アメリカに戻ったので、大阪より後のことは圧縮して。
12/29-1/3は長野で年越し。
実家の朝飯。光り輝くお米。
30-31日は松本。
浅間温泉「菊之湯」に宿をとって父、妹と一泊しました。
浅間温泉自体は特に見るところもないのだけど、他人が作った夕飯を食べて、風呂に入って寝るだけだっていいじゃない。古民家を生かした建物、民芸の宿、みたいなところで、食器もいい趣味だったと思います。
22時に男女の風呂が入れ替えになるので、そうしたらもう一風呂と思っていたのに、21時前に寝てしまいました。朝飯も素敵。
31日はチェックアウトしてからなぜか北に向かい、小布施と善光寺に行きました。
南部にある両親の実家や今の父の家には住んだことがないので、3歳から高校を出るまで住んでいた長野市のほうが懐かしさはあるんですよね。
日が傾いてから長野市を出発し、駒ケ根の回転寿司屋で夕飯食べて、実家に戻って紅白見て寝ました。
元日は母方の祖母宅へ。今回は右ハンドルの運転に父が懸念を示したため電車でGO。いや運動にもなるしそのほうがいいです。
閑散とした駅前から生体反応のない飲み屋街という、普段通らない道を歩いてみました。
昼ご飯は伯母のごちそう。今年も健在でよかった。
耳が遠くなり補聴器を買ったとのこと。ずっとガラケーユーザーで「スマホの話などしないでおくれ」と拒んでいたのに、とうとうiPhoneに乗り換えて親戚や友達とLINEしてた。もう何十年も前に建てたきり、最近はほとんど住んでいなかった家を二束三文で売ったらしい。うーむ。でもまあ手元にお金は残ったようだし、本人がいいならいいか。
日本を発つときに最後かなあと思った祖母は、車いすから立てなくなっていましたが、102歳を迎えてもご飯をもりもり食べていました。
2日は父に車に乗せてもらって父方の祖母宅へ。
こちらも96歳だって。祖父が作っていた梅や栗の木が「近在の人たちがボランティアで来た」とかでばっさり伐られていて、父が「まだ実がなってたのに。ボランティアというが炭焼きがしたかっただけだろう」と呆れたり怒ったりしていました。でもまあ祖母も手入れができるわけでなし、こちらも本人がいいならいいか。祖母は元気でした。跡取りの三男(父の弟。長男は独身、次男の父は婿養子なので三男が継いでいる)はちょっと離れた町に住んでいるが正月になっても来ないので、縁側でぼーっとしているのだそうです。ううむ。
夜はいつものソースカツ丼を食べにいきました。
3日は高速バスで東京に移動。Uターンはピークのはずでしたが、小仏トンネルも含めて全く渋滞が起きておらず、予定通りに新宿に着きました。
大阪時代に知り合った看護師の若者が、保健師の資格を取りたくて関東某公立大の3年次編入試験を受けたら受かったというので、リクエストのあった焼肉でお祝い。ゴールデン街の近くにある「モンシリ」です。
かなり久しぶりだけど、とてもおいしかった。若者は看護師ですが、ずっと現場は体力的にきつかな、というので保健師とって公務員を狙うそうです。そういうもんかあ。春から2年間の大学生活で、終わって資格を取ると34歳。そろそろ就職はぎりぎりの年代とのこと。「お勉強頑張ってね」といって別れました。
4日も早起きは続いており、朝8:30からバルト9で「すずめの戸締まり」を見てしまいました。何の予備知識もなく、そういや新作が公開になったとかどっかで見たなというだけで行きましたが、これは見てよかった。
それから紀伊国屋書店で本を物色。知らないうちに改装されてましたが、棚の配列に余裕ができた代わりに品揃えが悪くなったような。20冊くらい買って帰るぞと意気込んだものの、4フロア見て結局買ったのは5,6冊。あとはタイトルだけチェックしてキンドル。
夜は飲み友2人が来てくれて、ねぎしで夕飯。それから旧知の飲み屋さんに行きました。チェックしないで行ったら毒気の強い店主が店番の日で、若干もやもやとしながら辞去。街は三が日の営業が一服して閉じている店が多く、他に挨拶したかった人たちには会えないまま。3日と4日の予定を入れ替えたらよかったかな。でも開いてるお店を見つけてまたちょっと飲んで喋って帰ることができました。「アメリカナイズされてなくて見た目も振る舞いも全く変わってない」とのご指摘を複数いただきました。
5日は思い出横丁の岐阜屋でチャーハンを食べ、2020年の初めまで住んでいたあたりを散歩して帰路に就きました。
羽田→サンフランシスコが9時間、そこでの入国審査がめっちゃもたもたしており、通過して荷物を取ってもっかい預けて保安検査通ってダッシュ。11:00発の飛行機の搭乗橋に通じる通路が11:01ごろ着いたら当然閉まっていて、あー変更手続きかーと絶望していたら地上スタッフのおねーさんが仕事を終えて出てきたのに鉢合わせ、お互いキャーって言って乗ることができました。
しかし預けの荷物は間に合わず、2時間後の次の便に乗ったようなのでDCの空港に着いてからターンテーブルの前のいすで待機。使ったユナイテッド航空にぶつくさ言いがてら手続きの問い合わせをしたら15ドルの食事券をくれましたとさ。
いや、12日間で3地点回ったのも手伝って日本を満喫した。トーストやスパイスカレー、チャーハンとかネクターとか、完全に頭の外にあった食べ物を口にした瞬間に、味の記憶がじわーっとしみ出してくる経験を何度もしました。そして日本はやっぱりいい、と思った。
あと、これは前々からそうではあるんですが、「もうすぐゴール」感のある年末が終わって、また目の前に茫漠とした1年が現れる新年の「また頑張んなきゃいけないの……だる……」という感覚がいつもより強かったです。
では2021年5月に異動の打診を断って引き続き大阪支社の高齢者を心底軽蔑しながらしのぎ、22年前半に既定路線で東京の出身部に戻っていたらよかったかというと、それでもやっぱり茫漠とした生活を前にして「だる……」ってなっていたでしょう。今回のディスカバー日本がよかったのは1年3カ月分を10余日に圧縮した密度の高さによるものであり、さらに住所のない故国は「なつい」とは思ってもホームではなく、本質的に安定とホームを志向しているはずの弊管理人なのに、年々動けば動くほどそういうものから遠ざかっているのは一体どういうことなのだろうと思いました。
あとは雑感。
・日本は想像していたほど行き詰まった雰囲気ではなく、
・大阪や東京では若い人が働いていて感じがよく、
・テレビは同じ人たちが年だけ取って出続けており、
・俳優さんもアイドルの人たちも男はあらかた貧相で、
・おねーちゃんたちは引き続き他人恐怖症(雑踏の中にあって自分以外に人間がいるということを必死に否認しようとしている)かのような歩き方をしており、
・交通システムも行政手続きも相変わらず予測可能性が確保されており(つまりアメリカとは逆にサービスが没個人化しており)、
・弊管理人が唯一アメリカナイズされたのは道路を横切るときに左側を見てしまうことくらいであることに気づき、
・キャッシュレス化がずいぶん進んでおり、
・一部ハイブリッド化した軽自動車が移動手段としての優秀性を強めており、
・外でマスクをしていながら飲食店では外して会食をするという意味のないポリシーが高度に維持されており、
・朝の動き出しが遅く
・都会はよく歩くことが確認された