読んでいけたのだと思う。

以下、自分メモ。

【第6巻】
・超過でも不足でもない「中間性」をもたらす、正しい分別(ロゴス)とは何か。それを検討する
・徳(アレテー)には「人柄の徳」と「知的な徳」があった。人柄は前に述べたので、今回は知的な徳を検討

・その前に、魂について
・魂には、「分別を持つ部分」と、「分別を持たない部分」がある
・分別を持つ部分は、さらに「ほかのあり方を許容しない部分=学問的に知る部分」と「ほかのあり方を許容する部分=信念的な部分、推理して知る部分」がある。それぞれについて最善の性向が何かを把握する必要がある
・選択があって行為が起きる
・選択の始まりには、欲求と、それを実現しようとする分別の働きがある

・魂が真理を把握するのに使う性向には「技術」「学問的知識」「思慮深さ」「知恵」「知性」がある
・「学問的知識(エピステーメー)」は、ほかのあり方を許容しない。必然で永遠。演繹。教え、学ぶことができる
・「知性(ヌース)」は、ほかのあり方を許容する。学問的知識の出発点となる原理にかかわる
・「知恵(ソフィア)」は、「原理」と「原理から導かれた事柄」をどちらも知っていること。完全な学問的知識
・「技術(テクネー)」は、ほかのあり方を許容する物事=「制作」と「行為」のうち、制作にかかわる性向
・「思慮深さ(フロネーシス)」は、善く生きるための、「行為」を目的とする性向。それ自体が一つの徳でもある
・思慮深さは、人間的な事柄にかかわる。普遍だけでなく個別性も認識する

・思慮深さについて
・国(ポリス)にかかわる思慮深さのうち、統括的なもの=立法術、個別的なもの=政治学
・個人あるいは自分にかかわる思慮深さというのもある
・思慮深さと知性は対照的なものである。思慮深さは最終的なもの、知性は原理にかかわる。若者は数学者=知恵のある人にはなれるが、思慮深い人にはなれない。個別的なものは経験から知られるから

・「考え深さ」(思案の力が優れていること)について
・学問的知識ではない。学問的知識は思案を要求しないから
・勘の良さでもない。勘は推論を伴わないから
・判断でもない。判断は現実との対応関係で真偽が確定するが、思案は推理に基づく発見だから
・そこで、考え深さとは、「思考過程の正しさ」「優れた仕方で思案すること」のことではないか?
・思考過程=到達すべきもの、到達すべき仕方、思考にかける時間が適切であること
・考え深さは、思慮深さが設定した目的に到達するために有益な、思案のスタイルのことだと思われる

・「物わかりのよさ」について
・思慮深さに似ているが、違うものである
・思慮深さは「指令的」なもの=何をなすべきかにかかわる。物わかりのよさは単に「判別的」なもの

・「察しのよさ」(グノーメー。洞察、相手の心がわかる力)について
・「物わかりのよさ」とともに自然に身に付くもの。年齢を重ねるにつれてつくもの
・思慮深い人は、察しのよさや物わかりのよさも備えている

・思慮深さと知恵をめぐる、いくつかの難問
・知恵は何が幸せかを教えてくれないのではないか?(知恵の無関係性の難問)
・思慮深さは何で必要なのなのか?(思慮深さの無用性の難問)←すでに善い人には必要ないが、善い人に「なる」ために必要である。でも、健康のためには医者に従えばいいように、自分で習得する必要はないのでは?
・思慮深さは知恵に劣るのに、なぜ思慮深さが知恵を支配するのか?(逆転の難問)

・回答
・「頭のよさ」について
・設定された目標を達成する能力。ただし目標が悪ければ「ずる賢さ」になる
・つまり、頭のよさは、思慮深さの必要条件ではあるが、思慮深さそのものではない
・善い目的は、善い人でなければ見えない。従って、善い人でなければ思慮深い人にはなれない
※ソフィスト批判
・生まれ持った自然の性向に任せず、知性が身に付けば、行為に違いが出てくる
・徳(アレテー)とは、「正しい分別(ロゴス)=思慮深さを伴う性向」といえる
・思慮深さは知恵を支配しない。知恵「のために」指令する(?)

【第7巻】欲望の問題
・忌避すべき人柄として「悪徳」「抑制のなさ」「獣性」がある
・「悪徳」の反対は「徳」、「抑制のなさ」の反対は「抑制」だが、「獣性」の反対は何?
・それは(スパルタ人がよく言うような)「神的な徳」であろう

・「抑制のなさ」について
・「抑制のない人」は、自らの行為が劣悪だと知りながら、感情に引きずられてそれを為す。でも後悔するので、癒やしようはある。「不正」「劣悪」ではあっても、選択に基づいて悪をなす「悪徳」ではない
・「抑制のある人」は、自らの劣悪な欲望を分別(ロゴス)で抑える
※ただし、自らの信念にじっと留まり、説得を受け入れない「頑固者」や、身体的快楽を必要以下にしか感じない人など、一見、抑制のある人に見えてしまう人がいることに注意
・「節制の人」は、過剰な欲望をそもそも抱かない
・「放埒な人」は、目の前の快楽をいつも追究すべきと考えて、選択の上でそうしている。後悔しないので、癒やしがたい。悪徳である
※「快をもたらすものを知っている」と「それを欲望する」と「その通り行動する」ことにギャップがある

・「獣的な性向」について
・獣的な性向は、人肉食、生肉食などのほか、無思慮、臆病、苛立ち…
・病的な性向は、病気、狂気、習慣(幼少期の性的暴行など)から生じるもの。髪を引きちぎる、爪を噛む、男性同性愛、てんかん、分別のない蛮族…
・これらは「抑制」とは関係ない。従って、「悪い」とはいえないが、「恐ろしい」ものではある

・「激情」と「欲望」について
・激情は、分別の声をある程度までは聞くが、聞き間違い。せっかちで最後まで聞かない。猪突猛進
・欲望は、分別に従っていない。不正である
・「企みをする人」はさらに不正である(激情は企んでいない。企む人は獣性より一層悪いことをする)

・快楽主義について
・快楽は悪い/善い快楽と悪い快楽がある/快楽は善いが最高善ではない―という立場がある
・誰しも快楽を追求しているが、みんなが同じ快楽を追求しているわけではない
・子どもや獣の快楽は、欲望と苦痛を伴う身体的な快楽。これが超過すると放埒になる
・思慮深い人は、そういう快楽をめぐる苦痛がないことを追求する
・節制の人は、こういう快楽を避けている(が、節制にふさわしい快楽というのもある)
・逆に、苦痛は限定抜きに避けるべきものである
・高尚な快楽は最高善とみなしうる

【第8巻】愛(フィリア)について
・愛は徳を伴うものである
・友人、親子、動物の中にもある。特に人間という種族の中にある
・愛は国をひとつに結び合わせる。協調も似たもの。立法家はこれを目指し、内乱を避ける
・愛の理由は三つある:(1)善い(2)快い(3)有用である
・友人とは、互いに意識的に好意を持ち、相手の善を願いあう存在
・無生物は愛の対象にならない。愛し返してこないから
・「快い」と「有用」は付帯的な愛である。快さや有用さを提供しなくなれば愛せなくなるから
・完全な愛とは、善い人々の間=徳の点で似ている人々の間に成立する持続的な愛である
・愛は性向に似ている。互いに相手と自分の善を願っている。双務的である。ともに日々を過ごす
・「恋(エロース)」は世話をする人が相手を見る喜びと、世話をされる喜び。双方は似てないし、美がなくなれば消える
・国同士の友好は「有益」だからである
・「優越性に基づく愛」もある。父→息子、年長→年少など。友人のように等分ではなく、比例的な関係
・愛は、愛されることのうちではなく、愛すること=徳のうちにある

・愛は共同性に伴う。ポリスは利益共同体、宗教団体や会食会は快楽の共同体、など
・国家体制/共同性/愛、の類比
(1)王政=最良。これの堕落形態(支配者のための政治)が僭主政/父―息子/優越性に基づく愛
(2)優秀者支配制。これの堕落形態は寡頭制/夫婦関係/徳に基づく愛
(3)財産査定制。これの堕落形態は民主制/兄弟・仲間関係/等しさに基づく愛
・善と快楽に基づく愛は不平を生みにくいが、有用さに基づく愛では生まれる。貪欲さが背景にあるから
・優越性に基づく愛も諍いを招くことがある。財貨や徳を与えられたら名誉をお返しするなどで釣り合わせる必要あり
【第9巻】愛(フィリアについて、続き)
・共同体の愛では、異なった価値の交換のための共通の尺度として「通貨」が使われる
・不平は「これをこれだけ与えた」と「これがこれだけ欲しかった」の齟齬から生じる
・お返しは、できるだけのものでやればよいが、得る側にその査定権があると考えてよかろう

・有用性や快楽に基づいた愛は、有用性や快楽がなくなると消滅する
・善に基づいた愛は、相手が不良になったら即解消とはいかず、善に転じるよう援助すべきである
・それでも救済できない時に、人は離れていく

・「友人関係」は「自分自身への愛(自己愛)」でもある
・友人には、(1)善(2)生存(3)同じ価値観を持つこと(4)苦楽をともにすること、のどれかが望まれる
・高潔な人(=欲望を知性で制御できる人)の場合、これは自分自身に望むことでもある
・逆に、劣悪な人は愛される要素を持っていないので、自分さえ愛することができない
・「好意」は愛そのものではなく、愛より時間的に手前に位置する
・見た目=一目惚れでも好意は抱くが、好意の交換という正義を欠いているから
・「協和」も愛の特徴に見える。共通の善と思われること、方針を選択して事をなすこと(国単位でも)
・高潔な人同士は共通の土台を持ち、協和できる。劣悪な人は自分だけが多く取ろうとしてできない
・愛は自分や相手の存在と、それが行動を通じて生み出したものが対象になる

・では、幸福な人に友人は必要か?
・答:優れた友人が必要。友人は外的な善の中で最大のもので、自分が為す善の受け取り先である
・また、善い人が、その友人である善い人を知覚することは自然本性的に望ましい(し、自分を省みるより、自分の映し鏡としての友人を見るほうがやりやすい)
・ともに生きることで、徳の鍛錬にもなる
・その数は少数でよい。そんなに多くの人と親密になることはできない(「へつらい」に堕する危険)

【第10巻】
・快楽論
・人も動物も快を選択し苦を避けるが、では快楽は善だろうか?―従来説の検討
・快楽は悪である苦痛の反対なので善という考え方がある→快楽「も」悪かもよ?そもそもこれらはセットなのか?
・快楽はそれ以上の理由(~のための快楽)にはならないので善という考え方もある
・快楽は善を増幅させる(善の一種である)という考えもある→快楽は最高善ではない
・→善から不良まで、ソースに応じたいろんな種類の快楽がある

・アリストテレス自身の快楽論
・快楽は運動や生成といった「完成までの過程を持つもの」ではなく、「その瞬間に完成するもの、それ自身が全体であるようなもの」である
・知覚の働きは対象に向かう活動で、最善の対象が完全なものとなる。その時が最も快い
・快楽はこうした活動を「完成させるもの」(活動のしめくくりに感じられる付随物)である

・もろもろの快楽は種類が異なる。知覚の活動も、その原因も多様で、それと結びついているから
・快楽は別の快楽に影響を受けやすい(演劇を見ていても役者が下手だと食うほうに集中してしまう)
・活動に応じて、高潔な快楽と劣悪な快楽がある。人によっても受け取り方が違う
・が、優れた人に快楽と感じられるものは実際に快楽であるといってよい
・つまり、完全で至福な人の活動で生まれるものが、人間の持つべき快楽である
・これで徳、愛、快楽についてはおしまい

・幸福論の概略
・幸福は性向ではない(第1巻5章、8章)
・幸福はそれ自体で自足した(他への踏み台にならないような)活動であり、人生の目的である
・幸福は、徳に基づく行為といえる
・権力者の「遊び」もそういうものに見えるが、権力者をまねする必要はない。要は高潔かどうかだ
・ということで、遊びは幸福でなく、休息に似たものである

・最も善い活動=幸福とは、「観想的な活動」(理論的に考える活動=知恵の徳に基づく活動=哲学)である
善いポイント。
(1)知性はわれわれに内在するもののうち最善のもので、知性が思考の対象にするものは最善の認識対象だから
(2)この活動は最も持続的だから
(3)最も快いから
(4)一人でも資源がなくてもできるから
(5)別の目的に奉仕するものではないという幸福の条件を満たしているから
(6)戦争とか政治とかのための忙しい諸活動で得た「余暇」で行う余裕のある活動だから
・この活動は人間的な懸案を超えた神的な部分を宿しているので、日常生活より優れている

・そのほかの徳に基づく生活は人間的で、二次的なものである
・それは人柄の徳=身体や感情に基づいた徳。一方、知性の徳は身体から切り離される
・完全な幸福=観想的な活動=神的。なぜなら神は行為も制作もせず、観想するものだから
・人は神の似像を宿しうる。ゆえに知恵ある人は、神に最も愛される
・ただ同時に、肉体を持っているので「外的な善」も必要とする

・善き人はどうやってできるか?自然?習慣?教示?
→あらかじめ習慣で素地を作ってある人こそ、教示や言葉(ロゴス)が根付く
→若いうちにそういう素養をつけるには、法による縛りが必要。大人にも実践させる法が必要
・法は(公共的な)ロゴスであるので、強制力を持っている
・公共的な配慮の形成には、普遍的な知識が必要。これがあって初めて個別の問題を解決できる
・善き人を作るには立法の知識が必要。ではどうやったらよい法が作れるのか?
→といって『政治学』に続く……

2016年03月03日

ニコマコス倫理学(上)

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫, 立花幸司訳)光文社,2015年.

光文社古典新訳文庫の『リヴァイアサン』は2014年末に1巻が出てから一向に2巻が出ないので、先に上下巻が刊行されたこちらに手を付けてしまいました。

よい政治の礎となる「よい人」を作るのは若年からの習慣であり、「よい大人」はよいことをなす傾向がある。よい行いも悪い行いも自発的になされ、それが責任を発生させるということ。「よい」とはTPOを踏まえつつ極端に走らず適度であること、みたいなお話。二千何百年前によくこれだけギチギチと考えたねっていう感心とともに楽しく読めるので、上巻だけで500ページと長い本だけどこれはちゃんと通読すべきだと思った。

・「知ってるだけではだめ、やれないとだめ」という徹底した行動志向
・「子ども」をものの数と見てない感じw
・経験と論理と、例示や背理法などさまざまな角度から行う議論
・責任、正義、行為や記述といった西洋哲学のトピックやがぎっしり詰まってる
・過失、計画性なき故意、計画的犯行、みたいな現代使われてる刑罰の区別みたいのがもうある
というあたりが印象的でした。

以下、自分用メモ。下巻はこれから読む。

【第1巻】
・何か他の目的のための手段になるようなものではない、最高の善について考えたい
・で、それは政治学の扱う問題である
・その結論に求められる厳密さは、数学ほどかっちりしたものではなく、「大抵そうなる」くらいのもの

・人間が実現しうる最もよいものは「幸福」だが、その中身が何かは議論のあるところ
・幸福とは快楽のこと?名誉のこと?徳(アレテー)のこと?いずれも違うように思える
・「名誉」は他人に認めてもらう必要があるが、それには徳が必要なので、本質的ではない
・「徳」も完璧ではない。持っていても役立てないこともあるし、不幸が襲うこともある
・「富(カネ)」も、それを使って他の何かを得るためのものなので、最高善ではない

・では、プラトンにならって「善のイデア」が最高、とすべきか?
・でもそれって人間が手に入れられないもので、そういう話をしたいんじゃない
・あくまで「人間がなしうる、獲得しうる善」のことを追究したい

・「善」というのは、行為や選択の「目的」になるようなもの
・人が行うあらゆることの目的になるもの、それを最高善と言っていいと思う
・その最高善とは、「幸福」じゃないだろうか
・その「幸福」は、すべての人間に共通な機能を特定した上で、その開花した形だと考えてみたい
・それは「分別(ロゴス)を持っていること」で、それがちゃんと発揮されている状態である
・つまり幸福とは「徳(アレテー)を伴った魂の活動」だといえる
・ざくっとはそういうこと。詳細は今後、詰めていこう

・ところで、幸福は習得できるものだろうか、運任せなのだろうか
・幸福は「活動」にかかわるものである以上、運任せというのはいかにも違うようだ
・政治学の目的も、いかによい市民をつくるかを考えることにある
・一過性ではなく、持続的に徳に基づいて行動する人の人生は最も安定するはずだ
・そこに不運が訪れることもあるが、それで全体的な幸福が転覆するわけではない

・次に、幸福をもたらす「分別(ロゴス)」は魂のどこで働くのかを考えてみたい
・まず、植物とも共通な「栄養を摂取する(生命活動を維持する)」に関わる部分は除外する
・それ以外の欲求部分で、分別に従えるかどうかが、抑制のある人とない人を分けるようだ
・分別に従えない人でも、分別によって説得できる余地はあることにも注意しておく
・ロゴスといっても、数学者に見られるロゴスと、他人の助言を聞き入れるようなロゴスがある
・これに対応し、徳(アレテー)にも、知恵や思慮などに関する「知的な徳」と温和や節制などに関する「人柄の徳」があるようだ

【第2巻】
・「知的な徳」は教示によって生まれ、伸びていく。「人柄の徳」は習慣によって生まれる
・年少からの習慣によって、正しい行為に快を覚え、正しいことをなす人になる
・まぐれや人から言われてできるのではなく、自分で正しい行為を「正しいから」選び、攪乱要因にも耐えつつ、行えることが条件である
・つまり知っているだけではだめ。行為を伴わないと魂を優れた性向に導けない

・徳は、魂の中に現れる「感情」「能力」「性向」のうちの「性向」であるように思われる
・「感情」は怒り、欲望など。「能力」は感情を持つための身体的能力のこと
・「性向」はもっと長期的な傾向のこと。それを元に個別具体的な選択が行われるようなもの
・また徳(卓越性)とは「中間性」のこと。極端に寄らず、過不足ないこと。そして達成するのは難しい

【第3巻】
・徳がかかわる「行為」の構造について考える
・行為は、「自発的なもの」と「意に反したもの」に分けられる。賞賛/非難されるのは「自発的行為」
・「意に反した行為」は「強制されたもの」、「無知によるもの」に分けられる
・「強制された行為」は「物理的強制(船が風に流されたなど)」と「状況に迫られたもの」に分割可能
・ただし「状況に~(船が嵐に遭って積み荷を捨てるなど)」は自発性もまじっている
・「無知による意に反した行為」(≒うっかり)は、後悔を伴う。後悔しないのは「自発的な人ではない」とする
・というわけで、「自発的な行為」は、事情を理解した上で、その人が起点となって行う行為のこと
・徳も悪徳も自発的なものである
・「自発的な行為」は「ロゴスと思考に基づいた選択」を包含している
・(イコールではない。子どもや動物は自発的だが選択していない)

第3巻第6章以降しばらくは、個別の徳について取り上げる。
・「勇気」は恐れと自信の大きさの中間。美しい死(戦死)を恐れない人
・「勇気ある人」は臆病と向こう見ずの中間。恐ろしいものを適切に恐れる。自殺は逃避だから×
・「節制」は身体の快楽に関わる。食欲と性欲の過剰は「放埒」で、動物と共通
【第4巻】
・「気前よさ」は財貨に関わる。しかるべき相手に財貨を与えること。浪費とさもしさは×
・「物惜しみのなさ」は特に大きなスケールの出費に関わる。美のための出費。物惜しみと俗悪は×
・「志の高さ」は自分の大きさを知っていること。これが最善の人。うわべだけと卑屈は×
・ちなみに、自分の小ささを知っているのは「分をわきまえた節度の人」
・「温和な人」はしかるべき時にだけ怒る人。怒りっぽいのも全く怒らないのも×
・「篤実な人」は社交における中間性。必要な時には友人に意見する。へつらうのも口やかましいのも×
・自分をより大きくも小さくも見せない=「ふり」をしない無名の徳
・「機知に富んだ人」はおしゃべりの中間性。冗談のかけあいができる。低俗も野暮も×

【第5巻】
・正義について
・正義の徳とは、正しいことを望み、為す性向のこと
・正しい人とは、法を守る人、公平な人
・正義の徳は完全な徳。他の徳を包含していて、かつ自分にも他人にも使える
・ただし、同じ「正義」という言葉だが、全てを包含する正義と、包含されている部分的な正義がある(ややこしい)
・部分的な正義(つまり包含されているほうの正義)には「配分的正義」と「矯正的正義」がある
・配分的正義は、等しい者が等しく持ち、等しくない者は等しくなく持つこと。比例関係に従った配分
・矯正的正義は、当事者をそれぞれ等しく扱い、等しく(真ん中で)分けること
・また、これらの正義とまた違ったものとして、応報=交換(的正義)というものが考えられる
・履き物職人がサンダルと、大工が家を作って、それらを交換する場合など、多様な人の「共同」にあたっての均等化の原理
・そこで発明されるのが貨幣。貨幣は異なるプロダクトを通約し、交換可能にする

・ポリスにおける正しさには、取り決めにおける正しさ(法的な正しさ)と、自然本性的な正しさがある
・法的な正しさは共同体によって変わるが、自然本性的な正しさはどこでも同じものである

・不正には3類型がある
(1)無知ゆえの「過失=うっかり」。投げて渡そうとしたらぶつけてしまったような場合
(2)意図的だが計画性がない「不正行為」。かっとして殴るなど
(3)選択の上で行う「不正の悪徳による不正行為」

・「衡平さ」と「正しさ」の関係について
・「正しさ」には法的な正しさと、法で実現しきれない正しさを実現する「衡平」がある
・つまり、法という一般論で救えない個別事例、法の定めが明らかでない事案に対処するのが「衡平」
・高潔な人は、「衡平」にかかわり、実際に為す人のことである

2016年02月11日

プラグマ(改)

※ちょっといじりました 2016.2.15

■伊藤邦武『プラグマティズム入門』筑摩書房,2016年.

学生時代になぜかローティを面白いと思い、その流れでジェイムズやパースへと遡っていった覚えがあります。
社会思想の先生に「何がいいの」と問われて、咄嗟に「あけすけなところ」と答えましたが、今考えてもあながち外れていなかったような。

プラグマティズムは真理や言語といったオーソドックスな哲学のテーマから、政治、教育といった社会問題まで、いろんなことを語るのに使われています。つまり、プラグマティズムは何かを語るときの「態度」に関する態度表明なのだと言ったほうがよさそうです。

源流にあるパースやジェイムズの示した原則は
(1)可謬主義。絶対確実、永遠不変な知識を手にすることはできず、いま持っている知識は必然的に誤りの可能性を含んでいるということ
(2)実用主義。ある知識を「さしあたりの真理」と呼んでいいのではないか、という基準は、それによってより広い対象を説明できる、よりシンプルに説明できる、対象を思った通りに操作できる、といった「使いでのよさ」に求められるということ
にまとめられるでしょう。

思想の流れにおいてプラグマティズムがとっている代表的な立ち位置を一言で言うなら「反デカルト主義」でしょう。あらゆるものを疑っていって、最後に絶対確実な知識にたどり着きました、というデカルトと上記(1)はまず相容れません。そのポイントは見たところ二つあって、
・そもそも「あらゆるものを疑う」がナンセンス。疑ってるおまえはどこに立ってんの。おまえが疑う対象のネットワークによっておまえはできてるんちゃうの、という批判
・理性に従って見れば正しいゴールに到達できる、という考えが独断に過ぎないという批判
だと思います。確かに、「慣習や権威に頼った判断よりも、自分のアタマで考えるんだ」と訴えた点に意義はあったかもしれません。しかし、そんなんで哲学がめでたく終結したかというと全然してない。ちゃんとその現実見ろやと。言い換えれば、デカルトに対する「『分かった』はおめーの思い込みだろう」というひどい批判(苦笑)。とすれば、代わりに採るべき探究の方法は「みんなで批判しあいながら考えてコンセンサスを形成する」という、哲学の民主主義モデルとでも言いたくなるようなものになります。

倫理のような価値的な対象だけでなく、世界をどう把握するかという事実の問題も、実際どうやって探究が行われているかといえば、ある共同体における証拠の蓄積とコンセンサスの形成、そして動揺と、新たなコンセンサスの形成です(クーンぽい!)。つまり価値も事実も思ったほどはっきり分けられるものではない。
また、日常の知と専門の知もそんなに違った原理で動いているわけではありません。探究の深さというか、ある判断をする際に使える道具(知識)の量に違いはあれ、どちらも「とりあえずそこにある”絶対確実”とはいえないようなさしあたりのもの」を使って判断し、進んでいかなければならない。
こういう、長らく当然のように受け止められてきた二分法に対するアンチも、プラグマティズムから引き出されてくる重要な態度だと思います。

さて、そう考えてくると、何が正しいかは言語とか知識のネットワークの外に厳然と存在する「事実」と対応しているかどうかで判断できる、とは言えなくなります。クワインはそこで「真理とは、それらのネットワークの維持に貢献するもの=ネットワークにとって有用なものである」とした。

とすると、何が正しいかもネットワーク/共同体により違ってくることになります。そこから何かと評判の悪い相対主義に陥らず、なんとか「そうはいってもこれは正しくてあれは間違っている」ということを言えるような客観性を確保するってもんではないか、どうやったらできるのか、を考える必要が出てくるんだろうなあと思うところです。ところがローティは「そんなもんしかし、私は『われわれが真理と思うもの』の体系から外に出ることなんてできないんだから、『われわれ』から出発して他者との連帯を探るしかないでしょう」という自文化中心主義を提示してしまった。

パトナムに至ってはもう何が何だかわからない遍歴ののちに、そうはいっても人間誰しもある程度共通の自然に対する認識能力はあって、それをベースにした合意=真理への逢着はできるんだろうなあというなんだか普通なところに至ったようであります。

この本では始祖から現在まで、13人のプラグマティストが紹介されています。「源流」「少し前」「これから」という3部構成で、弊管理人が本を読んでいたときはまだ存命で(その頃には左翼がどうとか言うようになっていたけれども)書き物もしていたローティも、ローティの本によく出てきていたデイヴィッドソンもクワインも「少し前」の章に登場していたのを見て、時間の流れを感じました。

でも「これから」まで読んでみて、やっぱり弊管理人自身が興味があるのは、現代の人たちがパースとどう向き合うかみたいな業界内の議論よりも、「プラグマティズムを使って何を斬るか」だということが確認されました。もっとも、自然科学の探究では、民主主義的で実用主義的な真理観はもう(建前上は)当たり前になっていて、ではいったい何を斬れば面白いのでしょう。よくわかんない。

それと愚痴ですが、学生の優秀さに寄りかかって教える能力を鍛えてこなかった人によくある「●●的××論とか、ちゃんと説明されてない術語がいっぱい出てくる」「内容より位置づけに説明の力点がある」という悪い入門書に分類したい、これ。想定読者は誰なんだ?索引がほしい。

2016年01月25日

ヴェヌス

さっっっむい日曜日の夜、錦糸町の南インド料理「ヴェヌス」に参りました。
折角友人と二人なので、定食ではなく、アラカルトでいきますよ。

まずはニンジンのサラダを軽くやっつけて、ドーサ。
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中にキーマカレーが入ってます。野菜カレーとココナッツソースがついているので、これで調味。多分。
だいぶアジアンなガレットですな。うめえええ

写真みて絶対これうまいはず、と決めたにんにく味のタンドリーチキン。
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メニューににんにくって書いてあるんだから覚悟できてるでしょ?みたいなにんにく味。
うまくないはずがないじゃない、こんなの(涙

ほうれん草ごはんと、辛いマトンカレー。
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ごはんはナッツの風味と歯応えが至福です。カレーも暴力的じゃない強さが魅力ですね。
ただし、棗?と思って食べた赤い実は激辛で、二人してしばし悶絶しました。注意。

チーズナンと、野菜カレー。
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こっちのカレーは全然毛色が違い、優しくてfull of taste。
チーズナンは意外と甘い。そしてもちもち。弊管理人は好きです。どっちのカレーにも合いますなあ。

ええと、テンション上がったの、お分かりいただけるかと思います。
すごい数の未踏メニューがあるので、再訪を誓いました。
全部おいしかった。そしておなかいっぱい。幸せ。

* * *

あと、12月末からこれらを読んでた。

■吉田文和『ドイツの挑戦―エネルギー政策の日独比較』日本評論社,2015年.

