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何かを察したというわけでは全くないのですが、今年の盆休みは例年と違ってどこか他県のホテルを予約することもなく、「まあ木曽に岩魚でも食べにいくか」くらいのことを父が提案しつつ、ただ日々仕事に流されたまま迎えるところでした。
7日の朝、母方の祖母が104歳でとうとう亡くなったということを聞きました。ずっと介護していた伯母に連絡すると「業者に任せていて当座やることはないので、すぐ帰ってこなくていい」とのこと。それじゃあまあ飛んで帰ってもしょうがないかということで、予定していた相模原での仕事を済ませて帰宅。翌8日も普通に出社。
9日に長野に帰りました。今回は礼服を持って行くので小さいほうのスーツケースを持って、妹と同じ便のバスで郷里へ。
通夜には間に合いました。10数年ぶり?くらいのいとこやら、いとこの子やら、おばさんやらと挨拶。今回は伯母が地元の葬祭業者にフルコースで頼んだらしく(まあ伯母も高齢だからね)、坊さんが来てお経を上げて、結界代わりの水引を参列者の体に結わえて、おばあちゃんに手甲だの脚絆だのはかせて、棺桶に入れて、花で囲んで、とまあいろいろ手順があった。
坊主に50万、業者は見積もりベースで120万だそう(祭壇だけで50万だとか)。2003年の母のときは弊管理人が市役所で死亡届を出し、簡素な棺桶など葬祭セットをもらい、病院の安置室に1晩だけ置かせてもらってそのまま焼き場に運び、死亡から24時間余りでお骨にし、それを抱えて母の実家(=本家)に戻り、寺で葬儀をしたのでそこまでかからなかったはず。しかしこれは子供20代、夫50代の体力ありあり世代だったからできたことではある。まあ今回オールインクルーシブにしてももうちょっと削るところは削れたのではと思うが、それはほぼ独りで仕切る83歳伯母に言うことではない。
それはともかく、こうなった。
何年も前から折り合いの悪かった父と伯母は普通に対面し、話をしていた。大人の対応。
伯母は喪主として気を張っていたが、去年夫を亡くした叔母と、50代初めに妻を亡くした父が「ひとりになっちゃったなと思うのはこれからだよ」と言っていて、傍で聞いていた弊管理人は「おおそう感じていたのか」と思った。
10日は午前中に火葬。焼き代12000円。1時間半くらいですかね。お骨を拾いました。
本当は午後に葬式ですべて終了すると楽だったのですが、時期が時期だけに坊さんの都合が合わず、この日はこれでおしまい。伯母が「お骨になるとあきらめがついた感じがする」と。
11日に葬式。急遽受け付けをすることになりましたが、104歳で、かつおばあちゃんとなると地域にそこまで知り合いが多いわけでもなく、教師だった祖父の時より弔問の人たちはかなり少なかった印象です。教え子ぽつりぽつり、あとは親戚筋とか、近所の人とか。坊さんも古くなっていた。まあ母の時からだと22年たつからな。
1920年11月生まれ、数えだと106になるとかで。
19で高遠に嫁に行き、伯母が2歳、亡母が生まれて1ヶ月で祖父が出征し、そのあと5年も生死不明の中で子育てしたのだそうです。祖父が帰ってきてから伯母が生まれてます。
2003年に母と祖父が亡くなってから鬱っぽくなり、数年、薬を飲んだりしているうちにだんだんぼけてきたという記憶がある。2007年の時点で伯母が「おばあちゃんはもうだめかもしれない」と言ってましたが、そこから18年。肉とトマトが延命に貢献したと思われる。
最後の2週間は嚥下に失敗して気管支にものが入ったあと、苦しそうだったとのこと。伯母が寄り添って寝ていたら、すっと息が止まった。表情は楽になった感じだったと伯母。
写真を撮られることが嫌いだった祖母は、弊管理人が完全に分からないくらいになったことで(?)ようやく撮影されてくれました。誰か知らないおにいさんが写真を撮ってくれているという受け止めだったと思う。外づらのよさがいい方に作用した。下の写真は2020年の暮れ。疫病真っ最中にすっごい気を遣いながら帰省した時。
ちなみに遺影は1993年にいとこが結婚した時の集合写真から切り出したというので筋金入り。
たくさんいたきょうだいの中でも体が弱かったそうで、しかし最も長く生きた。わからんもんです。ちょっときついところのある人で、弊管理人はちっちゃい時に「おばあちゃん嫌い」と言い放ったこともある(確か)。ただ思春期以降は何も悪感情はなく、ほぼ半世紀の長いおつきあいになりました。いうて年2~3回、帰省して会うだけだったけど。大人になってからお年玉をあげて泣かれたのは思い出。しかしあれ、使わないまま仏壇にしまわれているのでは?
