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命の認識

東京大学総合研究博物館でやっている「命の認識」という展示を見に行ってきました。
12月から始まってはいたのですが、今日は監修している遠藤先生による「遺体解剖見学会」というイベントがあるので、それに合わせて。

博物館の奥まった部屋におびただしい数の動物の骨が並べて置いてあります。
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それだけです。説明書きは何もありません(というのは建前で、何の骨かを書いたシートがひっそり一角に置かれた机の上にあります)。
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つまり、それを見て何を感じるか/考えるかは見る者に対してオープンになっている。
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しかし当たり前のことですが、企画が見る者に対して孤独な認識の作業を課すというのは非常に難しいことです。現に「命の認識」ホームページでは見る者に下駄を預けるための口上としては饒舌すぎるくらい監修者の意図が説明されていますし、たとえそれを読まずにたまたま訪れた人がこれを見たとしても、それを見て何かを感じるときにはやはりなにがしかの先行する人々の言葉に温かく助けられながら感じるしかない。
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とはいえ、それはまあ言いがかりなのかもしれません。監修者としてもそこまで「純粋に見る」ということにアプローチしようとは思っていないでしょう、このしつらえからして。自分は先日、仕事でいろいろお話をうかがった「内臓の重さを支えるものとしての4足歩行動物の肋骨」とか「草をすりつぶす歯とあごの構造」とか「脳の入っている穴」などいろんなものを思い出しながら「これかー」と楽しく拝見しました。そう、むしろ認識をする個人・個性というのは、こういう先行者の言葉の組み合わせのユニークさのことなんでしょう。
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それよりも、14時から(のはずが、ものすごく人が集まったのでちょっと早めに)始まった遺体解剖見学会。展示室では鶏の手羽先(スーパーのパックから取り出してやってましたw)、講義室では去年死んだハシビロコウと11年前に死んだコアラ(こちらは動物園提供のためとかで撮影禁止だった)の遺体を前に、体の構造や機能についてレクチャーがありました(展示とはうってかわって豊かな言葉で満たされていたが、普通に面白かった)。講義室に立ちこめる遺体の匂いは、ノンバーバルな情報としては最も鮮やかに脳に”来る”感じがしますね。死というネガからの反照として得られる、命の認識。

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2010年01月24日 18:06に投稿されたエントリーのページです。

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