東京建築祭2025。本郷にある元旅館、鳳明館が開放されていたので見てきました。以下は館内展示や口頭での説明によります。
・本郷には明治10年代(1870年代後半)ごろから、東大など高等教育機関の設置に伴って下宿街が形成された。賄い付きの下宿が旅館を兼ねることあった
・昭和初期にかけては日清戦争や東京大正博覧会の景気もあって東京最大の下宿街に成長した。明治25年(1892年)時点で約500軒
・発展の原動力は地縁・血縁による共助だった。鳳明館を含め、創業者の半数以上が岐阜県出身者。西美濃の輪中地帯で水害対策のため相互扶助が不可欠だったとかなんとか
・本郷が旅館街になったのは昭和初期(1920年代後半)以降。最盛期は昭和3年(1928年)で約120軒
・戦後は戦没者遺族の集団靖国神社参り、農協の陳情、修学旅行などで需要があった
・昭和20~30年代の修学旅行の宿泊代は300~350円+米5合、または全額を米で支払い、ロビーや廊下には米袋が積まれていたそう。最盛期は本館234畳に300人が泊まった。「お座敷さん」は1人で8膳を重ねて運んでいた
・コロナ禍前はインバウンド需要もあった
・現在残る建物は鳳明館3館を含め4館。東京全体でも伝統的旅館は10館に満たない
・鳳明館は下宿「鳳鳴館」として明治31年(1898年)開業、その後に下宿・旅館の鳳明館になって、昭和25年(1950年)から旅館専業。1950年代には台町別館(住宅を旅館に転用)、森川別館(本多家の江戸屋敷だった場所)もできた
・大正12年(1923年)の関東大震災では東大が図書館や法学部の講義室が全焼する中、鳳明館は被害なし。昭和20年(1945年)の東京大空襲では徒歩5分の菊富士ホテルや周辺のお寺などが焼失したが、やはり被災しなかった
・コロナ禍で旧持ち主が従業員を解雇しマンションにする、という意向を示したが、地元の建設会社が大手ディベロッパーを斥けて落札。今はイベントスペースや日帰り利用の施設として営業しているとのことです
・ちなみに今この地区では旅館の営業が規制されており(条例かな?聞き忘れた)、規制前から営業していたところだけが続られる状態だった。現所有者は単なる建物の購入ではなく「事業承継」という形をとったそう
・「このあたりにあった旅館はどれもなくなって、今マンションだらけでしょ?旅館は営業しないといけないけど、マンションは不労所得が入ってくるから」。なんかいろいろあったな?という話しぶりでした
関係ないが、疫学をやってる先生が「文京区ってめんどくさい住民が多いから、調査がやりにくいんですよ」と言っていたのを思い出した。
後楽園の駅から北東に歩いたあたりです。弊管理人は学生時代、本郷に縁がなく、この本郷5丁目という地区も初めて来たはず。確かに東大正門まで徒歩でわりとすぐでした。
東大は五月祭をやってた。すっごい人。こんなに人くるイベントだっけ?
でキャンパスを通り抜けて上野公園まで歩いて陶器市を冷やかしました。しばらく前から茶碗にひびが入ってるのが気になっていたので1個買いたかったんだけど、会計の列が長かったのでやめた。買っておけばよかった。
鶯谷の「岳陽」でメシ食って帰りました。がくよう丼800円。やす、うま。
土日はちょいちょい仕事。
しかし土曜は上記のとおり時間を盗んで遊び、日曜は弊管理人48歳と近所の50歳、51歳と昼飯食って「必殺技ほしいよね」と語りあうなどしたので一応休んだつもりにはなっておきます。
ずっと曇りか雨で涼しかったです。