■熊谷徹『脱原発を決めたドイツの挑戦』角川マガジンズ,2012年.

■ブラウン, L.『データでわかる 世界と日本のエネルギー大転換』(枝廣淳子訳)岩波書店,2016年.

2015年12月28日

戦後入門と70年暮れ

■加藤典洋『戦後入門』筑摩書房,2015年.

『敗戦後論』が出たのが大学生のころ(1997)で、何やら弊管理人の出ていた授業界隈がとても騒がしくなったのを思い出します。「国内の300万人の死者への弔いことを土台にすることで、アジアの2000万人につながることができる」という加藤の主張に論争を仕掛けたのがその授業をやってた先生だったためか。ドミニク・ラカプラのテクストを読んでacting outとかworking through(徹底操作)とかのことを習った記憶があります。それは面白かったのですけれど、弊管理人は論争を丁寧に辿ってはいなかったな。そんなことを懐かしく思い出しながら。

第一部の始めに書いてあるように、この本は(1)日本の対米従属の起源」、それを「日本人がなるべく考えない/語れないようにしてきた経過」を探り、(2)で、どうすればいいかを考えるのに割かれています。
それは、ごく短く言うと、
・帰依する先として「普遍の皮をかぶった特殊利害=米国」を選び続けてきた戦後を脱すること、
・しかし、戦前とのつながりを復活させるローカルな方向、ナショナリズムに向かうのではなく
・ほんとうの普遍→国際主義の理念→国連を国際社会への窓にするべきだ
という話と読みました。

こうした米国の描写は、大澤真幸の「帝国的ナショナリズム」を想起します。「超越的な第三者」をどこに求めるかという話かもしれない。話の流れとしては腑に落ちます。というか、第一次大戦からの流れが整理・解読されていく様子がとても勉強になります。しかし、提言部分で期待が表明されている当の国連は、その期待される役割に相応しいものかどうか。あるいは、相応しいものに改革できる可能性があるのかどうか。

2015年最後の本になりました。11月末に出張先の福岡で何気なく買った600ページの新書は、仕事納めをした28日の帰りの電車でやっと読み終わりました。
それにしても、通勤中に読んでる本に「対米従属」「憲法九条」などの言葉がちりばめられていると、多少周りの目が気になります。そういう「気になる」の淵源もまた、この本の中に解説されていた、のかな。

* * *

2015年はあまり古い本に手を付けず、時事問題に関係のある本と新書(特に分厚いやつ2冊)にかかずらいながら過ぎてしまいました。

2015年12月13日

渋谷餃子

日中20度になって街に3月下旬のような匂いが満ちていた金曜、朝から翌日未明まで職場にいたため外の記憶がない土曜を経て、日曜はしとしと寒い雨が降ったり止んだり。
昼飯、何か……と思って新宿西口方面に出ました。
適当に入ったお店、「渋谷餃子」でW餃子ランチ、780円。
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焼き、揚げ、水から選びます。「半分ずつ焼きと水にできます?」って聞いてみたらOKでした。
薄皮餃子、好きです。ニラ、ニンニク抜きもあるのですが、そんなもん選びません。
夜に至るまで自分の呼気がおいしそうな匂いになるので、長く楽しめるランチです。
新宿御苑のほうの福包は応分以上に混むことがあるので、バックアップとしていいな、ここ。

* * *

さて、どうして西口方面に行ったかというと、ヨドバシカメラで腕時計を買うためでした。
先週、泥酔して自転車に躓いてこけて膝から流血したりしていたのですが(ダメなじじいになってきた)、翌朝、腕時計がなくなっていたのでした。方々探したのですが見つからず、といって結構時間を気にする生活をしているので不便で、急ぎ買うことにしました。

今までスイスのMONDAINE(モンディーン)というメーカーの時計を使っていました。
すごく視認性がよくて、ゴテゴテしてないので大変気に入っていました。しかし、電池式なので2年に1回は3000円くらいかけて交換せねばならず、なぜか飛行機に乗ると遅れるという不思議なことも起きるなど多少の「問題ね」もありました(←笑うところ)。

2代続けてMONDAINEだったので少し目先を変えたいと思い、今度はSEIKOが海外で売っているSEIKO 5というシリーズの自動巻を選んでみました。欲しかったカレンダーもついていて、ちょうどいい。
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店員氏によると、自動巻って、誤差が結構出るそうです。そこ注意点。
でも、いきなり電池が切れて止まってました、電池交換に1週間、みたいな事態は避けられるので、まあいいか。

メンテナンスいらずという意味では、最もいいのは国内メーカーが作っているソーラー+電波なのですが、ちょっとケースが分厚くなるんですよね。CASIOにはまだスリムなやつがあったものの、腕に当ててみてもどこかしっくり来ませんでした。

というか、知らないうちに物をなくしてるのはだめだな。気をつけよう。

* * *

今月の「現代思想」の特集は見田宗介=真木悠介でした。
この方、孫弟子いないのかな。

2015年11月29日

ポランニーとか

■若森みどり『カール・ポランニーの経済学入門』平凡社,2015年.

行ってた学校によくポランニーに言及する先生がいたせいで「ポランニー読むべきかなー」と思った90年代末の学生時代には、どうもあまり著作へのアクセスがよくなくて(=高い&その辺にない)、何となくそのままになっていました。最近になって本が結構出ていますが、新訳の『大転換』は相変わらず高いし、文庫も含めてどれから手をつけていいか分からないし、とりあえず「自分では使わないけど、何を言った人かだけはぼやんと分かっておけばいいか」という低い志で手にとったのがこの本。新書なのに結構読むのに時間がかかりました。

人間の計画能力なんて当てにならんから、とにかく社会保障・民主主義・労働組合など、市場経済に対するあらゆる干渉を排除して、市場の自己調整機能にお任せしましょうという「経済的自由主義」でもなく、結局全てを経済問題にまとめてしまう「マルクス主義」でもない。経済を政治から切り離して考えず、民主的なコントロールの下に市場を置き、所得や余暇(政治参加する時間)や社会保障が行き渡らせた上で自由が可能になる「社会主義/よき産業社会」というべき別の道を、ポランニーは模索したということらしい。

『大転換』(1944)は、18世紀イギリスで生まれた資本主義=市場社会が、ドイツでファシズムを生むまでの過程を辿った作品だという。

生産用具の革新が、農村から切り離された人口の都市への流入と、都市スラムでの劣悪な生活と文化的破壊を招く。貧困大衆に対する賃金扶助としてスピーナムランド制(救貧法改革)が生まれたものの、これは福祉依存を生み、貧民を増やすものであるという反発に晒されることになった。救済は食糧生産の増加を上回る人口増加を招き、それが貧民の生活をかえって悪化させるほか、飢えへの恐れと働く意欲を失わせる、との批判を展開したマルサスがその代表格だ。逆に救済をやめれば、”自然法則に従って”事態は収拾に向かうという。教区における相互扶助の精神が消滅し、自己責任+自己調整的市場の思想が胚胎した。

一方オウエンは『新社会観』(1813-1816)で、貧困と犯罪の原因は「社会」にあると批判した。自由主義がいうように個人の責任なのでもなく、マルクス主義がいうように労働者搾取=経済の問題だけでもない。産業革命によって、労働の目的や倫理、文化・社会環境から労働者が切り離されたために起きているのだという。それなら、社会的保護を行う国家の機能はどうしても必要になるだろう。その上で初めて、人々が責任を持って社会を変えていく自由を行使できるようになるはずだ。

こうした相反する二つの思想から始まった潮流が、1914年の第一次世界大戦に至る80年の制度的なダイナミクスを形づくった。「競争的労働市場、金本位制、自由貿易」と「労働立法や農業関税、社会的保護・競争制限的制度」の間の緊張、それが二重運動と呼ばれる。20世紀前半にかけては、民主主義を後退させてまで国際金本位制を守ろうという努力がなされたにもかかわらず、第一次大戦後に通貨危機、恐慌、列強の金本位制離脱、ファシズム、ヴェルサイユ体制の瓦解へと展開していく様子が描かれていく。

経済的自由主義は「自然の流れに市場を任せることが自由と繁栄を保証するのだ」と吹聴しながら、いろいろなちょっかいを入れてくる政治から市場を独立させようとする。しかし、それは筋違いだというのがポランニーの立場のようだ。市場は労働・土地・貨幣という本来は商品でないものを商品として扱えるような制度を作り出し、それが強力に普及させられたからこそ成立している。つまり市場は自然に生まれたのではない。転倒した認識は、市場のためなら人々の生活や民主主義を制限してもいい、市場原理で実現できないことは仕方ない、というフィクションを生み、平和の行方を経済に委ねてしまう事態さえ招く。それでいて、市場原理を通じて害悪が生まれたとしても、それは干渉を生むような制度のせいだと言いつのって延命を図るのだ。本来、市場は社会に埋め込まれていなければならないのに――。

確かに干渉は全て悪、という原理はシンプルで分かりやすく、それだけに魅力のある考え方です。計画経済を目にして「人間のやることなんて不完全ですよ」と反発するリバタリアンな気持ちも分かります。ただ、好きに遊ぶには、安心して遊ぶためのフィールドとルールがなければならない。多くの文化を花開かせるためには、多文化主義そのものを侵そうとする動きには強硬に対抗しなければならない。そういう類の問題提起かな。ネオリベとかセーフティネットとかの言葉が流行ってから「そういえばポランニー」って思うまでに数年遅れたものの、ともかく折角の機会に危なっかしかった(そして実際破局に至ってしまった)昔のことを知っておくのも意義のあることだろうと思います。

* * *

そういえば仕事先に行ったり飲みに行ったりするときに歩きながらちょいちょい聞いている放送大学のラジオ科目ですが、2学期は今んとこ、この2番組が面白いです:
・日本の近現代('15)→今ある制度や習慣の源流がこんなとこだったの、という驚きが多い
・市民自治の知識と実践('15)→社会運動のコツ、みたいなお話が入ってて結構ツボです

2015年11月07日

科学は誰のものか

■平川秀幸『科学は誰のものか』日本放送出版協会,2010年.

暫く前から職場に転がっていたのを、やっと手に取りました。
福島第1原発事故の半年前に出ていた本。
知っているからできる、というわけではないが、知らないよりはいい、かな。

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・科学イメージの転換:「夢と希望」から「問題」へ
  夢と希望:~1960年代。理工系、中央研究所ブーム、大阪万博
  ターニングポイント:70年代。核開発、公害・環境問題
  新しい文化:新しい社会運動、環境政策

・統治からガバナンスへ
  社会の複雑化により、政府だけでは問題に対処できなくなった
   ガバナンス=政府、NPO、企業、個人による水平的、分散的、協同的な舵取り
   ガバメント=政府による意思決定、利害調整
  →95年の「ボランティア元年」、情報公開、パブコメ、審議会への一般人参加

 (1)リスクコミュニケーション:行政、専門家、企業、市民による情報交換と信頼構築
  70年代米国に端緒。食品、環境中の化学物質リスクに関するデータ開示要求など
  当初は「説得」と「受容」を目指すものだった→80~90年代に対話、協働へ
 (2)参加型テクノロジーアセスメント:新技術の実用化に先立って、社会・環境影響を評価
  60~70年代当初は科学者や行政官に限定
  86年のデンマーク技術委員会(DBT)設置を契機に、市民参加型が開始
  →87年、DBTによるコンセンサス会議。他にも市民陪審、シナリオワークショップなど

・信頼の危機:96年、英国のBSE危機
  「人への感染リスクは極めて小さい」としていた89年のサウスウッド報告書が転覆
  折しも、欧州市場に米国のGMトマトピューレが登場、安全論争になっていた
  「将来のリスク」に対する懸念+政府、企業への不信が蔓延
  →欠如モデル(市民は正しい理解を欠いているから不安なのだ)が通用しなくなった
  →科学技術コミュニケーションも「統治」から「ガバナンス」へ(00~01年、英国)
  00年代前半の「サイエンスカフェ」普及。「公共圏」における相互学習へ

・日本では
  98、99年に「遺伝子治療」「情報化社会」でSTS研究者がコンセンサス会議
  00年は農水省がGM作物でコンセンサス会議
  01年~の第2期科学技術基本計画で双方向コミュニケーションの推進盛る
  *ただし、いまだに「一般を教育する」路線のコミュニケーションが主流

・公共的ガバナンスが必要な理由
  「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」が増えた
  (1)科学の不確実性の増大。例)人への感染を予見できずに起きたBSE危機
  (2)科学技術が利害関係や価値観対立と深く関わるようになったこと

・科学の完全無欠幻想と、そこに立った政策の失敗
  (1)地震予知研究。64年文部省測地学審議会によるブループリント、78年大震法
  →その後、研究するほど「分からない」ことが分かってきた
  →97年測地学審議会「予知の実用化は困難」。地震防災基本計画の大幅変更へ
  (2)水俣病。56年に公式確認。しかし原因をメチル水銀と特定し公害認定したのは68年
  ←チッソ「メカニズムを科学的に正確に証明せよ」(クロと実証せよ)
  →行政の意思決定のハードルが上がった

・不確実性を理解する前提として:科学の知識はどうやって生み出されるか
  仮説→実験、観測による検証→論文化→他の研究者による利用、再現
  実験室にあるのは「作動中の科学science in action」。何が正答か、まだ分からない
  最先端=その後修正される可能性があるということ
  正しいとされていることでも、原理的には修正可能性、可謬性がある

・不確実性には二つのタイプがある
  (1)知られている無知known unknowns。何が分かっていないかが分かっている
   例)温暖化におけるエアロゾルの影響など。でも幅を持たせた予測はできる
  (2)知られざる無知unknown unknowns。全くの想定外
   例)フロンによるオゾン層破壊

・なぜ不確実性があるのか?
  (1)対象の問題:振る舞いが「確率的」な場合や、構成する要素が多すぎる場合
  (2)知る側の問題:測定限界、検出限界。連続的なものの数値解析は近似にとどまる
  モデル(単純化)と現実とのずれ
  実験条件(理想化)と現実のずれ

・科学技術と社会のディープな関係
  科学は価値中立的、というわけではない。「使い方が悪いから害悪になった」?
  →科学の純潔主義は、公共的ガバナンスの射程を社会に限ってしまうことになる
  共生成co-production。影響を与えあっている
   ・公的研究費や企業の研究費は社会的目的達成型の研究を増加させる
   ・基礎研究も、応用を支える基礎と見なされる「運命」にある
  政策と技術はパッケージになっている
   ・アーキテクチャ(低所得者が使う路線バスが入れない街区、寝転べないベンチ)
   ・世界の実験室化(携帯を社会で機能させるためには、インフラも導入する必要)
  →よい科学技術とは何か?それは誰にとってよいのか?を考えるのがガバナンスの一歩
   例)緑の革命:帰結=飢餓輸出、高収量作物の栽培負担による離農増
   例)医薬品開発:熱帯病治療の遅れ、市場の失敗。国際連帯税導入の動き

・科学の不確実性とどう付き合うか:論争の視点
  何が論点か?→結局、科学的な側面より、社会的な側面が大きい
  調べる人でデータも変わる(干潟埋め立てに際してのアセスメント方法の違いなど)
  挙証責任は誰が負うか
  リスクを受け入れる基準をどこに置くか=どんな社会を望むかという価値観の違い
  「分析による麻痺」を避けるための「予防原則」
    批判(1)疑陽性による過剰規制(「健康な科学」からの批判)
    批判(2)別のリスクが発生する(副作用のため薬を規制すると病気が増えるなど)
  →どちらに転んでも多少の利益があるno regrets policyを目指すか

・市民参加:ゆるっと踏み出す
  身近な人に話してみる
  ネットでの情報発信と交換
  ガバナンスへの参加は一時的でも構わない
  お金で支援してみる
  調べてみる、問い合わせてみる、パブコメしてみる

・当事者として動く
  AIDSの臨床試験デザインの非人道性の告発
  非専門家によるcommunity based research→偽薬を使わない試験の実現
  非専門家も専門性を獲得できる。「よい科学」観に基づいてまとめ上げる専門性
  反対派ではなく「疑問派」というスタンス
  公共空間で多様な背景の人たちと接し「はっとする」ことの重要さ
  知ることを協働化する:市民と大学が協力して調査研究するサイエンスショップの試み
  社会関係資本としての知識:不得意を補い合う、生活知を織り込む、交流の場を作る

2015年10月12日

景虎/音声

歌舞伎町のパスタ「景虎」。
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カウンターとテーブル席がある素っ気ないパスタ屋さん。
弊管理人が行ったときは静かなお客ばかりで、座ったカウンターの反対側の端では、いわくありげなおねいさんが大盛を啜ってました。
ひとりめしにちょうど良い感じ。また来る。

* * *

この連休は麺づいていて、天下一品のラーメン+チャーハンセットも初めて食べました。
チャーハンが意外とポロポロで香りもよくてうまかったです。

* * *

■山岸順一他『おしゃべりなコンピュータ』丸善出版,2015年.

仕事関係で音声合成技術の現在をざっと見ておく必要があり、新幹線での名古屋往復の時間を使って読みました。

2015年10月02日

【ペンディング】ヴェール論争

【10/4】↓すごいへたくそなまとめなので、書き直しを試みます


1月にシャルリ・エブドの襲撃が起きたあと、それなりにいろんな解説を読んだのだけど、なんというかフランスの社会に詳しい人が「自分は背景を知っていて一般人は知らない」ということをあまり意識しないで書いている感じがして消化不良でした。で、少しスコープを広げてみようと読んでみた本。ちょっときれいに整理しすぎだろうとも思いますが、見通しはつきます。メモは結構いっぱい書きましたが、ここではさわりだけ。

■ヨプケ, C. (伊藤豊他訳)『ヴェール論争』法政大学出版局, 2015年.

・本書の課題は、ムスリム女性のヘッドスカーフの受け入れに際してリベラリズムがどう機能するかを、これまで主に論じられてきたフランスだけでなく、ドイツ、イギリスに関しても見ることである
・リベラリズムには二つの顔がある。第1の顔は、さまざまな生の様式を調停する暫定協定としてのリベラリズム。第2の顔は、それ自体が一つの生の様式としてのリベラリズムである
・「国家の宗教に対する中立性」も、上記に対応した二つの顔を持つ。「宗教をどれも認める多元主義」(第1の顔)と「宗教はどれも一律に認めない社会統合のイデオロギー」(第2の顔)。後者の場合、そのイデオロギー自体が、いわば一個の宗教と化す可能性もある

・フランスは「ライシテ(非宗教性、政教分離)と共和主義的リベラリズム」。公的な場での宗教色を徹底排除する。リベラリズムの第2の顔に対応する。2004年に公立学校における「これ見よがしの」宗教的シンボルが禁止された。リベラルの下での抑圧ともいえる
・イギリスは「多文化主義的リベラリズム」。ヘッドスカーフは特に問題にならなかった。リベラリズムの第1の顔。ただ、目以外を全部覆う過激な形態に関しては学校の権限で禁止できるようになった
・ドイツは「キリスト教―西洋的なリベラリズム」。西洋的な価値に挑戦するようなイスラム的ヘッドスカーフは禁止、という立場。

・ヘッドスカーフはどんな意味を持っているのか:
・本来は特に政治的、宗教的意味はなかった。クルアーンでも社会慣習として規定されている
・ただ、イスラムにおける家父長制的な価値観、男性優位を具現しているともいえる。女性のセクシュアリティを夫に所有させ、封じ込める機能を持っている
・1980年代以降、西洋の下品さや物質主義、商業主義を拒否するものという意味合いが加わる
・どんな事情があったのか。公教育と都市化を背景に→イスラムに精通したムスリムが量産され→イスラム復興とともに→近代化・世俗化しつつ反西洋に傾いた
・さらにフランスでは、占領者側(フランス)がヴェールを除去しようとしたことで、抵抗のシンボルとしての意味が付加された
・ガスパールとコロスカヴァールは、フランスにおけるヴェールの多義性を以下のように分類した
(1)移住先でも出自を示すため。これはフランスに限らず、どの移住先にもある
(2)淑やかさのシンボル。セクシュアリティの管理の手段として親から課されるもの。ただし、同時に、ヴェールを付ければ家庭の外に出られるようになる、という「解放の可能性」としての意味も持つ。これが論争の種になる
(3)自立したフランス人であると同時にムスリムでもあるという二重性を示すために、自発的に身に着けられるもの←これがよく社会学の研究テーマになる
・ただし、いずれにしても宗教性は免れないことを忘れるべきではない(さもないと、ただのファッションになってしまう)。そして、宗教性の中心にあるのは女性の従属である

・誰のヘッドスカーフが、どんな場で問題になってきたか:
・ヘッドスカーフは、リベラリズム(国家の中立、個人の自立、男女平等)への挑戦だといえる。ただ、リベラリズムの下でヘッドスカーフを抑圧することも非リベラルになりえてしまう(フランスを見よ)
・司法は権利保護の立場を取る傾向を見せてきた。リベラルな国家は宗教の教義に介入したり管理したりしてはならない。だから裁判所は基本、何が宗教的かを定義できない。とすると、何かが宗教的かどうかの判断は基本、個人の主観に任されることになる
・一方、立法と行政は、治安や秩序といった集団の価値を優先させる傾向がある。宗教的権利は個人の領域だけに関するものではない。ヘッドスカーフは公的領域、特に職場と公立学校で問題化した
・公立学校でのヘッドスカーフ問題は、ドイツではヘッドスカーフを着けたい教師=国家の代理人=の宗教的権利が争点になった
・フランスでは、宗教やエスニシティを払拭し、自由で平等な国民を形成する場となる「共和国の聖域」、すなわち公立学校で教師が着用を禁止されることは、当たり前すぎて問題にもならなかった。規制論議の対象になったのはもっぱら学生のほうだった
・イギリスでは目以外の全身を覆う過激なヘッドスカーフのみが問題になり、学校の排除権が高等法院で認められたが、国家は特に関与しようとしなかった

・イギリスの対処は、ヘッドスカーフが政治的、宗教的な対立になるのを避けながら、「全身を覆われるとコミュニケーションに支障が出る」といった実利的な問題に絞ったという点では、それなりにうまい。しかし、ヨーロッパの中でも例外的に理解され受け入れられているイギリスでは、ムスリムは疎外されたマイノリティとして不満を募らせている
・フランスの対処は、ヘッドスカーフに対して厳しい方針を採ってきたが、国民統合の明確な条件を示しえていて、ムスリムの文化的統合度も高いといえる
・ドイツは、憲法レベルでは諸宗教の平等を掲げながら、地方政治レベルではキリスト教をひいきし、イスラムだけを排除しようとしている点で、リベラリズムを踏み外している。

2015年09月13日

平和のための戦争論

■植木千可子『平和のための戦争論』筑摩書房,2015年.

毎日のことにかまけていて集団的自衛権と安保法制のことを見聞きする機会を持っていませんでした。そのため、2014年7月の解釈改憲から1年以上のビハインドがあります。そこで、夏休みの旅行の移動時間を利用して基礎的なところだけ新書で読んでおこうと思い、荷物削減のために電子書籍を購入しました。
持ち運びがかさばらないのと、タブレットでもスマホでもそのとき手近な機器で読み続けられるのは便利です。一方、読み終わったあとにぱらぱらめくってさらうのが依然やりにくいと感じるのと、機器を落っことさないか、いつも頭のどこかが緊張しているのがちょっと。

で、本書は大変遅ればせながら読んでよかったです。
この辺分かっておかないと、叫んでる人の中でまともなのは誰か、まともな人はどうして叫んでいるのかを分かる足がかりが得られません。

-----以下、メモ-----

【2014年7月の閣議決定】

・集団的自衛権行使の容認の閣議決定が2014年7月に行われた
・内容は3つ
 (1)有事でも平時でもない侵害(グレーゾーン事態。離島への上陸など)への対処
  *いつグレーゾーンか?いつそこから有事になるのか?手続きは?
  *グレーゾーンで武力行使が認められるか?警察権に基づいて自衛隊が出せるか?
 (2)国際的な平和協力活動(駆けつけ警護。基地を出て自他国NGOなどを警護)
 (3)武力行使に当たりうる活動(日本と密接な国がやられたら日本も危ないとき)

・それ以前は、日本が戦争するのは、日本が直接攻撃された場合の反撃に限られていた
・武力行使の旧「3要件」
 (1)日本に対する急迫不正の侵害がある
 (2)排除のために他に適当な手段がない
 (3)必要最小限の実力行使に留まること
・新3要件の(1)
 (1)日本への武力攻撃、または日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃
  によって日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求権が覆される
  明白な危険がある

・集団的自衛権の行使により、日本は攻撃されていなくても戦争に加わることになる
・参戦するか、しないかの判断を迫られる局面が来る
 *「憲法解釈上できるけど、やりません」という選択肢を取るか?という局面も
 *ex.中国とフィリピンが南シナ海で紛争を起こしたら、関与すべきか?
・この転換は、孤立主義から国際主義(自国以外の地域での虐殺や人権侵害に介入する)への転換と見ることができる
 →助けてもらうためだけでなく、助ける義務も生じる

・必要性
 (1)紛争地域から避難してくる日本人などを守れない
 (2)アメリカが困ってる時に守らないと日本が困っても守ってくれない=味方を作ること
  *ただし、恩義に感じてくれるか?/戦争参加で事態改善するか?に注意
 (3)協力が増強する
  ・国際社会では軍事的貢献が評価される。cf.湾岸戦争
  ・平時の情報収集、共同訓練等
  *ただし、これが有事の際の政治決定を縛る危険性も
  *抑止につながるかもしれないが、対抗措置を生む危険性もある

【背景】

・米国が考える冷戦後の世界秩序
 (1)民主主義の拡大
 ←ドイルの民主平和論。民主主義国家同士は戦争をしないという歴史的事実
 (2)米国の覇権維持
 90年代初頭の米国は、日本が依存から脱却して独自の安保政策を進めると予想していた
 →日米安保の再定義
 軍事的には、コモンズ(海、空、宇宙、サイバー空間)の支配
 →コモンズの安全により国際システムが安定する+米国依存が実現する

・しかし、アフガン、イラク戦争による財政疲弊などでアメリカの力は低下している
・一方で、中国が台頭。国民が政府の決定を縛れる仕組みになっていない
→台頭国は現状維持に協力するか/挑戦するかの選択に直面する
→両国とも核保有していることに注意。これまでと違う覇権交代になるかも

・「厳しさを増す日本の安全保障環境」:実はそう厳しくない、そこが厳しい
 (1)北朝鮮の核兵器と弾道ミサイルの開発はどうか?←軍事バランスは韓国が優位
 (2)中国の軍備増強は?←まだ日米を脅かすほどではない
 *世界も脅威とまでは見てないかも。日本-(歴史+領土問題)の立場を想像せよ
→米国に日本を守る自明の理由を欠く
→米国の日本防衛へのコミットメントが減ると周囲から見られてしまう危険も増す
→日本側から同盟をつなぎ止める努力。また、米国の力の低下に対する補填

・大前提:紛争予防が目的であること
 作用がどんな反作用を呼ぶか?
 行動の結果、安全になるか?
 →日中関係に割かれている労力は適正か?

