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全生園

2月に大阪転勤になりまして、いまのうち東京で行っとくべきところに、

というわけではないのですけど、東村山にある国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)と、敷地内にある国立ハンセン病資料館に行ってきました。
ハンセン病の問題って視界の端でちらちら見えていただけでちゃんと勉強したことがなかったので、ガイドツアーがある日を狙って。以下、弊管理人の理解したストーリー。
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ハンセン病は「らい菌」という細菌による感染症で、末梢神経が障害されて汗が出なくなったり、手足の感覚がなくなったりする病気です。皮膚が冒されることもあります。

古くは日本書紀に「白癩(びゃくらい)」として登場します。進行すると体の変形を伴うためスティグマ性の強い病気で、仏罰、穢れ、血筋などさまざまな説明がされてきました。1897年にノルウェーの医師、ハンセンが細菌感染症であることを突き止め、「隔離が最適である」と提唱します。

それまで差別から放浪を強いられていた患者に対して「細菌学」と「文明国としての体面」から隔離措置が行われることになります。ただ、先駆けは宗教者による「救済」としての活動で、国立の療養所より早く私立の療養所ができています。それが1889年の静岡県・神山復生病院(こうやまふくせいびょういん)。多磨全生園は1909年、全生病院(こちらはなぜか「ぜんせい」と読むらしい)として設立されています。

1920年ごろからは感染症の脅威が煽られ、隔離も強化されます。患者・家族はあらゆる手段で治療をしようとし、遍路や民間療法も盛んに行われた。
1931年、癩予防法で全患者を療養所に集める施策(絶対隔離)が始まります。
1930年代には「らいの根絶」が目指され、密告で警察官や医者が患者の家を訪問し、近所に知れ渡るようになって療養所に行かざるを得なくなる、といったケースもあった。
太平洋戦争中には「健全」がモットーとなり、病者に対する風当たりがさらに強くなります。

一度入ると退所ができない終生隔離のため、療養所には社会生活に必要とされるさまざまな機能が集められます。本格的な映写機、消防、学校、神社。文芸や絵画に親しみ創作する人がおり、歌舞伎もやられていた。懲罰の権限が所長に与えられ、所内に通用する金券が発行されていました。つまり、設備が本格的になるほど、出られなさが際立つということ。
一方、療養所への定着が促進されるとして結婚は許容されましたが、子育てができない環境のため断種が行われます。
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1950年代になると、患者から癩予防法の改正運動が起こります。求めたのは患者に課された作業(労働)の廃止、患者同士ではなく職員による看護と介護、生活費の保障など。

しかし、1953年に癩予防法が改正されて「らい予防法」になり、退所規定のない強制隔離が定められます。

対照的に、当時は米国の占領下だった沖縄では世界のスタンダードに合わせ、1960年代、既に通院治療と軽快退所が可能になっていました。
もともと飛沫感染するものの感染力は弱い菌で、衛生状態が改善すると感染、発症そのものがなくなっていきます(最近の国内発症は年0~数人)。しかも1940年代に治療薬「プロミン」が登場し、治せる病気になっていたため、世界の趨勢は地域での療養に移行しつつあったのでした。※学芸員さんによると、現在は多剤併用療法によって耐性菌の問題も解消しているとのこと。

らい予防法の廃止は1996年まで待たなければなりません(このときの厚生大臣は菅直人)。2001年(小泉政権)には熊本地裁で争われていた「らい予防法」違憲訴訟で、「遅くとも1960年までに特別な疾患ではなくなっていた」とされ、原告が勝訴します。国は、国会議員の立法責任まで認めた判決には重大な問題があるとしながら、早期・前面解決を急ぐため控訴を断念します。2008年には、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」ができました。
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資料館の学芸員さんを捕まえて聞いたところ、いま、療養所の入所者の平均年齢は86歳。最も若い人の年代はうろ覚えでしたが多分60代だそうです。強制隔離が終わったのは公式には法律が廃止された1996年ですが、実際は1970年代くらいからは届けを出して買い物に行くなど、「外に出る」ということはしやすくなっていた。

もちろん軽快して外で生活する人もいるし、いったん出ても再入所する人もいる。その理由も「一度社会や家族と切れて入所していて、外に戻っても生活がままならない」「中に戻って運動をしていきたい」などいろいろとのこと。

展示にあったグラフを読むと、全国の入所者のピークは1955年ごろで、11000人くらい。で、それが今年の5月1日現在で1215人。多磨は160人くらいと言っていたかな。
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所内の道路には白線が引かれています(ただし上の写真は普通にセンターライン)。目が不自由になった人のガイドだそう。さらに、歩いていると鳥の声がスピーカーから流されているのに気付きます。これも「盲導鈴」という移動を助ける設備。

キリスト教会、日蓮宗や浄土真宗の施設が集まった一角もありました。かつては入所者はここで一生を終えることになっていたため、葬式をどの形式で出すかという問題があり、入所の際には宗派を聞いていたそうです。
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特に目に重い後遺症を持った人たちの親睦団体「盲人会」は、多磨では今年、99歳の方(会長さんと言っていたか)が亡くなって現在2人。

小高い築山「望郷の丘」、8メートルくらいか。昭和初期にできたらしい。ここに登って、戻れない故郷の方向を見たとのこと。
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もちろん現在進行形の問題ではあるのでしょうが、それでも「歴史」を見たという印象。
ただし、2009年の新型インフルエンザ、2014年のエボラ出血熱パニックなど、感染症に対する社会の恐怖感と反応はやっぱり変わっていないという気もします。
結局、新フルは感染力は強かったものの病原性はそれほどでもなかった。エボラの「致死率90%」は発生地の埋葬習慣や医療提供体制という社会的な要因が大きく、おそらく適切に治療した時の致死率はもっとずっと低いことが分かってきている。何より日本にも致死率30%とむちゃくちゃ高いSFTSというダニのウイルスがいるのに、あまりそちらは知られてない。それでも病気の「制圧」を掲げ、煽り、隔離し、消毒する。それは実際のリスクとはあまり関係のない「当座の安心」のための反応だったのではないか。

外(左)と中(右)を隔てる敷地境界の森はまだ深くて高かったです。
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群馬県にある「重監房資料館」と、岡山県の「長島愛生園」に行くのが次の目標かな。
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所内の食堂でカツカレーを頼みましたが、肉がぺらっぺらでした。

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2019年12月14日 22:07に投稿されたエントリーのページです。

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