« ピアニストになりたい! | メイン | けらら »

日本的未成熟をめぐって

(2010.3.7ちょこちょこ修正)

100306cjap.jpg
冷たい雨の土曜日、大岡山の東工大で開かれた国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」の2日目、「日本的未成熟をめぐって」を見てきました。
なんか文系のシンポは久しぶり。観客は思想に興味のある学生さんが多い感じ。黒縁セルフレームのメガネかけてニヤニヤしながら喉を使ったけっこう通る声で早口で小難しい言葉を使ってダベってる人がけっこういました(笑)

あ、さて、企画の意図は、会場で配られたパンフレットから引用させていただきます。

美術作家の村上隆、映画監督の黒沢清両氏を招き、日米の研究者が対話するシンポジウムです。 マンガ、アニメ、ゲーム、アイドルなど、現代日本文化の中心には「未成熟」、あるいは成熟拒否(去勢不安)のモチーフがしばしば現れます。現実の描写から乖離したファンタジー、「かわいい」女性キャラクター、怪獣やロボットなどのだつ人間的な立体造形、幼児的な暴力表現……。それらはしばしば国内では「子どもっぽい」ものとして忌避されてきましたが、他方でその特徴こそがいま世界的に欲望されています。このシンポジウムでは、そのような「日本的未成熟」のもつ文化的、社会的な意味を、グローバルな受容状況を鏡として考えたいと思います。

司会は東浩紀さん、登壇者は上記2者のほか宮台真司さん、ボストン大助教授のキース・ヴィンセントさん。

ヴィンセントさんは、日本の未成熟の原点を原爆と占領(「精神年齢は12歳」!)に設定してみせました。大江健三郎、江藤淳などその未成熟を批判的にとらえた戦後の作家に対して、村上、黒沢はそうした「未成熟・対・成熟」という二項対立に窮屈さを見出し、風刺などの別戦略で乗り越えているのではないかと分析しました。

続く村上さんはあるロリコンのアーティストをアート業界に認めさせ、経済的成功を得させる過程を紹介。それは、西洋のアート業界にまず受け入れられやすい方法で侵入してから、本当に描きたいもの=ロリコンを飛散させる方法といえそう。「クール・ジャパン(村上さんはそんな言い方やめろと言ってましたが)の可能性」実践編ともいえるお話でした。芸術(霊感)と経済(戦術)を両にらみすることの意義。

黒沢さんは、自身の作品のアクションやホラーのシーンが、意図する効果が海外の批評家たちに対してもたらせなかったと振り返りました。アニメや文学のように一つ一つのシーンや言葉に全て意図を込めて相手にメッセージを送り届けようとするのではなく、ある程度のところで観る側にもメッセージ伝達の作業を共有してもらおうという姿勢が「未成熟」といえるのではないかと指摘。

宮台さんは、「かわいい」が60年代以降の日本で果たした機能の変遷を解説。ビートたけしも「かわいい」、街のおっさんも「かわいい」と、自分の周りのさまざまな毒性を解除していき、それによって不安な「わたし」が社会に漕ぎ出していくことを可能にする機能は、ひょっとしたら今まさに複雑化、不透明化する社会を迎えた国で「かわいい」が受け入れられるカギになるのではというお話。

4者4様に「未成熟」と向かい合っていたという印象で、これに横串を刺す力は私にはありませんが、各人の発表のあとにあった討論もかなりいろいろな論点を含んでいて考えさせられました。

司会の東さんのつぶやきによると、書籍化したい(ほど本人的にもよかった)そうなので、本になったら手にとってみられるといいと思います。このエントリーの拙い要約を読むよりやはり通しで見たほうがいいと思います。村上さんが「かわいいとは死である」というかなり緊迫したテーゼを次回作に盛り込むという話とか、黒沢さんのアバター一刀両断(笑)とか、要約に盛り込むとちょっと枝が広がりすぎるので外した興味深い話なんかもありましたので。
終了時の会場の拍手はかなり熱気のこもったものだったように思います。

以下もちっと詳しい備忘録。↓こっち読むともうちょっと伝わるかも。
長いので折りたたんでおきます。

■キース・ヴィンセントさん(ボストン大、比較文学)

(・自分の持っている学生は日本のことを勉強すると自分の子供時代を追体験できるように感じている
 ・彼らのイメージがどこからきたのかも考えてみたい)
・「幼稚な日本」の像の源とは。(1)占領=去勢、(2)父を喪失した母性社会という二つのシナリオ
・いずれも精神分析のモデルに依拠している
・しかし、未成熟を説くよりも、そのイメージ形成にどういう観念的作業が働いているのか考えたい

・村上隆。アメリカ型資本主義経済の実験場=「おこちゃま」日本の60年、を自覚している。が、それを批判するかわりに楽しんでいる。my lonesome cowboyという作品は、元気さに満ちていて、ナルシシスティックで自己充足的。精液を投げ縄のような形にした姿だが、オルガズムに流された表情ではなく性的衝動を乗りこなすエゴの強さを見せている
・村上は「日本的未成熟」のスタートが原爆と占領であったことに自覚的。そのうえで近代化、成熟、大人さを風刺する

