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御用学者の肖像とその枠

中央省庁が専門家や利害関係者なんかを呼んでいろいろ討議してもらう審議会、検討会、懇談会のたぐいをよく見るようになって1年ほど経ちます。
仕事のことをそのまま私的な日記に書くのはまあちょっと気が引けるので、ぼやかしたりところどころ改変しながら行きます。寓話と思って読んで下さいませ。

* * *

今日の舞台は、自治体が責任主体となってやっているある事業のあり方を根本的に見直そうとしてある省の政務官の肝煎りで始まり、これまで頻回に開かれている審議会。会は今後どうしたらいいかを省側から諮問され、議論を経て提言をまとめる。その提言を参考にしながら省側は現行法の改正案を作り、国会に出す予定。

登場人物。
委員として参加しているのは、医学の研究者である「座長」、ほかにも医学や法学の研究者、法実務の人、現場の医者、自治体、職能団体、マスコミ出身の人。それから省側は、責任者である局長、実務をやる事務局次長、ほか課長、室長、担当官など。

この審議会はもう十数回開かれているが、最初期からわりと激しいやりとりが続いた。
弥縫策ではだめだ、根本的に制度を直すべきだ、原理原則をまず打ち立てるんだと大きな話をするジャーナリスト委員を座長は「はい、次の方」と受け流し事務局(役所)案を次々と承認していく。ジャーナリスト委員は「座長の進行は横暴だ」と反発。

もともと審議会は「これってどう考えたらいいでしょうか」という役所側からの諮問を受けて委員の間で自由に討論し、意見をまとめて打ち返すものなのだが、議事の中で座長は委員から意見が出るたびに「どうでしょうか、事務局」と役所側の見解を求めながら進行していく。

研究者委員はちょっと気付いたこと、先行研究、時にはかなり根っこにかかわる意見を思い思いに出しながら、しかしそれを具体的にどう政策に落とすべきかは言わない。
自治体、職能団体委員は自分らに負担がおっかぶさってこないよう、理念的な話や、それにもとづいて実現しようとすると莫大なお金のかかる意見を繰り返す。
外部から有識者を招いて何度もプレゼンをしてもらい、外国の例や、政策の経済性の計り方、制度の歴史などを勉強する機会も持たれたが、では、それを受けて今問題になっている制度をどう変えるかの詳細は委員の口からあまり出てこない。

そんなことを何度かやって、論点整理の日を迎えた。ということは次の会議はもう、今日の議論をもとに委員が合意した論点を文章に落とした「提言案」を役所側の事務局が示し、細かい詰めの作業をするという最終段階に達する。
ところが、内容が財源や関係者間の負担割合の話に及ぶと、やはりこれまで大きな話や理想論を言い続けてきた委員たちがまた自説を繰り返した。自治体が責任と出費を負っていたこれまでのやり方ではなく、全国統一実施、国が全額負担せよ、自治体間格差を作るなと。
おそらくこれまで事務局と打ち合わせを重ねてきた座長は思わず発言する。

  「全部国が持てと言うだけなら言える。しかし実現可能な提言を作りたい。現実離れした提言を出しても突き返されるようなものではなく」

これに職能団体委員がかみついた。

  「座長の言葉にがっかりした。根本的に変えるんじゃなかったのか」

これまで発言の少なかった法学委員が座長をフォローする。

  「2つの考え方がある。理想だけ追求したが実現可能性が低くてまるまる無視される答申を作るか、妥協を許容しながらも受け入れられる改革案を作るか。われわれに諮問してきた省だけでなく、カネのことをやる財務省、地方のことをやる総務省も含めて向こうに回すには準備がなさすぎる。私は後者の考え方をとる」

このあと、医療者委員が「カネのことをわれわれに考えさせるな。われわれは必要だと思うことを言う。あとは事務方が財務省からカネを取ってこれるよう頑張ればいい」と言ったころからもう場は散らかった感じになり、この問題は先送りになった。

* * *

だれも好きこのんで役所案を大概追認するだけの仕事を(1回2時間の審議会に遅刻したり早退したりしてもいいから出席するだけで2万円もらえたとしても)意義のあるものとは捉えないだろうと思うけれど、大抵そうなる。
たとえば新しい組織を作るべきだと主張した委員は、規模に言及するとしても「アメリカにある同様な組織には数万人いる」という参考にもならない参考例を挙げるだけ。日本に新設する場合、どういう部門に何人の管理者とスタッフが必要で、トップは誰がやり、その法的位置づけと責任の範囲をどうするべきか、年に何回、どんなトピックを検討するべきかといった「制度を動かす」のに必要なこと=ディテールの集積としてのシステムを提案することをしていない。
大きな話はできても、それを分解して政策の言葉に組み直すことができない委員はカッコイイ(けれど影響力のない)反対者として、現実路線の委員は妥協の後押しをしながら、ともに、座長を御用学者に仕立てていく。御用学者という人ははじめからはいない。審議会の力学の中で形成されながら、そうなっているように見える。

* * *

しかしまた、なりやすい人というのもいるんだと思う。
フレームにとらわれやすい(やわらかアタマじゃない)人というか、議論されていることの外に出てみることができにくい=議論されていることの前提が見えにくい傾向のある人は、どうしても「しょうがない」的な結論に行きやすい。フレームが狭いほど、つまり現状を規定している関係者が多かったり、時間や財政などの条件が多いほど、フレームの中で検討し直せる項目というのは少ないので、結局こまごまといじってみても「やっぱり難しいやね」と諦めてしまうわけだ(実は上記の審議会の場合は、12月中に目鼻をつけて来年の通常国会で法改正をやりたい、という時間的制約がかなり議論を拙速にしてしまっていると感じている。法改正はもうちょっと先になるが、半年延ばすことはひとつの突破策だと思う)。

対処として、考えるお作法を勉強するのもいいが、時間はかかる。もっと手っ取り早いのは違う分野の人(自分が医学の人なら法学の人、自治体の人など)の意見を聞くこと、さらに相手に曖昧な大掴みの意見で終わることを許さず、質問を重ねて具体的に詰めていくことだと思う。

* * *

というわけで、肖像と、そのまわりの枠のお話でした。
審議会行政は批判されているらしいけれど、その出口が弊管理人にはいまひとつ思い描けない。専門家とか当事者の話を聞いて政策を作ること自体はいいと思うので、審議会をなんとか改善できないものかなあ、と傍聴しながら考え、つつ、今日は湿布しても首が痛い首が痛いと苦しんでいたのでした。最近うなだれてばかりだからか。

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2010年10月29日 22:25に投稿されたエントリーのページです。

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