【戦争が起きる/戦争を予防する仕組み】

・楽観:戦争は両当事国が「(短期で)勝てる」と思ってしまうことで起きる
 (1)予測が間違っている←軍事的な力の見積もりは難しい
 (2)わざと間違える←負けるかも、という予想が認められない組織。1941日本
・焦り:先手必勝/早い者勝ちに見えてしまうと、状況が不安定化しやすい

・戦争の予防:水晶玉効果。未来がくっきり見えるようにすること
 →割に合わない=代償が大きい、と事前に分かること
・抑止
 (1)懲罰的抑止=攻撃したらひどい目にあうぞ
 (2)拒否的抑止=攻撃しても守りが堅いから無駄だぞ
・ただし、抑止力の増減や、抑止の成功は見えない
 (侵入されなかったのは番犬がいたからか、いい人だからか?両方の混在があり得る)
 失敗して初めて抑止が効いていなかったことが分かる
・抑止の成功の条件
 (1)報復や拒否する能力があって、それを使う意図がある
 (反面、強化していくと妥協しにくくなる。対立が深まる可能性も)
 (2)能力と意図があることを、正しく相手に伝えられる(交流やホットライン大事!)
 (3)状況に対する認識を両者が共有している
 (越えてはいけない一線がどこかが共有されている。湾岸戦争勃発ではミスあり)
・確実性は:核抑止>通常兵器による抑止>小規模侵害(離島への上陸など)の抑止
・抑止が相手を怯えさせて安全保障のジレンマに陥る可能性もある

・安全保障のジレンマ
 軍備を強くする→対抗措置(相手の軍備増強、同盟)を誘発→状況が不安定化
・ジレンマ激化の条件
 (1)攻撃が防御に比べて有利、早い者勝ち状況
 (2)攻撃と防御の区別がつきにくい(多機能な戦闘機の増機)
 (3)地理的条件。陸続きのほうがジレンマ起きやすい
 (4)もともと不信感がある
・日米中でジレンマは実際に起きた
 米国90年代の日本脅威論、日本の同盟不要論→日米同盟の漂流
  →同盟管理者の努力→96年の安保宣言、97年のガイドライン見直し
   →台湾海峡危機にバッティングし中国を刺激「敵はウチか!?」……

・「リベラル抑止」:軍事力と相互依存を組み合わせた抑止
 戦争をすると損だという状況を友好関係の維持によって作り出す
 ←貿易、留学生や観光客の往来、技術革新、環境問題やテロ対策など共通の問題……
・「英独は貿易のお得意さんだったが、第1次大戦は起きたじゃないか」
 ←当時と現在の違いは、国際的な貿易協定(長期的な枠組み)があること。
  制度化によって水晶玉がクリアになる。担当者が決まることも良い

【日本の選択肢】

(1)現状維持
 ○ 変化に伴う不安定化を引き起こさない
 × ジリ貧。世界が全般的に不安定化していったら……

(2)非軍事的国際主義:防衛政策はこのまま。民生的協力活動やODAの増額
 ○ 変化に伴う不安定化を生まない。国内的支持も得られやすい
 × 即効性がない。長期に予算をつけられるか。各地が不安定化すると継続が難しくなる

(3)軍事的孤立主義:防衛には積極的に軍事力を使う。他国やPKOには原則非関与
 ○ 他国の紛争に巻き込まれない。米国への依存度減。シグナルは明確
 × 軍事増強で周辺の警戒を呼ぶ。歴史認識の和解などに相当のエネルギー要する

(4)積極的軍事的国際主義:安保理決議に基づいて積極的に軍事力行使→集団安全保障
 ○ 米国の停滞を補填しつつ安全保障のジレンマを回避。日本も守ってもらえる
 × 集団安全保障の確立までには不確実性が大きい。防衛費が多大になる

(5)限定的軍事的国際主義:国連決議に基づき、民族浄化など相当ひどい件に限って関与
 ○ (4)に比べてコストが安い。他国との協力も促進
 × 防衛費は増。日本防衛に直結かは疑問。周辺諸国の理解必要。世論は支持するか?

2015年08月26日

8月読んだもの3

■田村慶子, 本田智津絵『シンガポール謎解き散歩』中経出版,2014年.

夏休みの後半に行く予定だけど、チキンライス食ってマーライオン見るだけだと1日持たないかもしれん、と危惧を抱いて買ってみたら、1週間くらい滞在してみたい気分になりました。

* * *

六つ上の友人と、高田馬場の「はま寿司」いってきました。
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ひっさしぶりの回転寿司。
なまもの嫌いだが炙り系と蒸しえび大好きの弊管理人は堪能しました。
若干、メニューに安易にマヨネーズを使いすぎだろうと思いました。

2015年08月21日

8月読んだもの2

■フィリンガム, L.A.(栗原仁,慎改康之訳)『フーコー』筑摩書房,2011年.

古本で安いのがあったので買ってしまいました。
訳者による著作紹介や用語集がついていてサービスよいのが好感。
フーコーはどこから手を付けていいかわからない上に、本が高い+難しい、ということでなかなかリーダー以外のものに触れられていないのですが、とりあえず最初から『知の考古学』『言葉と物』に行ってはいかんらしい。

2015年08月20日

8月読んだもの

■広井良典『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』岩波書店,2015年.

某官僚氏に「生命倫理とかやる人の中では、この人『は』まとも」と言われたので……
すっごいいろいろな文献を渉猟しながらすっごいスコープの広いお話をしていて一気に視点が高くなっていいのですが、見田―ロジスティック曲線の話に近いわりにはそこからの引用が少なめだった気が。

■三木敏夫『マレーシア新時代―高所得国入り』創成社,2015年.

ちょっとマレーシアに行くので、予習。
文章はひどいが、情報は豊かな本でした。

・人口約3000万人。マレー人+少数民族6割、華人2割、インド人1割以下
・イスラム、キリスト教、ヒンズー教、アニミズム等の棲み分け
・国語はマレー語。ほか中国語、英語が日常
・Malaysia My 2nd Home プログラム→長期滞在者(セカンドホーマー)受け入れ
・メディカルツアーも振興
・ゴム、錫輸出→1980年代~電子立国
・1986~直接投資。外資100%所有を認める門戸開放政策→投資ブーム
・5カ年の経済計画(現在は10次、~2015)+10年計画(工業化マスタープラン)
・1969、人種暴動「5月13日事件」→ブミプトラ政策(1971~)
  華人とマレー人の格差解消狙い、マレー人優遇
  ←通商交渉、TPPで問題に
・ブミプトラ・マイノリティ問題。マレー人と先住少数民族の格差問題。サラワク、サバ州
・女性の高学歴化(マレー人、華人を問わない)
・1948、国内治安法+煽動法。デモ禁止、逮捕状なき拘置、恣意的な拘置延長→2015改正
・3K職場中心に外国人労働者300万人。インドネシア、バングラデシュ、ネパール…
・1981~2003、マハティール首相。開発独裁、ブミプトラ政策、イスラム化
  →ハラール食品工業の振興、イスラム金融の整備
・1982~、ルックイースト政策。勤労、モラル、集団主義
・「ワワサン(vision)2020」で2020年先進国入りを掲げる(ちょっと無理っぽい)
・現ナジブ首相。「サツ・マレーシア(1 Malaysia)」「高所得国入り」提唱
・現在は第10次5カ年計画、2011~15。

■Teamバンミカス『まんがで読破 コーラン』イースト・プレス,2015年.

だって会社の同僚が「コーランは通読するもんじゃないです」とか言うから。
「旅行の予習の一環」という弊管理人程度の関心であれば、マンガは最良の媒体であります。
でもなんか実際、字ばっかりの本より全然雰囲気わかります。ありがたい。

ちなみに「だいたい何が書いてあるかだけ知りたい」程度だったダンテの『神曲』もこのシリーズで読みました。

2015年07月20日

連休メモ

3連休だということに直前まで気付かないまま突入しました。

金曜は深夜まで仕事して、それからちょっと寝酒を、と思ったらうっかり午前3時。

土曜は人助け的な活動。
あと、生活リズムが狂ってつらかった。

日曜は梅雨明け。すっごい暑かった。
普通の時間に寝て普通の時間に起きたので、とても元気になりました。
15年ぶりくらいに和田堀公園のプールへ独りで行きました。
150719wadabori.jpg
正午くらいに行ったのに、既に水が相当汚かった。
あと、独りでプールに行っても、やることはがしがし泳ぐことくらいしかありません。
結果、がしがし泳いでしまい、余計暑くなりました。

月曜はちょっと面談がありまして、自宅近くでスパゲッチ食べながら話してました。
暫く喉が痛かったのがやっと治ってきたのですが、喋りすぎていがらっぽい。

ほんとは日曜か月曜に山へ行こうと思っていたのですが、前後に人に会う予定を優先させたため延期にしました。暑いしね。
梅雨明けから盆までを夏とすると、夏など1カ月くらいしかありません。計画的に遊ばないと。

* * *

■蓼沼宏一『幸せのための経済学』岩波書店, 2011年.

■白井聡『永続敗戦論』太田出版,2013年.

* * *

連休は毎日洗濯した。
汗ばむ季節です。

* * *

物忘れというか、気付くべき事に気付けない、話が出てこない、そういう焦りが最近増しています。

先週は、出掛けようとして建物のエントランスまで行ったときに傘を持ってない!と思って傘を取りに戻ったのですが、「ゴミを捨てなきゃ」と思い出してゴミ袋を持ち、結局傘は持たずに外出し、傘を買うことになりました。本当にやばい。

ほんの4年前だったら数日思い悩んでいたことや、ずっと怒っていたことも、数十分から数時間しか持続しなくなりました。その点有り難いのですが、以前なら意識しなくてもできていたことが、「ぬん!」と頑張って意識するというか、自分にリマインドを出さないとできなくなりました。以前からちょっとそうでしたが、何かいつも頭がぼーっとしているんですよね。

これは病的な状態なんでしょうか。それとも40手前になるとこんなものなの?
カレンダーやメモや予習を活用しまくりながらではあっても仕事には支障が出ていないところをみると、ものすごく選択的に日常生活用の頭が悪くなっているのかもしれないです。それならまだいいんだけど。

2015年07月13日

いのたつ

■井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』毎日新聞出版, 2015年.

谷口功一さんによると、著者はまえあつのフレーズだと知らなかったそうであります。
タイトルどうよ、と思う人もいるでしょうし、井上達夫がここまで降りていかないかん状況か、と嘆く人もいるかもしれません。でも弊管理人はよかったと思います。やっと井上達夫入門が、しかも本人の手で出た。『共生の作法』も、大学生のときに出て話題になった『他者への自由』も濃度が高くて結構ハードル高かったので助かります(味わって読む技術が低いせい)。

リベラリズムには二つの起源があるという:
(1)啓蒙=因習や迷信からの解放。独断に陥る危険性もあるが、理性の限界を吟味する営みも啓蒙の伝統である。
(2)寛容=血みどろの宗教戦争への反省。他人がやってる不正義を許容してしまう危険性もあるが、他者の受容により自分を変容させる契機にもなりうる。
→これらのいいとこ取りをできる考え方はないものか。

そこで導かれるいくつかの考え方:
・「普遍化不可能な差別の排除」という正義概念(ある正義は、他者の視点に立ってみても受け入れ可能か、という判定テスト)の導入。
・そこから当然出てくるルールとして「ダブルスタンダードの禁止」。ダブスタは普遍化不可能だからね。
・権力による特定の道徳観の強制の排除。面従腹背を招くから、つまり、保護しようとしたものを堕落させてしまうから。
・批判的民主主義。エリートを含めてみんなそれぞれ愚かだからこそ、アカウンタビリティを確保した民主主義の中でお互いに批判しあって、「よりよいもの」に辿り着く必要がある。
・法が正統であること。その条件は二つ。(1)敗者が勝者になる可能性と(2)構造的少数者への基本権保障。

つまり、さまざまな「善」が花開く、そのための土壌として「正義」ってものが必要だろう。
価値相対主義はそれを用意できないはずだ。
というのが核かと思いました。

――学生のころの弊管理人はこういう考えを多分受け入れなかったんじゃないかと思いますが、今はだいぶ違います。可謬主義+普遍主義(というか、普遍を「志向する」主義。方法的普遍主義)のほうが、可謬主義+相対主義よりも粘り強く共生を探れて、いい世界が作れるような気がする。
ただ「『仲良くやろうぜ』を難しく言ったまで」、という印象は昔とあまり変わってません。この印象から出発してどこへ行くかは弊管理人の課題です。

時事問題への言及が多いです。それを読みながら、今まさに起きていることに対する判断を取り急ぎしなくてはいけないときに、やってみたほうがいい思考実験がいくつかある気がしました。
・自分の判断の方向性を極端まで進めてみる
・自分の判断基準をいろんなものに当てはめてみる
・同じことだと考えていたAとBが本当は別ものではないかと考えてみる
・別ものだと考えていたAとBが本当は同じものではないかと考えてみる
・原因と結果が本当は逆ではないかと考えてみる
・ここは動かしがたいと思った部分が本当に動かしがたいか考えてみる
あと、tipとして
・昔のことを考えるとき、記憶だけに頼らない
もっとあるかも。

ということで面白かったです。
「マハティールのインドネシア」とかいっちゃってますが、ご愛敬。

2015年06月28日

多数決、谷崎、脂質

■坂井豊貴『多数決を疑う』岩波書店,2015年.

一番いいと思う候補(者)に1票入れて、最も票を集めたら勝ち、というのが多数決。みんなで決めるから民主的だし、結果すなわち民意である――。多数決が当たり前に執行されている中では、こういうことを疑おうとも思わない。賛成/反対が社会を分断するのは致し方ないし、少数派にも開票結果は黙ってのんでもらおう。

それを疑う。多数決よりもっといい決め方があるのではないかということを、できるだけ「誰が考えてもそうなってしまう」仕方で考えてみたい。そういう本。

まず、多数決には「票割れ」という問題がある。2者が票を争っているときに、1番人気と近い第3の選択肢が出てくると、漁夫の利を得た2番人気が結果として勝ってしまう現象だ。2000年の米国大統領選挙で実際に起きた。もしブッシュではなくゴアが勝っていたら、その後の世界は大分ましだったかもしれない。ではもっと人々の意見を集約するのにいいルールはないものか。

まず紹介されるのは「ボルダルール」と呼ばれる集約ルールだ。18世紀フランスの科学者ボルダが提案したもので、選択肢が3個なら1位に3点、2位に2点、3位に1点と等差の点数を付ける。このルールは、それぞれの選択肢が1対1で対決したときに他の選択肢のいずれにも負けてしまう「ペア敗者」が1位になる事態を避けられるという利点がある。スロヴェニア共和国では、国会議員の選挙に一部採用されている。

日本の最高裁判事の国民審査のように、それぞれの候補にマルバツを付ける「是認投票」も、候補者が多い時には有権者一人ひとりができる意思表示の量が増えるのでなかなかいい。ただし、組織力の高い政党が定員ギリギリの数の候補(クローン候補)を立てて、彼らに全てマルをつけ、他にバツをつけて議席を独占するような「クローン問題」が起きる危険性はある。

別の選択肢は、ボルダの同時代人であるコンドルセが考案し、後年英国のペイトン・ヤングが修正した「コンドルセ・ヤングの最尤法」だ。コンドルセのアイディアでは、有権者は候補たちに順位をつけ、それぞれの候補たちを1対1で対決させてどちらが支持されているかを判断する。X>Y、Y>Z、Z>Xというジャンケンのような循環が発生することがあるが、最も僅差だった組み合わせを「有権者全体の意向が現れている可能性が最も低いもの」として棄却してしまうことで順位を確定させる。選択肢が4個以上になった時にはこの方法が使えない場合が出てくるが、データから統計的に「背後にある有権者全体の選好」を推定すればいいという考えでヤングが補正を加えた。この強みは、1対1対決でなら他の全ての候補に勝つ「ペア勝者」がきちんと選ばれるということにある。

このほか、自民党の党首選などで使われる「多数決+決選投票」、オリンピックの候補地を選ぶ際の「繰り返し最下位消去ルール」もある。コンドルセ、ボルダ、多数決も含め、同じデータを使っても、用いる集約ルールによって結果がばらばらということも起こりうる。「民意」というものが本当にあるのか、疑わしくなってくる。民意など存在せず、ある選び方を選んだ結果があるだけなのではないか。

では、どのルールがいいのだろう。筆者は、ボルダルールがペア敗者を1位にせず、ペア勝者が少なくともビリにはならないという「それなりの強み」に加えて「分かりやすさ」を持っているという点から、このルールを押す。特に議席1の小選挙区制や自治体の首長選挙に適しているという。

「民意」の存在が揺らいでしまった。今や「民主的」という言葉も再考を迫られている。

「陪審定理」というのがある。十分な情報を与えられ、個々人が独立して判断できる場合には、判断する人が多いほど、多数決の結果が正しい確率は1に近づいていくというもの。逆に少数派になったということは、間違っている可能性が高いということだ。ルソーの「一般意志」に引きつけていえば、少数派が多数派に従わされているのではなく、少数派も多数派も一般意志(というか、それが書き出された「法」)に従うことになる。
ただ、こうした判断は個別の利害関心から離れたトピックについてしか下せない。少数者の抑圧に直結するようなものは投票で決めてはいけないことにも注意が要る。多数決による権利侵害を回避する方策には(1)多数決より上位の審級を設ける=違憲立法審査権(2)複数機関で検討する=二院制(3)ハードルを50%より高くする――などが考えられる。

また、直接制と代表制の判断が食い違うことも「オルトロゴルスキーのパラドックス」として知られている。直接制のほうがみんなの意見が反映されるような気もするが、しかし膨大な人口を擁するコミュニティでは、直接制は時間的、コスト的にかなり無理筋な制度ではないだろうか。理想的な形ではないが、代表制には「議場で熟議が実現する」という可能性をメリットとして持っている。よく話し合うことで意見が収斂していくし、それでも意見の差が解消しないとき、その差が何によって生じているかも分かってくる。
満場一致は望ましいが、それができないとき、どれくらいの賛成を基準に物事を決めればいいのだろうか。過半数でいいのだろうか。3つの選択肢があるとして、X>Y、Y>Z、Z>Xという循環を排除し、多数意見が正当性を確保できるような基準は、計算により約63.2%だという。
ただし、これは直接制か代表制か、という二択の話ではない。筆者は最後に都道328号線問題という問題を紹介し、特殊利益を扱う場合に使える直接制的な考え方も紹介している。

とにかくいろいろなことが書いてあるが、筆者が一貫して試みているのは「現在通用している制度が、天から与えられたもののように動かせない」という考え方(あるいは「自明性の罠」)から読者を引きはがすことだと思う。しかも「多数決多数決というけど、少数者を尊重することだって大切だろう?」と観念的な説得を試みるのではなく、数理的な議論でかなりのところまで「別のやり方」の候補たちの利点と限界を示し、比較できることを示している。その方法は恐らく最も広く共有できる基盤の上に立っていて、それだけに強い。

そんなパキパキした議論を読んだあとに当たっちゃったのが

■谷崎潤一郎『陰翳礼賛』KADOKAWA, 2014年.

明るくて、一様で、かっちりして、のっぺりしてるのってなんかやーね、日本のぼやーんとした感じがいいやね、というおじさんの言いたい放題。
「しかしまあ事実関係のレベルで結構怪しいですけどね、西洋趣味に流れすぎる時代にあっての逆張りだと思えば仕方ないか。それにしては売れちゃったけど」という井上章一の解説がなんとも。

* * *

5月の健康診断でLDLコレステロールが限界を突破したので、摂生することにしました。
なんか身体に悪いかな、と思いながら漫然と続けていた生活習慣を改善するいい機会と捉えることにします。あまり無理をするつもりはないけれども、健康的な食事と運動が習い性になるように当面は気をつけつつ、様子を見る予定。
それにしても再検査と医者の問診を受けにいったけど、目も合わせずに「食事と運動、気をつけて下さいねーはーい」とまあ役にも立たないようなことしか言わない上にさっさと切り上げようとしたので、いろいろ質問してみたが、要領を得ませんでした。こんなのを1人1億もかけて養成してるというのはね。

2015年06月21日

新しい免疫入門

■審良静男,黒崎知博『新しい免疫入門』講談社,2014年.

それにしてもブルーバックスは本当にえらい。
専門家ばかり相手にしてる大御所(いや、大御所になると市民向けの講演もやるからそうでもないのか)に、この難解な免疫の世界を「気合い入れて読みさえすれば、非専門家でもちゃんと分かる」ところまで噛み砕いた本を書かせたのだから。
単に直線的に説明するのではなく、ちゃんと要所要所で「おさらいパート」を設けて読者がいまいる場所を確認させてくれる構成になっているというのも大変ありがたいです。
著者と編集者のその心意気に応えた、というより、メモ作りながら読まないと道に迷うという理由で、以下の長大な要約ができました。
後半に出てくるがん、炎症、自己免疫疾患、腸管免疫などは、もう分からないことだらけ。しかしそれだけに、ブレイクスルーへの期待が伝わってきます。
そして読み通した弊管理人えらい。

* * *

〈自然免疫の起動=だいたいの相手を認識〉

食細胞(マクロファージ)が相手構わず何でも食べる
→食細胞が活性化(消化能力、殺菌能力が増加)
→トル様受容体(食細胞が病原体を感知するセンサー)が細菌やウイルスの構成物質を認識
  TLR、RLR、CLR、NLR=パターン認識受容体。実は全身の細胞に存在
→食べたのが病原体と分かれば警報物質(サイトカイン:ケモカイン、IL、TNFなど)を出す
  ケモカイン:仲間の免疫細胞を呼び寄せる
  その他:周囲の食細胞の活性化を促す、血管壁を緩めて免疫細胞が通り抜けやすくする
→真っ先に好中球、少し遅れて応援のマクロファージが集まる
→炎症(免疫細胞がたくさん集まって活性化する)

〈自然免疫で撃退しきれなかった時→獲得免疫の始動=抗原に対するピンポイント対応〉

食細胞(樹状細胞)が末梢で病原体を食べる
→活性化+自殺タイマー始動(※自己細胞の死骸を食べた場合は活性化しない)
→リンパ節へ移動
→病原体のタンパク質を酵素でペプチドまで分解
→ペプチドはMHCクラスII分子と結合して、細胞表面に提示
→全身のリンパ節を巡回していたナイーブヘルパーT細胞(CD4+)が出会う
→(1)ナイーブヘルパーT細胞のT細胞抗原認識受容体と、MHCクラスII分子+ペプチドが結合
 (2)樹状細胞のCD80/86と、T細胞のCD28も結合(補助刺激分子)
 (3)活性化した樹状細胞からのサイトカインをT細胞が浴びる
→(1)~(3)が揃うとナイーブヘルパーT細胞が活性化

〈活性化ヘルパーT細胞が現場でマクロファージを活性化〉

→活性化ヘルパーT細胞が増殖(これが起きすぎないよう、樹状細胞は自殺)
 (→一部は記憶ヘルパーT細胞になる→免疫記憶)
→活性化ヘルパーT細胞が血流に乗り、ケモカインに導かれて現場到着
→(1)活性化マクロファージの表面に提示されたMHCクラスII+抗原ペプチドに結合
 (2)活性化マクロファージのCD80/86が活性化ヘルパーT細胞のCD28に結合し刺激
 (3)活性化ヘルパーT細胞はサイトカイン放出して活性化マクロファージに浴びせる
→活性化マクロファージがさらに活性化、食べまくる
→活性化ヘルパーT細胞が他のマクロファージにもサイトカインを浴びせて非特異的に活性化

〈一方そのころ、リンパ節では=B細胞がプラズマ細胞になって抗体産生能力を獲得〉

リンパ節に流れ着いた病原体の死骸の抗原決定基が、ナイーブB細胞の抗原認識受容体に適合すると結合
※B細胞の受容体は抗原そのものにくっつく。T細胞はMHCクラスII+抗原ペプチド
※B細胞の抗原認識受容体はY字型、抗体が細胞膜に発現したもの
→ナイーブB細胞がそのまま抗原を細胞内に引きずり込む
→ナイーブB細胞がちょっとだけ活性化
→ナイーブB細胞が酵素で抗原をペプチドまで分解
→MHCクラスII分子にペプチドを乗せて提示
→(1)リンパ節にたくさんいる活性化ヘルパーT細胞にくっつく
 (2)B細胞のCD80/86が活性化ヘルパーT細胞のCD28に結合し刺激
 (3)活性化ヘルパーT細胞がサイトカイン放出してB細胞に浴びせる

→B細胞が活性化、増殖
→活性化の際に、B細胞抗原認識受容体に突然変異を起こす
→抗原のショーウィンドウ役の濾胞樹状細胞(FDC)の元へ行って受容体とくっつくかテスト
→くっつけたものだけがプラズマ細胞(抗体産生細胞)になる(親和性成熟=抗体の仕上げ)
→B細胞の時に膜に持っていたIgMから、分泌用IgGへ抗体作製能力を変更(クラススイッチ)
→一部のプラズマ細胞が骨髄へ移動、大量のIgGを作って全身へ放出
※ここまで、病原体の侵入から1週間以上

※抗原がタンパク質を含まない(細菌の細胞壁などの)場合
→抗原決定基が反復して存在している場合は、一度に多くの受容体に刺激が入る
→B細胞が何とか活性化、ただしクラススイッチが入らずIgMで対応。親和性成熟も起きない
→このときは活性化ヘルパーT細胞と出会う必要がないので、反応は早い。5量体のIgMを分泌

〈抗体の働き=最後は自然免疫がしめくくる〉

(1)中和
細菌が作る毒素や、細菌が死んで壊れたときに漏れ出る毒素、ウイルスに抗体が結合
→細胞に取り込まれなくなる
→抗体+毒素の結合体を食細胞が食べておしまい
例)破傷風菌の毒素、ヘビ毒

(2)オプソニン化
抗体が抗原にくっつく
→抗体のY字の根本(Fc領域)に、食細胞のFc受容体が結合
→食細胞が激しく食べる

〈キラーT細胞による細胞感染対応〉

・抗体は細胞の中に入れないので、細胞感染したウイルスや細菌(クラミジア、リケッチア)に無力
→細菌ごと破壊すればいい

・全身の細胞が持つMHCクラスI分子には、普段は自己由来ペプチドが乗っている
・感染していると、病原体由来ペプチドも乗る
→これを目印に破壊する

樹状細胞はMHCクラスI、II両方に食べた病原体のペプチドを提示できる(クロスプレゼンテーション)
→ナイーブキラーT細胞(CD8+、細胞傷害性T細胞=CTL)が結合
→活性化キラーT細胞に(活性化ヘルパーT細胞のサイトカインも必要な場合がある)
→増殖
※一部は記憶キラーT細胞になる
→感染細胞のパターン認識受容体が寄生細菌等を認識すると、サイトカイン放出
 特にインターフェロンにより全身がウイルスに対して臨戦態勢に
 (1)細胞内でのウイルス複製を妨げる分子の発現
 (2)細胞表面へのMHC分子の発現促進
→ケモカインに誘導されて活性化キラーT細胞が感染部位へ
→二つの方法で感染細胞を破壊
 (1)特殊なタンパク質で相手細胞に穴を空け、酵素を投入。アポトーシスを誘導する
 (2)相手細胞が出しているアポトーシススイッチを押す
→アポトーシスを起こした細胞を食細胞が処理して終了

