地の塩
ユタ州に出張。仕事の内容は土壇場でメインディッシュが消えるというちょっと微妙なものになってしまいました。しかし携帯の電波も入らないくらいの砂漠、しかも米軍の用地という外国人にはハードルの高いところに招聘元が頑張って手続きして入れてくれるというので、わりと前向きな気分で行くことにしました。分割夏休みのパート2もちょっと繋げてね。
【8/29(火)】
朝起きると、長年レビー小体型認知症を患っていた母方の叔父が前日に亡くなったという報せが父から入っており、もやーっとした気分になったものの、とにかく出掛けました。
DCからユタ州のソルトレークシティーに飛びます。
先日のフロリダも2時間半ほどの航路を行くのにダイバートして10時間かかりやがっており、とにかくアメリカの国内線は信頼できないので、今回は
・デルタ航空が飛ばしている唯一の直行便は時間が遅く、何かあった際に回復不能になるため、あえて午前中(10時)発の経由便を選ぶ
・南東部にハリケーンが迫っていたので、経由地はアトランタなど南部の都市を避ける
・デルタ航空のハブで、ソルトレークシティーにも複数の便が飛んでいるミネアポリスで乗り継ぐ
という慎重な経路選びをしました。ミネアポリスで持参したおかかのおにぎり弁当(というか残り物)を食べてまた乗って定時よりちょっと早いくらいで到着。
ソルトレークシティー空港の到着ロビーに出るとこんな人いた。ネタなのか、どうなのか。
今回のレンタカーは韓国のKIAのセダンでした。2020年モデルにしては古めかしかったです。特に面白い車ではなかったので写真はなし。
ちょっと時間あるし、ソルトレーク見に行くか。
州立公園は空港から20分くらい?わりとすぐです。入場料5ドル。やす。
海っぽい匂いがした。ビジターセンターの説明書きによると、5億年~2億5千万年前は海の底だったそう。その後、地球内部の熱によって地殻が波打ち、氷期に雨量が増えたことで低地が湖になり、それが繋がって2万5千年前にはボンネビル湖という巨大な湖になった。現在のユタの大半と、アイダホ、ネバダの一部に及び、面積は5万平方キロ、深さは300メートルだったとのこと。湖の存在はこの地方の大雪も引き起こしているそうです。
振り返ったところ。うーん西部の風景。
でもまあ「見た」くらい。空港近くのホテルに投宿して、中華のテイクアウト食って寝ました。
【8/30(水)】
お仕事の日です。タイムゾーンは山岳部時間で、DCより2時間遅れなので朝6時起きでも早起きな感じがしません。よく寝られました。
朝飯食って、街を出て州間高速80号線(I-80)を西へ。途中で南に向かう道に入ってずっとこんな。
目的地はダグウェイという街です。街というか、米軍の駐屯地。国内で最も人里離れた施設だそうです。写真を撮れる機会は極めて限られていましたが、これはOKと言われたので。
今回はアメリカの政府機関主催の行事なんですけど、生物・化学兵器の研究をしているところで、これまで外国籍の民間人を入れたことがほとんどなかったらしく、弊管理人の立ち入り許可にはいろんな人が骨を折ってくれたようです。弊管理人が撮った写真の検閲がありましたが、いいよいいよ、見てくれたほうがむしろ安心だよくらいのつもりで検閲してもらいました。ただ、アイダホの山火事の煙が流れてきていて(今年そんなの多いな)視界がぼやけがちだった。「晴れていれば果てしなく砂漠が見えたんだけどね」と主催側の人も残念そうでした。
なんだかんだでアレンジしてくれるの、ありがたい。
この日集まったご一行の中で唯一の外国人だった弊管理人ですが、このところアメリカ人とばかり遊んでいたせいか、日本にいるくらいの感覚で遠慮なくべらべらヘタクソな英語を喋りまくり、交流しまくり、いろいろ頼み事をしまくり、好き放題やりました。一緒になった、ユタ州立大学で宇宙関係の研究広報をやってるおじさんは元軍人、ほかにも地元テレビの人などが結構いましたが、みんなフレンドリーでした。「ユタ初めて?印象どう?」と結構聞かれたかも。きれいでいいとこだと思う!と答えておきましたが、なんとなく彼らの間には「いうてもま~田舎だけどね」という自虐がちょっとあったように思います。