で、葬式が終わった途端、精進落としの席で伯母の動きが停止しました。もうほんとに「停止」。なんかまずい、と思ったいとこが話しかけたところ「母さん(=祖母)どこで亡くなったの?」などと意味不明のことを言い出し、ただならぬ雰囲気を察知した親戚が集まって話しかけ、ようやく魂が戻ってきた感じになった。しかし「なんか私、頭がぼーっとして」と繰り返しており、このあとが心配だなーとみんなが思った。80代まで20年近く負ってきたタスクがいきなり消えたことと、母を亡くしたことが重なったわけで、もともと情緒的な母方の家系にあって相当注意すべき事態かもしれない。
そして弊管理人は、今まで見ずに済んでいた「相続」の問題に直面することになりました。たぶん大した資産はないんだけど、一番は本家の家です。さあこれ、どうする。勉強しないと。
* * *
弔いが3日間にわたったので、結局3泊4日の帰省はそれだけで過ぎていきました。
父作の天ぷら。
今回は全く出かけることもなく、父も妹も弊管理人も家にいるときは昼寝してました。疲れてたんだと思う。
それに加えて、妹は急速に太り(20代の頃と比べると多分倍くらいになり)、すごいいびきをするようになったので、弊管理人は寝不足です。頭痛い。これは結構な問題。
ちかぢか自分のための夏休みをとろうと決めました。
* * *
◆リチャード・ドーキンス(大田直子訳)『遺伝子は不滅である』早川書房、2025年。
ドーキンスの集大成、みたいな触れ込みだったので発売日に買った。
まあ確かに集大成といえば集大成だし、今まで言っていたことの再録といえばそうかもしれない。5000円近い本だが、えぇ、ひょっとしてこのために値段が上がったんですか……みたいなそこまで必須とも思えないカラーイラストたち。豊富な実例といえばいいが、読んでいてちょっと以上に間延びする博覧強記。あと訳がちょっと拙い(ものすごい量の生物学用語を訳す労力は察します)。ドーキンスは『利己的な遺伝子』が頂点だったのだろうか。悪いがこの本はたぶんブックオフに売る。
とはいえところどころ面白いと思ったので、以下にまとまりのないメモを。
網膜の作りがおかしかったり、反回神経が変な付き方をしていたりと「ヘタクソな設計」がみられるが、これを訂正したいと思ったとしても、進化をやり直して中途半端な機能を獲得しつつある個体は、ヘタクソな設計ながら完成された機能を持ったやつに負けて結局は生き残ることができないので、ヘタクソな設計が生き延びるという説明は面白いと思った。
「本書のメインテーマは、あらゆる動物は祖先の世界を記述した書物である、ということだ」(p.98)
「ヒトやほかの無毛種はいまだに、体毛をつくる祖先の遺伝子を保持していることがわかっている。しかし遺伝子は無効にされている。そして無効化の方法は種によって異なる。…ちなみに、ここに再び創造論者にとっての問題が生じる。インテリジェントデザイナーが毛のない動物をつくりたかったのなら、なぜその動物に体毛をつくる遺伝子を授け、そのあとそれを無効化したのだろう?」(pp.122-123)
「過去から受け継がれた遺伝子は、動物が生まれ落ちる世界を予測すると言える、と前に述べた。しかし遺伝子は一般的な予測しかできない。自然淘汰が対処できるのは世代交代の時間尺度だが、状況はそれより速くどんどん変化する。さまざまな細かい部分は、DNAに書かれている「遺伝子版死者の書」の「記憶」ではなく、おもに脳内に蓄積された記憶によって、動物自身が生きているあいだに役立つように書き込まれるのだ。遺伝子プールと同様、脳も動物の世界に関する情報を保存する。それは将来を予測するのに使える、ひいてはその世界での生存を助ける情報だ。しかし脳はそれを速い時間尺度で行なえる」(p.157)
「しかしいずれにしても、なぜ、二つの隔離された集団の遺伝子は、仲間として適合しなくなり、ひいては相互交配を妨げる傾向にあるのか? ひとつには、配偶子がつくられるとき、二組の染色体が減数分裂の過程で対合する必要があるからだ。たとえば障壁の両側で大きくちがってしまうと、雑種は、たとえできたとしても、配偶子をつくることができないだろう」(p.285)
「私に言わせれば、求められる重要な区別は「自身の」か「異質な」かではなく、「垂直性」か「水平性」かである。私たちが通常ウイルスと呼ぶもの――HIV、コロナウイルス、インフルエンザ、はしか、天然痘、水痘、風疹、狂犬病――はすべて水平性ウイルスである。だからこそ、その多くが私たちを傷つける方向に進化しているのだ」(p.321)