〈MHCクラスIを出させない病原体への対応→ナチュラルキラー細胞〉

(1)病原体感染をTLRなどが感知、あるいは病原体タンパク質合成のために細胞にストレスがかかるなどして、細胞表面にCD80/86やNKG2Dリガンドなどが出ている
 かつ
(2)病原体が邪魔をして、MHCクラスI分子が細胞表面に出ていない

このとき、NK細胞(自然免疫細胞)が細胞を破壊

〈補足:ヘルパーT細胞には3種類〉

(1)活性化ヘルパー1型T細胞=細胞による「細胞性免疫」。ウイルスや細胞内寄生細菌に対応?
・末梢でマクロファージを活性化
・抗原特異的にB細胞を活性化、IgGを放出させる→食細胞による貪食を誘導
・ナイーブキラーT細胞の活性化を助ける

(2)活性化ヘルパー2型T細胞=抗体がかかわる「液性免疫」。寄生虫に対応?
・抗原特異的にB細胞を活性化、IgGを放出させる
・抗原特異的にB細胞を活性化、IgEを放出させる
→IgEはマスト細胞の表面に結合
→マスト細胞が活性化
→細胞内のヒスタミン、ロイコトリエンなどを一気に放出
→蠕動運動の昂進、血管透過性を高めて粘液を増量
→寄生虫排除。これが目や鼻の粘膜で誤作動すると花粉症になるとされる
・好酸球(炎症物質の顆粒を細胞内に持っている)を活性化する
→寄生虫に結合したIgEを目印にして寄生虫に取り付き、活性化すると顆粒内物質を放出

(3)活性化ヘルパー17型T細胞=細胞外細菌や真菌に対応?
・末梢組織に行ってサイトカイン放出、ケモカイン発現により好中球を集める
・サイトカインにより腸管上皮細胞が抗菌ペプチドを放出

※2型、17型への分化の仕組みはまだよく分かっていない
※1型、2型、17型の役割にはオーバーラップがある。バランスも今後の課題

〈抗原認識受容体の多様性ができる仕組み〉

(疑問1)なぜ遺伝子は2万個しかないのに1000億種類の受容体ができるのか?
→抗体の各領域から遺伝子断片を選んで新しい遺伝子を作る「遺伝子再構成」が起きている

(疑問2)その1000億の中に、なぜ自己に反応するものがほとんどないのか?
▽T細胞の場合
→T細胞は、胸腺上皮細胞に提示されたMHC+自己ペプチドとお見合いをする
→その結果
 (1)強く結合する→アポトーシスのスイッチが入って死ぬ(自己に反応してしまうから)
 (2)適度に結合する→生き残る(MHC+抗原ペプチドに結合できそうだから)
 (3)全く結合しない→アポトーシスのスイッチが入って死ぬ(本番で役に立たなそうだから)
・ここまで、T細胞にはCD4も8も両方出ている
・お見合いで、MHCクラスI+自己ペプチドに適度に結合したT細胞はCD8が残る→キラーに
・お見合いで、MHCクラスII+自己ペプチドに適度に結合したT細胞はCD4が残る→ヘルパーに

▽B細胞の場合
・骨髄で成熟
・周囲の細胞や、体液中の分子などを自己抗原と考えて、いろいろお見合いをしてみる
→強く結合したらアポトーシスのスイッチが入って死ぬ
→それ以外は生き残る
※親和性成熟の際には、突然変異を起こしてぴったりくっつくものだけが生き残るが、ここでのプロセスはその逆

こうしたプロセスを経ても全員とお見合いできるわけではないため、自己反応性の免疫細胞は約10%存在していると見られている

〈誤作動を防ぐ/免疫反応を終わらせる〉

・アナジー
活性化していない樹状細胞に自己反応性のナイーブT細胞がくっつくと「アナジー」になる
=死んではいないが活性化しない。大半はそのまま死ぬ
病原体がいない平常時には、コツコツと自己反応性細胞を取り除いている

・制御性T細胞=CD4+細胞の約10%
活性化した樹状細胞が提示するMHCクラスII+自己ペプチドに張り付いて、自己反応性ナイーブT細胞が樹状細胞に結合できなくしてしまう
←胸腺で自己抗原に強く結合するT細胞の一部が生き残って制御性T細胞になるらしい

・制御性T細胞は免疫応答の抑制もする
表面のCTLA4分子が、活性化樹状細胞の表面にあるCD80/86に結合し、抑制シグナルを送る
→樹状細胞表面の補助刺激分子の発現が減る
→自己反応性でないナイーブT細胞の活性化が抑えられる
さらに、IL2と強く結合する受容体を持っており、これもT細胞活性化を阻む

・B細胞の制御機構はよく分かっていないが、自己反応性のB細胞を活性化するべき活性化ヘルパーT細胞がいなければ活性化は起きないということだろう

・免疫反応を終わらせる仕組み
ナイーブT細胞が活性化すると、アポトーシス誘導スイッチ(Fas)が表面に出る
→免疫反応の暴走時、あるいは収束の局面で活性化T細胞同士でFasスイッチを押し合う

〈免疫記憶〉

・抗原の2度目の侵入に対しては、反応が「速く」「パワフルに」なる
・ただ、プロセスの解明は難しい。理由は「記憶細胞」の数が少なくて実験しにくいから

・記憶細胞の定義:一度、抗原を経験し、そのあと抗原がない状況を生き延びている細胞
・どうも、記憶B細胞、記憶キラーT細胞、記憶ヘルパーT細胞というのはいるらしい
・活性化し増殖したB細胞、T細胞の一部が記憶細胞になる
→エフェクター細胞(働く細胞)は反応が終わると死ぬが、記憶細胞は生き続ける
→次に抗原が入ってきたとき、記憶細胞が活性化される
→エフェクター細胞になったり、そのままエフェクター機能を発揮する
※これ以上詳しいことはよく分からない
※T細胞には、エフェクター記憶T細胞(2度目にすぐに働く)とセントラル記憶T細胞(2度目にすぐ働かないが、増殖能力が高く、エフェクター細胞を生み出す)がいるらしい

〈腸管免疫〉

・腸管には体の免疫細胞の50%がいる
・腸管免疫では、単に異物=排除、ではなく、無害な異物は無視している

・小腸では、食物と一緒に流れてきた細菌やウイルスを粘膜上皮のM細胞がつかまえ、下にいる樹状細胞に渡す
→樹状細胞はパイエル板のナイーブヘルパーT細胞に抗原提示
→抗原特異的に活性化ヘルパーT細胞が誕生
→ナイーブB細胞も抗原を食べて少し活性化、活性化ヘルパーT細胞によって完全に活性化
→クラススイッチ、親和性成熟を経てプラズマ細胞前駆細胞に分化
※ただしここで、IgMから「IgA」へのクラススイッチが起きる点が全身免疫と違う
→前駆細胞は全身の血流に乗って、また腸管に帰ってきてプラズマ細胞になる
→IgAを腸内にむけて放出
→IgAの中和作用で病原体の機能を停止させ、そのまま体外へ排出(食細胞を呼ばない)
※腸の表面の粘液層にIgAが溶け込み、中へ入り込もうとする病原体をトラップするイメージ

・経口免疫寛容=食べたもののタンパク質には免疫反応が起きない
※仕組みは不明。腸管に多い制御性T細胞や腸内細菌が関与か

・好中球の集積や、抗菌ペプチドの分泌を促進させる活性化17型ヘルパーT細胞(腸管免疫のアクセル)への分化にかかわる「セグメント細菌」というのが腸にいるらしい
・ナイーブヘルパーT細胞から制御性T細胞(腸管免疫のブレーキ)への分化に、クロストリジア属の第46株という細菌がかかわっているらしい
※ブレーキ、アクセルともに腸内細菌が関与か

〈自然炎症〉

・TLRなどのパターン認識分子は、自己成分(内在性リガンド)の一部も認識することが分かってきた
・マクロファージや好中球などは、内在性リガンドでも炎症を起こす→「自然炎症」
・内在性リガンドは、ネクローシス(細胞の破裂)で出てくる大量のDNAやRNAなど
・大量ネクローシスの原因は、外傷、薬物、放射線など
・食細胞が損傷部を除去し、修復専門細胞が集積。自然炎症の目的は、組織修復の促進か
・自然炎症は痛風(内在性リガンドは尿酸結晶→IL1β放出→炎症→痛い!!)、アルツハイマー(Aβ繊維)、動脈硬化(コレステロール結晶)、糖尿病(ヒト膵アミロイド繊維)の原因にも?
・炎症を抑えるほうに働く調整役の「2型マクロファージ」というのもいるらしい

〈がんと自己免疫疾患〉

・がんを攻撃する:キラーT細胞、ナチュラルキラー細胞
・がんペプチドワクチン:治療ワクチン。がん細胞だけがMHCクラスI分子とともに提示するペプチドを狙う
・一部の抗がん剤はがん組織のネクローシスを引き起こしており、これががんを標的とした自然炎症につながっているのではないかとの見方も
・ペプチドワクチンがあまり効かない:がんももともと自己細胞のため、制御性T細胞が先に樹状細胞にくっついてしまい、活性化を抑えている?
・がん細胞のPD1L:活性化T細胞のPD1に結合して活性化を抑制、さらにPD1Lに抗アポトーシスシグナルが入ってしまう
・がんの出すサイトカインが、活性化ヘルパーT細胞を1型(ナイーブキラーT細胞を活性化させる)ではなく2型に誘導してしまう
・がんの出すサイトカインが、2型マクロファージを呼び寄せて炎症を抑えてしまう上、がんの血管新生を助けてしまう
・抗体療法:がん細胞表面の、増殖に関係する受容体に抗体をくっつけて機能喪失させる。さらに食細胞による貪食も誘起するらしい

・自己免疫疾患:制御性T細胞の機能不全、自己ペプチドに似た病原体由来ペプチドによる自己反応性アナジーT細胞の再活性化、親和性成熟の過程でできた自己反応性B細胞がきちんと死なない、自己反応性T細胞がきちんとアポトーシスしない、など

2015年06月19日

論理哲学論考

■ヴィトゲンシュタイン, L.(丘沢静也訳)『論理哲学論考』光文社,2014年.
■野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房,2006年.

骨組みだけでできた驚くべき建築。そんなもの見せられても「なんかすごい、けどわからん」と当惑する。ラッセルも困っただろう、現に出版に際して間違った解説を寄せてしまった。まして弊管理人には無理。というわけで野家さん(訳本に「出前講義」が収録されている)に助けを借りたが、なおもやもやしたので野矢さん(『読む』は大学院のゼミをもとに作った本らしい)にも当たり、付箋を貼ったり絵を描いたりしながら読んだ。ぼやーっとした何かを掴んだつもり、くらいになった。

世界は現実にそうなっている事実から成り立っている。各々の事実の布置である。
現実にはそうなっていないが、可能な事態も、それを構成する対象の布置である。
現実にそうなっている世界と、可能な事態を含んだ全体が、論理空間である。
論理空間の外枠が、思考の限界である。

論理空間を操作可能にするための道具が、言語である。
つまり、論理空間を言葉に写し取ったものが言語である。
そこには名からなる単純な要素命題があり、それが組み合わさって複合命題を作っている。
もととなる命題と、一定のルール(論理)に従った操作によってできている。
そうした言語の全体の外にあるのが、語り得ないものである。それは論理と倫理である。
語り得ないものである論理は、しかし言語を成立させる条件である。

やっているのは、何もない空間に純粋な言語のモデルを構築するようなことではない(何もない空間には積み木を積むべき地面がない)。イメージだけでいうと、慣れ親しんだ風景画像の解像度をとことん上げてみる、そんな営みなのだと思う。普段から使っている日常言語の全体を要素のレベルまで分析して、語り得るものと、語り得ないものの境界を画定させるような作業。ちなみに、境界を画定するルールは世界に含まれない。画定しているわたしも世界に含まれない。

そうしてみると、語り得るものってどうにもつまらなくないか。「1+2=3」は発見的な記述では全くなくて、最初からそうなってる世界をただ言葉にして見せるだけの静的な営為にすぎない。(だから科学の知識をダシにした会話は「こうなんだよ」「へー」で済んでしまって、なかなか花が咲かないのだ……)
推測だが、ウィトゲンシュタインは一通り世界の成り立ちが分かった段階で「つまんね」と思い、語り得ないが豊穣な倫理と論理のほうへ旅立っていったのではないか。
そして旅から戻って書いたのが『哲学探究』のようだ。野矢本の最後にさわりが書いてあった。たぶん、若書きの『論考』は純粋すぎたのだ。時間が経って「現実」から出発してはどうかと思うようになった。大人になったのかもしれない。もうちょっとしたら読んでみよう。(『探究』は高いからw)

2015年05月16日

わたしは

■鹿島茂他編著『シャルリ・エブド事件を考える』白水社,2015年.

1月にフランスで起きたシャルリ・エブド事件について、3月に出版されたこの冊子を寝床で数ページずつ読みながらからぐねぐね考えているうちに、5月になって米国でもパロディみたいな事件が起きました。
整理できてませんが、こういう時はクエスチョンを自分で立てて自分で答えるのがいいのかもしれない。
ということで、以下は弊管理人が考えたこと、バージョン1.0です。一応、思ったことに理由も付けるよう努めました。2、3の原則を膨らませているだけですが。
練習問題は絶えず世界から与えられているので、今後も考える叩き台にしようかなと思ってます。

* * *

―今般の出版社襲撃は許容されるか?

「成員を殺したり傷つけたりしちゃだめ(刑罰は除く)」というルールを共有している集団の中で起きたことなので当然許容されない。襲撃犯をとっつかまえて処罰する、という作業が国家に求められるだけの話。

―道義的に許容されるかどうかって話は?

テロの口実に使っただけなら、真意がどこにあるか分からないので道義的な面でどうかという検討ができない。ので、問題はルールに照らしてどうかという面だけから考えることになるんじゃないか。
その結果は上で言ったように「許容されない」。

―背景にはフランスのマイノリティが置かれた状況が……

マクロな状況は個別のケースの説明に使っちゃだめじゃない?どれくらいの影響を与えたかとか言えないでしょう。当の本人の生い立ちがひどいとかの情状があるなら、それを酌めばいいと思う。
ただ、個別のケースに触発されて何らかの社会問題の存在に思いを馳せるのはありだと思うけど。

―今回の話についての判断はそれで終わり、つうことかしら。

終わりじゃないかな。

―じゃあ仮にの話。犯人が本当に気分を害していたとしてそれは考慮されるべきか。もっというと「嫌なこと言われたら暴力ふるっていい」という考えはアリか。

それはナシ。一般に、言論に対して暴力で応じると言論が多様にならない。多様にならないといいアイディアが出てくる機会が少なくなる。(多様さを抑えてもハッピーが増すようなルールがあるとかなら要再検討だけど)
今回はありえないが、経済的な制裁とかの別の圧力もだめだと思う。相手がものを言うための力を殺ぐ点では変わらないから。

―嫌な思いをした人はどう抵抗すればよかった?

抵抗するなら「言論には言論」というのがルール、ということでさしあたりいいと思う。
「黙殺」という手もあるが、それが有効なのは嫌な思いをした側のほうが強い場合。あるいは言ってる側がごく少数で、言われてるほうが多数の場合。
ただちょっと余計なお世話だが、黙殺が有効でも、黙殺してるうちに相手がのさばって自分の立場を危うくする可能性があるので、誰も何も言わなければ自分で言ったほうがいいこともある。

―すごく大切にしている価値を言論でくさされた場合でも言論で抗議しなきゃだめなのかね。

言論の多様性という根本的な価値に照らすとやっぱりだめで、「あんたの言ってることは合理的でない/道徳的でない/美しくない(つまらない)」のいずれかを言うってもんなんでしょう。

―フランス人から日本人が出っ歯のサルとして描かれたとしても?

同じで、フランスの歴史や文化や国民をくさす下品な絵を返すか、オリエンタリズムがうんぬんとか言ってみるか、「凡庸ですね」と言ってみるとか、まあそんな。
ただ、日本人がどう描かれるかという話を離れるけど、英国の王族の名前を動物園のサルにつけてみた騒動というのがあったときに思ったのは、相手がどういうコンテクストでそういう表現をしたかは考える必要があるということ。理由は、単純に自分の価値体系だけを参照して判断を下していると、自分の価値体系がもっと原理的な水準で間違っていた場合に、その発見が遅れるから。
たとえば、表現の害を判断する原理には(1)表現した側に他者を貶める意思がある(2)表現された側が貶められたと感じる(3)一般的に通用する価値観に照らしてダメ―という3つがあって、(2)or(3)だけで十分とする厳格な姿勢と、(1)+[(2)or(3)]を必要とする緩めな姿勢があるとする。
表現した側のコンテクストを探ってみたら、表現した側の文化では許容される表現だったとか、悪意に当たらない表現であったとかならば、望ましくはないが「放っておく」という選択肢が浮上するかもしれない。悪意がないなら、継続的に表現された側を害する可能性は低まるから。
そんな忖度ゲームに乗る気はない、というのも一つの立場だが、その立場が支配する世界に生きていると、自分の側のうっかりも一発アウトになるので危なっかしい(自分のわがままだけが通るという世界は最初から想定してない、念のため)。人間をどういうものと考えるかで意見は分かれるが、賢い人だけの世界に生きているのでなければ、「相手のコンテクストも考える」はルールに入れておいたほうがいい。
悪意がないものを放置しているとハラスメント(表現する側に悪意がなかった”としても”成立する嫌がらせ)が改善されないという問題も生じうるので、(2)or(3)だけでアウトにする厳しい姿勢をもって「悪意がないのは分かるが嫌だ」と発信するという考え方もある。特に習慣化されている場合は害が継続する可能性が高いから。しかしちょっと後でも触れるけど、表現規制には慎重になる必要がある。「嫌だ」と思っている側が正しいとは限らないからというのがその理由。

―暴力その他の圧力で喋れなくするのは明らかにダメだとしても、がーっと何か言われて反論する気がそがれることだってあるんじゃない?それも多様性を損なうと思うけど。

あるでしょうね。「言われたら言い返せる鼻っ柱の強い個人になれ」というのは、かなり高い要求だと思う。
でもそれを理由にして何か言う自由を制限できるかなあ。できない気がする。
そういうアリーナに入場しない、というのはうまい手なんですよ。弊管理人もそういうふうに生きたい。けど、ニッチで息を潜めていても、息をしている限りは何かの拍子に見つかって矢を射かけられることはあるからね。
傾向として、声を出さない人の領域はどんどん声を出す人に侵されていくので、嫌であってもアリーナに出て行って頑張ったり備えたりする必要はあるんだろう。「頑張るべき」というのは弊管理人の好みには反するが、その好みは今のところ正当化できない。
自分で戦うのが無理なら鼻っ柱の強い代弁者に依頼するという手はあるが、資力(あるいは広い意味でのリソース)がなくて難しい場合もある。頼んでないのに勝手に代弁してくれる人も現れそうだが、そういうチャンスに頼るのはいかにも不安。
うまい解決法が思いつかない。

―結局、言論の内容に制約はないということ?

言論の自由を制限すると言論の多様さを損なうので原則としてはしないほうがいい。
でも、直接的で重大な影響を相手に及ぼすものはダメ、でいいと思う。
理由は、そういう侵害を相互に認めていると言論の自由というルールを支えている共同性が荒れてくるから。
ただし、制限は必要最小限であるべき。
それ以上細かい判断はケースバイケースになるしかない気がする。

―共同体の構成員以外は侵害していいのか?

いいも悪いもなく、やりたいならやれば?暴力で仕返しされるかもだけど、という話。
こちら側にも暴力を用意した上でやらないと危なっかしいなとは思うけど。
ただその人たちは、本当に共同体の外にいるのか、共同体に入り得ないのかはちゃんとチェックしたほうがいい。

―風刺画って方法はどうなの。いろんな国で問題になったけど。

風刺画も韜晦な小説もそうだけど、制作者がどんな思いを込めようが、読み取りにくい表現をすると、間違って読み取られる可能性が高くなる。それで読み取れないほうがバカ、という了解が通用する範囲はそう広くないと思う。
シャルリ・エブドの場合はそういうメディアを使った時点で、普遍性のあるメッセージを出そうというつもりはないなと思われるだろう。文化を超えて遠くに届く批評を目指すには、メディアの選択が変だった。分からせたいなら分かるように言うべき。コミュニケーションは発する側と受け取る側が両方で作るものだから。
でもそういう質の問題は「直接的で重大な影響」を及ぼすといえるか。いえないと思う。であれば規制の理由にはならない。
真面目で平明な評論ならよくて、挑発的で分かりにくい風刺はだめ、といいたいのではない。ただ聞く耳を持たれやすいものとそうでないものがある、という脇筋の話。

―制約の可否は誰が判断するの?

ルールを共有する「みんな」かな。全員にアンケートをしてもいいし、代表が話し合ってもいいけど、とにかく「みんな」の意思だとできるだけ多くの人が認められる何かの手続きを踏むこと。
そのとき、なんか言う側と言われる側の声の大きさ(なんか言われた場合の対抗手段)にバランスが取れているかを考慮すべきだろう。社会的な立場とか、拡散できる力とかがすごく不均衡な間柄で、強い側が弱い側に攻撃的なことを言う場合は、反論も同じくらいの力でできることが確保されているとの条件下でやる。
理由は、言論の多様さを担保するとともに、「直接的で重大な影響」があった場合に被害回復の機会を確保するため。「反論してるけど誰にも届かない」じゃ反論してないのと同じだし、「直接的で重大な影響」が弱い側に及んでるときに周りが気づけないのではまずい。
この理由でいくと、弱い側が強い側にいろいろ言うことは、ほとんど制限する理由がないことになる。しかし、「わたしは弱者」と名乗る側が本当は弱者ではなかった場合、不当に相手の言論を制限することになってしまうことには注意が必要。「誰が強いか/誰が弱いか」は当事者が決めるより「みんな」で決めるほうがマシかもしれない。
「誰が決めるか」の問題に戻ると、王様が一人でとか、世襲・学識で選ばれた「代表者」たちが決めるのは望ましくない。多くの人にそれなりの判断ができるための教育と、それなりの情報収集の手段が揃った世の中であればだが、「みんな」で話し合って決めたほうが少数の均質な背景を持った人達が気付かない点に気付く可能性が上がるし、納得もいく。

―それだと普通は多数決で決まるんだろうけど、「それでもやだ」と思っている少数の人がかわいそうじゃない?「誰かが『やだ』と言うものは、とにかく制限する」じゃだめ?

基本だめだろう。認めると言論の多様性が大きく損なわれる危険があるから。ある発言を封じるために「やだ」と言うようなことだって可能になってしまう。
ただ頭ごなしに「だめ」じゃなくて、その人が受けてるのは本当に「直接的で重大な影響」かどうか、吟味してみたほうがいい。もしその過程で「みんな」が間違ってる可能性が出てきたら、もう一回みんなで検討する。とっくり話し合ってみたけど、どうも基本的な立場が違うことが見えてきたら、しょうがないが「みんな」を優先させてもらう。
でも「みんな」側が不誠実な話し合いをする可能性もある。話の内容ではなく、話し合いの不誠実さを問題にして話し合う機会も作っておくとよい。
その話し合いについての話し合いが不誠実だったらこれも問題にして話し合ってもいいが、実務的にはその辺からルール設計で手を打つにもきりがなくなってくるので、反対者が地道に賛同者を集めて話し合いのルールを変更する運動を起こす方向にいくことになるかもしれない。
以上は、やはりルールを共有してる人達の間のこと。ルールの外にいる人とはやっぱり闘争になる。

―あなたはシャルリ?

それ、どういう意味?

2015年05月05日

夜と霧と法事

■フランクル, V.E.(池田香代子訳)『夜と霧 新版』みすず書房, 2002年.

ナチス強制収容所を体験した精神科医・心理学者の回想。著者はフロイトとアドラーの弟子なんだそうです。へーへー。

世紀転換期から20世紀中盤くらいまでの著作には「個人の心のダイナミズム」への関心が色濃く出ているものが特に多いのかなと思っています。外界と、インターフェイスとしての感覚器官と心に生じる像とかいったメカニカルな心の理論は昔からあったけれども、無意識の発見によって心はブラックボックスの度合いを深めたように見えます。その最大最悪のフィールドが収容所であり、その経験の読解に戦後のヨーロッパはほぼ全ての知力を費やしたのではないでしょうか。今なら経済合理性とか集団の行動パターンに力点を置いた分析がいっぱい出そうかなと思ったりして。

『夜と霧』は初版が1947年、この新版は1977年に出ています。初版を読んでいないので間違っているかも知れませんが、お仕事柄なのか、時間のせいなのか、ストレスマネジメントとしてそうなってしまったのか(多分これだと思うけど)、ルポルタージュというよりは、どこか体験を突き放した記述との印象を受けました。
しかしそれだけに、学校、職場、通勤電車を現代にも存在する「小さなアウシュヴィッツ」のように思い出しながら読むことが許されるように思えます。野蛮な消費行動だと非難されても、なお少し許されながら。

「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ」(p.71)

東北を津波が襲ったあとに現地入りしたテレビ局のクルーがキャッキャ騒いでいたことがサイバースペースで批難されているのを見ましたが、たぶん弊管理人が行ったとしても、ものすごくテンション上げていっぱい意味のないことを周囲と喋りあったと思いますね。(→と書きながらそういえば、と日記を探ったら2011年3月14日にやっぱりそんなことを書いていた)

…凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。 「人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」 これは、こう言い換えられるだろう。 「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。(p.122)
…生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。(p.129)
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。(p.134)

対照的に、のんべんだらりと過ぎていく日常という檻のない牢獄は、目的の喪失による離脱というフェイズを発生させない。

この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。(pp.144-145)

こうした区分に『イェルサレムのアイヒマン』(1963)が付けた大きな疑問符を、著者はどう受け取ったのでしょう。個性(フランクル)/環境(アレント)の区分もまたはっきりできなそうですが。

* * *

母と祖父の13回忌のため、ちょっと帰省していました。
無意味なお経、無意味な長時間の正座、無意味なばかりか事実関係がおかしい法話。
もうこういうの、いいんじゃないの。程度の差はあれ、たぶん一同そう思ったと思う。
「死んだらおしまい」と言っている父は毎日仏壇にご飯をあげている、そんな追想、追想じゃないな、同居の継続。そのほうが全然実質的なんだけど。

2015年04月29日

現代政治理論(4終)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

(3)の続き。
うひー、やっと終わった。でもすごい勉強になった。
おめーは30代も終盤になってまだ入門書を読んどるのかという考えもありましょうが、時々散らかってたものを整理する機会がいるんです、独りで本を読んでいるとね。

このところ、歳のせいか20代の時と違って「そうはいっても世界は進歩してる(少しずつだが以前の失敗を取り込んでる)っぽい」と思うようになり、しかし「どの問題を見ても一度は以前に考えられたことがあるっぽい」とも依然として思っています。そうすると、進展中の事態について何か考えないといけない時にとりあえず立つべきスタート地点と、そこに刻まれた失敗と修正の概要をいっぱい知っておくことが大切になる。専門性を持たない弊管理人はそんなわけで時々こういう本を読みたいと思います。

あとメモ作りながら読むってやっぱり有益。本にもよるけど。

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第10章 環境と政治
〈政治課題としての環境問題〉
・R.カーソン『沈黙の春』(1962)→アメリカの農薬規制のきっかけに。利便性・効率性追求の危険を周知
・D.メドウズら『成長の限界』(1972)→経済発展には終わりがあることを指摘。資源管理という地球規模課題が浮上
・自然環境の道具的理解:人間にとって望ましい状態を維持するものとしての、生態系の浄化機能の重要性=人間中心主義
・J.ドライゼク:人間の生命維持基盤としての「環境」=エコロジー
・A.ネス:人間の利害に関係なく、自然が有する内在的価値がある=ディープ・エコロジー(1989)
 ただし、そういう価値を見出すのも、あくまで人間だが……
・環境問題と公平・正義
 (1)環境変化の悪影響は弱者のもとで特に顕在化する
 (2)将来世代にツケが回る
 (3)自然の尊重をどう法的・政治的に具体化するか。自然をどう人間が代弁するか
・リベラル・デモクラシーとの兼ね合い:選択の自由と利益の最大化。コモンズの悲劇。国家による資源管理と環境保護は自由に抵触

〈緑の政治〉
・1960年代:開発に伴う環境破壊、産業由来の環境汚染=「環境問題」→各国で環境担当官庁の創設
・1970年代:都市への人口集中、生活に伴う汚染=「生活型公害」→加害者、被害者の切り分けが困難に
・1972:スウェーデン提唱で初の国際会合→越境汚染の問題=「地球環境問題」へ
・1987:国連ブルントラン委員会報告『われら共通の未来』の「持続可能な発展」→「成長の限界」からの転換
・1992:国連地球サミット『アジェンダ21』
  環境問題に取り組む資金捻出のため、経済成長を促す
  先進国の責任、予防原則の重要性、国際条約の成立に道筋
・ラディカル環境主義者:既存の政治経済システムはエコロジー的価値と正義の実現に寄与していない
  特にドイツ「緑の党」は脱原発を含む政策転換に成功。市場不信と個人の自己決定重視(左翼リバタリアン) 
・1970年代西欧の脱・物質主義的価値観(R.イングルハート)→エコ、反核、平和、第三世界との連帯:R.ダルトン「新しい政治」
  近代批判、官僚制化批判。しかし自由、平等、デモクラシーにはコミット→リベラル・デモクラシーとの新たな関係
・エコロジー的近代化:1980年代前半、ドイツから。経済と環境の相互補強。その基盤としての技術革新
  ただし政府、企業、市民の協調が必要なため、コーポラティズムの国で成功する傾向か
  副作用としての、ラディカル集団の穏健化、現実主義。途上国へのしわ寄せを見えにくくする?
・環境と経済の両立:世界を席巻したアイディアだが、単に産業社会に「緑の化粧」をしただけでは?