構内の売店にも寄らせてもらっちゃった。
マグカップね。AREA 52(ネバダにある核兵器などやってる別の試験場)を推しているのだろうか。ていうか、ふざけられるハードルがだいぶ低いのはいいですね。1個買ってしまった。
17時に仕事終了。
で、もときた道を戻って、途中で東に向かうとソルトレークシティーですが、西に行くことにしました。
日もだいぶ傾いてきましたが、I-80沿いに「ボンネビル・ソルト・フラッツ」というスポットと休憩所があるので寄りました。昔あったボンネビル湖が干上がって、残った塩が地面を覆っているところです。
おーこれはすごい。
下はこんな感じです。
意外とべちゃべちゃしていて、歩いていると靴の裏にどんどんくっつきます。
I-80の北側の眺望がよいので、西行きの路線沿いにある休憩所に止まるのが必須です。西行き、東行きの車線が分離されていて、東行きの車線に入ってしまうとだいぶ走らないと戻ってこられないようで、時間は遅かったけど止まってよかったです。
そこからすぐの、ユタ―ネバダ州境の街ウェンドーバーWendoverのコンフォートインに泊まりました。90ドルしないの。それでも街で2番目くらいに高い宿。コンフォートインがコンフォータブルだったことはないのですが、ここもまあ値段なりでした。
仕事を一気に仕上げて、東京とやりとりして寝ました。
【8/31(木)】
宿の朝。前日よりは空気が澄んでいる。
いい宿に見えますが、まあ部屋はいわゆるモーテルです。寝るだけ。冷蔵庫に前の客のピザが残ってた時点で弊管理人のテンションはかなり下がりました。
でもまあ、一応朝飯も出るし、食堂のテレビでは地元の番組で「ワニの燻製を作ってみよう!」みたいな企画をやってて西部ワイルド感が出ててよかった。アメリカの宿の朝飯は、だいたいパンやワッフル(タネを流すと焼いてくれる機械があって熱々を食べられる)、ヨーグルト、コーヒーやジュース、シリアル、付くところはスクランブルエッグとソーセージかベーコン、というラインナップで、それは数十ドルのところでも200ドルのところでも変わらないので、朝飯あるだけいいや、という期待値です。
地図を見ていてたまたま見つけたHistoric Wendover Airfieldに行きました。車で数分と近い。
旧・米陸軍航空隊の基地のようです。今でも飛行場として使われているようで、小型ジェットが着いたりしていました。
写っているのは第二次大戦当時の管制塔、両脇は博物館です。全部で8ドル。
管制塔、登っていいんですけど、足元がグレーチングで下が丸見えなのと、手すりが腰くらいの高さしかなくてむちゃくちゃ怖かったです。
ウェンドーバーの街の方を見渡す。
こっちは飛行場。
実はエノラ・ゲイが広島に落とすリトル・ボーイを積んでテニアンに向け出発したのがこの飛行場だそうです。全然知りませんでした。ほんとにたまたま見つけた。近代戦争の幕開けを受けて1939年に爆撃・射撃試験場として構想され、1941年の真珠湾攻撃で「外国勢力による攻撃」の可能性に目覚めて爆撃部隊の訓練が盛んに行われたようです。都市から離れた都市ということで、そういう活動がしやすかったらしい。
オリエンテーションのビデオが見られる部屋のすみっこにある、日本にまいたチラシ爆弾Bomb Leaflet。
「私たちの目的は日本の民間人を殺すことではなく、軍部の能力をそぐことです。このチラシは無用な殺戮を避けるためです。見たら逃げてね。……って言ったけど日本政府はこのチラシを民間人が保有することを禁じました~残念!」みたいな説明書き。で、手続きは踏んだので心置きなく空襲するわけですね。
リトル・ボーイのレプリカがあるなど……
これは冬のオペレーションに関する展示。リメンバー・パールハーバーに引っかけてPURL HARDER(編み物を頑張れ!)。冬は寒いのだな。そういえば前の日に通ってきた塩の大地は標高1400メートルって書いてあった。
エノラ・ゲイの格納庫は直してる最中で、中は見られませんでした。
