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ウズベキスタン(6)

【8/29】

サマルカンドを歩いて観光する日。
そういえばホテルの机にお祈りの方向が示してありました。
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ホテルの朝食。
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ショルダナクという杏の種、ドライフルーツ、お粥あたりが名物みたい。

昼間のレギスタン広場を見ます。
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メドレセのミナレット、曲がってます。よく見るといろんな建物が曲がってる。
一見きれいな焼き物の彩色も粗っぽかったりして、ここは全体的に、大きさとか派手さに注意が向きがちで、クラフツマンシップの意外な質の悪さに気付きにくいところだと思う。
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「レギスタン」の名前は、もともと湖だったところが干上がってレギ(砂)スタン(場所)になったのが由来。バザールがあり、ビビハニムモスクまで続いていた。巨大メドレセとモスクは、ここでも革命軍による大規模破壊を経て修復されました。
3つある建物の最初に作られたのはウルグベク・メドレセ。ATM完備。
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ウルグベクは天文学者だったので星の模様。先生は住み込み。1960年代に修復。中にはモスクもあり。イラン、トルコ、イタリアからも学生が来ていた。1941年に第二次大戦が始まったあと、ロシアから疎開してきた子どもが一時収容されていたという。
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2つめはバハギル・メドレセ。金で作ったモスク。テラ(金で)コール(飾った)メドレセ。模様は長生きを示すアーモンド。唐辛子はゾロアスター教の意匠、バジルはイスラム教と混ざった形。内部の天井は、円の中心に向かって葉っぱが小さく描かれているため、ドームになっていないのにドームに見えます。
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3つめはコシュ(向かい合わせ)メドレセ。太陽と、トラに見えるがライオンをかたどった模様。シカを狩っている。40教室あったそう。

タイル職人の店で湯飲みを購入しました。
入ると笑顔で商品をアピりまくるわりに、値段交渉になるとすごいシビア。ま、もとが1個3ドルなんですけど。真顔の客あしらいに田舎を感じます(嫌いとは言ってない)。

行こうと思っていたチャイハナが清掃中というので、時間つぶしに入ったブティックと工房。
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しかし弊管理人は買い物に興味がないので、一行が見ている間、外の公園のベンチに座っていました。同じベンチの老人と全く言葉が通じないのに会話になりました。なぜか年金手帳のようなものを見せてもらいました。

お茶休憩。
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お茶とお菓子で一休みするだけなんですけど、この画面左にある、絨毯を敷いたベッドフレームみたいなやつに上って足を伸ばすとすごく休まります。日陰は風が涼しく、できればお茶をポットで頼んで一日ぐったりしていたい。

ビビハニムモスク。ティムールの長女のモスクだそう。マグネット購入。
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昔はこれもんで壊れていたらしい。
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一人で写真を撮っていたら、仲良し3人組から一緒に写真を撮ってと頼まれました。
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弊管理人と彼らが一緒に、彼らの携帯で写真をとったあと、3人を撮らせてもらいました。
日本人と写真、よくあることらしいです。むしろ3人を撮ったら「自分は入らないの!?」と言われました。一緒に撮ればよかったね(笑)
わきゃわきゃしていたので学生だと思ってましたが、写真見ると結構歳いってそうな。

お隣のバザールに寄ります。
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賑やか。ヨーグルト玉、スパイス、ナンなどいろいろあり。
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同行のご夫婦がスパイスを猛然と値切っていて、そこまでする?と若干引きましたが、最後は商談成立していたので儲けは出るのでしょう。換算すれば何百円の話なんだけどな。
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ノンを売っていたのはおばちゃんたちで、ここでも女性のほうが勢いがすごかった。
弊管理人は干したアンズとイチジクをちょっと買いました。

シャヒズィンダ廟。12世紀の聖人の墓などいっぱい集積したところ。
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コーランを読めない人のために、いい声で読み聞かせるお兄さん。
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このときは健康に関する一節だったそう。ありがたい言葉を両手で受けて、それを顔に浴びせる仕草。周りの人たちも一緒にやります。

いったんホテルに戻ってうとうとしてから散歩。
おととし亡くなったカリモフ前大統領の像を見に行きます。
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1938年サマルカンド生まれ、貧しい家庭から工科大、経済大を出て博士号取得。経済官僚としてキャリアを積みます。そのあとソ連構成共和国時代から27年も指導者を務めました。大統領に権限が集中する体制を築き、強い国家統制を残して漸進的な改革を行うことで、ソ連崩壊後のショックを緩和し、世界の金融危機の影響も受けにくかった。反面、外資の導入や経済の多角化が抑制されます。歴史やイスラムを象徴的・選択的に利用した公定ナショナリズムを利用した統治を行い、共助団体を通じた市民監視も強めました。フェルガナ盆地でのイスラム運動に対しては強面の弾圧を行い、過激化を招いたこともあります。(『60章』pp.284-289)

そして彼の死後、空港に名前がつき、命日は休日になってました。
「イスラム・カリモフの「神話化」とも言うべきプロセスが進行している。[...]抑圧的なソ連体制からの解放と独立の達成、独立後の数多くの困難の克服、独立国としての基盤づくりと優れたイニシアティヴ、民主主義的祖国の安定と発展、それを脅かす勢力との正義の闘い―これらが様々な場面で繰り返し語られるモティーフである。そしてその中でカリモフは、建国の「父」、ウズベク民族の偉大なる「父」なのであり、父が築いたものを父亡き後に残された「子供たち」が受け継いでいくのだというイメージがいくつもの手段や経路で美しく演出され、拡散されている」(同、p.292)

そこからバザールまで歩いて、午前中とは反対側の出口から出ると、場外にもかなりのお店が広がっていました。
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喧噪と排気ガスの臭いを抜け、路地に迷い込み。
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ホテルに帰りました。

(9月8日記)

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2018年08月29日 23:59に投稿されたエントリーのページです。

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