〈エコロジーの政治構想〉
・A.ドブソン『緑の政治思想』:ディープ・エコロジー政治思想。道具主義・改良主義は「表層的」と批判
 →環境問題の根本解決につながる「エコロジズム」の提唱
  経済的インセンティブではなくエコロジー的な動機付けに基づく市民として振る舞うこと
 ←でも、個人の陶冶だけでいいのか?
・環境問題は複雑。領域横断的な討議が必要=「エコロジー的合理性」(ドライゼク)
・討議デモクラシーへの期待。将来世代の声や自然の代弁を討議に組み込んでいく可能性

第11章 国境をこえる政治の理論
〈境界線の動揺と政治学〉
・自律的で時速的な意思決定の最高単位:古典古代はポリス、近代以後は主権国家、フランス革命以降は国民国家
・ウェストファリア・システム:国内政治と国際政治の厳密な区分け

〈ウェストファリア的秩序〉
・ウェストファリア条約(1648):
  領域国家:領域内では暴力を独占。国際政治では正統な主体となる
  宗教対立を争点としない
・国内=集権的、紛争解決の手続きがある、分業と相互依存がある
・国際=分権的、上位権力がない、対立の最終形態は戦争、階層性や分業関係はない
  →国際関係はいつも、潜在的な紛争状態にある
・H.ブル:国際政治の伝統3類型
  (1)ホッブズ的(現実主義的):潜在的戦争状態。秩序はあったとしても脆い
  (2)カント的(コスモポリタン的):国家だけでなく個人、社会的主体の協調も存在。人類的共同体に向かう
  (3)グロティウス的(国際主義的):ルールに則った紛争(外交、国際法、勢力均衡)。主体はあくまで国家
 これらはいつも併存してきたとする。
・ブルは(3)を支持。ただしそれでうまくいくのは激しい対立がない場合か
  →19世紀以降、福祉国家・ナショナリズムによる国家的動員→国内矛盾の解決を対外関係に転嫁
  →国家間の妥協が困難になった(E.H.カー)
・ナショナリズムの高揚で、国内で制御されている人間の支配欲が対外的に拡張主義として噴出(H.J.モーゲンソー)
  →米ソの「一国中心的普遍主義」同士の対立→激化。ホッブズ的状態に近くなる

〈国際政治の分権制をどう克服するか〉
・第1次対戦:動員装置としてのナショナリズム→総力戦、秘密外交→戦後の国際政治学成立につながる
・国家、戦争の暴力性をどう克服するか
  (1)国際法や国際機構の強化による、国家主権への制約
  (2)軍縮を通じた物理的制約
  (3)外交政策の民主的統制
  (4)自由貿易を通じた各国の相互依存深化(経済的リベラリズム、N.エンジェル)
・D.ミトラニーの「機能主義」(1933)。国家が持つ主権を多様な機能の束と見る
  機能ごとに専門の国際行政機構を設けて、国家の機能を少しずつそこに移す
  →こうすれば世界政府を作る必要はない
・「新機能主義」:地域的な機構に多様な権限を委譲する。初めは経済から、そして政治へ
  →各国エリートも地域機構への忠誠心を持ち始めるだろう
・自由貿易、機能主義、新機能主義は、国家権力の制約を志向する点で広義のリベラリズム
  ←でも、現実には国家は協調枠組みを破壊するくらいの力を手放さないだろう(現実主義からの懐疑)
  *米ソ対立は現実主義に説得力を与えた
  *ただ、先進資本主義国の関係はリベラリズム的状況に近い

〈グローバル化〉
・冷戦と南北問題で分裂の様相が支配的だった国際社会の中でも、1960年代末~70年代にかけて「地球的な問題群」があるとの認識が広がった→「宇宙船地球号」の流行。地球環境問題、第三世界の貧困、南北間の経済格差、開発、人権、国連人間環境会議(1972、ストックホルム)
・背景:大量生産・大量消費の経済成長がもたらす環境負荷、通信衛星などによる国際的コミュニケーションの拡大、「成長の限界」、宇宙空間から撮影した地球の映像→地球は有限な共同空間
・国際政治学の視座の転換:
  (1)国境横断的関係:国際政治の主体は国家だけではない
   多国籍企業、研究者の国際組織、国際的な業界団体、宗教組織の国境を越えた活動に注目
  (2)国家間の相互依存:国家間の相互依存進展による軍事力の有効性の相対的低下
・1970年代末以降のグローバル化の原動力=市場、金融自由化で開放された力。ネオリベ的グローバル化
  →小さな国家。国家の空洞化とデモクラシーの空洞化
・ワシントン・コンセンサス=自由貿易、資本市場の自由化、変動相場制、利子率の市場による決定、市場での規制緩和、民営化、緊縮財政、税制の累進制緩和、所有権と知財の絶対的保護。小さな政府のイデオロギーは依然としてエリートに支持されている

〈国境を越えるデモクラシーの理論〉
・ウェストファリア・システムから考える:
  (1)国内政治のデモクラシー
  (2)国際関係の民主化
・しかし「国際関係の民主化」の意味するところは?NGOや新しい社会運動が国際政治過程に参画すること?
・国内政治のデモクラシー(代表制デモクラシー)は国際関係の民主化の基礎になるのか?
・D.ヘルドの「コスモポリタンなデモクラシー」。現在の国内/国際デモクラシーには5つの乖離
  (1)法。個人の権利や義務に関する問題が国家を媒介せずに問われるようになった
  (2)政治体。世銀やIMF、EUが国家を拘束する意思決定をしている
  (3)安全保障。現実には覇権国家に各国が依存・従属している
  (4)アイデンティティ。グローバル化したメディアが先進資本主義国の文化的支配をもたらした
  (5)経済。市場に対する各国の管理能力が損なわれた
 →権力構造が国、地域、国際関係全般、に分散しているが、デモクラシーは国ごとにしかない
 なんのためのデモクラシー?→市民個々人の自律性向上
  (1)権力の恣意的な行使からの保護(古典的リベラリズム)
  (2)市民による意思決定への参加
  (3)意思決定に参加するための能力を確保できる環境整備
  (4)個人による資源入手の可能性を最大化
 →地理的、機能的に多層的な民主的コントロールが必要
 どうやる?
 →国、地域、国際の各レベルで、多層的なパブリック・ローの制定と執行
 →紛争解決の法も整備されていくはず
 *ただし、ヘルドはそれにむけて関係者をどう動員するかまでは触れていない
・個人は多様な「運命共同体」に委ねられている←国境の内側の共同体だけではない

〈新しい世界をつくる社会運動と政治理論〉
・2008年金融危機、それにもかかわらず温存されたネオリベ的イデオロギーや力の構造
・イラク戦争や対テロ戦争における国際社会の亀裂の深まり
→対抗するアンチ/カウンター/オルタナティブ・グローバリズム、NGO、トランスナショナルな/グローバルな市民社会
→対人地雷、国際刑事裁判所、クラスター爆弾禁止などの実績
・平等な市民の間の連帯を志向、「社会フォーラム」
・分配的正義:ロールズ『正義論』の発展→国際社会への敷衍(ベイツ、T.ポッゲら)
 議論は多様。ただし大きく分けて二つの立場
  (1)グロティウス的:国内/国際の区別を保持しつつ、貧困などの対策を各国に委ねる(現実はこちら)
  (2)カント的:貧困対策の責任・義務が国境を越えて成立すると考える(一貫性はこちら)
・人道的介入、正義の戦争:コソボ、アフガン内戦、ルワンダ、コンゴ
  介入と主権に関する国際委員会「保護する責任」論:国内政府が責任を果たさない場合に、国際社会が代行
  →人道支援から武力介入まで、2003イラク戦争はこれを採用せず。ただし2011NATOのリビア介入はこれ
  *ただし先進国による「人道帝国主義」に転化する危険を認識せよ

2015年04月26日

現代政治理論(3)

(2)の続き。
実は読んでるのはもう最終の第11章ですが、ノート化が追いつかなくて。
それにしても、とてもうまく構成されたこの本をもってしても、弊管理人は「共和制」と「公共性」の概念とその重要性がいまいちぴんと来ません。

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第8章 フェミニズムと政治理論

〈政治において「人間」とは誰のことか〉
・人権や政治の主体でなかった女性→O.グージュ『女性および女性市民の権利宣言』(1791)=「人権宣言」(1789)の女性版=で平等理念の訴え
・女性の権利否定の根拠
 (1)妊娠・出産等の肉体的性差=母性の強調
 (2)女性は政治活動に向かない=特性論
 (3)女性は家庭を守るべき=役割分業論

〈フェミニズムの展開〉
・第1波(19世紀後半~20世紀前半):女性が男性と同等の法的地位を持つこと。参政権と財産権。
 公/私の区別に立った「公的世界」での、地位・資格という「形式」の平等
 特性論と役割分業論に切り込めていなかった
・第2波(1960年代~):社会的・経済的女性差別の問題化
 B.フリーダン『新しい女性の創造』=定型化された女性像、女性への期待役割による心理的抑圧
 重要概念:「家父長制」「ジェンダー」
・家父長制(=patriarchy. 文化人類学のpatriarchalismとは別の概念)
 男性が女性を支配・抑圧する社会構造
 「個人的なことは政治的である」=★公/私の二分論に対する根本的挑戦
 (1)ラディカル・フェミニズム(K.ミレットら)=家庭(私)の抑圧構造が社会(公)的差別の根源
 →「本能」「個人のこと」「不運」から「権力関係」への読み直し
 (2)マルクス主義フェミニズム(M.D.コスタ、C.V.ヴェールホーフら)
 →家事・育児という「再生産」活動の無償労働化と労働市場での不平等を問題化。家父長制と資本主義の共犯関係
・ジェンダー=社会的・文化的な性別。「育ち」が作る性→つまり変更可能である!
 論点(1)性差のどこまでが生物学的に決まるか←上野「決着つかない」
 論点(2)「社会的・文化的な性差がある」ということをどう展開させていくか
   方向(a)男から押しつけられたアイデンティティに対抗するアイデンティティを主張する。本質主義
   =C.ギリガン『もうひとつの声』。抽象的な正しさより具体的な状況での配慮=独自の倫理観「ケアの倫理」
   方向(b)「女性の特徴」があるという発想の否定。構築主義。「一枚岩ではない」
   ←しかし、これが敷衍されるとマイノリティや社会的弱者が「集合的主体」を立ち上げることができなくならないか?

〈政治理論への寄与〉
(1)資本主義の「外部」を発見した。伝統的家族が担ってきた「再生産」というインフラに光が当たった
(2)私的領域というミクロな権力を主題化し、社会分析に応用した。公/私の区分を揺るがせた。
→以下の3点に留意
(a)用語をずらした
  従来の社会科学:公的=政治/私的=市場・市民社会
  フェミニズム:公的=政治・市場・市民社会/私的=家族
(b)私的領域も権力から自由でない
(c)公/私の区分を否定しているのではない。何が公的イシューになるのかに関して、再考を迫っている
・新しく定義された(市場ではない)私的領域=「親密圏」
 プライバシーの単位は家族ではなく、個人
 「家族」も婚姻家族だけではない。事実婚、同性愛……
 伝統的に家族が担ってきた育児・介護などをどう社会が担っていくか。役割分担の再考
 DV=「家族」内で放置されてきた暴力。公共圏と親密圏には違うルールが適用されるべきか?
・正義論へのインパクト
 (1)ケアの倫理→「関係性」を考えに入れる形での再編
 (2)公/私の線引き批判→リベラルな正義論の持つ中立性・普遍性批判
・「男並み」か「女性の特殊性」か、という2択から「多様性」(J.バトラー)へ


第9章 公共性と市民社会
〈「公共性」publicnessとは何か〉
限定しようという方向性:ネオリベ。自己責任。ゲーテッドコミュニテイ
強化しようという方向性:愛国心。ナショナリズム。治安向上のための「公共心」。反・市場原理主義
・公共性=国家か?開放されたものと見るか?

〈公的/私的〉
・アリストテレスの「政治的共同体」「ポリス的動物」。公=平等な自由人の領域。その反対はオイコス=経済、家族の領域
・でも、市場って公共的じゃないの?
  A.スミス:分業を通じた協力と依存のネットワークは公共性を阻害しない。国家はそれを教育や公共財の分配で補完すればよい
  J.=J.ルソー:市場は不平等のもと。公共性は市場を廃した自給自足的な小共和国でこそ実現される
  →G.W.F.ヘーゲルによる止揚:私益と公益をつなぐ「中間団体」=代表制&政党政治
    ただしマルクスにとって国家は支配のための装置

〈アレントとハーバーマス〉
アレント:ポリスとオイコスの区別は維持。私的―社会的―公的、に領域を分ける
 その上で公共的領域は、共通の関心事についての「活動」=言葉を通じた相互行為=の場とする
 公的領域は私的、社会的領域とは切断されている
 →市場や国家に公共性を見る議論に対する根本的な批判に
ハーバーマス『公共性の構造転換』:公共圏とは、われわれの社会生活の一領域で、公共的な意見が形成される
 市民的公共性=平等な「私的個人」の間に成立する関係。家族(親密圏)と市場。私を公につなぐ契機を与える
   ←制度的には、市民的公共性は選挙による議会制として現れる。非公式には、メディアやコーヒーハウスでの世論形成

〈政治的公共圏と討議デモクラシー〉
ハーバーマス『事実性と妥当性』
・討議を通じて作られた法規範は国家の強制力行使を制約/正統化する
  背景(1)特定の宗教、哲学によって(トップダウン的に)世界を意味づけることがもうできない=ポスト形而上学
  背景(2)高度に複雑化した現代=産業社会
 こうした討議が行われる開かれた空間=公共圏。さまざまな人と制度を貫通するコミュニケーション
 →公共的意見=世論の形成。このプロセスが「討議デモクラシー」と呼ばれる
・討議デモクラシーは、「言語によるコミュニケーションで形成される」点で経済や行政のシステムと違い、「最初から統合された共同体を要求しない」点で共和主義とも違う
・2つのやり方
  (1)制度化された公式な討議=立法議会での議論など
  (2)非公式な「政治的公共圏」での討議→議決を行うなどの制約がない→新しい問題(DVなど)の発掘→(1)に持ち込まれることも
・公共性を国家や民族に独占させない

〈現代の市民社会論〉
・1980-90年代の東欧民主化:党や国家の支配から自由な団体=教会、自主管理労働組合、自発的な市民組織=による
・西側でのケインズ型福祉国家の問題(肥大した官僚制国家と市場経済の剥き出しの力、という2つの問題)に、代表制デモクラシーがうまく対処できなかった
 →新しい政治の担い手:環境保護、平和、人権など金銭的利益に結びつかない社会運動、途上国や紛争地域支援の団体
・M.リーデル:市民社会=政治性、権力性を持たない私人間の関係としての社会
・M.ウォルツァー:市民社会=国家(強制力)とも市場(利益)とも区別される中間団体が構成するネットワーク
・第3の領域、としての市民社会。国家や企業に異議申し立てする「対抗性」と、NGO―政府協力などに見られる「補完性」の微妙なバランス

2015年04月19日

現代政治理論(2)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

前に書いた第1章~第4章の続き。
かなりいい教科書の予感……!!

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第5章 平等
〈『正義論』とアメリカのリベラリズム〉
・L.ハーツ「自然的リベラリズム」。欧州と違い、世俗権力と教会の結びつきや、身分制秩序、強力な社会主義勢力が不在→一般市民の政治権力からの自由という、古典的リベラリズムの自然な共有
・19世紀後半からの産業化→格差、不平等をどう考えるか?
(1)保守主義=正当。結果つまり現状の倫理的追認。政府の介入を認めない。
(2)★リベラリズム=政治による社会改革を求める。福祉国家的政策。イギリスの「ニューリベラリズム」との共通性。独占禁止、移民の社会統合、都市環境の改善。ニューディール政策。L.ジョンソンの「偉大な社会」計画、奴隷解放。
→~1960年代、リベラリズムの絶頂→そして批判(経済効率性を損ない福祉依存を招く、国家や社会の統一性を損なう)→80年代以降、影響力の減退

・J.ロールズ『正義論』の登場(1971)。リベラリズムの基本原理の探究。ヨーロッパ式平等論=功利主義に対する評価
・「社会的基本財」(人間の価値実現に必要な財)=権利や自由、機会や権力、富や所得、自尊心。その適切な配分について
(1)正義の第1原理=平等な自由原理。ある人の基本的自由(最低限の市民的・政治的自由。選挙権、公職に就く権利、適正な刑事手続きを要求する権利、言論・集会の自由、私有財産権)の制約は、他者の基本的自由を擁護する場合にのみ可能である
→リベラルな社会形成のための最低限の条件
(2)正義の第2原理=社会・経済的資源配分。どういう時に不平等が許されるか
  (2-1)資源の獲得に有利な地位、職業に就く可能性が全員に開かれている(公正な機会均等原理)
  (2-2)不平等が、社会内の最も恵まれない人に最大限利益になる(格差原理)
→結果の平等論志向
・上の原理を導く道筋。原初状態において無知のヴェールをかぶせ、原理を選択させれば、各人はマキシミンルールを採用するであろう

〈『正義論』への批判〉
(1)リバタリアニズムからの批判
・R.ノージックの「最小国家論」=ロールズの福祉国家批判。ロックらが想定した「自然状態」で、人は権利侵害に対抗する私的段階「保護協会」を形成する。その後、保護協会間の紛争を通じて「支配的保護協会」が誕生する。協会に加入しない独立人(潜在的な挑戦者)が残るが、彼らにも権利保護サービスを無料提供して取り込む。→警察・国防と賠償機能を独占する「最小国家」の完成。
・「権原理論」。権原=資源保有の正当性。(1)誰にも保有されていないものを占有する「獲得」(2)同意の上で譲渡される「移転」(3)不正な取引の被害者に本来の財産を返す「匡正」。ロールズの拡張国家が行う再分配は、いずれにもあてはまらない不当なものだと批判する
*ただし、個人の自由な意思を尊重する点ではロールズと共通

(2)コミュニタリアニズムからの批判
・M.サンデル、M.ウォルツァー、A.マッキンタイア、C.テイラーら。ロールズの「原初状態」は共同体に埋め込まれた自我の在り方と反するし、原初状態における道徳的判断は独善になる危険がある
・サンデル:リベラリズムは、その改革主義的な政治に不可欠な政治権力や国家の所在を正当化できない。★政治的連帯の可能性も追求できない

〈ドゥオーキンと資源主義〉
・R.ドゥオーキン=平等論の課題を2つに整理
(1)資源主義=社会内における重要な資源配分の平等性に限定する
(2)福利主義=資源を使って実現する「望ましい状態」(福利)の平等
・ドゥオーキンとロールズは資源主義。資源主義は、例えば障害者への資源の傾斜配分が正当化できないという問題点がある。しかし、福利主義には、例えば贅沢をしたい人の欲求充足を、質素な生活で満足する人に優先させてしまうという問題点がある
・資源主義は、生じた不平等にどう対処をするか?
(1)当人の選択の結果として生じる不平等は自己責任。ただし「保険に入る」というオプションを用意する
(2)当人の選択によらない不平等(身体的障害など)は公的に救済する

〈福利主義の展開〉
・A.セン。貧困が蔓延する途上国では、医療体制や栄養、教育の不足により、資源配分を平等にされてもそれを活かせない→与えられた資源を活かす能力(ケイパビリティ)の平等、選択可能な生き方の多様性が必要→福利の平等を保障すべき
・ただし、この平等は「生物的・社会的生存における最低限のライン」に限定されるべき(贅沢したい人の欲求充足が優先されてしまうという問題を再燃させないため)←「何の平等か?」と考える(ある問題に最もよく合った平等論を選択する)ことの重要性
*最低限の保障までは福利主義、その先の冒険は資源主義で、といった棲み分けが可能?
*いまそこにある不平等に焦点を絞ることで実現した、平等論の再興→W.キムリッカの少数派先住民族に関する平等論などへと展開


第6章 デモクラシー
〈デモクラシー論の展開〉
・「多数の人が集まって一つの結論を出す」デモクラシー論の軸
(1)意見の複数性という出発点と、一元性というゴールのどちらを重視するか
(2)代表制は可能か不可能か
*両者は理論的には別ものだが、複数制と代表制、一元性と直接性を結びつける人が結構いた
・ヘロドトスの3類型(支配者の数による):君主制、寡頭制=貴族政、デモクラシー。
・プラトンの警戒心「無知な大衆による非合理な政治」。アリストテレスの懸念「社会の多数である貧民の利害だけが突出するのではないか」
  ・多数への授権→衆愚政治→アナーキー状態→僭主政、という最悪の政体に行き着くという経験則(例:ナチス)
  ・J.マディソンはデモクラシー<共和制を主張。アメリカ連邦憲法では大統領制(デモクラシー)をとりつつ、司法審査制度などストッパー的制度も併設
・ルソー→T.ジェファーソンらの直接デモクラシー論へ接続
・A.トクヴィルのアメリカ診断:デモクラシーは多数派の専制を招くと思っていたが、アメリカを見るとそうでもない。自発的に多数の結社ができて意見を述べている。意見表明の多元性が確保できればリベラルなデモクラシーは可能ではないか?
・事実としては19世紀を通じて選挙権が拡大→デモクラシーは実現へ。産業化で大量発生した労働者の多数意見を無視できなくなっていった

〈大衆デモクラシーの成立〉
・G.ウォーラスの警告「非合理な判断を政治に持ち込むだけ」……だが、それを自覚できれば機能するはず
・W.リップマンの悲観「人は先入観=他人の意見=ステレオタイプを通してものを見る」……しょうがない。プロに任せろ
・A.シュンペーターの割り切り「普通の人が政策を決められると思うな。政策を決める人を決めるのが投票である」=デモクラシーとエリート主義は両立可能
・C.シュミット、ナチスの経験→デモクラシーと議会は停止させてはダメ

〈現代デモクラシーの諸相〉
・アメリカのデモクラシーは代表制を前提
・アメリカ型(競争型):R.ダールの多元主義。自発的結社たちによる不断の競争(「選挙の時だけ競争」だったシュンペーターを拡張)。デモクラシー<リベラリズム、の上で両者の統合を図る
・ヨーロッパ型(調整型):A.レイプハルトの多極共存型デモクラシー。P.シュミッターらの「ネオ・コーポラティズム」。北欧などでの長期連合政権、利益団体と政府とのネゴを通じた安定
・1960~70年代「政治の季節」が過ぎて……政治参加の低下。リベラリズムで調整するほどの水圧がなくなっちゃった。利害の複雑化で、代表制により人々の意見を反映できなくなった?直接制を求めている?
・多数者の専制:少数意見の排除=女性、非西洋……→W.コノリー「アゴーンのデモクラシー」による再定義。他者と接し、自分が変容することにデモクラシーの目的がある→ラディカル・デモクラシー

〈討議デモクラシーとラディカル・デモクラシー〉
・討議デモクラシー=討議を通じた合意形成を重視
  (1)一般市民による討議。人の話を聞いて自己反省する=選好の変容がありうるような討議
  (2)ルールを守った理性的な討議(これには「理性的」という枠づけの権力性を見る批判もある)
  (3)代表制を否定しない、討議を通じた意見の深化によって代表制を補完する
・ラディカル・デモクラシー=意見対立の表出を重視する
  (1)古典的な直接デモクラシーに近い。下からの権力創出(S.ウォーリン)(代表制も否定しない)
  (2)抵抗=既存の支配権力に対する「異議申し立て」
・2本立てのデモクラシー。多元的・直接的なデモクラシーは市民社会の非公式な次元で受け持ち、公式の政治的決定では代表制を尊重する。そこで討議と決定の関係をどう考えるか

〈ネーションとデモクラシー〉
・同質的なネーションによる統治機構=ネーションステート(国民国家)という前提。その上に実現する主権は国内外ともに絶対的
→近年、この同質性の擬制性が際立ってきた。マイノリティ、差異の重視
・デモクラシー=全員による決定。しかしその「全員」とは誰のことか?