・黒沢清。「トウキョウソナタ」(2004)という作品は、失業した父(父性の失墜)と、未来の見えない2人の息子が登場。長男は米軍に志願して就職。弱った父親にとってさらなる一撃になる。思いとどまるよう働きかけるが、対立は解決しないまま母親にゆだねられる。結局、成田空港に発つバスを見送るのは母親で、父親との葛藤を乗り越えない。日本にあるのは、9条により今後戦争を起こすことがない=戦後が終わらない、という死に等しい静止状態。そこから世界のどこかで動いている歴史(戦争)に向けて出て行く=「戦後」から解放される長男
・次男はピアノで音楽学校に進む。無経験から数週間でピアノをマスターしてしまうというリアリティの欠如などによって、こちらの物語は戦後の時間の直線性を無効化する

…村上、黒沢は「日本的未成熟」を批判する(その裏返しとして「成熟」を称揚する)のではなく、風刺したり乗り越えたり無効化している、といったところか。

■村上隆さん(現代美術)

・村上さんのところでプロデュースした「ミスターさん」というアーティストを15年かけて海外に認めさせるまでの経緯。初めは西洋にウケる絵で西洋アート界に橋頭堡を築き、初めて本当に描きたかったものを発表。ロリコンをアートとして認めさせる(!)トロイの木馬のような戦略→戦前も戦後も続いた西欧にテクノロジカルに劣ってきた歴史(「貧しさ」によるビハインド)をどこかで切断できないかと挑戦してきた

←後半の討議で村上発表に関わる部分は次の通り。

東:日本のポップカルチャーって社会とのコミットメントないと思うが
村上:GEISAIやっていて、うまくやってるやつとやってないやつと。ぼくらがいる場は、資本主義とどう立ち会うかということだと思う。音楽産業のようにアートに社会が大きな期待をかけてくる波をどう受け止めるか。今は説明できないが、あと10年15年すると、輪郭と実態をもってでてくると思う
東:資本主義批判と受け止められている?
村上:不安にかられて実態があるのかをかみ砕いている感じ。
宮台:思想やってるとフーコー的問題だなと思う。社会に外はなく、外に立って批評はできない。モダンアートは社会システムの中に組み込まれていた。良い悪いではなく、それ以外のあり方はない
東:ミスターさんの売り方は両義的。批評なのか、ほんとにプロモーションなのか。あれがなんなのかわからない
村上:芸術家は自分のアンテナを説明できないが、アンテナのついている場所は優れていると思う(※自分の嗅覚を説明できないが、嗅覚そのものは優れている、ということ)。社会にコミットさせるにはすごい予算がかかる。15年でアート業界にロリコンを認めさせた
宮台:村上のやっていることがアートとして受け入れられるのは当然だと思う。無関連化機能は、洗練によって可能になっている。実体を感じさせるような。村上の作品は日本人には命令文の機能を持っていないが、(海外の)ある種の人にはもっている。批評的だ
キース:村上のフィギュアのあいまいさ。男性性と成熟の問題について
村上 もの作る人はあんまり考えない。ただアンテナはいい。霊媒師みたいに社会と自分の位置関係を正確に把握できる。男性を描くことで自分がどう変わるかをみた。両方とも男を作っている。ヒロポンはヴァギナがない。男性的射精。商売なので、これ以上勝ち続けるギャンブルはできない。欧米のマーケットからスポイルされないためにどうしたらいいのかというのが今のテーマ。

■黒沢清さん(映画監督)

・日本映画の世界は古くさい撮影所の伝統。徒弟制度のよう
・黒沢(明)、小津、溝口は未成熟としてではなくマスターピースとして受容されているようだ。その後現代までの日本映画は関心も持たれていない。現代の監督で最も知られているのは宮崎駿。もともとは東映という古いシステムから出てきた人だが、今は違うところで作っているのだろう。黒沢、小津と宮崎にどういう連続と断絶があるのか。そこはまだほとんど考えられていない。自分はその間にあると思っている

・会場で、自作品から、ヤクザ映画のカチコミ場面、ホラー映画の恐いシーンを上映。これを見た海外の批評家は「とても日本的」と評した。そのポイントは(1)静か(2)スタイリッシュ(3)平面的。アクションだとか、ホラーだとか認識されずショックを受けた。自分では時間も予算もないなかで作ったもの。
・最近、ひとつのことに思い当たった。アクションとかホラーのねらいが徹底していたか。期待はしたが、あからさまに狙ったか、主張したかといわれると、そこまでは……。表現者としては未成熟だったのでは。徹底、あからさま、それが成熟した大人であって、相手に何かを期待するのが筋違いなのかも。ほのめかして、伝わることを期待する、これで大丈夫という暗黙の了解の中で作品を提示するのは未成熟なのかなあと

