冬休み。北は天気が荒れると何もできないので南にしました。
アメリカン航空のマイルでニューオーリンズ、22~25日。
22日は朝の便。5時に起きて、日曜は地下鉄の動き出しが遅いのでLyftで空港へ。
地元は氷点下だったのが、ニューオーリンズは10度近くありました。このあと25日にかけてどんどん暖かくなっていきました。後半は春。
空港から市内のバスは$1.25。安い。
昼過ぎに中心部のフレンチクォーターに着いて、まずAcme Oyster Houseというところで牡蠣をキメます。おねえさんが「めっちゃ熱いから!」といって持ってくる炭火焼き。チーズがかかっててワインに合いました。
メインの通りと思われるバーボンストリート。オフシーズンのようで、道路工事を盛んにしており、人は少なめ。
街を歩いていると、誇張ではなくどこからも音楽が聞こえてきます。ストーリーヴィルという赤線(こちらではred-light)地域があり、そこに雇われた黒人ミュージシャンがやっていた即興演奏がジャズになったとか。
店の中で演奏している人と、店の外で演奏している人の違いはなんだろうか。外の人たちは力量にばらつきありという印象。
公園にはストーリーヴィル出身のルイ・アームストロングがいた。地元の空港の名前もルイ・アームストロング空港。
フレンチクォーターはフランス人が1682年に入植して最初に作った街。その後、外にプランテーションが作られていったそうです。一帯はもともと沼で、ミシシッピ川より低い土地。今も高層ビルは深く杭を打ち、街は人工的に排水しているそうです。
フランスは当初、この暑くて湿気っていて沼だらけの不人気な土地に囚人を住ませたが失敗。次に南ドイツのカトリック5000人を送り込み、そのあと、継続的に人口を再生産させるため女性を渡航させ、1727年には病院や学校ができた。1763年にスペインに移管。その後、アメリカは独立戦争に勝って国になり、フランスでは革命が起き、いろいろあって1803年にアメリカがルイジアナ州を購入。イギリスがフランスからぶんどったけど英語化しなかったカナダのアカディアの人たちが最終的に辿り着いたのがルイジアナで、アカディアンが訛って「ケイジャン」になった。ケイジャン料理のケイジャン。植民地生まれを指す「クレオール」とはガンボ(おじや)など料理に共通点もあり混同されがちですが違う集団。
建物は独特。Iron Laceと呼ばれる装飾とベランダがいいですね。初期に来たアメリカ人はこのごちゃごちゃした街区が嫌いで、かつプロテスタントとカトリックという文化的な違いもあってフランス・スペイン系住民と仲が悪く、カナル・ストリートという大通りを挟んで両者は分かれて住んでいたそうです。
夜はCafe Amelieでナマズをいただきました。
すごく上手に調理してありましたが、やっぱりハーブで抑えないといけない程度にはにおいがあります。
ジャズクラブが並ぶフレンチメン・ストリートに行ってみます。
アーティストの出店もいくつか。
目を付けていたクラブはなぜか開いておらず、しかし路上に演奏の音がガンガン漏れていて、わざわざ入って聞かなくてもいいかなって思ってしまいました。
夜歩いて大丈夫かな?という若干の心配は杞憂で、観光客が普通に夜中まで歩いてました。
23日。セントルイス大聖堂がきれい。
ミシシッピ川の河口まであと90マイルとのこと。2年前にミネソタで水源を見たところから、弊管理人も川も遠くまできたものです。
バスツアーで郊外のオークツリー・アレイ・プランテーションへ。
名産のサトウキビを作るプランテーションで、今は財団が管理して観光客を受け入れているそうです。樫の並木がアイコン。南部のプランテーションというと棉花かなと思うのですが、棉花は乾燥したところ、ルイジアナのように湿ったところはサトウキビなのだそうです。どちらも労働集約的な作物で、サトウキビは刈り取るとすぐ腐ってしまうところ、Crystalization=つまり砂糖の結晶の形にする技術ができたことで保管が可能になり、利益性の高いCash Cropとなった。
こちらは奴隷の家。奴隷にも労働が楽なHouse奴隷から、外できつい作業をするField奴隷までランクがあった。1808年には連邦議会によってアフリカからの奴隷輸入が禁じられたので(港にあった解説看板によるとこっそり1830年まではやっていたらしいが)、バージニアやノースカロライナなどもうちょっと北の方の南部州から集めるようなこともしていたそう。
主人の家、奴隷の家にそれぞれヒストリアンがいて説明してくれます。主人が奴隷を折檻して殺してしまうような映画などがあるが、そもそも奴隷は資産なので無闇に危害を加えることはなかったとか。1865年に南北戦争が終わって奴隷解放になり、奴隷はどうなったかというと「奴隷」から「すごい貧乏な人」になっただけで、サトウキビを扱うという地元で必要とされるスキルをもってアイルランドやイタリアなどの後発移民と競いながら小さな土地を持ち、子どもを学校に入れ、大学に入れ、ということを何世代もかけてやっていったとのこと。
日本語では一言「奴隷」ですが、ヒストリアンはslaveではなくenslaved personというんですね。理由を聞くと「奴隷という人がいるのではなく、人を奴隷化するという行為に焦点を当てた表現で、現代英語において現在進行形で置き換えられつつある表現だ」との説明でした。ご主人一家が住み、ルイジアナの政治・経済界の要人が食事会をしていた白亜の母屋をバックに記念撮影してる人たちを見ると、それで何が変わるんじゃいと思いますが、まあそういうこと。