第7章 ネーションとエスニシティ
〈ネーションとナショナリズム〉
・ネーションの2つの意味
 (1)言語・宗教・文化・エスニシティなどを共有する同質的な集団←こっちが古い。中世大学で使われた「同郷者natio」
 (2)国家(state)が管轄する人々の全体←フランス革命から(1)と合流。主権者=人民の均質性
・ナショナリズム=(1)(2)を一致させようという運動。ただしネーション間の差異が「優劣」に読み替えられる現象も→排他、差別
・同質性としてのネーションの功:連帯、再分配の根拠。罪:内部の差異の否定、選択的な歴史の忘却、伝統の発明、動員の根拠
・J.G.フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』:同質性としてのネーション。ただし言語と文化の共通性に根拠を見たもので、血と土(ナチ)とは別物と見ておいてあげたい
・E.ルナン『国民とは何か』:ネーションに自然的・実体的基礎はない。個々人の自由意思で「一つでありたい」という選択が日々なされている。明るく自由なネーションのイメージ。共和国フランス(ただし実態は結構違う。入退会が自由だったこともない)
*フィヒテとルナンの違いは、国民国家をまだ実現していなかったドイツと、既に実現していたフランスの違いを反映か
・E.ゲルナー:ナショナリズムの経済的起源。工業やサービス業の勃興→新技術を理解するための読み書きの必要性→学校、標準語、統一した歴史観→帰属意識
*でもなぜ、産業化が一応収束した段階でもネーションの観念は残り、強化さえされているのか?
・A.スミス:ネーションはゲルナーほど人為的ではない。ネーション成立の「タネ」となる同質性がそれ以前にあったはず
・B.アンダーソン:ネーションの観念の成立における、印刷媒体の役割。ルターのドイツ語聖書+活版印刷技術→「ドイツ民族」の創出

〈多文化主義〉
・政治の主役「われわれ」とは誰か?どんな範囲か?
・多文化主義=国民国家内に存在する複数のエスニックグループに対する平等な政治的処遇を求める運動。1971年カナダの多文化主義採用、1980年代アメリカでの教育カリキュラム修正……
・多元主義批判としての多文化主義:少数派エスニックグループはいくら多元主義の下で自由競争しても多数になれることはない。永続的な抑圧状態を何ともできない
 →それぞれのアイデンティティが承認されるかどうか。承認をめぐる政治
・承認をめぐる政治が出てくる要因
 (1)身分制秩序の崩壊→アイデンティティは選び取るものに
 (2)選び取ったアイデンティティの承認を社会に対して自分から積極的に求める必要
・承認に向けた2つのアプローチ
 (1)普遍主義の政治:全市民に対する諸権利の平等。奴隷解放から公民権運動までのアメリカなど
  公的な場における同化政策/私的な場における固有文化の尊重
 (2)差異の政治:独自性を保障するような処遇
  エスニックグループの存続と独自性維持の権利=キムリッカの「集団別権利」。自治権や文化権、議会に枠を確保する特別代表権など
*ただし個人はエスニシティだけでなく、ジェンダー、年齢、障害といった諸アイデンティティを重層的に持っていて、これが衝突する可能性も
*アイデンティティ闘争の場は国家だけでない。言語の覇権をめぐる国際競争など

2015年04月18日

ぎょうざやさんなど

柏にカブリIPMUの講演会聞きにいったら希望者多くて入れなかった。クソめ滅びろ。

という気分になったところでテイクアウト専門の「ぎょうざやさん」で餃子10個350円、チャーハン小盛り450円を注文。
「お待たせしましたー」と袋を渡されて受け取る。

   ずしり。

なんか嫌な予感がしながら2時間かけて帰宅しました。
どっかの公園で食べようと思ったのですが、公園というものがなくてね。
開披、チャーハン小盛り。
150418gyozayasan.jpg
餃子はわりと普通。どちらも味は普通(冷めたせいか)。
話の種だな。

* * *

今日、たぶん一年のうちで一番いい気候です。

* * *

今週前半、ちょっと必要があり、ものすごく急いで本を3冊読んだ。

■伊賀忍者研究会編『忍者の教科書 新萬川集海』笠間書院,2014年.
■伊賀忍者研究会編『忍者の教科書2 新萬川集海』笠間書院, 2015年.
■傳田光洋『皮膚感覚と人間のこころ』新潮社,2013年.

* * *

徒歩での移動中は、相変わらず放送大学を聞いてます。
まだ始まったばかりですが、新しい授業では「貧困と社会」「ロシアの政治と外交」が面白いですね。

* * *

前々から行ってみたいと思っていた銀座のLAZYでパングラタンを食いました。とってもうまかった。
あと、ポルチーニ茸とフォアグラのリゾットで昇天。
いろいろ食って、ワイン2本空けて3人で18000円。場所考えると全然悪くないんじゃないかな。
仕事の懇談だったので写真は撮れず。近いうちに今度は友達連れて再訪したい!!

* * *

前々回の日記に出てきた友人は肺転移したがんについて「治らない。薬でコントロールするしかない」と言われたそう。
ちょうどパーティの日で、ホストとして盛り上げていた彼は、すみっこにいた弊管理人のところに来てそれを伝え、一瞬泣き、騒々しい中へ戻っていった。結局その一瞬ではどんな言葉も発せられなかった。別れ際にした握手を介して、その時の感情がいくばくか伝わっていたらと願うけれども……

2015年04月05日

現代政治理論(1)

■川崎修,杉田敦編『現代政治理論[新版]』有斐閣,2012年.

【2017年7月追記:続きはこちらにあります→(2)(3)(4終)

中古で購入。まだ5章を読んでる途中ですが、いろんなことが書いてありすぎて覚えらんない、メモとりながらじゃないとだめだーと思ったので、とりあえず1~4章分。

* * *

第1章 政治
・政治=国家や自治体という公権力の領域→「社会全般に見いだせるもの」へ(20世紀の政治学)
・R.ダール★「control, influence, power, authorityをかなりの程度含む人間関係の持続的なパターン」=2人いればそこに政治。日常的な「政治」の用法とも合致

・政治を特徴づける要素(1)権力とは?→仮置き「自分以外の行為者に、もともと意図していなかった行為をさせる能力」。社会における★対立の不可避性が権力を要請する
  =政治における「正解」のなさ
  =「変えられる」ということでもある
・政治を特徴づける要素(2)公共性とは?→「ある集団の構成員に共通に関係する秩序のあり方に関わる事柄」。意識されているとは限らない。こちらにも「公正さ」をめぐる対立の可能性
  H.アレント『人間の条件』:ポリスにおける多様な個人の相互行為。私的行為の調整ではない

・対立の不可避性:C.シュミット「友と敵」→C.ムフ「アゴーンの多元主義」=「われわれ」内の多様性が暴力を生まないためのルールの要請
・対立によって政治は顕在化する。決着すると再び隠れる


第2章 権力
・J.K.ガルブレイス:権力の分類:威嚇型(強制)、報償型(取引)、説得型(選好の変容)
・H.ラスウェル:権力の資源:富、知識、技能、尊敬、愛情、徳……
  J.ナイ「ソフトパワー」=他者の選好を形成する能力
  ただし、相手がそれを資源と認識しないと効力を発揮しない。★権力は「関係」

・権力に関する2つの見方(1)非対称的権力観、ゼロサム的権力観=意思の押しつけ(M.ウェーバー)
  ←抵抗の契機になりうるが、無力感を誘発する危険も
・権力に関する2つの見方(2)共同的権力観、非ゼロサム的権力観=説得による対立の解消
  (2-1)権力=集団の目標達成のため個人の義務遂行確保(T.パーソンズ『政治と社会構造』)
     (例:貨幣を成立させる力、警察への信用に基づいた協力)
  (2-2)権力=成員の自発的協力(アレント、社会契約説における国家の創出)
  ←成員の当事者意識を促すが、現状肯定に陥る危険も
*J.ハーバーマスの整理:非ゼロサムは創出や機能の説明、ゼロサムは行使や維持の説明

・正統性legitimacy=支配の「正しさ」
  ウェーバー「正統性の信仰」=服従者の内面からの支持。合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配。★被支配者が正しいと思ってくれることが必要→ダールに承継

・権力はどうすると見えるようになるか?:S.ルークスの整理
  1次元的権力観=誰の意見が通ったか(行動論的政治学)
  2次元的権力観=誰の意見が通ったか+あるトピックの争点化を阻んだのは誰か
  3次元的権力観=さらに、対立や対立の認識を説得により消滅させたのは誰か
・3次元的権力観になると、「当事者による対立の自覚」に注目していても権力は見えない
  →「客観的」に利害対立を判定する必要
  =「主意主義的権力観」から「構造としての権力」観へ
・構造としての権力:マルクス主義、M.フーコーの「規律権力」=自主性を通じた集団の統制。権力を行使する「誰か」はもういない。制度、知識、技術、既成事実が問題になる。国家だけでなく、社会にも主体化する権力の装置は存在する。では、自由はどこに?

・権力と自由:論点の素描
  (1)ゼロサム的権力観では「権力」と「自由」は対立関係
   非ゼロサム的権力観では「自由」の発現の結果、「権力」が現れる
  (2)人間は自由な主体か、構造に規定されているのか
  (3)権力分析→★秩序が変更可能であることを明らかにする
  (4)構造としての権力には「責任者」がいない。見出そうと無理をすると擬制を作り出してしまう


第3章 リベラリズムの展開
・リベラリズムはいろんな人が作り上げ、変容してきた歴史的構築物
・でも一応共通の特徴:個人の自由や自律性尊重する個人主義、絶対的権威や権力の拒絶

〈源流〉
・J.ロック。生命・自由・財産についての自然権を所有。侵害は自然法=神の法で禁止。市民の原初的合意で作られた政府、その役割は自然権の保護。信仰にも立ち入ってはいけない
・A.スミス。国家の役割は、分業と経済的自由がもたらした豊かな商業社会を外国の侵略、擾乱、無知な民衆から守ること=国防、司法、初等教育と公共事業。人民の利害は人民に調整させよ(見えざる手。そのほうがうまくいく)
・J.ベンサム。自然法や自然権はナンセンス、虚構。代わりに経験的原理=「功利の原理」。個人の幸福最大化の原理を社会に外挿→「最大多数の最大幸福」=多数者の同意。ただしスミスのように自動調節機構に任せてはいけない。みんなが賢いわけではないから。そこで法と刑罰で統制する→公益のための必要悪としての国家

〈ベンサム以降:人格の成長〉
・J.S.ミル=ベンサムの修正。幸福は量的増大とともに、能力と個性の発展という質的面も追求されるべき→多様性の許容、他者危害防止の原則。脅威は国家だけでなく、★抑圧的な多数派も→労働者階級の知的、道徳的な陶冶を通じて「自由」と「デモクラシー」の両立を図る
・T.H.グリーン。人格の成長という共通善(アリストテレス)は独りでできることではない。社会の成員たちの相互協力。国家はそれを保証するべきで、飲酒制限などの道徳的介入も容認する。理想主義的リベラリズム。

〈イギリスの長期不況:国家による放任から介入、集産主義へ〉
・H.スペンサー。社会有機体説→自然の流れに国家が介入してはならない→徹底した個人主義と放任(→現代アメリカのリバタリアニズムの思想的基礎の一つへ)
・スペンサー以後(1)フェビアン主義。貧富の分化は有機体としての社会の存在を脅かす→社会的連帯。土地や生産手段の国有化。ただし革命ではなく議会エリートによる政治を通じた改革。社会の効率的管理。ナショナルミニマム。ベンサムの方向性の一つの極限→社会主義、社会民主主義へ
・スペンサー以後(2)ニューリベラリズム。規律と生活条件の改善を通じた「倫理的調和」。人格発展のためには国家による条件整備が必要→課税と再分配→20世紀のリベラルな福祉国家へ

〈福祉国家と、福祉国家への批判〉
・ニューリベラリズム→J.M.ケインズ。利己的行動が公益につながるとの★根拠はない→「投資の社会化」。国家介入による消費と投資の誘発、完全雇用の実現。社会主義には行かずに自由放任を手放す。管理された資本主義によるリベラリズムの維持(効率化と自由の両立)。ケインズ型福祉国家
・F.A.ハイエクからの批判。全体主義は集産主義の帰結。包括的で単一の価値や完全な倫理規範などないのに、社会とその資源を単一の目的に向けて組織化しようとしており、独裁や生活の統制を招く。そもそも市場や自生的秩序の管理は不可能。★ただし自由放任の礼賛ではなく、秩序維持の方策としての最低限の社会保障は必要だとした→1980年代のサッチャー、レーガン、ネオリベへ


第4章 現代の自由論
〈二つの自由〉
・I.バーリン「積極的自由」「消極的自由」
・消極的自由=干渉の欠如としての自由。他人から妨害や強制をされずに、自分がやりたいことをやれるということ
→価値多元論。個人個人の活動を調整するためのルールは最小限に限定されるべき。ロック、ミル、トクヴィルの立場はこちら
・積極的自由=自己支配としての自由。自分が自分に対してルールを課す権力や権威となること。その資力や能力があること
→価値一元論に支えられた合理主義的教説と結びつくことで、「理性的な自己支配」が理想化される。さらに、それが非理性的と見なされた他人への「理性的な自己支配」の強制に転化する可能性

・E.フロム「~への自由」「~からの自由」。全体主義を象徴するのは「~への自由」だとしても、全体主義を招来するのは、前近代的な紐帯「からの自由」によって生じた孤独や不安ではないか

〈自立と自由〉
・E.カント。人間は自分の定めたルールに従う=自律的。動物は本能や物理法則に従う。
・C.テイラー
  積極的自由=行使概念=実際に使うこと。自律的選択を通じて道徳的な自分を表現する
  消極的自由=機会概念=行使の可能性があれば自由。実際するかどうかは問わない
テイラーが価値を認めるのは行使概念のほう。個人の道徳的な表現ができる=自由、その基礎になるのは共同体の道徳的伝統。逆に個人に恣意的な道徳の表現を許す消極的自由は、共同体を破壊する
→積極的自由vs.消極的自由
→コミュニタリアニズムvs.個人主義
→★道徳的に見て望ましいvs.合理的に見て望ましい

・共和主義的自由(N.マキアヴェリ~)=支配の欠如。他者に隷属していない状態。自治による市民的自由以上のものを志向していないので、消極的自由といえる。ただし、共同で権力を確立・維持するために市民参加は必須。この点は「国家からの自由」を志向するリベラリズムの存立条件にもなりそう。ただし、共和主義は「政治参加」に特権的地位を与える点で、価値多元的なリベラリズムと相容れない。また共和主義は、市民の理想に適合しない人(女性、貧民、少数民族など)を市民として認めない排他性を孕む危険がある

・C.マクファーソン。消極的自由→自由放任は貧困や失業など、自由の実現をかえって阻むような状態を招かないか?
→リベラルな福祉国家、あるいは「国家からの自由&国家による自由」の可能性(健康で文化的な最低限度の生活の保障)
批判(1)しかし、これは国家による財産権の侵害=古典的リベラリズムと対立する方向性ではないか
批判(2)健康な生活という理想は、フーコーの「生命権力」に繋がる?
・制限や禁止をする権力ではなく、方向付ける権力。健康で文化的な方向へ主体化する権力(パノプティコン)←規格化した生の様式から自分自身を引きはがして主体形成を行う、自己固有の「倫理」による対抗=「実存の美学」

2015年03月26日

3月後半のつれづれ

3月後半も休みはなく、あまり内発的動機のない仕事に時間をとられていました。

ある日のランチは新宿・天府舫。
本郷にある栄児とご関係があるようです。
麻婆豆腐のランチは、味玉と餃子が食べ放題なんだそうです。
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栄児と同じ味。
しびれる!!!!!
多分ときどき行ってしまう!!!!

* * *

本は新書2冊でした。
いずれも楽しかったけど、いま体力がないので要約は見送り。

■廣野由美子『批評理論入門』中央公論新社, 2005年.

フランケンシュタインを読みながら、批評の手法をだーーーっと「やってみせる」本。
なんか見取り図としてとてもよくできてると思いました。先日読んだ某・法哲学の本とは逆で。
ポスコロとかフェミとかもまた「こんな切り口ありますよ」というご提案の一つだと思えば、うっかり当たっちゃってもそんなに損した気分にもならないわけで。

■小山慶太『入門 現代物理学』中央公論新社, 2014年.

ヒッグス粒子がとうとう発見された!と騒がれた時に、「真空はとても賑やか」という謎のフレーズが弊管理人の耳を通り過ぎていきました。でもエーテルなんてないんでしょ?と思いつつ気になっていた、その辺の歴史と現在がやっと分かった~

* * *

また京都に行ってきました。今日が本番。
お仕事先とお話しするのはとても楽しかったのだけど、そのあと社内的な処理でまたいつものようにどっぷり疲れた。おいしそう、と思うといろんな人が手をつっこんできて結局ごちゃごちゃする。
京都駅→タクシー→現地→タクシー→京都駅。
タクシーの窓から桜が咲いているように見えた、というくらいの花見度。

* * *

それはそうと今朝、新幹線に乗るために某線で東京駅に向かっていたら、乗った駅で扉にはさまれたかばんの肩掛けひもが東京駅まで取れず(そちら側の扉が結局一度も開かなかった)、しかも東京駅からの折り返しが意外とすぐだったため、ひもをかばんから外して脱出。

ホームの駅員に事情を話して
「出てきたら回収して連絡ほしいんですけど」
「出てきたら回収でいいんですね?」
「出てこなければ回収できないでしょう」
みたいなバカな話をして名前と連絡先を伝えたのだけど、それをメモ帳に書いてる様子を見て直感した。こいつ一応言われたことを書いてるだけで、絶対回収を試みる気ない。クレーマーをいなす感じの振る舞い、弊管理人もよくやるので。

* * *

今日は弊管理人が京都にいってる間に東京で仕事に穴があいたらしく、しかし職場ではそれが弊管理人の持ち場だと思い込んでいたらしく、問い合わせがこちらに来ました。
それ、いつも時間が合うからやってただけで、アサインされた覚えとか全くないんですよね。
ということで謝る必要がないので謝りませんでした。貧乏ってやーね。

* * *

先週末は土曜の仕事が終わった後、うっかり酒を混ぜ呑みしてしまい、夜中の早い時間に死亡。
翌日曜は10時に一ツ橋、13時に霞ヶ関で仕事だったのですが、一ツ橋はすっ飛ばしてしまいました。
ほんとは霞ヶ関もすっ飛ばしそうなくらい悪魔が囁いていたものの、気力で出勤、そして18時ごろ蘇生。
死と再生を経てちょっとリフレッシュしました。そうなんですよ。そういうリフレッシュもあるんですよ。

2015年03月14日

3月のつれづれ

3月に入ってわたわたしているうちに半ばになってしまいました。

このかん、特に重要な仕事をしていたわけではありませんが、内発的な動機に乏しい仕事の準備をとぼとぼとし、あとは都度の頼まれ仕事をびやっとこなし、しかし何人かの人と楽しいおしゃべりをし、今までちょっと偉そうで恐そうだなーと思っていた人と意外に打ち解けることができるなどしていました。
毎年同じな気がするけど、なんとなく3月は落ち着かない。

今日は日帰りで京都出張。
10時半に東京を出て17時半には京都を出るというとんぼ返り(現在は岐阜のあたりを通過中)。
食えたものといえばこの
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お茶味のぶよぶよした甘味。
別にお茶の味の菓子って好きじゃないんですよね。

* * *

月初めに、渋谷に行く用事があって「おまかせ亭」でオムライス食いました。
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なんか女子ばっかだった。
ランチ1200円ですが、サラダとコーヒーとデザート(この日はココアのロールケーキだった)がつくので、結構満足度高いです。オムライスも酸味が強いソースに香草やスパイスでアクセントをつけてあって、おいしくいただきました。

* * *

今年前半はブックガイドとして入門書をいくつか読みましょうねと思ってまして、
馴染みのなかったハート、ドゥオーキン、ウォルツァーとかをざざっと見渡せそうかなということで手に取ったこれ、

■森村進『法哲学講義』筑摩書房,2015年.

いや確かにタイトルは「講義」であって「入門」なんて書いてないんですけど、
 ・その「○○的××主義」「△△論」「□□説」ってつまり何ですか
 ・なんかイメージできないんで例え話してもらえませんか
 ・なんでそんなこと考える必要があるんですか
といった疑問をいろんなところで抱く本でした。

ある程度知識を持ってる人が、先生の話を聞きながら考えを整理する、的な使い方にはいいかも。と思ったのは、正義論やメタ倫理学を扱った後半の章にさしかかるとぐっと頭に入りやすくなったからです。
でも英語の教科書だったら、普通 xxxism is ...といってさくっと一言でこれから扱う主題をまとめてから説明に入るよな。

* * *

職場で「あ、そうだ」と思ってすたたたと小走りで階下に向かったが、階段の踊り場で完全に用事が頭から抜け、どこに向かっていたか、何を「あ、そうだ」と思ったか、そのまま全く思い出せなくなる、という出来事がありました。ちょっと人の名前が出てこないとかではない、やばい感じの抜け方。

* * *

現在の部屋に引っ越して3カ月。間取りは1LD・Kなのに11.7畳のリビングにベッドを入れてワンルーム生活をしていたのを一念発起して改め、洋室にベッドを運び込んで、ようやく普通の家具配置になりました。

5.5畳の洋室にベッドと衣類と電子ピアノを入れたので結構ぎゅうぎゅうです。しかし、洋室は最初から寝室想定で作られているのか、窓の防音がリビングよりいいので静かで、たまたま買った遮光カーテンも優秀なので、ゆっくり寝られます。早くこうすればよかったな。

かわりにリビングがPC机とこたつとコンポだけになったのでがらんとしています。
「生活感はあるんだけど、あまりに必要最低限のものがきっちり配置されすぎていて遊びがない」と友人の評。
そういわれても特に何かで満たす気もありません。

2015年02月17日

珉珉

赤坂某所で夕方の仕事がありまして。
冷たい雨の中、訪ねたのが「珉珉」。
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餃子が有名な老舗です。中はすすけた古い大衆中華料理屋。
五目チャーハンと餃子を頼みました。
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餃子が大変ジューシーでおいしい。
ここのポイントは、酢と胡椒だけのタレ(テーブルで店員さんが作ってくれます)。
これはいいアイディア。別のお店でもやろう。
チャーハンと、お願いすると出してくれるザーサイも合います。おなかいっぱい。
お会計は1290円です。値段は全然大衆的でないな。
増分費用効果比を勘案し、弊管理人は引き続き京都王将の餃子とチャーハンを愛用するであろう。

■上野修『スピノザの世界』講談社,2005年.

オーストラリア往復したけど、ほとんど手がつけられなかったのがこの本。今日は横浜―東京間の行き来があり、電車の中で読み進められるかな~と思っていたら、読み終えられました。

岩波文庫の『エチカ』は去年読んだのですが、誰かに解説してほしいという思いがずっとありました。それで本書を手に取りました。
この本は『エチカ』の入口に当たる『知性改善論』から一緒に走ってくれます。語り口は非常に初心者に気を遣ってくれていますが、それでも歯ごたえがあります。
それで分かったのは、去年読んだ段階では、ほとんど弊管理人には『エチカ』が読めてなかったということ!そしてこの親切な本も咀嚼しきれないまま過ぎてしまった感が強いです!がー!
いずれスピノザとこの本にはまた戻ってくる気がする。

2015年02月11日

歴史とは何か

オーストラリア行は長旅だし、新書2冊くらい読めるかな~、と思って持っていきましたが、読み終わったのはこれのみでした。

■カー, E.H.『歴史とは何か』(清水幾太郎訳)岩波書店, 1962年.

ケンブリッジ大学で行われた講演の記録What is History?(1961)を訳したものです。日本の大学では歴史学の入門授業で文献として指定されるような基本書だったようですが、今でもそうなのかしら。

本は6章に分かれてます。

【1】「歴史的事実」、つまり歴史学の対象とするのに値するような事実というのは、過去に起こったことや古い文書が自発的に構成するようなものではない。歴史家が「これが歴史的事実だ」と判断することによって作り上げるものだ。
それでは、歴史の解釈は歴史家の数だけあってどれも正しい、というか正しいとか正しくないとかいう比較はできない、というような懐疑主義(弊管理人は「相対主義」と呼んだほうがいいような気がする)に陥ってしまう心配が生じるだろう。しかしそうではない。歴史家が「これだ」と思って行う事実の選定も、その解釈も、あくまで仮のものである。実際は事実の選定が解釈に、解釈が事実の選定に影響を及ぼし、妥当性がチェックされながら作業は進んでいく。
つまり「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」だといえる。(これがキーフレーズらしい)

【2】では、この「対話」を行っている「現在」とか「過去」というのは何のことなのか。英雄物語の主人公になるような個人なのか、それとも、集団や集団間の関係といった「時代」なのか。答えは後者である。
大原則として、個人は社会を離れて存在しない。キーパーソンになるような歴史上の人物でさえ、ある重要な事件を起こすには多数の賛同者を必要とする。さらに歴史的事件も、その人(たち)が意図や思想とは無関係の方向に転がって起きた例もある。歴史は英雄物語ではなく、社会の物語である。
もちろん、歴史を読み解く歴史家自身も歴史の中にいる。そのときどきの思想状況など環境にものの見方を規定されている。つまり、歴史という対話は個人vs個人ではなく、社会vs社会として行われていると見るべきだ。

【3】次に、歴史は科学なのかを考えてみたい。
18~19世紀の自然科学は、例外のない普遍的な法則を発見する営みとして見られていた。社会科学でも市場、賃金、人口の法則がそういうものとして発見されていたが、こういう考えはもう古びてしまった。ポアンカレが指摘するように、科学者が作る命題は「仮説」であって、後続の研究によって検証されることを免れない。命題→経験的事実による検証→命題の洗練、という作業はまさに対話であって、これは歴史学の仕事にも当てはまるだろう。しかし、歴史は科学とは違うのだ、という次のような反論もありそうだ。ポイントに分けて一つ一つ検討する。

(1)科学は一般、歴史は特殊を扱う――歴史的事実は確かにどれも1回限り起きたことという意味では特殊だが、それは科学の命題を作る経験的事実も同じで、どの地層、どの物質も同じではない。しかし同時に、やはり歴史も科学と同じように、特殊な対象たちに対して「戦争」「テロ」「国家」といった一般名詞を使う時点で一般化を志向している。

(2)歴史は何の教訓も与えない――上のような一般化は、すなわち事実Aから見出した教訓を事実Bに適用しようという営みである。民族自決を無視するのは危険だ、秘密文書を闇に葬ってしまうのは危険だ、といった原則は筆者の参加した平和会議にも活かされた。個別の事実たちを比較検討することによって、それらをさらに深く理解できるという効能もある。

(3)歴史は予見できない――確かに、出来事はさまざまな要因が複雑に絡み合った末に生じるので、ある国にいつ革命が起きるかを予見することは歴史学にはできない。しかし、こういう条件にある国は、革命が起きる蓋然性が高いという分析をし、その分析に基づいた行動を関係者に促すことはできる。その精度は自然科学と比肩すべきレベルにはないのは事実だが、原理的には同じだ。自然科学の命題も「実験室条件ではそうだ」ということ、あるいはモデルであって、いろんな攪乱要因がある現実の状況におかれた個別の事物が法則通りに振る舞うことを保証するものではない。

(4)歴史は人間が自分自身を観察しているので、どうしても主観的である――確かに、観察者とその観察対象が連続的に相互作用すること、その相互作用がどんどん変化することは、社会科学の著しい特徴と思われる。しかし近年、観察するものとされるものの厳格な区別は自然科学(特に物理学)でもだんだん揺らいできているようにも思える。

また、歴史家が過去の出来事に関して道徳的な判断をすべきかどうかについては、歴史の解釈には常に価値判断が入り込むため、そうした判断に巻き込まれる可能性はあることを知っておくべきだと考える。もちろんその価値判断も環境に規定されているわけだが。

いずれにせよ、「なぜ」と問い続ける態度と根本的な手続きにおいて、歴史は物理と変わるものではない。

【4】上のように、歴史家は「なぜ」と問い続けるものであり、偉大な歴史家や思想家は、新しい「なぜ」を提出するものである。では、「なぜ」に対してどうやって答えたらよいのだろうか。
ある事件が起きた原因を課題とする学生レポートなら、経済、政治、思想、個人的資質から見た原因を複数挙げ、次にそのリストを重要度に従って秩序づけるようなことが求められる。その重み付けは、ある原因が「その事件を起こすのにどれくらい貢献するか」といってもよい。また、他の類似事件も決定づけるような一般性の高さがあるかを考える必要もある。例えば、甲が飲酒運転して煙草を買いに出た乙をはねた事件では、乙がスモーカーであることより甲が飲酒運転したことのほうがより事故の原因として一般性が高いと考えればよい。
クレオパトラの鼻の高さという偶然の要素がアクチウムの戦闘の結果を決めたというような「歴史は偶然の連鎖」説への対処も同じで、そうした偶然は確かに原因を構成するけれども、他でも同様の事件を起こすような一般性=合理性を持った原因としての意味はない些末なものということになる。

