■リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』紀伊國屋書店、2006年。
生物個体の中にひっそりと息づく自己複製子=遺伝子。生物進化の歴史の本当の主役はこの遺伝子たちで、個体はその乗り物にすぎない。遺伝子たちは仲間を増やし、時間を超えて生き続けるために個体に乗り込む。環境の影響を受けながらも環境を操作し、個体の寿命が近づけば配偶子のカプセルで脱出し、次の個体へと乗り継いでいくわけだ。
そこにはどんな慈愛も計画もない。自らを複製し、ときどき変異しながら生き残っていくこと、この作業を遺伝子は淡々とこなしていく。
親子の愛はその遺伝的近さから生じる。赤の他人に比べれば親子は50%という高率で自分自身なのだから大切にするのが合理的だ。
生殖は、かけるエネルギーをできるだけ小さくしながら最大限の効果を挙げようとする個体間の駆け引きだとみれば、男が子育てを一生懸命しないことを、男女の配偶子の大きさや運動性の差から説明することだってできる。
裏切り屋か、お人好しか、怒るときはちゃんと怒るのか。そんな戦略によって生き残りゲームの中で勝つ確率が変わる。どんな態度をとることが最善なのかもほとんど決まってくる。
さらにさらに、遺伝よりもずっと高速で伝播と発展を繰り返す人間の「知識」だって、生き残りゲームに参画する自己複製子と考えることができるだろう。
ここまで遺伝子のことを、生き残る「意志」とか「目的」を持った存在かのように表現したけれども、それはあくまで便宜的なもので、実際そこにあるのは「環境とのやりとりの中で、ある種の遺伝子が生き残った」という結果の集積でしかない。よく「菌が薬剤耐性を獲得する」となにか菌が目的をもってそうしたかのように表現されることがあるが、そこで起きているのはたとえば「薬を途中で飲まなくなる→菌の群れの中にたまたま発生した耐性菌が生き残って増える→投薬を再開しても薬が効く菌が死ぬだけ→耐性菌ばかりになる」という因果の連鎖にすぎないように。
* * *
著者はこの本を、サイエンス・フィクションのように読めばいい、と書いています。いろいろな生命現象の説明をつける本という読み方もできる一方、SFのように読み進めれば、そこに形作られるのは、「ぼく」「あなた」といった個体を区別する容器が溶け去り、無数の微小な自己複製子たちがひしめく茫漠とした世界のイメージかもしれません。そういう、世界の見え方を変える力があるという意味で、たしかにこの本は文芸作品でもあるのではないかという気がします。
(学校出て10年も経つのに、30年以上前に出たこの基本書を読んでなかった恥ずかしさもちょっと書き加えておきますw)