確かに秘密の作戦をやるところは遠隔地が向いてますね。しかし遠隔地すぎて、歴史的建造物になってしまうと維持は大変そうです。盛んに支援を募っていました。いつできるのかな。
「長く苦しい戦争を終わらせるため」という原爆投下の物語は相変わらず説明に出てくるけど、特に高らかに称揚している感じでもありませんでした。落とされた側の様子は当然のように展示されない。でも広島のペアとしてこういうのは見ておくべきだなと思いました。ダグラス・マッカーサーの名前は、アメリカに来てここで初めて聞いた。「ウェンドーバーで訓練された砲手サイコー」と褒めてくれたとかなんとか。
この荒涼とした街にあって、目標となる極東の都市を想像するのは極端に難しかろう。でもめちゃくちゃ縁のある土地なんだよね。
意外と見入ってしまった。これ、仕事にできるかもしれない。
東に戻りますか。
途中で寄りたかったのが、ボンネビル・スピードウェイです。塩湖の跡地で、スピードレースが開催されるところ。I-80を降りて、一応舗装された道を数マイル走ると、どん詰まりに駐車場があります。地図で分かりにくいので、所在地40°45'45.3"N 113°53'46.3"Wにピンを落として向かいました。
ここだ。
照り返しでめちゃくちゃまぶしかった。
I-80に再び乗る手前のガソリンスタンドにはインド料理屋が併設されており、ターバン巻いたお客さんたちが出入りしていました。
絶対うまいだろと思ってチキンカレー(12ドルと良心価格)を注文。持ち帰りの人が多そうでしたが、車で食べるのも嫌なので「ここで食べてっていい?」って聞いたら快くOKでした。フォークとお皿と、あとペットボトルの水までくれた。そして予想通りうまかった。
さあて戻るぞ。
ドライブはずっとこんな。小学生のころ、MSXでやったドライブのゲームを思い出します。途中100個くらいインターチェンジがありますが、そこを降りて何があるの?というくらい何もないインターばかりだった。
中間くらいの集落にあるガソリンスタンド併設のコンビニにソフトクリームがあったので買いました。2ドル。なんかこういう、ちょっとした買い食いとかトイレ休憩とかを特に考えずに挟んで旅ができるようになると、馴染んだなって感じがします。(しかしトラブルを解決する能力はなさそうだし絶対嫌なのでアグレッシブな運転はしない)
ちょうどいい時間に空港に戻って車を返しました。
市内に出るのには路面電車が使えて2.50ドル。やす~。たすかる。
アレな人がいるのは中心部の駅にちょっとだけ、で全体的にはきれいで使い勝手がよさそうでした。
街もなんか妙にきれいでした。
たぶん一番のスポットであるモルモン教の協会地区はめっちゃ直してました。
宿はスイートがなぜか120ドルくらいで取れて、快適だったのでもう観光はいいかなって思いました。宿のジムでちょっと運動して、シャワー浴びて、Arloという近くのレストランでごはん。
こじゃれたレストランのカウンター席に収まりました。味は、うん、まあ、おいしい。くらい。
腹ごなしの散歩で州議事堂だけ。
やはりこういう建物になってしまう。
1847-1869年にかけて、主にモルモン教の人たちがミズーリ→イリノイと迫害されつつ移住してきてできた街。議事堂前の公園には、この世代最後のおばあちゃんが1968年に亡くなったときの碑が建っていたり、指導者ブリガム・ヤングが土地を見渡した山はこの先です、みたいな碑があったりました。
歩いてるとワイシャツにネクタイ(時に名札)のよく自転車に乗って聖書配ってる感じの人たちがいっぱいいてすれ違いざまに挨拶してくるの、ああここが輸出元なんだなと感慨深かったです。中国・杭州の近くの街で全世界のおみやげ(ペナントとか置物とか)を卸してる会社を見たときのような……
で、翌日は特に観光もせず、ゆるっとデトロイト経由で帰ってきました。やっぱり遅れたけどな。乗り継ぎ地で2時間くらいのバッファをとってあったので焦らずに済みました。疲れたけどいろいろ見られてよかった。夏休みパート2へシームレスに移行。