【5】歴史は過去と現在の対話だ、と言った。しかしよく考えてみれば、現在というのは過去と未来の界面でしかない。過去の教訓は必然的に、未来への教訓ということを含んでいるのではないか。歴史は「未来」あるいは「進歩」をどう考えたらよいのだろうか。
斥けておくべきなのは、「歴史の目的は歴史の外(神)にある」という神秘主義と、「歴史に目的はない」という冷笑主義、それから「進歩には始まりと終わりがある」という考え方だ。そうではなく、過去の延長上にその都度現れるゴールに向けた不断の前進を進歩と呼びたい。ゴール=絶対者は唯一不変ではなく、もっとダイナミックなものなのだ。現在の自分を規定する環境、事実の取捨選択を可能にしている価値基準を意識すること=未来の視点に立とうとしてみること。未来を過と関係づけ、長いスパンで考えられる(「未来と過去の対話を行える」!)人こそが「より客観的な歴史家」といえるのかもしれない。

【6】略

古い本ですが、社会科学に初めて触れるときに(できれば高校生のうちに)読んでおくべき論点の詰まった、必読の本だったなあと思います。ちゃんと議論を追えたかどうかは分からないけど。

2015年02月02日

種子島仕事終了

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やっとおわた。

でもって、現地を14時半に出て、レンタカーと高速船とバスと飛行機と電車を乗り継いで帰宅できたのが23時半。
もう体力が残っていないので、以下の読み終わった本は要約などせず掲示だけ(あとで追記するかも、しないかも)。でもどっちもいい本でしたよ。

■シーナ・アイエンガー『選択の科学』文藝春秋、2014年。

■池内恵『イスラーム国の衝撃』文藝春秋、2015年。

2015年01月04日

年末年始と戦後70年

30日から2日まで帰省しました。

大晦日は毎年恒例の、本家で伯母さんのお料理。
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毎年ちょっとずつ献立を変えているそうです。確かに確かに。

夏、弊管理人を認識しなくなっていた母方(=本家)の祖母は、名乗ると弊管理人の愛称を呼びました。
そして、元日の朝にお雑煮を食べ、昼に山菜そばを食べて本家を辞する時には、握手を求めてきて、弊管理人は握手をして別れました。認知症状が出る前にはなかったことです。
祖母はよく食べ、声もしっかり出ていて、話しかけると笑い、しばらく大丈夫そうです。
元日は雪が強まって、山奥にいる父方の祖父母には会いに行けませんでした。

2006年の正月に携帯の機種変更という非常につまらない案件をめぐってもめて以来あまり喋らなくなっていた弊管理人と妹は、元日にかけて多少喋りました。
しかし、またつまらないことで喋らなくなりました。
暖房を入れている部屋の戸を弊管理人がちゃんと閉めないとかそういう正しい指摘を受け、「はいはい正しい正しい。その調子で友達百人作ってくれ」と弊管理人が言ったのが最後。
またちゃんと喋るのは数年後かもしれませんが、この兄妹はそういう距離感が合っているようです。

平素独居の父はベッドでiPadをいじり、音楽やyoutubeを鑑賞しながら「そのうち動けなくなって、ここでクソにまみれて死ぬ気がする」と言ったので、「その前に帰ってくるから」と言っておきました。これは結構本気です。が、もうちょっと頑張っておいてほしいとは思います。
「子供の世話にはならない」とずっと言っていた父ですが、そんな考えは老いの中で簡単に霧消するでしょう。

紙焼きの写真を貼り付けた大昔からのアルバムをスキャンするという次回のタスクができました。
はがしてドキュメントスキャナ、というのは可能だろうか?
貼ったままハンディスキャナ、が無難か?
春の連休までに考えようと思います。

* * *

この年越しに読んでいた本が、これ。

■佐藤卓己『増補 八月十五日の神話』筑摩書房、2014年。

連合国に対するポツダム宣言受諾の通達と終戦詔書の日付は1945年8月14日、
玉音放送で国民が知ったのは8月15日、
大本営からの陸海軍に対する停戦命令は8月16日、
降伏文書の調印は9月2日、
サンフランシスコ講和条約が発効して占領が終わったのが1952年4月28日。
8月15日が終戦記念日と定められたのが1963年(5月14日の全国戦没者追悼式実施要項、第2次池田勇人内閣)、
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」は1982年(4月13日閣議決定、鈴木善幸内閣)。

8月15日=終戦記念日、のイコールは意外に意義が乏しく国際的にもほとんど通用していないし、この等式が制度化されたのも結構最近だった。実は戦後10年までは玉音放送の記憶は薄れてかけてさえいたらしい。

でも、読む前の弊管理人を含めて多くの人はいま、8月15日=終戦記念日ということを疑っていない。
「お盆」という畑に蒔かれた玉音の種、丸山真男(8月15日没!ちなみに石原莞爾もらしい)の「8・15革命」論や『世界』誌の8・15特集シリーズ、高校野球、メディアの戦後x年企画、教科書、そして国内政治、それに影響される国際政治。いろんなものを吸い込み、そして生み出した言説によってさらに強化されていく8月15日の神話、その成立の過程が描かれています。
情報量が多くてついていくのがちょっと大変ですが、疑っていなかったものの神話性が暴かれていく読書体験はとてもスリリングでした。

戦後60年の2005年に新書で出された本書を読みそびれていてアマゾンで探していました。しばらく前から絶版になってる……と残念がっていたら年末に増補、文庫化されました。わー超うれしいけどなんで?と思ったら戦後70年だった。
情緒=追悼の日・8月15日と、政治=平和の日・9月2日を分けるべきだ、という著者の提言つきであります。これも含めて、今年の春や夏に向けて考えを走らせるには十分な時期の出版だったと思う。
スクリャービン没後100年は記念であって喪ではないが、戦後70年はいまだ喪中っぽい。

2014年12月16日

新居と暗黒物質

引っ越しから1週間経ちました。まだあまり住み慣れた感じがしません。
本とCDの段ボールがほぼそのまま残っているからか。
文庫を並べられる小さめの軽い本棚を買ってみました。しかし、期待したほど収納できないうちに一杯になってしまいました。これまで大半を押し入れにしまっていたけど、今そこまで収納に余裕があるわけでもないんだよな。

間取りは1LDKですが、結局リビングのキッチン寄りに勉強机、奥にパイプベッドを置いてワンルーム生活を始めてしまいました。部屋にいるときはほとんど机に就いていますし、メシも机で食うので、スペースそんなにいらないんですよね。

考えてみれば先週初めまで住んでいた部屋は14畳(収納別)+キッチンという広さがあったのに、実際生活していたのは6畳のじゅうたんの上でした。
学生時代から1~3年に一度は引っ越しをしていたので、ソファもダイニングテーブルも持ったことがないし、家具も軽いものばかりのモバイル生活です。ここ5年は1カ所にいたけど、引っ越す可能性は今後もあります。引き続き重い家具を持つことはないかも。

* * *

化粧水がそろそろ切れるので買わなきゃ、とドラッグストアで買ったのを忘れて、アマゾンでもう1本買ってしまいました。ドラッグストアで買ったのを通勤かばんの中から発見して「ええええ!」となった。同じものを二つ買ったのは初めて。40代の扉を開けてしまった感じ。いやもっと深刻か。

* * *

■鈴木洋一郎『暗黒物質とは何か』幻冬舎、2013年。

暗黒物質とは何か、を説明している部分はそう多くありません。まあまだ見つかってないしね。
Unidentified Flying Objectと一緒で、なんやようわからんものを仮にそう呼んでいる。
それを見つけるためのXMASSという実験を岐阜県の神岡鉱山跡でやっている人です。
UFOと並べると怪しくなっちゃうけど、こちらはちゃんとした科学実験(たぶん)。

・宇宙の組成
普通の物質=4.9%
暗黒物質=26.8%
暗黒エネルギー=68.3%

・候補物質
(1)MACHO。質量の小さな目に見えない天体。存在はするが、COBEやWMAPで観測された物質のゆらぎが説明できない。量も少なすぎる。
(2)ニュートリノ。確かに大量にあるが、質量が少なすぎる。光速に近い速さで移動しているので、現在あるような物質の濃淡を作れない(すぐに一様に広がってしまう)。
(3)WIMP。質量が大きいが、他の物質とほとんど相互作用しない。現在最も有力なのがこれ。未発見の超対称性粒子のうち、ゲージーノ(光子、Zボソン)、ヒグシーノが候補。

・XMASS
暗黒物質に蹴飛ばされたキセノンの原子核から出たエネルギーが周囲のキセノンが紫外線を出す。それを光電子増倍管でキャッチする。

2014年12月05日

栄児

お茶の水で夕方に仕事があったので、ちょっと歩いて、栄児(ロンアール)家庭料理 本郷店。

汁なし担々麺を頼む。「辛さはどうしますか?」と聞かれたので、普通より一段階辛い「辛口」を頼んでみました。
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 おー

  おおおお!!!!

唇が痺れる。でもうまい!
おまけで餃子がつきましたが、こちらにも唐辛子がたっぷりかかってました。
多分ここ、他のメニューもレベル高い気がする。
お店もきれいです。今度は誰かと来よう。

* * *

■クロフォード, D.(永田恭介訳)『ウイルス』丸善出版, 2014年.

カプシドとエンベロープってどう違うのと同僚から聞かれて、そういえばちゃんと解説してる本を見たことないなと思い手に取ったのですが、あまりちゃんと解説してませんでした。
でも考えてみるとウイルスって不思議すぎる。どこからきたんだ、そしていつからいるんだ。そして多様なウイルス界のどれほどをわれわれは知っているのだろう。そんな興味を喚起する本。

ちなみにこの本、オックスフォード大学出版局のA Very Short Introductionシリーズの邦訳でした。
以前、「一冊でわかる」シリーズとして訳出が進んでいましたが、やめたのかね。

2014年11月15日

本とかいろいろ

■Dodds, K., Geopolitics: A Very Short Introduction (2nd ed.), Oxford: Oxford University Press, 2014.

地政学。領土と資源。ナチによる利用によって汚れたこの言葉は冷戦下のアメリカで復活する。
しかし、あえて歴史学や社会学、あるいは国際政治学とは違った一つの領域として存在する必要があるのだろうか、と読んで疑問は深まったのでした。

■池上英洋『西洋美術史入門〈実践編〉』筑摩書房, 2014年.

もらいものの本。

絵の読み方。
・いつ、どこで、誰が、どのように、何を描いたかを特定する(1次調査)
・1次調査に使った史料を使って、誰が、いくらで、どういう意図で注文したか、作者がどこに所属し、それ以前にどんな絵を描いていたか、当時の評価はどうだったかを調べる
・その当時、その地域では、政治、経済、宗教、疫病などがどんな状況だったか調べる
といった方法を、いくつかの題材を使ってやって見せてくれるのですが、これがもうすごい。面白い。
キリスト教を、西洋史を、絵画の技法を知っていると、その絵の中にいつも「見えて」いるのに「見て」いなかった情報が次から次へと顕現する。

* * *

社内に鰻の専門家がいるのですが、その方が勧めてくれた日本橋「いづもや」で鰻重を食べました。
鰻のうまいまずいはよく分かんないんだけどな、と思っていましたが、うまかった!(そして高かった)
自称「鰻中毒」のお仕事相手と、「鰻すっごい好き」という上司ともに「うまい」と言ってました。
このように仕事絡みだったので写真撮れず。
晴れの日にまた行こう。

* * *

10月から悪かった体調が回復。
甘いもの我慢して、自炊で野菜食べて、よく寝て暖かくしてようねって話でした。

* * *

睡眠についてのレクチャーを聞くことがありました。
・寝酒はダメ(晩酌はよい)
・昼寝は午後早めに10分
・眠くないのに無理して床につかなくてよい
・寝付きがよくなる条件は各人で見つけましょう
というあたりが「へえ」でした。
健康づくりのための睡眠指針2014」よくできてます。ちゃんと根拠となる文献を示しています。

2014年10月23日

札幌出張

札幌に1泊で出張してきました。

魚菜で晩酌。
砂川彗星と、おまかせ5品を頼みます。まずは甘エビと生わかめ。
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ああああぷりっぷり。

もずくと、いか。
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し、しみる……

ポテトサラダ。
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ごまが効いてます。あと刻んだピクルス入ってません?心憎いポテサラ。

炊いたやつ、いろいろ。
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胡椒と食べる牡蠣、うめーなー
ほたてはずずずず、じゅじゅじゅわっと体に沁みる。
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落花生と北海しまえび氏。

最後はほっけスティック。
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じっくり焼いたほっけが、うまくないわけない。
これで3000円いかないんですけど。どういうこと。

キーンと冷えた札幌の空気。在札幌友人たちは「寒いよねー、今日」と言っていましたが、心地よく懐かしい寒さです。これから12月半ばまで、ただ寒いだけの時期が続きますよね。

翌日は昼過ぎに北海道大学で仕事だったので、狸小路の宿と大学の間で牡蠣を食べようと思っていましたが、定休日。ぐぬぬ……

ということでぶらぶら北上していたら、結局大学まで来てしまいました。
北大病院の前にあるロンズキッチンでエスカロップいっときましょう。
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タケノコのピラフにトンカツのっけてデミグラスソースかけてあります。
根室の食べ物ですが、こんなところで食えるとは。

北大はちょうど銀杏並木がきれいでした。
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期待以上に面白かった仕事を終えて、札幌駅まで戻ります。

地元の甘味・洋食師匠に教わった四つ葉ホワイトコージでパフェ食いますよ。
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うがー満足した。帰る!

札幌来たら元気になった。

* * *

■堂嶋大輔、渡邊雄一郎『マンガ 生物学に強くなる』講談社、2014年。

行き帰りの飛行機で読んでました。
これ、とてもいい。というか生物学は絵で勉強しないとだめだろうって思う。
iPS細胞までカバーしていた。えらい。
ゲノム編集やノンコーディングRNA、エピジェネティクスとかのアツイ分野も紹介してほしかった。

* * *

今月は出張があと2回。来月はあんまり行きたくないやつが1回だが、これは回避できないかなー

2014年10月03日

ル・モンド

最近、週末が仕事でつぶれてばかりなので、木曜は休みを取ってしまいました。
昼飯の新小岩「一颯」のラーメンが今ひとつだったので、夕飯はちゃんと食べたい。
しかし、独り。
というわけで、新宿西口のバスターミナル近く、「ル・モンド」。
サーロインステーキの定食(150g, 1260円。ランチはもうちょっと安いらしい)を頼みました。
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うんうん、おいしい。
お皿の上だと食べているうちに冷めてくるので、これ以上の分量はいりません。

* * *

■鷲田清一『哲学の使い方』岩波書店,2014年.

2014年09月27日

非線形科学

■蔵本由紀『同期する世界』集英社,2014年.
■蔵本由紀『非線形科学』集英社, 2007年.
■蔵本由紀『新しい自然学―非線形科学の可能性』岩波書店,2003年.

ばらばらに動き始めたメトロノームが、不安定な台の振動を通して互いに歩調をそろえ、最後にはすべてが同じ動きになるという実験画像があります。一つ一つのリズムが相互作用し、マクロなレベルでのリズムを作り出す、集団同期と呼ばれる現象です。
こうした現象は生物にも無生物にも見られます。心臓の心筋細胞は、音頭を取るペースメーカー細胞の合図を受けて心拍を生みますが、この集団リズムが乱れると不整脈となり、AEDでリセットする必要が出てきます。また、ホタルの集団では個体が全体の光り方を見ながら周期を調整し、全体が一斉に明滅するようになります。同期現象を初めて報告した17世紀オランダの科学者ホイヘンスは、壁に取り付けた二つの振り子時計が必ず同じリズムになることを発見したのでした。

一見なんの関係もない自然現象の背後に、共通性が隠れている。そのことは、著者が1975年に作った式によって数理的に把握することが可能になりました。そのアイディアは、「リズム=周期的に継続する運動」の担い手を円運動する粒子に見立て、それらの相互作用を粒子同士の位置関係として表すというもの。いろいろな現象から本質以外の部分を取り除く「縮約」という作業を通じてモデルが作られました。現実から一歩離れる代わりに、現実を貫く共通性のレベルに視点を持っていけるというものです。

ものを分子に、原子に、そして素粒子に分解し、ミクロの世界を調べて、それを積み上げていけばマクロのことが分かる。そういう発想の科学とは違って、複雑なものを複雑なままに、五感で感じられるマクロなレベルをそのままに把握しようとします。それがマクロの世界を知るための方法だといいます。単語や音節のレベルを調べる言語学と、文章を調べる文学、個人の内面を調べる心理学と、集団の行動を調べる社会学など、調べるもののレベルが違えば適した説明の方法も違うようなものでしょうか。

これらリズムの担い手はいずれも、外部からエネルギーを取り入れ、内部で変換し、それを捨てることで同一性を保つ実体たちです。細胞とか組織とか生物は食って代謝して出しているし、メトロノームもぜんまいにためたエネルギーを取り出し、消費して散逸させています。そうした(生き物でないものを含めて)生き生きした実体が自己組織化を起こし、秩序を立ち上げる。イリヤ・プリゴジンの散逸構造論に着想を得た著者の研究が、力いっぱい平易に書かれています。(それでもかなり歯ごたえがあるんだけど。余談ですが、学生時代に読んだ現代思想の本に一瞬出てきたプリゴジンが何を言っていたのか、ようやく分かりました)

ちょっとした必要があって立て続けに3冊読みましたが、弊管理人的には、まずは『同期する世界』を入り口に、『非線形科学』へカオス、ゆらぎ、ネットワークも含めた見取り図を見に行くのがよいと思います。もっと知りたいと思ったら『新しい自然学』で著者の科学論・マニフェストを聞いてみるという感じか。

2014年09月26日

神学・政治論と、いろいろ

■スピノザ, B.『神学・政治論(上・下)』(吉田量彦訳)光文社, 2014年.

鷲田清一の新しい新書を読んでいたら、フランスのバカロレアの問題の一つに、『神学・政治論』の一節を注解せよというものがあった、と書いてありました。高校生が触れるような本を人生も折り返し近くなって手に取るおぢさんこと弊管理人。かなしい(笑)

人生、いつも思い通りならいいけれども、実際そううまくいくものではない。だから人は不運を恐れ、恐れから迷信にすがる。迷信は宗教というおべべを着せられて君主による統治の道具として利用される。しかしそんな統治は民衆を奴隷化し、誰もが持っている自由を真っ向から否定し、意見の相違を悪と決めつけ、紛争をいたずらに煽るようなものになるのではないのか?
そこで、自由の尊さと、さらに自由を認めても国の平和も道徳も損なわれないこと、そればかりか、自由を踏みにじれば平和も道徳も損なわれることを示そうとする。(序文)

著者はまず、聖書をまっさらな心で読み直すことを通じて、神学から哲学を引き離そうとする。これが前半の神学編ともいえる部分だ。

聖書には預言者による預言がたくさん出てくる。しかし、預言者は知的に優れた人というよりは道徳心が豊かな人であって、隣人愛や正義を語っているだけだ。その中核部分だけが信じるに値するのであって、それ以外の部分は、例えば神や聖霊の姿を老人と表現したり炎と形容したりと随分あやふやで、「神の○○」というのも吟味してみれば程度が甚だしいということの比喩に過ぎなかったりする。つまり預言は、預言者たちそれぞれの気質や理解力、さらには受け手・読み手の理解力に規定されつつ、預言者たちの想像力によって脚色された部分をかなり含んでいた。そうした記述は確実性の期待できるものではない(1章、2章)

また、ヘブライ人は神から選ばれ国を持たされたと言われるが、それはヘブライ人を律法に服従させるためのレトリックに過ぎなかった。神が特定の民族だけを選ぶということはない。モーセが受け取った律法も、ヘブライ人の国だけで通じるようなローカルなものに過ぎず、しかも国が存続した期間のみ縛る、限定的なものだったことが分かる。(3章)

そもそも幸福が約束されるのは、知性によって自然の一般法則(=神の法)に迫ることを通じてなのだが、聖書に書いてあるような歴史物語から神の法に迫れるわけではないし、神の法は儀礼とも特につながりはない。現に、キリスト教が禁じられている国でも、幸福に生きることはできる。日本を見ればよい。歴史物語だって、理解力に乏しい民衆向けの表現手段に過ぎない。
自然法則を超えるような事象=奇跡についても同じで、キャッチーさを狙っていろいろ盛っている記述を聖書から除いてみれば、特に奇跡の存在を証拠立てるようなものはない。というか、自然の一定不変の法則こそ神の法なのだから、それを破るようなものが存在できるはずがないのだ。(4、5、6章)

とすると、聖書というのは一体なんなんだろうか。神の言葉、幸福の源泉、救済への道が示されているというが、現実は神学者が自分の思いつきを他人に強制するためのダシになっているのではないか?それは間違った在り方だと思う。人は自由に宗教上のことを判断する権利を持っているはずだ。

そこで、以降では、聖書の物語を注意深く読み直してみる。(7章)
聖書各巻の歴史を書かれていることに基づいて検証すると、モーセ五書やサムエル記などはその時代よりずっと後の人でないと知らないことが書かれていることから、本人が書いたものとは言えない。そればかりか、ざっと2000年以上にわたって多くの作者が書いてきたことが分かってくる。さらに、どの書物を聖書に含めるか、含めないかは、おそらく律法に詳しい人たちの相談によって決められている。(8、9、10、11章)

こうした史料批判から言えることは、聖書は神から送られた手紙なのではなく、むしろ非常に人間的なプロセスで書かれていて、書かれたその時その場の読み手である一般の人達に分かってもらえるように、さまざまな言い回しや装飾が施されているということだ。神からのメッセージといえるのは、正義と愛と神への服従、この極度にシンプルで明白な指針だけだと思えばいい。まさにその一点において聖書は有用なものだといえる。
聖書に対するこんな態度は不敬だと指弾されるかもしれない。しかし、その指摘はかえって、神の言葉以外を崇める迷信に結びつきはしないだろうか?(12、13章)

聖書は、さまざまな宗派の人がいいように解釈し、さまざまな理解力の人が自分なりに理解してきた。ただし、それ自体は責められるべきことではない。問題なのは、たとえ相手がまともな信仰を持ち、隣人を愛する人であっても、自分と違う解釈をしたという理由だけで排撃しようという態度なのだ。
このように信仰は道徳の問題であって、真理の探究である哲学とは関係がない。(14章)
同時に、神から贈られた理性、つまり哲学するための道具を封印し、方便として書かれた歴史物語を盲信する理由もない。哲学する自由は神学も許容するところなのだ。(15章)

ここからは後半の政治論。
ここまでの議論を土台として、平和を実現するために自由がどれだけ大事かという話題を展開する。

まず、人は誰でも、自分を守り、自分のやりたいことをやる自然の権利を持っている。けれども、全員がそれを好き放題に行使していると、いつまでたっても世の中が落ち着かない。そこで、各人が理性に基づいてその権利を他人と持ち合い、他人を自分と同じように尊重する契約を結ぶことになる。こうして国や法が生まれ、個々人から権利を託された権力者が秩序を保障するのだ。
権力者の命令に従うといっても、個人が奴隷になることを意味しない。個人は自分の利益のために契約という行為をしたのであって、他者のために行為する奴隷とは別物だ。政体としては独裁制、寡頭制、神権政治などが考えられるが、特に民主制を採用することが自由への道だといえる。(16、17、18章)

そこでは、宗教を権力の傘の下に置いておくことが重要である。そもそも、宗教が持つ権利は、人々によって打ち立てられた権力から付与されているのだから、これは当然である。というか、神の直接統治など存在しない。神は永遠の真理そのものであって、手前勝手な法を押しつけるような存在ではないからだ。(19章)

また、支配者たちは、人の行動を法で規制することはできても、心の中にまで指図することはできない。自由に考え、発言することは自然な権利であり、誰もがついやってしまう癖のようなものであり、学問や技能の発展の礎であって、それを個々人から切り離すことは不可能だ。人々が全員、全く同じことを考えるということなど起こらないし、多様な意見を暴力的な政治によって抑えようとしても、それは支配者の権利を最初に生み出した契約を揺るがすだけである。もともと国は人の自由のために作られたのだから。
体制を安定して維持していくためには、自由に考え、自由に発言することをすべての人に認めるしかない。それが結論となる。(20章)

……という話だったはず。
日本語として読みやすく訳す工夫、なぜこの訳語を選んだのかを細かく注釈で示す誠実さ、そして該博な知識を動員して作り上げた名訳だと思います。着手は2010年だったそうです。大変お疲れ様、でも今後数十年にわたって参照されるはず。

1670年に匿名で出版され、4年後には発禁になってしまった本。その当時のスピノザとオランダを取り巻く状況と、当時この本が与えたインパクトについて触れた解説も、作品をそれが書かれた文脈の中に置いて見せ、当時と現代を架橋するという解説の役割を認識して書かれたもので、素晴らしかったです。

社会契約や自由のほか、自然科学を考える軸にもなりそう。これから何回も思い出すことになるでしょう。
無神論が完成するのは、ものを考えたり言ったりする時にいちいち神様に触れなくなった時なのだ。たぶん。

* * *

■ローレンス, B.『コーラン』(池内恵訳)ポプラ社, 2008年.

イスラム、そろそろ勉強しなきゃかなあと思っていました。それで「コーランでも読もうと思う」と会社の後輩に話したところ「コーランは通読するのには向いてないですよ」と教えてもらったため(なんつう会社だ)、まず、と手に取ったのがこれ。

ムハンマドからビン=ラディンまで、コーランの受容史を駆け抜けた。
面白かったのですが、ちゃんと消化するには、もう少し読書が必要。

読書記録の順番は前後しますが、エルサレム繋がりということで6月に上巻を買ったままにしていた『神学・政治論』に手を付ける気になった本だったというわけでして。

* * *

9月に入ってとんと日記を書いてなかったのは、忙しくて土日も出勤していたのと、土日は出勤後に酒に溺れて疲れて寝ちゃっていたためでした。

* * *

今期の放送大学は「社会心理学」の授業が面白かった。
名著を10冊紹介するシリーズ。
対ヘイトとかの背景知識としてオルポートの『偏見の心理』を読んでおいてもいいかなと思ったものの、絶版みたい。残念。関連した概説書はあるっぽい。立ち読みしてみる。

* * *

先日、ランチで浜松町の「鯛樹」に入りました。
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卵の入っただしに、鯛とわけぎと海苔をぶっこんで混ぜ、高級卵かけご飯にするのです!

2014年08月29日

アジアカレーハウス

「錦糸町・丸井の真裏にある『アジアカレーハウス』がアツいんですよ」

敬愛してやまないアキンボのマスターからそう言われたら行かぬわけにはいきません。
とはいえ、営業時間は20時から。普段はこの時間までに退勤できるなら帰り道にメシを食ってしまいますし、帰れないなら社食で食べてるころ。しばらく行けないまま時が経ち、今日。

わりと女性一人とかだと恐い感じの道にあります。
といっても別に歩いていて襲われるわけじゃないので、気にしなければなんともないんですけど。
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小料理屋みたいなカウンターに小料理屋みたいな椅子が五つ。
メニューがないので座ると自動的にお料理(1000円)が出てきます。
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水曜と金曜がスペシャル、あとの日は普通のカレーが出てくるんですと。
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バングラデシュの方が、この界隈で働く人たちのためにやってるらしい。
現地に行ったことがないので現地の味だとかは言えませんが、日本人に出せない味。
しかしうまい。確かにこれはアツイ。

カウンターは日本人ばかりで埋まってしまいました。
もうちょっとすると行列作るようになるんだろうか。ぐぐぐ……

* * *

■カフカ, F.(丘沢静也訳)『変身/掟の前で 他2編』光文社、2007年。

放送大学に「世界の名作を読む('11)」というテクスト分析の入門編みたいなラジオ授業があって、ここ何日かそれを聴きながら通勤したり外回りしたりしてました。
工藤庸子、柴田元幸、池内紀、沼野充義という大御所(というか駒場の地域文化界隈の友達だろう、この顔ぶれは)が名作を周り番で紹介します。それぞれ面白いのですが、実際に読みたいと思わされたのは池内紀の「変身」語りでした。そんなわけで出張先の京都で購入、帰りの新幹線で読み始め、新横浜くらいで1冊読み終わりました。
(それとは関係なく、柴田元幸のテンションを7割増くらいにすると菊池成孔になりますな)

「変身」は高校くらいの時に読んだような気がします。しかしディテールは忘れていました。
勤め人になって読み直してみると、これは出勤前の寝床で「会社行きたくねーなー」と思いながら、このままミスマッチだとかいって会社やめちゃって、引きこもって、家庭が壊れそうになって……とふくらませた空想のように読めますね。不条理劇なんかじゃなくて、とても身につまされる寓話というか。

2014年08月10日

最近のつれづれ

とりあえず食い物の話。
ほっともっとのガパオが健闘している!
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* * *

この20日ほどの間に、実はいろいろ読んでいた。

■藤田大雪『ソクラテスの弁明』叢書ムーセイオン刊行会,2013年.