・ただ、何が狙いかわからないが漠然と過ぎていく映画、そういうものでも成立してしまうようだ。狙いがなくてもカメラを回せば何かが映る。アニメではそうはいかないのかもしれない、全てのカットのすみずみまで効果を説明できるように作っているのでは。ハリウッドも1秒1秒が何かを狙っていて。目の前の対象物に子供のような純真さで、というのは案外まっとうなアプローチなのかも。映画は誕生間もない未成熟な芸術。日本人がやると案外いいのでは

←後半の討論で黒沢に触れた部分は以下の通り。
キース:(※写せば映ってしまう映画と違って、細部までを意図的に組み立てなければならないアニメは)文学みたい。文学もその言葉を(※あえてある意図のもとで選び取って)使う限りその言葉は出てこない。いちいち描写しないといけない。完全に視点をコントロールしている
黒沢:(※ひとしきりアバターの悪口を言ったあと)作り込まれたものとしては楽しく見られた。アメリカ映画はこれでいいと思う
宮台:戦場でワルツを、という映画は、レバノンで起きた虐殺を扱っている。アニメで描いている。顔を出せない人がいるというのと、これが現実というものが戦場には絶対ない。現実は所詮うそ、戦場はその程度、というオフビート。そういうものを描く方法として使うことはある。また見たくないものを消すために使うことも。黒沢の映画はぜんぶリア充批判。現実があるように思わせるのは卑怯で、それを取り去れば本当に怖いものは何なんだとなる。「これはリアルだ」とかいうのを受け付けない人なんじゃないか。みんなが家族だと思っているものは不可能で、不可能の象徴としてしか描けない。現実への批判ではありえるが、現実探索への批判になる。
黒沢 全共闘世代への反発はあった。

■宮台真司さん(首都大、社会学)

・未成熟とは何か、どういう機能を果たしているか

・「カワイイ」のメディア進出は1963年のマーガレット、フレンドから。当初は子供に対する形容。誰にでも好かれるということ
・成熟した身体に使われるのは1969年ごろ、「奥様は18歳」のヒットから。カウンターカルチャーの文脈、「大人だけど大人じゃない、凡庸な大人じゃない」
・1975年、GOROが出てくるとまた変わる。全方位性(「誰にでも好かれる」)から個別性(「ぼくだけがわかる」)へ
・アイドル的な「かわいい」の歴史と平行して起きている。加納典明らの奔放ヌードの時代。年少世代が、性のあふれ出しに困惑する。自分はそうなれそうにない。自分は無理に決まっている。→陸奥A子を参照。性的な外界から守られる繭として
・同時代に、交換日記ブーム。1973~74年。丸文字。繭にこもるためのカワイイツールを使えばお互いに無害になれる
・そのあと、1976~77年に丸文字の使われ方が変わる。ラブホテル落書き帳、身の上相談から丸文字の実況中継に変化する。ロマンチックからキュートに。「カワイイモードに入れば何でもあり」に。ビートたけしも、オヤジも、なにもかも「カワイイ」で解毒できる

・性に乗り出すための、繭に入ったままアクティブになるためのツールになる(※つまり繭はその中にただ引きこもるためのものではなく、自分が世の中となんとかやっていかなければならない時に、そこに現れるさまざまなどぎつさを「かわいい」のレッテル貼りによって解毒できる=複雑化し生きづらくなる社会の文脈を無関連化する、防具と考えるべき)。こういうモードで100人とセックスしても成熟しない。性の経験が関係性と関係ない記号になった。主体から「あるある」へ。80年代前半の漫画
・そして1980年代後半のトレンディドラマ。あるある。クリスマスイブ。それを背景にブルセラ女子高生。そこに逸脱ではなく解放を見いだそうとしていた

・1996年がピークとして援助交際は下がる。オタク、ナンパの境目が消える。ナンパが痛くなる。2000年代に入るとアキバがオタクの街ではなくなる。全体として暗くなる。カワイイカルチャーの終焉
・建前が通用する空間(※=カワイイで処理するべき、対峙するべき社会と呼ばれる全体)があったときは、カワイイを利用した「何でもあり」(社会的文脈の無関連化)が解放でありえたが、90年代後半に入って、回避すべき現実のきつさが変わった
・96年に消えたようにみえる。残ったのはオタクの下位区分としての世界系(虚構との戯れ?)とバトルロワイヤル系(現実との戯れ?)

・というわけで、「カワイイ」の社会的文脈の無関連化機能は他国でも有効に使われていくかもしれないが、日本では既にその使い方はできない時代になっているのでは
(※『サブカルチャー神話解体』のその後を聴けたような気分になりました)

←村上さんからコメント:こういう話は、今から全世界の文化圏の人たちが欲するネタだと思う。それがうまくかみ砕いて伝わっていないことが残念
←東さん:こういう話がグローバルに翻訳されて、クリエイターたちに還元されていくことを願う

About

2010年03月06日 23:58に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「ピアニストになりたい!」です。

次の投稿は「けらら」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35