行き帰り、サトウキビの収穫作業がそこここで見られました。2月ごろ作付けして、11-12月が収穫時期だって。機械化により作業は様変わりした。
ツアーに付属している、沼のボートクルーズ。
といってもグーグルマップ見てたら狭い水路をちょっと移動しているだけで、見られるものといっても冬のせいか動きの鈍いアリゲーターと泥食ってるブタ、タヌキやサギと地味め。客も頑張って楽しもうとしている苦しさがあった。
しかしそんなこともあろうかとガイドのおにいさんが子どものワニを用意していて、これを客に持たせて写真タイムを設けていました。場があったまって大団円。いいリスク管理だ。
このあたり、ヌートリアという外来生物が増えすぎて湿地の植物を食い荒らすなど生態系に影響が出ており、駆除すると州が1匹$10くれるというのでみんな銃を持って撃ちまくっているとのこと。南部州の中でも南部のディープサウス、いかにもというね。あと目の上と下の両方にラインを引いてチャップリンみたいになってる絶対トランパーな強めのオバハンとかも南部でよく見る生き物であった。
夜はCochon Restaurantで晩酌。これはブタのパテみたいなやつで、妙に生々しい味がして、これなんだろうと思ったら、脳とか目とかまで含めた頭全部を固めたもんだとかそんな説明でした。ひえー。ガンボはおいしかったです。
24日。朝メシにCafe du Mondeのベニエを食います。
ベニエ屋って家からそう遠くない街にもあって、行きたいなと思いながら行ってなかったところです。どんな食べ物かと思ったら揚げパンにパウダーシュガーがかかったやつでした。げふ
店の外にはやはりラッパふいて歌ってチップをもらうお兄さん。12/24なのでクリスマスソング多めでした。店の人からは飲み物の差し入れ。チップをバケツに入れたら握手されました。
ちなみに路面が濡れているのは雨ではなく、早朝にこのあたりの道は車で水まいて掃除しているもよう。そうでないとすぐ汚くなるのでしょう。確かにこれだけ人が多くてばっちい感じの街でも全然臭くなかった。えらい。観光地。
ガーデン地区というところの街歩きツアーに参加してみます。
めちゃくちゃ金持ちの家が集まっているところ。「広い家に住みたい人が集まってくる」と現地人。
このあたりの建築はItalianateという様式。暑くて湿った当地ではエアコンのない時代には家の中に風を通すかが命で、高い天井も工夫の一つ。あと、ピンクの外壁は金持ちの証しで、それは塗料がブタとかの血を混ぜた高価なものだったからと。もちろん今は使ってないそうです。
歩道がボッコボコなのですが、それはこの地区に人が住み始める前からある木を尊重してだとかなんとか。ほんとかな。
街のかなり中心部に墓地があります。この地域のお墓は家みたい。一帯が沼で地下水の水位が高いので、地下に棺桶を埋めると大雨の時とかに浮いてきてしまうため、お家を作って地上に埋葬します。一軒一軒が家族のお墓。では家族のない人、お金のない人はどうするかというと、そういう目的のNPOがあって、登録すると埋葬してくれるのだそう。ちなみに1970年代にカトリックが火葬を認めたので、80年代には施設が作られて火葬もされているようです。
路面電車で中心部に戻ります。
夕方、セントルイス大聖堂でクリスマスイブのミサをやるというので潜り込んでみました。
南部の教会だとジャズライブみたいになるのかな?と根拠のないイメージで見に行きましたが、がっつりカトリックのミサでした。うっかり前のほうに座ったら聖歌を何個も歌い、洗礼も受けてないのに見よう見まねで聖体(ホスチア。丸い煎餅)をもらって食うというフル参加になってしまいました。
クリスマスの歌にはJoyという言葉が出てきますが、坊さんはウクライナやらガザの情勢を引き合いに出して「私たちはこのクリスマスにJoyできるのだろうか?」と問いかけます。おお意外と社会派じゃん、と思ったところ「でも神がいるので大丈夫です。メリークリスマス」みたいなオチがつき、ほんと宗教は思考停止の道具だなと思いました。
歌って、説教聞いて、横とか後ろの人と握手したりハグしたりし、歌って、説教聞いて、なんか唱えるライブ。周りを見ると聖歌は歌ってる人も歌ってない人もおり、坊さんから受け取った聖体もすぐ食わずに注意される人もおり(弊管理人含む)、強固なコミュニティがあるのか、日本のお寺のように別に宗教心がない人もいたりするのかはちょっと判別はつきませんでした。いずれにせよ中でも外でも挨拶はメリークリスマス。
25日は帰るだけ。さすがにやっているお店は少なく、なんか遠くが煙ってるなーと思いながら空港行きのバス停に向かっていたら雨が降ってきました。
しかし飛行機は定時運航。離陸した記憶がないくらい寝て、2時間ちょっとで着きました。
春の陽気のニューオーリンズと違って、バージニアはしっかり寒かったです。ちょっと気分が変わっていい旅でした。
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日本より安いので、帰る前にと今年出たiPad miniを買いました。さすが動作はサクサク。しばらく活用の仕方を考えます。