道理で押して説得に失敗した最古の記録か。
死刑が出たあと、裁判員に向かって「おまえら後悔するぞ、ばーかばーか」と言うジジイが痛い。

それはいいとして、
死というものが死後の世界への移動だとすれば、そこはこんなクソ現世よりいいところだと思うし、
死すなわち無だとしても、それはクソ現世よりいい状態かもしれない。
そうソクラテスがとらえているのが面白いと思いました。

ちょうど先週、過去いっしょに仕事をしたことのある人が、(おそらく)ここ最近置かれていた辛い立場に耐えかねて自殺してしまったという報せに触れて、同じようなことを考えたからです。つまり、死ぬほど辛い思いをしたというのは大変な不幸ですが、自殺はそういうクソなシチュエーションから逃れる手段の一つとして正当化されると思う。
知らない人の自殺には「死なないで説明責任を果たすべきだった」とか「遺された人たちの悲しさを考えると死ぬべきではなかった」などと本人の社会的な立場に関連したつまんない論評を加えるのが人の常です。しかし知っている人だと、そういう論評も頭には浮かぶものの、そのほかに本人の主観について慮ってしまったりするもの。

本とは関係ありませんが、意識が混濁しているような状態だと、自殺のような重大事でも、しない、と、する、の間にある壁を越えてしまうことはありうるな、と思ったこの週末でした(半覚醒の状態で、普段なら送らないけど送りたい気もしていた内容のメールを送った、という程度のことがあった)。

■宇野重規『民主主義のつくり方』筑摩書房,2013年.

(前半)教科書を書いてほしい感じ(→と思って調べたら有斐閣アルマ書いておられた)
(後半)希望学方面の文章は読んでも頭に残らないのってなぜなのだろう

■東浩紀『弱いつながり』幻冬舎,2014年.

・凝り固まった日常を攪乱するのは物理的な移動。ネットを持って旅に出よう
・「現地の生活者目線でものを見るのが正しい」みたいな「ほんとうの旅」像に囚われるのはやめよう
と、軽やかに観光旅行に送り出してくれる本。夏休みの予定考えないとな。
ところで、上の宇野本にも「弱いつながり」が出てきてました。

* * *

実家の父から箱で送られてきた桃(16玉入り)を、すごい勢いで食べているところです。
うまいね、桃。うまいよ。大好き。

2014年07月21日

溺れる/救われる

■レーヴィ, P. 『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳)朝日新聞出版,2014年.

アウシュヴィッツから生還し、その後40年余を生き続けて1987年に自殺したプリーモ・レーヴィが死の前年に出版した本です。日本では2000年に翻訳が出て、今般選書に入りました。
ラーゲル(強制収容所)の記憶と、時代を下るとともに現れる記憶の歪み、そして人々の認知の歪みに向き合い、その体験をいくつかの主題に結実させ、それをエピソードとともに差し出した。誰にも、いつの時代にも起こり得ることとして。

ユダヤ人を抹殺するとともに、その記録と記憶を抹殺しようとしていたさなかでも、完璧にそれを遂行することはできていなかった。とすれば、同時代のドイツにラーゲルの実態が広く共有されなかったのは、SSだけではなく、目と耳と口を塞いだ多くの一般人の責任でもある。戦後40年の間に、その事実は振り返ることが可能になる程度に蓄積したが、同時に直接の経験者は次々と世を去り、共有された記憶もまた砂のようにこぼれ落ちていく。(序文)

虐待者の記憶は時間が経つほどに構築される。命令された、仕方なかった。そして被虐待者の記憶も時間とともに薄れ、あいまいになる。それどころか、事が起きている最中にも認知は曲がる―「戦争はもうすぐ終わる」「ポーランドのパルチザンが収容所を解放し始めている」(1 虐待の記憶)

ラーゲルに存在したのは迫害者と犠牲者の単純な分割ではなかった。そこには「灰色の領域」があった。到着したばかりの「新入り」を殴るのは古参の仲間=生き残るために特権を求め、それを得た囚人=当局への協力者で、ラーゲルの中には複雑な構造があった。それは全体主義社会の縮図だった。その極北が「特別部隊(ゾンダーコマンドス)」として選抜されたユダヤ人を中心とする囚人たちで、十分な食事を与えるかわりに死体の髪を切り、金歯を抜き、荷物をより分け、死体を焼く任務を遂行した。しかしその秘密を外に持ち出さないよう、彼ら自身も数ヶ月のうちに殺された。任務を分有しながら犠牲者となる、灰色の領域の住人。彼らが置かれた状態こそが真正の「命令による強制の状態」であり、ナチが法廷で主張した「命令された」という言辞のぬるさをあぶり出すのだ。ポーランドはウーチのゲットーで議長として君臨し、ドイツに取り入り、やはりガス室に消えたハイム・ルムコフスキもまた灰色の領域の人だった。しかし「自らのもろい部分を権力に絡め取られることはない」と確信することなど、私たちのうちの誰にできるのだろうか?(2 灰色の領域)

戦争の終わり、隷属状態からの解放。しかし、それが苦痛からの解放となるとは限らない。生き残った中には「恥辱感」を抱いた人がいた。収容所の中では動物のように暮らしており、動物は自殺をしなかった。生きることに忙しかった。しかし解放後には耐え難い反省の時期が訪れた。命と引き替えにではあったが、できたはずの抵抗をせず、仲間との連帯を放棄し、自分の生存に集中した。誰かの犠牲と引き替えに今、生きているのかもしれない。不可逆的に消耗した「回教徒(ムーゼルマン)」という隠語で呼ばれた人たちも、抵抗の闘士も、生き残って語るべき人たちこそが帰ってこなかった。(3 恥辱)

収容所には、ドイツ語を知らないイタリアのユダヤ人がいた。ドイツ語で発せられるSSの命令が理解できない、生きる糧をどうやって得たらいいか分からない、殴られないように知っておくべき規則を理解できない。したがって、どこから危険が降ってくるかも予測できない。意思疎通ができないことは、生命維持にとってはマイナスに働いた。隠語、イディッシュ語、ゲーテのとは違った卑俗なドイツ語が飛び交い、収容所ごとに言葉の体系ができていた。収容所と別の収容所の間は隔てられ、群島のようだった。そして、その外にいる家族や祖国からは切り離されていた。既にそれらが存在しない人もいた。(4 意思疎通)

侵略や戦争といった目的達成のための暴力と違う、「無益な暴力」が収容所を支配していた。老人、病人を問わず詰め込み、水も便所も供給しないまま行われた鉄道移送。人間から尊厳を奪い、獣に変身させる排泄の強制や禁止、剃毛、スプーンを使わずスープを「なめさせる」こと、病人や死人までも整列させて行う点呼、入れ墨、科学的に意味のない人体実験。できるだけ大きな苦痛と卑しめを伴った死を強制する。その遺灰や遺髪は産業利用に供される。(5 無益な暴力)

「理解しようとするな」というラーゲルの教えと、理解しようとする教養の齟齬。信仰を持つ者の強靱さと、ラーゲルの邪悪さを目の当たりにして無信仰を強めた著者および哲学者のジャン・アメリー。(6 アウシュヴィッツの知識人)

アウシュヴィッツを生き延び、そのことを語る者に、いつも問いかけられること。
「なぜ脱走しなかったのですか」――しかし戦争捕虜と違って、寒さと飢えと病気と暴力によって体力を奪われ、灰色の領域の住人たちや一人の逃亡で引き起こされる混乱を恐れた同輩たちからの監視の中にあり、脱走して匿われる場所もないのに?
「なぜ反乱を起こさなかったのですか」――実際に反乱は起き、そしてほとんど成功しなかった。また、多くの人たちは究極的な抑圧の中で消耗しきっており、反乱を起こすことができなかった。
「なぜラーゲルに連れてこられるような事態になる前に逃げなかったのですか」――当時のヨーロッパは現在と違い、外国は遠いところであり、移住には費用やつてが必要だった。そしてヨーロッパのユダヤ主義は定住的で、家庭的な道徳律を持っていた。何より、不安な推測は現実になるまでできないものである。今だって核爆弾と第三次世界大戦の危機はないといえるだろうか。なぜ影響の及ばなそうな南太平洋の国々にあらかじめ私たちは逃げ出さないのだろうか?(7 ステレオタイプ)

1947年に出版した『アウシュヴィッツは終わらない』のドイツ語訳に対して、40通ほどの手紙が寄せられた。命令されたから仕方なく従った、一部の指導者が引き起こしたことだ。しかし、その政権は投票によって選ばれており、「鬼畜なやつら」と「騙されたわれわれ」の区別はできない。迫害を実行したのは「悪い教育」を受けただけの普通の人々だった。そして暴力はその後も常に世界のここかしこにある。何世代かを経て、マイナーチェンジを施したアドルフ・ヒトラーが現れる可能性はある。警戒は続けなければならない。(8 ドイツ人からの手紙、結論)

* * *

■町田康『パンク侍、斬られて候』角川書店,2006年.

職場の人に貸してもらった本。
風刺と見ることもできるけど、そんなことは気にせず酸鼻などんちゃん騒ぎを楽しめばいいんだと思う!

* * *

最近の買い物、二つ。

(1)ソニーのノイズキャンセリングイヤホン、MDR-NWBT20N。
2年ほど使った先代が断線したので買いました。通勤電車に地下部分があるので、ノイズキャンセリング機能は必須なのです。Bluetoothを搭載していて、しかも手許で再生/停止、早送り/巻き戻しができるので、iPodをカバンの中に入れたままにできるのが、使ってみて気付いた大変便利な点です。

(2)東京西川の敷き布団AIR 01。
いつからか覚えてないくらい昔から使っていた敷き布団を何となく取り替えたくなって、どうせならということで、ちょっと高いやつを買ってみました。
ウレタンでできてます。なんかぼこぼこ山がいっぱいついてるスポンジの上に寝てる感じ。ネットの口コミでは[腰痛が治った」「途中で起きなくなった」など絶賛が相次いでいますが、そういえば弊管理人はもともとそんなに運動器や睡眠に問題を抱えていたわけではないので、あまり実感はないかも。
それより今は体が慣れようとしている段階と感じます。ウレタンの臭いも気になるといえば気になる。評価はもうちょっと経ってからかなあ。

* * *

3連休は真ん中の日に働いてしまい、連休ではなくなりました。
その内容についてはいろいろ言いたいこともありますが、言ってもしょうがないので沈黙。
それより、そろそろ夏休みのことを考えるのだ。

2014年07月08日

ガルブレイス

■中村達也『ガルブレイスを読む』岩波書店,2012年.

ヴェブレン、ガルブレイス、サミュエルソン、制度派、新古典派総合。ミクロもマクロも知らない、そもそも経済専攻でない大学2年の冬にうっかり取った授業では、教授の研究室で同級生二人とコーヒーをいただきながら(そういえば当時はコーヒーもほとんど飲んだことがなかった)英語文献を読むという恐ろしいシチュエーションになってしまい、しかもほとんど消化しないまま、よくわかんない言葉を覚えて終わったのが思い出です。

その覚えたうちの一人、ガルブレイスの『ゆたかな社会』はしばしば耳にするので気になってはいましたが、そのものをいきなり手に取るのはちょっと躊躇われました。もうとにかく経済って分からない。普段は原典を読んでから解説、がよい順番なのですけれど、全くなじみのない分野はまず解説、これもまたセオリーだと思ってます。

本書は1983年の一般向けセミナーをまとめて88年に出版された本を改訂・補筆し、2012年に岩波現代文庫に入ったもの。1950年代から90年代までの主要な著書を一つ一つ分かりやすい言葉で解説しながら、ガルブレイスの思想の年代記を作り上げています。それによればガルブレイスという人は、一生かけてオリジナルな一つの体系を組み立てたというよりは、その時々の主流の経済学と社会通念を批判し、鋭い洞察力と豊かな引用、風刺を駆使して来るべき時代の予言をしてみせる、異端の経済学者だったらしい。

『アメリカの資本主義』(1952年)のキーワードは「拮抗力」です。普通の考えでは、多数の小さな企業が参加する競争的市場が成立していれば、「神の見えざる手」=自然の調整機能が働いて万事うまくいく。その例外事態である大企業による独占を防ぐための独禁政策が必要とされるわけです。
しかし、ガルブレイスは大企業には固有の存在価値があるという。複雑・高度化した20世紀の科学技術を使って革新を起こすためには、巨大な元手の蓄積が必要になります。企業の大規模化は、技術革新の原動力として肯定的な意味を持っているのです。
では、大企業の好き勝手は放置されるかというと、そうでもない。実際に起きていることは1社の独占ではなく、数社による寡占状態で、そこには競争があります。ある企業から見て上流にある原料業界でも、下流にある小売業界でも、同じように力のある少数の企業が競争していれば、業界の内に対しても外に対しても、1社だけが傍若無人に振る舞えないようにする「拮抗力」が働きます。巨大企業の中に生じる巨大労働組合もまた、そうした拮抗力の源となります。政府がすべきことは、独禁政策によって技術革新の担い手である巨大企業を排除するのではなく、拮抗力を支援するような政策を実行することなのだといいます。
逆に、拮抗力をキャンセルしてしまうような力がインフレにはある。そして、その懸念はこの出版以降、実際のものとなります。

次の『ゆたかな社会』(初版1958年、69年、76年、84年、98年に改訂)は、アメリカが持続的な経済成長モードに入った時期に書かれました。成長を礼賛するのではなくて、成長が必然的に生む病理に焦点を当てることで、貧困を前提にする従来の経済学にアンチを唱えた本といえそうです。
まず、それ以前の経済にあった「古い病」として、「物質的貧困」「不平等」「経済危機」を挙げます。これを克服するのが最大の課題だったのですが、成長の時代に入るといずれも緩和されます。しかし、新たに「依存効果」「慢性的インフレ」「社会的バランスの喪失」という三つの病が現れます。
「依存効果」というのは、大企業が大量生産と並行して広告・宣伝を通じて大量消費を促し、消費者が消費に依存する状態。「慢性的インフレ」は、戦時や革命下ではなく、ものが豊富にある平時の世の中で緩やかにインフレが続く状態。「社会的バランスの喪失」は、私的な財やサービスの充実に比べて、公共インフラの整備が立ち後れていることを指しています。それぞれに対策を打ち出していますが、特に「依存効果」への対策として、大量消費にブレーキをかける売上税の導入とともに、雇用創出のための生産拡大を牽制しようとベーシックインカムの導入を提案しているのが目を引きます。

『新しい産業国家』(1967年、71年、78年)では、経済の主役となった大企業の振る舞いをクローズアップしました。
大企業を中心とした経済体制を象徴する言葉が「計画化」です。ここでも重要な背景となるのが技術の高度化・複雑化です。製品の企画段階から世に出るまでに長い時間と専門的な知識を要するようになり、生産設備にも大きな投資が避けられない。必然的に組織は巨大化し、あるキャラの立った個人の独裁ではなく、高水準の教育を受けたさまざまな分野の専門家集団(テクノストラクチュア)による支配体制を採用し、軍産複合体に見られるように政府との結びつきを強め、依存効果を通じて消費者をコントロールし、消費者に商品の選択の自由を残しながら、選択肢の幅を支配することもできるようになります。消費者主権に立った新古典派とは対極の見方です。
さらに、調達にまつわる不確実性を減らすため原材料を供給する会社をグループに取り込み、価格変動のリスクを避けようと大量・長期の契約を結んで調達を行うようになります(航空会社が燃料を随分先の分まで押さえるようなものかな)。
また、テクノストラクチュアを駆り立てる動機も前時代とは変わります。強制されて、あるいは金銭目的で動くというよりは、組織内での一体感を得たり、逆に組織を自分の思うとおりに動かしてやろうという欲求。これを加味して大企業の動態を理解する必要が出てきたといいます。

オイルショックの1973年に出版された『経済学と公共目的』は、『新しい産業国家』では注目されなかった中小企業も分析の中に含め「で、どうすればいいのか」を考えた本といえます。経済成長が分配の問題をうまく解消してくれていた時代が終わり、「どう分けるか」を初めとしたさまざまな課題が浮上しつつありました。
大企業の「計画化体制」(市場を支配する体制)と対比されるのが、中小企業が構成する「市場体制」(市場で決まった価格を受け入れて経営する企業たちの体制)です。ここでしかできないことは、農業のように非定型的で一極集中しづらい生産、床屋のようなサービスの生産、そして美しい一品もののような芸術的価値の生産です。こうした生産が将来重要になるだろうといいます。
しかし、現状としては計画化体制と市場体制の格差は広がっている。そこで、政府は大企業と癒着するのではなく、逆にそのガバナンスに手を突っ込み、公共的な方向へ引っ張っていくべきだとします。例えば環境問題への対応、例えばインフレ対策。そして住宅、教育、福祉政策に力を入れること。

最後にテーマになるのが『権力の解剖』(1983年)です。ケインズ的な政策が60年代のような有効性を失い、市場の力を頼むサッチャー、レーガン政権ができた時代です。しかし、競争的な市場なら自動的な調整機構が働くので権力が登場する余地は少ないのですが、現実は寡占市場です。誰かが支配し、誰かに力を及ぼしています。権力を考える必要が出てきます。
権力の類型として、強靱な・あるいはカリスマ的なリーダーによる「威嚇権力(脅し)」、財力を背景にした「報償権力(見返り)」、そして組織が操る「条件付け権力」を置きます。最後のは現代を特徴づける「自覚しないまま従ってしまう権力」で、広告・宣伝や教育によって浸透します。そして、それぞれの権力には対抗する権力が生まれますが、それがうまくバランスするとは限らないという、やや悲観的なビジョンを持っているようです。

なるほど、どの本もはっと目を見開かせるキャッチフレーズに満ちています。主流や定説の中でぼやーんとしてしまった頭を覚醒させる言葉、それを概観させてくれます。技術決定論ぽい経済観も興味深かったです。とても魅力的な解説ですが、よくできすぎていて原著に手を付ける意欲が多少そがれますかね……

* * *

先週は日帰り神戸、のはずが、半分予想していた通り東京に帰れなくなり、とりあえず大阪まで戻って投宿、6時前に起きて翌日9時から普通に東京に出勤するという疲れる出張をしてしまいました。

三宮の「トゥーストゥース・ガーデンレストラン」で腹ごしらえに食ったクレープ。
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んまかったー
次はメシ食いたい。

2014年06月22日

本を読む

弊管理人と本とのおつきあいを、自分用メモを兼ねて書いておきたいと思います。

【なぜ読むか、何を読むか】

弊管理人はもともと本を読む習慣はありませんでした。中学の時にはあまりに本を読まなすぎて国語の成績を下げられたほどです。親は結構活字を読む人なのですが、どうしたことでしょう。

それでもするっと大学に入りました。ところが、周囲の、特に東京の私立・中高一貫校から来たような同級生たちが、入学直後の自己紹介で「好きな作家はジェイムス・ジョイスです」「ポスト構造主義に興味があります」などと意味の分からないことを言っていたのに衝撃を受けました。

文献を読んで発表をする練習となる必修の授業でも
  せんせ「では感想をどうぞ」
  弊管理人「えっと、難しかったです……」
  せんせ「あ、はい。次の方」
  次の方「この議論にはマイノリティという視点が欠けていると思います。云々」
という教養とお作法の差を経験し、とりあえずいろんな本を手に取るようになりました。

しかしそれで最終的に追いついたかといえばそんなこともなく、放任気味な大学生活の中で勉強やアウトプットの仕方を習得せず、必読書とされるものをきちんと読まないままテキトーな卒論を書いて卒業してしまいました。
結果、不足感とか、やるべきことをやらないで通過してしまった後悔が残った。それが今に至るまでなんとなくページをめくっている動機かなと思っています(追記:動機「の一部」です、たぶん、反芻してみると)。でもま、それでも本好きというほどの読み方ではないんですけど。

在学中や就職してしばらくは、次の理由から、新書や新進の著者の本をよく読んでいました。
・新しい本は、古い本を踏まえて書いてあるのだから、新しい本のほうによりよいことが書いてあると思った
・概説書は、必読書を要約して書いてあるのだから、概説書を読むほうが効率がいいと思った

これはこれで速効性の利益はあったのですが、しかしどうも自分のものになってない感じもしていたように思います。特に日本語の本には碌な要約がなかった。

で、わりと最近になってやっと、古典は古典でちゃんと読もうという「忘れ物回収プロジェクト」を始めました。就職してから、何か情報を得るのに又聞きは危ない、本人に直接聞いたほうがいいという経験が重なったせいもあるのかも。何年続くか分かりませんが、
・特に分野を限らないで、ある本を読みながら「次はあれかな」と思った本を渡り歩いていく
・いい解説、いい訳、値段がお手頃、あたりをゆるく優先する
・でも偶然勧められた本やその時々に話題になった本との浮気を恥じない
・ついでに、ちょっと人に見せたい本棚を作るつもりで本を選ぶ
・焦らない、早く読むことを偉いと思わない
・ただし、一語一語にあまり拘泥せず、それなりのスピードで進むことも理解のためには大切
・どーしようもない本に当たってしまった時も、半分くらいまでは頑張ってページをめくる
というのを基本線にして進めています。

【本を1日どれくらいの時間、読むか】

生来まったく本の虫ではないので、手持ち無沙汰の時にしか読みません。
平日は通勤電車に乗っている間(20分×往復)が標準で、面白く読んでいる本なら仕事中にちょっとできた待機の間にも読みます。
休日はどこかに出掛けようと電車に乗った時に読みます。ただし初めての土地の場合は車窓の風景に見入ってしまうので読みません。電車以外ではあまり読みませんが、ときどき喫茶店に入って読むこともあります。

通勤電車のペースに慣れたせいか、1回読み始めて注意が持続するのは20分くらいです。
それ以上読む時間がある場合でも、ちょっとツイッターを見たりとか、別のことをしてから再開します。

読むのも結構遅いほうではないでしょうか。文庫本の場合、電車の片道20分で10~15ページくらいです。

【どうやって読むか】

弊管理人が本を読む機会は大抵メモが取りにくい(電車の中とか、ふとできた時間とか)ので、妥協して次のような手順を取るようになりました。ほんとはメモがいいんですけどね。

1 助走として、解説、あとがきを先に読む
2 本文を読み始める
3 この際、付箋を鋏で縦に3等分し、裏表紙の前のページにまとめて貼り付けておく
4 大切だと思ったところ、変だと思ったところに付箋を貼りながら読む(3、4は下の写真参照)
140622hon.jpg
5 頭の中にポンチ絵を描きながら読む。読み進めながらポンチ絵に修正を施す
6 解説、あとがきをもう一度読む。解説が役に立たない場合、手頃な解説書を別途1冊読む
7 弊サイトの管理画面を立ち上げる
8 ポストイットを貼った箇所に注意しながらを最初からもう一度ざっと読み、エントリを書く
9 書く内容は:本をどう理解したか(ポンチ絵を字にする)、どこが面白かったか、どこにイライラしたか、これまでに読んだ本と何か関連することがあったかどうか
10 本棚にしまって次の本を通勤カバンに入れる

この方法には、話の筋とその時の心境をざくっと掴み、それを記憶として固定し、後でもうちょっとちゃんと参照したくなった時に辿る、という作業がしやすい利点があるかなと思っています。
弊管理人は、1冊に深く関わるより、浅い読書を重ねながらイメージをだんだん濃くしていくタイプの理解をする癖があるようなので、こういうスタイルになったのかもしれません。1冊1冊について弊サイトに書きつける作業はインデックス作りのようなものと考えています。

ただし仕事用に読む本や書類はこの限りではありません。大抵の場合は厳密さとスピードが求められるので、頭の中ではなく、デスクでお絵描きし、シソーラスのようなものを作りながら読みます。あと、分かってる人と話して確認するという作業も結構やります。

弊管理人は「小説もビジネス書もほとんど読まない」「目的を持って読んでいない」「いつもぼっちで読んでいる」と、本とは結構特殊なつきあい方をしているので、誰かの役に立つとも思えませんが、一応こんなところです。ここ改善するといいよ、というような助言がありましたら是非教えて下さい。

* * *

2010年の終わりから3年半にわたって弊管理人のさまざまな悪事の片棒を担いできたiPod Touch、先週アスファルトに落とした際に画面にいっぱいひびが走ったのを機に引退となりました。実のところOSのアップデートが重なったせいか動作はかなり遅くなっていましたし、バッテリーもへたっていたので、いいきっかけだったのかもしれません。

後継は現行の第5世代iPod Touch。第6世代がもうすぐ出るんちゃうかという思いはありながらも、アップルのウェブストアで整備済み品(外装とバッテリーを交換した中古)が安く出ていたので買ってしまいました。深センから3日かけて来るのな。へー。
これで引き続き外でのメールもネットもiPodでできるので、ガラケーユーザーは当面継続です。iPodが軽い動作、ちゃんと1日もつバッテリーに変わって新たな悪事に手を染めることになりそうです。

* * *

夏至の土曜と今日は静かに過ごしました。
雨の朝だと明るくならないので長めに寝られていいっすね。

2014年06月17日

エピジェネ

■仲野徹『エピジェネティクス』岩波書店,2014年.

細胞核の中に入っているゲノムが1冊の本で、筋肉の章、神経の章、骨の章、……みたいに、いろんな情報が書かれたページからなっていると考えてみる。そうすると、生活史の場面場面に応じて、必要なページを読み、かつ読んではいけないページを読み飛ばすようなが機能が必要になる、それがエピジェネティクスと呼ばれているらしい。

代表的なものの一つは、DNAの糸をボビンにがっちり巻き付けて読み取りをできなくしてしまったり、逆にそれをほどいて読み取りを可能にしたりするような「ヒストン修飾」という仕組み。もう一つは、DNAそのものに「読み取り禁止」の目印が付いたり外れたりする「DNAメチル化」という仕組み。例えば小麦の春化、女王蜂と働き蜂の分化、プレーリーハタネズミの一夫一婦制に関与しているとのこと。
こうした仕組みが何かの弾みで乱れると、生命のマクロな営みに悪影響を与えることは容易に想像できます。がんや生活習慣病の研究でも、そうしたことが垣間見えているそうです。

読んでみて、病気や健康などに対する理解の解像度が上がったような気分になります。身体の状態は「遺伝的要因」と「環境要因」のブレンドでできていると考えられますが、おそらく「遺伝的要因」の中にも「DNA塩基配列や染色体の正常/異常」と「プログラムされたエピジェネティックな制御(ゲノム刷り込みとか)」があり、また「環境要因」の中にも「そのときどきの環境に対応したエ