1
既に記憶は薄れはじめているが、けさ起きるまで見ていた夢。
友人・家族何人かと車で外出して、神社のようなところへ行った。
友人の一人が弊管理人の顔を見て「お祓いしてもらったほうがいいよ」という。
場所が場所だけに手近に申し込めるところがあり、お祓いを申し込むが、始めるまでに20分ほど時間がかかるという。
その間、みるみるうちに体のだるさが襲ってきて「死にそうな感じ」に包まれる。
ふと事務所の奥の方から、郷里の母方のおばあちゃんが出てくる。
弊管理人の体を触って「死ぬよ」という。
うそー、やっぱり!?という恐怖と、あがく気持ちでいっぱいになる。
視界にテレビ放映終了後の砂嵐のようなものが重なり、気が遠くなっていく。
ここで目が覚めてみると、両手を頭の下に敷いて仰向けに寝ており、手から腕のほうまでびっしり痺れている。目覚める少し前から「これは夢で、起きれば助かるはずだ」と思っていたので、目覚めて一度ほっとしたものの、どっぷりと疲れた朝になった。
前夜に少し嫌なものを見、そのあと酒場でいつも以上に楽しく飲んで、まあ今日の収支はプラスだったかなと思うことにして帰る途中、また嫌なものを思い出してちょっと投げやりな気分になっていたのだった。
こういうとき、逃走体質の弊管理人はこの世を含めたすべてから降りたい気持ちになりがちなのだが、体はすかさず、こうして自らが持っている生への執着をまざまざと上映して見せ、バランスを回復させる。
2
20代の初めの学生時代に文科系の簡単な本を読み始めた弊管理人だが、学校を出て就職した会社では、理科系の人が仕事相手になるセクションを選んだ。このところは、出勤日の多くと休日の一部を理科系の言葉を投げ付けられながら過ごすなかで、理科系の環境を中和する=反理科の方向に振る力として、文科系の本を求める気持ちが維持されているような気がする(最近、だんだん買ったけど読んでない本がたまってきている)。
閑話
生きると死ぬは連続、理科と文科の区別は無意味という突っ込みはあり。
しかし、多くの人がある連続したものをいくつかに分けて語るときは、分けるに足る何かがあるはずだ。虹を3色に分けようが7色に分けようが構わないが、3にも7にも分けられるということは、分けることに意味がないということには結び付かない。そんなことで、暫定的にではあるが区別を引き続き使おうと思う。
休題
3
いくつかの極のうち一つに向かうと、それを引き戻す力が無意識か、意識ぎりぎりくらいのところで立ち上がって働く。そのため、ある極に近づいていくことと、その極に達することにはものすごいギャップがあるように感じている。自殺をしないのも、信仰に存在を差し出さないのも、ひとつのことを究めないのも、そのためだと考えている。
4
「極端から逃げる力」も、「極端に到達しないことができている」と「極端に到達することができない」の2通りの言い方ができる、と一度は思った。たとえば自由が、束縛からの解放/紐帯の喪失というプラス/マイナスの2面を持つというようなことが頭にあったせいか。しかしこれは違う話で、逃げる力は作動させようと思って作動させていないので、実情は「極端に到達できるけれどしない」のではなく「単に到達できない」に過ぎないようだ。極から逃げているのではなく、逃げさせられているだけだという不自由が明らかになる、そこで逃避から逃避したい気分さえ喚起される。面倒で貧乏くさい力だ。お世話にはなっているけれど。