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幹細胞医学が見る夢

近所の船堀で開かれている第49回日本SF大会と、慶応GCOE「幹細胞医学のための教育研究拠点」のジョイント企画・市民公開講座「幹細胞医学が見る夢」を見てきました。
(主に自分用備忘録)

慶大から八代嘉美さんが司会、講演は『パラサイト・イヴ』の瀬名秀明さん、慶大からiPS細胞研究のリーダーのひとり岡野栄之教授、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)研究の牛場潤一講師。後半は東浩紀さんが加わってパネルディスカッションを行いました。

■牛場講演

足を動かそうとか手を動かそうとかするとき、脳の特定の部分で電気信号の流れに変化が起きます。それを頭の表面につけた電極で読み取り、その情報を使って、事故や病気などで動かなくなった体のかわりに仮想空間のアバターやモーター駆動の人工手足を動かす、というシステムを紹介されました。

思えば、動く。それがBMI。
ひとつの用途はよくあるように、重度の運動障害を持った人の機能を補完すること。たとえば仮想空間のアバターを使ってそこで人と交流したり、ネットショッピングをしたり。
もうひとつは、↑の発展形として、機能回復を助けるリハビリの機械としてのBMI。「手を動かそう」と思うと、自分の意志では動かなくなった手に取り付けたモーターの駆動によって手を動かす機械に慣れていくうちに、筋活動が自分の意志でできる=機能回復していくことがあるのだそうです。

■岡野講演

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幹細胞研究の歴史のおさらいと展望。
幹細胞は、筋肉や骨、脂肪、神経など機能をもった細胞に分化する「もと」の細胞。これを使った再生医療とは、心筋梗塞になった場合に心筋細胞を幹細胞から作って、悪くなったところに植えてあげれば治る!みたいなことをやろうとしているのですね。

分化しきった細胞を大人とすれば、胚性幹細胞(ES細胞)はまだ赤ちゃんに相当し、これから何にでもなれるような細胞。20世紀の最後に作られたこの幹細胞の研究は今でも進んでいますが、生殖補助医療で作ったけれどいらなくなった受精胚を壊して作るため、ふたつの大きな問題が存在します。
ひとつは技術的な問題で、細胞移植される側からみれば「他者」の細胞を植え込むため、拒絶反応をどうするかという問題。異物を排除しようとする免疫システムを薬で抑制することで対応しますが、感染症のリスクも大きくなる。自分の分身=クローン胚を作ればこの問題は解決しますが、まだできていない。
もうひとつは生命の萌芽を壊すことの倫理問題。

それに対して、2007年にヒトで樹立された人工多能性幹細胞(iPS細胞)は、本人の体細胞(皮膚などの細胞)を”リセット”してES細胞のようにさまざまな細胞になれる幹細胞にしてしまったというもの。これで上のような問題はおおむね回避されますが、確実に狙った細胞に分化させたり、植えた細胞が腫瘍にならない方法を確立したりといった技術的な課題がまだまだ残っています。

岡野さんの研究では、脊髄損傷したマウスの下肢に移植して機能回復させたものが有名。ほかの使いでとしては、薬の効果や副作用を見る研究に使ったり、生殖細胞(精子や卵子)を作る研究さえされているということです。

先端技術の研究では「問題の発掘」「仮説の設定」「検証」が重要ですが、SFの想像力は「問題の発掘」に貢献しうるのではないかとおっしゃってました。

■ディスカッション

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今回登壇したなかで唯一文系出身の東さんがだいぶ呻吟しながら、それでも架橋役としてはかなり拡がりのありそうな論点をひねり出していられたように思います。
SFと生命科学の関係について。いろいろと話し合われたのですが、「たとえ男性であっても、iPS細胞から精子も卵子も作れるので、男性同士の子どもが作れる」みたいな、これまでの人間観とか家族観、身体観からはみ出るような話は、SF(エンタメ)よりも純文学と認識されるのでは、という東さんの指摘。
実は管理人はSFをほとんど読まないのでSF/純文学の違いがストンと落ちないんですが、つまり、SFはわりと「社会のお約束」のようなものを土台にして技術に関する側面から展開していかないととても書きにくい(ストーリーを立てにくい)ので、むしろそうしたものの外部に出て、社会そのもの・人間そのものみたいなものを考え直すのを主眼にしようとすると純文学の領域に入るのだろうという。ほほう。

それを聞きながらぐだぐだ考えていたのですが、(文理を分離して考えることの是非はあると思うけれども、)先端的な生命科学は既に、男性×男性の子どもを作れたり、女性の生殖可能年齢の制限がなくなったり、霊長類進化の過程を人工的に再現できたり、新しい生物を創造したりといった可能性が視野(の、遠くのほう)に入ってくるという迫力と発想力でもって既にフィクションを追い越してしまっていて、それが人文学に影響を与えることはあったとしても、逆方向の影響関係(思想や小説のぶっとんだ発想が自然科学の研究テーマに接続していくこと)は難しいのかなあ。どうなんだろう。
その意味でか、正確な引用ではないですが、東さんが「20世紀後半は社会の変動が大きくて、思想はそれについていくのが精一杯だった」「身体を考えるにしても、メルロ=ポンティ以降になんかあったっけかな」というようなことを言っていたのが印象に残った。

ついでにいうと生命科学側(牛場、岡野)はそうした「このことが開く新しい意味合い」的発想には――目配りはしつつ根本においては――とても対照的な考え方を話していられて、情念とか、障害のイメージがどうのはなく、QOL向上や選択肢の拡大を目指しているという。とても実用志向で、おそらくそれによる「人間概念の拡張」とかの問題は副産物という位置づけなのでしょう。もちろんこれは良い悪いというものではなくて、習い性となっている着眼の仕方の違いだと思う。
文科省や厚労省の審議会で議論される幹細胞研究のルール作りの場に出てくるのは、研究現場の人と法学や実務家の人という組み合わせが典型的です。それは研究の自由をどの局面で制限する必要が出てきて、それは誰の権利を守ることか、という喫緊の課題を片付けるため(で、だいたいそれより根源的な問題はせいぜい提起で終わる)。生命科学側が求めたり、その視界に通常入ってくる「文系」というのは、そうした”課題対処のための”知恵なんではないか。

と、(SF・文学と生命科学の交差点を探る前提としての)両者の遠さが目についた議論でした。
当然そういう話ばっかりしてたわけではないので、他の人は全然違う感想を持つかもしれませんが。

えっと、あとは、牛場さんと岡野さんが提供したり補足していた話題で、脳の柔軟さみたいな話が面白かったです。いわく「脳は体という容れ物に合うように機能を作っているので、容れ物が変われば新しい機能を付与するのではないかと言われている」とのこと。つまり、BMIを応用して体のどこかに人工の「第3の腕」をこしらえてしまったりすると、それを「(異物だが)動かそうとする→動く」という経験を重ねて慣れていくにつれて「自分の体の一部が動く」と認識するようになっていく、みたいな。また、モニターの中の自分の分身も、それを意のままに操っているうちに、自分自身を動かすのと同じような信号を脳が発し始めるというようなお話。「わたしの身体と捉えられる範囲」が拡張する、というのが一体どこまで可能なのか。2次元まで?文字情報まで?とても興味あります。そしてこの問題ってわりと解明できそうな気がする。

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2010年08月07日 20:03に投稿されたエントリーのページです。

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